本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





上野アキ

没年月日:2014/10/12

 美術史家で東京文化財研究所名誉研究委員の上野アキは、10月12日、癌のため、死去した。享年92。 1922(大正11)年9月15日に生まれる。父上野直昭は、京城帝国大学教授、大阪市立美術館長、東京藝術大学学長等を歴任した美術史家、母ひさは、大正3年に音校のヴァイオリンを卒業したヴァイオリニストであった。姉のマリは、美術史家吉川逸治の妻となった。24年から1927(昭和2)年までの約2か年半、父がドイツに留学したため、鎌倉の祖父母の家に預けられた。その後、父が京城帝国大学教授となったので、27年8月から38年10月まで、京城で暮らした。この間に、父と共に慶州や仏国寺等を訪れ、石窟庵など見学した。 40年3月、私立桜蔭高等女学校を卒業。同年4月に東京女子大学高等学部に入学し、42年9月に同校を第3学年で繰り上げ卒業した。41年2月に大阪市立美術館長となった父が、この時期、夙川のアパートメントに住んでいたので、卒業後、1か月あまり、ここに居候し、寺や美術館などを見て歩いた。当時進められていた法隆寺の壁画模写を見学し、聖林寺の聖観音、新薬師寺の香薬師等を観た。 42年11月に美術研究所の臨時職員に採用された。当時の所長は、前年の3月に京城帝国大学を定年退職した田中豊蔵であった。43年までは資料室に属し、その後、資料室を離れて、美術研究の編集を担当した。そのうち戦争が激しくなったため、美術研究所は、黒田清輝作品などを疎開させねばならなかった。44年8月に黒田清輝作品とガラス原板を東京都西多摩郡小宮村及び檜原村に疎開させた、また、45年5月末に、図書、焼付写真、その他の資料を山形県酒田市に疎開させ、さらに7月、牧曽根村、松沢世喜雄家倉庫、観音寺村村上家倉庫、大沢村後藤作之丞家倉庫に分散し、疎開させた。上野は、東京に残留し、黒川光朝とともに美術研究を担当し、紙の手当や印刷所探しなどに追われた。 終戦直後は、美術研究所の復興に忙しかった。46年4月4日、図書、焼付写真が研究所に戻り、同年4月16日に黒田清輝作品、写真原板が研究所に戻った。職員が総出で整理に当たり、同年5月20日に美術研究所の復興式を挙行した。上野は、48年4月に国立博物館附属美術研究所の常勤の事務補佐員となり、49年4月に国立博物館附属美術研究所の研究員(文部技官)となった。51年1月に文化財保護委員会附属美術研究所資料部に配属、52年4月に東京文化財研究所美術部資料室に配属された。60年、高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』(1959年3月刊行)によって、第50回日本学士院賞恩賜賞を共同研究者として受賞した。62年以降、『東洋美術文献目録』(1941年刊行)に次ぐ目録の編纂事業が始まり、上野は、辻惟雄、永雄ミエ、江上綵、関口正之らとともにこの事業に参画した。69年3月に『日本東洋古美術文献目録 昭和11〜40年』が刊行された。69年4月に東京国立文化財研究所美術部主任研究官となり、76年4月に東京国立文化財研究所美術部資料室長となった。77年4月、東京国立文化財研究所情報資料部の創設に伴い、文献資料研究室長となった。84年3月に辞職し、東京国立文化財研究所名誉研究員となった。 上野の研究テーマの一つは、中央アジア古代絵画史研究である。当初、上野は大谷探検隊の収集品について研究を進め、とりわけ新疆ウイグル自治区トルファン地区の遺跡出土品の研究を、ヨーロッパや中国の報告書をもとに行った。68年に東京国立博物館に東洋館が開館し、大谷探検隊収集品が収蔵、展示されたことにより。上野の研究に拍車がかかった。73年には、「中央アジア絵画における東方要素とその浸透についての検討」のテーマで科学研究費を受け、国内所在の中央アジア絵画及び模本類の調査を進め、かつ敦煌絵画研究の成果を踏まえて、中央アジア絵画に見られる東方要素の考察を進めた。また、龍谷大学や天理参考館が所蔵する伏羲女媧図を外国所在の類品と比較して、墓葬画としての特質を抽出した。上野は、海外の美術館や博物館が所蔵する中央アジア関連遺品や現地調査も積極的に行った。66年7月から9月にかけて、大英博物館、ギメ東洋美術館、ベルリン国立美術館(インド美術館)の所蔵品、さらにニューデリーの国立博物館が所蔵するスタイン資料の調査を行った。76年10月から12月には、文部省の在外研究員として、アメリカとヨーロッパの美術館や博物館を訪ね、中央アジアの遺品を調査し、とくにドイツ探検隊のル・コックの手元を離れた壁画断片類の所在地、現状、元位置等を詳細に研究した。79年にはトルファン、80年には敦煌を訪ね、中央アジア絵画の研究を深めた。 上野の研究のもう一つのテーマは、高麗時代の仏画の研究である。上野は、76年から2か年、科学研究費による研究「朝鮮の9〜16世紀の仏教美術に就ての総合的研究―特に日本国内の所蔵品調査を中心として―」に参画し、高麗時代の仏画を重点的に調査して、高麗仏画独特の表現や技法を解明した。77年10月に韓国芸術院で開催された第6回アジア芸術シンポジウムに参加し、「日本所在の韓国仏画」と題して成果の報告を行い、大きな関心を集めた。研究成果は、その後、81年刊行の『高麗仏画』収載の論文や作品解説にまとめられた。主な著作「西域出土胡服美人図について」『美術研究』189(1957年)「装飾文様」高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』(吉川弘文館、1959年)「喀喇和卓出土金彩狩猟文木片」『美術研究』221(1962年)「トルファン出土彩画断片について」『美術研究』230(1963年)「古代の婦人像―正倉院樹下美人図とその周辺」『歴史研究』13-6(1965年)「トユク出土絹絵断片婦人像」『美術研究』249(1967年)「敦煌本幡絵仏伝図考(上)」『美術研究』269(1970年)「エルミタージュ博物館所蔵ベゼクリク壁画誓願図について」『美術研究』279(1972年)『東洋美術全史』(共著、東京美術、1972年)「敦煌本幡絵仏伝図考(下)」『美術研究』286(1973年)「アスタナ出土の伏羲女媧)図について(上)」『美術研究』292(1974年)「アスタナ出土の伏羲女媧図について(下)」『美術研究』293(1974年)「アスターナ墓群」『中国の美術と考古』(六興出版、1977年)「キジル日本人洞の壁画―ル・コック収集西域壁画調査(1)」『美術研究』308(1978年)「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(上)―ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』312(1980年)「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(下)―ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』313(1980年)「高麗仏画の種々相」『高麗仏画』(朝日新聞社、1981年)『西域美術―大英博物館スタインコレクション― 第1巻』(翻訳)(講談社、1982年)『西域美術―大英博物館スタインコレクション― 第2巻』(翻訳)(講談社、1982年)Spread of Painted Female Figures around the Seventh and Eighth Centuries, Proceedings of the Fifth International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property -Interregional Influences in East Asian Art History, Tokyo National Research Institute of Cultural Properties, 1982. 10.「絵画作品の諸問題」 龍谷大学三五〇周年記念学術企画出版編集委員会編『佛教東漸 祇園精舎から飛鳥まで』(龍谷大学、1991年)「父上野直昭のこと」財団法人芸術研究振興財団・東京芸術大学百年史刊行委員会編『上野直昭日記 東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻 別巻』(ぎょうせい、1997年)「アスターナ出土の絵画と俑」『エルミタージュ美術館名品展―生きる喜び―』新潟県立近代美術館 2001.7.6〜9.5、ATCミュージアム(大阪市) 2001.9.15〜11.4

澤村仁

没年月日:2014/10/04

 建築史家で九州芸術工科大学名誉教授の澤村仁は、10月4日15時26分肺炎のため死去した。享年86。 1928(昭和3)年11月16日、東京都に生まれる。49年旧制静岡高等学校理科卒業後、東京大学工学部建築学科に入学。54年同学科卒業後、東京大学数物系大学院建築学コースに進学、指導教官である太田博太郎博士や藤島亥治郎博士の薫陶を受けながら、当時社会的な課題とされた農民の生活改善の一環で始められた農家住宅に関する建築学的調査に参加するとともに、四天王寺(大阪)や毛越寺(岩手)などの古代寺院の伽藍の発掘調査にも加わり、検出遺構について現存する古社寺との比較研究と合わせ、出土瓦の類型に関する分析を行うなど考古学的研究にも強い関心を持った。 59年同大学院博士課程単位取得満期退学後、浅野清博士の勧めもあって大阪市難波宮址顕彰会に入会し、山根徳太郎博士の指導の下、難波宮跡の発掘調査研究に従事した。会では、これまでに培った都城や寺院など古代遺跡の調査の経験から遺構配置の計画性を見抜き、測量技術を駆使して調査範囲の異なる区域の検出遺構等断片的なものを図上で繋ぎ、後期難波宮大極殿、内裏回廊基壇など重要遺構の性格を明らかにするなど大きな成果を上げ、同遺跡の調査研究ならびに保存に大いに貢献した。これらの業績によって、70年、「難波宮跡発掘調査の業績」として山根徳太郎博士らと昭和44年度日本建築学会賞(業績賞)を共同受賞した。 62年、平城宮の調査研究が本格化し始めた時期に奈良国立文化財研究所に入所、以後平城宮跡の発掘調査はもとより全国の主要遺跡の発掘調査に参加し、当時始まったばかりの大規模発掘調査の手法確立に貢献するなど遺跡研究にも精通した建築史学者の一人として活躍する。63年「延喜木工寮式の建築技術史的研究ならびに宋営造法式との比較」により東京大学より工学博士号が授与される。64年から平城宮跡発掘調査部第三調査室長等を歴任、70年同部遺構調査室長となる。 73年7月、九州芸術工科大学(現、九州大学)環境設計学科教授に就任し、1992(平成4)年3月退官するまで日本建築史及び都市史等の講座を担当した。この間、九州、山口地方の民家や町並み、近世社寺建築の調査など精力的に行ったほか、文化財保護行政にも積極的に関わり、調査委員として鹿児島県の民家調査や福岡・佐賀・大分等の近世社寺建築調査を担当した。さらには城下町長府(山口県下関市)、英彦山宿坊(福岡県添田町)、城下町秋月(福岡県甘木市)、有田町(佐賀県)などの町並調査では主任調査員を務めた。そして、祁答院家、二階堂家住宅や善導寺本堂ほか(福岡)、薦神社神門(大分)等近世社寺建築など重要な建築遺構や秋月城下町や有田焼の生産で知られる有田の町並などの保存にも尽力し。退官後は名古屋に転居し、93年4月愛知みずほ大学教授に就任、99年まで教鞭をとった。 澤村は、教育者であるとともに、研究者として建築史と考古学の狭間とも言うべき研究領域に立って、70年代後半以降急速に拡大した地域開発事業にともなう発掘調査等にも積極的に従事し、検出した建築遺構の平面形式や出土部材の分析などから上部構造を推定し遺跡の性格等について総合的に考察したほか、検出遺構の復元模型の製作にあたっても建築史家として指導的な役割を果たした。調査研究に関わった主な遺跡に、前述の遺跡のほか大宰府政庁、鴻臚館などがある。後者ではともに主要遺構の復元模型製作を手がけ、後の遺跡の調査研究にあたって大きな足跡を残したことでも知られる。 主な著書として、『薬師寺東塔』(奈良の寺10 岩波書店、1974年)、『日本建築史基礎資料集成4 仏堂Ⅰ』(共著、中央公論美術出版、1981年)、『民家と町並み 九州・沖縄』(日本の美術290 至文堂、1990年)、『日本古代の都城と建築』(中央公論美術出版、1995年)、『日本建築史基礎資料集成5 仏堂Ⅱ』(共著、中央公論美術出版、2006年)など多数ある。

