本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





村山密

没年月日:2013/10/22

 フランス在住の洋画家・村山密は、自宅があるパリ市内の病院で、10月22日がんのため死去した。享年94。 1918(大正7)年10月26日、茨城県行方郡大生原村大字水原(現、潮来市水原)に、父村山茂、母なみの次男として生まれる。村山家は江戸時代初期から続く地主で、祖父魁助は能書家でもあったことから、家には美術雑誌や複製絵画があり、6歳の頃にはすでに絵描きになると言い、10歳の頃には画家となってパリへ行くと両親にいっていたという。25年大生原尋常高等小学校(現、潮来市立大生原小学校)に入学。後に水彩画家として初の芸術院会員となった小堀進から図画の指導を受け、在校中の1927(昭和2)年には茨城県行方郡小学校図画コンクールに出品、入賞している。31年同校を卒業し、茨城県立麻生中学校(現、県立麻生高等学校)へ入学するも、翌32年画家を目指して上京。出版会社を経営する親戚宅に身を寄せ、仕事を手伝う傍ら絵の勉強に励んだ。同じ頃、近所にあったイヌマエル教会に出入りするようになる。33年川端画学校の夜間部に通い始めるが、36年には画学校をやめ、春陽会洋画研究所に通い、石井鶴三、木村荘八、中川一政等に学んだ。この頃、イヌマエル教会にて受洗。洗礼名をヨハネとする。37年には体調を崩し一時帰京するが、翌38年に再び上京。検事局で勤務する傍ら、木村荘八の主宰する画談会に通う。39年、福島県出身で当時東京府庁に勤務していた渡邊ミツと、イヌマエル教会にて挙式。40年には前年にフランスから帰国していた岡鹿之助が春陽会の会員に迎えられ、同年4月の第18回春陽会展にて岡の滞欧作12点が出品された。村山は岡の作品に大変な感銘を受け、また画談会において岡が村山の作品を評価したことも手伝い、岡に師事するようになる。そのなかで村山は、近代的絵画の精神や近代的技法について、岡から具体的な指導を受けた。42年には第20回春陽会展に「花」が、第5回文部省美術展覧会(新文展)に「花」がそれぞれ初入選、以後春陽会展を中心に作品を出品し、49年には春陽会会友、52年には会員となっている。その間、43年には応召のため一時画業の中断を余儀なくされ、45年終戦の年には父茂が亡くなっている。 戦後の混乱もようやく落ち着いてきた54年、予てからの念願であった渡仏を果たし、パリ到着の翌日には、岡鹿之助、さらには旧水戸藩主の直系徳川圀順の紹介状を手に藤田嗣治を訪ね、以後毎日のように藤田のもとへと足を運んだ。翌55年、経済的な問題から帰国し、57年には日本橋三越において「村山密滞欧作品展」を開催。同じ頃四谷のイグナチオ教会に通いカトリックに入信している。59年、今度は定住を決意して再び渡仏。翌60年には藤田の紹介によりルシオ画廊でのグループ展に参加、以後も出品を続ける。61年にはトゥルネル画廊の代表アンヌ・マリと知り合い、翌62年同画廊にて第1回個展を開催。同年のサロン・ドートンヌでは初めて出品した「ノートルダム寺院」が初入選し、パリ16区主催風景画コンクールではド・ゴール大統領賞を受賞、翌63年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールでは「ノートルダム寺院(パリ)」を出品し、外国作家賞を受賞。この間、フランスを訪れた岡とともにブルターニュの僻村コーレルや、サルト県ソーレムのサン・ピエール修道院を巡り、岡が帰国した後の経済的・精神的苦境の際には、日本からの岡の手紙に非常に励まされたという。また、弟憲市は兄を支援するために銀座に画廊を開き、村山作品の販売を手掛けた。 春陽会や新文展に出品していたころの村山作品は、花や果物といった穏やかな静物画であったが、パリへと渡った後には、パリを中心とする風景画を多く描くようになり、風景画家としてその名が知られるようになった。色彩とフォルムの秩序を重視し、パレット上での混色を避けて色彩の純度を高める手法を採るなど、新印象派を自称する村山の作品は、印象派やキュビスムといった西洋絵画の技法と、日本人としてのアイデンティティとによって構成された現代フランス絵画であると評された。 69年にはアニエール展に「ケー・ブールボン(釣人)」を出品しグランプリを受賞、70年にはサロン・ドートンヌの会員となり、72年には同展陳列委員、さらに79年には審査委員となる。81年サロン・ド・オンフルールでウジェーヌ・ブーダン賞を受賞。同年フランス国籍を取得する。翌82年には再びアニエール展でグランプリを受賞。85年日本人で初めてサロン・ドートンヌのプレジダント・ド・セクション・パンチュール(具象絵画部門絵画部長)に任命され、翌86年にはサロン・ドートンヌの最高の栄誉ともいえるオマージュ展に日本人として初めて選出、「オンフルールの旧税関」「夜のノートルダム」「けし」「睡蓮」など18点が展示された。87年モナコ王室主催国際現代絵画展にて「ルーアンの聖堂」が宗教絵画特別賞を受賞。1991(平成3)年にはパリ市よりヴェルメイユ勲章を受章した。また、同年9月には茨城県潮来町名誉町民に任命され、11月には第27回茨城賞を受賞している。93年ルールド市主催の国際ジェマイユ・ビエンナーレでグランプリを受賞。95年にはフランス芸術院よりグランド・メダイユ・ドール(栄誉大賞)を、日本国より勲四等旭日小綬章をそれぞれ授与され、97年フランス国家よりシュヴァリエ・ラ・ド・レジョン・ドヌール勲章を受章している。 フランスでは「ミュラ」の愛称で親しまれ、優秀な日本人画家をフランスに紹介し、フランス現代絵画を日本へ紹介するなど、両国の相互理解を深める上で大きな役割を果たした。

豊島弘尚

没年月日:2013/10/19

 洋画家の豊島弘尚は10月19日、肺がんのため死去した。享年79。 1933(昭和8)年12月10日、青森県上北郡横浜町に生まれる。本名は豊島弘尚(としまひろたか)。40年教員をしていた父の転任で八戸に移り、少年時代を八戸で過ごす。52年に八戸高等学校を卒業し上京、翌年東京藝術大学に入学、在学中の56年に稲葉治夫、高山尚、渡辺恂三と新表現主義展(60年に新表現展と改称)を結成し、第1回展を新橋の美松画廊で開催。57年東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻(林武教室)を卒業、安宅賞を受賞する。その後、銀座・サトウ画廊、村松画廊、ミキモトホール、日本橋高島屋コンテンポラリーアートスペース等で個展中心の発表を続ける。60年代には頭や人体の一部を切り取ったフォルムの中に、現代人の抱える不安や孤独を投影させた内面的な世界を表現していたが、74~75年文化庁在外芸術家派遣員としてニューヨーク、ストックホルムに滞在、その折に出会った北欧神話とオーロラの美しさに魅せられ、以後それらをモティーフとした壮大で幻想的な宇宙を描くようになる。76~87年は毎年1ヶ月パリに滞在。87~1989(平成元)、91、97年ストックホルムに滞在。93年東京を離れ、栃木県の那須高原にアトリエを建て移住。98年「空に播く種子(父の星冠)」により第21回安田火災東郷青児美術館大賞受賞。2002年に八戸市美術館で「豊島弘尚展―北の光に魅せられて」を開催。さらに同館では、没後の14年に八戸市へ遺族から400点を超える作品が寄贈されたのを機に、その翌年「豊島弘尚展 北の光と三つの故郷」を開催している。

