本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





松田正平

没年月日:2004/05/15

 飄逸な画風で知られた洋画家の松田正平は、5月15日午後4時35分、腎機能不全のため宇部市の病院で死去した。享年91。1913(大正2)年1月16日、久保田金平の第三子次男として島根県鹿足郡青原村(現・日原町)に生まれる。17年ころ宇部村恩田の松田家に養子として引き取られるが、望郷のあまり生家へ帰り、19年青原村立青原尋常小学校に入学する。20年養父の迎えにより宇部へ移り、21年山口県厚狭郡宇部村(現・宇部市)の松田家の養子として入籍する。宇部市立神原尋常小学校を経て25年山口県立宇部中学校(現 山口県立宇部高等学校)に入学。1927(昭和2)年、中学3年生在学中に同級生を介して油彩画を知る。30年、中学校の教員免許を取得することを条件として美術学校への進学を許され、2月に上京。川端画学校に学び、3月に東京美術学校を受験するが失敗。引き続き川端画学校に学ぶ。31年春、山口県出身の美術学校志望者が多く住んでいた小石川の日独館に転居し、古木守、香月泰男らと交遊。32年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二に師事する。35年帝展第二部会に「婦人像」で初入選。36年新文展鑑査展に「休憩」で入選する。37年東京美術学校を卒業し、フランス留学のため、知人の協力を仰ぎ、同年10月渡欧して、アカデミー・コラロッシに通う。コローに傾倒し、コローの「真珠の女」を模写したほか、コローが描いた場所を訪れ、また、レンブラントの作品を見るためにアムステルダムを訪れる。39年スイス、ロンドン、ニューヨーク、パナマ、ロサンゼルスを経由して同年12月に帰国。40年第15回国画会展に出品するが落選する。一方、郷里宇部市の緑屋百貨店で滞欧作展を開催。41年第16回国画会展に「ストーブ」「地図」を出品して入選。42年、宇部に帰郷し、4月から山口師範学校の美術教授となる。同年第17回国画会展に「集団アトリエ」「枯霞草」「或るゑかき」を出品し、国画奨学賞を受賞。43年山口師範学校を辞職して上京し、パリ留学のころから交遊のあった吉川精子と結婚する。同年第18回国画会展に「窓」「家」を出品し、同会会友に推される。45年戦況が厳しくなる中、宇部へ帰郷し、東見初炭坑で抗夫として働く。同年7月の宇部空襲により家が全焼し、パリ時代までの作品を失う。46年復興した第20回国画会展に出品し、以後も同会に出品を続ける。51年第25回同展に「内海風景」「祝島風景」を出品し、同会会員となる。同年よりフォルム画廊で第一回目の個展を開き、以後、ほぼ毎年同画廊で個展を開催。52年上京し、国画会展、国際具象派展、フォルム画廊での個展のほか、宇部市の明幸堂画廊での個展に作品を発表。63年夏、千葉県市原市鶴舞に転居。66年国画会脱退を決意し、この年の同会展には出品しなかったが、原精一、木内廣らの慰留により会員としてとどまる。76年現代画廊主洲之内徹との交流が始まり、78年フォルム画廊と現代画廊で個展を同時に開催する。以後、定期的な個展では油彩画はフォルム画廊で、素描は現代画廊で発表することが定例化する。82年6月、パリを再訪。83年『松田正平画集』がフォルム画廊から刊行され、東京の銀座・松屋で「松田正平画週出版記念展」を開催。同年三度目のパリ訪問。84年新潮文芸振興会主催の第16回日本芸術大賞を受賞。現代画廊で受賞記念展が開催される。87年山口県立美術館で「松田正平展」を開催。1991(平成3)年山口県立美術館で開催された「戦後洋画と福島繁太郎―昭和美術の一側面」展に代表作13点が出品される。95年舞鶴から郷里宇部市に帰り、制作を続ける。97年よりほぼ毎年菊川画廊で個展を開催。2004年1月、宇部市他の主催による「松田正平展」が宇部市文化会館で開催された。アカデミックな画風からコロー、セザンヌなどの学習を経て、対象を単純化した形体でとらえる素朴で飄逸な画風を確立した。1950年代から日本画壇において抽象絵画の受容が盛んになる中でも、具象絵画の可能性を高く評価し、日本人の描く油彩画を追求し続けた。「現代の仙人」と評される人柄を慕う人々も多く、晩年は後援会が組織され、歿後、同会の主催により菊川画廊で追悼展として「松田正平素描展」が開催された。作品集に『松田正平画集』(フォルム画廊、1983、2003年)、『きまぐれ帖』(阿曾美舎、2003年)、『松田正平素描集』(松田正平後援会発行、2006年)があり、年譜は歿後に刊行された『松田正平素描集』に詳しい。

