本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





古沢岩美

没年月日:2000/04/15

 洋画家古沢岩美は、4月15日午後10時28分、肺気しゅのため東京都板橋区の板橋医師会病院で死去した。享年88。古沢は、1912(明治45)年2月5日、佐賀県三養基郡旭村に生まれる。1927(昭和2)年、久留米商業学校を退学し、親類をたよって朝鮮大邱に渡るが、28年に上京して、岡田三郎助宅に寄宿する。その間、光風会展、春台美術展に出品した。34年、岡田宅を出て、東京豊島区長崎町にあった「長崎アトリエ村」に移り、ここで画家たちとの交友をひろげるとともに、前衛美術を志向するようになった。38年3月、第8回独立美術協会展に、シュルレアリスムに学んだ「蒼暮」、「地表の生理」を出品、一躍注目されるようになった。同年4月、寺田政明、小牧源太郎、北脇昇、糸園和三郎、吉井忠ら19名と創紀美術協会を創立した。しかし、同年10月に第1回展を東京で開催した後、解散。同会のメンバーの一部とともに、39年5月には美術文化協会結成に参加し、翌年第1回展から出品をつづけた。また、同年、東京朝日新聞が創立50周年記念に挿画コンクールをおこない、これに応募して当選した。に43年応召、久留米の部隊に配属され、中国大陸に送られる。終戦後、1年間捕虜生活を送り、46年復員した。47年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ発会に参加。戦後の作品として、48年の第1回モダン・アートクラブ展に出品の「憑曲」、52年の第1回日本国際美術展に出品の「餓鬼」、56年の第2回現代日本美術展に出品の「斃卒」など、戦時中の体験と、戦後社会の混乱を告発する作品として注目された。55年に美術文化協会を退会。66年、『千夜一夜物語』(大場正史訳、河出書房、全8巻)、翌年、『カザノヴァ回想録』(窪田般彌訳、河出書房、全6巻)の挿絵をそれぞれ描いた。75年5月、山梨県西八代郡上九一色村に古沢岩美美術館が開館。82年、板橋区立美術館において「古沢岩美展」が開催され、初期から近作まで約130点によって回顧された。同展図録に、古沢自身が、「上から見れば「世間は虚仮」であろう。しかし虚仮の世間の中に不易の真実を発見してこそ芸術は存在価値があると思う。私が社会問題を取上げるのは時代の証言を残すためであり、エロチシズムを主題に選ぶのは不易への挑戦である。」という言葉を寄せている。これは、戦後から一貫した古沢芸術のテーマと姿勢をものがたるものといえる。1994(平成6)年には、郷里である佐賀県鳥栖市から、市民栄誉賞を受けた。

麻生三郎

没年月日:2000/04/05

 洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の麻生三郎は、4月5日午後10時急性肺炎のため、神奈川県川崎市多摩区生田の自宅で死去した。享年87。1913(大正2)年3月23日、東京府京橋区本湊町に生まれる。1930(昭和5)年、明治学院中学部を卒業、太平洋美術学校選科に入学。同学校で、佐藤俊介(後の松本竣介)を知る。36年にエコール・ド・東京の結成に、寺田政明、吉井忠、柿手春三とともに参加。38年2月から9月まで、ヨーロッパ各地を旅行。西洋古典絵画の深さにふれたというヨーロッパ体験は、その後の表現に影響を与えた。39年、第9回独立美術協会展に出品後、美術文化協会の結成に参加。翌年の同協会第1回展に滞欧作品を出品。43年に、イタリアでの見聞をまとめた『イタリア紀行』(越後屋書房)が刊行された。同年、井上長三郎、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、寺田政明、大野五郎、松本竣介といった同世代の画家たち8人があつまり、麻生の言葉によれば、「自分たちの生存と意志表示の集まりとして」(「松本竣介回想」より)新人画会を結成した。44年まで、わずか3回の展覧会を開催しただけであったが、戦時下の困難な状況、つまり「あたりまえのことができない時代」(同前)のなかでの画家たちの自主的な活動として、その意義は大きいといえる。45年4月、長崎町のアトリエを空襲によって、作品とともに焼失する。47年、新人画会の他の同人たちとともに自由美術家協会に入会する。戦中から、戦後にかけては、ひたむきに子ども、妻をモデルに、身近の人間に目をむけ、また、そうした人間のいる風景にも、実在する重さを見出して、描きつづけた。それは、麻生のつぎのような言葉からも、充分につたわってくる。「人と家、土、空、川と、つまりはどこにもある人の住んでくらしている街、ちいさい路地の一角、石のすきまから出ている雑草のかたまりでもいいのだ。そのままある自然のかたちで満足して仕事をつづけた。べつにかわった風景をさがしあるいたことはないし、そのような必要もない。」(「川のある家〈たった一人の風景〉」、79年)そうした中から、「赤い空」などのシリーズが生まれた。50年、文芸評論家佐々木基一(1914〜93)を知り、これを契機に荒正人、埴谷雄高とも交友するようになる。52年、武蔵野美術学校(現 武蔵野美術大学)で後進の指導にあたるようになる。また同年、野間宏の小説「真空地帯」の装丁を手がけた。62年、「森芳雄・麻生三郎展」を神奈川県立近代美術館で開催。63年には、第13回芸術選奨文部大臣賞を受賞。64年、自由美術家協会を退会、以後無所属として活動をつづける。79年には「麻生三郎展 1934-1979」を東京都美術館で開催。81年に武蔵野美術大学を退職。83年、『麻生三郎作品集 ASO 1983』(南天子画廊)を刊行。86年、著述集『絵そして人、時』(中央公論美術出版)を刊行。1994(平成6)年10月から翌年3月まで、初期から近作にいたる約130点によって構成された回顧展「麻生三郎展」が、神奈川県立近代美術館、茨城県近代美術館、三重県立美術館を巡回した。  麻生自身のことばによれば、「凝視と解体の力が同じくらい迫ってくるというそのことがレアリズムだとわたしは考える。」(「靉光と昭和十年代の画家たち」、67年)というように、晩年にいたるまでの作品は、黒、灰色におおわれた画面に、震えるような、神経質な線描によって描かれた人間がわずかに判別できるという独特の表現であった。これは、見つめることで思索を深め、見つめつづけた時間の集積が、画面に表れていたといえる。人間と人間のいる風景を凝視し、ヒューマニスムの精神にうらづけられたレアリストとしての姿勢を、その初期から晩年までつらぬきとおした画家であった。

