本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





岡部長景

没年月日:1970/05/30

 国立近代美術館初代館長で元文相の岡部長景は、5月30日急性心不全のため東京日比谷病院で死去した。号観堂で、明治17年8月28日東京赤坂に生れ、明治38年学習院高等科、同42年東京帝国大学法科を卒業した。岸和田城主の家系で、朝日新聞社主村山長挙の実兄にあたる。元子爵で、明治42年11月外交官補となり、米国ワシントン日本大使館在勤3年、英国ロンドン日本大使館在勤2年に及び、大正6年外務書記官となった。同13年外務省文化事業部長、昭和4年内大臣秘書官長兼式部次長となった。昭和5年貴族院議員に当選、同15年には帝室博物館顧問となった。昭和18年東条内閣の時文部大臣となり、戦後暫く伊豆に隠棲生活を送った。昭和27年東京国立近代美術館の発足にあたり、初代館長に就任、昭和39年11月ここを退いた。其他内閣美術振興調査会委員、日本育英会々長、国際文化振興会々長、日華絵画協会、日満文化協会々長、ローマ日本文化会館総長等を歴任し、現在社団法人尚友倶楽部理事長であった。

桜井猶司

没年月日:1969/01/30

 永年画商として活躍した兼素洞主人桜井猶司は、1月30日心筋こうそくのため港区の自宅で死去した。享年73才。明治29年群馬県安中に生れ、明治43年上京した。15才で三越呉服店美術部に入り、ここで美術への修練をつみ、鑑賞界に重きをなした「淡交会」「七絃会」「春虹会」などを手がけ昭和21年三越を辞めた。その後画商兼素洞として起ち、数々の展観を活発に主催して斯界における存在を知られた。

浅野長武

没年月日:1969/01/03

 東京国立博物館長浅野長武は1月3日心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年73才。明治28年東京に生まれる。東京帝国大学文学部国史科および同大学院を了え、旧広島藩主第16代当主の侯爵として貴族院議員、帝室制度史編纂、重要美術品等調査委員会会長など数多くの要務要職を経て、昭和26年東京国立博物館長に就任し、フランス美術展、正倉院展、オリンピック東京大会日本古美術展など戦後の美術界に大きな話題を提供した大展覧会を開催し、また法隆寺宝物館、東洋館の建設など大規模な事業を遂行する上で果した熱意と手腕を評価されている。また国際博物館会議日本委員会委員長、国立近代美術館、国立西洋美術館など公私の美術館、博物館の評議員、学会の顧問等を兼ね、美術全集の監修等にもしばしば名を列ねて、戦後美術界に大きな足跡を残した。明治28年7月5日 浅野長之侯爵の嗣子として東京に生まれる大正9年7月10日 東京帝国大学文学部国史科卒業同14年7月9日 東京帝国大学大学院終了昭和2年3月31日 学習院講師同15年12月28日 襲爵、貴族院議員同17年5月14日 重要美術品等調査委員会会長となる(24年7月5日まで)同18年7月1日 文部省委員(19年6月30日まで)同21年3月1日 従4位に叙せられる同22年3月28日 学習院評議員(26年3月31日まで)同23年3月22日 国立博物館評議員会評議員(24年6月1日まで)同年4月25日 東方学会会員同24年9月24日 国立博物館評議員会評議員(25年8月29日まで)同26年1月16日 国立博物館長に就任同年2月12日 日本考古学会顧問同年3月22日 正倉院評議会会員同年5月8日 国際博物館会議日本委員会委員同年9月1日 国立近代美術館評議会評議員同28年5月6日 国際博物館会議日本委員会委員長同年7~8月 イタリア、フランス、ベルギー、オランダ及び連合王国へ出張、国際博物館会議総会に出席同30年3月18日 フランス共和国政府よりオフィシエ・ド、ラ・レジオン・ドヌール勲章を贈られる同34年4月1日 国立西洋美術館評議員会評議員同年8月1日 日本ユネスコ国内委員会委員同35年6月8日 フランス共和国政府よりコマンドゥール・タン・ロルドル・デ・ザール・エ・レットル勲章を贈られる同36年4月20日 ヌビア遺跡保護協力委員会委員同年7月12日 オリンピック東京大会組織委員会芸術展示特別委員会委員同年9月7日 オランダ国女皇陛下よりコマンドゥール・イン・デ・オルデ・ファン・オランジ・ナッソー勲章を贈られる同37年7月18日 スペイン国政府よりラ・エンコミエンダ・デ・ラ・エクスプレサダ・オルデン・メリト・シヴィル勲章を贈られる同10月13日 紺綬褒章を賜わる同38年7月22日 カンボジア国政府よりコマンドゥール・ド・ノートル・オルドル・ロワイヤル・デュ・サーメートレ勲章を贈られる同40年10月30日 国際文化振興会評議員(同43年8月28日まで)同41年9月 随筆集「美術よもすがら」(講談社)同41年11月3日 勲1等に叙せられ瑞宝章を授けられる同42年5月1日 国立西洋美術館評議員会評議員同年10月1日 東京国立近代美術館評議員会評議員同43年7~8月 スエーデン、西ドイツへ出張、国際博物館会議総会に出席同44年1月3日 逝去

