本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





田中田鶴子

没年月日:2015/12/08

 茫漠とした空間や円をモチーフに抽象表現を展開した洋画家、田中田鶴子は12月8日、老衰のため死去した。享年102。 1913(大正2)年6月6日、朝鮮の仁川に田中秀太郎、ハツ夫妻の間に次女として生まれ、16歳まで中国・青島で育つ。14年までドイツの租借地であった青島は、同年日本の占領下となり、22年中国に返還された。ドイツ風の街並みに日本人や中国人が入り混じる環境に、純粋な「ほんもの」への憧れが募ったという。またしばしば郊外の荒地へ出かけ、岩肌の連なる風景に深い安堵感とふるえるような永遠からの語りかけを覚えたという。青島高等女学校卒業後、16歳になる年に東京の大学へ進学する兄について上京し、はじめて本物の歴史的精神文化に触れる。能文楽や歌舞伎に熱中し、禅寺で座禅を体験した。その一方で女子美術学校へ入学、保守的な雰囲気に馴染めず1学期で退学する。1935(昭和10)年2月第3回旺玄社展へ「老女像」を出品、翌年1月の第4回展へは「自画像」「秋の静物」をそれぞれ出品。36年10月多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)に女子部が発足し、翌37年第1期生として入学した。この年の夏休みには北京を訪れ、心にかかっていた本物の中国文化に初めて触れる。38年9月第25回二科展に「秋」で初入選を果たし、以後第29回展(1942年)まで出品した。39年第7回旺玄社展へ「夏の庭」「冬日」「画学生の像」「林間秋」を出品、旺玄社賞受賞。翌40年第8回展へ「支那骨董店」「支那の葬式」を出品、会友に推挙される。また同年より1年間、多摩帝国美術大学にて助手を勤めた。この頃の作品には風景を写実的に描いたものが多く、生まれ育った中国の風景なども題材としている。43年9月銀座・資生堂にて初個展開催。同月第8回新制作派展に「人物」「春の庭」を出品、以後第25回展(1961年)まで出品を続けた。戦中は工場での勤労奉仕や女流美術家奉公隊の活動に参加する。45年3月10日、空襲で自宅が焼失、そのときに体験した「炎の円の中心に。何の音もしない。しんとした無の世界」が後の制作に影響を与えた。その後は友人宅を点々としながら制作を続けたという。また戦後には田園調布純粋美術研究室で猪熊弦一郎、脇田和らの指導を受け、デッサンを学んだ。45年12月第1回日本女流美術家協会展(日本橋三越)へ「落葉松の林」「野の花」を出品。翌46年11月現代女流画家展(北荘画廊)へ出品。このときのメンバーに日展や奉公隊で活躍した人々が加わり、47年2月女流画家協会が発足、同年7月第1回女流画家協会展がアンデパンダン形式で開催され、「童女」「金柑と唐辛子」「卵の静物」を出品する。第3回展(1949年)へは「人物」「踊り子(B)」「踊り子(A)」を出品して婦人文庫賞を受賞するが、次第に会の性質が友好的な人間関係重視へと傾き、第6回展(1952年)出品を最後に退会する。他方48年第12回新制作派展へ「踊り子」「踊り子」「踊り子」「森」を出品し岡田賞受賞、第14回展(1950年)では新作家賞を受賞し、第16回展(1952年)で新制作協会賞、第18回展(1954年)において会員に推挙された。53年1月第4回選抜秀作美術展に「作品」(1952年、新制作展)が出品される。以後第8、12、13回展にも選抜。54年ニューヨークのブルックリン美術館での日仏米抽象展へ、翌55年スミソニアン・インスティテュート主催の国際展へそれぞれ出品。また56年第2回現代日本美術展へ「時間A」「時間B」を出品、翌57年第4回日本国際美術展へ「変身」を出品する。以後前者へは第7回展(1966年)まで、後者へは第8回展(1965年)まで毎回出品した。50年代の作品では、内にある心象風景を外部に存在する具象的な形を借りるなどして表現していたといい、方形や線、円による構成的な画面の作品や、浮子の写生をもとにしたという「浮標」(1955年、第19回新制作展)などが制作された。 60年1月サトウ画廊にて個展開催。従来の構成的な画面からマチエールで語ろうとする方向への変化を示した。以後画面は茶褐色を基調とした色彩のなかに、漠とした奥深い空間を見せるようになる。同年5月第4回現代日本美術展へ「無I」「無II」を出品、女性初の優秀賞となる。61年ニューヨーク・グッゲンハイム国際美術賞展へ出品。同年サンパウロ・ビエンナーレへ「ミクロコスム」連作を出品し、62年にはカーネギー国際展へ出品。国際的に活躍した。他方61年の第25回新制作展への出品を最後に同会を退会、以後個展やグループ展などで作品を発表する。61年2月東京画廊、63年7月京都・青銅画廊、79年1月第七画廊、81年9月フマギャラリー、1988(平成元)年5月ストライプハウス美術館、同年9月日本画廊にて個展を開催。日本画廊では92、96、2005年にも個展を開く。また「田中田鶴子・カズコ カヤスガ マシューズ展―「砂」と「炎」からのレポート―」(ストライプハウス美術館、1988年)、「桜井浜江・田中田鶴子・桜井寛 三人展」(三鷹市美術ギャラリー、2006年)、「画家のかたち、情熱のかたち―桜井浜江 高島野十郎 田中田鶴子 ラインハルト・サビエ―」展(三鷹市美術ギャラリー、2010年)などのグループ展へ出品した。 他方60年11月より跡見学園女子短期大学にて教鞭を執り、87年3月まで勤務。その間70年には教授となり、77年から84年まで生活芸術科長を務めた。また学生の研修旅行に同行してエジプトを訪れたのを機に、中近東の砂漠へ何度も足を運んだ。82年スペイン・バルセロナ工科大学ガウディ研究所に招待され、同地に6ヶ月滞在、ガウディ建築などを見て回る。 作品は黒一色の画面にブロンズ粉で円を描いた「時間―17」(1979年、個展・第七画廊)頃から、中近東の砂漠に想を得た「円」シリーズへと展開、さらに80年代後半頃からは楕円と線の連作へと発展していく。また2000年代には多く白地をバックに黒、青、赤、金といった色彩が織り成すリズミカルな画面の連作が制作された。

横尾龍彦

没年月日:2015/11/23

 洋画家の横尾龍彦は11月23日、膀胱がんのため死去した。享年87。 1928(昭和3)年9月7日福岡県福岡市に生まれる。霊感者の母のもと、少年期の神秘体験が後の制作活動に多大な影響を及ぼす。母の勧めもあり東京美術学校(現、東京藝術大学)に入学し、一級上の加山又造と交遊。50年同大学日本画科を卒業後、キリスト教神学を学ぶ。63年第27回新制作協会展(日本画部)に「癩者の家」を出品するも、この頃より日本画から油彩へ転向。65年、シトー会修道院より奨学金を受け渡欧、パリに一年間滞在し、中世ロマネスク、ゴシックの美術を研究。66年東京銀座の青木画廊で個展開催、横尾と同年生まれで同名の評論家澁澤龍彦が同展に「インク壷のなかの悪魔」と題する一文を寄せ、懇意になる。72年、ローマに滞在。73年芸術出版社より『横尾龍彦画集 幻の宮』を刊行。75年からは古典油彩技法研究のため、ベルギー、ドイツへ旅行、ウィーンに滞在。77年ドイツ、スペインにてボッシュに傾倒、北ドイツのヴォルプスヴェーデに滞在。78年、深夜叢書社よりエクリチュール叢書として『横尾龍彦作品集』刊行。同年、美学者の高橋巌が鎌倉で行なっていたルドルフ・シュタイナー研究会に参加。また鎌倉三雲禅堂の山田耕雲に師事し、以後禅の世界に傾倒、それまでのデモーニッシュな幻想画から東洋の瞑想と西洋の神秘主義の融合を探求するようになる。79年から翌年にかけて『毎日新聞』連載小説の井上光晴「気温10度」の挿画を担当。80年ドイツへ移り、オスナブリュックに居住。85年ケルン郊外に居住。1989(平成元)年、東京サレジオ学園の聖像彫刻で第14回吉田五十八賞(建築美術の部)を受賞。93年秩父市黒谷に、翌年ベルリン郊外にアトリエを開設。94年世界救世教タイ国サラブリ神殿建築関連美術・壁画・石彫の制作、監督を担当。98年、春秋社より画集『横尾龍彦1980-1998』を刊行。同年、宗教学者鎌田東二の趣旨に賛同し東京自由大学の設立に参画、初代学長を務める。2000年スロバキアのプラスティスラバ市立美術館で個展を開催、また横尾の提案により芸術シンポジウム「現代美術のグローバリゼーションと民族のアイデンティティ」を催し、翌年北九州市立美術館での個展開催にあわせ同テーマのシンポジウムを行なった。2004年、ベルリン市主催により、シャルロッテンブルグ宮殿で個展開催。10年、ドイツの出版社Kerber Verlagより画集『TATSUHIKO YOKOO 1988-2010』が出版される。15年11月に東京のキッド・アイラック・アート・ホールで帰国記念展「みちすがら」を開催、あらためて日本を拠点に活動を始めた矢先の死となった。

