本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





ウィラード・G・クラーク

没年月日:2015/11/22

 アメリカの実業家で日本美術収集家のウィラード・G・クラークは、11月22日にカリフォルニアで死去した。享年85。死因は公表されていない。通称のビル・クラークと記されている記事や資料もある。 クラークは1930(昭和5)年10月2日、カリフォルニア州ハンフォードで乳牛飼育業を営む家の5世代目として生まれる。12歳の頃、中学校の地理の授業で日本の地図を見て他のどこの国よりも強い印象を受けたということを、クラークは晩年まで語っており、生涯を通じて日本に対する親愛を寄せていた。48年、カリフォルニア大学バークレー校に入学し、建築を学んだ後、カリフォルニア大学デイビス校農学部に編入し、畜産学の学位を取得した。大学卒業後、クラークは徴兵を受け、ロード・アイランド州のニューポートにある海軍士官学校へ入学。この頃、クラークはニューヨークの近代美術館の庭園で日本の家屋の展示を見て、日本の建築や文化に対して興味を持つようになったという。士官学校後、ハワイでの駐屯時代にクラークは来日し、当時の印象として「日本の土地を初めて踏んだ時、故郷へ戻ってきたような気持になった」と述懐し、前世は日本人であったに違いない、と日本への愛着を語っていたという。海軍退役後の71年、クラークは優秀な乳牛の遺伝子を世界に輸出するワールドワイド・サイアス社を設立し、国際的な事業経営を行った。 クラークはロサンゼルスで行われた展覧会“Birds, Beasts, Blossoms, and Bugs: The Nature of Japan”に基づく同名の書籍(Harold P. Stein, 1976年)や同展に出陳されたプライス・コレクションに影響を受け、自身も本格的に日本美術を蒐集するようになったという。77年にクラークは、専門家の助言を求めるため当時クリーブランド美術館で館長を務めていたシャーマン・リーを訪ね、その後長く親交を持つようになった。リーの助言と尽力により、クラーク・コレクションは次第に形成されていった。 1995(平成7)年、ハンフォードにクラーク財団の美術館を建設し、作品の展示公開をするとともに、若い学生を対象とした学芸員の研修制度や奨学金制度を設け、次世代を担う専門家の育成に貢献した。2002年4月から03年2月にかけて、東京・大阪・大分・愛媛・千葉の全国5か所の美術館を巡回した展覧会「アメリカから来た日本―クラーク財団日本美術コレクション」展が開催され、選りすぐりの絵画89点と彫刻5点が披瀝された。09年4月には、クラークが日本美術の紹介および日米間の文化・教育交流の促進に寄与したことを賞して旭日中綬章が叙勲された。 クラーク・コレクションには、鎌倉時代の大威徳明王像など10数点の仏教彫刻、屏風絵約50点、掛幅約550点、浮世絵約250点、漆工品約50点、現代陶芸作品約300点、その他染織品などの工芸作品など、中世から現代に至る多種多様な日本美術作品が含まれ、作品総数は1700点に及んだ。とりわけクラークは自身の家業とも所縁の深い牛を表した作品を好んで蒐集し、上述の牛の背に座す大威徳明王像のほか、幕末から明治にかけて活躍した望月玉泉による「黒牛図屏風」、三畠上龍「黒牛図」や上田耕冲「牧童図」などの掛幅作品がクラーク・コレクションとして精彩を放っている。クラークは著名な作家や評価の高い作品でなくても、自身の審美眼に叶う作品であれば、ほとんど無名の作家の作品であろうとも積極的に蒐集した。カリフォルニアのカウボーイであるクラーク独自の視点により、純粋に自らの楽しみのために形成された日本美術コレクションと賞賛された。 13年6月、クラークは将来的により広く、安定的に保存公開するために、そのコレクションをミネアポリス美術館に移譲した。このコレクション移譲の経緯は、Willard G. Clark and Matthew Welch, How and Why the Clark Collection Moved to Minneapolis, “Impressions‐The Journal of the Japanese Art Society of America” 35(2014年)にまとめられている。15年2月10日~6月30日にハンフォードのクラーク財団美術館での最後の展覧会“Elegant Pastimes: Masterpieces of Japanese Art from the Clark Collections at the Minneapolis Institute of Arts”が開催された。クラークの歿後、サミュエル・C・モースおよび小林忠による追悼記事が“Orientations” 47, No. 5,(2016年)に掲載されている。

伊藤延男

没年月日:2015/10/31

 元東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)所長、東京文化財研究所名誉研究員で文化功労者の伊藤延男は10月31日、心不全のため死去した。享年90。 1925(大正14)年3月8日、愛知県に生まれる。江戸時代から続く尾張藩の名工伊藤家の血筋を引く。1947(昭和22)年9月東京帝国大学第一工学部建築学科を卒業。同年10月から東京国立博物館保存修理課技術員に採用され、古建築の保存修理に従事。50年9月文化財保護委員会の創設とともに同事務局保存部建造物課に文部技官(研究職)として奉職。64年文化財調査官、67年奈良国立文化財研究所に出向し、同研究所建造物研究室長、71年6月文化庁に戻り文化財保護部建造物課長、77年同部文化財鑑査官、78年4月東京国立文化財研究所長を歴任し、87年3月退官。同年4月から2年間、慶応大学非常勤講師を務め、1989(平成元)年4月神戸芸術工科大学教授に就任、95年4月同大学名誉教授。99年財団法人文化財建造物保存技術協会理事長に就任、2001年同顧問となる。 この間、78年7月から94年8月まで文化財保護審議会第2専門委員会の委員を務めたほか、日本ユネスコ国内委員会委員、財団法人明治村・永青文庫・成巽閣等数多くの組織・機関の要職に就くなど文化財保護の分野を中心に幅広く活躍し、文化財保護行政・建築史の研究・文化財保護の国際貢献の各分野で顕著な業績を残した。 文化財保護行政の分野では、50年の文化財保護法の成立とともに、旧「国宝保存法」時代の指定文化財建造物や「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」にかかる重要美術品(建造物)の現状を調査し、学術的な判断に基づき整理等を行い石造物や民家等も含め重要文化財等に読替える業務を短期間のうちに精力的にこなした。 日本の高度成長期に市街地再開発や地域開発が進む中で、明治洋風建築や民家の保存が行政課題となったが、前者は日本建築学会歴史意匠委員会の力を借り、また後者は全国の建築史研究者の協力を得て都道府県を事業主体とする調査事業を立ち上げ、全国規模での遺構の把握に努めるなど新たな分野へも積極的に挑戦し、重要な遺構について文化財指定を促進するなど建造物の保存に努めた。民家調査の進展とともに、地域的特色を保つ集落や町並についての保存対策が求められるようになると、72年に建築史、都市計画、歴史学、社会学、行政等の関係する学識経験者等による集落町並保存対策研究協議会を設置し、保存対策を検討した。その傍ら、高山市、倉敷市、萩市の3市を対象に町並調査を実施、保存のための方策を探り、75年の文化財保護法の改正による伝統的建造物群保存地区制度の創設に結びついた。同時に、文化財の保存に欠かせない修復技術等(選定保存技術)の保存制度についても技術面からその成立に尽力した。 建築史の研究分野では、博物館や文化財保護委員会に在職中に全国の社寺建造物を調査した経験に基づき、特に各地に分布する和様の様式を備えた中世の社寺建築の特色を分析しその成果を取りまとめた「中世和様建築の研究」で、61年に工学博士(東京大学)の学位を取得、さらにそれに関連する研究業績により、66年に日本建築学会の学会賞(論文)を受賞した。研究者としての専門的な論考を発表するとともに、多くの美術全集等で古建築について平易に解説し、建物としての見所や鑑賞の仕方についても気配りするなど普及に努めた。 国内の文化財保護行政に関わりながら、恩師の一人である関野克(元東大教授兼建造物課長、東京国立文化財研究所長)からの薫陶もあって海外の文化財事情にも高い関心を持つようになった。国際的な活動としてはローマに設置されたユネスコ関連機関、イクロム(ICCROM;国際文化遺産保存修復センター)の理事を83年から90年まで務めたほか、日本政府代表顧問として80年第21回ユネスコ総会等の国際会議に出席し、また78年から93年までイコモス(IKOMOS;国際記念物遺跡会議)の本部委員、93年から3年間同会議の副会長を務めるなど活躍し、持ち前の誠実で実直な人柄もあって国際的に幅広い人脈を培った。この間、法隆寺や姫路城が世界文化遺産に登録されたが、日本の文化財保護の全般的な姿勢についての理解が必ずしも十分でないことを痛感し、持ち前の人脈を活かして94年奈良市で「オーセンティシティに関する奈良会議」を開催し、日本の文化財保護についての基調講演を行ない理解を求めた。その結果、それぞれの国や地域に培われた文化の多様性を尊重すべきことや、地域に見合った独自のオーセンティシティ(真正性)概念がありそれを認識する必要性について確認することができ、その成果は95年の世界遺産会議で承認されて以降の世界遺産登録の作業指針で生かされることになった意義は大きいものがある。 こうした文化財保護に関する内外への多大な貢献によって、95年に勲三等旭日中綬章を受章、04年には文化財保護の分野で文化功労者に選ばれたほか、11年には文化財保護に関する国際社会における多大な貢献により、イコモス本部からガッゾーラ賞を贈られた。 主な著作等;『中世和様建築の研究』(彰国社、1961年)、『古建築のみかた―かたちと魅力―』(第一法規出版、1967年)、『中世寺院と鎌倉彫刻』(共著、原色日本の美術9巻、小学館、1968年)、『密教の建築』(日本の美術8巻、小学館、1973年)、『文化財講座 日本の建築Ⅰ~Ⅴ』(共著、第一法規出版、1976年)ほか多数。

