本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





元村和彦

没年月日:2014/08/17

 出版社邑元舎を主宰し、写真集の出版を手がけた写真編集者の元村和彦は、8月17日に死去した。享年81。 1933(昭和8)年2月11日佐賀県川副町(現、佐賀市)に生まれる。51年佐賀県立佐賀高等学校を卒業後、国税庁の職員となり佐賀、門司、武蔵野、立川、世田谷の各税務署に12年にわたって勤務する。60年、東京綜合写真専門学校に3期生として入学、卒業後引き続き1期生として同校研究科に進み、校長の重森弘淹、教授を務めていた写真家石元泰博らに師事した。 70年、W.ユージン・スミスが日本で取材した際に助手を務めた写真家森永純の紹介で、スミスと知り合い、スミスの写真展「真実こそわが友」(小田急百貨店他)の企画を手がけた。同年秋に渡米、スミスの紹介で写真家ロバート・フランクを訪ね、写真集出版を提案し同意を得る。71年、邑元舎を設立し、72年10月、『私の手の詩 The Lines of My Hand』を刊行。杉浦康平が造本を手がけた同書は、フランクの16年ぶりの写真集として国内だけでなく海外でも広く注目され、後に一部内容を再編したアメリカ版およびヨーロッパ版が刊行された。その後フランクの写真集としては、87年に『花は…(Flower Is…)』、2009(平成21)年には『The Americans, 81 Contact Sheets』を刊行した。邑元舎からは他に森永純写真集『河―累影』(1978年)が出版されている。97年、邑元舎の出版活動に対して、第9回写真の会賞を受賞。 20世紀後半の最も重要な写真家の一人であり、58年の写真集『アメリカ人』が、その後の写真表現に大きな影響を与えたにもかかわらず、映画製作に移行して写真作品を発表していなかったロバート・フランクに、元村は新たな写真集を作らせ、結果的にフランクに写真家としての活動を再開させることになった。これは写真史上、特筆すべきものである。フランクとの親交は生涯にわたって続き、写真集の原稿として提供されたものの他、折に触れてフランクより贈られた作品等により形成された元村のフランク作品コレクションは、元村の晩年、東京、御茶ノ水のギャラリーバウハウスにおける数次にわたる展示で紹介され、その中核である145点の作品が、16年に東京国立近代美術館に収蔵された。

堤清二

没年月日:2013/11/25

 文化功労者、日本芸術院会員で公益財団法人セゾン文化財団理事長の堤清二は11月25日午前2時5分、肝不全のため東京都内の病院で死去した。享年86。 1927(昭和2)年3月30日、東京に生まれる。48年東京大学経済学部在学中に学生運動に参加し共産党に入党するが、翌年除名。51年に同大学を卒業後、西武コンツェルンの創始者で衆議院議長だった父・康次郎の秘書を経て、54年に西武百貨店へ入社。64年の康次郎没後、西武コンツェルン本体を異母弟の堤義明が継ぎ、東京・池袋の西武百貨店を中心とする流通部門を受け継いだ清二は西友、パルコ等を含む西武流通グループ(後にセゾングループと改称)を創設、生活総合産業を掲げ広く事業を手がけた。しかし拡大路線がバブル崩壊で破綻、1991(平成3)年に同グループ代表を辞任し、一線から退いた。一方で55年より筆名・辻井喬として詩や小説を発表。61年には詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞を受賞。84年小説「いつもと同じ春」で平林たい子文学賞受賞。グループ代表退任後は旺盛に創作に取り組み、93年詩集「群青、わが黙示」で高見順賞、94年小説「虹の岬」で谷崎潤一郎賞、2000年長編詩「わたつみ 三部作」で藤村記念歴程賞、01年小説「風の生涯」で芸術選奨文部科学大臣賞、04年小説「父の肖像」で野間文芸賞、06年日本芸術院賞恩賜賞、07年詩集「鷲がいて」で読売文学賞を受賞。07年日本芸術院会員、12年文化功労者となる。 特異な“詩人経営者”としての才能は、美術展をはじめとする文化事業において発揮された。60年に西武百貨店池袋店8階催事場を美術展に用いることを提案し、翌年「パウル・クレー展」を開催。その後も「ジャン・コクトー芸術展」(1962年)、「アーシル・ゴーキー素描展」(1963年)等、百貨店の美術展としては珍しい現代美術を度々取り上げ、75年、池袋店内に常設美術館である西武美術館を開館させる。同館の開館記念展「日本現代美術の展望」の図録に館長として「時代精神の根遽地として」を寄稿、生活意識の感性的表現としての多様な美術および美術館のあり方を示した。さらに78年より美術評論家の東野芳明らの協力のもと、軽井沢に現代芸術の拠点となる新たな美術館創設に向けて準備を始め、81年に軽井沢高輪美術館(現、セゾン現代美術館)が開館、開館記念展として「マルセル・デュシャン展」が開催される。西武美術館は89年にセゾン美術館としてリニューアルオープンし活動を続けるも、バブル崩壊による事業整理により99年に閉館、しかし現代美術を積極的に紹介し、さらに「時代精神の根遽地として」美術の枠を越え文化全般を対象とした展観に取り組んだ姿勢は今なお評価される。一方で87年には私財によりセゾン文化財団を設立し、演劇・美術分野に対して(1991年以降は舞台芸術のみ)助成事業を行なうなど日本の現代芸術の進展を支援。生活意識の中の感性的表現を重視する姿勢は、経営面においてもグラフィックデザイナーの田中一光や石岡瑛子らを積極的に起用した広告戦略に見出せる。時代の先端を行く美術、音楽、演劇、映画等を発信する場を店舗内に併設し、老舗百貨店の客層とは違う若い感性を持つ顧客を開拓することで、“セゾン文化”と呼ばれる個性的なライフスタイルを築き上げた。