橘瑞超

没年月日:1968/11/04

 浄土真宗本願寺派興善寺住職橘瑞超は、11月4日午後6時55分急性心臓衰弱のため、名古屋市中区西白山町の同寺で死去した。享年78歳。明治41年18歳で第2次大谷探検隊の隊員となり、トルファン、ローラン、ニヤ、コータン等の調査を行い、インドを経て英国に留学、43年帰国の途次第3次探険隊員として再度西域に入り、トルファン、ローラン、ミーラン、コータン等の調査を行った。その間タクラマカン砂漠の縦断を遂げ、アルチン山脈の登攀を試みるなど幾度も死線をさまよった末、辛苦をなめて敦煌に至っている。仏教東漸のルートを探る求道者の真摯な努力を物語るこの足跡は、我国が西欧諸国に伍して行った西域探険事業の成果として、同時に多くの貴重な収集品をも齎して、宗教、歴史、美術史の学界に大きく寄与した。昭和38年紫綬褒章、同41年勲三等瑞宝章をうけた。

湯川尚文

没年月日:1968/10/23

 日本童画会会員、創造美術教育協会委員の美術教育家の湯川尚文は、10月23日、胆石のため死去した。湯川尚文は、明治37年(1904)5月22日、東京都に生まれ、東京豊島師範学校第二部を卒業、日本美術学校にも在学した。東京都文京区根津小学校に勤務し、20余年間にわたって児童の美術教育を担当して昭和29年退職した。以後、新宿区戸塚第1中学校美術科講師となった。この間に、日本水彩画会展、光風会展、日本童画会展にも出品したが、独立美術展には昭和7年第2回展から出品入選し、「卓上」(2回展)、「ギターその他」(4回展)、「機械を配せる風景」(5回展)、「樹木とオートバイ」(6回展)、「海浜と網」(7回展)、「建物」(8回展)、「廃墟」(12回展)、「画室の一隅」(17回展)などの作品を発表した。また、美術教育に関する評論、解説などを教育雑誌、美術雑誌に寄稿し、図工科教科書の編集にも従事し、国際学童水絵展(朝日新聞社主催)、「母と子」の児童展(森永製菓K.K.主催)、世界学生美術展(日本ユネスコ美術教育連盟)などの審査員をつとめた。著書に「児童と絵画」(綜合美術研究所)、「絵をかく子供」(誠文堂新光社)、「生きている児童画」(大蔵出版)、「図工科」(岩波教育講座・第6巻)などがある。

安倍能成

没年月日:1966/05/07

 学習院院長、安倍能成は、皮膚病のため東京、文京区の順天堂病院に入院治療中であったが、急性顆粒白血球減少症を併発、7日逝去した。享年82才。明治16年12月愛媛県松山市に生まれた。明治42年東大哲学科を卒業、慶応大学予科、法政大学、旧一高の講師をつとめるかたわら文芸評論を執筆、大正13年9月から哲学研究のため1年4カ月欧州に留学した。帰国後、旧京城帝国大学教授を経て、昭和15年第一高等学校校長に就任した。戦後は、20年貴族院議員、21年幣原内閣の文部大臣、国立博物館長を経て学習院院長に就任した。また21年4月から34年7月まで、皇太子の学問に関する参与となった。夏目漱石在職の松山中学の卒業生という縁もあり、阿部次郎、小宮豊隆、和辻哲郎らとともに漱石門下の逸材といわれ、カント哲学の権威として知られていた。「カント実践哲学」「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「西洋道徳思想史」「孟子荀子」「岩波茂雄伝」など多くの著書がある。39年には勲一等瑞宝章を受けている。

