本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





平野富山

没年月日:1989/06/22

 日展評議員、日彫会会員、太平洋美術会会員の彫刻家平野富山は6月22日午後5時20分、肺ガンのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年78。明治44(1911)年3月7日、静岡県清水市に生まれる。本名富三。清水市立江尻高等小学校を卒業して昭和3(1928)年に彫刻家を志して上京、池野哲仙に師事する。同16年より斎藤素巌に師事。翌17年第5回新文展に「女」で初入選。この頃から昭和50年代初めまで「敬吉」の号を用いる。同18年第6回新文展に「想姿」を出品したのち一時官展への出品がとだえるが、戦後の同24年第5回日展に「若者」を出品以後は一貫して日展に出品を続けた。同31年第12回日展に「若人」を出品して特選となり、同34年第2回新日展出品作「裸婦」で再び特選を受賞。同38年日展会員、同57年同評議員となった。日展審査員をしばしば務めたほか、同33年より日彫展にも出品を始め、同37年には第58回太平洋展に「習作T」「現」を初出品して文部大臣賞を受け、同年会員に推挙された。団体展出品作は塑像が多く、ブロンズ像を中心に制作したが、彩色木彫も行ない、昭和33年には平櫛田中作「鏡獅子」の彩色を担当。同60年静岡駿府博物館で「平野富山彩色木彫回顧展」が開催された。裸婦像を得意とし、若く張りのある肉体をなめらかなモデリングでとらえる。ポーズによって「流星」「かたらい」等、自然物や抽象的概念を暗示する甘美な作風を示した。

村田勝四郎

没年月日:1989/03/22

 新制作協会会員で霞が関ビル前庭の「よろこび」で知られる彫刻家村田勝四郎は、3月22日午後4時4分、肺炎のため東京都渋谷区の井上病院で死去した。享年88。明治34(1901)年8月10日、大阪市北区に生まれる。大阪府立天王寺小学校、同中学校を経て大正9(1920)年東京美術学校彫刻科塑像部に入学する。北村西望教室に学んで同14年に同科を卒業。続いて同科研究科に入り朝倉文夫の指導を受ける。同年第6回帝展に「道程」で初入選。翌15年第7回帝展に「女性」を出品して特選、翌昭和2(1927)年第8回帝展に「少女像」を出品して再び特選となる。また。同年より朝倉文夫の主宰する朝倉彫塑塾に参加し、朝倉塾彫塑展第1回展に出品。翌3年、同塾の帝展不出品に連座する。同4年、安藤照らと朝倉塾を退会し塊人社を結成し、帝展にも復帰する。同11年、塊人社が主線協会と合同して主線美術協会となるに際し同展に出品するが、同14年同会が解散したため、その彫刻部のみで再び塊人社を興す。戦後は同24年より新制作派協会に会員として参加し、以後同展に出品を続けた。同33年福岡・RKB毎日放送内に「牧神の午后」を制作して以降モニュメントやレリーフも手がけ、同45年東京霞が関ビル前庭にモニュメント「よろこび」を制作。同48年2月、日本橋三越で初の個展「村田勝四郎彫刻展-野鳥と少年-」を開催した。人体像をモチーフとし、戦前は対象の観察に忠実にもとづく温和なポーズの人体を、戦後は鳥と少年、少女を組みあわせたのびやかで軽みのある作品を中心に制作した。昭和10年から日本野鳥の会会員であり、晩年は特にトキを好んで主題としていた。清潔で無垢な作風を特色とする。同60年48点の作品を在住地である渋谷区立松涛美術館に寄贈したのを受けて、同年同美術館で「受贈記念特別陳列 村田勝四郎の彫刻」展が開かれている。(なお、年譜、出品歴は同展図録に詳しい。)

原田新八郎

没年月日:1989/02/09

 日展会員、日本彫刻会会員の彫刻家原田新八郎は、2月9日午後3時5分、肝不全のため福岡市中央区の浜の町病院で死去した。享年72。大正5(1916)年11月22日福岡県糸島郡に生まれる。昭和9(1934)年東京美術学校彫刻科本課に入学し、在学中の同13年第2回新文展に「若い女」で初入選。以後官展に出品。また、構造社にも参加して斎藤素巌に師事した。同14年東美校を卒業。翌15年の紀元2600年奉祝展に「若き時代」で入選する。同17年8月、東京府立青年学校教諭となる。戦後は郷里福岡に住んで同21年秋の第2回日展から日展への出品を続け、同31年第12回日展に「働く人」を出品して特選、翌32年同展に無鑑査出品した「漁婦」で再度特選を受賞。同35年第3回新日展に「漁婦」を出品して菊華賞を受け、同38年日展会員となる。美術教育にもたずさわり、同28年5月より福岡教育大学講師をつとめ、同37年10月同大助教授、46年7月同大教授となった。同51年福岡教育大学附属中学校校長に就任し、同55年に退官した後、私立近畿大学で教鞭をとった。同41年3月、及び同50年3月に行なわれた福岡博覧会に大作を出品するなど郷里の文化活動に積極的に参加し、同60年福岡市文化賞を受賞する。ブロンズ像を得意とし、労働にいそしむ人の姿など、人生に真摯に向かう人体像を多く制作した。 日展出品歴第2回新文展(昭和13年)「若い女」、紀元2600年奉祝展(同15年)「若き時代」、第5回新文展(同17年)「若き男」、6回「男」、第2回日展(同21年)「布を洗ふ女」、3回「憩へる女」、4回「青年の碑試作」、5回不出品、6回「或る首像」、7回「女」、8回「憩える人」、9回「海女」、10回(同29年)「海女」、11回「語る人」、12回「働く人」(特選)、13回「漁婦」(特選)、第1回新日展(同33年)「午後の陽」、(以下略歴)、5回(同37年)「土の音」、10回(同42年)「筑紫路の人」、第1回改組日展(同44年「憩う人」、5回(同48年)「旅をする人」、10回(同53年)「此処に人あり」、15回(同58年)「野火雲」、20回(同63年)「青い星」

