本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





辰野登恵子

没年月日:2014/09/29

 画家で、多摩美術大学教授の辰野登恵子は、9月29日、転移性肝癌のため死去した。享年64。 1950(昭和25)年1月13日、長野県岡谷市に生まれる。68年3月、長野県諏訪二葉高等学校を卒業、同年4月東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。72年3月、同大学を卒業、同年4月同大学大学院美術研究科油画専攻に進む。74年3月、同大学院修士課程修了。 在学中から、ポップアート、ミニマルアートの隆盛に敏感に呼応しながら、無機的なフォルムの連続のなかに不意にあわわれる差異や断絶を表現した作品(シルクスクリーン等)を発表していた。その後、1980年代から絵画表現に取り組み、絵画の平面性を意識しつつ、断片的で、かつ具体的なフォルムに依拠しながら現代「絵画」の可能性を切り開いていった。その表現とは、当時のニュー・ペインティングの流行とは一線を画して、ミニマルアート以後硬直化した平面表現に、「絵画」を構成する線やフォルム、色彩の持つ本来の豊かさと深さを提示するものであり、新鮮な衝撃をもって注目されるようになった。84年11月、東京国立近代美術館の「現代美術への視点 メタファーとシンボル」展に出品。(同展は、国立国際美術館に巡回)。1989(平成元)年、ゲント市立現代美術館(ベルギー)で開催の「ユーロパリア ’89ジャパン現代美術展」に出品。94年2月、ゲストキューレターにアレクサンドラ・モンローを迎え、企画された横浜美術館の「戦後日本の前衛美術」展(Japanese Art after 1945:Scream against the Sky)に出品(同展は、米国ニューヨークのグッゲンハイム美術館、並びにサンフランシスコ現代美術館を巡回。)同年、第22回サンパウロ・ビエンナーレ(日本側コミッショナー:本江邦夫)に遠藤利克、黒田アキとともに出品。95年9月、東京国立近代美術館にて「辰野登恵子 1986-1995」展を開催。10年間にわたる絵画作品39点等による個展を開催し、現代における「絵画」表現のひとつの指針を示すものとして評価された。翌年、第46回芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。2003年、多摩美術大学客員教授となり、翌年から同大学教授となる。12年8月、国立新美術館にて「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」展を開催。翌年、第54回毎日芸術賞受賞。 90年代以降、華やかな色彩と重厚なテクスチャーに支えられた大画面の空間に、球体、矩形、波形等、きわめてシンプルなフォルムの連環を大胆に描き続けていたが、その背後にはプライヴェートなイメージの増幅、変容ばかりではなく、現代美術、あるいは平面表現の動向に対する批判的、戦略的な造形思考と意図がこめられていたといえる。しかも新作においては、つねに新しい試みが示され、今後の可能性を大いに期待されていた。没後、追悼する展示が、下記にあげるように辰野作品を所蔵する公立美術館等で数多く開催された。こうした現象は、美術関係者にとどまらず多くの人々が、辰野の作品に現代における「絵画」表現の可能性を見出しつつ、現在の美術の側から問い直しを促したものであり、いかにその早逝が惜しまれたことがわかる。「辰野登恵子追悼展」(市立岡谷美術考古館、長野県岡谷市、2015年3月6日-5月10日)「トリコロール 辰野登恵子展」(Red and Blue Gallery、東京都中央区、同年9月1日-10月17日)「所蔵作品展 辰野登恵子がいた時代」(千葉市美術館、同年7月7日-8月30日)「MOMASコレクションⅢ 特集展示 辰野登恵子-まだ見ぬかたちを」(埼玉県立近代美術館、同年10月10日-2016年1月17日)「辰野登恵子 版画1972 1995」展(ギャラリー・アートアンリミテッド、東京都港区、2015年12月5日-2016年1月15日)「MOTコレクション コレクション・オンゴーイング 特別展示:辰野登恵子」(東京都現代美術館、2016年3月5日-5月29日)「辰野登恵子 作品展」(ツァイトフォトサロン、東京都中央区、同年3月15日-5月7日)「辰野登恵子の軌跡 イメージの知覚化」展(BBプラザ美術館、兵庫県神戸市、前期同年7月5日-8月7日、後期8月9日-9月19日)「宇都宮美術館コレクション展 特集展示 辰野登恵子 愛でられた抽象」(宇都宮美術館、同年7月31日-9月4日)

米倉斉加年

没年月日:2014/08/26

 俳優、演出家で絵本作家としても知られた米倉斉加年は8月26日午後9時33分、腹部大動脈瘤破裂のため福岡市内の病院で死去した。享年80。 1934(昭和9)年7月10日、福岡市に生まれる。戸籍上の本名は米倉正扶三(まさふみ)だが、小学校時代から斉加年を名のる。57年に西南学院大学英文科を中退して上京、劇団民藝の水品演劇研究所に入所し宇野重吉に師事する。59年に劇団青年芸術劇場(青芸)を結成して活躍したが、64年に退団して民藝に戻る。66年にベケット「ゴドーを待ちながら」等の演技で第1回紀伊国屋演劇賞を受賞、74年の金芝河の「銅の李舜臣」以来演出も手がける。88年にも「ドストエーフスキイの妻を演じる老女屋」での演技で第23回紀伊国屋演劇賞を受賞。商業演劇の世界でも、舞台「放浪記」で林芙美子の友人白坂五郎役を長年にわたり演じた。2000(平成12)年に劇団民藝を退団後、07年に劇団海流座を立ち上げ、代表を務めた。映画「男はつらいよ」シリーズやNHK大河ドラマ「国盗り物語」「風と雲と虹と」「花神」等にも出演し、存在感のある演技で広く知られた。 演劇活動の傍ら、生活費の助けとして元々好きだった絵を描くようになり、69年から翌年にかけて月刊誌『未来』に絵と雑文を連載。これが注目され、野坂昭如『おとなの絵草紙 マッチ売りの少女』(1971年)をはじめとする絵本の仕事に携わるようになる。75年には奥田継夫の童話『魔法おしえます』(偕成社)の絵を担当し、翌年のボローニャ国際児童図書展・子供の部でグラフィック大賞を受賞。さらに同年出版、自作の文と絵による『多毛留』(偕成社)が77年の同展・青少年の部でグラフィック大賞を受賞する。竹久夢二の大衆性を愛し、市井に生きる“絵師”を自任、その作風は繊細な描写の中に諷刺の毒を効かせたものであり、英国の画家ビアズリーのそれを髣髴とさせる。画集に『憂気世絵草紙』(大和書房、1978年)、『masakane 米倉斉加年画集』(集英社、1981年)、『おんな憂気世絵』(講談社、1986年)がある。

永田力

没年月日:2014/07/27

 画家の永田力は、7月27日腎臓がんのため死去した。享年90。 1924(大正13)年、長崎県に生まれる。中学卒業後、画家を志し上京、同舟舎に学ぶ。1943(昭和18)年中国東北部に渡りシベリヤ経由でパリをめざすが、一時昭和製鋼所報道班(自筆別文献では「満洲製鉄」とも)に務める内、応召がかかる。敗戦後ソビエトで抑留生活を送る。収容所では馬の毛で筆をつくりロシア兵を描いたという。復員後の48年上京する。53年風間完らと「エンピツの会」を結成、東京の美松画廊で3年続けグループ展を開催。57年日本天然色映画の設立に参加。その後、岩谷書店発行の雑誌『宝石』編集部で働きながら絵画制作を続ける。公募展では、49年第20回第一美術協会展に「街」、「駅前」、「議事堂風景」(第一美術賞受賞)を出品。51年には総会に改革案を提出するも否決されることで退会し、第15回自由美術展に「風景」を出品し会員になる。同展には67年まで出品。この間、メンバーの自由美術家協会から主体美術協会への分裂騒動のなか、自由美術の事務局を担っていたため、退会を遅らした事情がある。その後、アークラブに属し、無所属となる。国際展では57年第1回アジア青年美術家展でフライシュマン賞を受賞。スイスのグレッフェン・トリエンナーレ、ドイツのライプチッヒ世界風刺画ビエンナーレ等に出品。60年『図解された洋画の技法集 別冊アトリエ』64を上梓する。水上勉の小説『飢餓海峡』(62年、『週刊朝日』連載、講談社さしえ賞受賞)の挿絵をはじめ、『オール読物』や『週刊新潮』等でも挿絵を寄稿した。63年、67年、69年、70年、72年、73年、75年、79年と8回東京の南天子画廊で個展を開催。1995(平成7)年に東京のギャラリーミキモトで個展を開催。ピエロや芸人たちをモチーフに、人間の孤独、悲しみの情感を描くことに取り組んだ。96年から芸術研究をジャンル横断的に行なう「東方藝術思潮会」を主催した。

