本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





馬淵聖

没年月日:1994/03/25

 日本版画会会長の木版画家馬淵聖は、3月25日心不全のため神奈川県芽ケ崎市の長岡病院で死去した。享年74。大正9(1920)年1月12日東京市京橋区南鍛冶町12番地(現中央区京橋2丁目6番地)に生まれ、第二東京市立中学校を経て、昭和16年12月東京美術学校工芸科図案部を卒業した。在学中の昭和15年光風会第27回展、造型版画協会展に初入選し、同17年造型版画協会会員となったが戦後の同25年退会する。戦後は同26年の第7回日展に「立秋」で初入選し、以後日展に出品を続けたのをはじめ、翌27年には日本版画協会会員となる。同31年光風会会員(42年評議員)となり、同35年には日版会の創立に参画し、同56年日版会会長となった。埴輪や果実を得意モチーフとして制作した。

橋本興家

没年月日:1993/08/18

 木版画家で日本版画協会理事長をつとめた橋本興家は8月18日午前10時14分、脳こうそくのため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年93。明治32(1899)年10月4日、鳥取県八頭に生まれる。大正9(1920)年鳥取県師範学校を卒業し、小学校訓導となる。同10年東京美術学校師範科に入学。同13年同校を卒業して富山県立女子師範学校及び併設されていた同県立高女の教論となる。同14年11月、東京府立第一高女(現 都立白鴎高校)教諭となって上京し、昭和31年に退職するまで同校で教鞭をとった。一方で、版画制作を続け、昭和12年第12回国画会展に「名古屋城」「大坂城」で初入選。また、同年第6回日本版画協会展にも出品し、以後両展に出品を続ける。同13年第2回新文展に「古城ろの門」で初入選。同14年第3回新文展に「古城早春」を、同15年紀元2600年奉祝展に「古城清秋」、第15回国画会展に「二の丸附近」を、同16年第4回新文展に「夏景名城」、第16回国画会展に「春の城」、同18年第6回新文展に「古城松山」を出品。同19年画文集『日本の城』(文・岸田日出刀、加藤版画研究所刊)を刊行する。戦後は同21年春の第1回日展に「牡丹」、同年秋の第2回日展に「アルプスと城」を出品するが、以後官展への出品はない。国画会展へは同21年同会が戦後に再開した当初から再び出品を始める。こ間の同21年版画集『古城十景』(加藤版画研究所刊)を刊行。同20年代後半は、東京都教育委員会の公立学校使用教科書採択に関する専門委員、文部省の教材等調査研究委員などで教育関係の委員、調査員を数多くつとめる。同31、33、35、38年に東京・日本橋三越で個展を開いたほか、同32年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展に姫路城をモティーフとした「菱の門」を出品し、以後35、37年の同展にも出品。同36年ローマ・日本現代版画展、同37年ルガノ国際版画ビエンナーレ展、同39年ストックホルム日本現代版画展にも出品し、国際的にも知られるところとなった。同49年より54年まで日本版画協会理事長をつとめる。同62年愛媛県立美術館に代表作75点を寄贈し、これを記念して展覧会を開催、同年鳥取県立博物館にも代表作88点を寄贈して記念展を開いた。翌63年には鳥取県堺港市に代表作199点を寄贈している。画業のはじめから日本の古城を好んでモティーフとし、伝統的な木版画の流れに新風を吹き込んだとして注目された。上記以外の画集に『日本の名城版画集』(昭和37年 日本城郭協会刊)、『日本の城』(同53年 講談社)などがある。

鈴木信吾

没年月日:1993/07/04

 日本版画協会会員の版画家鈴木信吾は、7月4日午後5時31分、脳しゅようのため東京都品川区の病院で死去した。享年49。昭和19(1944)年5月19日、中国の満州に生まれる。同41年立教大学を卒業後、2年間彫金を学ぶ。同43年、シロタ画廊で、油絵の個展を開催する。同45年、日本美術家連盟の版画工房に入り銅版画の技法を学び、同46年、シロタ画廊で版画の個展を開く。同47年第40回日本版画協会展で同協会賞受賞。同年第3回版画グランプリ展、第6回現代美術展に出品。翌48年より54年まで滞欧し、はじめは油絵を描いたが、後半はアトリエ内で版画を研究する。この間の同49年第1回フランス・ツール市国際展、フランス・リヨン現代日本画展に出品。同51年ベルギー・オスタンド市ヨーロッパ絵画賞展に出品して銅メダル賞を受賞。翌年フランス・ヴィトリ・スウ・セイヌ市絵画展にも出品。帰国後は、東京版画研究所に学んだ。同52、56年および平成元年にはアメリカで開催された国際ミニアチュール展、昭和57年には韓国で行なわれた第2回韓国国際ミニアチュール展、同60年アメリカでの国際メゾチント・コンペティション、同62年イタリア・ビエラ国際版画展、同64年イギリス・ブリストル国際ミニチュール版画展に出品するなど、国際的に活躍した。国内でも平成2年第3回ミヤコ版画賞展ミヤコ賞受賞。昭和50、56、61年および平成2年にガレリア・グラフィカで個展を行なったほか、版画日動展、静岡県立美術館で開催された「フュージョン展」等、多くの展覧会に出品した。銅版画を得意とし、「サンマルタン運河シリーズ」を描いたマニエル・ノワールのほか、銅版にビュランで点を置いていく点描法、ステイプル・エングレーヴィングで高い評価を得た。代表作に「五月の小箱」、「小さな秋」「deja vu」等がある。没後の平成6年名古屋のギャラリー審美で個展が開かれた。

笹島喜平

没年月日:1993/05/31

 国画会会員、日本版画協会名誉会員の版画家笹島喜平は5月31日午前9時40分、呼吸不全のため栃木県芳賀郡益子町の西明寺普門院診療所で死去した。享年87。明治39(1906)年4月22日、栃木県芳賀郡に生まれる。昭和2(1927)年4月、東京府立青山師範学校(現東京学芸大学)を卒業して教員生活に入る。独学で洋画を学び同11年、郷里の陶芸家浜田庄司の紹介により棟方志功に師事。平塚運一にも指導を受けた。同15年第15回国画会展に「南豆の海」で初入選。同16年第4回新文展に「山道」が入選し、これによって版画家となることを決意する。同18年第18回国画会展で会友に推される。同20年教職を退いて版画家として独立。同23年第16回日本版画協会展に「新秋古刹」「戦災跡芋畑」を出品して同会会員となる。同24年第23回国画会展に「油地獄板画冊」を出品し、同会会員に推挙される。このころから三越劇場での歌舞伎版画に取り組み、その制作を通じて写楽を知った。同25年日本版画協会を退会し、同27年棟方志功らと日本板画院を創立。同29年より毎年、東京日本橋高島屋で個展を開催。この間、同32年第1回東京国際版画ビエンナーレに「漁村」「山湖B」で入選。以後第5回展まで招待出品。同34年第33回国画会展に拓版画「風ある林」「森」を出品し、拓本を参考に、バレンを用いず版木に紙をあてて上から押す「拓刷り」技法を示して注目された。同40年、畦地梅太郎らと新秋会を結成し同48年まで毎年出品。同年笹島喜平版画展を益子町公民館で開催。同41年スイス、ザイロン市での第4回国際版画展に出品する。同42年第9回サンパウロ・ビエンナーレ展に「吉祥天A」「吉祥天B」「風神・雷神」などを出品。同43年3月笹島喜平版画展を足利市民会館ギャラリーで開く。同47年イタリア・ミラノ現代国際版画展に出品。同49年9月、畦地梅太郎、北岡文雄らと朴林会を結成する。同51年古稀を記念して『笹島喜平画文集』(美術出版社)を刊行。同53年笹島喜平版画展を水戸市文化センターで開催する。同57年喜寿記念笹島喜平展を東京日本橋高島屋で開催した。同展出品作は栃木県立美術館に所蔵されている。作品集に『笹島喜平版画作品集』(美術出版社 昭和39年)、画文集『一座』(美術出版社 昭和42年)。『笹島喜平版画集』(講談社 昭和55年)。『半画人・笹島喜平画文集』(美術出版社 昭和57年)等がある。仏教関係の尊像、社寺を描くことが多く、白黒の明快な対比、版木の彫痕が紙に凹凸としてあらわれる力強い作風を特色とした。

市川禎男

没年月日:1993/02/25

 童画、版画を制作した市川禎男は2月25日午前8時48分、脳こうそくのため東京都杉並区の前田病院で死去した。享年72。大正10(1921)年1月28日、東京都下谷に生まれる。昭和15年川端画学校洋画科修了。在学中の同14年から16年まで劇団東童の美術部員として舞台美術、装置などを制作。同16年から22年まで新児童劇団美術部長をつとめる。同23年自由美術展に出品。同24年日本童画会に入会し同会会員となる。同26年第5回日本童画会展で日本童画会賞受賞、同27年日本版画協会展で根市賞を受賞し同会員となる。同33年共著『子どもの舞台美術』(さ・え・ら書房)でサンケイ児童出版文化賞受賞。初山滋に師事し、児童図書の挿絵、装丁、版画を制作した。また、日本美術家連盟に所属し同41年著作権法改正にあたり、美術家著作権運動に積極的に参加した。代表作品に『大地の冬の仲間たち』『サムライの子』『雪ぼっこ物語』『いさご虫のよっ子ちゃん』『チョウのいる丘』『赤い貨車』『ぼくのおうち』『空いろのレンズ』『紙すきの村』『天の園』『光と風と雲と樹と』等がある。

