本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





やなせたかし

没年月日:2013/10/13

 漫画家、詩人、デザイナー、イラストレーター、絵本作家など多くのジャンルで活躍したやなせたかしは、10月13日心不全のため東京都内の病院で死去した。享年94。 1919(大正8)年2月6日東京府北豊島郡滝野川町(現、東京都北区)に生まれる。本名柳瀬嵩。自身は故郷については幼少期を過ごした高知県香美郡在所村(現、香美市)としていた。5歳のとき新聞記者だった父が32歳で亡くなり、父母の故郷高知県へ移る。小学校2年のとき母の再婚に伴い、以後伯父夫婦に育てられる。中学時代財布を落とし、15キロも歩いて帰宅途中、友人の母親からアンパンをもらったことが、後のアイデアとなる。1937(昭和12)年東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)に入学、40年田辺製薬宣伝部に入社、41年召集され、中国を転戦、実際の戦闘体験はなかった。終戦後、高知新聞社に入社、漫画を執筆。『月刊高知』にも4コマ漫画やイラストを掲載。47年妻となる小松暢子を追って上京、三越宣伝部に入社、また「漫画集団」に所属、しだいに漫画での収入が安定し、53年フリーとなる。54年ニッポンビール(現、サッポロビール)の広告漫画「ビールの王さま」、56年から『週刊漫画TIMES』では表紙などもてがけ活躍する。60年、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の美術を担当、それが縁で「手のひらを太陽に」を作詞(作曲いずみたく)する。64年から3年間NHKテレビ「まんがの学校」の講師を務める。66年処女詩集『愛する歌』(山梨シルクセンター[現、サンリオ])を出版。69年手塚治虫監督のアニメ「千夜一夜物語」の美術とキャラクターを担当、70年に虫プロでアニメ「やさしいライオン」を監督し、同作で大藤信郎賞を受賞する。73年『詩とメルヘン』を創刊し、30年間編集長を務める。同年「あんぱんまん」を『キンダーおはなしえほん』に掲載、当初書店販売はなく、幼稚園などへの直販だった。「あんぱんまん」は幼児からしだいに人気となり、88年「それいけ!アンパンマン」がテレビ放映へ、翌年文化庁こども向けテレビ用優秀映画賞を受賞、1989(平成元)年からは劇場用アニメも制作された。また同漫画は90年日本漫画家協会大賞を受賞、さらに2009年、単独のアニメでは最多キャラクターを制作したことでギネス世界記録の認定を受ける。08年、やなせたかし展が山梨県立美術館ほか9館を巡回。70歳代からは病を抱えながらもそれまで以上にさまざまな活動を展開、92年から高知県が主催する「まんが甲子園」の審査委員長、2000年から日本漫画家協会理事長、12年からは会長を歴任した。 著作に『まんが入門』(華書房、1954年)、『アンパンマンの遺書』(岩波書店、1995年)、「やなせたかしアンパンマンの心」『ユリイカ』(2013年8月臨時増刊)、没後の作品集に『やなせたかし大全』(フレーベル館、2013年)などがある。また、故郷の香美市に「やなせたかし記念館、アンパンマンミュージアム」(1996年開館)がある。

いわしげ孝

没年月日:2013/03/06

 漫画家いわしげ孝は、3月6日病気のため死去した。享年58。 1954(昭和29)年12月31日鹿児島県鹿児島市に生まれる。本名岩重孝。鹿児島県立鹿児島工業高校を経て、二松学舎大学卒業。70年『週刊少年ジャンプ』の第5回新人漫画賞で「小さな命」が入選し、翌年同誌に掲載されデビューする。その後、高校生ながらも、集英社の手塚賞に「スクラップ」、「ブルースを歌う少女」が佳作入選するが、学業を優先し執筆活動を控え、大学へ進学する。78年第2回小学館新人コミック賞に「忘れ雪」が選ばれ、本格的デビューを果たす。80年の短篇「土用前」では、鹿児島男子高校生3人と先生、東京からきたその彼女がおりなす一夜の出来事をコミカルに描き、いわしげが得意とした男子の「恥」を朗らかに捉えている。同年創刊直後の『ビッグコミック』に「ぼっけもん」を連載、上京男子の都会での青春成長物語が大ヒットとなり、第31回小学館漫画賞を受賞する。その後、ボクシングを描いた『二匹のブル』(ここまで岩重孝名義、瀬叩龍[雁屋哲]原作、全10巻、小学館、1988年)、高校を飛び出し南米にエルドラドを求める探検活劇『ジパング少年』(全15巻、小学館、1989年)、自身の体験を活かした10年半にわたる柔道漫画『花マル伝』と『新・花マル伝』(両者合わせて38巻、小学館、1993年~2003年)は、中学からのライバル同士が世界大会で決勝を戦うという、代表作のひとつとなる。「ぼっけもん」の大人編とも言える『単身花火-桜木舜の単身赴任・鹿児島』(全5巻、小学館、1993年)『上京花火-花田貫太郎の単身赴任・東京』(全7巻、同、2013年)を『ビッグコミック』に連載していたが、後者は2010(平成22)年には病気のため休載、再開後の12年2月分が絶筆となった。他に、『まっすぐな道でさみしい種田山頭火外伝』(講談社、2003年)、『青春の門-筑豊篇』(五木寛之原作、同、2005年)などがある。

