本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





瀬野覚蔵

没年月日:1940/05/04

 洋画家瀬野覚蔵は5月4日逝去した。明治21年京都に生る。初め松原三五郎の門に入り、後白馬会洋画研究所に於て黒田清輝、岡田三郎助に師事した。大正3年より屡々渡支、「覚蔵滞支記念画集」がある。爾来、帝展文展に出品、今次支那事変の勃発するや昭和13年中支各地に従軍、本年2月には陸軍省囑託として南寧、海南島の各戦線を歴訪した。近年執筆の国防館壁画「突撃」、近衛師団所蔵の静岡県下特別大演習図等はその代表作である。

岡田三郎助

没年月日:1939/09/23

 帝室技芸員、帝国芸術院会員、東京美術学校教授、従3位勲2等岡田三郎助は、予て療養中のところ9月23日渋谷区の自邸に逝去した。享年71歳。9月25日青山斎場に於て神式を以て葬儀執行、11月11日青山墓地に埋葬した。 明治2年1月12日佐賀県佐賀市に石尾孝基の四男として生る。幼名芳三郎。幼くして上京、旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治20年東京帝国大学工科大学助教授曽山幸彦に就学し、初めて洋風画を学ぶ。此の年岡田正蔵の養嗣子となり岡田姓を称す。同24年明治美術会々員となる。師曽山の夭折後其の家塾を承継せる堀江正章、松室重剛の大幸館に留まり、25年修了す。26年黒田清輝、久米桂一郎と知り、彼等の薫陶を受く。28年第4回内国勧業博覧会に「初冬晩暉」を出品して3等賞を受け、漸く画名を知らる。翌29年東京美術学校に西洋画科の新設さるるや、擢でられて助教授を拝命、又此の年白馬会の創立に参画し、其の第1回展覧会に20余点を出品す。此の時代その初期のアカデミツクな画風より印象派の傾向への転換期に在り。明治30年西洋画研究の為文部省より満4年間仏国に留学を命ぜられ出発す。専らラフアエル・コランに師事し、研鑚を遂げ、同35年1月帰朝す。此の年12月東京美術学校教授となる。翌36年第5回内国勧業博覧会に滞仏作品「読書図」を出品2等賞を受く。又此の時代まで白馬会に出品して活躍す。同40年東京府勧業博覧会審査官となり、自ら「某夫人像」を出品1等賞を受く。此の年文部省美術審査委員会創設さるや、その第二部委員となり、爾後官設展覧会の為に尽瘁するところ大であり、又自らもほとんど毎回力作を出品した。明治45年には藤島武二と図り本郷に洋風画指導機関本郷絵画研究所を創設し、民間に在つても後進の指導に尽力した。大正8年帝国美術院の創設と共に挙げられて会員となつた。同13年東京美術学校西洋画科主任を命ぜられた。昭和5年2月文部省より欧州出張を命ぜられ、各国の美術及び美術工芸の研究を遂げ、同年11月帰朝した。同9年帝室技芸員を拝命し、同10年改組後の帝国美術院会員に挙げられ、又満洲国に出張した。同11年には一時東京美術学校長事務取扱を命ぜられた。翌12年には多年の功労に依り文化勲章を拝受し、又新設の帝国芸術院会員となつた。13年より健康を害したが猶制作を続け、翌14年に至る。此の年3月呉内科に入院、6月には退院し小康を得しも、9月23日遂に立たなかつたものである。其の71年の生涯を顧るに、明治20年以後洋風画に携はつて終始変らず、その伎倆に於て衆に擢でたのみならず、永年東京美術学校及び本郷絵画研究所に於て後進の薫陶に当り、洋風画の発展に貢献するところ極めて大であり、その人格、伎倆に於て稀に見るところであつた。又彼の美術工芸方面に貢献せる点も忘却出来ないのである。略年譜年次 年齢明治2年 1月12日石尾孝基四男として佐賀県佐賀市に生る。明治4年 3 厳父孝基に伴はれ上京す。明治8年 7 旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治13年 12 父と共に京都に移る。次で大阪に移る。明治16年 15 父と共に再び東京に移る。明治20年 19 岡田正蔵の養嗣子となり、東京府芝区に本籍を置く。帝国大学工学部助教授大野幸彦に洋風画を学ぶ。明治24年 23 明治美術会々員となる。明治25年 24 1月11日師大野幸彦病没す(東京帝大工学部保存履歴書)。大幸館(旧曽山塾)に入塾す。「長崎にて」(作品)、「倚る女」(作品)明治26年 25 7月大幸館曽山塾修業、久米桂一郎の紹介にて黒田清輝と知る。後岩村透と知る。「矢調べ」(大幸館修業作品)明治27年 26 10月天真道場に入門して黒田清輝、久米桂一郎の薫陶を受く。「初冬晩暉」(作品)明治28年 27 「初冬晩暉」第4回内国博出品(3等賞) 10月「初冬晩暉」明治美術会秋季展出品。明治29年 28 9月9日、東京美術学校助教授被任。同月、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透等の白馬会創立に参加す。10月、第1回白馬会展に「夕日」以下21点出品。明治30年 29 5月28日西洋画研究の為、文部省留学生として仏国に留学を命ぜられ、7月9日巴里著、8月1日、ラフアエル・コランの門に入り、同邸内に仮寓す。10月13日巴里に帰り、オテル・スフローに寓居を定む。