田中岑

没年月日:2014/04/12

 画家の田中岑は、4月12日、癌のため神奈川県川崎市内の病院で死去した。享年93。 1921(大正10)年香川県観音寺市に生まれる。現、香川県立観音寺第一高等学校在籍中に美術部を創設する等、制作に興味をもち、山脇信徳に絵を見てもらう体験をする。1939(昭和14)年独立美術協会展に初入選。同年4月東京美術学校油画科予科に入学するも、かねてより私淑していた海老原喜之助の勧めで日本大学芸術学科に編入する。41年グループ「昴」を結成、銀座紀伊國屋でグループ展を開催。42年8月、初個展を油彩とフレスコ画で神戸の済美工芸会館で開催。同年9月に召集され、翌年に中国戦線に派遣、敗戦は大陸で迎え、46年高松に帰郷、同年4月独立展に2点を出品。47年第11回自由美術家協会展に「青年」など3点を出品(以後1949年まで出品)。この頃、木村忠太、土方巽と知り合い、木村や長谷川路可の縁で女性雑誌の編集やカットなどの仕事をする。49年第1回日本アンデパンダン展(読売アンパン)に「室内」を出品。50年第27回春陽会展に「光」、「厨房」を出品、第1回研究賞受賞。以後、同展には2004(平成16)年まで出品を続けた。53年東京のタケミヤ画廊で個展。57年現、千代田区立日比谷図書文化館に壁画「平和の壁」を共同制作する。同年第1回安井賞を「海辺」で受賞。一時のアンフォルメル旋風の後であり、同作をめぐり具象抽象の論議も起きた。田中は最後の安井賞展(第40回、1997年)の審査委員を務めている。また57年には神奈川県立近代美術館喫茶室に壁画「女の一生」を制作。同作は16年3月同美術館鎌倉館が閉館になったおり、葉山館講堂前ホワイエに移設された。 50年代半ばからは、丸善画廊、梅田画廊、兜屋画廊、日動画廊、日本橋三越など洋画を扱う主要な画廊で発表する。60年に渡欧し、滞欧中の木村忠太、岡鹿之助らと交流するなかで、画風を研究する。66年映画「ビーチレッド戦記」のタイトル画制作(採用はされなかった)のためフィリピンのルソン島へ赴く。同年より69年まで女子美術大学で後進の指導にあたる。71年胃潰瘍のため胃を切除し、療養生活をおくるなかで新たに「室内」のモチーフをみつけていく。76年東京のギャラリー・ジェイコで個展(以後、同画廊で個展を10回開催)。78年神奈川県立県民ホールギャラリーで堀内正和と2人展。86年第15回川崎市文化賞受賞。89年香川県文化会館で個展。90年神奈川県立近代美術館で河口龍夫と2人展。02年東京・ギャラリー美術世界で個展(以後、同画廊で個展を2回開催)。12年川崎市市民ミュージアムで個展。文献として、『画家の記録田中岑』(ふるさとを詩う田中岑展目録、1973年、佐々木清一編)、『田中岑作品集いろいろ、そうそう』(求龍堂、2014年、喜安嶺編)が充実している。

朝倉摂

没年月日:2014/03/27

 画家・舞台美術家の朝倉摂(本名、富沢摂)は3月27日、都内の病院でくも膜下出血のため死去した。享年91。 1922(大正11)年7月16日、彫刻家・朝倉文夫の長女として東京に生まれる。妹は後に彫刻家となった朝倉響子。当時東京美術学校(現、東京藝術大学)で教鞭をとっていた父・文夫の、「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。小学校の課程は東京美術学校師範科卒業生が担当し、女学校の課程は一課目にひとりずつの先生がつけられ、二年間ほどで全課程を終了。この頃には文学や哲学関係の本を乱読し、十歳の頃にはマルクスの『資本論』をわからないながらも読んだという。また、伊東深水に日本画を学び、1940(昭和15)年には深水を中心に結成された青衿会の第1回展へ椅子に腰掛けた女性を描いた「麗日」を出品、以後も出品を続け、第3回展(1942年)では「街頭に観る」で後援会賞となる。一方、41年5月には第4回新美術人協会展へ「九官鳥」を出品。同会は34年に新日本画樹立を目指して福田豊四郎、吉岡堅二、小松均、岩橋英遠等によって結成された新日本画研究会が発展したもので、朝倉は翌年の第5回展へも「更紗の室」を出品している。さらに41年10月には第4回文部省美術展覧会へトマトの鉢植えが並ぶ温室内の看護師ふたりを描いた「小憩」を出品、42年の第5回展、43年の第6回展へは、ともに3人の女性像からなる「晴晨」と「歓び」をそれぞれ出品した。戦後の日展へは、第2回展(1946年)へ砂浜にいる水着姿の男女の群像を描いた「沙上」を出品、以後第4回展(1948年)まで出品を続けた。その間、47年には劇作家・木下順二らの結成した劇団・ぶどうの会が、演出家・岡倉士郎の演出によって行った木下作「暗い火花」の試演会において舞台美術を手がけた。このときの経験から舞台美術、とりわけ新劇の装置に興味を持つようになったという。翌48年には、当時進駐軍に接収されていたアーニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)で上演されたドナルド・リチー作「パーティー」の舞台美術を手がけている。 同年、福田豊四郎、山本丘人、上村松篁、吉岡堅二、秋野不矩等は、「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」とし、創造美術を結成。朝倉は翌49年に開催された第2回創造美術展へ「ノアール」と「反映」の二点を出品、50年の第3回展では「群像」が奨励賞を受賞し、51年5月の第3回春季創造展へは準会員として「男」を出品する。同年創造美術は新制作派協会と合流、新制作協会日本画部となり、9月に第15回新制作展が開催された。朝倉は「裸婦A」「裸婦B」「裸婦C」の三点を出品、会員に推挙される。翌52年の第16回展へは「働らく人」を出品、同作は日本画のレアリズムを異なった面から追究しているとして、53年に第3回上村松園賞を受賞した。アトリエの下の道路工事をする人々を描いたという同作のように、朝倉は社会の中に生きる人間像に関心を寄せ、労働者などをテーマにした作品を多く手がけている。また、49年には生家から独立、以後はバーのアルバイトや看板絵などを描いて生計を立てていたという。50年4月には北荘画廊で初の個展を開き、同年のサロン・ド・プランタン第2回展では「自画像」で日本画一等となる。52年10月には、日本橋の丸善画廊にて村尾絢子との二人展を行っている。 53年の第2回日本国際美術展へは「働く人」を出品、以後67年の第9回展まで毎回出品、54年には第1回現代日本美術展へ「母」を出品し、64年の第6回展まで毎回出品した。一方、53年9月には第17回新制作展へ「夫婦」と「寮」を出品、以後67年の第31回展まで出品を続けているものの、徐々に絵画というものに対する本質的な疑問を抱くようになり、61年の第25回展へは不出品、65年頃には一年間に描く絵の数よりも舞台装置を手がける数のほうが多くなっていたといい、70年には新制作協会を退会した。また、50年代のはじめ頃より、朝倉の描く人物像には抽象化の傾向が見られるようになるが、60年代に入ると画題じたいの変化とともに、その画面もより抽象化されていった。この間、54年にファッションデザイナーの桑沢洋子によって創立された桑沢デザイン研究所にて教鞭を執り、同所を母体に66年に設立された東京造形大学においても教壇に立った。55年5月にはサエグサ画廊にて佐藤忠良、中谷泰との三人展を開催。翌56年からは会場を村松画廊に変更し、同じメンバーによる三人展を58年までに4回行っている。57年1月にはサエグサ画廊にて朝倉摂デッサン展を、3月には三原橋画廊にて堀文子、秋野不矩、広田多津とともに四人展を開催、58年10月にはみつぎ画廊にて小畠鼎子、横山操との三人で素描展を行っている。また、57年には岩波映画勤務の富沢幸男と結婚、翌年12月には長女・亜古が誕生した。59年にはウィーンで開かれた第7回世界青年学生平和友好美術展に日本代表団のひとりとして参加、このときに見た中国の京劇を通じて、伝統芸術の問題と現代絵画の問題をさらに深く感じたという。60年には安保反対デモに参加。63年6月には海老原徳造、小野具定、菊地養之助、渡辺学の4名とともに、スルガ台画廊にて五人展を開催、65年まで同画廊にて毎年開催した。67年には渡辺学とともに、銀座・松屋にて作品展を行っている。また、松本清張『砂の器』(1960〜61年、読売新聞)や山本周五郎『季節のない街』(朝日新聞、1962年)などの挿絵を描き、水上勉『弥陀の舞』(1969年)や澤野久雄『失踪』(1970年)などの装丁を手がけた。68年には講談社さしえ賞を受賞、翌69年には挿絵画家、デザイナー、漫画家の集団である日本イラストレーター会議(NIC)の発足に参加する。70年には講談社絵本賞を受賞。そのほか、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』(1969年)において美術を担当するなど、幅広い創作活動を行った。 70年の1月から4月まで、ロックフェラー財団からの招待で渡米、ニューヨークに拠点を置いて前衛劇を中心に70本近くの芝居を見て回る。滞米中にはミンチョー・リーなどの舞台美術家を訪ね、ジャック・スミスの芝居小屋を訪れた際には舞台に飛び入りで出演したという。72年9月には池袋パルコのトック・ギャラリーにて朝倉摂のさしえ展が開催。このときの展示では、朝日新聞にて連載された堀田善衛の新聞小説『19階日本横丁』の挿絵全162点が絵巻状に並べられた。73年7月に上演された井上ひさし作「藪原検校」では、縄を使って四次元の世界を表現した美術を制作する。76年4月にはギャルリーワタリにて朝倉摂作品展が開催、同年9月に渋谷のジャンジャンで上演された富岡多恵子作の「人形姉妹」では美術とともに演出も手がけた。80年には第7回テアトロ演劇賞を、さらに映画「夜叉ヶ池」の美術で日本映画アカデミー賞を受賞。翌81年7月、和光ホールにて朝倉摂絵本原画展が開催。82年には映画「悪霊島」の美術で第5回日本アカデミー賞優秀美術賞を、86年には蜷川幸雄が演出を行った「にごり江」の美術で第40回芸術祭賞を受賞。87年には紫綬褒章を授与される。1989(平成元)年1月、昭和63年度の朝日賞に選ばれ、同年「つる―鶴―」の美術で第12回日本アカデミー賞優秀美術賞を受賞。90年7月、和光ホールにて朝倉摂展―ねこと居る―開催。95年には「泣かないで」、「オレアナ」、「エンジェルス・イン・アメリカ」の美術で第2回読売演劇大賞最優秀スタッフ賞を受賞、2006年には文化功労者に選ばれた。10年9月には横浜のBankART Studio NYKにて個展「朝倉摂展 アバンギャルド少女」が開催、会場には実際に舞台が組まれ、舞台そのものが展示された。 若い頃から一貫して、「芸術家の行為はレジスタンスです」、「すべてに闘わないとだめ」といった姿勢を貫いた朝倉は、常に若々しいエネルギーに満ちた前衛の人であった。