砂澤ビッキ

没年月日:1989/01/25

 自然や生命を主題に独創的な活動を続けた木彫家砂澤ビッキは、1月25日午後9時21分、大腸ガン骨髄転移のため札幌市中央区の愛育病院で死去した。享年57。郷里北海道を拠点とし、その自然に執着を抱き続けた砂澤は、昭和6(1931)年3月6日、北海道旭川市近文の近文アイヌのエカシ(長老)の一族として旭川市に生まれた。本名恒雄。アイヌ文化の伝承に積極的に参加していた両親のもとで幼少期から木彫に親しみ、高校卒業後、同27年に上京して作家渋沢龍彦やマンガ家石川球太らと親交しつつ独学で彫刻を学ぶ。同30年第7回読売アンデパンダン展に「夜の動物」「うめき声」を出品。同32年第7回モダンアート展に「もず」「月蝕」「農夫」で初入選し、翌33年第8回同展に「動物」「小動物」「ATAMA2」「動物2」を出品して新人賞受賞。同35年同会会友となる。また、同年第1回集団現代彫刻展にも出品する。同37年モダンアート協会会員となるが同39年には退会して、同42年札幌に帰り独自の制作活動に入った。同53年には札幌から中川郡音威子府村筬島に移住し、小学校の廃校を制作の場とする。翌54年から音威子府中央公民館で「樹を語り作品展」を開催し、没年の第11回展まで毎年出品。同58年、北海道美術派遣員としてカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州に渡り、カナダの大自然の中で意欲的に制作。同地で異色作家として注目されImages of British Columbia展を開催した。個展を中心に作品を公にし、同37年の第1回個展から同39年までは、“ANIMAL”を主題に、同40年から50年代にかけては、“TENTACLE”を主題として追求。動物の生態、木の触感の研究は、カナダ渡航を機にさらに展開し、季節や風、大気の生命感を木彫にあらわす作品が登場した。北海道現代美術展(同53~57年)、北海道の美術展(同59、61、63年)のほか、「現代彫刻の歩み“木の造形”展」(神奈川県立県民ホール、同60年)など、企画展にも多く出品している。同63年10月から入院療養中であったが、翌年1月21日から開かれる「上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明展」(神奈川県立県民ホール・ギャラリー)のための制作、準備に自ら当たった。同年、第11回「樹を語り作品展-砂澤ビッキ遺作展」が音威子府公民館で行なわれている。また、用美社から『砂澤ビッキ作品集』(1989年)、『砂澤ビッキ素描 北の女』(1990年)が刊行された。

イサムノグチ

没年月日:1988/12/30

 世界的な彫刻家として活躍した日系米人イサム・ノグチは、12月30日午前2時半(日本時間同日午後4時半)肺炎のため入院中のニューヨーク大学付属病院で死去した。享年84。1904(明治37)年11月17日、英米詩壇にヨネ・ノグチとして知られた詩人野口米次郎とアメリカの女流作家レオニー・ギルモアの長男として、ロサンゼルスに生まれる。1906(明治39)年家族とともに帰国、少年期を過ごし、小学校卒業後1918(大正7)年渡米する。1919年(以下西暦で略記)より翌年にかけて彫刻家ガストン・ボーグラムに彫刻を学び、25年ナショナル・スカルプチャー・ソサエティの会員となる。同22年ニューヨーク・コロンビア大学に入学、薬学を学び、27年卒業する。この間、在学中の24年よりレオナルド・ダ・ヴィンチ芸術学校に学び、27年コロンビア大学卒業後、グッゲンハイム奨学金を得て渡仏。ブランクーシに師事しそのアトリエに出入りする一方、パリのグラン・ショーミエール、アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌28年いったん帰米し、ニューヨークのユージン・シェーン・ギャラリーで初個展を開催。30年再渡仏、さらに日本、北京、ベルリン、モスクワを経て31年帰米する。この間、日本で宇野仁松に陶芸、北京で斉白石に水墨を学ぶ。帰米後、35年マーサ・グラハム舞踏団の舞台装置を制作。同35年から翌年にかけてメキシコに滞在し、41年にはアーシル・ゴーキーとアメリカを横断旅行している。38年AP通信ビル玄関に設置するステンレス・スティールのレリーフ・コンペで1等賞を受賞、一躍名を知られる。戦後51年女優山口淑子と結婚(55年離婚)。52年広島市の依頼により設計した平和記念碑が、抽象的すぎることなどを理由に採用を拒否されるといったこともあったが、54年の「あかり展」は、紙、竹、鉄による彫刻として話題を集める。56年から58年にかけてパリ・ユネスコ本部の日本庭園、61年から64年にかけニューヨーク・チェイス・マンハッタン銀行の庭、70年大阪万博噴水、77年シカゴ・アート・インスティテュート噴水、82年カリフォルニアの彫刻庭園「カリフォルニア・シナリオ」の設計、84年フィラデルフィア・ベンジャミン・フランクリン記念のための「ライトニング・ボルト」などを制作。舞台美術からインテリアデザイン、石彫と幅広く活躍する。National Institute of Arts and letters,American Achademy of Arts and letters,American Achademy of Arts and Science,Architectural Leagueなどの会員でもあった。61年ニューヨークのロングアイランドにアトリエを構え、85年にはクィーンズ区ロングアイランドシティに「イサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアム」を完成。マンハッタン・イースートサイドの自宅マンションから同館へ通い、同館と香川県木田郡牟札町に設けたアトリエを拠点に世界を飛び回る多忙な生活を送った。当初、その活動は日米の中間で定位置を確保できなかったが、終戦直後ニューヨーク近代美術館で行なわれた「14人のアメリカ人展」に選ばれ世界的に名を知られるようになり、86年のヴェネツィア・ビエンナーレにはアメリカを代表して出品。68年ホイットニー美術館で回顧展、80年には同美術館50周年記念イサム・ノグチ展を開催している。東西両洋を融合させた作品は「三次元に書かれた書」とも評され、晩年の石彫は自然の性質を生かし枯淡の妙味を示した。代表作は上記のほか、広島の平和大橋、イスラエルのエルサレム国立美術館(60-65年)、メキシコ市の浮き彫り記念碑(35-36年)などがあり、著書に『イサム・ノグチ ある彫刻家の世界』(69年)がある。86年第2回京都賞精神科学・表現芸術部門賞、88年春の叙勲で勲三等瑞宝章、87年レーガン大統領より国民芸術勲章を受賞している。88年12月初めよりイタリアのティエトラ・サンタ市のアトリエで制作し、ニューヨークに戻った16日、疲労による肺炎のためニューヨーク大学病院に入院。23日から悪化し集中治療を受けていた。没後89年2月大阪ガレリア・アッカでブロンズによる新作展が開催された。晩年はマンハッタンのマンションに一人住まいだったが、東京に実弟の写真家野口ミチオ、アメリカ・ニューメキシコ州サンタフェに妹のアイリス・スピンデンがいる。