堂本尚郎

没年月日:2013/10/04

 洋画家の堂本尚郎は10月4日、急性心不全のため死去した。享年85。 1928(昭和3)年3月2日、京都市下京区下河原町(現、京都市東山区下河原町)において、父堂本四郎、母恵美子の間に長男として生まれる。父の四郎は日本画家・堂本印象の弟で、同居していた印象には幼い頃より非常にかわいがられたという。40年3月清水尋常小学校を卒業、同年4月に京都市立美術工芸学校(現、京都市立芸術大学)絵画科へ入学する。病気による休学や太平洋戦争激化にともなう学徒勤労動員を経て、45年3月同校を繰り上げ卒業。同年4月京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科へ入学した。在学中の48年には第4回日本美術展覧会(日展)に日本画「畑のある丘」を出品、初入選する。以後ヨーロッパへ留学する55年まで、伯父印象についてヨーロッパ旅行へ出かけた52年の第8回展を除いて毎年入選を果たし、51年には「蔦のある白い家」で、53年には「街」で特選を受賞している。 49年京都市立美術専門学校日本画科を卒業、研究科に進級。51年に大阪・高島屋で開催された現代フランス美術展サロン・ド・メ日本展を見て、同時代のフランス最先鋭の表現に強い衝撃を受けた。翌52年には京都市立美術専門学校研究科を修了、新聞社の特派員として渡欧する伯父印象に随行して初めてヨーロッパを訪れた。半年の間イタリア、フランス、スペイン各地の寺院や美術館を巡り、パリではグランド・ショミエールに通ってデッサンや油絵を学び、「モンマルトルの坂道」「女」など初めて油彩画を制作。ヴァチカンのシスティナ礼拝堂では、ミケランジェロの天井画「創世記」を見て衝撃を受け、自らの制作活動に対して疑問を抱くようになる。帰国後はフランス留学を志す一方で、日本、延いては東洋を改めて見つめなおすことに力を注いだ。 54年フランス政府の私費留学生試験に合格、翌55年フランスへと旅立つ。このときの費用は留学があくまで短期間であり、帰国後は日本画家として活動することを暗黙の前提として、父四郎と印象が出資したものであったが、乾燥したパリの地での日本画制作に限界を感じ油絵に転向。今井俊満や高階秀爾、芳賀徹らと親交をもち、当時パリの地で絶頂を迎えていたアンフォルメル運動の主導者であるミシェル・タピエとも知遇を得、自身もその渦中に身を投じた。そんな中、57年のはじめ頃、腎臓結石を患い手術を受け、麻酔から目覚める際に周囲のすべてがホワイト・アウトするかのような感覚を経験する。自ら「白の中の白」と呼ぶこの体験から、堂本は白の表現を追求するようになり、「アンスタンタネイテ」などの一連の作品を制作、同年11月にスタドラー画廊において開かれた個展で、パリ画壇への華々しいデビューを遂げた。こうしたフランス画壇での成功や、伯父の印象自身が抽象画へと傾倒していったことから、堂本のパリ滞在は結局10年余りにも及ぶこととなった。 58年にはパリ国立近代美術館が新しく制定した外国人画家賞でグランプリを獲得、受賞作はパリの日本人画家の中で最も日本的であると評され、翌59年には前衛美術のみによるビエンナーレ、第11回プレミオ・リソーネ国際美術展において第2位特別賞を受賞した。また、58年にはデュッセルドルフで、59年にはニューヨークとローマで個展を開催。翌60年5月には、東京・南画廊において日本での初個展を開き、同月に東京都美術館で開催された第4回現代日本美術展で国立近代美術館賞を受賞、その存在が日本においても広く認められることとなった。しかし一方で、アンフォルメルが西欧文化の積み重ねの上に出来上がったものであることを意識するようになり、日本人である自分自身の文化とはなにかを模索するようになる。そうして生み出された「二元的なアンサンブル」シリーズは、あたかも屏風のような二連画形式を採用し、モノクロームの色面をしばしば撥ねやしたたりを伴いはしご状に反復することで構成された作品であったが、すでにタピエの許容範囲を超えていたため、彼が顧問を務めるスタドラー画廊とも契約を解除されてしまう。このような難局のなかにおいて、「二元的なアンサンブル」は車の轍の跡を連想させる「連続の溶解」シリーズへと展開され、63年の第4回サン・マリノ・ビエンナーレ展〈アンフォルメル以後〉で金メダルを、翌64年の第32回ヴェネチア・ビエンナーレではアルチュール・レイワ賞をそれぞれ受賞、アンフォルメル後の新しい抽象絵画の可能性を示すものとして受容された。66年3月よりほぼ一年間、個展準備のためにニューヨークに滞在し、翌67年9月、パリのアトリエを閉鎖し日本へ帰国する。帰国後は円を主な構成要素とし、「惑星」「流星」など天体に関係するタイトルの付けられた一連の作品が発表された。同じ頃、水で溶解する素材が心地よかったとして、画材をアクリル系の絵具へと変えている。円を用いた作品は、70年代から80年代にかけて「蝕」「宇宙」「連鎖反応」といったシリーズで引き続き制作され、次第に波打つ水面を連想させる画面へと展開されていく。この間、75年9月に伯父印象が亡くなり、同年11月に生地京都での初となる個展を開催した。 86年ごろには、不規則な漣状のパターンに正方形や長方形が重ねられた「臨界」シリーズが開始され、2004(平成16)年からはカンヴァスに油絵具を垂らすオートマティズムの手法で制作された「無意識と意識の間」シリーズが開始された。 83年、国際ポスター展においてユネスコからの依頼で制作した「Peace」が平和賞を受賞、同年フランス政府から芸術文学文化勲章(シュバリエ)を授与され、88年には第11回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。91年、京都国立近代美術館の活動を支援する目的で発足された財団法人堂本印象記念近代美術振興財団(2003年解散)の理事に就任。95年には秋の叙勲で紫綬褒章を授与され、96年にはフランス政府からレジョン・ドヌール章シュバリエを、01年には同じくフランス政府から芸術文学文化勲章(オフィシエール)をそれぞれ受章。03には秋の叙勲で旭日小綬章を授与され、07年文化功労者に叙せられた。 食事をとるように絵を描き、描かずにいられるような人間は真の芸術家ではないと語ったという堂本は、半世紀以上にわたる制作において、断絶を繰り返しながら次々と新しい表現に挑戦した前衛の画家であった。画家の堂本右美はその娘である。

日野耕之祐

没年月日:2013/09/03

 洋画家の日野耕之祐は9月3日、死去した。享年88。 1925(大正14)年4月9日、福岡県に生まれる。1948(昭和23)年日本美術学校洋画科卒業、林武に師事する。同校在学中に時事新報社に入社して美術を担当、その後産経新聞社に移り美術記者として活躍。その一方で絵画制作も続け、58年第44回光風会展に「道」「丘の家」を出品しプールブ賞を受賞、63年会員となる。62年、評論家の柳亮や田近憲三らの応援を得て具象研究会を発足、機関誌『具象』を発刊するなど、抽象が主流であった現代美術への抵抗を示す。62年第5回新日展に「河口」が初入選。以後日展にも出品を続け、67年第10回新日展で「落合晩秋」、70年改組第2回日展で「北の海」が特選を得て、76年会員となる。師の林武への共感からペインティングナイフを多用した重厚なマティエールを基調に、何の変哲もない自然や室内の一角を黄で描き出した作品、そして青を主色とする具象的な心象構成へと画風を展開させた。76年日展傘下の日洋会発足にあたり運営委員となる。83年に洋画と日本画の両方を対象として発足した上野の森美術館大賞展には企画の段階から参加し、その審査員を毎回務める。1989(平成元)年より高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門選考委員を務める。94年彫刻の森美術館で「日野耕之祐1950-1994展 新しい具象への熱い軌跡」が開催。98年には永年の美術評論家・洋画家の活動に対して文化庁長官表彰を受けた。 主な著書は以下の通りである。『美術記者十五年』(日本美術社分室、1962年)『具象ノート』(美術報知社、1964年)『東京百景』(三彩社、1967年)『美を訪ねて』(日本美術社、1971年)