一木平蔵

没年月日:2015/11/14

 人間の営みが大地に残した痕跡を描き続けた洋画家一木平蔵は、11月14日肺がんのため死去した。享年91。 1923(大正12)年12月26日福岡県八幡市に生まれる。1930(昭和5)年八幡市立平野小学校に入学。同校2年生の時に画家になる希望を抱く。36年平野小学校を卒業し、八幡市立花尾高等小学校に入学、在学中に市販の教本などによりデッサンを独学。38年同校を卒業して安川電機株式会社に入社。44年産業報国美術展に水彩画2点を出品し、特選受賞。45年4月から8月末まで陸軍航空教育隊(松江航空隊)に入隊し、8月に復員。46年2月頃から小倉市の米軍24師団図書館付イラストレーターとして勤務。5月第1回西部美術協会展に「花器」「風景」を出品、同年10月の第2回同展に「静物」、47年第3回同展に「風景」を出品する。48年第4回同展に「大門風景(小倉)」を出品して西部協会賞受賞。同年結婚し、古米家に入籍。妻の生家が古書店であったところから中国の唐宋元明名画集などに触れて東洋画に興味を抱く。49年第5回同展に「静物A」「静物B」「風景」を出品。同年第5回福岡県美術協会展に「風景」を出品して県議会議長賞受賞。51年古米平蔵の名で第15回自由美術展に「牛頭骨A」「牛頭骨B」を出品し、入選。52年12月上京。同年第16回自由美術展に「筑豊」を一木平蔵の名で出品。以後、一木平蔵の名で同展に出品を続け、56年自由美術家協会会員に推挙される。58年11月福岡市岩田屋で個展開催。60年第4回安井賞候補新人展に「狭められた大地B」「流触A」を出品。62年第16回日本アンデパンダン展に「足のある木」、63年第17回同展に「断片1」「断片2」「断片3」「断片4」「断片5」「断片6」「断片7」「断片8」、64年第18回同展に「種子だけになった風景」「花」を出品。67年第31回自由美術展に「浮遊する家」「浮遊する断片」を出品して自由美術賞受賞。69年ソヴィエト、ヨーロッパ、西アジア、インドなど十数か国を訪れ、レンブラントなどヨーロッパの古典絵画に触れる一方で、古代にメソポタミア文明の栄華を誇った西アジアが空と大地の壮大な空間となっていることに強い印象を抱いた。70年第34回自由美術展に「ある風景A」「ある風景B」を出品。71年6月福岡市博多大丸にて「一木平蔵帰国報告展 残闕のバビロン」展を開催。同年第35回自由美術展に「蒼き傷蹟の風景」「のび上った風景」を出品。75年第1回東京展に「砂漠から蒼い風景への回想」を出品。以後、東京展に出品を続ける。82年北九州市立美術館でそれまでの画業を回顧する「一木平蔵」展が開催された。同展図録には50年代から自由美術協会に注目してきた評論家針生一郎が寄稿し、50年代の半抽象的風景画から、海外経験を経て、明るく単純化された色調と流動的形体による風景画へと展開した一木の作風を振り返り、戦後日本の目まぐるしく芸術概念や様式が変化した中にあって「足もとの一点にたちどまっているようにみえて、歩一歩粘りづよく深化と展開を目指してきた作家たち」のひとりとして一木を評価している。85年10月から2ヶ月ほどヨーロッパ旅行。88年『一木平蔵の素描』(美術出版社)が刊行される。初期から眼前の物が時の流れの中で変遷していくこと、現代文明によって自然が奴隷化していることを表現する作品を描いたが、69年の海外渡航以後、色調が明るくなり、伸びやかな抽象的フォルムによる作風へと展開した。【自由美術展出品略歴】第15回(51年)「牛頭骨A」「牛頭骨B」、第20回(56年)「二人の大工(B)」、第25回(61年)「狭められた大地」、第30回(66年)「風景」、第35回(71年)「蒼き傷蹟の風景」「のび上った風景」、第40回(76年)「廃棄大地の中で」「オリエントの廃屋」、第45回(81年)「大地の跡」「風景の跡」、第50回(86年)「遺構の前に立つ人」、第55回(91年)「遺構回想」「遺構に立つ人」、第60回(96年)「風景の跡A」「風景の跡B」、第70回(2006年)「翔べない風景」、第75回(2011年)「風景襍描」、第79回(2015年)「風景の弔い」

生賴範義

没年月日:2015/10/27

 イラストレーターの生賴範義は10月27日、肺炎のため死去した。享年79。 1935(昭和10)年11月17日、兵庫県明石市に生まれる。45年明石の大空襲に遭い、鹿児島県川内市(現、薩摩川内市)に移住。54年東京藝術大学美術学部絵画科へ入学し油画を専攻、ミケランジェロに心酔し、人物のデッサンと油絵に没頭するも、三年で中退。アルバイトをしながら油絵を描き続けていたが、62年、結婚を機に企業の社内報や新聞広告のカットの仕事を開始。次第に出版社から本や雑誌の表紙画や挿絵の依頼も増え、映画のポスター等も手がけるようになる。71年よりSF作家の平井和正、翌72年より小松左京の『復活の日』(早川書房日本SFノヴェルズ版、1972年)をはじめとする小説の装画の多くを担当、その迫力溢れる卓越した画力について、小松は「日本の近代絵画が、あまりに性急な「開化」の国策にそってヨーロッパの「もっとも進んだ」絵画の技法をいれたために、かえって導入しそこねた「ヨーロッパ絵画の伝統」の一つを、いま生賴さんが、SF画の形で私たちの社会に導入しつつあるのではないか」(『イラストレーション』9、1981年)と語っている。73年には母の郷里である宮崎県宮崎市に居を構え、同地で制作に励む。80年、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」の国際版ポスターが世界的に注目され、日本SF大会において第11回星雲賞(アート部門)を受賞。同年初めての作品集となる『生賴範義 イラストレーション』(徳間書店)を刊行、その中で自らを「生活者としての」「肉体労働者」と称したが、この頃より仕事量は加速度的に増え、88年には装画を担当した書籍が一年間で100点を超えるほどであった。この間、84年には映画「ゴジラ」のためにポスターを描き、2005(平成17)年の「GODZILLA FINAL WARS」まで9作品の宣伝ポスターを手がける。11年に脳梗塞を発症し、療養生活を送ることになるが、14年には宮崎市のみやざきアートセンターで初の大規模な展覧会「生賴範義展 THE ILLUSTRATOR」が開催。同年文化庁映画賞(映画功労部門)を受賞。没後も明石市立文化博物館(2016年)、大分市美術館(2017年)、上野の森美術館(2018年)で巡回展が開催されている。

森本草介

没年月日:2015/10/01

 端麗な写実絵画で知られた洋画家森本草介は10月1日、心不全のため死去した。享年78。 1937(昭和12)年8月14日森本仁平、久子の長男として父の赴任先であった朝鮮全羅北道全州府に生まれる。43年父の転任のため東京都足立区小台町に転居。44年母の郷里岩手県一関町に疎開し、同年4月に一関町立一関国民学校初等科に入学するが、同年秋、父の赴任先である黄海道海州府に転居。45年終戦を朝鮮半島で迎え、徒歩で京城に到り、京城から引き上げ船で山口県仙崎港を経て、一関町に帰着。一関国民学校初等科2学年に編入。50年3月一関市立一関小学校を卒業して、同市立一関中学校に入学。51年9月上京し、墨田区立堅川中学校に編入。53年同校を卒業し4月に墨田区立墨田川高校に入学、56年に同校を卒業。自由美術協会の画家であった父の影響で画家を志し、阿佐ケ谷美術研究所に学び、58年に東京藝術大学絵画科に入学。61年伊藤廉教室に入り、同年安宅賞受賞。62年東京藝術大学絵画科を卒業し、専攻科に進学。63年第37回国画会展に「聚」で初入選し、以後、同展に出品を続ける。64年3月、東京藝術大学油画専攻科を修了し、4月に同学美術学部助手となる。同年の第38回国画会展に「閉ざされた碑(B)」「閉ざされた碑(C)」で入選。65年第39回同展に「逆光」「碑(B)」を出品し、国画賞受賞。66年第40回同展に「沈む風景」「赤の碑」を出品し会友に推挙される。68年第42回同展に「響」を出品し、同会会友最高賞であるサントリー賞受賞。69年第43回同展に「逆光」を出品し、同会会員となる。同年、東京藝術大学の同世代のグループ十騎会の結成に参加し、以後同展に出品を続ける。70年第5回昭和会展に「貝とリボンのある静物」を招待出品し昭和会優秀賞受賞。71年東京から千葉県鎌ヶ谷市に転居。76年フランス旅行。77年最初の個展となる森本草介展を東京の日動サロンで開催。79年第18回国際形象展に「卓上の構図」「果物と少女」を出品し、以後85年まで同展への出品を続ける。また、同年第22回安井賞展に「午後の翳り」を出品。84年、『森本草介画集』(講談社)刊行。85年第1回具象絵画ビエンナーレ(神奈川県立近代美術館ほか)に「華」を出品。1989(平成元)年1月と10月にフランスへ取材旅行。92年フランスへ取材旅行。94年奈良県立美術館で開催された「輝くメチエ 油彩画の写実・細密描写」展に「朱」(1981年第55回国画会展出品)、「青衣の婦人」(1992年第66回国画会展出品)等、自選による11点を出品。95年『森本草介画集』(求龍堂)が刊行される。学生時代に50年代60年代の抽象画隆盛期を体験し、半抽象的な作品を描いたが、60年代末から写実的で静謐な具象絵画を描くことの追求が始まる。70年代には「昼」(1976年第50回国画会展出品)、「卓上の構図」(1979年第18回国際形象展出品)など、静物を知的な構図に収めて写実的に描く作品が中心であったが、80年代からセピア色を基調とする裸婦や着衣の女性像が主要な作品となった。風景画のほかは自然光を用いず、好みの効果が得られるよう照明を調整し、人物画では後姿や伏目がちな表情を好んで、写実的でありながら虚構の世界を描いた。フェルメールやアングルなどの西洋古典絵画に学び、筆跡を残さないすべらかなマチエールを特色とした。作画の合間に散策とピアノ演奏を楽しみ、画題にも「響き」「間奏曲」「調べ」など音楽に関連するものがある。画家は「私の絵はリアリズムとは違う」「ものを再現しようとしているのではなく、詩を描きたい」「人間存在の不思議とか、その奥にかくれている精神だとか、即物感に興味があるのではない」と語っている(『アート・トップ』143)。自らの生きる時代を「美術運動は多分無力な時代」と認識し、「個人が信じる自己の感性を掘り下げ、深め、みがく行為だけが有効」(同上)と考えて、自然との静かな対話を画面に表した。2010年ホキ美術館開館記念特別展に「横になるポーズ」(1998年)ほかが出品され、11年には同館で森本作品約30点が常設展示されることとなった。12年に『光の方へ 森本草介』(求龍堂)が刊行されており、詳しい年譜が掲載されている。