中沢啓治

没年月日:2012/12/19

 漫画家中沢啓治は、12月19日肺がんのため広島市内の病院で死去した。享年73。 1939(昭和14)年3月14日広島県に生まれる。国民学校1年生のとき被爆、日本画家の父、姉、弟と死別する。江波中学卒業後、看板業に就く。61年上京、一峰大二のアシスタントとなる。63年「スパーク1」を『少年画報』に発表、デビューする。65年、辻なおきのアシスタントとなる一方、月刊の少年誌に読み切りを発表していく。66年母が亡くなり、被爆体験をもつ殺し屋の漫画「黒い雨にうたれて」を描くが、『漫画パンチ』に掲載されたのは2年後だった。〈黒いシリーズ〉などを青年誌に続けるうちに、73年25号より『週刊少年ジャンプ』に「はだしのゲン」の連載が開始(第1部は1974年39号まで)される。同誌の創刊編集長長野規の説得に応じて連載を始めたが、広島への原爆投下による惨劇を少年誌に掲載することは当時としては異例なことであった。主人公の少年のコミカルな表現をもって、本来のテーマである「踏まれても踏まれても強く生きる麦なれ」が基礎にあったこそ成功したといえよう。新聞記事や単行本化、海外への翻訳(英語版は1978年)、ノベライズ化、アニメ化や実写映画化されるうちにこの漫画は、被爆体験を描いた貴重な資料として注目をあびるようになる。スポーツ漫画として『広島カープ物語』(全2巻、汐文社、1994年)などを発表、映画監督作品に「お好み八ちゃん」(1999年)がある。2002(平成14)年に谷本清平和賞受賞。09年からは白内障のため漫画執筆活動は途絶えた。11年に原画や単行本など10500点余りが、広島平和記念資料館に寄贈された。 著書に、『「ヒロシマ」の空白 中沢家始末記』(日本図書センター、1987年)、『「はだしのゲン」自伝』(教育史料出版会、1994年)、『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社、2012年)がある。またカメラマンの大村克巳によるノンフィクション『「はだしのゲン」創作の真実』(中央公論新社、2013年)、ドキュメンタリー映画に「はだしのゲンが見たヒロシマ」(石田優子監督、2011年)がある。

畑中純

没年月日:2012/06/13

 漫画家で東京工芸大学教授の畑中純は、6月13日腹部大動脈瘤破裂のため東京都の病院で死去した。享年62。 1950(昭和25)年3月20日福岡県に生まれる。68年小倉南高校卒業後、上京し東京デザインカレッジ漫画科に入学するが、同校は倒産。さまざまなアルバイトをしながらマンガを描き続ける。74年一枚漫画集『それでも僕らは走っている』を自費出版。77年『話の特集』に一枚漫画「月夜」の連載でデビューする。木版画の肌合いをいかした画面は独自の味わいを持ち、自分の絵は他人に触らせず、アシスタントを使わない作画を通した。畑中といえば、79年『週刊漫画サンデー』に連載した「まんだら屋の良太」であり、10年間にわたる人気漫画となった。単行本は53巻(実業之日本社)にのぼる。北九州と思われる温泉郷九鬼谷を舞台に、旅館の息子良太17歳と幼なじみの月子を中心に、芸者、ヤクザ、ストリッパー、物書き、役者らが繰り広げる艶笑譚。九鬼谷は作者が敬愛した宮沢賢治のイーハトーブから想を得たユートピアであり、一話完結の構成はエログロ・ナンセンス、さらに古今東西の名作を渉猟した千夜一夜的な豊饒さをもった傑作となった。81年同作で日本漫画家協会賞受賞。 初期作品集に『田園通信』(日本文芸社、1986年)。他に『百八の恋』(全8巻、講談社、1990年)、『オバケ』(全4巻、講談社、1992年)、『愛のエトランゼ』(全2巻、主婦と生活社、1992年)、『玄海遊侠伝 三郎丸』(全15巻、実業之日本社、1993-96年)など多数。宮沢賢治原作で絵本『どんぐりと山猫』(筑摩書房、1997年)、『セロ弾きのゴーシュ』(響文社、2005年)がある。著書に『1970年代記「まんだら屋の良太」誕生まで』(朝日新聞社、2007年)、『「私」畑中純 まるごとエッセイ』(文遊社、2008年)なども発表した。2007(平成19)年より東京工芸大学芸術学部マンガ学科教授を務めた。

