本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





米倉斉加年

没年月日:2014/08/26

 俳優、演出家で絵本作家としても知られた米倉斉加年は8月26日午後9時33分、腹部大動脈瘤破裂のため福岡市内の病院で死去した。享年80。 1934(昭和9)年7月10日、福岡市に生まれる。戸籍上の本名は米倉正扶三(まさふみ)だが、小学校時代から斉加年を名のる。57年に西南学院大学英文科を中退して上京、劇団民藝の水品演劇研究所に入所し宇野重吉に師事する。59年に劇団青年芸術劇場(青芸)を結成して活躍したが、64年に退団して民藝に戻る。66年にベケット「ゴドーを待ちながら」等の演技で第1回紀伊国屋演劇賞を受賞、74年の金芝河の「銅の李舜臣」以来演出も手がける。88年にも「ドストエーフスキイの妻を演じる老女屋」での演技で第23回紀伊国屋演劇賞を受賞。商業演劇の世界でも、舞台「放浪記」で林芙美子の友人白坂五郎役を長年にわたり演じた。2000(平成12)年に劇団民藝を退団後、07年に劇団海流座を立ち上げ、代表を務めた。映画「男はつらいよ」シリーズやNHK大河ドラマ「国盗り物語」「風と雲と虹と」「花神」等にも出演し、存在感のある演技で広く知られた。 演劇活動の傍ら、生活費の助けとして元々好きだった絵を描くようになり、69年から翌年にかけて月刊誌『未来』に絵と雑文を連載。これが注目され、野坂昭如『おとなの絵草紙 マッチ売りの少女』(1971年)をはじめとする絵本の仕事に携わるようになる。75年には奥田継夫の童話『魔法おしえます』(偕成社)の絵を担当し、翌年のボローニャ国際児童図書展・子供の部でグラフィック大賞を受賞。さらに同年出版、自作の文と絵による『多毛留』(偕成社)が77年の同展・青少年の部でグラフィック大賞を受賞する。竹久夢二の大衆性を愛し、市井に生きる“絵師”を自任、その作風は繊細な描写の中に諷刺の毒を効かせたものであり、英国の画家ビアズリーのそれを髣髴とさせる。画集に『憂気世絵草紙』(大和書房、1978年)、『masakane 米倉斉加年画集』(集英社、1981年)、『おんな憂気世絵』(講談社、1986年)がある。

