本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





吉岡健二郎

没年月日:2005/02/02

 美学者で静岡県立美術館館長、京都大学名誉教授の吉岡健二郎は、2月2日、心不全のため枚方市の自宅で死去した。享年78。1926(大正15)年5月3日東京(現在の品川区大崎)に生まれる。1944(昭和19)年、松本高等学校(旧制、理科甲類)入学、46年同校中途退学、47年京都大学文学部選科(旧制、哲学科)に入学、井島勉のもとで美学美術史を学び50年卒業、51年同本科(哲学科美学美術史専攻)を卒業、卒業論文はカント『判断力批判』の天才論に関するものであった。同年、同大学大学院(旧制)に進学し、55年4月まで在籍、同年5月から60年4月まで同大学文学部助手を勤めた。61年同志社大学文学部専任講師、62年同助教授、67年同教授となり、68年4月京都大学文学部助教授に就任、73年3月同教授(美学美術史学第一講座担任)に昇任、その間、72年5月に京都大学より文学博士学位を授与された。同大学では79年1月から80年1月まで評議員、80年1月から81年1月まで文学部長を勤め、1990(平成2)年3月に定年退官、同年4月、京都大学名誉教授の称号をおくられた。同年京都芸術短期大学教授、91年京都造形芸術大学教授(95年3月まで芸術学部長、92年6月から95年3月まで学長代行)、96年から98年まで同大学大学院芸術研究科長を勤め、また、94年1月からは静岡県立美術館館長の任にあった。2004年11月には、永年にわたって教育・研究・大学行政およびわが国の美術の発展に尽くした功績に対し瑞宝中綬章を授与された。吉岡の研究業績は、芸術学の確立者とされるK.フィードラーや、A.リーグル、D.フライらウィーン学派の美術史家の芸術思想などを足掛かりとしつつ、近代芸術学の成立事情・過程の検証と現代におけるその意義をめぐって、じつに幅広い分野にわたっており、比較的初期の成果は学位論文である著書『近代芸術学の成立と課題』(創文社、1975年)にまとめられている。「近代芸術学は人間とは何であるかという問に芸術の研究を通じて迫って行こうとする形で成立し、且つかかる問に答えることをその課題としている」(同書)といわれるように、その学風は一貫して、理論のための理論に陥ることなく、あくまでも具体的な美の現象、芸術の感動に即して芸術への学問的思索を深め、もって人間性の本質に迫ろうとするものであった。美や芸術をめぐる理論的反省と芸術作品の歴史的研究の一体性を重んじるこの姿勢は、吉岡が30年余にわたって指導に当たった京都大学文学部美学美術史学科の基調ともなった。共編著に『美学を学ぶ人のために』(世界思想社、1981年)、『La Scuola di Kyoto, Kyoto-ha(京都学派)』(Rubbettino Editore、1996年)、共著に『現代芸術 七つの提言』(やしま書房、1962年)、『芸術的世界の論理』(創文社、1972年)、『比較芸術学研究』第4巻(美術出版社、1980年)、『講座美学』第3巻(東京大学出版会、1984年)、訳著にダゴベルト・フライ『比較芸術学』(創文社、1961年)、ドニ・ユイスマン『美学』(共訳、白水社、1992年)、グザヴィエ・バラル・イ・アルテ『美術史入門』(共訳、白水社、1999年)、ヘルマン・ゼルゲル『建築美学』(中央公論美術出版、2003年)などがあり、その主要な論文は『美学』、『哲学研究』等に発表された。また吉岡の略年譜と著作目録は、『研究紀要』第11号(吉岡健二郎教授退官記念号、京都大学文学部美学美術史学研究室、1990年)、および『吉岡健二郎先生 略年譜・業績一覧(講演録)』(京都大学文学部美学美術史学研究室、2005年)に収録されている。

山辺知行

没年月日:2004/10/01

 染織史研究者の山辺知行は、10月1日、肺炎のため死去した。享年97。1906(明治39)年10月27日東京市麹町区(現東京都千代田区)に旧華族の家に生まれる。1931(昭和6)年3月に京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業、35年8月に東京帝室博物館研究員に就任。徴兵から復員後、47年より東京国立博物館初代染織室長に就任し、従来、風俗史研究の中に取り込まれてきた服飾・染織を、初めて美術工芸あるいは服飾文化という観点から美術史の中に位置づけた。処女論文「辻が花染に対する一考察」(『美術史』第12号、1957年3月)では明治期以降、古美術市場で人気急騰した日本中世染模様である「辻が花染」を初めて学術的な立場から定義し、以後の文化財指定の基準ともなった。68年3月に同博物館を退任後は、共立女子大学教授に就任、73年3月に同大学教授を退任、同年4月に多摩美術大学教授に就任。77年3月に同大学教授を退任、同大学客員教授に就任する。78年4月に財団法人遠山記念館館長に就任、88年3月に多摩美術大学客員教授を退任し、同大学附属美術館館長に就任。1991(平成3)年には遠山記念館館長を退任し、同館の顧問に就任した。その他、美枝きもの資料館名誉館長、都留市博物館館長を歴任した。東京国立博物館に就任中から、伝統工芸に携わる職人と連携し、人形を含む同館所蔵の染織の修理や復元にも指導力を発揮した。また、東京国立博物館を退任後は、染織美術の蒐集に力を注ぎ、日本染織のみならず、近世日本の人形、アジア・ヨーロッパ・南アメリカ各国の染織にまでおよんだ膨大なコレクションは遠山記念館に寄贈された。その全容は『山辺知行コレクション』第1巻 インドの染織、第2~3巻 世界の染織、第4~5巻 日本の染織、第6巻 日本の人形、第7巻 別冊 補遺編(源流社、1984~1985年)に詳しい。国際的にも活躍し、ドイツやフランスで開催された国際学会での藍染めに関する口頭発表、インドで開催されたシンポジウムの講演記録などは『ひわのさえずり 山辺知行染織と私のエッセー』(源流社、2004年)に収録されている。その他、主著を以下にあげる。『染織』(大日本雄弁会講談社、1956年)、『日本の人形』(西沢笛畝と共著、河出書房、1954年)、‘Textiles’, Arts & Crafts of Japan, no.2, C.E.Tuttle, 1957. 『日本染織文様集』Ⅰ~Ⅲ・英文版(日本繊維意匠センター、1959~1960年)、『小袖』(北村哲郎・田畑喜八と共同編集、三一書房、1963年)、『能装束(徳川美術館所蔵品)』1・2巻(東京中日新聞社、1963年)、『能衣裳文様』上・下(中島泰之助と共同編集、芸艸堂、1963年)、『辻ヶ花』(京都書院、1964年)、『小袖 続』(北村哲郎と共著、三一書房、1966年)、『日本の美術7 染』(至文堂、1966年)、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(鈴木 尚・矢島恭介と共著、東京大学出版会、1967年)、『小袖文様』上下巻(北村哲郎と共著、三一書房、1968年)、『紬』(光風社書店、1968年)、『能装束文様集』(檜書店、1969年)、『上杉家伝来衣裳』日本伝統衣裳 第1巻(神谷栄子と共著、講談社、1969年)、『染織・漆工・金工』小学館原色日本の美術20(岡田譲・蔵田蔵と共著、小学館、1969年)、『日本服飾史』(駸々堂出版、1969年)、『縞』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1970年)、『能装束文様集 続』(檜書店、1972年)、『日本染織実物帖』(衣生活研究会、1972年)、『傳統工芸染織篇』全18冊(衣生活研究会、1973~1975年)、『絣』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1974年)、『細川家伝来能装束』永青文庫美術叢書(監修、主婦の友社、1974年)、『ペルシャ錦』(染織と生活社、1975年)、『日本の染織』(毎日新聞社、1975年)、『人形―坂口真佐子コレクション―』(監修、講談社、1976年)、『日本の美術;127 紅型』(至文堂、1976年)、『人形集成』全11冊(西沢笛畝と共著、芸艸堂、1977年)、『キャリコ染織博物館 更紗』(染織と生活社、1978年)、『染織』(角山幸洋と共著、世界文化社、1978年)、『シルクロードの染織 スタイン・コレクション ニューデリー国立博物館所蔵』(紫紅社、1979年)、『瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品』(共著、瑞鳳殿再建期成会、1979年)、『日本の染織』第2巻 武家/舶載裂(小笠原小枝と共同責任編集、中央公論社、1980年)、『琉球王朝秘蔵紅型』(日本経済新聞社、1980年)、『日本の染織』第3巻 武家の染織(責任編集、中央公論社、1982年)、『日本の染織』第9巻 庶民の染織・第10巻 近代の染織(責任編集、中央公論社、1983年)、『染織』世界の美術:カルチュア版;19(共著、世界文化社、1983年)、『染織・服飾』文化財講座日本の美術;11工芸(文化庁監修、岡田譲と共著、第一法規出版、1983年)、『一竹辻が花 OPULENCE オピュレンス』(編集解説、講談社、1984年)、『印度ロイヤル錦 キャリコ染織博物館コレクション;2』(染織と生活社、1988年)、‘Ein blaues Wunder: Blaudruck in Europe und Japan’, Berlin: Akademie Verlag, 1993. ‘Kyoto modern textiles, 1868-1940’, Joint author; Kenzo Fujii, Kyoto Textile Wholesalers Association, 1996.英語に堪能で広範な関心を終生離さず、染織に携わる職人と親交を深めて制作側の立場からも染織工芸を語る独特の視点が、近世武家女性の夏の衣料である茶屋辻を藍の浸染で復元するという壮大な実験や、世界各国の染織蒐集という大きな成果を残す原動力となった。