奈良岡正夫

没年月日:2004/05/05

 日展参与、示現会会長の洋画家奈良岡正夫は5月5日午前4時、肺炎のため東京都文京区の病院で死去した。享年100。堅実な描写力と対象への親密なまなざしによって独自の画風を確立した奈良岡は、1903(明治36)年6月15日、中津軽郡豊田村に生まれた。本名政雄。父は村役場職員と農業を兼業していた。1915(大正4)年中津軽郡外崎尋常小学校を卒業。18年中津軽郡玉成高等小学校を卒業。この頃からねぷた絵の制作に熱中するが、長男として生家の農業を継ぐことを期待されており、19年ころ画家を志して家出する。しかし、一年で連れ戻されて農業に従事。そのかたわら、22年棟方志功らが結成した青光社に参加し、絵画制作を続ける。25年画家を志して上京。本郷絵画研究所に入るが、そこでの指導と環境に満足できず、初日で退学。その後弁護士の書生、青果市場内の製氷問屋などで働き、生計を支えながら、独学で絵を学ぶ。1940(昭和15)年3月第36回太平洋画会展に「豊秋」で入選。これを皮切りに、特定の団体にこだわらず、数多くの団体展に出品して入選を続けるようになる。40年第12回第一美術協会展に「田賀風景」、第14回構造社展に「漁村」を出品。翌年第18回白日会展に「早春ノ山」、第9回旺玄会展に「湖畔晴日」「湖畔の春」「早春の山路」、第13回第一美術協会展に「新緑の里」、また、第3回現代美術協会展に「閑日」、第15回新構造社展に「二人の老人」で入選する。42年第19回白日会展に「提灯屋さん」、第38回太平洋画会展に「水に住む」、第29回光風会展に「けしの花」、第12回独立美術協会展に「訊問」「水に住む」、第10回東光会展に「勤労奉仕」、第14回第一美術協会展に「閑日」、第29回二科展に「征途」、第2回創元会展に「驢馬と子供」、第16回新構造社展に「網代風景」が入選。また、同年第6回大日本海洋美術展に「漁夫」、第2回大日本航空美術展に「飛行機ノお話」「防空壕」、第1回大東亜戦争美術展に「北方を護る人々」「弾丸を磨く」で入選する。43年第20回白日会展に「子供隣組」「巌峯進軍」を出品して佳作賞を受賞したほか、第39回太平洋画会展に「兎と子供」「古物商」「童心」「地引」で入賞し、褒賞受賞。また、第7回大日本海洋美術展に「漁夫」「地曳」を出品して大臣賞受賞。同年決戦美術展に「アッツ島上陸」で入選する。また、第3回大日本航空美術展に「救護(一)」「救護(二)」を出品し、「救護(一)」によって大日本航空美術協会賞を受賞。第2回大東亜美術戦争美術展に「突撃」を出品する。この年、陸軍省報道部派遣命令により、中支に派遣される。44年1月ソヴィエト満州国境に3ヶ月間、北支に3ヶ月間派遣される。同年、第40回太平洋画会展に「工場」を出品して同会会員となる。また、陸軍美術展に「兵隊と良民」「昭和18秋太岳作戦(勝兵団戦闘司令部)」、第8回大日本海洋美術展に「漁期に入る」を出品。45年陸軍作戦記録画展に出品。戦地から帰った際に牛や山羊ののどかな姿に打たれ、以後、これらを描き続ける。戦後、46年第1回日展に「牛宿」で入選。47年太平洋画会から分離独立して示現会が結成されるのに際し、創立会員として参加し、以後、日展とともに同会に出品を続ける。54年第10回日展に「山羊」を出品し特選を受賞。56年第12回日展に「山羊」を出品して再び特選を受賞、62年日展会員となる。64年から70年まで隔年で、東京日本橋三越で個展を開催所で個展を開催。69年6月渡欧。70年6月青森市松木屋で、同年11月弘前市青森銀行記念館で画業50年展を開催。この頃から、郷里の夏祭りねぷたを題材とした作品を多く制作するようになる。79年日展参与となり同年青森市民展示館で「画業60年展」、1991(平成3)年東京の銀座松屋で「米寿記念奈良岡正夫展」、青森市松木屋で「画業70年米寿記念展」を開催。94年示現会会長となり、同年11月青森市松木屋で「松木屋創立45周年記念特別企画 示現会会長就任記念奈良岡正夫個展」を開催。97年、洋画家中村彝を記念し、名利を求めず画業に精進する60歳以上の画家を顕彰する中村彝賞の第5回受賞者となる。99年茨城県近代美術館で「中村彝賞記念 変幻自在流 大沢昌助・じょっぱりの画人 奈良岡正夫展」が開催された。年譜、文献目録は同展図録に詳しい。2000年画業80年展を青森市で開催し、01年白寿記念展を三越本店にて開催した。「描く対象に対する愛情がなければ絵にはできない」と語り、子供をいつくしむ山羊や幼い頃から親しんだ郷里のねぷた祭を好んで描いた。生涯、納得のできる絵画を目指し、対象の再現的描写を基本とするが、タブローを描くにあたっては構図を知的に組み立てるなど、絵画の自立性を踏まえた制作をつづけた。

杉本健吉

没年月日:2004/02/10

 洋画家の杉本健吉は、2月10日午前5時52分、肺炎のために名古屋第二赤十字病院で死去した。享年98。1905(明治38)年9月20日、名古屋市に生まれる。1919(大正8)年津島尋常小学校を卒業後、愛知県立工業学校図案科に入学。23年同校を卒業し、25年に兵役検査を受けるまで織物商で図案を描きながら制作を行う。25年、敬慕する岸田劉生を京都に訪ね師事した。第1回展に落選した春陽会に、26年第4回展で「花」「静物」が初入選。翌1927(昭和2)年には第1回大調和会にも出品。31年に初出品した後国画会展に出品を続け、38年同人になる。名古屋市内の広告スタジオ勤めを経て29年に図案家として独立、観光関係のポスター制作も行った。また岸田の没後、35年には椿貞雄の紹介で梅原龍三郎を訪ね私淑している。40年頃から訪れるようになった奈良では、寺院や仏像、風物などのモチーフの他に、幅広い人間関係を得る。49年には上司雲海師の知遇を機縁に、東大寺観音院の古い土蔵をアトリエとして使うようになり、ここで會津八一や入江泰吉らと出会う。またそれらの交流の中から、吉川英治の連載小説『新・平家物語』の挿絵を担当した。7年にわたった『週刊朝日』誌上でのこの連載は、挿絵画家としての杉本を著名にした。その後も58年には吉川の連載小説『私本太平記』、『新・水滸伝』の挿絵を描く。戦前の修業時代には鉛筆を片時も離さなかったという杉本は、素描を大切にし、ジャンルや画材、描法にとらわれず、水彩や水墨、油彩などそれぞれの特徴を生かして感興を表現した。それらは時におおらかな、時に繊細な筆遣いによくあらわれている。62年以降はインド、中近東、南ヨーロッパを皮切りに、中国、韓国、スペインなど各地を訪れ、多くのスケッチを残している。そのほか、83年には大阪四天王寺太子絵堂障壁画を完成させている。国画会は第二次大戦による休止を挟んで69年の43回まで連続して出品、71年に同会を退会、無所属となる。この間、42年第5回新文展では特選を受賞。46年の第1回日展に出品、第2回日展では特選を受けている。昭和20年代から画廊や百貨店での個展も多数開催し、1994(平成6)年には愛知県美術館で「杉本健吉展 画業70年のあゆみ」と題された大規模な展覧会も開かれた。87年には愛知県南知多に杉本美術館が、94年には新館も開設された。出版物は秋艸道人(會津八一)歌、杉本画で54年『春日野』(文芸春秋社)があるほか、画集は60年『墨絵奈良』(角川出版)、67年『幻想奈良』(求龍堂)、81年『杉本健吉素描集』(朝日新聞社)など多数。48年に第1回中日文化賞を受賞している。

