本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





神保朋世

没年月日:1994/03/10

 日本画家で俳人でもあった新保朋世は3月10日午前8時20分老衰のため東京都新宿区中落合の自宅で死去した。享年91。明治35年4月25日東京に生まれる。本名貞三郎(ていざぶろう)。日本画家鰭崎英朋に師事し、後、伊東深水にも教えを受ける。社会主義への共感から大衆芸術に関心を抱き、挿絵の制作を中心とするようになり、講談倶楽部、週刊朝日、週刊新潮、オール読物などの雑誌のほか、各種新聞の挿絵を描いた。戦前から「オール読物」に連載の始まった野村胡堂の「銭形平次」には、著者野村が死去するまで30年に渡り挿絵を描きつづけた。

竹山博

没年月日:1994/02/26

 創画会会員で、日本画家の竹山博は、2月26日午後8時37分、胃ガンのため、横浜市の病院で死去した。享年70。竹山は、大正12(1923)年6月30日、東京府文京区曙町に生まれる。本名博二。昭和15年、京北中学校4年修了後、東京美術学校日本画科予科に入学。同18年、学徒出陣により応召、翌年9月、出征中ながら同校を卒業。同20年復員後、翌年の第30回院展に初入選、さらに同22年の第31回展に「晩秋」、また第3回日展に「秋暮」が入選した。一方、戦後間もなく、山本丘人宅で開かれていた若い日本画家たちによる研究会「凡宇会」に出入りするようになり、その世話係をする。そして、同23年に山本丘人、上村松篁、吉岡堅二等が中心になって結成された美術団体「創造美術」の第1回展に「藁家」を出品、つづいて同26年、同会が新制作派協会と合同し、日本画部となると、これに出品するようになった。同38年、第27回同協会展に出品の「巌と滝」によって、さらに同40年の第29回展出品の「源流」、「凍雪」によって新作家賞を受け、同41年には会員となった。同49年、同協会の日本画部会員が創画会を結成、以後、同会展に毎回出品する。同会展への出品は、平成5年の第20回展の「海棠(未完)」が最後となった。色彩表現を抑制した、精緻な線描による花鳥画を多く描いた。

川島浩

没年月日:1994/01/09

 日展会員で、日本画家の川島浩は、1月9日午後2時15分、胆管ガンのため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年83。川島は、明治43(1910)年2月20日、京都市伏見区深草願成町40に生まれる。昭和2年、京都府立桃山中学校卒業後、京都絵画専門学校予科に入学、本科を経て、同12年研究科を卒業。在学中は、西村五雲、山口華楊に師事した。また、同7年の第13回帝展に「大和の麦秋」が初入選、同10年には、第1回京都市美術展覧会に「獲物」が入選した。以後、帝展、新文展に入選をかさね、戦後も日展に出品をつづけた。同41年の第9回日展に出品した「湖」により、特選・白寿賞を受けた。さらに同48年の第5回改組日展に出品の「山頂湖」が、再び特選となり、同58年の第8回展では、審査員をつとめ、翌年同展会員となった。同63年、京都府文化功労賞を受けた。山中の湖や湿原の景観を題材に、簡潔な構図と整理された色彩表現による、静謐な情感を漂わせる風景画を多く残した。

