本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





門坂流

没年月日:2014/04/03

 画家・版画家の門坂流は4月3日、胃がんのため東京都内の病院で死去した。享年65。 1948(昭和23)年5月25日、京都市に生まれる。本名は門坂敏幸。父親は熊本県、母親は滋賀県の人。6歳まで京都で育ち、滋賀県に移住。日野川の清流やかまどの炎、風にたなびく稲穂を眺めたり、日光写真や写し絵をして遊び、また製図用パンタグラフを用いてスターのブロマイドを描き写すことをよくしたという。このような幼少期の経験や、高校時代にフェルメールの画集に感銘を受けたことが絵を志す原点となり、68年東京藝術大学油絵科に入学するが、肌に合わず退学。その後、知人の紹介により、雑誌『ワンダーランド』(のちの『宝島』)に連載された片岡義男「ロンサムカウボーイ」の挿画でデビュー。鉛筆・ペン画で創作活動を始め、数多くの雑誌挿絵や書籍装画などで作品を発表する。85年ころからビュランで銅版を刻む感覚と線の鋭さに惹かれ、エングレービングの技法研究をはじめる。88年自身最初の作品集『風力の学派』(ぎょうせい、文・荒俣宏、池澤夏樹、伊藤俊治)を上梓したのちは、エングレービングが創作活動の中心となる。87年には京橋のINAXギャラリーで個展を開催、以後、ガレリア・グラフィカ、不忍画廊、青木画廊などで多くの個展を開催。1998(平成10)年から翌年まで朝日新聞朝刊小説、高樹のぶ子「百年の預言」の挿絵を担当、ルーマニア、オーストリアを取材し、リトグラフ、ペン画、水彩、あるいは銅版画で発表。「エングレービングの第一人者」とも呼ばれ、シャープな線の積み重ねによる流紋を基本要素として描かれた作品は「自然の内包する生命力の顕在化」ともいわれ、高く評価された。 作品集はほかに『水の光景 ビュランによる色彩銅版画集』(ぎょうせい、1990年)、『門坂流作品集 百年の預言』(朝日新聞社、2000年)、『Ryu KADOSAKA DrawingWorks』(不忍画廊、2006年)、『Engraving』(不忍画廊、2013年)があり、「線の迷宮―細密版画の魅力」(目黒区美術館、2002年)、「森羅万象を刻む―デューラーから柄澤斉まで」(町田市立国際版画美術館、2016年)などの展覧会で版画表現を追究した作家のひとりとして作品が展観された。

一原有徳

没年月日:2010/10/01

 モノタイプの手法で知られる版画家の一原有徳は10月1日、老衰のため死去した。享年100。1910(明治43)年8月23日、徳島県那賀郡平島村(現、阿南市那賀川町)に生まれる。1913(大正2)年、家族とともに北海道虻田郡真狩村阿波団体(現、真狩村富里)に移住。23年、小樽に移住し、株式会社北海道通信社に入社。同年から小樽実修商科学校(夜間)に通学。そこで書道教師だった小林露竹(俳号、露石)の句会に参加し、俳句創作のきっかけとなる。1927(昭和2)年、逓信省小樽貯金支局(現、小樽貯金事務センター)に入局し、以後43年間勤務。この頃から本格的に俳句創作に携わり、句誌に投句を始める。また、31年には休暇を利用しての登山を始める。44年、月寒(札幌)の大砲小隊に入隊。翌年、広島へ転属。その後、小樽の第五船舶輸送司令部暗号班に配属されるも、終戦によって9月に除隊。51年、小樽貯金支局に勤務していた画家須田三代治から油彩画の道具を譲り受け、指導を受ける。同年10月に第5回小樽市美術展に出品し初入選。翌年の第6回同展では北海道新聞社賞、翌々年の第7回同展で文化クラブ賞。54年、須田の友人である国松登の指導のもと、第9回全道展で「峡」が初入選。その後、第12回まで油彩画を出品し、入選を続ける。この頃、パレット代わりにしていた石版石に残ったペインティングナイフの痕跡に注目し、モノタイプ版画の制作を始める。モノタイプ版画は、石版などの上に均一に延ばしたインクをナイフなどで削ぎ落とし、版画紙に転写するもので、方法としては版画に類するものの、一度しか印刷することができないという点で大きく異なる。58年、モノタイプの手法を用いた年賀状が国松の眼にとまり、第32回国画会展にモノタイプ作品を出品。「RON」、「SRO」が初入選を果たす。このことがきっかけで、国画会の版画家河野薫から版画についての基礎知識を教わり、金属凹版作品、いわゆるエディション・シリーズの制作にも本格的に取りかかる。翌59年、第27回日本版画協会展に出品した「轉」が初入選。この作品がアメリカのコレクターであるフランク・シャーマンに買い上げられたことで、当時の神奈川県立近代美術館副館長土方定一の眼にとまる。60年には、土方の推薦によって、世界を巡回した「現代日本の版画展」(神奈川県立近代美術館主催)に「RON」を含む計9作品が出展される。6月には東京画廊において初の個展を開催。その後は、勤務先の仕事の傍ら、北海道を中心に作品を発表する。この間、モノタイプや金属凹版を応用し、糸や金網、機械部品を直接プレスしたり、あるいは、丸鋸の刃やトカゲの皮、するめをそのまま版として用たりするなど、様々な実験を行っている。定年退職後の71年、下山中に遭難し、右大腿骨骨折。その後、3年にわたって三度の手術を受けることになる。退院後の76年、札幌にあるNDA画廊の長谷川洋行から青画廊の青木彪を紹介され、再び東京での個展を開催。これに先立って、『みづゑ』10月号に谷川晃一との対談が掲載されたこともあって、ふたたび脚光を浴びることとなる。翌年、現代版画センター主催の「現代と声」展に選ばれ、企画者である北川フラムの知遇を得る。北川フラムは、その後もいくつかの個展を企画し、89年には『ICHIHARA 一原有徳作品集』を出版する。79年、第2回北海道現代美術展に選定出品された「KIH(a)」で優秀賞。同年、一原が勤務していた貯金局の建物内に市立小樽美術館が開館。また、版画紙を複数枚つなぎ合わせたり、それを円筒形にして立体的な構造物をつくる手法の第一作となる「SON・ZON」が制作されたのもこの年である。この時期には、金属を熱して焼き付ける「Branding」シリーズ、ステンレスの鏡面を歪ませた「SUM」シリーズなどといったオブジェ作品を多数制作。また、83年「無題」(川崎市営競輪場外壁)、84年「炎」(小樽花園公園)、「炎II」(銭函駅前)とモニュメント作品も制作している。その後も多産な制作活動をつづけ、各地で精力的に個展を開く。主な個展は、88年「現代版画の鬼才 一原有徳の世界」展(神奈川県立近代美術館別館)、1997(平成9)年「イチハラ・ステンレス・オブジェ」(市立小樽美術館)、98年「一原有徳・版の世界 生成するマチエール」(徳島県立近代美術館、北海道立近代美術館)、2002年「所蔵作品お披露目展その四・一原有徳展」(武蔵野市立吉祥寺美術館)、12年「追悼・一原有徳 ヒラケゴマ」(同)など。また、主な受賞は、1981年、第4回北海道現代美術展に選定出品された「SON・ZON」によって北海道立近代美術館賞。90年、北海道文化賞受賞。96年、地域文化功労者の文部大臣表彰。2001年、第33回北海道功労賞。11年、市立小樽美術館の三階に一原有徳記念ホールが開設され、同年10月に「没後一年 一原有徳 大版モノタイプ~終わりなき版への挑戦」展が開催された。