渡辺恂三

没年月日:2013/08/12

 洋画家の渡辺恂三は8月12日死去した。享年79。 1933(昭和8)年12月2日、東京市(現、東京都区部)に生まれる。幼少期は算数や理科が得意だったため科学者になるつもりで、兵器の絵を描き、木を削って飛行機を作り、戦争に舞台にした長編マンガも制作していたという。東京都立戸山高校在学中から絵画を制作、阿佐ヶ谷洋画研究所や新宿・コマ劇場裏辺りにあった研究所に通う。このころ、風間完や赤穴宏が好きで、大学一浪の時には朝倉摂の紹介で、赤穴と会っている。また日本国際美術展などで目にしたベン・シャーンと国吉康雄にも影響を受けた。東京藝術大学に入学後、56年銀座・村松画廊で初個展を開催。同年第20回新制作協会展に3点を初出品し「ユダ」「ヨブ」が入選、旧約聖書から題材をとり、デフォルメした人物群像で人間の不条理を描く。同年東京藝術大学同期の稲葉治夫、高山尚、豊島弘尚とグループ展「新表現」を結成し第1回展を開催。57年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。同年第21回新制作展で「策謀」により新作家賞を受賞(1958年第22回展は「仏滅」「南無」で、61年第25回展は「記憶の裏側」で同賞受賞)。このころ題材をキリスト教から仏教へ移行するとともに、支持体にベニヤ板を用いたり、紙粘土や木版の反古紙、麻紐などを用いたミクストメディアの表現を試みる。60年第4回安井賞候補新人展に「法螺」「噂」を推薦出品。61年第1回丸善石油賞に「賢者の論点」を出品。62年第2回丸善石油賞で「内訌」が佳作賞を受賞。63年9月第3回パリ青年ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)に「内訌」「人格」などを招待出品。60年代に入ると、支持体に厚塗りした紙粘土を引っ掻くなど非具象の作品を展開。63年新制作協会会員に推挙される。64年第15回記念選抜秀作美術展に「死んだ子の年をかぞえる」を招待出品(1966年にも招待出品)、他に第6回現代日本美術展の招待部門に「論争を積む」「世上騒然」(後者は課題作「東京オリンピック」特陳、1965年、66年、68年、69年にも招待出品)、現代美術の動向展(京都国立近代美術館)、今日の作家展’64展(横浜市民ギャラリー)などに出品。また同年中国生産力及貿易中心(台湾)で講師を務めるため、初めての海外渡航をする。このころ、晩年まで展開してゆくペン状の描具による線と明るい色面、歪んだ形態の女性像などによる戯画調の作品スタイルを確立。67年第1回インドトリエンナーレに「人間幾何」「ロンド」を出品。69年第5回国際青年美術家展において「車の中で」でストラレム優秀賞第1席を受賞。同年文化庁芸術家在外研究員として渡仏、滞在中にパリ、ギャルリー・ランベールで個展を開催。72年、東京造形大学を退職、再度渡仏(1981年まで)。72年より日本橋・春風洞画廊で個展を開催。76年サロン・コンパレゾンに出品(1978年、80年にも出品)、カンヌ版画ビエンナーレ、リト部門第1位賞受賞。80年日本秀作美術展に出品(以後1985年、88年、93年、2001年、03年にも出品)。85年、具象絵画ビエンナーレ(1987年、89年にも出品)。86年池田20世紀美術館に回顧展「渡辺恂三の世界」を開催。その他の企画展として、埼玉県立近代美術館10周年記念展「アダムとイブ」(同美術館、1992年)、日本の美術・よみがえる1964年展(東京都現代美術館、1996年)、旅―異文化との出会い(国立新美術館、2007年、文化庁芸術家在外研修制度40周年記念)などに出品。1998(平成10)年京都文化功労賞受賞、2001年第14回京都文化賞受賞、04年京都文化功労者顕彰。11年第75回記念新制作展の展覧会委員長を務める。第二次世界大戦以後の現代絵画を、技術拡散と様式混交の「マニエリスムの絵画」と捉えて絵画制作に取り組み、初期作品から晩年まで技法の実験と変遷を繰り返しながら、自身の表現を追求した。 著編書に『新・技法シリーズ デザインスケッチ』(美術出版社、1966年)、挿絵にバリー『ピーター・パン』(集英社、1966年、母と子の名作童話24)、山本太郎詩集『スサノヲ』(筑摩書房、1983年)、絵本に『こっぷこっぷこっぷ』(福音館、1995年、こどものとも.0.1.2 7号、かみじょうゆみこ文)、論文に「表示方法に於ける透視図法の実際的問題に就て」(『千葉大学工業短期大学部研究報告』第2巻第2号、1963年、協力:赤穴宏、川口泉、佐善明)がある。千葉大学工業短期大学部工業意匠科助手、同大学工学部工業意匠学科助手、東京造形大学美術学科助教授、京都市芸術大学美術学部教授、宝塚造形芸術大学教授で教職を務めた。

平松譲

没年月日:2013/07/21

 日本芸術院会員の洋画家平松譲は7月21日、急性肺炎のために死去した。享年99。 1914(大正3)年4月13日、東京都三宅島三宅村大字神着29に生まれる。1929(昭和4)年に尋常小学校を卒業して上京し、豊島師範学校に入学。在学中、池袋駅近くにあった能勢亀太郎の主催する能勢洋画塾に学び、伊藤清永、関口茂らと交遊する。33年の夏に三宅島に帰郷した際に描いた「樹下」を同年の第14回帝展に出品して初入選。34年3月、豊島師範学校を卒業し、同年4月に近衛歩兵第四連隊に短期現役兵として入隊したのち、教職についた。能勢亀太郎が白日会に出品していたことから34年第10回白日展に「静物」を出品し初入選。以後、白日会創立会員の中沢弘光に師事する。官展には初入選後、出品していなかったが、36年新文展鑑査展に「床上静物」で入選する。37年第14回白日展に「静物」「石膏のある静物」を出品してクサカベ賞受賞。翌38年第15回白日展に「緑蔭」を出品して佐藤賞受賞。41年、第4回新文展に「公園」で入選。44年白日会会員となる。戦後は白日展のほか日展に第1回展から出品し、50年第6回日展に「南窓」を出品して特選となる。画面左に白い洋装の女性の坐像が描かれ、その隣にたくさんの果物の載った籠と白百合を活けた花瓶の載ったテーブル、背後の窓から緑豊かな庭が描かれた同作は「明るい光と鮮麗な色彩との交響」と批評家和田新によって評された。54年第30回白日展に「少年」等を出品して白日会記念賞受賞。57年東京銀座松屋にて初個展を開催。63年に渡欧し約6ヶ月ヨーロッパ各地を巡る。帰国後、教職を辞す。65年に梅津五郎、菅野矢一らと「穹会」を創立し、新宿の画廊アルカンシェルで開催された第1回展に「彫刻の群像」「シャルトルの教会」を出品した。67年第43回白日展に「ノルマンディー古寺」「三宅島の春」「三宅島溶岸(ママ)地帯」等を出品し中澤賞受賞。翌68年日展会員となる。82年日展評議員となる。85年第17回改組日展に「南風わたる」を出品して文部大臣賞受賞。1991(平成3)年第23回改組日展に東京湾越しに臨んだ東京タワーを鮮やかな赤で描いた「TOKYO」を出品。92年、この作品によって日本芸術院賞を受賞。95年第71回白日展に「東京湾岸」を出品して内閣総理大臣賞を受賞し、また、同年日本芸術院会員となった。1930年代には静物をよく描いたが、40年代から人物を主要なモティーフとするようになる。窓辺でくつろぐ着衣の女性を好んで描き、室内の家具や卓上静物、窓外の植物などでのモティーフなどで画面が充填される画風を示した。1980年代に入ると風景画が多くなり、鮮やかな色彩と激しい筆触、画面上部まで島や建築物等のモティーフが配される構図を特色とした。2013年9月26日正午から白日会主催による「故平松譲さんを偲ぶ会」が開催された。【主要展覧会出品略歴】帝展第14回(1933年)「樹下」、鑑査展(1936年)「床上静物」、日展第1回(1946年)「母と子供」、5回(1949年)「爽朝」、6回(1950年)「南窓」(特選)、10回(1954年)「ひととき」、新日展1回(1958年)「ギターを持つ女」、5回(1962年)「閑日」、10回(1967年)「若い人たち」、改組日展第1回「花と子供」、5回(1973年)「南の島」、10回(1978年)「島の五月」、15回(1983年)「犬吠崎初冬」、17回(1985年)「南風わたる」(文部大臣賞)、20回(1988年)「雨上がる」、23回(1991年)「TOKYO」(日本芸術院賞)、25回(1993年)「丘陵を拓いて」、30回(1998年)「島の切り通し」、35回(2003年)「はまひるがお咲く」、40回(2008年)「ふる里の磯」、45回(2013年)「丘の美術館」