杉山寧

没年月日:1993/10/20

 日本芸術院会員で、文化勲章受章者の日本画家杉山寧は10月20日午前0時5分、心不全のため東京都文京区の東京日立病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月20日、紙や文具類を売る店を営んでいた杉山卯吉、みちの長男として東京浅草に生まれる。東京府立第三中学校を卒業した翌年の昭和3(1928)年に東京美術学校日本画科に入学。同校在学中の同6年の第12回帝展に「水辺」を初出品して入選する。翌年の第13回帝展にも「磯」が入選し、特選となる。同8年、同校を首席で卒業、在学中に師事した松岡映丘が主宰する研究会「木之華社」の例会に時折出席するようになる。翌年、第14回帝展に出品した「海女」が再び特選となる。この作品は、卓抜した描写力と構成力とともに、清新な感覚で描かれた作品であり、戦前期の画風の特色をよくつたえている。またこの年、松岡映丘門下の有志とともに「瑠爽画社」を結成、翌年同人とともに銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回展を開催、同13年の第3回展までつづく。同17年、中国大陸を旅行、ことに雲岡石窟寺院では、約半月にわたり石仏の写生に励んだ。戦後は、同21年の文部省主催日本美術展覧会(日展)が発足し、出品を委嘱されたが応ぜず、同26年の第7回日展に戦後初めての大作であり、ギリシャ神話に取材した「エウロペ」を出品する。以後、日展には、同組織が社団法人となった同33年から会員として、同49年まで出品をつづけ、その間評議員、常務理事、また審査員などをつとめたが、同51年に退会、しかし請われて顧問に就任した。そのほか、同26年に東京美術学校出身の橋本明治、山本丘人、東山魁夷等とともに、画会「未更会」(兼素洞主催)の発足にあたり、会員として加わったのをはじめ、多くの画会に参加、そのつど新作を発表した。また、雑誌「文藝春秋」の表紙絵原画を同31年4月から同57年6月号まで毎号制作する。同32年の第12回日展出品の「孔雀」(東京国立近代美術館蔵)に対して、同13回日本芸術院賞を送られる。この作品は、緊張感のある画面構成ながら、新鮮な華やかさをもった作品で、中期の代表作となった。しかし、同36年の沖縄旅行、翌年のエジプト、ヨーロッパ旅行を契機に、それまでの平明な自然描写にかわって、重厚なマチエールによって自然を抽象化する傾向を強め、また「穹」(同39年、東京国立近代美術館蔵)に代表されるように、エジプトの古代遺跡を題材に象徴的な画面づくりに向かっていった。さらに、同48年頃から、夢幻的な空間の中に裸婦、鳥、動物を配した作品へと展開していった。同53年、56年に中近東に旅行し、トルコのカッパドキアの遺跡や風物など、その折の取材をもとにした作品が生まれた。同49年には、文化勲章を受け、また文化功労者として顕彰された。同57年11月から61年6月まで、日本芸術院の第一部長をつとめた。同62年8月には、東京国立近代美術館において、本画、素描等総点数123点からなる本格的な回顧展として「杉山寧展」が開催され、同年10月にも富山県近代美術館において回顧展が開催された。さらに、平成4(1993)年には、東京美術倶楽部において「杉山寧の世界」展が開催された。(同氏の年譜及び出品歴については、上記の展覧会図録に詳しい。)

山本倉丘

没年月日:1993/09/05

 日展参与の日本画家山本倉丘は、9月5日心不全のため京都市上京区の西陣病院で死去した。享年99。花鳥画で知られ京都画壇の重鎮でもあった山本は、明治26(1893)年10月12日高知県幡多郡に生まれた。本名傳三郎。大正7(1918)年早苗会に入り山本春挙に師事、昭和8(1933)年京都市立絵画専門学校選科を卒業した。この間、大正15年第7回帝展に「麗日」が初入選し、卒業の年の第14回帝展出品作「菜園の黎明」は特選となった。春挙没後、昭和14年東丘社に入り堂本印象に師事した。戦後は日展に依嘱出品を続け、同31年第13回展に審査員として「冠鶴」を出品、同33年社団法人日展発足時に日展評議員となり、第1回展に「★」を発表した。同40年の第8回日展出品作「たそがれ」で、翌41年日本芸術院賞を受賞する。その後、同54年には日展参与となった。同53年京都市文化功労賞を受け、同56年京都府文化者、同63年京都府文化特別功労者として顕賞された。『山本倉丘画集』(同57年)がある。

藤原成憲

没年月日:1993/08/31

 大阪の風俗を描いて親しまれた画家藤原成憲は8月31日午後5時23分、老衰のため兵庫県姫路市の遠藤病院で死去した。享年91歳。明治35(1902)年2月28日、大阪に生まれる。本名国太郎。造幣局に勤務する父の転勤にともない、2歳のときにソウルへ移り、京城工芸学校陶画科存学中の大正6(1917)年に、同校を中退して上京、日本画、洋画を独学で学び、児童書等の挿絵で生計を立てるようになる。しかし、同13年の関東大震災で浅草から大阪に転居、その後風刺漫画雑誌「大阪パック」の編集長を4年間勤めるが、昭和4(1929)年に「大阪毎日新聞」に連載された「大阪夏の陣従軍記」の挿絵を担当する。これを機に、諸雑誌に漫画や風俗画を寄稿するようになり、また上方芸能人や文化人との交流が生まれ、その交流を通して人物画や文人画を描くようになる。同17年、北京翼賛会文化部長として北京に赴任し、同20年帰国。戦後は、雑誌『商店界』(誠文堂新光社)に「あきない史」を連載、また一般向けに絵画教室を設け俳画等を指導、この教室を後に「藤白会」(とうはくかい)と命名し、指導に専念した。同50年、大阪市民表彰を受ける。主著に『続浪花風俗図絵』(杉本書店、昭和47年)等があり、また『米朝落語全集』全6巻(創元社、昭和55-57年)の挿絵を担当した。

