本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





寺本忠雄

没年月日:1985/01/14

 挿絵画家寺本忠雄は、1月14日午前零時21分脳梗塞のため、東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年83。明治34(1901)年2月15日東京市深川区に生まれる。独学で絵を学び、大正8年『少年倶楽部』『武侠少年』などの少年雑誌でデビュー。のち『オール読物』『講談倶楽部』『富士』『サンデー毎日』ほか、大衆雑誌、婦人雑誌の現代小説に挿絵を描く。大正13年より新聞小説も手がけ、朝日新聞、読売新聞、報知新聞、国民新聞などに挿絵を描いた。この間、大正10年荒木十畝に師事、日本画を学び、読画会に入る。菊池寛、久米正雄、直木三十五らとのコンビによる小説挿絵を多く担当し、代表作に昭和7年菊池寛作「妖麗」(『講談倶楽部』)、同年中村武羅夫作「薔薇色の道」(『富士』)、同10年小島政二郎作「感情山脈」(朝日新聞)の挿絵がある。写実的な美人画をよくしたが、戦後、時代小説に転向、江戸川柳を絵画に描くなど、独自の境地を拓いた。『夫婦草紙』『夫婦絵草紙』など3冊の著書を残している。

生沢朗

没年月日:1984/11/22

 洋画家で挿絵画家として著名な生沢朗は、11月22日心筋こうそくのため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。本名正一。明治39(1906)年9月12日兵庫県に生まれる。昭和3年日本美術学校を卒業後、台湾で壁画の模写に従事したのち報知新聞社に入社し、政治漫画を執筆する側ら帝展へ出品。同11年には第23回二科展に「ラグビー」が入選する。戦後は、同21年行動美術協会結成に際し会友となり、同23年第3回展に「埠頭付近」「河畔」他を出品し会員に推挙された。行動展への出品作には「競馬場風景A」(4回)、「鳩を囲む裸婦」(9回)などがあり、フォーヴィスム的な作風を示した。一方、同26年の「週間朝日」「月刊読売」に表紙絵を描くなど挿絵画家としても活躍し、同33年行動美術協会退会後は新聞、雑誌等の挿絵に腕をふるった。同44年立原正秋『冬の旅』(読売新聞)、同45年大岡昇平『愛について』(毎日新聞)をはじめ、井上靖『氷壁』『化石』『星と祭』(朝日新聞)など新聞連載小説の挿絵を担当、都会的でかつ陰影にとむ独特の持ち味で一躍流行児となった。同46年には井上靖らとシルクロード、ヒマラヤを訪れ、そのスケッチを中心に『生沢朗画集-ヒマラヤ&シルクロード』を同48年に刊行した。スポーツマンとしても知られ、晩年は水墨画に親しんでいたという。『氷壁画集』(同32年)、『生沢朗さし絵集』(同49年)などがある。

黒崎義介

没年月日:1984/08/12

 童画家で日本童画家協会理事をつとめた黒崎義介は、8月12日脳こうそくのため神奈川県藤沢市の藤沢市民病院で死去した。享年79。明治38(1905)年3月25日長崎県平戸市に生まれる。長崎県立平戸中学猶興館を中退し大正15年上京、川端画学校に学び翌昭和2年から童話の挿絵を描く。同6年小茂田青樹に師事し同18年からは安田靫彦の指導を受け院展に出品(同23年「宝生寺」他)し院友となるが、同28年院友を辞し新興美術院会員となる。同34年日本著作権協議会理事となり、同36年にはユネスコ派遣で著作権の調査のため欧米13ケ国を訪問する。同35年新興美術院を退会し、翌年新世美術会を結成、同38年には現代美術家協会に会員として加わり、「赤壁の賦」(同41年)などを出品する。この間、同23年には童画研究会を主宰し展覧会を開催し、のち日本童画家協会理事をつとめる。「キンダーブック」「チャイルドブック」「コドモノクニ」「ひかりのくに」などの絵本や児童読物の童画を60年余にわたって描き、多くの子供たちに親しまれた。同54年児童画界への功績で日本児童文芸家協会から児童文学賞を受賞。藤沢市社会教育委員、同文化財保護委員もながくつとめた。作品に『よしすけ昔噺童画集』『小人といも虫』『日本のこども』などがある。