朝倉摂

没年月日:2014/03/27

 画家・舞台美術家の朝倉摂(本名、富沢摂)は3月27日、都内の病院でくも膜下出血のため死去した。享年91。 1922(大正11)年7月16日、彫刻家・朝倉文夫の長女として東京に生まれる。妹は後に彫刻家となった朝倉響子。当時東京美術学校(現、東京藝術大学)で教鞭をとっていた父・文夫の、「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。小学校の課程は東京美術学校師範科卒業生が担当し、女学校の課程は一課目にひとりずつの先生がつけられ、二年間ほどで全課程を終了。この頃には文学や哲学関係の本を乱読し、十歳の頃にはマルクスの『資本論』をわからないながらも読んだという。また、伊東深水に日本画を学び、1940(昭和15)年には深水を中心に結成された青衿会の第1回展へ椅子に腰掛けた女性を描いた「麗日」を出品、以後も出品を続け、第3回展(1942年)では「街頭に観る」で後援会賞となる。一方、41年5月には第4回新美術人協会展へ「九官鳥」を出品。同会は34年に新日本画樹立を目指して福田豊四郎、吉岡堅二、小松均、岩橋英遠等によって結成された新日本画研究会が発展したもので、朝倉は翌年の第5回展へも「更紗の室」を出品している。さらに41年10月には第4回文部省美術展覧会へトマトの鉢植えが並ぶ温室内の看護師ふたりを描いた「小憩」を出品、42年の第5回展、43年の第6回展へは、ともに3人の女性像からなる「晴晨」と「歓び」をそれぞれ出品した。戦後の日展へは、第2回展(1946年)へ砂浜にいる水着姿の男女の群像を描いた「沙上」を出品、以後第4回展(1948年)まで出品を続けた。その間、47年には劇作家・木下順二らの結成した劇団・ぶどうの会が、演出家・岡倉士郎の演出によって行った木下作「暗い火花」の試演会において舞台美術を手がけた。このときの経験から舞台美術、とりわけ新劇の装置に興味を持つようになったという。翌48年には、当時進駐軍に接収されていたアーニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)で上演されたドナルド・リチー作「パーティー」の舞台美術を手がけている。 同年、福田豊四郎、山本丘人、上村松篁、吉岡堅二、秋野不矩等は、「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」とし、創造美術を結成。朝倉は翌49年に開催された第2回創造美術展へ「ノアール」と「反映」の二点を出品、50年の第3回展では「群像」が奨励賞を受賞し、51年5月の第3回春季創造展へは準会員として「男」を出品する。同年創造美術は新制作派協会と合流、新制作協会日本画部となり、9月に第15回新制作展が開催された。朝倉は「裸婦A」「裸婦B」「裸婦C」の三点を出品、会員に推挙される。翌52年の第16回展へは「働らく人」を出品、同作は日本画のレアリズムを異なった面から追究しているとして、53年に第3回上村松園賞を受賞した。アトリエの下の道路工事をする人々を描いたという同作のように、朝倉は社会の中に生きる人間像に関心を寄せ、労働者などをテーマにした作品を多く手がけている。また、49年には生家から独立、以後はバーのアルバイトや看板絵などを描いて生計を立てていたという。50年4月には北荘画廊で初の個展を開き、同年のサロン・ド・プランタン第2回展では「自画像」で日本画一等となる。52年10月には、日本橋の丸善画廊にて村尾絢子との二人展を行っている。 53年の第2回日本国際美術展へは「働く人」を出品、以後67年の第9回展まで毎回出品、54年には第1回現代日本美術展へ「母」を出品し、64年の第6回展まで毎回出品した。一方、53年9月には第17回新制作展へ「夫婦」と「寮」を出品、以後67年の第31回展まで出品を続けているものの、徐々に絵画というものに対する本質的な疑問を抱くようになり、61年の第25回展へは不出品、65年頃には一年間に描く絵の数よりも舞台装置を手がける数のほうが多くなっていたといい、70年には新制作協会を退会した。また、50年代のはじめ頃より、朝倉の描く人物像には抽象化の傾向が見られるようになるが、60年代に入ると画題じたいの変化とともに、その画面もより抽象化されていった。この間、54年にファッションデザイナーの桑沢洋子によって創立された桑沢デザイン研究所にて教鞭を執り、同所を母体に66年に設立された東京造形大学においても教壇に立った。55年5月にはサエグサ画廊にて佐藤忠良、中谷泰との三人展を開催。翌56年からは会場を村松画廊に変更し、同じメンバーによる三人展を58年までに4回行っている。57年1月にはサエグサ画廊にて朝倉摂デッサン展を、3月には三原橋画廊にて堀文子、秋野不矩、広田多津とともに四人展を開催、58年10月にはみつぎ画廊にて小畠鼎子、横山操との三人で素描展を行っている。また、57年には岩波映画勤務の富沢幸男と結婚、翌年12月には長女・亜古が誕生した。59年にはウィーンで開かれた第7回世界青年学生平和友好美術展に日本代表団のひとりとして参加、このときに見た中国の京劇を通じて、伝統芸術の問題と現代絵画の問題をさらに深く感じたという。60年には安保反対デモに参加。63年6月には海老原徳造、小野具定、菊地養之助、渡辺学の4名とともに、スルガ台画廊にて五人展を開催、65年まで同画廊にて毎年開催した。67年には渡辺学とともに、銀座・松屋にて作品展を行っている。また、松本清張『砂の器』(1960〜61年、読売新聞)や山本周五郎『季節のない街』(朝日新聞、1962年)などの挿絵を描き、水上勉『弥陀の舞』(1969年)や澤野久雄『失踪』(1970年)などの装丁を手がけた。68年には講談社さしえ賞を受賞、翌69年には挿絵画家、デザイナー、漫画家の集団である日本イラストレーター会議(NIC)の発足に参加する。70年には講談社絵本賞を受賞。そのほか、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』(1969年)において美術を担当するなど、幅広い創作活動を行った。 70年の1月から4月まで、ロックフェラー財団からの招待で渡米、ニューヨークに拠点を置いて前衛劇を中心に70本近くの芝居を見て回る。滞米中にはミンチョー・リーなどの舞台美術家を訪ね、ジャック・スミスの芝居小屋を訪れた際には舞台に飛び入りで出演したという。72年9月には池袋パルコのトック・ギャラリーにて朝倉摂のさしえ展が開催。このときの展示では、朝日新聞にて連載された堀田善衛の新聞小説『19階日本横丁』の挿絵全162点が絵巻状に並べられた。73年7月に上演された井上ひさし作「藪原検校」では、縄を使って四次元の世界を表現した美術を制作する。76年4月にはギャルリーワタリにて朝倉摂作品展が開催、同年9月に渋谷のジャンジャンで上演された富岡多恵子作の「人形姉妹」では美術とともに演出も手がけた。80年には第7回テアトロ演劇賞を、さらに映画「夜叉ヶ池」の美術で日本映画アカデミー賞を受賞。翌81年7月、和光ホールにて朝倉摂絵本原画展が開催。82年には映画「悪霊島」の美術で第5回日本アカデミー賞優秀美術賞を、86年には蜷川幸雄が演出を行った「にごり江」の美術で第40回芸術祭賞を受賞。87年には紫綬褒章を授与される。1989(平成元)年1月、昭和63年度の朝日賞に選ばれ、同年「つる―鶴―」の美術で第12回日本アカデミー賞優秀美術賞を受賞。90年7月、和光ホールにて朝倉摂展―ねこと居る―開催。95年には「泣かないで」、「オレアナ」、「エンジェルス・イン・アメリカ」の美術で第2回読売演劇大賞最優秀スタッフ賞を受賞、2006年には文化功労者に選ばれた。10年9月には横浜のBankART Studio NYKにて個展「朝倉摂展 アバンギャルド少女」が開催、会場には実際に舞台が組まれ、舞台そのものが展示された。 若い頃から一貫して、「芸術家の行為はレジスタンスです」、「すべてに闘わないとだめ」といった姿勢を貫いた朝倉は、常に若々しいエネルギーに満ちた前衛の人であった。