鳥山健

没年月日:2013/05/05

 大阪市にギャラリー白(はく)を開廊し代表取締役を務めた鳥山健は5月5日17時30分、大阪市内の病院で死去した。享年90。 1922(大正11)年11月1日、福岡県筑紫郡那珂村(現、福岡県福岡市博多区)に生まれた。関西学院大学社会学部卒業。大阪市内の自宅で出版社を立ち上げ、高校の国語のサブテキストの製作・販売に携わる一方、1967(昭和42)年、大阪市中央区今橋に開設された今橋画廊の企画責任者となる。今橋画廊では、現代美術家を若手、ベテランを問わず紹介するとともに、デザインや陶芸、染織、書などの分野で新しい表現を模索する作家にも積極的に門戸を開くなど、古くから「ものづくり」が盛んで、美術の概念的枠組みが緩やかな関西の風土に根ざした独自の企画を展開した。 79年10月、有志5名で有限会社ギャラリー白を設立して代表取締役となり、大阪市北区西天満の千福ビル2階に同名の画廊を開設、今橋画廊時代の運営方針をより明確に打ち出す。また、80年代初頭に関西の若い作家の間で台頭しつつあった絵画復権の動き、表現主義的への回帰を敏感に察知し、YES ARTなどの企画展を開催して、ミニマル、コンセプチュアルな方向性に行き詰まり活路を模索していた東京の現代美術界に衝撃を与え、全国的に注目される存在となる。以後、80年代から90年代にかけて、関西の最先端の美術動向のよき理解者、支援者として、多くの才能を東京のみならず国際的な舞台へと送り出した。企画展のテキストの書き手に関西の若い学芸員や研究者を登用し、批評家の育成に心を配ったことも特筆される。 2002(平成14)年2月、ギャラリー白をいったん閉廊するが、同年9月に同じ西天満の星光ビル2階で再開廊。03年9月には3階にギャラリー白3を増設し、最晩年まで関西の現代美術に関わり続けた。逝去した年の11月17日には、大阪キャッスルホテルで「鳥山健さんを偲ぶ会」が催され、関係者約200名が参集して、故人の業績や人柄に思いをはせた。

和多利志津子

没年月日:2012/12/01

 現代美術をはじめ多彩な展覧会活動をつづけているワタリウム美術館長の和多利志津子は、12月1日心不全のため死去した。享年80。 1932(昭和7)年9月23日、現在の富山県小矢部市に生まれる。服飾デザインの仕事を経て、自宅を改装して72年12月、ギャラリーワタリ(現、渋谷区神宮前)を開く。以後、88年10月まで、国内外のアーティストの個展を開催。とりわけ、ドナルド・ジャッド(1978年2月)、ナム・ジュン・パイク(同年5月)、ソル・ルウィット(1980年3月)、ロバート・ラウシェンバーグ(1981年1月)、アンディ・ウォーホル(1982年3月)、ヨーゼフ・ボイス(1984年5月、同展はナム・ジュン・パイクとの二人展)、ジョナサン・ボロフスキー(1986年9月)等、70年代から80年代の欧米の先端的なアーティストを日本に招聘しながら積極的に、また先駆的に紹介した。そうした海外のアーティスト達との交友の一端については、『アイ ラブ アート 現代美術の旗手12人』(日本放送出版協会、1989年)のなかで記されている。なかでも、ビデオ・アートの先駆者であったナム・ジュン・パイク(1932-2006)とは、パイクの生涯にわたり個人的にも深く交友し、現代美術から思想、哲学にわたり語り合うことがあったという。 1990(平成2)年5月、同画廊の敷地にワタリウム美術館が竣工(設計は、スイス人建築家マリオ・ボッタ)。以後、ここを拠点に活動をつづけ、現代美術ばかりでなく、建築家、詩人、写真家等の多彩な人物をとりあげて展覧会を開催した。美術館建設にあたっての経緯や、その後の活動については、和多利恵津子、浩一共著『夢見る美術館計画 ワタリウム美術館の仕事術』(日東書院、2012年)で詳細につづられている。美術館の運営では、創設当初は国際展のキューレターの経験をもつハラルド・ゼーマン、ヤン・フート、ジャン=ユベール・マルタン等をゲストキューレターとして依頼し展覧会を開催して注目され、その後から逝去するまでジャンルを問わず様々な企画を展覧会として開催した。 画廊経営から私設美術館の運営にわたる和多利の一貫した姿勢は、アーティスト等注目した人物その人に直接会って交渉し、話し合いを通じて理解を深めることから始めている点に特色がある。その姿勢は、日本文化への関心から歴史上の人物をとりあげる際にも発揮され、研究者等の助力を得ながらも、長年にわたって独自に調査を重ねながらその人物への理解と共感を深めることで展覧会を開催している。そうしてとりあげたなかには、岡倉天心(「岡倉天心展 日本文化と世界戦略」、2005年2月-6月)、南方熊楠(「クマグスの森 南方熊楠の見た夢」、会期:2007年10月-08年2月)、ブルーノ・タウト(「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」、会期:2007年2月-5月)等がある。特に岡倉天心については、研究者ばかりではなく、他分野の専門家を招いて独自に研究会を10年間にわたり主宰して準備にあたった。この岡倉天心展にあわせて、同美術館監修により『岡倉天心 日本文化と世界戦略』(平凡社、2005年)が刊行されたが、同書の「あとがき」の冒頭で「もし、今も生きているならば、私は、きっと岡倉天心に恋している、そんな架空な夢をみています」と率直に記していることからも、その人物像を、従来の学術研究とはことなった情熱的な視点から独自に形づくろうとした。既成の評価にこだわることなく、つねに新しいアートとアーティストをはじめとするクリエイティヴな人間に関心を抱きつづけ、自らの美術館という場で紹介したことは評価される。 没後の13年1月23日に同美術館でお別れ会「夢みる 和多利志津子」が開かれ、交友のあった各界から多数の参加者があった。さらに、『アートへの組曲―追悼・和多利志津子』(同美術館企画・発行、2013年9月)が刊行された。なお同書には、国内外の交友のあったアーティストをはじめとする多数の追悼文の他に、ギャラリーワタリ並びにワタリウム美術館の展覧会記録が収録されている。