風間完

没年月日:2003/12/27

 洋画家で、新聞等の連載小説の挿絵で知られた風間完は、12月27日、がん性腹膜炎のため東京都港区の病院で死去した。享年84。1919(大正8)年1月19日、現在の東京都中央区新富に生まれる。1939(昭和14)年、東京高等工芸学校を卒業。2年間の兵役の後、画家を志し、43年の第8回新制作派協会展に初入選する。以後、猪熊弦一郎、内田巌、荻須高徳等に師事する。49年、第13回新制作派協会展に「堀」、「低地」、「舗道」3点を出品、新作家賞を受賞。はじめ雑誌編集者だった兄の縁で、山本周五郎等の小説の挿絵を描き、53年には、邦枝完二の新聞連載小説「恋あやめ」の挿絵を手がけた。翌年、第18回新制作派協会展に出品後、同協会会員となる。57年から2年間パリに留学、グラン・ショーミエール研究所に学んだ。64年、講談社挿絵賞を受賞。67年に再渡仏、フリード・ランデル工房にて銅版画を制作。69年、週刊誌『週刊現代』に連載された五木寛之の小説「青春の門」の挿絵を担当して注目される。翌年には『毎日新聞』に連載の司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」、他に『週刊文春』に64年から71年まで連載された松本清張の「昭和史発掘」、74年から82年まで『週刊朝日』に連載された池波正太郎の「真田太平記」、81年から翌年まで『日本経済新聞』に連載された瀬戸内晴美(寂聴)の「京まんだら」等など数多くの小説の挿絵を描いた。2002(平成14)年には、長年にわたる文学作品の挿絵制作に対して第50回菊池寛賞を受賞した。著書も多く、『画家の引き出し』(青娥書房、77年)、『エンピツ画のすすめ』(朝日新聞社、87年)、『旅のスケッチ帖』(角川書店、95年)、画集には『青春の門』(講談社、75年)、『風間完自選画集』(朝日新聞社、85年)等がある。鉛筆やパステルを使用した叙情的な風景画や情感豊かな女性像によって人気を得ていた。没後の2004年には、池波正太郎真田太平記館(長野県上田市)において追悼展「風間完が描く『真田太平記』の女たち」が開催された。

西村功

没年月日:2003/12/01

 洋画家の西村功は、12月1日午前3時5分肺炎のため神戸市東灘区の病院で死去した。享年80。1923(大正12)年10月26日、大阪市南森町に生まれる。3歳の時に病気で聴覚を失い、大阪府立聾口話学校に進む。中之島洋画研究所に学んだ後、帝国美術学校を1948(昭和23)年に卒業。50年第4回二紀展に「女学生」が初入選、佳作賞を受賞し、51年に同人、56年には委員に推挙される。50年代はじめに赤帽を題材にしたことを契機に、駅や駅員、時計、乗客、プラットホームなどを描いた。モチーフを大きくとらえた画面は、複雑に塗り重ねられる一方で時に縦横に引掻く線も用いられ、喧噪の中の一瞬を静謐に描き出している。70年に初渡欧の後たびたび渡欧し、パリの街景やメトロ、行き交う人びとにも題材を広げた。65年に「ベンチの人びと」で第9回安井賞を受賞。86年第40回二紀展には「シテ駅界隈」を出品、総理大臣賞を受賞している。82年神戸市文化賞、88年兵庫県文化賞受賞。82年『西村功画集―駅・人生・パリ』(神戸新聞出版センター)、1991(平成3)年『西村功画集1950~1976』(海文堂ギャラリー)、2001年『西村功初期デッサン集』(ギャラリー島田)がそれぞれ出版されている。また、06年4月には西宮市大谷記念美術館で回顧展が開催される予定である。

渡邉武夫

没年月日:2003/09/11

 日本芸術院会員の洋画家渡邉武夫は9月11日午後9時50分、呼吸不全のため東京都青梅市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年7月2日東京市本所区亀沢町(現東京都墨田区)に生まれる。幼少時に浦和に転居し、1929(昭和4)年埼玉県立浦和中学校(旧制)に入学する。同校在学中、美術教師であった福宿光雄に影響を受け、十代半ばで画家を志す。33年黒田清輝に師事した洋画家小林萬吾の主宰する同舟舎洋画研究所に入り、デッサンを学ぶ。34年浦和中学校を卒業し、東京美術学校油画科予科に入学。翌年同校油画科本科に進学し、南薫造教室に学ぶ。また、同年から寺内萬治郎に師事する。東京美術学校在学中の38年第25回光風会展に「長老坐像」「停車場の一隅」「グハルの午後」を出品してF氏賞を受賞。同年第2回新文展に「騎馬像のある部屋」を初出品し入選する。39年第26回光風会展に「本屋の一隅」「男」を出品して船岡賞受賞。同年東京美術学校油画科を卒業する。40年第27回光風会展に「男たち」「神父さんと子供たち」を出品して光風賞を受賞し、同会会友となる。41年第28回光風会展に「S先生の像」を出品して光風特賞を受賞。また、第4回新文展に椅子に座して読書する老紳士をやや俯瞰してとらえ、写実的な画技を示した「老図書館長Tさんの像」を出品して特選受賞。43年第8回新文展に「診察室の宮崎先生」を出品して、二年連続して特選を受賞する。44年光風会会員となる。また、同年寺内萬治郎門下生による「武蔵野会」を結成する。戦後も官展および光風会展に出品を続ける。55年、初めて渡欧し、パリのグラン・ショーミエールで学ぶほか、ヨーロッパ各地を旅行。この留学中、グラン・ショーミエールでの学友に啓発され、それまで人物を主に描いていた作風が風景画中心に変化する。翌年帰国し、58年に留学の成果を東京銀座松屋における「渡邉武夫滞欧作品展」で発表。61年社団法人日展会員、66年日展評議員となる。71年再度渡欧しヨーロッパ各国を巡遊。73年秋、パリ近郊および南フランスに取材旅行。翌年第6回日展に「カアニュ好日」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。武蔵野の風景にも取材するが、近代化による景観の変化が少ないフランス風景に次第に傾斜を強めていき、しばしば渡欧して制作するようになる。77年初夏にパリ近郊を、79年1月および5月に南仏を、82年5月および84年7月にはブルターニュを訪れる。85年、日展出品作「シャンパァニュの丘」により第41回日本芸術院賞を受賞。また、同年、社団法人日展理事となる。88年日本芸術院会員、89年社団法人日展常務理事、1990(平成2)年光風会常任理事となる。91年「画業60年渡邉武夫展」(東京銀座、松屋)を開催。97年光風会理事長に就任した。また、美術教育にも従事し、47年から51年まで東京美術学校師範科講師、51年から埼玉大学教育学部美術学科講師、66年から73年まで女子美術大学洋画科講師を勤めた。初期には人物画を、最初の渡仏以降は風景画を中心に描いたが、一貫して堅実な写実に基づき、人々の生活に思いを到らせる画風を示した。没後の2005年埼玉県立近代美術館で「渡邉武夫の世界―武蔵野の風・南仏の光」展が開催された。