石本正

没年月日:2015/09/26

 伝統や規範にとらわれず、自らの心を通して作品を描き続けた日本画家、石本正は9月26日、不整脈による心停止のため死去した。享年95。 1920(大正9)年7月3日、島根県那賀郡岡見村(現、浜田市三隅町岡見)に生まれる。本名正(ただし)。幼少期には豊かな自然の中で小さな生き物と触れあい、素直な感性を培った。1927(昭和2)年岡見尋常小学校へ入学。2年生のときにおじから油絵の具を贈られ、担任の先生と使い方を試行錯誤する。33年島根県立浜田中学校(現、島根県立浜田高等学校)入学。この頃映画や音楽、文学に興味を持ち、独自に油絵も描いていたが、画家になろうとは考えていなかった。38年同校を卒業。40年京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科予科へ入学するが、伝統的な円山四條派の形式に則った授業に馴染めなかった石本はあまり授業に出席せず、関西美術院や華畝会の研究所などへ通い、石膏や人物のデッサンを学んだ。2回生への進級制作の折には、伊藤若冲の絵に触発され軍鶏を描いたという。44年同校を繰り上げ卒業し、学徒動員で気象第一連隊に配属、翌年復員。47年から大阪の高校で美術教師を務めながら作品を制作し、ボッティチェリの「春」をイメージした「三人の少女」で第3回日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。このときの作品は福田平八郎に激賞され、以後第5回展まで入選を重ねた。49年9月には京都市立美術専門学校助手となる。 50年京都市立美術大学の先輩画家・秋野不矩の勧めで発表の場を創造美術展へ移し、同年「五条坂」「踊子」が入選。翌51年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、その第15回展へ「影」「旅へのいざない」を出品して新作家賞受賞、同会の会友に推挙され、以後第37回展(73年)まで出品した。「踊子」「旅へのいざない」はいずれも女性群像で、石本が50年にパブロ・ピカソの「青の時代」に出てくる女性によく似たモデルと出会ったことから生まれた作品であるという。しかしこの時代の作品は当時、古くさいとして画壇に受け入れられず、石本は次第に自らの愛するロマネスク美術の壁画に見られる太い線を用いた作品を描くようになる。 53年第17回新制作展へ、いずれも太い線を用いて描いた「高原」と「女」を出品、新作家賞を受賞する。作品は高く評価され、55年頃までこうした作品を描き続けるが、迎合的な制作に納得のいかない思いを抱いていた石本は、56年以降従来の花鳥画とはまったく異なる、擦り付けるような強い筆触を感じさせる鳥の絵を次々に発表する。同年の第20回展へは、木下順二脚本の舞台「夕鶴」を見て描いた「双鶴」、さらに「野鳥」の2点を出品し、同会日本画部の会員に推挙され、翌年の第21回展へは自ら編み出したペインティングナイフを用いる技法で描いた「樹根と鳥」を出品。いっときその技法が若い画家たちの間で流行したという。またこの頃より、石本は舞妓や芸妓を描こうと思い、祇園に通い始めた。58年京都の土井画廊で初の個展を開催。59年12月、加山又造・横山操らと轟会(村越画廊)を発足させ、「横臥舞妓」「鶏」「丘の木」を出品、以降も第15回展まで出品した。60年10月村越画廊・彌生画廊主催「石本正個展」(文藝春秋画廊)開催、出品作の「桃花鳥」が翌年1月、文部省買上となる。また60年には京都市立美術大学講師となった。 64年はじめての渡欧を果たし、憧れつづけたヨーロッパの中世美術に触れ、規範にとらわれない自由な美的感覚に共感。同年の新制作展から舞妓を題材とした作品を毎回発表する。石本は田舎出の娘が煌びやかに着飾った、華やかな中に孤独な翳りを見せる舞妓を描きたいとし、顔や手の黒い舞妓を発表、きれいごとではないリアリティがあるなどと評された。67年の第31回展へは、横たわる三人の裸の舞妓を描いた「横臥舞妓」を出品。68年5月「石本正風景展」(彩壺堂)を開催。70年には舞妓の作品ばかりを並べた「石本正人物画展」(彩壺堂)を開催した。このときの「横臥舞妓」などが「日本画における裸婦表現に一エポックを画した」として、翌71年第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞。同年3月舞妓をテーマとしたシリーズで第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以後はすべての賞を辞退した。この間、65年に京都市立美術大学助教授(70年教授)となり、69年11月には学生等とともにイタリアへ研修旅行に出かける。以後この旅行は慣例となり、ヨーロッパや中国、インドなどを訪れた。 74年、新制作協会日本画部会員全員が同会を退会し、新たに創画会を結成。9月の第1回展へ石本は「鶏頭」を出品、以後毎回出品する。この頃から石本の女性像は舞妓ではない裸婦が中心となり、アンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」に触発されて描いた83年の「夢」(個展、東京セントラル絵画館)頃から背景に絨毯を描きこむようになった。86年3月京都市立芸術大学教授を退任し、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年11月兼素洞にて花の作品ばかりを集めた「石本正「花」展」を開催。この頃から石本は物語性のある作品を描くようになり、映画の舞踏会シーンを思い浮かべて描いたという「牡丹」(89年、第16回創画展)や、花火をイメージしたという「菊」(94年)、また平泉・中尊寺の古面を思い出して描いたという「空蝉」(94年)など、対象を通して得たイメージを画面に表現するようになる。96年には初の本格的な展覧会となる「石本正展―聖なる視線のかなたに―」を開催、92年以降の近作37点と素描50点が展観された。2001年故郷である島根県那賀郡三隅町(現、島根県浜田市三隅町)に石正美術館が開館し、名誉館長となる。この開館を機に、石本はふるさとを意識した作品を描くようになり、創画展へも「幡竜湖のおとめ」(02年、第29回展)などを出品。03年10月には画一的な表現しか認めない当時の画壇に新風を吹かせたいという思いから、石本がはっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来」展を開催。09年石正美術館の塔に長年の念願だった天井画を老若男女592人とともに制作する。また06年以降、創画展へは牡丹や薊などの花を描いた作品を中心に発表していたが、14年の第41回展へは薄物をまとい横たわるふたりの裸婦を描いた「裸婦姉妹」を出品、翌15年10月の第42回展へは舞妓を描いた「舞妓座像」が未完のまま出品された。

近藤弘明

没年月日:2015/09/13

 東洋の仏教的真理を幻想美によって現わし、視覚に語りかけてくる作品を目指し描き続けた日本画家、近藤弘明は9月13日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年9月14日、東京市下谷区龍泉寺町(現、台東区龍泉3丁目)に生まれる。本名弘明(ひろあき)。家は天台宗寺門派三井寺(園城寺)の末寺にあたる天台宗龍光山三高寺正宝院で、江戸七不動のひとつ、飛不動とも呼ばれた。父・近藤教圓は仏画をよくし、近藤は幼いころから絵の具溶きや絹張りの手伝いをしていたという。1930(昭和5)年、6歳のときに得度受戒し僧籍に入る。36年3月下谷区立龍泉寺小学校を卒業。中学時代には川端画学校のデッサン教室へ通い、一時洋画家となることも考えたという。41年3月文京区の駒込中学校卒業、大正大学師範科に入学する。その一方で当時東京美術学校教授であった常岡文亀に植物写生を習い、43年大学を中退、東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科へ入学した。44年陸軍軽井沢航空教育隊に志願し入隊、八ヶ岳山麓にてグライダー訓練を受ける。訓練中に見た小さな高山植物が強く印象に残り、後の作風に影響を及ぼしたという。その後罹病、陸軍学校を点々とし、終戦後は兄が大僧正となっていた滋賀県大津の園城寺法泉院に滞在、療養に努めるとともに、兄から天台哲学を学ぶ。この頃一時文学を志し、志賀直哉のもとへ通うが、「文学よりも絵に向いている」との助言から、47年画業に専念するため上京、翌年4月東京美術学校に復学した。49年3月東京美術学校を卒業し、以後も同校助教授だった山本丘人に教えを受けた。 50年第3回創造美術展へ「街裏」を出品、初入選を果たす。翌年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、同年の第15回展へ「木馬館」「六区高台」を出品、以後第37回展(1973年)まで毎回出品し、新作家賞を4度受賞、63年には会員となる。また同会の春季展や日本画部研究会へも積極的に出品し、受賞を重ねた。54年第18回新制作展へ「夜の華」など4点を出品。この頃から異形ともいえる幻想的な花や鳥をモチーフとした作品が制作されるようになる。翌年12月尾崎光子と結婚。59年1月、初となる個展(画廊ひろし)開催。60年1月第11回秀作美術展に「月の華」(1959年)が選抜出品され、第15、17回展(1964、66年)にも選抜される。同年7月第2回みづゑ賞選抜展に「解脱」「迦陵頻伽」を出品。この頃より仏教的な世界観に基づくものと考えられる作品が描かれ始める。62年5月第5回現代日本美術展へ「慈母」(のちに「天上の華」と改題)「飛翔」を招待出品、翌年5月第7回日本国際美術展へ「善と悪の園」を招待出品する。以後も前者には第8回展(1968年)まで、後者には第9回展(1967年)まで出品、65年の第8回日本国際美術展では、「寂光」がブリヂストン美術館賞となる。66年第5回福島繁太郎賞受賞。60年代半ば頃より、各モチーフが徐々に具象的となり、画面が遠近法に即した広がりを見せる風景として構成されるようになる。また「幻影」「寂園」(1968年、個展・彩壺堂)など、具体的な菩薩の姿を描いた作品が表れはじめる。71年「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「清夜」を出品、優秀賞となる。74年新制作協会日本画部会員全員が同会を退会、新たに創画会を結成し、9月の第1回展へ「黄泉の華園」を出品、第13回展(1986年)まで出品した。75年6月「一つの神秘的空間を示す画業にたいして」第7回日本芸術大賞が贈られる。76年12月東京・杉並から神奈川県小田原市にアトリエを移転、寂静居と名付けた。82年3月第4回日本秀作美術展に「幻桜」が選抜される。同展へは1990(平成2)年の第12回展に「幻秋(秋の七草)」で再び選抜されて以降、第25回展(2003年)までに10回選抜された。83年10月第10回創画展へ「霊桜」を出品。この頃より描かれるモチーフが現実の草花となり、日本の伝統的な花鳥画を思わせるような構図の画面となっていく。85年第21回神奈川県美術展の審査員となり、以後第31回展(1995年)まで務め、第32回から第39回展(2003年)までは顧問を務めた。86年2月、師である山本丘人が没し、翌年の第13回春季創画展を最後に創画会を退会、以後無所属となる。91年4月紺綬褒章受章。93年9月、初期作品から最新作までを集めた回顧展「華と祈り 近藤弘明展」開催。2000年4月二度目となる紺綬褒章を受章。同年7月には「サンクチュエール日光 近藤弘明展―聖地の神秘を描く」が開催された。

