本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





岡村辰雄

没年月日:1997/08/20

 額装店岡村多聞堂の創業者で全国額縁組合連合会初代会長の岡村辰雄は8月20日午後4時36分、前立せんガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年92。明治37年10月31日長野県上田市に生まれる。大正元(1912)年、一家で上田から上京、深川門前仲町で時計屋を営むが、書画の売買を業としていた伯父の影響もあって表具師の仕事に惹かれていき、同6年伯父の仲介で表具店の原清廣堂に入門。昭和5(1930)年5月、多門堂を港区南佐久間町に創業。同11年、表装について記した『表装備考』を上梓、これを機に多く聞くことの尊さを知り従来の堂号“多門堂”を“多聞堂”に改める。同25年、表具の仕事を一切放棄し額装の製作に専念、とくに日本画額装の嚆矢となり、ステンレスなど新素材を積極的に取り入れ、建築様式の変化に対応した展示方法を開拓した。27年有限会社岡村多聞堂を設立。以後、東宮御所、新宮殿、吹上御所、国立劇場の装飾画の額装を手がける。30年、額に関する記録をまとめた『額装の話』を出版し、同年にブリヂストン美術館で「多聞堂額装展覧会」を開催、また全国額縁組合を創立。同42年より法隆寺金堂壁画再現に従事。同57年、自らの回想を綴った『如是多聞』を出版。同63年、額縁研究と製作による建築、美術界に対する功績に対し、第13回吉田五十八賞特別賞を受賞した。

内山正

没年月日:1996/09/29

 元国立西洋美術館長、元文化庁次長の内山正は、9月29日午後10時28分、肺炎のため川崎市宮前区の病院で死去した。享年79。大正6(1917)年4月1日、佐賀県に生まれる。東京大学を卒業後、昭和25(1950)年大分県教育委員会、同29年岡山県教育委員会を経て、同35年文化財保護委員会無形文化課長、同38年文部省調査局国語課長となる。同42年に同省文化局審議官、同43年文化庁文化財保護部長、同47年奈良文化財研究所長、同49年文化庁次長、同51年国立劇場理事となる。同54年には国立西洋美術館長に就任、同57年まで務めた。同62年勲二等瑞宝章受章。

坂本光聡

没年月日:1995/10/22

 真言三宝宗管長、清荒神清澄寺法王で鉄斎研究家の坂本光聡は10月22日午前9時15分、心不全のため自宅である兵庫県宝塚市米谷清シIの清荒神清澄寺で死去した。享年68。昭和2(1927)年10月22日清澄寺内に藤本元一の長男として生まれる。本名清一。同15年12月清澄寺第37世法主、坂本光浄に随い得度し、坂本家に入籍して坂本光聡と改名する。同22年種智院大学を卒業。同27年真言三宝宗宗務長・清澄寺副住職に就任する。先代法主が傾倒した富岡鉄斎の研究と作品収集を続け、同40年『世界の鉄斎』を刊行。同44年12月研究誌「鉄斎研究」を創刊した。同45年清澄寺境内に鉄斎作品の収蔵庫「蓬莱庫」を築造し、同50年4月には同じく境内に鉄斎美術館「聖光殿」を開館。同45年より、日本各地で鉄斎展を開催し、その作品紹介に努め、同61年には中国巡回「鉄斎展」を開催するのに伴い、上海、北京に赴いた。また、同63年ベルギーで開催された「ユーロパリアジャパン ’89」に参加して鉄斎展を開くなど、圏内にとどまらず、国際的に鉄斎作品の紹介を行った。陶芸にも造詣深く、荒川豊蔵の作品収集でも知られる。