安西水丸

没年月日:2014/03/19

 都会的で温かみのある画風で知られたイラストレーターの安西水丸は3月17日午後2時頃、神奈川県鎌倉市内の自宅兼アトリエで執筆中に倒れ、病院で治療を受けていたが同月19日午後9時7分、脳出血のため死去した。享年71。 1942(昭和17)年7月22日、東京都港区赤坂で生まれる。本名渡辺昇。生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた。3歳の頃に重い喘息を患い、母の郷里である千葉県南房総の千倉町へと移住、中学校を卒業するまでの多感な時期を過ごす。61年日本大学芸術学部美術学科に入学、グラフィックデザインを専攻し65年に卒業。在学中にベン・シャーンの作品から強い影響を受ける。卒業後は電通へ入社し、国際広告制作室で「日本ビクター」等の輸出広告を担当。電通では写真家の荒木経惟と同僚だった。69年に同社を退社して渡米、ニューヨークのADアソシエイツ(デザインスタジオ)で働く。71年に帰国して平凡社に入り、子供向け百科事典や自然史雑誌のアートディレクターとして活躍。同社で編集者の嵐山光三郎と知り合い、勤めの傍ら、74年頃から嵐山の勧めにより漫画雑誌『ガロ』に漫画を描き始める。南房総での幼少期を題材にした連載「青の時代」は高く評価され、それらをまとめた漫画集(青林堂、1980年)は安西の代表作となる。なおペンネームの「安西」は嵐山から「あ」がつく名前がいいと言われて祖母の苗字から取り、「水丸」は子供の頃から「水」という漢字が好きだったことから名付けた。80年に平凡社を退社し、翌年安西水丸事務所を設立、本格的にフリーのイラストレーターとなる。またこの時期、小説家の村上春樹と出会い、『中国行きのスロウ・ボート』(中央公論社、1983年)の装丁以後、「村上朝日堂」シリーズ等でイラストレーションを担当するなど、装丁、挿絵、共著と息の合った仕事を重ねることになる。85年には東京ガスの新聞広告により準朝日広告賞、毎日広告賞を受賞。広告、装丁等多方面で活躍する一方で『がたん ごとん がたん ごとん』(福音館書店、1987年)等の絵本を手がけ、また小説『アマリリス』(新潮社、1989年)やエッセイ集『ぼくのいつか見た部屋』(ケイエスエス、1998年)等の文筆活動も盛んに行なった。2001(平成13)年には高校時代から憧れの存在だったイラストレーター和田誠と二人展を開催、二人で一枚の作品を仕上げる取り組みを行ない、安西の亡くなる年まで続けられる。後進のイラストレーターの育成にも力を注ぎ、91年より母校である日本大学芸術学部デザイン学科にて講師を務め、また青山で05年にコム・イラストレーターズ・スタジオ、13年に山陽堂イラストレーターズ・スタジオを開講。05年にはイラストレーターの組織である東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長に就任。作品集に『イラストレーター 安西水丸』(クレヴィス、2016年)がある。

吉田カツ

没年月日:2011/12/18

 イラストレーター、画家の吉田カツは12月16日、肺気腫のため兵庫県篠山市の病院で死去した。享年72。 1939(昭和14)年11月4日、兵庫県多紀郡城北村(現、篠山市)に生まれる。本名勝彦。大阪美術学校(現、大阪芸術大学)デザイン科を卒業後、デザインの仕事に従事。71年上京。74年『ローリング・ストーン』誌の仕事をきっかけに各誌のイラストレーションを手がけるようになり、77年からはアートディレクターの石岡瑛子と組んでPARCOのポスターや雑誌『野性時代』表紙、西武劇場「サロメ」のポスター等を制作。エネルギッシュな筆致を駆使した人物像のイラストやグラフィックは、70年代後半から80年代を通じて、若い世代やデザイン、音楽、広告等の関係者の間に根強いファンを生んだ。79年には青山のグリーン・コレクションズで初の個展を開催、以後、個展や画集を通してイラストレーションの領域に留まらない絵画活動を展開。85年にはフジサンケイグループのシンボルマークを描いた他、全日空グループ機内誌の『翼の王国』表紙イラストを担当。2005(平成17)年、東京から故郷の篠山市へ仕事場と居を移す。作品集に『吉田カツ・セクサス』(美術出版社、1980年)、『PICARO:吉田カツ絵画集』(リブロポート、1988年)等。

熊田千佳慕

没年月日:2009/08/13

 花や昆虫の細密画で知られる熊田千佳慕は8月13日、誤嚥性肺炎のため横浜市内の自宅で死去した。享年98。1911(明治44)年7月21日、現在の横浜市中区住吉町3―31に生まれる。本名五郎。生家は代々医師で、父は欧米留学経験のある耳鼻科医であった。1917(大正6)年横浜市尋常小学校に入学。23年関東大震災で被災して家を失い、一家で生麦に移り住む。これに伴い鶴見町立鶴見尋常小学校に転入。1924年、同校を卒業し神奈川県立工業学校図案科に入学。在学中、博物学の教諭であった宮代周輔に影響を受ける。また、同校での軍事教練中、地面に腹ばいになる経験から草叢の虫たちの観察に興味を抱く。1929(昭和4)年、同校を卒業して東京美術学校鋳造科に入学。前衛的な工芸作品を制作していた高村豊周に惹かれたのが動機であった。34年、長兄で後に詩人となる精華の友人であったデザイナー山名文夫を知り、師事する。同年9月、名取洋之助が主宰する日本工房(第二期)に入社し、山名文夫の助手として『NIPPON』ほか対外グラフ雑誌のデザインに従事する。同社には翌年、写真家の土門拳が入社し、親交を結ぶ。39年、体調不良により同社を退社。41年7月に応召するが病を得て9月に除隊。43年、日本工房での同僚高橋錦吉の紹介で日本写真工藝社に入社し、終戦まで在籍。この間、内閣情報局の元で『NIPPON PHILLIPIN』などを制作。戦後の47年に初めて挿絵を手がけた『ともだち文庫 狐のたくらみ』(中央公論社)が刊行され、その後の挿絵のしごとの端緒となった。48年、化粧品会社カネボウに勤めてポスター等のデザインを行う一方、『月刊少年少女』『金と銀』などの雑誌のレイアウトデザインなどを行う。49年、カネボウを退社し、以後、絵本作家に専念。同年『こども絵文庫 みつばちの国のアリス』(光吉夏彌著、羽田書店)で児童書装幀賞を受賞する。以後、『世界名作童話全集』(講談社)、『講談社の絵本』、『世界絵文庫』(あかね書房)、『幼年世界名作全集』(あかね書房)、『なかよし絵本』(偕成社)、『児童名作全集』(偕成社)などに挿絵を描く。1980年に岡田桑三からファーブル昆虫記の絵画化について激励され、81年、これらを描いた作品でイタリアボローニア国際絵本原画展に初入選。同年『絵本ファーブル昆虫記1』(コーキ出版)を刊行し、82年に第二巻、83年に第三巻を上梓する。88年より『Kumada Chikabo’s Little World』(創育)の刊行を始め、1989(平成元)年に7巻シリーズが完結、これにより第38回小学館出版文化賞を受賞する。96年8月、本格的な回顧展「小さな命の大切さを描く―熊田千佳慕展」が横浜高島屋で開催され、以後、98年「花と虫を愛して―熊田千佳慕の世界展」(横浜高島屋で開催ののち、99年に京都高島屋ほかに巡回)、2001年「熊田千佳慕展」(横浜有隣堂ギャラリー)などの展覧会で作品原画を発表。02年には福島県立美術館で「熊田千佳慕の世界―はな・むし・とり・ゆめ」展、06年には目黒区美術館で「熊田千佳慕展 花、虫、スローライフの輝き」展が開催された。花や昆虫を微細に観察し、昆虫の体毛や植物の葉脈などをも描出する細密な描写と、ケント紙の白地を活かした明澄な彩色を用いて詩情ある画面を作り上げた。「日本のプチ・ファーブル」と称され、子供にも親しまれる平明な作風を示した。

