本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





髙山辰雄

没年月日:2007/09/14

 日本画家で日本芸術院会員の髙山辰雄は9月14日午後4時19分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年95。1912(明治45)年6月26日、大分県大分市大字大分(現、大分市中央町)の鍛冶業の家の二男として生まれる。幼少より同郷の田能村竹田の墨絵に親しむ。1930(昭和5)年東京美術学校の受験を家族に許され、上京して日本画家の荻生天泉のもとで一か月ほど受験準備をするが不合格に終わり、大分県立大分中学校を卒業後、東京に住む実姉をたよりに上京。天泉の紹介で東京美術学校助教授の小泉勝爾に指導を受け、31年東京美術学校日本画科に入学する。33年松岡映丘の画塾木之華社に入り、早くから映丘にその才能を嘱望された。同年日本画会に「冬の庭」を出品し、翌34年、在学中ながら第15回帝展に「湯泉」が初入選。36年卒業制作に「砂丘」を描き、首席で卒業した。37年、映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが34年に結成した瑠爽画社に参加、40年同会解散後、41年旧会員を中心として新たに一采社を結成する。また43年川崎小虎、山本丘人らにより結成された国土会にも第1回展より出品した。しかし帝展の後を受けた新文展には入選と落選を繰り返し、必ずしも順調な歩みとはいえない状況が続く。戦後、46年春の第1回日展では「子供と牛」が落選。この頃山本丘人よりゴーギャンの伝記を勧められて読み、その生き方に大きな感銘を受ける。46年秋の第2回日展で「浴室」が特選を受賞。続いて49年第5回日展「少女」が再び特選となり、徐々に画壇での地位を確かなものにしていく。51年第7回「樹下」が白寿賞となり、この時期ゴーギャンの画風に通ずる鮮やかな色彩と簡略化された色面構成の作品を発表する。次いで53年第9回日展「月」、54年第10回「朝」、56年第12回「沼」、57年第13回「岑」など、一転して作者の内面性を強く感じさせる心象的風景画を制作。59年第2回新日展出品作「白翳」により翌年日本芸術院賞を受賞し、65年には64年第7回新日展に出品した幻想的な「穹」により芸術選奨文部大臣賞を受賞。杉山寧、東山魁夷とともに“日展三山”として人気を集め、戦後の日本画を牽引する役割を果たした。62年第5回新日展に中国南宋時代の画家梁楷の「出山釈迦図」に啓発されて描いた「出山」を出品して以降再び人物をモティーフとし、69年第1回改組日展「行人」、72年第4回「坐す人」、74年第6回「冬」、75年第7回「地」など量塊的な人物表現を展開し、その後77年第9回「いだく」、80年遊星展「白い襟のある」、81年第13回日展「二人」、83年同第15回「星辰」など、人間存在を鋭く追求した作品を発表。73年には個展「日月星辰髙山辰雄展」を開催、85年、2001(平成13)年にも開催し、風景・人物・静物といった森羅万象からなる「日月星辰」をライフワークとした。この間、61年一采社解散後、同会メンバーらと65年に始玄会を結成。70年日本芸術大賞を受け、72年日本芸術院会員、79年文化功労者となり、82年文化勲章を受章した。59年日展評議員となってのち、69年同理事、73年常務理事、75年理事長(77年まで)となり、82年東京芸術大学客員教授となる。87年から『文芸春秋』の表紙絵を担当(99年まで)。89年東京国立近代美術館で回顧展を開催、初めて描いたという牡丹の連作が中国の院体画に通ずるものとして話題を呼ぶ。90年平成大嘗祭後の祝宴大饗の儀に使用する風俗歌屏風「主基地方屏風」を制作。93年「聖家族 1993年」と題した個展を開催、黒群緑を用いたモノクロームの作品群により新境地を示す。95年には海外での初めての個展をパリ、エトワール三越で開催。99年、構想以来16年の歳月を経て高野山金剛峯寺に屏風絵を奉納。亡くなる前年の第38回日展に「自寫像2006年」を出品するなど、晩年まで制作意欲は衰えなかった。回顧展としては80年に大分県立芸術会館(神奈川県立近代美術館に巡回)、84年に山種美術館、87年に世田谷美術館、89年に東京国立近代美術館(京都府京都文化博物館に巡回)、富山県立近代美術館、98年にメナード美術館、2000年に日本橋髙島屋(大分市美術館、京都髙島屋、松坂屋美術館に巡回)、04年に茨城県近代美術館で開催。没後の08年には練馬区立美術館で遺作展が開催されている。

岡本彌壽子

没年月日:2007/06/25

 日本画家で日本美術院同人の岡本彌壽子は6月25日午前4時30分、老衰のため死去した。享年98。1909(明治42)年7月16日、東京青山に生まれる。1926(大正15)年東京府立第三高等女学校本科卒業。1930(昭和5)年女子美術専門学校高等師範科を卒業し、奥村土牛に師事、翌31年土牛の紹介で小林古径に入門する。34年第21回院展に「順番」が初入選し、以後終戦までの約10年間は横浜共立学園教諭として美術を教えながら制作、院展に出品を続ける。戦後は画業に専念。51年第36回「花供養」、52年第37回「秋雨」で奨励賞、53年第38回「無題」(後に「歩道」と改題)は佳作、55年第40回「猫と娘たち」、57年第42回「夕顔咲く」、60年第45回「聖夜の集い」、61年第46回「千秋」で奨励賞を受賞、62年第47回「初もうで」で日本美術院次賞を受賞。この間57年に小林古径が死去し、以降は再び奥村土牛に師事。さらに64年第49回「みたまに捧ぐ」、65年第50回「無題」(後に「集う」と改題)がいずれも奨励賞を受賞。67年第52回「花供養」は日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。日常的な出来事を背景にした女性をテーマに、女性的な淡い色彩と繊細な描線からなるナイーブな画風を展開し、76年第61回「夢のうたげ(1)」は内閣総理大臣賞を、86年第71回「折り鶴へのねがい」は文部大臣賞を受賞した。88年に回顧展を横浜市民ギャラリーで開催。1992(平成4)年横浜文化賞、97年神奈川文化賞を受賞。