嶋谷自然

没年月日:1993/08/13

 日展参与、名古屋芸術大学名誉教授の日本画家嶋谷自然は、8月13日呼吸不全のため名古屋市昭和区の聖霊病院で死去した。享年89。嶋谷は明治37(1904)年3月19日三重県志摩郡に生まれた。本名藤四郎。大正11年東京で矢沢弦月の門に入り、昭和5年第9回帝展に「網屋」で初入選した。同16年、京都の西山翠嶂に師事、翠嶂が主宰する画塾青甲社同人となる。戦後は同21年の第1回日展に「冬日」を出品、以後日展を中心に制作発表を行った。同25年第6回日展に「緑影」で特選、白寿賞を受け、翌年第7回日展に無監査出品した「丘」で連続当選、朝倉賞を受賞した。同30年の第11回日展で最初の審査員をつとめ、同33年日展会員に挙げられた。同54年改組第1回日展に「湖心」を発表、文部大臣賞を受賞した。また、同45年名古屋芸術大学教授に就任、退職後同校名誉教授となった。同48年中日文化賞を受賞する。

黒光茂樹

没年月日:1993/03/21

 日展会員の日本画家黒光茂樹は、3月21日午前6時21分、心不全のため京都市中京区の病院で死去した。享年83。明治42(1909)年7月25日、愛媛県周桑郡に生まれる。大正14(1925)年、京都に出て、金島桂華に入門、昭和5(1930)年には京都市立絵画専門学校予科に入学。在学中の同9年、第15回帝展に「瓜田」が初入選。同13年、同校研究科を卒業、この年の第2回新文展に「花圃立夏」入選、以後新文展、戦後の同22年からは日展に出品をつづけ、同28年の第9回日展に出品した「青銅」が特選(白寿賞・朝倉賞)となる。同26年、関西総合美術展開催にあたり、同展は塾単位の出品を原則としていたため、桂華が主宰する「衣笠会」に会員として参加し出品した。同会は桂華が没した翌年の同50年まで独自に展覧会を年に一度開催していたが、この年の第17回展をもって解散した。また、同28年、東西作家合同による龍土会が結成され参加した。同34年には、第一回個展開催(大阪高島屋画廊)、同38年まで毎年開催した。同48年、改組第4回日展では審査員をつとめ、翌年から同展会員となる。同51年4月、愛媛県立美術館で黒光茂樹展開催。同60年から3年間をかけて、妙心寺霊雲院(御光の間)の障壁画を制作。同62年、第5回京都府文化賞受賞。自然の一角を、非常に計算された講成でまとめあげた作品を多く残した。

成田陽

没年月日:1992/12/24

 日展会友の日本画家成田陽は、12月24日午後7時15分急性心不全のため愛知県豊橋市の病院で死去した。享年70。雅号は陽。大正11(1922)年1月23日南満州で生まれ、生後6ケ月で父母とともに東京に移住、以後東京で成長した。東京駒込中学校を3年で中退。昭和24年中美展および第34回院展に「静郷」が入選する。26年中村岳陵に師事し、同年の第7回日展に「瓦斯工場」が初入選、以後昭和63年まで連年日展に出品した。41年に始まった日春展にも第1回から出品し、48年第8回「芽吹く頃」、50年第10回「水辺」は外務省買い上げとなっている。このほか関西綜合展で昭和30年「八ケ岳」が受賞、41年の中日展にも入選した。また個展を9回開催し、ヨーロッパ、中国に外遊。フィレンツェに取材した昭和62年第19回日展「旅情」、同じくイタリアのシーラに取材した翌63年第20回日展「旅の朝」などの作品を残した。日展らしい水平・垂直構図を基調とした堅固な作風の風景画を得意とした。

丹阿彌岩吉

没年月日:1992/11/24

 日本画家丹阿彌岩吉は、11月24日午後11時4分、肺炎のため東京都板橋区の病院で死去した。享年91。号丹阿彌。明治34(1901)年6月9日東京の両国に生まれ、小学校4年の頃から日本画を独学し始める。大正6年横山大観に入門し、同8年第6回再興院展に「牡丹」が初入選、10年第8回にも「百日紅」が入選した。同8年第5回院展試作展で「みだれ咲き」が甲賞を受賞、その後も10年同第7回「丘」、14年第11回「村」などを出品する。同15年第1回聖徳太子奉讃展に「麓」を出品。昭和期に入り落合朗風らの明朗美術連盟展に参加。10年第2回展「花バラの牆」、翌11年第3回「七面鳥」(2曲1双)、12年第4回「芙蓉」「蓮」などを出品し、11年には同人に推挙された。この間、昭和11年東京日本橋の白木屋で初の個展を開催し、以後連年個展を開催、13年以降は個展を活動の中心とした。年1回行なった個展の開催場所は、昭和11~17年東京日本橋白木屋、19~21年東京銀座鳩居堂画廊、22~26年(25年を除く)東京日本橋三越、28~41年(30年を除く)日本橋白木屋、42~61年(43、47、60年を除く)東京日本橋店で開催。「浅春」(39年)「雨(立葵)」(44年)「牡丹」「山狹横雲」(48年)「蓼科欲雨」「暮山餘照」(56年)「高山残雪」「雪嶺寒林」(59年)など、花鳥花卉から特に近年は山水風景画に充実した画境を展開していた。昭和61年11月東京都板橋区の東京都老人医療センターに入院、翌年8月退院、自宅で療養していた。