伊藤勉黄

没年月日:1992/08/20

 国画会、日本版画協会の会員であった版画家伊藤勉黄は8月20日午前2時10分、肺炎のため静岡市の病院で死去した。享年75。大正6(1917)年1月5日、静岡県志太郡に生まれる。本名勉。国学院大学に学ぶ一方、版画を独習し、昭和10(1935)年第6回童士社創作版画展に出品する。同14年上海に渡り、同21年帰国。この間、玄黄展、全上海展に出品を続けた。同21年静岡県版画協会を結成。同24年、第17回日本版画協会展に初出品し根市賞を受賞。同25年第24回国画会展に初出品し褒状を受賞。同26年日本版画協会会員となる。同28年第27回国画会展に「窓」「蝶」を出品して国画奨励賞を受け同30年会友に推される。同31年第30回同展に「積み上げた町」「DIMANCHE」「露天商」を、翌年第31回同展に「圏外の夜」「十代」「祈りの時間」を出品して2年連続して会友優作賞を受賞。同34年同会会員となる。また、同32年アメリカ・シカゴ現代日本版画選抜展、同33年ボストン・プリントメーカーズ展、グレンヘン国際版画トリエンナーレ、同34年ポーランド・クラコウ・ビエンナーレ、同36年アメリカ・プリント・ソサエティ主催全米版画展等、国際展にも数多く出品した。同43年、木版と亜鉛版を併用する新技法により我自の画風を打ち出す。同52年『伊藤勉黄版画集』を出版。同56年池田20世紀美術館で柳沢紀子と版画2人展を開催した。郷里静岡の美術振興に尽力し、同51年同県美術家連盟副会長に選任され、同55年同県芸術文化功労者として知事表彰を、同57年には文部大臣表彰を受けた。

森義利

没年月日:1992/05/29

 合羽摺の第一人者として知られた版画界の長老森義利は、5月29日午前2時38分、肝不全のため東京都港区の六本木病院で死去した。享年93。明治31(1898)年10月31日、東京日本橋船町の魚問屋「西源」の六代目として生まれる。同36年家業が倒産。日本橋浜町尋常小学校を経て同43年日本橋高等小学校に入学するが、翌44年に同校を中退して、おもちゃ問屋、質店、洋紙店などで奉公する。洋紙店では過酷な労働の中にも絵を描く楽しみを知り、やがて実母の家へ戻って大正4(1915)年から山川秀峰に入門。秀峰の父霽峰に文様、染色の指導を受けた。翌5年、秀峰に従って鏑木清方門下の新年会に列席し、浮世絵風人物画家を志すようになる。同7年入隊して朝鮮半島に赴任。同9年除隊となり、同10年より桜木油絵具製造工場に勤める一方、中村不折の指導する太平洋画会研究所に学ぶ。また五島耕畝につけたて運筆を学んだ。同12年太平洋画会研究所から川端画学校へ移るが、同年9月の震災によって家計を担わなくてはならなくなり、画業を断念。文様・染織の道に進み、同14年に独立した。昭和13(1938)年、日本民芸館を訪ね、柳宗悦の講義に感銘を受けて、翌14年染色研究団体である「萠黄会」を結成。芹沢銈介にも指導を仰いだ。戦中は奢侈禁止令により友禅文様等が当局の弾圧にあい、文様連盟日本橋・京橋・深川地区理事長として文様制作の保護に尽力した。戦後は、同21年第1回日展工芸部に「藍染 野菜の丸の図」を出品。同年第1回日本美術及工芸交易振興展に「浅草寺風物の図振袖」で3等賞を受賞した。同24年第23回国画会展に「愛染明王染軸」で初入選、同29年日本板画院展に初入選し、両展に出品を続け、同56年国画会工芸部会員、日本板画院会員となった。同32年東京国際版画ビエンナーレ展に「暮の市1、2」を出品して注目されて以後、版画家として国際的にも認められ、アメリカ、オーストリア、スペイン、南米等で作品を展観するようになった。同37年、工芸と美術をめぐっての意見の相違から国画会工芸部を退く。また、同40年には日本板画院をも退いた。その後も同44年第1回国際版画展で受賞するなど国際的に活躍し、同45年初めて渡欧、同47年にはアメリカをも訪れた。江戸時代に浮世絵にも用いられた合羽摺は、薄い和紙を数枚張り合わせた「合羽紙」に図柄を描き、それを彫って型紙をつくり、手摺りを行なう技法で、森は染色文様を生業とした経験を生かして、これを近代版画によみがえらせた。下町の風俗、職人づくし、祭礼が多く題材とされ、晩年には「平家物語」「源氏物語」等の古典文学や歌舞伎の主題もとりあげられた。溌刺たるフォルム、輪郭をなす黒をアクセントとする明快な色彩を用いた生命感ある画風が特色である。没後、作家の遺志により遺族から中央区に遺作200点が寄贈された。

日和崎尊夫

没年月日:1992/04/29

 木口木版の第一人者で日本版画協会会員の日和崎尊夫は4月29日午後7時40分、食道ガンのため高知市の図南病院で死去した。享年50。昭和16(1941)年7月31日高知市に生まれる。同38年武蔵野美術大学を卒業。同年畦地梅太郎に板目木版を学び、翌年から木口木版を独学。同41年「星と魚」「星と植物」シリーズで日本版画協会新人賞、翌42年同協会賞を受賞。同44年第2回フィレンツェ国際版画ビエンナーレで金賞を受賞した。同49年文部省芸術家在外研修員として渡欧。同53年スペイン・バルセロナで開かれた「現代日本の10人の版画家」展に出品。同55年バングラディシュで開かれた「現代の東洋美術展」に出品するなど、日本の伝統的木版画技術を現代に生かす作家として注目され、国際的に活躍した。同57年、郷里高知にアトリエ「白椿荘」を建てて制作の拠点とし、平成2年には第1回高知国際版画トリエンナーレ展を提案してその実現に尽力。同3年7月、「KARPA’89 REQIEM」で第5回山口源大賞を受けた。木口木版画家による「鑿の会」に参加。同会の先輩であった城所祥没後、木口木版の第一人者と目され、嘱望されていた。代表作に「KARPA」シリーズ、「海淵の薔薇」「五億の風の詩」等があり、画集には「博物譜」「星と舟の唄」「ピエロの見た夢」「薔薇刑」「フレシマ」「緑の導火線」等がある。

清宮質文

没年月日:1991/05/11

 詩的な心象世界を版画で謳う元春陽会会員の版画家清宮質文は、5月11日午後4時54分、心筋こうそくのため東京都杉並区の山中病院で死去した。享年73。大正6(1917)年6月26日、洋画家清宮彬の長男として、東京府豊多摩郡に生まれる。四谷区第五小学校を経て、昭和10(1935)年麻布中学校を卒業。同年夏、同舟舎絵画研究所に入り、駒井哲郎と出会う。同12年東京美術学校油画科に入学。藤島武二に師事し、四年からは田辺至教室に学んで、同17年3月同校を卒業。在学中、版画教室で銅版画を試みる。東美校卒業の年の6月、長野県上田中学校の美術教師となるが翌年3月辞任。同年9月に上京し、翌19年慶応義塾工業学校の美術教師となる。同年応召。同20年慶応義塾工業学校に復職し、同24年に同校を辞して商業デザインに従事。同26年より27年まで商業デザイン会社に勤務するが、同28年8月、東美校の同級生による「ゲフ(䲜)の会」の結成に参加し、これをきっかけに制作に専念するとともに、木版画を始める。同29年第31回春陽会展に「巫女」で初入選。以後同展に出品を続け、同31年同会準会員、同32年同会会員となった。同33年11月、東京のサヱグサ画廊で初個展開催。同35年12月、東京の南天子画廊で個展を開いて以降、同画廊を作品発表の場とする。同37年第3回東京国際版画ビエンナーレ展に「枯葉」「蝶(ある空間)」を招待出品。同48年第10回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに木版画10点よりなる画集「暗い夕日」を出品。同49年第51回春陽会展に「告別」を出品したのを最後に同会へは出品せず、同52年同会を退会して無所属となる。同61年南天子画廊より『清宮質文作品集』(現代版画工房編)を刊行。版画の可能性を複製性よりも造形的特色に認めてモノタイプを中心に制作し、深い思索を背景に、静謐で詩的な独自の画風を示した。没後の平成3年7月、南天子画廊で追悼展が行なわれている。なお、年譜は『日本現代版画 清宮質文』(玲風書房 平成4年12月)に詳しい。

小野忠重

没年月日:1990/10/17

 版画家で版画史研究、洋風画史研究でも知られた小野忠重は、10月17日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年81。明治42(1909)年1月19日東京市本所区に生まれる。実家は酒類等の小売商を営み、忠重は一人息子として育った。早稲田実業学校在学中の大正13年、中西利雄、小山良修らの蒼原会に加わり水彩画に親しみ、翌年の白日会第2回展に出品した。同年、永瀬義郎著『木版画を試みる人に』に接し創作版画にめざめ、自ら試作したりした。また、この頃から本郷絵画研究所へ通った。昭和2年、早稲田実業学校を卒業、以後家業に従事する。同4年、第2回プロレタリア美術展に油彩画、木版画(「ビラを見る労働者」)等3点を出品(~第5回展まで毎回)、次第に版画に専心するに至った。プロレタリア美術展への出品作に連作「三代の死」(同6年)などがある。同7年、第2回日本版画協会展に「患者控室」等を出品する一方、新版画集団を創立、これは当時のプロレタリア美術運動に呼応したものであった。同12年、新版画集団を改組し造型版画協会をおこし主宰する。この間、同8年には黒田源次著『西洋の影響を受けたる日本画』に触れ感動し、以後黒田との文通を始めるなど、日本洋風画史への関心を高めていった。後年の著書『江戸の洋画家』(昭和43年、三彩社)は、その研究の集大成といえる。また、同16年には法政大学高等師範部国語漢文科を卒業した。同20年、一時岡山県津山市へ疎開したが翌年東京へ戻り、美術出版社に入り「洋画技法講座」「美術手帳」の編集に携わった。戦後は日本美術会の委員として、同23年の同会アンデパンダン展第2回から毎回出品し、戦前同様庶民の生活に密着した題材を用いて制作を続け、一貫して版画の大衆化をめざした。一方、「木版陰刻」などの手法により独自の作風を確立していった。同31年、東京・銀座養清堂画廊で初の個展を開催。翌32年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に出品、以後出品は第4回展まで及び、第6・7回展には諮問委員を委嘱された。同36年、ソ連で開催された現代日本版画展を機に訪ソし、ヨーロッパも巡遊する。同年、岩波新書として『版画』を発刊。この間、同38年から同52年まで東京芸術大学絵画科版画研究室の講師をつとめた。同54年紫綬褒章を受章。同63年には、東京芸術大学芸術資料館で「小野忠重の版画と素描」展が開催された。版画作品は他に、「工場街」(昭和10年)、「狐市街」(同13年)、「けむり」(同31年)など。作品集に『小野忠重版画集』(同52年)。版画史、版画の技法に関する著書も多く、『日本の銅版画と石版画』(昭和16年 双林社)、『版画技法ハンドブック』(同35年 ダヴィッド社)、『近代日本の版画』(同46年 三彩社)などがある。