大下正男

没年月日:1966/02/04

 美術出版社社長大下正男は、北海道より空路帰京の途次、全日空ボーイング機の東京湾上での事故により逝去した。享年66才。大下正男は明治33年1月10日、東京市小石川に生れた。父・藤次郎、母はる(春子)の長男、水彩画家として知られる父・大下藤次郎は、明治38年7月、水彩画の普及と発展を意図して水彩画を主とする美術雑誌〝みづゑ〟を発行したが明治44年に没し、母の春子が刊行を継続した。(正男11才)。大下正男は、翌45年早稲田中学に進み、大正14年早稲田大学建築学科を卒業、曽根・中条建築事務所に勤務した。構造関係を主として担当し、昭和3年慶大医学部予防医学教室、昭和5年東京計器製作所、昭和10年慶応義塾幼稚舎、昭和11年三井銀行大阪支店、昭和12年慶大三田校舎新館などの建設にあたっている。昭和11年中条精一郎没したため昭和13年岡本馨とともに大下・岡本建築事務所を自宅に設け、家業の〝みづゑ〟編集に従事しながら、昭和16年まで建築事務所を経営していた。大下・岡本建築事務所時代の作品には、川端竜子アトリエ、満州国立美術学校東京分校、橿原丸貴賓室・特別室等がある。一方〝みづゑ〟も大正末頃から、これ迄大下春子を援けて編集にたずさわっていた水彩画家赤城泰舒に代わって次第に大下正男の編集となり、水彩専門の記事から一般洋画関係に内容は変ってゆく、昭和8年3月、初めて雑誌奥付に大下正男の名をあらわし、母、春子は発行人の名義となる。昭和16年建築事務所を解散し、美術図書出版に専念し、同年美術雑誌の戦時第一次統制に際し、〝みづゑ〟は〝新美術〟と改題し創刊号を出し、18年の第二次統制に際しては中心となって統合に当たり、藤本韶三とともに日本美術出版株式会社を設立し、〝美術〟を19年1月から発行した。戦後、21年9月になって〝美術〟を再び〝みづゑ〟の名称に戻し、〝三彩〟を発行、23年には新たに〝美術手帖〟27年には〝美術批評〟を創刊、更に美術単行図書の出版にも力を入れ、〝美学〟、〝ミューゼアム〟など研究雑誌の発行にも協力するなど、美術の普及、美術書の発展などに大きな功績をのこしている。晩年は、編集、出版の国際的交流に先鞭をつけ尽力していた。没後、大下正男編集委員会の下で、詳細な伝記、年譜、追想を収めた「追想・大下正男」(非売品)が同社から刊行されている。

杉栄三郎

没年月日:1965/06/08

 東京国立博物館評議員、元帝室博物館総長法学博士杉栄三郎は6月8日文京区の山川病院で死去した。享年92才であった。略年譜明治6年(1873) 1月4日岡山県に生れる。明治33年 7月東京帝国大学法科大学政治科卒業。12月会計検査院検査官補となる。明治35年 清国政府の招聘により同国京師大学堂に赴任。45年満期歸国。大正2年 会計検査院検査官。大正7年 宮内省書記官、帝室制度審議会幹事。大正8年 10月宮内省参事官を兼任。12月法規整理委員。大正9年 帝室林野管理局主事。大正11年 図書頭。大正13年 諸陵頭事務取扱。臨事御歴代史実考査委員会委員。諸陵頭兼任。昭和7年 9月帝室博物館総長。昭和9年 8月同館研究室銓衡委員。昭和14年 5月依願免官。宮中顧問官。昭和26年 9月国立博物館評議員会評議員。昭和34年 9月同会会長。昭和40年 6月7日没。この間法学博士号をうけ、勲一等瑞宝章を授けられ、また昭和18年には正三位となった

河合弥八

没年月日:1960/07/21

 文化財保護委員会委員長河合弥八は、かねて胆のう炎のため東京医科歯科大学附属病院に入院中閉塞性黄疸を併発し、7月21日逝去した。明治10年静岡県に生まれ、同37年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、文部省に入り、のち佐賀県内務部学務課長、貴族院書記官、法制局参事官、貴族院書記官長等を経て、内大臣秘書官長、更に侍従次長、皇后太夫、帝室会計審査局長等を歴任した。昭和13年には勅選により貴族院議員に任ぜられ、同22年には静岡地区より参議院議員に選ばれ、同28年には参議院議長となった。政界引退後、同31年文化財保護委員会委員長となり、欧州に於ける日本古美術展、国立劇場建設準備等に手腕をふるった。政府はその逝去に当り、その生前の功を讃えて、従二位に叙し、併せて勲1等旭日桐花大綬章を贈り、天皇陛下より勅使の差遣があった。