安西水丸

没年月日:2014/03/19

 都会的で温かみのある画風で知られたイラストレーターの安西水丸は3月17日午後2時頃、神奈川県鎌倉市内の自宅兼アトリエで執筆中に倒れ、病院で治療を受けていたが同月19日午後9時7分、脳出血のため死去した。享年71。 1942(昭和17)年7月22日、東京都港区赤坂で生まれる。本名渡辺昇。生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた。3歳の頃に重い喘息を患い、母の郷里である千葉県南房総の千倉町へと移住、中学校を卒業するまでの多感な時期を過ごす。61年日本大学芸術学部美術学科に入学、グラフィックデザインを専攻し65年に卒業。在学中にベン・シャーンの作品から強い影響を受ける。卒業後は電通へ入社し、国際広告制作室で「日本ビクター」等の輸出広告を担当。電通では写真家の荒木経惟と同僚だった。69年に同社を退社して渡米、ニューヨークのADアソシエイツ(デザインスタジオ)で働く。71年に帰国して平凡社に入り、子供向け百科事典や自然史雑誌のアートディレクターとして活躍。同社で編集者の嵐山光三郎と知り合い、勤めの傍ら、74年頃から嵐山の勧めにより漫画雑誌『ガロ』に漫画を描き始める。南房総での幼少期を題材にした連載「青の時代」は高く評価され、それらをまとめた漫画集(青林堂、1980年)は安西の代表作となる。なおペンネームの「安西」は嵐山から「あ」がつく名前がいいと言われて祖母の苗字から取り、「水丸」は子供の頃から「水」という漢字が好きだったことから名付けた。80年に平凡社を退社し、翌年安西水丸事務所を設立、本格的にフリーのイラストレーターとなる。またこの時期、小説家の村上春樹と出会い、『中国行きのスロウ・ボート』(中央公論社、1983年)の装丁以後、「村上朝日堂」シリーズ等でイラストレーションを担当するなど、装丁、挿絵、共著と息の合った仕事を重ねることになる。85年には東京ガスの新聞広告により準朝日広告賞、毎日広告賞を受賞。広告、装丁等多方面で活躍する一方で『がたん ごとん がたん ごとん』(福音館書店、1987年)等の絵本を手がけ、また小説『アマリリス』(新潮社、1989年)やエッセイ集『ぼくのいつか見た部屋』(ケイエスエス、1998年)等の文筆活動も盛んに行なった。2001(平成13)年には高校時代から憧れの存在だったイラストレーター和田誠と二人展を開催、二人で一枚の作品を仕上げる取り組みを行ない、安西の亡くなる年まで続けられる。後進のイラストレーターの育成にも力を注ぎ、91年より母校である日本大学芸術学部デザイン学科にて講師を務め、また青山で05年にコム・イラストレーターズ・スタジオ、13年に山陽堂イラストレーターズ・スタジオを開講。05年にはイラストレーターの組織である東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長に就任。作品集に『イラストレーター 安西水丸』(クレヴィス、2016年)がある。

村山密

没年月日:2013/10/22

 フランス在住の洋画家・村山密は、自宅があるパリ市内の病院で、10月22日がんのため死去した。享年94。 1918(大正7)年10月26日、茨城県行方郡大生原村大字水原(現、潮来市水原)に、父村山茂、母なみの次男として生まれる。村山家は江戸時代初期から続く地主で、祖父魁助は能書家でもあったことから、家には美術雑誌や複製絵画があり、6歳の頃にはすでに絵描きになると言い、10歳の頃には画家となってパリへ行くと両親にいっていたという。25年大生原尋常高等小学校(現、潮来市立大生原小学校)に入学。後に水彩画家として初の芸術院会員となった小堀進から図画の指導を受け、在校中の1927(昭和2)年には茨城県行方郡小学校図画コンクールに出品、入賞している。31年同校を卒業し、茨城県立麻生中学校(現、県立麻生高等学校)へ入学するも、翌32年画家を目指して上京。出版会社を経営する親戚宅に身を寄せ、仕事を手伝う傍ら絵の勉強に励んだ。同じ頃、近所にあったイヌマエル教会に出入りするようになる。33年川端画学校の夜間部に通い始めるが、36年には画学校をやめ、春陽会洋画研究所に通い、石井鶴三、木村荘八、中川一政等に学んだ。この頃、イヌマエル教会にて受洗。洗礼名をヨハネとする。37年には体調を崩し一時帰京するが、翌38年に再び上京。検事局で勤務する傍ら、木村荘八の主宰する画談会に通う。39年、福島県出身で当時東京府庁に勤務していた渡邊ミツと、イヌマエル教会にて挙式。40年には前年にフランスから帰国していた岡鹿之助が春陽会の会員に迎えられ、同年4月の第18回春陽会展にて岡の滞欧作12点が出品された。村山は岡の作品に大変な感銘を受け、また画談会において岡が村山の作品を評価したことも手伝い、岡に師事するようになる。そのなかで村山は、近代的絵画の精神や近代的技法について、岡から具体的な指導を受けた。42年には第20回春陽会展に「花」が、第5回文部省美術展覧会(新文展)に「花」がそれぞれ初入選、以後春陽会展を中心に作品を出品し、49年には春陽会会友、52年には会員となっている。その間、43年には応召のため一時画業の中断を余儀なくされ、45年終戦の年には父茂が亡くなっている。 戦後の混乱もようやく落ち着いてきた54年、予てからの念願であった渡仏を果たし、パリ到着の翌日には、岡鹿之助、さらには旧水戸藩主の直系徳川圀順の紹介状を手に藤田嗣治を訪ね、以後毎日のように藤田のもとへと足を運んだ。翌55年、経済的な問題から帰国し、57年には日本橋三越において「村山密滞欧作品展」を開催。同じ頃四谷のイグナチオ教会に通いカトリックに入信している。59年、今度は定住を決意して再び渡仏。翌60年には藤田の紹介によりルシオ画廊でのグループ展に参加、以後も出品を続ける。61年にはトゥルネル画廊の代表アンヌ・マリと知り合い、翌62年同画廊にて第1回個展を開催。同年のサロン・ドートンヌでは初めて出品した「ノートルダム寺院」が初入選し、パリ16区主催風景画コンクールではド・ゴール大統領賞を受賞、翌63年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールでは「ノートルダム寺院(パリ)」を出品し、外国作家賞を受賞。この間、フランスを訪れた岡とともにブルターニュの僻村コーレルや、サルト県ソーレムのサン・ピエール修道院を巡り、岡が帰国した後の経済的・精神的苦境の際には、日本からの岡の手紙に非常に励まされたという。また、弟憲市は兄を支援するために銀座に画廊を開き、村山作品の販売を手掛けた。 春陽会や新文展に出品していたころの村山作品は、花や果物といった穏やかな静物画であったが、パリへと渡った後には、パリを中心とする風景画を多く描くようになり、風景画家としてその名が知られるようになった。色彩とフォルムの秩序を重視し、パレット上での混色を避けて色彩の純度を高める手法を採るなど、新印象派を自称する村山の作品は、印象派やキュビスムといった西洋絵画の技法と、日本人としてのアイデンティティとによって構成された現代フランス絵画であると評された。 69年にはアニエール展に「ケー・ブールボン(釣人)」を出品しグランプリを受賞、70年にはサロン・ドートンヌの会員となり、72年には同展陳列委員、さらに79年には審査委員となる。81年サロン・ド・オンフルールでウジェーヌ・ブーダン賞を受賞。同年フランス国籍を取得する。翌82年には再びアニエール展でグランプリを受賞。85年日本人で初めてサロン・ドートンヌのプレジダント・ド・セクション・パンチュール(具象絵画部門絵画部長)に任命され、翌86年にはサロン・ドートンヌの最高の栄誉ともいえるオマージュ展に日本人として初めて選出、「オンフルールの旧税関」「夜のノートルダム」「けし」「睡蓮」など18点が展示された。87年モナコ王室主催国際現代絵画展にて「ルーアンの聖堂」が宗教絵画特別賞を受賞。1991(平成3)年にはパリ市よりヴェルメイユ勲章を受章した。また、同年9月には茨城県潮来町名誉町民に任命され、11月には第27回茨城賞を受賞している。93年ルールド市主催の国際ジェマイユ・ビエンナーレでグランプリを受賞。95年にはフランス芸術院よりグランド・メダイユ・ドール(栄誉大賞)を、日本国より勲四等旭日小綬章をそれぞれ授与され、97年フランス国家よりシュヴァリエ・ラ・ド・レジョン・ドヌール勲章を受章している。 フランスでは「ミュラ」の愛称で親しまれ、優秀な日本人画家をフランスに紹介し、フランス現代絵画を日本へ紹介するなど、両国の相互理解を深める上で大きな役割を果たした。