原光子

没年月日:2002/06/08

 洋画家原光子は6月8日午前1時25分、乳がんのため東京都中央区の病院で死去した。享年70。旧姓小瀬(こせ)。 1931(昭和6)年7月10日東京都八王子市に生まれる。都立南多摩高校を経て54年に女子美術大学芸術学部洋画科を卒業すると、同大学洋画科助手となる。同年は第22回独立展に「赤いローソク」が初入選したほか、初めての個展を開催した。翌年、第9回女流画家協会展に「ダム」を出品し、以後主に両会に作品を発表するなかで、女流画家協会では58年に会員となり、プールヴー賞、努力賞、甲斐仁代賞などを受賞し、73年からは委員に推挙され2001(平成13)年まで連続出品した。一方独立美術協会でも、2001年までほぼ毎年入選および出品を続け、72年第40回展では独立賞を受賞、翌73年会員に推挙されている。この間、59年に原静雄と結婚。女子美術大学芸術学部では、60年専任講師、75年からは助教授、84年教授に就任し後進の指導にあたった。97年からは名誉教授。 65年、第1回女子美術大学海外研修旅行としてイギリス、フランス、イタリアなどにでかけたのを皮切りに、ロシア、シルクロード、アンコールワットまで取材旅行は多岐にわたる。彫刻や噴水が配された風景は鮮やかな色面で構成され、その作品タイトルからもうかがえるように作品に水の動きを描き、流れる風を表現した。 84年第23回国際形象展に「午後2時・微風」ほかを招待出品。95年には「原光子―風の方向―」展(たましん歴史・美術館)を開催、96年には第11回小山敬三美術賞を受賞し、同年日本橋高島屋で受賞記念展を開催した。技法書として『油絵の描き方 風景画』(講談社 1985年)を出版し、「福沢一郎」展カタログ(富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館 1998年)では、独立美術協会や女子美術大学の教職員として兄事した福沢一郎に文章を寄せている。88年、紺綬褒章受章。

今井俊満

没年月日:2002/03/03

 画家の今井俊満は、3月3日午後4時15分、膀胱がんのため東京都中央区の国立がんセンター中央病院で死去した。享年73。 1928(昭和3)年5月6日、京都府京都市西京区に生まれる。幼少時に大阪市船場安土町に移り住み、大阪市立船場尋常小学校卒業後、41年に上京して武蔵高等学校尋常科に入学。48年、同高校を卒業、在学中から絵画に関心を持ち、同年10月には第12回新制作派協会展に「道」が入選した。51年の第15回新制作展に「真夜中の結婚」が入選、新作家賞を受ける。翌年、単身でフランスに私費留学。留学中、サム・フランシスを知り、55年にはその紹介で美術評論家ミッシェル・タピエを知る。この頃から、抽象表現主義であるアンフォルメル運動のジョルジュ・マチュー、ジャン・デュビュッフェ、ジャン・フォートリエ、セザール、ポール・ジェンキンス、アンリ・ミショー等の画家たちと交友するようになり、自らも運動に加わった。56年、「世界・今日の美術展」(朝日新聞社主催、会場:東京日本橋、高島屋)に、岡本太郎から要請され、ミッシェル・タピエのコレクションから、フォートリエ、デュビュッフェ、マチュー、カレル・アペル、サム・フランシス、フォンタナ等の作品出品の斡旋をした。この展覧会が、国内におけるアンフォルメル絵画の最初の本格的な紹介となり、反響を呼んだ。57年2月、パリのスタドラー画廊で最初の個展を開催。同年8月、一時帰国、この時、マチュー、タピエ、サム・フランシスも相次いで来日し、共にアンフォルメル運動のデモンストレーションを行った。その後、60年代から70年代には、日仏間を行き来しながら、数々の展覧会に出品するなど、活発な活動をつづけ、国際的な美術家として評価された。また、70年の大阪万国博覧会では、企業パビリオンの美術監督を務めるなど、建築装飾やファッション、音楽などにも関心をひろげていった。75年に画集『今井俊満』(求龍堂)を刊行。制作面では、83年頃より、金銀を華やかに用いて、「琳派」をはじめとする伝統絵画を引用した装飾性あふれる「花鳥風月」のシリーズが始まった。当時、今井自身は、その変貌をつぎのように語っている。「私が花鳥風月で行った伝統再生の作業は古典主義とは全く異なる。なぜなら日本の伝統的芸術遺産の特定の形態に回帰したのではないからである。私が回帰したのは伝統芸術の奥底を流れる、定かならぬ全体、そこに私は戻ったのだと思う」(「アンフォルメル花鳥風月」、『へるめす』21号、1989年)。85年に画集『今井俊満 花鳥風月』(美術出版社)を刊行。1989(平成元)年4月には、初期作品から近作まで201点によって構成された「今井俊満―東方の光」展が国立国際美術館で開催され、その後目黒区美術館、いわき市立美術館を巡回した。91年5月には、アンフォルメル時代の作品から近作まで41点によって構成された「今井俊満展」を富山県立近代美術館で開催。90年代には、一転して髑髏などをモチーフに戦争の災禍を告発するような表現主義的な表現に展開。さらに自ら癌であることを認知した最晩年には、女子高校生などをモチーフに東京の風俗をシニカルに戯画風に描いた作品を発表し、最後まで大胆に変貌し続け、創作への意欲をみなぎらせていた。