品川工

没年月日:2009/05/31

 版画家の品川工(本名関野工)は5月31日、老衰のため死去した。享年100。1908(明治41)年6月11日、新潟県柏崎市に生まれる。もともと美術に興味はあったものの、銀座で大勝堂という貴金属店を経営していた伯父の勧めで、東京府立工芸学校金属科(現、都立工芸高校)に進む。1928(昭和3)年に卒業し、伯父の紹介で彫金家宇野先眠に師事。しかし、型にはまった彫金の仕事への関心が薄れたため、宇野先眠のもとを去り、兄である品川力とともに東京帝国大学の近くでペリカンという喫茶店を開く(のちのペリカン書房)。そこで、当時帝大生だった立原道造、織田作之助、串田孫一、岡本謙次郎、三輪福松、北川桃雄、宇佐見英治らと出会う。彼らに翻訳してもらったモホイ・ナジの著作に感銘を受け、また、ペリカンの賓客だった晩年の古賀春江の知己を得るなどして、「本当に芸術に目醒めた」という。この頃、紙彫刻、板金、オブジェなど様々な作品を制作していたが、35年に版画家恩地孝四郎に師事したことをきっかけに、本格的に版画制作を始める。39年に一木会に参加。第二次大戦中は、37年に徴用されて株式会社光村原色版印刷所で軍の作戦地図などを作成するかたわら、作品制作を精力的に行い、44年に銀座三越で初の個展を開く。終戦直前に、農商省工芸指導所の玩具研究室長となるが、終戦後に退所し独立。47年日本版画協会第15回展に出品し日本版画協会展受賞。同年第21回国画会展に「海辺」を出品し国画奨学賞を受賞。翌48年にも「海辺の幻想」で国画奨学賞を受賞。二年連続受賞の栄を受け会員に推挙され、翌年から国画会会員。53年東京国立近代美術館で開催された「抽象と幻想」展に「円舞(終曲のない踊り)」を出品。翌54年には、ルガノ国際版画ビエンナーレ、サンパウロビエンナーレ、英国国際版画展などの国際展に出品。56年には日本橋高島屋で開催された「世界・今日の美術」展に「家族」を出品するなど、版画家としてのキャリアを積んでいった。また、この頃には、光村原色版印刷所での経験をもとに、写真の印画のプロセスを利用した作品制作を試みている。印画紙の上に色セロファンやインクをおいて感光させるカラーフォトグラムを53年に、ダイトランスファー法(レリーフ法)による写真プリントのプロセスに手を加えて制作したヌード写真を55年に、型紙を使って絵の具を定着させるステンシルの手法を写真の現像プロセスに応用し、型紙から漏れる光で印画紙を感光させて像を定着させる「光の版画」シリーズを翌56年に、それぞれ中央公論画廊での個展でモビールや版画とともに発表した。また、63年には、乾板ガラスを用い、絵具の質の違いや油性絵具と水性絵具の反発によって画面を構成するアンフォルメール(白と黒)を、74年には、感光材を塗った鏡面の上にポジフィルムを載せて感光、硬化させ、他の部分は取り除き、そこに樹脂塗料を塗るという手法で、プリントミラーと呼ばれる作品を制作した。こうした版画の原理にもとづいた実験的作品の制作と並行して、オブジェやモビールも継続して制作・発表し、68年に『たのしい造形 モビール』(美術出版社)を、71年には『新しいモビール・動く造形』(日貿出版社)を出版した。食器や工具を利用したオブジェと、周囲の空気に応じて動くモビールは、版画と並んで品川の制作の中心にあり続けた。73年東京国立近代美術館で開催された「戦後日本美術の展望―抽象表現の多様化」に出品。79年椿画廊「過去と現在」、80年りゅう画廊「品川工・35年の歩み」展と、それまでの業績を振り返る個展を開催。85年『楽しいペーパークラフト』(講談社)を出版。その後の主な展覧会としては、88年「品川工展:素材との対話」(札幌芸術の森センター)、1990(平成2)年「品川工とその周辺の版画家たち」(町田市立国際版画美術館)、96年「現代美術の手法(2)メディアと表現 品川工 山口勝弘」(練馬区立美術館)などがある。また2008年には練馬区立美術館で生誕100年を記念した特集展示「品川工の版画展」が開催された。

萩原英雄

没年月日:2007/11/04

 版画家の萩原英雄は11月4日、虚血性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年94。1913(大正2)年2月22日、甲府市相川町に生まれる。21年警察署勤務であった父の赴任地である韓国定州に家族で移住するが、1929(昭和4)年に単身、日本に帰国し日本大学第二中学(現、日本大学附属第二高校)に転入。30年耳野卯三郎に油彩画を学ぶ。32年日本大学第二中学校を卒業し、同年4月に文化学院美術科に入学。同年第9回白日会展に油彩画「雑木林」で、第19回光風会展に油彩画「上り道」で初入選。また、同年の第19回日本水彩画会展に「アネモネ」で初入選を果たす。33年4月東京美術学校油画科に入学。この年にも白日会、光風会に入選するが、東京美術学校の規則として在学中の公募展出品は禁止されていたため、以後、出品していない。この頃は対象を写実的に描写するアカデミックな訓練を受ける一方、セザンヌに心酔し、近隣に住んでいた長谷川利行と34年から知りあって行動を共にして芸術に対する姿勢などに影響を受けるなど、反アカデミズムの傾向を強めた。38年、東京美術学校油画本科を卒業し、高見沢木版社に入社。日本の浮世絵版画の技法等について多くを学ぶ。43年応召により高見沢木版社を退社する。戦災でそれまでの作品を焼失するが、戦後の51年、銀座・資生堂で油彩画による初個展を開催する。53年、肺結核にかかり以後56年1月まで療養生活を送る。この間、リハビリテーションの一環として木版画を手がけ、日本の造形の伝統を再認識して、東洋的な表現を求めるようになる。56年3月に版画による個展を開催。同年、第24回日本版画協会展に「雲」「風」「傷つける牛」で入選。57年第25回日本版画協会展に「渡り鳥」「陽炎」で入選し、同会会友となる。58年第26回同展に抽象的画面を、木版画の平面性から脱した新技法による版で摺り出した「コンポジション≪E≫」ほかを出品し、同会会員となる。同年の第1回国際色彩版画トリエンナーレ(スイス)に「コンポジションR」を出品したほか、第29回ノースウエスト国際版画家展(米国シアトル)に「コンポジションL」を出品するなど、国際展に作品を発表する。60年、第2回東京国際版画ビエンナーレに「石の花(黒)」「石の花(灰)」「石の花(赤)」を出品し、神奈川県立近代美術館賞を受賞。62年、第7回ルガノ国際版画ビエンナーレに「赤の幻想」「藍の幻想」「白の幻想No.1」「緑の幻想」を出品し、浮世絵の空摺り技法を用いたエンボス表現を活かした「白の幻想No.1」でルガノ市長賞(グランプリ)を受賞する。62年第5回現代日本美術展に「鎧える人No.1」「鎧える人No.2」を招待出品。63年、第7回国際日本美術展に「作品A」を招待出品。同年の第5回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「白の幻想No.2」「鎧える人No.6」「鎧える人No.11」を出品し、「白の幻想No.2」でユーゴスラビア科学芸術アカデミー賞を受賞。同年、リュブリアナ近代美術館で「萩原英雄個展」を開催し「石の花(白)」ほか版画30点を展観する。64年には米国フィラデルフィア美術館で個展を開催。65年、第4回クシロン国際木版画ビエンナーレ(スイス)、第6回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレに出品。66年には第1回クラコウ国際版画ビエンナーレ、第5回東京国際版画ビエンナーレに出品し、後者では「お伽の国No.1」で文部大臣賞を受賞する。67年4月、米国オレゴン州立大学客員教授として招かれ、版画技法の指導をして7月に帰国。同年、第7回リュブリアナ国際版画ビエンナーレで「お伽の国No.12」がリエカ国立近代美術館賞受賞、また、同年チェコスロヴァキア国際木版画展に「お伽の国No.1」「お伽の国No.2」「お伽の国No.17」を出品し、グランプリを受賞する。68年、第1回ユーゴスラビア国際素描展に素描「天使と曲芸Ⅰ」「天使と曲芸Ⅱ」「花の天使」を出品して受賞、70年、第1回バンスカ国際木版画ビエンナーレ(チェコスロヴァキア)に「天使昇天No.3」「天使昇天No.5」を出品して受賞する。86年、郷里の山梨県立美術館で「現代木版画の巨匠・萩原英雄の世界展」が開催され、木版画、油彩画、コラージュなど200点が出品された。1991(平成3)年、日本版画協会名誉会員となる。92年、北海道登別市民会館で「萩原英雄の世界―現代木版画の巨匠展」が開催される。また、同年、第12回バンスカ国際木版画ビエンナーレに「追憶No.11」を招待出品し、名誉賞を受賞する。96年武蔵野市民会館で「萩原英雄―無垢なる世界Vol.1」展、97年、同館で同展Vo.2が開催される。2000年に山梨県立美術館に自らの作品2637点と、収集品のコレクション760点を寄贈。翌年、同館で寄贈品をもとに「作家の眼差し―萩原英雄コレクション展」が開催され、01年には同館で「色彩の賛美歌 萩原英雄全仕事」展が開催された。浮世絵など日本の伝統的木版画技法を踏まえつつ、従来は平面性の強い、複数制作のもの、とされてきた版画に、コラージュによる版木の制作やモノタイプの試みなどにより新たな展開をもたらし、戦後、日本の版画が国際的評価を高めていく中で、その一翼を担った。1977年から84年まで東京学芸大学講師として教鞭を取ったほか、以下のような著書がある。『版画のたのしみ方』(主婦と生活社、1966年)、『現代版画入門』(主婦と生活社、1972年)、『木版画―基礎から創作まで』(主婦と生活社、1980年)、『萩原英雄版画集』(講談社、1982年)、『萩原英雄木版画作品総目録Vol.2』(ギャラリー壱山、1986年)、『萩原英雄木版画作品総目録Vol.1』(ギャラリー壱山、1988年)、『日本現代版画 萩原英雄』(玲風書房、1992年)、『美の遍歴』(日本放送出版協会、1996年)