柳原良平

没年月日:2015/08/17

 サントリーのウイスキー「トリス」のキャラクター“アンクルトリス”のデザインで知られるイラストレーターの柳原良平は8月17日午前8時52分、呼吸不全のため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年84。 1931(昭和6)年8月17日、東京府豊多摩郡東田町(現、東京都杉並区)に生まれる。6歳の時に銀行員だった父の転勤で関西へ移り、少年時代を京都、西宮、豊中で過ごす。50年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)工芸科(図案専攻)に入学。在学中にウィーン工房出身の上野リチによる色彩構成の講義を受け、後の切り絵を多用した作風に影響を及ぼす。54年同大学を卒業し、寿屋(現、サントリーホールディングス)大阪本社宣伝部意匠課に入社。翌年日本宣伝美術会に「トリス」のポスターを出品し、奨励賞を受賞。56年より、後に作家となる開高健や山口瞳が編集長を務めた寿屋のPR誌『洋酒天国』で表紙を担当。またテレビCMのキャラクター“アンクルトリス”を案出、動きを簡略化してデザイン的に処理したスタイルが注目された。56年に東京支社へ転勤、59年に寿屋を退社し嘱託となり、64年に開高、山口らと広告制作会社サン・アドを設立。この間、59年から翌年にかけて『朝日新聞』日曜版で漫画「ピカロじいさん」を連載。60年久里洋二、真鍋博と「アニメーション3人の会」を発足、実験アニメにも意欲をみせ、草月ホールで上映を行なう。また本の装丁も積極的に手がけるほか、絵本作家として、大胆なデフォルメの切り絵による『かお かお どんなかお』(こぐま社、1988年)等の絵本も制作。また少年時代より船舶に強い関心を寄せ、『柳原良平 船の本』(至誠堂、1968年、以後シリーズで1976年までに5冊出版)、『柳原良平 船の世界』(誠文堂新光社、1973年)等、船や港に関する著書を多数出版。商船三井や太平洋フェリーの名誉船長、日本船長協会の名誉会員を務めた。64年より横浜に住み、75年より横浜市中区のせんたあ画廊で、没年に至るまで継続的に個展を開催。77年横浜文化賞受賞。2001(平成13)年に横浜マリタイムミュージアム(現、横浜みなと博物館)で企画展「船の画家 柳原良平」が開催されている。

長岡秀星

没年月日:2015/06/23

 宇宙やSFをイメージした作品で国際的に活躍したイラストレーターの長岡秀星は6月23日午前1時59分、心筋梗塞のため神奈川県小田原市の病院で死去した。享年78。 1936(昭和11)年11月26日、長崎県長崎市に生まれる。本名秀三。45年に父の出身地である長崎県壱岐へ疎開し、以後高校卒業まで同地で過ごす。高校3年の時に原子力飛行機の分解図を描いて小学館発行『中学生の友』の口絵に投稿、採用される。55年武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)デザイン科に入学。在学中から百科事典の解説図等に才能を発揮、多忙となり一年で中退・独立する。70年大阪万国博覧会で展示用イラストレーションを担当。同年渡米し、カリフォルニアを拠点に活動。73年カーペンターズの「ナウ・アンド・ゼン」LPレコードのジャケット画が評判を呼び、アース・ウインド&ファイアー等のミリオンセラーレコードを担当、東洋の神秘を漂わせた幻想的ファンタジーの画風で一躍有名になる。一方で面相筆とエアブラシを駆使して描き上げる作品の精巧さから、NASAをはじめ自動車、航空会社等よりメカニカル・イラストレーションの依頼も殺到した。76年『ローリングストーン』誌最優秀アルバムカバー賞、77年国際イラストレーション展優秀賞を受賞。日本でもその人気は高まり、81年に新宿伊勢丹で「長岡秀星展」が開催、10万人を動員。84年には絵物語『迷宮のアンドローラ』(集英社)を出版、そのイメージソングをアイドルの小泉今日子がリリースし、話題となる。85年に茨城県筑波で開催された科学万博で、日本政府出展のテーマ館の映像表現を担当。2004(平成16)年に帰国。90年代頃より宇宙をテーマとしたSF絵物語の大作「アナバシス」に着手し、晩年にはほぼ完成させていたという。作品集に『長岡秀星の世界』(日本放送出版協会、1981年)、『長岡秀星の世界・PART2』(日本放送出版協会、1985年)がある。

梶山俊夫

没年月日:2015/06/16

 画家の梶山俊夫は6月16日、肺炎のため死去した。享年79。 1935(昭和10)年7月24日、東京都江東区亀戸に生まれる。本名は梶山俊男。少年期に茨城県常陸太田町(現、常陸太田市)に4年間疎開する。56年、武蔵野美術大学西洋画科中退。1年のときに演劇部を作ろうとして押さえつけられ、退学届を提出したという。58年、第10回読売アンデパンダン展(以後、61年まで)、第11回日本アンデパンダン展、アジア青年美術家展に出品。同年、銀座・なびす画廊にて初個展を開催。61年、日本大学芸術学部卒業。在学中より博報堂制作部に嘱託勤務、このころ日本宣伝美術会会員として日宣美展に出品。62年、シェル美術賞(3等)受賞、木島始との共著で詩画集『グラフィック・マニフェスト―のどかなくわだて』(未来社)を上梓。63年に渡欧、フランスの画家と交友をもち、ヨーロッパ各地をめぐったのち、翌64年に帰国。創作活動を続けながら、全国の国分寺跡や奈良時代の廃寺跡を3年間訪ね歩く。67年、木島始の依頼で鳥獣戯画を素材として『かえるのごほうび』(福音館書店、こどものとも130号)のレイアウトを手掛ける。この仕事をきっかけに福音館書店の松居直に絵本制作を勧められ、博報堂での知己天野祐吉の文に挿絵を描いた『くじらのだいすけ』(福音館書店、こどものとも139号)を氏によるはじめての物語絵本として上梓、以後36年間にわたり、日本の自然、風土、民話をテーマに絵本を描く。73年、ブラチスラバ世界絵本原画ビエンナーレに『かぜのおまつり』(いぬいとみこ・文、福音館書店、1972年、こどものとも199号)を出品、「金のりんご賞」を受賞。このころより木版画の制作に着手。73年、『いちにちにへんとおるバス』(中山正文作、ひかりのくに、1972年)で講談社出版文化賞受賞。74年、『あほろくの川だいこ』(岸武雄・文、ポプラ社、1974年、ポプラ社の創作絵本)で小学館絵画賞受賞。77年、初の画集『風景帖』(沖積舎)を発表。このころより、同人誌『自在』創刊に参加(1991年、『虚空』と改題創刊)。82年、『こんこんさまにさしあげそうろう』(森はなさく、PHP研究所、1982年)で絵本にっぽん大賞受賞。1989(平成元)年梶山俊夫展「汽車の窓からバスの窓から―中国・ガンダーラスケッチ紀行」(西武舟橋店)開催。このころから絵本原画を絵巻に再生することを始める。96年、兵庫県和田山町文化会館の壁画及び『じろはったん』のブロンズ像制作、「毎日新聞」朝刊の連載、佐藤愛子「風の行方」の挿絵を担当。97年『みんなであそぶわらべうた』(福音館書店、1997年)で再びブラチスラバ世界絵本原画ビエンナーレ「金のりんご賞」受賞。99年ガラス絵や陶板絵の制作に傾注。98年、市川市民文化賞・奨励賞受賞。 そのほかの絵本に『いぐいぐいぐいぐ』(フレーベル館、1977年、「わが西山風土記」シリーズ)、『絵本空海お大師さま』(智山教化研究所企画、1984年)など多数、作品集に『梶山俊夫絵本帖』(上下、あすか書房、1981年)、『旅の窓から―梶山俊夫ガラス絵と陶女の風景』(毎日新聞社、1999年)、著書にエッセイ集『ぼくの空、蛙の空』(福音館書店、1995年)、『ききみみをたてて出かけよう』(毎日新聞社、1998年)がある。日本国際児童図書評議会会員、文芸誌『虚空』同人、市川市民文化賞を推進する会選考委員を歴任。