寺島龍一

没年月日:2001/10/26

 洋画家寺島龍一は、10月26日午後7時17分、肺炎のため東京都港区の病院で死去した。享年83。本名は寺嶋龍一。1918(大正7)年4月27日東京築地に生まれる。千葉県九十九里で幼少期を過ごし、栃木県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、川端画学校に学ぶ。1938(昭和13)年東京美術学校に入学、小林萬吾教室に学び、ついで寺内萬治郎に師事した。人物画をよくする。在学中、41年第4回新文展に「父の像」が入選したほか、翌年の第29回光風会展に「部屋にて」が入選。46年第1回日展に入選、57年に「N氏像」が第13回日展特選、同年光風会でも会員となり、以後は日展と光風会を活躍の場とする。60年から一年半滞欧し、シエナ派の絵画から線描表現や幻想性を、またジャコメッティの作品から人体と空間の表現方法を学んでいる。帰国後は舞妓をはじめとする女性像をよく描き、その一方で、前景に女性を配してスペインやイタリアの風景と組み合わせた構図を作り上げた。76年以降14回渡欧、特にアンダルシア地方の風景を好んだ。油彩画のほかに児童書や事典に挿絵を描き、69年には産経児童出版文化賞を受賞。77年東京新聞連載小説「愛しい女」(三浦哲郎作)の挿絵を担当する。78年筑波大学教授となるが、翌年辞している。80年と83年に日動サロンで個展を開催。1991(平成3)年紺綬褒章受章、92年「アンダルシアの宴」で日展内閣総理大臣賞を、96年度には「アンダルシア賛」で日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。98年日本芸術院会員。99年日展顧問、2000年光風会理事長となる。著書に『人物画の新しい工夫』(アトリエ社 1969年)があり、『寺島龍一画集』(ビジョン企画出版社 2000年)が刊行されている。

川端実

没年月日:2001/06/29

 洋画家川端実は、6月29日、東京都渋谷区の病院で老衰のため死去した。享年90。1911(明治44)年5月22日、東京市小石川区春日町に日本画家川端茂章の長男として生まれる。川端玉章は、祖父にあたる。1929(昭和4)年4月、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事した。34年に同学校を卒業、36年には文展監査展に「海辺」が入選して、選奨となり、39年には光風会員となった。同年8月、渡欧の途につく。パリに入るが、第二次世界大戦の勃発により、退去命令をうけ、ニューヨークに渡る。しかし、ヨーロッパが急変する様子がないことを知り、再びフランスに戻った。その後、戦渦の拡大によりイタリアに移ったが、イタリアも参戦したことから、41年9月に帰国した。戦後の50年、多摩美術大学教授となり、52年には、光風会を辞して、新制作協会会員となった。また、51年には、第1回サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に選出され、「キリコをつくる人」を出品した。53年には、長谷川三郎、吉原治良、山口長男等とともに、日本アブストラクト・アート・クラブを結成した。50年代から、具象的な表現をはなれ、ダイナミックで、構成的な抽象表現を模索しはじめていた。58年9月、渡米してニューヨークに居を移し、翌月にひらかれた第2回グッゲンハイム国際展に「リズム 茶」を出品して、個人表彰名誉賞を受賞した。また、同年、新制作協会からはなれた。61年、第31回ベェネツィア・ビエンナーレに「強烈な赤」等を出品した。戦後、欧米の美術界を席巻した抽象表現主義の影響をうけた作品となっていったが、60年代末頃より、明快な色彩とシンプルな幾何学的なフォルムによる抽象絵画に展開していった。その後、国内外での個展のほか、種々な国際展に出品した。75年には、神奈川県立近代美術館において、50年から近作にいたる作品80点、デッサン59点によって構成された回顧展が開催された。92年には、京都国立近代美術館、大原美術館において、作品59点とドローイング22点によって構成された近作を中心とする「川端実展」が開催された。70年代から80年代には、明快な色面の構成ながら、筆によるストロークの跡を画面に残しているため、暖かい抒情性をただよわせる作品を残したが、しだいに即興的でダイナミックな線による表現に展開していった。戦後の抽象絵画のなかで、いちはやく国際的な評価をうける作品を残した。

松本英一郎

没年月日:2001/06/17

 洋画家で、多摩美術大学教授の松本英一郎は、6月17日午前9時51分、心筋症のため山梨県富士吉田市の病院で死去した。享年68。1932(昭和7)年7月8日、福岡県久留米市に生まれる。57年、東京芸術大学美術学部油画科を卒業、ひきつづき専攻科にすすみ林武に師事し、59年に同科を卒業した。57年の第25回独立展に初入選し、60年の第28回展では独立賞を受賞し、同年、同協会会員となった。同展には、2001年の第69回展まで、毎回出品をつづけた。69年、多摩美術大学グラッフィックデザイン科の講師となり、72年には同大学助教授となった。83年には、同大学教授となり、1993(平成5)年には油画科に所属が変更した。在職中は、寡黙ながら包容力のある指導で、学生からの人望もあつかったことで知られた。60年代末には、日常のなかの不安や不条理を、人間のシルエットの形の反復によって表現した「平均的肥満体」のシリーズを制作し、70年代から80年代にかけては、「不思議なことだが、私には襞のある形状の方がより自然に思えるのである。生あるものはやがて老い、そして収縮していく。収縮しながら襞を作る。」という言葉どおり、「退屈な風景」のシリーズによって、漠としてひろがる風景のなかに自然の摂理や人間の内面を投影した表現をつづけた。つづく90年代には、「さくら・うし」のシリーズによって、桜の花のはなやかさに幻惑された体験をもとに、さらに幻想的な独自の世界を展開していった。この間、各地の美術館の企画展、コンクール展に出品したが、90年には青梅市立美術館で「松本英一郎展」が、93年には池田20世紀美術館で「松本英一郎の世界」展が開催された。没後の2003年6月に多摩美術大学美術館において「松本英一郎展 Works1968-2001」が開催され、その芸術があらためて回顧された。