矢崎虎夫

没年月日:1988/09/24

 日本陶彫会副会長の彫刻家矢崎虎夫は、9月24日午前2時45分、胸部動脈りゅう破裂のため東京都小平市の自宅で死去した。享年84。明治37(1904)年7月25日、長野県茅野市に生まれ、大正12(1923)年諏訪中学校を卒業して上京、平櫛田中に師事する。昭和4年日本美術院展に初入選。5年第17回同展に「雷鳥」を出品する。6年東京美術学校彫刻科を卒業。9年日本美術院展に「小諸の母」を出品して試作賞受賞。戦後も院展に出品し、28年第38回展に「若き髪」を出品して佳作(白寿賞)、29年には「浴光立女」で、34年には「立女習作」で奨励賞(白寿賞)を受賞する。39年渡欧しオシップ・ザッキンに師事。41年日府展に「雷電像」を出品して文部大臣賞受賞。55年第1回高村光太郎大賞展に「サリーを着た女」を出品して優秀賞、57年同展には「阿修羅」、59年同展には「やまなみ」を出品して同じく優秀賞を受ける。木彫を中心にブロンズ、石膏など多様な素材を使い、仏典や歴史に取材した題材を多く手がける。受賞作のほかに、パリ・バンセンヌ公園の「雲水群像」、川崎大師の「釈迦像」、諏訪湖の「八重垣姫像」、長野市の「大観音像」などの代表作がある。

高藤鎮夫

没年月日:1988/09/10

 日展会員の彫刻家高藤鎮夫は、急性出血性胃カイヨウのため、9月10日午前3時55分名古屋市千種区の市立東市民病院で死去した。享年78。明治43(1910)年7月1日愛知県名古屋市生まれ、本名同じ。昭和6年加藤顕清に師事し、昭和15年紀元2600年奉祝展に「女立像」が初入選する。以後新文展に連年出品し、戦後も日展に第1回より出品。29年第10回日展「抵抗」、33年第1回新日展「脱衣」がともに特選となり、34年同第2回に「無風」を無鑑査出品する。翌36年より3年間委嘱出品したのち、38年同第6回で審査員をつとめ、39年日展会員となる。47年第4回改組日展でも審査員をつとめ、63年同第20回に遺作「なぎさ」が出陳された。日展を中心に、日本彫塑会、MC彫塑家集団などでも活動した。主要作品には、このほか40年「健」、42年「光と線」などがある。 新文展・日展出品略歴昭和15年紀元2600年奉祝展 女立像昭和16年第4回新文展 女立像第二昭和17年第5回新文展 女立像第三昭和18年第6回新文展 振起昭和21年第1回日展 腰掛けた女昭和21年第2回日展 希望昭和22年第3回日展 豊秋昭和23年第4回日展 若い女昭和24年第5回日展 若い女(C)昭和25年第6回日展 若い女(D)昭和27年第8回日展 新晴昭和28年第9回日展 萠昭和29年第10回日展 抵抗(特選)昭和31年第12回日展 伸展昭和33年第1回新日展 脱衣(特選)昭和34年第2回新日展 無風(無鑑査)昭和35年第3回新日展 青春讃(委嘱)昭和36年第4回新日展 ある日若く(委嘱)昭和37年第5回新日展 珠(委嘱)昭和38年第6回新日展 陽(審査員)昭和39年第7回新日展 伊勢湾(会員)昭和40年第8回新日展 のぞみ昭和41年第9回新日展 光昭和42年第10回新日展 道程昭和43年第11回新日展 憩う昭和44年第1回改組日展 花ある道昭和45年第2回改組日展 念昭和46年第3回改組日展 心昭和47年第4回改組日展 黙(審査員)昭和48年第5回改組日展 常昭和49年第6回改組日展 顔昭和50年第7回改組日展 はたち昭和51年第8回改組日展 大地昭和52年第9回改組日展 座(77-N)昭和53年第10回改組日展 展昭和54年第11回改組日展 立女昭和55年第12回改組日展 捧ぐ昭和56年第13回改組日展 気構え昭和57年第14回改組日展 粧意昭和58年第15回改組日展 仰ぐ昭和59年第16回改組日展 遥か昭和60年第17回改組日展 若者昭和61年第18回改組日展 立てひざの女昭和62年第19回改組日展 佇む昭和63年第20回改組日展 なぎさ(遺作)