豊島弘尚

没年月日:2013/10/19

 洋画家の豊島弘尚は10月19日、肺がんのため死去した。享年79。 1933(昭和8)年12月10日、青森県上北郡横浜町に生まれる。本名は豊島弘尚(としまひろたか)。40年教員をしていた父の転任で八戸に移り、少年時代を八戸で過ごす。52年に八戸高等学校を卒業し上京、翌年東京藝術大学に入学、在学中の56年に稲葉治夫、高山尚、渡辺恂三と新表現主義展(60年に新表現展と改称)を結成し、第1回展を新橋の美松画廊で開催。57年東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻(林武教室)を卒業、安宅賞を受賞する。その後、銀座・サトウ画廊、村松画廊、ミキモトホール、日本橋高島屋コンテンポラリーアートスペース等で個展中心の発表を続ける。60年代には頭や人体の一部を切り取ったフォルムの中に、現代人の抱える不安や孤独を投影させた内面的な世界を表現していたが、74~75年文化庁在外芸術家派遣員としてニューヨーク、ストックホルムに滞在、その折に出会った北欧神話とオーロラの美しさに魅せられ、以後それらをモティーフとした壮大で幻想的な宇宙を描くようになる。76~87年は毎年1ヶ月パリに滞在。87~1989(平成元)、91、97年ストックホルムに滞在。93年東京を離れ、栃木県の那須高原にアトリエを建て移住。98年「空に播く種子(父の星冠)」により第21回安田火災東郷青児美術館大賞受賞。2002年に八戸市美術館で「豊島弘尚展―北の光に魅せられて」を開催。さらに同館では、没後の14年に八戸市へ遺族から400点を超える作品が寄贈されたのを機に、その翌年「豊島弘尚展 北の光と三つの故郷」を開催している。

堂本尚郎

没年月日:2013/10/04

 洋画家の堂本尚郎は10月4日、急性心不全のため死去した。享年85。 1928(昭和3)年3月2日、京都市下京区下河原町(現、京都市東山区下河原町)において、父堂本四郎、母恵美子の間に長男として生まれる。父の四郎は日本画家・堂本印象の弟で、同居していた印象には幼い頃より非常にかわいがられたという。40年3月清水尋常小学校を卒業、同年4月に京都市立美術工芸学校(現、京都市立芸術大学)絵画科へ入学する。病気による休学や太平洋戦争激化にともなう学徒勤労動員を経て、45年3月同校を繰り上げ卒業。同年4月京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科へ入学した。在学中の48年には第4回日本美術展覧会(日展)に日本画「畑のある丘」を出品、初入選する。以後ヨーロッパへ留学する55年まで、伯父印象についてヨーロッパ旅行へ出かけた52年の第8回展を除いて毎年入選を果たし、51年には「蔦のある白い家」で、53年には「街」で特選を受賞している。 49年京都市立美術専門学校日本画科を卒業、研究科に進級。51年に大阪・高島屋で開催された現代フランス美術展サロン・ド・メ日本展を見て、同時代のフランス最先鋭の表現に強い衝撃を受けた。翌52年には京都市立美術専門学校研究科を修了、新聞社の特派員として渡欧する伯父印象に随行して初めてヨーロッパを訪れた。半年の間イタリア、フランス、スペイン各地の寺院や美術館を巡り、パリではグランド・ショミエールに通ってデッサンや油絵を学び、「モンマルトルの坂道」「女」など初めて油彩画を制作。ヴァチカンのシスティナ礼拝堂では、ミケランジェロの天井画「創世記」を見て衝撃を受け、自らの制作活動に対して疑問を抱くようになる。帰国後はフランス留学を志す一方で、日本、延いては東洋を改めて見つめなおすことに力を注いだ。 54年フランス政府の私費留学生試験に合格、翌55年フランスへと旅立つ。このときの費用は留学があくまで短期間であり、帰国後は日本画家として活動することを暗黙の前提として、父四郎と印象が出資したものであったが、乾燥したパリの地での日本画制作に限界を感じ油絵に転向。今井俊満や高階秀爾、芳賀徹らと親交をもち、当時パリの地で絶頂を迎えていたアンフォルメル運動の主導者であるミシェル・タピエとも知遇を得、自身もその渦中に身を投じた。そんな中、57年のはじめ頃、腎臓結石を患い手術を受け、麻酔から目覚める際に周囲のすべてがホワイト・アウトするかのような感覚を経験する。自ら「白の中の白」と呼ぶこの体験から、堂本は白の表現を追求するようになり、「アンスタンタネイテ」などの一連の作品を制作、同年11月にスタドラー画廊において開かれた個展で、パリ画壇への華々しいデビューを遂げた。こうしたフランス画壇での成功や、伯父の印象自身が抽象画へと傾倒していったことから、堂本のパリ滞在は結局10年余りにも及ぶこととなった。 58年にはパリ国立近代美術館が新しく制定した外国人画家賞でグランプリを獲得、受賞作はパリの日本人画家の中で最も日本的であると評され、翌59年には前衛美術のみによるビエンナーレ、第11回プレミオ・リソーネ国際美術展において第2位特別賞を受賞した。また、58年にはデュッセルドルフで、59年にはニューヨークとローマで個展を開催。翌60年5月には、東京・南画廊において日本での初個展を開き、同月に東京都美術館で開催された第4回現代日本美術展で国立近代美術館賞を受賞、その存在が日本においても広く認められることとなった。しかし一方で、アンフォルメルが西欧文化の積み重ねの上に出来上がったものであることを意識するようになり、日本人である自分自身の文化とはなにかを模索するようになる。そうして生み出された「二元的なアンサンブル」シリーズは、あたかも屏風のような二連画形式を採用し、モノクロームの色面をしばしば撥ねやしたたりを伴いはしご状に反復することで構成された作品であったが、すでにタピエの許容範囲を超えていたため、彼が顧問を務めるスタドラー画廊とも契約を解除されてしまう。このような難局のなかにおいて、「二元的なアンサンブル」は車の轍の跡を連想させる「連続の溶解」シリーズへと展開され、63年の第4回サン・マリノ・ビエンナーレ展〈アンフォルメル以後〉で金メダルを、翌64年の第32回ヴェネチア・ビエンナーレではアルチュール・レイワ賞をそれぞれ受賞、アンフォルメル後の新しい抽象絵画の可能性を示すものとして受容された。66年3月よりほぼ一年間、個展準備のためにニューヨークに滞在し、翌67年9月、パリのアトリエを閉鎖し日本へ帰国する。帰国後は円を主な構成要素とし、「惑星」「流星」など天体に関係するタイトルの付けられた一連の作品が発表された。同じ頃、水で溶解する素材が心地よかったとして、画材をアクリル系の絵具へと変えている。円を用いた作品は、70年代から80年代にかけて「蝕」「宇宙」「連鎖反応」といったシリーズで引き続き制作され、次第に波打つ水面を連想させる画面へと展開されていく。この間、75年9月に伯父印象が亡くなり、同年11月に生地京都での初となる個展を開催した。 86年ごろには、不規則な漣状のパターンに正方形や長方形が重ねられた「臨界」シリーズが開始され、2004(平成16)年からはカンヴァスに油絵具を垂らすオートマティズムの手法で制作された「無意識と意識の間」シリーズが開始された。 83年、国際ポスター展においてユネスコからの依頼で制作した「Peace」が平和賞を受賞、同年フランス政府から芸術文学文化勲章(シュバリエ)を授与され、88年には第11回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。91年、京都国立近代美術館の活動を支援する目的で発足された財団法人堂本印象記念近代美術振興財団(2003年解散)の理事に就任。95年には秋の叙勲で紫綬褒章を授与され、96年にはフランス政府からレジョン・ドヌール章シュバリエを、01年には同じくフランス政府から芸術文学文化勲章(オフィシエール)をそれぞれ受章。03には秋の叙勲で旭日小綬章を授与され、07年文化功労者に叙せられた。 食事をとるように絵を描き、描かずにいられるような人間は真の芸術家ではないと語ったという堂本は、半世紀以上にわたる制作において、断絶を繰り返しながら次々と新しい表現に挑戦した前衛の画家であった。画家の堂本右美はその娘である。