影丸穣也

没年月日:2012/04/05

 漫画家影丸穣也は、4月5日膵臓癌のため死去した。享年72。 1940(昭和15)年1月3日大阪府に生まれる。本名久保本稔。中学卒業後自動車整備会社に勤めるが、体調を崩し退社。貸本漫画を読み、独学で作画を研究する。久保本稔名で57年単行本『怪獣男爵』(あたみ書房)でデビューする。以後、大阪の貸本漫画で活動し、貸本漫画誌『影』に発表の頃には影丸譲也のペンネームを使用。後に「穣也」とする。61年「拳銃エース」を『冒険王』に発表、少年誌にデビューする。63年上京。影丸の名前が有名になったのは68年『週刊少年マガジン』で連載した横溝正史原作の「八つ墓村」である。横溝の小説では「悪魔が来りて笛を吹く」(『東京スポーツ』)も手がけ、こちらは映画の画面を漫画に起こしている。また高校で番を張り、不良で剣の使い手氷室洋二が繰り広げる教師や大人たちとの抗争から少年院での闘いまでを描いた「ワル」(真樹日佐夫原作、『週刊少年マガジン』、70年4/5合併号から73年2号)は、異色の学園ものとなった。つづいて梶原一騎の原作で極真空手の創始者大山倍逹の半生を描いた実録漫画「空手バカ一代」(『週刊少年マガジン』)を先発のつのだじろうの後を受けて、73年48号から77年52号まで作画、この連載は空手ブームを巻き起こした。NHKの番組「プロジェクトX」や大河ドラマ「義経」などの漫画化も手がけた。全体的には梶原一騎原作が多く、劇画調といえる黒い画面にハードボイルドなストーリー、いわゆる「男っぽい」硬派な作品を得意とした。

村野守美

没年月日:2011/03/07

 漫画家の村野守美は、3月7日心不全のため東京都府中市の病院で死去した。享年69。 村野(本名、佐藤守)は1941(昭和16)年9月5日、中国の満洲(現、中国東北部)の大連に生まれた。48年に引き上げ、幼少期を福島県会津若松で過ごした。高校を中退後、上京し手塚治虫に師事する。一時期手塚の虫プロダクションで働き、「鉄腕アトム」などの原画を描いた。60年『少年』の夏増刊号にロボットものの「弾丸ロンキー」でデビューする。78年、『週刊漫画アクション』に連載した「ボクサー」が高い評価を得る。また79年『ビッグコミックオリジナル』におてんばな老婆を主人公にした「垣根の魔女」を連載、ともに代表作といわれる。「草笛のころ」や「だめ鬼」など彼の多くの作品は青年誌に掲載されていった。日常をきめ細かく取材する視点から紡ぎだされるストーリー、そしてやわらかな美しい輪郭線にみられる確かな画力により、多くのファンを持った。漫画家永島慎二は村野を「人間の心を読ませる事の出来る数少ない作家の一人」といった。アニメーションも手がけ、「佐武と市捕物帳」や「ムーミン」の制作演出にも携わり、「ユニコ―魔法の島へ」(1983年)は、脚本・監督をしている。童話や絵本も多数上梓しているが、80年代半ばから、宮沢賢治や高村光太郎などへモチーフを広げていき、外国の古典、「ピーターパン」「シンドバットの冒険」などを描いた。90年代、「神々の指紋」で著名なグレーアム・ハンコックを原作とした作品、また池波正太郎の江戸ものを手がけた。