河田貞

没年月日:2014/09/17

 奈良国立博物館名誉会員の河田貞は9月17日、急性心筋梗塞で死去した。享年79。 1934(昭和9)年12月3日、宮城県に生まれる(本籍は多賀城市)。63年に東北大学大学院文学研究科美術史学修士課程修了ののち、東北大学文学部助手、サントリー美術館学芸員を経て、67年(昭和42)7月1日付で奈良国立博物館に着任、73年4月工芸室長となる。87年4月に学芸課長に昇任。1990(平成2)年3月に奈良国立博物館を辞すまで同館の工芸担当者として正倉院展ほかの重責を担うとともに、同館を研究活動の拠点とした。奈良国立博物館名誉会員。91年より92年まで帝塚山大学教養学部教授を務めた。 河田の専門は日本古代・中世の漆工・螺鈿研究が中心であるが、関連分野としての文様研究はもとより、日本に留まらず広く東アジアを見据えた研究を行った。学術研究の成果として、単著には『絵馬(日本の美術92)』(至文堂、1974年)、『根来塗(同120)』(1976年)、『螺鈿(同211)』(1983年)、『仏舎利と経の荘厳(同280)』(1989年)、『黄金細工と金銅装(同445)』(2003年)、共著に『大和路―仏の国・寺の国 日本の道(1)』(毎日新聞社、1971年)、『弘法大師』(講談社、1973年)、『六大寺大観 西大寺』(岩波書店、1973年)、『春日大社釣灯籠』(八宝堂、1974年)、『日本の旅路 奈良 大仏造立―華麗な天平の遺宝』『同 正倉院の宝物―絹の道のロマン』(千趣会、1975年)、『当麻町史』(同町教育委員会、1975年)、『大和古寺大観4 新薬師寺・白毫寺・円成寺』(岩波書店、1977年)、『同5(秋篠寺・法華寺ほか)』(1978年)、『同7(海住山寺・岩船寺・浄瑠璃寺)』(1978年)、『同2(当麻寺)』(1978年)、『経塚遺宝』奈良国立博物館編(1977年)、『鎌倉室町の美術』(大日本インキ化学工業株式会社、1978年)、『法華寺(古寺巡礼)』(淡交社、1979年)、『新薬師寺(同)』(1979年)、『当麻寺(同)』(1979年)、『西大寺(同)』(1979年)、『興福寺(同)』(1979年)、『東大寺(同)』(1980年)、『法華経の美術』(佼正出版社、1981年)、『高野山のすべて』(講談社、1984年)、『仏舎利の荘厳』(同朋社、1983年)、『高麗・李朝の螺鈿』(毎日新聞社、1986年)、『法華経―写経と荘厳』(東京美術、1988年)、『釈尊の美術(仏教美術入門2)』(平凡社、1990年)、『御物 皇室の至宝』9(毎日新聞社、1992年)などがある。論文も多岐に及んでおり、「牛皮華鬘雑考―旧教王護国寺蔵品を中心として―」『MUSEUM』213(1968年)、「紫檀塗について」『同』318(1977年)、「春日宮曼荼羅舎利厨子と携帯用舎利厨子について」『同』335(1979年)、「正倉院宝物に関連する近年の新羅出土遺物」『同』369(1981年)「忍辱山円成寺の如法経所厨子―如法堂における十羅刹女・三十番神併座方式をめぐって―」『元興寺仏教民俗資料研究所年報』4(1971年)、「春日大社蒔絵笋の意匠」『染織春秋』61(1976年)、「日本における蓮文様の展開」『日本の文様』25(1976年)、「春日大社本殿の絵馬板について」『国宝・春日大社本殿修理工事報告書』(1977年)、「復元太鼓の彩色文様」『春日』20(1977年)、「春日赤童子と稚児文殊と」『同』25(1979年)、「仏舎利荘厳具編年資料(稿)」『一般研究(C)仏舎利荘厳具の研究 報告書』(1979年)、「正倉院宝物とシルクロード」『染織の美』7(1980年)、「称名寺の朱漆塗大花瓶台について」『三浦古文化』28(1980年)、「高麗螺鈿の技法的特色」『大和文華』70(1981年)、「慕帰絵詞にみる調度と器物」『慕帰絵(日本の美術187)』(1981年)、「正倉院宝物とシルクロード―多彩なる西域の影―」『太陽(正倉院シリーズ1)』(1981年)、「「根来」の美」『古美術』59(1981年)、「漆芸における切箔・切金技法」『サントリー美術館二十周年記念論文集』(1982年)、「仏舎利の荘厳・経の荘厳」『仏具大辞典』(1982年)、「和紙文化と仏教」『別冊太陽』40(1982年)、「X線透過写真による漆芸品の考察―仏教関係螺鈿遺品を中心として」『漆工史』3(1982年)、「神馬図絵馬について―春日大社本社神殿絵馬板を中心として―」『悠久』12(1983年)、「弘法大師ゆかりの工芸品」『古美術』67(1983年)、「韓国新安海底発見の遺物から―和鏡・漆絵椀・紫檀材―」『同』70(1984年)、「特別鑑賞 シルクロ-ド大文明展 シルクロ-ド・仏教美術伝来の道」『同』87(1988年)、「天平写経軸弘考」『日本文化史研究』7(1984年)、「二つの片輪車蒔絵螺鈿手箱」『國華』1098(1986年)、「法隆寺法会の楽器―聖霊会関係用具を中心に―」『法隆寺の至宝』10(小学館、1989年)、「長谷寺能満院に伝わる尋尊の四方殿舎利殿」『佛教藝術』86(1972年)、「法華経絵意匠の展開―平家納経経箱の装飾文を中心として―」『同』132(1980年)、「わが国上代の写経軸」『同』162(1985年)、「わが国仏舎利容器の祖形とその展開」『同』188(1990年)、「納経厨子と経櫃」『日本美術工芸』374(1969年)、「藤原時代のガラス(瑠璃)」『同』409(1974年)、「酒器「太鼓樽」」『同』512(1981年)、「シルクロ―ドの残英「金銀花盤」―今年の「正倉院展」から―」『同』614(1989年)、「天平の精華(2)―金銀鈿荘唐大刀と螺鈿紫檀琵琶― 第四十二回正倉院展にちなんで」『同』626(1990年)、「特集・正倉院展(下) 螺鈿紫檀五絃琵琶の語るもの」『同』638(1991年)、「特集・正倉院展(下)称徳天皇奉献の「狩猟文銀壷」」『同』650(1992年)、「正倉院「木画紫壇棊局」雑考」『同』662(1993年)、「「紫檀金鈿柄香炉」をめぐって」『同』674(1994年)、「高台寺蒔絵と桃山の室内装飾」『日本のルネッサンス(下)草月文化フォーラム』(1990年)、「Histolical Background of Japanese Urushi Techniques」『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property - Conservation of Urushi Objects-』(1995年)、「古墳時代の馬具 朝鮮半島から倭国へ」『日本の国宝(週刊朝日百科)』35(1997年)、「瑞巌寺蔵水晶六角五輪塔仏舎利容器について」『東北歴史博物館研究紀要』1(2000年)、「藤原道長による金峯山埋経の荘厳」『帝塚山芸術文化』5(1998年)、「正倉院宝物にやどる国際性」『同』9(2002年)、「法華経の工芸」「高麗美術館研究講座・抄録 法隆寺再建時の仏教工芸品にみる百済・新羅の余映」『高麗美術館館報』87(2010年)など。このほか研究報告として、「調査報告1 玉虫厨子の調査から」『伊珂留我』2(1984年)、「上代における請来仏具の研究(中間報告)」『鹿島美術財団年報 平成2年度』(1991年)がある。また、奈良国立博物館外の展覧会に際して図録に総論・概説・特論を多く執筆している。すなわち「法華経の荘厳」『法華経の美術』(頴川美術館、1978年)、「山王信仰の美術」『山王信仰の美術』(同、1982年)、「西域のいぶき」「さまざまな供養具」『法隆寺 シルクロード仏教文化展』(1988年)、「シルクロードの息吹―法隆寺濫觴期の仏教工芸―」『法隆寺の世界 いま開く仏教文化の宝庫 開館10周年記念展』(大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料、1991年)、「法隆寺における聖徳太子信仰遺品と江戸出開帳の霊仏・霊宝」『法隆寺秘宝―再現・元禄江戸出開帳―展』(サントリー美術館、1996年)、「国宝 梵鐘」『比叡山延暦寺の名宝と国宝梵鐘展』(佐川美術館、1999年)、「金色堂の荘厳」『国宝中尊寺 奥州藤原氏三代の黄金文化と義経の東下り』(同、2004年)、「中国国家博物館所蔵 盛唐期の工芸品と正倉院宝物」『中国国家博物館所蔵 隋唐の美術 正倉院宝物の故郷を辿る展』(同、2005年)などがそれである。そして、14年には愛知県陶磁美術館の企画展「高麗・李朝(朝鮮王朝)の工芸―陶磁器、漆器、金属器―」(会期8月23-10月26日)を監修し、好評を博したが、その開催中の他界となってしまった。

登石健三

没年月日:2014/07/30

 IIC(国際文化財保存学会)名誉会員(Honorary Fellow)、文化財保存修復学会名誉会員、東京文化財研究所名誉研究員、物理科学者の登石健三は肺炎のため7月30日に死去した。享年100。 1913(大正2)年9月5日に広島県の江田島で生まれ、第三高等学校を卒業した後、大阪帝国大学理学部物理学科に進んだ。卒業後、1936(昭和11)年3月に当時の理化学研究所に就職、長岡半太郎博士の助手となり、「本を書くより研究に励め」の長岡の指導の下、分光スペクトルの研究に没頭した。42年に招兵され戦後のシベリア抑留も含めて49年11月に帰国した。50年理学博士(大阪大学)。㈱科学研究所(旧理化学研究所)に復職して高峰研究室に属し、芳野富彌とともに『分光化學分析用基準スペクトル表』(1952年、㈱科学研究所)をまとめた。52年10月に、できたばかりの東京文化財研究所に転職し、文化財保存のための物理学応用研究を始めた。当時の東京文化財研究所は現在の東京国立博物館の地下と通用門近くの木造の小屋にあった。保存科学部長は建築史の関野克で、登石は物理研究室長を務め、コバルト-60など放射性同位元素を用いた文化財の透視調査を始めた。当時の放射線透視調査で有名なものは、中尊寺金堂の巻柱、日光東照宮陽明門の側壁、鎌倉大仏の欠陥調査などがある。中尊寺金色堂のX線調査から、部材それぞれに漆を塗って仕上げたのちに組み立てたものと分かり解体修理が決定したなどの成果を挙げた。また当時は文化財を船便で移動しており、赤道付近で長期間の高温高湿度に曝されカビ発生のおそれがあったが、乾燥剤をある程度湿らせたもの(「科研ゲル」(当時の英語名称はKakew))を密閉容器内に入れて湿度を制御する新しい手法を開発し、『古文化財の科学』や“Studies in Conservation”などの学会誌に研究成果を発表した。調湿剤を用いた密閉容器内の湿度調節は、今日では輸送用の梱包容器や密閉展示ケースなどで日常的に用いられており、この功績に対して78年に紫綬褒章を受けた。また見城敏子と共に打ち立てのコンクリートから発生するアルカリ物質の油絵への影響を世界で初めて指摘し、その研究成果により2004(平成16)年5月にはIIC(国際文化財保存学会)の名誉会員(Honorary Fellow)となった。また、より良い展示・収蔵環境を実現するため、日本の気候風土を考慮した保存環境研究を行い、保存環境整備に努めた。72年の高松塚古墳壁画発見時には保存施設整備に関わり、在職最後は虎塚古墳(茨城県)などの装飾古墳の保存に携わった。75年に61歳で東京国立文化財研究所を退官し、78年に名誉研究員となった。そのほか、75年4月より東海大学講師、国学院大学講師、株式会社寺田倉庫顧問、任意団体日本文化財研究所顧問、76年より千葉県文化財審議会委員、飛鳥保存財団委員、77年より船橋市文化財審議会委員、78年より日本考古学研究所所長、80年より船橋市野外彫刻設置委員会委員、85年には川崎市日本民家園協議会委員を務めた。88年4月から99年3月まで財団法人文化財虫害研究所(現、公益財団法人文化財虫菌害研究所)理事長、87年から99年まで古文化財科学研究会(現、文化財保存修復学会)の会長を務めるなど、文化財保存修復に関する教育、行政への協力、学会の発展に尽力した。84年に勲三等瑞宝章を叙勲し、その逝去にあたり14年8月29日閣議決定で正五位の位記追贈を受けた。職務上での発明として62年 密閉梱包内の相対湿度をほぼ恒常に保つ方法、65年 正規投影撮影装置、66年 被写体の等高線群を各線につき等しい倍率で写す方法などの特許がある(本人著書より)。登石は常にユーモアにあふれた態度で周囲と接し、世の中に対してウィットに富んだ見方を持ち、また自身のことを先人が手をつけなかった分野を研究したハイエナ流の仕事の仕方と表現していたが、現代に生きる我々に対して、周りに同調するのではなく「各人が自分の見識をしっかりと持つこと」が大事である、と最後の執筆である『百年賛歌-登石健三の生涯』(根本仁司編、岩波ブックセンター、2014年)に記している。10年に逝去した山〓一雄と双璧をなした文化財保存科学の黎明期を支えた偉大な研究者であり、その研究成果は文化財を取り巻く環境を制御する基本技術となっている。