滝平二郎

没年月日:2009/05/16

 絵本の挿絵等で活躍したきりえ(切り絵)作家で版画家の滝平二郎は5月16日午前7時22分、がんのため千葉県流山市の病院で死去した。享年88。1921(大正10)年4月1日、茨城県新治郡玉里村(現、小美玉市)の農家に生まれる。県立石岡農学校(現、石岡第一高等学校)在学中に、日本漫画研究会の漫画講義録を入手、柳瀬正夢らの諷刺漫画に強い関心を寄せ、茨城県漫画派集団に参加。同集団の機関誌『漫画研究』に寄稿していた鈴木賢二や飯野農夫也との交遊を機に、農学校卒業後、木版画をはじめる。1942(昭和17)年造型版画協会第6回展に霞ヶ浦周辺の生活を題材にした作品を出品し入選。同年応召し、沖縄の飛行部隊に配属され、米軍の捕虜となって終戦を迎える。46年帰郷し鈴木賢二や飯野農夫也らのすすめで日本美術会に入会、後に委員をつとめる。47年鈴木賢二や飯野農夫也と刻画会を結成。同年日本美術会主催の第1回日本アンデパンダン展に出品。また郷里玉川村の青年たちと刻画晴耕会を組織し、機関誌『刻画晴耕』を発行。49年日本版画運動協会創立に参加、機関誌『版画運動』の編集人となる。51年、版画による絵本作品『裸の王さま』(私家版)を制作。55年東京都豊島区雑司ケ谷に移住。59年鈴木賢二、小野忠重らとこれまでの版画運動を超えた創作を追究するグループとして集団・版を結成、銀箔やタマムシ箔を使った作品を発表する。いっぽう57年頃より本格的に出版美術の仕事を始めるようになり、64年児童出版美術家連盟設立とともに会員となる。同年、童画グループ「車」結成に参加。60年代後半には木版画に代わって切り絵による制作を行うようになり、67年児童文学作家の斎藤隆介著『ベロ出しチョンマ』(理論社、1967年)の挿画で注目を集める。その後も斎藤と組んだ絵本『花さき山』(岩崎書店、1969年)、『モチモチの木』(岩崎書店、1971年)はロングセラーとなり、『花さき山』は70年に講談社第1回出版文化賞(ブックデザイン賞)を受賞。68年第6回国際版画ビエンナーレ展に招待出品。69年から「きりえ」の名で朝日新聞家庭欄に連載、その翌年から78年にかけて同紙の日曜版に色刷りで連載し、その詩情あふれる農村風景や庶民生活を描いた“きりえ”が人気を博す。一連のきりえ作品で74年、第9回モービル児童文化賞を受賞。87年『ソメコとオニ』(岩崎書店)で第10回絵本にっぽん賞を受賞。2000(平成12)年に栃木県立美術館で開催された「野に叫ぶ人々 北関東の戦後版画運動」展で前半生の版画活動が紹介される。没後の2009年から翌年にかけて逓信総合博物館で「はなたれ小僧は元気な子~さよなら滝平二郎~遺作展」が、10年から翌年にかけて茨城県近代美術館で回顧展「さよなら滝平二郎―はるかなふるさとへ―」が開催された。

