本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





石本正

没年月日:2015/09/26

 伝統や規範にとらわれず、自らの心を通して作品を描き続けた日本画家、石本正は9月26日、不整脈による心停止のため死去した。享年95。 1920(大正9)年7月3日、島根県那賀郡岡見村(現、浜田市三隅町岡見)に生まれる。本名正(ただし)。幼少期には豊かな自然の中で小さな生き物と触れあい、素直な感性を培った。1927(昭和2)年岡見尋常小学校へ入学。2年生のときにおじから油絵の具を贈られ、担任の先生と使い方を試行錯誤する。33年島根県立浜田中学校(現、島根県立浜田高等学校)入学。この頃映画や音楽、文学に興味を持ち、独自に油絵も描いていたが、画家になろうとは考えていなかった。38年同校を卒業。40年京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科予科へ入学するが、伝統的な円山四條派の形式に則った授業に馴染めなかった石本はあまり授業に出席せず、関西美術院や華畝会の研究所などへ通い、石膏や人物のデッサンを学んだ。2回生への進級制作の折には、伊藤若冲の絵に触発され軍鶏を描いたという。44年同校を繰り上げ卒業し、学徒動員で気象第一連隊に配属、翌年復員。47年から大阪の高校で美術教師を務めながら作品を制作し、ボッティチェリの「春」をイメージした「三人の少女」で第3回日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。このときの作品は福田平八郎に激賞され、以後第5回展まで入選を重ねた。49年9月には京都市立美術専門学校助手となる。 50年京都市立美術大学の先輩画家・秋野不矩の勧めで発表の場を創造美術展へ移し、同年「五条坂」「踊子」が入選。翌51年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、その第15回展へ「影」「旅へのいざない」を出品して新作家賞受賞、同会の会友に推挙され、以後第37回展(73年)まで出品した。「踊子」「旅へのいざない」はいずれも女性群像で、石本が50年にパブロ・ピカソの「青の時代」に出てくる女性によく似たモデルと出会ったことから生まれた作品であるという。しかしこの時代の作品は当時、古くさいとして画壇に受け入れられず、石本は次第に自らの愛するロマネスク美術の壁画に見られる太い線を用いた作品を描くようになる。 53年第17回新制作展へ、いずれも太い線を用いて描いた「高原」と「女」を出品、新作家賞を受賞する。作品は高く評価され、55年頃までこうした作品を描き続けるが、迎合的な制作に納得のいかない思いを抱いていた石本は、56年以降従来の花鳥画とはまったく異なる、擦り付けるような強い筆触を感じさせる鳥の絵を次々に発表する。同年の第20回展へは、木下順二脚本の舞台「夕鶴」を見て描いた「双鶴」、さらに「野鳥」の2点を出品し、同会日本画部の会員に推挙され、翌年の第21回展へは自ら編み出したペインティングナイフを用いる技法で描いた「樹根と鳥」を出品。いっときその技法が若い画家たちの間で流行したという。またこの頃より、石本は舞妓や芸妓を描こうと思い、祇園に通い始めた。58年京都の土井画廊で初の個展を開催。59年12月、加山又造・横山操らと轟会(村越画廊)を発足させ、「横臥舞妓」「鶏」「丘の木」を出品、以降も第15回展まで出品した。60年10月村越画廊・彌生画廊主催「石本正個展」(文藝春秋画廊)開催、出品作の「桃花鳥」が翌年1月、文部省買上となる。また60年には京都市立美術大学講師となった。 64年はじめての渡欧を果たし、憧れつづけたヨーロッパの中世美術に触れ、規範にとらわれない自由な美的感覚に共感。同年の新制作展から舞妓を題材とした作品を毎回発表する。石本は田舎出の娘が煌びやかに着飾った、華やかな中に孤独な翳りを見せる舞妓を描きたいとし、顔や手の黒い舞妓を発表、きれいごとではないリアリティがあるなどと評された。67年の第31回展へは、横たわる三人の裸の舞妓を描いた「横臥舞妓」を出品。68年5月「石本正風景展」(彩壺堂)を開催。70年には舞妓の作品ばかりを並べた「石本正人物画展」(彩壺堂)を開催した。このときの「横臥舞妓」などが「日本画における裸婦表現に一エポックを画した」として、翌71年第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞。同年3月舞妓をテーマとしたシリーズで第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以後はすべての賞を辞退した。この間、65年に京都市立美術大学助教授(70年教授)となり、69年11月には学生等とともにイタリアへ研修旅行に出かける。以後この旅行は慣例となり、ヨーロッパや中国、インドなどを訪れた。 74年、新制作協会日本画部会員全員が同会を退会し、新たに創画会を結成。9月の第1回展へ石本は「鶏頭」を出品、以後毎回出品する。この頃から石本の女性像は舞妓ではない裸婦が中心となり、アンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」に触発されて描いた83年の「夢」(個展、東京セントラル絵画館)頃から背景に絨毯を描きこむようになった。86年3月京都市立芸術大学教授を退任し、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年11月兼素洞にて花の作品ばかりを集めた「石本正「花」展」を開催。この頃から石本は物語性のある作品を描くようになり、映画の舞踏会シーンを思い浮かべて描いたという「牡丹」(89年、第16回創画展)や、花火をイメージしたという「菊」(94年)、また平泉・中尊寺の古面を思い出して描いたという「空蝉」(94年)など、対象を通して得たイメージを画面に表現するようになる。96年には初の本格的な展覧会となる「石本正展―聖なる視線のかなたに―」を開催、92年以降の近作37点と素描50点が展観された。2001年故郷である島根県那賀郡三隅町(現、島根県浜田市三隅町)に石正美術館が開館し、名誉館長となる。この開館を機に、石本はふるさとを意識した作品を描くようになり、創画展へも「幡竜湖のおとめ」(02年、第29回展)などを出品。03年10月には画一的な表現しか認めない当時の画壇に新風を吹かせたいという思いから、石本がはっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来」展を開催。09年石正美術館の塔に長年の念願だった天井画を老若男女592人とともに制作する。また06年以降、創画展へは牡丹や薊などの花を描いた作品を中心に発表していたが、14年の第41回展へは薄物をまとい横たわるふたりの裸婦を描いた「裸婦姉妹」を出品、翌15年10月の第42回展へは舞妓を描いた「舞妓座像」が未完のまま出品された。