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

 美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

牛尾武

没年月日:2012/12/31

 日本画家の牛尾武は12月31日、虚血性心不全のため死去した。享年57。 1955(昭和30)年3月3日、兵庫県神戸市に生まれる。本名武司。神戸芸術学林日本画科で学び76年卒業、神戸在住の日本画家昇外義に師事する。76年兵庫県展優秀賞、78年兵庫県日本画家連盟展県知事賞、79年兵庫県日本画家連盟展最優秀賞を受賞。79年に上京し、84~87年上野の森美術館絵画大賞展、85・88年東京セントラル美術館日本画大賞展に出品。85年の第3回上野の森美術館絵画大賞展では「澄秋」で特別優秀賞を受賞。1989(平成元)年には茨城県石岡市の華園寺本堂障壁画を制作。90年の銀座・資生堂ギャラリー個展〈線の蘇生〉では、北海道に取材した風景を中心に発表、繊細な線描と墨を主とする淡い色彩による豊かな画趣が一躍注目を浴びた。さらに91年第11回山種美術館賞展で「晨響(銀河と流星の滝)」により優秀賞を受賞。同年東京を離れ和歌山県田辺に居を移し、熊野をテーマに紀伊半島の自然美や風景を描く。95年には四曲一双屏風を中心とする大作による「牛尾武新作展 遥かなる原郷」を箱根・成川美術館で開催。99年には田辺市高山寺の薬師堂障壁画を制作。2004年から空海をテーマに高野山や四国、京都、奈良、さらには中国に至るゆかりの地に取材し、04~13年の4度にわたり成川美術館で作品を発表。10年には世界遺産熊野本宮館、11年には南方熊楠顕彰館で「残響の熊野」と題して田辺と熊野の風景作品を発表。同地域の芸術・文化振興に大きく貢献したことが評価され、没後の13年に田辺市文化賞が贈られた。

松本哲男

没年月日:2012/11/15

 日本画家の松本哲男は11月15日、石川県立美術館での第97回院展オープニングに出席するため金沢市に滞在中、呼吸不全のため死去した。享年69。 1943(昭和18)年7月29日、栃木県佐野市に生まれる。61年栃木県立佐野高等学校を卒業後、日本画家の塚原哲夫に絵を学ぶ。はじめは東京藝術大学建築科を志望、2年間浪人の後、宇都宮大学教育学部美術科に入学。68年同大学を卒業後、栃木県立那須高等学校に美術教師として赴任、那須の自然の魅力にうたれて本格的に日本画を描き始める。72年には栃木県立今市高等学校に異動し、79年まで高校教師を続けながら制作に励んだ。69年第54回院展に「冬山」が初入選、以後院展に出品を続ける。72年第57回院展に「叢林」を出品、院友に推挙され今野忠一に師事、74年第59回院展で「山」が日本美術院賞・大観賞を受賞、特待に推され郷倉千靱に師事。75年第1回栃木県文化奨励賞を受賞。76年第61回院展で日光の金精山をテーマに山岳風景を心象化した「巌」が二度目の日本美術院賞・大観賞を得る。一連の山岳シリーズでは、山肌や樹林を細密に描写して独自の画風を示した。77年には第4回山種美術館賞展で「山」が人気賞を獲得。その後79年「壮」、80年「天壇」、81年「トレド」、82年「山水譜」、83年「大同石仏」と連続して院展奨励賞を受賞し、83年日本美術院同人に推挙。「大同石仏」は84年に芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。87年「悠久の宙・中国を描く―松本哲男展」が西武アートフォーラムで開催。1989(平成元)年第74回院展で「エローラ(カイラ・サナータ寺院)」が文部大臣賞、93年第78回院展では「グランド・キャニオン」が内閣総理大臣賞を受賞。那須の自然に始まりスペイン、ネパール、中国、アメリカの大自然を題材に、繊細な筆線で画面を埋め尽くし、モティーフの感触を確かめながら自然に近づく制作態度を一貫して保つ。93年に東北芸術工科大学芸術学部助教授(95年より教授)となって後進の指導にあたり、2006年から11年まで学長を務めた(11年には同大学名誉学長に就任)。94年、栃木県文化功労者として表彰。同年にパリ・三越エトワールで「地と宙へ 松本哲男展」を開催。05年には、90年代半ばより取り組んでいた世界三大瀑布(ナイアガラ、ヴィクトリア・フォールズ、イグアス)のシリーズを完成させ、宇都宮美術館で記念展を開催。08年には同シリーズにより第16回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。この間06年には日本美術院理事となる。没後の13年から14年にかけて、佐野市立吉澤記念美術館にて師の一人であり終生親交を結んだ塚原哲夫との二人展が開催されている。