馬場彬

没年月日:2000/03/19

 画家の馬場彬は3月19日午後10時、いん頭がんのため秋田市楢山本町の自宅で死去した。享年67。1932(昭和7)年6月22日、東京都新宿区上落合に生まれる。55年東京芸術大学美術学部洋画科を卒業。美術団体に属すことなく、55年に開設されたサトウ画廊の相談役を開設時からつとめ、56年の初個展から同画廊で多くの個展を開催して作品を世に問うた。60年第12回読売アンデパンダン展に「作品(肖像の主題による)」を出品。同年神奈川県立近代美術館で開催された第4回シェル美術賞展に油彩画の「作品No.1」「作品No.2」「作品No.3」「作品No.4」を出品し3席となり、62年第5回同展(東京日本橋白木屋)では1席となる。同年集団αを結成しその第1回展を開催する。集団αは翌年に第2、3回展を開催した後、解散となる。67年第9回日本国際美術展に「館」を出品。74年サンパウロで行われた「コスモス《セリグラフによるイメージの実験》展」、77年モスクワ国際美術展に出品するなど、国際展にも参加した。80年横浜市民ギャラリーでそれまでの画業を跡づける「馬場彬展」を開催。81年東京国立近代美術館で開催された「1960年代-現代美術の転換期」展、および同年東京都美術館で開催された「精神の幾何学」展に出品。その後、すい臓ガンにより手術を受け、余命の限られていることを知らされるが、84年に心機一転して当時の西ドイツに渡り、86年までケルンに滞在する。帰国の年、東京のMギャラリーで個展を開催して滞欧作を発表。88年には池田20世紀美術館で「馬場彬の世界展」が開催され、80年の「馬場彬展」以降の作品を中心とする大規模な展観がなされた。年譜は同展図録に詳しい。初期から、平板な色面の幾何学的形体をモティーフに色と形が画面に作り出す調和、均衡、動きを模索し、吉仲太造、深沢幸雄らとともに戦後の抽象絵画の主要な作家のひとりとして活躍した。画集に版画集『PINK & GRAT』(75年)、版画集『GRAY OF GRAY』(81年)などがある。

橋本博英

没年月日:2000/03/04

 洋画家橋本博英は、3月4日午前4時40分、肺せんがんのため東京都新宿区の病院で死去した。享年66。1933(昭和8)年12月23日、内務省に勤務する父の赴任地であった岐阜県岐阜市に生まれる。幼少時を東京で過ごした後、父の転勤により富山県富山市に移り、ここで中学、高校時代を過ごす。54年、東京芸術大学美術学部油画科に入学、同大学4年に進級のおり、伊藤廉教室に入り、58年に卒業。67年7月から1年間、フランスに留学。帰国後、阿佐ヶ谷美術学園、代々木ゼミナール、東京造形大学などで指導にあたる。74年3月、同世代の井上悟、大沼映夫、加賀美勣、進藤蕃など11名とともに「黎の会」を結成、東京セントラル美術館で第1回展開催、以後毎年出品をつづける。76年7月、2会場(京王梅田画廊銀座店、泰明画廊)をつかって個展開催、約30点を出品。同年12月、『油絵をシステムで学ぶ』(飯田達夫共著、美術出版社)を刊行。79年8月、富山県民会館美術館にて「橋本博英自選展」開催、これにあわせて作品集を刊行。81年7月、大阪、梅田近代美術館にて「杜の会」結成に参加。83年4月、「富山を描く-100人100点展」(富山県立近代美術館)に「越中八尾早春」を出品、同美術館に収蔵される。1990(平成2)年、画文集『風景の習作と制作』を刊行、これにあわせて出版記念展(富山青木画廊)開催。97年8月、「橋本博英展-光と風のコンチェルト」開催(高崎市美術館等)。明快で、美しく響きあう色面によって構成された風景画は、骨格のある具象表現として質の高いもので、気品と安定感を感じさせた。それは、既成の美術団体に属することなく、また流行にながされることなく、油彩画の伝統を基礎から学ぼうとした姿勢にうらづけられたものであった。

今竹七郎

没年月日:2000/02/26

 グラフィックデザイナーで洋画家の今竹七郎は2月26日午前3時41分、呼吸不全のため兵庫県西宮市内の病院で死去した。享年94。1905(明治38)年神戸市下山手に生まれ、幼少より神戸の欧風化した雰囲気の中で育つ。1926(大正15)年関西で初めて創刊された少女雑誌『乙女の園』の挿画を描く。1927(昭和2)年神戸大丸百貨店意匠部に入社、飾窓、店内装飾、催場の構成などを担当、翌年には宣伝部付のデザイナーとなる。近代都市化の進む20年代の大阪・神戸を舞台にグラフィックデザインの仕事を始め、以後専ら阪神間を活動の拠点とする。29年新興写真運動を実践した中山岩太らとともに、神戸商業美術研究会を設立。30年大阪高島屋の宣伝部に入社。35年明治チョコレートの新聞広告で大毎東日産業美術展の第1位商工大臣賞を受賞。都会的感覚溢れるランランポマードの新聞広告(36~49年)等で独自のスタイルを確立していく。一方で、デザイン広告誌『広告界』に37年「シュールレアリスムと商業美術」の論説を寄せ、39年より同誌に「素描教室」と題してデザイン造形に関する解説を2年にわたり寄稿するなど、理論家としての側面を発揮する。戦後は終戦と同時に神戸元町に独自のスタジオ「日本デザイン」を開設、のち大阪へ移転し48年に「今竹造形美術研究室」と改称。51年には看護婦姿の少女をあしらった近江兄弟社のメンソレータムトレードマークや関西電力の社章を発表。54年国際印刷美術展で通産大臣賞受賞。1991(平成3)年兵庫県文化賞を受賞。画家の片手間仕事であったグラフィックデザインを自立した領域にまで高めたパイオニアとして知られる一方、31年に林重義が主宰する月曜会に入り、35年第5回独立展に「枯木のある風景」を出品、入選するなど絵画制作にも精力を傾け、39年には春陽会に初入選、同会を主な作品発表の場とする。53年の「摩天楼」以降は一貫して抽象表現をとり、具体美術協会の指導者吉原治良とも親密な交際があった。そのデザインと絵画における活動の全容については、89年に兵庫県立近代美術館と西武百貨東京池袋店で開かれた「今竹七郎の世界」展、同年刊行の画集『昭和のモダニズム 今竹七郎の世界』、98年西宮市大谷記念美術館で開催の「モダンデザイン・絵画の先駆者 今竹七郎展」等で紹介されている。