宇佐美直八

没年月日:2012/10/25

 江戸時代より続く表具所である宇佐美松鶴堂八代目当主の宇佐美直八は10月25日、肺炎のため死去した。享年86。 宇佐美家は天明年間(1781~88)に初代直八が西本願寺前において同寺直属の表具所として創業。以来、西本願寺御用達として展開した。代々当主は「直八」の名跡を名乗る。その宇佐美家の二男として1926(大正15)年1月27日に誕生、「直行」と命名。立命館大学工学部卒業。七代目「直八」のもとで装潢技術の研鑽に励んだ。1946(昭和21)年、西本願寺国宝襖絵の修理に従事。59年3月、国指定の文化財(絵画)を修復していた7工房が結集し、装潢技術の向上をはかると共にそれらに付帯する事業を行うことを目的として「国宝修理装潢師連盟」が設立された際、これに「宇佐美松鶴堂」として加盟。74年には宇佐美松鶴堂を個人商店から株式会社に移行させて代表取締役に就任。80年には京都国立博物館内に設置された文化財保存修理所の開設にともない、その一角を工房として使用するとともに、運営委員を委嘱される。翌年には桂離宮解体修理工事のうちの表具工事を担当する。この年10月には75年の先代死去のち空き名跡となっていた「直八」を八代目として襲名。82年には京都国立博物館文化財保存修理所修理者協議会会長に就任する(~1993年)。1990(平成2)年3月には(財)京都府文化財保護基金より永年の文化財修理に対して功労賞を受賞。同年11月には地方の文化振興に対する功労で文部大臣賞を受賞する。95年5月、国宝修理装潢師連盟理事長に就任(~1999年5月)。96年4月29日春の叙勲に際し、勲五等双光旭日章の栄誉を受ける。代表的な文化財修理として西本願寺飛雲閣壁画、厳島神社平家納経、建仁寺風神雷神図屏風がある。著書に『京表具のすすめ』(法蔵館、1991年)。

田中三蔵

没年月日:2012/02/27

 ながらく朝日新聞東京本社にて、同紙の美術記事を担当したジャーナリスト田中三蔵は、膵臓がんのため2月27日死去した。享年63。 1948(昭和23)年8月2日、神奈川県川崎市に生まれ、幼少期を東京ですごす。67年3月、東京教育大学附属高等学校を卒業。74年、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、日本彫刻史を専攻した。同年4月、朝日新聞社に入社、高松支局に配属される。79年5月、同社大阪本社学芸部に異動。同社では、家庭面を担当した後、主に娯楽面で落語、漫才を中心とする大衆芸能を担当した。88年10月に東京本社に異動するまでの間、寄席から小さな落語会まで取材にまわり、やがて関西の落語家桂米朝、その一門の落語家たちをはじめ、多くの落語家、漫才師とも親しく交友しながら記事を執筆し、やがて落語家からも一目を置かれるようになった。 東京本社異動後は、はじめ家庭面を担当し、1990(平成2)年1月に雑誌『アエラ』編集部に勤務。91年5月、東京本社学芸部に戻り、文化面にて美術を担当することになる。95年7月に美術担当の編集委員となる。2008年8月2日に定年退職し、引き続き同本社専門シニア・スタッフとなる。病気療養中の10年12月、在職中に執筆した数多くの記事の中から107件を選定してまとめた『駆けぬける現代美術』(岩波書店)を刊行。また、日本大学芸術学部大学院(2002年4月から)、女子美術大学大学院で非常勤講師として教育にあたった。 田中は在職中、とりわけ美術担当記者として同紙に展覧会評、時評、論説等にわたる記事を1500件以上執筆した。90年代から2000年初頭の在職中に執筆した記事の中には、日本の近代美術の見直しと並行して「日本画」概念の再検討と新しい表現の出現のレポート、国立博物館、美術館の独立行政法人化の問題に関する連載、アジア諸地域の経済的な台頭を背景にしたアジアの現代美術のレポート等々、いずれも問題提起をこめた内容であり、現在でも印象に残る。美術ジャーナリストとしての視点は、上記の著作の「後書きにかえて」中で記されているとおり、「美術は進歩しない。拡大する」という認識と「美術の歴史は作家だけではなく、享受者がともに作る」という確信に基づくものであった。その確信は、田中自身「愚直に」を念頭に書いているが、地道な取材をもとに思考しながら書き続けたことから築きあげたものであった。つねに広い視野からの平衡感覚と、目まぐるしく変転する同時代の美術を見ながらも歴史意識をわすれていないために、田中の執筆した多くの記事は、今後も同時代の証言として残ることであろう。没後の12年4月12日、関係者により東京中央区銀座にて「田中三蔵さん お別れの会」が開催され、多くの美術関係者が集まった。

田中千秋

没年月日:2011/09/30

 兵庫県立美術館保存・修復グループリーダーの田中千秋は9月30日に死去した。享年54。 1957(昭和32)年7月5日、鳥取県米子市に生まれる。76年大阪府立千里高等学校を卒業後、77年に早稲田大学第二文学部美術科に入学、西洋美術史を専攻し82年に同大学を卒業。81~83年に老舗額縁店である古径、83~84年に八咫家での勤務を経て、85年に山領絵画修復工房に入り、油彩画修復に携わる。88年からはブリヂストン美術館学芸部で保存修復を担当。2001(平成13)年に兵庫県立美術館に移り、保存修復グループのリーダーとして活躍した。93~98年に女子美術大学、2000年より東北芸術工科大学で非常勤講師を務めている。 ブリヂストン美術館では、86年より進められていた同館所蔵のレンブラント「聖書あるいは物語に取材した夜の情景」(旧題「ペテロの否認」)共同研究プロジェクトに参加。93年には特集展示「隠された肖像―美術品の科学的調査」を担当し、東京国立文化財研究所の協力のもと科学的調査に基づいた油彩画の展観を行なった。95年1月17日に発生した阪神大震災に際しては、全国美術館会議に働きかけて被災地の美術館・博物館への救援隊を結成、所蔵品の救援活動や被害調査を率先して行なう。その後の同会議による被害の総合調査でも保存担当学芸員として中心的な役割を果たし、同年9月と翌96年5月に報告書を刊行。所属するブリヂストン美術館の館報でも、被害調査をふまえた具体的な地震対策を講じている。一方で「日本の美術館、ここが悪い」(『あいだ』53号、2000年)からうかがえるように、その言動は日本の美術館を取り巻く現状への批判的な眼差しに貫かれたものだった。 01年に兵庫県立美術館へ移った後も、所蔵品の保存修復や本多錦吉郎「羽衣天女」(同館蔵)等の光学調査を実施。また11年3月11日に発生した東日本大震災に際しても、全国美術館会議の文化財レスキュー活動に参加、4月には津波の被害を受けた石巻文化センターの絵画・彫刻約200件を移送、応急処置を始める。同じく津波で甚大な被害を受けた陸前高田市立博物館のレスキューでも、救出した作品の応急処置を行なう旧岩手県衛生研究所の環境整備を検討するなど貢献するが、その最中での突然の死は関係者に大きな衝撃を与えた。