赤塚不二夫

没年月日:2008/08/02

 漫画家の赤塚不二夫は8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂医院で死去した。享年72。1935(昭和10)年9月14日、旧満州(中国東北部)熱河省灤平県(現、中華人民共和国河北省)に生まれる。本名藤雄。45年奉天で敗戦を迎え、翌年、母の実家のあった奈良県生駒郡郡山町(現、大和郡山市)へ引き揚げる。もとより漫画家を志望していたが、引き揚げ後に貸本屋で借りた手塚治虫「ロストワールド」を読み、プロの漫画家となることを決意する。49年にはSF漫画「ダイヤモンド島」を描き下ろし、大阪の出版社へ持ち込むが不採用。同年シベリア抑留を解かれた父とともに新潟で暮らすこととなり、51年には新潟市内の塗装店に就職。この頃から、『漫画少年』(学童社)に赤塚不二夫のペンネームで投稿を始める。53年上京。54年工場勤務のかたわら、東日本漫画研究会(石森章太郎主宰)同人誌『墨汁一滴』に参加。56年少女漫画「嵐をこえて」(曙出版)で単行本デビュー。同年トキワ荘に移る。当時のトキワ荘には寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森らが入居しており、これらのメンバーと新漫画党を結成(ちばてつや、松本零士、つのだじろうらも参加)。この頃の赤塚は『少女クラブ』(講談社)、『少女ブック』(集英社)、『りぼん』(同)といった少女漫画雑誌に短編を発表していた。58年には『漫画王』(秋田書店)に読み切りとして描いた「ナマちゃんのにちよう日」が好評を博し、同誌翌月号より「ナマちゃん」として連載が開始される。59年には週刊誌ブームを背景として、小学館から『週刊少年サンデー』が、講談社から『週刊少年マガジン』が同日創刊され、週刊という枠の中で、漫画雑誌は新たなステージを迎えつつあった。その流れの中で赤塚は62年『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」の連載を開始。同年『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載も始まり、人気作家となる。64年石森、藤子、つのだ、鈴木伸一の設立したスタジオ・ゼロに参加。65年には新宿区十二社にフジオ・プロダクションを設立し、長谷邦夫、横山孝雄、古谷三敏、北見けんいち、高井研一郎らが参加する。この他、赤塚のもとには後に人気作家となる漫画家が多く在籍していた。同じく65年「おそ松くん」で第10回小学館漫画賞を受賞。67年『週刊少年マガジン』で「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』で「もーれつア太郎」の連載を開始(「天才バカボン」は69、70年の一時期、ライバル誌『サンデー』に連載されるが、71年『マガジン』で連載再開)。71年『サンデー』で「レッツラ☆ゴン」の連載開始。72年には「天才バカボン」で文芸春秋漫画賞受賞。同年『週刊文春』で「ギャグゲリラ」の連載開始。70年代以降も多くの連載をこなす一方、テレビ、映画、演劇、パフォーマンス、執筆など、漫画家としての枠を超えた活動を展開する。あわせて、65年のアニメ「おそ松くん」のテレビ放映に続いて、69年には「ひみつのアッコちゃん」と「もーれつア太郎」が、71年には「天才バカボン」がテレビ放映されるが、数度のリバイバルを経て、以後も多くの作品がテレビアニメ化される。「ギャグ漫画」という一分野を確立した赤塚作品の制作は、「アイデア(会議)」と呼ばれるミーティングによってネーム等のおおよそのアウトラインが決められたことが、赤塚自身や周囲の発言から知られる。この「アイデア」は赤塚始め長谷、古谷らフジオ・プロのメンバーと担当編集者を主な構成員とし、赤塚作品を彩る個性的なキャラクターの数々もこの席上で生まれたものが多かったという。赤塚による分業制とも言うべき作品完成へのプロセスは、戦後日本における漫画制作の現場の一端を知る上で重要である。また、73年末からの数ヶ月間、全ての作品を「山田一郎」名義で執筆するなど、実験的な表現方法を展開する。1997(平成9)年には「まんがバカなのだ! 赤塚不二夫展」(池田20世紀美術館)、「これでいいのだ! 赤塚不二夫展」(上野の森美術館)を開催。同年、第26回日本漫画家協会文部大臣賞受賞。翌年紫綬褒章受章。2000年には『赤塚不二夫のさわる絵本 よーいどん!』(小学館)、02年には『赤塚不二夫のさわる絵本 ニャロメをさがせ!』(同)という点字絵本を刊行。03年には青梅市に赤塚不二夫会館がオープン。没後の09年「赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」(松屋銀座他)が開催された。

横山隆一

没年月日:2001/11/08

 漫画「フクちゃん」で知られる漫画家の横山隆一は、脳梗塞のため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院で死去した。享年92。1909(明治42)年5月17日、高知県高知市堺町に生まれる。1927(昭和2)年、高知城東中学校を卒業後、同年上京した。翌年、川端画学校に通いはじめ、同郷の彫刻家本山白雲に弟子入りした。この頃から、アメリカの雑誌に掲載されたナンセンス漫画に惹かれて、漫画を描きはじめ、雑誌に投稿するようになる。30年、体力的な不安から、彫刻を断念する。31年、雑誌「新青年」に表紙画、挿絵、漫画が採用されるようになる。翌年、近藤日出造、杉浦幸雄とともに「新漫画派集団」を結成。36年1月、朝日新聞東京版に「江戸っ子健ちゃん」を連載、この漫画に脇役として登場させた「フクちゃん」の人気がたかまり、同年10月より、「養子のフクちゃん」として連載を再スタートした。38年、「フクちゃん」に対して、日本文化協会より第1回児童文化賞を受賞。44年、アニメーション映画「フクちゃんの潜水艦」を制作。45年、終戦後、連絡のとれた26名の漫画家たちとともに「漫画集団」を再発足させる。46年、永井龍男、小林秀雄に勧誘され、「新夕刊」に「フクちゃん」を連載。48年11月、毎日新聞朝刊に「ペ子ちゃん」を連載、翌年12月、同紙に「デンスケ」を連載、同漫画は55年まで連載2000回を数えた。51年、サンフランシスコ対日講和会議取材のため、毎日新聞より派遣され、渡米。3ヶ月の滞在中、ウォルト・ディズニー、スタインベルクに会う。54年、月刊「漫画読本」(文芸春秋社)に漫画集団として寄稿。56年1月1日より、毎日新聞に「フクちゃん」の連載を開始。同年、アニメーション制作のために「おとぎプロダクション」を設立、翌年アニメーション「ふくすけ」を完成させ、この作品によって同年のブルーリボン賞、58年の毎日映画コンクール教育文化映画賞を受賞。66年、まんが集「勇気」(日本YMCA同盟出版部)によって、同年の毎日出版文化賞特別賞受賞。71年、「フクちゃん」、連載5534回を記録して終了した。74年、紫綬褒章を受ける。79年、まんが集「百馬鹿」(奇想天外社)を出版、これにより同年の日本漫画家協会漫画大賞を受賞。1992(平成4)年、日本漫画家協会漫画賞特別賞として文部大臣賞を受賞。94年、漫画家として初めて文化功労者となる。96年、高知市名誉市民、鎌倉市名誉市民となる。戦前からの長きにわたる漫画家としての活動のなかから、「フクちゃん」に代表される国民的なキャラクターを生み、つねにユーモアと諷刺にあふれた作品を描きつづけた。没後の2002年4月、高知県高知市に横山隆一記念まんが館が開館し、多数の漫画とともに、横山のユーモアにみちたユニークなコレクションと資料が展示されている。