アカデミイ・ビツチに入学してコランの薫陶を受く。10月、白馬会第2回展に「収穫」出品。明治32年 31 10月白馬会第4回展に「自画像」出品、「ムードンの夕暮」(作品)「女肖像」(作品)明治33年 32 「千九百年巴里博覧会」(作品)明治34年 33 「読書」(作品)「伊太利の女」(作品)明治35年 34 1月2日東京に帰著す。2月4日、東京美術学校西洋画授業を1週2日嘱託。白馬会第7回展に「老翁」以下5点を出品、12月5日、任東京美術学校教授、叙高等官6等。明治36年 35 第5回内国博覧会に「読書図」出品、(2等賞)。「舞子」(作品)明治38年 37 10月白馬会10週年記念展に「秋林の幻影」以下30余点出品。明治40年 39 3月5日、東京勧業博覧会審査官を嘱託さる。尚同展に「某夫人像」を出品、1等賞を受領した。8月13日、美術審査委員会委員被仰付、第二部委員を命ぜらる。10月、白馬会11回展覧会「習作」出品。同月、第1回文展に「大沢博士肖像」、肖像(婦人像)外1点出品。作品、「紅衣夫人」「某夫人像」明治41年 40 10月第2回文展「小池博士肖像」外2点出品。作品「萩」明治42年 41 10月第3回文展「大隈伯爵夫人肖像」外2点、出品。明治43年 42 1月東京美術及び美術工芸展評議員嘱託。7月美術審査委員会委員仰付、第二部員拝命。5月白馬会第3回展に「女のあたま」(画稿)「少女」出品。9月伊国万国博覧会出品鑑査委員嘱託。10月第4回文展「ひなた」「くもり」出品。明治44年 43 8月美術審査委員会委員仰付、第二部員被命、10月第5回文展「湯場にて」出品。明治45年(大正元) 44 3月藤島武二と共に本郷絵画研究所を設立す、6月第6回美術審査委員会委員被付、第二部員被命。10月第6回文展「偶感」出品。大正2年 45 10月第7回文展「凝視」「女の顔」出品大正3年 46 10月、光風会第3回展覧会に「ぬいとり」出品。大正4年 47 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。同月、第3回図案及応用美術審査委員。10月第9回文展、「黒き帯」外2点出品。大正5年 48 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命、10月第11回文展「ヨネ桃の花」出品。大正6年 49 2月光風会第5回展「桃の花」「白きベエール」出品。9月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。10月第11回文展「初夏」「花野」出品大正7年 50 9月第6回工芸展覧会審査員嘱託、同月美術審査委員会被命。10月第12回文展「忍路」「北国の雪」出品。大正8年 51 7月工芸審査委員被仰付、8月第一部員兼第二部員被命。9月帝国美術院会員被仰付。10月第1回帝展「ネムの花」出品。大正9年 52 9月工芸審査委員被仰付、10月第2回帝展「支那絹の前」出品。大正10年 53 7月勅任官待遇、9月工芸審査委員被仰付。10月第3回帝展「榕樹の森」出品。大正11年 54 3月平和博覧会審査委員嘱託。5月朝鮮美術審査委員嘱託。9月工芸審査委員会委員被付10月第4回帝展「真野博士の肖像」出品。大正13年 56 10月第5回帝展「水辺」。12月東京美術学校西洋画科主任被命。大正14年 57 2月光風会展「北国の春さき」。同月会長として本郷絵画展覧会を組織、6月第1回展「裸婦」「菊」出品。10月第6回帝展「裸婦」2点出品。大正15年(昭和元) 58 5月第1回聖徳太子奉讃展覧会「掛を着たる女」出品。10月第7回帝展「古き昔を偲びて」出品。昭和2年 59 10月第8回帝展「山川先生の肖像」出品。昭和3年 60 1月第3回本郷絵画展覧会「来信」出品。8月満洲出張。昭和4年 61 第4回本郷絵画展覧会「風景」出品。昭和5年 62 1月春台美術第5回展覧会「麻の着物」出品。2月欧洲各国へ出張被命。昭和6年 63 春台美術第6回展覧会「ヴエルサイユとコローの池」出品。「薔薇」(作品)昭和7年 64 第7回春台美術展覧会「薔薇」「仙石原」出品。昭和8年 65 5月光風会展「イスタンブルにて」、第8回春台展覧会「金時山」出品。3月工芸審査委員被仰付、第一部兼第二部員被命。昭和9年 66 5月、光風会第21回展覧会「慶州仏国寺」「菅ノ平」出品。4月工芸審査委員被仰付。第一、二部員被命、12月帝室技芸員被命。昭和10年 67 1月第14回春台美術展覧会「伊豆の東海岸」出品。4月工芸審査委員被仰付、第1、2部員被命。6月、帝国美術員会院被仰付。12月満洲国出張被命。昭和11年 68 1月第11回春台展覧会「長野の水源地」出品。4月工芸審査委員被仰付、第一、二部員被命。同第26回光風会展覧会「鏡川の夕」出品。6月東京美術学校長事務取扱被命、9月同職被免。文部省美術展覧会委員被仰付。昭和12年 69 2月第12回春台展覧会「岩越国境」出品。「人物」(作品)昭和13年 70 2月光風会第25回展覧会「山中湖」出品。昭和14年 71 第10回春台美術展覧会「河口湖鵜の島」出品。3月東京帝大病院呉内科入院、6月退院、9月23日於自宅永眠、従3位に追陞せらる。