北岡文雄

没年月日:2007/04/22

 日本と中国の木版技法を融合した作風で知られる版画家の北岡文雄は4月22日、肺炎のため東京都渋谷区内の病院で死去した。享年89。1918(大正7)年1月11日東京都に生まれる。東京美術学校油画科本科3年であった1939(昭和14)年、平塚運一に習い初めて木版画を手がける。この時の作品「静岡風景」は同年の第8回日本版画協会展に出品され、以後同展への出品を続ける。初期の作品は「表現をできるだけ単純にして、対象の核心に迫る表現」が意識され、太い輪郭線に平塚の影響がみられる。42年、平塚主催の「きつつき会」に参加、43年には日本版画協会会員となり、恩地孝四郎や関野準一郎らと知り合う。45年1月新京(現、長春)にあった東北アジア文化振興会に赴任、敗戦後もしばらく安東(現、丹東)に留まり、東京美術学校に留学していた同期の田風と白山芸術学校で再会、中国木刻に出会う。白と黒による劇的リアリズムから受けた衝撃の跡は、本国への引き揚げを描いた「祖国への旅」シリーズ(47年)にみられるが、その表現は政治色や激情を交えない平明なものである。帰国後も、戦前から関わっていた「一木会」(恩地孝四郎主宰)に出席、51年には春陽会会員となる。また続けていた中国木刻風の作品から次第に抽象的作風へと傾いていく。この傾向は50年頃から明確となり、キュビスムや構成主義を経て幾何学的作風へと至るが、やがて再び写実に目覚める。その契機となったのが55年からのフランス留学である。長谷川潔のとりなしでエコール・デ・ボザールのロベール・カミに木口木版を習い、「憩うモデル」「道路工事」等を制作するが本格的な制作は帰国後の60年前後で、北海道の漁村をテーマに「海辺の老人」や「鮭網」等を制作。木口木版と並行して、板目木版による作品も手がけているが、これらは概して幻想性の強い作風となっている。札幌版画協会(現、北海道版画協会)設立にも尽力しており、56年には全道美術協会会員となる。64年フルブライト交換教授として渡米、ミネアポリス美術学校で木版画とデッサンの指導にあたるなどして一年半ほど滞在。この地の風景を描いた「ジョージタウン(ワシントンD.C.)」「樹間」などは幻想性の払拭されたクリアな写実表現となっている。このスタイルは以後北岡の制作の基本となり、日本各地に足を運び風土色溢れる風景版画を次々制作する。78年台北市国家画廊で個展を開いた後、80年には中国政府の招待により北京中央美術学院にて木版図講習と個展を開催。87年に再び同政府より招待され、同美術学院及び、四川美術学院、浙江美術学院にて木版図講習と個展開催。85年の「風土連作」や92~93年の「七曜画譜」といった装飾性の強いモノトーンの連作は、北岡風景版画の集大成ともいえる大作。88年町田市立国際版画美術館にて「北岡文雄木版画展」を開催。1990(平成2)年版画家として初めて日本美術家連盟理事長就任。93年北海道立近代美術館にて「光と風の版風景 北岡文雄の世界」展開催。90年代中頃からは海外の取材も積極的に行い、梅原画廊・NHKサービスセンターの企画により95年から、ユネスコ登録世界遺産自然文化遺産シリーズの制作を始める。97年、勲四等旭日小綬章受章。2006年、日本橋髙島屋にて米寿記念展、09年文芸春秋画廊にて回顧展が開かれる。上記以外にも、生涯を通じて日本国内のみならず、世界各地で精力的に個展を行っている。主な出版物に『木版画の技法』(雄山閣、1976年)、『版木の中の風景 北岡文雄画文集』(美術出版社、1983年)、『北岡文雄 木版画60年 版と造形の探求』(美術出版社、2003年)等がある。