山川武

没年月日:2004/06/01

 東京芸術大学名誉教授で、美術史研究者の山川武は、6月1日、肺がんのため死去した。享年77。葬儀は近親者のみで行われ、同年7月3日に「山川武先生を偲ぶ会」(東京上野、精養軒)が行われた。1926(大正15)年11月22日、兵庫県神戸市に生まれる。1949(昭和24)年7月、東京芸術大学美術学部芸術学科に入学、53年3月に卒業、4月に同学部専攻科に入学するが翌年病気のために退学。59年1月に東京芸術大学美術学部助手となり、翌年9月から同大学同学部附属奈良研究室に事務主任事務取扱として赴任し、63年6月、同研究室講師となる。67年4月、同研究室勤務を解かれ、同大学美術学部芸術学科講師となる。69年4月、同大学美術学部助教授となる。78年4月、同大学同学部教授となる。1993(平成5)年9月、東京芸術大学芸術資料館において「退官記念山川武教授が選ぶ近世絵画」展を開催。翌年3月、同大学を退官。同年4月、女子美術大学教授に就任、同月、東京芸術大学名誉教授となる。97年7月、東京銀座にて「山川武写真展―行旅余情―」展開催。翌年、女子美術大学を退職。2002年10月、『山川武写真集』(私家版)を刊行する。本項末にあげる著述目録で了解されるように、山川の研究者としての対象は、近世日本絵画が有する独特の美しさと豊かさの探求であった。研究歴の初めにあげられる業績は、『国華』誌上で特集された長沢蘆雪に関する研究である。これは、従来の近世絵画史から見逃されていた画家と作品を位置づけるものとして、斯界から注目された研究であり、いわゆる「奇想」と目されることとなった画家群をも網羅するその後の絵画史研究に刺激を与え、特筆すべきものであった。その後、円山応挙、呉春等を中心とする近世写生画の研究、さらに光悦、宗達、光琳、抱一等の琳派研究へと展開していった。また、田能村竹田、与謝蕪村、浦上玉堂等の南画研究、宋紫石の長崎派、さらに西郷孤月、長井雲坪、狩野芳崖、高橋由一にいたる幕末明治期の画家研究に領域をひろげていった。ここで一貫していた研究姿勢は、作品に直に接することからの知見をもとに深められるものであり、同時にその折の豊かな感性に裏づけられた経験をもとに論考されていた点である。美術史研究の基本である誠実に「見る」ことを通していた点は、趣味でもあった写真にも生かされ、晩年に刊行した写真集に収められたアジア、欧米各地での調査研究旅行の折に撮られた写真の数々には、人間や自然への暖かい眼差しが感じられる。巨躯ながら、眼鏡に手を添えつつ訥々とした語りで近世絵画の「面白さ」を講義する時、その姿には温和ながら美術への熱い想いが常にこめられていたことを記憶する。 著述目録は、下記の通りである。(本目録は、「山川武先生を偲ぶ会」編によるものである。) 「山姥図」と長沢蘆雪(『仏教芸術』52号、1963年11月) 長沢蘆雪筆 雀図(『国華』860号、1963年11月) 長沢蘆雪とその南紀における作品(同前) 長沢蘆雪伝歴と年譜(同前) 西光寺の蘆雪画(『仏教芸術』60号、1966年4月) 大覚寺と渡辺始興(『障壁画全集 大覚寺』、美術出版社、1967年3月) 正木家 利休居士像(『国華』901号、1967年4月) 表千家 利休居士像(同前) 三玄院 大宝円鑑国師像(同前) 東大寺大仏の鋳造及び補修に関する技術的研究 その一(共同研究)(『東京芸術大学美術学部紀要』4号、1968年3月) 良正院の障壁画(『障壁画全集 知恩院』、美術出版社、1969年1月) 写生画(『原色日本の美術19 南画と写生画』、小学館、1969年2月) 円山応挙について―「写生画」の意味の検討―(『美学』79号、1969年12月) 長沢蘆雪襖絵(『奈良六大寺大観 第6巻 薬師寺 全』、岩波書店、1970年8月) 結城素明作 鶏図杉戸(『昭和45年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1971年9月) 長沢蘆雪筆 墨龍図(『国華』942号、1972年1月) 長沢蘆雪筆 汝陽逢麹車図(同前) 絵画 第5章 江戸時代(『奈良市史 美術編』、奈良市、1974年4月) 円山応挙についての二三の問題(『国華』945号、1972年4月) 呉春筆 群山露頂図(同前) 呉春筆 耕作図(同前) 長沢蘆雪筆 群猿図(同前) 呉春筆 渓間雨意・池辺雪景図(『国華』948号、1972年8月) 光琳―創造的装飾『みづゑ』812号、1972年10月) 長沢蘆雪筆 仁山智水図(『国華』953号、1972年12月) 屈曲初知用―光琳屏風展雑感(『芸術新潮』277号、1973年1月) 早春の画家―渡辺始興展(『みづゑ』818号、1973年5月) 『日本の名画 6 円山応挙』(講談社、1973年6月) 応挙と蘆雪(『水墨美術大系 第14巻 若冲・蕭白・蘆雪』、講談社、1973年9月) 二つの「槇楓図」屏風(『日本美術』102号、1973年11月) 尾形光琳「槇楓図」(『昭和48年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1974年12月) 松屋耳鳥斎筆 花見の酔客図(『国華』976号、1975年1月) 森狙仙筆 猿図(同前) 森徹山筆 翁図(同前) 源琦筆 四十雀図(同前) 円山応挙筆「牡丹図」他12幅(『昭和49年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1975年12月) 呉春筆「寒木図」、「山水図」、呉春、岸駒合作「山水図」(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅱ』、東京芸術大学、1976年3月) 円山応挙筆 四季山水図(『国華』997号、1977年1月) 『日本美術絵画全集 第22巻 応挙/呉春』(集英社、1977年4月) 円山応挙筆 春秋鮎図(『国華』1002号、1977年7月) 長沢蘆雪筆 岩上小禽図、長沢蘆雪筆 狐鶴図(『国華』1003号、1977年8月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展―創立90周年記念―』(東京芸術大学、1977年9月) 円山四条派(『文化財講座 日本の美術3 絵画(桃山・江戸)』、第一法規出版、1977年11月) 円山応挙筆 蟹図屏風(『国華』1008号、1978年2月) 円山・四条派と花鳥・山水(『日本屏風絵集成 第8巻 花鳥画―花鳥・山水』、講談社、1978年5月) 円山応挙筆 螃蟹図(『国華』1017号、1978年11月) 浦上玉堂筆 青松丹壑図(『昭和52年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1979年3月) 近世市民芸術の黎明『日本美術全集 第21巻 琳派 光悦/宗達/光琳』(学習研究社、1979年8月) 本阿弥光悦(同前) 俵屋宗達(同前) 尾形光琳と乾山(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅰ』、東京芸術大学、1980年3月) 上方の町人芸術(『週刊朝日百科 世界の美術129 江戸時代後期の絵画Ⅱ 円山・四条派と若冲・蕭白』(朝日新聞社、1980年9月) 若冲と蕭白(同前) 蕪村の寒山拾得(『日本美術工芸』512号、1981年5月) 1980年の歴史学界―回顧と展望―日本近世〔絵画〕〔工芸〕(『史学雑誌』90編5号、1981年5月) 「江戸琳派」開眼―抱一・其一について―(『三彩』406号、1981年7月) 長沢蘆雪筆 瀧に鶴亀図屏風 同 赤壁図屏風(『国華』1047号、1981年12月) 呉春筆 白梅図屏風(『国華』1053号、1982年7月) 日本美術史上での南画の位置づけ(『田能村竹田展』、大分県立芸術会館、1982年10月) 彷徨の画家西郷孤月(『西郷孤月画集』、信濃毎日新聞社、1983年10月) (作品解説)(『英一蝶展』、板橋区立美術館、1984年2月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展』、京都新聞社、1984年10月) 一旅絵師の生涯―雲坪小伝―(『長井雲坪』、信濃毎日新聞社、1985年4月) 光琳の生涯(『芸術公論』10号、1985年11月) 宋紫石とその時代(『宋紫石とその時代』、板橋区立美術館、1986年4月) 宋紫石の画業とその時代(『宋紫石画集』、宋紫石顕彰会、1986年9月) 第2章 絵画(『深大寺学術総合調査報告書 第1分冊・彫刻 絵画 工芸』、深大寺、1987年11月) (解題)(『東京芸術大学 創立百周年記念 貴重図書展』、東京芸術大学附属図書館、1987年11月) 化政期の江戸絵画(『東京芸術大学芸術資料館所蔵品による 化政期の江戸絵画』、東京芸術大学美術学部・芸術資料館、1988年11月) 狩野芳崖と、その「悲母観音」について(『特別展観 重要文化財 悲母観音 狩野芳崖筆』、東京芸術大学芸術資料館、1989年10月) 円山応挙筆 秋月雪峽図(『国華』1132号、1990年3月) 近世、伊那谷が生んだ二画人(『佐竹蓬平と鈴木芙蓉』、信濃毎日新聞社、1990年7月) 高橋由一の「鮭」を考える(『特別展観 重要文化財 鮭 高橋由一作』、東京芸術大学芸術資料館、1990年10月) 佐竹蓬平、その生涯と芸術(『佐竹蓬平展』、飯田市美術博物館 1990年10月) 長崎派(『古美術』100号、1991年10月) 円山・四条派における「写生画」の意味について(『美術京都』11号、1993年1月) 「退官記念 山川武教授の選ぶ近世絵画」展列品解説(『退官記念 山川武教授』、東京芸術大学美術学部、1994年1月)