前田藤四郎

没年月日:1990/05/19

 日本版画協会名誉会員、春陽会会員の版画家前田藤四郎は、5月19日大阪府堺市の市立堺病院で死去した。享年85。関西における創作版画の草分け的存在として知られ、豪放で庶民的な人柄から関西画壇の象徴的存在として慕われていた前田は明治37(1904)年10月18日兵庫県明石市に生まれた。兵庫県伊丹中学校時代から水彩画に親しみ、神戸高等商業学校在学中の大正13年には、妹尾正彦、井上覚造らとグループ青猫社を結成し油彩画を描いた。昭和2年神戸高商を卒業。翌3年、平塚運一著『版画の技法』を参考に版画制作を試み「監的鏡」などを制作、同4年の第7回春陽会展に版画「散髪屋」を初出品、以後、同展へ継続出品するとともに、同6年には第1回日本版画協会展へ出品、また同年大阪に版画グループ羊土社を結成し指導に当たった。同7年日本版画協会会員となり、同年、版画グループ黄楊を結成、大阪の洋画グループ艸園会に加わった。一方、この年の作品「時計」は、版画に写真製版をとり入れたわが国最初の試みとして、また、そのシュール・レアリスム的表現でも注目される。この間、恩地孝四郎らの創作版画運動に共鳴し、木版、石版、銅版の諸技法を独習するなかで、次第に独自ののびやかで華麗な作風をつくりあげ、技法上はリノリウム板に油絵具を用いるリノ・カット技法に特色があった。同14年、第17回春陽会展に「紅型A」「紅型B」などを出品し春陽会賞を受賞、春陽会会友となり、翌年同会員に推挙された。戦前は新文展にも出品する。戦後は、同21年朝日美術展に「竜安寺石庭」で朝日新聞社賞を受賞したのをはじめ、春陽会展、美術団体連合展、日本版画協会展、現代日本美術展、日本国際美術展、東京国際版画ビエンナーレ展などに制作発表を行い、昭和20年代後半からは、廃材の木目のフロッタージュを利用した制作を始めた。同32年、大阪府芸術賞を受賞。同40年にはヨーロッパ各地を取材旅行した。また、同45年開催の大阪万国博覧会に伴い開設された万博美術館を、大阪府立現代美術館として再開するための推進協議会委員(同47年、国立現代美術館推進協議会代表)となり、同52年に国際美術館として開館する間、運動の中心的存在として尽力した。同57年から翌年にかけては、国鉄(現JR)大阪駅の中央コンコース改札口北面壁の陶版レリーフ作成に従事し、「大阪の四季・まつり」として完成した。個展、回顧展をしばしば開催した他、新聞等の挿絵も手がけた。主要出品歴昭和4年春陽会第7回展 「散髪屋」帝展第10回 「都会展望」(水彩)昭和5年春陽会第8回展 「婦人帽子店」昭和6年春陽会第9回展 「華麗なるエスプリ」「屋上運動」日本版画協会第1回展 「登場人物」「貯水池」「聴音」昭和7年春陽会第10回展 「女」日本版画協会第2回展 「香里風景」「花」「婦人像」昭和8年春陽会第11回展 「葡萄の静物」「鹿」「石膏の静物」日本版画協会第3回展 「車輪」「香里風景」「鹿」「葡萄」「時計」「水源地」昭和9年春陽会第12回展 「道化者」昭和10年春陽会第13回展 「鳥」「チューリップ」日本版画協会第4回展 「山」「静物」「きつつき」「花束」「朝顔」「道化役者」昭和11年春陽会第14回展 「ラグビー」日本版画協会第5回展 「牛」「静物」昭和12年春陽会第15回展 「蝶」「静物」昭和13年春陽会第16回展 「飛ぶ鳥」「風景」日本版画協会第7回展 「鳥」「七月の白浜」昭和14年春陽会第17回展 「紅型A」「紅型B」「手」「竜舌蘭と墓」昭和15年春陽会第18回展 「藍型」「花芭蕉」「琉球の魚市場」紀元2600年奉祝美術展 「紅型」日本版画協会第9回展 「ヤップの人形(男)」「ヤップの人形(女)」昭和16年春陽会第19回展 「琉球の魚市場」「琉球の青物市場」「老婆」「市場附近(琉球)」「首里展望」「魔除けのある屋根」文展第4回 「南の国」日本版画協会第10回展 「紅型」昭和17年春陽会第20回展 「紅型」「孔子廊(首里)」「琉球風景」「市場の帰り」「琉球の魚売り」日本版画協会第11回展 「新緑」昭和18年春陽会第21回展 「曽爾秋色」「東福寺の庭」「龍安寺の庭」「静物」文展第6回 「南国勤労」昭和19年春陽会第22回展 「金玉満堂」文部省戦時特別美術展 「愛染明王」昭和21年朝日美術展 「竜安寺石庭」春陽会第23回展 「大和路」昭和22年春陽会第24回展 「三河の春」「東北の街(ハイラル)」第1回美術団体連合展 「苔寺石庭」昭和23年春陽会第25回展 「社頭春色」日本版画協会第16回展 「椿」「石庭」第2回美術団体連合展 「住吉大社」「椿」昭和24年春陽会第26回展 「梅・椿」「桜島」「女優P」第3回美術団体連合展 「カストリ横丁」昭和25年春陽会第27回展 「大原女」「牛」「花」第4回美術団体連合展 「土の家」昭和26年春陽会第28回展 「文楽人形」「大阪風景・桜之宮」「焼跡」日本版画協会第26回展 「つばめ」第5回美術団体連合展 「裏街」昭和27年春陽会第29回展 「建築」「迷路」日本版画協会第20回展 「老婆」昭和28年春陽会第30回展 「岬」「回想の琉球」「壷とさざえ」日本版画協会第21回展 「花」昭和29年川西英・前田藤四郎創作版画展(神戸・元町画廊)春陽会第31回展 「坂道」「鳥篭を持つ少女」日本版画協会第22回展 「花と子供」第1回現代日本美術展 「母子」「裏街」昭和30年春陽会第32回展 「スラム街」「住吉祭」「明石原人の海」第3回日本国際美術展 「平和」「昆虫」前田藤四郎版画展(大阪・梅田画廊)昭和31年春陽会第33回展 「遊ぶ子供達」第2回現代日本美術展 「小魚を喰う蟹」「観世音菩薩」昭和32年春陽会第34回展 「昼の裏街」「夜の裏街」日本版画協会第25回展 「愛鳥週間」「湖畔」第4回日本国際美術展 「顔」第1回東京国際版画ビエンナーレ 「海浜」「追想」昭和33年春陽会第35回展 「母と子」「水の精」「立春」「厨房」日本版画協会第26回展 「あむしる」第3回現代日本美術展 「夜の花」「立春」昭和34年日本版画協会第27回展 「月の出」「石庭」春陽会第36回展 「ハイティーンM」「内海航路(昼)」「内海航路(夜)」「勲章」「ハイティーンW」第5回日本国際美術展 「故郷」昭和35年日本版画協会第28回展 「森の会話」「伝説」春陽会第37回展 「サンドイッチマン」「古代人」「神話」第4回現代日本美術展 「古代」「民話」第2回東京国際版画ビエンナーレ 「春」「冬」昭和36年日本版画協会第29回展 「夜の童話」「昼の童話」春陽会第38回展 「今」「呪」「幻」昭和37年日本版画協会第30回展 「1月」「8月」春陽会第39回展 「薫風」「原始」「奇妙な花」第3回東京国際版画ビエンナーレ 「白亜の海」「白亜の空」昭和38年日本版画協会第31回展 「コバルト」「開」春陽会第40回展 「銀」「狙」「哭」「群」「紅」昭和39年日本版画協会第32回展 「虫」「作品」春陽会第41回展 「気」「虫」「螺」昭和40年春陽会第42回展 「湖畔」「火の鳥」昭和41年春陽会第43回展 「パリの壁」「パリの広告」昭和42年日本版画協会第35回展 「巴里」春陽会第44回展 「イビサにて」「巴里」昭和43年日本版画協会第36回展 「白夜の海」春陽会第45回展 「奇妙な家」「遺跡」昭和44年日本版画協会第37回展 「壷を売る女」「裏窓」春陽会第46回展 「バザール」「船を待つ女」昭和45年昭和版画協会第38回展 「崖」「港近く」春陽会第47回展 「住めば都」「はかなき夢」昭和46年日本版画協会第39回展 「鎧岳」「わらべ歌」春陽会第48回展 「春雪」「まぼろしの港」昭和47年日本版画協会第40回記念展 「グリン・マダム」「上がったり下がったり」春陽会第49回展 「楽しい日曜日」「御食事處」昭和48年日本版画協会第41回展 「P.Q.R.」「今日は,今日は」春陽会第50回展 「首を売る男」「めぐり逢い」昭和49年日本版画協会第42回展 「斗牛」「君の名は?」春陽会第51回展 「カッパドキヤ」「狂乱」昭和50年日本版画協会第43回展 「王家の谷」「祈り」春陽会第52回展 「ペルセポリス」「ウルカップ」昭和51年日本版画協会第44回展 「ペルシャ追想」「一人ぐらいは…」春陽会第53回展 「コーランは流れる」「デート」昭和52年日本版画協会第45回展 「股のぞき」「日本昔話」春陽会第54回展 「神々の休日」「遺跡観光」昭和53年日本版画協会第46回展 「メッカへの道」春陽会第55回展 「屈折の論理」「異邦人」前田藤四郎・版画の50年展(大阪府立現代美術センター 主催=大阪府)昭和54年春陽会第56回展 「病いの国に遊ぶ(窓内)」「病いの国に遊ぶ(窓外)」昭和55年日本版画協会第48回展 「紳士の散歩」「草花の下」春陽会第57回展 「ファッション・ショウ」「デコイ」前田藤四郎版画展(大阪・サントリー文化財団)昭和56年日本版画協会第49回展 「華麗なる腐蝕」「密室」春陽会第58回展 「生殖」「右と左」前田藤四郎近作版画展(京都・朝日画廊)昭和57年日本版画協会第50回記念展 「時計」(1932年)春陽会第59回展 「華麗なる仲間」「黒と白」昭和58年日本版画協会第51回展 「自画像「スカタン」」春陽会第60回展 「高い山から…」前田藤四郎個展-風展(大阪・茶屋町画廊)昭和59年日本版画協会第52回展 「ジャンケン・ハサミと待って」「手と花」春陽会第61回展 「手と花」「ジャンケン・グーとパー」前田藤四郎・遊展-オブジェ(大阪・茶屋町画廊)前田藤四郎版画展(大阪・阪急)昭和60年日本版画協会第53回展 「じゅう」「10」春陽会第62回展 「風船」「TEN」昭和61年春陽会第63回展 「天文学入門」「いき・いき」昭和62年春陽会第64回展 「近」昭和63年春陽会第65回展 「GREEN(A)」「RED(B)」平成元年春陽会第66回展 「野の詩」「テノール」前田藤四郎展(伊丹市立美術館)