白鳥映雪

没年月日:2007/06/15

 日本画家で日本芸術院会員の白鳥映雪は6月15日、心筋梗塞のため長野県小諸市の病院で死去した。享年95。  1912(明治45)年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現、小諸市)の農家に生まれる。本名九寿男。1932(昭和7)年周囲の反対を押し切って上京し、遠縁にあたる水彩画家丸山晩霞の紹介で伊東深水の画塾に入門、美人画を学ぶ。夜間は川端画学校、本郷洋画研究所でデッサンを学んだ。深水や山川秀峰らが結成した日本画院展に39年「母と子」が入選したのち、40年から41年にかけて報知新聞社委嘱特派員を兼ね従軍画家として中国に渡る。43年第6回新文展に「生家」が初入選。戦後47年より日展に出品。50年第6回「立秋」が特選・白寿賞となり、57年第13回「ボンゴ」が再び特選・白寿賞を受賞する。その後も美人画や人物群像を中心に制作しながら、仏像と美人画を組み合わせた72年第4回改組日展「掌」、74年同第6回「追想(琉球ようどれ廟)」などを制作。86年には名古屋の尼僧堂に参禅して取材した「寂照」を第18回展に出品して内閣総理大臣賞を受賞。この間65年日展会員、82年評議員となる。女性の人物画を中心に清新な作品を数多く残した。また51年新橋演舞場での日本舞踊「大仏開眼」をはじめ、5年間にわたり舞台考証を手がけ、66年林芙美子の小説挿絵(『現代日本文学館』30 文芸春秋)を描いた。85年佐久市立近代美術館で「日本画の歩み50年―白鳥映雪展」が開催。晩年はとくに能楽をテーマにした作品を発表し、1994(平成6)年には前年制作の「菊慈童」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。97年に日本芸術院会員となる。2003年には脳梗塞で倒れ右手が使えなくなるものの、左手で再起をはかり日展への出品を続けた。故郷の長野県小諸市には、代表作を展示する市立小諸高原美術館・白鳥映雪館がある。

岩壁冨士夫

没年月日:2007/04/19

 日本画家で日本美術院同人の岩壁冨士夫は4月19日午後0時20分、肝不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。1925(大正14)年12月4日、神奈川県茅ケ崎市に生まれる。本名富士夫。1947(昭和22)年東京美術学校日本画科を卒業後は、小中学校で教鞭をとりながら院展に出品するが、落選を繰り返す。55年頃小谷津任牛に師事し、任牛門下の飛鳥会に入って研鑽を積む。56年第41回院展に「三人」が初入選、以後連続して同展に入選し、59年第44回院展「旅人」で日本美術院院友に推挙。この間飛鳥会が奥村土牛の研究会と合流し八幡会となり、土牛の指導も受ける。60年から翌年にかけ沖縄へ写生旅行を行い、以後66年まで沖縄を主題にのびやかな作風を展開する。69年にヨーロッパを巡遊、とくにポルトガルの風景との邂逅は以後の画業に決定的なものとなり、同地をテーマとしながら太い筆線と確かなデッサン力による力強い画風を確立する。75年第60回院展で「夕陽はサンタマリアに」が日本美術院賞を受賞、特待となる。77年第62回院展「モンテ・ゴールドの家族」、78年第63回「マール」、79年第64回「丘のべ」、80年第65回「望洋」、81年第66回「ビラマアール」、82年第67回「海風」と、6年連続で奨励賞を受賞する。83年第68回「マリアの家族」が再び日本美術院賞を受賞、同年同人に推挙された。84年から1989(平成元)年まで武蔵野美術大学日本画科の講師をつとめるなど、後進の育成にも力を尽くした。92年第77回院展出品作「母子」が内閣総理大臣賞を受賞。

平川敏夫

没年月日:2006/05/14

 日本画家で創画会会員の平川敏夫は5月14日、肺炎のため死去した。享年81。1924(大正13)年10月6日、愛知県宝飯郡小坂井町に生まれる。1940(昭和15)年に高等小学校を卒業、京都の図案家稲石武男の塾に住み込み、仕事の中で日本画材の扱いなど基礎を身につける。翌年太平洋戦争の勃発により京都から帰郷。戦後、47年に我妻碧宇によって結成された新日本画研究会で中村正義らとともに学ぶ。50年第1回豊橋美術展に出品した「大崎風景」(水彩画)が豊橋市長賞を受賞。同年中村正義の勧めで第3回創造美術展に出品した「街」が初入選。51年同会が新制作協会日本画部となって以後同会に出品し、54年第18回新制作展「庭四題」、58年同第22回「陶土」「陶土のある街」、62年第26回「樹濤」(文部省買上げ)「樹冬」と、三度にわたり新作家賞を受賞。63年同会会員となった。この間、60年第24回展に「白樹」を出品し、以後、各地に残る原生林を訪ね歩き、樹木を題材に生命の脈動と神秘を表現する。64年第28回「樹焔」、67年第31回「樹響」等を出品。この他、現代日本美術展、日本国際美術展や、71年現代幻想絵画展等にも招待出品。73年にはパリで個展を開催。74年創画会結成に参加し、同会会員として出品を続けた。70年代から80年代にかけて樹木と併せ、塔を主題に閑雅な作風を展開。次第にその色数を減らしながら80年代以降はマスキングによる白抜きの効果を取り入れた水墨表現を追究した。80年中日文化賞、83年愛知県教育委員会文化功労賞、85年東海テレビ文化賞を受賞。1997(平成9)年に岐阜県美術館で「華麗なる変遷 平川敏夫展」が開催されている。