吉原英雄

没年月日:2007/01/13

 現代日本を代表する版画家吉原英雄は、1月13日膵臓がんのため死去した。享年76。1931(昭和6)年1月3日、広島県因島市に生まれる。17歳のときから近所の画家のもとに出入りし、クレパス画や水彩画、専門書に触れるうち美術の世界に引き込まれ、とりわけパスキンの水彩に惹かれるようになる。浪速大学(現、大阪府立大学)合格後間もなく喀血し入院、病状が快方に向かうと、二科会会員の彫刻家上田暁に弟子入りし、上田も講師を務める大阪市立美術研究所に通うようになる。52年からは、同じく講師であった遠縁の吉原治良のアトリエに通い、本格的に絵を描き始める。芸大・美大への進学志望から転向して、公募展を目指した吉原の初出品は54年の第2回ゲンビ展であった。ゲンビの中心的存在でもあった吉原治良主導の具体美術協会結成に関わるが55年に脱退、瑛九を代表とするデモクラート美術家協会に移る。「イワンの馬鹿」や「断章」、「都会の重心」「空の標識」といったシュルレアリスティックな油彩画を出品する一方、泉茂の影響でリトグラフを始める。57年、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフ「ひまわり」を出品し池田満寿夫とともに入選、泉茂も招待作家として参加したが、これを機にデモクラートは解散する。国際展に入選すること自体が珍しかった当時にあって、58年には第1回グレンヘン国際色彩版画トリエンナーレに「潜水」が入選。この頃から抽象への移行が現れ始め、その決定的作品となる「黒い流れ」は、機械的に描かれた短い線による表現で、続けて複数の円形を並置する構図や版画の紙を破る技法等を試した後、同一画面上で二つの相似した形を並べる方法を取り始める。65年からリトグラフと銅版の併用を始め、鳥の嘴と女性の肉体、原色のストライプを組み合わせた作品を多数制作した後、68年の第6回東京国際版画ビエンナーレに招待出品し同手法による「シーソーI」で文部大臣賞を受賞。米モード誌の写真から引用したスカートの女性モチーフを反復させた構図と鮮やかなブルーが印象的な本作品は、吉原の代表作であると同時に、日本におけるポップアートの記念碑的作品ともいえる。70年、第20回芸術選奨文部大臣新人賞受賞。その後リトグラフのみによる「ミラー・オブ・ザ・ミラー」シリーズ、70年代後半には銅版による「剥奪されたもの」シリーズ等を展開。78年に京都市立芸術大学教授に就任、若手を育てる一方で、自身は「ガラステーブル」「二つの地平」などのシリーズを手がける。以降晩年にかけて展開された「モノクロームの人々」「樹の聲・人の聲」「二つの地平―残像」などのシリーズではモノクロームの作品が主となる。1994(平成6)年紫綬褒章受章、翌年京都市文化功労者の顕彰を受ける。96年京都市立芸術大学名誉教授に就任。2002年勲三等瑞宝章を受勲。03年大阪市文化功労者の顕彰を受ける。01年町田市立国際版画美術館にて「吉原英雄の世界―色彩の誘惑・形のエロス―」が、05年ふくやま美術館において「吉原英雄:ポップなアート」展が開催された。

南桂子

没年月日:2004/12/01

 銅版画家の南桂子は、12月1 日午後6時58分、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年93。本名浜口桂子。1911(明治44)年2月12日、富山県射水郡に生まれる。1928(昭和3)年、富山県立高岡高等女学校を卒業。45年、34歳で東京に移り住み、佐多稲子の紹介で壺井栄に童話を学んだといわれる。49年、第13回自由美術展に油彩画「抒情詩」を出品(出品者名は竹内桂子)。同年油絵を師事した森芳雄のアトリエで浜口陽三と出会う。50年、第2回日本アンデパンダン展、第14回自由美術展に出品する。51年第5 回女流画家協会展に「風景」を出品。その後も同会には52年、53年、55年、56年(出品目録の記載は南佳子)に出品したほか、日本アンデパンダン展(51年、52年)や自由美術展(51年から53年)に、主に油彩画を出品した。52、53年は朱葉会(連立4回と5回)にも出品。53年には東京の丸善画廊で吉田ふじを・友田みね子・南桂子三人展を開催している。54年渡仏、パリでは浜口陽三とともに暮らし、フリードランデルの版画研究所でアクアチントを学ぶようになる。54年に第18回自由美術展に銅版画「占い師」「小鳥と少女」を出品。翌55年、自由美術家協会会員に推される。同年の日本アンデパンダン展にも銅版画を出品した。56年、フランス文部省がアンデパンダン展に出品した「風景」を買い上げる。58年にはユニセフによるグリーティングカードに「平和の木」が採用された。パリにいながら自由美術展には22回まで出品を続ける。50年代末から70年代にかけては東京やリュブリアナの国際版画ビエンナーレ、タケミヤ画廊での銅版画展、国内外で開催される日本の現代版画を扱う展覧会にも多数出品している。この時期、個展はニューヨークやサンパウロ、ハイデルベルグなど各地で開かれ、浜口との二人展を含めて国内でも多数の発表の機会を持った。また、日本版画協会展(59年27回、64年32回、65年33回、66年34回、82年50回)、現代日本美術展(60年4回、64年6回、66年7回、68年8回)、日本国際美術展(61年6回、63年7回、65年8回、67年9回)、国際形象展(69年8回から72年11回まで)などにもパリから出品している。61年から81年まで、パリの画廊と専属契約を交わす。81年にはサンフランシスコに移り、日本に帰国したのは1996(平成8)年だった。南は、硬質な線を用いて少女や樹木、鳥などのモチーフを繰り返し描き、陰影を伴わない静謐で幻想的な空間を作り出した。神奈川県立近代美術館で61年にフリードランデル・浜口陽三・南桂子版画展が開かれたほか、90年には高岡市美術館で個展が開催された。浜口陽三との二人展は、高岡市美術館では95年に、また練馬区立美術館では2003(平成15)年に、01年には高岡市美術館で宮脇愛子との二人展が開催されている。また、98年には東京・日本橋蛎殻町に美術館「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が開館し、南作品も常設展示される。05年4月には同館で追悼展、06年4月南桂子―bonheur―展が開かれている。70年に谷川俊太郎の詩集『うつむく青年』の装画を手がける。作品集は、手のひらに収まる『限定版南桂子の世界 空・鳥・水…』(美術出版社、1973年)のほか、『南桂子全版画作品集』(中央公論美術出版、1997年)、『南桂子作品集 ボヌール』(リトルモア、2006年)がある。

由木礼

没年月日:2003/11/26

 版画家の由木礼は11月26日12時5分、心筋梗塞のため死去した。享年75。本名上村礼生(うえむら・のりお)。1928(昭和3)年11月7日、東京・芝白金に生まれる。45年3月日本中学を卒業。大学受験を控えた由木を残して家族は福岡県に越していたが、同年4月、父を失ったため由木も福岡に移り住む。47年上京、萩原朔太郎の詩に衝撃を受ける。続いてボードレールやポーに惹かれ、それらを原語で読むためにフランス語と英語を学び、アテネ・フランセに通う。52年同校を卒業、そのまま職員となる。この頃恩地孝四郎や品川工の版画を知り、品川に師事する。53年第21回日本版画協会展に「陽気な風景」「五月の葬式」で初入選。56年、品川が中心となったグラフィック・アート・クラブに参加、グループ展に出品し人的交流を広げ、それを契機に57年サトウ画廊で初個展を開催した。70年第47回春陽展に「デュラの雪」「ホワイトピラミッド」が初入選、76年春陽会会員。ほぼ毎年日本版画協会展と春陽展に作品を発表した。加えて国際木版画展に参加したほか、ニューヨークやトロントなど海外でも個展を開催。81年にフランスのシャロン市立ドゥノン美術館で個展を、翌82年には神奈川県民ホールで土谷武、難波田龍起とともに三人展を開催する。1997(平成9)年、版画集団「版17」を結成、国内外でグループ展を開催した。99年第76回春陽展で岡鹿之助賞を受賞。由木は木版のマティエールを生かし、「時」をよく題材にした。60年代半ばには、その抽象的な形態に地面から立ち上がり長く伸びたゆらめく黒線が現れ、画面は具象と空想が入り混じった空間となった。90年代には色彩豊かなピラミッドをよく描く。そのほか由木は由木式ボールバレンと呼ばれるばれんを開発し、発光する造形作品「カレイドスペクトラ」や絵札「悪魔骨牌」(あくまかるた)も創作している。2005年には『由木礼全版画集』が玲風書房から出版されている。

