本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





赤穴宏

没年月日:2009/06/03

 千葉大学名誉教授で洋画家の赤穴宏は6月3日、急性心不全のため死去した。享年87。1922(大正11)年3月26日、現在の北海道根室市琴平町に父前田脩、母トミの次男として生まれる。1928(昭和3)年、海軍将校であった赤穴家の養子として入籍。養父赤穴敬一は、海軍の将校であったことから、その後の幼少期には養父の転勤にともない広島県呉市、青森県下北郡大湊町、長崎県佐世保市等に転居。41年3月芝中学校(東京都港区)を卒業、同年4月、東京高等工芸学校工芸図案科に入学。43年同学校を卒業、日本鋼管に入社。翌年6月、教育応召、東部第6部隊(近衛歩兵第8連隊、東京六本木)に入隊。45年8月終戦とともに除隊、日本鋼管に復職。46年1月、古茂田守介(1918―1960)の紹介により、終戦後に設けられた田園調布純粋美術研究室に入り、設立者である猪熊弦一郎の指導を受けた。同年11月、日本鋼管を退職し、東京工業専門学校助手となる。(同学校は、44年東京高等工芸学校が改称、改組されたものである。)48年5月第2回美術団体連合展に「久里浜附近」が入選。また47年9月、第11回新制作派協会展に「三人の女」が初入選。以後同協会展では、49年、50年に新作家賞、55年には新制作協会賞を受賞し、56年に同協会会員に推挙され、2008(平成20)年の72回展まで、毎回出品を続けた。その間、49年に東京工業専門学校が、同学校を母体に千葉大学工芸学部に包括されたため、50年に赤穴は、同学部助教授となった。さらに51年4月に同大学工芸学部は工学部に改組され、同学部専任講師となり、54年に助教授となった。また50年8月、画家塩谷佳子と結婚。赤穴が、画家を志したのは戦後のことである。古茂田守介と出会い、猪熊弦一郎の指導を受けてからのことだろう。とはいえ、工芸図案科で学んでいたため、絵画に対する基礎を体得しており、だからこそ一年後には、公募の展覧会に入選するまでの作品を描くことができた。戦後の荒廃した東京の風景を描いた作品は、焼け残った建物に向けられ、誠実な表現と哀しい情感がただよい、すでにたびたび指摘されていることだが、戦中期の松本竣介の作品に通じる眼差しが感じられる。しかし、新制作派協会展(51年、新制作協会に改称)を中心に創作活動をはじめた赤穴にとって、転機は戦後美術の新しい動向に向きあうことでおとずれている。50年代になると具象から抽象表現と変化している。さらに60年代にはいると、アンフォルメル、アメリカの抽象表現主義の紹介によって、さらに自己の内面と社会とに向き合い、心象風景ともとれる情念的な抽象作品を描くようになった。65年に開催された「戦中世代の画家」展(国立近代美術館)の出品作家のひとりに選ばれていることからも、この時代、つまり戦後美術を担う中堅作家という評価を得るようになっていた。60年代後半には、脈絡無く異なったイメージを描いた複数の絵画をひとつに構成した「組絵画」を試みた。この実験的な制作のなかで、具象的なイメージが復活し、70年代以降には、東京の都市風景と卓上静物を描くようになった。70年、千葉大学工学部教授となった。82年3月、同大学を定年退官、同大学名誉教授となり、同年4月から武蔵野美術大学教授に就任。91年11月、「赤穴宏教授作品展」を武蔵野大学美術資料図書館で開催、初期の作品から近作まで48点を出品。2002年9月には、「《画業55年》―魂へのまなざし 赤穴宏展」を北海道立釧路芸術館で開催し、68点を出品。晩年の静物画は、卓上におかれた壺の静謐な写実性に対して、背景はかつての自作の抽象絵画をおもわせるイメージが描かれ、あたかも画家自身の過去と現在が融合した構成となっていた。長い画歴のなか、具象から抽象へ、さらに抽象から具象へと、その表現を変転させてきたが、一貫してあるのは画家自身の資質であったロマンチシズムであったといえる。

森田茂

没年月日:2009/03/02

 洋画家の森田茂は2日午後9時20分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年101。1907(明治40)年3月30日、茨城県真壁郡下館町に生まれる。1913(大正2)年、下館男子尋常高等小学校(現、下館市立下館小学校)に入学。その後、父の転任により、東京と下館の間で転居を繰り返すが、17年に両親とともに大阪市に転居し、第一西野田尋常小学校に転校。19年、同校を卒業して大阪府立今宮中学校に入学する。20年、栃木県立宇都宮中学校に転校し、24年に同校を卒業。同年、茨城県師範学校本科に入学。この頃から油彩画を描き始める。25年、同校を卒業して真壁郡大田尋常高等小学校の教員となる。26年、第3回白牙会展に「静物」で初入選。また、同年第7回帝展で同郷の熊岡美彦らの作品を見て感銘を受け、熊岡を訪ねて上京を勧められる。28年、大田尋常高等小学校を退職して上京し、東京市深川区臨海尋常小学校図画専科の教員となる。30年第7回槐樹社展に「静物」で初入選。翌年の第8回同展に「少年」で入選する。31年、熊岡美彦が設立した熊岡洋画研究所の夜間部に入所。33年、熊岡らによって前年に創立された東光会の第1回展に「白衣」で入選。34年第2回同展に「少女像」と道化師の舞台稽古を描いた「稽古」が入選。「稽古」でK氏奨励賞を受賞する。同年第15回帝展に旅芸人の姿を描いた「神楽獅子の親子」で初入選。35年から東光会無鑑査となる。36年文展鑑査展に飛騨の神事のひとつを描いた「飛騨広瀬の金蔵獅子」で入選。37年第5回東光会展に「組閣前夜(政人)」「組閣前夜(入京)」「組閣前夜(記者)」を出品して同会会友に推される。38年、第6回東光会展に「膺懲の夏」を出品し、同会会員に推される。第2回文展に「金蔵獅子」が入選し、特選となる。40年、人形を描き始め「森田茂画伯文楽人形・飛騨祭油絵展」(名古屋・丸善画廊)、「森田茂画伯洋画展」(高山市公会堂)を開催。同年の紀元二千六百年奉祝展には「人形をつくる男」で入選する。戦後の46年第2回日本美術展に「阿波人形」で入選し、以後、日展に出品を続ける。また、47年に再興した東光会展にも毎年出品する。49年、日展依嘱となる。58年、社団法人となった日展の会員となり、62年、日展評議員となる。同年、エジプト、フランス、イタリア、スペイン等を訪れ、エジプトの自然や文化に興味を抱く。63年第29回東光会展に「ロバに乗るエヂプト人」、同年第6回社団法人日展に「ラクダと人」を出品。65年には東南アジアを旅行し第31回東光会展に「バンコックの朝の礼拝」「バンコックの寺院と僧」、同年第8回社団法人日展に「バンコックの僧達」を出品する。66年、山形県羽黒山で初めて黒川能を観て農民の祭と一体化した素朴さと土着性に感銘を受け、同年の第9回日展に「黒川能」を出品して文部大臣賞を受賞。翌年には自ら能を習い始める。69年第1回改組日展に「黒川能」を出品。70年に同作品で昭和44年度日本芸術院賞を受賞。76年、日本芸術院会員となる。77年、東光会理事長、82年、日展顧問となる。86年、高山市民文化会館で「森田茂展」、茨城県立美術博物館で「森田茂展―画業60年の歩み」が開催される。1993(平成5)年文化勲章受章。97年には「卒寿記念森田茂展」が下館市文化ギャラリー、横浜そごう美術館等で開催され、2003年にはしもだて美術館開館記念展として「森田茂展」が開催された。森田の画業は初期から慎ましい庶民の生活の情景に取材した制作が多く、神事や奉納舞への興味もそれに根ざしていた。黒川能を描いた作品は、次第に対象の視覚的描写に留まらず、幾度も絵具を塗り重ねてつくる重厚なマチエールと抽象化されたかたちによって、場のエネルギーといった不可視のものを描き出すようになっていった。年譜、出品歴、関連文献等は展覧会図録および『森田茂画集』(求龍堂、1988年)に詳しい。