井上正

没年月日:2014/06/14

 日本彫刻史の研究者である井上正は6月14日、肝臓癌により死去した。享年85。 1929(昭和4)年1月12日、長野県飯田町(現、飯田市)箕瀬において井上善一の三男として生まれる。35年飯田尋常高等小学校大久保部入学、41年長野県飯田中学入学、43年海軍飛行予科練入隊、45年終戦により予科練除隊、47年長野県飯田中学四年修了、第四高等学校文科甲類入学、50年東京大学文学部美学美術史学科に入学、53年同大学文学部大学院特別研究生、56年同大学文学部助手、63年文化財保護委員会事務局美術工芸課(文部技官)に着任、67年京都国立博物館学芸課美術室に移動、翌68年同館学芸課資料室長に昇任、79年同館学芸課学芸課長に昇任、87年同館を退職する。京都国立博物館名誉館員。同年、奈良大学文学部文化財学科教授に就任、1989(平成元)年飯田市美術博物館長を兼務、93年奈良大学総合研究所長に就任、95年奈良大学を退職し、佛教大学文学部仏教学科教授に就任、2000年佛教大学を退職し、京都造形芸術大学芸術学部教授に就任、06年京都造形芸術大学を退職、飯田市美術博物館の館長職も退くが、引き続き同館の顧問を引き受ける。 井上は、67年に刊行が開始された『日本彫刻史基礎資料集成』(中央公論美術出版社)の平安時代造像銘記篇、これに続いて73年より刊行がなされた重要作品篇の作例報告に携わり、「善水寺薬師如来坐像」「神護寺薬師如来立像」をはじめとする21件について分担執筆を行うほか、68年から刊行が始まった『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店)では彫刻24件、工芸ならびに文様46件の解説を、続く『大和古寺大観』では2巻・当麻寺(1978年)と6巻・室生寺において彫刻4件、工芸2件の解説を担当するなど、今日に至る日本彫刻史の基礎・基盤研究に大きな足跡を残した。その一方で、井上の研究の対象作品・方向性については、81年に勤務先である京都国立博物館刊行の『学叢』3に発表した「“檀色”の意義と楊柳寺観音菩薩像―檀像系彫刻の諸相」を契機として、その前・後で大きく志向を異にしている。すなわち、それ以前の研究においては平等院鳳凰堂阿弥陀如来像以降の定朝様式の展開を中央・地方に及んで実作例に臨んで研究成果を積み重ねるとともに、定朝の父とされる康尚とその時代の作風の解明に心血を注いだ。代表的な論文として「浄厳院阿弥陀如来像に就いて」『國華』791(1958年)、「法界寺阿弥陀如来坐像」『同』834(1962年)、「遍照寺の彫刻と康尚時代」『同』846(1962年)、「東福寺同聚院不動明王坐像」『同』848(1962年、のち改稿したものを、『不動明王像造立一千年記念誌』〈同院、2006年〉に収載)、「浄瑠璃寺九躰阿弥陀如来像の造立年代について」『同』861(1963年)、「関東の定朝様彫刻」『関東の彫刻研究』(学生社、1964年)、「誓願寺毘沙門天像」『國華』907(1967年)、「藤原時代の二王像―旧蓮台寺像を中心に―」『佛教藝術』80(1971年)、「法金剛院阿弥陀如来像について」『國華』940(1971年)、「万寿寺阿弥陀如来坐像について」『MUSEUM』246(1971年)、「皇慶伝説の仏像―池上寺、如願寺―」『日本美術工芸』412(1973年)、「皇慶伝説の仏像―円隆寺―」『同』413(1973年)、「雙栗神社周辺の仏像」『同』414(1973年)、「三つの毘沙門天―京都市中に伝わる」『同』415(1973年)、「童顔の仏・菩薩―本山寺聖観音立像と真如堂阿弥陀如来立像―」『同』417(1973年)、「摂津・安岡寺の千手観音像」『同』418(1973年)、「藤原彫刻のプロポーションについて」『同』421(1973年)、「焼失壬生地蔵尊」『同』422(1973年)、「横川中堂の聖観音像」『同』423(1973年)、「旧巨椋池周辺の仏像」『學叢』1(1979年)、「康尚時代の彫刻作例三種」『同』2(1980年)などをあげることができる。集英社『日本古寺美術全集』所載の「和様彫刻の成立と展開」(15巻・平等院と南山城の古寺、1980年)、ならびに「定朝以後の諸相」(6巻・神護寺と洛北の古寺、1981年)、筑摩書房『日本美術史の巨匠たち(上)』(1982年)に執筆した「定朝」は、いずれもそれまでの研究を集大成した感がある。また、この時期にあっては、これらの研究と併行して工芸ならびに文様研究にも関心があったことが「飛鳥文様の一系列」『美術史』24(1957年)、「春日大社平胡―について―平安工芸の編年的考察 其一」『國華』867(1964年)、「春日神筝考―平安工芸の編年的考察 其二」『同』883(1965年)、「檜扇二種―平安工芸の編年的考察 其三」『同』894(1966年)、「平安時代装飾文様の展開について」『佛教藝術』67(1968年)、「東洋における雲気表現の衰滅」『月刊文化財』149(1976年)などの論文から窺がわれる。 一方、81年に「“檀色”の意義と楊柳寺観音菩薩像―檀像系彫刻の諸相」(上掲)を発表し、ことに「檀色」という概念を深く掘り下げたことで「檀像」の概念を広く捉え直すとともに、それまで基準となる作例との比較・対比が難しく漠然と十世紀頃と認識されることの多かった平安木彫の諸作例について、都鄙を問わず積極的に取り上げて再考を促し、制作年代についても従来漠然と考えられてきた年代より大きく引き上げる試みを行った。その際、これらを「古密教系彫像」「霊木化現仏」「感得」という視点から論じ、檀像研究のありように一石を投じた。この井上の研究により八・九世紀の木彫像研究が以後、活況を呈し、その見方・考え方は後続の彫刻史研究者に少なからず影響を及ぼすこととなった。この時期の代表論文には上掲の論文に続く「観菩提寺十一面観音立像について―檀像系彫刻の諸相Ⅱ」『学叢』5(1983年)、「愛知高田寺薬師如来坐像について―檀像系彫刻の諸相Ⅲ―」『同』6(1984年)、「法華寺十一面観音立像と呉道玄様―檀像系彫刻の諸相Ⅳ―」『同』9(1987年)がそれに当たる。さらに『日本美術工芸』には続々と関係作例の紹介を兼ねた論文が発表された。当時、彫刻史研究者の間で同誌への関心が著しく跳ね上がった。そして、これらの研究を俯瞰するものとして87年には至文堂『檀像(日本の美術253)』が、91年には岩波書店『七〜九世紀の美術 伝来と開花(岩波日本の美術の流れ 二)』が上梓された。なお、『日本美術工芸』に掲載された論文の多くは、のちに『古佛―彫像のイコノロジー―』(法蔵館、1986年)、『続古佛―古密教彫像巡歴』(同、2012年)に収録された。ただし、93年1月から翌年12月にかけて「古仏への視点」の副題のもと集中的に『日本美術工芸』の誌上において在地の古仏紹介を兼ねて発表された諸論文については未収である。すなわち、「和歌山東光寺薬師如来坐像」『同』652、「和歌山法音寺伝釈迦如来坐像」『同』653、「天部か神像か―法音寺・東光寺の例―」『同』654、「和歌山薬王寺十一面観音立像」『同』655、「和歌山満福寺十一面観音立像」『同』656、「島根南禅寺の仏像群(一〜三)」『同』657〜659、「島根禅定寺の仏像群」『同』660、「島根巖倉寺聖観音立像」『同』661、「島根仏谷寺の仏像群」『同』662、「島根大寺薬師の仏像群」『同』663、「島根清水寺十一面観音立像 付・大寺薬師仏像群(続)」『同』664、「滋賀鶏足寺仏像群(一〜二)」『同』665・666、「滋賀黒田観音寺伝千手観音立像」『同』667、「滋賀来現寺聖観音立像」『同』668、「大阪久安寺薬師如来立像」『同』669、「大阪常福寺千手観音立像」『同』670、「新潟宝伝寺十一面観音立像(水保の観音)」『同』671、「岩手天台寺仏像群」『同』672・673、「秋田の霊木化現像(上)―中仙町小沼神社―」『同』674、「秋田の霊木化現像(下)―土沢神社、談山神社、白山神社―」『同』675がそれらに当たる。この一連の研究を踏まえつつ井上の関心が神像彫刻研究へと向かったことは、「神仏習合の精神と造形」『図説 日本の仏教6 神仏習合と修験』新潮社、1989年)、「霊木に出現する仏―列島に根付いた神仏習合―」『民衆生活の日本史・木』(思文閣出版、1994年)、「神護寺薬師如来立像と神応寺伝行教律師坐像―怨霊世界の造形について―」『佛教大学 仏教学会紀要』7(1999年)などから窺がうことができる。 井上の著作を網羅した目録は、『続古佛―古密教彫像巡歴』(上掲)の巻末に収載されているが、あわせて詳細な年譜を付したものが『文化財学報』13(奈良大学文学部文化財学科、1995年)、『佛教大学 仏教学会紀要』7(上掲)、『伊那』1039(伊那史学会、2014年)に収められている。ことに『伊那』には生前、井上の謦咳に親しく接した安藤佳香、櫻井弘人、織田顕行、林英壽によるそれぞれの思い出と追悼文、および、実妹の清水好子による「井上家と兄・井上正のこと」を併載している。

中野玄三

没年月日:2014/04/21

 嵯峨美術短期大学元学長かつ名誉教授で、仏教美術史家の中野玄三は、4月21日、鼻腔悪性黒色腫のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年90。 1924(大正13)年1月1日、佐賀県唐津市に生まれる。翌年の年末に、40代だった父・範一が突然亡くなると、身重の母・てる子は玄三を含め5人の子を引き連れて上京。日中戦争勃発後の1939(昭和14)年12月、予科士官学校に入学。以後、職業軍人の道に進むことを余儀なくされた。43年に陸軍航空士官学校を卒業すると、陸軍少尉に任官してただちに飛行部隊二八戦隊に入隊し、中国東北部の温春に駐屯。その後、千葉県東金飛行場へと戦隊は移動し、そこで敗戦を迎えた。 46年、公職追放令のために公職に就くことができなかった中野は、敗戦時に駐屯していた千葉県東金で農家の下働きをし、その後東京の工場で働くこととなった。幼い頃の最年長の姉や兄弟の死、陸軍士官学校同期生の戦死、敗戦という戦中戦後にかけての体験が中野の心を深くえぐり、脅迫的なまでの死の対する恐怖心が植え付けられることとなり、この観念が中野の研究の基調をなしていた。 将来の展望をもてなかった20代前半のある日、中野は東京国立博物館を訪れてみたという。このふとした訪問が人生の大きな転機となった。その後博物館に足を運ぶようになり、52年4月に開催された博物館友の会主催の第2回「春の旅行」に参加して関西の国立博物館や寺社仏閣をめぐった。このときに「関西の大学に入り直して、本格的に美術の勉強をしてみたい」と心ひそかに思ったという。すでに同年3月に会社を退職しており、大学受験を後押しする条件が内外ともに揃っていた。 持ち前の集中力を発揮して、53年4月に京都大学文学部に入学。貪欲に勉学にいそしみ、人より10年遅れての青春であった。史学科国史学専攻へ進学。 57年に卒業後、京都府教育庁文化財保護課へ就職。後進の美術史研究者に大きな影響を与えた「八世紀後半における木彫発生の背景」(『悔過の芸術』所収、初出は1964年)は、修理のために神護寺薬師如来立像が国宝修理所へと搬出される際に立ち会った経験が端緒となった。生涯にわたって研究の柱の一つとなった『覚禅鈔』などの密教図像に出会うのも京都府時代のことであった。東寺観智院の聖教調査で新義真言宗開祖の覚鑁の著作を発見したことが、60年の「山越阿弥陀図の仏教思想史的考察」に結実。これが学術誌に掲載された最初の論文である。 67年4月、京都府庁から奈良国立博物館へと転職。69年から3年間かけて勧修寺本『覚禅鈔』を調査。平行して『覚禅鈔』諸写本の総合的な調査も精力的に行った。当時、京都市立芸術大学教授であった佐和〓研が主導した密教図像調査に参加し、その成果は69年の『仏教藝術』70号「素描仏画特集号」となり、中野も「覚禅伝の諸問題」ほかを寄稿して覚禅鈔および覚禅に関する基礎的事項を明らかにした。 71年には「社寺縁起絵展」を担当。かねてより縁起絵に関心を寄せていたが、京都府時代の多くの調査経験もまた縁起絵の世界への興味をより一層かきたて、「社寺縁起絵展」の成功へとつながる。また奈良博時代には、仏教美術に関する網羅的な情報の収集と公開をするという『国宝重要文化財 仏教美術』刊行事業を担当。この壮大な事業は、残念ながら中野の配置換えにより未完に終わったが、公刊された巻からは京都府時代に培った調査・研究・編集の能力が如何なく発揮されていることがうかがわれる。 74年4月、奈良国立博物館から京都国立博物館へ配置換え、美術室長となる。以後、84年の退官まで、学芸員が総掛かりで準備する特別展や、個人研究の成果公開の場として重視されていた特別陳列にほぼ毎年のように携わった。折しも京博所蔵になった東寺伝来の十二天画像の研究に取り組み、77年4月に特別展「十二天画像の名作」を開催。奈良博時代以来の『覚禅鈔』調査の成果が79年7月の特別展「密教図像」、同年10月末の特別陳列「不動明王画像の名品」展に結実。あわせて78年11月には金剛峯寺所蔵の「応徳涅槃図」の修理完成披露を兼ねた「涅槃図の名作」展、82年1月には「源頼朝・平重盛・藤原光能像」展。また配置換え当初は近世絵画の担当であったことから80年6月と翌年7月には特別陳列「探幽縮図」展を開催。中野の実に幅広い関心のさまがよく表われている。最後の特別陳列となったのが82年8月の「六道の絵画」展であった。卒業論文以来、一貫して追求してきた六道絵をテーマにした総決算としての特別陳列であった。 84年4月から3年間は京都文化短期大学(現、京都学園大学)、同年4月から1994(平成6)年3月まで嵯峨美術短期大学(現、京都嵯峨芸術大学。91年〜94年は学長)の教壇に立った。この間、名古屋大学や京都大学の非常勤講師も勤めており、中野の謦咳に接した研究者の卵は多かった。擬音語擬態語を用いながら繰り広げられる朴訥とした語り口が魅力的だったという。 この時期には『大山崎町史』『山城町史』など数多くの市町村史の編纂事業に携わったほか、佐和〓研の急逝後中断していた大覚寺聖教調査が中野を団長として91年に再開され、翌年には嵯峨天皇遠忌の記念行事の一環として大覚寺乾蔵収蔵の聖教目録が刊行された。この事業を母体に95年には歴史学の研究者による大覚寺聖教・文書研究会が発足、翌年には歴史学、仏教史学、美術史学の研究者がメンバーである覚禅鈔研究会へと解消発展した。この一連の事業・研究は、聖教が歴史学一般にも有用な史料であることが広く理解されるようになる先駆的な役割を果たすものであった。 「私は研究者同志がお互いに相手を批判する論文を書くことは、研究に活力を与えるよい慣例だと思う」(中野「私と若き研究者との出会い」[中野玄三・加須屋誠・上川通夫編『方法としての仏教文化史』勉誠出版、2010年])と明言するように、病気を押しながらも、中野は、最期まで、反論には再反論でこたえ、真摯に研究に向き合う姿勢を貫いた。 本稿は、中野の生い立ちと人柄、その研究の意義と研究史上の位置づけを、愛情をこめて論じた加須屋誠「中野玄三論」(中野玄三・加須屋誠『仏教美術を学ぶ』思文閣出版、2013年)に多くを負っている。 主な著書は以下のとおり。 『悔過の芸術』(法蔵館、1982年) 『日本仏教絵画研究』(法蔵館、1982年) 『日本仏教美術史研究』(思文閣出版、1984年) 『来迎図の美術』(同朋舎出版、1985年) 『日本人の動物画』(朝日新聞社、1986年) 『六道絵の研究』(淡交社、1989年) 『続日本仏教美術史研究』(思文閣出版、2006年) 『続々日本仏教美術史研究』(思文閣出版、2008年)