浜口陽三

没年月日:2000/12/25

 銅版画家で、日本版画協会名誉会員の浜口陽三は、12月25日午後5時41分、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年91。1909(明治43)年4月5日、和歌山県有田郡広村に生まれる。父浜口儀兵衛は、ヤマサ醤油十代目社長。幼少時、父が家業の醤油醸造業に専念するため、一家で千葉県銚子市に移る。上京して中学に通い、1928(昭和3)年中学を卒業、東京美術学校彫刻科塑造部に入学。30年同学校を中退し、渡仏。パリ滞在中は、アカデミー・グラン・ショーミエールなどの美術学校に一時通うが、もっぱら自室で油彩画を描き、海老原喜之助、村井正誠、岡本太郎、森芳雄など、パリの日本人画家たちと交友する。39年、第二次世界大戦勃発のため帰国。戦後、銅版画の技法を学び、51年、銅版画による最初の個展を開催(東京銀座、フォルム画廊)。53年、私費留学生として再渡仏。55年、4色版を使用した最初のカラーメゾチント作品「西瓜」を制作。57年6月、第1回東京国際版画ビエンナーレに「青いガラス」、「水さしとぶどう」を出品、東京国立近代美術館賞受賞。同年10月、第4回サンパウロ・ビエンナーレに「西瓜」等を出品、日本人として初めて版画大賞を受賞。58年1月、第9回毎日美術賞特別賞を受賞。61年6月、第4回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「キャベツ」等を出品、グランプリ受賞。このように果物や身辺の静物をモティーフにした作品は、カラーメゾチンという独自の技法によって、親密でより深い情感をもたらすようになり、それによって国際的にも一躍注目されるようになった。81年、パリから、米国サンフランシスコに移住、同年和歌山県文化賞受賞。85年、日本国内で最初の回顧展となる「浜口陽三展-静謐なときを刻むメゾチントの巨匠」が開催される(東京、有楽町西武アート・フォーラム、国立国際美術館)。86年、勲三等旭日中綬章を受賞。1998(平成10)年、浜口の作品を常設展示する施設として「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が、東京都中央区日本橋蛎殻町に開館した。没後の2002年9月から03年9月まで、生前作家夫妻により国立国際美術館に寄贈された作品をもとに構成された「浜口陽三展」が、国立国際美術館をかわきりに、千葉市美術館、足利市立美術館、都城市立美術館、熊本県立美術館を巡回している。エスプリにあふれた、簡潔な構図のなかで、奥深い情感をたたえたその版画作品は、技法もふくめて他に類例がないものとして今後も、評価されつづけていくことだろう。

徳力富吉郎

没年月日:2000/07/01

 版画家で西本願寺絵所12代目の徳力富吉郎は7月1日午後7時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年3月22日、京都市の西本願寺絵所を代々務める徳力家に生まれる。父が森寛斎の門弟であった関係で、幼少時より父の兄弟子にあたる山元春挙に絵の手ほどきを受ける。1920(大正9)年より京都市立絵画専門学校に日本画を学び、入江波光の指導を受けた。在学中の22年、第4回帝展に「花鳥」が入選。翌年の卒業後は土田麦僊の山南塾に入る。その一方、鹿子木孟郎の下鴨画塾にも通いデッサンを学んでいる。1927(昭和2)年第6回国画創作協会展に洋画的写実を取り入れた「人形」「人形とレモン」が初入選し、後者で樗牛賞を受賞。第7回展には日本画的な装飾性を生かした「初冬」「茄子」が入選し、国画奨学金を受ける。28年に国画創作協会が解散すると新樹社の創立に参加。また平塚運一の版画講習会に参加したのをきっかけに京都の麻田辨自、浅野竹二、東京の棟方志功、下山木鉢郎らとグループ「版」を結成し、同人誌『版』を創刊する。新樹社でも日本画とともに版画を出品。29年の第10回帝展に版画「月の出」が入選し、30年から33年まで春陽会にも版画を出品する。31年には麻田辨自、浅野竹二らと版画の大衆化を目指す版画誌『大衆版画』を発刊、二号で終刊となるが、その姿勢は以後も貫かれることになる。戦後は46年に版画製作所を興し、徒弟を養成して産業的版画の量産を始める。51年、京都版画協会を結成。版画工房を主宰。72年に薬師寺吉祥天像の複製版画、また85年に西本願寺西山別院の襖絵を制作している。80年には京都市文化功労者、1992(平成4)年に京都府文化賞特別功労賞を、96年日本浮世絵協会より浮世絵奨励賞を受賞。91年には版画普及のため京都版画館を設立。主著・画集に『版画随筆』(三彩社 67年)、『日本の版画』(河原書店 68年)、『徳力富吉郎画集』(安部出版 84年)、『花竹庵の窓から』(京都新聞社 88年)、『もくはん 徳力富吉郎自選版画集』(求龍堂 93年)がある。

内間安瑆

没年月日:2000/05/09

 木版画家内間安瑆は、5月9日夕刻(現地時間)、米国ニューヨーク市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年、沖縄県出身の両親が移住した米国カリフォルニア州ストックトンに生まれる。1940(昭和15)年に来日、44年早稲田大学建築科を中退して、絵画を独学する。52年頃から木版画制作をはじめる。54年、デモクラート美術協会の青原俊子を結婚。55年、最初の個展(銀座、養清堂画廊)を開催するとともに、日本版画協会会員となる。58年1月、東京銀座の養清堂画廊で泉茂、吉田政次と版画三人展、同年10月、同画廊で利根山光人、駒井哲郎、浜田知明等と「版画八人集」展開催。59年渡米、ニューヨークに住む。以後、日米両国での個展のほか、70年の第35回ヴェネチア・ビエンナーレ、72年のイタリアで開催された第2回国際現代木版画トリエンナーレなど、国際展にも出品をつづけた。しかし、82年に病に倒れ、以後制作は中断していた。代表作となった「Forest Byobu」(81年)にみられるように、多色木版画によって、色彩の豊かさと変化を、繊細な感覚で表現した。これは、浮世絵の伝統的な木版画技法を活用して、多色刷りの「色面織り」と称する独自の技法によって表現されたもので、米国、日本で高く評価された。