森大造

没年月日:1988/08/05

 彫刻家集団創型会創立同人の彫刻家森大造は、8月5日心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年88。明治33年(1900)4月15日滋賀県阪田郡に生まれる。昭和2年東京美術学校彫刻科を卒業。同6年第12回帝展に木彫「うらら」で初入選し、以後戦前の官展出品作に「工場の午后」(木彫、第15回帝展特選)、「若き建男」(昭和11年文展招待展)、「海束之正気」(セメント、第4回新文展)などがある。また、新文展発足とともに無鑑査となった。戦後は同25年第6回日展に「不動明王」を出品したが、翌年同志とともに創型会を創立し第1回展に「竜形地蔵」を発表、以後同展に制作発表を行うとともに、同29年には仏教美術協会を組織した。木彫を主とし、後半期は仏教的題材を多く手がけた。

木下繁

没年月日:1988/08/04

 日本芸術院会員の彫刻家木下繁は、8月4日午前11時50分、肝不全のため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年80。明治41(1908)年4月25日、和歌山県布田郡に生まれる。昭和3(1928)年東京美術学校彫刻科に入学し建畠大夢に師事し、のち清水多嘉示に師事する。在学中の5年第11回帝展に「女の顔」で初入選。8年東美校を卒業し研究科に進学、10年に研究科を修了する。14年第3回新文展に「れいめい」を出品して特選、22年第3回日展出品作「裸婦」、26年第7回日展出品作「裸婦」でも特選を受賞し、以後たびたび日展審査員をつとめる。44年第1回改組日展に「裸婦」を出品して文部大臣賞、48年第5回日展に「裸婦」を出品して48年度日本芸術院賞を受賞し、52年日本芸術院会員となる。塑像を得意とし、裸婦を好んで制作する。39年より46年まで白色セメント野外彫刻展に出品する。47年より武蔵野美術大学教授をつとめ、56年同名誉教授となった。また、53年より日展常務理事、日本彫刻会常務理事を務めた。 帝展・新文展・日展出品歴昭和5年第11回帝展「女の顔」、6年(12回)「髪」、7年(13回)「A Purple Maiden」、8年(14回)「光に立ちて」、9年(15回)「水のほとり」、11年(文部省展覧会)「生」、12年(第1回新文展)「空のふかみ」、13年(2回)「さわやか」(特選)、14年(3回)「れいめい」(特選)、16年(4回)不出品、17年(5回)「習作」、18年(6回)不出品、21年(第1、2回日展)不出品、22年(3回)「裸婦」(特選)、23年(4回)「裸婦」、24年(5回)「裸婦」、25年(6回)「裸婦」、26年(7回)「裸婦」(特選)、27年(8回)「裸婦」、28年(9回)「裸婦」、29年(10回)「裸婦」、30年(11回)「腰かける女」、31年(12回)「裸婦」、32年(13回)「裸婦」、33年(第1回社団法人日展)「裸婦」、34年(2回)「裸婦」、35年(3回)「裸婦」、36年(4回)「裸婦」、37年(5回)「裸婦」、38年(6回)「裸婦」、39年(7回)「裸婦」、40年(8回)「裸婦」、41年(9回)「裸婦」、42年(10回)「裸婦」、43年(11回)「裸婦」、44年(第1回改組日展)「裸婦」、(文部大臣賞)、45年(2回)「裸婦」、46年(3回)「裸婦」、47年(4回)「裸婦」、48年(5回)「裸婦」、49年(6回)「裸婦」、50年(7回)「裸婦」、51年(8回)「裸婦」、52年(9回)「裸婦」、53年(10回)「裸婦」、54年(11回)「裸婦」、55年(12回)「裸婦」、56年(13回)「裸婦」、57年(14回)「裸婦」、58年(15回)「THE PREVAILING WESTER LIES」、59年(16回)「東風」、60年(17回)「腰かけた女」、61年(18回)「おんな」、62年(19回)「おんな2」