前田正明

没年月日:2015/10/17

 美術史家で武蔵野美術大学名誉教授の前田正明は10月17日、肺炎のために死去した。享年83。 1932(昭和7)年3月3日佐賀県唐津市に生まれる。53年関西大学経済学部卒業後、大阪豊中市立第四中学校の教諭となり、5年間英語教師として教壇に立つ。教職に従事するかたわら、国立大阪外国語大学別科フランス語学科を56年に修了。その後学習院大学で美術史を学び、61年、同大学院人文科学研究科修士課程を修了する。修士論文は「ギリシア・アルカイック彫刻の研究」(富永惣一主査)。ほどなくして前田はギリシャに渡り、アテネ大学哲学部美術考古学科でニコラス・コンドレオン教授の薫陶を受け、さらにアメリカ・ミシガン大学に留学して研鑽を積み、63年に帰国。 65年、武蔵野美術大学造形学部助手に着任、74年に同助教授、80年に同教授に昇任し、1999(平成11)年の定年退官に至る約34年の長きにわたり、同大学にて研究、学生指導、大学運営に尽力する。67年、「クーロス像の研究2―そのプロポーションについて」(『武蔵野美術大学研究紀要』4)、71年に「クーロス像の研究1―腹部の表現について」(同7)を発表し、古代ギリシャ彫刻の様式的発展の端緒を開いたクーロス像の研究に打ち込む。同時に、ギリシャ美術の最も重要なジャンルのひとつであるギリシャ陶器の研究にも勤しみ、71年、「ギリシア陶器の技法」(『陶説』218)を発表。するとやがて、前田の陶器への関心はギリシャを超えて欧米各地にも及び、「英国中世陶器の魅力」(同255、1974年)の発表を皮切りに、『西洋陶磁物語』(講談社、1980年)、『タイルの美・西洋編』(TOTO出版、1992年)、『西洋やきものの世界:誕生から現代まで』(平凡社、1999年)、『西洋陶芸紀行』(日貿出版社、2011年)等を刊行し、西洋陶磁器を中心とする工芸世界の魅力を生涯にわたり紹介した。 古代ギリシャ研究においては80年、「クーロス像の研究3 膝関節部の表現について」(『武蔵野美術大学研究紀要』12)、98年に「彫刻とは何か:ギリシア彫刻の誕生―西洋美術の源流として」(『武蔵野美術』107)を発表して、クーロス像に始まるギリシャ彫刻を最重要テーマとする、一貫した研究姿勢を示す。その一方で、彫刻、絵画、工芸など種々のジャンルに表された数々の神話と多種多様な図像に関する「ギリシア神話の空想動物とその図像」(『世界美術大全集西洋編3―エーゲ海とギリシア・アルカイック』小学館、1997年)は、古代文化に対する幅広い視野に裏打ちされた研究の所産である。 研究・執筆活動以外にも、72年に創立会員として日本ギリシャ協会に加わり、93年には同協会理事に就任したほか、78年、朝日新聞社主催「ギリシア美術展(仮称)」の対ギリシャ政府交渉代表としてギリシャに渡航し、展覧会の実現に寄与するなど、日本とギリシャの文化交流の促進に多大な貢献を果たした。 その履歴・業績については櫻庭美咲作成「前田正明先生履歴・業績目録」(武蔵野美術大学造形文化・美学美術史研究室『美史研ジャーナル』12、2016年)に詳しい。

八賀晋

没年月日:2015/10/06

 考古学者で三重大学名誉教授の八賀晋は10月6日、肺がんのため死去した。享年81。 1934(昭和9)年5月15日、岐阜県高山市に生まれる。50年3月高山市立第2中学校卒業。同年4月斐太高等学校入学、53年3月同校卒業。同年4月岐阜大学学芸学部史学科入学、57年3月同科卒業。59年4月名古屋大学文学部研究生となり、翌年4月同大大学院文学研究科史学地理学専攻修士課程に入学、63年3月同課程修了後、同年4月奈良国立文化財研究所歴史研究室に入所した。奈良国立文化財研究所では、平城宮跡発掘調査部、飛鳥藤原宮跡発掘調査部にて諸遺跡の調査に当たった後、76年4月京都国立博物館学芸課考古室長に転出、さらに85年4月に三重大学人文学部の考古学研究室教授に就任し、1998(平成10)年同大を退官して名誉教授となった。また三重大学のほか、35年にわたった岐阜大学や、関西学院大学・同志社大学においても教鞭をとった。 八賀は大学学部生時代より数多くの発掘調査に従事し、調査指導を行なった。岐阜大学から名古屋大学大学院在籍時の主な調査には猿投古窯址群や岐阜県域の古墳などがあり、奈良国立文化財研究所在職時には平城宮跡を始めとして、興福寺、大安寺や岐阜県内の国分寺・地方古代官衙・寺院跡、またその瓦窯跡などの調査に携わった。京都国立博物館在職時には考古学関係展覧会の企画実施といった博物館業務を中心に活動し、三重大学に移ってからは熱心な教育活動に加え、以前より行なってきた岐阜県内の飛騨国分尼寺といった寺院跡や美濃国府などの調査、また船形埴輪を出土したことでも著名な松阪市宝塚1号墳など三重県内の諸古墳を始めとする多数の遺跡調査を精力的に実施した。 八賀の研究や業務実績は幅広い。大学在籍時に行なった業績としては、水田土壌の特徴に着目して弥生時代から古代にかけての集落分布の変化と水田開発との対応関係を指摘した先駆的研究が著名であり、奈良国立文化財研究所在職時では、特定の古瓦様式を持つ寺院の分布と政治勢力との関係を論じた研究などが広く知られている。また京都国立博物館在職時では、美術史展覧会が主体となってきた同館において77年に企画した展覧会「日本の黎明―考古資料にみる日本文化の東と西―」で全国から出土した旧石器時代から古墳時代までの考古遺物によって日本列島の東西文化の違いを示したことで注目を浴び、またこれ以降、〓製三角縁神獣鏡をはじめとする青銅鏡の研究にも取り組んだ。三重大学赴任後は、森浩一らと共に長期に亘って参画した「飛騨国府シンポジウム」や「春日井シンポジウム」、また愛知・岐阜・三重県史編纂を始めとする中京圏を中心とした地域史研究とその広範な普及への積極的な参加がこの時期の八賀の姿勢を示していよう。 学問的な厳しさと社交性を兼ね備えたその人柄は年齢を問わず多くの人々に愛され、発掘調査、遺物・遺構に対する綿密な観察力と図化能力、さらに長年の経験に裏付けられた文化財写真撮影の優れた技術力は、生きた学問として在籍した職場の同僚や学生らに現在も伝えられている。2010年には地域文化功労者文部科学大臣表彰を受けた。