藤田慎一郎

没年月日:2011/05/20

 岡山県倉敷市の大原美術館の館長を30年以上にわたり務めた藤田慎一郎は、5月20日に呼吸不全のため亡くなった。享年91。 大正9(1920)年4月19日に東京都に生まれる。昭和13(1938)年3月、旧制広島県立福山誠之館中学校を卒業。その後結核を患い、療養生活後の47年8月に、親戚にあたる大原総一郎のすすめにより大原美術館に就職。大原美術館は、倉敷紡績株式会社などを経営する実業家大原孫三郎(1880-1943)によって30年11月に開館し、孫三郎の長男総一郎(1909-1968)によって継承発展した。50年11月、同美術館20周年記念行事を開催、梅原龍三郎、安井曾太郎、浜田庄司、河井寛次郎、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦等を東京から招き、公開の座談会等が行われ、学芸員として諸行事の進行に務めた。以後、大原総一郎の片腕として、展覧会の企画実施、コレクションの拡充のための作品購入にあたった。51年2月、「現代フランス美術展(サロン・ド・メ日本展)」(日本橋高島屋)が開催、戦後のフランス美術が紹介されたことから、その出品作6点を購入したのをはじめとして、以後国内外の現代美術の収集に力を入れるようになり、藤田はその選定と購入につとめた。この現代美術収集は、戦後から現代につらなる国内美術館における先駆的な活動として特筆されるものである。61年7月、同美術館の副館長となり、64年に館長に就任。在職中は、近現代絵画をはじめ、民芸、工芸、古美術等にわたる広範な領域のコレクションの充実につとめるかたわら、展示室の拡大にも積極的にあたり、新館(現在の分館、1961年5月完成)、陶器館(現在の工芸館、同年11月完成)にはじまり、本館増設(現在の本館新展示室、1991年9月完成)まで、現在の同美術館のほぼ全体の施設作りを担当した。1998(平成10)年4月に館長を退任、相談役に就任。2002年に相談役を退任。 91年7月から97年6月まで全国美術館会議の会長を務め、また、ひろしま美術館、財団法人成羽町美術振興財団、倉敷民藝館等の理事などを歴任した。褒賞については、80年11月、フランス政府よりシュヴァリエ芸術文化勲章を受章。翌年11月に文部大臣表彰。88年に第46回山陽新聞賞(文化部門)受賞。89年、平成元年度倉敷市文化連盟賞、91年には文化の向上に貢献したことで第44回岡山県文化賞を受賞。98年10月、公共奉仕の精神をもって地域社会に貢献した者を顕彰する岡山県の第31回三木記念賞を受賞。 編著には、『大原美術館 岡山文庫10』(日本文教出版、1966年)をはじめ、同美術館、ならびにコレクションに関する刊行物についての著述が多い。その中で『大原美術館と私―50年のパサージュ―』(松岡智子編、山陽新聞社、2000年)は、長時間にわたるインタビューをまとめたものであるが、内容は同美術館の戦後からの歴史と同時にコレクションの形成史になっており貴重な証言である。

小野寺久幸

没年月日:2011/03/01

 文化財(仏像)修理技師で、財団法人美術院常務理事であった小野寺久幸は3月1日、肝不全のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年5月18日に宮城県本吉郡本吉町(現、気仙沼市)に生まれる。同県本吉郡小泉高等尋常小学卒業。小野寺の文化財(仏像)修理技師としての力量発揮を知らしめたのは、51年、神奈川県鎌倉市覚園寺における重要文化財の木造薬師如来および日光菩薩、月光菩薩の各坐像の保存修理からとみられる。54年には、東京国立博物館内の文化財修理室に勤務。翌年、美術院国宝修理所に就職した。以後、国宝・重要文化財の彫刻作品の修理に専従するとともに、現場において後進の育成に努めた。75年、財団法人美術院国宝修理所所長・常務理事に就任。79年、岐阜県文化財保護審議会委員に、1989(平成元)年には、財団法人川合芳次郎記念京都仏教美術保存財団理事に、91年には、東京藝術大学美術学部保存技術客員教授に、97年には、財団法人仏教美術協会理事に就任する。2000年、財団法人美術院国宝修理所所長を退き、常務理事専務に就任する。この間、88年から5年の歳月をかけて東大寺南大門の国宝金剛力士像二軀の本格解体修理に当って陣頭指揮を行う。その功績により、93年には、東大寺から「東大寺大仏師」の称号が授与された。また、文化庁長官表彰、および、第11回京都府文化功労賞を受ける。翌94年には、宮城県本吉郡本吉町名誉町民となる。95年には、第44回河北文化賞を受賞。96年には、長年にわたる文化財(仏像)修理と後進の育成の功績を認められて紫綬褒章を、03年には、勲四等旭日小綬章の栄誉を受ける。 この間の主な仏像修理は以下の通り。京都・妙法院三十三間堂・重要文化財木造千手観音立像1001軀(昭和48~61、平成2~12年度)、同・国宝木造千手観音坐像(湛慶作、昭和62年~平成元年度)、大分・国宝臼杵磨崖仏(昭和53・55~61、63~平成5年度、同10~12年度)、奈良・法隆寺国宝木造観音菩薩立像(百済観音、昭和55年度)、同・国宝木造観音菩薩立像(救世観音、昭和62年度)、同・国宝銅造薬師三尊像(金堂所在、平成2~3年度)、京都・教王護国寺講堂の国宝を含む諸尊像20軀(平成9~11年度)の本格修理を行う。また、大阪・観心寺如意輪観音像の模造(昭和49~56年度)、京都・寂光院地蔵菩薩立像の模造(平成13~17年度)をはじめ、兵庫・清澄寺大日如来坐像(平成2年度)、東京・長仙寺金剛力士像(同6~9年度)、愛知・鳳来寺薬師如来立像(同10年度)、奈良・桜本坊木造天武天皇坐像(平成19~21年度)の製作を手がけた。仏像修理を通じての知見については、「文化財の保存修理」(『美術院紀要』創刊号、1969年)、「「明月院塑造北条時頼像」の修理について」(『同』2号、1971年)、「群馬県・不動寺の石仏修理について」(『同』3号、1973年)、「文化財の損傷と修理について」(『同』5号、1980年)。「THE REPAIR OF THE WOODEN SCULPTURES」(『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property』東京文化財研究所編、1983年)、「文化財の保存修理」(『日本藝術の創跡2010』世界文藝社、2010年)などがある。