児玉輝彦

没年月日:1992/09/27

 日本国画院会長の日本画家児玉輝彦は、9月27日午前0時12分心不全のため千葉県船橋市海神の船橋中央病院で死去した。享年94。明治31(1898)年4月3日新潟県十日町市に生まれる。大正6年歴史人物画で知られた津端道彦に師事し、内弟子として学ぶ。昭和2年第8回帝展に「祇王」が入選、同7年日本美術協会会員となった。日本美術協会展では、銀賞を2回、銅賞を3回受賞し、委員や審査員をつとめている。戦後、昭和40年には神代植物園で「秋之野草」が昭和天皇・皇后の供覧にふされた。55年学研の水上勉「平家物語」、57年NHKテキスト古文にそれぞれ作品が掲載され、61年には船橋市滝不動金蔵寺に格天井画と仏画を奉納した。また書でも、43年の泰東書道院展で大阪毎日・東京日日新聞社賞を受賞している。歴史画を得意とし、日本国画院会長をつとめたほか、新潟県中魚沼郡川西町から名誉町民の称号を贈られた。代表作「祇王」も、現在同町の所蔵となっている。

岡田淡雅

没年月日:1992/04/18

 日本南画院常務理事の日本画家岡田淡雅は、4月18日午後11時15分肝臓ガンのため岡山県倉敷市の病院で死去した。享年78。本名は武一郎。大正2(1913)年12月8日岡山県倉敷市に生まれる。大阪で南画家矢野橋村に内弟子として学び、大阪美術学校日本画科本科を卒業した。昭和40年に師橋村が没したのちは、東京の横尾深林人に師事した。この間、昭和15年大阪毎日新聞・東京日々新聞主催紀元2600年奉祝展に「夕ぐれ」を出品、小室翠雲の主宰になる大東南宗院にも出品した。また昭和35年に再興された日本南画院で師橋村は同年副会長、39年会長となったが、淡雅も同展に出品。文部大臣賞、文化賞、院賞、会長賞、奨励賞などを受賞し、常務理事をつとめた。このほか大阪市展、大潮展にも出品。昭和58年には岡山県美術展の審査員を委嘱された。代表作に「梁川帰舟」「西瓜番」「阿哲残秋」「淡月」などがある。