宇佐美圭司

没年月日:2012/10/19

 画家で、武蔵野美術大学、京都市立芸術大学等で教授として教鞭をとった現代絵画家の宇佐美圭司は、10月19日食道がんのため福井県越前町の自宅で死去した。享年72。 1940(昭和15)年1月29日、大阪府吹田市に生まれる。幼少期を和歌山県和歌山市で過ごした後、58年大阪府立天王寺高等学校を卒業、同年に上京、東京藝術大学受験を目指した。しかし受験に向けた素描、油彩からはずれた抽象化された繊細なドローイング、油彩画を描くようになり、不定型なフォルムが画面をおおい尽くすアメリカ抽象表現主義の影響を感じさせながらも、青年らしい繊細さと鋭さがあるオールオーヴァーな平面作品を製作するようになる。63年には南画廊で初個展開催。66年、初めてニューヨークを訪れる。以後、72年までたびたび同地に滞在した。現代美術の潮流が、抽象表現主義から、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ等を中心に、ネオ・ダダ、ポップアートへと伝統的で形骸化した「絵画」という形式に対する懐疑と否定を主張する表現を前にして、決定的な影響を受けた。そうした転換期にあって画家自身が、たびたび以下のように述懐するように、一枚の報道写真のイメージがその後の創作にとって大きな要素となった。「1965年、アメリカ各地で黒人暴動があり、『アメリカの暑い夏』と言われた。私の絵に使用している形はロスアンゼルス郊外のワッツ地区のもので『ワッツの暴動』といわれた報道写真から抜け出してきたのである。(中略)私はその写真に強くひきつけられた。街路樹、看板、襲撃を受ける店、道いっぱいに広がる群衆。私はその風景をなかば抽象化して『路上の英雄』というシリーズの作品を発表した。それ以来記号化した人間の形は、私の作品のかわらぬモチーフになってきた。」(「思考空間」、『思考空間 宇佐美圭司 2000年以降』カタログ、財団法人池田20世紀美術館、2007年10月-08年1月)以後、画面のなかの人型が、軽快な色面としての記号として反復、変容しながら、感情表現を排した一見概念図ともみられるような構成をとる絵画をシリーズとして制作するようになった。 68年、第8回現代日本美術展(東京都美術館)で大原美術館賞受賞。69年、J.D.ロックフェラー三世財団より奨学金を受ける。72年、第36回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館出品。81年、多摩美術大学芸術学科助教授となる。1989(平成元)年、第22回日本芸術大賞受賞。翌年、武蔵野美術大学油絵科教授となる。91年、福井県越前海岸に「海のアトリエ」を作る。92年、セゾン現代美術館(長野県北佐久郡軽井沢町)他にて「宇佐美圭司回顧展」開催。93年、『心象芸術論』(新曜社)を刊行、翌年同書掲載の「心象スケッチ論 宮澤賢治『春と修羅』序 私註」により第4回宮澤賢治奨励賞を受賞。96年、武満徹とのコラボレーション「時間の園丁」制作。2000年から05年まで、京都市立芸術大学教授を務める。01年6月から10月まで、「宇佐美圭司・絵画宇宙」展を開催。10代の初期水彩作品から近作まで251点から構成された回顧展となった(福井県立美術館、和歌山県立近代美術館、三鷹市美術ギャラリー巡回)。02年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。07年10月から08年1月には、池田20世紀美術館(静岡県伊東市)において「思考空間 宇佐美圭司 2000年以降」を開催。2000年以降制作の水彩、油彩の大作22点によって構成された展覧会となる。12年3月から6月まで、大岡信ことば館(静岡県三島市)において、新作2点を含む41点による「宇佐美圭司 制動(ブレーキ) 大洪水展」が開催されたが、前年の東日本大震災以後ということを強く意識した同展が生前最後の展覧となった。13年10月から12月まで、セゾン現代美術館にて「没後一年 宇佐美圭司」展が開催された。 アメリカ現代美術がもっとも熱気と変革の思想をはらんだ時代である1960年代から70年代のアメリカ現代美術の影響をうけながら、独自の絵画思考を深めることができた美術家であった。その点からも、同時代の日本の現代美術の展開を回顧するうえで欠くことのできない作品を数多く残した。それらの作品においては、記号化され、シルエットのように平面化された人間の形は、現代における人間存在の危機的で象徴的な記号(フォルム)として変容、変化しつつも、画家にとって終生にわたるモチーフ、あるいは表現、構成の要素であった。 さらに多くの著述のなかで記された芸術論は、絵画の歴史をふりかえることで深められた思考として、すぐれた現代美術論ともなっている。また晩年にいたる展開は、文明論的なスケールの大きさを感じさせる旺盛な創作に挑んでいた。 なお、主要な著作、作品集は下記にあげるとおりである。『絵画論―描くことの復権』(筑摩書房、1980年)『線の肖像―現代美術の地平から』(小沢書店、1980年)『デュシャン(20世紀思想家文庫〈13〉)』(岩波書店、1984年)『記号から形態へ―現代絵画の主題を求めて』(筑摩書房、1985年)『心象芸術論』(新曜社、1993年)『絵画の方法』(小沢書店、1994年)『20世紀美術』(岩波書店、1994年)『絵画空間のコスモロジー―宇佐美圭司作品集 ドゥローイングを中心に』(美術出版社、1999年)『廃墟巡礼―人間と芸術の未来を問う旅』(平凡社、2000年)

室井東志生

没年月日:2012/10/05

 日本画家で日展理事の室井東志生は10月5日、胃がんのため死去した。享年77。 1935(昭和10)年2月25日、福島県下郷町に生まれる。本名利夫。中学時代より日本画に憧れ、高校卒業後に上京して東京都内の美術学校に通うも身体を壊し帰郷。中学教師を勤める傍ら県総合美術展覧会(県展)に出品、審査員の大山忠作と交流を深め再び上京、大山の紹介で58年橋本明治に師事する。60年第3回新日展に東志生の雅号で応募した「緑蔭」が初入選し、以後毎年入選。67年法隆寺金堂壁画再現模写で橋本明治班に加わり11号壁の普賢菩薩像模写に従事。69年には橋本明治の助手として皇居新宮殿正殿松の間杉戸絵「桜」制作に携わる。69年改組第1回日展で「家族」が特選・白寿賞、78年10回展で「女人」が特選を受賞。83年日展会員となる。85年には院展の高橋常雄、大矢紀、日展の中路融人とともに異歩騎会を結成。1995(平成7)年「夢結」で第27回日展会員賞受賞。99年日展評議員となる。2004年第36回改組日展で舞妓と孔雀を描いた「青曄」が内閣総理大臣賞を受賞。12年日展理事となる。気品のある中に妖しさをはらんだ作風を追究、舞妓や、五代目坂東玉三郎、五代目柳家小さんら著名人をモデルとした作品を発表し人気を博した。

森秀雄

没年月日:2012/09/20

 エアブラシによる写真のような画面で青空を背景とする人物像を描いた洋画家森秀雄は9月20日、大腸がんのために死去した。享年77。 1935(昭和10)年7月27日、三重県鈴鹿市江島町に生まれる。父は伊勢型紙の彫り師であった。59年東京藝術大学絵画科油画専攻を卒業。小磯良平に師事した。学生時代、塗り重ねによる重厚な絵肌の油彩画の制作が不得手であると認識し、写真を画面に写し取り、エアブラシで着色する方法の研究を始める。62年第12回モダンアート協会展に「SAKUHIN「P」」を出品して奨励賞受賞。63年、第13回同展に「美学の裏側」を出品して新人賞受賞。66年、モダンアート協会を退会し、翌年から一陽展に出品。67年、リキテックス絵の具の輸入を高松次郎とともに奨励し、絵の具を画面に吹き付けるためのスプレーガンの改造を北伸精器と重ねる。同年第13回一陽展に「PARALLEL-オンナ」、「PARALLEL-赤の帯」を出品して一陽賞受賞。68年、第14回一陽展に「SUN WARD SUN WARDS (彼女とバラと)」「LISING SUN(彼女とバラと)」を出品して一陽会会友となる。69年、紀伊国屋画廊にて個展「偽りの青空」を開催。エアブラシによる写真のように平滑な色面で、青空を背景に人体石膏像を描く「偽りの青空」シリーズは、材料・技法の新しさと斬新な表現で注目された。69年第15回一陽展に「青の広告(白による)」「青の広告(青による)」を出品して、同会員に推挙される。70年から76年までジャパンアートフェスティヴァルに出品。同展は70年には米国のグッゲンハイム美術館他で、71年はリオとミラノで、72年はメキシコとアルゼンチンで、73年は西ドイツほかで、74年はカナダで、75年はオーストラリア、ニュージーランドで、76年は米国で開催された。74年、日本国際美術展(毎日新聞社主催)に招待出品して優秀賞を受賞。80年、青空と波立つ海を背景に左胸部が破損したミロのヴィーナスの像をエアブラシによって再現的に描いた「偽りの青空-蘇えるヴィーナス」で第23回安井賞特別賞受賞。81年、「10人の画家たち展」(神奈川県立近代美術館)に「偽りの青空」シリーズの6点を出品。84年、池田20世紀美術館で「森秀雄 青の世界」展を開催。87年、第10回東郷青児美術館大賞を受賞。88年には池田20世紀美術館に800号の壁画「My Dream(一碧湖)」を完成させる。画面にスプレーによって絵の具を吹き付けて白い雲の浮かぶ青空を背景に石膏像のような人物像を描き、フォトリアリズムとシュールレアリズムを融合した画風を示した。その作風は、同様の傾向を示した三尾公三の作品とともに、広く受け入れられたが、高度成長が進み、都市に高層ビルが林立する一方で、軽薄短小な傾向が評価され、人間性が疎外されていった1960年代後半からの日本社会を反映しているようでもある。2001(平成13)年にはニューヨークのウエストウッドギャラリーで個展を開催。翌年にはジャパン・インフォメーション・カルチャー・センター(ワシントンDC)で日本大使館主催による個展「偽りの青空」を開催した。05年、東京芸術劇場にて「森秀雄展 偽りの青空」を開催。06年、一陽会代表となる。10年には中国美術館にて同館主催の個展「偽りの青空 森秀雄」展が開催され、国際的にも知られた。