中根金作

没年月日:1995/03/01

 大阪芸術大学長、浪速短大学長を務めた造園学者の中根金作は3月1日午後6時5分、心室粗動のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年77。大正6(1917)年8月28日、静岡県磐田市下岡田170番地に生まれる。昭和10(1935)年静岡県立浜松工業学校図案科を卒業。同13年旧制東京高等造園学校(現・東京農業大学)造園学科に入学し、同17年11月戦時特令により同校を卒業する。同18年8月より京都府園芸技手として勤務するが同19年6月より21年2月まで戦地に赴く。同21年11月より技師として京都府に勤務。同27年10月京都府文化財保護課記念物係長となる。同37年同府教育委員会文化財保護課課長補佐となるが、同40年4月に依願退職し、京都大学工学部建築協会内日本建築庭園研究室主幹となる。翌41年9月中根庭園研究所を開設して日本庭園研究に従事するとともに、同44年4月より大阪芸術大学建築科教授として教鞭を取った。同46年4月より同大学環境計画学科長、同62年12月より同大学学長となり、翌63年5月からは浪速短期大学学長を兼務した。主要作品に京都の城南宮楽水苑庭園他神苑、足立美術館庭園、シンガポールのジュロン日本庭園、アメリカのジミー・カーター大統領センター内日本庭園、アメリカのボストン美術館日本庭園天心園などがあり、昭和49年に開催されたウィーン万博やドイツ連邦庭園博覧会などに日本庭園を出品した。日本造園学会評議員、日本造園修景協会理事、京都府文化財保護基金調査委員等をもっとめ、伝統的日本庭園の研究、保存に尽力した。

有光次郎

没年月日:1995/02/22

 元文部次官、前日本芸術院長の有光次郎は2月22日午後O時10分、脳こうそくのため東京都東久留米市の老人ホームで死去した。享年91。明治36(1903)年12月15日高知県高知市に生まれる。東京大学法学部を卒業して昭和27年に文部省に入り、戦後の混乱期に教科書局長、47年に文部事務次官に就任。6・3制を定めた教育基本法、学校教育法の起草をめぐりアメリカ側との折衝にあたるなど日本の教育・文化の振興に尽力した。同48年に退官したのち、社会教育協会理事長、映倫委員長、国語審議会会長、日本棋院理事長などを歴任したほか、東京家政大学長、武蔵野美術大学長などもつとめ、同54年から平成2年まで10年余にわたり日本芸術院院長として日本の芸術・文化の振興に尽くした。著書に『宗教行政』『戦後教育と私』『有光次郎日記」などがある。

廣田熙

没年月日:1995/02/06

 古美術販売業壷中居店主の廣田熙は2月6日午前7時40分心不全のため東京都目黒区碑文谷の自宅で死去した。享年85。明治43年6月11日富山県富山市に生まれる。富山県立富山商業学校を卒業し、昭和13(1938)年叔父広田不孤斎が合資会社壷中居を設立するとその代表社員となった。同24年株式会社壷中居を設立して代表取締役社長に就任。古陶磁を主な対象とし、同25年日本陶磁協会理事となるなど、陶磁器研究にも寄与するところがあった。同52年壷中居取締役店主となる。同24年東京美術倶楽部取締役、東京美術商組合理事となり、同組合顧問をもつとめた。

安宅英一

没年月日:1994/05/07

 元安宅産業会長で、世界有数の東洋陶磁コレクション「安宅コレクション」を収集した安宅英ーは、5月7日午後1時、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年93。明治34(1901)年1月1日、安宅産業の前身である安宅商会の創立者弥吉の長男として香港に生まれる。大正13(1924)年、神戸高等商業学校を卒業して翌年安宅商会に入社し、向年より昭和9(1934)年まで同商会取締役をつとめる。戦後、同20年より22年まで安宅産業株式会社取締役会長をつとめた後、同30年より40年まで再び同役にあり、同40年相談役社賓に退く。この問、同26年に安宅産業株式会社が美術品収集を開始した際、その収集責任者となり、以後、同社が経営危機に陥り美術品収集を停止する同50年までの聞に東洋陶磁を中心とする総数約1000点、うち国宝、重要文化財十数点を含む「安宅コレクション」を築ぎ上げた。同コレクションの東洋陶磁は同52年、安宅産業株式会社が伊藤忠商事株式会社に合併されるのに伴い、エーシー産業株式会社に移管されたが、同57年に住友グループ21社によって大阪市に寄贈され、これを受けて大阪市立東洋陶磁美術館が設立された。美術の他、音楽活動の支援も行い、同12年以降、東京芸術大学音楽学部に奨学金「安宅賞」を拠出して現在に至っている。