大沼かねよ

没年月日:1939/07/12

 洋画家大沼かねよは7月12日肺炎のため逝去した。享年35歳。明治38年宮城県に生れ、女高師図画専修科を出て、帝文展に「家族」「野良」「遊楽」等が入選し、又槐樹社にも「三人」其他を出品、その画風を注目されてゐた。

ラグーザ・玉

没年月日:1939/04/06

 女流洋風画家ラグーザ・玉は、4月6日芝区の清原家に於て急逝した。享年79歳。同9日芝増上寺に於て葬儀を執行、其後遺骨は麻布長玄寺に埋葬、一部はイタリア、パレルモに送られた。 女史は清原姓、幼名を多代と称し、文久元年6月10日江戸芝に生れた。幼より絵事を好み、若くして日本画を学び、次で永州なる画家に就て西洋画法の指導を受けた。明治10年予て工部美術学校に彫刻学教師として招聘されてゐたヴインチエンツオ・ラグーザと識り、その画才を認められて西洋画法の指導を受け、得るところ多かつた。同15年ラグーザの帰国に際し伴はれてイタリア、パレルモ市に渡行、サルバトーレ・ロ・フオルテに師事した。同17年ラグーザがパレルモ市に工芸学校を開設するやその絵画科の教師となつた。此の工芸学校が市立となり高等工芸学校となるに至つて教授となり、女子部の絵画の指導に当り、其の後女子部の廃止と共に退き、専ら家庭に在つて子女の指導に当つた。此の間パレルモに於ける諸種の美術展覧会の外モンレアレ、ヴエネツイア或は米国市俄古、聖路易等の美術展覧会、博覧会等に出品して最高賞を与へられた。而して、昭和2年ラグーザの没後、パレルモ市に在り、同地よりラグーザの遺作多数を東京美術学校に寄贈し、昭和8年渡伊後50有余年にして帰国した。其の後は芝区の旧家の辺清原家に画室を構へ、専ら画筆に親しんでゐたが、昭和14年4月5日脳溢血に倒れ翌6日遂に長逝したものである。女史は長く故国を離れ、直接わが画壇との交渉を絶つてゐたが、イタリアに於いては夙に著名であり、わが国に於いても再度の展覧会に依て滞伊中の制作及び帰朝後の作品が紹介さるるに際し、其の堅実な画風を確認したのであつた。