山口侊子

没年月日:2010/01/15

 ギャラリー山口オーナーの山口侊子は1月15日死去した。享年67。1943(昭和18)年5月20日東京市日本橋区(現、東京都中央区)に生まれる。65年早稲田大学教育学部卒業。その後東京都港区で喫茶店を経営するかたわら、ジュエリー制作に取り組み日本ジュウリーデザイナー協会(現、日本ジュエリーデザイナー協会)準会員となる。80年3月銀座3丁目ヤマトビル3階に現代美術を専門とする貸画廊兼企画画廊「ギャラリー山口」を開設。1991(平成3)年4月新木場にオープンしたSOKOギャラリーに入居、ギャラリー山口SOKOを開設し93年頃まで運営。その間、銀座3丁目の画廊と2店舗を経営。以後、ギャラリー山口を、93年8月に銀座8丁目銀座同和ビル1階へ、95年8月に京橋3丁目京栄ビル1階及び地下1階へ移転。ベテランから無名の新人まで美術家の発表の場であり、建畠覚造、野見山暁治、篠原有司男、堀浩哉らの個展を数多く開催。またCONTINUUM ’83・オーストラリア現代美術展(83年7月)、パリ-東京現代美術交流展(84年5月)、ベルリン-東京交流展(88年4月)など海外画廊との交換展にも、日本の代表的な現代美術画廊として参加。氏が逝去した後、ギャラリー山口は1月末で閉廊。同ギャラリーの資料は東京文化財研究所に寄贈された。

大川栄二

没年月日:2008/12/05

 財団法人大川美術館の理事長兼館長であった大川栄二は、12月5日、大動脈弁狭窄症のため死去した。享年84。1924(大正13)年3月31日に、群馬県桐生市に生まれる。桐生高等工業専門学校色染化学科を卒業。1948(昭和23)年4月、三井物産株式会社に入社。しかし、49年から52年まで、肺結核のために入院、療養につとめる。その間に、様々な画家が描いた週刊誌の表紙を収集するようになり、大川の回想によれば、これを貼ったスクラップブック作成が、美術コレクションの原点となったという。69年、株式会社ダイエーに入社。76年、マルエツ株式会社(旧サンコー)代表取締役社長に就任。81年、株式会社ダイエー取締役副社長、同年株式会社ダイエーオーエムシー(旧ダイエーファイナンス)代表取締役会長となる。上記のようなサラリーマンの生活を送りながら、美術コレクションをすでにはじめており、コレクターの面では、86年、愛媛県越智郡玉川町(現、今治市玉川町)に、同地出身の実業家徳生忠常が、作品と美術館建設費を町に寄贈して設立された玉川近代美術館の創設にあたっては、大川は作品の収集に協力をおしまなかった。同美術館の創設にあたり刊行された名品選カタログに、大川は寄稿しているが、そこからはコレクターである大川自身の美術館像と美術に対する情熱がつぎのように記され、生活に根ざした美術の価値を深く信じていたことがうかがえる。「よい作品を出来るだけ多く、又、何度もみることが大事です。他のよい美術館とて同じです。公立はいうに及ばず、私立といえど殆んどは財団法人となっている以上、社会的な文化財であり、庶民のものなのです。画廊の高い絵は買えなくとも美術館にある絵を自分のものとして親しく厳しく、たのしく鑑賞し、庶民の文化媒体として精々利用されたら、いい絵は、眼にも心にとっても無限の教育者となり、それにより自然をみる鑑賞力も人をみる判断力も豊かとなり、街並をみることも、くたびれた生活の道具も、果物も、又、街のショーウィンドーの中にすら興味ある曲線や色を感ずるでしょう。そして、そんな価値観が自然と周囲の人間関係を大切にし、他人の痛みが判り、真の教養も生れ、素晴らしい地方文化が生き続けられるのです。」(「付ろく 絵画入門 絵のある生活と人生」より、『玉川近代美術館』、1986年)88年には、同美術館の名誉館長となった。さらに、1989(平成元)年4月、郷里である群馬県桐生市に同市の支援をうけて財団法人大川美術館が開館。同美術館の理事長兼館長に就任した。同美術館のコレクションは、大川が40年以上にわたって収集してきた近代日本洋画を中心に、欧米の近代、現代美術も加えて約6500点によって形成されている。特に、近代日本洋画については、大川が最初に関心をもった松本竣介、野田英夫の作品を核として、この二人と交友のあった画家、もしくは影響を受けた、あるいは影響を与えたと考えられる画家たちの作品が収集されており、美術史の固定化された視点から離れ、大川の鑑賞眼に基づく個人コレクションとしてユニークな内容となっている。翌90年、株式会社ダイエーを退社し、美術館の業務に専念するようになった。95年、群馬県総合表彰、2005年には群馬県文化功労賞を受けた。大川が美術について、あるいは美術館について語るとき、止まることを知らないほど情熱的であった。また、美術コレクターとして、多くの随筆を残しており、主要な著作は、次の通りである。 『美の経済学』(東洋経済新報社、1984年) 『美のジャーナル その投資と常識のウラ』(形象社、1989年) 『父と子のために 絵のみかた たのしみかた』(クレオ、1993年) 『美術館の窓から 僕はこころの洗濯屋』(芸術新聞社、1993年) 『二足の草鞋と本音人生』(上毛新聞社、2003年) 『新・美術館の窓から』(財界研究所、2004年)