油井一二

没年月日:1992/07/21

 美術年鑑社社長で美術品蒐集家でもあった油井一二は、7月21日午後7月18分、肝不全のため東京都渋谷区の東海大学病院で死去した。享年82。明治42(1909)年10月30日、長野県北佐久郡に生まれる。大正13(1924)年三井尋常小学校高等科を卒業し、家業の自作農を継ぐが、昭和3(1928)年肋膜炎を患い、療養中に上京を決意。同年5月に上京して神東電業社を経営する義兄のもとで働きつつ、電気学校の夜間部で学んだ。同6年末、東亜美術協会に絵画の出張販売員として入社。同7年釜山、京城などに出張するが、同年4月、仕事に行き詰りを感じて東亜美術協会を退社する。その後、証券会社等へ転職を試みたのち、同8年1月、東洋美術協会に外交員として入社し再び絵画販売に従事する。同9年6月、荒井辰之助、清水栄一郎と共同出資し、日東美術協会を創立。以後、中国東北部、朝鮮半島、台湾等まで販路を広めた。同12年より14年まで、日中戦争に従軍し、同14年10月、日東美術協会を独力で再開。同16年11月、東京・上野広小路に美術店を開いた。戦後、同22年、肖像画の制作依頼を業務の一環として始めた。同23年、山田正道から「美術年鑑」復刊の相談を受け出資。同25年鉄販売、同28年人造米製造などを試みるが、同29年武者小路実篤の助言を得て再び絵画販売を始め、現代日本画を中心に販路を開いて成功をおさめた。同40年「美術年鑑」の権利を創刊者山田正道から買いとり、同年株式会社美術年鑑社を設立してその代表取締役社長となった。同46年「新美術新聞」を創刊。出版、絵画販売の一方で蒐集した作品の一部は郷里佐久市に寄贈し、同58年に開館した佐久市立近代美術館は、約780点の油井コレクションを母体としている。同館には平成2年に油井一二記念館が併設され、没後の同5年7月、同館で「開館10周年記念展「近代日本美術の流れと油井コレクション」が開催された。著書に『美の宝庫』(昭和51年、美術年鑑社)、自伝『風呂敷画商一代記』(同63年)、続風呂敷画商一代記『片目の達磨』(平成2年)等がある。

木村東介

没年月日:1992/03/11

 美術品蒐集家で古美術店「羽黒洞」の創立者であった木村東介は3月11日午前0時50分、心不全のため東京都文京区の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年4月8日、山形県米沢市に生まれる。米沢商業学校を中退して上京し、一時憲政公論社に入社して侠客となったが、のち美術商を志し、昭和7(1932)年、美術商「羽黒洞」を創立する。同11年東京・湯島に店舗を開く。柳宗悦、吉川英治ら広く文化人と交流し、肉筆浮世絵、大津絵、泥絵のほか、幕末、明治初期の洋画を蒐集。また、長谷川利行、斎藤真一ら異色の画家たちを無名時代から支援した。著書に『奥州げてとランカイ屋』『女坂界隈』『浮世絵渡世』等がある。

石黒孝次郎

没年月日:1992/03/02

 古美術品蒐集家で古美術商でもあった石黒孝次郎は3月2日午前6時14分、心筋こうそくのため東京都港区の東京都済生会中央病院で死去した。享年75。大正5(1916)年3月28日東京に生まれる。昭和16(1941)年京都帝国大学法学部を卒業して三井物産に入社。応召を経て戦後の同21年西洋古美術商「三日月」を創立した。同33年高級フランス料理店「クレッセント」を東京芝に開き、同店5階の陳列室で自らの蒐集品を公開した。中近東、オリエントの古美術品を中心に蒐集し、『古く美しきもの2-石黒夫妻コレクション』(昭和62年)等の著書がある。