淸原啓一

没年月日:2008/10/11

 日本芸術院会員で洋画家の淸原啓一は10月11日、肝細胞癌のため死去した。享年81。1927(昭和2)年6月27日、富山県砺波の農家に生まれる。45年に入学した富山師範学校で曾根末次郎に絵を学び、画家を志すようになる。学制改革のただ中にあった48年同校を卒業、曾根の計らいで新設間もない津沢中学校に勤め始める。当時同校が仮校舎としていた砺波高等女学校には同じく曾根に学んだ同郷の洋画家川辺外治がおり、そのアトリエでデッサンを学んだ。49年、第2回富山県観光美術展で棟方志功に推されてキレイ堂賞を受賞、以後上京までに度々棟方を訪ねる。50年に上京、明治大学政経学部3年に編入、卒業する52年に「椅子による女」で日展初入選を果たし、両親に反対されながらも東京に残り中学校教諭をしながら制作を続ける。この頃から、光風会等で活躍していた伊藤四郎の紹介で、“山羊の画家”とも呼ばれていた帝国芸術院会員の辻永に師事。その異名通り辻は身近にいた山羊をよく描いた画家であったが、淸原も自宅に鶏を飼いながらそれを画題とした。54年第10回日展で「鶏」が入選、以後鶏は生涯の画題となり“鶏の画家”として知られるようになる。力強く存在感のある黒のタッチがルオーを思わせるが、59年の第2回新日展で特賞となった「群鶏」では、マチエールを一変させ、全体に渋く抑えられた色調の中で、鶏冠の赤がアクセントとなり、またそのリズムが観る者の視線を誘い巧みに奥行きを出している。64年第50回記念光風会展で「鶏」が会員賞受賞。また井上和、梅津五郎、菅沼金六、高島常雄、寺島龍一、松木重雄ら日展洋画部会員とともに七人会展を開催、84年の第21回最終展まで出品する(後に浮田克躬、村田省蔵も参加)。さらに同年ヨーロッパ、エジプトなどを巡る約10ヶ月の旅に出る。68年、肝臓を患い約10ヶ月の療養生活を送る。69年第55回記念光風会展に「鶏」を出品、光風会審査員となる。73年光風会評議員。河口湖畔にアトリエを構えた74年、第60回記念光風会展に「小さな争い」を出品し第60回記念特別賞を受賞。ヨーロッパ旅行後いろどり鮮やかな色面構成を好んだ時期もあったが、この頃一旦落ち着きを見せる。また“鶏”や“群鶏”など限りなくシンプルであったタイトルが、この前年あたりから、鶏の動態や内面の動きを端的に説明するようになる。75年日展審査員推挙。78年、第64回光風会展にトリプティークを連想させる構図で描いた「鼎立」を出品し辻永記念賞を受賞。この翌年あたりから、赤や黄色などを大胆に塗り拡げた背景を好み、しばしば描くようになる。日展評議員となった86年の同展出品作「秋色遊鶏」は、琳派を思わせる装飾性と華やかな色使いが特徴で、その源流は75年頃に遡ってみとめられるが、ここにきて晩年の様式はほぼ定まったといえる。88年光風会理事。1991(平成3)年郷里の剱岳に泊まり込みで一週間の取材を敢行し連作に取り組む。94年日展内閣総理大臣賞、2002年光風会常務理事、日展理事。この年、前年の日展出品作「花園の遊鶏」で第58回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、同会員となる。本作品は印象派風の明るくやわらかな表現で溢れんばかりの生命力を詩情豊かに描いた、特に生彩を放つ代表作となる。03年日展常務理事。07年旭日中綬章受章。08年日展顧問。同年富山県立近代美術館で「淸原啓一回顧展 新花鳥画への道程」が開催される。この大回顧展のために、六曲一双の屏風仕立てで大作「紅葉遊鶏図」「新緑遊鶏図」を描き上げた。この年にはまた『淸原啓一画集』(求龍堂)が刊行される。主な個展としては他に、「清原啓一展―画業50年の歩み―」(富山県民会館美術館、1994年)、「清原啓一展―画業55年記念―」(高岡大和、1999年)、「清原啓一洋画展―日本芸術院会員就任記念―」(高岡大和、2004年)、「淸原啓一―遊鶏の賦―」(渋谷区立松涛美術館、2007年)などがある。

宮迫千鶴

没年月日:2008/06/19

 画家で評論家、エッセイストの宮迫千鶴は6月19日、腹部リンパ腫のため埼玉県川越市の病院で死去した。享年60。1947(昭和22)年10月16日広島県呉市に生まれる。カトリックの女子校で中等・高等教育を受けた後、70年広島県立女子大学文学部卒業。上京して出版社やファッション誌の会社などで働きながら、独学で絵画制作を開始する。山下清の貼り絵に出会ったことで、大学時代に受けたアカデミックな制作指導のトラウマから解放され、既成概念に囚われぬ独自の表現を育む。75年荻窪のシミズ画廊にて初個展。モチーフを機械に置き換え再構築したかのような構図で、多色使いながらも落ち着いた色調の作品が多い。この頃、生涯のパートナーとなる画家の谷川晃一と出会い、二人展やグループ展も開くようになる。文筆業では78年に初の美術エッセイ集『海・オブジェ・反機能』(深夜叢書社)を刊行。80年代からは美術や写真評論の他、当時盛んであった女性論、家族論などの執筆に追われ、『イエロー感覚』(冬樹社、1980年)、『女性原理と写真』(国文社、1984年)、『ハイブリッドな子供たち』(河出書房新社、1987年)、『ママハハ物語』(思潮社、1987年)、『サボテン家族論』(河出書房新社、1989年)、『母という経験』(平凡社、1991年)など著作多数。とりわけ多忙を極めたこの時期はコラージュによるポップで都会的な作品が目立つが、88年伊豆高原に転居した後は、その自然や暮らしを色彩豊かに描いた明るい作品が主となる。ライプチヒで開催される「世界でもっとも美しい本展」にて92年、画文集『緑の午後』(東京書籍、1991年)が銀賞受賞。93年より伊豆高原アートフェスティバルを企画・開催。店舗や宿泊施設のほか出品者の自宅や別荘を会場とし、地元住民を中心に参加者主体で運営する草の根型の芸術祭を提唱。自然の暮らしの中でアートを楽しむことを目指した、非営利の新しい芸術イベントとして評判となる(2007年の第15回まで毎年参加)。豊かな自然やその中での暮らしをテーマにしたものの他、この伊豆時代に関心を寄せたスピリチュアリティに関するエッセイも多い。主な著書に『美しい庭のように老いる』(筑摩書房、2001年)、『月光を浴びながら暮らすこと』(毎日新聞社、2002年)、『絵のある生活 コラージュ・ブック』(NHK出版、2002年)、詩画集『月夜のレストラン』(ネット武蔵野、2003年)、『田舎の猫とおいしい時間』(清流出版、2004年)、『はるかな碧い海』(春秋社、2004年)など。99年には『海と森の言葉』(岩波書店、1996年)のエッセイが一部、三省堂、明治書院の高校現代国語の教科書に採用されている。展示活動は初個展以来ほぼ毎年行われたが、主な展覧会には「●田島征三●谷川晃一●宮迫千鶴三人展」(練馬区立美術館、2005年)、「夏のアートフェスティバル2005 森のアトリエ 谷川晃一&宮迫千鶴展」(国際芸術センター青森、2005年)などがある。また没後の09年には遺稿集『楽園の歳月』(清流出版)が刊行された。

岡田節子

没年月日:2008/05/28

 洋画家で女子美術大学名誉教授の岡田節子は5月28日、敗血症のため死去した。享年90。1917(大正6)年8月31日、宮城県志田郡古川町(現、大崎市)に生まれる。内務省官吏(後に代議士)であった父の転勤について、子ども時代には札幌、金沢、東京、津、宮崎、京都、岐阜など転校を重ねる。1934(昭和9)年東京府立第五高等女学校4学年を修了・退学し、女子美術専門学校(現、女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。翌35年同校高等科西洋画部に転部。37年に卒業すると岡田三郎助が自宅で開いていた研究所に入るが39年に閉鎖、この年の4月朱葉会第21回展に出品して朱葉会賞を受賞。またこの頃就職も考え、主婦之友者編集記者に応募し採用までこぎつけながら家族に反対され断念したこともあった。42年、紹介された梅原龍三郎の助言で久保守に師事、その年の内に国画会第17回展で「ミモザ」が初入選、まもなく開所した国画会研究所に入る。47年女流画家協会の発足に創立会員として参加、第1回展に「兎」「森」「夕べ」を出品しT氏賞を受賞。48年南青山にアトリエを構え桜井悦との共同生活を開始。50年に東京YWCA教養部講師を務め、52年に女子美術大学助教授となる。この間、フランス留学を前提にアテネ・フランセで1年ほど学び、53年からは留学費用のために雪印乳業株式会社に広告原画を2年ほど提供。54年私費留学生試験に合格し桜井悦と翌年渡仏。ヨーロッパ各地に足を運びながらパリで制作を行うが、病を得た桜井に伴い一年半ほどで帰国、大学勤務に復帰する。渡仏前には、やさしいタッチと色調を活かした素朴な画風で子供や動物を描くことが多かったが、パリではその素朴さを残しながらやや水彩風のタッチで、街並みを主な画題とした。一方で、戦後華々しくデビューしたビュッフェやサロン・ド・メを中心とする青年画家たちが活躍していたパリの半具象にも魅了される。57年に銀座の求龍堂画廊にて開催された初の個展で滞欧作を発表、同年第11回女流画家協会展に半具象の影響色濃い「蝶」「巣」を出品、その内「蝶」が毎日新聞社賞受賞。一転してドライな筆致となった両作品では、樹木の幹と枝で大まかに区切った構図と、その一角に描き込まれた小さく儚げな生きものが好対照をなし、ともすれば無機質になりかねない画面の中に灯されたような生命力が見事にクローズアップされている。65年アメリカ、メキシコへの研修旅行中、ニューヨークで抽象絵画に衝撃を受ける。71年女子美術大学教授となる。歪ませた円形を組み合わせた画面構成などをしばらく試みていたが、抽象は自分には不向きと思い至り、72年再び具象に戻る決意をする。代表作「楽園」(78年)や、それに連なるものとして、80年代に資生堂ギャラリーで3度の展観がなされた“森シリーズ”が有名だが、“交響譜”“メルヘン”“鳥獣戯画”などのシリーズを次々と展開。「いずれも自然と人間を含めた生きもの達の交流がテーマ」で、モチーフは飽くまで現実世界に求めながら、「想像や空想をおりまぜた、独白に近い作品」との言葉にあるように、寓話やメルヘンの世界を表出した心象画が岡田のスタイルとなる。細やかなストロークによる塗り重ねが全体に朦朧とした均質感を醸すことで、それ自体具体性を極力排除されているモチーフ全てがそれを取り巻く空気と渾然一体となり、現実とは決して交わらぬ独立した幻想世界を築いている。また晩年にはエッチングやリトグラフなどの版画作品もしばしば制作した他、人物の顔面に注目し、アルチンボルドを彷彿とさせる動物パズル的な作品も試みている。83年女子美術大学を退職、同大学名誉教授の称号を受ける。1989(平成元)年、46年間ともに暮らし制作を続けてきた桜井悦が死去。93年『岡田節子画集』を美術出版社より刊行、出版記念自選展を東京セントラル美術館にて開催。2000年には美術出版社より『メルヘン鳥獣戯画』が出版された記念として日本橋高島屋画廊で個展が開催された。女流画家協会展への出品は、パリ留学中の第9回・第10回を除き亡くなる08年の第62回まで欠かすことがなかった。