山岸信郎

没年月日:2008/11/04

 画廊主で評論家の山岸信郎(ペンネーム真木忍)は11月4日、東京女子医大病院で肺炎のため死去した。享年79。1929(昭和4)年5月9日、宮城県仙台市に生まれる。47年、仙台工業専門学校(仙台工専)から東北大学工学部へ転学。51年、東北大学を中退し、学習院大学文学部仏文科入学、59年卒業、後、同大人文科学研究科哲学専攻・修士博士前期課程に入学、64年まで在籍、富永惣一に学ぶ。62年、銀座の五番館画廊の運営に参加。『三彩』誌で68年1月号から69年7月号まで展評などを執筆する。新制作協会の事務局、日本橋の秋山画廊勤務をへて、69年2月、田村正勝、三浦武男とともに田村画廊を東京都中央区日本橋本町3-5に開設する。73年に画廊は日本橋本町4-15に移転するが、この間、後に「もの派」といわれる一群の作家たちの活気ある発表の場となる。75年日本橋本町4-9に真木画廊を開設する。77年田村画廊を閉廊し、神田西福田町2に新田村画廊(78年田村画廊と名称変更)を開設する。1990(平成2)年田村画廊を閉廊し、91年から真木画廊を真木・田村画廊として2001年まで運営した。日々の運営に関しては妻良枝の力も大きかった。山岸は拠点とした神田界隈の他の画廊、秋山画廊、ときわ画廊とともに70年代以降の貸画廊活動の一時代を築いた。さらに、79年から85年まで駒井画廊(日本橋室町3-1)の運営をし、また、郷里となっていた山形市に77年から画廊大理石を開廊し、移転しながら82年からギャラリールミエール、85年からはルミエール画廊の運営も行った。また、オフミュージアム的な展覧会の企画・運営に数多くあたり、90年代後半からの韓国との交流展をはじめ、草の根的な美術活動を行った点も忘れがたい。ミニコミ美術誌『あいだ』の追悼記事23本(155号から173号まで不定期に掲載)では、故人について数多くの作家、知人が文章をよせている。また、画廊に残された資料は、2010年国立新美術館アートライブラリーに収蔵された。

佐谷和彦

没年月日:2008/05/23

 佐谷画廊代表であった佐谷和彦は、食道癌のため、5月23日に死去した。享年80。1928(昭和3)年、京都府舞鶴市に生まれ、第四高等学校を卒業後、京都大学経済学部に進学。53年、農林中央金庫に入社。73年に退社、株式会社南画廊(東京、日本橋)の経営者志水楠男に勧誘されて、同画廊に入社した。77年に同画廊を退社し、翌78年佐谷画廊を東京、京橋に創設した。82年に銀座4丁目に移転。2000(平成12)年に東京荻窪の自宅に移転。佐谷画廊としての活動は、日本人作家としては、池田龍雄、中川幸夫、阿部展也、山口勝弘、駒井哲郎、荒川修作、桑山忠明、松沢宥、清水九兵衛、福島秀子、山田正亮、若林奮、赤瀬川原平、戸谷成雄、辰野登恵子、小林正人等、また海外作家としては、パウル・クレー、エルンスト、マン・レイ、マルセル・デュシャン、ジャコメッティ、クリスト等の展覧会を開催した。とくに詩人瀧口修造と交流のあった作家をとりあげた「オマージュ 瀧口修造」展は、21回開催され、佐谷のこの詩人への敬愛の念がこめられていた。また佐谷の回想によれば、二十年にわたって銀行での勤務の経験があったからこそ、画廊経営、また社会と美術について、冷静な判断と深い認識が培われたと語っている。とくに美術作品を扱う画廊、画商の社会的、文化的な存在意義については、つぎのように明確な考えをもっていた。「美術品という特別な、文化に関わる商品を取り扱っているという認識を持つ必要がある。ところがここがむずかしいところで、文化には商売として成立しがたい要素がある。美術品の絶対的価値と市場流通価値の乖離が、このことを示している。だからといって儲かる作品であれば何でも扱う、というのでは単なるブローカーになってしまう。画廊、画商の主張が見えてこなければ、存在理由はない、と私は思う。もうひとつ言えば、美術品は質の問題に尽きる。質に対する意識がないと、輝いたしごとはできない。文化程度が高い社会とは、質の高い芸術が人びとの周辺に存在する社会のことである。つまり良質の美術品に感応し、感動し、それを理解し、楽しむ境地に達した人間が多く存在することが望ましい。画廊、画商はそのような社会に関わっていることに誇りを持てるような存在でありたい。」(『アート・マネージメント 画廊経営実感論』、平凡社、1996年)さらに画廊が現代美術を扱うことについても、その意義をつぎのように記していた。「現代美術を取り扱う画廊のもっとも重要なしごとは、新しいすぐれた作家を社会に送りだすことである。すぐれた作家は同時代の証言者であり、時代精神を表現している。このような作家を紹介することが、画廊の社会的義務である。」このように単なる画廊経営者にとどまらずに、美術、とりわけ国内外の現代美術に対する理解者、支援者としての活動は、特筆されるべきであろう。造詣が深いからこそ、同画廊で開かれた展覧会のカタログの「あとがき」として、作家論等を数多く寄稿している。また、アート・マネージメントや文化行政に対する発言も多く、これらは、上記の引用著述以外に、下記の著作にまとめられている。 『知命記 ある美術愛好家の記録』(佐谷画廊、1978年) 『私の画廊―現代美術とともに―』(佐谷画廊出版部、1982年) 『画廊のしごと』(美術出版社、1988年) 『原点への距離―美術と社会のはざまで』(沖積舎、2002年) 『佐谷画廊の三〇年』(みすず書房、2007年)