近藤弘明

没年月日:2015/09/13

 東洋の仏教的真理を幻想美によって現わし、視覚に語りかけてくる作品を目指し描き続けた日本画家、近藤弘明は9月13日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年9月14日、東京市下谷区龍泉寺町(現、台東区龍泉3丁目)に生まれる。本名弘明(ひろあき)。家は天台宗寺門派三井寺(園城寺)の末寺にあたる天台宗龍光山三高寺正宝院で、江戸七不動のひとつ、飛不動とも呼ばれた。父・近藤教圓は仏画をよくし、近藤は幼いころから絵の具溶きや絹張りの手伝いをしていたという。1930(昭和5)年、6歳のときに得度受戒し僧籍に入る。36年3月下谷区立龍泉寺小学校を卒業。中学時代には川端画学校のデッサン教室へ通い、一時洋画家となることも考えたという。41年3月文京区の駒込中学校卒業、大正大学師範科に入学する。その一方で当時東京美術学校教授であった常岡文亀に植物写生を習い、43年大学を中退、東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科へ入学した。44年陸軍軽井沢航空教育隊に志願し入隊、八ヶ岳山麓にてグライダー訓練を受ける。訓練中に見た小さな高山植物が強く印象に残り、後の作風に影響を及ぼしたという。その後罹病、陸軍学校を点々とし、終戦後は兄が大僧正となっていた滋賀県大津の園城寺法泉院に滞在、療養に努めるとともに、兄から天台哲学を学ぶ。この頃一時文学を志し、志賀直哉のもとへ通うが、「文学よりも絵に向いている」との助言から、47年画業に専念するため上京、翌年4月東京美術学校に復学した。49年3月東京美術学校を卒業し、以後も同校助教授だった山本丘人に教えを受けた。 50年第3回創造美術展へ「街裏」を出品、初入選を果たす。翌年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、同年の第15回展へ「木馬館」「六区高台」を出品、以後第37回展(1973年)まで毎回出品し、新作家賞を4度受賞、63年には会員となる。また同会の春季展や日本画部研究会へも積極的に出品し、受賞を重ねた。54年第18回新制作展へ「夜の華」など4点を出品。この頃から異形ともいえる幻想的な花や鳥をモチーフとした作品が制作されるようになる。翌年12月尾崎光子と結婚。59年1月、初となる個展(画廊ひろし)開催。60年1月第11回秀作美術展に「月の華」(1959年)が選抜出品され、第15、17回展(1964、66年)にも選抜される。同年7月第2回みづゑ賞選抜展に「解脱」「迦陵頻伽」を出品。この頃より仏教的な世界観に基づくものと考えられる作品が描かれ始める。62年5月第5回現代日本美術展へ「慈母」(のちに「天上の華」と改題)「飛翔」を招待出品、翌年5月第7回日本国際美術展へ「善と悪の園」を招待出品する。以後も前者には第8回展(1968年)まで、後者には第9回展(1967年)まで出品、65年の第8回日本国際美術展では、「寂光」がブリヂストン美術館賞となる。66年第5回福島繁太郎賞受賞。60年代半ば頃より、各モチーフが徐々に具象的となり、画面が遠近法に即した広がりを見せる風景として構成されるようになる。また「幻影」「寂園」(1968年、個展・彩壺堂)など、具体的な菩薩の姿を描いた作品が表れはじめる。71年「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「清夜」を出品、優秀賞となる。74年新制作協会日本画部会員全員が同会を退会、新たに創画会を結成し、9月の第1回展へ「黄泉の華園」を出品、第13回展(1986年)まで出品した。75年6月「一つの神秘的空間を示す画業にたいして」第7回日本芸術大賞が贈られる。76年12月東京・杉並から神奈川県小田原市にアトリエを移転、寂静居と名付けた。82年3月第4回日本秀作美術展に「幻桜」が選抜される。同展へは1990(平成2)年の第12回展に「幻秋(秋の七草)」で再び選抜されて以降、第25回展(2003年)までに10回選抜された。83年10月第10回創画展へ「霊桜」を出品。この頃より描かれるモチーフが現実の草花となり、日本の伝統的な花鳥画を思わせるような構図の画面となっていく。85年第21回神奈川県美術展の審査員となり、以後第31回展(1995年)まで務め、第32回から第39回展(2003年)までは顧問を務めた。86年2月、師である山本丘人が没し、翌年の第13回春季創画展を最後に創画会を退会、以後無所属となる。91年4月紺綬褒章受章。93年9月、初期作品から最新作までを集めた回顧展「華と祈り 近藤弘明展」開催。2000年4月二度目となる紺綬褒章を受章。同年7月には「サンクチュエール日光 近藤弘明展―聖地の神秘を描く」が開催された。

