本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





田中松太郎

没年月日:1949/03/10

 美術印刷に功労のあつた田中松太郎は3月10日死去した。享年87。号を半七・★籟といい、文久3年富山県に生れた。印刷研究のために西洋を巡り、日本の印刷技術及び三色版印刷に一進歩をもたらし、昭和16年毎日新聞社から印刷功労賞を受けた。パンの会の会員でもあつた。

牧野伸顕

没年月日:1949/01/25

 元内大臣牧野伸顕は1月25日千葉県葛飾郡の自宅に於て逝去。享年89。維新の元勲大久保利通の次男として生れ、外務書記官を出発点として官界に入り、内政外交の要職を経て、第一次大戦後講和全権委員、宮内大臣、内大臣を歴任した。美術行政にも関心を持ち、明治39年西園寺内閣の文相に任ぜられかねての抱負に従い、美術行政家、美術家とはかつて同40年文部省に美術審査委員会を創立し、文部省美術展覧会を開設して美術の発展に貢献した。また大正13年黒田清輝の逝去に際し、その遺言執行人となり久米桂一郎、正木直彦、矢代幸雄等と協議して、わが国唯一の美術研究所(現在文化財保護委員会所管)を創立した。

小島烏水

没年月日:1948/12/13

 浮世絵版画の研究と蒐集家として知られた小島烏水は12月13日東京杉並の自宅で脳溢血のため死去した。享年74。本名を久太といい、明治8年高松市に生れ横浜商業を卒業後銀行員となつて外地にも勤務した。日本山岳会長として日本アルプスの紹介、紀行文の発表などと共に浮世絵の研究に努め、大正4年雑誌「浮世絵」を発刊主宰した。美術関係著書の主なものに「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」等がある。

清水澄

没年月日:1947/09/25

 帝国芸術院長清水澄は9月25日熱海で死去した。享年80。明治元年金沢市に生れ、同27年東京帝大法学部を卒業した。法学博士で行政学の権威であり枢密院議長をつとめた。昭和13年初代帝国芸術院長となり、芸術振興にも力を尽した。

飯田新七

没年月日:1944/02/03

 高島屋前社長飯田新七は2月3日京都東山区呉竹庵本邸で逝去した。享年86。安政6年京都に生れ、高島屋四代目の当主として呉服貿易業に専念、今日の隆盛をなし、我国の染織業の指導者として大いなる功績を残した外、社会事業にも貢献する所が多かつた 第4回内国勧業博覧会に審査官となつて以来、しばしば各種博覧会の委員となり、昭和10年から大礼記念京都美術館の評議員でもあつた。

大原孫三郎

没年月日:1943/01/18

 大原孫三郎は1月18日狭心症のため倉敷市の自宅で逝去した。享年64。明治13年に生れ早稲田大学専門部を卒業、実業界に重きをなしたほか、社会問題研究所、労働科学研究所、美術館を創立し、文化事業にも大きい功績があつた。その西欧絵画の蒐集品は大原コレクシヨンとして知られるが、また児島虎次郎その他美術家のよい後援者でもあつた。

藤井善助

没年月日:1943/01/14

 京都有隣館長藤井善助は急性肺炎のため1月14日自宅で逝去した。享年71。衆議院議員当選3回、育英事業につくした他、実業界で活躍するとともに東洋美術愛好者として知られ、支那古美術を主とする多年の蒐集品をあつめて京都岡崎に有隣館を設立していた。

金子堅太郎

没年月日:1942/05/16

 日本美術協会々頭、枢密顧問官従1位大勲位伯爵金子堅太郎は、5月16日相州葉山の恩賜松荘に於て薨去した。享年90。伯は嘉永6年福岡藩士金子清蔵の長男として生れ、明治3年東都に遊学し、同4年選ばれて渡米、ハーバード大学に法律を学び、帰朝後東京大学講師、元老院権大書記官、同17年太政官権大書記を兼ね、憲法草案作成に参与し、総理大臣秘書官、枢密院、貴族院の書記官長、農商務次官等を経て、同31年農商務大臣、同33年司法大臣に歴任した。後枢密顧問官となり、大正8年以降は維新資料編纂会総裁として尽瘁した。美術に理解を有し、明治34年日本美術協会副会頭に就任、大正8年同会々頭に推され今日に至つた。危篤の趣天聴に達するや特旨を以て従1位宣下、並に大勲位菊花大授章を賜つた。

清水真輔

没年月日:1942/05/14

 大阪三越美術部長清水真輔は盲腸炎のため5月14日逝去した。享年59。明治17年東京に生れ、同41年早稲田大学商科卒業後三越に入つた。「不断華楼画趣」等の出版物あり、日本画鑑賞会に活躍してゐた。

内藤三郎

没年月日:1941/08/08

 奈良帝室博物館長内藤三郎は胃潰瘍のため8月8日急逝した。享年51。山口県出身、皇宮警察部長、滋賀、福島両県経済部長等歴任後、本年3月奈良帝室博物館長に転じたものである。