井口安弘

没年月日:1990/11/12

 20数年間にわたってアメリカ・マサチューセッツ州ボストンのボストン美術館で美術品の保存修復に携わってきた同美術館東洋部保存修復室長井口安弘は、現地時間の11月12日午前4時、心臓マヒのため、マサチューセッツ州ブルックラインの自宅で死去した。享年59。昭和6(1931)年3月6日兵庫県尼崎市に生まれる。14才で京都に出て、おじの山川文吾に表具と文化財修理を学ぶ。15年の修業ののち、昭和36年独立。この間、平泉中尊寺の中尊寺経をはじめ、高山寺、南禅寺、本願寺、知恩院、三井寺、高野山、宗像神社、太宰府天満宮など多くの社寺の国宝、重文級の絵画、書籍類の修復に携わり、表装装潢師連盟に所属した。昭和38年ボストン美術館東洋部長の富田幸次郎、ロバート・トリート・ペイン・ジュニアの招請により、同美術館東洋部の保存修復室に室長(conservator)として就任。以後、没時まで20数年にわたって、ボストン美術館の東洋美術品の保存修理にすぐれた手腕を発揮した。昭和47年、ボストン美術館がその所蔵品を日本でも公開するようになって以降、それら優品に施された完璧ともいえる保存の手腕は、広く日本でも知られるようになり、63年宇野宗佑外務大臣から外務大臣表彰を受けている。この間、49年には、アメリカ芸術奨励基金The National Endowment for Artsの許可を得て、台湾の故宮博物院で絵画の伝統的な修復と表装の技術を研究した。近年では、同美術館に収蔵されていた北斎や広重の浮世絵版木の確認と、その日本での展覧会開催にも大きく貢献した。自己に妥協を許さない厳しい仕事と経験に基づく幅広いアドバイスは、多くの人々の尊敬を集め、彼が好んだ民謡とユーモアのセンスは、多くの友人を生んだ。当研究所の研究員をはじめ、アメリカに渡った日本の研究者で彼の厚誼を受けた者も多い。ボストン美術館では平成2年秋、東洋部創設100周年を迎えて大規模な記念展が開催され、また、翌3年には日本でボストン美術館やフェノロサらを紹介するテレビ番組が数度にわたって放映された。その中で彼の仕事もたびたび紹介されたが、そうした海を渡った優品を支えてきた彼の急逝に、多くの人々の哀悼が寄せられた。

大河内信威

没年月日:1990/07/12

 日本陶磁協会理事長、茶の湯同好会・古今サロン会副会長の大河内信威は、7月12日心不全のため東京都渋谷区のセントラル病院で死去した。享年87。明治35(1902)年7月24日東京・下谷区に生まれる。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。父正敏は旧大多喜藩主大河内正質の長男で、東京帝国大学工学部教授ののち、戦前に新興コンツェルン理研産業団を主宰した実業家でもあり、また陶磁器への造詣が深く『柿右衛門と色鍋島』などの著書でも知られる。旧制浦和高等学校卒。戦前は大多喜天然瓦斯を経て、理研産業団各社の専務などをつとめ、戦後は理研科学映画専務ののち、東邦物産嘱託となった。この間。陶磁史、茶道史の研究を深め、なかでも楽茶碗に関しては父子代々のコレクターでもあり、論考、著書を通じ楽焼研究に大きく寄与した。また、実験茶会、陶芸教室などをおこし、自ら作陶もした。その交遊も多彩で、美術家では岩田藤七、近藤悠三、荒川豊蔵、中川一政らがあった。著書に『茶碗百選』(平凡社)、『古九谷』(日本陶磁協会)、『楽茶碗』(河原書店)、『茶の湯古今春秋』等がある。