大河直躬

没年月日:2015/09/13

 日本建築史(特に中世の建築生産組織や近世民家)の研究者であると同時に、歴史的な建造物や集落・町並等に関する実証的な調査研究を通して培った理念から、早くから人とものとのかかわりのなかで文化財を活かす保護のあり方の必要性を説き、文化遺産の保存と活用に関する指導的役割を担った研究者の一人として知られた大河直躬は9月13日、肺炎のため死去した。享年86。 1929(昭和4)年4月24日石川県金沢市に生まれる。52年東京大学工学部建築学科卒業後、同大学院に進学し太田博太郎教授の指導のもと日本住宅史の研究に携わる。58年3月東京大学大学院数物系研究科専門博士課程修了、翌年4月日光二社一寺国宝保存工事事務所嘱託となり、当時行われていた日光東照宮や二荒山神社、輪王寺の社殿の昭和大修理事業に関わる。60年5月東京大学工学部助手、65年4月東京電機大学建築学科助教授、翌年10月千葉大学工学部建築学科助教授、77年4月同教授、また、87年から2年間東京大学教授を併任、1995(平成7)年3月定年退官、千葉大学名誉教授となる。 学部学生の時から農村建築研究会(農村建築に関する住宅改善等の諸問題を研究するため50年に創設。今和次郎、竹内芳太郎、高山英華、西山卯三、太田博太郎等が参加)に加わり、主として農村建築の形成に関する歴史的分析を行うため、岐阜県白川村や静岡県井川村、さらには奈良県橿原市今井町の民家調査を行った。同研究会での研究成果としては、各地に残る古民家の実証的な研究を通して民家においても復原と編年という建築史学の基本的視点が通用することを見出したことによって、民家研究を建築史の一分野として位置づけることに成功したことがあげられる。その実務経験から生み出された数々の知見は、一部を分担執筆した文化財保護委員会監修の『民家の見方調べ方』(第一法規出版、1967年)として著され、その後の民家の調査研究の発展に大きく貢献することになった。 この時期、現地調査を基本とする民家の実証的な研究を共同で進める一方、かねてから関心の高かった中世工匠の生産活動についての研究も進め、主に『大乗院寺社雑事記』の記述を中心に大工集団の生産組織について建築の立場から掘り下げ、大家族的な血縁関係がその生産活動の原動力であることを突き止めた。この研究は「中世建築の制作組織に関する研究」としてまとめられ、61年に東京大学から工学博士号を授与された。中世大工に関する研究はその後も継続し、研究成果として『番匠―ものと人間の文化史』(法政大学出版局、1971年)を著すなど日本中世大工の生産組織や生活様態を明らかにした。これら一連の業績である「日本中世工匠史の研究」により、74年に日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 また、日光社寺建築に関しては、昭和大修理事業の修理工事報告書の刊行に尽力し、後にその経験を生かしてまとめた『桂と日光』(日本の美術20、平凡社、1964年)、『東照宮』(SD選書、鹿島研究所出版会、1970年)などによって、近世初頭における彫刻及び彩色を多用する煌びやかな日光の社寺建築群の建築史における評価を確立し、霊廟建築に対する関心を高めた。 大学で教鞭をとる傍ら、文化財保護行政にも関わり、長野県(1976~2001年)や千葉県(1981~1982年)の文化財保護審議会委員として活動する傍ら、千葉県や長野県等の民家の研究にも引き続き取り組み、民家等の持つ形態美・構造美を追求していった。この間、90年から2000年まで、国の文化財保護審議会第二専門調査会の委員も務め、数多くの歴史的建造物の指定や保存修理事業に関わった。一方で、74年の佐原(千葉県)や89年の須坂(長野県)の町並調査の主任調査員として関わるなど、商家の町並の保存にも尽力した。こうした文化財建造物の保存への関心は79~80年にかけてドイツやオーストリアの大学に在外研究員として派遣され、西欧建築の研究に従事したことも絡んでいた。 当時の西欧の建築事情は、75年の欧州会議で宣言された欧州建築遺産年の理念に基づき戦後の都市開発等に絡んで歴史的建造物の保存再生事業が数多く展開されていた時期であり、市街地復興や歴史地区再生事業に関する事例を数多く見聞し、帰国後はその経験を加味して経済の高度成長を続ける国内において歴史的建造物の保護について数々の保存論を発表し、後進にも強い影響を与えた。後に『歴史的遺産の保存・活用とまちづくり』(共著、 学芸出版社、2006年)などにまとめられた歴史的建造物の活用に関する数々の論考は、今日の文化財建造物の保存・活用を考える上での指針ともなっている。主な著書(既述を除く)『日本の民家―その美しさと構造―』(現代教養文庫383、社会思想社、1962年)、『日本の民家』(山渓カラーガイド83、山と渓谷社、1976年)、『住まいの人類学―日本庶民住居再考―』(平凡社、1986年)、『都市の歴史とまちづくり』(編著、学芸出版社、1995年)、『歴史ある建物の活かし方』(共同編著、学芸出版、1999年)ほか多数

長谷部満彦

没年月日:2015/09/08

 東京国立近代美術館工芸館の開館に尽力し、福島県立美術館館長、茨城県陶芸美術館館長を歴任した長谷部満彦は9月8日死去した。享年83。 1932(昭和7)年3月31日宮城県仙台市に生まれる。父は、東京大学理学部教授を勤めた人類学者で学士院会員、文化財保護委員会専門委員等を歴任した長谷部言人。元東京国立博物館次長で東洋陶磁研究の長谷部楽爾は実兄。逗子開成高等学校卒業、1956年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。神奈川県立博物館勤務を経て、東京国立近代美術館分館として計画されていた工芸館の設立準備室に採用された。77年7月工芸課主任研究官・陶磁係長(併任)となり、11月わが国で近・現代工芸を専門とする初の美術館となった工芸館の開館に尽力した。以降、近代工芸の作品収蔵と展示・普及活動を牽引し、「現代日本工芸の秀作―東京国立近代美術館工芸館・開館記念展―」をはじめ、79年「近代日本の色絵磁器」展や81年「石黒宗麿:陶芸の心とわざ」展等の企画展を担当した。82年工芸課長に就任して以降も、84年「河井寛次郎:近代陶芸の巨匠」展や1991(平成3)年「富本憲吉展」等、陶芸関連を主に多数の展覧会を企画し開催した。またイギリス・ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館を主にした在外での研究を踏まえて、明治時代初期の日本を訪れた初の工業デザイナーであるクリストファー・ドレッサーの作品収蔵と紹介に努め、工芸館に工業デザイン部門開設の基盤をつくった。さらに、その頃に日本の近代工芸を海外に紹介し文化として発信する事業が活発となり、82年ボストン美術館他アメリカ各地を巡回した「人間国宝展」をはじめ、89年ユーロパリア’89・ジャパンの催事としてベルギーで開催された「日本の現代陶芸展」や、90-91年北欧4カ国を巡回した「心と技―日本の伝統工芸」展、フランス・パリの三越エトワールで開催された92年「日本の陶芸―<今>百選展」や94年「人間国宝展―日本工芸の華」等を監修した。また現代を代表した藤本能道や清水卯一ら数々の陶芸家の国内回顧展のほか、海外でも90年「三浦小平二の青磁」展や94年「十三代今泉今右衛門展」、96年「清水卯一の陶芸」展、98年「鈴木蔵の志野」展を監修し開催した。92年福島県立美術館館長就任、2000年開館の茨城県陶芸美術館館長を歴任し、近・現代の陶芸に関わる展覧会等を企画・開催した。文化庁の文化財保護委員会専門委員をはじめ日本陶磁協会理事や永青文庫評議員等を勤めたほか、82年以降日本伝統工芸展の鑑審査委員、83年以降日本陶芸展審査員・運営委員、県展等の各地で開催された多数の展覧会の委員も務めて、近代陶芸の発展を検証し陶芸を主に現代の工芸家らの制作を評価した。編集・著作に、『近代日本の色絵磁器』(淡交社、1979年)、『陶芸 石黒宗麿作品集』(毎日新聞社、1982年)、『松井康成 陶瓷作品集』(講談社、1984年)、『日本の美術11 No.306 陶芸―伝統工芸』(至文堂、1991年)、『原色日本の美術33 現代の美術』(小学館、1994年)、『富本憲吉全集2 富本憲吉の東京時代』(小学館、1995年)等がある。