三谷十糸子

没年月日:1992/02/11

 女子美術大学学長もつとめた代表的な女流日本画家の一人三谷十糸子は、2月11日午前6時31分、ジン不全のため東京都杉並区の河北病院で死去した。享年87。明治36(1903)年7月28日兵庫県加古郡(現高砂市)に生まれ、本名敏子。大正11年兵庫県立第一高等女学校を卒業し、女子美術専門学校(現女子美術大学)に入学する。同14年同校を首席で卒業後、京都に移り、西山翠嶂の青甲社に入塾。昭和3年第9回帝展に「少女」が初入選し、翌年同第10回「露店」、5年第11回「独楽」、6年第12回「おとめ達」と出品した。7年第13回帝展で「女」が特選となり、それまでの暗い色調から澄んだ色調へと移行。翌8年第14回帝展で「朝」が再び特選を受賞し、9年同第15回展出品作「夕」は政府買上げとなった。戦後、昭和26年東京に移り、翌27年から母校女子美術大学で教授として教え、46年から50年まで学長をつとめる。この間、33年日展会員となり、39年第7回新日展で「若人の朝」が文部大臣賞を受賞、44年には前年の第11回新日展出品作「高原の朝」によって日本芸術院賞を受賞した。裕福な医者の家に一人っ子として育ち、少女時代に文学と詩にあこがれた三谷の作品は、モチーフに好んで少女を描き、厚く柔らかな色彩によるモダンで詩的な世界を展開した。40年日展評議員、48年理事、52年参事となり、日展のみならず女流日本画家の代表的作家の一人として活躍した。長女の三谷青子(日展会員)、さらにその長女の曽田朋子も、日本画家として活躍している。帝展・新文展・日展出品歴昭和3年第9回帝展「少女」、4年10回「露店」、5年11回「獨楽」、6年12回「おとめ達」、7年13回「女」(特選)、8年14回「朝」(特選・無鑑査)、9年15回「夕」(推薦)、12年第1回新文展「朝」(無鑑査)、13年2回「蟻」(無)、14年3回「月の暈」(無)、15年紀元2600年奉祝展「山家の雨」、17年第5回「風車咲く朝」、19年戦時特別展「豆の秋」、22年第3回日展「蓮」、23年4回「湯屋」(依嘱)、24年5回「草原」(依)、25年6回「花と娘」(依)、26年7回「鱒」(依)、27年8回「杜」(審査員)、29年10回「月の小徑」(依)、30年11回「私の夢」(依)、31年12回「三人の裸婦」(依)、32年13回「夜の海」(依)、33年第1回新日展「池畔有情」(会員となる)、34年2回「蝶」(審査員)、35年3回「少女と森」、36年4回「少女と森」、37年5回「野の花」、38年6回「秋の流れ」、39年7回「若人の朝」(審査員、文部大臣賞)、40年8回「若人の夏」、41年9回「小さな花束」、42年10回「夕」、43年11回「高原の朝」、44年第1回改組日展「夕」、45年2回「白い鳩笛」、46年3回「花野の朝」、47年4回「青い実」(審査員)、48年5回「爽やかな朝」、49年6回「朝野」、50年7回「夕」、51年8回「野」(審査員)、52年9回「野」、53年10回「棕櫚草の小径」、54年11回「林の朝」(審査員)、55年12回「山の花咲く」、56年13回「夕」、57年14回「月の出を待つ」、58年15回「笛の音」、59年16回「暮れ行く」、61年18回「暮れ行く」

廣本進

没年月日:1991/10/15

 新興美術院副理事長の日本画家廣本進は、10月15日午後3時55分、心不全のため京都市左京区の市田病院で死去した。享年94。明治30(1897)年8月11日愛知県蒲郡市に生まれ、本名同じ。山元春挙門の川村曼舟の内弟子となり、その関係から大正7年春挙の画塾早苗会に入塾。師曼舟は、春挙没後、早苗会を主宰した人物である。その後、京都市立絵画専門学校に学び、昭和7年同校研究科を卒業。この間、在学中の昭和3年第9回帝展で「赤目の溪谷」が初入選で特選を受賞、注目を集める。翌4年パリで行なわれた巴里日本美術展に選抜されて「溪谷」を出品し、6年の伯林(ベルリン)日本画展覧会に「春溪」(デュッセルドルフに巡回)、同年のトレド日本美術展に「霽雪白帝城」、同年タイ・バンコクで行なわれた暹羅日本美術展に「三河湾」を出品。11年文展鑑査展には「香落峡」を出品している。戦後、38年新興美術院(25年再興)の京都支部設立に伴い、理事として同院に参加。以後同院に出品し、50年第25回展「有声」が文部大臣奨励賞、平成3年第41回「寝覚の床」等の四季連作が内閣総理大臣賞を受賞。平成2年から同院理事長をつとめた。この間、昭和55年比叡山延暦寺東塔院の大壁画「安楽行品」2面、58年大津市坂本町の日吉大社全景、59年大津市寿長生郷の各岩壁35体観音像線描、63年大津市坂本の瑞応院襖絵(比叡山全景)を揮毫。風景画と仏画を得意とした。61年には京都市芸術文化協会賞を受賞している。

河口楽土

没年月日:1991/04/27

 日本南画院会長、日本自由画壇理事長の日本画家河口楽土は、4月27日午前2時半、心不全のため東京都狛江市の自宅で死去した。享年92。明治31(1898)年8月12日徳島県池田町で生まれ、本名喜代市。38年、住んでいた香川県多度津から一家で神戸に転居、神戸貿易商業、神戸英清高等英語科に学ぶ。初め洋画を志し、神戸から大阪の天彩学舎に通い松原三五郎に手ほどきを受けるが、大正元年富岡鉄斎の知遇を得てその薫陶も受けた。同10年大阪美術学校を卒業し、さらに日本大学で皇学を学ぶ。11年香川県立丸亀中学校に勤務、図画を教えるが、翌12年四国を遊歴中の橋本関雪に会い、関雪に師事、虚船と号し、日本画に専心する。昭和6年大阪松蔭女子大学の美術講師となり、翌7年矢野橋村、小松均らと乾坤社を結成する。この間、同5年第11回帝展に「雪眺」(号中門)が初入選し、この頃から日本南画院、新興南画院、墨人会(小杉放庵主宰)などにも出品。11年文展鑑査展にも「箕面溪流」(号虚船)が入選している。15年上京し、翌年小室翠雲が結成した大東南宗院に参加、審査員をつとめる。戦後、昭和35年河野秋邨らとともに日本南画院を再興、50年には日本自由画壇を結成し、平成3年から日本南画院会長、日本自由画壇理事長を兼任した。代表作に「老梅」(高野山霊宝館)、「三笑図」(本間美術館)、「幽谷」(東京都美術館)、「群猿・老梅」(妙智会)、高野山常喜院本堂格天井画161面などがある。またNHK文化センターで特別講師をつとめ、日本放送協会から『河口楽土墨彩の世界』を刊行している。