改田昌直

没年月日:1995/09/26

 漫画家の改田昌直は9月26日午後3時30分、心不全のため東京都新宿区の都立大久保病院で死去した。享年71。大正12(1923)年10月28日高知県室戸市に生まれる。帝国美術学校日本画科を中退して昭和24年漫画集団に入る。同25年から34年まで日本経済新聞に「パクさん」「ぼっちゃん」「あさぼら家」などの四コマ漫画を連載。同35年から38年まで高知新聞に4コマ漫画「茶の間さん」を連載。同年35 年から41 年まで『漫画読本』「週間漫画」などに作品を発表し、同41年作品集『ミステリー・カクテル』(コダマ・プレス)を出版する。同50年から63年まで共同通信社へ政治漫画を寄稿する一方、研究社の英和辞典の挿し絵等も描く。同60年、都市風俗と風景を風刺的に描いた作品集『アーバン世界』(思索社、同59年)により日本漫画家協会大賞を受賞した。

田河水泡

没年月日:1989/12/12

 代表作「のらくろ」で広く知られる漫画家田河水泡は12月12日午前2時半、肝蔵ガンのため神奈川県相模原市の北里大学病院で死去した。享年90。明治32(1899)年2月10日、東京市本所区に生まれる。本名高見澤仲太郎。同44年深川区立臨海尋常小学校を卒業。1歳で母に、15歳で父に死別し伯母のもとで育てられ、従兄の高見澤遠治が浮世絵版画師であったところから、その仕事を手伝ううち絵に興味を持ち油絵を描き始める。大正8(1919)年陸軍に入営。同11年除隊し、同年日本美術学校図案科に入学する。翌12年村山知義らを中心とする前衛美術運動MAVOに参加するが、同14年日本美術学校を卒業後は高澤路亭の名で新作落語の台本作家として活躍。昭和2年漫画にも筆を染めるようになり、同6年講談社の雑誌『少年倶楽部』新年号に「野良犬黒吉」を主人公とする漫画「のらくろ」を発表。自らの体験を投影し、不遇の野良犬が明るく生きていくユーモアとペーソスあふれる内容と、大胆に簡略化した黒い体と独特の顔を持つ斬新なキャラクターで人気を博し、軍部の禁止令によって停止させられる同16年10月号まで連載を続けた。戦後は同36年から雑誌『丸』に「のらくろ中隊長」の連載を始め、のらくろの後日譚を描いた。同42年『のらくろ漫画全集』の刊行により再評価の熱が高まり、同55年の「のらくろ喫茶店」まで、大戦をはさんで約半世紀の間、同一のキャラクターを描き続けて人気を保った。このほか「凸凹黒兵衛」「蛸の八ちゃん」などの漫画でも知られる。また、関野凖一郎にエッチングを学び昭和26年第1回東京ビエンナーレ展に入選したほか一線美術展にも出品。同34年に同会委員となった。著書に『人生面白説法』『滑稽の構造』『滑稽の研究』などがある。長谷川町子、滝田ゆう、永田竹丸らの後進を育て、児童漫画の礎を築くとともに現代漫画の育成にも寄与した。夫人は評論家小林秀雄の妹で文芸評論家の高見澤潤子(本名富士子)。

秋好馨

没年月日:1989/03/25

 新聞4コマ漫画「轟先生」で親しまれた漫画家秋好馨は、3月25日午後9時15分、肺ガンによる呼吸機能不全のため、神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。享年76。明治45(1916)年、東京に生まれる。中学校在学中に胸を病んで2年間休学し、この間に描いた漫画が雑誌に認められて昭和10(1935)年、「フレッシュマン神童君」でデビューする。同12年、横山隆一などの所属する「新漫画派集団」に入り、同16年近藤日出造主宰の雑誌「漫画」に「轟先生」を発表して注目された。中学教師を主人公とし、世相を敏感に反映した同作品は、戦後の同24年から読売新聞夕刊に4コマ漫画として連載され始め、同26年からは朝刊に移って同48年2月まで、通算7762回にわたって続けられた。主要作品としては、他に「ますらを派出夫会」「あわもり君」などがある。晩年は油絵に親しみ、個展なども開催している。