畦地梅太郎

没年月日:1999/04/13

 日本版画協会名誉会員の版画家畦地梅太郎は12日午前3時38分、肺炎のため町田市の多摩丘陵病院で死去した。享年96。1902 (明治35)年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村金銅(ふたなむらかなどう、現在の北宇和郡三間町)に生まれる。18(大正7)年、村役場の給仕試験を受けるが不合格となり、村を出る決心をし、長兄を頼って大阪へ向かう。長兄は中国航路の船員をしており、梅太郎も2年あまり船員となった。その後、新聞配達、配送などの仕事をするが、その問、美術学校の生徒が写生をしているのを見かけ、画家に憧れ、日本美術学院の通信教育を受ける。その受講仲間で「七星会」を結成し、グループ展も開催。しかし、23年9月の関東大震災により帰郷を余儀なくされ、1年あまり宇和島で石版印刷や看板屋につとめる。25年、再度上京。七星会会員の山田辰造の紹介で内閣印刷局に勤務する。職場で手近にある鉛板を用いて版画を制作し、下宿の近くに居住していた平塚運一に作品を見せて激励される。また、同郷の知人の紹介でデッサンを学びに行っていた小林万吾にも版画制作を勧められる。27(昭和2)年第7回日本創作版画協会展に初入選。恩地孝四郎や前川千帆らの仕事を手伝うようになり、同年、内閣印刷局を退職。初期には鉛板に細い線で都市風景を描いたプリミティフな作品を制作したが、これ以降木版画を制作するようになる。都市を主要なモティーフに、再現的な描写が行われている。しかし、36年『伊予風景』全10点を刊行するころから都市風景を離れ、自然な山河を描くようになる。そして、37年、草木屋軽井沢店で木活字本の仕事をすることとなり、浅間山を初めて見たのがきっかけとなり、畦地の生涯を貫くこととなった山をモティーフとする制作が始まる。自ら山に登り、山中を歩いて取材している。40年第15回国画会展で二度目の図画奨励賞受賞。43年、版画家旭正秀の紹介で、東北アジア文化振興会勤務のため満州へ渡り、翌年帰国。戦後一時四国の御荘に居住するが、46年に上京し、同年第1回日展に「伐木」を出品。日本版画協会展には9点を出品したほか、国画会展にも出品する。52年国画会展に畦地自身が初めての「山男」を描いた作品と語る「登攀の前」を出品。53の第2回サンパウロビエンナーレ、56年ルガーノ国際版画ビエンナーレ、57年スイスでの第2回国際木版画ビエンナーレに出品し、いずれも好評を得る。この頃から、人物像を簡略化し独自のデフォルメを加えた山男像で広く知られるようになる。50年代に美術界に吹き荒れた抽象の嵐の中、すでに山の版画で地位を築いていた畦地も、画面を単純な幾何学的形態と明快な色面で構成する抽象表現を試みる。しかし、50年代の国際展によって日本の美術界における版画の位置が急上昇するのに伴い、池田満寿夫の登場などこの世界での動きがめまぐるしくなるなかで、60年代前半に畦地は自らの制作に疑問を抱くようになり、画壇での地位を築き社会的にも広く知られて随筆、挿絵の仕事も増えたことも一因となって、66年の日本版画協会展、国画会展以降、公募展に出品しなくなる。67年から3年間続けて新作展を開催し、制作に専念するが、70年7月電気のこぎりで版木を切断中に右親指を負傷。その後1年あまり制作から離れる。72年2月東京京橋のギャラリープリントアートで個展を開催。73年『畦地梅太郎 人と作品』(南海放送)が刊行され、同年9月郷里の愛媛県立美術館で「とぼとぼ五十年展」が開催される。74年2月ストーブのヤカンを倒し全身に火傷を負う。この事故による精神的ショックからしばらく制作を離れる。自ら山歩きをできなくなったため、山男から家族へとモティーフを変え、85年に「石鎚山」「みどり、さわやか」まで制作を続ける。92(平成4)年、画業を回顧する大規模展が町田市立国際版画美術館で「山の詩人・畦地梅太郎展」と題して開催され、同年『畦地梅太郎全版画集』(南海放送、町田市立国際版画美術館)が刊行された。年譜、文献目録は同書に詳しい。また、2001年9月町田市立国際版画美術館で「生誕百年記念 畦地梅太郎展 山のよろこび」が開催されている。

平塚運一

没年月日:1997/11/18

 日本版画界の長老であった木版画家の平塚運一は11月18日午後6時17分、急性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年102。明治28(1895年10月17日、島根県松江市の宮大工の家に生まれる。大正2(1913)年、松江商業学校を中退。同年、石井柏亭の洋画講習に参加して絵に興味を抱き、同4年に上京して柏亭に師事し、また、版画技術を伊上凡骨に学ぶ。同5年第3回二科展に「出雲のソリツコ舟」「雨」で初入選、同年第3回院展に「出雲風景」「麓の小山」で初入選する。版画の全制作過程をひとりで行う「自画自彫自摺」により、作品のオリジナリティーを高める近代版画の先駆者のひとりであり、同7年日本創作版画協会の創立に参加した。昭和2(1927)年、『版画の技法』を出版。このころから山本鼎の農民美術運動に参加して版画講師として全国をめぐった。同3年棟方志功らとともに版画雑誌「版」を創刊。同5年国画会会員となり、同6年国画会版画部を創設した。同10年より東京美術学校で講師をつとめ、木版画を指導する。戦後は黒と白のコントラストを生かした力強い作風で裸婦や風景を多く描いた。同37年に米国に渡り、ワシントンに定住して制作、発表を続けるとともに、日本の伝統的な木版技術の普及につとめた。平成3(1991)年、長野県須坂市に平塚運一版画美術館が開館。同7年に帰国。翌8年横浜の平木浮世絵美術館で「平塚運一展百寿記念」が開かれた。

斎藤清

没年月日:1997/11/14

 郷里会津地方の風景に取材した版画で知られた版画家の斎藤清は11月14日午後8時30分、肺炎のため福島県会津若松市の病院で死去した。享年90。明治40(1907)年4月27日、福島県河沼郡会津坂下街に生まれる。同45年父の事業の失敗により北海道夕張に移る。大正10(1921)年尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出、同13年北海道ガス小樽支店の見習い職工となる。昭和2(1927)年、小樽、札幌の看板店で働いた後、看板店を自営。同4年、小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習う。同5年に一時上京したのが翌年の東京移住の契機となり、宣伝広告業のかたわら絵画の勉強を続けた。同7年第9回白日会展に「高圓寺風景」で初入選。翌8年、第1回東光会展に入選、同11年第11回国画会展に「樹間雪景」で初入選する。同年第5回日本版画協会展に「少女」で初入選。翌12年第12回国画会版画部門に「郷の人」「子供坐像」で初入選する。同14年第26回二科展に「裸婦と少女」(油彩)で初入選。同17年東京銀座鳩居堂で初めての版画個展を開催し、「会津の冬」などを発表し、叙情的な作風で注目される。同19年朝日新聞者に入社し、文字・カットなどを担当する。また、同年第13回日本版画協会展に「会津の冬 坂下」を出品して同会会員となる。戦後も日本版画協会、国画会版画部に参加。同21年第14回日本版画協会展に「会津の冬(A)(B)(C)」「会津の冬(子供)」などを出品。また第20回国画会版画部に「会津の冬(A)(B)(C)」を出品して同会会友となり、同24年には会員となった。同26年サンパウロ・ビエンナーレに「凝視(花)」を出品して、サンパウロ日本人賞を受賞。同29年朝日新聞社を退社して版画制作に専念することとする。同31年アメリカ国務省アジア文化財団の招きで渡米。同32年第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「館」を出品して受賞し、同年アジア・アフリカ諸国国際美術展に「ハニワ(婦人」を出品して受賞する。同34年渡仏してパリに滞在。同37年アメリカ・ニューヨークのノードネス画廊での個展のために渡米し、この頃日本版画協会を退会する。同39年ハワイ大学芸術祭に招かれてハワイを訪問し、翌年はオーストラリアに渡り、帰途タヒティに立ち寄った。同42年インド文化省主催の「斎藤清版画展」のためインドへ渡り、同44年にはアメリカ・カリフォルニアのサンディエゴ美術館での個展のために渡米。同45年東京の日本橋三越で「斎藤清墨画・版画展」を開催する。また、同年神奈川県鎌倉市に移住。同52年プラハでの個展のためにチェコスロバキアを訪問。同56年「福島県立美術館収蔵記念斎藤清展」(福島県文化センター)が開催される。同58年神奈川県立近代美術館で大規模な「斎藤清展」が開催され、初期から新作にいたる245点が出品されて制作の歩みが回顧された。同62年鎌倉を離れ、福島県河沼郡柳津町に転居する。翌63年アメリカ・オレゴン州のポートランド美術館で「斎藤清展 会津の冬とそのほかの版画」、平成3年「斎藤清-その人と芸術」展がいわき市美術館で開催され、同4年には福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展が開催された。画集には『斎藤清版画集』(大日本雄弁会講談社 1957年)、『斎藤清版画集』(講談社 1978年)、『斎藤清版画集 会津の冬』(講談社 1982年)、『斎藤清の世界』(あすか書房 1984年)、『斎藤清墨画集』(講談社 1985年)、『斎藤清スケッチ画集』(講談社 1987年)、『斎藤清画業』(阿部出版 1990年)などがあり、単行書に『私の半生』(栗城正義編 角田行夫刊行 1987年)がある。郷里・会津の冬景色を好んで主題としたほか、奈良京都など古都の風景や花鳥を題材に木版画に新境地を開いた。また、欧米に日本の伝統的木版画技法の解説、実技指導を行うなど、国際的な普及活動にも寄与した。年譜、参考文献は福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展図録に詳しい。