澤田政廣

没年月日:1988/05/01

 木彫界の長老澤田政廣は、5月1日午後11時41分、急性肺炎のため東京都目黒区の本田病院で死去した。享年93。明治27(1894)年8月22日、静岡県熱海市に生まれる。本名寅吉。生家は製材業を営む。大正2(1913)年静岡県立韮山中学を中退し画家を志すが両親に反対され、翌年、遠縁にあたる木彫家山本瑞雲をたよって上京、その内弟子となる。同7年太平洋画会研究所に入り彫刻を学ぶ。10年第3回帝展に「人魚」を出品して初入選、翌年第4回展には「沃土」を出品。13年第5回帝展に「銀河の夢」を出品して特選を受賞する。同年東京美術学校彫刻別科に入学し朝倉文夫に師事。15年同校を卒業する。昭和2(1927)年第8回帝展に「白日の夢」を出品して特選受賞。翌3年「七姫」で、同4年「白鳳」で帝展3回連続特選となる。6年、日本木彫会が結成され、同会会員となる。帝展改組後も新文展、続いて日展に出品し、27年前年の第7回日展出品作「五木之精」で芸能選奨文部大臣賞、翌28年には第8回日展出品作「三華」で日本芸術院賞を受賞。33年日展評議員、37年日展理事となる。また、同年日本芸術院会員となる。48年文化功労者として顕彰され、54年文化勲章を受章する。ブロンズ彫刻隆盛の時期に、木彫による新方向を示して注目され、仏像、古代神話にもとづく神像、人物像を多く制作する。巨大な一木からノミ跡を残して彫り出す技法を多く用い、大らかで浪漫的な作風を示した。58年新潟県糸魚川市に谷村美術館(澤田政廣作品展示館)が設立され、62年熱海市に同市立澤田政廣記念館が開設された。 略年譜明治27(1894) 8月22日、静岡県熱海町に父澤田小兵衛(製材業)、母とくの三男として生まれる。大正2(1913) 静岡県立韮山中学校中退。画家を志したが両親の反対にあい断念。上京して遠縁に当る木彫家山本瑞雲宅に内弟子として入る。大正7(1918) 太平洋画会研究所に入る。神田台所町に次兄と共に住む。大正10(1921) 第3回帝展「人魚」初入選。大正11(1922) 第4回帝展「沃土」出品。大正12(1923) 11月、矢下とみと結婚。大正13(1924) 第5回帝展「銀河の夢」特選。東京美術学校彫刻別科入学。大正14(1925) 第6回帝展「太陽に向って」出品。大正15(1926) 第7回帝展「影」出品。東京美術学校彫刻別科卒業。昭和2(1927) 第8回帝展「白日の夢」出品。昭和3(1928) 第9回帝展「七姫」特選。帝展無鑑査に推挙される。昭和4(1929) 第10回帝展「白鳳」特選。昭和5(1930) 第11回帝展「伊呂古の宮」出品。昭和6(1931) 第12回帝展「白夜飛星」出品。同審査員をつとめる。日本木彫会の結成に参加し同会会員となる。昭和7(1932) 第13回帝展「華炎」出品。日本木彫会「吉祥天」出品。昭和8(1933) 第14回帝展「春の女神」出品。昭和9(1934) 第15回帝展「白光」出品。同審査員をつとめる。昭和10(1935) 帝国美術院改組に際し、参与に推挙される。昭和11(1936) 文部省展覧会「光明仏身」「善魔魚身」出品。昭和12(1937) 第1回新文展「火星鳥身」出品。同審査員をつとめる。昭和13(1938) 第2回新文展「護持結身」出品。昭和14(1939) 第3回新文展「聖観世音菩薩」出品。日本木彫会「春風」出品。昭和15(1940) 5月、三木宗策らと共に正統木彫家協会を創立し第1回展に「紅衣笛人」出品。昭和16(1941) 第4回新文展「神通」出品。昭和18(1943) 第6回新文展「救世太子」出品。昭和19(1944) 第7回新文展「天彦」出品。昭和21(1946) 第1回日展「うづめの命」、第2回日展「赤童子」出品。両展とも審査員をつとめる。昭和22(1947) 第3回日展「降魔」出品。昭和23(1948) 第4回日展「男習作」出品。昭和24(1949) 第5回日展「釈迦誕生」出品。昭和25(1950) 第6回日展「十一面観音」出品。同審査員をつとめ、日展参事となる。昭和26(1951) 第7回日展「五木の精」文部大臣賞。昭和27(1952) 第8回日展「三華」出品。昭和28(1953) 前年の日展出品作「三華」で日本芸術院賞受賞。第9回日展「愛子母」出品。昭和29(1954) 第10回日展「母神」出品。昭和30(1955) 第11回日展「大聖不動明王」出品。昭和31(1956) 第12回日展「黄泉のしこめ」出品。号を晴廣から政廣へと改める。昭和32(1957) 第13回日展「国立」出品。日本橋高島屋で個展。昭和33(1958) 第1回社団法人日展「レダ」出品。同評議員となる。昭和34(1959) 第2回社団法人日展「曼珠沙華」、日本国際美術展「海に立つおとたちばな姫」出品。日本橋高島屋で個展。昭和35(1960) 第3回社団法人日展「蒼穹」出品。昭和36(1961) 第4回社団法人日展「魚を持つ女」出品。明治書房より『澤田政廣作品集』刊行。昭和37(1962) 日本芸術院会員、日展理事となる。第5回社団法人日展「炎神を生むイザナミノ命」出品。昭和38(1963) 第6回社団法人日展「隠者」出品。昭和39(1964) 第7回社団法人日展「このはなさくや姫」出品。昭和40(1965) 第8回社団法人日展「稜風」出品。日展常務理事となる。昭和41(1966) 第9回社団法人日展「救世に立ちあがる釈迦」出品。昭和42(1967) 第10回社団法人日展「蝶と遊ぶ」出品。明治書房より『彫刻家のアトリエから--澤田政廣リトグラフ集』刊行。昭和43(1968) 高野山金堂金剛王菩薩完成。第11回社団法人日展「白夢におそわれる稲田姫」出品。昭和44(1969) 第1回改組日展「人魚」出品。明治書房より『みほとけを刻んで』刊行。昭和45(1970) 第2回改組日展「長島選手」出品。名古屋松坂屋にて個展。昭和46(1971) 第3回改組日展「笛」出品。日展顧問となる。3月台湾旅行。三越にて個展。昭和49(1974) 第6回改組日展「出家」出品。昭和50(1975) 第7回改組日展「不動明王」出品。昭和51(1976) 第8回改組日展「レダ」出品。昭和52(1977) 第9回改組日展「天人」出品。昭和53(1978) 第10回改組日展「釈迦誕生」出品。昭和54(1979) 第11回改組日展「彌勒菩薩」出品。昭和55(1980) 第12回改組日展「弥勒菩薩」出品。昭和56(1981) 第13回改組日展「十一面観音」出品。昭和57(1982) 第14回改組日展「金剛王菩薩」出品。昭和58(1983) 第15回改組日展「蓮華」出品。昭和59(1984) 第16回改組日展「母子像」出品。昭和60(1985) 第17回改組日展「釈迦三尊仏」出品。昭和61(1986) 第18回改組日展「観世音菩薩」出品。昭和62(1987) 第19回改組日展「大聖不動明王」出品。