古川吉重

没年月日:2008/04/10

 抽象画家の古川吉重は4月10日、入浴中に倒れ、死去した。享年86。1921(大正10)年12月19日、福岡県福岡市大工町87番地に生まれる。国文学者で書画をよくした佐賀藩士古川松根は曽祖父にあたる。1928(昭和3)年、福岡市簀子小学校に入学するが病弱のため同年退学し、29年に再入学して35年に卒業。同年、中学修猷館(現、修猷館高校)に入学する。同校在学中の36年より杉江春男に師事してデッサン、油彩画を学ぶ。39年中学4年を修了し、東京美術学校(現、東京芸術大学)油画科に入学。田辺至にデッサンを学び、夜は鈴木千久馬研究所に通う。40年東京美術学校の南薫造教室に入る。同教室の同期生に藤間清があり、後に先輩の野見山暁治が病気のため同期となる。43年9月、東京美術学校を繰上げ卒業。44年郷里に帰り当仁小学校教師となって図工を受け持つが、同年5月応召し海軍気象兵となる。45年終戦とともに復員し、当仁小学校に復職。翌46年香椎高等女学校に転任して美術を担当。同年新興美術展(日本橋三越)に入選。1947年第15回独立美術協会展に「風景(C)」「樹と建物」で初入選。以後、同展に出品を続ける。49年第17回独立展に「人物」「女」「裸婦」を出品し、独立美術賞受賞。55年サエグサ画廊で初個展を開催する。このころはキュビスムに学んだ画風を示した。56年福岡大丸デパートでの個展に25点を出品。57年第9回読売アンデパンダン展に「廻転」を出品し、以後同展に出品を続ける。一方、独立美術協会には不満を抱き、58年に同会を退会。同年、吉田穂高などによるグループ「野火」、および、岡本太郎、難波田龍起らによる総合的現代美術グループ「アートクラブ」に参加する。62年第5回現代日本美術展コンクール部門に「昼―5」で入選。63年第2回丸善石油奨励賞選抜展に入選。同年7月それまで勤務していた代々木小学校を退職し、同年9月にニューヨークで開催される世界美術家会議のオブザーバーとして渡米する。当初はヨーロッパへ向かう予定であったが、ニューヨークにとどまり、64年第15回ニューイングランド展に入選する。以後、68年まで同展に出品。73年9月、ニューヨークの新築ビルであるグレイスの社内食堂に壁画を描く。74年11月ソーホーのロータス画廊で個展を開催し、71年頃から始めたカンヴァスによるコラージュ作品等を発表する。76年13年ぶりに帰国し、フマ画廊で個展を開催。翌年、欧州巡遊の旅をし、ニューヨークに帰る。81年8月東京のギャラリー山口で個展を、1989(平成元)年1月、コンデッソ・ローラー画廊(ソーホー)で個展を開催。同展は15年ぶりのニューヨークでの個展となった。92年3月福岡市美術館で「古川吉重展」が開催され、6月には国立国際美術館で「近作展11 古川吉重」が開催された。初期には具象画を描いたが、1950年代に幾何学的抽象表現へ移行、1968年には画面に同じ大きさの小円を規則的に並列し、明度差のない色面で構成するミニマル・アート的な表現を行った。71年からはカンヴァス・コラージュを行い、徐々にゴムなどの素材と合わせて異なる材質感による構成を試みるが、78年から油彩による表現にもどり、モノクロームの幾何学的抽象から、80年代には色彩を取り入れた構成に向かった。

白髪一雄

没年月日:2008/04/08

 足で絵を描くフット・ペインティングと呼ばれる独自の技法を確立し、戦後美術を代表する一人として国際的に活躍した白髪一雄は4月8日午前7時25分、敗血症のため兵庫県尼崎市内の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年8月12日、兵庫県尼崎市の呉服商の長男として生まれる。幼少の頃から書画や骨董に親しみ、旧制中学時代に画家を志すようになる。東京美術学校(現、東京芸術大学)への進学を夢見るが、家業を継がせたい家族の猛反対と、太平洋戦争が勃発し食料や物資の不足が深刻になり始めていたこともあり、自宅から通学可能な京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)へ1942(昭和17)年に入学。当時同校には図案科と日本画科しかなく、入学したのは日本画科であった。しかし日本画へは興味を示さず、48年同校卒業後は洋画に転向、大阪に新設された市立美術研究所に通い、次に新制作派協会(51年に新制作協会に改称)の会員だった芦屋在住の洋画家、伊藤継郎のもとで更なる研鑽を重ねる。新制作派協会の関西展や東京本展で、童話的な主題による具象画を発表。その後、52年に大阪で発足した現代美術懇談会(ゲンビ)に参加するなど前衛美術に傾倒し、同年新制作協会の村上三郎、金山明、田中敦子らと「芸術はなにも無い0の地点から出発して創造すべきだ」として0会を結成。ペインティングナイフや指を多用した作品を経て、54年の0会の展覧会で、初めて足で制作した作品を発表する。55年、0会は芦屋在住の吉原治良が若い美術家たちと結成した前衛美術グループ、具体美術協会から合流の誘いを受け、参加。以後、同協会を活動の舞台とし、なかでも55年7月に芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」で赤い丸太に斧で切り込んだ「赤い丸太」を、同年10月に東京、小原会館で開催された第1回具体美術展では庭に置いた約1トンの泥の中で格闘する「泥にいどむ」を、そして57年5月と7月に大阪、産経会館と東京、産経ホールで開かれた「舞台を使用する具体美術」には「超現代三番叟」を発表、激しいアクションを物体に定着させた立体作品やパフォーマンスを試みた。その一方で足による制作も続けたが、57年フランス人美術評論家のミシェル・タピエが来日、タピエの提唱するアンフォルメルを体現する絵画として位置づけられ、国際的にも高く評価される契機となる。この時期、愛読していた『水滸伝』の豪傑のあだ名を作品に付した「水滸伝」シリーズを開始。59年イタリア、プレミオ・リソーネ国際展で買上げ賞を受賞。62年パリのスタドラー画廊、トリノのノティティエ画廊で個展を開いて以降フランス、イタリア、ドイツなど海外でも個展を開催。65年第8回日本国際美術展に「丹赤」を出品して優秀賞を受ける。「丹赤」では素足ではなくスキー板を履いて制作し、以後板や棒を用いて画面に襞や扇状の半円を作り出し、画面に流動感を与えるようになる。70年には比叡山に上って天台座主の山田恵諦大僧正に教えを請い、翌年得度し、「素道」の法名を授けられる。72年具体美術協会解散後も個展を中心に活動するが、密教との出会いを機に、その作風は宗教性を深めた。2001(平成13)年に兵庫県立近代美術館で回顧展を開催。没後の09年から10年にかけて「白髪一雄展―格闘から生まれた絵画」が、安曇野市豊科近代美術館・尼崎市総合文化センター・横須賀美術館・碧南市藤井達吉現代美術館を巡回して開催、画業の全貌が回顧された。

大津鎮雄

没年月日:2008/01/31

 日展参与の洋画家大津鎮雄は1月31日午前1時30分、大動脈弁狭窄症のため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年87。1920(大正9)年10月25日、東京市本郷区千駄木に生まれる。父が大阪商船に勤務し転勤が多かったため、幼少期は沖縄、神戸などに住み、1929(昭和4)年に吉祥寺に居を定める。この頃、父とともに東京府美術館で開催される美術団体展に赴き、洋画に興味を抱く。33年武蔵野町立第三尋常小学校を卒業し、日本美術学校(現、日本美術専門学校)初等科に入学、小島善太郎に師事して油彩画を描き始める。37年第1回一水会展に「遠望」で初入選。39年日本美術学校本科洋画科を卒業する。41年赤坂歩兵隊に入隊し、同年から43年まで一水会には従軍のため不出品。44、45年は戦争により一水会展が開催されなかった。46年3月中国から復員。同年より安井曽太郎に師事する。48年より東京日比谷のアニーパイル劇場で舞台美術のデザインを担当。49年第5回日展に「松と洋館」で初入選。以後、日展に出品を続ける。50年第12回一水会展に「夏の午後」「赤煉瓦」を出品し、一水会賞受賞。翌年、一水会会員となる。51年第7回日展に「寒木邸」を出品し日展岡田賞受賞。57年第19回一水会展に「欅」を出品し会員優賞受賞。61年から翌年まで約半年間渡欧し、以後、ヨーロッパ風景を主要なモティーフとするようになる。65年第8回社団法人日展に「裏庭」を出品して菊華賞受賞。68年日展会員および一水会委員となる。86年日展評議員となる。1991(平成3)年第23回日展に「山添いの家」を出品して文部大臣賞受賞。99年10月、「大津鎮雄油絵展 風景画の輝き―南仏の田園から」(武蔵野市文化会館アルテ展示室)が開催され、1950年代から近作までが展示される。2000年第15回小山敬三美術賞を受賞し、同年、これを記念して「小山敬三美術賞受賞記念大津鎮雄展」が日本橋高島屋で開催され、初期から近作まで約40点が展示される。01年日展参与となる。04年「画業70年記念大津鎮雄展―陽光まばゆい南フランスの自然を見つめて」(サトエ記念21世紀美術館)が開催され、没後の09年2月には同美術館で「大津鎮雄展―美しい風景を求めて・旅情を描いた画家の生涯」展が開催された。年譜は同展図録に詳しい。人物や静物を描くのに適性を持つと評した師安井曽太郎のことばに拘わらず、大津は初期から風景、しかも洋風の都市風景を好んで描き、61年のヨーロッパ旅行以後は、西欧風景を主要なモティーフとした。日展、一水会展に出品を続け、晩年は次第に西欧の地方都市を好んで描き、穏健な写実的画風を示した。