城所祥

没年月日:1988/07/22

 日本版画協会会員の版画家城所祥は、7月22日午前7時31分、急性心不全のため東京都八王子市の多摩相互病院で死去した。享年53。昭和9(1934)年12月2日、東京都八王子市に生まれる。八王子市立第五中学校、東京都立川高校を経て早稲田大学に入学し、同32年同大学第一商学部を卒業する。34年養精堂画廊で個展を開いて木版画家としてデビューし、36年日本版画協会会員となる。39年東京国際版画ビエンナーレに出品し、以後40年スイス木版画展、パリ青年ビエンナーレ、42年サンパウロ国際版画ビエンナーレなど国際展にも多く出品。42年鑿の会を結成し、木口木版画集「のみ」の制作に参加する。また、同年文化庁在外研究員として渡欧し、パリ、ジュネーヴに滞在する。美術教育にもたずさわり、43年より52年まで武蔵野美術大学講師、47年より63年まで武蔵野美術学園講師、53年より63年まで金沢市立美術工芸大学講師をつとめたほか、日本美術家連盟版画工房の嘱託もつとめた。果物や花を主要なモチーフとする室内静物画を多く制作し、黒をアクセントとする明快な色面によって画面を構成する。代表作に、三好豊一郎の詩による詩画集『黙示』(昭和42年)、版画集『鳥』(46年)、東京八王子市喜福寺襖絵(46年)などがある。

関野凖一郎

没年月日:1988/04/13

 日本版画協会理事、国画会会員の版画家関野凖一郎は4月13日午前5時45分、肺ガンのため東京都新宿区の東京医科大学病院で死去した。享年73。大正3(1914)年10月23日青森市に生まれる。青森県立青森中学校在学中に、学友の根市良三の版画に感銘して版画を始める。昭和8(1933)年青森中学を卒業、今純三に銅版画と石版画を学ぶ。11年文展(第二部)にエッチング「河畔」で初入選。13年日本版画協会会員となる。14年に上京し鈴木絵画研究所で油絵を学ぶ一方、恩地孝四郎にも師事。15年日本エッチング協会を設立する。国画会展にも出品し22年同会会員となる。戦後は、32年アジア・アフリカ国際美術展など国際展に多く出品して注目され、33年ロックフェラー財団の招聘により渡米し、一年間アメリカ各地で版画の講義を行なう。35年アメリカ・ノースウエスト国際版画展に「フィレンチェの屋根」を出品してシアトル美術館賞受賞。36年リュブリアナ国際版画展では「花・墓・車」三部作で特別賞を受ける。38年フォード財団の招きで再び渡米しロスアンゼルスのタマリンド石版研究所で石版画を制作する。43年日本美術家連盟常務理事となる。50年、版画集「東海道五十三次」で芸術選奨文部大臣賞受賞。創作版画の創成期にあたって、戦後日本の版画が国際的に評価されるとその代表的作家の一人として活躍した。肖像、裸婦、風景を主な題材とし、木版、銅版、石版など多様な技法を用いた。多作であり、私家本も多く制作したが、一方著作もよくし『版画を築いた人々』『わが版画師たち』『文人画像』『木版画の楽しみ』など、日本近代版画史、版画技法についての著書を刊行している。

高橋信一

没年月日:1986/12/16

 佐渡版画村理事長として版画の制作、指導に尽力した版画家高橋信一は、12月16日午前5時15分、気管支ぜんそくによる気道閉そくのため、新潟県両津市の自宅で死去した。享年69。大正6(1917)年7月25日佐渡に生まれる。小学校在学中、図画教師中田吉三に学んで油絵を描き始め、のち、平塚運一の弟子笹井敏雄、斎藤正路に版画を学ぶ。昭和32(1957)年現代版画コンクール佳作賞受賞、34年日本版画協会展賞受賞。35年には日本版画協会展賞および恩地賞を受けて同会会友に推される。38年3ケ月間滞欧して13ケ国を巡遊。39年日本版画協会会員となる。41年フランス、イタリア政府の招きで国立美術大学教育者の講師として東洋絵画、版画の実技の指導に当たる。44年国画会版画部会員となる。クラコウ国際版画ビエンナーレなど国際展への出品も多く、51年スイス・ザイロン国際版画展では受賞している。常に郷里佐渡にあって制作するとともに、昭和23年より51年停年退職するまで、両津高校で教鞭をとり、版画指導に尽力。48年より島民への版画指導も始め、全島に版画制作の輪を広げ、佐渡版画村をおこして57年サントリー地域文化賞を受賞。59年7月には相川町に佐渡版画村美術館が設立された。仏教の二河白道に触発された「白い道」シリーズで知られ、トキをモティーフとして好んで描く。『佐渡名所百選』(51年、新潟日報事業社)、『高橋信一の世界』(58年、教育書籍)、『佐渡版画村作品集』(59年、教育書籍)、『捨てない教育』(59年、渓水社)などを刊行している。

黒木貞雄

没年月日:1984/02/23

 日本版画協会審査員の木版画家黒木貞雄は、2月23日午後6時50分、前立せんガンのため宮崎県延岡市の林医院で死去した。享年74。明治41(1908)年12月8日、宮崎県延岡市に生まれる。昭和5(1930)年3月宮崎県師範学校本科を卒業。翌年同校専科を卒業して上京し、川端画学校洋画科で同9年まで学ぶ。同科在学中の同8年より版画家平塚運一に師事。後に恩地孝四郎にも教えを受ける。同10年第4回日本版画協会展に「ふるさとの山」で初入選、翌年第11回国画会展に「むかばきの夕映」(版画)で初入選し、以後両展に出品を続ける。同13年第7回日本版画協会展に「青島」を出品し版画道賞を受賞。同15年同会に「浜木綿の花咲く青島」他2点を出品し2600年記念大賞次賞を受け、同会会員に推挙される。同17年第17回国画会展に「かんな」「浜ゆふ咲く島」を出品し褒状を受ける。同27年国画会会友となる。浦々庵とも号し、郷里宮崎にあってその風景、風俗に取材した木版画を制作しつづけた。国際展にも出品し認められる一方、郷里の文化発展にもつくした。同30年に画集『日向風物版画集』を刊行している。国画会展出品歴 第11回(昭和11年)「むかばきの夕映」、12回「霧島山早春」、13回「水郷の春」、14回「小雨ふるビロー島」、15回(同15年)「港」、16回「むかばき山遠望」、17回「かんな」「濱ゆふ咲く島」、18回「ひまわり」「さぼてん」、19回「風景」、21回「日向風景」、22回「ジャバ人形のある静物(A)」、24回「盆踊」「臼太鼓」、25回(同26年)「都井の馬」、26回「夜神楽」、27回「風神の舞」「雷神の踊」、28回「天主堂」、29回「七面鳥(A)」、30回(同31年)「公園」「草の中の鳥」、31回「城跡」、32回「石仏(青)」、33回「サボテン」「蕗」、34回「干網」「波状岩」、35回(同36年)「回想」「夜精の舞」、36回「はにわ」「鳥」、37回「群」「網」、38回「魚」、39回「作品」「浮遊」、40回(同41年)「解体された家」、41回「高千穂の曇海」、42回「石仏と鳥」、43回「五匹の馬」、44回「凶影」、45回(同46年)「桜島」、46回「聖者」、47回「巌」、48回「祖霊の山」、49回「仙境暁映」、50回(同51年)「米良三山」、51回「けし」「山波」、52回(同53年)退会

荒木哲夫

没年月日:1984/01/10

 銅版画を中心に多様な技法を駆使して心象風景を描いた版画家、荒木哲夫は、1月10日午前3時3分、クモ膜下出血のため、東京都港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年46。昭和12(1937)年6月1日、東京府台東区に、皮革加工業を営む生家の三男一女の長男として生まれる。同20年、東京府本所区立業平国民小学校に入学、10歳の時、肋膜からカリエスという宿痾に襲われ、美術鑑賞や読書などを趣味とする内省的生活を送る。同26年東京都台東区立精華小学校を卒業。同30年、同区立福井中学校を卒業し、病気のため通信教育で学び同33年都立上野高校を卒業、同年武蔵野美術大学西洋画科に入学する。同校在学中、版画に興味を持ち、同35年東京国際版画ビエンナーレ展でフランスの版画家ジョニー・フリードランデルの作品に感銘を受ける。同37年武蔵野美術大学西洋画科を卒業。パリ留学をめざして英語、仏語を学び、同40年、パリへ留学、フリードランデル工房に入門。フリードランデルの指導を受けるかたわら、アカデミー・グラン・ショーミエール、パリ市立素描講座クロッキー室に学ぶ。同42年パリで個展。翌年はブリュッセルで個展を開くが、同43年病を得てパリで手術を受け、その後も体力が回復せず同45年に帰国する。帰国後もクラコウ国際版画展、ウィーン国際版画展に出品、受賞する他、国内外の展覧会に出品する。同51年東京芸術大学美術学部材料学研究室に学び、駒井哲郎に師事する。翌52年より日本版画協会展に出品。同53年、東京版画研究所でリトグラフを学び、銅版の他、モノタイプ、エンボーシュ、コラージュなど多彩な技法をとり入れた新たな展開を見せた。代表作に「夜想曲」(昭和42年)、版画集『夜との対話』『昼との対話』(同49年)がある。