内田武夫

没年月日:2000/02/21

 洋画家で、武蔵野大学名誉教授の内田武夫は、2月21日午後10時47分肺炎のため横浜市青葉区の病院で死去した。享年86。1913(大正2)年5月10日、東京市四谷区左門町に生まれる。1933(昭和8)年、帝国美術学校西洋画科に入学。在学中の36年に新制作派協会が結成され、その第1回展に出品。翌年の第回展では、新作家賞を受賞。38年、同美術学校卒業、また同協会の第3回展でも新作家賞受賞。41年、同協会の会員となる。53年、同協会の事務所を引き受ける。同年、武蔵野美術学校で後進の指導にあたる。84年、武蔵野美術大学を退職。88年、『内田武夫画集』(日本経済新聞社)を刊行、あわせて自薦展(銀座セントラル美術館)を開催。1993(平成5)年、小山敬三賞受賞、日本橋高島屋にて受賞記念展を開催した。堅実な描写力にささえられた作品は、つねに妥協をゆるさない強さと誠実さが感じられ、上質な写実表現であった。

丸木俊

没年月日:2000/01/13

 「原爆の図」などで知られる洋画家の丸木俊は1月13日午後7時26分敗血症のため、埼玉県毛呂山町の病院で死去した。享年87。1912(明治45)年2月11日、北海道雨竜郡秩父別村に生まれる。旧姓赤松。生家は寺であった。旭川高等女学校を卒業後、上京して女子美術専門学校(現 女子美術大学)に入学し、油彩画を学ぶ。1933(昭和8)年、同校を卒業。千葉県市川市市川小学校教員となる。37年4月ソヴィエト時代のモスクワに渡り、翌年4月まで滞在。39年ミクロネシア群島に渡る。同年第26回二科展に「白樺の林」で初入選。翌年の第27回二科展には「パラオ島民集会所」を出品。二科展には43年まで出品を続ける。41年1月から6月まで再度ソヴィエトに渡る。同年、画家丸木位里と結婚。45年8月、原爆投下直後、位里の両親が在住していた広島を夫婦で訪れ、被爆後の惨状を目にする。これをきっかけとして、その後夫妻のライフワークとなる「原爆の図」の制作が始まる。同年第5回美術文化協会展に赤松俊子の名で「地球儀」「解氷期」を出品して同会同人となる。翌年第6回美術文化展にはやはり赤松俊子の名で「デッサン(1)」「デッサン(2)」「少年」「飢」「人物(A)」「人物(B)」などを出品。50年夫婦合作による「原爆の図」第一部「幽霊」第二部「火」第三部「水」が完成。翌年同図五部作が完成し、日本国内に巡回展示される。こうした業績により53年世界平和文化賞を受賞。また、同年「原爆の図」三部作が世界に巡回展示される。56年同図十部作が完成したのを記念して「原爆の図」が世界に巡回展示される。67年、世界を巡回した「原爆の図」を一堂に展示するために私財を投じて埼玉県東松山市下唐子に鉄筋モルタル1階建て約270平米の「原爆の図丸木美術館」を開館。その後も、絵画によって原爆の悲惨さを訴えるべく70年「原爆の図」八部作をアメリカで巡回展示する。73年広島市の依頼により「ひろしまの図」(広島市現代美術館蔵)を描く。75年美術団体人人展を結成し、以後同展に出品を続ける。82年に「原爆の図」第十五部「長崎」を完成させブルガリア国際具象展に出品。「原爆の図」に見られる社会問題への興味、絵画による社会への提言は原爆問題以外にも展開され、79年には「三国同盟から三里塚まで」を制作してソフィアの国際展に出品し大賞受賞。83年「沖縄の図」八部連作を完成。87年「沖縄戦-読谷三部作」、「足尾鉱毒の図二部作」を制作し、翌年「足尾鉱毒の図」第三部作「渡良瀬の洪水」第四部作「直訴と女推しだし」を制作する。1989(平成1)年には同年に中国北京市で起きた天安門事件をモティーフに「天安門事件三部作」を、90年にはソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故をモティーフに「チェルノブイリ」「反原発」を制作。95年静岡県伊東市池田二十世紀美術館で「丸木位里・丸木俊の世界展」が開催される。96年、95年度朝日賞受賞。2000年には『原爆の国』(小峰書店)が刊行された。著書に『女絵描きの誕生』(朝日新聞社 77年)、『言いたいことがありすぎて』(筑摩書房 87年)がある。また、童画、絵本も制作し、71年国際童画ビエンナーレでゴールデンアップル賞受賞。『ひろしまのピカ』(小峰書店 80年)、『天人のはごろも』(童心社 98年)などが刊行されている。

鷹山宇一

没年月日:1999/10/25

 二科会名誉理事の画家鷹山宇一は、10月25日午後2時13分、種性血管内凝固症候群のため東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去した。享年90。1908 (明治41)年12月10日、青森県七戸町に生まれる。15年七戸尋常高等小学校に入学。在学中、代用教員として赴任した歌人青山哀囚を知り、青山が生徒に回覧した童話雑誌「赤い鳥」によって文学や児童画に興味を持つようになる。特に初山滋の児童画にひかれる。22年旧制青森中学校に入学。翌年棟方志功、松本満史らの結成した青光画社に参加し絵を描き始める。青光画社は当時19歳の棟方を中心に10代の作家たちが設立した美術家集団で青森県で初めての公募展を開催しており、鷹山も出品した。27年(昭和2)旧制青山中学を卒業して上京し、川端画学校に入学。都会風景を好んで描き、この頃の画風にはフォービスム風の再現描写が認められる。同年9月日本美術学校洋画科へ編入する。30年同校を卒業し、同年の第17回二科展に「都会風景」「風景を配せる静物」の2点の木版画を出品して初入選。この頃からフランスの超現実主義に学び、エルンストの表現方法を研究。31年第18回二科展に「ラ・リュヌ・サンボルエ」「街ノ上」「風景を配せる静物」「風景と鳥」の4点の木版画を出品。33年、二科会の前衛的若手作家である高井貞二、伊藤久三郎、山口長男らと美術団体「新油絵」を結成しその第1回展を銀座資生堂で開催。38年同じく二科会の前衛作家たちによる「九室会」に参加。また、同年に結成された美術文化協会に参加し、40年その第1回展に「日高川(民族ノ移動ノ内(情炎))を出品し、以後も二科展と同展に出品を続ける。これら戦前の公募展に出品された作品は、おおむね木版画である。43年海軍航空隊員として召集される。45年、美術団体としていち早く再建された二科会に参加。戦後は木版画から油彩画へ転じ、非現実的な幻想の世界を描くようになる。二科展へ出品を続ける一方、50年代、60年代は日本国際美術展、現代日本美術展にも出品。40年代後半から後に鷹山の作品を特徴づける蝶のモティーフが登場し、60年代には青く澄んだ宇宙的空間を背景に幻想的な花と蝶を描く一群の「遊蝶花」をテーマとする作品が描かれた。64年第6回現代日本美術展に「遊蝶花」「草原・静物」を出品して最優秀賞受賞。66年第51回二科展に「海と貝殻」を出品し青児賞受賞。翌67年第52回同展に「高原・湖」「高原と花」を出品し総理大臣賞受賞。「遊蝶花」で確立された画風は晩年まで引き継がれ、油彩の透明感を生かした独自の明澄な青を基調とする作品で知られた。61年二科会理事、79年同会が社団法人として発足した際も同会理事に就任。90(平成2)年七戸町名誉町民の称号を受け、94年に同町に七戸町立鷹山宇一記念美術館(七戸町荒熊内67―95)が設立された。