猪木匡四郎

没年月日:1991/04/17

 武蔵野美術大学名誉教授の日本画家猪木匡四郎は、4月17日午前4時30分、前立腺がんのため千葉県市川市の国立精神神経センター国府台病院で死去した。享年73。大正6(1917)年香川県高松市に生まれる。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)を卒業し、戦後、昭和24年第5回日展に「慕情」が初入選。以後日展に出品し、東山魁夷の指導も受けた。また日本画院にも出品し、幹事をつとめている。10数回にわたって個展、グループ展を開催し、風景画を得意とした。この間、昭和31年5月武蔵野美術学校(37年武蔵野美術大学となる)日本画科講師、45年5月同大学美術学科日本画専攻助教授、51年4月造形学部日本画学科教授となり、後進の指導と育成にあたった。63年3月停年退職し、同年6月、同大学名誉教授となった。 日展出品歴昭和24年第5回「慕情」、25年6回「木立」、26年7回「曇り日の沼」、27年8回「連山遠望」、28年9回「藪のある風景」、29年10回「熱国の浜」、30年11回「黄昏」、31年12回「夕映え」、32年13回「裏街」、33年第1回新日展「風渡る」、36年同4回「水郷」、37年5回「古利根風景」、39年7回「夕紅」、41年9回「山湖」、42年10回「朝明け」、43年11回「静峡」

橋本明治

没年月日:1991/03/25

 文化勲章受章者で日本芸術院会員の日本画家橋本明治は、3月25日午前3時、急性肺炎のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年86。明治37(1904)年8月5日島根県浜田町に、橋本太一郎、トメの長男として生まれる。本名同じ。絵や俳諧の趣味を持つ祖父市太郎の強い感化を受けて育った。大正6年浜田町立松原尋常小学校を卒業して高等科に進み、同9年島根県立浜田中学校に入学。同学4年の大正12年、妹をモデルに描いた「ガラシャ婦人像」が、島根県展に入選する。しかしこの間、大正4年に母、11年に父、また13年に祖父母を失い、妹2人との3人になる。14年浜田中学校を卒業し、翌年1月上京。川端画学校予備校に学んだのち、4月東京美術学校日本画科に入学した。同期に東山魁夷、加藤栄三らがいた。松岡映丘に学び、在学中の昭和4年第10回帝展に「花野」が初入選、翌年の第11回帝展にも「かぐわしき花のかずかず」が入選する。同6年日本画科を首席で卒業、同研究科に進み、この年から12年まで郷里の医師浜田温の援助を受けた。12年第1回新文展「浄心」、翌13年同第2回「夕和雲」がともに特選を受賞、将来を嘱望される。この間、帝室博物館の依嘱により、11年「粉河寺縁起絵巻」、12年高山寺「仏眼仏母像」を模写。15年から始まった法隆寺壁画模写では、36歳の若さで、中村岳陵、荒井寛方、入江波光とならんで主任となり、8、9、11号壁を担当。24年金堂焼失で頓挫したが、25年に終了した。また23年創造美術の結成に参加、25年同会を退会したのち、翌26年から日展に出品する。26年第7回日展に出品した「赤い椅子」により、翌年芸能選奨文部大臣賞、29年第10回日展「まり千代像」により30年日本芸術院賞を受賞。肉太の線描による独特の画風を確立する。その後も、30年第11回日展「六世歌右衛門」、34年第2回新日展「月庭」、42年同第10回「女優」(モデル司葉子)、48年第5回改組日展「関取」(モデル貴ノ花)、51年同第8回「球」(三笠宮寛仁)、52年第9回「砕」、53年第10回「想」(松下幸之助)など、著名人をモデルにした話題作を数多く発表した。また42年から翌年にかけての法隆寺金堂壁画模写では、同じく8、9、11号壁を担当。43年の皇居新宮殿正殿の障壁画「龍」、47年出雲大社庁舎壁画「龍」は、画業の集大成ともいうべき大作であった。49年文化勲章を受章、郷里浜田市の名誉市民に推された。59年、60年、62年島根県立博物館に自作を寄贈、62年同博物館に橋本明治記念室がオープンした。52年10月から11月まで、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載している。 帝展・新文展・日展・創造美術出品歴昭和4年第10回帝展「花野」、5年同11回「かぐわしき花のかずかず」、6年12回「水鏡」、7年13回「薫苑雙嬌」、9年15回「荘園」、11年文展鑑査展「蓮を聴く」、12年第1回新文展「浄心」(特選)、13年同2回「夕和雲」(特選)、14年3回「三人の女」、21年第2回日展「鏡の前」、22年同3回「天舞」、23年第1回創造美術展「鏡と裸婦」、24年同2回「裸婦像」、25年3回「髪をふく女」、26年第7回日展「赤い椅子」、27年同8回「浴室」、28年9回「演奏」、29年10回「まり千代像」、30年11回「六世歌右衛門」、32年13回「燦湖」、33年第1回新日展「大谷竹二郎像」、34回同2回「月庭」、35年3回「微笑」、36年4回「石橋」、37年5回「神話」、38年6回「丘」、39年7回「回想」、40年8回「舞」、41年9回「鏡」、42年10回「女優」、43年11回「陵王」、44年第1回改組日展「鶴と遊ぶ」(理事就任)、45年同2回「燦舞」、46年3回「ある神話」、47年日展常務理事就任、48年5回「関取」、49年6回「憩」、50年7回「想う」、51年8回「球」、52年9回「酔」、53年10回「想」、54年11回「紅」、56年13回「釧路の自画像」