小林孝行

没年月日:1939/01/13

 ニ科会の出品者で、九室会の会員であつた小林孝行は1月13日真鶴の海に投身自殺した。享年25歳。昭和7年ニ科に初入選となり、同11年よりニ科展に毎回超現実主義の作品を発表した。尚12年に銀座、サロン・ルウエに壁画を執筆した。14年3月紀伊国屋に遺作展が開催された。

野田英夫

没年月日:1939/01/12

 新制作派協会の会員として近年注目されてゐた野田英夫は1月12日病気のため逝去した。日系米国市民で1910年3月3日北米加州サンノゼ市に生れた。桑港加州美術学校に入学し、当時スタツクポール、マキー、アーナルド・ブランチに師事し、尚デエゴ・リベラに壁画の指導を受けたことがある。31年ブランチの招聘により紐育ウツドスタツクに行き、同地で国吉康雄、ユージン、スパイカー、グローツ、リユーサ等を知り、壁画、テンペラ画の研究製作に従つた。34年日本を訪れ翌年銀座青樹社に個展を開催、又ニ科会に出品した。37年母校の加州ピドモント・ハイスクールの壁画を製作、次で欧州を遍歴し、9月帰朝、新制作派協会の会員となつた。米国に於ける展覧会ではウツドスタツク美協会展、ニユーヨーク・ホイツトニイ全米作家展、シカゴ・アートインステチユート展、桑港美術協会展、ワシントンココランギヤラリー展等に出品、度々授賞せられてゐる。油絵の外に壁画を得意とし、米国に多数の作品を残してゐるが、来朝後は新制作派展に出品し、好んで小市民的な題材に幻想を求めた特異な画風を示してゐた。尚、本年度の新制作派展に遺作の特別陳列が行はれ、11月に春鳥会より「野田英夫作品集」が刊行された。

彭城貞徳

没年月日:1939/01/04

 洋風画家彭城貞徳は、1月4日逝去した。享年82。安政5年2月11日長崎市に生る。同市の宏運館に学び、明治5年上京、同8年高橋由一の天絵学舎に入り、洋風画を初めて学ぶ。同9年工部美術学校に入学アントニオ・フオンタネージの薫陶を受く。其後一時石版会社玄々堂の図案部に入り、次で17年長崎に帰郷、長崎商業学校等に教鞭をとる。明治26年米国市俄古万国博覧会に際し渡米、費府美術学校に学ぶ。28年英国に渡り、ウオータールー石版会社に入り図案家として働く。明治30年仏蘭西に至り、滞留5年の後同34年帰朝す。36年長崎に帰郷、東山学院、鎮西学院、活水女子校等に生徒を指導し、傍ら画塾を開く。大正4年上京日本橋芳町に商家を構へ、余暇制作す。終世中央画壇との交渉を有たず知らるるところ尠かつたが、その作品は一種の風格を持つてゐる。又音楽に趣味を持ち、就中尺八は二代目一調として知られてゐた。