楢原健三

没年月日:1999/08/14

 日本芸術院会員で日展顧問をつとめた洋画家楢原健三は8月14日午前6時36分肺がんのため東京都板橋区の病院で死去した。享年92。1907 (明治40)年6月30日、東京に生まれる。28(昭和3)年、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事した。同学校在学中の30年、第11回帝展に「数寄屋橋風景」が初入選する。33年同学校を卒業、翌年関東庁立大連神明高等女学校に図画教師として赴任、43年まで同校で教鞭をとった。46年、文部省主催第1回日本美術展覧会(日展)に「街頭にて」が入選。翌年の第2回展では「書斎の一隅」が入選し、岡田賞を受賞した。また、同年、示現会が創立され、その創立会員として参加した。56年、第12回日展において審査員をつとめる。同展の出品作「燈台遠望」の頃より、それまでの手堅い写実による、日常の生活のなかから取材した室内風景から、漁村など生活の匂いのする情景と自然をたくみに構成し、豪胆な筆致による風景画を描くようになった。79年に、示現会理事長につき、81年には、前年の日展出品作「漁港夜景」により日本芸術院賞を受賞し、また日展理事に就任した。88年に日本芸術院会員となった。96(平成8)年には、練馬区立美術館で「ねりまの美術’96 楢原健三・鳥居敏文」展が開催され、初期から新作まで45点が出品された。

吉井忠

没年月日:1999/08/05

 洋画家吉井忠は、8月5日午後1時27分、肺炎のため、東京都渋谷区の病院で死去した。享年91。1908年(明治41)7月25日、福島県福島市陣場町に生まれる。福島第四尋常小学校から、福島県立中学校に進学し、同校で英語教師をしていた阪本勝(後の兵庫県立近代美術館館長)に影響を受ける。同校を26(大正15)年に卒業して上京し、東京美術学校を受験するが失敗。中村彝の出身校であることを理由に、太平洋画会研究所に入学。当時の所長は中村不折であった。同学に、井上長三郎、鶴岡政男、靉光、寺田政明、麻生三郎、松本竣介らがあった。彼らの活動および、当時活躍中の、佐伯祐三、前田寛治、長谷川利行らの画風に刺激を受ける。28(昭和3)年第9回帝展に「祠」で初入選。翌年より太平洋画会展に出品を始め、また第10回帝展に「雨の日」で入選する。31年第27回太平洋画会展に「荒れの後」を出品して弘誓賞受賞。翌年の同展に「信濃の春」などを出品して中村彝賞を受賞する。太平洋画会研究所で学んだ、対象の再現描写を重視する写実的な画風が世に認められるものとなったと言えよう。36年第6回独立展に「女」を出品。同年寺田政明、麻生三郎らと新宿・天城画廊で「前へ展」を開催し、この頃、寺田、麻生らによって結成されたエコール・ド・東京に参加する。画風は、シュールレアリズム風に変化している。同年秋、シベリア経由で渡欧。パリを拠点にオランダ、ベルギー、イタリアを訪れる。滞欧中、ピカソの「ゲルニカ」を見て感銘を受ける。37年夏に帰国し、東京池袋に居を定め、同年11月、東京丸の内の安田倶楽部で「吉井忠滞欧作品展Jを開催。38年、寺田政明、糸園和三郎、古沢岩美、北脇昇らと創紀美術協会を結成。翌年、同会の寺田、北脇、また、福沢一郎らと美術文化協会を結成して、以後同展に出品を続ける。44年福島連隊司令部に派遣され、1ヶ月ほど中国へ渡る。45年、空襲により郷里福島の郡山市郊外へ疎開するが、46年に上京。47年、佐田勝、井上長三郎、丸木位里、赤松俊子らと前衛美術会を結成。また、同年美術文化協会を退会して、自由美術家協会に参加し、以後同展に出品。また、同年冬に第l回展が開催された日本アンデパンダン展に出品を続ける。戦中から、古典研究を基礎とする人物群像を多く制作するようになっており、50年代初めまでの作品にはセザンヌやピカソを研究した跡が認められるが、50年代半ばから再現描写を重視して描いた人物像を群像として構成し、生きることの厳しさ、力強さ、安らぎなどを表現する独自の画風を展開する。絵画制作を社会と密接に結びつけて位置づけ、60年秋、同年1月から始まった三井三池炭鉱争議の支援に出かけている。64年寺田政明、麻生三郎、大野五郎ら38名とともに自由美術家協会を退会し、主体美術協会を結成して以後、同展に出品を続ける。社会における造形表現の位置を考察しつづけ、自己表現よりも社会が絵画に求めるものを優先しようとする姿勢を貫き、常に生活に根ざした表現を模索した。86年メキシコ、キューバへ、88年敦煌、トルファンへ旅行するなど、世界各地を訪ねたことも、様々な土地の人々の生活を知り、自らの位置を確認する作業とつながるものであった。60年以上におよぶ画業を、油彩画120点、水彩・素描14点によって回顧する「吉井忠展―大地に響く人間の詩」が92(平成4)年に福島県立美術館で開催された。年譜、文献目録は同展図録に詳しい。著書に『水彩画入門』(造形社、1966年)、『吉井忠画集』(愛宕山画廊刊、1973年)、『クロッキーの魅力』(大野五郎と共著、美術出版社、1977年)などがある。