内山武夫

没年月日:2014/04/05

 元京都国立近代美術館長で美術史研究者の内山武夫は、4月5日胃がんのため京都市の自宅にて死去した。享年74。生前から同人は、西行法師の「ねがわくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの もちつきのころ」という歌のように逝けたらと話しており、その最後は静かで穏やかであったそうである。また、内山は草花を好み、植物について高い見識を持っており、絵の中や工芸品に描かれている花について美術館のスタッフに詳細に説明することも度々であった。 1940(昭和15)年4月4日に兵庫県伊丹市に生まれる。56年4月私立灘高等学校に入学し、59年卒業後、同年、京都大学文学部哲学科に入学する。63年3月京都大学文学部哲学科を卒業し、同年4月、京都大学大学院文学研究科修士課程に入学、65年3月京都大学大学院文学研究科修士課程を修了し、同年4月1日に国立近代美術館京都分館に研究員として採用された。67年6月に京都分館が独立して京都国立近代美術館となったことにともない、同館に転任となり、75年7月1日に主任研究官に昇任、81年8月1日には学芸課長に昇任した。1994(平成6)年10月16日には、東京国立近代美術館次長に昇任した。また、98年4月1日には、京都国立近代美術館長に昇任し、2001年4月には、美術館の法人化にともない独立行政法人国立美術館の理事に就任、併せて京都国立近代美術館長を兼務し、05年3月31日に任期満了により退職した。 この間、内山は、文化功労者選考審査会委員、文化財保護審議会専門委員、文化審議会(文化財分科会)専門委員、京都美術文化賞選考委員などの委員として幅広く活躍する一方、京都国立博物館、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館の評議員を兼務するほか、公私立美術館の各種委員として美術館の設立、運営等について適切な指導と助言を行い、40年の永きにわたって、高邁な人格と熱意をもってその重責を全うし、我が国の文化行政・教育研究の推進に貢献した。 内山は、65年国立近代美術館京都分館に研究員として採用されてから約40年、我が国近現代美術と工芸の紹介と発展に尽力し、開館以来継続して開催してきた、「現代美術の動向」展や近代日本画展、近代工芸展に力を注いだ。さらに71年に開催した「染織の新世代展」をはじめ染織や陶芸の新しい動向を紹介する展覧会を数多く開催し盟友の森口邦彦(重要無形文化財保持者)とは工芸の発展に力を注いだ。また、74年9月29日から11月28日の間、文部省在外研究員として「博物館学の研究および欧米における近代美術収集状況の調査」のためアメリカ合衆国、カナダ、連合王国、スペイン、フランス、オランダ、ドイツ連邦共和国、イタリア、ギリシャへ行った。この在外研修は、京都国立近代美術館の後の展覧会に繋がった。81年学芸課長に昇任後は、学芸課の総括として、様々な事業を指揮し運営に力を注いだ。特に、86年10月には新館開館記念特別展「京都の日本画1919―1930」では、展覧会開催の中心的役割を果たし、無事新館を開館させた。物産陳列館として建てられ、京都市から移管された建物の施設・設備の不適正と老朽化から、同館が抱えていた課題である館建物の新営計画には同館学芸課長として積極的に取り組んだ。 86年10月には新館開館を控えて、京セラ株式会社から米国シカゴ在住のアーノルド・ギルバート夫妻の蒐集した近代の写真作品1000余点の寄贈を受けるために館長とともに尽力し、翌年にはその主要作品を紹介する「館コレクションから選んだ写真―近代の視覚・100年の展開―」展を開催して、我が国の美術館における写真蒐集の先鞭を付けた。91年には、京都国立近代美術館の事業を支援する「財団法人堂本印象記念近代美術振興財団」の設立にともない評議員、さらに理事となり、国立美術館に対する支援財団の設立に尽力するとともに、新しい時代に対応する柔軟な美術館運営の道を提示した。また、87年には開館時間を30分繰り上げ、翌年には春から秋までの毎週金曜日を夜間開館として午後8時まで開館時間を延長するなど、観覧者の便宜を考慮して時代のニーズに対応し、館長を補佐し、学芸課長として美術の普及活動に積極的に取り組み、現代の美術館活動の基盤を作り上げた。 94年、東京国立近代美術館次長に昇任した内山は、東京国立近代美術館の総括として館長を補佐し、我が国の美術行政に携わり、日本の美術振興に寄与した。97年に開催した「土田麦僊」展は、内山の長年の研究の集大成として美術の普及活動のみならず、研究活動にも大きな貢献をした。さらに、同展覧会は、京都国立近代美術館にも巡回し、展覧会の質の高さと意義が高く評価された。また、「ウィリアム・モリス 近代デザインの父」展では、英国ロンドンにあるビクトリア・アンド・アルバート美術館と連携してモリスの生誕100年を記念して、日本で始めての大規模な回顧展を京都国立近代美術館とともに開催した。 98年4月に京都国立近代美術館長に就任してからは、同館責任者として館の発展ならびに美術の普及活動、研究活動を積極的に推進し、意欲的な展覧会を開催した。とくに「生誕110年・没後20年記念展 小野竹喬」展は、内山の生涯に渡る研究として展覧会を導き、美術の普及、研究活動に大きく貢献した。 01年京都国立近代美術館が、独立行政法人国立美術館に統合されるに当たって、独立行政法人国立美術館の理事に就任するとともに、京都国立近代美術館長に就任し、05年任期満了のため退職した。この間、国公立の文化行政に関する委員を務め、我が国の文化行政に大きく貢献した。 なお主な文献目録は、以下の通りである。一、単行本Ⅰ単著 『日本の名画18 上村松園』(講談社、1973年) 『日本の名画4 竹内栖鳳』(中央公論社、1977年) 『原色現代日本の美術3 京都画壇』(小学館、1978年) 『現代日本絵巻全集5 山元春挙、橋本関雪』(小学館、1984年) 『現代の水墨画1 富岡鉄斎・竹内栖鳳』(講談社、1984年) 『現代の水墨画5 村上華岳・入江波光』(講談社、1984年) 『日本画素描大観6 土田麦僊』(講談社、1985年) 『土田麦僊画集』(毎日新聞社、1990年) 『名画と出会う美術館8 近代の日本画』(小学館、1992年) 『新潮日本美術文庫25 富岡鉄斎』(新潮社、1997年)Ⅱ共著(監修含む) 『現代日本美術全集4 村上華岳/土田麦僊』(集英社、1972年) 『日本の名画9 鏑木清方、上村松園、竹久夢二』(講談社、1977年) 『巨匠の名画15 土田麦僊』(学習研究社、1977年) 『カンヴァス日本の名画4 竹内栖鳳』(中央公論社、1979年) 『現代日本画全集6 山口華楊』(集英社、1981年) 『足立美術館』(保育社、1986年) 『20世紀日本の美術7 村上華岳・入江波光』(集英社、1987年) 『上村松園画集』(京都新聞社、1989年) 『高木敏子1924-1987』(八木明、1989年) 『富本憲吉全集』(小学館、1995年) 『小野竹喬大成』(小学館、1999年) 『京都国立近代美術館所蔵名品集[日本画]』(光村推古書院、2002年) 『美人画の系譜 福富太郎コレクション』(青幻社、2009年)Ⅲ責任編集『美しい日本 風景画全集6』(ぎょうせい、1988年)『美しい日本 風景画全集7』(ぎょうせい、1988年)二、図録 「陶芸家 八木一夫」『八木一夫展』(日本経済新聞社、1981年) 「甲の契月、乙の契月」『菊池契月展』(京都新聞社、1982年) 「榊原紫峰の人と芸術」『榊原紫峰展』(京都新聞社、1983年) 「京都の日本画1910-1930」『京都の日本画1910-1930』(京都国立近代美術館、1986年) 「山口華楊の芸術」『山口華楊 六代清水六兵衛 遺作展』(朝日新聞社、1987年) 「土田麦僊―清雅なる理想美の世界」『土田麦僊展』(日本経済新聞社、1997年) 「小野竹喬の画業」『生誕110年・没後20年記念 小野竹喬』(毎日新聞社、1999年) 「明治期京都画壇の伝統と西洋」『近代京都画壇と〈西洋〉 日本画革新の旗手たち』(京都新聞社、1999年) 「韓国国立中央博物館の近代日本画」『韓国国立中央博物館所蔵 日本近代美術展』(朝日新聞社、2003年) 「現代陶芸の異才―八木一夫」『没後25年 八木一夫展』(日本経済新聞社、2004年) 「画壇の壮士 横山大観」『近代日本画壇の巨匠 横山大観』(朝日新聞社事業本部・大阪企画事業部、2004年)三、逐次刊行物 「上原卓論」『三彩』266号(1970年) 「解説 土田麦僊(特集)」『三彩』307号(1973年) 「新日本画創造の哀しく寂しい影-土田麦僊-その人と芸術」『みづゑ』822号(1973年) 森口邦彦/内山武夫「対談 日本工芸展のこれから(特集 日本伝統工芸展50年)」『月刊文化財』481号(1993年) 「奥田元宋画伯の障壁画」『美術の窓』170号(1997年) 「麦僊と西洋絵画」『美術の窓』170号(1997年) 「富岡鉄斎筆餐水喫霞図」『国華』1250号(1999年) 梅原猛/内山武夫「対談 思い出に残る作家たち」『美術京都』40号(2008年)

大和智

没年月日:2014/03/21

 日本建築史(特に近世住宅史)の研究者であると同時に、文化財保護行政の専門家。定年退職を控えた3月21日、深夜発生した交通事故で急逝した。享年60。 1953(昭和28)年11月18日静岡県沼津市に生まれる。77年東京工業大学工学部建築学科卒業、84年同大学理工学研究科建築学専攻博士課程中退。86年東京工業大学工学部建築学科助手(平井研究室)を経て、87年より文化庁文化財保護部建造物課勤務。1990(平成2)年文化財調査官(修理指導部門)、95年文化財調査官(修理企画部門)、98年主任文化財調査官(修理企画部門)、2000年主任文化財調査官(調査部門)を経て、06年筑波大学大学院人間総合科学研究科教授。08年文化庁に文化財部参事官(建造物担当)として復帰、11年同部文化財鑑査官の要職を務める。 大学院在学中、桂離宮御殿(京都)の昭和大修理事業に工事調査員として関わったのを皮切りに、文化財建造物の保存に関する調査研究の道を歩む。文化庁時代には、修理企画・指導部門の調査官として正法寺本堂(岩手)、勝興寺本堂(富山)、唐招提寺金堂(国宝、奈良)などをはじめ多数の全国各地に所在する国宝・重要文化財建造物の保存修理事業の指導に当たる。特に、95年阪神淡路大震災で倒壊した旧神戸居留地十五番館(兵庫)は居留地復興のシンボルと位置づけ、その復旧に奔走した。また98年の台風による倒木被害を受けた室生寺五重塔(国宝、奈良)の災害復旧に関して迅速な行政対応を行った。 調査部門の主任文化財調査官としては、文化庁が近年特に力を入れている近代の建造物の保護にも尽力し、東京駅丸ノ内本屋、旧東京帝室博物館(東京国立博物館)等の記念的大建築、天城山隋道(静岡県)、梅小路機関車庫(京都)等の交通関係遺構のほか、田平教会堂・旧出津救助院(長崎)等のキリスト教関連遺構、さらには旧日光田母澤御用邸(栃木)、諸戸家住宅(三重)等の近代和風建築等の指定に関わった。このほか、文化庁が77年から約12年かけて全国の都道府県で行った近世社寺建築緊急調査が終了し、その成果を受けて重文指定された社寺建築について、文化史等の観点から総合的に評価し特に優秀な遺構を国宝に指定する行政課題に対して中心的存在となって知恩院本堂、同三門(京都)、長谷寺本堂(奈良)、東大寺二月堂(奈良)などの秀品を国宝指定に導いた。 また、国際経験も豊かで、文化庁が90年から始めたアジア・太平洋地域等文化財建造物保存技術協力事業にも早くからかかわり、98年からはインドネシアを担当、同国の木造文化財建造物の保存修復事業を指導してその技術移転を推進した。さらに、日本がユネスコの世界遺産条約を批准した92年から、世界遺産登録を始めたが、推薦第1号である姫路城や法隆寺等の推薦書の作成作業に積極的に加わったほか、日本の木造文化財保存修理に対する理解を深めるため94年に奈良で開催された世界遺産奈良コンフェレンスにおいても「奈良宣言」の起草に深く関わった。このほか、ICCROM共催事業としてノルウェーで開催された木造文化財の保存技術に関する国際研修の講師として数度にわたり日本の木造文化財の保存に関する講義を受け持ったほか、03年からICCROMの理事を4期8年にわたって務めるなど国際的にも活躍した。 11年3月の東日本大震災では、被災した多くの文化財の救援事業を指揮し、特に被災建造物に関して日本建築学会や日本建築家協会など関係団体の協力を得て保全ならびに復旧に関する技術支援を行う「文化財ドクター事業」を立ち上げたのをはじめ、海外の財団からの復興資金提供の相談窓口となるなど復興事業に奔走した。 文化庁在職中の昭和末年以降からは文化財建造物の業務の範囲が、近代化遺産、近代和風建築の保存から文化財建造物の防災対策など飛躍的に拡大した時期にあり、特に阪神淡路大震災を機に重点施策となった耐震対策を重視しつつ、一方で文化財の活用による地域再興といった近年の行政課題に対して、その中心的役割を担う要職にあったが、その突然の逝去は今なお内外の多くの人々に惜しまれている。 著書に『日本建築の精髄桂離宮-日本名建築写真選集19巻』(新潮社、1993年)、『歴史ある建物の活かし方』(共著、学芸出版社、1999年)、『城と御殿-日本の美術405号』(至文堂、2000年)、『文化財の保存と修復5-世界に活かす日本の技術―』(共著、クバプロ 2003年)、『東アジアの歴史的都市・住宅の保存と開発』(共著、日本建築学会、2003年)、『鉄道の保存と修復Ⅱ―未来につなぐ人類の技4』(共著、東京文化財研究所、2005年)など多数。