日野耕之祐

没年月日:2013/09/03

 洋画家の日野耕之祐は9月3日、死去した。享年88。 1925(大正14)年4月9日、福岡県に生まれる。1948(昭和23)年日本美術学校洋画科卒業、林武に師事する。同校在学中に時事新報社に入社して美術を担当、その後産経新聞社に移り美術記者として活躍。その一方で絵画制作も続け、58年第44回光風会展に「道」「丘の家」を出品しプールブ賞を受賞、63年会員となる。62年、評論家の柳亮や田近憲三らの応援を得て具象研究会を発足、機関誌『具象』を発刊するなど、抽象が主流であった現代美術への抵抗を示す。62年第5回新日展に「河口」が初入選。以後日展にも出品を続け、67年第10回新日展で「落合晩秋」、70年改組第2回日展で「北の海」が特選を得て、76年会員となる。師の林武への共感からペインティングナイフを多用した重厚なマティエールを基調に、何の変哲もない自然や室内の一角を黄で描き出した作品、そして青を主色とする具象的な心象構成へと画風を展開させた。76年日展傘下の日洋会発足にあたり運営委員となる。83年に洋画と日本画の両方を対象として発足した上野の森美術館大賞展には企画の段階から参加し、その審査員を毎回務める。1989(平成元)年より高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門選考委員を務める。94年彫刻の森美術館で「日野耕之祐1950-1994展 新しい具象への熱い軌跡」が開催。98年には永年の美術評論家・洋画家の活動に対して文化庁長官表彰を受けた。 主な著書は以下の通りである。『美術記者十五年』(日本美術社分室、1962年)『具象ノート』(美術報知社、1964年)『東京百景』(三彩社、1967年)『美を訪ねて』(日本美術社、1971年)

渡辺恂三

没年月日:2013/08/12

 洋画家の渡辺恂三は8月12日死去した。享年79。 1933(昭和8)年12月2日、東京市(現、東京都区部)に生まれる。幼少期は算数や理科が得意だったため科学者になるつもりで、兵器の絵を描き、木を削って飛行機を作り、戦争に舞台にした長編マンガも制作していたという。東京都立戸山高校在学中から絵画を制作、阿佐ヶ谷洋画研究所や新宿・コマ劇場裏辺りにあった研究所に通う。このころ、風間完や赤穴宏が好きで、大学一浪の時には朝倉摂の紹介で、赤穴と会っている。また日本国際美術展などで目にしたベン・シャーンと国吉康雄にも影響を受けた。東京藝術大学に入学後、56年銀座・村松画廊で初個展を開催。同年第20回新制作協会展に3点を初出品し「ユダ」「ヨブ」が入選、旧約聖書から題材をとり、デフォルメした人物群像で人間の不条理を描く。同年東京藝術大学同期の稲葉治夫、高山尚、豊島弘尚とグループ展「新表現」を結成し第1回展を開催。57年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。同年第21回新制作展で「策謀」により新作家賞を受賞(1958年第22回展は「仏滅」「南無」で、61年第25回展は「記憶の裏側」で同賞受賞)。このころ題材をキリスト教から仏教へ移行するとともに、支持体にベニヤ板を用いたり、紙粘土や木版の反古紙、麻紐などを用いたミクストメディアの表現を試みる。60年第4回安井賞候補新人展に「法螺」「噂」を推薦出品。61年第1回丸善石油賞に「賢者の論点」を出品。62年第2回丸善石油賞で「内訌」が佳作賞を受賞。63年9月第3回パリ青年ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)に「内訌」「人格」などを招待出品。60年代に入ると、支持体に厚塗りした紙粘土を引っ掻くなど非具象の作品を展開。63年新制作協会会員に推挙される。64年第15回記念選抜秀作美術展に「死んだ子の年をかぞえる」を招待出品(1966年にも招待出品)、他に第6回現代日本美術展の招待部門に「論争を積む」「世上騒然」(後者は課題作「東京オリンピック」特陳、1965年、66年、68年、69年にも招待出品)、現代美術の動向展(京都国立近代美術館)、今日の作家展’64展(横浜市民ギャラリー)などに出品。また同年中国生産力及貿易中心(台湾)で講師を務めるため、初めての海外渡航をする。このころ、晩年まで展開してゆくペン状の描具による線と明るい色面、歪んだ形態の女性像などによる戯画調の作品スタイルを確立。67年第1回インドトリエンナーレに「人間幾何」「ロンド」を出品。69年第5回国際青年美術家展において「車の中で」でストラレム優秀賞第1席を受賞。同年文化庁芸術家在外研究員として渡仏、滞在中にパリ、ギャルリー・ランベールで個展を開催。72年、東京造形大学を退職、再度渡仏(1981年まで)。72年より日本橋・春風洞画廊で個展を開催。76年サロン・コンパレゾンに出品(1978年、80年にも出品)、カンヌ版画ビエンナーレ、リト部門第1位賞受賞。80年日本秀作美術展に出品(以後1985年、88年、93年、2001年、03年にも出品)。85年、具象絵画ビエンナーレ(1987年、89年にも出品)。86年池田20世紀美術館に回顧展「渡辺恂三の世界」を開催。その他の企画展として、埼玉県立近代美術館10周年記念展「アダムとイブ」(同美術館、1992年)、日本の美術・よみがえる1964年展(東京都現代美術館、1996年)、旅―異文化との出会い(国立新美術館、2007年、文化庁芸術家在外研修制度40周年記念)などに出品。1998(平成10)年京都文化功労賞受賞、2001年第14回京都文化賞受賞、04年京都文化功労者顕彰。11年第75回記念新制作展の展覧会委員長を務める。第二次世界大戦以後の現代絵画を、技術拡散と様式混交の「マニエリスムの絵画」と捉えて絵画制作に取り組み、初期作品から晩年まで技法の実験と変遷を繰り返しながら、自身の表現を追求した。 著編書に『新・技法シリーズ デザインスケッチ』(美術出版社、1966年)、挿絵にバリー『ピーター・パン』(集英社、1966年、母と子の名作童話24)、山本太郎詩集『スサノヲ』(筑摩書房、1983年)、絵本に『こっぷこっぷこっぷ』(福音館、1995年、こどものとも.0.1.2 7号、かみじょうゆみこ文)、論文に「表示方法に於ける透視図法の実際的問題に就て」(『千葉大学工業短期大学部研究報告』第2巻第2号、1963年、協力:赤穴宏、川口泉、佐善明)がある。千葉大学工業短期大学部工業意匠科助手、同大学工学部工業意匠学科助手、東京造形大学美術学科助教授、京都市芸術大学美術学部教授、宝塚造形芸術大学教授で教職を務めた。