藤田吉香

没年月日:1999/05/25

 京都造形芸術大学名誉教授、国画会会員の画家藤田吉香は5月25日午後7時54分、拡張型心筋症のため横浜市金沢区の病院で死去した。享年70。1929(昭和4)年2月16日、福岡県久留米市櫛原町37に生まれる。49年、久留米在住の画家松田実の主宰する松田画塾で洋画を学ぶ。松田は古賀春江の師でもあり、油彩画の写実性を重んじ、再現描写の指導に重点を置いていた。55年、東京芸術大学美術学部芸術学科を卒業。59年第33回国画会展にデフォルメした人物を描いた「すわる」、および「ほおむる」で初入選し、国画賞受賞。翌年、第34回同展に抽象的な表現を含む「はたじるし」を出品して同会会友となり、以後、同展に出品を続ける。62年スペインに渡りサン・フェルナンド美術学校に学ぶ。滞欧中、プラド美術館に所蔵されているヒエロニムス・ボッシュの「七つの大罪」「快楽の園J等の模写に専念し、西洋絵画の古典技法を研究する。66年に帰国。滞欧中の古画の模写を西洋古典画との絶縁のための作業と位置づけた藤田は、帰国後、習得した技術を生かし、身近な題材をモティーフとして、克明に描写された人物や静物と平板な色面による背景を組み合わせた独自の画風を確立。67年、国画会展に「空」を出品してサントリー賞を受賞し、同会会員となる。また、この作品を第11回安井賞展に出品する。68年昭和会に「連雲」を出品して優秀賞受賞。同年の第12回安井賞展に「村」「連雲」を出品し、70年同展に「春木萬華」を出品して第13回安井賞受賞。72年再度渡欧。74年東南アジアへ旅行。76年、3度目の渡欧。70年代後半から、背景に金銀箔を用い、背景の奥行き空間を否定した画面を多く制作するようになる。79年ソヴィエト旅行。80年、「藤田吉香―今日と明日」展を東京松屋銀座、京都高島屋で開催。81年宮本三郎賞を受賞し、翌年「第1回宮本三郎賞受賞記念展」を東京・大阪の三越で開催する。85年、中国を訪問。87年には高島屋美術部80周年記念展として東京・大阪・京都・横浜の同店で個展を開催。67年より70年まで女子美術短期大学で講師、69年から73年まで東京芸術大学で非常勤講師を務めたほか、91(平成3)年より98年まで京都造形芸術大学教授、98年退職して同大学名誉教授となり、後進の指導にあたった。克明に描写された花や静物を空間性を排除した背景に配する画風で知られたが、その試みは、西洋画法を駆使して、坂本繁二郎の追及した「物感」に連なる、ものの存在の不思議さや神秘性を表出することにあったと解釈される。

三岸節子

没年月日:1999/04/18

 洋画家三岸節子は4月18日3時43分、急性心不全のため、神奈川県大磯町の東海大大磯病院で死去した。享年94。1905 (明治38)年l月3日、愛知県中島郡起町字中島(現、尾西市)に生まれる。生家は富裕な地主で、毛織物製造業を営んでいた。先天性股関節脱臼のため、幼児期に名古屋の病院で手術。小信中島尋常小学校を経て、15(大正4)年起尋常高等小学校に入学し、17年に同校を卒業。名古屋の淑徳高等女学校に入学する。在学中、読書に熱中し、寄宿舎で同室であった先輩戸田すヾが日本画を描いているのに刺激を受けて、上村松園、島成園らの美人画の模写を試みる。21年、同校を卒業して上京し、女子医学専門学校を受験するが失敗。岡田三郎助に絵を学び始め、岡田の指導する本郷洋画研究所に入所する。22年、女子美術学校の第2学年に編入学。23年、二科展に出品するが落選する。同年9月1日は二科展の初日に当たっていたが、関東大震災により被災。この時、三岸好太郎から食糧の援助を受けたことなどが契機となり、24年9月好太郎と結婚。同年、女子美術学校を首席で卒業。25年3月、長女が生まれる。同月の第3回春陽会展に「自画像」「風景」「山茶花」「机上二果」が初入選。以後、同展に出品を続ける。また、同年4月、甲斐仁代、深沢紅子らと婦人洋画協会を結成する。32(昭和7)年、春陽会から独立美術協会へ転じ、その第2回展に「花・果実」「ラガー」を出品。34年、好太郎が31歳で死去した後、3児をかかえつつ制作を続ける。35年第5回独立展に「桃色の布」「窓」「紅の布」を出品しD氏賞受賞。翌年同会会友となるが、39年に同会が会則により女性画家を会員として認めないことに抵抗して、同会を退会。新制作派協会に転じ、同年会員となる。また、同年、婦人の美術的教育のために設立された「美術工芸学院」の教師となる。40年、朝鮮、満州を訪れる。同年の紀元2600年奉祝展に「室内」を出品。43年、美術団体の会友以上の女流画家により女流美術奉公隊が結成され、その役員となる。戦後の45年9月、銀座日動画廊の戦後初の個展として三岸節子展が開催される。46年、藤川栄子、桂ユキ子らと女流画家協会を結成。以後、新制作展、女流画家展に作品を発表。48年、独立美術協会会員の画家菅野圭介と再婚。50年、第14回新制作展に出品した「金魚」が文部省買い上げとなり、「梔子」が芸術選奨文部大臣賞を受賞する。50年随筆集「美神の翼」(朝日新聞社)刊行。51年、第1回サンパウロ・ビエンナーレに「花」を出品。翌年、パリのサロン・ド・メ、同じくパリで開催された20世紀傑作展、米国ピッツバーグで開催された第18回カーネギ一国際美術展に出品するなど、活動が国際的に展開す る。53年菅野圭介との結婚を解消。翌年長男黄太郎の滞在するフランスを訪れ、スペイン、イタリアなどを廻って55年夏に帰国する。この初めての渡欧により、西洋絵画を生み出した土壌を知り、乾燥した風土と色彩の関係に刺激を受ける。50年代、60年代は新制作展、女流展のほか現代日本美術展、日本国際美術展にも出品。64年、神奈川県大磯町の丘陵地にアトリエを構え、それまで静物中心であったモティーフに風景が加わることとなった。65年、北海道を旅行し、その風景を描くが、この旅行体験により、先夫好太郎の作品を北海道に寄贈する決心をし、その実現に奔走。67年、好太郎の遺作216点を北海道に寄贈し、これが基となって北海道立美術館(現、北海道立三岸好太郎美術館)が設立されることとなる。翌68年、黄太郎一家と離日し、フランス・カーニユに居を定めて制作に没頭。69年、片岡球子、大久保婦久子ら9名による女流総合展「潮」を結成し、同展に出品。74年ブルゴーニュのヴェロンに転居し、以後、同地で制作するが、89(平成元)年に帰国。92年米国のワシントン女性芸術美術館で大規模な回顧展が開催された。94年女性洋画家として初めて文化功労者に選ばれる。文章もよくし、著書に『花とヴェネチア―三岸節子』(三彩社 1975年)、随筆集『花より花らしく』(求龍堂、1977年)などがあり、画集には『三岸節子画集・第1集』(求龍堂、1980年)『三岸節子画集・第2集』(求龍堂、1981年)、『三岸節子―花のデッサン帖』(求龍堂、1984年)などがある。女性洋画家の草分けであり、出産、育児、家長の死といった困難に屈することなく制作を続け、美術界における女性の地位の確立に寄与するところが大きかった。