今野忠一

没年月日:2006/04/15

 日本画家で日本美術院常務理事の今野忠一は4月15日、脳梗塞のためさいたま市の病院で死去した。享年91。1915(大正4)年3月26日、山形県東村山郡干布村(現、天童市上荻野戸)に生まれる。本名忠市。1931(昭和6)年山形の南画家後藤松亭に入門し、松石と号する。34年山形出身の日本画家高嶋祥光を頼って上京、児玉希望の門人となり、欣泉と号して写実的な風景画を学ぶ。しかし40年には同郷の彫刻家新海竹蔵を介して郷倉千靱の草樹社に入塾、忠一と号して花鳥画に取り組む。40年第27回院展に「菜園」が初入選。郷里での疎開ののち、戦後46年より再び院展に入選を続け、54年第39回「晩彩」、56年第41回「残雪」、59年第44回「吾妻早春」がいずれも奨励賞を受賞する。55年第40回「暮秋」は日本美術院賞、57年第42回「樹と鷺」が同賞次賞、58年第43回「老樹」は同次賞・文部大臣賞を受賞し、59年同人に推挙された。初期の花鳥画から50年代には風景画に転じ、主に山岳風景をモティーフに、写実と心象が深く融合する深遠な画境を展開。60年第45回「源流」、61年第46回「照壁」等を発表し、77年第62回「妙義」は内閣総理大臣賞を受賞した。78年から88年まで愛知県立芸術大学日本画科主任教授を務める。88年日本美術院理事に選任。1990(平成2)年郷土の天童市美術館で「今野忠一とその周辺展」を開催、以後同館で回顧展をたびたび催し、没後すぐの2006年にも追悼展を行っている。92年から96年まで『中央公論』の表紙絵を担当。92年東北芸術工科大学芸術学部美術科主任教授となる。同年には『今野忠一画集』(ぎょうせい)が刊行。2001年日本美術院常務理事となる。

佐藤圀夫

没年月日:2006/01/24

 日本画家で日本芸術院会員、名古屋芸術大学名誉教授の佐藤圀夫は1月24日、転移性肺がんのため東京都立川市内の病院で死去した。享年83。1922(大正11)年8月16日、岩手県九戸郡野田村に生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校日本画科に入学し、46年卒業。同年第31回院展に「みそあげ」が初入選し、翌47年同第32回展にも「豆ひき」が入選。48年より髙山辰雄の誘いで一采社の研究会に参加し49年の第8回一采社展より出品、以後解散する61年第20回展まで出品する。49年第5回日展に「野田村」が初入選、以後日展に出品する。51年より一采社世話役の画商栗坂信の紹介で山口蓬春に師事。54年第10回日展「冬」が特選・白寿賞を受賞し、朝日秀作美術展に推薦された。続いて59年第2回新日展で「津軽の浜」が再び特選・白寿賞となり、62年同第5回「夕凪」は菊華賞を受賞。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描く。64年日展会員、76年同評議員となり、76年第8回改組日展に「十三湖の村」を出品、翌77年同第9回「山里」は文部大臣賞を受賞した。この間、70年に名古屋芸術大学教授となる(97年まで)。88年第20回日展出品作「月明」で1989(平成元)年日本芸術院賞を受賞。同年日展理事、99年日本芸術院会員、2000年日展常務理事となる。

米陀寛

没年月日:2005/08/28

 日本画家の米陀寛は8月28日午前7時4分、多発性脳こうそくのため宇都宮市の病院で死去した。享年88。1917(大正6)年栃木県宇都宮市に生まれる。1936(昭和11)年下野中学(現、作新学院高等学校)を卒業し、神奈川県横須賀市の海軍航空技術廠科学部に入所。同年中村岳陵に入門するが、37年日中戦争の勃発に伴い現役入隊し、41年までの四年間にわたり中国大陸を転戦する。除隊した翌年の43年第6回新文展に「好日」が初入選。44年戦況の悪化により再応召を受け、飛行機整備兵として入隊。終戦後は宇都宮に戻り、同地で画家としての本格的な道を歩み始める。しばらく日展や院展、創造美術展春季展に出品、入選するも、50年代より日展への出品を重ね、67年第10回新日展で「牛」が特選、69年改組第1回日展で「北辺」が特選・白寿賞を受賞、82年日展会員となる。この間、67年「老人と軍鶏」で日春展奨励賞を受ける。その他文化庁現代美術選抜展、山種美術館賞展等に出品。個展は78年銀座松屋、81年銀座・北辰画廊、上野東武(創作陶芸個展)、88年二荒山神社宝物殿などで開催。戦前の一時期を除き、一貫して宇都宮を足場に活動を続け、“牛の米陀”と呼ばれるほどに実在感溢れる牛馬を多く描いた。いっぽう59年川治温泉・柏屋ホテル大浴場陶壁「牡鹿」を制作以来、全国各地の学校、病院、会館、図書館、ホテル等、益子焼による陶壁画を手がけた。その他81年日光二荒山神社男体山山頂鎮座1200年祭記念の大絵馬、83年宇都宮二荒山神社斎館襖絵を制作、また日光東照宮の絵馬の原画を十数年来描くなど、幅広い活動を展開した。81年栃木県文化功労賞受賞。84年『米陀寛画集』(下野新聞社)刊行。1999(平成11)年には宇都宮美術館で回顧展が開催されている。