高晟埈

没年月日:2015/08/25

 ビザンティン美術史、北東アジア近現代美術史の領域でめざましい活動を続けていた新潟県立万代島美術館主任学芸員の高晟埈は、8月25日午前8時15分(現地時間)、トルコ共和国でのカッパドキア壁画調査旅行中に心不全で急逝した。享年40。 韓国籍の特別永住者であった高は、1974(昭和49)年9月19日に埼玉県川口市に生まれる。81年5月から84年7月の間、大韓民国の済州島で過ごし、同地の済州西国民学校(現、初等学校、日本の小学校)に通った。日本に帰国後、1990(平成2)年に埼玉県立浦和高等学校に入学。93年同高等学校卒業後、優れた成績で東京芸術大学美術学部芸術学科に入学。入学時の新入生挨拶で「エルミタージュ美術館の学芸員になりたい」と語るなど、はやくから美術史家・学芸員となることを強く意識していた。在学時には西洋美術史の越宏一教授に師事。ロシア美術、ビザンティン美術を主たる研究対象とした。96年5月に安宅賞受賞。97年に卒業論文「《クルドフ詩篇》に関する覚書」で第1回杜賞受賞、同年に東京芸術大学美術研究科修士課程芸術学専攻に進む。この頃から、自分が書く氏名をそれまでの通名(日本名)である大家晟埈(おおやせいしゅん)から本名の高晟埈(コ・ソンジュン)に変更。大学院では、芸大が60年代に実施した中世オリエント遺跡学術調査団による調査資料を出発点に、現地調査を行ったトルコ・カッパドキア壁画アーチ・アルト・キリセシを包括的に考察した修士論文「カッパドキア岩窟修道院壁画の研究――アーチ・アルト・キリセシ(ウフララ渓谷)」が研究室保存論文となる。99年から2002年まで同大学美術学部芸術学科西洋美術史研究室助手、あわせて00年から02年には東京国立博物館資料部助手も務める。02年4月から新潟県教育庁文化行政課 新美術館開設準備室に学芸員として赴任。翌03年4月に開館した新潟県立万代島美術館の美術学芸員となる。09年4月には新潟県立近代美術館に異動、12年4月には新潟県立万代島美術館に異動。そして15年7月には新潟県教育庁文化行政課に異動(新潟県立万代島美術館兼務)となっていた。 学芸員としての高は、様々な展覧会企画に関わっていた(詳細は末尾の業績一覧参照)が、特筆すべき企画は07年から08年に新潟県立万代島美術館ほか五会場を巡回した特別展「民衆の鼓動――韓国美術のリアリズム 1945-2005」である。新潟県立万代島美術館は準備室時代より、アジア美術、特にロシアを含めた北東アジア地域を対象とする企画展を検討していたが、高はそのなかで、自らの出自である韓国の美術、特に80年代の韓国民主化運動の時代に展開したリアリズム系民衆美術に焦点をあてる企画を立ち上げた。強いメッセージ性と諧謔性を有する韓国の民衆美術を紹介するという、日本では極めて難易度の高いこの展覧会は、多くの展覧会紹介や専門的な展覧会評のなかで極めて好意的に評価され、美術館連絡協議会(美連協)の07年美連協展部門の「優秀カタログ賞」(美術館表彰)を受賞している。ちなみに、民衆美術が展開した80年代とは、高が済州島で多感な少年時代を送っていた時代であった。 高は美術館学芸員としての活動の他、ビザンティン美術史家としての研究活動を旺盛に進めていた。修士論文の研究に基づく論文「カッパドキア岩窟修道院聖堂アーチ・アルト・キリセシの装飾プログラム」『美術史』第154冊(2003年)をはじめとして、膨大な調査に裏打ちされたビザンティン美術、およびロシア美術研究を展開させた。高のビザンティン美術史にかかわる最後の論考は、16年に刊行された「天の元后と地の女王―ダヴィト・ガレジ(グルジア)、ベルトゥバニ修道院主聖堂」(越宏一監修、益田朋幸編『聖堂の小宇宙』竹林舎所収)であった。 特別永住者としての国籍問題など複雑な背景を抱えながらも、高は文字通り身を削るように調査・研究を続けていた。彼の早すぎる死は関係者に大きな衝撃を与えた。彼の墓は、多感な時代を過ごした済州島の先祖代々の墓所に置かれている。【関わった代表的な展覧会】「チャイナ・ドリーム」(兵庫県立美術館他、2004年)「ロマノフ王朝と近代日本」(長崎歴史文化博物館他、2006年)「民衆の鼓動―韓国美術のリアリズム 1945-2005」(新潟県立万代島美術館他、2007年)「ポンペイ展 世界遺産―古代ローマ帝国の奇跡」(福岡市博物館他、2010年)「ミュシャ展」(森アーツセンターギャラリー他、2013年)「国立国際美術館コレクション 美術の冒険 セザンヌ、ピカソから草間彌生、奈良美智まで」(新潟県立万代島美術館他、2014年)「日韓近代美術家のまなざし―「朝鮮」で描く」(神奈川県立近代美術館 葉山他、2015年)【主な研究論文・執筆活動】「カッパドキア岩窟修道院聖堂アーチ・アルト・キリセシの装飾プログラム」(『美術史』154、2003年)「聖ゲオルギオスの奇跡伝―イクヴィ(グルジア)、ツミンダ・ゲオルギ聖堂の北翼廊壁画を中心に」(『新潟県立万代島美術館研究紀要』1、2006年)「《フルドフ詩篇》(モスクワ国立歴史博物館所蔵Cod. gr.129d)に関する諸問題」(『新潟県立万代島美術館研究紀要』2、2007年)「亀倉雄策旧蔵イコン「キリストの復活と十二大祭」についての覚書」(『新潟県立近代美術館研究紀要』8、2008年)「「民衆の鼓動〓韓国美術のリアリズム 1945-2005」展の開催にいたるまで」(『あいだ』152、2008年)「彫刻家・戸張幸男の朝鮮滞在期の制作活動について」(『新潟県立近代美術館研究紀要』10、2011年)「旧李王家東京邸内の武石弘三郎作大理石浮彫について」(『新潟県立近代美術館研究紀要』11、2012年)「ニコーディム・コンダコフとチェコスロヴァキア」(『新潟県立近代美術館研究紀要』12、2013年)「在朝鮮日本人漫画家の活動について―岩本正二を中心に」(『新潟県立近代美術館研究紀要』13、2014年)「天の元后と地の女王―ダヴィト・ガレジ(グルジア)、ベルトゥバニ修道院主聖堂」(『聖堂の小宇宙』越宏一監修、益田朋幸編、竹林舎、2016年)【翻訳】久保田成子、南 禎鎬『私の愛、ナムジュン・パイク』(平凡社、2013年)

川添登

没年月日:2015/07/09

 建築評論から民俗学に至る分野で活躍した建築評論家の川添登は7月9日肺炎のため死去した。享年89。 1926(大正15)年2月23日東京駒込染井に生まれる。早稲田大学専門部工科(建築)、文学部哲学科を経て、1953(昭和28)年、理工学部建築学科卒業。同年より新建築社勤務。53年より『新建築』の編集長を務めていたが、1957年に独立して建築評論家となる。60年世界デザイン会議日本実行委員。69年大阪万博博覧会テーマ館サブプロデューサー。70年京都に加藤秀俊などとともにシンクタンクの株式会社CDI(コミュニケーションデザイン研究所)を設立し、所長を務めた。72年日本生活学会を設立し、理事長・会長を歴任した。81年つくば国際科学技術博覧会政府出展総括プロデューサー、87年から1999(平成11)年まで郡山女子大学教授、93年より96年まで早稲田大学客員教授、99年より2002年まで田原市立田原福祉専門学校校長。日本生活学会・日本展示学会・道具学会名誉会員。 川添が残した日本建築界への多大な功績のうち、特筆すべきは1950年代から60年代にかけて建築界の言説を牽引し、建築批評と建築評論の両面から建築ジャーナリズムを確立していったことが挙げられる。川添が編集長を務めていた『新建築』の中で建築家に論考を促し、建築の背景にある思想を記述させた。また、50年代半ばには紙面にて集中的に伝統論をテーマにするよう仕掛け、言説を煽った。これは「日本建築のルーツはなにか」、さらには「日本建築をどう表現すべきか」を問うものであった。さらには、編集のみに留まらず川添は「岩田知夫」のペンネームで、新建築および他の建築雑誌『国際建築』と『建築文化』にも寄稿して議論を盛り上げ、建築ジャーナリズムを通して、現代に通じる日本建築とは何かを日本の建築家に問い続けた。 また、特筆すべきは中心メンバーとしてメタボリズム運動を生み出し、牽引したことである。60年に開催された世界デザイン会議においては実行委員の中心メンバーとして参画し、他国から著名な建築家を招聘するだけではなく、それを迎え撃つように、菊竹清訓、大高正人、槇文彦、黒川紀章らとメタボリズムの概念を練りあげ、『METABOLISM 1960 都市への提案』(美術出版社、1960年)を出版し、日本発の世界的な建築理念を発表するに至った。50年代当時において、海外ではオリエンタリズムの観点から形態について述べられるに過ぎなかった日本の現代建築を、現代建築思想の観点を含めて世界的な建築批評の壇上に持ち上げることに成功した。 このように川添は建築の実作をつくらずして、日本の建築思想を牽引し、日本の建築家の作品や考え方に影響を与え続けた。 川添は生涯に渡り、数多くの著作を執筆した。受賞歴として、60年『民と神の住まい』により毎日出版文化賞、82年『生活学の提唱』により今和次郎賞、民間学である生活学を体系したことで97年南方熊楠賞を受賞している。主要著書:『現代建築を創るもの』(彰国社、1958年)、『伊勢 日本建築の原形』(丹下健三、渡辺義雄と共著、朝日新聞社、1962年)、『メタボリズム』(美術出版社、1960年)、『民と神の住まい大いなる古代日本』(光文社、1960年)、『建築の滅亡』(現代思潮社、1960年)、『日本文化と建築』(彰国社、1965年)、『建築と伝統』(彰国社、1971年)、『生活学の提唱』(ドメス出版、1982年)、『象徴としての建築』(筑摩書房、1982年)、『「木の文明」の成立』(上下 NHKブックス、1990年)、『木と水の建築 伊勢神宮』(筑摩書房、2010年)など多数

松谷敏雄

没年月日:2015/06/12

 文化人類学者で、東京大学東洋文化研究所所長、東京大学名誉教授、古代オリエント博物館評議員などを務めた松谷敏雄は、6月12日死去した。享年78。 1937(昭和12)年3月4日、福岡県に生まれる。東京都の私立武蔵中学、武蔵高校を卒業後、東京大学教養学部教養学科に進学し文化人類学を学んだ。大学院では、東京大学大学院生物系研究科人類学専門課程に進んだ。65年、東京大学東洋文化研究所の助手に奉職する。以後、1997(平成9)年3月に東京大学を退官するまで同研究所に勤務し、講師(1972年就任)、助教授(1974年就任)、教授(1984年就任)、所長(1992年就任)職を務めた。 東京大学の故江上波夫教授が、西アジアにおける文明の起源を解明するために56年に組織した東京大学イラク・イラン遺跡調査団の発掘調査に、64年以降、団員として参加する。85年以降は、故江上波夫教授、故深井晋二教授につぐ3代目の調査団の団長として、西アジアにおける発掘調査を指揮した。 西アジアにおける農耕の起源を終生の研究テーマに掲げ、イラクのテル・サラサート遺跡やイランのタル・イ・ムシュキ遺跡、シリアのテル・カシュカショク遺跡、テル・コサック・シャマリ遺跡など、数多くの原始農耕村落址の発掘調査に従事し、学界に多大な貢献をした。 著書に、『図説世界文化地理大百科 古代のメソポタミア』(監訳、朝倉書店、1994年)、『テル・サラサートII』(共編、東洋文化研究所、1970年)、『マルヴ・ダシュトIII』(共編、東洋文化研究所、1973年)、『テル・サラサートIII』(共編、東洋文化研究所、1975年)、『Halimehjan I』(共編、東洋文化研究所、1980年)、『Telul eth-Thalathat IV』(共編、東洋文化研究所、1981年)、『Halimehjan II』(共編、東洋文化研究所、1982年)、『Tell Kashkashok』(東洋文化研究所、1991年)、『Tell Kosak Shamali vol. 1』(共編、東京大学総合研究博物館、2001年)、『Tell Kosak Shamali vol. 2』(共編、東京大学総合研究博物館、2003年)など多数。

