本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





坪井九馬三

没年月日:1936/01/21

 考古学の権威、元東大文学部教授文学博士坪井九馬三は豫て病気療養中であつたが1月21日午後逝去した。享年78。岐阜県の出身。彼の専門は西洋史学にあつたが、凡そ朝鮮史にあれ蒙古史にあれ、史学各分野に於てその啓発せるところ少くなく、又補助学として古文書学、金石学、歴史地理学、言語学、考古学に対しても多大の関心を寄せ、或は本邦銅鐸及支那鏡鑑の研究に、或は東西文化の交渉に関する研究に新機運を促す等、考古学界に対して史学者の立場から多大の示唆と鞭撻を与へた。昭和5年三宅博士の後を承けて考古学会の会長に就任し逝去の日に及んだ。

関野貞

没年月日:1935/07/29

 工学博士、東京帝国大学名誉教授。慶応3年12月15日旧高田藩士の家に生れ明治28年工科大学造家学科を卒業、翌29年東京美術学校講師となり、爾来東洋及び日本建築史を講じて今日に及び、又同年内務省嘱託として古社寺保存計画に参与し、次いで奈良県技師として古社寺の修理を担当し傍大阪に於ける日本生命保険会社本社の設計に従事した。右は博士の設計に掛る唯一の洋式建築である。 明治34年工科大学助教授に任ぜられ内務省文部省並に造神宮技師を兼任し翌明治35年6月韓国へ出張を命ぜられ、初めて同国建築の調査研究に手を染めた。次いで法隆寺金堂塔婆及中門非再建論、平城京及大内裏考等を発表し、41年工学博士の学位を授けらる。同年韓国度支部より古建築調査に関する調査を嘱託せられ、大正4年始めて朝鮮古蹟図譜第1冊を編纂し爾来引続き15冊を公刊した。大正6年の之が功績に対し、仏国学士院金石学及美文学院よりスタニスラスジユリアン賞金を贈らる。大正7年建築史研究の為支那、印度、英、仏、伊の諸国に留学を命ぜられ、同9年帰朝、直ちに教授となり、従前の通り内務、文部両技師を兼任し、古社寺(現今の国宝)保存会委員、史蹟名勝天然紀年物調査会臨時委員、学術研究会議員等被仰付、昭和3年依願本官を免ぜられ、次いで東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。 昭和4年4月東方文化学院東京研究所の設立せらるるや其評議員となり併せて研究員として支那歴代帝王陵の研究に従事し、同8年其の研究を完了し、引続き遼金時代の建築の研究に当り、既に遼金時代の建築と其仏像図版上下2冊を公刊し之と同時に熱河の諸建築の研究を遂げ図版4冊を公表し、更に日満文化協会評議員として幾多の研究問題其他重要なる提案をなし着々其の功を収めつつあつた。 博士の我美術史界の先覚として今日に至る迄の業績は到底一旦にして数ふべからず、今その訃に接して唯茫然たるものがあるが、就中その直前に最も力を注いで居た大陸半島美術に関する研究が凡て半途に終れるの痛嘆に余りあるを思ふのである。享年69。 次に博士の今日迄に公表せられたる最も主要なる著作を挙げてその迹を偲ぶ。一、天平創立の東大寺大仏殿及其仏像 建築雑誌第182、183号(明治35年2、3月)一、韓国建築調査報告、東京帝国大学工科大学学術報告第6号(明治37年8月)一、法隆寺金堂、塔婆及中門非再建論 建築雑誌第218号(明治38年2月)一、平城京及大内裏考 東京帝国大学紀要工科第3冊(明治40年6月)一、朝鮮古蹟図譜 既刊15冊解説第4冊迄 朝鮮総督府(大正4年ヨリ)一、支那山東省に於ける漢代墳墓表飾 図版1冊本文1冊 東京帝国大学紀要工科第8冊第1号(大正5年)一、支那仏教史蹟 常盤大定博士共著、図版5冊解説5冊 仏教史蹟研究会(大正14年ヨリ昭和4年迄)一、楽浪郡時代之遺蹟 図版上下2冊本文1冊朝鮮総督府(大正15年)一、瓦 雄山閣(昭和3年)一、高句麗時代之遺蹟 図版上下2冊本文未完朝鮮総督府(昭和3、4年)一、支那建築 塚本、伊東両博士ト共著 図版2冊解説2冊 建築学会(昭和4年ヨリ7年迄)一、朝鮮美術史 朝鮮史学会(昭和7年)一、支那工芸図鑑 瓦磚編及玉石工雑工編 帝国工芸会(昭和8年)一、熱河 図版4冊本文未刊 座右宝刊行会(昭和9年)一、遼金時代の建築と其仏像 図版上下2冊本文未刊 東方文化学院東京研究所(昭和9、10年)(以上美術研究昭和10年8月号より転載)

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