中西勝

没年月日:2015/05/22

 「芸術家である前にまず人間でありたい」と語り、生命の力強さを見つめ続けた洋画家、中西勝は5月22日、慢性呼吸不全増悪のため死去した。享年91。 1924(大正13)年4月11日、貿易業を営む中西信、一江夫妻の間に、四人兄弟の次男として大阪市城東区野江に生まれる。幼少から絵を好み、中西家所有の貸家に住んでいた日本画家に頼んで制作のようすを見せてもらったりしていたという。1937(昭和12)年3月大阪市城東区榎並小学校卒業。中学でははじめ剣道部に所属したが、級友の勧めで美術部に転部、油絵を描き始める。他方中之島の洋画研究所で田中孝之介等に学び、彫刻家・保田龍門のアトリエへ通いデッサンの手ほどきを受けた。42年3月大阪府立四條畷中学校(現、大阪府立四條畷高等学校)卒業。翌43年東京美術学校(現、東京芸術大学)を受験するもトラブルに巻き込まれ失敗、4月帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)西洋画科へ入学する。また川端画学校へも通った。この頃の作品にはさまざまな画風が混在し、多様な西洋の画家から学び試行錯誤していたことが窺われる。44年学徒動員にて中支派遣軍の部隊に配属、任務地となった河南省南部の山奥で過酷な生活を送り、ひそかに陣地を離れるも追手に捕らえられ後方へと送られた。その後病気となり入院、終戦後の45年9月から半年余り湖北省の俘虜収容所で過ごし、46年5月博多港より帰国した。 同年7月大阪・難波の精華小学校内に設置された大阪市立美術館付設美術研究所へ開所当時から通いはじめ、田村孝之介、小磯良平等に指導を受ける(1949年まで在籍)。47年3月帝国美術学校西洋画科卒業。49年4月神戸市立西代中学校の図画教員となり、神戸市垂水区塩屋町に移り住む。同年杉田絹子と結婚。また神戸にて田村孝之介と再会、第二紀会出品を強く勧められ、同年10月第3回二紀展へ絹子夫人をモデルに描いた「赤い服の女」と終戦直後の三宮界隈の闇市場にたむろする戦災孤児等を描いた「無題」を出品、二紀賞を受賞する。以後65年から70年までの世界一周旅行期間中をのぞき、毎回出品。他方、西村功、貝原六一、西村元三朗等神戸洋画界の若手とともに49年に新神戸洋画会(後にバベル美術協会と改称)を結成、年2、3回の発表を行うなど精力的に活動した。50年10月第4回二紀展へ「人間荒廃」「女性薄落」を出品、同人に推挙される。52年10月第6回展へ「去来」「GAOGAO」を出品、同人努力賞。また「去来」にて同年12月第1回桜新人賞受賞。同月7日妻で二紀会同人の絹子が逝去。またこの年、田村孝之介が神戸市灘区の自宅に六甲洋画研究所(後の神戸二紀)を設立。中西は教師として後進の指導に当たった。53年4月神戸森女子短期大学講師(63年神戸森短期大学教授)。54年6月柿沼咲子と結婚する。同年10月第8回二紀展へ「夏・母子」「煙突掃除夫」「人間の対話」を出品、委員に推挙された。56年5月第2回現代日本美術展へ「黒い太陽に於ける群像」「負わされた群像」を出品、第3、4、6回展にも出品する。57年5月第4回日本国際美術展に「祭典」を出品、第5、7回展にも出品した。63年神戸・元町画廊(10月)と東京・文藝春秋画廊(11月)にて個展を開催。同年第1回神戸半どん文化賞を受賞する。50年代から60年代前半にかけ、中西の画風は大きく変化する。初期の作品では、戦後を生きる人々を暗めの色調で表現していたが、徐々にキュビスム風の人物や、デフォルメされた人や魚、鳥などの生き物、さらには抽象的な形態によって画面が構成されるようになっていく。また52年の「去来」以降、中西が数多く残した母子像が描かれはじめる。 65年10月咲子夫人とともに世界一周旅行へ出発。ロサンゼルスに6ヶ月滞在し、翌年4月同地にて個展を開催する。その後車にてアメリカ、カナダ、メキシコ等をめぐり、68年4月渡欧、ヨーロッパ各地を訪れた後にモロッコへ渡り、8ヶ月滞在。「ベルベル族の母子」(1969年)など、たくましく美しい母子像が制作された。その後再びヨーロッパ大陸へと戻り、69年8月リスボンで個展開催。70年4月ロシアに入り、モスクワよりシベリア鉄道にてユーラシア大陸を横断。同月7日に横浜港に到着した。旅行より持ち帰った油絵や水彩、デッサンなどは1000点以上にのぼり、そのすべてが具象画であったという。同月神戸学院大学人文学部美術専任教授となる(1995年名誉教授)。また10月と11月には、「私は外へ出て見た」と題した個展を神戸・相楽園、大阪・梅田画廊にて開催。71年10月第25回二紀展へ「砂漠の黒い男」「大地の聖母子」を出品、黒田賞受賞。さらに「大地の聖母子」で翌年3月、第15回安井賞を受賞した。72年10月第26回二紀展へ「黒い聖母子」「座す」を出品、文部大臣賞受賞。74年兵庫県文化賞、76年神戸市文化賞をそれぞれ受賞。また75年8月には二紀会理事となる。77年4月夫妻でフランスを来訪。この頃より風景や日常の生活の様子を描いた「棲まう」と題した作品が描かれはじめる。80年10月第34回二紀展へ「棲う(帰途)」「棲う(トルテヤを造る女達)」を出品、菊華賞受賞。87年5月同会常任理事となる。80年代半ば頃より、画面が明るく華やかになり、「天の調」(1984年、第38回二紀展)など天空世界を意識した作品が表れはじめる。さらに90年代に入ると、「花歩星歩」(92年、第46回展)など、人物を主体としつつ、「花」や「華」をタイトルにつけた作品が多く描かれるようになる。1992(平成4)年第46回神戸新聞社平和賞。同年11月文化庁地域文化功労者。94年12月には回顧展「中西勝の世界展」(池田20世紀美術館)が開催された。翌95年1月阪神・淡路大震災にて罹災。余震の続く中で制作された「楽隊がやって来た(1.17)」(1995年)は、もともと楽しげな作品として描かれはじめたものであったが、震災に対する不安から、完成作は暗く不気味な画面となった。他方復興募金のためにテレホンカードの原画を描き、緊急支援組織アート・エイド・神戸に副委員長として参加、また兵庫二紀の仲間たちとともに巨大な壁画を制作するなど、復興へ向けて積極的に活動した。2009年「中西勝展」(神戸市立小磯記念美術館)開催。13年二紀会名誉会員となり、15年10月第69回二紀展へ「華まばたき」が出品された。

金子國義

没年月日:2015/03/16

 画家の金子國義は、3月16日、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去した。享年78。 1936(昭和11)年7月23日、埼玉県蕨市で織物業を営む裕福な家庭の四人兄弟(兄二人、姉一人)の末っ子として生まれる。幼少のころより図画工作、習字に秀で、華道、茶道、バレエのレッスンに通う。高校生のころは「映画狂時代」を自称するほど映画を観、『ハーパーズ・バザー』、『ヴォーグ』などファッション誌を購読、スタイル画に熱中する。56年、日本大学芸術学部入学。学業と平行して歌舞伎舞台美術家長坂元弘に4年間師事し、歌舞伎や新派、東をどりなどの舞台装置や衣装を学ぶ。57年、二十日会に参加し、第一回公演「わがままな巨人」の舞台を担当。59年、大学卒業後、グラフィックデザイン会社でコマーシャルなどの仕事に従事するが、3ヶ月で退社。60年、第37回春陽会展の舞台美術部門で「ある巨人の話」が入選。65年ころ、高橋睦郎を介して澁澤龍彦と知り合い、翌年刊行された澁澤の翻訳書『オー嬢の物語』(河出書房新社)の挿絵を担当。このころアングラ劇団「状況劇場」で舞台美術を担当したり出演する。67年、澁澤の紹介で初の個展「花咲く乙女たち」を銀座・青木画廊で開催(同画廊では69年「千鳥たち」、75年「お遊戯」、83年「オルペウス」の個展を開催)。68年、映画「うたたかの恋」(監督桂宏平、主演四谷シモン)で美術を担当。71年、ミラノ・ナビリオ画廊にて個展開催。同年、雑誌「婦人公論」の表紙画を担当(1974年12月号まで)。75年、生田耕作訳『バタイユ作品集』(角川書店)の装幀・挿絵を担当。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵を得意とし、60年代から70年代半ばを風靡したアングラ文化の一翼を担った。80年、バレエ「アリスの夢」(原宿ラフォーレミュージアム)で構成・演出・美術を担当。以後も、東京を中心に個展を多数開催、1998(平成10)年に自身がオーナーとなり神田神保町に金子による画集・リトグラフ・油彩・装丁本のほか金子が所蔵する書籍、美術品を展示するギャラリー兼古書店を開設(没後もオーナーを代えて存続)。晩年まで舞台美術、着物デザイン、写真など多岐にわたり、精力的に活動、18代目中村勘三郎(2005年)、6代目中村勘九郎(2012年)ら歌舞伎役者の襲名披露口上の美術、ロックバンド・L’Arc~en~CielのボーカリストHYDEのアルバム「FAITH」ジャケット原画(2006年、発売=HAUNTED RECORDS)を手がけた。 著書に『美貌帖』(河出書房新社、2015年)、絵本に『Alice’s adventures in Wonderland(不思議の国のアリス)』(イタリア・オリベッティ社、1974年)、作品集に『アリスの夢』(角川書店、1978年)、『金子國義アリスの画廊』(美術出版社、1979年)、『オルペウス』(美術出版社、1983年)、『青空』(美術出版社、1989年)、『お遊戯Les Jeux』(新潮社、1997年)、『よこしまな天使』(朝日新聞社、1998年、Asahi Art Collection)、『金子國義油彩集』(メディアファクトリー、2001年)、『Drink Me Eat Me』(平凡社、2004年)、『L’ Elegance金子國義の世界』(平凡社、2008年、コロナ・ブックス)など多数。特に一般には「富士見ロマン文庫」(富士見書房、1977年から91年)、『ユリイカ』(1988年から90年)をはじめとする多くの書籍・雑誌の装幀画・挿絵を手がけたことでも知られた。回顧展としては、「EROS’84」(渋谷・西武百貨店アートフォーラム、1984年)、「EROS ‘90楽園へ」(キリンプラザ大阪、1990年)がある。没後、『ユリイカ』2015年7月臨時増刊号や『KAWADE夢ムック文藝別冊』(2015年8月)などで特集された。