鶴岡義雄

没年月日:2007/10/27

 日本芸術院会員で洋画家の鶴岡義雄は10月27日、直腸がんのため東京都目黒区の病院で死去した。享年90。  1917(大正6)年4月13日、茨城県土浦市中城町に生まれる。父は義太夫の名手、母は三味線の師匠、芝居小屋や映画館を経営してきた芸能一家に育つ。旧制茨城県立土浦中学校(現、茨城県立土浦第一高等学校)在学時より絵画に興味を抱き、同校の先輩にあたる熊岡美彦の講習会に参加したおり勧められて画家を志すようになり、1937(昭和12)年日本美術学校(現、日本美術専門学校)に進学、林武に師事して洋画を学んだ。ここで織田広喜、鷹山宇一ら後の二科会幹部らとも知り合う。41年同校卒業、第28回二科展に「台湾蛮女」を出品し初入選を果たす。44年関東軍報道班としてハルピンに赴任、帰国後まもなく土浦で終戦を迎える。46年、服部正一郎を中心に二科会茨城支部を結成、創立会員として参加し、以後二科には毎回出品する。47年、第32回二科展に「化粧」ほか連作3点を出品し二科賞受賞。49年、服部正一郎らとともに創立会員として茨城洋画会を結成(54年の茨城美術家協会結成に伴い発展的解消)。同年二科会準会員。50年二科会員推挙。戦時中は風景・人物の写実描写が多かったが、50年代半ばからシュルレアリスムやキュビスム風の描写、ジオメトリックな構成絵画などに次々取り組む。初めてのスケッチ旅行で57年に北・中米、60年には西欧各国を訪れ、粗目のタッチではあるが細かに計算された構図・配色によるモダンな風景画を多数制作。66年、日本美術学校講師、69年サロン・ドートンヌ会員となる。70年、第55回二科展に「愛」「ムーラン・ルージュ」を出品して東郷青児賞受賞、翌71年二科会委員となる。73年、パリにアトリエを構えマドモアゼル・シリーズに取り組む。74年第59回二科展に「ソワル・ド・パリ」を出品し内閣総理大臣賞を受賞、この作品で同シリーズの耽美様式が確立され、この頃から舞妓も描くようになる。舞妓を描いた数ある作家の中でも鶴岡は、西洋的造形思考に立脚して描写を行ったところにその独自性がみとめられる。舞妓を描いた主な作品には、シュルレアリスム的手法による「舞う」「京の四季」、また遊びに興じる素顔の舞妓や出番待ちの場面を幻想的に描いた「歌留多」「合わせ鏡」などがある。80年二科会常務理事就任。81年インターナショナルアメリカ展グランプリ。86年『鶴岡義雄画集』(日動出版)が刊行される。第74回二科展に「舞妓と見習いさん」を出して翌1990(平成2)年日本芸術院賞を受賞。93年、日本美術学校名誉教授就任、勲四等旭日小綬章受章。94年日本芸術院会員。96年日本美術学校名誉校長に就任。2002年二科会理事長、06年同会名誉理事就任。90年代以降は日本の初期シュルレアリスムを想わせる作風が現れ、再び幾何学的、抽象的な作品が多くなる。主な個展に「鶴岡義雄展」(日動サロン、1971年)、「“京洛四季の舞妓”鶴岡義雄展」(日動画廊、1980年)、「画業60年鶴岡義雄の世界展」(茨城県つくば美術館、1996年)、「卆寿記念・鶴岡義雄展」(しもだて美術館、2007年)などがある。

前田常作

没年月日:2007/10/13

 曼荼羅を参考に、密教図像や抽象的形態を組み合わせた絵画を描いた前田常作は10月13日、小磯記念大賞展の審査のため大阪市内のホテルに滞在中、心臓発作のため死去した。享年81。1926(大正15)年7月14日、富山県新川郡椚山村に生まれ、病弱な幼年期を過ごす。1933(昭和8)年、椚山村立尋常小学校尋常科に入学し、39年に同校を卒業して、同小学校高等科に入学。41年、同科を卒業し、富山師範学校予科に入り、44年同科を修了して本科に入学する。同科では丸山豊一に美術を学ぶ。45年に応召して富山69歩兵連隊に入隊。同年8月の富山大空襲で市中の惨状を目の当たりにし、人間の生死について深く感ずるところがあった。47年、富山師範学校本科を卒業し、同年4月から富山県下新川郡の上青中学校で図工科を教える。48年、東京都台東区忍岡中学校に移り、この頃から鶴田吾郎洋画研究所と中央美術研究所に通う。同年8月、美術出版社主催の夏期洋画講習会に参加し、安井曽太郎の指導を受けて感銘を受ける。49年、本格的に画家を志して武蔵野美術学校西洋画科に入学し、デッサンを清水多嘉示、洋画を三雲祥之助に学ぶ。同年8月、鶴岡政男を知り、アトリエを訪れるようになった。同年9月、忍岡中学校を退職して画業に専念し、同年10月第13回自由美術家協会展に「水蓮」など2点が初入選する。52年、黒色会展に出品。53年、武蔵野美術学校西洋画科を卒業し、東京都北区滝野川第一中学校の図工専科教員となる。同年秋、美術、映画、写真等の実作者による「制作者懇談会」に入会し、同会で池田龍雄、河原温などと交遊。55年第8回日本アンデパンダン展に「狂った人」「偶像」「アリバイ」など6点を出品。同年6月、瀧口修造の推薦により最初の「前田常作個展」をタケミヤ画廊で開催する。同年10月第19回自由美術家協会展に「目撃者」など2点を出品し、会員に推挙される。57年、「今日の新人」展に「城」「夜」「前兆」を出品し、佳作賞を受賞。また、同年第一回アジア青年美術展に「殖」を出品して大賞および国際美術賞を受賞し、副賞としてパリ留学費用を得る。58年春にパリに渡り、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、スイス等を巡遊。59年に批評家ジェレンスキーにより≪夜のシリーズ≫などの作品を「マンダラ」と評され、自らを現代美術家と考えていたため虚を突かれるが、以後、曼荼羅を意識した制作を行うようになり、パリで注目される。62年長女の誕生をきっかけに≪人間誕生≫≪人間空間≫シリーズの制作を始める。63年、一時帰国し、東寺の両界曼荼羅に感銘を受ける。同年、自由美術家協会を退会し、山口勝弘らによる団体アート・クラブに参加。65年1月に再渡仏し、翌年3月に帰国するが、この間、仏教的思想の現代的意義について考えるところがあり、アジアの仏教国への関心が高まる。また、伝統的な曼荼羅の様式から離れ、今日的な展開を試みるようになる。70年、インド、ネパールを旅行し、人間の生死や輪廻について考えを深めた。この頃から≪青のシリーズ≫≪インド旅行シリーズ≫を始め、72年、東京セントラル美術館で「前田常作展」を開催して、初期から近作までを展示する。73年≪須弥山界道シリーズ≫、74年≪須弥山マンダラ図シリーズ≫の制作を開始。77年、日本美術家連盟の派遣により1月にネパール、インド、スリランカを、9月に中国を訪れ、帰国後、≪観想マンダラ図シリーズ≫の制作を始める。79年、77年の訪中の成果の発表と長年のマンダラ研究が評価され第11回日本芸術大賞を受賞。また、同年より西国巡礼を始め、リトグラフによる≪西国巡礼シリーズ≫を開始する。1989(平成元)年富山県立近代美術館で「前田常作展」が開催され、初期から近作までを展示。93年、「天曜≪瞑想マンダラ図シリーズ≫」により第16回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。初期の抽象表現を志向する時代から、特定の幾何学的パターンの繰り返しを行い、東洋の曼荼羅を意識して以後はかたちに思想的背景が盛り込まれるようになった。曼荼羅研究が進む中で、伝統的曼荼羅の様式から離れ、宇宙や悠久のイメージが絵画化されるようになっている。美術教育にも尽力し、1970年に東京造形大学美術科助教授、72年から73年まで同教授として教鞭をとったほか、79年7月より83年3月まで京都市立芸術大学美術学部教授、83年4月からは武蔵野美術大学教授となり94年からは同学長を務めた。著書に『曼荼羅への旅立ち』(河出書房新社、1978年)、『マンダラの旅―前田常作対話集』(法蔵選書、1982年)、『私とマンダラ』(精神開発叢書、1983年)、『世紀末の黙示録』(酒井忠康と共著、毎日新聞社、1987年)、『心のデッサン』(佼成出版社、1989年)、『前田常作のアクリル画』(河出書房新社、1995年)、『前田常作版画作品集』(佼成出版社、1989年)、『前田常作 観音マンダラ―南養寺大悲殿天井画』(里文出版、2005年)などがある。

深見隆

没年月日:2007/07/29

 洋画家の深見隆は7月29日、心筋梗塞のため神奈川県川崎市の病院で死去した。享年80。1926(大正15)年10月22日、長崎県壱岐郡に生まれる。1952(昭和27)年、第7回行動美術協会展(以後、行動展と記す)に、半抽象的な表現による「造船所」が初入選。以後、同展に出品を続ける。54年2月、第1回四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を養清堂画廊で開催。55年1月、行動四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を上記画廊にて開催、同年、10回行動展に「人間の風景(A)」、「人間の風景(C)」を出品、これにより行動美術新人賞を受賞、会友に推挙される。56年1月、第7回朝日新聞社選抜秀作美術展(会場、日本橋三越)に出品、同年2月、朝比奈隆と前川桂子とともに3人展を村松画廊で開催。また同年の第11回行動展に「孤独の部屋」外2点を出品、これにより行動美術賞を受賞。57年2月、田中稔之、朝比奈隆、前川桂子とともに村松画廊にて4人展を開催。59年、行動美術協会の会員となる。60年、「風化」により第4回安井記念賞を受賞。同作品(東京国立近代美術館蔵)は、多層的でニュアンスに富んだマチエールにおおわれた画面の中央に鋭い亀裂が走り、同時代の心象風景を思わせる表現であった。受賞の際に語られた作者自身の言葉の一節をつぎに引用しておきたい。「私は、長崎の壱岐の小島に生れましたので、子供の頃、海というものが、私達の生活とは切り離せない、むしろ、生活の殆どといってもいい程の親しみをもっていました。荒浪にたたかれ、蝕まれた海岸で、貝を拾ったり、白砂の上に打ち上げられた、魚介の残骸を無心に眺めたりした頃の事を、今も忘れることが出来ません。制作の途中で、ふっと、思い浮かべ、何かしら和やかな郷愁を憶えます。此の度の『風化』も、これと共通な、風雨にさらされ、傷めつけられながらも、いかにも忍耐強く、しかし決して烈しくなく、力まず、てらわず、それでいて厳しさを秘めた、壁や、岩石の中に、豊かな、つきることのない、詩情を感じたので、私には到底充分表現するだけの力はありませんが、いくらかでも自然の秘密に近づければ、と思って描きました。」(「受賞にあたり」、『現代の眼』74号、1961年1月)ここで語られた自然に対する取り組みは、その後も変ることがなかったが、70年代から画面に円環が象徴的に描かれるようになった。そうした作品のシリーズである「条紋」について、当時作者は、「きびしい自然環境に長い間ひっそりと耐えている姿に、限りない豊かな詩情を感じます。只製作する場合、情感におぼれると構成の厳しさが失われがちになるので、自分の中で再構築して描くように心掛けてはいますが。情感と構成がお互いに密度を深め、響き合う作品をと願っているのです」(「コメント「条紋(A)<私の制作意図>」『美術グラフ』(27巻9号、1978年10月)と語っている。この円環のモチーフは、以後一貫して画面上で追求され、「石紋」のシリーズに展開していった。82年11月、ギャラリー・ジェイコで「深見隆自選展」を開催。2007(平成19)年9月、第62回行動展への「石紋(環)」が最後の出品となり、没後の翌年9月の第63回展には、遺作として「石紋」が出品された。