織田廣喜

没年月日:2012/05/30

 日本芸術院会員で二科会名誉理事長の洋画家織田廣喜は5月30日、心不全のため八王子市の病院で死去した。享年98。 1914(大正3)年4月19日、福岡県嘉穂郡千手村(現、嘉麻市)に生まれ、17年に隣村の碓井村に転居する。1929(昭和4)年、碓井尋常高等小学校高等科を卒業。麻生鉱業に勤務していた父が病気になったため、家計を助けるため陶器の絵付けなどをして働き、福岡市の菓子店に勤めたのち、碓井村に戻り郵便局員として勤務。31年から同村に住む帝展作家犬丸琴堂(慶輔)に油彩画の指導を受け、同年の福岡県美術展にゴッホの影響を示す「ひまわり」という作品で入選する。32年に上京し34年に日本美術学校絵画科に入学。当時は大久保作次郎が指導しており、後に藤田嗣治、林武らにも師事する。在学中、3年ほど美術雑誌『みづゑ』の編集発行を行っていた大下正男のもとで発送作業などを行う。39年日本美術学校西洋画科を卒業。1940年第27回二科展に「未完成(室内)」で初入選。43年、徴用により横川電機製図部に入る。45年の終戦後、進駐軍に雇われ兵舎のホール等に壁画を描く。46年、100号のカンヴァスに3人の着衣の女性の立像を白と黒のペンキで描いた「黒装」を第31回二科展に出品して二科賞受賞。47年第1回美術団体連合展に「憩ひ」を出品。以後、同展には第5回まで出品を続ける。49年第34回二科展に「楽」「立像」「群像」「黄」「静物」が入選し、二科会準会員となる。翌50年第35回同展に「讃歌」「曲」「女」を出品して同会会員に推挙される。「讃歌」は800号の大作で、当時、画力向上のために大画面制作を奨励していた二科会で高い評価を得た。51年、二科会の画家萬宮(まみや)リラと結婚。52年、第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「無題」「女」「静物」を出品し、以後も同展に出品を続ける。同年、第37回二科展に「酒場」「風景」「女」を出品して会員努力賞受賞。54年第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「群像」「風景」を出品し、以後も出品を続ける。60年に初めて渡仏し、それまで夢見ていたフランスを実見して、現実と想像の差異を認識するとともに、その認識を踏まえた上で想像力をもって描くことの重要性に思い至る。対仏中にサロンドートンヌに出品して翌年帰国。62年にも渡仏し、スペイン、イタリアを訪れて翌年4月に帰国。62年、第1回国際形象展に「パリ祭」「モンマルトル」を招待出品し、以後、同展に出品を続け、72年に同展同人となる。66年4月から9月まで渡欧し、スペイン各地を旅行して制作する。68年第53回二科展で「小川の女たち」「サンドニーの少女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。71年第56回同展に「水浴」を出品して青児賞受賞。同年、パリのエルヴェ画廊で初めての個展を開催。70年、73年にも渡仏。80年11月、「パリの女を描いて20年、織田広喜展」が日本橋三越で開催される。82年3月、福岡市美術館で「憂愁の詩人画家 織田広喜」展が開催される。1995(平成7)年3月に前年の二科展出品作「夕やけ空の風景」によって日本芸術院恩賜賞・日本芸術院賞を受賞、同年11月に日本芸術院会員(洋画)に選ばれた。96年碓井町立織田廣喜美術館が開館。2003年フランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章。2006年二科会理事長となり、12年には名誉理事長に就任した。現実そのままを描くのではなく、「想像し嘘をつく」ことが絵の制作には必要であると語り、初期から晩年まで、デフォルメされ浮遊するような女性像を特色とする幻想的な作品を描き、人気を博した。主な画集に『織田広喜画集-作品1940-1980』(講談社、1981年)、『織田広喜』(田中穣著、芸術新聞社、1993年)などがある。

横尾茂

没年月日:2012/05/03

 自由美術協会会員の画家、横尾茂は5月3日午後1時40分、肝不全のために死去した。享年78。 1933(昭和8)年5月16日、新潟県東頚城郡浦川原村横住に生まれる。53年に上京し、働きながら56年4月に文化学院に入学して山口薫、佐藤忠良に学ぶ。60年3月に同校を卒業後、大森絵画研究所で人体デッサンを中心に研究。61年、第25回自由美術展に「野」で初入選。64年第28回同展に「遊歩」「帰路」を出品して佳作作家に推薦され、翌65年に同会員となる。74年第38回同展に「季の唄」「あひるちゃん」を出品して自由美術賞を受賞。同年には石彫「がんこもの」も出品している。日本画郎で行われる自由美術協会の井上長三郎、山下菊二、一木平蔵らによるグループ展に幾度も参加し、76年10月同画廊で初めての個展を行った。77年に線描による山水画のような背景にふたりの少女の顔をデフォルメして描いた「里のひろみとうちのはあちゃん」と、同じく線描による風景画「雨季」を出品し、前者で第20回安井賞を受賞。同作品について審査員であった本間正義は、油彩画でありながら「白描的な味わいで」「素朴でユーモラスな土俗的なにおいを発散しているところが、なんとも愉快である」と評している。79年第1回「明日への具象展」に「裾野」を出品。80年の第2回同展には「よこたわり」を、81年第3回同展には「里へ御出座の大威徳明王」を出品。85年に郷里の新潟浦川原にて「横尾茂の世界 雪と土とそしてふるさと」展を開催。88年にも浦川原芸術祭で「横尾茂と郷土の作家達展」を開催する。身近なモティーフに取材しながら、変化の激しい現代社会の表層を穿つ作品を描き、再現描写的な対象の把握を踏まえ、曲線を多用した有機的なかたちにデフォルメする独自の画風を示した。1950年代から、支持体に絵の具を塗り重ねていく油彩画技法に疑問を抱いており、70年代には塗り重ねた絵の具層を削る絵づくりが行われるようになった。学生時代に様々な技法を学ぶ中で、立体造形において粘土をつけていく塑像よりも彫りこんでいく彫像制作の作業に共感しており、絵の具層を削る技法は、「本質的なものだけを現出させる東洋の美学」に通ずるものと位置づけていた。郷里の浦川原区に横尾茂ギャラリーが開設されている。自由美術展出品略歴25回(1961年)「野」(初入選)、28回(1964年)「遊歩」「帰路」(佳作賞)、38回(1974年)「季の唄」「あひるちゃん」(自由美術賞)、40回(1976年)「おてんば」、45回(1981年)「望郷」「姉妹」、50回(1986年)「淡雪」、55回(1991年)「女の視線」、60回(1996年)「やだな娘」、70回(2006年)「悪夢(9.11)」