糸園和三郎

没年月日:2001/06/15

 洋画家糸園和三郎は、6月15日午後6時5分、肺炎のため東京都杉並区の病院で死去した。享年89。1911(明治44)年8月4日大分県中津町(現・中津市)の呉服商の家に生まれる。中津南部尋常小学校5年生の時に骨髄炎にかかり手術を受ける。一年遅れて小学校を卒業した後は、病気のために進学を断念。1927(昭和2)年上京し次兄と共に大井町に住む。この年、父に絵を描くことを勧められ、川端画学校に通い始めた。1930年協会展に出品されていた前田寛治の作品に感動し、29年には前田の主宰した写実研究所に学ぶ。同年第4回1930年協会展に「人物」が、続いて30年には第8回春陽会展に「赤い百合」「上井草」が初入選する。31年第1回独立美術協会展に初入選。独立美術研究所にも通い、同年には研究所の塚原清一、高松甚二郎、山本正と四軌会を結成、展覧会を開く。32年ころ下落合に移り、伊藤久三郎と同じアパートに住む。34年四軌会に斎藤長三が加わり、飾畫と改称。飾畫展には飯田操朗、米倉寿仁、土屋幸夫、阿部芳文(展也)らが参加した。このころからシュルレアリスムの傾向を示す作品を描き始める。38年、飾畫展は創紀美術協会に合流するため発展的に解散、続いて39年福沢一郎を中心に美術文化協会が結成されると、創紀美術協会もこれに参加した。41年、第2回展を前にした福沢及び瀧口修造の検挙は同会への威嚇となったが、糸園は2回、4回、5回の美術文化協会展に出品した。43年、井上長三郎、靉光、鶴岡政男、寺田政明、大野五郎、松本竣介、麻生三郎と8人で新人画会を結成。これは戦時下であっても自主的な表現活動をするための場であった。45年、笹塚の家が東京大空襲にあい、郷里にあった数点をのぞいて作品を焼失する。46年日本美術会創立に参加、47年美術文化協会を退会して新人画会のメンバーと自由美術家協会に参加した。一方で、46年頃から郷里中津で絵画塾を開いた。53年第2回日本国際美術展に「叫ぶ子」を、同年第17回自由美術家協会展に「鳥をとらえる女」、57年第4回日本国際美術展に「鳥の壁」(佳作賞受賞)を出品、生きるものの姿を緊密な構図で描出した。57年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品。64年自由美術家協会を退会、以後無所属となる。68年第8回現代日本美術展に、人間と、アメリカ国旗やベトナムの地図を配した「黒い水」「黄いろい水」を出品、「黄いろい水」でK氏賞を受賞。70年前田寛治門下による「濤の会」、自由美術家協会の友人との「樹」を持ち、展覧会を開いた。77年、飾画を復活させている。56年から単身上京、三鷹に住む。57年から81年まで日本大学芸術学部で後進を指導した。76年、糸園に師事した卒業生たちが「土日会」を結成、以後糸園は同展に賛助出品をする。 この間、59年脳動脈瘤が見つかるが、手術によって制作ができなくなる危険性から手術は受けず、中津で一年半の療養生活を送ったほか、85年には右目を患っている。心に浮かんだ映像を長い時間をかけて醸成させ、キャンバスの上に写し換えるという糸園の作品は、画面から余計な対象物が排除されて静謐でありながら、詩情と人間のぬくもりを感じさせるものである。油彩画のほか、ガラス絵の制作もした。76年と83年に『糸園和三郎画集』が求龍堂から刊行。70年代以降は、「戦後日本美術の展開―具象表現の変貌展」(東京国立近代美術館 1972年)をはじめ、「日本のシュールレアリスム1925―1945展」(名古屋市美術館 1990年)、「昭和の絵画第3部 戦後美術―その再生と展開展」(宮城県美術館 1991年)など、洋画の変遷を展望しようとする企画展に作品が出品された。78年北九州市立美術館と大分県立芸術会館で糸園和三郎展が、1995(平成7)年、大分県立芸術会館で「糸園和三郎とその時代展」が開催された。2003年には画家や美術評論家をはじめ、友人、教え子、親族らによって『糸園和三郎追悼文集』が刊行されている。

伊藤清永

没年月日:2001/06/05

 洋画家伊藤清永は、6月5日午後6時35分、急性心不全のため長野県軽井沢町の病院で死去した。享年90。伊藤は、1911(明治44)年2月24日兵庫県出石郡の禅寺、吉祥寺の三男として生まれる。中学の図画教師に岡田三郎助を紹介され、本郷洋画研究所に学んだ後、1929(昭和4)年東京美術学校西洋画科に入学。在学中の31年第8回槐樹社展に「祐天寺風景」が初入選し、33年には第10回白日会(白日賞受賞)と第14回帝展に入選、その後も白日会と日展を舞台に活躍した。二度の応召から復員し生家の寺で住職代理をしていたが、制作を一からやり直すつもりで裸婦の制作に取り組み始める。46年第1回展から日展に出品、47年「I夫人像」が、48年「室内」が、第3回、4回の日展で連続して特選となる。56年からは同審査員。53年画室で伊藤絵画研究所を開設、57年には愛知学院大学教授となって後進の指導に当たった。62年、51歳で初めて渡欧、パリとオランダに滞在して制作する。帰国後は、色彩豊かな柔らかい描線を交差させて、女性の肌の美しさをあらわした裸婦や、バラを描いた。戦前は着衣の群像を多く描いたほか、大画面への意欲も強く壁画も描いていて、年を隔てて84年には愛知学院大学講堂に「釈尊伝四部作大壁画」を完成させている。76年「曙光」が第8回日展で内閣総理大臣賞を受賞したほか、同作が翌年には日本芸術院恩賜賞を受賞した。84年日本芸術院会員、86年白日会会長となる。1991(平成3)年に文化功労者、96年には文化勲章を受章した。71年の『伊藤清永作品集』をはじめ、89年と91年にも画集が刊行され、2001年には日本橋高島屋を皮切りに全国5会場で卒寿記念の個展が開催された。89年、郷里の出石に町立伊藤美術館が開館。