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

 美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

牛尾武

没年月日:2012/12/31

 日本画家の牛尾武は12月31日、虚血性心不全のため死去した。享年57。 1955(昭和30)年3月3日、兵庫県神戸市に生まれる。本名武司。神戸芸術学林日本画科で学び76年卒業、神戸在住の日本画家昇外義に師事する。76年兵庫県展優秀賞、78年兵庫県日本画家連盟展県知事賞、79年兵庫県日本画家連盟展最優秀賞を受賞。79年に上京し、84~87年上野の森美術館絵画大賞展、85・88年東京セントラル美術館日本画大賞展に出品。85年の第3回上野の森美術館絵画大賞展では「澄秋」で特別優秀賞を受賞。1989(平成元)年には茨城県石岡市の華園寺本堂障壁画を制作。90年の銀座・資生堂ギャラリー個展〈線の蘇生〉では、北海道に取材した風景を中心に発表、繊細な線描と墨を主とする淡い色彩による豊かな画趣が一躍注目を浴びた。さらに91年第11回山種美術館賞展で「晨響(銀河と流星の滝)」により優秀賞を受賞。同年東京を離れ和歌山県田辺に居を移し、熊野をテーマに紀伊半島の自然美や風景を描く。95年には四曲一双屏風を中心とする大作による「牛尾武新作展 遥かなる原郷」を箱根・成川美術館で開催。99年には田辺市高山寺の薬師堂障壁画を制作。2004年から空海をテーマに高野山や四国、京都、奈良、さらには中国に至るゆかりの地に取材し、04~13年の4度にわたり成川美術館で作品を発表。10年には世界遺産熊野本宮館、11年には南方熊楠顕彰館で「残響の熊野」と題して田辺と熊野の風景作品を発表。同地域の芸術・文化振興に大きく貢献したことが評価され、没後の13年に田辺市文化賞が贈られた。

松本哲男

没年月日:2012/11/15

 日本画家の松本哲男は11月15日、石川県立美術館での第97回院展オープニングに出席するため金沢市に滞在中、呼吸不全のため死去した。享年69。 1943(昭和18)年7月29日、栃木県佐野市に生まれる。61年栃木県立佐野高等学校を卒業後、日本画家の塚原哲夫に絵を学ぶ。はじめは東京藝術大学建築科を志望、2年間浪人の後、宇都宮大学教育学部美術科に入学。68年同大学を卒業後、栃木県立那須高等学校に美術教師として赴任、那須の自然の魅力にうたれて本格的に日本画を描き始める。72年には栃木県立今市高等学校に異動し、79年まで高校教師を続けながら制作に励んだ。69年第54回院展に「冬山」が初入選、以後院展に出品を続ける。72年第57回院展に「叢林」を出品、院友に推挙され今野忠一に師事、74年第59回院展で「山」が日本美術院賞・大観賞を受賞、特待に推され郷倉千靱に師事。75年第1回栃木県文化奨励賞を受賞。76年第61回院展で日光の金精山をテーマに山岳風景を心象化した「巌」が二度目の日本美術院賞・大観賞を得る。一連の山岳シリーズでは、山肌や樹林を細密に描写して独自の画風を示した。77年には第4回山種美術館賞展で「山」が人気賞を獲得。その後79年「壮」、80年「天壇」、81年「トレド」、82年「山水譜」、83年「大同石仏」と連続して院展奨励賞を受賞し、83年日本美術院同人に推挙。「大同石仏」は84年に芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。87年「悠久の宙・中国を描く―松本哲男展」が西武アートフォーラムで開催。1989(平成元)年第74回院展で「エローラ(カイラ・サナータ寺院)」が文部大臣賞、93年第78回院展では「グランド・キャニオン」が内閣総理大臣賞を受賞。那須の自然に始まりスペイン、ネパール、中国、アメリカの大自然を題材に、繊細な筆線で画面を埋め尽くし、モティーフの感触を確かめながら自然に近づく制作態度を一貫して保つ。93年に東北芸術工科大学芸術学部助教授(95年より教授)となって後進の指導にあたり、2006年から11年まで学長を務めた(11年には同大学名誉学長に就任)。94年、栃木県文化功労者として表彰。同年にパリ・三越エトワールで「地と宙へ 松本哲男展」を開催。05年には、90年代半ばより取り組んでいた世界三大瀑布(ナイアガラ、ヴィクトリア・フォールズ、イグアス)のシリーズを完成させ、宇都宮美術館で記念展を開催。08年には同シリーズにより第16回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。この間06年には日本美術院理事となる。没後の13年から14年にかけて、佐野市立吉澤記念美術館にて師の一人であり終生親交を結んだ塚原哲夫との二人展が開催されている。

室井東志生

没年月日:2012/10/05

 日本画家で日展理事の室井東志生は10月5日、胃がんのため死去した。享年77。 1935(昭和10)年2月25日、福島県下郷町に生まれる。本名利夫。中学時代より日本画に憧れ、高校卒業後に上京して東京都内の美術学校に通うも身体を壊し帰郷。中学教師を勤める傍ら県総合美術展覧会(県展)に出品、審査員の大山忠作と交流を深め再び上京、大山の紹介で58年橋本明治に師事する。60年第3回新日展に東志生の雅号で応募した「緑蔭」が初入選し、以後毎年入選。67年法隆寺金堂壁画再現模写で橋本明治班に加わり11号壁の普賢菩薩像模写に従事。69年には橋本明治の助手として皇居新宮殿正殿松の間杉戸絵「桜」制作に携わる。69年改組第1回日展で「家族」が特選・白寿賞、78年10回展で「女人」が特選を受賞。83年日展会員となる。85年には院展の高橋常雄、大矢紀、日展の中路融人とともに異歩騎会を結成。1995(平成7)年「夢結」で第27回日展会員賞受賞。99年日展評議員となる。2004年第36回改組日展で舞妓と孔雀を描いた「青曄」が内閣総理大臣賞を受賞。12年日展理事となる。気品のある中に妖しさをはらんだ作風を追究、舞妓や、五代目坂東玉三郎、五代目柳家小さんら著名人をモデルとした作品を発表し人気を博した。