那須良輔

没年月日:1989/02/22

 痛烈な風刺のきいた政治漫画で近藤日出造、清水崑と並び称された日本漫画家協会会員、日本ペンクラブ会員の那須良輔は、2月22日午後1時、ぼうこうガンのため神奈川県の自宅で死去した。享年75。大正2(1913)年4月15日、熊本県球磨郡に生まれる。中学校在学中に洋画家を志し、上京して太平洋美術学校に学ぶ。同校卒業後、昭和9(1934)年講談社刊行の雑誌「日本少年」に「のんきな殿様」を発表して漫画家としてデビュー。新漫画派集団に所属し、昭和15年、近藤日出造の主宰する漫画誌「漫画」に執筆し始め、この頃から政治漫画に筆を染める。戦中は参謀本部の秘密機関の大田天橋の下で嘱託として外地向けの漫画謀略のビラを描くなどの仕事に従事し、同19年出征地より帰国。同25年より毎日新聞の嘱託となって政治漫画を担当。国会記者席からオペラグラスを使って議員、政治家の写生を行ない、洋画修学を基礎とした巧な似顔絵を用いて動感ある溌刺たる画風に鋭い批判、風刺をこめた。同33年にロンドンで開催された第1回国際政治漫画展に出品し、国際的にも認められる。主な政治漫画集の著作に『吉田から岸へ』(昭和34年、毎日新聞社)、『漫画家生活50年』(同61年、平凡社)などがある。また、水墨画、随筆もよくし、諷刺随筆『魚眼レンズ』(同42年、雪華社)、『かまくら素描』(同51年、かまくら春秋社)、『釣り春秋』(同53年、大陸書房)などを著した。

手塚治虫

没年月日:1989/02/09

 「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「火の鳥」などで日本の漫画史に大きな足跡を残した手塚治虫は2月9日午前10時50分、胃ガンのため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年60。昭和3(1928)年11月3日、大阪市に生まれる。本名治。同10年、大阪府立池田師範付属小学校(現、大阪教育大学附属池田小学校)に入学。田河水泡の漫画を好むとともに昆虫に興味を持ち、オサムシという名の虫を知ったことから、同14年頃から「治虫」のペンネームを用いる。同16年同小学校を卒業して大阪府立北野中学(現、北野高校)に入学。美術班と地歴班に属し、昆虫を題材にした漫画など、好んで漫画を描く。同20年北野中学を卒業して大阪大学附属医学専門部に入学。同年敗戦色の濃い中で映画「桃太郎海の神兵」を見、子供向け漫画映画の制作を志す。同21年『少国民新聞関西版』に4コマ漫画「マアチャンの日記帳」を連載し始め漫画家としてデビュー。翌22年酒井七馬原作の長編漫画『新宝島』を刊行し40万部を売りつくす。翌23年単行本『ロスト・ワールド〈前世紀〉』宇宙編及び地球編を刊行。同25年『漫画少年』に「ジャングル大帝」を連載し始め、同年から毎日放送で「手塚治虫アワー」が連続放送されて放送界をも活動の場とするようになる。また同年島田啓三を中心に馬場のぼるらが東京児童漫画会(児漫長屋)を結成すると同会に参加する。同26年大阪大学医学部専門部を卒業。翌年医師国家試験に合格したのち上京して本格的な制作活動に入る。同年より「鉄腕アトム」を、翌年より「リボンの騎士」を描き始め、爆発的人気を博す。同33年「びいこちゃん」「漫画生物学」で第3回小学館漫画賞受賞。同34年3月からフジテレビで「鉄腕アトム」がドラマ化され放映される。同35年頃自作の停滞感から一時漫画を離れ奈良県立医科大学で医学研究に従事し、36年1月「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により医学博士の学位を取得。同年6月、手塚治虫プロダクション動画部を設立、翌年虫プロダクションと改称して「鉄腕アトム」のアニメーション・フィルムの制作を開始する。同38年国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」のテレビ放映が開始され、高視聴率をあげ、同年アメリカでも放映される。この作品は以後、英、仏、独、オーストラリア、台湾、香港、タイ、フィリピンなどでも放映され、国際的に広く知られるところとなった。また同年、前年に完成した手塚治虫原案、構成の映画「ある街角の物語」で第17回芸術祭奨励賞、第13回ブルーリボン教育文化映画賞受賞。同40年国産初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」の放映が開始される。翌41年「ジャングル大帝」で厚生大臣児童福祉文化賞受賞。同年12月、雑誌『COM』が創刊され、同誌に「火の鳥」の連載を開始。その後も、同42年「展覧会の絵」で芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞、劇場版「ジャングル大帝」でベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞及びアジア映画祭特別部門賞、同45年「やさしいライオン」で児童福祉文化賞、同50年「ブラック・ジャック」で日本漫画家協会賞特別優秀賞、同55年「火の鳥2772」でサンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞、ラスベガス映画祭動画部門賞など次々と漫画、動画の優作を生み出して受賞を続け、「鉄腕アトム」では同40年に厚生大臣による表彰を受けたほか、同60年には東京都民栄誉章受章、同63年、戦後漫画とアニメ界における創造的な業績によって朝日賞を受賞した。戯画、カリカチュアの流れをひく大人向けの漫画に対して子供を対象とする空想、物語の世界を表わした子供漫画の領域を確立し、動感あふれる描法、一貫した物語を追う長編物を打ち出すなど新たな試みを行なって、今日に至るテレビ、映画のアニメーション漫画の隆盛を導いた。没後、漫画家としては初めての公立美術館での個展として東京国立近代美術館で「手塚治虫展」(平成元年7月)が開かれた。(年譜、事蹟、作品刊行などの資料は同展図録に詳しい。)

