本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





高畠華宵

没年月日:1966/08/31

 大正から昭和にかけ挿絵界で一世を風びした高畠華宵は8月31日東大病院で心筋こうそくのため死去した。享年78才。本名幸吉。明治21年4月6日愛媛県宇和島市に生れ、15才の時挿絵画家を志して大阪に出、花鳥画家平直水に就いた。翌36年京都市立美術工芸学校日本画科へ入ったが3年で中退し、同39年洋画家を志し浅井忠の関西美術院に入った。翌年洋画研究をのぞみ上京したが、事情あって就学せず42年寺崎広業の門に入った。ここも暫時にして辞め、以後独習で挿絵を続けた。明治44年中将湯の商標である中将姫を書いて一躍その名を知られるに至った。その後大正に入ってから講談社出版雑誌(講談倶楽部、面白倶楽部、少年倶楽部他)単行本、新聞挿画等広汎な出版物の挿絵、装画に筆をふるった。しかし戦時に入ってからは、感傷的雰囲気をもつその画風から第1線を退き、戦後は児童向出版物などに執筆していた。又昭和34年には渡米して個展を開いたり、日本画の指導にあたったりしたが、晩年は比較的恵まれず、昭和39年明石愛老園に身を寄せ不遇の日を送った。このような境遇を伝えきいた往年のフアン達が集り40年10月「華宵会」(会長鹿野琢見 文京区弥生2-4-2)が発足した。この会が中心となって昭和41年1月4日より上野松坂屋において華宵名作回顧展が開かれた。開会前日心筋梗そくで倒れ、4月全快状態に回復したが、7月再び脳血せんで倒れ、31日逝去したものである。同日勲五等双光旭日章に叙せられ、8月3日出版美術家連盟(会長-岩田専太郎)各出版関係者により鳥居坂教会で「さし絵葬」が営まれた。11月10日より明石天文科学館に於て遺作展「華宵をしのぶ名作展」が開催された。

清水三重三

没年月日:1962/10/29

 挿絵画家清水三重三は10月29日脳溢血のため東京都渋谷区の自宅で逝去した。享年69才。明治26年三重県四日市に生れ、大正8年東京美術学校彫刻科を卒業した。大正11年帝展に「閨怨」を出品、入選しその後も官展に出品していたが、挿絵に活躍するようになり、出版美術家連盟理事、捕物作家クラブ副会長をつとめるなどむしろ、挿絵画家として知られていた。挿絵の代表作に「鉄火奉行」(毎日新聞連載)、「お伝の方」などがある。

河野通勢

没年月日:1950/03/31

 新聞小説の挿絵に特異の境地を出して大衆的人気をよんだペートル河野通勢は3月31日逝去した。年55。明治28年群馬県に生れ、一時は長野にも住んでいたことがある。二科会第1回から出品し、草土社展にも発表、大正13年春陽会賞をうけ、15年春陽会々員となつたが、昭和4年国展会員に推薦されて以後この会にとどまつた。代表作には11回文展の「自画像」や第8回国展「ピクニツク」などがあり、突きこんだ異色ある人物画をかいた。エツチングにも特色を出し、また挿絵等の風俗描写にも鋭い表現を示した。

幡恒春

没年月日:1944/04/17

 挿絵画家幡恒春は4月17日逝去した。享年62。明治16年生れ、同39年大阪朝日新聞に入り、16年間挿絵を担当した。村上浪六の挿絵に独自の筆致を認められていた。

吉田柳外

没年月日:1942/05/15

 京都市上京区吉田柳外は京大病院で療養中のところ5月15日逝去した。享年64。岐阜県に生れ、明治27年美術肖像画を専門に創業、同42年京都美術肖像画学校を開設して今日に至つた。

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