倉田白羊

没年月日:1938/11/29

 春陽会々員、元日本美術院同人倉田白羊は宿病の糖尿病のため11月29日逝去した。享年58歳。 本名重吉。浅井忠の門人で、明治34年東京美術学校を卒業後太平洋画会々員、雑誌「方寸」同人、日本美術院同人を経て大正11年同志と共に春陽会を創立して現在に及んだ。文展の「つゆはれ」、院展の大作「冬」等は青年期の代表作で穏やかな構想に成るが、大正12年以降信州の山村風物を主題として、比較的小品に於て厳格な客観描写を追求した。昭和9年以後、大作の製作へ掛り、「たそがれ行く」「たき火」「冬野」を次々完成、独自の格調を築き上げたものである。略年譜年次 年齢明治14年 12月25日儒者倉田幽谷の末子として埼玉県浦和に生る明治27年 13 中兄の弟次郎没するに及び、其の遣業を継がんことを志して親戚浅井忠の門に入る。弟次郎は浅井に師事し、明治美術会の会員で同年24才を以て夭折した明治31年 17 明治美術会の準通常会員となり、同年東京美術学校に入学、浅井教室に学ぶ明治34年 20 同校洋画科専科を首席卒業。群馬県沼田中学校に奉職明治35年 21 1月太平洋画会創立、その会員となる明治37年 23 沼田中学校を辞職、時事新報社に入社明治40年 27 文展第1回出品「つゆはれ」明治41年 28 文展第2回「牝牛」明治42年 29 時事新報社を退社明治43年 30 文展第4回「小倉山の微雨」同年より翌年にかけて雑誌「方寸」を編輯す大正元年 32 文展第6回「川のふち」大正3年 34 新画材を求めて小笠原島に移住、押川春浪同行す。当時春浪の主筆たりし武侠世界社に関係して居た。同年薯書「洋画の手ほどき」発行。(発行所東京神田、鳥田文盛館)大正4年 35 小笠原島より帰る。帰京後日比谷美術館に於て小笠原島滞留作品40点を発表す。同年再興日本美術院洋画部同人に推挙された。院展第2回出品「葡萄を採る男」大正5年 36 院展第3回「蝦蟇仙人」大正6年 37 院展第4回「投網帰り」外3点 同年東京より房州に移る大正7年 38 院展第5回「もろこし」外2点大正8年 39 院展第6回「防風林」外6点大正9年 40 院展第7回「冬」(大作)。第7回展終了後洋画部同人5名と共に連盟脱退した。大正11年 42 同志6名と共に春陽会を創立した。同年の暮山本鼎の創立にかかる日本農民美術研究所の事業を援くる為房州より信州上田市に移転す大正12年 43 春陽会第1回展「冬の林檎畑」外11点大正13年 44 春陽会第2回展「夏の林檎畑」「信濃の家」外7点大正14年 45 春陽会第3回展「冬の段畑」外3点大正15年 46 春陽会第4回展「雑木の丘」外4点昭和2年 47 上田市の東北に定住、春陽会第5回展「冬の麗日」「雑木の丘」外1点昭和4年 49 春陽会第7回展「崖を負ふ家」「庭の隅」同年2月銀座資生堂で個展開催昭和5年 50 春陽会第8回展「夏蠶の頃」「葡萄棚」「山ふところの小村」「深秋の烏帽子嶽全容」を始め計20点昭和6年 51 春陽会第9回展「雪後の桑園」外4点昭和7年 52 春陽会第10回展「秋の風景」「冬のよき日」外3点昭和8年 53 春陽会第11回展「つゆばれ」「とび色の頃」等昭和9年 54 銀座資生堂に於て個展開催。春陽会第12回展「たそがれ行く」(大作)外2点。「随筆雑草園」を四谷区竹村書房より発行昭和10年 55 春陽会第13回「たき火」(大作)等。尚「たき火」製作に際して、過労のため危く失明に瀕した。晩年視力減じ、仕事も半人前なりとの意にて好んで「半人忘斎」と号す、春、木版彫刷「半人三字文」を上枠(彫刷中西義男)昭和11年 56 春陽会第14回展「白き部落」「朝の葡萄園」等6点、銀座三昧堂にて個展開催、主として房州太海滞在中の小品を発表昭和12年 57 長野県上小教育会に於て講演集「美育談片」を編輯発行。大阪美交社にて個展開催、近作27点発表「初冬果園」「冬の崖」「山居の秋」「村の店」等。春陽会第15回展「冬景色」「冬野」(大作)「朝鮮牛」(大作)等昭和13年 58 春陽会第16回展不出品。9月以降は失明した。11月29日没