岡行蔵

没年月日:1990/07/12

 装潢師岡行蔵(2代目岩太郎)は、7月12日午後零時16分、心不全のため京都市東山区の京都専売病院で死去した。享年80。初代岩太郎の三男として、明治43(1910)年3月9日京都市で生まれる。昭和10年三重県伊賀上野の重藤芙美と結婚。昭和12年2代目岩太郎を襲名した。昭和22年頃から国宝、重要文化財などの国指定文化財を中心に古文化財の保存修理に従事、多くの名品の修復を手掛けて、昭和58年岩太郎の名跡を長男興造に譲るまで、工房全体の運営を監督していた。その功績は、職人の手技と伝統的美意識を守る一方で、素材の復元開発や美術品の調査記録を積極的に取入れ、伝統的表具師を近代的な絵画修復の専門職として発展させた事である。行蔵の父、初代岩太郎は、新画の表装に携り多くの日本画家と親交を結び、彼らの美意識を吸収することに熱心であったが、昭和5年に開かれたイタリア展のための表装には特別に裂を誂えたり、同年に西本願寺から売り出された三十六人歌集(石山切)の多くを表装し掛軸に仕立て、そのために桐材で太巻添え軸を工夫したり、伊勢集の二頁続きの料紙には両面装丁を工夫するなど、装潢技術の応用に早くから進取の態度を見せるかたわら、前田家から売り出された古裂を求めるなど古画や古裂にも積極的な興味を寄せていた。このような初代岩太郎の、新技術に対する積極性、表装に取り合わせる裂に対する執念に感化された行蔵は、戦後古画の修復を主にするようになってその技量を開花させて行く。まず、絵が描かれた時代に近い雰囲気を持つ裂の復元に取り組む。描かれた時代にはなかった金欄で表具された平安、鎌倉絵画に対する反省から、修理に際しては、長年収集の古裂の中から絵画の製作時に近いと思われる裂を取り合わせ、いわゆる名物裂一辺倒の取り合わせを控え、それぞれの時代に近い装丁を心掛けることを念願としていたのを、いま一歩進めて裂を復元してより理想的な取り合わせを実現し使用した。幸い西陣の広瀬敏夫の協力を得て、綾地綾文の応夢衣、欄地綾文の大燈国師墨蹟関山字号の中廻し裂から始め、昭和58年までには、数十種類の裂を復元し使用している。裏打ちなどに不可欠な手漉和紙についても、吉野や近江の紙漉と協力して、古法による製造の復活や雁皮と楮の混抄紙の開発を行う一方、古画の修復に不可欠な材料についても、絹本絵画の欠失部補修に使用する絵絹の復元を行うかたわら、あたらしい補絹の人工劣化法を開発するため当研究所に支援を求め、その成果として絵絹を原子力研究所の電子線によって人工劣化させる方法を完成した。伝統的素材の科学技術による加工と言う点で画期的な出来事であった。また。絵画や書跡・文書などの修復に、早くからエックス線透過写真、赤外線反射写真、紫外線蛍光および反射写真による調査法を取入れ、美術史研究者と共に修理中しか見ることの出来ない本紙の状態を観察することによって(例えば、来振寺蔵五大尊像の裏面)、赤外線写真でのみ半読可能な銘記が発見されるなど、貴重な発見をしてきた。昭和22年から58年までに修復をした主な美術品天球院方丈障壁画 昭和25年度、真珠庵方丈障壁画 昭和26年度、平家納経 昭和31~34、45~46年度、信貴山縁起絵巻 昭和34年、47~48年度、大燈国師画像 昭和38年度、紫式部日記絵詞 昭和41年度、瓢ねん図 昭和42年度、両部大経感得図 昭和44~46年度、伴大納言絵詞 昭和44~46年度、粉河寺縁起 昭和46~47年度、五大尊像 昭和51~53年度、伝源頼朝像 昭和54~55年度、伝平重盛像 昭和54~55年度、王昭君図 昭和56年度昭和24年から25年まで京都表装文化協会会長昭和33年から39年まで京都表装文化協会副会長昭和38年から昭和47年までと、昭和54年から58年まで国宝修理装潢師連盟理事長昭和51年11月紫綬褒章受章昭和55年から昭和58年まで、京都国立博物館文化財保存修理所 修理者協議会会長昭和56年IIC(国際文化財保存学会)フェロー会員昭和58年勲四等瑞宝章昭和58年京都府文化財保護基金から第1回功労賞