川上四郎

没年月日:1983/12/30

 童画会の長老川上四郎は、12月30日午後0時30分、心不全のため、新潟県南魚沼郡の自宅で死去した。享年94。明治22年(1889)11月16日、新潟県長岡市に生まれ、東京美術学校西洋画科本科で藤島武二に学ぶ。大正2年同科を卒業後、独協中学に奉職したが、同5年、コドモ社に入って童画家となり、同社の雑誌「童話」を舞台として活躍した。児童画の芸術的地位を高めるため、童画という名称を作り、日本童画家協会を結成、のち、日本童画会々員となる。講談社絵本童謡画集『アリババ』『アラジン』、小学館幼年文庫『良寛さま』ほか、多くの児童書に挿絵を描き、昭和12年、野間挿絵奨励賞を受賞する。精神性の強い牧歌的な農村風景、風物に定評があった。

中原淳一

没年月日:1983/04/19

 服飾雑誌「それいゆ」「ひまわり」の挿絵で知られ、服飾美術家として活躍した中原淳一は、4月19日午後2時25分、脳こうそくのため、千葉県館山市の館山病院で死去した。享年70。大正2(1913)年2月16日、香川県に生まれ、間もなく徳島に移り住む。小学校2年生で父と死別。少年期から、文学、戯曲を耽読し、また、画家を志す。日本美術学校在学中の昭和7(1932)年2月、自作のフランス人形約30点を展示した個展を銀座松屋で開き、好評を得る。この個展の特集が雑誌「少女の友」に掲載されたのがきっかけとなって、同誌の挿絵、表紙を描くようになる。同誌には、吉屋信子、川端康成などが寄稿していた。中原の描く、黒目がちでうるんだような大きな瞳を持つ感傷的な少女像は「昭和の夢二」として一世を風靡する。同15年5月同社を退き、海軍に応召し、終戦後間もなく帰国。戦後の婦人たちに夢を与える雑誌をめざしてひまわり社を設立し、季刊誌「それいゆ」を創刊。同22年1月に月刊少女雑誌「ひまわり」の出版を始める。これらに発表された服飾、室内装飾、髪型などのデザインは、戦後の自由な空気の中で、次々と新しい流行を生み出した。同26年4月から1年半パリに留学。帰国後、「ひまわり」を廃刊し、「ジュニアそれいゆ」を創刊する。同34年8月、過労から来る心臓発作にみまわれ、2年間の入院と約10年にわたる療養生活を余儀なくされる。同45年、隔月雑誌「女の部屋」を創刊して再起を期したが、再び病に倒れ、1年で廃刊。そののちは、館山市で療養生活を続けていた。雑誌の他に、『愉しく、新しく』(昭和28年)、『あなたがもっと美しくなるために』などの単行本も著し、視覚芸術にとどまらず、美しく生活するための総合的なアイデアを提起して、独自の足跡を残した。

武井武雄

没年月日:1983/02/07

 大正期に童画のジャンルを確立した童画家で児童文学者の武井武雄は、2月7日心筋こうそくのため東京都板橋区の自宅で死去した。享年88。明治27(1894)年6月25日長野県岡谷市に生まれ、長野県立諏訪中学校を経て大正8年東京美術学校西洋画科を卒業。1年間同校研究科に在籍し、この頃から児童文学雑誌「赤い鳥」に挿絵を描き始めて童画に専念、大正13年に「武井武雄童画展」を開催するに及んで「童画」の名称を定着させた。その後、昭和9年の絵日記「赤ノッポ青ノッポ」の新聞連載や「戦中気侭画帳」、「戦後気侭画帳」などの独特な絵と文で人気を集めた。また、昭和10年頃から紙質、装丁、印刷技術を全て自分で工夫したハガキ大の「刊本」製作に情熱を注ぎ、没年までに百三十種を刊行するに到った。代表作に童画集「廃園の草」「妖精伝奇」などがあるほか、郷土玩具の収集、研究家としても知られ著書に『日本郷土玩具』がある。戦前は日本童画家協会、戦後は日本童画会の創立にあたり、昭和34年紫綬褒章を受章した。