新井喜惣次

没年月日:1988/01/28

 スポーツに取材した人物像で知られる彫刻家新井喜惣次は、4月7日午後2時18分、じん不全のため東京都豊島区の長汐病院で死去した。享年95。明治26(1893)年3月12日、栃木県足利市に生まれる。大正5(1916)年東京府豊島師範学校を卒業し、昭和3(1928)年東京美術学校彫刻科選科に入学。のち本科に転科し、8年同校本科を卒業。11年同研究科を修了する。朝倉文夫に師事し、朝倉塾展に出品を続けるほか、昭和9年第15回帝展に「槍投」で初入選。12年第8回国際美術教育会議に日本側委員として出席するために渡仏する。ひき続きパリで彫刻を研究し、欧米を巡遊して13年に帰国する。戦前は構造社展にも出品。戦後は21年の第1回展から日展に出品し、24年第5回展出品作「鉄鎚投」、36年第4回新日展出品作「タックル」など躍動する肉体の一瞬をとらえたブロンズ像を多く制作する。24年より東京学芸大学助教授となり、26年同教授となって31年停年退官するまで長く後進の指導に当たる。その後も昭和学院短期大学教授、東京成徳短期大学教授を歴任し、54年東京成徳短大名誉教授となった。雅号として孤巌の号を用いた。

冨永朝堂

没年月日:1987/12/12

 日展会員の彫刻家冨永朝堂は、12月12日午前10時、肺炎のため福岡市の三信会原病院で死去した。享年90。明治30(1897)年8月4日、福岡県に生まれ、本名良三郎。大正4年上京し、山崎朝雲に師事、木彫を学ぶ。8年日本美術協会展に初入選し、昭和4年より同会審査員をつとめた。また大正13年第5回帝展に「雪山の女」が初入選して以後、帝展に出品し、昭和7年第13回帝展「五比賣命」、翌8年第14回帝展「踊女」がともに特選を受賞。9年第15回帝展に「女子円盤」を無鑑査出品した。その後、新文展、戦後日展に出品。25年第6回日展で審査員をつとめ、33年日展会員となっている。戦後は郷里福岡に住み、福岡県文化財調査委員をつとめたほか、地域文化の向上にも尽力。50年西日本文化賞、51年福岡市文化賞を受賞し、59年地域文化功労者に選ばれた。代表作に、「谷風」(昭和15年ニューヨーク万博)、三部作「歩く」「歩く」「生れる」などがあり、戦後は抽象的感覚を生かした作風を展開した。

佐藤助雄

没年月日:1987/10/19

 日展監事の彫刻家佐藤助雄は、10月19日午後7時15分頃、東急世田谷線宮坂第2号踏切で轢死した。享年68。大正8年(1919)年4月22日山形市に生まれる。仏師だった父に木彫を学び、昭和11年上京後、後藤良の内弟子となり同じく木彫を学んだ。14年日本美術協会展で「ことり」が銅賞を受賞。次いで16年第4回新文展に「後庭菜果」が初入選し、18年第6回新文展で「従軍看護婦」が特選を受賞、政府買上となる。戦後、塑像に転じ、23年山形県展で「女の顔」が市長賞、27年「男の首」が日本彫塑家クラブ奨励賞を受賞。29年以後、北村西望、富永直樹らに師事する。30年第11回日展「布を纒ふ女」、翌31年同第12回「清立」がともに特選を受賞。34年日展会員、39年評議員となり、しばしば審査員をつとめている。51年第8回改組日展「地と風」は文部大臣賞となり、54年の第3回グループ絆展出品作「振向く」により翌年日本芸術院賞を受賞、56年日展理事、62年同監事となった。この間、37年ヨーロッパに旅行し、また日本彫刻会にも出品、51年同会委員、55年理事、57年委員長となっている。おおらかで詩的な人物像を得意としていた。

松久朋琳

没年月日:1987/09/01

 京仏師の第一人者松久朋琳は、9月1日午後3時43分腹部動脈リゅうのため京都府宇治市の大和六地蔵病院で死去した。享年86。明治34(1901)年10月22日京都市の守護職の家に生まれる。本名茂次。4歳で京仏師松久家の養子となり10歳の頃から仏像制作を始める。昭和19(1944)年京都市佐京区の大悲山峰定寺三滝上人像を制作したのをはじめ、30年代には大阪四天王寺仁王像、比叡山延暦寺大日如来像、弥勒菩薩像、十一面観音像などの代表作を次々と制作。同37年京都仏像彫刻研究所を設立して後進の指導に当たる。38年大阪四天王寺より「大仏師」の称号を受け、54年には延暦寺より「法橋大仏師」の称号を受ける。動感のある仏像を得意とし、51年のアメリカ建国記念に際しニューヨークに建立された大菩薩禅堂金剛寺の本尊菩薩像をも手がけている。自ら主宰する研究所のほか竜谷大学名誉教授として仏教美術を講ずるなど教育面にも尽くし、『仏教彫刻のすすめ』『京仏師六十年』などを著した。

岩野勇三

没年月日:1987/08/25

 東京造形大学教授、新制作協会会員の彫刻家岩野勇三は、8月25日午前11時30分、肺ガンのため東京都千代田区の九段坂病院で死去した。享年56。昭和6(1931)年7月9日新潟県高田市に生まれる。同24年新潟県立高田高校在学中に佐藤忠良にデッサンを学び始め、25年同校を卒業して上京。ひき続き佐藤忠良に師事するうち彫刻家を志し31年第19回新制作展に「タケダ君の首」「立つ女」で初入選。35年同会会員となる。37年第1回宇部野外彫刻コンクールに入選。41年東京造形大学教授に就任する。44年第4回昭和会展で林武賞受賞。49、50年、彫刻の森美術館大賞展に指名出品。51年上越市庁舎前広場に『おまんた』を設置。53年横浜市羽衣町広場に『笹と少年』を、55年第一勧業銀行本店に『まつり』を設置する。55年第1回高村光太郎大賞展優秀賞、61年裸婦像「なほ」で第17回中原悌二郎賞を受賞する。一貫して堅実な写実的追求の姿勢を貫き、人物をモティーフとして内面性のにじみ出る作風を示す。初期には「母」「待合室」などの、風俗的主題の着衣像を主に制作し、のち裸婦を多く手がけるようになり「くみ」「あい」「なほ」など少女の面影の残る、若く清新な生命感ある作品を制作した。著書に『彫刻を始める人へ』(アトリエ出版社)、『彫像』(日貿出版社)がある。63年8月東京、現代彫刻センターで「追悼 岩野勇三」展が開かれた。