山口進

没年月日:1983/11/25

 日本版画協会名誉会員で木版画界の長老であった山口進は、11月25日午前2時25分、急性肺炎のため、長野県伊那市の天竜河畔病院で死去した。享年86。明治30(1897)年1月25日、長野県上伊那郡に生まれ、大正5年長野中学を卒業。同9年より15年まで白馬会葵橋洋画研究所に学び、黒田清輝、中川紀元らに師事。日本美術学校にも通うが中退している。同12年日本創作版画展、日本漫画展に初入選。油絵を手がけ、帝展、光風会展、太平洋画会展にも出品する。同14年旧制第一高等学校訓務部事務職員となり、一高画会で絵を教える。昭和2年ロスアンゼルス国際版画展に出品。翌3年には「鯉幡作り」他の油絵で第6回春陽会展に初入選し、同12年まで同会に油絵の出品を続ける。同4年日本創作版画協会々員となり、同6年同会が日本版画協会となるにおよんで同会員となる。同8年『山口進版画集』を出版。同16年仏印巡回日本絵画展、同18年海軍省献納版画展に出品する。同20年、第一高等学校を退職して郷里の伊那谷に帰り、制作に専念する。信州の山岳を題材とした木版画で知られ、彫りぼかしと刷りぼかしを併用して、力強い構成力と柔らかさを合わせ持つ独自の作風を築いた。代表作には「木曾駒ケ岳馬の背」(1970年)などがあり、作品の多くは、町田市立博物館に収蔵されている。

松田義之

没年月日:1981/09/09

 東京芸術大学名誉教授の版画家、図画教育家の松田義之は、9月9日老衰のため千葉県市川市の自宅で死去した。享年90。号芳雪。1891年(明治24)年11月9日愛知県北設楽郡に生まれ、愛知県師範学校第二部を経て、1917(大正6)年東京美術学校師範科を卒業した。卒業の年から青森県立青森高等女学校、ついで20年から三重県神戸中学校で教鞭をとったのち、21年東京美術学校助教授に就任、40年同校教授となる。戦後、51年新制大学設置により東京芸術大学教授となり、59年定年退官、62年同大学名誉教授の称号を受けた。この間、29年以後文部省中等教員検定試験委員、40年以後文部省教科書編集委員をつとめるなど、戦前から図画教育界で大きな功績を果した。また、エッチングの草分け的存在でもあり、新文展、日本版画協会展などに出品した。銅版画の主要作品に「樹蔭」「ベービルの田舎屋」「橋」「詩人の家」「村の工房」「船大工の家」「花と時計」などがあり、著書に『美術の話』(1950年、広島図書)『手と道具』(1955年 河出書房)などがある。

竹腰健造

没年月日:1981/07/28

 建築家で日本建築協会名誉会長の竹腰健造は、7月28日午前10時54分、老衰のため大阪市福島区の大阪大学病院で死去した。享年93。1888(明治21)年6月25日、福岡県に生まれ、明治の代表的な美術評論家岩村透は兄にあたる。1912(大正元)年東京大学工学部建築学科を卒業し、兄のすすめでイギリスに留学、アーキテクチュラル・アソシエーション・スクールで建築を学んだ。14年にローヤル・インスティチュート・オブ・ブリティッシュ・アーキテクトの建築士資格試験に合格し、同年オースチン建築事務所に勤務する。また、建築を学ぶ一方で、17年にロンドンテクノロジーでフランク・エマニュエルにエッチングを学び、ロイヤル・アカデミーに入選する。同年帰国し住友総本店に入社したが、エッチングは翌18年のロイヤル・アカデミーにも入選している。同18年、明治天皇聖徳記念絵画館の懸賞設計に3等当選、また19年には第1回創作版画協会に滞欧作のエッチング12点を出品し会員となるなど、この頃、建築、版画両面にわたって活躍した。しかしこれ以後は建築家としての仕事が主となる。22年住友合資会社技師となり、住友ビル(現住友銀行本店)等の建設に従事、33年同社を依願退社し、長谷部竹腰事務所を設立して東京手形交換所の設計監理などにあたる。45年住友本社に入社し、長谷部竹腰建築事務所を住友土地工務(株)と合併、翌45年11月には同工務(株)を改組して住友商事の前身である日本建設産業(株)とし、初代社長に就任した。47年に同社を退任するが、46年には日本建築協会会長となり(58年まで)、48年双星社竹腰建築事務所を開設(77年株式会社双星設計と改称)、その後、関西電力本社、新住友ビル、大阪市新市庁舎などの建築顧問をつとめ、また大阪市立中央図書館、武田薬品工業湘南工場などの建築に携わった。この間、57年に黄綬褒章を受章し60年日本建築学会名誉会員となり、62年日本芸術院賞受賞、64年勲四等瑞宝章受章、また65年には全国建築審査会協議会会長(78年まで)、68年には日本建築協会名誉会長、71年勲三等瑞宝章受章と、数々の要職を歴任し、顕彰を受けた。このほか、日本万国博覧会協会参与(66~70年)、阪神高速道路協会理事長(67~70年)などもつとめた。