橋本兵藏

没年月日:1990/06/23

 画材店「月光荘」の創業者橋本兵蔵は、6月23日冠不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年96。明治27(1894)年6月10日、富山県中新川郡に生まれた。大正6年、東京・銀座で画材店を創業、店名の「月光荘」は与謝野鉄幹・昌子の名付けによるもので、ヴェルレーヌの詩の一節「大空の月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ」に由来するという。以来、自ら本名をすて「月光荘おじさん」と自称し続けた。昭和15年、コバルト・ブルーの製作技法を発見し純国産絵具を誕生させたのをはじめ、戦後の同46年には世界油絵具コンクールにおいて、自家製のコバルト・バイオレット・ピンクで一位になり、ル・モンド紙に「フランス以外の国で生まれた奇跡」との評を得るなど、生涯にわたり画材の創案工夫につとめ特許製品も数多い。一方、梅原龍三郎、藤田嗣治、猪熊弦一郎、脇田和など多彩な画家たちが「月光荘」に出入し親しんだことでも知られる。

粟津慈朗

没年月日:1989/12/10

 粟津画廊社長、元東京美術商協同組合理事の粟津慈朗は12月10日午後零時24分、肝硬変のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年76。大正2(1923)年に北海道札幌市に生まれ、昭和5(1930)年、京都市山内春静堂美術店に入る。翌年同店東京店に移り、同15年独立。19年応召し、20年に復員して下北沢で開業。同22年日本橋で営業を始め、41年株式会社粟津画廊として組織改革を行ないその社長となった。二朗とも号す。戦後間もない時期から現代日本画を中心に作家に活動の場を提供しその振興に寄与した。

松岡清次郎

没年月日:1989/03/20

 松岡美術館館長で美術蒐集家の松岡清次郎は、3月20日午後4時31分、呼吸不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年95。明治27(1894)年1月8日、東京都京橋区に生まれる。同45年中央商業学校を卒業して銀座の貿易商に勤務し、数年後に独立。雑貨輸出入業に従事し、第一次世界大戦時に不動産業、冷蔵倉庫業、ホテル業など多角的に事業を拡大。昭和7(1932)年、松岡創業を開設する。一方、古美術品蒐集を始め、初期には日本画を、戦後は中国陶磁を中心に蒐集。昭和49年6月「青花双鳳草虫図八角瓶」を落札して注目されたほか、「青花龍唐草文天球瓶」の入手、昭和55年シャガールの「婚約者」、同61年「釉裏紅牡丹蓮花文大盤」の落札などで話題となった。同50年11月、コレクションの公開のために東京都港区新橋5-22-10の自社ビル内に松岡美術館を設立。中国陶磁、日本画、西欧絵画、インド仏教彫刻など幅広いコレクションが展観されている。

平野政吉

没年月日:1989/03/13

 美術品蒐集家、平野政吉美術館館長の平野政吉は、3月13日午後7時2分、心筋こうそくのため秋田市の中通病院で死去した。享年93。明治28(1895)年12月5日秋田県秋田市に生まれる。米穀商から広大な田畑を所有する大地主となった初代政吉を祖父に、家業を継ぐ一方金融業をもとにした「平野商会」を設立した二代政吉を父に、その長男として生まれ、幼名精一。明徳小学校卒業後、秋田中学に入学するが中退。20歳頃から飛行機に興味を持ち、日本帝国飛行協会の小栗常太郎の主宰する小栗飛行学校に5年間ほど学ぶなど、新奇なものに逸早く傾倒。一時、画家を志すなど美術にも興味を持ち、昭和4(1929)年、洋画家藤田嗣治の帰国展を見、同9年の二科展で藤田の知遇を得、その作品に強くひかれ蒐集を始める。同12年には藤田を秋田に招き大壁画「秋田の行事」の制作を依頼するなど、藤田嗣治のコレクターとして知られるようになる。同13年、私立美術館設立に着手するが、第二次世界大戦下の資材不足のため頓坐し、戦後の42年5月5日、財団法人平野政吉美術館を開館してその館長となった。藤田嗣治のコレクションのほか、郷里に関連する秋田蘭画を中心とした初期洋風画、西洋絵画など幅広く蒐集、公開を行ない、豪胆放逸な人柄とともに広く世に知られた。