松井章

没年月日:2015/06/09

 奈良文化財研究所埋蔵文化財センター前センター長で、京都大学大学院人間・環境学研究科前併任教授の松井章は、6月9日、肝臓がんのため死去した。享年63。瑞宝双光章を授与され、従五位を叙された。 1952(昭和27)年5月5日、大阪府堺市に生まれる。76年に東北大学文学部卒業。77年からアメリカ・ネブラスカ大学に1年半の留学。80年に東北大学大学院修士課程を修了。82年に奈良国立文化財研究所に入所。 専門は環境考古学。幼少期を過ごした大阪では、有名な弥生遺跡や古墳で遺物を収集する「考古ボーイ」であったが、東北大学進学後は縄文時代の貝塚に興味を持ち、そこから出土する魚骨、動物骨や貝殻といった自然遺物に興味を持ち、動物遺存体の研究に取り組み始めた。しかし当時の国内では、動物遺存体を研究する動物考古学は未開拓の分野であったため、指導教授である芹沢長介の紹介を通じてアメリカに留学し、海外の動物考古学の基礎を習得した。 帰国後、奈良国立文化財研究所(当時)に職を得、埋蔵文化財センターにおいて動物考古学の研究の進展に取り組み、同研究所が動物考古学のナショナル・センターとなる基礎を築いた。彼が中心となって収集した膨大な原生動物の骨格標本は、出土した自然遺物の同定における基礎資料として、国内外の多くの研究者に活用された。また1994(平成6)年からは京都大学大学院人間・環境学研究科の併任教員となり、後進の指導にも尽力し、多くの動物考古学の専門家を輩出した。 奈良文化財研究所では古代や中・近世の遺跡にも関心を高め、歴史時代の獣肉食や皮革生産の実相に迫る画期的な成果を挙げた。また89年のイギリス・ロンドン自然史博物館での在外研究を経て、トイレ考古学や湿地考古学にも関心を広げ、動物考古学に止まらない、環境考古学の確立を志向するようになった。 2011年の東日本大地震に関わる文化財レスキュー活動では、奈良文化財研究所の先陣を切って被災地へ駆けつけ、自らの手で瓦礫を撤去し、貴重な文化財の救出に努めた。その後は被災した博物館・資料館から自然遺物関連の資料を預かり、その整理作業に携わった。 学会での活躍や研究交流は国内外を問わず、93年には国立歴史民俗博物館の西本豊弘らと共に動物考古学研究会(現、日本動物考古学会)の設立にも携わった。05年には国際湿地考古学研究会(WARP)にて学会賞大賞を受賞、11年には濱田青陵賞を受賞した。 09年に奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長に就任。13年に奈良文化財研究所を定年退職したが、その後も特任研究員として研究活動を継続した。病を得てからも、最期の日を迎えるまで研究を続けた。 自身、「一人っ子やったし、子どもの頃から好きなことしかせえへんかったなぁ」と発言するように、幅広い分野に関心を持ち、自由闊達にフットワーク軽く活動するタイプの学者であった。ヨーロッパ出張の飛行機の中で、機内食用のワインの小瓶20本を空けたというエピソードは今でも語り草となっている。 主な著書は以下の通り。『考古学と動物学』考古学と自然科学②(西本豊弘との共編著、同成社、1997年)『古代湖の考古学』(牧野久美との共編著、クバプロ、2000年)『環境考古学』日本の美術423(士文堂、2001年)『環境考古学マニュアル』(編著、同成社、2003年)『環境考古学への招待』岩波新書930(岩波書店、2005年)『動物考古学―Fundamentals of Zooarchaeology in Japan―』(京都大学学術出版会、2008年)

樋口隆康

没年月日:2015/04/02

 考古学者。京都大学教授、泉屋博古館館長、奈良県立橿原考古学研究所所長、シルクロード学研究センター長、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長、斑鳩町文化財活用センター長などを歴任した樋口隆康は、京都薬師山病院にて4月2日老衰のため死去した。享年95。 1919(大正8)年6月1日、福岡県田川郡添田町に生まれる。第一高等学校文科甲類卒業後、1941(昭和16)年に京都帝国大学文学部史学科に進学し、考古学を専攻した。43年に京都大学大学院に進むが、徴兵され海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊する。終戦後の45年10月に大学院に復学し、京都大学の故梅原末治教授の副手となる。その後、83年4月に京都大学を退官するまで、助教授(1957年就任)、教授(1975年就任)職などを務めた。 京都大学退官後は、泉屋博古館館長および名誉館長(1983~2015年)を務め、また奈良県立橿原考古学研究所所長(1989年~2008年)、シルクロード学研究センター長(1993~2008年)、斑鳩町文化財活用センター長(2010~15年)などの役職を歴任した。 ユーラシア大陸全般にわたる研究を提唱し、研究テーマは多岐におよんだ。日本国内では、魏が卑弥呼に下賜したとされる三角縁神獣鏡が多数出土したことで有名な京都府椿井大塚山古墳や奈良県黒塚古墳の発掘調査に携わり、古墳時代や邪馬台国の研究に大きく貢献した。 海外では、57年に、訪中考古学視察団の一員として、日本人考古学者として戦後初めて敦煌石窟などを調査した。58年には、京都大学インド仏蹟調査隊のメンバーとして聖地ブッダガヤを調査し、62年にはガンダーラ仏教寺院址の発掘調査に参加した。70年からは、京都大学中央アジア学術調査隊を率い、アフガニスタン、バーミヤーン遺跡の仏教石窟群の調査を行った。また、90年から2004年にかけては、シルクロードの隊商都市であるシリアのパルミラ遺跡の発掘調査を指揮した。 また、作家の司馬遼太郎や井上靖、陳舜臣、考古学者の江上波夫などともにNHK特集「シルクロード」の番組製作に参加し、日本中にシルクロード・ブームを巻き起こした。 死後、15年5月8日に、従四位、瑞宝小綬章を受章している。 著書に『古代中国を発掘する―馬王堆、満城他―』(新潮選書、1975年)、『バーミヤーン:京都大学中央アジア学術調査報告1-4』(共著、同朋舎出版、1983-84年)、『ガンダーラの美神と仏たち―その源流と本質』(NHKブックス、1986年)、『始皇帝を掘る』(学生社、1996年)、『三角縁神獣鏡と邪馬台国』(共著、梓書院、1997年)、『シルクロードから黒塚の鏡まで』(学生社、1999年)、『アフガニスタン遺跡と秘宝-文明の十字路の五千年』(NHK出版、2003年)など多数。

頼富本宏

没年月日:2015/03/30

 密教学・密教美術研究を専門とし、ことにインド・チベット・中国の密教遺跡と遺品の調査研究に数多くの業績を残した頼富本宏は3月30日午後9時31分 膵臓がんのため死去した。享年69。翌日、真言宗より「大僧正」を追贈。葬儀は近親者で密葬を執り行い、本葬を4月29日に神戸市内の本願寺神戸別院で営んだ。 1945(昭和20)年4月14日、本信・房子の長男として香川県に大川郡大川町に生まれる。幼名は本宏(もとひろ)。神戸・實相寺開山で第一世住職であった父を師僧とした。59年7月、同寺において得度。64年3月兵庫県立神戸高等学校を卒業後、4月より京都大学文学部に入学し勉学に勤しむ傍ら、5月には東寺真言宗より度牒を得る。66年8月には淡路・万福寺にて4ヶ月に及んだ四度加行を成満する。68年3月、京都大学文学部(仏教学専攻)を卒業、4月より同大学大学院文学研究科修士課程(仏教学)に進学するとともに、12月21日には京都・醍醐寺に於いて伝法灌頂入壇(三宝院流憲深方)を果たす。70年修士課程修了のち、そのまま同大学大学院博士課程(仏教学)に進学。73年3月単位取得満期退学。4月より種智院大学仏教学部専任講師となる。76年4月同学部助教授に就任するとともに、日本密教学会理事となる。この頃より本格的に密教美術に及んだ論文を執筆することを心がけ、当初は「ラマ教」関係に留まったが、80年代以降、日本を見据えての東アジアにおける密教の伝播・受容に関する研究へと視野を拡大してゆく。82年7月インドに現存する密教遺跡・遺品の研究で朝日学術奨励賞を受賞。10月より密教図像学会常任委員となる。83年10月に實相寺住職(第二世)を継職。87年12月より仏教史学会評議員となる。翌88年3月京都大学より文学博士の学位を得る。1992(平成4)年4月種智院大学仏教学部長に就任するとともに、日本仏教学会理事、日本印度学仏教学会理事となる。95年10月密教学芸賞を受賞。97年10月密教図像学会副会長となる。98年3月種智院大学の職を辞し、4月より国際日本文化研究センター研究部教授に就任するとともに、総合研究大学院大学文化科学研究科教授、種智院大学の客員教授を兼務する(いずれも2002年3月まで)。99年4月には国際日本文化研究センター評議員となる。2002年4月種智院大学第十代学長に就任、日本私立大学協会評議員となる。04年4月より人間文化研究機構国際日本文化研究センター運営委員となる。08年「権僧正」補任。10年3月に種智院大学長を退き、同大学の名誉教授の称号を得る。この間、京都所在の大学を中心に非常勤講師(集中も含む)として関西大学(1976~78、95~97年)、京都大学(1979~81、90~92年)、大谷大学(1979~81、91~93、00~01年)、龍谷大学(1994~2001年)、同短期大学部(1987~99年)、佛教大学(1992~93年)、岡山大学(同)、金沢大学(1993~94年)などに出講した。 頼富は文字通り密教学僧であり、インドから日本に及ぶアジアの密教文化・密教美術の研究としては泰斗的な存在であった。その性格は非常に温厚・篤実であり、腰の低い人柄は諸方面より慕われ人望が厚かった。生涯の業績において特筆されるのは佐和隆研(1983年没)の遺志を継ぎ、以来、約30年にわたって密教図像学会の発展に尽力し、佐和隆研博士学術奨励賞の維持に努め、門戸を開いて後身研究者の育成を目指すとともに、同学会の行く末・発展に最期まで腐心した点にある。著書・論文は仏教哲学、密教文化に及んで専門的なものから一般啓蒙書まで多岐に及ぶが、美術に関わるものに限定して単独で発表した代表的なものをあげるならば、単著に『庶民のほとけ―観音・地蔵・不動―』(日本放送協会、1984年)、『マンダラの仏たち』(東京美術、1985年)、『密教仏の研究』(法蔵館、1990年)、『曼荼羅の鑑賞基礎知識』(至文堂、1991年)、『マンダラ講話』(朱鷺書房、1996年)、『密教とマンダラ(NHKライブラリー)』(NHK出版、2003年)、『すぐわかるマンダラの仏たち』(東京美術、2004年)がある。主要論文については、『頼富本宏博士還暦記念論文集 マンダラの諸相と文化』上(法蔵館、2005年)所載の「頼富本宏博士略歴・業績目録」を参照されたい。このほかNHKメディアを活用し、市民大学「密教とマンダラ」(1963年放送)、人間講座「空海―平安のマルチ文化人―」(2015年)、BS夢の美術館「アジア仏の美100選」(2017年)等に講師として出演し知名度を上げるとともに、ともすれば深淵難解と敬遠されがちな密教教学と文化をわかりやすく一般に説いた。