長谷川潔

没年月日:1980/12/13

 パリ在住の銅版画家長谷川潔は、12月13日パリ市の自宅で老衰のため死去した。享年89。長谷川は、1891(明治24)年12月9日横浜市に生まれ、麻布中学卒業後、1911年頃黒田清輝の葵橋洋画研究所に入り素描を学んだのち、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二に油絵を学ぶ。ついで13年から自画自刻による創作板目木版画や木口木版画、銅版画の制作を始め、同人となった文学雑誌「聖盃」(のち「仮面」と改題)や、短歌雑誌「水甕」の表紙、口絵等の木版画をつくるなど、以後版画の研究、制作に専念、14年には来日中のバーナード・リーチに銅版画法について尋ねる。16年、永瀬義郎、広島晃甫とわが国初の版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、創作版画展を開催。18年、米国経由で渡仏し、以後一度も帰国することなく没年までパリを中心に制作活動を展開する。パリで23年からサロン・ドートンヌに出品、翌年にはデュフィーの勧誘でマチス、ピカソなども所属したソシエテ・デ・パントル・グラヴュール・アンデパンダンに入会。一方、当時フランスでは技法的には消滅に瀕していた特殊銅版画技法マニエール・ノワールの復興を行い、この技法に唐墨の深みをもつ色調による独自の表現を吹き込み注目されるに至る。25年には版画による第1回個展をパリのヌーベル・エソール画廊で開催、翌年サロン・ドートンヌ版画部会員(48年、絵画部会員にも推挙)となる。また、日本の団体では、28年に春陽会会員、31年日本版画協会創立会員となり出品する。34年、広重以後の日本版画を紹介した《L’Estampe Japonais Moderne et ses Origines》展に準備段階から尽力、翌年仏政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を受章する。戦後もサロン・ドートンヌをはじめ、国際現代版画展、フランス現代版画展、東京国際ビエンナーレ展等各種の展覧会及び個展で制作発表を行い声価を高める。64年フランス芸術院コレスポンダンス会員となり、66年にフランス文化勲章を受章、翌年パリ市の金賞牌が授与されるなど、日本よりフランスの方ではやくから評価がなされ、72年には、フランス国立貨幣、賞牌鋳造局の肖像メダルに、日本人では葛飾北斎、藤田嗣治につぐ三人目として刻される。死去の年にあたる80年、京都国立近代美術館で「長谷川潔展」が開催され、版画131点、油彩画22点が出品された。長谷川潔年譜1891年 12月 9日、横浜市に、第一国立銀行の神戸、横浜、さらに大阪の支店長となった長谷川一彦、欣子の長男として生まれる。姉・静江、幸子、弟・純、弘の5人姉弟の第3子であった。1899年 この頃から、父から論語の素読をうけ、中国の拓本を手本に書を習わせられるとともに、書画骨董の鑑賞、日本画の筆法の手ほどきをうける。1902年 父が第一国立銀行大阪支店長となったため一家は大阪に移り住み、愛日小学校に通う。1904年 父・一彦が没したため、母と姉・幸子、弟・弘とともに東京にもどり、麻布に居をもとめ、鞆絵小学校に転校する。1905年 麻布中学校に入学する。1910年 麻布中学校を卒業する。母・欣子没す。1911年 この頃、葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に素描を学び始める。1912年 この頃、さらに本郷洋画研究所に入り岡田三郎助、藤島武二に油絵を学び始める。文学雑誌『聖盃』の同人となる。1913年 我国の伝統的木版画と異る、丸ノミを用いて描く如き方法による自画自刻の創作板目木版画や木口木版画・銅版画を制作し始める。『聖盃』は『仮面』と改題され、永瀬義郎とともに同誌の表紙、口絵等に木版画を作り、また短歌雑誌『水甕』の表紙や文学書の装幀にたずさわる。以後、板目木版画、木口木版画、銅版画の研究・制作に専念する。1914年 この頃、フランスから銅版画用印刷機や付属道具一式をとりよせ、来日中のバーナード・リーチに銅版画技法についてたずねた。1916年 永瀬義郎、広島新太郎(晃甫)とともに我国はじめての版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、東京・ミカド楼上及び読売新聞社において創作版画展を開催する。1917年 日夏耿之介の第一詩集『転身の頌』に木版挿画及び装幀等をする。また堀口大学詩集及び多くの訳詩集に挿画、装幀をする。1918年 11月、第一次世界大戦終結し、12月30日、春洋丸で横浜港を出帆しアメリカ経由でフランスに向かう。1919年 4月 3日、フランス・アーブル港に入り、翌日パリに安着する。この年10月から1921年まで、健康回復のため南仏カンヌとカーネに滞在、またブルターニュ、アルカッション等に旅行し、油絵の外に木口木版、石版、銅版等あらゆる版画技法を研鑽する。1922年 イタリアに旅行後、パリ18区の7Rue Montc-almに住居を定める。1923年 この年からサロン・ドートンヌ(Salon d’Au-tomne)に出品し、漸次他のサロン及び展覧会へ油絵並びに版画作品を発表する。1924年 第一次世界大戦後のフランス版画壇に大きな影響を与えたソシエテ・デ・パントル・グラヴール・アンデパンダン(Societe des Peintres Graveurs Independants)にデュフィーの勧誘により入会する。マチス、ピカソ、ドラン、スゴンザック、ヴラマンク、シャガール、マリー・ローランサン、デュフィー等、当時の新進画家団体である同協会展には、解散する1935年まで毎年作品を発表する。フランスにおいて当時ほとんど試る者のない、かつて17世紀オランダにおいて創始された特殊銅版画技法マニエール・ノワール(Maniere noire)<メゾチント>を苦心研究、かつクラシックな細点刻下地の外に、交叉線による独特の技法を創案し、近代的表現をもって復興、また誰も試みなかった純粋の風景画をマニエール・ノワールで制作し、フランス画壇に認められる。1925年 パリのヌーヴェル・エソール(Nouvel Essor)画廊において版画の第1回個展を開催し、滞仏中の東久迩宮殿下の来観を受け、作品を買上げられる。この年多数の銅版画を制作し、サロン等に出品する。1926年 フランス政府自治減債基金のため、パリ・ミディ新聞社主催のサロン・デュ・フラン(Solon du Franc)がガリエラ美術館(Musee Galliera)で開催され、指名出品により作品献金をする。出品の銅版画大作は当時パリの外国作家美術館であったジュ・ド・ポーム美術館(Musee de Jeu de Paume)の所蔵となり、ジョッフル元帥(Marechal Joffre)から礼状を受ける。また同年フランス政府救済を意味するパトリオティク・プール・ル・ルレーヴマン・デュ・フラン展覧会(Exposition Patriotique pour le Relevement du Franc)にも寄贈出品をする。サロン・ドートンヌの版画部会員に当選する。1927年 東京で開催されたデルスニス招来の第1回仏蘭西現代美術展にフランス美術家作品中に、藤田嗣治とともに加えられ、渡欧後の作品が初めて日本で展観される。スイス・チューリッヒのギャルリー・ヴォルフスベルグ(Galerie Wolfsberg)において在仏日本美術家展が開催され、作品を出品し、展覧会の広告アフィッシュの図案並びにカタログの装幀をする。サロン・ドートンヌ等に出品する。東京での出版の『日夏耿之介定本詩集』(3巻)のため表紙用木口木版画3点、挿絵銅版画9点を制作する。1928年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー(Salon des Tuileries)、サロン・デ・ザンデパンダン(Salon des Independants)、ギャルリー・ズィヴィー(Galerie Zivy)における日本美術家展、イギリスのマンチェスター展等に出品するほか、ソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボア・オリジナル(Societe des Graveurs sur Bois Original)展に出品し、同会会員に挙げられ、また春陽会々員となる。1929年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、サロン・デ・ザンデパンダン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ(Societe des Peintres Graveurs Francais)展及びギャルリー・オドゥベール(Galerie Hodebert)における日本美術家展等に出品する。ビブリス誌31号(Miroir des Arts du livre et del’Estampe,31eFascicule“Byblis”)に銅版画オリジナル2点を挿入する。“Kiyoshi Hasegawa, Graveur Japonais”(P.J.Angoulvent 紹介文執筆)がパリのアルベール・モランセ(Albert Morance)書房から出版される。1930年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、ギャルリー・ザック(Galerie Zack)の日本美術家展、ジュネーヴにおけるソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボワ・オリジナル展、春陽会展等に出品する。パリにおける第1回「航空と美術」国際展(Exposition “L’Aeronautique et L’Art”)に銅版画数点を出品、航空大臣1等賞金を獲得し、フランス航空クラブ(Aero Club de France)により「ニューヨーク上空のポアン・ダンテロガッション号)作品20点が買上げられる。パリのリブレリー・ド・フランス(Librairie de France)から出版の豪華限定版、26人短篇集“D’Ariane a Zoe”にデュフィー、スゴンザック、マリー・ローランサン、ブッサンゴウ、イーブアリッキス等とともに石版画挿画を担当する。ヌーヴェル・ルヴュー・フランセーズ(Nouvelle Revue Francaise)書房から出版のThomas Raucat著“L’Honorable Partie de Campagne”の銅版画口絵の制作を依頼される。パリのEdouard Joseph出版の『現代美術家辞典』(“Dictionnaire Biographique des Artistes Contemporains”)1930年版中に作品が掲載される。1931年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及び春陽会展等に出品する。日本において日本創作版画協会が解散し、新たに日本版画協会が創立され会員となる。パリのラ・ジラフ書房(Editions de la girafe)から出版の“Les Colonies Francaises”にフランスの画家20名とともに挿画を担当する。1932年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、サロン・ド・ルーヴル・ユニック(Salon de L’CEuvre Unique)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ザックでの展覧会、マドリッド及びシカゴでの展覧会、日本版画協会展、春陽会展等に出品する。ソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボワ・オリジナル出版の『フランス民謡集』(“Chanson Populaires Francaises”)中の第5集「支那の夜」(“Nuit de Chine”)に木口木版画挿画をする。イタリアに旅行する。1933年 パリ・装飾美術館(Musee des Arts Decoratifs)におけるフランス版画30年展(Trente Ans de Gravure Francaise-de 1900 a 1933)、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びワルシャワにおいて開催の第1回国際創作木版画展(1erExposition Internationale de la Gravure sur Bois Originale)等に出品する。パリ・日本大使館に在任中の本野盛一子爵の仏訳『竹取物語』に銅版画(ビュラン刻)で多数の挿画をなし、元駐日フランス大使ロベール・ド・ビリー(Robert de Billy)氏を会長とするリーヴル・ダール協会(Societe du Livre D’Art)から“La Legende de la Demoiselle de Lumiere”の書名で豪華限定出版される。1934年 サロン・デュ・タン・プレザン(Salon du Temps Present)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、及びアンヴェール市(Anvers)における展覧会等に出品する。フランスにおいて浮世絵版画から現代版画に至る日本の版画展を開催したことがなく、広重以後の作家について全く知られていないため、1931年頃から日本近代版画展の開催を立案しフランス当局と交渉してフランスにおける一切の準備を引きうけていたところ、これを機に岡田三郎助を会長として日本版画協会が創立され(1931)、当時パリ滞在中の岡田三郎助とフランスの国立工芸美術館長並びにフランス大使ロベール・ド・ビリーと最終打合せをし、東久迩宮殿下を総裁に戴き、日仏両国政府後援のもとに“L’Estampe Japonaise Moderne et ses Origines”と題する日本近代版画60点に及ぶ大版画展が実現する。パリにおける日本版画協会代表、文部省嘱託として、仏文カタログの作成と序文を執筆するなど大いに尽力し、予期以上の成功を収め、翌年リヨン、ジュネーヴ、ワルシャワ、ベルリン、マドリッドの各都市において開催、それぞれ好評を博し、欧米各国への我国文化紹介に貢献する。また、『アール・エ・メチエ・グラフィック』(“Arts et Metiers Graphique”)第40号に「日本版画展」(L’Exposition d’Estampes Japonaises)と題する紹介文を執筆する。パリのアルベール・レヴィ書房発刊の美術雑誌『アール・エ・デコラシォン』(Arts et D’ecoration)3月号にアンリ・エルツ(Henri Hertz)執筆の長谷川潔論が掲載される。