青柳喜兵衛

没年月日:1938/08/28

 元旺亥社同人青柳喜兵衛は8月28日逝去した。享年35歳。福岡に理葬された。 明治37年1月1日筑前博多に生れた。早稲田大学商科に学び、傍ら川端画学校に学ぶ。大正14年吉村芳松に帥事した。同15年以降帝展に毎回入選、昭和6年春槐樹社の無鑑査に推薦され、同11年文展無鑑査に推薦された。代表作品としては「アトリエにて」(200号)、「妊婦」(150号)、「風船を配せる図」(120号)、「千子の壁」(80号)等がある。

福井謙三

没年月日:1938/08/03

 春陽会出品者福井謙三は、昭和13年8月3日房州太海々岸に於て不慮の死を遂げた。 明治37年4月19日、榊戸市に生る。大正13年東京美術学校洋画科に入り、長原孝太郎、小林万吾、岡田三郎助に師事、在学中帝展第9回(昭和3年)に初入選した。同4年卒業と同時に渡仏、同7年帰朝した。同9年銀座資生堂に帰朝第1回個展を、翌年新宿ノーヴにて第2回展を開いた。春陽会には第7、12、13、15回等に出品、「アカデミーにて」「赤い服」「読書」「ボンネツト」等の作品があり、同会に於て将来を期待されて居た作家である。「福井謙三画集」(造形文化協会発行)がある。

一水隩二郎

没年月日:1938/06/05

 洋画家一水隩二郎は6月5日逝去した。享年42歳。 元宮相一木喜徳郎男の二男として明治31年東京に生る。大正11年東京美術学校西洋画科を卒業、昭和2年より5年迄外遊し、帝展に4回入選してゐた。

林明善

没年月日:1938/03/28

 洋画家林明善は3月28日逝去した。享年40歳。 明治32年9月18日名古屋市に生る。智山大学卒業後大正14年上京し、川端画学校、同舟舎を経て、片多徳郎に師事した。帝展の第8、9、11、13回及び新文展第1回に入選、又昭和7年に第一美術協会の会員に推薦されて居た。尚昭和13年4月名古屋市鶴舞公園美術館に於て遺作展が開催された。

八条弥吉

没年月日:1937/11/04

 洋画家八条弥吉は11月4日千葉医大附属医院に於て逝去した。明治10年大阪府に生れ、同34年東京美術学校洋画科を卒業、日露戦役に大阪毎日新聞社特派員として従軍した。同43年第4回文展に「茶屋」を出品、3等賞を受領。大正11年渡仏、翌年帰朝。昭和11年度文展招待者に推され「斜陽の庭」を出品、同12年第1回文展に「南総風景」を出品した。

岩倉具方

没年月日:1937/10/14

 洋画家岩倉具方は本年9月海軍省嘱託画家並報知新聞特派員として上海戦に従軍したが、10月14日上海呉淞路にて敵弾の為名誉の戦死を遂げた。維新の元勲岩倉具視公の曽孫として明治41年東京に生る。太平洋美術学校に洋画を学び、昭和2年二科に初入選し、同5年渡欧、11年に帰朝した処であつた。

坂口右左視

没年月日:1937/01/06

 元春陽会々友坂口右左視は、旧臘来胸を病み療養中1月6日逝去した。享年43。佐賀県唐津の出身で、日本美術院研究所に学び、大正12年春陽会第1回展に春陽会賞を受領、次で第3回展に於ても同様受賞し、無鑑査に推挙された。爾後連年出品、昭和6年会友となつたが、同9年退会した。その画風は要約された筆触を用ひて気魄ある表現を示し、非凡な才能を示したが、多く世に容れられず、不遇であつた。