林宗毅

没年月日:2006/04/03

 実業家で、中国書画の収集家としても知られる林宗毅は、病気療養中のところ、4月3日、東京にて死去した。享年83。林宗毅は、台湾三大名家の第一に挙げられる板橋林本源家の嫡流として、1923(中華民国12)年4月22日、台北の板橋鎮に生まれた。字を志超といい、定静堂と号した。原籍は福建省漳州府龍渓県。1778(乾隆43)年、五代の祖である林應寅の代に台湾に移り、のちに應寅の子林平侯が居を台北県新荘鎮に定め、土地の開墾・塩の専売・貿易等によって財を築いた。1846(道光26)年から1853(咸豊3)年の間に、平侯の二人の子、林國華・林國芳が板橋鎮に移居し、林國華・林國芳それぞれの屋号である本記・源記を合わせて、林家は林本源と総称するようになった。福建の造園技術の粋を集めて築造した林本源園邸は、現在も台北県の古跡として一般に公開されている。定静堂をはじめ、来青閣、方鑑斎、汲古書屋等の別号は、いずれも林本源園邸の楼亭や書斎の名称に由来している。1944(中華民国33)年、台北帝国大学医学部に入学するも、翌年終戦のため退学。1948(中華民国37)年、国立台湾大学文学院外国文学系を卒業。1953(昭和28)年、東京大学大学院(旧制)文学部英文学科を修了。1973(昭和48)年、日本に帰化した。長らく、台湾・日本・アメリカなどで実業家として活躍するかたわら、30歳の頃から中国書画の収集に心を砕き、約1000件のコレクションを形成した。それらの収蔵品は、一般に公開して研究に役立てたいとの考えから、『定静堂中国明清書画図録』(求龍堂、1968年)・『定静東方美術館開館記念展目録』(凸版印刷、1970年)・『近代中国書画集』(中央公論事業出版、1974年)を編修発行、一方では林家にまつわる貴重な文献を『定静堂叢書』として刊行した。収蔵品は、台北の国立故宮博物院(1983・1984・1986・2002年)、東京国立博物館(1983・1990・2001・2003年)、和泉市久保惣記念美術館(2000年)に寄贈し、それにより紺綬褒章を受章(複数回)、中華民国教育部文化奨章(1984)、国立故宮博物院栄誉章(1986年)、中華民国総統奨状扁額(1986年)、中華民国行政院文化建設委員会「第6回文馨奨」の「金奨特別奨章」(2003年)を受章した。『定静堂清賞』(東京国立博物館、1991年)、『林宗毅先生捐贈書画目録』(国立故宮博物院、1986年)、『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)等があり、三館に寄贈した収蔵品から名品を選んだ『定静堂中国書画名品選』(財団法人林宗毅博士文教基金会・国立故宮博物院、2004年)がある。1983(中華民国72)年、中華学術院名誉哲士。1987(中華民国76)年、中国文化大学名誉文学博士。

吉田清

没年月日:2006/01/26

 東京美術倶楽部代表取締役の吉田清は1月26日、肺炎のため死去した。享年78。1927(昭和2)年2月11日、東京都に中村嵩山の四男として生まれ、吉田家養子となる。44年電機高校を中退。古美術商水戸幸に入店し、56年有限会社赤坂吉田を設立して同社代表取締役となる。58年、同社を有限会社赤坂水戸幸と改称。61年から63年まで東京美術倶楽部青年会理事長をつとめ、この間、第二次大戦で行方や消息が不明であった佐竹本三十六歌仙絵を一堂に集めた「佐竹本三十六歌仙展」を開催して注目された。東京美術倶楽部にあっては、81年に監査役、83年に取締役、1995(平成7)年に取締役副社長、97年に代表取締役となった。また、東京美術商協同組合にあっては、66年に理事、77年に専務理事、91年に理事長となり、99年全国美術商連合会会長となった。宗翠と号して茶の湯をよくし、79年財団法人小堀遠州顕彰会理事、84年光悦会役員、86年財団法人MOA美術館光琳茶会役員、2000年大師会理事となり、東都茶道界の重鎮であった。著書に『佐竹本三十六歌仙図録』(共著、東京美術青年会、1962年)、『古筆手鑑梅の露』(書芸文化院、1964年)、『写経手鑑紫の水』などがある。

三谷敬三

没年月日:2005/12/18

 元株式会社東京美術倶楽部社長の三谷敬三は、12月18日午前6時56分、心不全のため川崎市内の病院で死去した。享年89。1916(大正5)年11月20日に生まれ、1934(昭和9)年3月に東京府立工芸学校を卒業後、自動車製造株式会社(現在の日産自動車株式会社)に入社。戦後同社を退社、戦時中休業していた家業の美術商三渓洞を継ぎ、営業を再開した。47年には株式会社三渓洞に組織変更し、代表取締役に就任。一方、51年には東京美術商協同組合の専務理事になり、59年には同組合の理事長、75年には顧問に就任した。また、53年に株式会社東京美術倶楽部の鑑査役、57年に同社常務取締役、69年に代表取締役社長、87年から1995(平成7)年まで代表取締役会長を勤めた。その間、77年から82年まで東京美術倶楽部鑑定委員会委員長を務め、また69年から87年まで五都美術商連合会の代表を務め、斯界において長年にわたり取りまとめ役に精励した。その業績に対して、80年11月に藍綬褒章を受章、87年11月には勲四等旭日小綬章を叙勲した。