三山進

没年月日:2004/05/11

 美術史学者・推理小説家の三山進は5月11日、神奈川県逗子市内の病院にて病没した。享年74。 1929(昭和4)年6月22日、兵庫県神戸市に生まれる。49年3月に甲南高等学校卒業。52年3月に東京大学文学部美学美術史学科を卒業し、東京大学大学院人文科学研究科美学美術史学専攻に進学、同修士課程修了のち52年から65年まで鎌倉国宝館学芸員を務める。71年から1991(平成3)年まで跡見学園女子大学教授、同年から94年まで青山学院大学教授を歴任。この間に、川崎市、横浜市、横須賀市、大和市、平塚市等の文化財委員(彫刻)を兼任した。その人柄は温厚篤実で、学生をはじめ研究者の誰からも好かれた。また、こよなく酒を愛し、教壇あるいは講演の壇上にあがる前には、緊張を緩和させるために少量のウイスキーを口にしたことはよく知られている。美術史学会、美学会、密教図像学会会員。なお「久能恵二」のペンネームで推理小説作家でもあったことは斯界ではあまり知られていない。本人もそのことに触れることを好まなかったようである。推理小説作家としてのデビューは59年、30歳の時に『宝石』『週刊朝日』の共同募集に「玩具の果てに」を応募、二等に入選し『宝石』同年10月号に掲載されたことにはじまる。翌年には『暗い波紋』(東都書房、1960年12月)を発表。以後、「土の誘い」(『別冊週刊朝日』1961年7月号)、『手は汚れない』(東都書房、1961年10月)、『日没の航跡』(東都書房、1962年4月)、『偽りの風景』(角川書店、1962年11月)、「愛の歪み」(『推理ストーリー』1962年5月号)、「殺人案内」(『宝石』1964年1月号)、「崩れる女」(『推理ストーリー』1964年4月号)「死者の旅路」(『推理ストーリー』1968年3月号)を著す。このほか本名で鮎川哲也の『蝶を盗んだ女』(角川文庫、1979年)の解説を書いている。なお、「死者の旅路」以後、推理小説を書かなかった理由について、その著『鎌倉と運慶』の「おわりに」のなかで「止めてしまったのはあまり注文がこなく、嫌気がさしてきた、という単純な理由からでしかないが…」と自嘲を込めて述べているが、真意は本人も告白している通り、66年夏の推理作家協会の『会報』に寄せた文のなかで「円覚寺の国宝舎利殿が従来、考えられていたように、鎌倉時代の建物ではなく、室町時代、尼五山第一位太平寺から移されたものであることが証明されるにいたった話である。そして、この経過を親しく見聞しながら私は、推理小説を読む以上の面白さ、興奮を覚えたことであった」と結んだところに求められるであろう。このことは以後、著作の軸足が美術史研究に移行していることからもうかがえる。単著に『日本の神話』(宝文館、1959年)、『称名寺(美術文化シリーズ113)』(中央公論美術出版、1959年)、『鎌倉(美術文化シリーズ103)』(中央公論美術出版、1963年)、『極楽寺(美術文化シリーズ114)』(中央公論美術出版、1966年)、『鎌倉の彫刻』(東京中日新聞出版局、1966年)、『日本神話の口承』(鷺の宮書房、1968年)、『三千院(美術文化シリーズ)』(中央公論美術出版、1970年)、『鎌倉』(学生社、1971年)、『京の寺』(山と渓谷社、1971年)、『名品流転』(読売新聞社、1975年)、『太平寺滅亡』(有隣堂、1976年)、『鎌倉―山渓カラーデラックス―』(山と渓谷社、1978年)、『鎌倉―花と緑とみ仏と―』(佼成出版社、1979年)、『鎌倉古寺巡礼』(実業之日本社、1979年)、『鎌倉と運慶』(有隣堂、1979年)『鎌倉彫刻論考』(有隣堂、1981年)、『鎌倉の禅宗美術(鎌倉叢書第17巻)』(かまくら春秋社、1983年)、『鎌倉みほとけ紀行』(PHP研究所、1986年)、『仏教彫刻-仏像と肖像-(かわさき叢書)』(財団法人川崎市文化財団、1989年)。編著・共著に『鎌倉の肖像彫刻(渋江二郎編)』(鎌倉国宝館図録第8集、1961年)、『石のかまくら』(東京中日新聞出版局、1966年)『鎌倉の仏像(改訂版・貫達人編)』鎌倉国宝館図録第12集、1974年)、『鎌倉むさしのの佛たち』(佼成出版、1976年)『日本古寺美術全集17鎌倉と東国の古寺』(集英社、1981年)、『全集日本の古寺2鎌倉と東国の古寺』(集英社、1984年)、『横須賀市文化財総合調査報告書』第4・5集(横須賀市教育委員会、1984年)、『川崎市彫刻・絵画緊急調査報告書』(川崎市教育委員会、1986年)、『円空巡礼(とんぼの本)』(新潮社、1986年)、『図説日本の仏教4・鎌倉仏教』(新潮社、1988年)、『横浜の文化財-横浜市文化財綜合調査概報(1~15)-』(横浜市教育委員会、1977~2002年)、『鎌倉市史』近世通史編(鎌倉市、1990年)、『平塚の仏像(平塚市文化財研究叢書4)』(平塚市教育委員会、1991年)『川崎市史通史遍1』(川崎市、1993年)、『鎌倉郡の仏像』(横浜市教育委員会、1995年)、『鎌倉の文化財』第15~20集・鎌倉市指定編(鎌倉市教育委員会、1990~2000年)などがある。このほか鎌倉国宝館の学芸員時代に責任編集にあたった『鎌倉地方造像関係史料』全8巻(『鎌倉国宝館論集』11~18、1968~75年)は鎌倉地方の仏師研究には欠くことのできない資料といえる。主要論文のいくつかが『鎌倉彫刻論考』(上掲)に収録されるが、そのほかの代表的論文に「伽藍神像考―鎌倉地方の作品を中心に―」(『MUSEUM』200号、1967年)、「妙高庵観音菩薩坐像について」(『鎌倉』16号、1967年)、「頂相彫刻について―禅宗彫刻論の中―」(『同』17号、1968年)、「幕末の鎌倉仏師後藤真慶」(『同』20号、1971年)、「鎌倉禅刹文殊菩薩像試考」(『同』44号、1983年)、「大慶寺の寺史と彫刻」(『同』52号、1986年)、「禅刹観音菩薩彫像をめぐって―鎌倉の禅刹を中心に―」(『同』60・61号、1989年)、「英勝寺と鎌倉近世造仏界」(『同』70・71号、1993年)、「『仏師職慎申堅メ控』と京仏師林如水」(『同』78号、1995年)、「近世七条仏所の幕府御用をめぐって―新出の史料を中心に―」(『同』80号、1996年)、「十劫寺不動明王像と仏師泉円」(『金沢文庫研究』151号、1968年)、「『沙石集』から見た鎌倉地方仏師」(『同』163号、1969年)、「東国の宅磨派―十四・五世紀を中心に―」(『同』180号、1971年)、「中世塑造像に就ての一考察―大休正念の語録を中心に―」(『同』210号、1973年)、「浄智寺本尊像考」(『同』278号、1987年)、「宝冠釈迦如来像考―円覚寺仏殿本尊を中心に―」(『国華』927号、1970年)、「東国における運慶―浄楽寺諸像を中心に―」(『同』940号、1971年)、「神武寺の彫刻と絵画」(『三浦古文化』10号、1971年)、「禅刹仏殿本尊像小考」(『同』16号、1974年)、「金龍禅院の歴史と彫刻」(『同』37号、1985年)、「光明寺の諸像(薄井和男と共著)」(『同』39号、1986年)、「仏師快円考」(『史迹と美術』388輯、1968年)、「寿閑寺の近世日蓮宗彫刻」(『同』538輯、1983年)、「仏師弘円について」(『美学』71号、1967年)、「仏師弘円考」(『跡見学園女子大学紀要』1号、1968年)、「運慶と東国―下向非下向の問題」(『同』3号、1970年)、「《異相なる僧像》をめぐって―跋陀婆羅尊者彫像小考―」(『跡見学園女子大学美学美術史学科報』4号、1976年)、「仏師弘円考」補遺」(『同』17号、1989年)、「大和市の彫刻」(『大和市研究』1・2号、1975・76年)「正統院木造仏国国師坐像について(清水眞澄と共著)」(『仏教芸術』107号、1976年)などがある。

柳澤孝

没年月日:2003/09/06

 美術史研究者で東京文化財研究所名誉研究員の柳澤孝は、9月6日、急性心不全のため死去した。享年77。葬儀は近親者だけで営まれ、偲ぶ会が同年10月末日に東京文化財研究所で行われた。1926(大正15)年1月16日、長野県上田市上田6500番地に生まれる。1943(昭和18)年3月、長野県立上田高等女学校を卒業。45年9月、日本女子大学国文科を卒業するとともに同大学補修科に進学。46年3月、同大学補修科を修了。そののち日本美術史とくに絵画史の研究のために美術研究所(現在の独立行政法人文化財研究所 東京文化財研究所の前身)において文部技官・秋山光和の指導を受け、同年9月、美術研究所雇となる。59年9月1日、文部技官に任官。72年7月1日に東京国立文化財研究所美術部主任研究官に、82年4月1日、同美術部第一研究室長に昇任。84年4月1日、美術部長に就任。87年3月、定年退職する。研究所在職中から非常勤講師として東京大学文学部、同大学東洋文化研究所、慶應義塾大学文学部、学習院大学、東京藝術大学へも出講し、後進の育成にも心血を注ぐ。斯界で現在活躍する美術史研究者・文化財修復技術者のなかで謦咳に触れた者は数多い。柳澤の学究は永年にわたって日本仏教絵画史研究に携わり、網羅的かつ綿密な作品調査を行ったことで知られ、成果をもとに多くの著書・論文があらわされた。その研究手法はX線透過撮影、赤外線撮影、双眼実体顕微鏡などの光学的・科学的手法を積極的に用い、それまで解明が困難であった絵画の顔料の種類、描法を明らかにして、仏画研究の手法を開拓するとともにその指針を示し、研究そのものを飛躍的に引き上げた。今日の仏画研究の水準は柳澤が提示した成果によっているものが少なくない。ちなみに、成果のひとつである『醍醐寺五重塔の壁画』(高田修編、高田修・上野アキ・宮次男・山﨑一雄・伊藤卓冶と共著、吉川弘文館、1959年)により、1960(昭和35)年に日本学士院恩賜賞を受賞した。ここで主要な著作をあげると以下の通りである。編著書には上述の『醍醐寺五重塔の壁画』のほかに、『高雄曼荼羅』(東京国立文化財研究所美術部編、高田修・秋山光和・神谷栄子と共著、吉川弘文館、1967年)、『仏画(原色日本の美術7)』(高田修と共著、小学館、1969年〈1980年改訂〉)、『扇面法華経』(東京国立文化財研究所監修、秋山光和・鈴木敬三と共著、鹿島研究所出版会、1972年)、『仏画(ブック・オブ・ブックス 日本の美術9)』(高田修と共著、小学館、1975年)、『法隆寺 金堂壁画(奈良の寺8)』(岩波書店、1975年〈1994年復刊〉)、『日本の仏画』第一期・全十巻(田中一松・亀田孜監修、高崎富士彦・中野玄三・浜田隆と共編、学習研究社、1976年~1977年)、『同』第二期・全十巻(田中一松・亀田孜監修、高崎富士彦・中野玄三・浜田隆と共編、学習研究社、1977年~1978年)、『在外日本の至宝』第一巻・仏教絵画(毎日新聞社、1980年)、『当麻寺(大和の古寺2)』(辻本米三郎・渡辺義雄と共著、岩波書店、1982年〈1992年復刊〉)、『紫式部日記絵巻 蜂須賀家旧蔵本 一巻 重要文化財(複刻日本古典文学館 第2期)』(監修、ほるぷ出版、1985年)、『平等院大観』第3巻・絵画(秋山光和編、岩波書店、1992年)があげられる。また、代表的な論文に「藤田美術館の密教両部大経感得図に就いて」(『美術研究』187号、1957年)、「一字金輪曼荼羅図について―その図像学的並びに遺品の美術史的考察―」(『美術研究』208号、1960年)、「青蓮寺旧蔵の立像十二天図について」(『國華』823号、1960年)、「藤原時代普賢菩薩絵像の一遺例」(『美術研究』220号、1962年)、「大和永久寺真言堂障子絵と藤田本密教両部大経感得図―その製作年代と作家―」(『美術研究』224号、1963年)、「転法輪筒とその絵画」(『美術研究』231号、1963年)、「繭山家本 紺紙金字法華経及び開結経―主として観普賢経について―」(『古美術』7号、1965年1月)、「青蓮院伝来の白描金剛界曼荼羅諸尊図様(上・下)」(『美術研究』241、242号、1965年)、「松尾寺所蔵の終南山曼荼羅について―唐本北斗曼荼羅の一異図―」(『美術研究』248号、1966年)、「仁和寺蔵宝珠筥納入の板絵四天王像について」(『美術研究』256号、1967年)、「仁平三年銘の持光寺蔵普賢延命菩薩絵像」(『美術研究』254号、1969年)、「永久寺真言堂障子絵色紙形下より出現の鷹図について」(『美術研究』266号、1969年)、「慈尊院弥勒仏像台座蓮弁の装飾文様〈秋山光和と共著〉」(『美術研究』283号、1972年)、「日野原家本大仏頂曼荼羅について」(『美術研究』285号、1973年)、「真言八祖行状図と廃寺永久寺真言堂障子絵(一~五)」(『美術研究』300、302、304、332、337号、1976年~1987年)、「高松塚古墳壁画に関する二、三の新知見―双眼実体顕微鏡による第二次調査報告―〈秋山光和と共著〉」(『月刊文化財』154号、ぎょうせい、1976年)、「東寺の国宝両界曼荼羅」(『教王護国寺両界曼荼羅』西武美術館、1977年)、「(法華寺)阿弥陀三尊及び童子像」(『大和古寺大観』第五巻 秋篠寺・法華寺・海龍王寺・不退寺 岩波書店、1978年)、「年中行事絵巻と真言院の道場内荘厳」(『新修日本絵巻物全集 月報』22、1979年)、「ボストン美術館蔵の四天王図―新発見の廃寺永久寺真言堂障子絵―」(『在外日本の至宝』第一巻・仏教絵画、毎日新聞社、1980年)、「織成当麻曼陀羅について」(『当麻寺(大和の古寺2)』岩波書店、1982年〈1992年復刊〉)、「天平絵画の展開」(『週刊朝日百科 世界の美術』106号、1980年)、「正倉院の絵画」(『週刊朝日百科 世界の美術』107号、1980年)、「鎌倉時代の絵画」「仏教絵画」(『週刊朝日百科 世界の美術』113号、1980年)、「称名寺金堂壁画考」(『三浦古文化』28号、1980年)、「異色ある孔雀明王画像」(『美術研究』322号、1982年)、「文化庁保管 普賢菩薩絵像」(『美術研究』326号、1983年)、「廃寺大和永久寺真言堂伝来の真言八祖行状図―平安後期における説話画の一遺例―」(『国際交流美術史研究会第8回シンポジアム 説話美術』1992年)、「東寺の両界曼荼羅図―甲本(建久本)と西院本―」(東寺宝物館特別展図録『東寺の両界曼荼羅図 連綿たる系譜―甲本と西院本』1994年)があり、欧文の論文として“A Study of the Painting Style of the Ryokai Mandala at the Sai‐in, To‐ji ―With Special Emphasis on their Relationship to Late T’ang Painting,” International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property‐Interregional Influences in East Asian Art History ―, Tokyo National Research Institute of Cultural Properties, 1982. “The Paintings of the Four Deva Kings in the Collection of the Museum of Fine Arts, Boston‐Recently Rediscovered Paintings from the Shingon‐do of the Abandoned Temple Eikyu‐ji‐,” Archives of Asian Art XXXUII, the Asia Society Inc., 1984.がある。柳澤の絵画作品に向かう真摯な態度は、後年、右半身不随となるも、リハビリによりこれを克服し杖に頼る身体となっても作品を実見することの情熱を失わなかったことに示されているであろう。晩年に心臓疾患による手術を受けたが、乗り越えて精力的に日本内外の美術館・博物館に出向き、終日、展示作品の前で単眼鏡を覗きながら熟覧に及んだ。また、後学の徒から送られてきた論文抜刷には必ず目を通し、疑問点については執拗なまでに追求する厳しい姿勢を最期まで崩さなかった。その柳澤が心血を注いだ大著「真言八祖行状図と廃寺永久寺真言堂障子絵」が完結をみなかったことは惜しまれるが、周囲には執筆の再開に意欲を示していたのも事実であった。また、晩年の関心は、園城寺からの要請で修理委員を務め、余人を介さずつぶさに実見した園城寺金色不動明王像(いわゆる黄不動)の研究にあった。柳澤は『美術研究』に掲載すべく執筆を行っていることを周囲に漏らしていたが、没後にかなりの完成度をもった原稿が残されていることが確認された。その遺稿「園城寺国宝金色不動明王像(黄不動)に関する新知見―不動明王修理報告―」は故人の遺志を尊重して『美術研究』385号(2005年)に上梓をみた。金色不動明王像の論文とは別に東寺西院曼荼羅の簡単な解説も残されていた。金色不動明王の論考を終えてのち東寺西院両界曼荼羅の研究に再度着手する予定であったようである。ちなみに柳澤の代表論文のうち、年月の経過とともに入手困難が予想される雑誌掲載の論文を集成し『柳澤孝仏教絵画史論集』として2006年春には刊行が予定されている。