庄司栄吉

没年月日:2015/02/07

 日本芸術院会員の洋画家庄司栄吉は肺炎のため2月7日に死去した。享年97。 1917(大正6)年3月20日大阪に生まれる。生家は東南アジアから亜鉛を輸入し、酸化させて白色粉を生産する工場を経営しており、家業の関係で転居が多く、小学校高学年から中学校3年生まで奈良に居住。1935(昭和10)年、大阪外国語学校フランス語部に入学。同校在学中に赤松麟作の主宰する赤松洋画研究所に通い、38年に大阪外国語学校を卒業して東京美術学校油画科に入学。池袋パルテノンと呼ばれた椎名町に下宿し、41年、文展出品を目指していた制作中であった「庭にて」の下絵を見てもらうため、藤本東一良の紹介で寺内萬治郎を訪ねて以後、寺内に師事する。同年第4回新文展に「庭にて」で初入選。42年第5回新文展に「F嬢の像」で入選。同年、第29回光風会展に「M嬢の像」で初入選し、レートン賞受賞。同年10月に美術学校を繰り上げ卒業となり、44年に海軍教員としてセレベス島に派遣される。46年復員し、しばらく大阪に居住。47年寺内萬治郎の勧めで上京し、同年の33回光風会展に「読書」「小児像」を、第3回日展に「バレリーナ」を出品。50年光風会に「室内」「母の像」を出品してO氏賞受賞、翌年同会会員に推挙される。52年、当時の神学の権威であった熊野義孝(1899-1981)をモデルとした「K牧師の肖像」によって日展特選及び朝倉賞受賞。56年第42回光風会展に「画室の女」「青い服の肖像」を出品して南賞受賞。58年藤本東一郎、渡辺武夫、榑松正利らと北斗会を結成し、第一回展を東京銀座・松屋で開催し、以後毎年同展に出品を続ける。58年第1回新日展に「人物」を委嘱により出品。同作品は対象を色面に分割してとらえる方法で描写され、それまでの穏健な再現描写を踏まえた画風の展開が見られる。翌年の第2回新日展出品作「家族」はバイオリンを弾く少女を囲む群像を簡略化した人物描写でとらえており、音楽を奏でる、あるいは聴く人物像というモチーフとともに、晩年まで続く作風を方向付ける作品となっている。67年日展にチェロを弾く男性を描いた「音楽家」を出品して菊華賞受賞。70年日展審査員。71年日展会員。81年第67回光風会展に長いドレスの女性とギターを持つ男性を並立するように描いた「踊子とギタリスト」を出品して辻永賞受賞。86年日展評議員。同年12月資生堂ギャラリーにて個展。87年第19回日展に弦楽カルテットを描いた「音楽家たち」を出品し文部大臣賞受賞。2000(平成12)年3月に日展出品作「聴音」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞し、同年12月に日本芸術院会員となった。赤松麟作、寺内萬治郎を師と仰ぎ、穏健な再現描写を基盤とし、穏やかな色の筆触を重ねて対象を浮かび上がらせる作風で音楽家や踊り子などを描いた。【新文展出品歴】新文展第4回(1941年)「庭にて」(初入選)、第5回(1942年)「F嬢の像」、1943年、44年は不出品【日展出品略歴】第1、2回不出品、第3回(1947年)「バレリーナ」、第4回不出品、第5回(1949年)「室内」、第6回「画室の父」、第7回「坐像」、第8回「K牧師の像」(特選・朝倉賞)、第9回「婦人像」、第10回(1954年)「青衣少女」、第11回「赤い服の女」、第12回「腰掛けた女」、第13回(1957年)不出品【社団法人日展】第1回(1958年)「人物」、第5回(1962年)「耳野先生像」、第10回(1967年)「音楽家」(菊華賞)【改組日展出品略歴】第1回(1969年)「作曲家」、第5回(1973年)「白鳥」、第10回(1978年)「すぺいん舞踊家」、第15回(1983年)「舞踊団の人たち」、第19回(1987年)「音楽家たち」(文部大臣賞)、20回(1988年)「ギタリスト」、第25回(1993年)「ピアニスト」、第30回(98年)「調弦」、第35回(2003年)「ヴィオロニスト」、第40回(2008年)「聴音」、第45回(2013年)「セロ弾き」【改組新日展出品歴】第1回(2014)年「演奏家」、第2回(2015年)「バレエ団の人たち」(遺作)

江見絹子

没年月日:2015/01/13

 日本絵画史上、先駆的な抽象表現を試みた女性画家の江見絹子は1月13日、心不全のため死去した。享年91。 1923(大正12)年6月7日兵庫県明石市二見町に生まれる。本名荻野絹子。1940(昭和15)年3月兵庫県立加古川高等女学校卒業。翌年から43年まで、後に二紀会会員となる洋画家伊川寛の個人教授を受け、45年から49年まで神戸市立洋画研究所に学ぶ。この間の48年7月から50年9月まで神戸市立太田中学校に勤務。49年第4回行動展に「鏡の前」で初入選したのを機に神戸市から横浜市に転居。50年第5回行動展に「三裸」「ポーズ」を出品し「三裸」で奨励賞受賞。51年第6回同展に暗い背景の中に群像を描いた「夜の群像」を出品して新人賞受賞、会友推挙。52年第7回行動展に臥裸婦と座す群像を組み合わせた「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し「むれ(2)」で行動美術賞受賞。同年女流画家協会展に「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し、同会会員となる。53年第8回行動展に「三立婦」を出品し、行動美術協会で初めての女性会員となる。53年11月渡米。54年2月にアメリカ・カリフォルニア州サウサリトで個展を開催し「むれ(2)」等を展示。後、ニューヨークを経てヨーロッパに渡り、55年8月までパリを拠点にヨーロッパに滞在。ルーブル美術館に通い、西欧絵画を研究する一方で、当時パリで隆盛していたアンフォルメル様式や抽象絵画にも触れた。54年南欧を旅行し、ラスコーとアルタミラの壁画を見て衝撃を受け、「芸術とはなんであるか」を深く考えたことを契機として、作風が大きく変化し、対象を簡略化した形体でとらえる半抽象へと向かう。55年秋に帰国。56年8月シェル新人賞展に黄褐色の背景に茶色のフォルムを配した抽象画「生誕」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。58年第2回シェル美術賞展に「象徴」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。同年アメリカ・ピッツバーグのカーネギー研究所で開催された第41回ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に「錘」を出品。60年第4回現代日本美術展に「リアクション1」「リアクション2」を出品、以後、5,6,7,9回同展に出品する。61年第6回日本国際美術展に「作品」を出品し、以後第8回展まで出品を続けた。61年神奈川県女流美術家協会を創立。62年第5回現代日本美術展に「作品Ⅰ」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。同年6月第31回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に杉全直、向井良吉、川端実、菅井汲とともに出品。日本の女性作家として初めての同展参加となった。同展に出品された「作品」「作品1」~「作品7」は、57年頃から行っていた、自作の油絵を池に浸しておき、支持体から剥離した絵具をすりつぶし、ふるいにかけて粒子をそろえて溶剤に浸した絵具を用いる方法で制作され、抑えた色調と重厚なマチエルを持つものであった。ヴェネチア・ビエンナーレ後は鮮やかな色彩が用いられるようになり、75年から86年までカンバス上にテレピン油ないし溶かした絵具を流す技法を取り入れて、画材の性質に委ねる表現を画面に取り込んだ。この頃、江見は「水、火、土、風の四大元素が私の主要なモチーフを形成してきた。今後もそれらを統合したところにあらわれるであろう宇宙的な空間を目指してゆくことになるだろう」(『現代美術家大百科』茨城美術新聞社、1980年)と語っており、形と色によって画面に動きや光が宿る制作を続けた。1991(平成3)年、横浜文化賞受賞。96年3月「江見絹子自選展」(横浜市民ギャラリー)、2004年4月に「江見絹子展」(神奈川県立近代美術館)、10年11月に「江見絹子」展(姫路市立美術館)が開催されており、04年、10年の展覧会図録に詳細な年譜が掲載されている。

辰野登恵子

没年月日:2014/09/29

 画家で、多摩美術大学教授の辰野登恵子は、9月29日、転移性肝癌のため死去した。享年64。 1950(昭和25)年1月13日、長野県岡谷市に生まれる。68年3月、長野県諏訪二葉高等学校を卒業、同年4月東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。72年3月、同大学を卒業、同年4月同大学大学院美術研究科油画専攻に進む。74年3月、同大学院修士課程修了。 在学中から、ポップアート、ミニマルアートの隆盛に敏感に呼応しながら、無機的なフォルムの連続のなかに不意にあわわれる差異や断絶を表現した作品(シルクスクリーン等)を発表していた。その後、1980年代から絵画表現に取り組み、絵画の平面性を意識しつつ、断片的で、かつ具体的なフォルムに依拠しながら現代「絵画」の可能性を切り開いていった。その表現とは、当時のニュー・ペインティングの流行とは一線を画して、ミニマルアート以後硬直化した平面表現に、「絵画」を構成する線やフォルム、色彩の持つ本来の豊かさと深さを提示するものであり、新鮮な衝撃をもって注目されるようになった。84年11月、東京国立近代美術館の「現代美術への視点 メタファーとシンボル」展に出品。(同展は、国立国際美術館に巡回)。1989(平成元)年、ゲント市立現代美術館(ベルギー)で開催の「ユーロパリア ’89ジャパン現代美術展」に出品。94年2月、ゲストキューレターにアレクサンドラ・モンローを迎え、企画された横浜美術館の「戦後日本の前衛美術」展(Japanese Art after 1945:Scream against the Sky)に出品(同展は、米国ニューヨークのグッゲンハイム美術館、並びにサンフランシスコ現代美術館を巡回。)同年、第22回サンパウロ・ビエンナーレ(日本側コミッショナー:本江邦夫)に遠藤利克、黒田アキとともに出品。95年9月、東京国立近代美術館にて「辰野登恵子 1986-1995」展を開催。10年間にわたる絵画作品39点等による個展を開催し、現代における「絵画」表現のひとつの指針を示すものとして評価された。翌年、第46回芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。2003年、多摩美術大学客員教授となり、翌年から同大学教授となる。12年8月、国立新美術館にて「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」展を開催。翌年、第54回毎日芸術賞受賞。 90年代以降、華やかな色彩と重厚なテクスチャーに支えられた大画面の空間に、球体、矩形、波形等、きわめてシンプルなフォルムの連環を大胆に描き続けていたが、その背後にはプライヴェートなイメージの増幅、変容ばかりではなく、現代美術、あるいは平面表現の動向に対する批判的、戦略的な造形思考と意図がこめられていたといえる。しかも新作においては、つねに新しい試みが示され、今後の可能性を大いに期待されていた。没後、追悼する展示が、下記にあげるように辰野作品を所蔵する公立美術館等で数多く開催された。こうした現象は、美術関係者にとどまらず多くの人々が、辰野の作品に現代における「絵画」表現の可能性を見出しつつ、現在の美術の側から問い直しを促したものであり、いかにその早逝が惜しまれたことがわかる。「辰野登恵子追悼展」(市立岡谷美術考古館、長野県岡谷市、2015年3月6日-5月10日)「トリコロール 辰野登恵子展」(Red and Blue Gallery、東京都中央区、同年9月1日-10月17日)「所蔵作品展 辰野登恵子がいた時代」(千葉市美術館、同年7月7日-8月30日)「MOMASコレクションⅢ 特集展示 辰野登恵子-まだ見ぬかたちを」(埼玉県立近代美術館、同年10月10日-2016年1月17日)「辰野登恵子 版画1972 1995」展(ギャラリー・アートアンリミテッド、東京都港区、2015年12月5日-2016年1月15日)「MOTコレクション コレクション・オンゴーイング 特別展示:辰野登恵子」(東京都現代美術館、2016年3月5日-5月29日)「辰野登恵子 作品展」(ツァイトフォトサロン、東京都中央区、同年3月15日-5月7日)「辰野登恵子の軌跡 イメージの知覚化」展(BBプラザ美術館、兵庫県神戸市、前期同年7月5日-8月7日、後期8月9日-9月19日)「宇都宮美術館コレクション展 特集展示 辰野登恵子 愛でられた抽象」(宇都宮美術館、同年7月31日-9月4日)