内藤ルネ

没年月日:2007/10/24

 戦後の少女画を代表するイラストレーター内藤ルネは10月24日、心不全のため静岡県伊豆市の自宅で死去した。享年74。1932(昭和7)年11月20日、愛知県岡崎市に生まれる。本名、内藤功。第二次大戦末期の混乱のさなか、偶然みつけた中原淳一の雑誌口絵の美しさに感動する。16歳で岡崎中学を卒業後、住み込みで紳士服洋裁店に勤務、その傍ら、絵や詩をつけた手紙を中原に送るようになる。その画才に目をつけた中原に呼ばれ19歳で上京、ひまわり社に入社する。中原に師事しながら雑誌『ひまわり』『それいゆ』の編集・挿絵に携った後、54年の『ジュニアそれいゆ』創刊から主力に加わりイラストやエッセイを発表、雑貨デザインも手がけるようになる。この頃ペンネームを「内藤瑠根」としていたが、56年頃から「内藤ルネ」も用いるようになり、これが定着する。58年『少女』(光文社)の付録別冊漫画の表紙に自作の人形が写真掲載され出すなど、この頃から他社の仕事も受け始め、64年頃まで『少女クラブ』(講談社)、『りぼん』(集英社)、『なかよし』(講談社)、『女学生の友』(小学館)といった少女雑誌の口絵・付録・イラスト作品を多数手がける。59年、中原が病に倒れると代わって表紙を担当、以後ひまわり社のスター的存在となる。61年、個人的に制作を依頼した陶器のビリケン人形を、発注先である大竹陶器が強く希望して商品化。これが大ヒットし同社は後に株式会社ルネと改名してルネグッズを多数製作するが、これらはいわゆるファンシーグッズの先駆となった。64年から『服装』(婦人生活社)に手芸やインテリア等をテーマにエッセイを書き始め、後に「私の部屋」に引き継がれ断続的に92年まで連載される。65年頃には、『装苑』(文化出版局)、『non-no』(集英社)等若い女性向けの雑誌でも仕事をする。70年代にはトマトやイチゴなどをモチーフにしたステンシールが大流行。今日のパンダキャラクターの原型となっているルネパンダも、中国からのパンダ来日前年の71年に商品化されている。74年、南青山に「薔薇色雑貨店・ルネハウス」をオープン。84年2月より1998(平成10)年9月まで『薔薇族』(第二書房)の表紙を担当。2001年静岡県修善寺に住まいを移し、内藤ルネ人形美術館を開館、森本美由紀を中心とする「RUNE DOLL ASSOCIATES」がルネの人形を復刻し展示を行うようになる。02年、宇野亜喜良等7名と銀座スパンアートギャラリーで「2002―少女頌」を、弥生美術館にて初の回顧展「内藤ルネ展~ミラクル・ラヴリー・ランド~」を開催。また05年には同館にて「内藤ルネ初公開コレクション展―日本の可愛いはルネから始まった」を開催。主な著書に『こんにちは!マドモアゼル』(ひまわり社、1959年)、『幻想館の恋人たち』(山梨シルクセンター、1968年)等がある。

蔦谷喜一

没年月日:2005/02/24

 「きいちのぬりえ」で一世を風靡した、ぬり絵作家の蔦谷喜一は、2月24日午前8時33分、老衰のため埼玉県春日部市内の病院で死去した。享年91。1914(大正3)年2月18日、東京市京橋区新佃に紙問屋の次男として生まれる。14歳の時に京橋商業へ入学するが、授業内容に興味が持てず中退。帝展で山川秀峰の「素踊」に魅せられて挿絵画家を志し、1931(昭和6)年川端画学校に入学する。3年程で卒業した後は、クロッキー研究所に通う傍ら、長兄に勧められて菓子屋の経営を一年程経験した。39年には、大木実詩集『場末の子』(砂子屋書房)の表紙絵を担当。40年から「フジヲ」の名前でぬりえを描き始めるが、太平洋戦争の勃発とその激化により制作の困難な状況となる。その戦争の中で44年にまさと結婚、半年後の招集とともに海軍省に配属され、終戦直後には駐留米兵相手に肖像画を描き生計を立てた。47年より「きいち」の名前でぬりえを再開、石川松声堂と山海堂の二社から発売されて爆発的なブームを巻き起こした。49年には『メリーちゃん』『はなこさん』(朝日出版社)を発行。しかし60年代のTVの普及でアニメブームが訪れるとぬりえの売れ行きは急激に悪化し、美人画や日本画、掛軸なども手掛けるようになる。その後、蔦谷のファンであったグラフィックデザイナー長谷川義太郎の働きかけにより再び脚光を浴び、78年に資生堂ザ・ギンザホールでの個展をはじめ、各地で展覧会が開かれ大盛況となった。また広告や商品にも多くの作品が起用され、『わたしのきいち』(小学館)など著書も多数出版された。この第二次きいちブーム自体は平成元年頃に落ち着くが、現在でも文化屋雑貨店には蔦谷が原画を手掛けた雑貨が並び、広く親しまれている。晩年は「童女百態シリーズ」に取り組み続けていた。代表作は他に、美人画『行灯』、仏画『きいち観音』等がある。

小松崎茂

没年月日:2001/12/07

 SF画のパイオニアとして人気を集めた小松崎茂は12月7日午後9時26分、心不全のため死去した。享年86。1915(大正4)年2月14日、東京府北豊島郡南千住町(現東京都荒川区南千住町)に生まれる。高等小学校卒業後、池上秀畝門下の日本画家堀田秀叢に師事、花鳥画を学ぶが、やがて挿絵を志すようになり、秀叢の弟弟子で挿絵画家として人気のあった小林秀恒に学ぶこととなる。1938(昭和13)年『小樽新聞』連載の講談の挿絵でデヴュー。39年から少年科学雑誌『機械化』に描き続けた未来の兵器は、小松崎自身が創案した新兵器をヴィジュアル化したものだった。戦時下の43年には第2回陸軍美術展に「ただ一撃」、国民総力決戦美術展に「敵コンソリー爆撃機墜ツ」、第3回航空美術展に「ニュージョージヤ島の死闘」などの戦争画を出品。戦後は絵物語「地球SOS」(『冒険活劇文庫』1948~51年)や「大平原児」(『おもしろブック』1950~52年)により人気を集め、山川惣治と並ぶ少年雑誌界の寵児となる。絵物語のブームが去った後も細密で迫力のあるSFの世界や戦艦・戦闘機を雑誌やプラモデルの箱絵に描き続け、特撮映画のデザインにも参加、またテレビ全盛時代に入ると「サンダーバード」などのキャラクター画も数多く手がけた。77年には、20代の頃描きためた銀座や浅草のスケッチを載せた『懐かしの銀座・浅草』(文:平野威馬雄 毎日新聞社)が刊行。1990(平成2)年画業をまとめた『小松崎茂の世界 ロマンとの遭遇』(国書刊行会)で日本美術出版最優秀賞受賞。