鄭詔文

没年月日:1989/02/23

 美術品蒐集家、財団法人高麗美術館理事長の鄭詔文は、2月23日午後2時、肝不全のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年70。大正7(1918)年11月2日、朝鮮半島慶尚北道に生まれる。同14年、両親と共に来日。働きながら小学校を卒業し、戦後、飲食店などを経営する一方、朝鮮半島の美術品を蒐集。また、昭和44年から56年まで朝鮮文化社から季刊雑誌「日本の中の朝鮮文化」を刊行した。同63年10月25日、蒐集した高麗青磁、李朝白磁などの陶磁器、仏像、書画、家具など1700点あまりを所蔵する高麗美術館を自宅のあった京都市北区紫竹上ノ岸町15に設立し、財団法人とした。在日韓国人一世としての自己の体験から、美術品を通して故国の文化を理解、顕彰し広く共感を分かとうとしたもので、朝鮮考古・美術の調査、研究もあわせて行ないたいとの遺志を汲んで、現在は「高麗美術研究所」があわせて設立されている。

山本孝

没年月日:1988/06/09

 東京画廊を設立し日本の現代美術の展開に寄与した山本孝は6月9日午後6時35分、肺しゅようのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年68。大正9(1920)年3月12日、新潟県村上市に生まれる。昭和4(1929)年上京。東京市池袋第二小学校高等科を卒業し、8年、骨董商平山堂商店につとめる。戦後、同20年再び平山堂商店に入り、23年独立して数寄屋橋画廊を設立。25年に同画廊を解散し翌26年東京画廊を設立する。33年斎藤義重展を開催し、その後前衛的な現代作家の作品を次々と紹介。桂ゆき、白髪一雄、高松次郎、前田常作、豊福知徳、川端実、李禹煥などの個展を開き、また、フンデルト・ワッサー、イブ・クラインなど海外の作家の紹介にもつとめた。33年日本洋画商協同組合の創立に参加し、53年より60年までその理事長を務める。数寄屋橋画廊時代の同僚、志水楠男らとともに現代美術を対象とする画廊の創成期をになった。

安達健二

没年月日:1988/03/12

 元文化庁長官、前東京国立近代美術館館長、文化庁顧問の安達健二は、3月12日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年69。文化行政全般に多大の功績のあった安達は、大正7(1918)年12月22日愛知県春日井市に生まれ、昭和20年東京大学法学部政治学科を卒業、同年文部省に入省した。終戦直後の同省で教育基本法、文化財保護法などの制定を手がけた。同28年文化財保護委員会無形文化課長となり、国指定重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」制度をつくった。以後、初等中等教育局教科書課長、大臣官房人事課長、社会教育局審議官、文化局審議官、文化局長等を歴任し、同43年文化庁次長となり、同47年今日出海に継ぐ第二代文化庁長官に就任、同50年9月まで在任した。同51年1月東京国立近代美術館館長となり、61年3月退官、4月文化庁顧問となった。東京国立近代美術館館長在任10年の間、極めて精力的に同館の運営にあたった。同52年旧近衛師団司令部庁舎跡利用に関し、室内の改装を施し東京国立近代美術館工芸館として開館したのをはじめ、本館の収蔵庫増築を行い、同61年には東京国立近代美術館フィルムセンター相模原分館の竣工をみた。さらに、京橋の同館フィルムセンター建て替え計画も軌道にのせた。一方、同館は開館以来日本近代美術作品の収集を基本としていたが、今世紀の海外作品を含む国際的コレクションとする収蔵方針を打ちたて、ピカソ、ベーコン等の作品を在任中収蔵した。これに関連し海外展の開催にあたっても自ら尽力し、シャガール展(同51年)、マチス展(同56年)、ピカソ展(同58年)、退官後の展観となったゴーギャン展(同62年)等、国内で行われたこれらの作家の展覧会としては最も充実した内容に富む企画展に関与した。また、同52年にはアメリカから日本人画家による戦争画の一括返還を受け、これらを美術作品として部分的に公開する途を開いた。この間、大英勲章(同51年)、フランス芸術文化勲章(同52年)、イタリア共和国勲章(同53年)、世田谷区制55周年特別文化功労章(同62年)等を受章する。没後勲一等瑞宝章受章。著述に『教育基本法の解説』『中等教育の基本問題』『文化庁事始』『悠々閑々 画家の素懐』(日本画家編)などがある。

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