宮尾しげを

没年月日:1982/10/02

 子供漫画の開拓者で民俗芸能研究や随筆家としても知られる宮尾しげをは、10月2日午後7時21分、心不全のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年80。1901(明治34)年7月24日、東京・浅草区に生まれ、本名重男。生家は士族商法の鼈甲細工師であったが、大正初年華々しい活躍をしていた漫画家岡本一平に憧れ、漫画家を志す。17才の時岡本一平に師事し、その後新聞社に入社、時代物の冒険談を描いた4コマの連載子供漫画「漫画太郎」を毎夕新聞に掲載する。これは団子串助の前駆を為すもので、23年6月毎夕社出版部より単行本として刊行された。25年、現在の子供漫画のシリーズ形式の走りとなった代表作「団子串助漫遊記」を連載し日本古来の講談世界のナンセンスを展開、100版以上を重ねるベストセラーとなった。この後も歌舞伎や落語等、市井文化を反映させた時代物の子供漫画を発表、大正末から昭和初年にかけて「軽飛軽助」「一休さんと珍助」「今弁慶」等のヒットを飛ばす。大らかな人柄そのままに、とぼけた絵を得意とし、また32年には、音が出たり怪物が飛び出したりする立体的な動く漫画本『あっぱれ無茶修業』を創作した。戦時中、中国を旅行し店の看板ばかりを集めたスケッチ集「支那街頭風物」を出している。しかし、欧米のナンセンス漫画の影響や軍人ファッショの台頭などにより、次第に漫画から離れていく。戦中より戦後は、随筆や民俗芸能の研究を幅広く手がけ、殊に江戸小咄や川柳、文楽人形芝居、郷土芸能などを研究、「文楽人形図譜」「日本祭礼行事事典」「江戸小咄集」「文楽人形」「東京昔と今」「日本の民俗芸能」「芸能民俗学」「江戸街芸風俗誌」「江戸川柳の味い方」「地方狂言の研究」等多数の著書を残した。また文化財保護審議会専門委員、国立劇場専門委員、日本民謡協会顧問、日本民族芸能協会・日本歌謡学会の各理事などをつとめ、日本文芸家協会・日本民俗学会・日本近世文学会・日本演劇学会・日本風俗史学会等の会員でもあった。絵画にも戦後は主に文筆や評論の側から係わり、著書『日本の戯画』(67年)のほか、日本漫画家協会名誉会員、日本浮世絵協会・日版会の理事などをつとめた。65年社会教育功労賞、69年紫綬褒章を受け、75年勲四等に叙せられた。

松山文雄

没年月日:1982/03/03

 日本美術会(日本アンデパンダン)、日本童画会、日本漫画家協会に属した漫画家まつやまふみおは、3月3日午後0時48分急性心不全のため東京都渋谷区の代々木病院で死去した。享年79。1902(明治35)年5月18日長野県小県郡に生まれ、17(大正6)年大門村高等小学校を卒業後、25年東京・本郷絵画研究所に入り絵を学んだ。翌年から日本漫画家連盟に参加、29(昭和4)年には「戦旗」に徳永直『太陽のない街』の挿絵を描く。プロレタリア運動に参加し諷刺漫画を描き、1931年共産党に入党。翌年6月から35年2月まで3年間、治安維持法違反で入獄した。45(昭和20)年共産党に再入党し「赤旗」に政治漫画を描き始める。46年、日本美術会、日本童画会の創立に参加。戦前、戦後を通じて生涯、民衆を愛し、民衆の中に入っていこうとする態度を崩さず、ドーミエ、ロートレックらの伝統の上に漫画を位置づけ、芸術としての漫画、童画を目指した。主要作品に、画集『漫画でみる戦後史』(67年、新日本出版社)、『画集まつやまふみおの世界』(80年、愛真出版)、『漫画でみる現代史』(80年、新日本出版社)、絵本『まけうさぎ』(斎藤隆介作、71年、新日本出版社)、『かさこじぞう』(松谷みよ子作、73年、童心社)、自伝『赤白黒-諷刺画40余年』(69年、造形社)がある。

南部正太郎

没年月日:1976/11/05

 漫画家南部正太郎は、脳内出血のため11月5日兵庫県宝塚市の大室病院で死去した。享年57。大正7(1918)年11月23日大垣市に生まれ、昭和12年大阪市立都島工業学校建築科を卒業した。卒業後置塩建築事務所に勤務し、戦後漫画家となる。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、当時、大阪新聞と朝日新聞に連載した「ヤネウラ3ちゃん」は人気を得、代表作となった。作品にはそのほか「アブ山8之助」「のんびり君」などがあり、日本漫画家協会(関西支部)に所属する。生涯独身。