池田満寿夫

没年月日:1997/03/08

 版画家で、小説執筆、映画監督など多分野にわたり多彩な活動をつづけた池田満寿夫は、急性心不全のため死去した。享年63。昭和9(1934)年旧満州国奉天市に生まれ、昭和20年に郷里の長野県長野市に帰り、この地で成長。昭和27年、18歳で上京、東京芸術大学を受験するが、不合格となった。昭和30年、既成の美術団体を否定したグループ「実在者」の結成に参加、この年、同グループの靉嘔の紹介により瑛九を知った。翌年、瑛九主宰のデモクラート美術家協会会員となり、また瑛九の助言により色彩銅版画をはじめた。昭和32年、美術評論家で、コレクターであった久保貞次郎を知り、彼から援助をうけるようになり、この年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展公募部門に「太陽と女」が初入選した。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に「女の肖像」、「女 動物たち」、「女」3点を出品、ドライポイントとアクアチントを併用した銅版技法で、繊細だが、奔放な線描による作品がドイツの美術評論家ヴィル・グローマンの推薦をえて、文部大臣賞を受賞、一躍注目されるようになった。同37年の第3回展では東京都知事賞を受賞、ニューヨーク近代美術館版画部長で、同展の国際審査員ヴィリアム・S・リーバーマンにみとめられた。同39年の第4回展では、「夏」、「私は何も食べたくない」、「化粧する女」の3点によって国立近代美術館賞を受賞。この連続の受賞によって、国内外で広くみとめられるようになり、翌年にはニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展「Prints of MASUO IKEDA」を開催した。同41年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門において、28点の出品作品により大賞を受賞した。翌年、第17回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また、制作の場も、ヨーロッパ各地やニューヨークなどにうつし、精力的に制作をつづけた。この70年代の作品では、雑誌写真などグラッフィックなイメージを画面にとりこみながら、エロチィックなイメージが追求されていた。そして「スフィンクス」、「ヴィーナス」など、銅版画の技法をこらした緻密な表現によるシリーズが生まれた。しかし、帰国後の同51年にはリトグラフ「マンゴ」などにみられるように、一転して奔放でスピード感のある線描があらわれ、さらに琳派への関心から日本回帰を感じさせる平面作品を制作するようになった。また、同52年には小説「エーゲ海に捧ぐ」によって、第77回芥川賞を受賞、翌年には、原作、脚本、監督を担当して、映画「エーゲ海に捧ぐ」を制作した。同58年頃から、作陶をはじめ、翌年からはブロンズ制作もこころみるようになった。同61年には、国立国会図書館新館1階にタペストリー・コラージュ「天の岩戸」を設置。このように創作活動は多岐にわたるようになり、版画制作でも、平成元(1898)年には、コンピューター・グラッフィックによる版画を発表、つねに旺盛な創作活動をつづけた。戦後からの現代版画において、国内外にひろく知られた代表的な作家のひとりであり、その晩年は、マルチ・タレントとしてテレビなどマスコミにも登場し、また作風もピカソを意識していたといわれるように変化しつづけた。没後の同9年4月には、長野県松代町に池田満寿夫美術館が開館、「追悼 池田満寿夫展 初期から絶作まで」が開催された。

吉田穂高

没年月日:1995/11/02

 日本美術家連盟理事、日本版画協会理事の版画家吉田穂高は11月2日午後零時23分、腹部大動脈りゅう破裂のため東京都立川市の国立病院東京災害センターで死去した。享年69。大正15年9月3日東京都北豊島郡滝野川町に洋画家吉田博、ふじをの次男として生まれる。兄は版画家の吉田遠志。東京高等師範学校付属小学校、同中学校を経て昭和19年第一高等学校(旧制)理科甲類に入学する。同20年同校理科乙類に転類。このころから油彩画の制作を始める。同23年日本美術会主催第2回日本アンデパンダン展に油彩画「こむら」「秋」「あくびから」を初出品する。翌年読売新聞社主催第1回日本アンデパンダン展に油彩画を出品。同年第一高等学校を卒業する。この後も日本美術会、読売新聞社主催の二つのアンデパンダン展に出品を続け、この間同27年第20回日本版画協会展に「太陽」「星」「夕陽の街の女の子」「ハッパの子」を出品して日本版画協会会員となる。同30年米国の美術館からの招待により渡米する兄に随行してアメリカに渡り、後、キューパ、メキシコを旅行。メキシコの古代文明、特にマヤ文明の遺跡で受けた感銘が、後の制作に指針を与えた。具象表現から生命感をテーマとした抽象版画へと作風に変化が表れるようになる。同31年第1回シェル美術賞に「石と人」で応募し3等賞を受賞する。同32年母ふじを、妻で版画家の千鶴子とともに世界一周旅行をし、滞在先で大学・美術館における木版画制作の講義、デモンストレーションを行ったほか、ロスアンゼルスのランドウ画廊で個展を開催した。同年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に「ポリネシアン」を出品。同36年1月現代写真展1960年(東京国立近代美術館)に写真「旅情・マドリッドの町はずれ」を出品。このころ写真に興味を抱き、「カメラ毎日」などの写真誌に作品を発表する。同年第1回パリ青年ビエンナーレに出品、この年リトグラフを試みる。同年37年スイス・ルガーノ国際展に「たまものA」などを出品して受賞。同年38年第5回ユーゴスラヴィア国際グラフィック・ビエンナーレ(通称・リュブリアナ国際版画ビエンナーレ)に出品し、以後同展に出品を続ける。同年アメリカ、中南米を旅行。この年、リトグラフと木版の併用技法を試みるとともに、このころアメリカで隆盛していたポップ・アートに触発されて現代にモティーフを得た作品を制作するようになる。同40年、写真製版によるリトグラフ、シルクスクリーンなど多様な技法を試み、翌年3月の銀座養清堂における個展でそれらの作品を発表。同41年コラージュによる「現代の神話」シリーズを始める。同43年を東京都電機健保会館のレリーフ壁画を制作。同44年より52年まですいどーばた美術学院(のち創形美術学校)版画科講師をつとめる。同45年写真製版による亜鉛凸版と木版の併用技法を試み、以後これを主な技法として「LANDSCAPE」シリーズの制作を始める。画面に多くのモティーフがひしめく、喧騒な画面から一転して音や動きの感じられない風景画へと移行した。同47年オーストラリア外務省の「文化賞計画」の招待によりオーストラリアを訪れ、美術学校、美術館を視察するとともに、木版画技法の紹介、作品展示を行う。同年第2回ソウル国際版画ビエンナーレに「沈黙の風景」「水辺の神話」「真昼の神話」を出品して大賞を受賞する。同48年第1回世界版画コンペティションに「NINJAPOINT」を出品して第1部特別エディション賞を受賞。同年より家をモティーフとした「現代の神話」シリーズの制作を始める。同49年ポーランドクラコウ国際版画ビエンナーレ、第2回ノルウェー国際版画ビエンナーレ、第6回イビサ・ビエンナーレ(スペイン)に出品。同51年詩画集『東天の虹』(詩・堀口大学、版画・吉田穂高)が弥生書房から刊行される。同年メキシコを旅行し、ニューヨーク、ロスアンゼルスを経て帰国。また同年第5回リエカ国際オリジナルドローイング展(ユーゴスラヴィア)に「扉のある風景A.B」を出品して国際審査員名誉賞を受賞する。同52年国際交流基金からの派遣によりグアテマラ、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジェラスの中米の国々を訪問して日本の現代版画について講演を行うとともに木版技法のデモンストレーションを行う。同年秋第1回日中友好美術家訪中団として中国を訪問する。同年日本美術家連盟によるアジア現代美術視察・調査の一環としてタイ、インドネシアを訪問。同61年キューバ芸術家連盟の招きでキューバを訪れ、帰途メキシコに立ち寄る。同62年「サンミゲル旧一番通り」により山口源大賞を受賞。同63年町田市立国際版画美術館で「吉田穂高版画展」が開催され、平成7(1995)年4月にはハンガリー美術アカデミーで「吉田穂高大回顧展」が開催された。また、歿後の平成9年1月には居住地であった三鷹の三鷹市美術ギャラリーで「吉田穂高展」が開かれた。伝統技法の紹介により国際交流にも貢献しつつ、古典的木版技法を写真、リトグラフなど多様な技法と併用して新たな表現の可能性を探り、現代の感性に訴える知的な画面構成を行った。著作も多く、主要著書に『たのしい造形』(美術出版社 昭和43年)、『版画 新技法読本』(駒井哲郎らと共箸、美術出版社 昭和38年)、『版画の技法』(駒井哲郎らと共著、美術出版社 昭和39年)などがある。