栗原忠二

没年月日:1936/11/12

 洋画家栗原忠二は胃癌の為11月12日夜杉並区の自宅で逝去した。享年51。明治19年10月21日静岡県に生る。同45年東京美術学校西洋画科本科卒業。大正元年10月英国へ留学、同3年ブラングインに師事し、同8年英国王立美術家協会の準会員に推薦さる。同13年帰朝。同15年再渡英し昭和2年帰朝。同4年同志と共に第一美術協会を創立し爾後同会展に於てのみ作品を発表した。同8年築地洋画研究所を設立、同10年海軍省の依囑により宮城内顕忠府に納むべき上海事変油絵6枚を揮毫、同11年6月ホテル・ニユーグランド(山中湖)の壁画「歓楽の港」を完成した。

埴原久和代

没年月日:1936/09/15

 洋画家埴原久和代は脳溢血の為、8月5日以来芝区虎ノ門佐田病院に入院中であつたが、9月15日逝去した。享年58。名は桑喜代、山梨県の出身で女子美術学校卒業後、二科会展に出品し、女流画家として最初の二科会々友であつた。晩年は高血圧の為失明し、自宅の焼失と共に彩筆を棄て鎌倉円覚寺山門前に移り、元円覚寺管長太田正常師に師事し信仰生活に入つてゐた。元駐米大使埴原正直の妹である。

満谷国四郎

没年月日:1936/07/12

 帝国美術院会員、太平洋画会員満谷国四郎は病気の為昨秋来淀橋区の自邸で加療中であつたが、7月12日午前9時逝去した。享年63。明治7年10月11日岡山県吉備郡に生る。同24年上京、翌年11月小山正太郎の不同舎に入門した。同31年、明治美術会10周年記念展に「林大尉の戦死」、「妙義山真景」等を出品して其名を知られるに至つた。同33年米国経由にて渡欧し、翌年帰朝。帰朝に際し、明治美術会改組の事あり、同35年木下藤次郎、中川八郎、吉田博等と共に太平洋画会を創立した。爾後文展の開催まで同会に拠り作品を発表した。「楽しきたそがれ」、「軍人の妻」、「戦の話」等はこの間の作品である。同40年文部省美術審査委員会委員を設置するや爾後毎歳委員を拝命。同44年秋再渡欧し、大原孫三郎の好意の下に留学2年に及び大正3年帰朝した。滞欧中の研鑚は其の製作上の主張に著しい変化を来した。渡欧前に示した既に完成に近いアカデミツクな技法を惜し気もなく一擲し、後期印象派の感化を多分に受けた近代派の画風に転じて帰朝後其の勇敢な試みを次々に発表し画壇を駭かしたのであつた。其の様式も次第に醇化され、好んで描く裸体と風景とに独自の画境を完成し、詩情に富んだ美しい画面を数多く作つた。晩年の作品は平面化された装飾的な取扱を特色とし、特に色彩感に勝れて渾然たる大家の風を成すに至つた。文展時代の主要作品としては渡欧前の「購夢」、「かぐや姫」帰朝後の「砂丘の家」、「江畔魚商」等が挙げられよう。大正8年帝展審査員を命ぜられ、同14年帝国美術院会員に任命された。大正12年の50歳記念展出品の「樹蔭」帝展出陳の「早春」、「小憩」、「早春の庭」、「緋毛氈」、四皓会出品の「罌栗」等は後年の代表作として特筆さるべきものであらう。満谷国四郎略年譜明治7年 10月11日岡山県吉備郡総社町に生る。明治24年 18 上京、五姓田芳柳の門に入る。明治25年 19 11月不同舎に入門。明治31年 25 明治美術会10周年記念展「林大尉の戦死」「妙義山真景」明治32年 26 明治美術会展「尾道港」。結婚。明治33年 27 欧米第1回留学、巴里大博覧会「蓮池」褒状明治34年 28 帰朝。明治35年 29 1月大下、中川、吉田等と共に太平洋画会組織。太平洋画会第1回「夕暮の小径」等明治36年 30 太平洋画会会第2回「楽しきたそがれ」外20点。明治37年 31 聖路易博覧会「雛」(楽しきたそがれ改題)銅賞。太平洋画会展第3回「軍人の妻」ほか10点。明治38年 32 太平洋画会展第4回「勝利の片影」ほか8点。明治39年 33 太平洋画会展第5回「戦の話」等明治40年 34 文展第1回「購夢」。爾後毎年文展委員被仰付、東京勧業博覧会審査員任命、同会出品「かりそめのなやみ」1等賞。明治41年 35 文展第2回「車夫の家族」明治42年 36 文展第3回「かぐや姫」「緑蔭」明治43年 37 文展第4回「二階」明治44年 38 文展第5回「港の雨」。再渡欧。大正3年 41 帰朝。文展第8回「砂丘の家」。滞欧作品展出品「髪」、「ブルトンの女」等。大正4年 42 文展第9回「魚市場」「島」大正5年 43 文展第10回「素焼」大正6年 44 文展第11回「長崎の人」大正7年 45 文展第12回「江畔魚商」大正8年 46 帝展第1回「椿樹の下」、爾後殆ど毎年帝展委員任命大正9年 47 帝展第2回「李花」大正10年 48 帝展第3回「かけひ」、「白樺と渓流」大正11年 49 帝展第4回「島」(大島)、「葡萄」大正12年 50 50歳記念展「樹蔭」「柳蔭繋舟」。第一次渡支。大正13年 51 帝展第5回「採果」「後庭」。第二次渡支。大正14年 52 帝展第6回「早春」「裸女」。7月帝国美術院会員被仰付。神戸市に個展開催。大正15年 53 帝展第7回「海棠樹」。燕巣会「石橋」。第三次渡支。昭和2年 54 帝展第8回「残雪」。6月聖徳記念絵画館壁画完成。昭和3年 55 帝展第9回「小憩」。燕巣会「梅日和」昭和4年 56 帝展第10回「籘椅子」。第四次渡支。昭和5年 57 帝展第11回「朝顔」昭和6年 58 帝展第12回「早春の庭」昭和7年 59 帝展第13回「緋毛氈」。太平洋画会展第28回「高原を行く人」昭和8年 60 帝展第14回「放牧」、四皓会展第1回「京の雨」「赤城の新緑」「奈良の春」昭和9年 61 帝展第15回「秋雨」昭和10年 62 四皓会展第2回「湖畔の秋」「榛名湖」「庭の雪」昭和11年 63 四皓会展第3回「罌栗」。7月12日午前9時逝去、同月15日告別式挙行。