真鍋博

没年月日:2000/10/31

 イラストレーターの真鍋博は、10月31日午後4時40分がん性リンパ管症のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年68。1932(昭和7)年、愛媛県宇摩郡別子山村に生まれる。57年、多摩美術大学大学院美術研究科を修了、在学中の55年には、池田満寿夫等と「実在者」を結成。60年、週刊誌『朝日ジャーナル』に連載された「第七地下壕」で、第一回講談社さしえ賞を受賞。翌年、久里洋二、柳原良平とともに「アニメーション三人の会」を結成、草月アートセンターで上映会を開催。以後、イラストレーターとして、SF小説の挿絵、装丁など、多方面で活動をつづけた。ことに、60年代から70年代にわたる高度成長期の時代のなかで、精緻な描写と繊細な感覚をあわせもつ近未来的なイメージは、ひろく受け入れ、親しまれた。しかも、その作品でも、発言でも、そこには鋭い文明批評的な視点を欠くことがなく、近年は、エコロジーに感心を寄せていた。80年代からは、郷里別子山村、および新浜市内の公共施設に数々の壁画やモニュメントを制作し、新居浜では「真鍋博 アートピアロード」と称されている。1996(平成8)年、池田20世紀美術館で個展を開催、また没後の2001年には、郷里の愛媛県美術館で「真鍋博回顧展」(会期:7月27日~9月9日)が開催され、ポスター、本等の印刷物から、アニメーション、原画等が展示され、その多彩な活動が回顧された。

宮田雅之

没年月日:1997/01/05

 切り絵画家の宮田雅之は1月5日午後5時5分、急性脳こうそくのため千葉県成田市の病院で死去した。享年70。大正15(1926)年東京赤坂に生まれる。昭和29(1954)年、チャールズ・E・タトル出版社にブックデザイナーとして入社。同35年、全米ブックジャケットコンテストに入賞。同38年、谷崎潤一郎に見出だされ谷崎文学の挿絵に取り組み、独創的な切り絵の世界を確立。同47年、講談社出版文化賞(挿絵部門)受賞。同56年、バチカン美術館宗教美術コレクションに「日本のピエタ」が収蔵される。同59年、「源氏物語」五十四帖を完成。同63年、鑑真和上生誕1300年を記念して奈良唐招提寺に「鑑真和上像」を献納し、平成2(1990)年には米・ホワイトハウスに「桜花図」を納める。同6年、NHK大河ドラマ「花の乱」のタイトル画を担当し、NHK出版より画集『花の乱』を刊行。同7年、国連創設50周年を記念して、日本人初の国連公認画家に選任され、「赤富士」が国連アートコレクションとして特別限定版画となり世界的に紹介された。

中尾彰

没年月日:1994/10/06

 童画家で詩人としても活躍した中尾彰は熊本市の済生会病院新館の壁画を夫人の吉浦摩耶(本名中尾鈴子)と制作中に倒れ、10月6日午前0時30分、脳しゅようのため同病院で死去した。享年90。明治37(1904)年5月21日島根県津和野市に生まれる。大正1l(1922)年、満鉄育成学校を卒業。独学で絵を学び、昭和6(1931)年に第1回独立美術展に「静物」で初入選。後、同会に出品を続ける。また、同10年ころから文芸同人誌「日歴」に参加して詩文を発表。同12年第7回独立展に「庭」「窓」を出品して協会賞を受賞。同14年同会会友に推挙された。戦前には満州鉄道の招聴で満州に数回滞在して制作。昭和16年から子どものための美術運動を展開し、童心美術協会を創立。児童出版物に執筆するとともに、教科書や新聞の挿し絵等を数多く制作し、坪田譲治とのコンビで知られた。戦後も同21年日本童画会を結成して活動を続けた。ほか戦後の同21年独立美術協会準会員、同24年同会会員に推挙された。草木と人物を組み合わせ、パステル調の色彩を多用した詩情ある作風を示した。昭和40年代後半からはパリ、インスプルックにたびたび長期滞在して制作していた。平成4(1992)年独立美術協会会員功労賞受賞。戦前の作品は戦中に不明となり、戦後の制作も昭和40年に火災のため多くは焼失している。作品の所蔵館として郷里の島根県立博物館のほか、津和野美術館、練馬区立美術館、松江美術館などがあり、大規模な制作としては昭和53年の済生会熊本病院壁画、平成5年の諏訪中央病院壁画などがある。著書に『美しい津和野』『蓼科の花束詩集』『人生』『あかいてぶくろ』『子供の四季』等がある。

成瀬数富

没年月日:1993/07/05

 一創会会員の挿絵画家成瀬数富は7月5日午前8時57分、肝臓がんのため東京都世田谷区の吉川病院で死去した。享年73。大正9(1910)年1月、広島市に生まれる。高等小学校を卒業後、17歳で上京。宮本三郎らに絵を学び、挿絵画家として活躍。朝日新聞に連載された川口松太郎の小説「新吾十番勝負」をはじめ、東京新聞の連載小説の花登筺「氷山のごとく」(昭和54~56年)、三好徹「戦士たちの休息」(同58年)、毎日新聞連載小説の古川薫「天辺の椅子」(平成3~4年)などの挿絵を描いた。昭和54年3月に創立された一創会に参加し、出品を続けた。