福王寺法林

没年月日:2012/02/21

 日本画家で文化勲章受章者の福王寺法林は2月21日午後1時27分、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年91。 1920(大正9)年11月10日、山形県米沢市に生まれる。本名雄一。生家は上杉藩の槍術師範の家系。6歳の時、父親との狩猟の折に不慮の事故で左目を失明。8歳で狩野派の画家上村廣成に絵の手ほどきを受ける。1936(昭和11)年画家を志して上京。41年召集を受け中国戦線に配属、45年香港で捕虜となって46年復員。49年第34回日本美術院展に「山村風景」が初入選。この頃、同郷の美術評論家今泉篤男と出会い、以後その指導を受けることとなる。51年日本美術院同人の田中青坪に師事。55年の第40回院展「朝」が奨励賞・白寿賞となる。以後院展で56年第41回「かりん」、57年第42回「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、58年第43回「麦」が佳作・白寿賞、59年第44回「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、60年第45回「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同年同人となる。翌年、奥村土牛が法林に預けた門下生と、法林門下生により組織された画塾濤林会を結成。65年第50回院展出品作「島灯」で第1回山種美術財団賞(文部省買上げ)を、71年第56回「山腹の石仏」で内閣総理大臣賞を受賞。74年ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、ヘリコプターや飛行機による取材を重ね、鳥瞰の視点によるスペクタクルな風景作品を発表し続けた。77年、前年の第61回院展「ヒマラヤ連峰」により芸術選奨文部大臣賞を受賞し、84年には前年の第68回院展「ヒマラヤの花」により日本芸術院賞を受賞。1991(平成3)年日本美術院理事に選任。同年大回顧展が日本橋高島屋他で開催された。94年日本芸術院会員となる。98年文化功労者となり、2004年文化勲章受章。この間01年に米沢市上杉博物館、02年に茨城県近代美術館他にて、次男で同じく日本美術院同人の一彦との親子展が開催されている。

小泉淳作

没年月日:2012/01/09

 日本画家の小泉淳作は1月9日午前10時8分、肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年87。 1924(大正13)年10月26日、政治家で美術蒐集家としても知られる小泉策太郎(号・三申)の七男として神奈川県鎌倉市に生まれる。5歳の時より東京で育ち、慶應義塾幼稚舎、普通部、文学部予科(仏文)に通う。予科では小説家を志望するも、同級で後に小説家となる安岡章太郎の作品に衝撃を受け、画家を目指すようになり、東京美術学校日本画科の助教授だった常岡文亀のもとに通って日本画を習い始める。1943(昭和18)年慶應を中退、東京美術学校日本画科に入学する。44年応召するが結核を患い、療養生活を送る。48年に東京美術学校に復学、山本丘人のクラスで学び、52年に卒業後も生涯の絵の師と慕うことになる。卒業後はデザインの仕事の傍ら画業に精進し、54年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選、以後新制作展に出品する。50年代から70年代半ばにかけて、数多くの「顔」と題した人物像や「鎌倉風景」などの風景画を新制作協会展や個展に発表。この間美術評論家の田近憲三より中国の唐宋絵画の複製を見せられ感銘を受け、画業の転機を迎える。73年第2回山種美術館賞展に「わかれの日」を出品、77年の同第4回展では「奥伊豆風景」が内にこもる力強さを評価され、優秀賞を受賞。この間74年に新制作協会日本画部が同会を離脱し創画会を結成するが、その1回展に出品したのを最後に同会を辞し、個展を中心に作品を発表するようになり、画壇と距離を置いた姿勢から孤高の画家とも評された。78年「山を切る道」が文化庁買上げとなる。84年銀座のギャラリー上田で開かれた個展において大作「秩父の山」をはじめとする水墨山水を発表。以後も「霊峰石鎚」「積丹の岩山」「早春の積丹半島」など中国文人画研究の成果による水墨山水や、院体画の研究をうかがわせる花卉図を発表。88年に『アトリエからの眺め』(築地書館)、『小泉淳作画集』(求龍堂)を刊行。1996(平成7)年より鎌倉・建長寺開創750年記念事業の一環として法堂天井画の雲龍図を手がけ、2000年に完成。引き続き京都・建仁寺慶讃800年記念行事に奉納する法堂天井画の双龍図を制作。01年に東京ステーションギャラリーで回顧展「ひとり歩き その軌跡―小泉淳作展」が開催。02年には北海道河西郡中札内美術村内に小泉淳作美術館が開館。同年『小泉淳作作品集』(講談社)を刊行。04年第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。06年には奈良・東大寺の聖武天皇1250年御遠忌記念事業の一環として制作を依頼された《聖武天皇・光明皇后御影》対幅が完成、大仏殿で奉納式が営まれる。引き続き10年には同寺本坊の襖絵四十面を完成、その途中で椎間板ヘルニアを患い、胃がんを切除しながらの制作だった。11年8月には『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、没後の12年に『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(日本経済新聞出版社)として出版されている。

吉田カツ

没年月日:2011/12/18

 イラストレーター、画家の吉田カツは12月16日、肺気腫のため兵庫県篠山市の病院で死去した。享年72。 1939(昭和14)年11月4日、兵庫県多紀郡城北村(現、篠山市)に生まれる。本名勝彦。大阪美術学校(現、大阪芸術大学)デザイン科を卒業後、デザインの仕事に従事。71年上京。74年『ローリング・ストーン』誌の仕事をきっかけに各誌のイラストレーションを手がけるようになり、77年からはアートディレクターの石岡瑛子と組んでPARCOのポスターや雑誌『野性時代』表紙、西武劇場「サロメ」のポスター等を制作。エネルギッシュな筆致を駆使した人物像のイラストやグラフィックは、70年代後半から80年代を通じて、若い世代やデザイン、音楽、広告等の関係者の間に根強いファンを生んだ。79年には青山のグリーン・コレクションズで初の個展を開催、以後、個展や画集を通してイラストレーションの領域に留まらない絵画活動を展開。85年にはフジサンケイグループのシンボルマークを描いた他、全日空グループ機内誌の『翼の王国』表紙イラストを担当。2005(平成17)年、東京から故郷の篠山市へ仕事場と居を移す。作品集に『吉田カツ・セクサス』(美術出版社、1980年)、『PICARO:吉田カツ絵画集』(リブロポート、1988年)等。