中谷千代子

没年月日:1981/12/26

 絵本作家中谷千代子は、12月26日午後9時49分、心不全のため東京都豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年51。1930(昭和5)年1月16日東京高樹町に生まれ、47年東京美術学校に入学して梅原龍三郎等に学ぶ。52年同校油彩科を卒業し、その後グループ展(MY NAK)・国展等に油絵を出品したが、57年頃より絵本の仕事に興味を持ち、研究を始めた。60年初めての絵本「ジオジオのかんむり」を出版し、62年に出版した「かばくん」は翌年サンケイ児童出版文化賞大賞を受賞する。63年より1年間フランスに滞在し、ボナールやアンリ・ルソーの絵に感銘を受けるとともに、フランスの絵本編集者ポール・フォーシェ、スイスのベッティナ・ヒューリマンらと出会ったことが、絵本作家としての道を進む大きな自信となった。65年の「まいごのちろ」「かばくんのふね」は第14回小学館絵画賞を受賞し、66年に出版した「スガンさんのやぎ」は翌年アメリカでも出版され、シカゴトリビューン・ワシントンポスト紙主催の児童図書フェスティバルで最優秀作品に選ばれるなど、動物を主人公とした作品は海外でも知られた。その後も、「まちのねずみといなかのねずみ」(69年、第1回講談社出版文化賞)、「かえってきたきつね」(74年、第21回サンケイ児童出版文化賞大賞)、「かめさんのさんぽ」(79年、第26回サンケイ児童出版文化賞推薦図書)など意欲的な作品を発表し、この間取材のため、73年フランス、76年にはパリ、ベニスを旅行している。81年には各種の童画新人賞の審査員をつとめたが、「しろきちとゆき」が最後の作品となった。

穂束信勝

没年月日:1981/02/09

 歌舞伎絵作家の穂束信勝は、2月9日午後5時50分・気管支肺炎のため大阪市の自宅で死去した。享年74。1907(明治40)年6月26日松山市に生まれ、16歳の時大阪に出て劇画の石川観風に師事した。23歳で独立し、以後、戦前は浪花座や中座(大阪)の絵看板を描く。戦後、50(昭和25)年の南座(京都)顔見世興行より歌舞伎絵も描くようになり、歌舞伎座、中座、南座、御園座(名古屋)などの歌舞伎絵看板を描いた。また新派や新国劇、新喜劇などの絵看板も制作し、関西の芝居劇場の絵看板を一手に引受けた絵看板の第一人者だった。代表的作品は、前述の京都・南座顔見世看板ほか。

志村立美

没年月日:1980/05/04

 挿絵画家として活躍した志村立美は、5月4日急性肝炎のため東京新宿区の目白病院で死去した。享年73。群馬県に生まれ、神奈川県立工業図案科修業後、美人画家山川秀峰に師事した。大正時代末期から講談社などの雑誌のさし絵で活躍、ながいまつ毛、うるんだ瞳の麗人像などに特色を示し戦前の一時期流行児として人気があった。鏑木清方門の伊東深水、山川秀峰などの塾展である青衿会や、戦後の美人画団体日月社展等に美人画を出品していた。出版美術家連盟会長、元日本作家クラブ副理事長。

安泰

没年月日:1979/10/31

 童画家安泰は、10月31日心不全のため東京豊島区の敬愛病院で死去した。享年76。1903(明治36)年10月4日茨城県久慈郡に生まれ、1927年日本美術学校日本画家を卒業、日本画制作のかたわら「コドモノクニ」などに童画を描き始め、31年新ニッポン童画会を設立する。52年第1回小学館児童文化賞を受賞、64年には童画ぐるーぷ「車」を結成、74年日本児童文芸家協会から児童文化功労者として表彰される。わが国童画会の草分けの一人で、特に動物の絵を得意とした。戦前の作品に「オサルノコヅツミ」(東京社)「太陽と花園」(フタバ書店)、戦後に「おやまのくまちゃん」「どこからきたの」(童心社)、「白鳥の国」(新日本出版社)、「スイッチョねこ」(フレーベル社)、「ねこ画集」(童心社)など。