松本修自

没年月日:2003/07/02

 奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復工学研究室長の松本修自は、7月2日、膵臓がんのため死去した。享年52。1951(昭和26)年1月9日、東京都新宿区に生まれる。73年3月、早稲田大学工学部建築学科を卒業、同大学大学院理工学研究科に進み、75年3月、同大学院修士課程修了。同年4月、奈良国立文化財研究所に採用され、平城宮跡発掘調査部遺構調査室に配属される。同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部、埋蔵文化財センター研究指導部測量研究室、平城宮跡発掘調査部遺構調査室に勤務し、79年12月から84年4月まで飛鳥資料館学芸室併任。同資料館では、81年に山田寺金堂の修復模型を設計、製作し、図録『山田寺の伽藍と建築』を編集執筆した。83年には日本古代の小建築論の一環として全国の瓦塔を調査し、『小さな建築―瓦塔の一考察―』を刊行した。84年には、厨子、仏龕、小塔の建築的位置付けを論考した図録『小建築の世界』を編集した。85年11月から翌年6月まで、文化庁から派遣され、イタリアの文化財修復国際センター(イクロム)において歴史的記念物の保存に関する研修を受ける。1993(平成5)年10月、東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力室に主任研究官として異動。95年4月には同研究所修復技術部第二修復技術研究室長となる。97年10月、同研究所国際文化財保存修復協力センター保存計画研究指導室長となる。99年3月から同年8月まで、文部省在外研究員としてギリシャ、イギリス、イタリア、ドイツを歴訪し、ギリシャアクロポリス修復史研究やドイツとの文化遺産保護協力など、国際協力事業の推進に尽力した。2002年4月、奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復工学研究室長として異動し、国際的な視野のもとに日本の遺跡・建造物の保存修復理念の再構築に取り組んでいた。没後、同研究所内の有志によって、『松本修自遺稿集―保存修復の昨日から明日へ』が刊行され、業績一覧と代表的な論文11編が収録された。国際的な協力事業に豊かな経験と学識、堪能な語学力が生かされ、飄々とした風貌とユーモアあふれる温厚な性格で、所内でも親しまれていた。

穴澤一夫

没年月日:2003/05/13

 美術史家で、東北芸術工科大学名誉教授の穴澤一夫は、5月13日、呼吸不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年77。1926(大正15)年3月12日、東京の麻布に生まれる。1947(昭和22)年、横浜工業専門学校(現、横浜国立大学)建築学科卒業。48年東京大学文学部美術史学科聴講生を経て、50年東北大学文学部美学・美術史学科に入学、村田潔教授のもとでギリシア美術を学び、53年同大学(旧制)を卒業した。56年同大学文学部大学院修了後は、同年9月より国立近代美術館(現、東京国立近代美術館)事業課に勤務、59年5月、開館を目前に控えた国立西洋美術館に移り、68年5月より事業課長、また76年4月には東京国立近代美術館次長となり、82年7月まで同職を勤めた。同年8月筑波大学芸術学系教授に就任し、1989(平成元)年3月に退官後は東北芸術工科大学の開校準備に参画し、92年4月より同大学芸術学部長および芸術学部芸術学科教授に就任、98年3月退任後の4月には同大学名誉教授となった。この間、日本大学芸術学部(1956-73年)などで美術史を教えたほか、61年8月から翌年11月までフランス政府招待技術留学生としてパリ国立近代美術館に研修勤務し、ブランクーシのアトリエの復元設置に携わるかたわら、エコール・デュ・ルーヴルの聴講を修了、また63年7月フランス共和国文芸騎士勲章(Chevalier de l’Ordre des Arts et des Lettres)、81年11月博物館法三十周年記念式典文部大臣賞等を受けた。穴澤の美術展との関わりは、1954(昭和29)年、ルーヴル美術館所蔵品を中心とする戦後初めての大規模な「フランス美術展」(東京国立博物館)に際して、富永惣一の推薦でカタログ編集その他を手伝ったことに始まるが、その後、草創期の国立近代美術館、次いで国立西洋美術館に勤務してからは、西洋美術を中心に多岐にわたる数多くの展覧会を手懸けた。国立西洋美術館在職中は、「ミロのビーナス特別公開」(1964年)、2点の「マハ」像(着衣・脱衣)を含む「ゴヤ展」(1971年)、「モナ・リザ展」(会場:東京国立博物館、1974年)等の国家プロジェクトに参画し、また東京国立近代美術館次長在任中に担当した展覧会のカタログに寄稿した論文、「素朴な画家たち」(「素朴な画家たち」展、1977年)、「ロベール・ドローネーの芸術と芸術論」(「ドローネー展――ロベールとソニア」、1979年)、「マチス」(「マチス展」、1981年)、「ムンクの人と芸術」(「ムンク展」、1981年)、「象徴主義の理解のために」(「ベルギー象徴派展」、1982年)等は、中学時代からギリシアの詩文に親しみ、美術のみならず文学・音楽などすべての芸術をこよなく愛し、哲学への関心や造詣も深かった穴澤の学風をよく伝えている。その他、主な著作(単独著作)や論文として以下がある。『ギリシャ美術』(保育社、1964年)、『ミケランジェロ、ドナテルロ(世界の美術5)』(河出書房新社、1966年)、『ロダン、ブールデル、マイヨール(現代世界美術全集12)』(河出書房新社、1966年)、『ルノワール、ボナール(世界の名画:洋画100選6)』(三一書房、1966年)、『ドーミエ、ミレー、クールベ(世界の名画:洋画100選3)』(三一書房、1967年)、『ボナール(世界の名画13)』(世界文化社、1968年)、『ボナール、マティス、デュフィ(ほるぷ世界の名画6)(ほるぷ出版、1970年)、『ル・コルビュジエ(ART LIBRARY 30)』(鶴書房、1972年)、『ミケランジェロ(ファブリ世界彫刻集2)』(平凡社、1973年)、『ギリシア彫刻(世界彫刻美術全集4)』(小学館、1974年)、『セザンヌ(世界美術全集19)』(小学館、1979年)、「ポリュクレイトス研究」(『美学』15号、1954年)、「1953年発見のブルゴーニュ「VIXの遺宝」について」(『美術史』20号、1956年)、「現代イギリス彫刻とヘップワース」(「バーバラ・ヘップワース展」カタログ、彫刻の森美術館、1970年)、「ブランクーシの世界」(「ブランクーシ」展カタログ、ギャルリー・ところ、1977年)、「マイヨールの彫刻」(「マイヨール展」カタログ、山梨県立美術館ほか、1984年)、「大野さんの芸術と『聖なる対話』」(「大野俶嵩展」カタログ、O美術館、1989年)、「マイヨールと地中海」(「マイヨール展」カタログ、北海道立函館美術館ほか、1994年)。

吉川逸治

没年月日:2002/12/05

 フランスのサン・サヴァン教会堂壁画の研究で知られた西洋中世美術史研究者、吉川逸治は12月5日午後9時50分、肺炎のため神奈川県鎌倉市由比ガ浜の自宅で死去した。享年93。 1908(明治41)年12月14日、横浜市神奈川区青木町台に生まれる。1929(昭和4)年旧制浦和高等学校文科を卒業。33年東京帝国大学美学美術史学科を卒業。同年フランスへ留学しパリ大学でアンリ・フォションに師事してフランス中世美術を研究。34年よりポアティエ市にあるサン・サヴァン教会堂のロマネスク壁画を調査し、39年その成果をまとめた学位論文Apocalypse de Saint‐Savin(サン・サヴァン教会堂の黙示録画の研究)をパリ大学に提出して博士号を取得。同年8月より9月まで、アフガニスタン、インドを巡遊して帰国する。44年東京美術学校(現東京藝術大学)の講師となり、西洋美術史を講じ、同47年同学教授となる。49年『中世の美術』(東京堂 1948年)により昭和24年度毎日出版文化賞受賞。53年東京大学助教授となり、55年より69年まで同学美術史学科教授をつとめる。その間の58年より61年まで大岡昇平、中村光夫らと同人誌『声』(丸善)に参加し、59年から61年までパリ大学都市日本館館長をつとめる。69年名古屋大学教授となり72年退官。この間、59年から76年までに3度にわたりフランスのサン・サヴァン教会堂を調査し、その成果の集大成として『サン・サヴァン教会堂のロマネスク壁画』(新潮社 1982年)を刊行した。その研究方法は、現地でのフィールド・ワークにもとづく実証的なもので、国際的に高い評価を得る。こうした調査により75年ポアティエ大学から名誉教授号を授与される。72年より81年まで東海大学教授、同81年から1999(平成11)年まで大和文華館館長をつとめた。82年より日本学士院会員となり、84年フランス学士院ジャン・レイノー賞を受賞する。日本における西洋美術史学研究の上で、徹底的な現地調査と広汎な文献の渉猟を基礎とする方法論を実践した先駆的研究者として位置づけられる。 先述の著作のほか、主要な著書に『近代美術への天才たち』(新潮社 1964年)、『ロマネスク美術を索めて』(美術出版社 1979年)などがあり、翻訳・編集・監修を担当した書籍に『イタリア絵画史』第1巻(スタンダール他著、河出書房 1943年)、『ルーヴルの名宝』(講談社 1966年)、『近代絵画』(A・オザンファン他著、鹿島出版会、SD選書 1968年)、『紀元千年のヨーロッパ』(L・グロデッキ他著、新潮社 1976年)、『世界版画大系』(筑摩書房 1972―74年)、『フィレンツェの美術』(小学館 1973―74年)、『ルーヴルとパリの美術』(小学館 1985―88年)などがある。