高田博厚

没年月日:1987/06/17

 求道的制作で知られた彫刻界の長老、高田博厚は6月17日午前1時5分、心不全のため神奈川県鎌倉市の鈴木病院で死去した。享年86。明治33(1900)年8月19日石川県七尾市に生まれ、父の郷里福井で育ち福井中学を卒業。大正7(1918)年絵を学ぶために上京し、高村光太郎、岸田劉生を知る。同8年東京外国語学校イタリア語科に入学。光太郎との交遊からロダンの作品にひかれて彫刻を試みるようになり、同10年東京外国語学校を中退。翌年コンディビの『ミケランジェロ伝』を翻訳し出版。昭和2(1927)年光太郎に促されて大調和展に初出品。同年光太郎らと東京府下牟礼(現・三鷹市)に「新しき共産村」を建設するが失敗。同4年国画会展に参加し「トルソ」など10点を出品するが、「無産者新聞」の記者らをかくまったとして逮捕され、同6年単身パリに渡る。ルオー、ロマン・ロラン、マイヨールらと交遊し、サロン・ザンデパンダンに出品。同10年国画会会員となる。12年パリ日本美術家協会を設立し、第二次世界大戦中も滞欧して、15年毎日新聞嘱託となり、パリ、ヴィシー特派員をつとめ、また、パリのレジスタンス運動を支援する。滞欧中はロダン、マイヨールらを研究して西欧彫刻界の動向を評論や自らの制作を通じて紹介し、日本に新風を吹き込んだ。同32年、28年ぶりに帰国するに際し滞欧作を全てこわし、東京にアトリエを構えて制作を再開する。37年新制作協会会員となったほか、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事をつとめ、39年には東京芸術大学講師をつとめる。41年鎌倉に転居。明治44年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、インド独立の父マハトマ・ガンジーと滞欧中に出会ってから交友を深め、その救ライ事業に共鳴して無償でガンジー像を制作するなど、求道の人として知られた。代表作にロマン・ロラン、ルオー、川端康成、武者小路実篤らの肖像があり、自己を追求しつつものを存在させていくことの安らかさを制作の意義とし、真摯な写実にもとづく知的で詩情ある作風を示した。著者に『人間の風景』(朝日新聞社、昭和4)、『薔薇窓から』(筑摩書房、昭和47)などがある。

北村西望

没年月日:1987/03/04

 長崎の平和祈念像などで知られる文化勲章受章者の彫刻家北村西望は、3月4日午前8時58分、心不全のため東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年102。明治17(1884)年12月16日長崎県南高来郡に生まれる。長崎師範学校に進むが、病気のため中退し、36年京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。40年同校を首席で卒業し、同年東京美術学校彫刻科に入学、同期に朝倉文夫、建畠大夢がいた。45年にこちらも首席で卒業する。この間、在学中の41年第2回文展に「憤闘」が初入選し、42年第3回文展「雄風」、44年同第5回「壮者」はともに褒状となった。さらに、大正4年第9回文展で「怒涛」が二等賞、翌5年同第10回「晩鐘」は特選を受賞、6年第11回文展に「光にうたれた悪魔」を無鑑査出品する。帝展では大正8年第1回展より審査員をつとめ、14年には弱冠40歳で帝国美術院会員となった。また大正10年東京美術学校教授となり、昭和19年まで後進の指導にあたった。このほか、大正8年曠原社を組織し、同11年西ケ原彫刻研究所を開設、昭和8年には東邦彫塑院の顧問となるなど、彫刻研究に没頭する。戦前は「寺内元帥騎馬像(寺内正毅)」(大正11年)、「児玉源太郎大将騎馬像」(昭和13年)、「橘中佐」「山県有朋元帥騎馬像」(昭和5年)など、勇壮な男性像で戦意高揚を意図した作品を手がけるが、戦後は平和や自由、宗教などを題材に制作。29年第10回日展「快傑日蓮上人」や、4年がかりで制作した長崎の「平和祈念像」を30年に完成する。このほかにも、広島市民のための「飛躍」など多くの平和祈念像を制作した。また戦後は日展に出品、44年より49年まで日展会長をつとめ、49年日展名誉会長となったほか、日本彫塑会にも出品し、37年名誉会長となっている。22年日本芸術院会員となり、33年文化勲章を受章、文化功労者となる。また28年武蔵野市の都立井の頭公園内にアトリエを建築、東京都にその後の寄贈分も合わせ計約500点の作品を寄贈し、作品は井の頭自然文化園の彫刻館に陳列される。37年武蔵野市名誉市民、47年長崎県島原市名誉市民、55年名誉都民となった。61年12月に風邪をひいてから静養していたが、62年1月に完成した板橋区役所新庁舎前の「平和を祈る」が絶作となった。