桂川寛

没年月日:2011/10/16

 画家の桂川寛は10月16日、肺炎のため死去した。享年87。 1924(大正13)年8月20日、北海道札幌市に生まれる。幼少のころより絵に興味を持ち、グラフ誌に掲載された帝展出品の日本画を模写することを楽しみにしていた。37年札幌商業学校に入学し、美術部に入部。同年第13回北海道美術協会展に初入選。当時の美術教師のアトリエにあった雑誌を通してダリ、キリコ、ピカソなどヨーロッパの絵画を知る。戦中戦後、札幌気象台技師としておもに高層気象観測に従事。45年には新潟県高田通信隊に入隊、半年間兵役につくが、身体を壊し療養生活を送る。戦後は職場で文学サークル運動を始める。48年上京、多摩造形芸術専門学校(現、多摩美術大学)に入学。49年「世紀」に参加。当時、石版版下作成のアルバイトをしていたが、それだけでは学費を払うことができず、同専門学校は自然退学となる。「世紀」では、瀬木慎一とともにパンフレット『世紀群』の制作責任者を務めたほか『世紀ニユゥス』創刊、花田清輝訳『カフカ小品集』(「世紀群」第1冊)刊行などに携わる。50年第2回日本アンデパンダン展(読売新聞社主催)に「開花期」を出品、東京で初めての絵画作品の発表となる。51年より草月流機関誌『草月』に携わり、その創刊準備から三年間編集部員を務める。同年「世紀」が解散したのち、「人民芸術家集団」に参加。52年前衛美術会に入会。同年山下菊二、尾藤豊、勅使河原宏らと小河内村の「文化工作隊」へ参加。53年第6回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に「欺かれた人」(後に「小河内村」と改題)などを出品、後に「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる運動の端緒となる。同年青年美術家連合の発足に参加、第1回ニッポン展に「やがて沈む村(西多摩郡小河内村)」などを出品。54年パンとバラの会・5人展(タケミヤ画廊)に出品。58年日本美術会事務局長に就任。同年清水アンデパンダン(清水市)に出品。同年『批評運動』同人となり、絵画論を発表(16号、17号)。59年第12回日本アンデパンダン展に「都市VI」(後に「都市」と改題)を出品。尾藤豊、中村宏との共同で戦後美術運動史をまとめ「特集・抵抗と挫折の記録」として『形象』4号(1960年)に発表。60年「超現実絵画の展開」展(国立近代美術館)に「都市」を出品。63年日本美術会を退会。64年前衛美術会事務局責任者となるが、翌年同事務局を辞退、同会を退会。65年初めてのまとまった個展「現実世界」を不忍画廊で開催。66年第1回戦争展(日本画廊)に出品、以後同画廊での67年戦争展、68年反戦と解放展、69年戦争展に出品。70年現代思潮社「美学校」で戦後美術論の講義を行う(翌年まで)。73年雑誌『詩と思想』の表紙画を担当。80年「私の戦後」展を地球堂ギャラリーで開催。82年「第三世界とわれわれ」展へ出品(以後1992年第8回展まで)。83年『社会新報』に「自由と抵抗の画像」を連載する。また「1950年代―その暗黒と光芒」展(東京都美術館、1981年)、「日本のルポルタージュアート」展(板橋区立美術館、1988年)、「戦後文化の軌跡」展(目黒区美術館ほか、1995年)、「戦後日本のリアリズム1945-1960」展(名古屋市美術館、1998年)、「Tokyo1955-1970」展(ニューヨーク近代美術館、2012年)など多数の日本戦後前衛美術を回顧・検証する展覧会で作品が展観され、さらに「前衛芸術の日本」展(パリ、ポンピドゥセンター、1986年)などに「世紀」で作成した印刷物などが展示された。作品集に『桂川寛作品集』(アートギャラリー環、1994年)、著書に『廃墟の前衛』(一葉社、2004年)がある。2010(平成22)年には代表的な油彩作品50余点を東京都豊島区に寄贈・寄託し、翌年豊島区立熊谷守一美術館において桂川寛展が開催された。12年ニューヨーク近代美術館が編纂した戦後日本美術批評選集『From Postwar to Postmodern』に論考「集団としての芸術家は何をなすべきか」(『青年美術家連合ニュース』創刊号、1953年)が収録された。鋭い批判精神で社会を捉える姿勢は生涯一貫し、反戦思想と反画壇的運動のなかから生まれたルポルタージュ絵画は戦後日本美術の大きな動向に位置付けられている。

小谷津雅美

没年月日:2011/10/11

 日本画家で日本美術院同人の小谷津雅美は10月11日、肝細胞がんのため死去した。享年74。 1933(昭和8)年2月3日、東京都新宿区下落合に日本美術院の日本画家小谷津任牛の長男として生まれる。高校時代に母が脳溢血で倒れ、その看病のため高校を中退。在宅の間、父の手伝いをしながら絵を描くようになる。53年再興第38回院展に「夢の調べ」が初入選。55年高校の先輩である鎌倉秀雄の紹介で安田靫彦に師事。同年日本美術院院友に推挙。58年黎会展(高島屋)へ参加。60年第45回院展で「花と女」が奨励賞を得て以来、62年第47回展「粧い」が日本美術院次賞、63年第48回展「燦歌」、64年第49回展「樹精」、68年第53回展「船を待つ日」、69年第54回展「浜の話」、70年第55回展「燦」、71年第56回展「待つ」が白寿賞・G賞、83年第68回展「静韻」、85年第70回展「白韻」、86年第71回展「浄韻」、87年第72回展「文殊」、1989(平成元)年第74回展「梵天(東寺)」、91年第76回展「大威徳明王(東寺)」が奨励賞、98年第83回展「終宴」で天心記念茨城賞を受賞し、日本美術院同人となる。2003年第88回展「松花遊悠」で文部科学大臣賞を受賞。06年第91回院展出品の「桜韻」で内閣総理大臣賞受賞。人物から仏画のモティーフを経て、1990年代からは四季折々にうつろう日本の自然の美しさを描き出した。

工藤甲人

没年月日:2011/07/29

 日本画家で東京藝術大学名誉教授の工藤甲人は7月29日、老衰のため神奈川県平塚市内で死去した。享年95。 1915(大正4)年7月30日、青森県中津軽郡百田村(現、弘前市)の農家に生まれる。本名儀助。少年の頃は詩人に憧れていたが、16歳の頃から画家への志が芽生え、1934(昭和9)年に上京、翌年より川端画学校日本画科で岡村葵園の指導を受ける。同校では友人の西村勇より西洋の絵画思想や理論を叩き込まれ、とくにシュールレアリズムに興味を持ち始める。39年第1回日本画院展に「樹」、第2回新美術人協会展に「樹夜」を工藤八甲の号で出品、後者は推奨作品となる。新美術人協会展への出品をきっかけに福田豊四郎の研究会に出席し、指導を受ける。40年、42年と応召、中国大陸の戦線へ渡り、45年の敗戦直前に復員。しばらく郷里で農業に従事した後、福田豊四郎の呼びかけに応じて制作活動を再開する。50年第3回創造美術展に「蓮」が入選し、翌51年創造美術と新制作派協会の合流による新制作協会日本画部設立後は同会に出品。51年第15回新制作展にヒエロニムス・ボッシュの影響が色濃い「愉しき仲間」2点、56年同第20回にも「冬の樹木」「樹木のうた」を出品し、ともに新作家賞を受賞した。62年に弘前市から神奈川県平塚市に転居。63年第7回日本国際美術展「枯葉」が神奈川県立近代美術館賞、翌64年第6回現代日本美術展「地の手と目」が優秀賞を受賞。さらに64年新制作春季展「秋風の譜」「枯葉の夢」により春季展賞を受賞、同年新制作協会会員となる。樹木や動物、蝶などをモティーフに、郷愁や宗教感を感じさせる鮮麗で夢幻的な心象世界を描き出し、現代日本画に新生面を切り拓く。71年東京藝術大学助教授、78年教授となり、73年同大学イタリア初期ルネサンス壁画調査団に参加。83年退官後、名誉教授となった。また74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、会員となる。82年第1回美術文化振興協会賞受賞。87年東京・有楽町アート・フォーラムにて「いのちあるものの交響詩―工藤甲人展」を開催、同展での透徹した自然観照と豊かな詩的幻想を結合させた独自の表現が評価され、翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞。88年より沖縄県立芸術大学客員教授。1991(平成3)年平塚市美術館他で「画業50年 工藤甲人展―夢幻の彼方から」を開催、同展に対し翌年毎日芸術賞を受賞。99年に増上寺天井画「華中安居」を制作。2007年には郷里の青森県立美術館で「工藤甲人展―夢と覚醒のはざまに」が開催された。

to page top