米倉斉加年

没年月日:2014/08/26

 俳優、演出家で絵本作家としても知られた米倉斉加年は8月26日午後9時33分、腹部大動脈瘤破裂のため福岡市内の病院で死去した。享年80。 1934(昭和9)年7月10日、福岡市に生まれる。戸籍上の本名は米倉正扶三(まさふみ)だが、小学校時代から斉加年を名のる。57年に西南学院大学英文科を中退して上京、劇団民藝の水品演劇研究所に入所し宇野重吉に師事する。59年に劇団青年芸術劇場(青芸)を結成して活躍したが、64年に退団して民藝に戻る。66年にベケット「ゴドーを待ちながら」等の演技で第1回紀伊国屋演劇賞を受賞、74年の金芝河の「銅の李舜臣」以来演出も手がける。88年にも「ドストエーフスキイの妻を演じる老女屋」での演技で第23回紀伊国屋演劇賞を受賞。商業演劇の世界でも、舞台「放浪記」で林芙美子の友人白坂五郎役を長年にわたり演じた。2000(平成12)年に劇団民藝を退団後、07年に劇団海流座を立ち上げ、代表を務めた。映画「男はつらいよ」シリーズやNHK大河ドラマ「国盗り物語」「風と雲と虹と」「花神」等にも出演し、存在感のある演技で広く知られた。 演劇活動の傍ら、生活費の助けとして元々好きだった絵を描くようになり、69年から翌年にかけて月刊誌『未来』に絵と雑文を連載。これが注目され、野坂昭如『おとなの絵草紙 マッチ売りの少女』(1971年)をはじめとする絵本の仕事に携わるようになる。75年には奥田継夫の童話『魔法おしえます』(偕成社)の絵を担当し、翌年のボローニャ国際児童図書展・子供の部でグラフィック大賞を受賞。さらに同年出版、自作の文と絵による『多毛留』(偕成社)が77年の同展・青少年の部でグラフィック大賞を受賞する。竹久夢二の大衆性を愛し、市井に生きる“絵師”を自任、その作風は繊細な描写の中に諷刺の毒を効かせたものであり、英国の画家ビアズリーのそれを髣髴とさせる。画集に『憂気世絵草紙』(大和書房、1978年)、『masakane 米倉斉加年画集』(集英社、1981年)、『おんな憂気世絵』(講談社、1986年)がある。

永田力

没年月日:2014/07/27

 画家の永田力は、7月27日腎臓がんのため死去した。享年90。 1924(大正13)年、長崎県に生まれる。中学卒業後、画家を志し上京、同舟舎に学ぶ。1943(昭和18)年中国東北部に渡りシベリヤ経由でパリをめざすが、一時昭和製鋼所報道班(自筆別文献では「満洲製鉄」とも)に務める内、応召がかかる。敗戦後ソビエトで抑留生活を送る。収容所では馬の毛で筆をつくりロシア兵を描いたという。復員後の48年上京する。53年風間完らと「エンピツの会」を結成、東京の美松画廊で3年続けグループ展を開催。57年日本天然色映画の設立に参加。その後、岩谷書店発行の雑誌『宝石』編集部で働きながら絵画制作を続ける。公募展では、49年第20回第一美術協会展に「街」、「駅前」、「議事堂風景」(第一美術賞受賞)を出品。51年には総会に改革案を提出するも否決されることで退会し、第15回自由美術展に「風景」を出品し会員になる。同展には67年まで出品。この間、メンバーの自由美術家協会から主体美術協会への分裂騒動のなか、自由美術の事務局を担っていたため、退会を遅らした事情がある。その後、アークラブに属し、無所属となる。国際展では57年第1回アジア青年美術家展でフライシュマン賞を受賞。スイスのグレッフェン・トリエンナーレ、ドイツのライプチッヒ世界風刺画ビエンナーレ等に出品。60年『図解された洋画の技法集 別冊アトリエ』64を上梓する。水上勉の小説『飢餓海峡』(62年、『週刊朝日』連載、講談社さしえ賞受賞)の挿絵をはじめ、『オール読物』や『週刊新潮』等でも挿絵を寄稿した。63年、67年、69年、70年、72年、73年、75年、79年と8回東京の南天子画廊で個展を開催。1995(平成7)年に東京のギャラリーミキモトで個展を開催。ピエロや芸人たちをモチーフに、人間の孤独、悲しみの情感を描くことに取り組んだ。96年から芸術研究をジャンル横断的に行なう「東方藝術思潮会」を主催した。

田中岑

没年月日:2014/04/12

 画家の田中岑は、4月12日、癌のため神奈川県川崎市内の病院で死去した。享年93。 1921(大正10)年香川県観音寺市に生まれる。現、香川県立観音寺第一高等学校在籍中に美術部を創設する等、制作に興味をもち、山脇信徳に絵を見てもらう体験をする。1939(昭和14)年独立美術協会展に初入選。同年4月東京美術学校油画科予科に入学するも、かねてより私淑していた海老原喜之助の勧めで日本大学芸術学科に編入する。41年グループ「昴」を結成、銀座紀伊國屋でグループ展を開催。42年8月、初個展を油彩とフレスコ画で神戸の済美工芸会館で開催。同年9月に召集され、翌年に中国戦線に派遣、敗戦は大陸で迎え、46年高松に帰郷、同年4月独立展に2点を出品。47年第11回自由美術家協会展に「青年」など3点を出品(以後1949年まで出品)。この頃、木村忠太、土方巽と知り合い、木村や長谷川路可の縁で女性雑誌の編集やカットなどの仕事をする。49年第1回日本アンデパンダン展(読売アンパン)に「室内」を出品。50年第27回春陽会展に「光」、「厨房」を出品、第1回研究賞受賞。以後、同展には2004(平成16)年まで出品を続けた。53年東京のタケミヤ画廊で個展。57年現、千代田区立日比谷図書文化館に壁画「平和の壁」を共同制作する。同年第1回安井賞を「海辺」で受賞。一時のアンフォルメル旋風の後であり、同作をめぐり具象抽象の論議も起きた。田中は最後の安井賞展(第40回、1997年)の審査委員を務めている。また57年には神奈川県立近代美術館喫茶室に壁画「女の一生」を制作。同作は16年3月同美術館鎌倉館が閉館になったおり、葉山館講堂前ホワイエに移設された。 50年代半ばからは、丸善画廊、梅田画廊、兜屋画廊、日動画廊、日本橋三越など洋画を扱う主要な画廊で発表する。60年に渡欧し、滞欧中の木村忠太、岡鹿之助らと交流するなかで、画風を研究する。66年映画「ビーチレッド戦記」のタイトル画制作(採用はされなかった)のためフィリピンのルソン島へ赴く。同年より69年まで女子美術大学で後進の指導にあたる。71年胃潰瘍のため胃を切除し、療養生活をおくるなかで新たに「室内」のモチーフをみつけていく。76年東京のギャラリー・ジェイコで個展(以後、同画廊で個展を10回開催)。78年神奈川県立県民ホールギャラリーで堀内正和と2人展。86年第15回川崎市文化賞受賞。89年香川県文化会館で個展。90年神奈川県立近代美術館で河口龍夫と2人展。02年東京・ギャラリー美術世界で個展(以後、同画廊で個展を2回開催)。12年川崎市市民ミュージアムで個展。文献として、『画家の記録田中岑』(ふるさとを詩う田中岑展目録、1973年、佐々木清一編)、『田中岑作品集いろいろ、そうそう』(求龍堂、2014年、喜安嶺編)が充実している。