関口正男

没年月日:2005/08/28

 日本画家で日本美術院評議員の関口正男は8月28日午前7時10分、肺炎のため埼玉県毛呂山町の病院で死去した。享年92。1912(大正元)年9月6日、東京に生まれる。1927(昭和2)年、東京府立第三中学校(現、都立両国高等学校)を卒業。33年頃、再興日本美術院同人の荒井寛方に師事、寛方門下の研究会浩然社で研鑽を積む。43年第30回院展に「小姐」が初入選。45年師寛方が急死し、その後は堅山南風に師事。戦後初めて開かれた46年第31回院展から入選を続け、47年院友となる。仏画の第一人者荒井寛方から学んだ確かな技巧を土台とし、さらに南風の指導により明快な作風を特色とした。60年代半ばより「飛鳥幻想」(64年第49回展)、「幻想火の国」(65年第50回展)等、目を古代へと向ける。66年第51回展出品作「塔」が奨励賞を受け、同年特待となる。さらに72年第57回展出品作「浄土涌現」で奨励賞、74年には法隆寺夢殿を描いた第59回展出品作「斑鳩の浄土」で日本美術院賞を受賞する。75年第60回展出品作「四天曼陀羅」以降も奨励賞受賞を重ね、83年同人に推挙された。1990(平成2)年、第75回展出品作「熊野」で文部大臣賞、95年第80回展出品作「吉祥天」で内閣総理大臣賞を受賞。96年日本美術院評議員となる。98年勲四等瑞宝章を受章。2000年にミュージアム氏家で「荒井寛方仏画の系譜―関口正男展」が開催されている。

上野泰郎

没年月日:2005/08/11

 日本画家で創画会会員、多摩美術大学名誉教授の上野泰郎は8月11日午後4時58分、肺炎のため東京目黒区の病院で死去した。享年79。1926(大正15)年1月6日、東京都豊島区に染色家の父朝太郎、松岡映丘門下の日本画家である母の間に生まれる。1943(昭和18)年東京美術学校日本画科に入学、山本丘人の指導を受ける。48年同校日本画科を卒業。同年結成された創造美術の第1回展に初入選し、以後同展に出品、50年第2回春季展で春季賞、第3回展で佳作賞、51年第3回春季展で研究賞を受賞する。51年創造美術が新制作協会日本画部となって以後は新制作展に出品し、52年第16回展、54年第18回展、57年第21回展で新作家賞、59年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展出品の「善意の人々」が神奈川県立近代美術館買上げ、65年第8回日本国際美術展出品の「漂民」が文部省買上げとなる。68年ヨーロッパ、その後も世界各地を巡遊、66年日本美術家連盟委員、69年多摩美術大学教授となる。74年新制作協会より離脱し、旧日本画部会員による創画会結成に参加。81年日本橋高島屋で個展開催。85年信濃デッサン館館主窪島誠一郎の肝煎りで、池田幹雄・大森運夫・小嶋悠司・滝沢具幸・毛利武彦・渡辺学と地の会を結成。1996(平成8)年多摩美術大学を定年退職。同年日本美術家連盟理事長に就任(~2000年)、在任中、完全学校週五日制の導入にあたり美術教育の重要性を訴えるなどの活動を行った。98年東京・千代田の聖イグナチオ教会新聖堂のステンドグラスを制作。イコンの影響を受け、敬虔なクリスチャンとして宗教的な視点から人間の“いのち”の意味を問う作品を、筆ではなく指で絵の具を塗りこめる独特の手法で描き出した。2001年には佐倉市立美術館で「上野泰郎・渡辺学展」が開催されている。

水谷愛子

没年月日:2005/03/22

 日本画家で日本美術院同人の水谷愛子は3月22日午後10時49分、くも膜下出血のため横浜市港南区の病院で死去した。享年80。1924(大正13)年8月15日広島市に生まれる。1941(昭和16)年安田高等女学校(現、安田女子高等学校)を卒業し、上京して女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学、44年に卒業して故郷の広島に戻り、戦後の46年より母校安田高等女学校の図画講師として奉職する。49年同郷の日本画家山中雪人と結婚し、横浜市に新居を構える。同49年大智勝観の紹介で中島清之に、51年には月岡栄貴の紹介で前田青邨に師事することとなる。市内の中学で美術を教えながら創作を行い、55年第40回院展に漁師を描いた「濤聲」が初入選。その後も院展に出品を続け、87年第72回展で「母と子」、1989(平成元)年第74回展で「裕太と亮ちゃん」、90年第75回展で「亮と兄ちゃん」が日本美術院賞・大観賞、91年「理季ちゃん」で五度目の院展奨励賞を受賞。また春の院展でも春季展賞、奨励賞を受賞。2000年より日本美術院同人となる。民家をテーマにした作品群を経て、日常親愛の眼差しを向けている身近な老人や幼児を主題とし、確かなデッサン力に裏付けられた大胆な線描と温もりある色塊との生命力溢れる構成で表現した。03年に夫山中雪人が他界、翌04年に夫の遺作36点と自作31点および大下図3点を呉市立美術館に寄贈する。没後間もない05年秋には同館で「山中雪人・水谷愛子二人展」が開催された。