田口榮一

没年月日:2014/02/12

 美術史家の田口榮一は、2月12日大腸がんのため死去した。享年69。 1944(昭和19)年8月16日、新潟県に生まれる。小学6年で川崎市に移り、63年神奈川県立湘南高等学校を卒業。一時は建築家を志したというが、東京大学文学部に入り、68年同大学文学部美術史学科卒業。同大学大学院人文科学研究科美術史専攻修士課程を経て、71年6月同大学大学院博士課程中退。続いて同年7月東京大学文学部助手(美術史研究室)となる。78年東京藝術大学美術学部芸術学科講師(日本美術史)。85年同学科助教授、2005(平成17)年同学科教授。10年東京芸術大学附属図書館長を併任。12年同大学美術学部芸術学科教授を定年退官。 修士論文のテーマは平等院鳳凰御堂扉絵であり、仏教絵画、特に来迎図の研究に力を注いだ。単著として『平等院と中尊寺』新編名宝日本の美術9(1992年、小学館)があり、鳳凰堂扉絵の詳細な図版を紹介しつつ、「阿弥陀九品来迎図の系譜―平等院鳳凰堂扉絵を中心として」として一編をたて、その描写の詳細な紹介をしつつ、「九品来迎図の起源」の章では敦煌壁画を視野にその変遷を考察している。「鳳凰堂のことを詳しく調べ、その中から来迎表現がどういうふうに生まれてきたのか、その鍵を探そうとするのが私の前からのテーマ」(同月報インタビュー)と述べている。「鳳凰堂九品来迎図調査報告―両側壁画の現状と来迎聖衆の図様及びその表現」上・下『仏教藝術』141・143も同様の題材を追及した長編であるが、単なる図様、図像の研究に留まらず、その表現性やマチエールの問題にまで詳細に踏み込んだものである。 この絵画の表現性に関わるマチエールの研究はもう一方の重要な業績のひとつで、「分光学的方法による顔料、特に有機色料およびその調合色の判定について―近世初期狩野派粉本「源氏物語五十四帖絵巻」を例として―」(田口マミ子と共著 『古文化財之科学』20・21、1977年)のように早くから関心を示し、『X線コンピュータ断層撮影装置を用いた木造彫刻の構造および造像技法の調査』(長沢市郎・籔内佐斗司・田口マミ子と共著、『古文化財之科学』29、1987年)などX線分析をはじめ科学的技法を用いた作品研究に力を入れた。また自らも写真技術を使いこなし、多くの画像資料を蓄積した。 研究対象は来迎図や仏画に限らず、やまと絵、近世絵画、また敦煌絵画にまで広くおよび、中でも源氏物語絵の造詣が深く、編著書および単行図書所載文献中の論文・解説も数多い。鳳凰堂扉絵に関して「よいことをすれば阿弥陀さんが迎えに来ますよという意図以前の、絵も彫刻も建築もそれ自体の存在だけを第一義にした世界に惹かれますね」(前述月報)という言葉に科学的手法さえ単なる科学分析にとどまらなかった美術作品への愛着、作品観があらわれていよう。 白百合女子大学、共立女子大学、学習院大学等多くの大学の非常勤講師をも勤めた。 仏教美術の研究に対し、第2回北川桃雄基金賞受賞(1976年)。 その略歴、著作をまとめたものに、退官時に製作された『田口榮一先生略歴・著作目録』(東京藝術大学美術学部芸術学科日本東洋美術史研究室編、2012年)がある。

鈴木博之

没年月日:2014/02/03

 国内の近代建築の保存に尽力した東京大学名誉教授の建築史学者鈴木博之は、2月3日午前8時59分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年68。 1945(昭和20)年5月14日、一時滞在先の埼玉県で出生するが、生家は江戸期に幕臣をとつめた家系で東京在住であり、東京にて育つ。68年東京大学工学部建築学科を卒業し大学院に進学。稲垣栄三、村松貞次郎に師事し、卒業論文は「アール・ヌーヴォーの研究」であった。在学中の67年、『音楽芸術』公募論文に「スクリャービン試論」で応募して入賞。71年から74年まで法政大学非常勤講師となり、倉田康男が68年から始めていた高山建築学校に参加するようになる。一方、高度成長期に従来の建築物を取り壊して高層建築がさかんに作られる中で、藤森照信らと近代建築の保存運動に関わり、その論理的支柱を模索していく。72年、ジョン・サマーソン著『天井の館』の翻訳を刊行。同年、毎日新聞百周年懸賞論文に、近代都市における歴史性の重要さを説いた「都市の未来と都市のなかの過去」で応募し一等を受賞。74年に『都市住宅』7402、7403号誌で「建築保存新工夫」特集を組み、欧米の建築保存の例を紹介した。同年に東京大学工学部専任講師となり、以後2009年3月の退官まで同学で教鞭を執る。また、同年から75年にロンドン・コートールド美術研究所に留学して19世紀の英国建築史および日本に近代建築をもたらしたジョサイア・コンドルとその師ウィリアム・バージェスについて調査研究する中で、西欧近代建築における装飾性の問題と、日本における近代の表現についての考察を深めた。76年にサマーソン著『古典主義建築の系譜』(中央公論美術出版)の翻訳を、77年、『建築の世紀末』(晶文社)を刊行。80年にニコラウス・ペヴスナー著『美術・建築・デザインの研究』(鹿島出版会)の翻訳を刊行し、他分野の造形と建築との比較についての思索を深め、84年に『建築の七つの力』(鹿島出版会)を刊行。人の営みによって同一の地に建つ建築物が消長する中にも一貫した土地の性格がうかがえることを指摘した『東京の地霊』(文藝春秋、1990年)などにより1990(平成2)年にサントリー学芸賞受賞。同年、東京大学工学部建築学科教授となった。93年、米国に滞在しハーヴァード大学で美術史を講ずる。96年、「英国を中心としてヨーロッパ建築についての一連の歴史的意匠研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞。2008年、難波和彦の企画により鈴木の業績をふりかえる「鈴木博之教授退官記念連続講義「近代建築論」」を8回にわたって開催。同講義は09年2月3日に行われた「建築 未来への遺産」と題する自らの足跡をたどる鈴木の最終講義を含めて『近代建築論講義』(鈴木博之・東京大学建築学科編、東京大学出版会、2009年)として刊行された。同書の「現代の視線」「場所の意義」「近代の多面性」の3章からなる構成および各論考は、鈴木の建築論のエッセンスを映し出している。09年3月に定年退官。後任に、84年から08年まで大阪大学非常勤講師を務める中で交遊を深めた建築家・安藤忠雄を迎え、建築学におけるアカデミズムにも一石を投じた。09年4月からは青山学院大学教授となった。 アジア太平洋戦争敗戦の年に生まれ、東大闘争が始まった年に同学を卒業したことを、鈴木は自らの社会的位置として生涯、重くとらえていた。また、西欧近代の機能主義が推進されていく中で、一時代の価値観上の勝者のみが評価されることに疑問を呈し、敗者の側からの視点を持ち続けた。約半世紀におよぶ活動の中で、建築設計や町づくりにおける建築史学の視点の必要性を認識させるとともに、都市の歴史を目に見える形で残すことの重要性を主張し、自ら保存活用運動に加わって、中央郵便局や東京駅ほかの保存と復元に尽力した。また、そうした事業に必要な建築関係資料の収集・保存・活用を訴えて、13年に開館した国立近現代建築資料館の設立にも寄与した。一方で、晩年は数年間、肺がんと闘病しつつ、近代庭園史に大きな足跡を残した庭師、小川治兵衛の研究を進め、最晩年に『庭師小川治兵衛とその時代』(東京大学出版会、2013年)を刊行。同著作によって14年度日本建築学会著作賞を受賞した。日本建築学会、建築史学会でも活躍し、97年日本建築学会副会長、03年から05年まで建築史学会会長、同年から07年まで同監事を務めた。10年からは博物館明治村館長を務めていた。詳細な著作目録が『建築史学』63号(2014年9月)に掲載されている。 主要著書:『建築の世紀末』(晶文社、1977年)『建築の七つの力』(鹿島出版会、1984年)『建築は兵士ではない』(鹿島出版会、1980年)山口廣と共著『新建築学大系5 近代・現代建築史』(彰国社、1993年)『見える都市/見えない都市―まちづくり・建築・モニュメント』(岩波書店、1996年)『ヴィクトリアン・ゴシックの崩壊』(中央公論美術出版、1996年)『都市へ』(中央公論新社、1999年)『現代建築の見かた』(王国社、1999年)『現代の建築保存論』(王国社、2001年)『都市のかなしみ―建築百年のかたち』(中央公論新社、2003年)『伊東忠太を知っていますか』(王国社、2003年)『場所に聞く、世界の中の記憶』(王国社、2005年)『皇室建築 内匠寮の人と作品』(建築画報社、2005年)磯崎新・石山修武・子安宣邦と共編著『批評と理論―日本―建築―歴史を問い直す、7つのセッション』(INAX、2005年)石山修武・伊藤毅・山岸常人と共編『シリーズ都市・建築・歴史 7 近代とは何か』、『シリーズ都市・建築・歴史 8 近代化の波及』、『シリーズ都市・建築・歴史 9 材料・生産の近代』、『シリーズ都市・建築・歴史 10 都市・建築の近代』(東京大学出版会、2005-2006年)監修『復元思想の社会史』(建築資料研究社、2006年)『建築の遺伝子』(王国社、2007年)鈴木博之・東京大学建築学科『近代建築論講義』(東京大学出版会、2009年)磯崎新と共著『二〇世紀の現代建築を検証する』(ADAエディタートーキョー、2013年)『保存原論―日本の伝統建築を守る』(市ケ谷出版社、2013年)『庭師小川治兵衛とその時代』(東京大学出版会、2013年)

ジョン・マックス・ローゼンフィールド

没年月日:2013/12/16

 ハーバード大学名誉教授で、日本美術史研究者のジョン・マックス・ローゼンフィールドは、12月16日、脳卒中による合併症のため死去した。享年89。 1924(大正13)年10月、テキサス州のダラスに生まれる。父のJohn Max Rosenfield Ⅱはコロンビア大学でジャーナリズムを学び、キャリアを積み始めた。母となるClaire Burgerと出会ったのもニューヨークでのことだった。25年にはダラスへもどり、ダラス・モーニング・ニュース文化部の記者を勤め上げた。ローゼンフィールドは、2012(平成24)年に獲得したフリーア・メダルの授賞式におけるスピーチで、両親が博学であり、また活動的であったことは幸運だったと述懐している。 高校時代は画家となることを志して、アメリカ中西部の風景を描いていたという。テキサス大学に入学すると絵画を学んだが、41年にアメリカが第2次世界大戦に参戦すると、画家への志は妨げられることになった。アメリカ陸軍に召集され、歩兵としての基礎的な訓練を受けた後、カリフォルニア州のバークレーにある陸軍語学学校でタイ語を学んだ(1945年に最初の学士号を取得)。43年、陸軍の諜報部員としてインドのムンバイに渡航。第2次大戦が終わるまでの間に、北インド、スリランカ、ミャンマー、タイなどのアジアの国々に出征した。 戦後、テキサスに戻ると、南メソジスト大学で芸術学を修めて47年に2つめの学士号を獲得。48年にはElla Ruth Hopperと結婚、アイオワ大学美術史学の修士課程に入学。アイオワ大学在学中の50年に再び応召、朝鮮戦争のために日本と韓国に赴いた。その頃にはプロの画家になるよりも、従軍中にふれたアジア美術に魅了されるようになっていた。 54年、ハーバード大学博士課程に進学し、東アジア美術を専門とするBenjamin Rowlandに師事した。2年後にはヨーロッパを経由して陸路でインドに渡航、インドの仏教美術を学び始める。博士論文は北インドで発掘されたクシャーン朝の王侯肖像彫刻をテーマとしたもので、59年に完成。67年には、カリフォルニア大学出版よりThe Dynastic Arts of the Kushans [クシャーン王朝の美術]として出版された。 62年、生きた信仰としての仏教を経験したいと願っていたローゼンフィールドは、American Council of Leaned Societiesの助成金を得て、家族とともに京都に移り住み、約2年半の間滞在した。 65年、ハーバード大学に赴任。日本美術に関しての根幹となる学術プログラム作成の責務を負った。71年にはアビー・オルドリッチ・ロックフェラー教授に任命。在任中はアジア美術のキュレーター、学部長を歴任した。82年から85年の3年間は、フォッグ美術館(現、ハーバード大学美術館)のアートディレクターを務めた。 ローゼンフィールドは、学生に実作品を学ばせなければならないとしてフォッグ美術館に収蔵するコレクションを求めた。大学院生だけではなく学部生にも収蔵庫におさめられた作品に触れるようにうながし、展覧会準備のアシスタントもつとめさせた。また日本美術に関する情報を増やすことが自らの使命だと認識しており、月刊誌『日本の美術』(至文堂、後にぎょうせいより出版)の英訳を監修、翻訳はハーバード大学博士課程在籍の学生に担当させた。彼は、学生が作品に直に触れ、また日本における日本美術史研究の一端を直に触れさせようと実践的な教育をほどこすとともに、情熱をもって指導にあたったのだった。60年代以降のアメリカにおける日本美術史学の学問的な基礎を形づくった一人と位置づけられる。 長年にわたる日本美術史研究への貢献によって数々の賞を受賞。主要なものに、85年アジアン・カルチュラル・カウンシルのJohn D. Rockfeller 3rd賞、88年旭日章、2001年山片蟠桃賞、12年フリーアメダル賞受賞が挙げられる。 91年6月退職、ハーバード大学東洋美術史名誉教授となる。亡くなるまでハーバード大学の学術的コミュニティで精力的に活動を続けた。最晩年の12年、フリーアメダル授賞式では近世の仏師湛海に関する研究の一端を披露した。この湛海研究が彼の最後の研究となった。彼の死から3年後の2016年、Preserving the Dharma: Hozan Tankai and Japanese Buddhist Art of the Early Modern Era として刊行。その他、主な著作等に以下のようなものがある。 Japanese Arts of the Heian Period, 794-1185, Asia Society, 1967 John M. Rosenfield, Shujiro Shimada, Traditions of Japanese Art, Fogg Art Museum, Harvard University, 1970 Yoshiaki Shimizu, John Rosenfield, Master of Japanese Calligraphy 8th-19th Century, Frederic C Beil, 1985 Mynah Birds and Flying Rocks: Word and Image in the Art of Yosa Buson(Franklin D. Murphy Lectures, X VIII), Spencer Museum of Art, 2004 Portraits of Chogen: The Transformaiton of Buddhist Art in Early Medieval Japan (Japanese Visual Culture), Brill Academic Pub, …