北原鉄雄

没年月日:1957/03/28

 株式会社アルス社長北原鉄雄は五反田逓信病院で心臓麻痺で逝去した。享年70歳。自宅世田谷区。明治20年9月北原白秋の実弟として福岡県柳川市に生れた。大正4年慶応義塾理財科を中退、「阿蘭陀書房」を創立、同6年阿蘭陀書房を「アルス」と改称した。大正初期、森鴎外、上田敏、谷崎潤一郎、志賀直哉、白秋などにより文芸復興運動の先駆をなした芸術雑誌「ARS」を刊行するとともに、詩歌を中心とした文芸書、美術書、写真、児童図書の出版に足跡を残した。ことに写真部門においては、最初の写真雑誌「CAMERA」を創刊し、また写真講座、技術書の発行など早くから未開拓の分野をきりひらき写真の普及啓蒙に大きな貢献をした。日本写真協会副会長でもあつた。

池長孟

没年月日:1955/08/25

 旧池長美術館館長池長孟は、8月25日神戸市の自宅で胃潰瘍のため逝去した。享年64歳。明治24年11月24日神戸市兵庫に生れた。第三高等学校を経て京都帝国大学法科を卒業し、のち暫く文科に学んだ。大正11年米、英、仏、瑞、伊、墺、独、白の8ケ国を巡遊し、翌年帰国した。同12年私立育英商業学校の校主兼校長となつた。この前後から「荒つ削りの魂」「開国秘譚」等の戯曲を著し、また大正9、10年頃から蒐集した南蛮美術を収載した豪華版「邦彩蛮華大宝鑑」を出版した。同15年神戸市に池長美術館を設立し、多年にわたる南蛮美術を収蔵陳列し、これを公開した。昭和23年第1回兵庫県文化賞を受けたが、同26年美術館並びに収蔵美術品を神戸市に委譲した。これ今日の神戸市美術館である。近世以降の洋風美術を蒐集し、その散佚を防いだ功績は没し難いものがある。

後藤真太郎

没年月日:1954/01/27

 株式会社座右宝刊行会取締役社長後藤真太郎は、腎臓炎で杏雲堂病院に入院加療中のところ、1月27日逝去した。享年60歳。明治27年5月28日、京都府に生る。京都絵画専門学校にて日本画を学んだが、この頃小出楢重と親交を結び、同じ頃「白樺」に刺戟され、また武者小路実篤の「新しき村」運動に参加した。およそ1年ののち昭和2年東京へ出た。この頃から白樺派の作家達と交つた。志賀直哉が「座右宝」(大正15年刊)を刊行したのち、同刊行会刊、岡田三郎助編纂の「時代裂」を手伝い、のち同会を引き継ぎ主宰者となる。以後、美学、美術史、建築、考古学関係の書籍及び画集等の専門的出版社として特異な存在となつた。此の間、日満文化協会評議員として中国・満洲方面へ毎年渡り、両国文化交流に出版面に於いて貢献した。又、昭和8年に創立した美術小団体「清光会」は、その会員にわが国の代表的な美術家を揃え、昭和29年の第19回展にいたるまで殆ど連年展覧会を開いて注目された。一方東西古美術品を愛し、陶器の蒐集家としても知られた。 主な刊行図書は、先の「座右宝」についで「聚楽」、「纂組英華」、「時代裂」、「Garden of Japan」、「熱河」、又、「考古学研究」を始めとする浜田青陵全集全4巻、伊東忠太の「支那建築装飾」(全9巻内6巻までで、博士死去のため未完成)水野清一・長広敏雄の「龍門石窟の研究」、池内宏「通溝」等である。戦後、雑誌「座右宝」を創刊したが、19号にして廃刊のやむなきに至つた。更に昭和26年より、水野・長広による「雲崗石窟」全15巻及び、田村実造・小林行雄の「慶陵」全2巻の刊行が始まり、両書共、夫々昭和27年、29年の朝日文化賞及び、日本学士院恩賜賞を受けた。自編著としては、「時代裂」(岡田三郎助共編)「華岳素描」「旅順博物館図録」等がある。