阿部七五三吉

没年月日:1941/01/23

 図画手工教育に多数尽瘁した阿部七五三吉は1月23日逝去した。享年68。号見山。明治7年大分県に生れ、大分県師範学校を経て明治34年東京高等師範学校卒業、同年佐賀県師範学校教諭となり、38年東京高等師範学校助教授に転じた。大正14年同校教授となり、昭和10年退官、その後日本手工研究会々長、創作工芸会々長として斯界に貢献するところが大きかつた。著書多く「高等小学校手工科新指導」「小学校手工作方教方の実際」「手工作業工業、木材加工法」等々がある。

今井貫一

没年月日:1940/03/18

 大阪市立美術館前館長今井貫一は3月18日逝去した。明治3年徳島県に生れ、東大史学科を卒業後、教職、大阪市立図書館々長を経て、昭和10年予て創設に当りし市立美術館の館長に就任、同14年病の故退き、爾後同館の顧問であつた。

佐藤慶太郎

没年月日:1940/01/13

 佐藤慶太郎は1月13日別府の自宅に於て逝去した。享年73。佐藤新興生活館の創立者であり、又大正9年東京府美術館建設費として百万円を寄付する等美術界に貢献するところあつた。

泉鏡花

没年月日:1939/09/07

 帝国芸術院会員泉鏡花は9月7日逝去した。本名鏡太郎、明治6年に金沢に生れ小説家として聞えてゐた。

橘糸重

没年月日:1939/08/31

 帝国芸術院会員橘糸重は8月31日病気の為逝去した。享年67歳。女史はピアニストとして令名あり明治25年以来東京音楽学校の教職に在り、30余年勤続してゐた。

岡本綺堂

没年月日:1939/03/01

 帝国芸術院会員岡本綺堂は3月1日病気のため逝去した。享年68歳、本名敬二、東京の生れで、戯曲、小説、随筆に多数の著作がある。

長尾建吉

没年月日:1938/12/03

 磯谷額縁店主、嶽陽長尾建吉は、郷里静岡に於て静養中の処12月3日逝去した。行年79歳、高輪泉岳寺に葬られた。額縁製造業の創始者として、又数多の作家の恩人として、多年我が洋画壇の為に尽した功労者であつた。 万延元年2月10日、静岡市磯谷利右衛門三男として生る。15歳の時東京日木橋斎藤商会店員となり、明治11年19歳にして、巴里万国博覧会へ松方総裁随行員として渡欧、翌年静岡県嘱託として濠洲シドニー博覧会へ出張、同年帰朝した。同13年3月渡米、5月小村侯等と英国に渡り、更に巴里に於て洋風家具を学んで、翌年帰朝、長尾家の養嗣子となつた。同22年上京し、山本芳翠と共に洋風家具及額縁の研究に従ひ、同25年芝愛宕町に洋画専門の額縁製造業を始めた。其後京都、大阪博覧会の洋画陳列を依託され、又同36年には、東京音楽学校に於ける日本最初の歌劇「オルフオイス」の背景を山本芳翠を援けて製作した。同37年常設展覧会場を京橋区竹川町に設け、翌38年工場及び店を芝区に移し、磯谷商店となし、美術雑誌「L・S」を創刊した。同41年文展の陳列を命ぜられ、現在に及ぶ。大正3年大正博覧会に出品、金賞受領、同13年東京日日新聞社より美術界功労者として、金賞を受く。明治37年の有栖川宮家に於ける室内装飾金箔工事をはじめ、赤坂御所、聖徳記念絵画館等の額縁工事を承つて居た。昭和4年知友主催で鶴見花月園に於て、古稀生別会を催した。故人の伝記には、「嶽陽長尾健吉」(長尾一平編纂)がある。

和田不二男

没年月日:1938/03/06

 恩賜京都博物館長正6位勲5等和田不二男は脳溢血の為3月6日逝去した。享年70歳。 明治26年岐阜師範学校卒業後小学校教員、視学を経て大正6年京都府知事官房主事となつた、退職後同15年恩賜京都博物館長に任ぜられ、爾後美術界の為に尽すところが多かつた。

山桝儀重

没年月日:1937/12/25

 日本美術学校長山桝儀重は、腎臓病の為12月25日逝去した。享年49。鳥取県の出身で、京都帝大文科を卒業後師範学校教諭、大阪視学に歴任、現在は鳥取新聞社長で、大正13年以来代議士に選出されて民政党に属し、岡田内閣当時は松田文相の下に文部参与官に任ぜられた。昭和11年故紀淑雄の後を承けて日本美術学校長に就任してゐた。

ジヨン・スチユワート・ハツパー

没年月日:1936/12/19

 早稲田大学講師米国人ジヨン・スチユワート・ハツパー(John Stewart Happer)は12月19日夜渋谷区の自宅で心臓麻痺の為急逝した。享年73歳。同氏は最初スタンダード石油会社支配人として明治24年来朝、同37年から数年間ロンドンに在勤したが、同42年再び渡日し、晩年は早稲田大学に教鞭を執つてゐた。浮世絵に終生の愛着を有し、其の蒐集及び研究家として令名あり、殊に広重ハツパーと称ばれた程広重に傾倒することが深かつた。在留長く、日本を永住の地と定め、人格的にも人々の敬愛を集め、我が国浮世絵及び浮世絵界の為めに貢献した所甚だ多かつた。

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