西村計雄

没年月日:2000/12/04

 洋画家西村計雄は、12月4日老衰のため東京都品川区内の病院で死去した。享年91。1909(明治42)年6月29日、北海道岩内郡小沢村に生まれる。1929(昭和4)年、東京美術学校西洋画科に入学、在学中は藤島武二に師事した。36年の文展に「ギター」が初入選。新文展には、39年の第3回展から43年の第6回展まで連続して入選し、とくに第6回展に出品した「童子」は特選となった。戦後も、日展、創元会展に出品をつづけていたが、51年に渡仏。53年には、ピカソの画商カーンワイラーのすすめで、パリの画廊ベルネームジュンヌで第一回の個展開催。その後、パリを中心に、ロンドン、西ベルリン、ウィーンで個展を開催。淡い、洗練された色彩と躍動感あふれる抽象表現によって、高い評価を受けていた。79年、沖縄県南部、摩文仁ヶ丘の国定公園内に建設された沖縄平和記念堂内を飾る連作「戦争と平和」の第一作を完成させ、それまでの取材をふくめ八年間をかけて、沖縄とパリを往復しながら、連作20点を86年に完成させた。これが、画家の代表作となった。1999(平成11)には、郷里に共和町立西村計雄記念美術館が開館した。また、没後の2002年4月からは、東京都大田区北千束の自宅を「西村計雄のアトリエ」として一般公開をはじめた。

平賀敬

没年月日:2000/11/13

 洋画家の平賀敬は、11月13日午前6時54分、食道ガンのために神奈川県小田原市の病院で死去した。享年64。1936(昭和11)年、東京に生まれ、57年に立教大学経済学部を卒業。64年、シェル賞で第三席を受賞、同年の第3回国際青年美術家展で大賞(パリ留学賞)の受賞を機に渡欧。74年の帰国までに、ヨーロッパ各地で個展を開催するとともに、66年には「フィギュラシオン・ナラティーヴ」展に参加、69年には第10回サンパウロ・ビエンナーレの日本部門にも選抜出品した。帰国後も、個展での新作発表をつづける一方、82年の「現代美術の転換期」展(東京国立近代美術館)、翌年の「現代美術の動向 1960年代-多様化への出発」(東京都美術館)など、現代美術の史的位置付けをこころみる企画展にも出品していた。渡欧中から、あたかも「戯作者」のエスプリをもったかのような目で、エロチックでユーモラスな男女の群像を描きつづけた。亡くなる直前の2000(平成12)年9月には、平塚市美術館で本格的な回顧展が開催された。

林功

没年月日:2000/11/04

 日本画家で愛知県立芸術大学美術学部助教授の林功は11月4日、中国西安市郊外で交通事故のため死去した。西安国立歴史博物館の招待を受け、章懐太子墓の復元壁画研究の最中であった。享年54。1946(昭和21)年2月22日千葉県茂原市町保に生まれる。千葉県立長生高等学校在学中に、美術教師だった洋画家山本文彦に感化されて絵の勉強を始め、千葉県美術展で県美術会賞、市長賞を受賞。その後東京芸術大学日本画科に進み、69年に卒業、その年の院展に初入選する。東京芸術大学大学院保存修復技術研究室で吉田善彦の指導を受け71年に修了、同年日本美術院院友となる。72年に新人画家の登竜門であるシェル美術賞展で「朝・落葉の音」が一等賞を、81年第6回山種美術館賞展で「汎」が優秀賞を受賞。戦後世代の日本画家による横の会にも84年結成時から93(平成5)年解散まで参加、画壇の枠を越えた連携活動は注目を集めた。この間、87年から2年をかけて法隆寺聖霊院厨子絵「蓮池図」を制作。90年に愛知県立芸術大学美術学部講師となり、94年より同学部助教授を務める。96年には横の会のメンバーだった伊藤彬・中島千波・中野嘉之とグループ「目」を結成、屏風等の大作を試みる。意欲的な創作活動の一方で76年より文化庁の文化財修復模写事業に参加して以来、科学的調査研究をも踏まえた古画模写の第一人者として活躍。78年神護寺蔵伝源頼朝像、89年同寺蔵伝平重盛像、91年法隆寺金堂壁画飛天図、99年源氏物語絵巻等、多くの国宝、重要文化財の模写事業を手がけ、原画と同技法・同素材にこだわる姿勢は、修復の現場にも大きな影響を与えた。模写によって培われた技法や精神は創作活動のほか『日本画の描き方』(講談社 84年)、『名画の技法 水墨画』(日本経済新聞 89年)といった著書執筆にも反映されている。画集には『林功画集』(求龍堂 92年)、『林功 人と作品 追悼画集』(2001年)があり、回顧展としては没後の02年に茂原市立美術館・郷土資料館で「日本画家 林功展」が開催されている。

三芳悌吉

没年月日:2000/09/10

 行動美術協会会員の洋画家三芳悌吉は9月10日午後6時58分呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年90。1910(明治43)年6月23日、東京向島に生まれる。幼少時に新潟県新潟市に一家で転居。1927(昭和2)年、新潟医科大学解剖学教室で顕微鏡図を描く職に就くかたわら、絵画を独習。翌年、上京し、東京帝国大学医学部の森於兔教室に就職し、また太平洋画会研究所に学んだ。34年の第21回二科展に「裏町の子」が初入選。以後、戦前期は同会に出品をかさね、43年の第30回展に「防空服の婦人」が入選後、会友となった。戦後は、46年の行動美術協会創立にともない、その春季第一回展に出品協力者として出品、同会会員に迎えられた。以後、同展に一貫して出品をつづけた。1990(平成2)年には、新潟県美術博物館で「三芳悌吉の世界」展が開催され、その芸術が回顧された。画風は、街頭の情景などの風景画を中心に、堅実な描写ながら、その色彩の暖かさは人を惹きつけるものがある。一方では、はやくから多数の絵本の制作しており、その功績により、83年には日本児童文化功労賞を受賞、86年には『ある池のものがたり』(福音館書店)によって日本絵本賞を受賞。そのほか、晩年に出版した『砂丘物語』Ⅰ・Ⅱ(福音館書店 96年)は、幼年期をおくった大正期の新潟市をこどもの視点でえがいたものとして、多くの人に読みつがれている。