渡邊明義

没年月日:2015/03/30

 美術史家で文化財保護行政にも多年にわたり貢献した渡邊明義は、3月30日、横行結腸がんのため死去した。享年79。 1935(昭和10)年、8月4日栃木県氏家町(現、さくら市)に生まれる。48年宇都宮市立中央小学校卒、51年宇都宮市立旭中学校卒、54年宇都宮高等学校卒。62年東京藝術大学美術学部専攻科修了(芸術学専攻)。同年、文部省文化財保護委員会美術工芸課に採用される。以後長く現文化庁に席を置き、文化庁美術工芸課絵画部門主任調査官を経て、1989(平成元)年、文化庁文化財保護部美術工芸課長。92年東京国立博物館学芸部長。94年文化庁文化財保護部文化財監査官。96年東京国立文化財研究所長、2001年独立行政法人文化財研究所理事長を経て、04年東京文化財研究所長を辞し、同年公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館顧問(後に理事)。08年一般財団法人世界紙文化遺産支援財団紙守を設立。その代表理事となる。 美術史家としての専門は中国及び日本の中世絵画史で、鈴木敬の影響が大きかった。論文に「倪雲林年譜(上)(下)」『国華』829・830(1961年)、「伝夏珪筆山水図について―夏珪画に関する二三のノート―」『国華』931(1971年)、「張路筆 漁夫図」『国華』981(1975年)をはじめとする多数の論文のほか、『瀟湘八景図』日本の美術124(至文堂、1976年)、『水墨画 雪舟とその流派』日本の美術335(至文堂、1994年)、『水墨画の鑑賞基礎知識』(至文堂、1997年)等の著書がある。 文化財保護委員会から文化庁にわたり長年を過ごし、絵画の修理担当を長年勤めて指導的立場に立つようになり、それまでの古典的な修理方から、現在では当然となって引きつがれている地色補彩のあり方、乾式肌上げ法等、修理技術者と密な関係を保ちつつ、近代的な修理の方法論と哲学を築き上げた功績は大である。一方で国宝修理装〓師連盟の資格制度導入と国際的活動拠点化の糸口を作った。神護寺像「伝源頼朝像」ほか三幅、東寺蔵「伝真言院曼荼羅」をはじめ、多数の重要な修理にたずさわった。その中で絵画の素材、技法などを含む装〓について研究を積んだ。『古代絵画の技術』日本の美術401(至文堂、1999年)等の著書のほか、『装〓史』(国宝修理装〓師連盟編、2011年)で全9章のうち5章を担当した部分は、装〓の歴史をも含めた該博な長年の経験と知識に裏付けられた貴重な著作といえよう。 また、72年の高松塚古墳壁画の発見にともない、その保存対策を文化庁にあって三輪嘉六(元九州国立博物館長)らとともに実質的に担ったことも大きな出来事であった。各国から専門家を招き、「高松塚古墳応急保存対策調査会」を組織してさまざまな意見がある中で現地保存の方針をかため、保存施設を構築し、壁画の手当を東京国立文化財研究所とともに手さぐりで行わなければならない、それまでに例のない難事業であった。保存施設は当時にあって能う限りのものであり、完成、引き渡しの当日、渡邊は前日から作業小屋に泊まり、帰途、涙したと述懐している。保存対策の経緯は後に『国宝高松塚古墳壁画―保存と修理』(文化庁、1987年)に子細に報告されているが、渡邊は同書のいくつかの項目を担当した上で、中心となってこれを編集した。施設内では時折カビの発生がみられ、ことに白虎の描線が薄れるということがあった。その後落ち着きがみられたものの、2001年、保存施設と石室を連結する「取合部」の剥落止め工事を契機に再びカビが大量発生し、また虫類の侵入が顕著になったことを受けて、「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会」が文化庁に設けられ、その座長を務めた。後に高松塚古墳壁画は結局石室ごと取り出され、保存修理が行なわれることとなったが、生前叙勲を辞退したことには、壁画を守りきれなかった思いがあったと推測され、その真摯な人柄を物語る。 東京国立文化財研究所の改築、独立行政法人化にあたってもその長として責務を果たした。また、日米経済摩擦の最中の90年、平山郁夫東京藝術大学長(当時)が海外に保管されている我が国の美術工芸品の修理を官民協力で援助する事業を提唱し、文化庁側の担当としてこの事業を担い、これを期に平山郁夫との親交を得た。さらにユネスコのアフガニスタン復興会議で我が国が名乗りを挙げたバーミアンの仏教遺跡の保存事業を東京文化財研究所事業として率先して引き受け、戦争により被害を受けた文化相の調査と専門家養成事業を行ない、文化財保護の国際的協力体制の足掛かりを作った。 他に文化庁文化財調査会文化財文化会長、ユネスコ日本国内委員会委員、芸術文化振興基金運営委員、公益財団法人文化財保護・藝術研究助成財団評議員、一般社団法人国宝修理装〓師連盟顧問等をつとめ、熊野古道の世界遺産化のとりまとめ等の重責を果たし、『「地域と文化財」ボランティア活動と文化財』(勉誠出版、2013年)の編者となるなど、晩年まで活躍した。没する数か月前に文化庁主催の講習会に病身を押して車椅子で「装〓史」の講義を行なうなど、身体的には必ずしも頑健ではなかったにもかかわらず終生精力的であった。 没後の2015年9月5日、東京プリンスホテルにて「渡邊明義さんを偲ぶ会」が催され、大多数の出席をみた。照会先―東京都中央区日本橋本町4-7-1 三恵日本橋ビル2階 一般財団法人 世界紙文化遺産支援財団 紙守

村田慶之輔

没年月日:2015/03/19

 川崎市岡本太郎美術館名誉館長で、美術評論家の村田慶之輔は、3月19日に死去した。享年84。 1930(昭和5)年10月11日に生まれる。56年3月、早稲田大学第一文化学部を卒業。59年11月に神奈川県教育委員会職員となる。64年、神奈川県立博物館準備室の学芸員となる。69年4月に文化庁文化部芸術課専門職員に転ずる。74年7月に文化庁文化部文化普及課の国立国際美術館設立準備室主幹となる。77年5月、国立国際美術館開館にともない学芸課長となる。1991(平成3)年3月に定年退官。同美術館在職中には、福井県立美術館運営委員会、西宮市大谷記念美術館運営委員会、愛知県美術館協議会、和歌山県立近代美術館協議会の委員を務め、また高知国際版画トリエンナーレ、安井賞、現代日本美術展、吉原治良賞の審査員も務めた。教育面では、愛知県立芸術大学、静岡大学等で非常勤講師として教鞭をとった。92年4月、高岡市美術館準備室長となるが、翌年3月に退職。99年4月に川崎市岡本太郎美術館館長となる。在職中は、岡本太郎をはじめとする各種の企画展の企画、監修などにあたった。2012年4月に同美術館名誉館長となる。また同時期に、軽井沢ニューアートミュージアムの名誉館長にも就任した。幅広い視野から、縦横に美術を語り、批評しつづけた美術館人であった。