桜井浜江

没年月日:2007/02/12

 洋画家の桜井浜江は、2月12日午前2時50分、急性心不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月15日、山形県山形市宮町に生まれる。桜井家は周辺有数の素封家で15代続く地主。山形県立山形高等女学校(現、山形県立山形西高等学校)在学中、松本巍七郎による図画の授業で絵画に興味を持つ。1924(大正13)年に同校を卒業、26年父省三の決めた縁談を拒否して上京。女子美術学校へ入学手続きを行うが両親の承認を得られず断念。展覧会や上野図書館に通いながら、川端画学校洋画部や岡田三郎助の研究所に出入りするが雰囲気が合わず、1928(昭和3)年代々木山谷に開設された1930年協会洋画研究所に入り、里見勝蔵らの指導を受けた。30年里見らが独立美術協会を結成すると、翌年行われた第1回展に参加、入選を果たす。独立展へ出品を続ける一方、同会に属する女性画家11人らとともに34年女艸会を結成、38年の第6回展まで続けられた。この間、32年に帝大英文科出身の秋沢三郎と結婚、その文学仲間である井伏鱒二や太宰治、檀一雄などの来訪で住まいは多くの文士が集う場となっていた。39年に離婚した後も再会した太宰が仲間を連れて度々訪れ、彼女をモデルに「饗応夫人」を書いている。46年、女艸会創立会員である三岸節子らとともに日本橋の北荘画廊で現代女流画家展を開催、この時の出品者らを発起人として翌47年女流画家協会を結成。49年、北荘画廊にて初の個展を開催。戦前戦中に描いた初期作品にはフォーヴ的なものや、それとシャガール的幻想性が融合された「途上」などの他、「二人」「雪国の少年達」のようにクールでモダンなものと変遷をみせる。46年頃から描かれた「壺」の連作は作為性を殆ど留めず、ナイフのタッチが際立った作風で、荒々しいまでの桜井的厚塗り手法はここでほぼ完成される。やがて「花」、ルオーを思わせる「人物」などのシリーズを手がけ、この時期の作品の中では「象」と「花」が47年の第2回新興日本美術展に出品され読売賞を、「臥像」は51年の第19回独立展(創立20周年記念展)でプール・ブー(奨励賞)を受け準会員となった記念すべき作品である。54年独立美術協会会員となる。戦後日本の洋画界に押寄せた抽象絵画流行の波に些かも流されず、連作「樹」に取り組み始める。大胆に切り取られた構図、その大画面には幹がダイナミックに描かれ、情熱を塗り込めたような赤の色調とともにみるものを圧倒する生命力を放つ。66年第20回女流画家協会展で花椿賞受賞。60年代半ばに差し掛かる頃から山形県鶴岡市の三瀬海岸や、千葉県銚子市にある犬吠崎や屏風岩を取材した連作が開始され、色使いは多彩となりより明るい画面となる。78年頃から大樹をテーマとした100号2枚組の大作を数点制作。晩年まで大画面の作品に取り組み続けるが、90年代から再び、色・構図ともにシンプルな傾向となり、特に赤を好むようになる。やはり山や海などの自然に対する畏敬のまなざしが強く感じられる作品が中心となるが、代表作である1999(平成11)年の「雨あがる、ぶどう棚」は色彩豊かで、それまでになくドライで細やかなストロークとなっている。2002年に体調を崩し入院、それまで制作していた「富嶽」が未完のまま絶筆となった。作品集に『桜井浜江画集』(芸林社、1990年)がある。主な回顧展に「桜井浜江画業展」(1979年、山形美術館)、「桜井浜江―画業65年の軌跡」(1995年、青梅市立美術館)。没後の2008年には「生誕100年記念 桜井浜江展」が山形美術館と一宮市三岸節子記念美術館で開催された。

鳥居敏文

没年月日:2006/08/15

 独立美術協会会員の洋画家鳥居敏文は8月15日午後2時10分、多臓器不全のため東京の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月26日、新潟県村上市に生まれる。旧制村上中学校に学び、後に新制作協会で活躍する竹谷富士雄と親交が深く、ふたりとも美術部に在籍。中学校在学中に、同郷の矢部友衛に啓発されてマルクスを学ぶ必要を感じ、東京外国語学校(現、東京外語大学)独語科に入学。1931(昭和6)年に同校を卒業する。プロレタリア美術家同盟に参加し、太平洋美術研究所に学び画家を目指していた竹谷に誘われて、32年、シベリア鉄道でドイツに渡り、のちソヴィエト、ギリシャ、スペイン、イギリス、オランダを旅行する。33年、パリに定住し、アカデミー・グランショーミエールでデッサンを学び、シャルル・ブランに師事。また、パリ滞在中の画家林武のアトリエに通ってその制作に学ぶ。35年に帰国し、37年第7回独立展に「ロバに乗る少年」を出品。以後、一貫して独立展に出品する。39年第9回同展に「山の仲間」「子供たち」を出品して独立美術協会賞を受賞。40年第10回同展に「森の家族」「休息」を出品し、独立美術協会会友に推される。42年中国東北部(当時の満州)に写生旅行。43年第13回独立展に「家族の旅」「路傍」を出品して岡田賞受賞。同年国民総力決戦美術展に「鉱山に働く」を出品して朝日新聞社賞を受賞。同年の文展に「鉱山の娘達」を無鑑査出品する。44年文部省戦時特別美術展に「必中」を出品。46年独立美術協会会員となる。同年、日本美術会結成に参加。47年、日本アンデパンダン展を開催。また、美術団体連合展に出品する。52年美術家懇話会結成に参加し平和美術展を開催する。53年、美術懇話会は美術家平和会議と改称する。60年、米国サクラメント市クロッカー美術館で開催された「独立6人展」に出品。63年第31回独立展に「草の上」「野外静物」を出品して独立G賞を受賞。64年、林武門下生によるグループ「欅会」を結成し、79年まで毎年展覧会を開催する。67年、具象画家による「新具象研究会」を結成し、73年まで季刊誌「画家」を刊行する。70年、73年に南欧旅行。79年日本美術家連盟代表として韓国美術家協会を親善訪問。80年郡山市東苑現代美術館で自選展を開催。81年ソ連文化省招待によるソヴィエト写生旅行に参加する。82年独立美術協会会員10人による「叢人会」を結成する。83年、パリに旅行。87年新潟市美術館で「鳥居敏文展」が開催される。1989(平成元)年東京セントラル美術館で「鳥居敏文自選展」を開催。同年および90年にパリ旅行。91年『鳥居敏文画集』を刊行。96年居住する練馬区の区立美術館で「ねりまの美術 楢原健三、鳥居敏文」展が開催された。1930年代に池袋周辺につくられた芸術家村、いわゆる池袋モンパルナスの一員であり、36年11月15日から30日まで池袋にあった香蘭荘、コティ、紫薫荘、セルパンで開催された池袋美術家倶楽部第1回展覧会に小熊秀雄、寺田政明、桑原実、佐藤英男らとともに出品している。原色を多用する初期の独立展の作風の中で、穏やかな色調で労働者や市井の人々を描いて注目された。生涯、具象画に徹し、戦後は着衣の若者群像を室内や風景の中に配して、平和や自由への希求を表現した。ピカソの「ゲルニカ」、ドラクロアの「民衆をひきいる自由の女神」など著名な作品を画中に取り入れる手法でも知られる。9月17日午後3時から東京都千代田区飯田橋のホテルグランドパレスで「偲ぶ会」が開かれた。