藤島亥治郎

没年月日:2002/07/15

 建築史家で東京大学名誉教授の藤島亥治郎は7月15日午後0時30分、腎不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年103。 1899(明治32)年5月1日、円山四条派の日本画家、藤島静村を父に岩手県盛岡市に生まれる。生後すぐに一家は東京へ転住。第六高等学校を経て、建築史家を志し1920(大正9)年東京帝国大学工学部建築学科に入学、伊東忠太、関野貞、塚本靖の指導を受ける。とくに関野貞の感化により地下遺構の調査等、建築史に考古学を援用する姿勢を養う。卒業論文で日朝建築の交渉史を扱った関係もあり、23年同大学を卒業後は朝鮮半島に渡り京城高等工業学校に赴任、その間半島各地を精力的に踏査する。26年から二年間独・仏・米三国に留学、欧州各国を巡遊。1929(昭和4)年東京帝国大学工学部建築学科助教授となる。33年に論文「朝鮮建築史論、特に慶州郡を中心とする新羅時代仏教建築に就いて」で工学博士の学位を取得、同年東京帝大教授となる。36年より文部省国宝保存会委員を兼任、戦後には文化庁文化財審議会専門委員会となった同会の委員を80年まで務める。また49年の法隆寺金堂火災を機に同寺の国宝維持修理事業が委員会制度となるに伴い、その委員となり、同寺金堂や五重塔の調査を行なう。またこの時期より中山道全体を踏査し、宿場町とその途上の町家・民家・街道景観の総合調査を実施する。50年大阪府教育委員会による四天王寺の発掘調査に参加、この調査をふまえ55年より国の文化財保護委員会、大阪府教育委員会、四天王寺の三者合同による発掘調査が行なわれ、その委員を務める。さらに57年より同寺伽藍の再建設計を行い、その功績により65年建築業協会賞、68年日本芸術院賞恩賜賞を受賞する。その一方で54年に平泉遺跡調査会を組織し、観自在王院跡、毛越寺伽藍跡、中尊寺、柳之御所跡等の調査を実施、その整備事業にもあたり、また62年から68年まで国宝中尊寺金色堂保存修理工事委員会委員長を務めた。この間60年に東京大学を定年退官、同大学名誉教授となる。86年古建築・遺跡の歴史意匠的研究とその復原的設計における功績に対し、日本建築学会大賞を受賞。87年には「建築は綜合芸術である」を基本精神に、広い視野から建築文化・芸術文化の発展への寄与を目標とする綜芸文化研究所を設立。その経歴は自ら記した「古代への私の歩み」(『古代文化』450~453 1996年)に詳しい。著書は『平泉-毛越寺と観自在王院の研究』(東京大学出版会 1961年)、『韓の建築文化』(芸艸堂 1976年)、『復興四天王寺』(四天王寺 1981年)、『平泉建築文化研究』(吉川弘文館 1995年)、『中山道―宿場と途上の踏査研究』(東京堂出版 1997年)等多数あり、その著作・制作目録および年譜は『藤島亥治郎百寿の歴史』(非売品 1999年)、および『建築史学』39号(2002年)、『綜芸文化』6号(2002年)に収められている。

佐々木剛三

没年月日:2002/05/26

 美術史家で早稲田大学名誉教授の佐々木剛三は5月26日、肺炎のため京都市上京区の病院で死去した。享年73。佐々木は1928(昭和3)年7月1日、京都市に生まれた。47年4月早稲田大学第一文学部に入学、安藤正輝のもとで中国と日本の美術史を学んだ。安藤は、美術史家であり、歌人でもあった會津八一の愛弟子であった。51年3月に同大学第一文学部芸術学科美術専修を卒業、52年5月より京都国立博物館に勤務、島田修二郎の下で研鑽を積んだ。61年5月に早稲田大学第一文学部助手、翌年4月に非常勤講師、64年4月に専任講師、67年4月に第一・第二文学部助教授、72年に第一・第二文学部教授となり、1994(平成6)年3月に退職するまで30年間にわたって後進の指導にあたった。この間、第一文学部美術史学専攻主任、第二文学部美術専攻主任、第一、第二文学部教務主任を務めたほか、65年8月からは奈良にある財団法人寧楽美術館理事の職にあった。また、アメリカの日本美術史研究者との交流を通じ、日本の美術史研究の国際的な発展にも貢献した。66年9月から1年間、ロックフェラー財団の奨学金を得てミシガン大学美術史学科客員研究員、79年5月から翌年7月までカリフォルニア大学(バークレー)美術史学科客員教授、81年9月から12月までミシガン大学美術史学科の客員教授を勤め、アメリカにおける日本美術の研究者の育成に力をつくした。京都国立博物館時代での佐々木は、58年の美術史学会総会での「清涼寺釈迦像の図像学的考察」、あるいは60年の『美術史』38号での「兜跋毘沙門天像についての一考察」など仏教彫刻についての論考を発表していた。その後、早稲田大学に移ってからは生涯を通じての課題の一つとなった江戸後期の文人画、わけても田能村竹田の研究を本格化させており、65年の『美術史研究』3号の「田能村竹田筆<貴妃横琴図>」、82年の『古美術』64号の「木米と竹田」、「田能村竹田展」図録(大分県立芸術会館)の「田能村竹田と中国」などの論文のほか、『大分県先哲叢書 田能村竹田資料集』などの著作がある。さらに、万福寺を中心とする江戸期の禅宗美術や中国絵画、近世の画譜類にも研究の手を広げており、63年の『みづゑ』706号に「明清画と近代-中国明清美術展を機に」、73年の『古美術』43号に「明朝遺民龔賢」、翌年の『古美術』44号に「中国の論画と日本の画評」、88年の「中国古代版画展」図録(町田市立国際版画美術館)での「中国画譜と南宗文人画」、90年の「近世日本絵画と画譜絵手本」展図録(町田市立国際版画美術館)での「絵画と版画」などがある。また一方で、仏教絵画でも68年の『国華』912号で発表した「歓喜光寺蔵一遍聖絵の画巻構成に関する諸問題とその製作者について」のほか、垂迹美術の分野にも強い興味をもって研究を行っていた。海外での発表も数多く、67年にプリンストン大学で「On the Origin of the Style of Buddhist Sculptures in the Heian Period」、76年にニューヨーク日本協会神道シンポジウムで「On the Suijaku Painting」、84年にミシガン大学美術館で「On the Forgeries of Chikuden Paintings」、ウィスコンシン大学でのアメリカ美術史学会総会で「Some Thoughts on the Rakuchu―Rakugai Zu Screens」と題して講演を行った。佐々木の専攻は日本美術とはいえ、博く豊かな学識をそのままに反映して、関心は多岐にわたっている。それだけにその研究分野、領域は幅広いものがあるが、なかでも厳しい鑑識眼にも裏付けられた、垂迹美術や田能村竹田の絵画についての論考が、その研究の基盤となるような重要な仕事であった。研究の過程であつめられた資料の保存、保管等にも細かに気を配っていたが、生前、苦労して蒐集した明代の「顧氏画譜」、清初期の「芥子園画伝」など和本のコレクションが大阪府和泉市立久保惣記念美術館におさめられた。 編著書 『竹田』(鈴木進編)(日本経済新聞社 1963年) 『万福寺』(中央公論美術出版 1964年) 『清凉寺』(中央公論美術出版 1965年) 『竹田』(三彩社 1970年) 『日本美術絵画全集21 木米・竹田』(集英社 1977年) 「南画十選」『日本経済新聞』 1987年5月4日~5月16日 『大分県先哲叢書 田能村竹田資料集』(大分県教育庁(監修・編集) 1992年) 『神道曼荼羅の図像学』(ぺりかん社 1999年)

小口八郎

没年月日:2002/03/04

 保存科学研究者で東京藝術大学名誉教授の小口八郎は3月4日午前2時48分、肺炎のためさいたま市の病院で死去した。享年85。 1916(大正5)年12月2日、栃木県那須郡烏山町に生まれる。北海道大学理学部物理学科を卒業後、中谷宇吉郎の下で雪の結晶の研究を続け、1948(昭和23)年に同大学大学院特別研究生を修了し、理学博士となる。この当時、過冷却された降水が森林や物に当たって着氷する「雨氷現象」について研究を行う。62年に中谷宇吉郎死後、中谷静子と共に「中谷宇吉郎年譜」(『中谷宇吉郎随筆選集 第三巻』所収、1966年 朝日新聞社)を編纂する。49年、東京藝術大学美術学部に移り一般教養(自然科学)を担当し、伝統技術に関する科学的研究を行う。65年、東京藝術大学大学院美術研究科に、我が国で最初の文化財保存に関する教育課程として保存科学専攻が設立された際、初代教授となり84年に退官するまで学生の指導に当たる。教え子には沢田正昭、三浦定俊らの保存科学研究者がいる。68年に完成した新宮殿銅屋根の人工緑青に関する基礎研究を行い、「噴霧法による銅屋根の化学的着色法」(『東京芸術大学美術学部紀要』第1集 1965年)として発表し、74年に日本銅センター賞を受ける。また古美術材料について研究を行い、「日本画の着色材料に関する科学的研究」(『東京芸術大学美術学部紀要』第5集 1969年)、「天平塑像の科学的研究」(同第6集 1970年)、「土紋装飾の材質及び技法について」(『三浦古文化』20号 1976年)、「墨の研究」(『古文化財の科学』第20・21号 1977年)、「X線マイクロアナライザーによる古代青銅器の組織と材質の研究1、2」(『東京芸術大学美術学部紀要』第14・15号 1979・1980年)などの論文を発表し、これらを『古美術の科学―材料・技法を探る』(日本書籍 1980年)として公刊する。特に墨の研究は、史料に当たりながら実際に古い硯で明・清の名墨をすり下ろし、その墨粒の結晶を電子顕微鏡で観察して、松煙墨、油煙墨や墨色の違いを考察していて、現在でも墨に関する基礎的な文献となっている。国際的にも東京藝術大学が組織した中世オリエント遺跡学術調査団の第三次調査団(1970年)の団長として参加し、カッパドキヤ地方(トルコ)にある中世キリスト教の岩窟修道院壁画の総合調査を行い、壁画の材料及び技法に関する科学的研究を行った。この研究は中国へと広がり、後に『シルクロード―古美術材料・技法の東西交流』(日本書籍 1981年)として公刊された。1984年3月に東京藝術大学を定年退官し名誉教授となる。退官後も古文化財科学研究会(現文化財保存修復学会)の監事として活躍した。