1935年 プチ・パレ美術館で開催の現代美術家展(Exposition des Artistes de ce Temps)、サロン・デュ・タン・プレザン、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。パリ市に作品が買上げられる。スペインに(7月29日から10月2日まで)旅行する。フランス政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール(Chevalier de laLegion D’Honneur)勲章を授与される。在パリ日本大使公邸におけるフランス大統領アルベール・ルブラン氏並びにルブラン夫人招宴の夜会のために、献立及びプログラム用の銅版画を作成し、同夜佐藤尚武大使から大統領と夫人に紹介され、同版画2点を献呈する。1936年 ジュネーヴ及びマドリッドにおいて日本近代版画展を開催する。ポワチエ市(Poitiers)における展覧会並びにソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品し、フランス文部省に作品を買上げられる。また、北米における版画展に出品する。パリのフォンダッション・ロチルド会場における我国人形使節の日仏協会(Societe France-Japonaise)のレセプションのために招待状銅版画を作成する。1937年 リヨン、ワルシャワ、ベルリンにおいて日本近代版画展を開催する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、セルクル・ド・ラ・リブレリー(Cercle de la Librairie)展、ギャルリー・ド・パリ(Galerie de Paris)での展覧会等に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセの会員に挙げられる。パリ・国際大博覧会「美術と技術」展第54部に招待出品し金賞牌を獲得する。パリに開催の国際版画会議に日本側代表者として出席、イエナ公会堂においてスライドを用い現代日本版画について講演をする。国立図書館版画部長ルモワンヌ(P.A.Lemoinne)の序文を付し、1929年から1936年に至る自選銅版画原作15点を収めた銅版画集“Garvures de Kiyoshi Hasegawa”を出版する。大英博物館版画部にアクアチント技法による銅版画「二つのアネモネ」(1934)が買上げられる。パリのデュシャルヌ絹商(Soierie Ducharne)で数種の銅版画草花図を絹裂地に模様化する。1938年 サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ベルフォール市美術館(Musee de Belfort)、ボルドー市美術館(Musee de Bordeaux)や、シカゴでの展覧会、スーヴニール・ド・パリ(Souvenir de Paris)展、ギャルリー・ベルネーム・ジュヌ(Galerie Bernheim Jeune)における日本美術家展、春陽会展、日本版画協会展等に出品する。パリ市に作品が買上げられる。杉村陽太郎大使がパリ公邸にフランス大統領アルベール・ルブランを招宴するにあたり、献立及び夜会プログラム用の銅版画を作成する。パリ市へ「アレキサンドル三世橋とフランス飛行船」(1930)を寄贈する。パリ18区から14区3.Villa Seuratの現住所に移転する。1939年 リル市におけるプログレ・ソシアル展(Exposition du Progres Social)、ギャルリー・ベルネーム・ジュヌ、ギャルリー・シャルパンチエ(Galerie Charpantier)及びシカゴでの展覧会等に出品する。フランス文部省に作品が買上げられる。第二次世界大戦勃発の風雲急となり、8月24日ついに動員告示、国内が騒然となったため、12月サルト県の斎藤豊作宅(Chateau de Venevelles)に疎開し、ル・マン(Le Mans)市の美術館長を知り、銅版画「ヴェヌヴェル風景」をル・マン市美術館に寄贈する。1940年 3月、ヴェヌヴェルからパリに帰る。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びスイスでの展覧会等に出品する。パリが危険となったため、フランス政府がボルドーへ移ったのに伴い、日本大使館も同行、同胞約10名とともに大使館の自動車に同乗してパリを脱出、ボルドーに安着、続いてビヤリッツ市に移る。フランス政府、日本大使館がさらにヴィッシイへ移転したのち、9月4日パリに帰る。パリは占領地帯となり、食糧不足、生活増々困難となる中で制作を続ける。1941年 パリは石炭欠乏、寒冷のため大いに降雪、市民の生活は更に困難を加え、しばしば病臥、喘息発作に苦しみつつ制作を続け、ギャルリー・シャルパンチエにおけるラ・ファム・エ・レ・パントル・エ・スキュルプトゥール・コンタンポレーン(La Femme et les Peintres et Sculpteurs Contemporains)展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・デ・チュイルリー、ギャルリー・ギオー(Galerie Guiot)における在パリ日本美術家10人展及びリエージュ市(Ville de Liege)での展覧会等に出品する。フランス文部省並びに国立図書館版画部に作品が買上げられる。1942年 ギャルリー・シャルパンチエに開催の「水彩画1世紀)(Un siecle d’Aquarelles)展、「コローから今日までのフランス風景」(Le Paysage Francais de Corot a Nos Jours)展、「今日の浪漫的な花と果実」(Les Fleurs etles Fruits du Romantisme a Nos Jours)展、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ドラゴン(Galerie Dragon)、ギャルリー・ド・ベリ(Galerie de Berri)及びオルレアン市美術館(Musee d’Orleans)での展覧会等に出品する。ギャルリー・シャルパンチエにおいて12点の油彩草花図による個展(12Bouquets d’Hasegawa)を開催、好評を博し全作品売約となり、フランス文部省に作品が買上げられる。在仏同胞とともに家族一同日本へ国防献金をなす。1943年 ギャルリー・シャルパンチエに開催の「フランスの庭」展、静物画(草花と果実)展、水彩画展、小品展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びオルレアン市に開催の水画展等に出品する。また、パリのオルフェーブルリイ・クリストフル(I’Orfevrerie Christofle)において開催の銀製品展覧会に図案を自ら彫った銀製大皿と銀製煙草入れを出品する。12月9日、パリにおいてミシェリーヌ・ビアンシ(Micheline Bianchi)と結婚する。1944年 ギャルリー・シャルパンチエにおける水彩画展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グランヴール・フランセ展、ブザンソン(Besancon)市に開催の展覧会、ボルドー市のギャルリー・ゴヤ(Galerie Goya)での展覧会等に出品する。また、オルフェーブルリイ・クリストフルにおけるスポーツ展にテニスとフェンシング等の図案を彫った銀製品を出品する。8月15日頃からパリは数日間無警察状態となり、市内各所で流弾による死傷者が出るなどの中で自宅も襲われ、身辺に危険を感じ一時他所に難をさける。まもなくフランス軍先頭部隊がパリに入り、1ヵ月後自宅にもどる。1945年 フランス現代作家5名とともに各自異る技法による銅版画を制作し、国立図書館版画部のアデマル(Jean Adhemar)の紹介文を付した限定版画集『銅版画』(“La Gravure sur Cuivre”)第1巻がアンジェ(Angers)市のジャック・プチ(Jacques Petit)書房から出版されたが、日独伊敗戦の結果同胞とともにパリの中央監獄及びトランシイの収容所(Camp de Drancy)に次々収監され、版画集も収容所で署名する。病弱の身体で苦難を味わうが、フランス知人有力者の尽力により約1ヵ月後無事出所する。7月に帰宅後もある期間警察に出頭、絶えず看視される生活を続け、心身ともに疲労しほとんど制作を停止する。1946年 精神的打撃が徐々に薄らぎ漸次制作を始め、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。アシェト(Hachette)書房出版の雑誌『フェミナ』(“Femina”)に挿絵をする。夏期、ラニイ・ル・セック(Lagny le Sec)の村に滞在して多くの油絵を制作する。フランスの内務大臣事務室に掛けるため「瓶に挿したる罌粟」(油絵50号)1点とフランスの各省庁用として銅版画20点が、フランス文部省に買上げられる。1947年 ギャリルー・シャルパンチエにおけるイタリア風景展、サロン・ドートンヌ等に出品する。夏期、ヴィレーヌ・ラ・ジュエル(Villaines la Juhel)及びシブール(Ciboure)に滞留して多数の油絵を制作する。アメリカのニューヨーク図書館版画部に銅版画「コップに挿したる野草」が買上げられる。1948年 オルレアン市において油絵および銅版画の個展を開催する。サロン・ドートンヌに油絵2点、版画4点を出品し、既に版画部会員であったがさらに油絵部会員に当選する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。フランスの国立図書館版画部に版画作品が、フランス文部省に油絵静物画1点と銅版画12点が買上げられる。1949年 プチ・パレ美術館に開催の国際現代版画展に、日本からは不出品のためフランス版画部の一員として出品する。サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会(Societe “Le Trait”)展、ユニオン・デ・ザール・プラスティックの「白と黒」(Union des Arts Plastique “Blanc et Noir”)展及びギャルリー・ラスパイユ(Galerie Raspail)での展覧会等に出品する。フランスの国立図書館版画部に作品が買上げられる。1950年 東京と大阪で初めて開催された第1回フランス現代版画展覧会にフランス側から招待され参加出品する。ルーアン市美術館に開催の現代創作版画展、アソシアシオン・アミカル・エ・プロフェッシオネル・ド・グラヴュール・ア・ローフォルト(“Association Amicale et Professionnelle de Gravurs al’EauForte”)銅版画展、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、ギャルリー・ラスパイユでの展覧会等に版画を、ユニオン・デ・ザール・プラスティックの「庭と花と果物」展に油絵3点を出品する。フランス文部省に作品が買上げられる。1951年 アミアン市(Amiens)に開催のル・トレ協会展、サロン・ド・メ(Salon de Mai)、フランス版画展、セルクル・ヴォルネ(Cercle Volney)におけるパリ展、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ラスパイユにおけるル・トレ協会展、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー(Salon du Dessin et de la Peinture al’Eau)等に出品し、フランス文部省に作品3点が買上げられる。ルーヴル美術館版画部銅版彫刻部門(Chalcographie)にビュラン刻銅版画「コップに挿した野花(春)」「コップに挿した種草(秋)」特別刷並びに銅原版2点が買上げられる。1952年 ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ル・トレ協会展、カールスルーエ(Karlsruhe)における国際グラフィック美術展、ギャルリー・エリアン・ノルベルグ(Galerie Eliane Norberg)等における諸展並びにパリ市主催のバガテル(Bagatelle)の薔薇展に油絵と版画を出品する。日本における毎日新聞社主催の日本国際美術展に出品し、春陽会展に現代フランス版画陳列のためフランス版画家の選定とその作品発送等に尽力する。パリ市に作品が買上げられる。1953年 サロン・デ・ザルティスト・デコラトゥール(Salon des Artistes Decorateurs)、サロン・ドートンヌ、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ルーアン市開催の展覧会、ル・トレ協会展、ランス市(Reins)における現代版画家12人展及びミラノ市における現代フランス版画展に出品する。ランス市に「窓辺の花瓶」、フランス文部省に作品3点が買上げられる。東京サエグサ画廊及び名古屋において個展を開催する。ミラノのラ・マンドラゴラ・エディトリス(La Mandragora Editrice)書房から出版されたガブリエル・マンデル(Gabriel Mandel)著『現代フランス版画』(“L’Incision Francais Contemporanea”)中に掲載される。1954年 サロン・デ・ザルチスト・デコラトゥール、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ル・トレ協会展及びドイツでの展覧会等に出品する。オルレアン市及び大阪・富士川画廊において個展を開催する。ベルネ夫人(madame Paul Bernet)からパリに版画アカデミーの設立依頼を受けるが種々の理由のため承諾せず、のちヘイター(Hayter)版画研究所が開設された。パリのファロス(pharos)出版の『現代フランス人名辞典(1954-1955)』(“Dictionnaire Biographique Francais Contemporain”)に掲載され、また米国の美術館に作品が買上げられる。1555年 プチ・パレ美術館におけるフランス在住外国美術家展に油絵を出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・ドートンヌ、ル・トレ協会展、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー展及びセルクル・ヴォルネ(Cercle Volney)に開催の在パリ日本美術家展に出品し、東京サエグサ画廊で第2回版画個展を開催する。