蕗谷虹兒

没年月日:1979/05/06

 挿絵画家で童謡『花嫁人形』の作詞者としても知られる蕗谷虹兒が、5月6日急性心不全のため静岡県田方郡の中伊豆温泉病院で死去した。享年80、本名一男。1898年(明31)年12月2日新潟県新発田市に生れ、少年の頃母の死去とともに奉公に出された。翌年の1912年新潟市長の世話で、同郷の日本画家尾竹竹坡の内弟子となって上京した。しかし父の病のため急遽帰郷し映画館の看板描きの仕事に就いた。のち樺太に渡り放浪5年にして再び上京したが、車中勉学費用の全てを盗難に遇という不幸に見舞われた。その日の糧を得るため竹久夢二の紹介により挿絵の仕事にたずさわった。はじめ「少女画報」に描いたが、読者への反響が大きかったため「婦人画報」「婦人倶楽部」にも筆をふるった。1921年東京、大阪朝日新聞連載の吉屋信子の長篇小説『海の極み』で挿絵を担当して著名となり、また「令女界」にも執筆した。ついで絵と文章による長篇小説『氷中の金魚』を「主婦の友」に連載し、1924年詩画集『睡蓮の夢』『銀砂の汀』を、1925年には同じく詩画集『悲しき微笑』を出版した。その後渡仏し研究所に通い、サロン・ドートンヌ等に出品したが、1929年弟嫁病のため帰国した。1935年詩画集『花嫁人形』を宝文館より出版し、また絵と文による長篇小説『二女妻』を「令女界」に連載した。戦時下の1942年には短歌雑誌『防人』を主宰し、また大日本航空美術協会の会員として、絵入り少年小説『大空への道』を出版した。1944年神奈川県山北町に疎開し、町の教育委員をつとめ、地元各新制校の校章のデザイン、校歌の作詞等を依頼されつくった。戦後は再び児童物に復帰し、1950年東映動画スタヂオで『夢見童子』を制作し、65年には郷里新潟日報に長篇『花嫁人形、海鳴り』を連載し、翌年新潟市西堀通りに『花嫁人形詩碑』が建立された。同年詩碑記念の個展が同市大和デパートで開催され、翌67年には長篇小説『花嫁人形』(絵・文講談社)が出版され、さらに翌年同社から『蕗谷虹兒抒情画集』が上梓された。また同じ年、新宿小田急デパートで『画業50年記念蕗谷虹兒抒情画展』が開催され、その後も東京三越ほか各地に個展を開催し、また出版活動も行った。1975年3月静岡県中伊豆町に移転した。彼の作品は、繊細で深い叙情性を秘めた画風で、モダンで洗練された独自の様式は、平俗な感傷的挿絵とは一線を劃すものであった。大正末から昭和初年にかけての出版界に活躍し、夢路についでの一時代をつくり挿絵界の寵児となった。代表作「オランダ船」(新潟県立美術博物館)「花火」(同)ほか。

岡本爽太

没年月日:1979/03/13

 挿絵画家岡本爽太は、3月13日スイ臓ガンのため東京渋谷の日赤医療センターで死去した。享年57。本名次郎。1921(大正10)年3月15日静岡県浜松市に生まれ、1941年東京美術学校油画科に入学したが、43年10月学徒出陣し45年帰国、46年卒業する。同48年まで学徒出陣した学生のために開設された教室で油絵研究を行う。47年第3回日展に「着物スリーブの女」、国画展第21回に「着物習作」(1)(2)がそれぞれ入選したが、その後挿絵に転じ、59年から翌年にかけて報知新聞に連載された尾崎士郎作「雷電」の挿絵で出版美術連盟賞を受ける。主な新聞小説挿絵に檀一雄作「海の竜巻」、山本周五郎作「風流太平記」、松本清張作「野盗伝奇」、遠藤周作作「快男児・怪男児」があるほか、単行本、雑誌等の装幀、口絵、挿絵も多い。

土井栄

没年月日:1976/10/31

 洋画家、挿絵画家土井栄は、10月31日急性心衰弱のため埼玉県入間市の原田病院で死去した。享年60。本名栄司。大正5(1916)年1月9日山形県飽海郡に生まれ、昭和9年から本郷絵画研究所で岡田三郎助、辻永、中村研一らに師事、同13年菊池寛の小説の挿絵でデビュー以来、主に新聞、雑誌小説の挿絵画家として活躍した。はじめ自由美術協会に属したが、同39年退会し、同年の主体美術協会創立に参加、会員として制作活動を続けた。この間同40年以来3回にわたり欧州・地中海方面へスケッチ旅行にでかけ、たびたび個展を開催した。主体美術展の主な出品作に「牛と馬とA」(第8回)「轍」(第11回)「コンポジション」(第12回)などがある。

鈴木寿雄

没年月日:1975/09/15

 童画家鈴木寿雄は、9月15日結腸ガンのため東京神田の三井記念病院で死去した。享年72歳。戦前から童画界の第一線で活躍し、絵本や教科書に多くの作品をのこした。日本童画家協会々員で、昭和30年に第二回小学館絵画文化賞を受賞した。

松野一夫

没年月日:1973/07/17

 雑誌『新青年』の表紙絵などで知られていた挿絵画家の松野一夫は、7月17日午後7時半、心筋こうそくのため東京文京区の自宅で死去した。享年77歳。松野一夫は本名一男、明治28年(1895)10月1日、福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれ、小倉中学校を中退して上京、東京の中学校(校名不詳)を卒業。大正10年(1921)、第3回帝展に油彩画「ときちゃん」が初入選した。そのころから雑誌『新青年』(大正9年1月創刊)の表紙を描きはじめ、戦後廃刊になるまで同誌の表紙絵を全部描いている。その間、昭和6年(1931)9月から約1年間フランスに滞在しパリにあってグラン・ショミエールに通い絵画を勉強、帰国後は雑誌『少年倶楽部』の表紙絵、また昭和12~15年には『新女苑』の名作絵物語の挿絵などを描いている。そのほか、朝日、読売、東京、日経などの各新聞の挿絵でも活躍した。