千野香織

没年月日:2001/12/31

 美術史家で学習院大学教授の千野香織は12月31日、心不全のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年49。千野は1952(昭和27)年8月19日、内科医中村光甫と香壽子の長女として神奈川県横須賀市に生まれた。東京学芸大学附属世田谷小中校、同中学校を経て71年3月同附属高校を卒業。72年4月京都大学文学部に入学、76年3月文学部哲学科美学美術史学専攻を卒業。同年4月東京大学大学院人文科学研究科美術史学専修課程日本美術史専攻に入学。この年、高校の先輩で音楽家の千野秀一と結婚(82年離婚)。78年3月同大学院修士課程を修了、同年4月博士課程に進み、83年3月博士課程単位取得退学。同年5月より東京国立博物館資料部資料第一研究室研究員(文部技官研究職)。88年4月資料第二研究室へ異動。1989(平成元)年4月学習院大学に転出して文学部哲学科助教授となり、94年4月教授に昇格した。この間、92年7月より93年1月までハーバード大学客員研究員、97年4月より98年3月までコロンビア大学客員研究員となり、94年3月より99年4月まで美術史学会常任委員、97年6月より7月までハイデルベルク大学客員教授、2000年10月より01年3月までお茶の水女子大学客員教授を務めた。また、79年4月より徳川美術館研究員、99年6月より国立歴史民俗博物館運営協議委員、00年4月より国立民族学博物館客員教授、01年5月より美術史学会常任委員、01年9月より国立歴史民俗博物館第二期展示委員を務めていた。93年10月『フィクションとしての絵画』(西和夫と共著、ぺりかん社 1991年)により小泉八雲賞を受賞、02年12月大韓民国褒賞を追叙された。京都大学での千野は清水善三助教授のもとで日本美術史を学んで古代中世絵画史を専攻し、京都在住の美術史家梅津次郎の指導を受けた。平安期の屏風絵や障子絵に見られる和歌と絵画に関心をもった千野は研究成果を卒業論文「新名所絵歌合」にまとめた。東京大学大学院では秋山光和教授に師事して大和絵の研究を進め、修士論文「神護寺山水屏風の研究」を提出。視野が広く発想の柔軟な千野の研究は刮目され将来を嘱望された。東京国立博物館資料部での千野は、資料第一研究室で『ミュージアム』など同館の出版物の編集を行うかたわら、86年度より始まった「館所蔵模写・模本類による原品復元に関する調査研究」の初年度に行われた「江戸城本丸等障壁画に関する調査研究」、87年度「古画類聚に関する調査研究」に携わった。その成果は特別展観「江戸城障壁画の下絵-大広間・松の廊下から大奥まで-」(1988年2~3月於同館東洋館)、『調査研究報告書江戸城本丸等障壁画絵様』(東京国立博物館 1988年)、『調査研究報告書古画類聚』(同 1990年)として公表された。88年1月から『茶道の研究』誌上に建築史家西和夫との「連論」形式の連載を始めた千野は、学習院大学に転出後、92年4月美術史学会東支部例会シンポジウム「絵画史料をどう読むか―建築史と美術史の立場、そして共通の視点―」を建築史学会と共催するなど、関連領域との交流を通じて美術史学のあり方を問うようになった。さらに欧米の状況に関心を向けた千野は「アメリカ合衆国における日本美術史研究の方法論に関する研究」をテーマに掲げ、ハーバード大学客員研究員として鹿島美術財団の「美術に関する国際交流の援助(海外派遣)」により92年9月より11月まで2ヶ月半米国に滞在した。同大学ではノーマン・ブライソン「フランス絵画における物語」、ジョセフ・カーナー「美術史の方法と理論」、エヴァ・ライヤーバーカート「フェミニスト理論と現代芸術」の講義を聴講するなど、90年頃に始まるニューアートヒストリーの潮流に接した。千野自身も「日本絵画における鑑賞者の役割と物語の構造」「日本の自己規定にみる性差(ジェンダー)、立場、他者―中国/日本、男性性/女性性―」を同大学で講演した。帰国後は93年1月の美術史学会東支部例会シンポジウム「フェミニズムと美術史」において「日本美術のジェンダー」を発表。以後、日本美術史にジェンダー批評を導入した議論を展開した。93年6月には美術史家鈴木杜幾子と共同でハーバード大学のブライソン教授を招聘して学習院大学で3回のセミナーを開催。95年3月には美術史家若桑みどり等とともにイメージ&ジェンダー研究会を発足させた。さらにポストコロニアル理論に関心を広げた千野は、国立民族学博物館の吉田憲司の主宰する共同研究「近代における「異文化」像の形成」(1995~97年度)、「近代日本の「異文化」像と「自文化」像の形成」(1998~00年度)に参加して、博物館の異文化展示を研究テーマとした。01年度からは自ら代表者を務めて共同研究「「伝統」の表象とジェンダー」を進めていた。吉田との共同研究がきっかけとなり千野はしばしば韓国を訪れるようになり、批評理論に関心をもつ韓国の研究者と交流した。98年10月に梨花女子大学校で開催された国際シンポジウム「身体と美術―記号学的アプローチ」では「醜い女はなぜ描かれたか―ジェンダーとクラスの観点からの分析」を発表して大きな反響を得た。大和絵研究から出発した千野は、80年代後半から学問の細分化や枠組みの問題を取り上げるようになり、90年以後は視覚表象のもつ社会的政治的側面に関心を向けた。特に後年は、現実社会の困難を解決する実践方法を求めて研究と批評を結び付ける努力をし、多くの発言と活発な活動を行った。また教育にも熱心に取り組んだ。01年12月の美術史学会東支部特別例会シンポジウム「中学校の歴史教科書における日本文化・美術の語られかた」の開催が最後の大きな仕事となったが、千野の急逝は各方面から惜しまれた。公正を重んじる誠実で穏やかな人柄は多くの人に慕われ、「お別れの会」(02年1月14日於学習院創立百周年記念会館)には1200人以上が参列した。なお、千野の旧蔵書は02年7月に韓国ソウル市の国立中央博物館の所蔵となった。 編著書 『名宝日本の美術11信貴山縁起絵巻』小学館1982 『フィクションとしての絵画―美術史の眼 建築史の眼』ぺりかん社1991(共著) 『日本の美術301伊勢物語絵』至文堂1991 『日本美術全集12南北朝・室町の絵画Ⅰ水墨画と中世絵巻』講談社1992(共編) 『岩波日本美術の流れ3 10-13世紀の美術 王朝美の世界』岩波書店1993 『日本美術全集13南北朝・室町の絵画Ⅱ雪舟とやまと絵屏風』講談社1993(共編) 『美術とジェンダー―非対称の視線』ブリュッケ1997(共編) 『女?日本?美?―新たなジェンダー批評に向けて』慶應義塾大学出版会1999(共編) 『日本の美術416西行物語絵』至文堂2001 『岩波講座近代日本の文化史』岩波書店2001~(編集委員) 主要論文・論説 「「西行物語絵巻」の復原的考察」『仏教芸術』120、1978 「神護寺蔵「山水屏風」の構成と絵画史的位置」『美術史』106、1979 「日高川草紙絵巻にみる伝統と創造」『金鯱叢書』8、1981 「日本の絵を読む―単一固定視点をめぐって」『物語研究』2、1988 「滋賀県立近代美術館蔵・近江名所図屏風の景観年代論について」山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館1989 「春日野の名所絵」秋山光和博士古稀記念論文集刊行会編『秋山光和博士古稀記念美術史論文集』便利堂1991 「建築の内部空間と障壁画―清涼殿の障壁画に関する考察」大河直躬ほか編『日本美術全集16江戸の建築1彫刻』講談社1991 「大学院生とのセミナー報告 ノーマン・ブライソン教授と「新しい美術史学」の模索―ジェンダー・国家・セクシュアリティ」『月刊百科』376、1994 「日本美術のジェンダー」『美術史』136、1994 「女を装う男―森村泰昌「女優」論」『森村泰昌 美に至る病―女優になった私』展図録、横浜美術館、1996 「嘲笑する絵画―「男衾三郎絵巻」にみるジェンダーとクラス」伊東聖子ほか編『女と男の時空 日本女性史再考2おんなとおとこの誕生―古代から中世へ』藤原書店1996 「日本の障壁画にみるジェンダーの構造」『美術史論壇』4、1996 「支配的・権力的な「視線」の意味を問い、美術史のパラダイムチェンジをはかる」『別冊宝島』322、1997 「醜い女はなぜ描かれたか―中世の絵巻を読み解く「行為体」とジェンダー」『歴史学研究』増刊号、1999 「戦争と植民地の展示―ミュージアムの中の「日本」」栗原彬ほか編『越境する知1身体―よみがえる』東京大学出版会2000 「「伊勢物語」の絵画―「伝統」と「文化」を呼び寄せる装置」 『特別展 伊勢物語と芦屋』図録、芦屋市立美術博物館、2000 「希望を身体化する―韓国のミュージアムに見る植民地の記憶と現代美術」『神奈川大学評論』39、2001 「視覚的に歴史の隠蔽をはかる」『別冊歴史読本』87、2001 「「ナヌムの家」歴史観から、あなたへ」ナヌムの家歴史館後援会編『ナヌムの家歴史館ハンドブック』柏書房2002 なお、論著の検索には『イメージ&ジェンダー』3(02年11月)収載の亀井若菜編「千野香織さんの〈著作・論文〉一覧」がある。

本間正義

没年月日:2001/10/10

 ながらく美術館の運営に携わり、美術史研究、美術評論でも多くの業績を残した本間正義は、10月10日膵臓がんのため死去した。享年84。1916(大正5)年12月25日、新潟県長岡市に生まれる。1940(昭和15)年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年12月応召。中国各地に渡り、終戦後の46年6月に復員した。49年11月から53年9月まで埼玉大学文理学部助手として勤務した。同年同月より国立近代美術館調査員に任命され、57年10月より同美術館事業課研究員となった。63年3月には同美術館事業課長となり、69年7月からは同美術館次長に昇任した。77年、国立国際美術館の初代館長となる。81年に同職を辞した後、82年から1991(平成3)まで、埼玉県立近代美術館長を歴任した。この間、文化庁保護審議会臨時委員をはじめ、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館の評議員会評議員、公私立美術館の各種委員をつとめた。また、68年の第1回インド・トリエンナーレ展、71年の第9回リュブリヤナ国際版画ビエンナーレ展、同年の第11回サンパウロ・ビエンナーレ展など、国内外の展覧会の審査員をつとめた。85年から90年まで、全国美術館会議副会長をつとめた。旺盛な美術評論活動のほか、美術史研究の面では、「天平時代絵師考」(『国華』732号から735号、1953年)など仏教美術研究から発して、近代日本の彫刻にも視野をひろげ、「平櫛田中の芸術」(『平櫛田中彫琢大成』講談社 1971年)、『近代の美術16 円空と橋本平八』(至文堂 1973年)などの業績がある。とくに、橋本平八研究では、造形主義的な近代美術研究に対して、円空から影響をうけた、アニミズムの視点がユニークで、近代美術にながれる水脈に焦点をあてたことは評価される。ほかに、『近代の美術3 日本の前衛美術』(至文堂、1971年)など、大正期の前衛美術研究についても先駆的な業績を残した。88年には、それまでの執筆してきた作家論と広範な視野にたって論じた展覧会、美術館の問題をめぐる評論文をまとめて、『私の近代美術論集』(全2巻 美術出版社)を刊行した。