清川泰次

没年月日:2000/08/06

 洋画家清川泰次は、8月6日午後10時、虚血性心疾患のため世田谷区成城の自宅で死去した。享年81。1919(大正8)年5月6日、静岡県浜松市に生まれる。1944(昭和19)年、慶応義塾大学を卒業。戦後、アメリカ、ヨーロッパ、アジア各地を訪れた。58年以後は無所属となり、独自に発表活動をつづけ、抽象絵画の世界をきづいていった。また59年には、『絵と言葉』(美術出版社)を刊行。さらに73年には、『清川泰次画集-白の世界』(ブロネード)を刊行、以後も画集を刊行している。83年には安田火災東郷青児美術館大賞受賞。国内外の美術館に作品が収蔵されているほかに、慶応義塾大学構内や、天竜市玖延禅寺(共同納骨堂)などにもある。1995(平成7)年5月、静岡県榛原郡御前崎町に自作約400点を寄贈し、これをもとに清川泰次芸術館が開館した。99年に、『芸術とは何か』(美術出版社)を刊行した。没後、本人の遺志により、自宅兼アトリエと、自作を世田谷区に寄贈し、将来的に公開施設になる予定である。白を基調にした、簡潔な構成の抽象絵画を旺盛に描きつづけ、その発展として立体作品も制作した。

岩下三四

没年月日:2000/07/01

 洋画家で日展参与および東光会副会長を務めた岩下三四は7月1日午前2時40分、肺癌のため鹿児島市の自宅で死去した。享年93。明治40(1907)年3月26日、鹿児島県大島郡喜界村に生まれる。1926(大正5)年、鹿児島第一師範学校を卒業して喜界村立湾尋常高等小学校教諭となり、翌年鹿児島市立鹿児島尋常高等小学校に赴任する。1930(昭和5)年、元同校教諭で当時東京美術学校に在学していた黒松秀志の写生姿に感銘を受け、油絵道具一式を買いそろえて制作を開始。同年、岩木三光を名乗って第8回南国美術展に出品した「海の引力」が初入選。翌年退職して上京し、東京都北豊島郡第四峡田尋常小学校に赴任。32年から熊岡美彦の熊岡洋画研究所で学び、33年の第1回東光会展に入選。同年「静物」が第14回帝展に入選。34年の第2回東光会展ではK氏奨励賞を、35年の第3回東光会展で田中奨励賞を、36年の第4回東光会展で「海と裸婦」が東光賞を受賞し、37年に東光会会員となった。40年、第四峡田尋常小学校を退職して熊岡洋画研究所講師となる。47年、鹿児島に居を構え、鹿児島師範学校(後の鹿児島大学)講師として後進の育成に努める(51年から教育学部助教授、65年から教授)。52年、「画室にて」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。68年から日展会員。80年から東光会理事と日展評議員、82年から日展参与、1989(平成1)年から東光会副理事長を務めた(後に副会長)。この間、55年に鹿児島美術協会を結成に参加して審査員を務めるなど、郷土の美術振興に寄与するところが大きかった。71年に鹿児島大学を退官してからは志賀学園鹿児島女子短期大学教授を務め、73年には南日本文化賞を受賞、78年鹿児島県から県民表彰を受ける。82年、勲四等旭日小綬賞を受賞。98年、長島美術館(鹿児島市)にて「岩下三四展-卆寿をこえて-」が開催され、同年『岩下三四画集』(同刊行会)が出版された。桜島、霧島や琉球踊りといった南国の風物などを、鮮やかな色彩と力強いタッチで描いた。次男国郎は洋画家で東光会会員、鹿児島国際大学教授。

三尾公三

没年月日:2000/06/29

 洋画家三尾公三は6月29日午前7時40分大腸がんのため京都府伏見区の国立京都病院で死去した。享年76。1923(大正12)年12月3日愛知県名古屋市中区板橋町1-29に生まれる。1942(昭和17)年南山中学校を経て京都市立絵画専門学校日本画予科(現 京都市立芸術大学美術学部)に入学。山口華楊、宇田荻邨、中村大三郎、池田遥邨、上村松篁らに学ぶ。47年同校を卒業し油彩画に転ず。51年鬼頭鍋三郎を知り、光風会、日展に出品する。52年第38回光風展に「珈琲店」を出品して京都新聞社賞受賞。53年第39回光風展に「埴輪」「牛骨と土器」を出品して光風賞を受賞し翌年同会会友、59年同会会員となる。64年に退会し、新たな表現を求めてセメントを素材とする制作を試みる。同年セメントを素材とする個展を京都府ギャラリーおよび画廊紅(京都)で開催。また、同年第6回現代日本美術展コンクール部門に画面を横長の大きな色面で大胆に構成した油彩画「象Ⅰ」で入選する。66年焼き付け写真やフィルムのような画面の質感に興味を抱き、エアーブラシによる着色技法を習得するため京都工業試験所夜間部に約1年通う。これによって、木製パネルなどの滑らか表面にアクリル絵具を吹き付け、絵画でありながら写真のような質感を持つ作品を制作するようになる。67年、画廊紅(京都)で開催した個展により評論家木村重信の評価を得、第11回安井賞候補新人展に推薦される。68年第3回ジャパンアートフェスティバルに「虚構の華」を出品して文部大臣賞を受賞する。69年第9回現代日本美術展に「FICTION SPACE—B」を出品。第10回サンパウロ・ビエンナーレ(コミッショナー・小倉忠夫)に「WALL OF FICTION」など4点を出品する。75年第3回インドトリエンナーレ(コミッショナー・富山秀男)に「ON THE BEACH」ほかを出品してゴールドメダルを受賞する。79年第2回東郷青児美術館大賞受賞。81年創刊の写真週刊誌「FOCUS」(新潮社刊)の表紙絵を第1号から手がけ、女性の顔や身体の画像を傾斜させた上、遠近法に基づいて描きいれた幻想的作品で知られるようになる。この頃から大規模な個展が開催されるようになり、84年「幻想空間を描く—三尾公三展」を東京新宿の小田急百貨店、大阪梅田の大丸百貨店で開催。1989(平成1)年には東京日本橋高島屋で「夢幻の風景を描く-三尾公三展」、90年には京都市美術館で「京都の美術 昨日・きょう・明日-三尾公三・坪井明日香展」、93年には国立国際美術館で「女のいる幻想空間-三尾公三展」が開催された。こうした画業により、91年第32回毎日芸術賞、97年第47回芸術選奨文部大臣賞、98年京都府文化賞特別功労賞を受賞する。没後の2001年「美のフォーカス 三尾公三展」が京都市美術館で開催された。画集に『三尾公三画集』(講談社 81年)、『裸婦・三尾公三』(学研 84年)などがある。また、71年より母校の京都市立芸術大学助教授となり、75年同教授となった。83年に同校教授を退いた後も、死去するまで同校客員教授をつとめた。

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