菊川多賀

没年月日:1991/01/15

 日本美術院の同人で評議員の日本画家菊川多賀は、1月15日午前11時2分、心筋コウソクのため、埼玉県新座市の新座病院で死去した。享年80。明治43(1910)年11月16日、北海道札幌市に土木建築業を営む父菊川竹次郎、母トリの次女として生まれる。本名孝子。大正12年豊水小学校尋常科を卒業し、北海女学校に入学したが、翌13年一家が東京の渋谷区幡ケ谷に移転したため、麹町女学校の2年に転入する。しかし間もなく、眼病により失明状態となり、治療に専念するため学業を断念。昭和4年父の友人だった清原斎に入門し、日本画を学び始めるが、12年頃から再び病状が悪化、以後10年間ほど療養生活をしいられた。戦後22年、堅山南風に師事し、翌23年の第33回院展に「閑日」が初入選する。以後、連年院展に出品し、27年第37回院展「朝」、30年第40回「市場」、31年第41回「群像」、34年第44回「荷葉童心」が奨励賞、33年第43回「海女」が佳作となり、36年第46回「祈」、37年第47回「森」、38年第48回「舞妓」は3年連続して日本美術院賞を受賞した。この間、25年日本美術院院友、36年特待となり、39年には同人に推挙された。昭和20年代には少女や母子を多く描いていたが、30年代には裸体群像、40年代には文楽や歌舞伎に画題を求めた作品を多く制作した。みずからも、師南風が33年第43回院展に出品した「応接間の人」のモデルとなっている。47年第57回院展「鳴神想」は文部大臣賞、57年第67回院展「遥」は内閣総理大臣賞を受賞。日本美術院では51年から評議員をつとめた。八晃会、旦生会、生々会などにも出品。昭和63年北海道立近代美術館で「生命の群像-菊川多賀展」が開催された。 院展出品歴昭和23年33回「閑日」、24年34回「少女」、25年35回「母子」、26年36回「初秋」、27年37回「朝」(奨励賞)、28年38回「帰路」、29年39回「収獲」、30年40回「市場」(奨励賞)、31年41回「群像」(奨励賞)、33年43回「海女」(佳作)、34年44回「荷葉童心」(奨励賞)、36年46回「祈」(日本美術院賞)、37年47回「森」(日本美術院賞)、38年48回「舞妓」(日本美術院賞)、40年50回「女人讃歌」、41年51回「文楽人形」、42年52回「スペインの踊子」、43年53回「訶利帝母」、45年55回「懐郷」、46年56回「衆生」、47年57回「鳴神想」(文部大臣賞)、48年第58回「転生」、49年59回「婦図」、50年60回「文楽」、51年61回「小宰相」、52年62回「ひとつの記録」、53年63回「歌舞伎印象」、54年64回「無量華1」、55年65回「無量華2」、56年66回「無量華3」、57年67回「遥」、58年68回「文楽人形(江戸時代)」、59年69回「道標」、60年70回「刻」、61年71回「幻」、62年72回「還生譜」、63年73回「転生2」、平成元年74回「華」、同2年75回「帰路」