フランス大統領のエリゼ宮における外国貴賓招宴のための献立用小型銅版画を制作する。1956年 パリ市美術館における第1回国際現代造形美術展、フランス並びに諸国美術展に油絵及び版画を出品する。また、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・テール・ラタン(Solon des Terres Latines)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、リエージュ市(Liege)及びネヴェール市(Nevers)に開催の展覧会等に出品する。また、東京・ブリヂストン美術館、神戸市立美術館で開催の展覧会、朝日新聞社主催第1回日仏具象作家協会展、春陽会展、明治大正昭和名作美術展に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセの晩餐会献立用銅版画作成を委嘱される。東京サエグサ画廊及び大阪富士川画廊において版画個展を開催する。フランス文部省に作品7点が買上げられる。1957年 パリ市美術館におけるサロン・デ・テール・ラタン及び国立近代美術館におけるソシエテ・ラ・ジュヌ・グラヴュール・コンタンポレーン(“La Jeune Gravure Contemporaine”)展に出品し、かつ同展に日本現代版画30点を特別陳列する。また、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、セルクル・ヴォルネにおける在仏日本美術家展、ランス市立図書館で開催の版画展、東京で開催の日仏具象作家協会展、第1回東京国際版画ビエンナーレ展、日本版画協会展、春陽会展及び神奈川県立近代美術館主催ユーゴスラヴィア版画展等に出品する。フランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。パリの美食家協会(Les Compagnons de la Belle Table)のために献立用小品銅版画を制作する。1958年 サロン・ドートンヌ、サロン・ダール・リーブル(Salon d’Art Libre)、サロン・デ・テール・ラタン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、トゥールーズ市立図書館における出版展(Exposition d’Edition)、ル・トレ協会展、ガリエラ美術館(Musee Galliera)における在仏日本美術家展、コンピエーニュ(Compiegne)における日本美術家展等に出品する。東京・中央公論社画廊において1915年から1957年に至る回顧展を開催する。フランス文部省に6点、パリ市に2点の作品が買上げられる。1959年 パリに開催の第1回国際フロラリイ(Floralies Internationales)展、サロン「ランコントル」(Salon “Rencontres”)に油絵を出品する。ル・トレ協会展、国立近代美術館におけるソシエテ・ラ・ジュヌ・グラヴュール・コンタンポレーン展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ディジョン市(Dijon)及びワシントンにおける展覧会、東京における日仏具象作家協会展に出品する。名古屋で個展を開催する。パリ市に作品が買上げられる。1960年 サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品し、会員に当選、版画賞を受ける。サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、モントーバン(Montauban)、ストラスブール(Strasbourg)、マルセイユ、パリにおける版画展等に出品し、神戸の藤田画廊において版画個展を開催する。ミュルーズ市(Mulhouse)版画協会の所望により「小鳥と木の根」を制作する。フランス文部省に「玻璃球のある静物」が買上げられパリ近代美術館所蔵となる。また、パリ市に作品が買上げられる。パリ出版の『ル・クーリエ・グラフィック』(“Le Courrier Graphique”)107号にJ.R.トメ(J.R.Thome)執筆の長谷川潔の紹介文が掲載される。1961年 サロン・ドートンヌ1961年度展覧会の鑑査員に推薦される。サロン・ナショナル・デ・ボザール、アミアン市(Amiens)及びナンシイ市に開催の展覧会に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展に出品し、同協会の委嘱によりオー・フォルト技法による風景銅版画を制作する。ガリエラ美術館に開催の在仏日本美術家展に油絵と版画数点を出品し、パリ市に2点が買上げられる。1962年 ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、サロン・ナショナル・デ・ボザール、ギャルリー・デ・パントル・グラヴールでの展覧会、東京国際版画ビエンナーレ展、国際具象展、春陽会展等に出品し、東京・大丸画廊で版画個展を開催する。日本の文部省芸術課に昭和37年度秀作として作品2点が、またフランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。1963年 サロン・ナショナル・デ・ボザール、パリとニューヨークで開催のソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ブタペストで開催の国際版画展、ギャルリー・ダール・ル・パルナス(Galerie d’Art le Parnasse)における8人展、ルーアン市に開催の「ピカソからビュッフェまでのフランス創作版画展」、サルラ市(Sarlat)での展覧会等に出品し、名古屋・横浜・関内ギャラリー及びパリのギャルリー・サゴ・ル・ガレック(Galerie Sagot le Garrec)で個展を開催する。国立図書館版画部、フランス文部省及びベルフォール美術館(Musee de Belfort)に作品が買上げられる。パリのマヌエル・ブルッケール出版社(Edition Manuel Bruker)から「現代版画の巨匠」豪華限定版叢書『長谷川潔の肖像』(銅版画オリジナル10枚挿画入)がトリスタン・クランソール(Tristan Klingsor)序文、ロベール・レイ(Robert Rey)著で出版される。ソルボンヌ大学チェルゴ講堂に開催の「銅版画におけるエステチックとテクニックの関係に就て」の講演にマニエール・ノワール銅版作品「薔薇と時」がスライドで映写される。1964年 フランス芸術院コレスポンダン会員(Member Correspondant de l’Academie des Beaux-Arts)に当選し、学士院会議室において銅版画作品30余点を展覧する。フランス文部省からフランス国立美術学校1964年度版画科卒業制作試験官に任命され、フランス人教授とともに学生の作品を採点する。サロン・ナショナル・デ・ボザールの1964年度展覧会鑑査員に選ばれる。フォンテンブロー美術館(Musee de Fontainebleau)における米国の学生夏期講習学校に招かれ、学生のためにマニエール・ノワール銅版画作品を展覧し、デヴィノイ(Devinoy)校長が技法について説明する。ローマ日本文化会館に開催の日本美術家展、ブリュッセルにおける現代フランス版画展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展等に出品、フランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。また、日本の東京国際版画ビエンナーレ展、現代日本美術展、選抜秀作美術展、日本版画協会展及び春陽会展に出品し、横浜・関内ギャラリーで個展を開催する。1965年 ポワント・エ・ビュラン(Pointe et Burin)版画協会1965年展に「長谷川潔頌」(Hommage a Kiyoshi Hasegawa)特別陳列をする。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ヴァンヌ美術館(Musee le Vannes)における版画展、ル・トレ協会展、ニューヨークにおける版画展、東ドイツでの版画展、第14回パリ市長展(La Mairie des XIVe de Paris)等に出品し、また日本版画協会展、美術出版社「戦後20年日本版画展」、国立近代美術館で開催の在外日本作家展、選抜秀作美術展に出品する。8月18日から10月4日までイタリアに旅行する。1966年 フランス外務省を通じ文化省からフランス文化勲章(L’ordre des Arts et Letrres)授与の通知を受ける。サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品しマレ賞金(Prix Marret)を授与され、また現代日本美術展出品の「メキシコの鳩 静物画」が特別賞を受ける。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・テール・ラタン、ヴァルレア市(Valreas)での版画展、ジュネーブにおける日本版画展、国立図書館版画部主催の北アフリカとレバノンにおける版画展等に出品する。また東京国際版画ビエンナーレ展、選抜秀作美術展に出品する。シャトー・ド・フォンテンブロー(Chateau de Fontainebleau)における米国の学生夏期講習学校に招かれ、学生のためにマニエール・ノワール銅版画の展覧をする。『長谷川潔の肖像』天覧を賜わる。フランス出版の『ラルース大百科辞典』に姓名と銅版画の仕事について採録される。1967年 サロン・ナショナル・デ・ボザール、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、オルレアン市に開催の国際フロラリイ展、ヴァンクーヴァーとルーマニアに開催の版画展、アソシアシオン・フランセーズ・ダクシオン・アルティスティック(“Association Francaise d’Action Artistique”)展等に出品、また日本国際美術展、春陽会展、日動画廊に開催のパリ展に出品し、東京松屋において銅版画個展を開催する。パリ市長からパリ市の金賞牌(La Medaille de Vermeille de la Ville de Paris)を授与され、日本から勲三等瑞宝章叙勲の報に接する。1968年 1月 25日、パリの松井明大使公邸において瑞宝章授与式が行われる。ピッツバーグのカーネギー・メロン大学における国際20世紀植物画及び挿画展に出品、同大学のハント植物学ライブラリーに版画3点と『長谷川潔の肖像』が買上げられる。ル・トレ協会展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ主催のドイツ・ケルンにおける版画展、ギャルリー・デ・パントル・グラヴール主催のワシントンにおける版画展、フォンテンブローにおける日本美術展、東京の日動画廊の太陽展等に出品、また東京大丸美術部、プリンスホテル画廊及び京王百貨店において版画個展を開催する。美術出版社から1968年度「長谷川潔版画カレンダー」が出版される。ジャック・ラフィット出版社(Edition Jacques Lafitte)刊行の『フランス人名辞典』(“Who’s who in France”)に採録される。1969年 ル・トレ協会展、カルヴァドス(Calvados)とドイツにおける版画展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・デ・パントル・グラヴールにおける「1000の版画」展及びミュルーズ市役所における「日本の日々1969」(Journees Japonaises 1969)展等に出品し、市立図書館に作品2点が買上げられる。また日本における国際形象展、現代日本美術展、日動画廊の太陽展、春陽会展、日本版画協会展に出品する。1970年 国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、ギュスターヴ・ルーシー研究所における展覧会等に出品する。また日本における国際形象展に出品する。フランス国立貨幣・賞牌鋳造局において既に葛飾北斎と藤田嗣治の銅牌が作成されたが、日本の画家の3人目として長谷川潔の肖像を浮彫にしたメダルの鋳造が決定する。メモリアル出版社(Editions du Memorial)刊行のエドモン・デュ・サルス著『偉人功績録』(“Livre d’Or des Valeurs Humaines”)及びジャック・ラフィット出版社刊行の『フランス人名辞典(1969-1970)』に採録される。1971年 ヴィロフレ・イヴリーン(Viroflay-Yvelines)における20世紀版画展、ラ・ヴィル・ド・サン-ブリウク(La Ville de Saint-Brieuc)におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品、またストックホルムに開催の小品版画展、東京の国際形象展に出品する。フランス国立貨幣・賞牌鋳造局において造られるメダル表面の肖像浮彫をチゾン・ミッシェル夫人(Tison Michel)が担当し、裏面の図案浮彫等を作家自身が制作を委嘱され、1972年春に鋳造が確定する。パリのアンパニタン書房(Inpenitent)から出版のマルセル・ベアリュ(Marcel Bealu)短編集“Ville Volante”の口絵を担当する。京都国立近代美術館における回顧展の開催及び版画集出版等の計画実現のための準備にとりかかる。1972年 京都国立近代美術館及び東京国立近代美術館で開催の「ヨーロッパの日本作家」展にマニエール・ノワール作品11点を出品、全作品が京都国立近代美術館に購入される。1973年 河出書房出版の『日夏耿之介全集』に版画挿画を担当する。同全集は造本装幀コンクールにおいて最高賞の文部大臣賞を受ける。1976年 横浜市長から日仏両文の感謝状と黄金の鍵を授与される。1978年 フランス彫刻家ジョルジュ・ゲラール(Georges Guerard)作成の長谷川潔の胸像(ブロンズ)が横浜市民ギャラリーの所蔵となる。1979年 横浜市民ギャラリーにおいて版画個展が開催される。1980年 大阪・フラワーコレクションギャラリー及び大阪フォルム画廊(東京、大阪)、東京松屋において版画個展が開催される。京都国立近代美術館で<長谷川潔展>開催される。(本年譜は<長谷川潔展>目録(1980年6月、京都国立近代美術館)所収の年譜から、主要事項を転載した。)

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