山本豊市

没年月日:1987/02/02

 文化功労者、東京芸術大学名誉教授の彫刻家山本豊市は、2月2日午後7時25分、肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年87。明治32(1899)年10月19日東京新宿に生まれる。本名豊。錦成中学校在学中に戸張孤雁を知り、大正6年卒業後、孤雁に師事する。一方、同7年より3年間太平洋画会研究所でデッサンを学んだ。10年第8回再興院展に「胴」が初入選し、12年日本美術院院友、昭和7年同人となる。この間、大正13年フランスに渡り、マイヨールに師事。昭和3年帰国し、マイヨール彫刻を日本に紹介する。5年より日本大学で講師として教えた。7年頃、京都や奈良に旅行し仏像に接したのを契機に、ブロンズや石膏などの材料不足もあり10年頃より本格的に乾漆技法を研究。11年の第1回改組帝展に乾漆像「岩戸神楽」を出品する。以後、乾漆の技法を現代彫刻に導入した独特の作風を展開した。戦後院展に出品する一方、25年より新樹会に参加、第4回新樹会展「立女」「群像」などを出品する。また26年第1回サンパウロ・ビエンナーレ、31年第28回ヴェネツィア・ビエンナーレなどにも出品し、29年前年作の「頭像」「エチュード」により第5回毎日美術賞を受賞。33年には、前年ブリヂストン美術館で開催した個展出品作により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。35年大船観音を制作。36年日本美術院彫刻部が解散し、新たに結成された彫刻家集団SASに参加、同会が38年国画会と合同するに及んで、国画会会員となり、50年退会まで同会に出品した。この間、22年東京美術学校講師、28年東京芸術大学教授となり後進の指導にあたる。42年停年退官後、同大学名誉教授となるとともに、愛知県立芸術大学で教授として教えた。乾漆の質感と流麗な形態や動感を持つ作品を制作、58年には文化功労者となっている。

井手則雄

没年月日:1986/01/03

 元宮城教育大学教授の彫刻家、詩人、井手則雄は、制作と静養のために滞在中であった福島県双葉郡富岡町小浜の小浜海岸で不慮の事故のため1月3日午後2時ころ死去した。享年69。大正5(1916)年8月25日、長崎県北松浦郡に生まれる。則雄とも号す。昭和9年東京開成中学校を卒業し、同年東京美術学校彫刻科塑造部に入学。14年同校を卒業して同研究科に進学する。16年同科を修了して同校セメント美術研究室助手となる。この間、同12年第24回二科展に「窄き門」で初入選。翌13年より構造社展に出品し、14年第12回同展に「亡友Wへの供奉」を出品して研究賞受賞、翌年も同賞を受賞して会友に推され、16年にも研究賞を受賞する。17年美術文化協会に参加。戦後は21年日本美術会の創立に参加。22年には前衛美術会の創立に参加する。27年、戦時中海軍兵として綴った詩集『葦を焚く夜』を出版。34年より鉄彫刻の制作を始める。48年より56年まで宮城教育大学美術科教授をつとめ、美術教育にたずさわる一方、制作、評論、詩作と多岐にわたって活動する。著書に『美術のみかた』(昭和35年 酒井書店)、『西洋の美術』(38年 筑摩書房)、『現代彫刻入門』(44年 造形社)、詩集『終らないもの』(45年 昭森社)などがある。

橋本高昇

没年月日:1985/11/29

 日展参与の木彫家橋本高昇は、11月29日午後5時56分、肺炎のため東京都杉並区の杉並病院で死去した。享年90。明治28(1895)年9月9日福島県二本松市に生まれ、本名留治。高等小学校卒業後上京し、大正11年木彫家三木宗策に入門する。14年第6回帝展に「春の日を受けて」が初入選、昭和2年第8回帝展後連年入選し、鹿や牛を好んで題材とした作品を多く発表する。同7年第13回帝展で「雄牛」が特選を受賞、11年文展招待展出品後、新文展に出品し、18年第6回「大道宣明」などを発表する。また16年正統木彫会展に「心音」を出品し、18年松戸市万満寺蔵「聖観音」を制作している。戦後28年第9回日展で「牡鹿」が特選・朝倉賞を受賞し、翌29年第10回日展でも「緑蔭」が特選となる。30年日展依嘱、31年・37年と審査員をつとめ、33年日展会員、39年評議員、45年参与となった。53年第10回改組日展「牡鹿」を最後に、日展には出品していない。 大正14年第6回帝展「春の日を受けて」、昭和2年同第8回「鹿」、3年同第9回「双鹿」、4年第10回「牡牛」、5年第11回「聖牛」、6年第12回「母性」、7年第13回「雄牛」(特選)、8年第14回「春光」、9年第15回「牡鹿」、11年文展招待展「親子の鹿」、13年第2回新文展「大和の利劍」、14年同第3回「三人の兄弟」、16年第4回「澄心」、18年第6回「大道宣明」、19年戦時特別展「闘魂」、21年第2回日展「鯉」、22年同第3回「観音」、23年第4回「神鹿」、24年第5回「関大僧正」、26年第7回「母牛」、27年第8回「春暁」、28年第9回「牡鹿」(特選・朝倉賞)、29年第10回「緑蔭」(特選・無鑑査)、30年第11回「牡鹿鳴く」(依嘱)、31年第12回「鹿」(審査員)、33年第1回新日展「野性」(会員となる)、34年第2回「丘」、35年第3回「コリー」、36年第4回「かもしか」、37年第5回「猛ける」(審査員)、38年第6回「求道者」、39年第7回「なく」(評議員となる)、40年第8回「仔鹿」、41年第9回「山羊」、42年第10回「白夜」、43年第11回「躍」、44年第1回改組日展「双鹿」、45年第2回「馬」(参与となる)、46年第3回「鷹」、47年第4回「親鸞」、48年第5回「善無畏三蔵」、49年第6回「鵜」、50年第7回「靭生」、52年第9回「仔連れの鹿」、53年第10回「牡鹿」

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