久米宏一

没年月日:1991/05/01

 絵本や児童図書の挿絵で活躍した童画家久米宏一は、5月1日午後9時43分、腹部大動脈りゅう破裂のため、東京都文京区の東京医科歯科大学付属病院で死去した。享年73。大正7(1918)年11月18日、東京都小石川区に生まれる。昭和16(1941)年太平洋美術学校夜間部を修業。同21年井上長三郎らが中心となって設立した日本美術会に参加し、同会会員となったほか、日本童画会にも参加し委員をつとめた。同51年木版画の絵本「やまんば」で第25回小学館絵画賞を受賞。他に「黒潮三郎」「出かせぎカラス」等の代表作がある。

赤羽末吉

没年月日:1990/06/08

 大和絵や水墨画など日本の伝統的な画風を取り入れ独自の童画世界を築いた絵本画家赤羽末吉は、6月8日午後1時40分、食道静脈りゅう破裂のため、横浜市栄区の横浜栄共済病院で死去した。享年80。明治43(1910)年5月3日、東京神田に生まれ、東京順天中学校を卒業。のち満州に渡る。独学で絵を学び、昭和14(1939)年より17年まで満州国国展に出品し、特選を3度受賞する。戦後、昭和24年に帰国。同年よりアメリカ大使館に勤務するかたわら挿絵を描き、同34年日本童画会展に「民話屏風」を出品して茂田井武賞を受賞。同36年福音館より『かさじぞう』を出版して絵本界にデビューした。同40年『ももたろう』ほかでサンケイ児童出版文化賞受賞、同43年『スーホの白い馬』で再び同賞および児童福祉文化奨励賞を受ける。同48年『源平絵巻物語、衣川のやかた』で講談社出版文化賞、同50年には旧作『スーホの白い馬』でアメリカ・ブルックリン美術館絵本賞を受け、国際的にも認められる。同55年、それまでの功績に対し、児童文学のノーベル賞とも言われる国際アンデルセン賞の画家賞を、日本人としては初めて受賞した。その後も、同57年『絵本わらべうた』『そらにげろ』でライプチヒ国際図書デザイン展金賞、翌58年イギリスのダイヤモンドパーソナリティ賞、同64年『おへそがえる ごん』でライプチヒ国際図書デザイン展銅賞等、国内外で受賞を重ねた。他に『ほしになったりゅうのきば』(同51年 福音館)、『つるにょうぼう』(同54年同社)等の代表作があり、昔話を伝統的技法で現代感覚を融合させて描いて広く親しまれた。

沢井一三郎

没年月日:1989/08/02

 昭和20年代までは漫画家として活躍し「ゲンキノゲンチャン」などで知られ、その後童画に専念して絵本、教科書、児童雑誌などに筆をふるった童画家沢井一三郎は、8月2日午後4時、肺炎のため東京都三鷹市の野村病院で死去した。享年77。明治44(1911)年11月10日、東京都千代田区に生まれる。伊東深水の主宰する朗峯画塾で日本画を学び、はじめ日本画家を志すが、当時の児童雑誌における漫画の流行を背景に、昭和12(1937)年から講談社の『少年倶楽部』などに漫画や挿絵を描き、同14年から16年まで同社の『幼年倶楽部』に「ゲンキノゲンチャン」を連載して人気を博した。戦後も同24年4月号から『漫画少年』に「てるてる日記」を連載し始めるが、漫画執筆は同28年秋で打ち切り、以後童画家として活動。同37年には童画家の著作権を確立することを目的に現在の日本児童出版美術家連盟の前身である教科書執筆画家同盟を結成し、その代表となった。日本画の修学にもとづく落ち着いた、情趣ある画風を示し、絵本の代表作に『千羽づるのねがい』『大きくなあれ みどりになあれ』『うみへいった山へかえってきた』『はしれ山のきかんしゃ』などがある。同58年、日本児童文芸家協会の児童文化功労賞を受賞。晩年は、自然の大切さ、美しさを訴える作品が多く描かれた。

竹中英太郎

没年月日:1988/04/08

 昭和初期、江戸川乱歩らの小説挿絵を描き挿絵界の寵児となった挿絵画家竹中英太郎は、4月8日午前11時54分、虚血性心不全のため東京都新宿区の東京医科大病院で死去した。享年81。明治39(1906)年、12月18日、福岡県博多に生まれる。6人の兄姉を持つ末子。2歳で父と死別し困窮のうちに幼年期を送る。のち熊本県菊地郡大津に住む義兄のもとに母子ともにひきとられ、熊本北警察署の給仕となり、熊本中学の夜学に通う。林房雄ら第五高等学校社研のメンバー、徳永直らと交遊を始め、共産主義にひかれるようになり、熊本水平社の創立に参加、無産者同盟を結成して活動に熱中する。そのため警察署を解雇され、のち、検挙されて熊本を去り北九州で坑夫となる。生活難から雑誌『苦楽』に挿絵見本を持ちこみ、大正13(1924)年同誌に大下宇陀児作「盲地獄」の挿絵を発表。陰湿で妖しい独自の画風で注目され、昭和3(1928)年8月『新青年』に江戸川乱歩が発表した「陰獣」の挿絵を手がけて流行作家となる。『新青年』誌を中心に江戸川乱歩、横溝正史らの作品の挿絵を発表。夢野久作、佐々木白羊、下村千秋、三上於莵吉らの挿絵も担当したが、思想的疑問から昭和10年『平凡社名作挿絵全集』に『大江春泥画集』を制作したのを最後に筆を折り、大陸へ渡る。同14年秋、ハルピンで憲兵隊に逮捕され強制送還されて帰国するが挿絵界には復帰せず、15年東京都品川区に町工場を開く。16年第二次世界大戦に伴う企業整備のため工場を閉じることとなり、翌17年山梨日々新聞社記者となって勤労動員署を担当。戦後も同社に奉職し山梨日々新聞論説委員長、山梨県地方労働委員会会長をつとめた。正式な絵画教育は受けておらず、画歴については不明な点が多い。デフォルメされた人体を特色とし、不具、畸型を好んで描き、退廃的で魅惑的な雰囲気を持つ画風を示した。江戸川乱歩との主な作品に昭和3年『新青年』「陰獣」、同4年『朝日』「孤島の鬼」、『新青年』「押絵と旅する男」「悪夢(芋虫)」、同5年『新青年』「江川蘭子」、同6年博文館刊『江川蘭子』装幀・口絵、『探偵趣味』「地獄風景」、『朝日』「盲獣」があり、横溝正史との仕事には、昭和5年『新青年』「芙蓉屋敷の秘密」、同10年同誌「鬼火」、甲賀三郎との仕事には昭和3年『新青年』「瑠璃玉」「緑色の犯罪」、同5年平凡社刊『幽霊犯人』装幀、同6年『週間朝日』「悪魔の勝利」などがある。