川面稜一

没年月日:2005/01/09

 日本画家であり、建造物彩色の国選定保存技術保持者の川面稜一氏は、1月9日、脳梗塞のため死去した。享年91。1914(大正3)年、大阪市曽根崎に生まれる。1934(昭和9)年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)を卒業。40年、絵画専門学校時代の恩師である入江波光より、文部省紀元2600年事業・法隆寺金堂解体修理に伴う壁画模写事業に、助手の一人として参加を要請される。戦時下の応召のため一旦現場を離れるが、47年に復帰。この事業では、安田靱彦を筆頭とする東京班と入江波光を筆頭とする京都班とに分かれ、東京班は壁画の印刷の上に胡粉をひいて厚彩色仕上げとしたのに対し、京都班は壁画をコロタイプ印刷したものを下敷きに壁画の引き写しを行い、薄彩色仕上げとした。50年、文化財保護委員会美術工芸課の委嘱を受け、56年の京都・平等院鳳凰堂中堂扉絵をはじめとする五ヶ寺の所蔵する美術作品の模写事業を立案し、60年には京都・醍醐寺五重塔初重壁画、62年京都・法界寺阿弥陀堂壁画、63年奈良・室生寺金堂壁画及び金堂諸像の板光背、66年京都・海住山寺五重塔内陣扉絵など、次々と重要な美術作品の現状模写を行った。平等院鳳凰堂中堂の扉絵模写を手掛けた際に翼楼の柱の朱塗を依頼されたのが、「建造物彩色」というそれまでにはなかった新しいジャンルの確立、そして氏がその第一人者となる契機となった。柱をはじめとする建築部材の現存する彩色を、綿密に調査した上でそれを尊重しつつ修理・復元彩色を施す「建造物彩色」は、60年代頃になってようやく定着を見せ始める。その皮切りとなった事業が、68年の京都・六波羅蜜寺本堂の向拝の復原彩色事業であった。その後、京都・北野天満宮本殿中門、西本願寺唐門、二条城唐門などをはじめ数多くの建造物の復原彩色を手掛け、72年には、二条城二の丸御殿襖絵の模写事業が開始された。三十年を経た現在もなお継続中のこの事業では、経年変化を見せる建築と新しく模写を行った襖絵とが調和するように、制作当初と考えられる彩色を復元しつつ、それに一定の古色を付す「古色復元模写」の手法が初めて取り入れられた。84年、有限会社川面美術研究所を設立。その後も、京都・清水寺三重塔、富貴寺大堂内部壁画の彩色復元など、携わった事業は数多く、建造物彩色の草分けとしてその業績は特筆に値する。84年、京都府文化財保護基金より文化功労賞を受賞。86年、内閣総理大臣より木杯授与。1997(平成9)年、建造物彩色選定保存技術保持者に認定。2000年、日本建築学会より建築学会文化賞を受賞。また、養父野村芳光が祇園都をどりの舞台美術を担当していた縁により、それを継承し長年にわたって背景画制作を行った。92年、舞台美術協会より伊藤熹朔賞受賞。その他、美術作品のレプリカ製作にも携わった。

佐藤太清

没年月日:2004/11/06

 日本画家の佐藤太清は11月6日午後7時50分、多臓器不全のため東京都板橋区の病院で死去した。享年90。1913(大正2)年11月10日、京都府福知山市に生まれる。本名實。早くに両親が病没し、近所の梶原家で育てられる。1931(昭和6)年東京の親戚を頼って上京。川端画学校や太平洋美術学校に通った後、33年児玉希望に内弟子として入門、雅号を「太清」とする。希望の「花鳥をやれ」という指導に従って研鑽を重ね、入門後十年を経た43年第6回新文展に「かすみ網」が初入選。45年板橋区大谷口に転居し、以後没するまで同地にて制作を行う。46年第2回より日展に出品し、47年第3回日展で「清韻」が特選となった。48年第4回日展に「幽韻」を出品し、52年第8回日展で「睡蓮」が再び特選を受賞。ルドンを愛好し、叙情的な自然景の表現を指向する。この間師希望の国風会と伊東深水の青衿会が発展的解消をとげた50年の日月社結成に際しては委員をつとめ、52年の同会第3回展で「雨の日」が受賞、61年の解散まで毎回出品した。55年第11回日展「冬池」など抽象風の作品も発表した後、58年第1回新日展「立葵」、59年第2回「寂」、64年第7回「花」、65年第8回「潮騒」など、装飾的な花鳥画を制作。66年第9回新日展で「風騒」が文部大臣賞となり、翌年同作品により日本芸術院賞を受賞した。同年上野不忍池弁天堂格天井および杉戸絵を制作。80年第12回改組日展に「旅の朝」を発表して以降、81年第13回「旅の夕暮」、83年第15回「最果の旅」など“旅シリーズ”の作品を発表する。生涯を通じ、とくに花鳥画と風景画を融合させた内面性の強い作風は“花鳥風景”として高く評価された。60年日展会員、65年評議員、71年理事、75年監事、80年常務理事、83年事務局長、85年理事長に就任、また80年に日本芸術院会員となった。84年銀座松屋ほかで「佐藤太清展」が開催。88年文化功労者となる。1992(平成4)年文化勲章受章。93年には故郷福知山市の名誉市民に選ばれた。2004年の逝去にあたっては板橋区文化・国際交流財団より区民文化栄誉賞が贈られた。板橋区立美術館では1994年に文化勲章受章記念展、2006年に遺作展を開催している。