長塚安司

没年月日:2013/12/11

 東海大学名誉教授で、西洋中世美術史研究者であった長塚安司は、12月11日、がんのため東京都新宿区の自宅で死去した。享年77。 1936(昭和11)年、現在の東京都新宿区で生まれる。60年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、専攻科に進学し、62年3月に修了。在学中は、吉川逸治、柳宗玄の指導を受け、その影響もあって西洋中世美術に関心を寄せ、特にロマネスク美術を研究のテーマとした。後年、自ら生活に根差した芸術表現に関心をもち、そこから中世ヨーロッパ美術、とりわけ土着性と地域性の濃厚なロマネスク美術の研究をはじめたと語っていた。64年にパリ第一大学に留学、歴史博士号を取得する。帰国後、東京藝術大学の助手を務めながら、68、70年の同大学の中世オリエント遺跡学術調査隊の一員としてトルコ等に調査に赴いた。74年には、同大学のイタリア初期ルネッサンス学術調査隊に加わり、イタリアのアッシジ等に滞在した。77年4月より、東海大学教養学部芸術学科の助教授として赴任。翌年、同大学のビザンツ史跡調査隊に加わり、ギリシャのラコニアに滞在した。80年に同大学教授となり、2001(平成13)年3月に退職。同大学名誉教授となった。ゴシック美術、ビザンティン美術、初期ルネサンス研究を視野に入れながら、ヨーロッパから西アジアにかけて実地調査を重ね、絵画、彫刻を中心にロマネスク美術研究を進めた。主要な業績は、下記の通りである。「十字架降下について Ⅰ」(『美術史』76号、1969年3月)「十字架降下について Ⅱ」(『美術史』87号、1972年12月)摩寿意善郎監修、辻茂、茂木計一郎、長塚安司著『アッシージのサン・フランチェスコ聖堂』(岩波書店、1978年)Yasushi Nagatsuka, DESCENTE DE CROIX son developpement iconographique des origins jusqu’a la fin du XIVe siecle, 東海大学出版会、1979年下村寅太郎、長塚安司著『世界の聖域 14 アッシジ修道院』(講談社、1981年)(長塚は本文を執筆)責任編集『世界美術大全集 第8巻 ロマネスク』(小学館、1996年)「『ウィーン写本』における絵画様式試論―挿絵における衣文の表現を通して―」(『古代末期の写生画 古典古代からの伝統と中世への遺産』(研究代表者越宏一、平成11年度~平成13年度科学研究費補助金研究成果報告書)、2002年) 他に、98年に開館した大塚国際美術館(徳島県鳴門市)の絵画学術委員として中世美術の部門の監修を務めた。

逵日出典

没年月日:2013/11/21

 文化史学者の逵日出典は11月21日、死去した。享年79。 1934(昭和9)年8月11日奈良県五條市に生まれる。同志社大学文学部文化学科文化史学専攻に在学中の55年には「室町時代の象徴的芸術精神について」(『美術史年報』1)、「法成寺―藤原寺院芸術の思想史的考察」(『文化史研究』2)、翌年には「一木彫成立の文化史的意義―日本彫刻史への一反省」(『同』3)、「法成寺の伽藍配置と諸堂宇の構造―文化史的研究の前段階として」(『同』4)を立て続けに発表する。57年3月の卒業時には「京都と庭園」、「室町時代―日本的庭園の源泉」(ともに『同』5)を発表。卒業後は郷里の奈良県下で教職に就くが、その後も「室生伝説成立私考」(『同』6、1957年)、「法成寺伽藍とその性格―修補再論」(『同』8、1958年)、「室生寺の真言宗系々譜完成過程について―宀一山記・宀一秘記・宀一山秘密記を中心として」(『同』14、1958年)などを精力的に公表する。この頃から論文発表の場も『文化史研究』から次第に拡大の傾向を示す。65年には京都精華女子高等学校教諭となり、以後は『同学園紀要』が論文発表の場の中心となる。70年には同学園からそれまでの成果をまとめ『室生寺及び長谷寺の研究』として上梓をみた。以後も『同学園紀要』ほかで精力的に宗教文化史の観点から論文を発表する。ことに奈良時代から平安時代に及ぶ山岳寺院研究を精力的に行い、文化史研究にとどまらずわが国の宗教美術研究を行ってゆくうえでも成果は注目されることになった。70年以降の数々の研究論文発表を踏まえ、87年には「奈良朝山岳寺院の史的研究」をまとめ、同志社大学より文学博士の号を得た。1990(平成2)年に岐阜教育大学教育学部教授に就任。91年には『奈良朝山岳寺院の研究』(名著出版)を刊行。95年頃から構想が具体化した日本宗教文化史学会を、文化史に留まらず、宗教史、美術史、建築史の研究者に広く呼びかけて97年に立ち上げるとともに初代会長に就任した。これにあわせて論文発表の場も同会の学術研究誌『日本宗教文化史研究』に移行する。その頃から発生期における八幡信仰成立にかかわる研究を精力的に進め、2003年には『八幡宮寺成立史の研究』(続群書類従完成会)として結実をみた。この間、98年には岐阜聖徳学園大学(旧称、岐阜教育大学)教育学部教授、同大学院国際文化研究科教授に就任。06年10月1日付で同大学名誉教授に、09年には日本宗教文学史学会理事長となる。主要論文・著作の全貌については業績を顕彰して略歴・追悼文とともに『日本宗教文化史研究』35、36(2014年)に収載されているが、上掲の文中で触れ得なかった主要単著として、『長谷寺史の研究』・『室生寺史の研究』(ともに巌南堂書店、1979年)、『神仏習合』(六興出版、1986年。のち臨川書店から93年に復刊)、『八幡神と神仏習合(講談社現代新書1904)』(講談社、2007年)がある。また、上掲の単著に収録をみなかった主要論文には、「天武・持統両帝の龍田・広瀬両社への御崇敬」(『くすね』6、1960年)、「神泉苑における空海請雨祈祷の説について」(『芸林』68、1961年)、「平安初期における国家的雨乞の動向」(『神道史研究』54、1962年)、「寺院縁起絵巻の構成内容に関する考察」(『精華学園研究紀要』4、1966年)、「平安朝貴族の“ものもうで”―特に浄土信仰との関連において」(『京都精華学園研究紀要』6、1968年)、「平安朝貴族の信仰形態―藤原道長の場合」(『同』8、1970年)、「『世継』の歴史思想」(『同』9、1971年)、「大丹穂山と大仁保神」(『神道史研究』168、1983年)、「龍蓋寺(岡寺)草創考」(『京都精華学園研究紀要』27、1989年)、「讃岐志度寺縁起と長谷寺縁起」(『日本仏教史学』25、1991年)、「神道習合の素地形成と発生期の諸現象―既存発生論への再検討を踏まえて」(『芸林』208、1991年)、「住吉神宮寺の出現をめぐって」(『同』227、1996年)、「『南法華寺古老伝』に見る『日本感霊録』の逸文」(『日本宗教文化史研究』3、1998年)、「天平勝宝元年八幡大神上京時の輿について」(『同』14、2003年)、「『石山寺縁起』に見る比良明神―長谷寺観音造像伝承とも関連して」(『同』16号、2004年)、「多武峯妙楽寺の草創」(『同』18、2005年)、「本長谷寺の所在に就いて―永井義憲氏説の妥当性と補遺」(『同』24、2008年)、「長谷寺創建問題とその後」(『同』26、2009年)、「室生寺の歴史―龍穴信仰から抗争のはて女人高野へ」『室生寺(新版古寺巡礼 奈良6)』(淡交社、2010年)、「古代神祇祭祀の基本形態―神体山信仰の展開」(『神道史研究』266、2012年)などがある。

飯田真

没年月日:2013/11/04

 日本絵画史研究者の飯田真は、11月4日、肺がんのため、岐阜県立多治見病院で死去した。享年54。 1958(昭和33)年12月23日、徳島県鳴門市に生まれる。77年3月東海高等学校を卒業し、78年4月名古屋大学へ入学、83年3月同大学を卒業し、同年4月名古屋大学大学院へ進学、85年3月同大学大学院文学研究科を修了した。85年4月から岐阜市歴史博物館の学芸員として勤務するが、1990(平成2)年3月に同館を退職。同年4月からは静岡県立美術館の学芸員として勤務し、98年4月から同館の主任学芸員、2007年からは同館の学芸課長となり、2013年3月に同館を退職した。 岐阜市歴史博物館では美術、静岡県立美術館では江戸時代の絵画、とりわけ18世紀から19世紀の浮世絵や文人画などを担当し、岐阜や静岡といった勤務地の地域に根ざした美術や絵画に関する堅実な展覧会を精力的に開催したが、その一方で、「ホノルル美術館名品展」など、海外にある日本絵画の里帰り展も意欲的に企画している。同様に、研究面では、名古屋大学在学中から専門としていた葛飾北斎をはじめ、歌川広重や小林清親といった著名な浮世絵師の研究を進めつつ、安田老山や平井顕斎、山本琴谷、原在正、原在中など、従来あまり注目されてこなかったような画家を積極的に取り上げ、その作品や表現の詳細な分析に基づいた真摯な資料紹介もおこなった。また、江戸時代絵画における風景表現の展開は、長年の研究テーマでもあり、展覧会・研究の両面を通じてアプローチし、特に富士山を主題とした実景表現への考察には優れた研究業績が多い。一方、静岡県立美術館では、同館の運営や、他館との連携協力といった事業にも意識的で、同館の主任学芸員や学芸課長時代には、学芸課の体制づくりなどにも大きく貢献した。 企画にかかわった主要な展覧会としては、岐阜市歴史博物館で「美濃の南画」(1988年3月~4月)、静岡県立美術館で「平井顕斎展」(1991年1月~2月)、「広重・東海道五十三次展」(1994年1月)、「描かれた日本の風景―近世画家たちのまなざし―」(1995年2月~3月)、「ホノルル美術館名品展―平安~江戸の日本絵画―」(1995年9月~10月)、「明治の浮世絵師 小林清親展」(1998年9月~10月)、「描かれた東海道―室町から横山大観まで、東海道をめぐる絵画史―」(2001年10月~11月)、「江戸開府400年記念 徳川将軍家展」(2003年9月~10月)、「富士山の絵画展」(2004年2月~3月)、「心の風景 名所絵の世界」(2007年11月~12月)、「帰ってきた江戸絵画 ニューオリンズ ギッター・コレクション展」(2011年2月~3月)、「草原の王朝 契丹」(2011年12月~2012年3月)などが挙げられる。 また、主要な論文としては、「北斎読本挿絵考」(『美学美術史研究論集』4、名古屋大学文学部美学美術史研究室、1986年4月)、「資料紹介 安田老山の絵画」(『岐阜市歴史博物館研究紀要』4、1990年3月)、「作品紹介 山本琴谷筆 「無逸図」」(『静岡県立美術館紀要』10、1993年3月)、「原在正筆「富士山図巻」をめぐって―江戸後期京都画壇における実景図制作の一様相―」(『静岡県立美術館紀要』13、1998年3月)、「原在中筆「富士三保松原図」について―江戸時代後期の富士山図をめぐって」(『静岡県立美術館紀要』16、2001年3月)、「ロダンと浮世絵―『白樺』同人による浮世絵寄贈の経緯」(静岡県立美術館・愛知県美術館編『ロダンと日本』、2001年4月)、「日本文人画にみる点表現―池大雅を中心に」(静岡県立美術館編『きらめく光―日本とヨーロッパの点表現―』、2003年2月)、「谷文晁筆「富士山図屏風」について」(『静岡県立美術館紀要』19、2004年3月)、「歌川広重《不二三十六景》をめぐって」(『静岡県立美術館紀要』22、2007年3月)、「《武蔵野図屏風》―静岡県立美術館所蔵作品の紹介を中心に」(『静岡県立美術館紀要』25、2010年3月)などがある。