玉井忠一

没年月日:1995/08/28

 日本版画協会会員の版画家玉井忠ーは、8月28日午前10時40分、心不全のため富山県高岡市の光ヶ丘病院で死去した。享年85。明治45(1912)年1月15日、富山県高岡市に生まれ、昭和3(1928)年県立高岡工芸高校を卒業。棟方志功に師事するとともに、創作活動をはじめる。同24(1949)年の第23回国展に「鯉」が初入選、以後同33年の第32回展の「石像」まで、入選をかさねた。一方、日本版画協会展にも出品し、会員となり、同60年の第53回展には、円形を中心に幾何学的なフォルムによって構成した木版画「石障 II」を出品した。また、創作活動のかたわら農業を営み、高岡市にとどまり、市内の小中朝交で木版画教室を開催して、その講師をつとめ、同48年には高岡市民功労賞を贈られた。

吉田遠志

没年月日:1995/07/01

 日本版画協会会員の版画家吉田遠志は、7月1日午前7時20分、前立腺がんのため東京都世田谷区の福原病院で死去した。享年83。明治44(1911)年7月25日、洋画家吉田博、吉田ふじをを両親として東京市本郷動坂町100番地に生まれる。暁星中学校を卒業し、同舟舎デッサン研究所、太平洋美術学校に学ぶ。また、13歳のころから父に木版画を学び、15歳ころから本格的な制作に入る。昭和5(1930)年、父とともにインド、ピルマ、マレーシアなど東南アジアを写生旅行。同11年には中国東北部、朝鮮半島を父とともに訪れる。同13年太平洋画会に初入選し以後同展に出品を続ける。戦後は同22年日展に「浅海の陽光」を出品。またアンデパンダン展にも出品する。同25年太平洋画会を退会してプラス美術家群を創立。翌年日本版画協会会員となる。同27年ニューヨークのジャパン・ソサエティーの協力を得て、アメリカ各地で講演、伝統的木版画の技法紹介、展覧会などを行ったのち、欧州へ渡る。同29年弟で洋画家の穂高を伴い米国各地で講演会、展覧会を開催。のちキューバ、メキシコへ渡る。同41年以後、しばしば渡米して木版画の講演会、展覧会を開催。同48年東アフリカを訪れ、以後動物をモティーフとする版画を主に制作。後にインド、オーストラリア、南極などへも旅行して各地の野生動物を描く。同55年長野県北安曇郡美麻村の小中学校の旧校舎を利用して「美麻文化センター」を創設し、木版画、ガラス細工、陶器などの技術指導の場とする。同57年より絵本「野生動物シリーズ(アフリカ)」の出版を始め、『はじめてのかり』で、同57年イタリア・ボローニア国際児童書フェスティヴァルでエルバ賞、『あしおと』で同63年フランスのアミアン市文化交流賞を受賞。同シリーズにより絵本にっぽん賞を受賞している。

棟方末華

没年月日:1995/05/12

 日本板画院名誉会長の版画家棟方末華は、5月12日午前9時5分、肺炎のため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年82。大正2(1913)年4月14日、青森県青森市に生まれた。本名末吉。昭和6(1931)年、青森市夜間中学校を卒業、上京後の同14年から戦後の49年まで府中刑務所に事務官として勤務した。その間に創作活動をはじめ、同16年の第4回新文展に、「秋深き山門と石像」(版画)が初入選した。そのほか、国画会、白日会、日本版画協会展にも出品したが、同27年には日本板画院の創立会員として参加した。同40年には、日本浮世絵協会理事に就任、また同49年には、日本板画院会長となった。府中市の文化財専門委員をつとめたほか、同51年には芸術文化に功労があったことから青森県より褒賞を受け、また同61年には美術文化功労者として東京都より表彰された。

堀井英男

没年月日:1994/10/20

日本版画協会会員の銅版画家堀井英男は10月20日午前10時36分、肺がんのため東京都府中市の病院で死去した。享年60。昭和9(1934)年5月13日茨城県行方郡潮来町上町109に生まれる。茨城県行方郡潮来町立小学校、同町立中学校を経て同25年県立潮来高校普通科に入学。在学中に東京美術学校出身者である後藤市三教諭に油絵を学ぶ。同28年同校を卒業し、翌21年文化財保護委員会(現、文化庁)庶務課に勤務する。同萩原英雄に師事し版画に興味をいだく。同30年、勤務のかたわら東京鴬谷・寛永寺坂美術倶楽部に通い絵画を学ぶ。同31年文化財保護委員会を退職して同年4月より東京芸術大学油画科に入学。同35年、同科を卒業して同大学院に進学する。同年既成の画壇に疑問をいだき、グループを結成。翌36年3月、東京芸術大学大学院を中退し、同年4月より東京都中央区月島第三中学校図工科講師となる。同37年私立立正高校美術科教諭となるが同40年3月画業に専念するために退職。同41年より油絵のかたわら独学で銅版画の制作を始める。同42年第35回日本版画協会展に「仮装No.3」「仮装No.1」「仮装No.8」で初入選。「仮装No.8」は日本版画協会賞を受賞。同年同会会友に推され、翌年同会会員となる。同44年第8回ユーゴスラヴィア国際グラフィックアート・ビエンナーレ(リュブリアナ近代美術館)に出品。同年オーストラリアのメルボルンで個展を開催。同45年第3回クラコウ国際版画ビエンナーレに出品するなど国際的に活躍。同47 年詩画集『夢のそとで』 (黒田三郎詩・堀井英男版画)をプリント・コレクターズ・サロンより刊行。同48年版画集『水のさと』(白興出版)刊行。同51年高沢学園・創形美術学校版画科主任となる。同53年12月、詩画集『死の淵より』(高見順詩・堀井英男版画)がプリント・アートセンターから刊行され、同書発行記念「堀井英男新作展」を銀座松屋で開催。同60年11月、私学共催海外派遣研修旅行でパリ、ミュンヘンなどを中心に1ヶ月滞欧。その後、平成元(1989)年パリ国立美術学校・倉形美術学校の交換展のためパリへ、翌2年4月中国へ、同年11月及び同3年6月イタリアへ赴く。同3年4月創形美術学校校長となる。また昭和57年より金沢美術工芸大学で非常勤講師をつとめた。

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