佐藤多持

没年月日:2004/10/21

 日本画家の佐藤多持は10月21日午前6時40分、心不全のため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年85。1919(大正8)年4月16日、東京府北多摩郡国分寺町の真言宗観音寺の次男として生まれる。本名保。戦後用いるようになった雅号の「多持」は、仏法加護の四天王のうち多聞天と持国天の頭文字をとったもの。1937(昭和12)年に東京美術学校日本画科に入学して結城素明に学ぶが、41年太平洋戦争のため繰上げ卒業となり、42年麻布三連帯に入隊。しかし演習中の怪我がもとで除隊、43年より昭和第一工業学校夜間部の教師となり、戦後は工業高校となった同校に85年まで勤めた。戦後一時期、山本丘人に師事するかたわら油絵も試み、47年第1回展より第10回展まで旺玄会に出品。また読売アンデパンダン展にも第1回展より日本画を出品。56年無所属となり、翌57年幸田侑三らと知求会を結成、1996(平成8)年同会の解散まで制作発表の場とする。ジャパン・アートフェスティバル展にも出品し、77年第3回国際平和美術展で特別賞を受賞した。戦後まもない頃に尾瀬へのスケッチ旅行で水芭蕉に出会って以来、一貫してこれをモティーフに描き続けたが、その作風は具象的なものから、半球形や垂直線、水平線のパターンによる構成を経て、60年代より大胆な墨線の円弧を用いた抽象的でリズム感のある“水芭蕉曼陀羅”シリーズへと移行していった。80年生家である観音寺庫裏客殿の襖絵38面を5年越しで完成。85年池田20世紀美術館で「水芭蕉曼陀羅・佐藤多持の世界展」、86年青梅市立美術館で「創造の展開―佐藤多持代表作展」、92年たましん歴史・美術館で「佐藤多持の世界 水芭蕉曼陀羅が生れるまで」展、99年には中国・上海中国画院美術館で「日本佐藤多持絵画展」が開催された。著書に『戦時下の絵日誌―ある美術教師の青春』(けやき出版、1985年)がある。

長谷川青澄

没年月日:2004/07/23

 日本画家の長谷川青澄は7月23日午後11時15分、心不全のため大阪府吹田市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年9月25日、長野県下水内郡飯山町(現、飯山市)に生まれる。本名義治。飯山中学(現、飯山北高等学校)在学中に日本画家菊池契月の兄、細野順耳に日本画の手ほどきを受ける。1933(昭和8)年一家上京のため飯山中学を中退、翌年吉村忠夫に入門し大和絵を学ぶ。44年郷里に疎開し、戦後長野県展に出品し47年には信毎賞、48年には県展賞を受賞。51年に大阪へ転住し、翌年には美人画家中村貞以に師事、画塾春泥会で研鑽を積む。53年第38回院展に「庭」が初入選、以後毎年院展に入選を続けた。59年第44回院展で「羊飼」が奨励賞次点となり、60年第45回「小鳥の店」が奨励賞、62年第47回「寂」が日本美術院次賞を受賞。60年代末から日本の古典芸能に造詣を深めて能や狂言、舞踊などを好んでテーマとするようになり、69年第54回「京舞花の旅」、73年第58回「朝顔話」、75年第60回「日想観(弱法師)」、77年第62回「狂言」、78年第63回「狂言」、79年第64回「京を舞う」、81年第66回「皎」、82年第67回「京を舞う」が、いずれも奨励賞を受賞し、82年日本美術院同人に推挙された。同年には師中村貞以の逝去により春泥会を引き継ぎ、師の七回忌後は画塾含翠として継承、師より受けついだ大阪での日本美術院の伝統を守り続けた。1989(平成元)年日本美術院評議員となる。90年第75回院展には石山寺に籠り、源氏物語を執筆する紫式部を描いた「月〈石山〉」で内閣総理大臣賞を受賞。92年郷里の飯山市公民館において作品展、同年から翌年にかけて日本橋と大阪の三越で回顧展を開催。94年には第79回院展に「足柄の山姥」を出品し、文部大臣賞を受賞。99年には東大阪市民美術センターで「長谷川青澄展―その純なる魂の軌跡」が開催されている。

加山又造

没年月日:2004/04/06

 日本画家の加山又造は4月6日午後10時25分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年76。1927(昭和2)年9月24日、京都市上京区相国寺東門前町に、西陣織の衣装図案家の父加山勝也、母千恵の長男として生まれる。祖父は京狩野派の画師。44年京都市立美術工芸学校絵画科を修了後、東京美術学校日本画科に入学。45年学徒動員で学業を中断するが、翌年再開し、49年同校を卒業、山本丘人に師事する。丘人らが結成した創造美術の第2回展に「風神雷神」を出品するも落選。50年早々より創造美術の研究会に出席、その年の春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選し、研究会賞を受賞する。51年創造美術が新制作派協会に合流、新制作協会日本画部となって以後、同年第15回新制作展で『ライフ』誌でみたラスコー洞窟の壁画に触発されて制作した「原始時代」が新作家賞を受賞、同会会友となる。次いで53年第17回展「月と犀」等四点、54年第18回展「悲しき鹿」「迷える鹿」、55年第19回展「駈ける」が連続して新作家賞を受賞、56年同会会員となる。この時期、動物をモティーフにシュルレアリスムや未来派等、ヨーロッパの造形手法を果敢に取り入れた作風を展開、戦後日本画の革新的傾向を代表するものとして大きな注目を浴びた。58年第2回グッゲンハイム賞国際美術展に「飛翔」を出品、川端実、山口長男らとともに団体賞を受賞した。57年にはその後親交を結んだ横山操を知り、58年ごろから縣治朗に切金の技術を学ぶ。59年には村越画廊の主催により横山操、石本正と轟会を結成。この頃より61年第25回新制作展「火の島」等、大画面を中心とした装飾的な画風へ移行。65年には大阪・金剛寺所蔵の「日月山水図屏風」に想を得た第29回新制作展「夏冬山水」および翌年の第30回展「春秋波濤」、さらに67年第9回日本国際美術展「雪月花」、70年第34回新制作展「千羽鶴」など、大和絵や琳派の技法を鋭い現代的感性のもとに展開した作品を発表、73年日本芸術大賞を受賞、74年創画会発足とともに会員となった。78年東京国立近代美術館の吹き抜けを飾る壁画として「雪・月・花」を八年越しで完成。“現代の琳派”と称され、幅広い人気を集める一方で、70年代には「黒い薔薇の裸婦」「白い薔薇の裸婦」等、繊細な線描による裸婦像で女性美を追求。また70年代末からは水墨表現に本格的に取り組み、身延山久遠寺本堂天井画「墨龍」(84年)などを発表。技術的には染色手法からエアガン、バイブレーター噴霧器まであらゆる技法を駆使しつつ、北宋山水に私淑し90年前後より倣作を行った。その他にも陶板壁画や緞帳、ジャンボ機や客船の内装デザイン、BMW社から依頼されたアートカーのデザインなど、工芸的な仕事に幅広く挑戦している。66~73年、77~88年に多摩美術大学教授、88~95年に東京芸術大学教授をつとめ、80年、前年の第6回創画会出品作「月光波濤」により芸術選奨文部大臣賞、82年第1回美術文化振興協会賞を受賞。1995(平成7)年東京芸術大学名誉教授、97年文化功労者となる。同年天龍寺法堂の天井画「雲龍」が完成。98年には東京国立近代美術館で回顧展が開催された。2003年文化勲章受章。