ドナルド・フレデリック・マッカラム

没年月日:2013/10/23

 カリフォルニア大学ロサンジェルス校名誉教授で、日本美術史研究者のドナルド・フレデリック・マッカラムは、10月23日、前立線癌の転移による闘病後、自宅で静かに息をひきとった。享年74。 1939(昭和14)年5月23日、カナダ・ブリティッシュコロンビアのバンクーバーで生まれる。若いころはエジプト考古学に熱中し、57年に入学したカリフォルニア大学バークレー校では、中国学者のOtto J. Maenchen-Helfenの講義に触発されてアジア美術史の勉学に励んだ。62年学士号取得。ニューヨーク大学大学院に進学すると、アジア美術史家のAlexander Soperの指導のもと研究を進めた。彼は中国美術史をする予定だったが、当時は中国への渡航があまりにも難しい政治情勢であったため、専攻を日本美術史に変更。65年、J. D. R 3rd Fundを含めてさまざまな助成金を得て、博士論文の執筆のために日本に渡航。68年まで3年間の日本滞在中は、倉田文作、西川新次、久野健、清水善三、上原昭一、井上正ら日本彫刻史研究者との知遇を得、また66年には生涯のパートナーとなる宮林淑子と出会う。 69年UCLAの美術史学部に職を得て、在職期間中には学部長、UCLAの日本学センターの所長、UCLA東京スタディセンターの所長などを歴任した。73年、“The Evolution of the Buddha and Bodhisattva Figures in Japanese Sculpture of the Ninth and Tenth Centuries”をニューヨーク大学に提出し、博士号取得。当時日本国外ではほとんど知られていなかった9~10世紀の仏像に関する挑戦的な論考であった。同年には “Heian Sculpture at the Tokyo National Museum,” Part Ⅰと題し、71年に東京国立博物館で開催された《平安時代の彫刻》展の展評を発表。Artibus Asiae 35号に掲載されたこの展評が彼の最初の業績となった。その後、生涯を通じておこなわれた仏像研究は6世紀から19世紀の円空に至るまで非常に広範囲にわたり、古代日本に影響を与えた朝鮮半島の仏像についても論究し、地域的な広がりもみせた。研究対象も仏像にとどまらず刺青にまで及ぶ。Artistic Transformations of the Human Body(Marks of Civilization, 1988)に掲載された “Historical and Cultural Dimensions of the Tattoo in Japan” はその成果の一部として知られている。また日本国外で20世紀初頭の日本の近代洋画研究をはじめた最初期の研究者の一人であり、87年には “Three Taisho Artists: Yorozu Tetsugoro, Koide Narashige, and Kisida Ryusei” Paris in Japan:The Japanese Encounter with European Painting, St. Louis, 1987を公表。近代洋画家のなかでも松本竣介がお気に入りだったという。 彼は非常に教育熱心で、教えることを心より愛していた。いつも鋭いウィットと温かいユーモアとジョークにあふれた刺激的な講義が行われ、UCLAでは例年予定よりも多くの授業が開講された。博士課程の学生に対しては、厳しいながらも親身になって根気よく向き合った、実に面倒見のよい良き指導者であった。 UCLAで44年にわたり教鞭をとった後、2013(平成25)年6月に退職。その年の10月、彼のもとで学んだカンザス大学教授のSherry Fowler准教授らが「考古学・仏教・アバンギャルド:ドナルド・マッカラムの日本美術とのエンゲージメントを祝うシンポジウム」を企画し、研究者として指導者として卓越したキャリアを誇るマッカラムの業績を顕彰した。彼が学生に慕われていたことは、このシンポジウムをまとめたARTIBUS ASIAE VOL.LXXIV, NO.1, 2004に掲載される彼女の追悼文によく示されている。Sherry Fowler “Donald F. MacCallum(1939-2013),” Archives of Asian Art, Volume 63, Number 2, 2013, pp211-213も参照。 このシンポジウムの後、2週間を経ないうちに息をひきとった。 業績は論文等100編以上を数えるが、主要な著書には以下のものがある。 Zenkoji and Its Icon: A Study in Medieval Japanese Religious Art. Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1994 The Four …

平田寬

没年月日:2013/09/14

 美術史家の平田寬は、9月14日膀胱がんのため、福岡県宗像市の自宅にて死去した。享年82。 1931年(昭和6)1月3日、佐賀県唐津市に歯科医師平田亨(とおる)、小波(さなみ)の次男として生まれる。佐賀県立唐津中学校(旧制)を経て48年官立福岡高等学校(旧制)入学。この年の旧制高校入学者は学制改革により、翌49年3月をもって学籍が消滅、改めて新制大学を受験することになっていたが、平田は肺の病を得て療養生活に入る。53年、九州大学文学部入学。文学部への入学については父から強い反対を受けたと後年述懐している。57年九州大学文学部哲学科卒業(美学・美術史専攻)、同大学院に入り、59年文学研究科修士課程修了(同)、62年博士課程単位取得退学(同)。62年九州大学文学部助手(美学・美術史研究室)。同年同郷の古舘均(まさ)と結婚。九州大学在学中、中国芸術論の谷口鉄雄教授のもと、平田も中国画論を研究し、初の公表論文は60年の「謝赫の品等論の形式」(『美学』43号)、以後64年の「姚最の伝記よりみたる「続画品」の成立の問題」(『哲学年報』25)まで、3本の中国画論の論文を発表した。一方で、在学中に哲学の田邊重三教授の「生の哲学」の講義に強い影響を受け、田邊の導きによりカトリックの洗礼を受けた。この哲学的基盤と信仰は終生続いた。 64年4月、奈良国立文化財研究所美術工芸研究室に転任、70年4月同美術工芸研究室長を経て、翌年九州大学に転出するまでの7年間、南都を中心とする仏教絵画を中心に研究する。この間、作品調査を精力的に行い、「元興寺極楽坊智光曼荼羅(板絵)のX線調査」(『奈良国立文化財研究所年報』、1966年)を初めとして、調査に基づく作品研究論文を多く著した。また、当時の所長・小林剛の影響を受け、森末義彰「中世における南都絵所の研究」に啓発されて『大乗院寺社雑事記』を史料的に研究するなど、美術研究における史料研究の重要性を意識する。 71年4月、九州大学助教授に転任(文学部美学・美術史講座。教授は谷口鉄雄)。78年同教授となり、定年退官まで勤める。九州地方に残された美術作品の調査を行うと同時に、ひきつづき南都絵画の研究も行うが、九州大学転任後数年の頃、奈良や京都に赴いて仏画の調査をすることが難しくなっていたこともあり、絵仏師研究を史料の体系的な研究から行うことに着手する。奈良国立文化財研究所時代、彫刻作家の史料的研究で大きな業績を成していた小林剛から、我が国の絵仏師の実態が不明であることを教示されたことが機縁であり、「眼前の仏画の諸相に目を奪われて…花を見て樹を見ず、樹根の生命や地下の水脈のことに心が至らなかった」ことに気づいた、と回想している(『絵仏師の時代』後書)。この方向が、彫刻について小林剛が行ったことを仏画について行った平田の業績の大きな柱のひとつとなった。「絵師 僧となる」(『美学』106、1976年)を初めとして、史料から読み取れる絵仏師の業績はもとより、その消長や体制の変化を仔細に読み取り、時代の所産としての絵画作品の史的変遷、さらにはそこから美的表現の質とその変遷までを視野に入れた多くの論考を発表した。また、論考のみならず、「宅間派研究史料(稿)」(『哲学年報』44、1985年)を初めとして、その源泉となる史料そのものを整理し、研究者が共有できるものとして多く学会誌上で提示したことも、平田の学問的態度の一端を表すものであろう。これら数多くの史料およびその研究は『絵仏師の時代』(中央公論美術出版、1994年)にまとめられている。 作品研究も南都仏画のみならず、「良詮・可翁と乾峯士曇」(『仏教藝術』166、1986年)など、室町水墨の絵画史的意義にまで関心が及び、史料にもとづく歴史的研究を踏まえながらその変遷の中にあった作品の造形性に視野を及ぼす多くの論考を発表したが、これらの多くは『絵仏師の作品』(中央公論美術出版、1997年)に収録されている。 また、菊竹淳一とともに、九州・山口地方の作品の実地調査にも精力を注ぎ、調査データ、写真の整理蓄積を研究室の財産として行い、またこれによって学生の実地教育を行うことが大きかった。『九州美術史年表(古代・中世篇)』(長崎純心大学学術叢書4、九州大学出版会、2001年)は、これらの調査によって得られた資料を含む、美術工芸全般におよぶ広範な史料をまとめた800ページを超える大著である。 教育者としても力を尽くし、美術史を目指す者のみならず、常に親しく学生に接してこれに心を注ぐこときわめて大きく、説くことしばしば学問領域を超え時に数時間に及んだ。 88年九州大学文学部長、94年九州大学を定年退官、同名誉教授、同年長崎純心大学教授、2003年同大学を退職。 88~93年文化庁文化財保護審議会第一専門調査会(絵画・彫刻部会)専門委員、85~87年学術審議会専門委員、地方においては64~70年奈良市史編集審議会調査委員、70~80年同専門委員、70~71年奈良市文化財審議会委員、九州に転任後も、福岡県文化財専門委員を初めとして九州・山口各地の県、市、美術博物館の委員をつとめること多く、また宗像市史、津屋崎町史、福間町史などの編纂委員会で専門委員として地方史編纂に寄与した。 96年博士(文学)九州大学。『絵仏師の時代』により、94年国華賞、95年Shimada Prize(島田賞)、96年日本学士院賞。2002年勲二等瑞宝章。04年講書始の儀にて御進講。 美術史学会(1975~93年委員)、美学会(1977~92年委員)、九州藝術学会、密教図像学会、民族藝術学会所属。 著作は上記にまとめられたもののほか、これに収められなかった共著や作品紹介等も多い。経歴と業績が一覧できるものに、九州大学退官時の「平田寬先生 年譜・著作目録」(1994年、九州大学文学部美学美術史講座)、「平田寬 略歴とことば」(2013年、逝去時、次男・平田央(ひさし)氏編、晩年の短文やインタビュー記事を含む)がある。また折々に書かれたエッセイ風の文をまとめたものに『ふうじん帖―美術史の小窓』(中央公論美術出版、1996年)がある。 平田の学問的態度は、史料と実作品に基づく学問的正確さを期することにはとりわけ厳しくかつ細心であったが、目指すところは、単に手堅い業績を積み上げることにあるのではなかった。その根本には「美は多様の統一である」という哲学があり、研究は、作品を成り立たしめている多様な側面をみちとして、美の「直観」に能うかぎり「接近」しようとすることであり、視線の先は、美のひとにおける意義や美術史のありかたといった根底的問題に遠く向かっていた。その哲学的論を表だって発表することは少なかったが、『絵仏師の時代』、『絵仏師の作品』、『九州美術史年表』の「序言」および「後書」には、その思想の一端が濃密に語られている。このような基盤に西洋哲学におよぶ広い教養があったことは、九州大学における講読演習をE.ジルソンの『絵画と現実』、J.マリタンの『芸術家の責任』、同『芸術と詩における創造的直観』などのフランス語原典によって行ったことにもあらわれている。西洋哲学のみならず、東西のことに古典を重んじ、また幸田露伴、明恵、西行を愛した。 必ずしも健康に恵まれていたわけではないが、むしろそれだけに諸事努めることにきわめて意志的で、一般的な事柄についても強い意見を開陳することも多かった一方、内省的でもあり一面的既成的安易さをもってものごとを理解したとする態度をきわめて嫌った。 長崎純心大学を退職後は、表に出ることは少なかった。13年、体調を崩し、がんであることが判ったが、あえて積極的治療をせず自宅で静養することを選び、最期は夫人、家族にみとられながら感謝の言葉を述べて静かに亡くなったという。蔵書は九州大学に寄贈された。均夫人との間の2男の父。