國領經郎

没年月日:1999/03/13

 日本芸術院会員、日展常務理事の洋画家國領經郎は、13日午前3時50分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年79。1919 (大正8)年10月12日、神奈川県横浜市井土ヶ谷に生まれる。26年、横浜市立日枝第二尋常小学校に入学。同校が火災にあったため、横浜市立共進尋常高等小学校に移り、32(昭和7)年同校尋常科を卒業。同年神奈川県立横浜第一中学校(現、希望ヶ丘高校)に入学する。35年父を、翌36年母を亡くし、長兄のもとで生活する。38年、横浜第一中学校を卒業し、川端画学校に通う。39年東京美術学校図画師範科に入学。小林万吾、南薫造、伊原宇三郎らに油彩画を、矢沢弦月らに日本画を学ぶ。41年、第二次世界大戦により、同科を繰り上げ卒業。42年1月、新潟県柏崎中学校教諭となるが、同年4月に召集を受け近衛師団に入隊、のちに中国中央部へ渡る。46年に復員し、47年4月、再度柏崎中学へ赴任。同年第3回日展に「女医さん」で初入選する。48年冬、柏崎商工会議所で初の個展を開催。50年、東京都大田区立大森第一中学校教諭となり、川崎市へ転居。51年第37回光風会展に「小憩」が初入選。以後、日展と光風会展に出品を続ける。50年代半ばから点描法を用いるようになり、このころから、55年第41回光風会展に出品して光風会賞を受賞した「飛行場風景」に見られるように、実景をもとにしながら、対象を単純な幾何学的フォルムに還元し、再構成する作風へと移行する。55年の第11回日展に出品した「運河」も同様の作品であり、特選となっている。56年光風会会友、57年同会会員となる。58年日展が社団法人となったのちも、同展に出品。60年前後から画面は再現描写を離れて、構成的要素を強めていく。66年横浜高島屋で個展を開催。68年、東京都職員を辞して横浜国立大学教育学部助教授となり、後進の教育に携わる。この頃から後年の國領のイメージを決定づけた砂のモティーフが画中に現れる。69年第1回改組日展に「砂上の風景」を出品して特選となる。70年代の学園紛争を大学という教育の現場で体験し、集団で行動しながら孤独を抱いている若者たちを砂丘に配する作品を多く描くようになる。82年第14回日展に、車の轍が走る砂丘に二人の女性の後ろ姿を配した「轍」を出品し、第2回宮本三郎賞受賞。翌年第2回宮本三郎賞受賞記念「國領經郎展」が東京日本橋、大阪北浜、横浜の三越で開催される。86年「ある静寂の午後」を日展に出品し、内閣総理大臣賞受賞。91(平成3)年「呼」で1990年度日本芸術院賞受賞。91年日本芸術院会員に選ばれる。高度成長を遂げた後、物質的な豊かさの一方で深い孤独を抱くに至った日本人の精神風景を絵画化した作家として注目される。99年4月から横浜美術館で開かれる個展を前にしての死去であった。年譜、関連文献目録は同展図録に詳しい。

村井正誠

没年月日:1999/02/05

 モダンアート協会の創立者のひとりで、武蔵野美術大学名誉教授の洋画家村井正誠は2月5日午前6時58分急性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年93。1905 (明治38)年3月29日、岐阜県大垣市に生まれる。幼少時、医師であった父の転任にしたがい、現在の和歌山県和歌山市、ついで新宮市に転居した。22(大正11)年、和歌山県立新宮中学校を卒業すると上京、父のすすめる医学校を受験するが不合格となり、また翌年には画家をこころざして東京美術学校西洋画科を受験するが、これも不合格となった。この頃、川端画学校に通いはじめ、ここで盟友となる山口薫、矢橋六郎と出会った。25年、文化学院に新設された大学部美術科の第一期生として入学、28(昭和3)年に同学院卒業と同時に、渡仏した。留学中は、滞仏中の日本人画家と交友するとともに、アンデパンダン展に出品した。32年帰国、34年に初めての個展(銀座、紀伊国屋ギャラリー)で開催、留学中の作品を出品した。また同年、長谷川三郎、山口薫、矢橋六郎等とともに新時代洋画展を結成、第1回展を開いた。同グループは、37年の自由美術家協会創立に際し、参加することで解消した。38年、文化学院の講師になる。戦後は、戦時中、活動が途絶えていた自由美術家協会の再建をはかり、また美術界の民主化などをめざして結成された日本美術会に参加した。47年には日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加し、さらに50年には、山口薫、矢橋六郎、中村真、植木茂、小松義雄、吾妻治郎、荒井龍雄とともに、モダンアート協会を結成し、以後、同協会展に発表をつづけた。同54年には武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)本科西洋画の教授になった。62年には、第5回現代日本美術展に「黒い線」(油彩)、「うしろ姿」、「人」(石版画)を出品、これにより最優秀賞を受賞、また同年の第3回東京国際版画ビエンナーレに出品した「月影」、「黒い太陽」、「風」(各石版画)によって文部大臣賞を受賞した。73年には、神奈川県立近代美術館において村井正誠展が開催され、初期作から近作までの油彩画104点などによって回顧された。その後も、和歌山県立近代美術館(1979年)、世田谷美術館、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(1993年)、神奈川県立近代美術館等5美術館巡回(1995年)などで、たびたび回顧展が開催された。そのほか、長年にわたる美術界への貢献に対して、97(平成5)年には、中日文化賞、世田谷区文化功労者を受賞。98年には、中村彝賞を受賞した。 仏留学時代から、同時代のマチスをおもわせる鮮やかな色面による半抽象的な構成からはじまり、次第に純粋な抽象表現に展開していった。1930年代には、「ウルバン」、「CITE」などの連作にみられるように、白地上に大小の短冊状の色面が点在する抽象表現を試みていた。戦後は、ことに50年代になると、そうした構成にくわえて、黒い帯状の線が、ときには具象的なイメージをともなって画面にあらわれるようになった。60年代には、その黒が画面全体をおおいつくすようになった。以後、再び鮮やかな色面構成にかえるが、黒の線と面は、つねに画面構成の重要な部分をしめるようになり、とくに晩年の90年代には、「東洋的」とも評されるような、独特の深さと緊張感をただよわせる作品を描いていった。近代日本の絵画史において、いち早く抽象絵画を描きはじめた画家のひとりということで、「日本における抽象絵画のパイオニア的存在」と位置付けられている村井だが、一貫して深められつづけたその「抽象」に関する造形思考は、独自のものとして評価されていくだろう。