濱本聰

没年月日:2015/03/13

 下関市立美術館長で、美術史研究者の濱本聰は、3月13日に死去した。享年60。 1954(昭和29)年8月1日山口県萩市に生まれる。岡山大学大学院文学研究科修士課程(日本近現代美術史専攻)を修了後、84年に下関市立美術館学芸員に採用される。1992(平成4)年11月には、第4回倫雅美術奨励賞の「美術評論・美術史研究部門」において、展覧会「日本のリアリズム 1920s-50s」の企画及びカタログ中の論文によって、共同企画者である大熊敏之とともに受賞した。97年、同美術館学芸係長に昇任。2004年に館長補佐、10年から館長となった。同美術館在職中は、香月泰男をはじめとして地域出身の美術家の回顧展等を企画担当して顕彰につとめ、美術、文化振興のために美術館の運営にあたった。近代美術の研究にあたっては、岸田劉生、香月泰男、桂ゆき、殿敷侃等の作家研究を中心に、作品に対して冷静な観察と的確な分析に基づく論考を多く残しており、これらは今なお参考にすべき業績である。主要な研究業績並びに担当した展覧会は下記の通りである。主要論文並びに担当展覧会:「岸田劉生と草土社」(「岸田劉生と草土社」展、下関市立美術館、1985年)「香月泰男-1940年代の作品から-」(「香月泰男」展、下関市立美術館、1987年)「長谷川三郎とその時代概説」(「長谷川三郎とその時代」展、下関市立美術館、1988年)「日常的な呼吸の中の版画」(『香月泰男全版画集』、阿部出版、1990年)「桂ゆきの作品をめぐる螺旋的な記述の試み」(「桂ゆき展」、下関市立美術館、1991年)「新しいリアリズムへ―1940年代以降の展開」(「日本のリアリズム 1920s-50s」展、北海道立近代美術館、下関市立美術館巡回、1992年)「殿敷侃・現代の語り部」(「殿敷侃展 遺されたメッセージ・アートから社会へ」、下関市立美術館、1993年)解説「宮崎進-透過する眼差し-」(「宮崎進展」、下関市立美術館、笠間日動美術館、平塚市美術館、三重県立美術館、新潟市美術館巡回、1994-95年)「香月泰男の造型的模索―1950年代の作品を中心に―」(「香月泰男展」、愛知県美術館、下関市立美術館、そごう美術館(横浜)巡回、1994-95年)「『初年兵哀歌』が語るもの」(「浜田知明の全容」展、小田急美術館(東京新宿)、富山県立近代美術館、下関市立美術館、伊丹市立美術館巡回、1996年)「岸田劉生試論-静物・風景・人物- 所蔵油彩作品を中心に」(『研究紀要』8、下関市立美術館、2001年)「作品解説-画風の展開とその特質-」(『香月泰男画集 生命の讃歌』、小学館、2004年、同書では安井雄一郎とともに編集委員をつとめる)「下関の戦後美術(洋画篇)」(「戦後美術と下関」展、下関市立美術館、2005年)「香月泰男・1940-50年代の展開~モダニズムから新たな地平へ~」(「没後35年 香月泰男と1940-50年代の絵画」展、下関市立美術館、2009年)「桂ゆきの眼差し-その批評精神をめぐって-」(「生誕百年 桂ゆき-ある寓話-」展、東京都現代美術館、下関市立美術館巡回、2013年)

小川知二

没年月日:2015/03/02

 元東京学芸大学教授で美術史研究者の小川知二氏は、3月2日死去した。享年71。 1943(昭和18)年8月30日、神奈川県横浜市に生まれる(本籍は茨城県牛久市)。京都大学文学部哲学科美学美術史専修を修了し、茨城県立歴史館に勤務。日本中世絵画史、とくに常陸画壇史や雪村周継の研究において優れた業績を残した。小川による基礎資料の真摯な調査、画家の基準作を丹念に追求する精緻な研究は、雪村をはじめ、林十江、立原杏所、佐竹義人などによる常陸画壇の軌跡に新たな光をあてるものとなった。 茨城県立歴史館では、雪村の大規模な企画展として「新規会館記念特別展 雪村―常陸からの出発(たびだち)―」(1992年)を担当した。また、同館『茨城県立歴史館報』に「近世水戸画檀の形成(上)(中の一)(中の二)」「『日乗上人日記』に登場する画家たち」を連載し、祥啓、雪村とその周辺画家を水戸美術の黎明期に位置づけ、水戸藩成立後の狩野派絵師の活動や、徳川光圀が招いた東皐心越などの動向など、貴重な基礎資料を提示した。 1995年より東京学芸大学教育学部教授となり、教育活動に力を注いだ。その間、2002年に千葉市立美術館など4館で開催された特別展「雪村展:戦国時代のスーパーエキセントリック」に特別学芸協力を行い、「雪村の造型感覚―初期の作品から「風濤図」に至るまで」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』1、1996年)、「雪村の作品の編年に関する問題点」(『国華』1242、1999年)などを発表し、2004年には『常陸時代の雪村』(中央公論美術出版)を刊行した。同著は先学の福井利吉郎、赤澤英二の諸研究をふまえた雪村研究の集大成をなすものとなった。05年に同大学を定年にて退任する。 小川はまた、「学芸員とは何だろう」(『MUSEOLOGY』16、1997年)において、学芸員の専門性について強調しているように、地域社会における博物館学芸員の役割について重要な提言を行った。とくに1970年代に「博物館問題研究会」において、わが国の博物館の歴史的・社会的位置づけに関する議論を深め、同研究会に「文化論学習会」を設立し、吉本隆明『共同幻想論』、丸山眞男『超国家主義の論理と心理』などをとりあげ、人文科学系博物館における歴史観・芸術観の課題について論じた。熱心な教育普及活動によって地域においても人望篤く、また学生や後継の研究者への細やかな配慮によって尊敬をあつめた。芸術を探求した小川の真摯な姿勢は、祖父小川芋銭の血を受け継ぐものであったのかもしれない。 主要な編著書・論文は下記の通りである。編著書『奇想のメッセージ 林十江』(日本放送出版協会、1993年)『江戸名作画帖全集―探幽・守景・一蝶:狩野派』4(安村敏信・小川編、駸々堂出版、1994年)『常陸時代の雪村』(中央公論美術出版、2004年)『もっと知りたい雪村―生涯と作品―』(東京美術、2007年)「常陸画檀史断章――佐竹義人の登場と伝説、そして忘却へ――」(吉成英文編『常陸の社会と文化』ぺりかん社、2007年)論文「林十江、立原杏所とその作品」(『古美術』61、1982年)「「蝦蟇図」の作者林十江」(『国華』1058、1982年)「立原杏所筆 夏天急雨図」(『国華』1081、1985年)「立原杏所の「北越山水図巻」と「写生画巻」について」(『国華』1103、1987年)「近世水戸画檀の形成(上)」同「(中の一)」同「(中の二)」(『茨城県立歴史館報』12・13・16、1986年・1989年)「林十江筆 十二支図巻」(『国華』1120、1989年)「『日乗上人日記』に登場する画家たち」(『茨城県立歴史館報』19、1992年)「立原杏所の『袋田瀑布』について―再出現の作品紹介を兼ねて―」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』45、1994年)「雪村の造型感覚―初期の作品から「風濤図」に至るまで」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』1、1996年)「学芸員とは何だろう」(『Museology(実践女子大学)』16、1997年)「林十江の造形意識―「蝦蟇図」再考」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』49、1998年)「一瞬の造形表現―林十江筆「柳燕図」の紹介を兼ねて」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』2、1998年)「雪村の作品の編年に関する問題点」(『国華』1242、1999年)「雪村筆 葛花、竹に蟹図」(『国華』1242、1999年)「岡倉天心と雪村」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』3、2001年)「雪村の画論『説門弟資伝』について」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』55、2004年)「雪村は雪舟に傾ける周文風なり―岡倉天心の言説を巡って―」(『五浦論叢』14、2007年)「奥原晴湖の生涯と作品~「繍水草堂」の時代を中心に~」(『奥原晴湖展』古河歴史博物館、2010年)「林十江筆 昇龍図」(『国華』1390、2011年)「雪村周継「布袋図」と「山水図」(『聚美』2、2012年)「近世の水戸画檀とは」(茨城県立歴史館『近世水戸の画人 奇才・十江と粋人・喬展』、2014年)「谷文晁、酒井抱一、菅原洞斎の雪村崇拝―雪村の画論『説門弟資云』の謎をめぐって―」(『特別展 雪村 奇想の誕生』東京藝術大学大学美術館、MIHO MUSEUM、2017年)

宮崎徹

没年月日:2015/02/20

 鎌倉市鏑木清方記念美術館副館長兼主任学芸員の宮崎徹は2月20日死去した。享年53。 1961(昭和36)年5月13日、埼玉県浦和市に生まれる。85年立正大学文学部英文学科卒業。翌86年から88年まで中国・鄭州大学に留学。1993(平成5)年財団法人鎌倉市芸術文化振興財団に入職。鎌倉芸術館の運営にかかる施設課を経て、総務課在職中に鎌倉市鏑木清方記念美術館(1998年開館)の設立に関わる。2000年より同美術館に学芸員として奉職。04年より主任学芸員、13年より副館長兼主任学芸員を務める。 同美術館では01年より鏑木清方の画業についての調査研究の成果を叢書図録として刊行し始め、主担当として執筆と編纂を行なう。肉筆画のみならず新聞・雑誌に掲載された口絵・挿絵をも網羅したその内容は、卓上芸術を標榜した清方のカタログレゾネとして高く評価される。教育普及活動にも力を入れ、09年には子供向けに日本画の画材や技法をやさしく解説した冊子『日本画を描いてみよう!』を制作・発行。また館外でも美術館「えき」KYOTOでの「鏑木清方の芸術展」(2008年)の監修・企画をはじめ、サントリー美術館(2009年)、平塚市美術館(2012年)、佐野美術館(2014年)、千葉市美術館(2014年)等での鏑木清方関連の企画展に協力。2008年、別冊太陽『鏑木清方 逝きし明治のおもかげ』を執筆、編集協力を行ない、14年には『鏑木清方 江戸東京めぐり』(求龍堂)、『鏑木清方 清く潔くうるはしく』(東京美術)を刊行、清方の魅力を広く伝えることに努めた。その業績については、有志による『宮〓徹氏追悼文集』(2017年)に詳しい。