朝倉摂

没年月日:2014/03/27

 画家・舞台美術家の朝倉摂(本名、富沢摂)は3月27日、都内の病院でくも膜下出血のため死去した。享年91。 1922(大正11)年7月16日、彫刻家・朝倉文夫の長女として東京に生まれる。妹は後に彫刻家となった朝倉響子。当時東京美術学校(現、東京藝術大学)で教鞭をとっていた父・文夫の、「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。小学校の課程は東京美術学校師範科卒業生が担当し、女学校の課程は一課目にひとりずつの先生がつけられ、二年間ほどで全課程を終了。この頃には文学や哲学関係の本を乱読し、十歳の頃にはマルクスの『資本論』をわからないながらも読んだという。また、伊東深水に日本画を学び、1940(昭和15)年には深水を中心に結成された青衿会の第1回展へ椅子に腰掛けた女性を描いた「麗日」を出品、以後も出品を続け、第3回展(1942年)では「街頭に観る」で後援会賞となる。一方、41年5月には第4回新美術人協会展へ「九官鳥」を出品。同会は34年に新日本画樹立を目指して福田豊四郎、吉岡堅二、小松均、岩橋英遠等によって結成された新日本画研究会が発展したもので、朝倉は翌年の第5回展へも「更紗の室」を出品している。さらに41年10月には第4回文部省美術展覧会へトマトの鉢植えが並ぶ温室内の看護師ふたりを描いた「小憩」を出品、42年の第5回展、43年の第6回展へは、ともに3人の女性像からなる「晴晨」と「歓び」をそれぞれ出品した。戦後の日展へは、第2回展(1946年)へ砂浜にいる水着姿の男女の群像を描いた「沙上」を出品、以後第4回展(1948年)まで出品を続けた。その間、47年には劇作家・木下順二らの結成した劇団・ぶどうの会が、演出家・岡倉士郎の演出によって行った木下作「暗い火花」の試演会において舞台美術を手がけた。このときの経験から舞台美術、とりわけ新劇の装置に興味を持つようになったという。翌48年には、当時進駐軍に接収されていたアーニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)で上演されたドナルド・リチー作「パーティー」の舞台美術を手がけている。 同年、福田豊四郎、山本丘人、上村松篁、吉岡堅二、秋野不矩等は、「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」とし、創造美術を結成。朝倉は翌49年に開催された第2回創造美術展へ「ノアール」と「反映」の二点を出品、50年の第3回展では「群像」が奨励賞を受賞し、51年5月の第3回春季創造展へは準会員として「男」を出品する。同年創造美術は新制作派協会と合流、新制作協会日本画部となり、9月に第15回新制作展が開催された。朝倉は「裸婦A」「裸婦B」「裸婦C」の三点を出品、会員に推挙される。翌52年の第16回展へは「働らく人」を出品、同作は日本画のレアリズムを異なった面から追究しているとして、53年に第3回上村松園賞を受賞した。アトリエの下の道路工事をする人々を描いたという同作のように、朝倉は社会の中に生きる人間像に関心を寄せ、労働者などをテーマにした作品を多く手がけている。また、49年には生家から独立、以後はバーのアルバイトや看板絵などを描いて生計を立てていたという。50年4月には北荘画廊で初の個展を開き、同年のサロン・ド・プランタン第2回展では「自画像」で日本画一等となる。52年10月には、日本橋の丸善画廊にて村尾絢子との二人展を行っている。 53年の第2回日本国際美術展へは「働く人」を出品、以後67年の第9回展まで毎回出品、54年には第1回現代日本美術展へ「母」を出品し、64年の第6回展まで毎回出品した。一方、53年9月には第17回新制作展へ「夫婦」と「寮」を出品、以後67年の第31回展まで出品を続けているものの、徐々に絵画というものに対する本質的な疑問を抱くようになり、61年の第25回展へは不出品、65年頃には一年間に描く絵の数よりも舞台装置を手がける数のほうが多くなっていたといい、70年には新制作協会を退会した。また、50年代のはじめ頃より、朝倉の描く人物像には抽象化の傾向が見られるようになるが、60年代に入ると画題じたいの変化とともに、その画面もより抽象化されていった。この間、54年にファッションデザイナーの桑沢洋子によって創立された桑沢デザイン研究所にて教鞭を執り、同所を母体に66年に設立された東京造形大学においても教壇に立った。55年5月にはサエグサ画廊にて佐藤忠良、中谷泰との三人展を開催。翌56年からは会場を村松画廊に変更し、同じメンバーによる三人展を58年までに4回行っている。57年1月にはサエグサ画廊にて朝倉摂デッサン展を、3月には三原橋画廊にて堀文子、秋野不矩、広田多津とともに四人展を開催、58年10月にはみつぎ画廊にて小畠鼎子、横山操との三人で素描展を行っている。また、57年には岩波映画勤務の富沢幸男と結婚、翌年12月には長女・亜古が誕生した。59年にはウィーンで開かれた第7回世界青年学生平和友好美術展に日本代表団のひとりとして参加、このときに見た中国の京劇を通じて、伝統芸術の問題と現代絵画の問題をさらに深く感じたという。60年には安保反対デモに参加。63年6月には海老原徳造、小野具定、菊地養之助、渡辺学の4名とともに、スルガ台画廊にて五人展を開催、65年まで同画廊にて毎年開催した。67年には渡辺学とともに、銀座・松屋にて作品展を行っている。また、松本清張『砂の器』(1960〜61年、読売新聞)や山本周五郎『季節のない街』(朝日新聞、1962年)などの挿絵を描き、水上勉『弥陀の舞』(1969年)や澤野久雄『失踪』(1970年)などの装丁を手がけた。68年には講談社さしえ賞を受賞、翌69年には挿絵画家、デザイナー、漫画家の集団である日本イラストレーター会議(NIC)の発足に参加する。70年には講談社絵本賞を受賞。そのほか、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』(1969年)において美術を担当するなど、幅広い創作活動を行った。 70年の1月から4月まで、ロックフェラー財団からの招待で渡米、ニューヨークに拠点を置いて前衛劇を中心に70本近くの芝居を見て回る。滞米中にはミンチョー・リーなどの舞台美術家を訪ね、ジャック・スミスの芝居小屋を訪れた際には舞台に飛び入りで出演したという。72年9月には池袋パルコのトック・ギャラリーにて朝倉摂のさしえ展が開催。このときの展示では、朝日新聞にて連載された堀田善衛の新聞小説『19階日本横丁』の挿絵全162点が絵巻状に並べられた。73年7月に上演された井上ひさし作「藪原検校」では、縄を使って四次元の世界を表現した美術を制作する。76年4月にはギャルリーワタリにて朝倉摂作品展が開催、同年9月に渋谷のジャンジャンで上演された富岡多恵子作の「人形姉妹」では美術とともに演出も手がけた。80年には第7回テアトロ演劇賞を、さらに映画「夜叉ヶ池」の美術で日本映画アカデミー賞を受賞。翌81年7月、和光ホールにて朝倉摂絵本原画展が開催。82年には映画「悪霊島」の美術で第5回日本アカデミー賞優秀美術賞を、86年には蜷川幸雄が演出を行った「にごり江」の美術で第40回芸術祭賞を受賞。87年には紫綬褒章を授与される。1989(平成元)年1月、昭和63年度の朝日賞に選ばれ、同年「つる―鶴―」の美術で第12回日本アカデミー賞優秀美術賞を受賞。90年7月、和光ホールにて朝倉摂展―ねこと居る―開催。95年には「泣かないで」、「オレアナ」、「エンジェルス・イン・アメリカ」の美術で第2回読売演劇大賞最優秀スタッフ賞を受賞、2006年には文化功労者に選ばれた。10年9月には横浜のBankART Studio NYKにて個展「朝倉摂展 アバンギャルド少女」が開催、会場には実際に舞台が組まれ、舞台そのものが展示された。 若い頃から一貫して、「芸術家の行為はレジスタンスです」、「すべてに闘わないとだめ」といった姿勢を貫いた朝倉は、常に若々しいエネルギーに満ちた前衛の人であった。

安西水丸

没年月日:2014/03/19

 都会的で温かみのある画風で知られたイラストレーターの安西水丸は3月17日午後2時頃、神奈川県鎌倉市内の自宅兼アトリエで執筆中に倒れ、病院で治療を受けていたが同月19日午後9時7分、脳出血のため死去した。享年71。 1942(昭和17)年7月22日、東京都港区赤坂で生まれる。本名渡辺昇。生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた。3歳の頃に重い喘息を患い、母の郷里である千葉県南房総の千倉町へと移住、中学校を卒業するまでの多感な時期を過ごす。61年日本大学芸術学部美術学科に入学、グラフィックデザインを専攻し65年に卒業。在学中にベン・シャーンの作品から強い影響を受ける。卒業後は電通へ入社し、国際広告制作室で「日本ビクター」等の輸出広告を担当。電通では写真家の荒木経惟と同僚だった。69年に同社を退社して渡米、ニューヨークのADアソシエイツ(デザインスタジオ)で働く。71年に帰国して平凡社に入り、子供向け百科事典や自然史雑誌のアートディレクターとして活躍。同社で編集者の嵐山光三郎と知り合い、勤めの傍ら、74年頃から嵐山の勧めにより漫画雑誌『ガロ』に漫画を描き始める。南房総での幼少期を題材にした連載「青の時代」は高く評価され、それらをまとめた漫画集(青林堂、1980年)は安西の代表作となる。なおペンネームの「安西」は嵐山から「あ」がつく名前がいいと言われて祖母の苗字から取り、「水丸」は子供の頃から「水」という漢字が好きだったことから名付けた。80年に平凡社を退社し、翌年安西水丸事務所を設立、本格的にフリーのイラストレーターとなる。またこの時期、小説家の村上春樹と出会い、『中国行きのスロウ・ボート』(中央公論社、1983年)の装丁以後、「村上朝日堂」シリーズ等でイラストレーションを担当するなど、装丁、挿絵、共著と息の合った仕事を重ねることになる。85年には東京ガスの新聞広告により準朝日広告賞、毎日広告賞を受賞。広告、装丁等多方面で活躍する一方で『がたん ごとん がたん ごとん』(福音館書店、1987年)等の絵本を手がけ、また小説『アマリリス』(新潮社、1989年)やエッセイ集『ぼくのいつか見た部屋』(ケイエスエス、1998年)等の文筆活動も盛んに行なった。2001(平成13)年には高校時代から憧れの存在だったイラストレーター和田誠と二人展を開催、二人で一枚の作品を仕上げる取り組みを行ない、安西の亡くなる年まで続けられる。後進のイラストレーターの育成にも力を注ぎ、91年より母校である日本大学芸術学部デザイン学科にて講師を務め、また青山で05年にコム・イラストレーターズ・スタジオ、13年に山陽堂イラストレーターズ・スタジオを開講。05年にはイラストレーターの組織である東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長に就任。作品集に『イラストレーター 安西水丸』(クレヴィス、2016年)がある。

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