相原求一朗

没年月日:1999/02/05

 新制作協会会員の洋画家相原求一朗は、2月5日午後4時、肝不全のため埼玉県川越市砂の自宅で死去した。享年80。1918 (大正7)年12月3日、埼玉県川越市本町2丁目5番地に生まれる。本名茂吉(もきち)。生家は雑穀、乾物、青果などの卸問屋として古くから知られており、25年に同業の合名会社となった。31(昭和6)年、川越市立第二尋常小学校を卒業する。この頃から絵画に興味を持ち始め、東京美術学校入学を志すようになる。病弱であったため、この年、求一朗と改名する。36年、川越商業学校(現、川越商業高等学校)を卒業し、実家の家業に携わる一方、独学で油彩画を描き始める。40年、召集により入営し、中国東北部へ渡り、翌年ルソン島へ渡る。44年、フィリピンから空路帰還途中、搭乗機が沖縄沖に不時着し、重症を負って漂流しているところを救出される。47年から48年にかけて日本橋の北荘画廊で開かれていたデッサン研究会に参加、48年に新制作協会の画家大国章夫を知り、その紹介により猪熊弦一郎の田園調布純粋美術研究所に入所する。50年、第14回新制作協会展に「白いビル」で初入選。以後、同展に出品を続けるが、50年代半ばにアンフォルメルが日本に紹介されたことなどが契機となり、絵画制作に疑問を抱き、制作に行き詰まる。60年、61年には新制作協会展に出品するが連年落選。61年秋に北海道を旅行し、その風景に抽象表現に通う幾何学的な構成を見出し、具象画の新たな指針を得る。62年、第26回新制作協会展に狩勝峠を描いた「風景」を出品し、再入選を果たす。63年第27回同展に「原野」「ノサップ」を出品して新作家賞を受賞、同会会友となる。以後、冬枯れの北の大地は、相原の原風景となり、生涯のモティーフとなった。64年カナダ、フランス、イタリア、アラブ連合へ旅行。65年「ヨーロッパを主題として」と題する個展を銀座・日動サロンで開催する。また、同年第29回新制作協会展に「白い教会」「赤い教会」を出品して新作家賞を受賞。同年11月から12月までアメリカ、中南米を旅行し、翌年、その成果を日動サロンでの個展で発表する。68年、新制作協会会員となり、同年、池袋・西武百貨店で北海道に取材した作品で構成した個展「北の詩」を開催する。69年、パリ、スペインへ、72年、イギリス、フランスへ、77年アメリカへ、78年にはフランスへ取材旅行するなど70年代末までは積極的に海外を訪れ、それぞれの旅行の成果を個展で発表する。80年代以降は国内での制作を中心とし、北海道のほか佐渡、津軽、富山などを訪れ、毎年「北の風土」と題する個展を開催。この個展が90年代半ばから「私の風土」と改名されたように、風景に作家の内面を反映し、画面化する制作が続いた。青灰色、白、黒といった色数を限った寒色を用い、原野や原生林など、大地と気候・風土がせめぎ合う地形を安定感のある幾何学的構図で捉え、厳しさ、そこに芽吹く一脈の明るさを表現した。画集に『相原求一朗画集』(1977年、日動出版)、『相原求一朗画集』(1984年、講談社)、『相原求一朗画集』(1991年、日動出版)などがある。96(平成6)年、北海道河西郡中札内村に「相原求一朗美術館」が開館。また、97年には北海道帯広市に「相原求一朗デッサン館」が開館する。97年、郷里の川越市立博物館で「相原求一朗展」、98年、飯山市美術館で「相原求一朗展」、99年「相原求一朗の世界展」が丸広百貨庖川越庖で開催されるなど、90年代後半には画業を回顧する大規模展が相次いで開催され、没後の2000年、本格的な回顧展「相原求一朗の世界を顧みて」が川越市立博物館で開催された。年譜は同展図録に詳しい。

加賀美勣

没年月日:1999/01/31

 愛知県立芸術大学教授で、洋画家の加賀美勣は1月31日午前5時38分、急性肺腫のため長野県茅野市の病院で死去した。享年59。1939 (昭和14)7月9日、山梨県甲府市に生まれる。58年、甲府第一高等学校を卒業、東京芸術大学美術学部絵画科(油絵)に進学、63年に卒業、65年に同大学大学院を修了した。在学中には、大橋賞を受賞。66年に愛知県立芸術大学に赴任、また同年第40回国画会展に「食後に(1)」、「食後に(2)」 2点を初出品、国画賞40周年記念賞を受賞した。翌年の第41回同展に「一人で昼食」、「早朝の食事」2点を出品、国画賞を受賞するとともに同会友となった。68年にフォルム画廊で初の個展開催、また同年、国画会会員となった。92(平成4)年に愛知県立芸術大学教授となった。その間、同大学で後進の指導にあたるとともに、国展に出品をつづけ、東京のフォルム画廊、日動画廊、泰明画廊、また名古屋市の丸栄などでたびたび個展を開催した。鋭角的なフォルムと鮮やかな色彩によって構成された室内風景や田園風景を制作した。