福王寺法林

没年月日:2012/02/21

 日本画家で文化勲章受章者の福王寺法林は2月21日午後1時27分、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年91。 1920(大正9)年11月10日、山形県米沢市に生まれる。本名雄一。生家は上杉藩の槍術師範の家系。6歳の時、父親との狩猟の折に不慮の事故で左目を失明。8歳で狩野派の画家上村廣成に絵の手ほどきを受ける。1936(昭和11)年画家を志して上京。41年召集を受け中国戦線に配属、45年香港で捕虜となって46年復員。49年第34回日本美術院展に「山村風景」が初入選。この頃、同郷の美術評論家今泉篤男と出会い、以後その指導を受けることとなる。51年日本美術院同人の田中青坪に師事。55年の第40回院展「朝」が奨励賞・白寿賞となる。以後院展で56年第41回「かりん」、57年第42回「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、58年第43回「麦」が佳作・白寿賞、59年第44回「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、60年第45回「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同年同人となる。翌年、奥村土牛が法林に預けた門下生と、法林門下生により組織された画塾濤林会を結成。65年第50回院展出品作「島灯」で第1回山種美術財団賞(文部省買上げ)を、71年第56回「山腹の石仏」で内閣総理大臣賞を受賞。74年ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、ヘリコプターや飛行機による取材を重ね、鳥瞰の視点によるスペクタクルな風景作品を発表し続けた。77年、前年の第61回院展「ヒマラヤ連峰」により芸術選奨文部大臣賞を受賞し、84年には前年の第68回院展「ヒマラヤの花」により日本芸術院賞を受賞。1991(平成3)年日本美術院理事に選任。同年大回顧展が日本橋高島屋他で開催された。94年日本芸術院会員となる。98年文化功労者となり、2004年文化勲章受章。この間01年に米沢市上杉博物館、02年に茨城県近代美術館他にて、次男で同じく日本美術院同人の一彦との親子展が開催されている。

小泉淳作

没年月日:2012/01/09

 日本画家の小泉淳作は1月9日午前10時8分、肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年87。 1924(大正13)年10月26日、政治家で美術蒐集家としても知られる小泉策太郎(号・三申)の七男として神奈川県鎌倉市に生まれる。5歳の時より東京で育ち、慶應義塾幼稚舎、普通部、文学部予科(仏文)に通う。予科では小説家を志望するも、同級で後に小説家となる安岡章太郎の作品に衝撃を受け、画家を目指すようになり、東京美術学校日本画科の助教授だった常岡文亀のもとに通って日本画を習い始める。1943(昭和18)年慶應を中退、東京美術学校日本画科に入学する。44年応召するが結核を患い、療養生活を送る。48年に東京美術学校に復学、山本丘人のクラスで学び、52年に卒業後も生涯の絵の師と慕うことになる。卒業後はデザインの仕事の傍ら画業に精進し、54年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選、以後新制作展に出品する。50年代から70年代半ばにかけて、数多くの「顔」と題した人物像や「鎌倉風景」などの風景画を新制作協会展や個展に発表。この間美術評論家の田近憲三より中国の唐宋絵画の複製を見せられ感銘を受け、画業の転機を迎える。73年第2回山種美術館賞展に「わかれの日」を出品、77年の同第4回展では「奥伊豆風景」が内にこもる力強さを評価され、優秀賞を受賞。この間74年に新制作協会日本画部が同会を離脱し創画会を結成するが、その1回展に出品したのを最後に同会を辞し、個展を中心に作品を発表するようになり、画壇と距離を置いた姿勢から孤高の画家とも評された。78年「山を切る道」が文化庁買上げとなる。84年銀座のギャラリー上田で開かれた個展において大作「秩父の山」をはじめとする水墨山水を発表。以後も「霊峰石鎚」「積丹の岩山」「早春の積丹半島」など中国文人画研究の成果による水墨山水や、院体画の研究をうかがわせる花卉図を発表。88年に『アトリエからの眺め』(築地書館)、『小泉淳作画集』(求龍堂)を刊行。1996(平成7)年より鎌倉・建長寺開創750年記念事業の一環として法堂天井画の雲龍図を手がけ、2000年に完成。引き続き京都・建仁寺慶讃800年記念行事に奉納する法堂天井画の双龍図を制作。01年に東京ステーションギャラリーで回顧展「ひとり歩き その軌跡―小泉淳作展」が開催。02年には北海道河西郡中札内美術村内に小泉淳作美術館が開館。同年『小泉淳作作品集』(講談社)を刊行。04年第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。06年には奈良・東大寺の聖武天皇1250年御遠忌記念事業の一環として制作を依頼された《聖武天皇・光明皇后御影》対幅が完成、大仏殿で奉納式が営まれる。引き続き10年には同寺本坊の襖絵四十面を完成、その途中で椎間板ヘルニアを患い、胃がんを切除しながらの制作だった。11年8月には『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、没後の12年に『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(日本経済新聞出版社)として出版されている。

小谷津雅美

没年月日:2011/10/11

 日本画家で日本美術院同人の小谷津雅美は10月11日、肝細胞がんのため死去した。享年74。 1933(昭和8)年2月3日、東京都新宿区下落合に日本美術院の日本画家小谷津任牛の長男として生まれる。高校時代に母が脳溢血で倒れ、その看病のため高校を中退。在宅の間、父の手伝いをしながら絵を描くようになる。53年再興第38回院展に「夢の調べ」が初入選。55年高校の先輩である鎌倉秀雄の紹介で安田靫彦に師事。同年日本美術院院友に推挙。58年黎会展(高島屋)へ参加。60年第45回院展で「花と女」が奨励賞を得て以来、62年第47回展「粧い」が日本美術院次賞、63年第48回展「燦歌」、64年第49回展「樹精」、68年第53回展「船を待つ日」、69年第54回展「浜の話」、70年第55回展「燦」、71年第56回展「待つ」が白寿賞・G賞、83年第68回展「静韻」、85年第70回展「白韻」、86年第71回展「浄韻」、87年第72回展「文殊」、1989(平成元)年第74回展「梵天(東寺)」、91年第76回展「大威徳明王(東寺)」が奨励賞、98年第83回展「終宴」で天心記念茨城賞を受賞し、日本美術院同人となる。2003年第88回展「松花遊悠」で文部科学大臣賞を受賞。06年第91回院展出品の「桜韻」で内閣総理大臣賞受賞。人物から仏画のモティーフを経て、1990年代からは四季折々にうつろう日本の自然の美しさを描き出した。