田中稔之

没年月日:2006/08/07

 行動美術協会会員の画家、田中稔之は8月7日午後1時14分がんのために死去した。享年78。1928(昭和3)年4月13日、山口県防府市牟礼岸津に生まれる。35年防府市牟礼尋常小学校に入学し、一水会の画家津田正毅(三木)に担任され、絵に興味を持ち始める。41年、同校を卒業し、山口県立防府中学校に入学。43年、山口県光海軍工砲工部機具工場に学徒動員。46年に中学に復帰し、同年卒業して山口青年師範学校農学部に入学。この頃から画家を志す。49年師範学校を卒業し、同年、徳山第二中学校(現、湖南中学)教諭となり、2年間、理科、図工、職業(農業)を教える。同年、徳山市美術展で特選を受けたことを契機として、安野光雅との交遊が始まる。通信教育などをもとに独学で絵を学び、日展に出品するが落選。50年夏、上京して東京美術研究所でデッサンを学ぶ。同年、東京芸術大学を受験するが不合格となり、日本大学芸術学部3年生編入に合格するが、支援の望みがなく断念。51年に再度上京し、大田区赤松小学校図工専科教諭となる。また、向井潤吉に師事し、行動美術研究所でデッサンを学ぶ。52年第38回光風会展に「水」で入選。52年第7回行動展に「内海の小港」で初入選。以後、同展に出品を続ける。53年、読売アンデパンダン展に出品。54年、第9回行動展に「或る日の波止場」を出品して奨励賞受賞、55年同会会友となる。57年、新宿風月堂で「井上武吉・田中稔之―絵画と彫刻展」を開催。58年第13回行動展に「動」「落石」を出品し、行動美術賞を受賞。翌年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展に「作品A」「作品B」を出品。61年、大田区赤松小学校を退職し、画業に専念。62年、第5回現代日本美術展に「赤の地平A」を出品。同年、渡欧のため下関大丸、宇部市役所、防府丸久などで展覧会を開き、資金を得て、63年に渡欧。パリを拠点にイギリス、ノルウェー、オランダなどを巡遊する。同年、ウィリアム・ヘイター教室で版画、絵画を学ぶ。64年、当時パリで活躍中であった菅井汲のアシスタントとなりアトリエに通う。また、同年スペイン、イタリア、スイスに旅行。65年5月に帰国。アンフォルメルの抽象表現主義的作風から幾何学的抽象へと作風が変化し始める。73年ころから、後年田中の主要モチーフとなる円が画面に登場するようになる。75年、多摩美術大学非常勤講師となる。また同年坂崎乙郎の企画により、新宿紀伊国屋画廊で坂本善三、白野文敏と三人展を開催。これを契機として坂本善三との交遊が始まる。77年、モンゴル、シベリアに旅行し、大地と空のみの壮大な自然に触れ、地平に沈む太陽に感銘を受ける。79年、西チベット、ラダックへ旅行、80年新疆ウイグル自治区を訪れ、大地と空のみの空間体験を重ねる。これらの体験により、画面を構成する幾何学的円が具象性を持つものとなる。85年多摩美術大学教授となる。86年、「円の光景‘85―31(天円地方)」により第9回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。87年第3回東郷青児美術館大賞作家展に大賞受賞作他15点を出品。また、同年、神奈川県民ホールギャラリーで個展を開く。1989(平成元)年、山口県芸術文化功労賞受賞。97年、パリでSAGA展を開催する。99年多摩美術大学退職記念展を同大附属美術館で開催。2001年坂本善三美術館で個展「田中稔之―響きあう世界 大地・海・天空」を開催し、初期から新作まで67点を展示した。最初期には具象的風景画を描いたが、まもなく色彩と有機的なかたちで画面を構成する抽象画へと移行し、70年代後期から円を主なモチーフとした明快な色面による幾何学的抽象絵画を描いた。画集に『Red Horizon』(石版画集)(MMG、1976年)、『田中稔之』(東美デザイン、1981年)、『朱の舞』(版画集)(スズカワ画廊、1990年)がある。また、下関市民会館壁画「海峡の陽」(1980年)、防府市議会ロビーモザイク「瀬戸内の陽」(1982年)、徳島市総合スポーツセンター壁画「静と動」(1992年)など公共建築のための壁画も多く制作している。幼い頃から海に親しみ、釣りを趣味とし、2003年、海との関わりをテーマに写真と絵画を組み合わせたコラージュとエッセイで構成した『海との青い交信』を刊行した。

芝田米三

没年月日:2006/05/15

 日本芸術院会員の洋画家芝田米三は5月15日午前4時14分、胃がんのため京都市左京区松ヶ崎西山の自宅で死去した。享年79。1926(大正15)年9月12日、京都市中京区に生まれる。1945(昭和20)年に独立美術京都研究所に入り、須田国太郎に師事。47年第15回独立展に「紫野」で初入選。50年第18回同展に「兄の像」「木の間風景」を出品して独立賞を受賞。同年サロン・ド・プランタン賞を受賞する。53年、独立美術協会準会員となる。57年、同展出品作「丘の樹」が第一回安井賞展に入選。この時期までは風景画が主であったが、58年第26回同展に動物を主要なモチーフとする「老いた山羊」「山羊」「雑草」を出品し、独立美術協会会員に推挙される。63年第31回独立展出品作「樹下群馬」を第7回安井賞候補展に出品し安井賞受賞。65年ヨーロッパに旅行し、以後しばしば欧州、米国、中南米、東欧を旅する。66年第34回独立展に「ナザレの語り」を出品し、G賞受賞。同年から日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象派美術展、国際形象展などに出品する。70年代に入ると人物を主要なモチーフとするようになり、次第に人物によって収穫など人間を含む動植物の生命を象徴する作品へと移行する。73年ユーゴスラヴィア、79年ソヴィエトに旅行。同年、グループ展である十果会展が開催され、以後、同展に出品を続ける。80年『芝田米三画集』(求龍堂)を刊行。81年パリのベルネーム・ジュンヌ画廊およびバルセロナのゴスランド・ギャラリーで個展を開催する。83年「世界の民族に捧げる讃歌 芝田米三展」を大阪梅田大丸ミュージアムで開催。84年「昭和世代を代表する作家シリーズ・1 生命讃歌 芝田米三展」を東京の伊勢丹美術館ほかで開催する。86年京都府主催により京都府立文化芸術会館で芝田米三展を開催、1989(平成元)年に京都府文化功労賞を受賞する。92年にバルセロナのサグラダ・ファミリア教会を背景にアントニオ・ガウディの肖像を描いた「或る建築家未完の譜」を制作して以降、音楽家や哲学者などの肖像にそれらの人物とゆかりの深い場所の風景を組み合わせる作品を多く描く。93年、独立美術協会会員功労賞を受賞。94年、前年の第61回独立展に出品した「楽聖賛歌」によって第50回日本芸術院賞を受賞し、同年日本芸術院会員となる。97年「不滅の楽譜を讃える―芝田米三展」を京都、東京、大阪、横浜、岐阜の高島屋および名古屋丸栄で開催。98年いよてつそごうで「生命うるわし<楽聖・収穫シリーズ>芝田米三展」を開催する。2002年、東京、京都ほかの高島屋で「永遠なる音の翼―芝田米三展」を開催。05年には「地球讃歌―芝田米三展」を日本橋、仙台、名古屋ほかの三越で開催した。06年秋の独立展から芝田米三賞が設けられた。

大野五郎

没年月日:2006/03/07

 洋画家の大野五郎は3月7日、慢性心不全のため東京都あきる野市内の病院で死去した。享年96。1910(明治43)年2月13日、父大野東一、母幹の五男として東京府下北豊郡岩淵町(現在の東京都北区)に生まれる。父東一は、当時の栃木県都賀郡谷中村の村長を務めていたが、08年に足尾銅山鉱毒事件のために離村していた。青年期に及んで実兄で詩人であった四郎の影響もあって絵画に関心をもち、26年、斉藤與里の紹介で藤島武二が指導する川端画学校に入学する。1928(昭和3)年、第3回一九三〇年協会展に「姉弟三人」など3点が初入選、第5回展まで出品した。この頃長谷川利行、靉光、井上長三郎を知る。29年、同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホ、フォーヴィスムの影響を深く受けることになり、原色と太い筆致を特徴とする画風の基礎を形成することとなった。また、ここで田中佐一郎、中間冊夫、森芳雄、伊藤久三郎と知りあうことになる。30年に第17回二科展に「風景」「少女」が入選。31年、第1回独立美術協会展に「横向いた肖像」「Nの肖像」が入選、O氏賞を受賞した。この頃、兄四郎がバー「ユレカ」を開店、店を手伝うようになり、ここにあつまる小熊秀雄などの詩人たちとの交友がはじまる。42年横瀬喜久枝と結婚、44年には長男俊介が誕生した。その間の43年に井上長三郎、寺田政明、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、松本竣介、麻生三郎と新人画会を結成し、展覧会を翌年の第3回展まで開催した。46年に再興した独立美術協会の準会員に迎えられるが、翌年同会を脱退して自由美術家協会に参加。64年には、同協会を離れ、寺田政明、森芳雄、吉井忠とともに主体美術協会を結成した。以後、2005(平成17)年まで毎年出品をつづけ、同協会の結成会員として象徴的な存在となった。また昭和期の史的回顧展に出品されることが多く、88年に練馬区立美術館、広島県立美術館を巡回した「靉光展 青春の光と闇」、91年に板橋区立美術館にて開催された「昭和の前衛展 表現の冒険者たち」、同年に神奈川県立近代美術館にて開催された「松本竣介と30人の画家たち展」、08年に板橋区立美術館で開催された「新人画会展 戦時下の画家たち」等に戦前期の作品が出品された。その没後の同年4月に、「大野五郎―画業八〇年の軌跡」が、八王子市夢美術館にて開催され、初期作から05年までの作品67点が出品された。その画風は、自ら語るように酒を愛し、豪放磊落の性格を表したように、赤い輪郭線を特徴とするフォーヴィスムの流れを汲んだものであった。