樺山愛輔

没年月日:1953/10/21

 日米協会長、国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長樺山愛輔は、10月21日神奈川県の自邸で脳動脈硬化症に気管支肺炎を併発死去した。享年88歳。慶応元年故海軍大将伯爵樺山資紀の長子として鹿児島に生れ、若くしてアメリカ、ドイツに留学、壮年時代は実業界で活躍した。のち貴族院議員、枢密顧問官となり、また国際文化振興会、東洋美術国際研究会等の理事長として日本文化の海外紹介に尽し、戦後は社会教育事業のためグルー基金の創設や国際文化会館の建設に尽力した。また、黒田清輝の縁故者として美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)の創立と発展につくした。

大塚稔

没年月日:1951/10/13

 美術印刷業者として著名だつた大塚巧芸社々長大塚稔(号、鈍重)は病を得て10月13日伊豆網代の療養先にて逝去した。享年64歳。明治21年1月1日長野県浅間山麓に生れ、幼にして両親を喪い、12歳にて単身上京、具さに辛酸を嘗めつつ克苦勉励、写真技術及びコロタイプ印刷術を習得した。大正8年神田裏に大塚巧芸社を創業、同年日本美術院関係の出版物一切の依嘱を受けた。続いて宮内省、内務省、文部省等より美術印刷物及び貴重な文献類多種の複製を下命され、同18年文部省より技術保存証を受領した。同16年より3年を費し、郷里上田郊外に独力にて信州夢殿を建立し宝蔵の国宝救世観音像を安置した。美術を深く愛好し、名画の複製、美術図書の出版多数に亘つた。戦後株式会社大塚巧芸社を復興し、没後なほ遺業が続けられている。

芳川赳

没年月日:1951/07/09

 美術出版界に名のあつた芳川赳は7月9日脳溢血のため豊島区の自宅で逝去した。享年55歳。明治28年10月20日長崎県島原市に生れ、県立島原中学を経て明治大学卒業、出版界に入り各種の著書を発行したが、雑誌「美術春秋(月刊)」「日本画傑作年鑑」等の編輯発行者として知られ、戦後は「美術鑑賞」を発行した。

飯田新太郎

没年月日:1951/05/03

 高島屋取締役飯田新太郎は5月3日京都市に於て逝去した。享年67歳。明治17年飯田新七の長男として京都市に生れた。同42年早稲田大学商科を卒業、家業に就き、大正15年取締役に就任、同年より2ケ年の間欧米を巡遊した。晩年居を京都に定め、美術工芸の技術向上に意を用い、斯界に貢献した。

松方幸次郎

没年月日:1950/06/27

 かつて世界的に有名であつた松方コレクシヨンの主松方幸次郎は、6月27日鎌倉市の自宅で逝去した。享年84。公爵松方正義の三男で川崎造船社長、松方日ソ石油社長、衆議院議員として実業界、政界に活躍した。第一次世界大戦後ヨーロツパ各国に於て、多くの西洋絵画及び彫刻、工芸品を購入し、松方美術館を計画したが、完成を見ずその蒐集品は四散した。しかし、わが近代美術の発達に与えた功績は極めて大きい。又彼の蒐集した浮世絵は戦時中帝室へ献上し今日国立博物館に移管されて、その量と質に世界有数のものとして知られている。

尾川藤十郎

没年月日:1950/04/24

 東京都美術館長尾川藤十郎は東京杉並の自宅で4月24日脳溢血のため死去した。享年64。明治20年群馬県に生れ、大正3年東京美術学校師範科を、更に広島高等師範学校教育科を卒業した。東京都美術館主事を経て館長をつとめた。

野上豊一郎

没年月日:1950/02/23

 能楽研究家として知られた野上豊一郎は2月23日東京世田谷の自宅で脳出血のため死去した。享年68。明治16年大分県に生れ、同41年東大文学部英文科を卒業、法政大学教授を経て昭和21年法政大学総長となつた。「能・研究と発見」「幽玄と花」等の著書があり、能の海外紹介に活躍した。能面に関する造詣も深く、重要美術調査委員会の嘱託であつた。

芝田徹心

没年月日:1950/02/06

 元東京美術学校長芝田徹心は2月6日三重県の自宅で心臓弁塞のため死去した。享年82。明治12年三重県に生れ、同36年東大哲学科を卒業、八高校長 女子学習院長等を歴任した。昭和11年から15年迄東京美術学校長をつとめた。

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