平松譲

没年月日:2013/07/21

 日本芸術院会員の洋画家平松譲は7月21日、急性肺炎のために死去した。享年99。 1914(大正3)年4月13日、東京都三宅島三宅村大字神着29に生まれる。1929(昭和4)年に尋常小学校を卒業して上京し、豊島師範学校に入学。在学中、池袋駅近くにあった能勢亀太郎の主催する能勢洋画塾に学び、伊藤清永、関口茂らと交遊する。33年の夏に三宅島に帰郷した際に描いた「樹下」を同年の第14回帝展に出品して初入選。34年3月、豊島師範学校を卒業し、同年4月に近衛歩兵第四連隊に短期現役兵として入隊したのち、教職についた。能勢亀太郎が白日会に出品していたことから34年第10回白日展に「静物」を出品し初入選。以後、白日会創立会員の中沢弘光に師事する。官展には初入選後、出品していなかったが、36年新文展鑑査展に「床上静物」で入選する。37年第14回白日展に「静物」「石膏のある静物」を出品してクサカベ賞受賞。翌38年第15回白日展に「緑蔭」を出品して佐藤賞受賞。41年、第4回新文展に「公園」で入選。44年白日会会員となる。戦後は白日展のほか日展に第1回展から出品し、50年第6回日展に「南窓」を出品して特選となる。画面左に白い洋装の女性の坐像が描かれ、その隣にたくさんの果物の載った籠と白百合を活けた花瓶の載ったテーブル、背後の窓から緑豊かな庭が描かれた同作は「明るい光と鮮麗な色彩との交響」と批評家和田新によって評された。54年第30回白日展に「少年」等を出品して白日会記念賞受賞。57年東京銀座松屋にて初個展を開催。63年に渡欧し約6ヶ月ヨーロッパ各地を巡る。帰国後、教職を辞す。65年に梅津五郎、菅野矢一らと「穹会」を創立し、新宿の画廊アルカンシェルで開催された第1回展に「彫刻の群像」「シャルトルの教会」を出品した。67年第43回白日展に「ノルマンディー古寺」「三宅島の春」「三宅島溶岸(ママ)地帯」等を出品し中澤賞受賞。翌68年日展会員となる。82年日展評議員となる。85年第17回改組日展に「南風わたる」を出品して文部大臣賞受賞。1991(平成3)年第23回改組日展に東京湾越しに臨んだ東京タワーを鮮やかな赤で描いた「TOKYO」を出品。92年、この作品によって日本芸術院賞を受賞。95年第71回白日展に「東京湾岸」を出品して内閣総理大臣賞を受賞し、また、同年日本芸術院会員となった。1930年代には静物をよく描いたが、40年代から人物を主要なモティーフとするようになる。窓辺でくつろぐ着衣の女性を好んで描き、室内の家具や卓上静物、窓外の植物などでのモティーフなどで画面が充填される画風を示した。1980年代に入ると風景画が多くなり、鮮やかな色彩と激しい筆触、画面上部まで島や建築物等のモティーフが配される構図を特色とした。2013年9月26日正午から白日会主催による「故平松譲さんを偲ぶ会」が開催された。【主要展覧会出品略歴】帝展第14回(1933年)「樹下」、鑑査展(1936年)「床上静物」、日展第1回(1946年)「母と子供」、5回(1949年)「爽朝」、6回(1950年)「南窓」(特選)、10回(1954年)「ひととき」、新日展1回(1958年)「ギターを持つ女」、5回(1962年)「閑日」、10回(1967年)「若い人たち」、改組日展第1回「花と子供」、5回(1973年)「南の島」、10回(1978年)「島の五月」、15回(1983年)「犬吠崎初冬」、17回(1985年)「南風わたる」(文部大臣賞)、20回(1988年)「雨上がる」、23回(1991年)「TOKYO」(日本芸術院賞)、25回(1993年)「丘陵を拓いて」、30回(1998年)「島の切り通し」、35回(2003年)「はまひるがお咲く」、40回(2008年)「ふる里の磯」、45回(2013年)「丘の美術館」

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

 美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

牛尾武

没年月日:2012/12/31

 日本画家の牛尾武は12月31日、虚血性心不全のため死去した。享年57。 1955(昭和30)年3月3日、兵庫県神戸市に生まれる。本名武司。神戸芸術学林日本画科で学び76年卒業、神戸在住の日本画家昇外義に師事する。76年兵庫県展優秀賞、78年兵庫県日本画家連盟展県知事賞、79年兵庫県日本画家連盟展最優秀賞を受賞。79年に上京し、84~87年上野の森美術館絵画大賞展、85・88年東京セントラル美術館日本画大賞展に出品。85年の第3回上野の森美術館絵画大賞展では「澄秋」で特別優秀賞を受賞。1989(平成元)年には茨城県石岡市の華園寺本堂障壁画を制作。90年の銀座・資生堂ギャラリー個展〈線の蘇生〉では、北海道に取材した風景を中心に発表、繊細な線描と墨を主とする淡い色彩による豊かな画趣が一躍注目を浴びた。さらに91年第11回山種美術館賞展で「晨響(銀河と流星の滝)」により優秀賞を受賞。同年東京を離れ和歌山県田辺に居を移し、熊野をテーマに紀伊半島の自然美や風景を描く。95年には四曲一双屏風を中心とする大作による「牛尾武新作展 遥かなる原郷」を箱根・成川美術館で開催。99年には田辺市高山寺の薬師堂障壁画を制作。2004年から空海をテーマに高野山や四国、京都、奈良、さらには中国に至るゆかりの地に取材し、04~13年の4度にわたり成川美術館で作品を発表。10年には世界遺産熊野本宮館、11年には南方熊楠顕彰館で「残響の熊野」と題して田辺と熊野の風景作品を発表。同地域の芸術・文化振興に大きく貢献したことが評価され、没後の13年に田辺市文化賞が贈られた。

松本哲男

没年月日:2012/11/15

 日本画家の松本哲男は11月15日、石川県立美術館での第97回院展オープニングに出席するため金沢市に滞在中、呼吸不全のため死去した。享年69。 1943(昭和18)年7月29日、栃木県佐野市に生まれる。61年栃木県立佐野高等学校を卒業後、日本画家の塚原哲夫に絵を学ぶ。はじめは東京藝術大学建築科を志望、2年間浪人の後、宇都宮大学教育学部美術科に入学。68年同大学を卒業後、栃木県立那須高等学校に美術教師として赴任、那須の自然の魅力にうたれて本格的に日本画を描き始める。72年には栃木県立今市高等学校に異動し、79年まで高校教師を続けながら制作に励んだ。69年第54回院展に「冬山」が初入選、以後院展に出品を続ける。72年第57回院展に「叢林」を出品、院友に推挙され今野忠一に師事、74年第59回院展で「山」が日本美術院賞・大観賞を受賞、特待に推され郷倉千靱に師事。75年第1回栃木県文化奨励賞を受賞。76年第61回院展で日光の金精山をテーマに山岳風景を心象化した「巌」が二度目の日本美術院賞・大観賞を得る。一連の山岳シリーズでは、山肌や樹林を細密に描写して独自の画風を示した。77年には第4回山種美術館賞展で「山」が人気賞を獲得。その後79年「壮」、80年「天壇」、81年「トレド」、82年「山水譜」、83年「大同石仏」と連続して院展奨励賞を受賞し、83年日本美術院同人に推挙。「大同石仏」は84年に芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。87年「悠久の宙・中国を描く―松本哲男展」が西武アートフォーラムで開催。1989(平成元)年第74回院展で「エローラ(カイラ・サナータ寺院)」が文部大臣賞、93年第78回院展では「グランド・キャニオン」が内閣総理大臣賞を受賞。那須の自然に始まりスペイン、ネパール、中国、アメリカの大自然を題材に、繊細な筆線で画面を埋め尽くし、モティーフの感触を確かめながら自然に近づく制作態度を一貫して保つ。93年に東北芸術工科大学芸術学部助教授(95年より教授)となって後進の指導にあたり、2006年から11年まで学長を務めた(11年には同大学名誉学長に就任)。94年、栃木県文化功労者として表彰。同年にパリ・三越エトワールで「地と宙へ 松本哲男展」を開催。05年には、90年代半ばより取り組んでいた世界三大瀑布(ナイアガラ、ヴィクトリア・フォールズ、イグアス)のシリーズを完成させ、宇都宮美術館で記念展を開催。08年には同シリーズにより第16回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。この間06年には日本美術院理事となる。没後の13年から14年にかけて、佐野市立吉澤記念美術館にて師の一人であり終生親交を結んだ塚原哲夫との二人展が開催されている。