藤本東一良

没年月日:1998/09/17

 日本芸術院会員で日展顧問の洋画家藤本東一良は9月17日午後3時1分、心室細動のため東京都新宿区の朝日生命成人病研究所で死去した。享年85。大正2(1913)年6月27日、静岡県伊豆下田に生まれ、同年8月大阪に移住する。昭和5(1930)年、大阪府立天王寺中学校在学中に京都のアカデミー鹿子木に入り、鹿子木孟郎に石膏デッサンを学ぶ。また、赤松洋画研究所にも学び、赤松麟作の指導を受ける。同6年大阪府立天王寺中学校を卒業して上京。川端画学校に入学する。同8年寺内萬治郎の門下生となる一方、同舟舎絵画研究所で小林萬吾の指導を受ける。同10年東京美術学校油画科に入学。藤島武二教室に学ぶ。同12年夏、サイパン、ヤップなど南洋に旅行。同14年第26回光風会展に「水夫M君像」「機関車の人」で初入選し、F氏賞を受賞する。また同年第3回海洋美術展に「天測」を出品し海軍協会賞を受賞する。同15年東京美術学校を卒業。同年第4回海洋美術展に「ウラカス島を望む」を出品して朝日新聞社賞を受賞。また、同年の紀元2600年奉祝展に「貝殻図譜」を出品する。同16年第28回光風会展に「貝殻をみる女」を出品して同会会友に推挙される。また、同年第4回新文展に「父とゴムの木」で初入選。同17年第29回光風会展に「画室の女」を出品して光風特賞を受賞する。同19年南方従軍を命ぜられ、台湾方面へ赴き、同20年海軍報道部に出向しポスター等の原画を描く。同年8月復員。同21年第1回日展に「赤い服」で入選し、同年秋の第2回日展に「室内」を出品して特選を受賞する。同22年第33回光風会展に「N氏像」を出品して光風特賞を受賞、また同年第3回日展に「刺繍する女」を無鑑査出品して特選を受賞する。その後も日展、光風会展に出品を続け、同28年10月フランスに留学してアカデミー・グラン・ショーミエールに学ぶ。同30年9月帰国するが、その間、ベルギー、オランダ、スイス、イタリア、スペイン等に旅行する。同35年日展会員、同41年日展評議員、同47年光風会理事に就任。翌年よりほとんど毎年、フランスを訪れる。同54年ソビエト旅行。同56年第13回日展に「五月のコート・ダジュール」を出品して、文部大臣賞を受賞。翌57年日動サロンで「藤本東一良展1979-1981」を開催し、以後同63年日動画廊で「藤本東一良展1986-1988」、平成4(1992)年、同画廊で「藤本東一良展1989-1992」を開いた。この間、昭和58年東京銀座松屋で「藤本東一良新作油絵展」を開催。また、同64年小山敬三美術賞を受賞したのを記念して、昭和15年以降の作品を回顧する「藤本東一良展」を日本橋高島屋で開催した。略歴はこれらの展覧会の図録に詳しい。平成5年第25回日展出品作「展望台のユーカリ」で第49回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。同年日本芸術院会員となった。フランスの水辺の風景を、遠近法的空間表現に基づきながら、リズミカルな筆触、明快な色調で描いた。昭和39年より48年まで東京教育大学講師、昭和46年より61年まで金沢市立美術工芸大学講師として後進の指導にもあたった。

尾藤豊

没年月日:1998/08/26

 洋画家の尾藤豊は、心不全のため東京都北区の赤羽病院で死去した。享年72。大正15(1926)年3月、東京に生まれ、昭和18(1943)年、東京美術学校建築科に入学、戦中は学徒動員により江田島にて航空図面作成にあたり、同20年7月赤羽工兵隊に入営、終戦をむかえた。同22年、同美術学校を卒業、この年の前衛美術会の第1回展に参加、また同28年には、青年美術家連合展に参加した。この時期には、「失われた土地A」(同27年、宮城県立美術館)にみられるように、地元でおこった軍事基地問題に触発され、手足など人体の形を大胆に変形した群像を描き、政治、社会の問題を告発する「ルポジュタージュ絵画」の先駆けのひとりとなった。同45年からは、齣展に参加した。「日本のルポジュタージュ・アート」(同63年、板橋区立美術館)、「昭和の絵画 戦後美術―その再生と展開」(平成3年、宮城県立美術館)など、80年代以降、各美術館で戦後美術が回顧される企画展には、時代の証言としてその作品がたびたび出品された。

小堀四郎

没年月日:1998/08/09

 洋画家の小堀四郎は8月9日午後6時45分、脳こうそくのため埼玉県新座市の病院で死去した。享年96。明治35(1902)年7月20日、尾張徳川家に仕えた名古屋市内の漢学者の家に生まれる。大正10(1921)年愛知一中を卒業後上京し、藤島武二に師事、川端画学校でデッサンを学ぶ。翌年東京美術学校西洋画科に進学、同期生には猪熊弦一郎、牛島憲之、荻須高徳、小磯良平らがいた。2年生の時には特待生となり、昭和2(1927)年に卒業、全同期生と上杜会を結成し、9月にその第1回展を開催する。同年11月の第8回帝展には「静姿」が初入選する。翌年渡欧、フランスを中心にヨーロッパ各国で西洋絵画、とりわけレンブラントやコロー、ドーミエの模写で表現力を磨いた。同8年に帰国し、藤島武二の奨めで東京上野の松坂屋と名古屋の松坂屋で173点からなる滞欧作品展を開催。同10年、帝展改組の混乱を期に画壇を離れ、以後は上杜会にのみ出品。同20年から30年まで疎開先の長野県蓼科にこもり、農耕生活をしながら画業に専念する。画家を志した際、漢学者の父から「作品を売って生活してはならぬ」と戒められたことを終生守り、孤高の姿勢を貫いた。モティーフを初期の人物から風景画に移しながら古典的色合いを持つ堅実で精神性のこもった作品を描き、戦後は夜景をテーマに宗教性・神秘性を帯びた作風を展開。 同51年には東京大学のイラン・イラク発掘調査行に加わり、翌年その体験を基に「無限静寂」三部作(築地カトリック教会祭壇画)を制作。平成3(1991)年には高潔な画業と優れた人格を対象とする中村彝賞(第2回)を受賞。昭和61年に渋谷区立松濤美術館、平成3年に茅野市美術館、同4年には卒寿を記念して東京ステーションギャラリーで回顧展を開催。同7年には豊田市に油彩53点、ドローイング41点を寄贈した。なお妻は森鴎外の次女で随筆家として知られる小堀杏奴。

進藤蕃

没年月日:1998/04/17

 洋画家の進藤蕃(本名、しげる)は、頸部腫瘍のため東京都港区の病院で死去した。享年65。昭和7(1932)年、東京都に生まれ、同27年、東京芸術大学美術学部油画科に入学、在学中は小磯良平の指導をうけ、同31年に首席で卒業、大橋賞をうけた。同35年、フランス政府給費留学生として渡仏、パリのエコール・ド・ボーザールにて、モーリス・ブリアンションに師事した。帰国後、安井賞展に5回出品するほか、女子美術大学、東京芸術大学、愛知県立芸術大学などで、非常勤講師をつとめた。同42年には、中根寛、小松崎邦雄とともに濤々会を結成、また同49年には井上悟、橋本博英、大沼映夫、山川輝夫などと黎の会を結成、東京セントラル美術館で展覧会を開催した。国内外を取材のため精力的に歩くが、なかでも中国の風景をテーマに、同58年にパリのグランパレ美術館にて、第10回FIAC展(国際現代美術展)において個展を開催した。平成6年には、「両洋の眼」展に出品、また笠井誠一、福本章とともに三申会展を開催した。南ヨーロッパをおもわせる明るい陽光のもとでの風景画、あるいは室内の静物画を得意としたが、ことに中国の桂林などでの取材旅行からうまれた80年代の一連の風景画は、明快な色彩構成のうちに深い情感をたたえるもので、コロリストとしての画家の資質がもっとも発揮され、質の高い具象表現となっていた。

to page top