森浩一

没年月日:2013/08/06

 考古学者で同志社大学名誉教授の森浩一は8月6日、急性心不全のため死去した。享年85。 1928(昭和3)年7月17日大阪市に生まれる。45年3月大阪府立堺中学校卒業、46年4月同志社大学予科入学。考古学を専攻できないことと日英の地理的共通性への関心などから49年4月同志社大学英文科三年に編入し、51年3月同科卒業。同年4月大阪府立泉大津高等学校教諭となる。55年4月同志社大学大学院文学研究科修士課程に入学し、57年同課程修了。同年4月同博士課程に入学するが翌58年中退。65年8月泉大津高等学校教諭を退職し、同志社大学文学部専任講師となる。67年4月に助教授となり、72年4月教授就任。1999(平成11)年3月同志社大学を退職し、同名誉教授となる。 氏は小中学生時代に目にした遺物や遺跡を通じて考古学に目覚め、その情熱は生涯変わらずに続いたが、研究に対するその姿勢は、自身の純粋学問的好奇心から調査・研究に取り組むのであって金銭や社会的な見返りを求めるものでない、というものであった。方法論として遺構遺物の観察に基づく実証主義に依りつつ、考古学はもちろんのこと、文献史学・民俗学・人類学・神話学など様々な関連諸学に精通した幅広い視野を背景とした既成の権威や学説にとらわれない自由な発想によって、古墳時代を中心とした古代史の総合的理解に精力的に取り組んだ。遺物や遺構研究の先に遺跡や地域の歴史解明という明確な方向性が設定されていたために、関西を拠点としながらも地域史の視点を重視し、「東海学」、「関東学」といった歴史研究のための地理的な枠組みを提唱して様々な研究や成果の普及活動にも努めた。 大学に教員として勤務する頃までに携わった発掘調査には、大阪府和泉黄金塚古墳や奈良市大和6号墳、また大阪府黒姫山古墳など、戦前戦後の行政的遺跡保護体制が極めて不十分な中での手弁当による緊急発掘調査が多く、後に取り組む、いたすけ古墳保存運動などを含め、遺跡遺物の記録や保護にも多大な功績がある。主導した数多くの重要な発掘調査記録以外の主要な業績としては、窯跡出土須恵器編年の構築、三角縁神獣鏡国内産説の提示、陵墓被葬者の探求とその公開運動などがあり、幅広い学問的関心と視野の広さから生み出されたその著作物とその内容は多様で、監修・編著を含む著書264冊、論文292編、新聞寄稿118編に上る。また交流した研究者・文化人は多岐にわたり、その研究姿勢に影響を受けた考古学者も多い。熱心な教育活動によって数多の若手研究者を育成したことは、死去後に刊行された追悼論集や特集に寄せられた寄稿の数が如実に示している。この他、若手や在野研究者の成果発表の場としての古代学研究会と機関誌『古代学研究』の創設でも功績が高い。 民間の研究者、すなわち氏の自称する「町人学者」としての人生哲学から、生涯叙勲褒章を受けなかったが、同じ姿勢を貫いた人物を顕彰した賞であるとして、2012年、唯一第22回南方熊楠賞(人文の部)を受賞している。

斎藤忠

没年月日:2013/07/21

 考古学者で元東京大学教授、大正大学名誉教授の斎藤忠博士は7月21日、老衰のため死去した。享年104。 1908(明治41)年8月28日生まれ。生後ほどなく仙台市に移る。1926(大正15)年3月宮城県仙台第二中学校卒業、同年4月第二高等学校文科甲類入学、1929(昭和4)年4月東京帝国大学文学部国史学科入学、32年3月卒業。卒業論文題名は「本邦古代に於ける葬制の研究」。考古学を学ぶため、同年6月黒板勝美の紹介で京都帝国大学文学部考古学研究室に移り、濱田耕作の斡旋で同大学文学部副手に就任。33年年6月、奈良県史蹟名勝天然記念物調査嘱託となり県内の遺跡調査に従事、12月には朝鮮古蹟研究会研究員として有光教一とともに慶州の古墳調査に参加する。京都帝国大学文学部副手併任のまま34年5月に朝鮮総督府古蹟調査及び博物館嘱託の辞令を受け、慶州博物館陳列主任となる。慶州では皇吾里109号墳・14号墳などの調査を、また石田茂作とともに扶餘軍守里廃寺の調査に参加する。37年12月には京城の総督府博物館勤務となり、引き続き軍守里廃寺や平壌の上五里廃寺調査などを行った。 40年5月、文部省史蹟調査嘱託として東京に戻り、47年9月には文部技官に任命される。戦時中から戦後にかけては全国各地の史蹟調査やその現状変更要望への対応等を行ったが、この頃保護に尽力した史蹟には北海道モヨロ貝塚、福山城、福岡県王塚古墳といった重要遺跡がある。48年4月に設立された日本考古学協会では幹事に選任され、50年8月の文化財保護法施行に伴う文化財保護委員会の設置に従い保存部記念物課に初代の文化財調査官として任命された。この時期には国営調査の責任者あるいは地方自治体調査の団長や顧問などとして、愛知県吉胡貝塚・秋田県大湯環状列石・岩手県無量光院跡・日光男体山頂遺跡・信濃国分寺遺跡・下野薬師寺跡・静岡県賤機山古墳・平城宮跡・山口県見島ジーコンボ古墳群・福岡県志登支石墓など多くの発掘調査を行っている。 55年5月に戦前の半島での遺跡研究の成果などにより東京大学文学博士学位を授与された(学位論文「新羅文化の考古学的研究」)。また53年以降には文化財調査官のまま東京国立博物館学芸部考古課、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部長を歴任し、各地の大学にて教鞭を取った。さらに65年4月には文化財調査官との兼務で(1966年3月まで)、東京大学文学部教授に就任した。69年3月に東京大学を退官し、翌70年4月大正大学教授就任、83年3月に定年退職した。大学勤務以降は国(宮内庁書陵部委員会委員ほか)や地方自治体委員など多くの役職に就くが、大正大学退職前年の82年4月に就任した静岡県埋蔵文化財調査研究所所長の職は、2008(平成20)年3月に100歳で退任するまでの26年もの間務めることとなった。 これら一連の業績により、78年に勳三等瑞宝章を授与され、また死去により天皇・皇后両陛下より祭粢料を賜った。 氏の学問的足跡は中学生時代の遺跡調査に始まり、大学での文献史学専攻を挟んで、その後再び考古学へと至る80年を優に超える長きにわたる。またそのフィールドは戦前の朝鮮半島各地での調査から、帰国後の日本全国に活動の場を広げた数多くの遺跡に及んでいる。こうした経歴や多くの人々との交流を基にした氏の研究成果は幅広く、それに裏付けられた著作物は700編を凌駕し、単著の単行本は90冊を数える。こうした氏の業績について簡潔にまとめるのは困難であるが、美術史に関連するものを上げれば、日朝壁画古墳についての研究や、半島の古代および高麗時代寺院や文様〓などの仏教美術研究、また中国の寺院史研究といった、日中韓の文化交流に関する研究などが注目される。さらに生涯を通じた文化財の保全活動や日本考古学史に関する多くの著作も重要な事績である。

大屋美那

没年月日:2013/06/18

 フランス近代美術史研究者であり、国立西洋美術館主任研究員の大屋美那は、松方コレクション研究のため訪れたフランス・パリで急性骨髄性白血病を発症し、6月18日聖ルイ病院で急逝した。享年50。 1962(昭和37)年7月27日、中央公論社の編集者尾島政雄の長女として神奈川県藤沢市に生まれる。81年4月学習院大学文学部哲学科(美学美術史専攻)に入学、88年3月同大学大学院人文科学研究所(哲学専攻)修士課程を修了。同年11月静岡県立美術館学芸員となり、「ピカソ展」(1990年)、「栗原忠二展」(1991年)などを担当、鈴木敬初代館長のもと学芸員としての活動の素地を固める。1992(平成4)年美術館連絡協議会の海外研修派遣制度によりテキサス大学オースティン校モダニズム研究所へ派遣され、セザンヌ研究の大家リチャード・シフ所長のもと研鑽を積む。帰国後の93年、同館の別館・ロダン館の設立準備に参加する一方、ロダン研究の第一人者ジョン・L.タンコックと共同で国際シンポジウム「ロダン芸術におけるモダニティ」を企画し、94年10月、静岡県立美術館を会場にヨーロッパ・アメリカ両大陸のロダン研究者を一堂に集める稀有な機会を実現した。このときに出会ったオルセー美術館彫刻部門学芸員アンヌ・パンジョーやロダン美術館学芸員アントワネット・ル・ノルマン=ロマン、マサチューセッツ工科大学名誉教授ルース・バトラー(所属はいずれも当時)らとは終生親交を深めることになる。1995年、全国美術館会議により組織された阪神・淡路大震災被災美術館支援活動では訪問調査の一員として活躍した。1996年静岡県立美術館退職。1997年国立西洋美術館客員研究員となり、松方コレクションにおけるロダン彫刻作品調査に取り組み、その成果を「松方コレクションのロダン彫刻に関する調査報告」(『国立西洋美術館研究紀要』4号所収、2000年)として発表した。 2001年4月国立西洋美術館に主任研究官として採用され(2006年度以降は主任研究員)、学芸課絵画・彫刻第二室を経て、07年同課版画素描室長、2010年より同課研究企画室長を務めた。その間、06年3月にロダン美術館とオルセー美術館の協力を得て「ロダンとカリエール」展を実現、国立西洋美術館での開催後に巡回したオルセー美術館で国際的評価を得た。08年から09年まで国立西洋美術館在外研究制度により上述のル・ノルマン=ロマンが所長を務めるフランス国立美術史研究所(INHA)の客員研究員としてパリに滞在し、松方コレクション形成に関与したリュクサンブール美術館長(後にロダン美術館初代館長)レオンス・ベネディットの資料調査など、フランス国立美術館資料室、ロダン美術館資料室ほかで精力的な調査活動を行った。帰国後の10年2月、松方幸次郎と交友しコレクションの指南役ともなった英国の画家に焦点を当てた「フランク・ブラングィン」展を実現、それまで殆ど顧みられることがなかった画家ブラングィンを近代美術史に明確に位置づけたと同時に、松方幸次郎との交友関係を実証的に検証した功績により、11年第6回西洋美術振興財団賞学術賞を受賞した。 展覧会企画を手がける一方、美術館のコレクションの充実にも力を注ぎ、ジョヴァンニ・セガンティーニ「羊の剪毛」(旧松方コレクション)、ポール・セザンヌ「ポントワーズの橋と堰」(ともに油彩作品)、フランク・ブラングィン「共楽美術館構想俯瞰図、東京」(水彩素描作品)をはじめとする数々の作品購入を担当した。また彫刻コレクションの収蔵展示環境の刷新にも取り組み、近年展示される機会の稀であったロダンやブールデルの作品を一堂に集めた「手の痕跡」展(2012年)に結実させるなど、美術館の現場で働く学芸員としての本領も発揮した。11年頃より担当した個人コレクター橋本貫志の大規模な指輪コレクションの一括寄贈に際しては、国立西洋美術館にとって新分野となる装飾美術の作品収蔵・管理体制の構築に尽力した。 美術館での公務の傍ら、12年から他界するまでジャポニスム学会理事を務め、また学習院大学、日本大学、東京大学、慶應義塾大学、日本女子大学、放送大学で講師を務めるなど、学会活動・教育活動に従事した。一貫してフランス近代彫刻、松方コレクション研究に取り組み、急逝する直前にはフランス近代の彫刻家カルポーについての研究論文を脱稿している(「ジャン=バティスト・カルポーと1850-60年代のローマ」『ローマ──外国人芸術家たちの都』所収、没後の2013年10月に刊行)。また静岡県立美術館時代以来親交の深かったバトラーによるロダンの評伝の翻訳にも着手していた(出版計画は共訳者らに引き継がれることになり、翻訳・刊行作業が今も続けられている)。なお、13年6月22日発行のフランスの主要紙『ル・モンド』に訃報記事が掲載され、フランス側の美術関係者からも追悼の意が寄せられた。 論文集として『大屋美那論文選集──印象派、ロダン、松方コレクション』(2014年)、また主要業績をまとめたものに『国立西洋美術館研究』18号(2014年)所収「大屋美那・国立西洋美術館主任研究員 業績目録」(『大屋美那論文選集』に再録)がある。

森郁夫

没年月日:2013/05/30

 帝塚山大学名誉教授で歴史考古学を研究し、特に瓦研究の第一人者でもあった森郁夫は胃癌のため5月30日に死去した。享年75。 1938(昭和13)年2月25日、名古屋市に生まれる。60年3月、國學院大学文学部史学科卒業後、64年4月、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部、71年には飛鳥藤原宮跡調査室に着任。85年4月 京都国立博物館に転出、学芸課考古室長として着任し、1995(平成7)年3月まで勤務した。同年4月、帝塚山大学教養学部(現、人文学部)教授として着任、97年4月に帝塚山大学考古学研究所長を兼務。98年1月 「古代寺院造営の研究」で國學院大學より博士(歴史学)の学位を取得した。2004年4月には自ら設立に尽力した帝塚山大学附属博物館の初代館長に就任。10年3月、帝塚山大学名誉教授に就任した。和歌山県文化財センター理事長、三河国分寺整備委員会委員長、日本宗教文化史学会評議員などを務めた。 國學院大学では大場磐雄に師事し、当初は地鎮や鎮壇具に関する研究を始め、処女論文「密教による地鎮・鎮壇具の埋納について」(『佛教藝術』84号)を発表。66年、出土遺物のうち瓦を担当する奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部考古第三調査室に着任したことを受け、本格的に瓦の研究を始めた。平城京や飛鳥宮・藤原京、その寺院跡等での豊富な調査経験を踏まえ、瓦に留まらず、京内の土器の研究も進めた。84年には三都土器研究会を立ち上げ、99年には古代の土器研究会として発展、会長に就任している。京都国立博物館に在任中は「畿内と東国」展(1988年)、「平城京」展(1989年)、「倭国」展(1993年)など精力的に考古分野の特別展を企画、開催した。特に「畿内と東国」展は全国及び朝鮮半島までの瓦を概観した古代瓦に関する初めての大規模な展覧会であり、古代瓦の持つ歴史的価値を多くの人に知らしめた。古代における瓦生産は当時の最先端の技術であり、寺院造営を表象するとの主張は『瓦と古代寺院』(六興出版、1983年)、論文集『日本の古代瓦』(雄山閣出版。1991年)などの著書にまとめられ、その後の瓦研究ひいては古代史研究に大きな影響を与えた。晩年、その集大成として『日本古代寺院造営の研究』(法政大学出版局、1998年)を出版。没後も遺稿を纏めた『一瓦一説』(淡交社、2014年)が出版されている。 帝塚山大学に移ってからは、同考古学研究所、同附属博物館の設立に奔走。研究所を拠点として歴史考古学研究会などを主宰し、ここから多くの瓦研究者が育っていった。さらに同研究所においては市民大学講座も定期的に開催したほか、一般向けの著作も多く、法隆寺夏季講座の講師を長年務めるなど一般市民への文化財理解の普及にも努め、多くの古代史ファンに慕われた。

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