初山滋

没年月日:1973/02/12

 日本童画家協会会員・日本版画協会名誉会員の初山滋は、2月12日午後0時5分、肺炎のため東京・板橋区の日大板橋病院で死去した。享年75歳。明治30年7月10日東京浅草に生れた。本名繁蔵。浅草田原町田島小学校を卒業、まもなく染物屋に奉公、染物下絵で才能を示し、明治44年井川浩崖に弟子入りして風俗画や挿絵の指導をうけた。大正8年以後、北原白秋、浜田広介、小川未明らの児童文学興隆期に、その童謡・童話集の装釘、挿絵に幻想的抽象的な画風で名声を確立した。また、昭和5年頃から木版画の制作もはじめ、個展や日本版画協会展で作品を発表した。昭和35年には、スイス、ルガノ国際版画展に出品した。42年6月、童画「もず」(至光社絵本)で国際アンデルセン賞の国内賞を受けた。41年には紫綬褒章、45年には勲四等旭日小綬章を受けた。

林唯一

没年月日:1972/12/27

 挿絵画家、林唯一は12月27日心不全のため都内新宿区の自宅で死去した。享年77才。1895年(明治28)1月27日、香川県香川郡に生れた。関西商工学校を卒業し、松原三五郎の天彩画塾で洋画を学んだのち、大正末年から少年少女雑誌の挿絵画家として名声を駈せた。1940年および42年に中国中部および南部に従軍。戦事中の日本少国民文化協会絵画部幹事および日本挿絵家協会委員長。著書「爆下に描く」1948年12月、「郷土の風俗」1960年6月。

山口将吉郎

没年月日:1972/09/12

 挿絵画家山口将吉郎は9月12日に都内新宿区の自宅で肺炎のため死去した。享年76才。山形県鶴岡市出身。大正9年3月東京美術学校日本画科卒業。野生と号した。卒業後間もなく挿絵画家として吉川英治の「神州天馬侠」や「ひよどり草紙」の挿絵をはじめとして雑誌「少年倶楽部」「キング」「講談倶楽部」などを主な舞台として、武者絵に評判をとった。1944年には第4回野間挿絵奨励賞を受賞した。

中尾進

没年月日:1971/06/08

 新制作協会洋画部会員で時代小説の挿絵でも活躍した中尾進は、6月8日、癌性腹膜炎のため東京・阿佐谷の河北病院で死去した。享年55才。中尾進は、本名鈴木益吉、大正5年(1916)5月27日、栃木県宇都宮市に生まれ、栃木県安蘇郡植野村尋常高等小学校を卒業、川端画学校、本郷研究所で学び、昭和15年(1940)荻須高徳に師事し、翌16年新制作派6回展に「古い家」が初入選した。翌17年5回文展に「日和」入選、同18年以後は新制作展に出品をつづけ、昭和21年(1946)10回展に「敗屋」「本郷湯島附近」「松坂屋のみえる風景」を出品して新作家賞をうけ、同31年(1956)「座す」「鳩」を出品。新制作協会会員に推薦され、昭和39年4月~7月欧米を旅行した。昭和30年(1955)前後から新聞雑誌の挿絵を描きはじめ、柴田錬三郎作「乱世流転記」(京都新聞)、司馬遼太郎作「城塞」(週刊新潮)など多くの時代小説の挿絵を担当した。その他、油彩作品には、「信濃の道」(昭和18)、「工場」「四谷駅」(同24)、「話」「鏡」(同26)、「生」(同28)、「滑走路」「赤い椅子の夢」「NOA NOA」(同30)、「弱法師」(同34)、「白」「黄」「赤」(同37)、「アクロポリス」(同39)、「風の影」「イスパニア」「黒い陽」(同40)などがある。

斎藤五百枝

没年月日:1966/11/06

 挿絵画家として知られる斎藤五百枝は、脳出血のため東京都中野区の自宅で死去した。享年84才。明治14年12月21日千葉県上総国長生郡に生れ、同41年東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中白馬会展10周年記念展に「夕陽」が入選し、卒業後は岡田三郎助に師事した。大正、昭和初期へかけては新聞、雑誌の挿絵家として活躍し、新聞の美術記者、日活映画の美術部主任等の職に従事した。晩年は染色の研究をしていた。

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