木下雅子

没年月日:1936/06/15

 木下義謙夫人雅子は去る2月来心内膜炎を病み帝大真鍋内科に入院中6月15日逝去した。享年32。夫人は貴族院議員倉知鉄吉の三女。女子学習院卒業後、二科会展に第14回より出品、昭和3年結婚後夫と渡仏し、巴里にて個展を開催し、又サロンドートンヌ、サロンデザンデパンダン等に出品した。洋画家として確な技術を持ち上品で穏かな作風を示してゐた。

佐分真

没年月日:1936/04/23

 佐分真は4月23日未明、滝野川区の自宅画室に於て、遺書3通を遺して縊死を遂げた。享年39。明治31年名古屋市に生れ、大正11年東京美術学校西洋画科を卒業、同15年白日会員となり、昭和2年1月渡仏、同4年光風会員となり翌年帰朝。同6年帝展第11回に「貧しきキヤフエ」を出品して特選となつた。同年秋再渡仏し、翌年帰朝、同8年帝展第13回に「画室」が、又翌年の第14回に「室内」が特選となつた。同9年東宝劇場に美術部嘱託として入社、翌年同劇場に壁画を執筆した。10年の帝院改組に際しては第二部会に参加せず、白日会及光風会を脱会して独自の立場を守つた。晩年諸雑誌に随筆を多数書いた。彼は親の遺産を受け継いで画家には稀な富豪であつた。11年9月銀座松坂屋に遺作展開催せられ、作品約百点が出陳され、同時に遺作集、遺稿が上梓され、生前の知己に頒たれた。又佐分賞が設立された。

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