宇佐美圭司

没年月日:2012/10/19

 画家で、武蔵野美術大学、京都市立芸術大学等で教授として教鞭をとった現代絵画家の宇佐美圭司は、10月19日食道がんのため福井県越前町の自宅で死去した。享年72。 1940(昭和15)年1月29日、大阪府吹田市に生まれる。幼少期を和歌山県和歌山市で過ごした後、58年大阪府立天王寺高等学校を卒業、同年に上京、東京藝術大学受験を目指した。しかし受験に向けた素描、油彩からはずれた抽象化された繊細なドローイング、油彩画を描くようになり、不定型なフォルムが画面をおおい尽くすアメリカ抽象表現主義の影響を感じさせながらも、青年らしい繊細さと鋭さがあるオールオーヴァーな平面作品を製作するようになる。63年には南画廊で初個展開催。66年、初めてニューヨークを訪れる。以後、72年までたびたび同地に滞在した。現代美術の潮流が、抽象表現主義から、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ等を中心に、ネオ・ダダ、ポップアートへと伝統的で形骸化した「絵画」という形式に対する懐疑と否定を主張する表現を前にして、決定的な影響を受けた。そうした転換期にあって画家自身が、たびたび以下のように述懐するように、一枚の報道写真のイメージがその後の創作にとって大きな要素となった。「1965年、アメリカ各地で黒人暴動があり、『アメリカの暑い夏』と言われた。私の絵に使用している形はロスアンゼルス郊外のワッツ地区のもので『ワッツの暴動』といわれた報道写真から抜け出してきたのである。(中略)私はその写真に強くひきつけられた。街路樹、看板、襲撃を受ける店、道いっぱいに広がる群衆。私はその風景をなかば抽象化して『路上の英雄』というシリーズの作品を発表した。それ以来記号化した人間の形は、私の作品のかわらぬモチーフになってきた。」(「思考空間」、『思考空間 宇佐美圭司 2000年以降』カタログ、財団法人池田20世紀美術館、2007年10月-08年1月)以後、画面のなかの人型が、軽快な色面としての記号として反復、変容しながら、感情表現を排した一見概念図ともみられるような構成をとる絵画をシリーズとして制作するようになった。 68年、第8回現代日本美術展(東京都美術館)で大原美術館賞受賞。69年、J.D.ロックフェラー三世財団より奨学金を受ける。72年、第36回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館出品。81年、多摩美術大学芸術学科助教授となる。1989(平成元)年、第22回日本芸術大賞受賞。翌年、武蔵野美術大学油絵科教授となる。91年、福井県越前海岸に「海のアトリエ」を作る。92年、セゾン現代美術館(長野県北佐久郡軽井沢町)他にて「宇佐美圭司回顧展」開催。93年、『心象芸術論』(新曜社)を刊行、翌年同書掲載の「心象スケッチ論 宮澤賢治『春と修羅』序 私註」により第4回宮澤賢治奨励賞を受賞。96年、武満徹とのコラボレーション「時間の園丁」制作。2000年から05年まで、京都市立芸術大学教授を務める。01年6月から10月まで、「宇佐美圭司・絵画宇宙」展を開催。10代の初期水彩作品から近作まで251点から構成された回顧展となった(福井県立美術館、和歌山県立近代美術館、三鷹市美術ギャラリー巡回)。02年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。07年10月から08年1月には、池田20世紀美術館(静岡県伊東市)において「思考空間 宇佐美圭司 2000年以降」を開催。2000年以降制作の水彩、油彩の大作22点によって構成された展覧会となる。12年3月から6月まで、大岡信ことば館(静岡県三島市)において、新作2点を含む41点による「宇佐美圭司 制動(ブレーキ) 大洪水展」が開催されたが、前年の東日本大震災以後ということを強く意識した同展が生前最後の展覧となった。13年10月から12月まで、セゾン現代美術館にて「没後一年 宇佐美圭司」展が開催された。 アメリカ現代美術がもっとも熱気と変革の思想をはらんだ時代である1960年代から70年代のアメリカ現代美術の影響をうけながら、独自の絵画思考を深めることができた美術家であった。その点からも、同時代の日本の現代美術の展開を回顧するうえで欠くことのできない作品を数多く残した。それらの作品においては、記号化され、シルエットのように平面化された人間の形は、現代における人間存在の危機的で象徴的な記号(フォルム)として変容、変化しつつも、画家にとって終生にわたるモチーフ、あるいは表現、構成の要素であった。 さらに多くの著述のなかで記された芸術論は、絵画の歴史をふりかえることで深められた思考として、すぐれた現代美術論ともなっている。また晩年にいたる展開は、文明論的なスケールの大きさを感じさせる旺盛な創作に挑んでいた。 なお、主要な著作、作品集は下記にあげるとおりである。『絵画論―描くことの復権』(筑摩書房、1980年)『線の肖像―現代美術の地平から』(小沢書店、1980年)『デュシャン(20世紀思想家文庫〈13〉)』(岩波書店、1984年)『記号から形態へ―現代絵画の主題を求めて』(筑摩書房、1985年)『心象芸術論』(新曜社、1993年)『絵画の方法』(小沢書店、1994年)『20世紀美術』(岩波書店、1994年)『絵画空間のコスモロジー―宇佐美圭司作品集 ドゥローイングを中心に』(美術出版社、1999年)『廃墟巡礼―人間と芸術の未来を問う旅』(平凡社、2000年)

室井東志生

没年月日:2012/10/05

 日本画家で日展理事の室井東志生は10月5日、胃がんのため死去した。享年77。 1935(昭和10)年2月25日、福島県下郷町に生まれる。本名利夫。中学時代より日本画に憧れ、高校卒業後に上京して東京都内の美術学校に通うも身体を壊し帰郷。中学教師を勤める傍ら県総合美術展覧会(県展)に出品、審査員の大山忠作と交流を深め再び上京、大山の紹介で58年橋本明治に師事する。60年第3回新日展に東志生の雅号で応募した「緑蔭」が初入選し、以後毎年入選。67年法隆寺金堂壁画再現模写で橋本明治班に加わり11号壁の普賢菩薩像模写に従事。69年には橋本明治の助手として皇居新宮殿正殿松の間杉戸絵「桜」制作に携わる。69年改組第1回日展で「家族」が特選・白寿賞、78年10回展で「女人」が特選を受賞。83年日展会員となる。85年には院展の高橋常雄、大矢紀、日展の中路融人とともに異歩騎会を結成。1995(平成7)年「夢結」で第27回日展会員賞受賞。99年日展評議員となる。2004年第36回改組日展で舞妓と孔雀を描いた「青曄」が内閣総理大臣賞を受賞。12年日展理事となる。気品のある中に妖しさをはらんだ作風を追究、舞妓や、五代目坂東玉三郎、五代目柳家小さんら著名人をモデルとした作品を発表し人気を博した。