山崎隆

没年月日:2004/03/31

 日本画家の山崎隆は3月31日午前10時18分、肺がんのため京都市東山区の病院で死去した。享年88。 1916(大正5)年1月2日、京都市に生まれる。1933(昭和8)年京都市立絵画専門学校入学、梥本一洋に師事。在学中に田口壮や西垣壽一らと新日本画研究会結成に参加。36年京都市立絵画専門学校を卒業し、同校研究科に入学。37年日華事変に応召するが、翌年中国北部で負傷し召集解除。39年には新日本画研究会から派生した歴程美術協会の第1回試作展に新会友として、バウハウスの影響が色濃い幾何学的構成の「象」や「コルサージュ」を出品。翌年同協会の会員となり、42年の第8回展まで出品を続け、その間「扇面ちらし」(40年第3回展)等日本の伝統的な形式を取り入れながら“構成”を主眼とした室内装飾を度々試みている。41年京都市立絵画専門学校研究科を卒業。42年に太平洋戦争に応召し、戦後46年に復員。京都市立絵画専門学校の後輩三上誠と歴程美術協会の再建を期し48年三上、星野真吾、不動茂弥、八木一夫らとともにパンリアルを、翌年日本画家だけでパンリアル美術協会を結成した。同協会では樹幹、亀甲、岩山などのモティーフを通して東洋の神秘思想を掬う作品を発表、また歴程時代に修得した、ホルマリンを用いてより自由に日本画材を扱う手法をパンリアルの仲間に伝えるなど、戦前における前衛的日本画との橋渡し的役割も果たした。57年京都美術懇話会に入会、翌年パンリアル美術協会を離れ、以後無所属で活動を続けた。戦中戦後の前衛的な画業については、88年の山口県立美術館「日本画・昭和の熱き鼓動」展、1994(平成6)年のO美術館「日本画の抽象―その日本的特質」展、99年の京都国立近代美術館「日本の前衛―Art into Life 1900-1940」展等の企画により改めて脚光を浴びることとなった。

中野弘彦

没年月日:2004/03/04

 日本画家で成安造形大学名誉教授の中野弘彦は3月4日午前2時20分、肺炎のため京都市伏見区の病院で死去した。享年76。1927(昭和2)年4月3日、山口県に生まれる。45年京都市立美術工芸学校を卒業。52年第16回新制作展に「風景」が初入選。その後、絵を描くことをやめ、57年立命館大学文学部哲学科哲学専攻を卒業し、59年京都大学文学部哲学科美学美術史学専攻で国内留学修了。67年には中断していた絵画制作を本格的に再開し、70年新制作春季展賞、70・73年京展市長賞、74・76~78・80年創画会春季展賞、75年フランス美術賞展佳作、76年スペイン美術賞展優秀賞と受賞を重ねる。78年には第1回東京セントラル美術館日本画大賞展で「西行」が優秀賞、京都府主催の京都美術展で大賞、続いて79年、鴨長明に自分の心象世界をオーバーラップさせた「方丈記」により第5回山種美術館賞展優秀賞を受ける。82年京都・朝日会館画廊、83年東京画廊及びギャラリー上田で個展開催。1989(平成元)年何必館・京都現代美術館での個展「藤原定家と鴨長明の無常」以降は同館にて96年「山頭火と芭蕉」、2003年「無常 存在の根源を観る」を開催。泥絵具系を基軸に、ボールペンやサインペン、鉛筆などを使用しながら樹や植物、家、そして空気を澄明な色彩の中に再構成し、日本の精神文化、とりわけ無常を視覚化するという形而上学的な絵画世界を築いた。90年第3回京都美術文化賞を受賞、翌年その受賞記念展を京都府文化博物館で開催。93年から97年まで成安造形芸術大学教授に就任。93年京都府文化賞功労賞を、98年京都市文化功労者賞を受賞。93・95・97年には資生堂が主催する椿会展に招待出品。98年には京都市美術館で回顧展「中野弘彦―無常をめぐる」が開催された。また1984~86年に雑誌『新潮』の表紙絵を担当、86年に『宮沢賢治童話の世界』を出版している。