堀池春峰

没年月日:2001/08/31

 日本仏教史の研究者で東大寺史研究所長あった堀池春峰は8月31日午前9時、骨盤内腫瘍のため奈良市内の病院で死去した。享年82。1918(大正7)年12月8日、代々東大寺の会計を務めた「小綱(しょうこう)」の家系堀池家に長男として生まれる(本名は義也)。1936(昭和11)年3月、奈良県立奈良中学校を卒業。同年4月6日、雲井春海東大寺管長のもと得度、春峰と改名する。翌年2月には東大寺小綱職となり、80年までほぼ毎年、同寺二月堂の修二会(お水取り)に出仕。物資不足の戦中戦後にも用度担当者として資材の確保に尽力し、行の中断を防いだ。40年、雑誌『華厳』の編集委員となる。同年3月、修二会参籠中に応召されるが、7月、傷病し、除隊。48年3月、京都大学文学部国史学専攻卒業。同年4月、京都大学文学部大学院(旧制)に入学。51年、文化財保護委員会の依嘱により、京都市・滋賀県・和歌山県・奈良県の寺院所蔵の仏典・文書の調査に従事(65年7月まで)、現在の聖教調査の基礎をつくりあげるとともに、高山寺、醍醐寺といった近畿古刹の古文書研究で業績を残した。52年4月、奈良県綜合文化調査委員、53年4月、奈良国立文化財研究所の非常勤調査員(2001年3月まで)、61年5月、東大寺図書館司書、66年、奈良市文化財審議委員・東寺百合文書査定委員、1989(平成元)年、奈良文化財委員を兼務し、奈良国立博物館評価委員をたびたび勤めた。また、関西大学文学部非常勤講師(1964、66~68年)、奈良女子大学文学部非常勤講師(1965年)、奈良大学文学部客員教授(古文書学、1970~88年)を歴任した。85年には東大寺史研究所長に就任。この間、65年に全真言宗文化賞を受賞、77年には『古代朝鮮・日本仏教文化交渉史の研究』で朝日新聞文化賞を受賞する。2000年には文化財保護法五十年特別功労者文部大臣表彰を受けた。著書・編著に大著『南都仏教史の研究(上・下)』(法蔵館 1980・82年)のほか、『東大寺』(京都印書館 1945年)、『東大寺遺文(一~八)』(東大寺図書館 1951~56年)、『公慶上人年譜聚英』(東大寺 1954年)、『重源上人の研究(続)』(南都仏教研究会 1955年)、『聖武天皇御伝』(東大寺 1956年)、『高山寺遺文抄』(私家版・田中稔との共編 1957年)、『東大寺図書館蔵宗性・凝然写本目録』(東大寺 1959年)、『東大寺国宝重文善本聚英』(東大寺図書館 1968年)、『唐招提寺古経選』(中央公論美術出版 1975年)、『東大寺お水取り二月堂修二会の記録と研究』(小学館 1985年)、『霊山寺菩提僧正記念論集』(霊山寺 1988年)、『東大寺文書を読む』(思文閣出版 2001年)があり、学術論文には「法華堂地蔵菩薩像についての一考察」(『美術研究』166)、「法華堂の旧不動明王像について―椿井仏師と高天仏師―」(『大和文化研究』三-六)ほか100以上に及ぶ。

吉田漱

没年月日:2001/08/21

 歌人で美術史家の吉田漱は8月21日、肺炎のため死去した。享年79。1922(大正11)年3月11日、東京府北豊島郡雑司谷町(現豊島区南池袋)で彫刻家吉田久継の長男として生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校油絵科に入学。43年の学徒出陣により中国大陸中部を転戦。敗戦、復員後の47年に東京美術学校を卒業。この年アララギ歌会に出席し土屋文明に入門、翌年にはアララギの若手集団「芽」に参加。49年東京の区立中学教員となる。51年には近藤芳美を中心とする歌誌『未来』の創刊に参加。56年には歌集『青い壁画』を刊行、さらに短歌に関する編集・注釈にたずさわる一方で64年に『開化期の絵師・小林清親』(緑園書房)を出版、以後美術史、とくに浮世絵関係の執筆をも多く手がけるようになる。『浮世絵の基礎知識』(雄山閣出版 1974年)では絵師伝中に墓所の記述を添えるなど、行動力に基づき実体験で立証する真摯で手堅い学風だった。67年東京都立秋川高校へ転任。自身がエスペランティストだったこともあり、69年には利根光一のペンネームでエスペランティスト長谷川テルの一生を描いた『テルの生涯』を著す。70年代に入ると美術教育に関する執筆も増え、76年に横浜国立大学教育学部講師となり、同年から78年まで文部省高等学校学習指導要領作成協力者を務める。78年岡山大学教育学部助教授、79年同大学教授となり85年に退職、同大学大学院講師(87年まで)、多摩美術大学講師(90年まで)を務める。小林清親研究の延長で出会った河鍋暁斎の研究とその再評価にも大きく貢献し、87年には河鍋暁斎研究会会長となる(94年まで)。1992(平成4)年日本浮世絵協会第11回内山賞を受賞。95年第31回短歌研究賞、98年『「白き山」全注釈』で第9回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞。生前の『未来』570号(1999年7月)に詳細な自筆年譜が掲載されている。 主要著書(美術関係) 『開化期の絵師・小林清親』(緑園書房 1964年) 『浮世絵の基礎知識』(雄山閣出版 1974年) 『浮世絵の見方事典』(溪水社 1987年)

福永重樹

没年月日:2001/08/05

 東京都の目黒区美術館長の福永重樹は、メキシコのガナファト市で開催される現代日本版画展の開会式に出席するため滞在していたが、脳梗塞で倒れ、レオン市の病院で急性肺炎のため死去した。享年68。1933(昭和8)年7月7日、東京都港区明石町に生まれる。53年、東京都立一ツ橋高等学校を卒業、同年上智大学文学部史学科に進学、57年に卒業、同年より静岡県の雙葉高等学校に赴任した。67年、東京のサントリー美術館の学芸員となった。同美術館在職中、上智大学大学院文学研究科史学専攻に学び、71年に修了した。同美術館では、少数の学芸スタッフのなか、年に6、7回の企画展を担当し、国内外の工芸、日本画、版画の展覧会をつぎつぎに開催し、視野を広げていった。76年5月、京都国立近代美術館事業課主任研究官として異動した。同美術館在職中は、「今日の造形<織>―アメリカと日本」(77年)、「現代ガラスの美―ヨーロッパと日本」(80年)、「今日のジュエリー―世界の動向」(84年)、「現代イタリア陶芸の4巨匠」(87年)など、世界的な視野にたったユニークな工芸関係の展覧会を企画担当した。1993(平成5)年、国立国際美術館学芸課長に昇任した。95年6月に目黒区立美術館館長に就任した。同美術館では、毎年開催された「朝日陶芸展」、「昭和シェル石油現代美術賞展」の審査をつとめるとともに、「染めの詩 三浦景生展」(98年)、「京友禅 きのう・きょう・あした」(99年)、「陶の標―山田光」展(2000年)、「栗辻博展 色彩と空間とテキスタイル」(同年)などを企画した。伝統工芸から現代美術まで、広い視野で数々の論文、批評を残し、主な編著作には、「近代の美術40 近代日本版画」(至文堂、77年)、「現代日本美人画全集 第2巻 鏑木清方」(集英社 1977年)、「近代の美術47 現代の金工」(至文堂 1978年)がある。また美術館人として多くの展覧会を企画担当し、展示にあたっても、既成の感覚にとらわれない斬新な試みもつづけていた。

楢崎宗重

没年月日:2001/07/18

 浮世絵研究の第一人者で立正大学名誉教授の楢崎宗重は7月18日午後0時15分、心不全のため死去した。享年97。 1904(明治37)年6月26日、佐賀県唐津市の農家に生まれる。1927(昭和2)年旧制第五高等学校(現熊本大学)を卒業し、東京帝国大学文学部に入学。30年に同大学文学部美学美術史学科を卒業し、当時文部省宗教局に在籍していた藤懸静也の門に入る。32年より『浮世絵芸術』(大鳳閣)編集に携わり、36年には雑誌『浮世絵界』(浮世絵同好会)を創刊、当時未だ趣味的な分野と見られがちだった浮世絵に美術史研究の対象として取り組むとともに、多くの研究者に発表の場を提供し、研究のレベルアップを推進するという姿勢を終生貫くことになる。42年立正大学文学部講師に就任し、日本美術史を教える。45年、戦争で中断していた『国華』の、朝日新聞社による復刊にともないその実務を担当。46年日本浮世絵協会(第二次)を設立、常任理事を務める。同年に雑誌『浮世絵と版画』(渡邊木版美術画舗)を創刊。54年立正大学文学部教授に就任、「近世初期風俗画について」で文学博士号を取得する。60年日本風俗史学会副会長に就任。62年日本浮世絵協会(第三次)を設立、理事長、会長(82年より)として浮世絵研究と普及の両面で活発な活動を展開する。その範囲は海外にも及び、調査を基に72年『在外秘宝』(学習研究社)を刊行、同年浮世絵協会創立十周年を記念した「在外浮世絵名品展」を各地で開き、また東京での国際シンポジウム開催にも尽力した。77年立正大学教授を定年退官、名誉教授となる。同年勲四等旭日小綬章を受章。80年浮世絵専門美術館の草分けである太田記念美術館が開館し、名誉館長に就任。80~82年には多年の構想を経て、海外を含めた浮世絵界の総力を結集させた『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店)を刊行する。80年第1回内山賞(内山晋米寿記念浮世絵奨励賞)受賞。1989(平成元)年青山学院女子短期大学図書館に蔵書を寄贈、“楢崎文庫”と命名される。94年東海道広重美術館の名誉館長に就任。95年研究の過程で集まった古美術品480点を東京都墨田区(北斎館)に寄贈。98年浮世絵協会が国際浮世絵学会と改めるにあたり、名誉会長に就任。没後の2001年11月には同学会が発行する『浮世絵芸術』141号で追悼号が編集され、各関係者の追悼文および稲垣進一「楢崎宗重先生略年譜」、酒井雁高「楢崎宗重/著作目録」が掲載、同年9月発行の『北斎研究』29号にも略年譜と編著目録が掲載されている。墓所は研究対象として取り組んできた浮世絵師、葛飾北斎と同じ東京都台東区元浅草の誓教寺。 主要著書 『日本風景版画史論』(近藤市太郎と共著 アトリエ社 1943年) 『北斎論』(アトリエ社 1944年) 『浮世絵史話』(巧芸社 1948年) 『北斎と広重』(講談社 1963年) 『肉筆浮世絵』(講談社 1970年) 『浮世絵の美学』(講談社 1971年) 『楢崎宗重 絵画論集』(講談社 1978年)