工藤甲人

没年月日:2011/07/29

 日本画家で東京藝術大学名誉教授の工藤甲人は7月29日、老衰のため神奈川県平塚市内で死去した。享年95。 1915(大正4)年7月30日、青森県中津軽郡百田村(現、弘前市)の農家に生まれる。本名儀助。少年の頃は詩人に憧れていたが、16歳の頃から画家への志が芽生え、1934(昭和9)年に上京、翌年より川端画学校日本画科で岡村葵園の指導を受ける。同校では友人の西村勇より西洋の絵画思想や理論を叩き込まれ、とくにシュールレアリズムに興味を持ち始める。39年第1回日本画院展に「樹」、第2回新美術人協会展に「樹夜」を工藤八甲の号で出品、後者は推奨作品となる。新美術人協会展への出品をきっかけに福田豊四郎の研究会に出席し、指導を受ける。40年、42年と応召、中国大陸の戦線へ渡り、45年の敗戦直前に復員。しばらく郷里で農業に従事した後、福田豊四郎の呼びかけに応じて制作活動を再開する。50年第3回創造美術展に「蓮」が入選し、翌51年創造美術と新制作派協会の合流による新制作協会日本画部設立後は同会に出品。51年第15回新制作展にヒエロニムス・ボッシュの影響が色濃い「愉しき仲間」2点、56年同第20回にも「冬の樹木」「樹木のうた」を出品し、ともに新作家賞を受賞した。62年に弘前市から神奈川県平塚市に転居。63年第7回日本国際美術展「枯葉」が神奈川県立近代美術館賞、翌64年第6回現代日本美術展「地の手と目」が優秀賞を受賞。さらに64年新制作春季展「秋風の譜」「枯葉の夢」により春季展賞を受賞、同年新制作協会会員となる。樹木や動物、蝶などをモティーフに、郷愁や宗教感を感じさせる鮮麗で夢幻的な心象世界を描き出し、現代日本画に新生面を切り拓く。71年東京藝術大学助教授、78年教授となり、73年同大学イタリア初期ルネサンス壁画調査団に参加。83年退官後、名誉教授となった。また74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、会員となる。82年第1回美術文化振興協会賞受賞。87年東京・有楽町アート・フォーラムにて「いのちあるものの交響詩―工藤甲人展」を開催、同展での透徹した自然観照と豊かな詩的幻想を結合させた独自の表現が評価され、翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞。88年より沖縄県立芸術大学客員教授。1991(平成3)年平塚市美術館他で「画業50年 工藤甲人展―夢幻の彼方から」を開催、同展に対し翌年毎日芸術賞を受賞。99年に増上寺天井画「華中安居」を制作。2007年には郷里の青森県立美術館で「工藤甲人展―夢と覚醒のはざまに」が開催された。

曲子光男

没年月日:2011/07/19

 日本画家で日展参与の曲子光男は7月19日、老衰のため死去した。享年96。 1915(大正4)年3月12日、北海道磯谷郡蘭越町港に生まれる。旧姓赤井。5歳で父を失い、9歳で石川県河北郡七塚村秋浜にある祖父の実家に預けられた後、10歳で遠縁にあたる京都の友禅業曲子光峰の養子となる。1927(昭和2)年京都市立美術工芸学校に入学。次いで京都市立絵画専門学校で西山翠嶂、川村曼舟らの指導を受け、35年より堂本印象に師事、その画塾東丘社に入る。36年京都市立絵画専門学校本科を卒業し、同年の文展鑑査展で「濱木綿の丘」が初入選、選奨となる。38年第1回東丘社展に「鳥の群」を出品し東丘賞を受賞。同年応召し、41年まで華北に派遣。43年再び出征、バンコクに赴く。46年復員後、47年第3回日展に「秋陽」が入選、続いて48年第4回「入汐」、49年第5回「彩秋」と出品し、51年第7回日展で「製鋼工場」が特選・朝倉賞を受賞した。52年同第8回に「港」を無鑑査出品。以後55年初の日展審査員をつとめ、58年会員、70年評議員、1995(平成7)年参与となる。いっぽう84年より東丘社幹事長をつとめ、92年顧問となる。84年京都府文化賞功労賞を受賞。生を受けた北海道の雄大な自然や、幼年の一時を過ごした北陸の風土を思わせる重厚な風景を描き続けた。93年石川県立美術館において特別陳列「日本画家 曲子光男の世界」が開催されている。長男は日本画家で日展会員の曲子明良。

三輪良平

没年月日:2011/04/20

 日本画家の三輪良平は4月20日、肺炎のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年10月29日、京都市東山区の表具師の次男として生まれる。51年京都市立美術専門学校を卒業後、同校専攻科に進み、53年修了。在学中の51年より山口華楊に師事し、華楊が主宰する晨鳥社で研鑽を積む。52年第8回日展に「憩ひ」が初入選し、56年第12回日展で「裸像」が特選・白寿賞を受賞。この頃、中路融人ら晨鳥社の若手と研究会「あすなろ」を結成。60年第3回新日展では、現代的感性により舞妓三人の坐像を描いた「舞妓」が再び特選・白寿賞となり、62年第5回展では人物の形と色を単純化した「裸婦」が菊華賞を受賞。翌63年は審査員をつとめ、64年日展会員となる。若い頃より肺疾患や肝臓病等と闘いながら、裸婦や舞妓、大原女等を題材として清麗な女性美を描いた。84年日展評議員となる。1993(平成5)年京都府文化賞功労賞受賞。没後の2011年に遺族より東近江市近江商人博物館へ作品が寄贈、翌年同館で回顧展が開催された。