江坂輝彌

没年月日:2015/02/08

 慶應義塾大学名誉教授である考古学者の江坂輝彌は2月8日、老衰のため死去した。享年95。 1919(大正8)年12月23日、現在の東京都渋谷に生まれる。幼少期より考古学に関心を持ち、近隣の畑などをめぐって土器や石器の採集をしていたほか、大学進学以前から研究グループを結成し、活動を行っていた。また、日本における旧石器時代研究の第一人者である芹沢長介とは同年であり、この当時から親交があった。 1942(昭和17)年、慶應義塾大学文学部史学科(東洋史)に入学。同時に陸軍に応召し、敗戦まで中国大陸等で軍務に就いた。その間にも軍当局の許可の下で調査活動を行っており、現地で表面採集した土器を戦後に資料として報告した後、中国浙江省博物館に寄贈している。敗戦後は46年に慶應義塾大学文学部史学科に復学し、55年に慶應義塾大学文学部助手、64年同専任講師、66年同助教授、71年同教授を歴任。85年3月、慶應義塾大学を定年退職と同時に、同名誉教授に就任。その後は、1996(平成8)年まで松坂大学政経学部教授を務めた。 生涯を通して縄文時代を中心とした考古学に深い関心を持ち、全国的な視野をもって各地に自ら足を運び、資料の収集・研究を行った。自らの発掘調査で出土した土器に新たな型式を設定命名することもあり、そのような作業を通して縄文土器の全国的な編年を確立したことの意義は大きい。代表的な業績として山内清男と共著の『日本原始美術第1巻―縄文式土器』(講談社、1964年)が挙げられる。また、82年に提出された学位論文『縄文土器文化研究序説』は、同年に六興出版より書籍として刊行されている。さらに、こういった編年研究を通じて、縄文海進について論じたことも特筆される(「海岸線の進退から見た日本の新石器時代」『科学朝日』14巻3号、1954年)。 このほか、土偶の研究にも精力的に取り組み、『土偶』(校倉書房、1960年)、『日本原始美術』第2巻(共著、講談社、1964年)、『日本の土偶』(六興出版、1990年)などの著作を残している。破損個所がなく完全な例の土偶が全くないこと、すべてが女性をかたどったものであることなどの学説は、現在でも広く受け入れられている。 さらに、先史時代における日本と大陸との交流について研究するなど、その視野や問題意識は国内にとどまらなかった。代表的な著作として『韓国の古代文化』(学生社、1978年)、『先史・古代の韓国と日本』(共編、築地書館、1988年)などが挙げられる。また、そのような研究活動の一環として、国交が正常化する前の66年、韓国の研究者を招いて、熊本県内の貝塚遺跡にて共同調査を実施している。その後も留学生の受け入れなどを通して交流を深め、後進の育成に努めたほか、自身も韓国へ頻繁に赴き、視察などを行っていた。 同じく66年には芹沢長介、坂詰秀一らと月刊誌『考古学ジャーナル』を創刊し、自身も論文だけでなく、動向や講座など多岐にわたる原稿を寄せた。同誌は日本唯一の考古学月刊誌として、2017年7月に第700号を発刊するに至っている。 江坂はそれ以外にも、様々な場所で広範なテーマに関する個別論考を発表したほか、各地の遺跡発掘調査報告書の執筆に名を連ねるなど、その業績は膨大な数にのぼる。また、そのような専門的な調査研究を行う一方で、『縄文・弥生:日本のあけぼの』(共著、小学館、1975年)、『縄文式土器』(小学館、1975年)、『日本考古学小辞典』(共編、ニュー・サイエンス社、1983年)、『考古実測の技法』(監修、ニュー・サイエンス社、1984年)、『考古学の知識:考古学シリーズ1』(東京美術、1986年)など、多くの解説書や入門書の刊行にも関わり、日本における考古学という学問の普及に努めた。

西和夫

没年月日:2015/01/03

 建築史家で神奈川大学名誉教授の西和夫は1月3日、東京都内にて死去した。享年76。 1938(昭和13)年7月1日、東京都に生まれる。武蔵高等学校を卒業後、早稲田大学理工学部建築学科に入学。62年に卒業後、東京工業大学大学院に進学して藤岡通夫に師事、67年に同博士課程を「近世日本における建築積算技術の研究」で学位取得修了。同年日本工業大学助教授。77年神奈川大学助教授、78年より2009(平成21)年まで同教授。 近世日本建築史を専門とし、大学院在籍中から大工文書の解読等に基づいて江戸幕府による造営に関わる生産組織の実態を明らかにする論考を精力的に発表した。一方、書院建築における障壁画への着目に始まって、美術史と建築史を架橋する研究も早くから手掛けている。さらに、81年に神奈川大学に日本常民文化研究所が招致・設立されると、その中心的メンバーであった宮田登や網野善彦とも協力し、芸能に関係する建築や絵図にみられる建築などにも研究対象を拡げた。83年、「日本近世建築技術史に関する一連の研究」で日本建築学会賞(論文)受賞。 学位論文をもとにした『江戸建築と本途帳』(鹿島研究所出版会、1974年)や『工匠たちの知恵と工夫』(彰国社、1980年)などで研究成果をわかりやすく語るとともに、『日本建築のかたち』(彰国社、1983年)や『図解古建築入門 日本建築はどう造られているか』(彰国社、1990年)などで日本建築の構造をビジュアルに説いたことは入門者にも大きな助けとなった。『日本建築のかたち』は『What is JAPANESE ARCHITECTURE』(Kodansha International、2012年)として英訳され、海外の人々の日本建築への理解の増進にも貢献している。 研究のもう一つの柱が既に失われた建造物の復原研究で、これはやがて史跡等における建造物の実物大復原として結実した。西が学術的検討を主導した代表的成果としては、足利学校、佐賀城本丸御殿、出島和蘭商館跡などを挙げることができる。 99年より2年間にわたり建築史学会会長、03年より09年まで文化審議会委員を務めたほか、各地で文化財保護指導委員等として、文化遺産の保存と活用、歴史遺産を活かした町づくり等に尽力した。 最晩年は松江城調査研究委員会の委員長として粘り強い調査から天守の建立年を示す祈祷札の発見を経て国宝指定への道筋を付けたが、その答申をわずか4か月後に控えての急逝であった。 編著作は多数に上り、上記以外の主な著書に『わが数寄なる桂離宮』(彰国社、1985年)、『建築史研究の新視点一~三』(中央公論美術出版、1999~2001年)、『海・建築・日本人』(日本放送出版協会、2002年)、『建築史から何が見えるか 日本文化の美と心』(彰国社、2009年)などがある。

中岡吉典

没年月日:2015/01/01

 東邦画廊主中岡吉典は、1月1日、肺炎のため東京都内で死去した。享年87。 1927(昭和2)年1月5日、愛媛県西宇和郡(現、八幡浜市)に生まれる。41年喜須木尋常高等小学校卒業後、47年家業の指物師から中岡製材所を起こす。この頃、叔父が表具店を営む関係から美術への興味が起こり、前川千帆や畦地梅太郎の版画を収集する。51年広島市に材木商を起業するが、57年製紙工場の倒産の波をかぶり廃業し、58年上京、図書販売業へ転身する。59年、版画家の永瀬義郎、画家の山口長男と知り合う。60年永瀬の紹介もあり、ホテルニュージャパン開業にともないホテル内の画廊に勤めるが、2年後に閉廊となり、64年、山口長男と南画廊の志水楠男の指南を受け、東邦画廊を開廊する。場所は千代田区日本橋通2丁目、当初の案内状に「〓島屋新駐車場裏」とあり、小さな建物の2階へ上がると、画廊主自らが言う「日本一小さな画廊」があった。座るお客にはまずお茶、しばらくすると珈琲がでて、中岡は客とひとしきり話しをするのが常だった。扱う作品は大きなミュージアムピースでなく、それを彼は「見せるもの」とし、自分が扱うのは「売るもの」であり、「銀座の画廊とはちがい場所代を乗せない」とよく言っていた。初期には三岸黄太郎の個展を4回開催し、68年5月、難波田龍起の個展を開催、この出会いで画廊の方向性が見え、難波田も定期的に東邦画廊で個展を開催していく。主に扱った作家に建畠覚造、杢田たけを、深尾庄介、吉野辰海、小山田二郎、大沢昌助、山口長男、平賀敬、谷川晃一、豊島弘尚、馬場彬、橋本正司、建畠朔弥らがいる。展覧会の会期は一回が20日間程度、二つ折りのパンフを出し、良く寄稿したのは針生一郎である。針生が推薦したノルウエーの画家ラインハルト・サビエの個展を1994(平成6)年から定期的に開催、外国作家を扱わない中岡にしては異例のことだった。93年春から、中央区京橋2丁目5番地で営業、さらに99年からは京橋3丁目9番地に移転した。

to page top