仲村進

没年月日:2004/02/20

 日本画家の仲村進は2月20日午後6時51分、肺炎のため長野県飯田市の病院で死去した。享年74。  1929(昭和4)年3月4日、長野県飯田市松尾に農家の二男として生まれる。43年14歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡り、原始林に囲まれて牛や馬と一体になって土地を耕すという、のちの絵画表現の原体験となる生活を送る。外地で終戦を迎え、46年に帰国。帰郷後、郷里の南画家片桐白登の絵画教室に通い、52年より長野県美術展に入選、出品するようになり、53年第6回展に「市場の見える風景」で信州美術会賞を受賞。54年第18回新制作展に「夕の賛歌」が初入選、以後8回入選、春季展賞受賞。その間夜警の仕事をしながら、60年より隣村出身の日本画家亀割隆の紹介で、日展作家である高山辰雄の研究会にその都度上京して参加するようになり、66年には第9回新日展に「陶工」が初入選、以来日展に出品する。73年改組第5回展で「雪の日」、79年第11回展で「農夫と馬」が特選、84年第16回展で「大地」が会員賞受賞。71年から74年まで高山辰雄門下による日本画七人展を開催、77年にはほぼ同メンバーによりグループ湧展を立ち上げる。この間78年銀座・資生堂ギャラリーにおける初個展が好評を博し、81年「西に向う牛群」により第6回山種美術館賞大賞を受賞。しかしその評価に安住することなく、受賞直後には板に直接線刻を入れ着彩する方法を試み、85年の個展では風景をモティーフに変革を見せる。1994(平成6)年には「残照の地」で第26回日展内閣総理大臣賞を受賞。生涯郷里で農業に従事しながら制作を行う姿勢を貫き、94年個展「故里山河」では里山への愛惜を込めた屏風等を、99年個展「大地・牛哀歌」では風景から再び牛のモティーフへと立ち戻るものの、赤と黒を基調に生命感溢れる連作を発表した。逝去した2004年には遺族より作品35点が飯田市美術博物館へ寄贈、06年には同館にて回顧展が開催されている。

守屋多々志

没年月日:2003/12/22

 日本画家の守屋多々志は12月22日午後0時45分、心不全のため東京都中央区の病院で死去した。享年91。1912(大正元)年8月10日、岐阜県大垣市の味噌たまり醸造元の家に生まれる。本名正。生後百日目に米屋を営む分家の養子となり、謡曲に堪能な養父と文学好きな養母に育てられる。初め油彩画を描いていたが、雑誌で「平治物語絵巻」の甲冑武者の群像を見て開眼、1930(昭和5)年に旧制大垣中学校(現、大垣北高等学校)を卒業後、上京し歴史画の大家であった前田青邨に書生として入門、写生と並行して「源氏物語絵巻」「餓鬼草紙」「豊明絵草紙」等の絵巻物を模写して研鑽を積む。さらに東京美術学校日本画科へ入学し、36年の卒業制作「白雨」は川端玉章賞を受けた。翌年現役兵として応召し満州、ハルピンに駐屯、41年には海軍軍令部で小説家の吉川英治とともに海軍史編纂に従事、同年海軍記念館に壁画「蒙古襲来」を制作した。また同年の第28回院展に「継信忠信」が初入選。戦後、49年第34回院展出品の「ふるさとの家一~四」が奨励賞を受ける。50年には『週刊朝日』の連載小説、吉川英治「新平家物語」の挿絵原画を担当、また黒沢明監督の映画「羅生門」の衣装をデザインする。54年総理府留学生となりイタリアに2年間滞在、この間ローマやポンペイで壁画を模写し、レッジョ・ディ・カラブリア市やローマでスケッチ展を開催する。60年鎌倉円覚寺金堂天井画「白龍」を制作し、67年には法隆寺金堂壁画の再現模写事業に参加、第10号壁「薬師浄土」を担当する。また72年には文化庁より高松塚古墳壁画模写を委嘱、76年には飛鳥保存財団の依頼による高松塚壁画展示の模写作成に総監督として携わった。この間、院展で70年第55回「砂に還る(楼蘭に想う)」、71年第56回「牡丹燈記」、73年第58回「水灔」がともに奨励賞となり、74年同人に推挙される。さらに77年第62回「駒競べ」が文部大臣賞、78年第63回「平家厳島納経」により翌年芸術選奨文部大臣賞、85年第70回院展「愛縛清浄」は内閣総理大臣賞を受賞。東西交流をテーマとした79年第64回「キオストロの少年使節」、1990(平成2)年第75回「アメリカ留学(津田梅子)」、92年第77回「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」等、確かな考証に現代的な解釈を加えた歴史画を次々に発表した。その間、79年高野山金剛峯寺別殿襖絵82面を完成させ、81年ローマ法王ヨハネ・パウロ二世に東京大司教区から献上された「ジェロニモ天草四郎」を制作。85年には本能寺の依頼による「法華宗開祖日降聖人絵巻」を制作する。83年には百人一首の画像研究に打ち込み、「百人一首歌人像」(学研)を制作。84年から86年にかけて『日本経済新聞』の連載小説、黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」の、また85年には『朝日新聞』の連載小説、城山三郎「秀吉と武吉」の挿絵原画を担当。86年神奈川新聞社より第35回神奈川文化賞を授与。88年財団法人仏教伝道協会より第23回仏教伝道文化賞を受賞。89年には御下命により紀宮殿下御成年の御扇子を揮毫。91年東京ステーションギャラリーで開催された「守屋多々志展―源氏物語と歴史を彩った女性たち」に源氏物語をテーマとした新作の扇面画130点を出品。92年には神社本庁の依頼による「平成御大礼絵巻」を完成させる。2001年文化勲章受章。同年大垣市守屋多々志美術館が開館。また66年愛知芸術大学講師、74年同教授(78年まで)となり美術学部長、教育資料館長を歴任した。回顧展は94年に岐阜県美術館で、96年に茨城県近代美術館で開催されている。美術史家の守屋謙二は実兄。

to page top