高木清

没年月日:1988/04/06

 作家菊池寛の小説挿絵で知られる挿絵画家高木清は、4月6日午後10時58分、肺炎のため東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年77。明治43(1910)年8月23日、愛知県一宮市に生まれる。小学校を卒業した後、看板などを描きながら独学し、のち伊東深水に師事。昭和9(1934)年ころ小説家菊池寛に認められ、菊池の雑誌小説の挿絵を手がけるようになる。女性像を得意とし優美な画風で人気を得、菊池寛のほか丹羽文雄、横溝正史、高木彬光の挿絵も担当した。 〈主要作歴〉昭和10年 菊池寛「愛欲二代」(講談倶楽部)、林芙美子「女の部屋」(小樽新聞)昭和11年 菊池寛「紅白の絆」(富士)昭和12年 菊池寛「現代の英雄」(キング)昭和13年 菊池寛「黒白」(講談倶楽部)、「美しき鷹」(大阪毎日新聞、東京毎日新聞)、佐藤紅緑「花咲く丘」(少女倶楽部)昭和14年 佐藤紅緑「美しき港」(少女倶楽部)、丹羽文雄「銀座化粧」(サンデー毎日)、尾崎士郎「空に残れる」(小樽新聞)昭和16年 丹羽文雄「この響き」(報知新聞)昭和25年 横溝正史「八ツ墓村」(宝石)昭和26年 横溝正史「悪魔がきたりて笛を吹く」(宝石)、田村泰次郎「女学生群」(りべらる)昭和27年 高木彬光「我が一高時代の犯罪」(宝石)昭和28年 島田一男「事件記者」(宝石)昭和31年 佐賀潜「第三の殺人」(東京タイムズ)昭和33年 青柳淳郎「皇太子」(東京タイムズ)昭和45年 富島健雄「女の部屋」(大阪スポーツ)昭和51年 丹羽文雄「魂の試されるとき」(読売新聞)

伊藤幾久造

没年月日:1985/07/14

 「快傑黒頭巾」「まぼろし城」などの挿絵で知られる挿絵画家伊藤幾久造は、7月14日午前10時19分、心不全のため東京都文京区の東京健生病院で死去した。享年84。明治34(1901)年7月13日東京日本橋区に生まれ12歳の頃松本楓湖門下で四条派の画家中山秋湖に入門するが飽き足らず、16、7歳で伊東深水に学び始める。大正9年、深水の紹介で博文館発行の『講談雑誌』に大仏次郎作「鞍馬天狗-御用盗異聞」の挿絵を描いてデビュー。同11年頃より講談社の『少年倶楽部』に執筆を始め、時代物を中心に活躍。満州事変以降は戦争画にも筆を奮い、昭和11(1936)年『講談社の絵本』第1号に池田宣政作「乃木大将」の挿絵を描いて『講談社の絵本』の型式を定着させた。同じ頃『少年倶楽部』に高垣眸作「快傑黒頭巾」「まぼろし城」の挿絵を描き原作の怪奇的イメージを巧みに絵画化して人気を博した。第二次世界大戦中は歴史的人物、特に戦国武将の伝記の挿絵を担当。戦後も主に少年向け雑誌に時代物やSFの挿絵を描いたが、同35年頃からの漫画ブーム以後は一線を退いた。代表作として、他に白井喬二作「神変呉越草紙」、海野十三作「火星兵団」「地球要塞」などがある。

富永謙太郎

没年月日:1985/01/15

 村松梢風作「近世名勝負物語」の挿絵などで知られる挿絵画家富永謙太郎は、1月15日午前4時51分、心筋梗塞のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年80。明治37(1904)年2月12日静岡県に生まれる。高等小学校卒業後上京、絵看板屋などで働きながら絵を学ぶ。昭和2年独立し友人と商業美術工芸社を設立、絵看板を描く。6年島田啓三を知り、ポケット講談社で子供雑誌の挿絵を描き始める。7年『ポケット講談』に書いていた作家藤森順三の紹介で菊池寛の知遇を得、認められて『日の出』に菊池寛の短編「妻は見たり」の挿絵を描く。翌8年には読売新聞に載った菊池寛「結婚街道」の挿絵を描き、また江戸川乱歩「地獄の花嫁」など現代小説や探偵小説の挿絵を多く手がける。竹田敏彦、長田幹彦、久米正雄、横溝正史、富田常雄らとの仕事も多く、写実的な美男美女の挿絵を得意とした。代表作に、菊池寛の少女小説第一作「心の王冠」、読売新聞で28年から8年間続いた村松梢風「近世名勝負物語」、江戸川乱歩「地獄の道化師」などがある。作家クラブ名誉会員で岩田専太郎、志村立美とともに挿絵界の三巨匠として知られた。

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