山根有三

没年月日:2001/05/22

 美術史家で東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授の山根有三は5月22日午後2時28分、敗血症のため死去した。享年82。山根は1919(大正8)年2月27日、大阪府に生まれた。父は花道家の山根廣治(号翠道)、母は百合子。1940(昭和15)年3月第三高等学校文科甲類卒業、同年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科入学。42年9月同学科を繰上げ卒業、同年10月同大学大学院入学。44年4月恩賜京都博物館(現京都国立博物館)に工芸担当の鑑査員として勤務。同年6月教育召集により神戸の高射砲中隊に入営。45年9月除隊して恩賜京都博物館に復職。51年10月神戸大学文理学部助教授、55年7月東京大学文学部助教授、69年5月同教授、79年3月定年退官。翌80年4月群馬県立女子大学教授、85年3月退職。この間、61年4月より66年3月まで文化財保護委員会事務局美術工芸課調査員を併任、68年5月より69年12月まで学術審議会専門委員、76年7月より86年5月まで文化財保護審議会専門委員、86年6月より1994(平成6)年6月まで文化財保護審議会委員、90年4月より99年4月まで『国華』主幹などを歴任した。84年4月より出光美術館理事、99年4月より『国華』名誉主幹を務めていた。99年に朝日賞を受賞、00年に文化功労者に選ばれた。戦後、恩賜京都博物館に復職した山根は46年に絵画担当の鑑査員になると智積院障壁画の研究を始め、49年に発足したばかりの美術史学会の関西支部例会で等伯研究の成果を発表。同学会誌『美術史』創刊号(50年)に掲載された「等伯研究序説」が出世作となった。しかし、38年に土居次義が唱えた「等伯信春同人説」(それまで等伯の子久蔵と同一人と考えられていた信春を等伯の前身とする新説)が戦後の学界に受け入れられるようになると、自らの鑑識眼と様式的判断から同人説に納得できなかった山根は等伯研究を中断し、宗達光琳研究に転じた。54年4月から東京大学史料編纂所に1ヶ年の内地留学を行い、『中院通村日記』『二條綱平公記』など未刊の古記録から宗達光琳関係の史料を見出した。58年11月に開催された「生誕三百年記念光琳展」(日本経済新聞社主催、於東京日本橋白木屋百貨店)では田中一松とともに作品の調査と選定に当たり、同展を機に刊行された田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に「光琳年譜について」「落款と印章」を発表した。続いて61年5~6月に開催された「俵屋宗達展」(日本経済新聞社主催、於東京日本橋高島屋)では自ら作品の選定に当たり、研究成果を『宗達』(日本経済新聞社 1962年)にまとめた。また同年、55年以来取り組んできた『小西家旧蔵光琳関係資料とその研究-資料』(中央公論美術出版 1962年)を刊行。『桃山の風俗画』(日本の美術17巻 平凡社 1967年)では、それまで町絵師の手になる初期肉筆浮世絵として評価されていた慶長から寛永年間の風俗画の優品を狩野派主流の作とする見解を示し、以後定説化された。編集に携わった『障壁画全集』(全10巻 美術出版社 1966~72年)では、障壁画を単なる大画面絵画とせず、建築との関係を重視した障壁画の総合的な共同研究を提唱し、同全集『南禅寺本坊』(1968年)によって自ら実践した。また当時一世を風靡した『原色日本の美術』(全30巻 小学館 1966~72年)の企画に加わり、『宗達と光琳』(第14巻 1969年)を著した。75年には琳派研究会を組織して同年6月から1ヶ月に及ぶ米国調査を敢行。成果を『琳派絵画全集』(全5巻 日本経済新聞社 1977~80年)にまとめた。また、美術雑誌『国華』の編集委員として89年3~5月の「室町時代の屏風絵―『国華』創刊100年記念特別展」(於東京国立博物館)を成功させ、「国華賞」の創設(1989年)に尽力した。90年に主幹に就くと、遅れがちだった同誌の刊行を軌道に乗せるなど、『国華』の経営改善に当たった。94年より『山根有三著作集』(全7巻 中央公論美術出版 ~1998年)を刊行。晩年は長谷川派の研究に復帰し、著作集第6巻『桃山絵画研究』(98年)に新稿「等伯研究―信春時代を含む等伯の画風展開」を書下ろしたほか、長谷川派についての論考を相次いで発表し、それまで埋もれていた等秀、等学らの画跡を見出した。01年の「狩野興以の法橋時代の画風について―名古屋城・二条城障壁画筆者の再検討を背景に」(『国華』1264)号)が絶筆となった。桃山時代を中心とした近世絵画史と、とりわけ琳派の研究に大きな成果をあげた山根の学風は、個々の作品に対する直観を重んじる一方で、史料の博捜と綿密な読解による裏付けを欠かさず、互いに相容れにくい美的直観と客観的実証とを両立させるところに特色があり、無味乾燥な様式論とは無縁な、人間味ある議論を展開して魅力があった。また、長い教壇生活を通じて数多くの研究者を育てた。山根の年譜と著作については、『山根有三先生年譜・著作目録(抄)』(東京大学文学部美術史研究室、1989年および98年)、『山根有三年譜・著作目録(抄)』(山根かほる 2001年)の3冊の目録がある。履歴については、自ら記した「わが美術史学青春記」(山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館 1989年)と『私の履歴書 日経版 決定本』(小学館スクウェア 2001年)がある。

中村溪男

没年月日:2001/05/19

 美術史家、美術評論家の中村溪男は5月19日午前6時50分、心不全のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年8月26日、日本画家中村岳陵の長男として生まれる。本名は秀男で、横山大観が自らの本名秀麿より一字をとって命名したもの。1947(昭和22)年慶應義塾大学文学部国史学科を卒業。その前年より帝室博物館(現東京国立博物館)列品課金工区室員、48年より同課絵画区室員を経て、49年東京国立博物館学芸部絵画部文部技官に任官。この頃より溪男の筆名を用いるようになる。博物館では56年の雪舟展、74年の雪村展を担当するなどとくに室町水墨画についての見識を有し、数々の著作を行なう一方、父の先輩でもあった早世の画家今村紫紅の評価につとめるなど近代日本画史の形成にも貢献した。59年より博物館勤務の傍ら日本女子大学文学部史学科の講師に招かれ日本美術史を担当、84年まで教壇に立つ。81年東京国立博物館学芸部主任研究官に任ぜられ、同館名誉館員となる。翌年同館主催のボストン美術館蔵・日本絵画名品展に際し、同展の総責任者を務め、ボストン美術館で「祥啓画山水図について」と題し講演を行なう。83年東京国立博物館を停年退官し、山種美術館副館長(85年より事務局長)となる。その傍ら85年には宇都宮文星短期大学教授美術学科長に就任。86年にはデトロイト美術館主催のシンポジウムに招待され、「雪舟の周防行きについての意義」と題する講演を行なう。1995(平成7)年から98年まで成田山書道美術館副館長を務める。同美術館退職後は自宅の傍らに「アトリエ 悠・然」を開設主宰、日本画の実技指導や美術講演、美術談義を行なっていた。 主要著書 『雪舟』(大日本雄弁会講談社 1956年) 『永徳』(平凡社 1957年) 『日本人の表情』(社会思想研究会出版部 1958年) 『日本の絵画』(社会思想研究会出版部 1959年) 『墨絵の美』(明治書房 1959年) 『日本近代絵画全集20 今村紫紅』(講談社 1964年) 『日本の美術17 明治の日本画』(至文堂 1967年) 『カラーブックス194 絵画に見る日本の美女』(保育社 1970年) 『東洋美術選書 祥啓』(三彩社 1970年) 『日本の美術63 雪村と関東水墨画』(至文堂 1971年) 『近代の日本画 菱田春草』(至文堂 1973年) 『日本絵画全集4 雪舟』(集英社 1976年) 『茶画のしおり』(茶道之研究社 1979年) 『抱一派花鳥画譜』(紫紅社 1978~80年) 『古画名作裏話』(大日本絵画 1986年) 『冷泉為恭と復古大和絵派』(至文堂 1987年) 『四季の茶画』(求龍堂 1990年) 『今村紫紅』(有隣堂 1993年)

関野克

没年月日:2001/01/25

 文化功労者で東京大学名誉教授でもあった建築史家関野克は、1月25日午前1時肺炎のため東京都西東京市保谷町の自宅で死去した。享年91。1909(明治42)年2月14日、建築史家関野貞(せきのただし)を父に東京に生まれる。1929(昭和4)年旧制浦和高等学校理科甲類を卒業し、翌30年東京帝国大学工学部建築学科に入学する。当初は建築デザインに興味をいだくが、33年同学科を卒業して大学院に進学すると建築史を専攻とし、日本の住宅史研究に力を注ぎ、「日本古代住居址の研究」(『建築雑誌』1934年)を皮切りに古代、中世の住宅建築に関する調査・研究に優れた業績をあげる。東京大学大学院在学中の35年9月より東京美術学校の非常勤講師をつとめる。37年藤原豊成功殿の復元などを含む「古文書による奈良時代住宅建築の研究」により第一回建築学会賞を受賞する。38年4月25日東京帝国大学大学院を満期退学。40年1月同学工学部助教授となり、41年同学第二工学部設立準備委員会常務幹事、翌42年同学第二工学部勤務となる。この間、我国における住宅史建築のはじめての通史となる『日本住宅小史』(相模書房)を刊行。43年2月応召。45年9月召集解除となり、同年同月「日本住宅建築の源流と都城住宅の成立」により工学博士となる。46年東京帝国大学第二工学部教授、49年東京大学生産技術研究所教授となる。51年登呂遺跡の竪穴式住居部材の発掘を機に、日本ではじめての古代住宅の復元となる登呂遺跡竪穴式住居復元を行い、敗戦間もない我国において太古の住居イメージを実証的に提示して注目された。一方、49年の法隆寺金堂炎上によって貴重な文化財を保存することへの意識が高まる中で50年文化財保護委員会事務局が設置されると関野はその建造物課初代課長に任ぜられ、57年4月まで東京大学生産技術研究所教授との兼務を続ける。これ以後、建築史学の調査研究と文化財の保存との両分野にわたって活躍。52年4月から東京国立文化財研究所保存科学部長をも兼務する。57年4月文化財専門審議会専門委員(61年8月まで)、60年宮内庁宮殿造営顧問(68年11月まで)となる。また、姫路城、松本城など大型建造物の解体修理などにも従事した。65年東京国立文化財研究所所長となり、69年3月東京大学を定年退官し、同学名誉教授となるまで東大教授と兼務する。70年財団法人万博協会美術展示委員、72年4月高松塚古墳保存対策調査委員となる。73年「腐朽木材に科学的処置を加えて耐用化し、再使用することによる古建築復元の一連の業績」により日本建築学会賞を受賞。78年東京国立文化財研究所を退任し、博物館明治村館長となる。79年長年にわたる国宝・重要文化財建造物の修理、復元の功績により勲二等瑞宝章受章。戦後まもなくより文化財保護に関する国際交流にも尽力し、86年「文化財保存修理技術の近代化と国際交流における功績」により日本建築学会大賞受賞。1989(平成元)年「イコモス(国際記念物遺跡会議)国内委員会設立の業績」によりイコモスよりピエロ・カゾーラ賞を授与される。90年、長年の文化財保護における政策、行政、人材育成の功績により文化財保護の分野においてはじめて文化功労者として顕彰された。その経歴、著作目録および残された史料の所在については藤森照信「関野克先生を偲ぶ」(『建築史学』37号 2001年9月)に詳しい。

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