脇田和

没年月日:2005/11/27

 新制作派協会創立会員の洋画家脇田和は11月27日午前8時35分、心筋梗塞のため東京都中央区の病院で死去した。享年97。1908(明治41)年6月7日、東京氏赤坂区青山高樹町17番地に生まれる。父勇は貿易商社脇田商行を経営し欧州、東南アジアからの輸出入を行っていた。1921(大正10)年青南尋常小学校を卒業して青山学院中等部に入学。同院では当時、白馬会の画家小代為重が図画教師をしており、小代から油彩、木炭デッサンの指導を受ける。23年7月、姉夫妻が三菱商事ベルリン駐在となるのに伴い、青山学院を中退して同行して渡欧。24年ドイツ帝室技芸員のマックス・ラーベスに師事し、その紹介でミューラー・シェーンフェルト画塾に通う。25年ベルリン国立美術学校に入学しエーリッヒ・ウォルスフェルト(1884-1956)の教室に入る。1926(昭和元)年夏、南ドイツを旅行し、ホドラー、デューラー、ゴッホなどの作品に感動する。27年6月夏休みに一時帰国し翌年2月まで滞在。この間、写真に興味を持つ。28年春に帰国し、4月からカール・ミヒェルの教室でリトグラフ、エッチング、アクアチントを、オスカール・バンゲマンの教室で木口木版を学ぶ。同校で銅メダルを受賞し、学校内に単独のアトリエを与えられる。30年、ベルリンの自由美術展(フラウエ・クンストシャウ)にデッサンを出品。同年9月、美術学校より金メダルを授与され同校を卒業。同月18日に父が死去したことにより、急遽帰国の途に着き、10月東京に帰着し、その後10年間、父の会社を継いで会社を経営する一方、画業を続ける。31年、母の紹介により水彩画家春日部たすくを知る。32年第28回太平洋画会展に「風景」で初入選。また第19回光風会展に「風景」「静物」で初入選し、船岡賞を受賞。第13回帝展に「白い机の静物」で初入選する。この頃、大野隆徳研究所に夜間通い、人体デッサンを行う。33年、第20回光風会展に「静物A」「静物B」「閑窓」「アコーディオン」を出品し、光風会賞を受賞して会員に推挙され、また、日本水彩画会20周年展にパステルの風景画を出品して同会会員に推挙される。同年、第14回帝展に「大漁着」で入選。34年第21回光風会展に「椰子の実と子供」「ニッカーの子供」「ユニフォームの子供」を出品。日本水彩画展にも出品を続ける。35年第22回光風会展に「三人」「母子」「ドアマンと子供」を出品し、光風特賞を受賞。同年10月松田文相による帝展改組に反対して、在野展として開設された第二部会に参加し「ピクニック」「父子」を出品。「ピクニック」は特選となり昭和洋画奨励賞を受賞する。36年第23回光風会展に「画室の一隅」を出品し、二度目の光風特賞受賞。5月、春日部たすくと共に満州を旅行。旅行中の7月、新制作派協会設立への参加を電報で打診される。7月25日、猪熊弦一郎、伊勢正義、小磯良平、内田巌、佐藤敬らと新制作派協会を創立。官展の次代を担うと期待されていた若手作家が反官展を標榜し、清新な制作を唱う団体として注目される。これに伴い、光風会を退会。同年11月に行われた第1回新制作派協会展に「ジャズバンド」「ダンス」「二人」を出品。また、「前進」「向上」を表現した協会のロゴマークをデザインする。以後、生涯にわたって同会を中心に作品を発表する。38年5月、上海軍報道部の委嘱による記録画作成のため上海へ赴く。39年第1回聖戦美術展に「呉淞鎮敵前上陸」を出品。40年紀元2600年奉祝展に「夫婦と犬」を出品。41年「大東亜建設に捧ぐ」をテーマに展示された第7回新制作派協会展に「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」を出品。43年9月、フィリピン、マニラ陸軍報道部勤務となり、44年8月に帰国。45年新制作派協会員らとともに神奈川県相模湖付近の藤野村に集団疎開。同地で芸術家村を構想し、藤田嗣治、文士石坂洋次郎らも加わって制作のかたわら、楽団を結成し演奏活動などを行うなどして49年まで滞在する。46年、民主主義美術を目標に設立された日本美術会の創立に参加。47年第一回美術団体連合展に新制作派協会も参加し脇田は「猫と子供」を出品。また、同年第11回新制作派協会展に「少女と妖精」「草笛」等を出品。50年、今泉篤男企画による檀会に参加し、資生堂ギャラリーでの檀会美術展に出品する。51年6月、開廊したばかりのタケミヤ画廊で滝口修造の企画により小品展を開催し、10月には戦後の日本人美術家の国際展参加としては初めての出品となる第1回サンパウロ・ビエンナーレに「子供のカーニバル」を出品、以後、52年のサロン・ド・メ、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、53年の第2回国際現代美術展(ニューデリー)など、国際展にも積極的に参加する。54年、最初の画集となる『日本現代画家選Ⅲ 16 脇田和』(美術出版社)を刊行。55年第3回日本国際美術展に「あらそい」「鳥追い」を出品し、「あらそい」で最優秀賞を受賞。翌年、この作品によって第7回毎日美術賞を受賞する。56年3月よりアメリカ国務省人物交流部の招聘により3ヶ月間アメリカ各地を視察。6月より半年間、パリ郊外に滞在。この間、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレに11点出品し、美術評論家のアラン・ジュフロアの高い評価を受け、9月には第1回グッゲンハイム国際美術賞の日本国内賞を「あらそい」で受賞。12月にはパリからニューヨークに移り、57年4月、ニューオーリンズ、ニューメキシコ、ロスアンゼルス、ハワイを巡って帰国。59年より東京藝術大学版画教室非常勤講師、64年同助教授、68年同教授となって、70年、同学を退官。72年井上靖の詩による詩画集『北国』『珠江』(求龍堂)を刊行。74年、東京セントラル美術館で「脇田和作品展1960-1974」を開催。同年、『画集脇田和1960-1974』(求龍堂)を刊行。この頃から今泉篤男、岡鹿之助の意見などにより個人美術館の構想を持つ。76年から心筋梗塞をわずらい、79年に手術。82年『脇田和作品集』(美術出版社)刊行。86年神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館で「脇田和展」を開催。87年、ハワイ経由で渡米し、パリ、バルセロナを周り、ベルリン等ドイツの諸都市を訪れる。1989(平成元)年より軽井沢のアトリエ敷地内に個人美術館設立を計画し、91年6月「脇田美術館」を開館して館長に就任するとともに、美術館から『脇田和作品集』『随筆集え・ひと・こと』を刊行。92年、パリ日動画廊、バーゼル・インタナショナル・アートフェアにて脇田和展開催。96年10月パリの吉井画廊で個展を開催し、同月パリ、ニューヨークに赴く。98年平成10年度文化功労者に選ばれ、99年東京藝術大学名誉教授となった。晩年に至っても新制作協会展には出品を続けたほか、99年脇田和回顧展(神戸市立小磯記念美術館)、2002年脇田和展(世田谷美術館)など大規模な個展を開催した。初期から子供を重要なモチーフとして再現描写にとどまらない詩的な画面を構成し、戦後は、鳥をも好んで画中に取り入れて、平和や人と自然の関わりなどといった抽象的な概念を象徴的に描いた。作品の芸術性を指標としない画壇の政治性に批判的な姿勢を保ち続け、誠実で真摯な制作態度を貫いた。 新制作協会出品歴 1回(36年)「ジャズバンド」「ダンス」「二人」、2回「瀞」「渓」「森」、3回「水辺」「立つ座る」「チャアチャン」「静物」「樹陰」、4回「窓辺」、5回「海浜」、6回「母への絵」「子供」「幼児と子供」、7回「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」、8回「画室の子供」「花持つ子供」「子供」、9回出品するも題不明、10回「沐浴する児」「なつめ・女・猫」「子供と兎と花」「南の子供」「豆柿の静物」「猫・児・花」、11回「少女と妖精」「草笛」「ファウンの子供」「石の庭」、12回「女と猫」「子供と猫」「女と花」「子供と花」「三人」「静物」、13回「浴室」「二人」「小さいヴァイオリン」、14回「花に来る天使」「子供の手品師」「子供はトランプが好き」、15回(以後新制作協会展)、16回「桃太郎」「魚網」「捕虫網」「金太郎」、17回「慈鳥」「放鳥」、18回「貝殻と鳥」「西瓜と貝殻」、19回「水槽の鳥「鳥と住む」「鳥と横臥する女」、20回「花を持つ」、21回「緑園」、22回「庭」「花・鳥・人」「女と鳥」、23回「飛翔」「翼」「相思樹の実」、24回「解体する五つの顔と鳥」「断層の人と鳥」、25回「蚤の市のグリーダア・プッペ」「スタニーポイントの女陶芸師」、26回「不出品、27回「きんぎょ」「つた」「はげいとう」、28回「化粧台と猫」「窓(ベニス)」「赤い窓」「三つの顔と鳥」、29回「巣・石・葉」「雨(三題ノ一・二・三)、30回「空に叫ぶ」「キャンドルと天使」「土偶と鳥」「三粒の豆」、31回「デリカテッセン」「カシミールの織子」、32回「鳥寄せ」「羽音」、33回「窯場の朝」「窯場の夜」、34回不出品、35回「鳩舎」「鳥花苑」、36回「薔薇園」「輪花」、37回「雷鳥」「鶉」、38回「茨の冠と薔薇の花」、39回「雲崗石仏」、40回不出品、41回「かたつむり」、42回「幼き日の虫干し」、43回不出品、44回「かくれんぼ」(文化庁買上)、45回「ポンコツ車を誘導する鳥」、46回「車はまだ走っている」、47回「画家は毎日シャツを取り替える」「今日の選択」、48回「亜熱帯の漂流物」「ALOHA」、49回「暖帯」「緑雨」、50回「鳥の来る道」、51回「燃える楽譜」、52回「帰ってきた楽譜」「荷ほどき」、53回「E子のコレクション」「隠袋」、54回「花開く」「芽吹き」、55回「秋色」「黄色い鳥」、56回「鳥飼いの収集物」「鳥の閑日」、57回「移り香」、58回「比翼」「連理」、59回「二つの安居」「さつきまつ」、60回「一つ咲く花」「遺された壺」、61回「双鳥」「四色の季節」、62回「来い来い鳥よ」「おいでおいで」、63回「土の香」「夜わの鳥」、64回「画房夢想曲」「漂鳥」、65回「志野」「織部」、66回「窯出しを祝う」「黄瀬戸の感触」