森秀雄

没年月日:2012/09/20

 エアブラシによる写真のような画面で青空を背景とする人物像を描いた洋画家森秀雄は9月20日、大腸がんのために死去した。享年77。 1935(昭和10)年7月27日、三重県鈴鹿市江島町に生まれる。父は伊勢型紙の彫り師であった。59年東京藝術大学絵画科油画専攻を卒業。小磯良平に師事した。学生時代、塗り重ねによる重厚な絵肌の油彩画の制作が不得手であると認識し、写真を画面に写し取り、エアブラシで着色する方法の研究を始める。62年第12回モダンアート協会展に「SAKUHIN「P」」を出品して奨励賞受賞。63年、第13回同展に「美学の裏側」を出品して新人賞受賞。66年、モダンアート協会を退会し、翌年から一陽展に出品。67年、リキテックス絵の具の輸入を高松次郎とともに奨励し、絵の具を画面に吹き付けるためのスプレーガンの改造を北伸精器と重ねる。同年第13回一陽展に「PARALLEL-オンナ」、「PARALLEL-赤の帯」を出品して一陽賞受賞。68年、第14回一陽展に「SUN WARD SUN WARDS (彼女とバラと)」「LISING SUN(彼女とバラと)」を出品して一陽会会友となる。69年、紀伊国屋画廊にて個展「偽りの青空」を開催。エアブラシによる写真のように平滑な色面で、青空を背景に人体石膏像を描く「偽りの青空」シリーズは、材料・技法の新しさと斬新な表現で注目された。69年第15回一陽展に「青の広告(白による)」「青の広告(青による)」を出品して、同会員に推挙される。70年から76年までジャパンアートフェスティヴァルに出品。同展は70年には米国のグッゲンハイム美術館他で、71年はリオとミラノで、72年はメキシコとアルゼンチンで、73年は西ドイツほかで、74年はカナダで、75年はオーストラリア、ニュージーランドで、76年は米国で開催された。74年、日本国際美術展(毎日新聞社主催)に招待出品して優秀賞を受賞。80年、青空と波立つ海を背景に左胸部が破損したミロのヴィーナスの像をエアブラシによって再現的に描いた「偽りの青空-蘇えるヴィーナス」で第23回安井賞特別賞受賞。81年、「10人の画家たち展」(神奈川県立近代美術館)に「偽りの青空」シリーズの6点を出品。84年、池田20世紀美術館で「森秀雄 青の世界」展を開催。87年、第10回東郷青児美術館大賞を受賞。88年には池田20世紀美術館に800号の壁画「My Dream(一碧湖)」を完成させる。画面にスプレーによって絵の具を吹き付けて白い雲の浮かぶ青空を背景に石膏像のような人物像を描き、フォトリアリズムとシュールレアリズムを融合した画風を示した。その作風は、同様の傾向を示した三尾公三の作品とともに、広く受け入れられたが、高度成長が進み、都市に高層ビルが林立する一方で、軽薄短小な傾向が評価され、人間性が疎外されていった1960年代後半からの日本社会を反映しているようでもある。2001(平成13)年にはニューヨークのウエストウッドギャラリーで個展を開催。翌年にはジャパン・インフォメーション・カルチャー・センター(ワシントンDC)で日本大使館主催による個展「偽りの青空」を開催した。05年、東京芸術劇場にて「森秀雄展 偽りの青空」を開催。06年、一陽会代表となる。10年には中国美術館にて同館主催の個展「偽りの青空 森秀雄」展が開催され、国際的にも知られた。

織田廣喜

没年月日:2012/05/30

 日本芸術院会員で二科会名誉理事長の洋画家織田廣喜は5月30日、心不全のため八王子市の病院で死去した。享年98。 1914(大正3)年4月19日、福岡県嘉穂郡千手村(現、嘉麻市)に生まれ、17年に隣村の碓井村に転居する。1929(昭和4)年、碓井尋常高等小学校高等科を卒業。麻生鉱業に勤務していた父が病気になったため、家計を助けるため陶器の絵付けなどをして働き、福岡市の菓子店に勤めたのち、碓井村に戻り郵便局員として勤務。31年から同村に住む帝展作家犬丸琴堂(慶輔)に油彩画の指導を受け、同年の福岡県美術展にゴッホの影響を示す「ひまわり」という作品で入選する。32年に上京し34年に日本美術学校絵画科に入学。当時は大久保作次郎が指導しており、後に藤田嗣治、林武らにも師事する。在学中、3年ほど美術雑誌『みづゑ』の編集発行を行っていた大下正男のもとで発送作業などを行う。39年日本美術学校西洋画科を卒業。1940年第27回二科展に「未完成(室内)」で初入選。43年、徴用により横川電機製図部に入る。45年の終戦後、進駐軍に雇われ兵舎のホール等に壁画を描く。46年、100号のカンヴァスに3人の着衣の女性の立像を白と黒のペンキで描いた「黒装」を第31回二科展に出品して二科賞受賞。47年第1回美術団体連合展に「憩ひ」を出品。以後、同展には第5回まで出品を続ける。49年第34回二科展に「楽」「立像」「群像」「黄」「静物」が入選し、二科会準会員となる。翌50年第35回同展に「讃歌」「曲」「女」を出品して同会会員に推挙される。「讃歌」は800号の大作で、当時、画力向上のために大画面制作を奨励していた二科会で高い評価を得た。51年、二科会の画家萬宮(まみや)リラと結婚。52年、第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「無題」「女」「静物」を出品し、以後も同展に出品を続ける。同年、第37回二科展に「酒場」「風景」「女」を出品して会員努力賞受賞。54年第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「群像」「風景」を出品し、以後も出品を続ける。60年に初めて渡仏し、それまで夢見ていたフランスを実見して、現実と想像の差異を認識するとともに、その認識を踏まえた上で想像力をもって描くことの重要性に思い至る。対仏中にサロンドートンヌに出品して翌年帰国。62年にも渡仏し、スペイン、イタリアを訪れて翌年4月に帰国。62年、第1回国際形象展に「パリ祭」「モンマルトル」を招待出品し、以後、同展に出品を続け、72年に同展同人となる。66年4月から9月まで渡欧し、スペイン各地を旅行して制作する。68年第53回二科展で「小川の女たち」「サンドニーの少女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。71年第56回同展に「水浴」を出品して青児賞受賞。同年、パリのエルヴェ画廊で初めての個展を開催。70年、73年にも渡仏。80年11月、「パリの女を描いて20年、織田広喜展」が日本橋三越で開催される。82年3月、福岡市美術館で「憂愁の詩人画家 織田広喜」展が開催される。1995(平成7)年3月に前年の二科展出品作「夕やけ空の風景」によって日本芸術院恩賜賞・日本芸術院賞を受賞、同年11月に日本芸術院会員(洋画)に選ばれた。96年碓井町立織田廣喜美術館が開館。2003年フランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章。2006年二科会理事長となり、12年には名誉理事長に就任した。現実そのままを描くのではなく、「想像し嘘をつく」ことが絵の制作には必要であると語り、初期から晩年まで、デフォルメされ浮遊するような女性像を特色とする幻想的な作品を描き、人気を博した。主な画集に『織田広喜画集-作品1940-1980』(講談社、1981年)、『織田広喜』(田中穣著、芸術新聞社、1993年)などがある。

横尾茂

没年月日:2012/05/03

 自由美術協会会員の画家、横尾茂は5月3日午後1時40分、肝不全のために死去した。享年78。 1933(昭和8)年5月16日、新潟県東頚城郡浦川原村横住に生まれる。53年に上京し、働きながら56年4月に文化学院に入学して山口薫、佐藤忠良に学ぶ。60年3月に同校を卒業後、大森絵画研究所で人体デッサンを中心に研究。61年、第25回自由美術展に「野」で初入選。64年第28回同展に「遊歩」「帰路」を出品して佳作作家に推薦され、翌65年に同会員となる。74年第38回同展に「季の唄」「あひるちゃん」を出品して自由美術賞を受賞。同年には石彫「がんこもの」も出品している。日本画郎で行われる自由美術協会の井上長三郎、山下菊二、一木平蔵らによるグループ展に幾度も参加し、76年10月同画廊で初めての個展を行った。77年に線描による山水画のような背景にふたりの少女の顔をデフォルメして描いた「里のひろみとうちのはあちゃん」と、同じく線描による風景画「雨季」を出品し、前者で第20回安井賞を受賞。同作品について審査員であった本間正義は、油彩画でありながら「白描的な味わいで」「素朴でユーモラスな土俗的なにおいを発散しているところが、なんとも愉快である」と評している。79年第1回「明日への具象展」に「裾野」を出品。80年の第2回同展には「よこたわり」を、81年第3回同展には「里へ御出座の大威徳明王」を出品。85年に郷里の新潟浦川原にて「横尾茂の世界 雪と土とそしてふるさと」展を開催。88年にも浦川原芸術祭で「横尾茂と郷土の作家達展」を開催する。身近なモティーフに取材しながら、変化の激しい現代社会の表層を穿つ作品を描き、再現描写的な対象の把握を踏まえ、曲線を多用した有機的なかたちにデフォルメする独自の画風を示した。1950年代から、支持体に絵の具を塗り重ねていく油彩画技法に疑問を抱いており、70年代には塗り重ねた絵の具層を削る絵づくりが行われるようになった。学生時代に様々な技法を学ぶ中で、立体造形において粘土をつけていく塑像よりも彫りこんでいく彫像制作の作業に共感しており、絵の具層を削る技法は、「本質的なものだけを現出させる東洋の美学」に通ずるものと位置づけていた。郷里の浦川原区に横尾茂ギャラリーが開設されている。自由美術展出品略歴25回(1961年)「野」(初入選)、28回(1964年)「遊歩」「帰路」(佳作賞)、38回(1974年)「季の唄」「あひるちゃん」(自由美術賞)、40回(1976年)「おてんば」、45回(1981年)「望郷」「姉妹」、50回(1986年)「淡雪」、55回(1991年)「女の視線」、60回(1996年)「やだな娘」、70回(2006年)「悪夢(9.11)」

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