広田多津

没年月日:1990/11/23

 創画会会員の女流日本画家広田多津は、11月23日午前7時15分、心不全のため京都市北区の自宅で死去した。享年86。明治37(1904)年5月10日、京都市に麻織物商を営む父覚次郎、母京の次女として生まれる。大正5年京都市立竜池小学校を卒業、しかし病弱のため進学せず、家事を手伝いながら独学で絵を始めた。同8年頃、三木翠山に一年ほどの間住み込みの書生として日本画の手ほどきを受け、同12年頃から甲斐荘楠音に学ぶ。翌13年竹内栖鳳に入門し、竹杖会で研鑚を積む。昭和8年竹杖会が解散したのち、10年西山翠嶂に入門。翌11年文展鑑査展に「秋晴」が初入選した。その後、新文展に入選を続け、14年第3回新文展で初めての裸婦「モデル」が特選を受賞する。15年には、西山塾で同門の向井久万と結婚(35年まで)。17年の第5回新文展で「大原女」が再び特選となり、戦後21年の第2回日展でも「浴み」が三たび特選を受賞した。しかし、官展に出品したのは、翌22年の第3回日展までで、23年向井久万、上村松篁、秋野不矩、沢宏靭、橋本明治、福田豊四郎、吉岡竪二ら、京都・東京両系の画家による創造美術の結成に参加、創立会員となる。「世界性に立脚する日本絵画の創造」をうたった同会は、26年新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となったため、会員として以後同展に連年出品する。30年第19回新制作展に出品した「大原の女」で上村松園賞を受賞、43年第32回展出品作「凉粧」は文化庁買上げとなった。この間、29年現代日本美術展、30年日本国際美術展に出品し、また35年より裸婦を一時中断して舞妓を多く描く。49年新制作協会日本画部が独立、創画会を結成して以降、創立会員として、50年第2回展「帰路」、56年第8回「白扇」、60年第12回「臥る裸婦」をはじめ毎年出品した。また36年エジプト・アメリカ等8ケ国、48年イタリア・スペイン、52年インド、56年シルクロードを旅行。44年東京の彩壷堂での第1回個展以降、50年、56年と東京セントラル絵画館で個展を開催した。裸婦や舞妓を題材に、おおらかで豊饒な女性の美を描き続けた画業であった。52年京都日本画専門学校校長となり、53年京都府と京都市の文化功労賞を受賞した。

河津光浚

没年月日:1990/10/22

 文化財の壁画模写の第一人者として知られる河津光浚は、10月22日午前8時20分、心不全のため京都市左京区の大原記念病院で死去した。享年91。明治32(1899)年2月20日、福岡県田川郡に生まれ、本名友重。同45年郷里の南画家日高東岳に画の手ほどきを受けたのち、大正7年上京し、山内多聞に入門する。翌8年第1回中央美術社展に「池の端」が初入選し、9年の明治絵画協会展で「初秋」が一席を受賞した。同10年古典を研究するため京都に移り、11年第4回帝展に「日なが」が初入選した。同12年には京都市立絵画専門学校別科本科に入学し、15年卒業。この間菊池契月、入江波光に師事し、卒業後、契月の画塾に入塾する。また京都市展や新文展(第6回)、戦後は日展(第3、5回)にも出品した。29年師契月の推挙と文化財保護審議会の委嘱を受け、平等院鳳凰堂壁画の模写に参加(31年まで)。以後、醍醐寺五重塔壁画模写(32~35年)、法界寺阿弥陀堂壁画(35~37年)、室生寺金堂壁画(38~39年)、宇治上神社本殿扉壁画(39年)、栄山寺八角堂壁画(40~41年)、海住山寺五重塔扉壁画(41年)、教王護国寺真言七祖像(43~44年)、富貴寺大堂壁画(44~47年、模写主任)など、数多くの壁画の模写に携わった。また30年には、花火の飛火で罹災した京都御所小御所の襖絵、杉戸を模写(32年まで)し、59年には、京都・城南宮の依頼により城南宮絵馬を復元している。こうした仕事により、模写班の一人として33年京都新聞社文化賞、36年京都府・京都市文化功労賞を受賞。壁画模写の第一人者として、61年には財団法人京都府文化財保護基金より文化財保護基金功労章を受章した。また壁画の模写を中心に、39年ヤマト画廊(銀座)で初の個展を開催。その後、40年松坂屋(上野)、42年福岡県文化会館、48年土橋画廊(京都)・ヤマト画廊(銀座)・福岡県文化会館、53年北九州市立美術館、61年京都府工芸美術陳列所(京都府ギャラリー)で、展覧会を行った。

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