西村龍介

没年月日:2005/02/21

 点描によってヨーロッパの古城を描いた作品で知られる洋画家の西村龍介は21日午後6時38分、急性心筋梗塞のため長野県軽井沢市の病院で死去した。享年85。1920(大正9)年2月8日、山口県小野田市に生まれる。本名一男。小野田尋常小学校を経て、1935(昭和10)年山口市立大殿尋常高等小学校を卒業する。この間の34年、両親と死別。36年、上京し、38年4月、日本美術学校日本画科に入学。太田聴雨、川崎小虎、矢沢弦月らに学び、またデッサンを洋画家の林武に学ぶ。41年3月、同校を卒業と同時に出征。45年、特攻隊員として沖縄戦へと向かう途中に終戦を迎え、郷里山口市に復員する。市内の古刹瑠璃光寺の一室を画室兼居所として日本画を制作し、46年山口市八木百貨店で初めての個展を開催して日本画18点を展示する。この頃、三好正直らと山口市展、山口県展を創設する。49年、京都市立美術専門学校研究科に入学。50年同校を中途退学し、2月に上京。企業の博覧会の背景画などを描いて生計を立てつつ画家を志し、制作の準備に時間がかかる日本画から油彩画へ転向して龍介と名乗る。54年第39回二科展に「河岸」で初入選。56年第41回二科展に「月のある風景」「鳥と植物」を出品し、特待受賞。57年に二科会会友となる。59年サロン・ド・コンパレゾン展に招待出品。同年第44回二科展に「故園」「花」を出品して二科金賞を受賞。翌年二科会会員となる。63年第48回二科展に「風景(A)」「風景(B)」を出品し、同会会員努力賞を受賞。64年2月に渡欧しフランス、スペイン、イタリア、ベルギーを旅行して7月に帰国。この旅でその後の主要モティーフとなる古城、聖堂、ヴェネツィア風景などと出会う。67年サロン・ドートンヌに「風景」を招待出品。68年第53回二科展に「古城」「館」を出品して二科会青児賞を受賞。69年第54回二科展に「聖堂」「遥かなる聖堂」を出品して二度目の会員努力賞を受賞する。70年再渡欧。71年第56回二科展に「古城幻影」「城」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。71年より82年まで毎年渡欧。83年1月「森と城と水の詩情の世界 西村龍介展」が銀座・松屋で開催され、初期から近作までが出品される。88年銀座のフジヰ画廊で西村龍介個展「水の抒情詩」を開催。89年昭和63年度(第39回)、前年の個展に対し、「日本画と洋画の技法を巧みに融合した日本的詩情豊かな独自の油彩表現を円熟の域に高め」たとして芸術選奨文部大臣賞を受賞。その後も二科展に出品を続け、97年東京八重洲の大丸ミュージアムで「喜寿記念・西村龍介展」を開催。2000年二科会を退会。同年、ハウステンボス美術館で「ヨーロッパ水辺の城 西村龍介展」を開催する。60年代の渡欧で得た古城の静かなたたずまいを、端正な構図、淡い色調の点描で描き、静謐な画風を示した。画集には『西村龍介画集』(講談社 1979年)がある。

須田寿

没年月日:2005/01/24

 洋画家の須田寿は1月24日午前、1時35分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年98。1906(明治39年)5月25日、東京日本橋本町に生まれる。本名門井(かどい)寿。1913(大正2)年精華小学校に入学。同校在学中に遠縁にあたる日本画家下村観山のアトリエに出入りする。19年成蹊中学校に入学し、24年同校を卒業。洋画家を志し、東京美術学校西洋画科を受験するが、不合格となり川端画学校に入学する。1926(昭和元)年、東京美術学校西洋画科に入学。長原孝太郎に師事。27年、友人の大貫松三とともに中国へ旅行し北京に二ヶ月半滞在。28年東京美術学校西洋画科和田英作教室に入る。30年第11回帝国美術院展に「裸婦」で初入選。31年、親戚の須田家の養子となる。同年第12回帝展に東京美術学校の卒業制作「髪」を出品して入選。33年第14回帝展に「三人」、34年第15回帝展に「庭園小景」を出品し、官展作家としての地歩を固める。35年松田改組に伴い設置された第二部会第1回展に「庭前」を出品。36年文展鑑査展「蔭に憩う」を出品する一方、35年に石川滋彦、井手宣通、川端実ら官展若手作家が新規な試みを行う団体として設立した立陣社の趣旨に賛同して第2回展に「秋日」を出品。この頃から人物群像を穏健な写実にもとづいて描く画風が、デフォルメ等斬新な試みを取り入れた画風に変化し、37年の文展に落選する。39年第3回新文展に「親爺と子ども」が入選し、再び官展への出品を続ける。40年、阿以田治修、大久保作次郎、佐竹徳らが創設した創元会に第一回目から出品。戦後は46年春第1回日展に「暖日」、秋の第2回展に「裸童」を出品するとともに第5回創元会展にも出品。48年5月日本橋三越で「須田寿油絵個展」を開催。49年日展のあり方に疑問を抱き、退会。また創元会からも退会し、牛島憲之、飯島一次、大貫松三、榎戸庄衛、円城寺昇、山下大五郎と立軌会を創立し、以後、同会を中心に活動を続ける。この頃、ピカソやブラックなどのキュビスムに学び、対象を簡略な形態に還元して把握する画風へ移行し、70年以上におよぶ画業のなかで、大きな節目となった。50年、東京美術学校昭和6年卒業生による六窓会を創立し、54年の同会解散まで出品を続ける。52年第1回日本国際美術展に「二人」「少女の像」「鶏を抱く少年」を出品。54年9月、初めて渡欧し、フランス、イタリア、スペイン等を巡って西洋の古代美術に打たれる。帰国後、渡欧中で印象に残った異国の生活の風景、特に人と家畜のいる光景を描くようになり、牛が主要なモティーフとなる。63年、北九州の装飾古墳を見学して感銘を受け、古墳をモティーフとして描く。65年3月武蔵野美術大学造形学部教授となる。71年再渡欧。72年5月に3度目の渡欧。73年3月ギリシャ方面を旅行し、ギリシャ古典文明を探求。7月東京セントラルサロンで須田寿個展を開催。76年、須田寿教授作品展(武蔵野美術大学美術資料図書館)を自選作品により開催。77年11月須田寿自選展を東京セントラル美術館で開催。78年武蔵野美術大学を退職し、同学名誉教授となる。79年より立軌会のほかに日本秀作美術展、世田谷美術展に出品を続けたほか、日本橋高島屋、日動サロンほかで個展を開催する。82年「須田寿画集」(日本経済新聞社)を刊行、同年第6回長谷川仁記念賞受賞。85年第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、同年、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。1993(平成5)年4月世田谷美術館で「須田寿展」が開催され、年譜、参考文献は同展図録に詳しい。2001年中村彝賞受賞。官展作家として活躍したアカデミックな画風から、立軌会創立後、再現描写にとらわれない内省的思索を絵画化する作品へと移行し、暗褐色、暗緑色を基調とする色数を限った色調と独自のマチエールを特色とする作品を制作し続けた。

吉井淳二

没年月日:2004/11/23

 洋画家で長く二科会理事長を務めた吉井淳二は、11月23日午後2時23分、肺炎のため鹿児島市内の病院で死去した。享年100。1904(明治37)年3月6日、鹿児島県曾於郡末吉町に生まれる。県立志布志中学の二年時に画家になることを決意し、三年時には油絵の道具一式を与えられる。1922(大正11)年、中学の卒業式を待たず、同級生で生涯の友となった海老原喜之助と上京、共同生活をしながら川端画学校でデッサンを学ぶ。24年東京美術学校西洋画科に入学、和田英作教室に学んだ三年時には第3回白日会展で白日賞を受賞したほか、第13回二科展には「静物」「花と女」が初入選する。24年第5回展から入選を続けた中央美術展では、1928(昭和3)年第9回展で中央美術賞を受けている。同年には橋本八百二、堀田清治と三人展を開催したほか、翌29年東京美術学校を卒業すると、内田巌、新海覚雄らと鉦人社を結成し第1回展を開いた。同年有島生馬を訪ね、以後指導を受ける。同11月フランスに渡り、海老原と再会する。パリを拠点にイギリス、オランダ、イタリアなどに旅をする。32年帰国し、第19回二科展に滞欧作を特別出品する。初入選以降、二科会には、滞欧中の第17、18回展をのぞいて2004(平成16)年まで連続して出品した。同会では35年会友、40年会員になる。45年10月の二科会再興の呼びかけに応え再建に参加、翌年9月の31回展に「菅笠の娘」「菜園にて」を出品。61年二科会に理事制が設けられ、理事のひとりとなる。65年、前年の二科展出品作「水汲」などに対して日本芸術院賞を、二科展では68年東郷青児賞、69年内閣総理大臣賞を受ける。78年4月の二科会会長・東郷青児の死去後、翌79年同会を社団法人化した後に北川民次を継いで理事長に就任、98年まで努めた。二科会のほかには、33年に鉦人社を前身とする新美術家協会の5回展にも出品。40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「人物」を出品。また、百貨店や画廊で個展を開催したほか、太陽展、日動展などにも出品。90年には鹿児島市立美術館でも展覧会を開催した。一方、46年には海老原とともに南日本新聞社主催で南日本美術展を興し、審査員となり後進の育成にも努めている。この間、45年杉並区南荻窪から郷里に疎開、その後杉並の家が焼けたため作品の多くを失う。51年、鹿児島から荻窪へ再び住まいを移している。65年ヨーロッパへ作品制作の旅行をしたほか、75年の日伯美術展を機にブラジルを訪れ、以後たびたび南米に足を運ぶ。頭巾をかぶり頭上に荷をのせた労働する女性をよく題材にし、その取材対象は内外の市場から水汲みの光景まで多岐にわたった。それらを、写実を基にしつつも簡略化した線と明るい色彩で描いた。58年南日本文化賞、76年日本芸術院会員、77年勲三等瑞宝章、85年文化功労者、89年文化勲章を受けている。92年、鹿児島県加世田市に開いた特別養護老人ホームに隣接する吉井淳二美術館を開館。最晩年は自らも加世田に暮らした。

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