石田武

没年月日:2010/12/24

 日本画家の石田武は12月24日、腎不全のため横浜市の病院で死去した。享年88。1922(大正11)年4月27日、京都市の西陣織職人の家に生まれる。本名武雄。1935(昭和10)年京都市立美術工芸学校図案科に入学、図案を山鹿清華、日本画を森守明、洋画を太田喜二郎に学ぶ。40年に同校を卒業し、大阪丸高商事宣伝部に入社。43年より45年まで応召、復員ののち、46年より翌年にかけて京都新制作研究所に学び、主に桑田道夫の指導を受ける。50年頃より児童図書のイラストを描き始める。59年東京に居を写し、この頃より動物図鑑などの挿絵の仕事に専念するようになる。67年小説家の戸川幸夫とともにアフリカ、ヨーロッパに旅行。その生態を研究し、翌68年『世界の動物』『世界の鳥』をフランスなど数か国で出版した。71年日本画に転向し、翌年三越の新鋭選抜展に「冬の風景」を出品、73年第2回山種美術館賞展で「林」が大賞を受賞する。74年第6回日展に「雪晨」を出品。80年第2回日本秀作美術展に「虚空」が選ばれ出品。79年、85年に東京セントラル絵画館で、1992(平成4)年に西武アート・フォーラムで個展を開催。個展を中心に、明快かつ鋭い筆致と安定した描写力による写実的な作品を発表し続けた。

濱田台兒

没年月日:2010/09/01

 日本画家で日本芸術院会員の濱田台兒は、9月1日に死去した。享年93。1916(大正5)年11月5日、鳥取県気高郡浜村町に生まれる。本名健一。1935(昭和10)年19歳の時に伊東深水の内弟子となり、翌年日本画会展に「厨」が初入選。37年応召するが、翌年中国の台児荘で戦傷を受けて内地に送還。39年陸軍病院入院中に二科展に水彩画「慰問の少女」を出品して入選。41年第4回新文展に「黄風」が初入選する。翌42年第5回新文展で軍隊での体験を生かした「黄流」が特選となり、戦後46年第2回日展「夢殿」も特選を受賞した。以後も日展を中心に活動し、47年招待、50年より依嘱出品となり、50年第6回展に「斑鳩の門」、51年第7回展に「澗泉」等を出品する。いっぽう50年伊東深水、児玉希望らにより結成された日月社に参加し、その第1回展「父の肖像」が奨励賞を受賞。62年日展会員となり、翌年三カ月間ヨーロッパ11カ国を取材旅行。伊東深水門では塾頭を務めたが、日展評議員となった72年に深水が死去、翌年より橋本明治に師事する。76年第8回改組日展で沖縄女性を描いた「花容」が内閣総理大臣賞となる。79年ソ連文化相の招きにより日ソ美術家友好使節団の一員としてソビエト連邦各地を旅し、その折の取材に基づき第11回改組日展に「女辯護士」を出品、翌年同作により日本芸術院賞を受賞。優れた色彩感覚とモダンな形態把握による人物画で個性を発揮した。72年日展評議員、81年より理事。83年に松屋銀座、1990(平成8)年に郷里の鳥取県立博物館で回顧展を開催。その間89年に日本芸術院会員に就任。94年に日展事務局長、95年から97年まで理事長を務めた。

岩崎巴人

没年月日:2010/05/09

 日本画家の岩崎巴人は5月9日、千葉県館山市にて間質性肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年11月12日、東京都新宿区に生まれる。本名彌寿彦。1931(昭和6)年川端画学校夜間部に入学、日本画を専攻する。34年玉村方久斗が主宰するホクト社第5回展に「少女」「風景」を出品。37年第9回青龍社展に岩崎巴生の名で「海」が初入選。翌年小林古径の門に入り、38年第25回院展に「芝」が入選、横山大観から高い評価を得る。42年に出征、復員後の47年に再び院展に入選し、院友となるが50年に脱退。一方で新興美術院の再興に参加、会員となり、以後同展に「情熱の終末」(1952年第2回)等を出品。58年谷口山郷、長崎莫人らと日本表現派を結成、68年に脱退するまで出品を続ける。この他、現代日本美術展、日本国際美術展、「これが日本画だ」展等にも出品。71年インド、スリランカへ旅行し、以後、仏伝画や仏教的テーマの作品を制作するようになる。77年には禅林寺で出家、得度し、その後も異色の画僧として活躍。南画的フォーヴの画風を展開し、「河童屏風」(1979年)、「降魔成道」(1983年)等飄逸さを加えた作品を発表する。70年上野の森美術館で岩崎巴人大作展、84年高岡市立美術館で岩崎巴人展、86年には青梅市立美術館、87年には奈良県立美術館で回顧展が開かれた。87年から翌年にかけてNHK趣味講座「水墨画入門」の講師を務める。著書に『芸術新潮』や『三彩』等に掲載のエッセイを集めた『蛸壺談義』(神無書房、1978年)。没後の2012(平成24)年には富山県水墨美術館で追悼展が開催されている。

毛利武彦

没年月日:2010/04/13

 日本画家で創画会会員、武蔵野美術大学名誉教授の毛利武彦は4月13日、肺炎のため死去した。享年89。1920(大正9)年8月25日、東京市荒川区日暮里に生まれる。父の教武は高村光雲門下の彫刻家。1935(昭和10)年、父の友人である川崎小虎に師事。38年東京美術学校日本画科入学、42年同校を繰上げ卒業となり徴兵され、45年台湾の山中で終戦を迎える。翌年復員し、家族が日本画家森村宜永宅に仮寓していた関係で、宜永より大和絵の技法を学ぶ。49年にかねてより敬愛していた山本丘人宅を突然訪ね、以後丘人に師事する。50年創造美術春季展に「風景」が入選。創造美術が新制作派協会と合流し新制作協会が設立された後は、新制作展日本画部に出品。55年第19回展、61年第25回展、62年第26回展で新作家賞を得、64年新制作協会会員となる。74年に新制作協会日本画部全員が同協会を退会し、創画会を結成した後は創画展に出品を続けた。クレーの作風を取り込んだ50年代の風景からビュッフェやミノーの影響を受けた骨太な表現を経て、70年代の馬シリーズや80年代のキリスト教に題材をとった作品などで自らの絵画世界を構築。重厚な構成と筆致により精神性を秘めた作風を築いた。55年に山本丘人門下の研究・発表会である凡樹画社、74年には美術団体の枠を超えて組織された遊星会、85年の創画会主力メンバーによる地の会の結成に参加。制作の一方、48年から82年まで慶應義塾高等学校の美術科教諭を務め、また58年より武蔵野美術大学で教鞭をとるなど長年後進の指導にあたった。1989(平成元)年武蔵野美術大学図書館において作品展を開催。91年同大学を定年退職、名誉教授となる。同年『毛利武彦画集』を求龍堂より刊行。没して間もない2010年夏には「毛利武彦の軌跡展」が練馬区立美術館で開催、翌年の一周忌には『幻駿忌 毛利武彦随想集』が刊行された。