須山計一

没年月日:1975/04/17

 一水会会員、日本美術会員の洋画家、また漫画家、漫画研究家の須山計一は、4月17日午後11時58分、脳出血のため東京世田谷奥沢の大脇病院で死去した。享年69歳。須山は、明治38年(1905)7月17日、長野県下伊那郡に生まれ、昭和5年(1930)東京美術学校西洋画科を卒業。在学中は藤島武二教室に属し、一方、松山文雄にさそわれて麻生豊、柳瀬正夢らの日本漫画連盟に参加、昭和2年(1927)、柳瀬、松山の紹介でプロレタリア文芸連盟美術部に加盟し、学内では研究会五月会にはいって活躍した。その間に発表した作品には宇野計の名で出品した昭和3年(1928)第1回プロレタリア美術展「トーマを排撃せよ」、翌4年第2回プロ美術展「戦争」「宗教」「社会民主主義者A、B、C」、5年第3回展には無産者新聞連載の漫画「アジ太プロ吉世界漫遊記」、6年第4回展「アムステルダムの手先共」、7年第5回展「祖国」「村」などがある。美術学校卒業制作は「労働者」(のち、昭和38年“昭和初期洋画展”神奈川県立近代美術館、昭和46年4月“近代日本美術における1930年”展に出品された)であった。昭和8年ヤップ(日本プロレタリア美術家同盟)書記長、コップ(日本プロレタリア文化連盟)書記局員などをつとめ、同年12月検挙され、治安維持法違反で起訴、約1年間の未決生活をおくり、懲役3年執行猶予5年の判決をうけた。昭和16年(1941)第5回一水会展に「宿駅」入選、その後毎年出品し、昭和21年一水会会員となった。また、昭和12年には満州・朝鮮旅行、また、昭和17年には石井柏亭が主宰した双台社の同人となっている。戦後は、一水会展に出品すると同時に、昭和22年日本美術会会員となり同会主催日本アンデパンダン展に毎回出品、昭和34年には同志と草炎会を結成した。昭和36年にモスクア、レニングラードで開催された現代日本美術展に「伊那の山村」「出漁の朝」を出品、同40年には招待されて新中国を旅行した。一水会展への出品は一時中断したが、昭和46年以後再出品している。漫画評論、漫画史研究にもたづさわり、『現代世界漫画集』(昭和11年)、『ドーミエ、政治風俗漫画』(昭和28年、青木書店)、『漫画の歴史』(昭和30年、美術出版社)、『日本漫画100年』(昭和31年、鱒書房)、『日本の戯画』(昭和35年、社会思想社)、『漫画博物誌・世界、日本』2冊(昭和47年、番町書房)などの著書がある。一水会展出品作品略年譜昭和16年(1941)5回展「宿駅」、17年6回展「山の道」、18年7回展「仕上げの女達」「伊那谷の初夏」、22年9回展「志賀の渓流」「山池」、23年10回展「街」、24年11回展「ミシンをかける妻」、25年12回展「焼跡工場から」、26年13回展「姨捨駅」、27年14回展「絵をかく子供」「伊那谷の生家」、28年15回展「六郷橋畔」「造船所付近」、29年16回展「瓦斯橋の辺り」「南信駒場の宿」、30年17回展「南信の夏」「伊那の山村」、31年18回展「峠の部落」「大平街道」、32年19回展「馬籠への道」、33年20回展「荷揚げ場」、46年33回展「竜門石窟」、47年34回展「奥信濃の火祭」、48年35回展「天竜渓谷の村」、49年36回展「白樺林とつつじ」。

清水崑

没年月日:1974/03/27

 漫画家、清水崑(本名幸雄)は3月27日午後8寺30分、ロク膜炎のため東京都文京区の東京医科歯科大学附属病院で死去した。享年61歳。大正元年9月長崎県に生まれた。長崎商業在学中から漫画に情熱をもやし、昭和5年、画家を志して上京、街頭で似顔絵かきをやるうち岡本一平に認められ弟子入りし漫画家への道を踏み出した。戦後、横山隆一、近藤日出造らと漫画集団をつくり、新聞、雑誌に政治漫画を連載、一躍人気作家となった。毛筆による鳥羽絵風の軽妙な絵が得意で、漫画では「かっぱ天国」「かっぱ川太郎」などの“かっぱもの”の代表作に多くの支持者を得たが、とくに優れた技を似顔絵に発揮したといえる。

西川辰美

没年月日:1971/03/07

 漫画家西川辰美は3月7日食道静脈癌破裂のため新宿区東京医大病院で死去した。享年54才。東京の四谷に生れ、昭和9年京華商業卒業後、味の素株式会社に入社し20年までその広告部に在籍したが、12年から徴兵され、幹部候補生として陸軍中尉となる。昭和6年から漫画の投稿欄に採用されていたというが、京華商業在校中に近藤日出造の下に出入した。戦争末期から胸部の難病に苦しみながら漫画を描き、22年から漫画集団に参加した。25年から「主婦之友」誌上に「おトラさん」を連載し「文芸春秋漫画読本」にも同じシリーズを載せ続け読売少年版に「ゲンキ中学」、産経時事夕刊に「おかあちゃん」を連載する一流の流行作家となった。テレビ番組のレギュラー司会者としても活躍する多彩な才能をもっていた。

清水対岳坊

没年月日:1970/06/19

 漫画家清水対岳坊は、6月19日心筋硬そくのため東京都北多摩郡の自宅で死去した。享年86歳。大正、昭和初期に活躍した漫画界の草分けで、講談社の「キング」「少年倶楽部」「講談倶楽部」のさし絵や、新聞の政治漫画などで知られた。

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