村越伸

没年月日:2005/12/17

 村越画廊社長の村越伸は12月17日午後6時26分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日、横浜市に生まれる。父は商船の機関長。横浜の本町尋常高小卒業後、母の知己を頼り14歳で古物商の芝・本山幽篁堂に丁稚奉公に入り、主人の本山豊実のもと古美術の基礎を身につける。また本山の知人だった吉田幸三郎の知遇を得、その義弟である速水御舟や、村上華岳、横山大観らの作品に惹かれ、日本画を中心とした新画商の道を志す。1943(昭和18)年に兵役につき、復員後の48年に銀座で画商として再出発。51年旧友の山本孝、志水楠男とともに東京画廊を拠点として営業、サム・フランシス、フンデルトワッサー等、現代美術をも扱う。56年銀座8丁目の並木通りに村越画廊を開設。59年横山操、加山又造、石本正の三作家による日本画のグループ展轟会(後に平山郁夫が参加)をスタートさせ、74年まで16回開催し、美術界に新風を吹き込んだ。71年日本画商相互会の会長(82年再選)、83年東京美術商協同組合理事長に就任。78年には評論家吉村貞司の提案により、多摩美術大学で横山操、加山又造の教えを受けた小泉智英、中野嘉之、松下宣廉、米谷清和によるグループ野火を発足させ、88年まで毎年開催した。1990(平成2)年藍綬褒章を受章。92年パリのギメ美術館に対する尽力を評価され、フランス政府からシュバリエ勲章を授与される。95年勲四等瑞宝章受章。著書に自叙伝『眼・一筋』(実業之日本社、1986年)がある。

徳川義宣

没年月日:2005/11/23

 徳川美術館館長で尾張徳川家21代当主の徳川義宣は11月23日午前5時5分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。享年71。1933(昭和8)年12月24日、伯爵堀田正恒の六男正祥として東京都渋谷区上智町に生まれる。尾張徳川家20代当主義知の長女三千子と結婚して徳川家の養子となり、義宣と改名した。56年、学習院大学政経学部経済学科を卒業し、東京銀行に就職。57年からは財団法人徳川黎明会の評議員、60年から同会理事を歴任。61年には東京銀行を退職し、62年から徳川黎明会徳川美術館担当理事、67年から同会専務理事をつとめた。この間東京大学農学部林学科研究生として林業を学ぶかたわら、東京国立博物館研究生となって美術史を学んで学芸員資格を取得した。76年からは徳川美術館館長を兼務、93年からは没した義父にかわって徳川黎明会会長をつとめた。そのほか日本工芸会顧問、東京都重要文化財所有者連絡協議会会長、全国美術館会議副会長、漆工史学会副会長、日本博物館協会理事、愛知県博物館協会理事、日本陶磁協会理事、茶の湯文化学会理事、東洋陶磁学会常任委員などをつとめた。徳川美術館に伝えられた尾張徳川家コレクションの保存に尽力するにとどまらず、研究を美術館活動の中心に据え、旧大名家コレクションを収集して館蔵品を増強し、87年には地元政財界の協力のもと展示室と研究室を充実させる美術館の増改築を実現させるなど、徳川美術館を個性の際立つ日本有数の私立美術館に育てあげた手腕と実績は特筆される。私立美術館博物館の地位向上ひいては日本の博物館活動の振興に寄与するところが多く、91年には博物館法制定40周年文部大臣表彰と日本博物館協会顕彰を、2002年には文化庁長官表彰をうけた。美術史学や歴史学など幅広い分野に造詣が深く、とくに源氏物語絵巻と徳川家康文書の研究で第一人者として知られた。なお、93年までの履歴と著作は『徳川義宣氏略歴 著作目録』(徳川義宣氏の還暦に集う会編集発行、1994年)に詳しい。

木村定三

没年月日:2003/01/21

 美術品収集家の木村定三は1月21日午前7時7分、肺炎のため名古屋市中区の病院で死去した。享年89。1913(大正2)年3月1日、名古屋の肥料米殻仲買を生業とする家に生まれる。1929(昭和4)年、旧制熱田中学校を卒業、第八高等学校文科甲類に入学し、32年同校を卒業、東京帝国大学法学部に進む。同大学在学中の35年に高級官僚への道が約束される高等文官試験行政科に合格するも、翌年法学部政治学科を卒業すると直ちに名古屋に戻り家業に従事する。66年には新納屋橋ビルを建設し、大名古屋建物株式会社の社長に就任した。その美術好きは書画骨董に関心を寄せた父と兄の影響とみられ、コレクションの幅は中国北魏の彫刻から現代の作品にまで及んだが、とりわけ38年に名古屋丸善の画廊で開かれた熊谷守一の日本画の個展で強い感銘を受け、以後熊谷の芸術を賞揚し続けた。“法悦感”と“厳粛感”を第一義とする独特の芸術観を持ち、両者を兼ね備えた画家として熊谷を、また前者を代表する画家として小川芋銭、次いで池大雅を、後者の画家として浦上玉堂を第一とし、与謝蕪村がそれに続くとした。晩年には与謝蕪村「富嶽列松図」、浦上玉堂「山紅於染図」等の重要文化財、また熊谷守一、小川芋銭の作品を含む近世・近代の作品140点、北魏石仏等古美術品16点、考古工芸資料177件を愛知県美術館に寄託、さらには寄贈することを決め、これを記念し同館にて2003(平成15)年「時の贈りもの―収蔵記念 木村定三コレクション特別公開」展が行なわれるが、その開催を目前にしての逝去であった。同館では展覧会開催後も木村定三コレクション室を設け、寄贈品を常時公開している。

浅尾丁策

没年月日:2000/01/29

 額縁制作、絵画修復家の浅尾丁策は、1月29日午前9時55分老衰のため自宅で死去した。享年92。1907(明治40)年9月27日、東京市下谷区に生まれる。家業は、浅尾払雲堂として、父の代からはじめた洋画用の筆を製造。1924(大正13)年、東京商業学校を卒業後、一時保険会社に勤務するが、その後神田神保町の画材店竹見屋に勤める。1927(昭和2)年、独立して画材一般を扱う浅尾払雲堂を経営する。42年、戦中の物資不足を補うために、洋画家たちの賛同を得て油彩材料研究会を設立。49年には、プールヴーモデル紹介所を設立。83年労働大臣表彰。1996(平成8)年、油彩画修復家として台東区より指定無形文化財となる。生涯にわたり、額縁制作、絵画修復などによって美術界に貢献した。父祖の代からの自叙伝として、『金四郎三代記 谷中人物叢話』(86年)、『続 金四郎三代記〔戦後篇〕 昭和の若き芸術家たち』(芸術新聞社 96年)がある。

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