堂本元次

没年月日:2010/01/04

 日本画家で日展参事の堂本元次は1月4日、胸部動脈瘤破裂のため死去した。享年86。1923(大正12)年4月9日、京都市に生まれる。旧姓塩谷。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校図案科を卒業後、京都市立絵画専門学校日本画科に学び、43年繰り上げ卒業。学徒動員で出征し45年復員。叔父堂本印象に師事し、51年その画塾東丘社に入塾、東丘社展では非具象性の強い実験的な作品を発表した。この間、47年第3回日展に「石庭」が初入選し、50年第6回日展で「白壁の土蔵」が特選を受賞、52年第8回日展「室内」が再び特選となる。54年より日展に依嘱出品し、60年第3回新日展で「窯壁」が菊華賞を受賞。62年初の審査員をつとめ、翌63年日展会員となった。63年ヨーロッパに旅行し、64年第7回新日展「コロッセオ」、68年第11回「或る日」等ヨーロッパに取材した作品を発表。72年日展評議員となる。79年日中文化交流使節団の一員として訪中してからは中国の雄大な風景に魅せられ、同地に取材した詩情豊かな作品を発表。82年第14回改組日展で「土匂う里」が内閣総理大臣賞を受賞。87年日展理事となる。同年「懸空寺」で日本芸術院賞を受賞。同年京都市文化功労者の表彰を受け、1989(平成元)年京都府文化賞功労賞を受賞。2001年脳内出血で倒れるも、その後回復し翌年の第34回日展に「神苑の新雪」を出品した。

平山郁夫

没年月日:2009/12/02

 仏教やシルクロードを題材に描き続けた日本画家で、国際的な文化財保護に尽力した文化勲章受章者、平山郁夫は12月2日午後0時38分、脳梗塞のため東京都内の病院で死去した。享年79。1930(昭和5)年6月15日、広島県の生口島(現、尾道市瀬戸田町)に生まれる。45年広島市の修道中学校3年の時、勤労動員先の広島市陸軍兵器補給廠で原子爆弾のため被爆。46年大伯父で彫金家の清水南山に画家への道を勧められる。47年東京美術学校日本画科予科に入学し、49年同校が東京藝術大学となって後、52年に卒業、卒業制作「三人姉妹」は藝大買上げとなる。卒業と同時に前田青邨に師事し、同大学美術学部日本画科副手、53年助手となる。53年第38回院展に「家路」が初入選し、以後院展に出品、55年40回院展「浅春」で院友となる。被爆の後遺症に悩む中、59年第44回院展に「仏教伝来」を出品、高い評価を得る。以後仏教世界に画題を求め、61年同第46回「入涅槃幻想」、62年第47回「受胎霊夢」がともに日本美術院賞・大観賞を受賞。62年から翌年にかけてユネスコ・フェローシップの第1回留学生としてヨーロッパへ留学。帰国後の63年第48回院展に出品した「建立金剛心図」が白寿賞・奨励賞、64年第49回「仏説長阿含経巻五」「続深海曼荼羅」は文部大臣賞となり、64年院展出品作を中心とする一連の作品により第4回福島繁太郎賞を受賞した。61年日本美術院特待、64年同人、70年評議員となり、65年第50回院展「日本美術院血脉図」、69年第54回「高耀る藤原宮の大殿」等を出品。この間66年から画商村越伸の企画による轟会に参画し、横山操・加山又造・石本正とともに作品を発表。また63年東京藝術大学非常勤講師、69年同助教授、73年教授となり、後進の育成にあたる一方、66年同大学中世オリエント遺跡学術調査団に参加。四か月間トルコに赴き、73年には同大学イタリア初期ルネサンス壁画学術調査団としてアッシジで壁画を模写した。以後毎年のように中近東、中央アジア、中国などに取材旅行し、仏教東漸を遡行してシルクロードをたどる。その成果として70年「ガンジスの夕」、第55回院展「塵耀のトルキスタン遺跡」、71年第56回「中亜熱鬧図」、74年第59回「波斯黄堂旧址」、76年第61回「マルコポーロ東方見聞行」、77年第62回「西蔵布達拉宮」等を発表。76年、80年には「平山郁夫シルクロード展」を開催、折からのシルクロードブームもあり、幅広い人気を獲得した。75年日本文物美術家友好訪中団団長として中国を訪問。76年には一連のシルクロード作品で日本芸術大賞を受賞。77年日本仏教伝道協会賞を受賞。78年第63回院展では前年に亡くなった恩師前田青邨を偲んで描いた「画禅院青邨先生還浄図」で内閣総理大臣賞を受賞。79年には自らの被爆体験をもとに描いた「広島生変図」を第64回院展に出品。82年美術振興協会賞を受賞。81年には日本美術院理事となる。88年東京藝術大学の美術学部長、1989(平成元)年には同大学の学長に就任、95年末で一度退いたが、2001年に再度選ばれ05年まで務めた。92年には日中友好協会会長となる。96年日本美術院理事長に就任。97年故郷の広島県豊田郡瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館。98年には文化勲章を受章。2000年に奈良市の薬師寺・玄奘三蔵院の「大唐西域壁画」を構想より二十年余を経て完成。同壁画は、薬師寺が始祖として仰ぐ玄奘三蔵法師の足跡を全七場面にわたって描いたもので、同寺が写経寄進で伽藍を建て、平山は自費で壁画を寄進するという、両者が願主であり施主となっての建立であった。旺盛な制作のかたわら、67年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加し、前田青邨班で第三号壁を担当。72年に発見された高松塚古墳壁画も73年より翌年にかけて模写し、82年より東京藝術大学敦煌壁画調査団長として敦煌壁画の保存修復に尽力。その他、北朝鮮の高句麗壁画古墳、カンボジアのアンコールワット遺跡など、世界の文化財保護活動に心血を注ぎ“文化財赤十字”構想を提唱、その拠点のひとつとして88年に文化財保護振興財団を設立。同年ユネスコ親善大使に任命。96年にはフランスのレジオン・ド・ヌール四等勲章、01年にフィリピンのマグサイサイ賞、04年に高句麗古墳群の世界文化遺産登録に寄与した功績で韓国政府から修交勲章興仁章を受けるなど、その国際的な文化財保護活動は海外でも高く評価された。01年、アフガニスタンのタリバン政権によるバーミヤン石窟破壊に際してはユネスコ親善大使として文化財保護を求める緊急声明を発表、さらには国外で破壊を免れている古美術品を“文化財難民”としてユネスコが管理保全し、政情安定後のアフガニスタンに返還する計画を提案した。04年には、画家としての長年の功績と文化遺産保存への国際的貢献が評価され、朝日賞を受賞。平山が提唱する“文化財赤十字”構想に応じるかたちで06年「海外の文化遺産の保護に係る国際的な協力の推進に関する法律」が成立し、その交付を受けて同年、効率的に文化遺産の国際協力に取り組むべく文化財に関わる研究者、支援機関、行政関係者等多彩な人材が参加する“文化遺産国際協力コンソーシアム”が設立された。04年には山梨県長坂町に平山郁夫シルクロード美術館が開館。07年には東京国立近代美術館・広島県立美術館で回顧展「平山郁夫 祈りの旅路」が開催。没後の11年には、その文化財保護活動を顕彰する特別展「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」が東京国立博物館で開催されている。

岩澤重夫

没年月日:2009/11/07

 日本画家で日本芸術院会員の岩澤重夫は11月7日、肺炎のため死去した。享年81。1927(昭和2)年11月25日、大分県日田郡豆田町室町(現、日田市豆田町)の米穀商の家に生まれる。父親の反対を押し切って画家を志望し、47年京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)に入学。在学中の51年第7回日展に「罌粟」が初入選、52年京都市立美術専門学校卒業後、54年堂本印象に師事し東丘社に入塾。東丘社展では実験的な抽象作品、日展では構築性の強い風景画を併行して発表する。この間55年には印象の筆頭弟子三輪晁勢の長女で、印象の姪にあたる蓉子と結婚。60年には東丘社の先輩達と位双展を組織、さらに抽象表現の可能性を追究する。59年の京都市展「古墳石室」、翌年の同展「葦のある沼」がともに市長賞となり、60年関西総合展「河岸」が第一席を受賞。同年の第3回新日展「堰」、61年第4回「晨暉」がともに特選を受賞。翌62年より日展委嘱となり、68年第11回新日展「昇る太陽」が菊華賞を受賞、72年日展会員、80年評議員となる。69年より毎年、京都市の文化財防火ポスターを手がけ、また77年福生市民会館ホール、78年日田市文化センター、82年東京歌舞伎座等の緞帳原画を制作、79年には日田市長福寺襖絵「大心海」を描き、83年銅版画集『瀧聲・春秋二題』を発刊する。83年から85年にかけて日中文化協会派遣の日本美術家訪中団に毎年参加、この訪中体験をもとに描いた「古都追想(西安)」が85年第8回山種美術館賞展で大賞を受賞。同年の第17回日展に出品した「氣」で文部大臣賞を受賞。手堅い手法による静謐かつ雄渾な風景画を描き続けた。1990(平成2)年、東京・銀座松屋他で開催した個展「現代日本画の俊英 岩澤重夫」に、故郷耶馬渓の奔流に取材した大作「天響水心」を発表。同年、原画を手がけた京都祇園祭の菊水鉾見送り画「深山菊水」が完成。同年、京都府文化功労賞を受賞。92年、第5回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。93年、前年の日展出品作「渓韻」に対して日本芸術院賞を受賞。2000年に日本芸術院会員となる。01年日展常務理事に就任。09年に文化功労者となるも、その直後に逝去。日田市の旧制中学の後輩で、その後京都で親交のあった金閣寺住職の有馬賴底より04年に依頼され、構想・制作に5年を費やした金閣寺客殿の障壁画63面が遺作となった。なお02年に西日本新聞に連載された聞き書きをもとに、10年には宇野和夫『日本画家 岩澤重夫聞き書き 天響水心』(西日本新聞社)が刊行されている。

石川義

没年月日:2009/09/12

 日本画家で日展評議員、金沢学院大学名誉教授の石川義は9月12日、心不全のため死去した。享年78。1930(昭和5)年10月10日、石川県金沢市に生まれる。47年金沢美術工芸専門学校に入学、当初彫刻を専攻するが、のち日本画科に転科。大学在学中の52年第8回日展に「杉」を初出品して入選、以後日展に出品を続ける。53年堂本印象の主宰する画塾東丘社に入塾。54年金沢市立美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)を修了、活動の拠点を京都に移す。59年第2回新日展で「礁」、68年第11回新日展で「火口原」が特選を得、69年改組第1回日展では「阿蘇」が菊華賞を受賞。78年東丘社を退会し、日本画研究グループ「玄」を結成。80年改組第12回日展で「山里」が会員賞受賞、88年日展評議員となる。日本の自然景を主なモティーフに描き続け、岩肌や樹の様相をうねるような曲線を交えて捉えながら、自然が内蔵する生気の表出につとめた。とくに82年、1994(平成6)年に開催した個展では、杉の生命力をテーマにした屏風を含む作品群を発表している。2000年金沢学院大学美術文化学部日本画教授に就任。01年「経堂への道」で第33回日展文部科学大臣賞を受賞。07年、石川県立美術館で同館へ寄贈した作品を中心に「日本の自然・原風景を描く―郷土が生んだ日本画家 石川義展」が開催されている。

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