本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





山本瑞雲

没年月日:1941/03/13

 彫刻家山本瑞雲は3月13日中野区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年75。号護月、慶応3年9月13日静岡県熱海市に生れた。明治13年出京、15年高村光雲の門に入り、明治23年内国勧業博覧会には「亀」を出品し、東京彫工会競技会には「鹿」を出して共に褒状を得た。25年大阪に移り33年再び上京したが、この間の諸種の展覧会に出品し、米国シカゴ博覧会出品の「垣野王」は銅賞牌を得た。その後仏像の製作補修にあたり、また諸種の模型を製作し、明治41年には東京彫工会競技会審査員におされ、43年には日英博覧会のため東京市から依嘱をうけて英国へ出張した。大正6年栴檀社を組織して木彫界の新運動のため気を吐いた。大正11年聖徳太子奉讃委員となり、昭和に入つてからも本郷東片町大円寺の聖観音、六臂如意輪観音、八臂不空羂索観音、八臂馬頭観音、十八臂準捏観音脇侍二龍人等を製作し、昭和11年には浅草寺待乳山祥天の毘沙門天、三方荒神両脇侍を作つて努力精進を重ねてゐた。

渡辺小五郎

没年月日:1941/02/28

 二科会の彫刻家渡辺小五郎は2月28日逝去した。享年31、明治44年宮崎県延岡に生れ、昭和10年東京美術学校卒業、同年以来毎年二科会に出品死後二科会々員におされた。

岩井尊人

没年月日:1940/12/18

 岩井尊人は12月18日逝去した。享年49歳。奈良県の出身で、渡欧、ジヨージ・クラウゼン、スタンレー・アンダーソン、ピブワス等に絵画彫刻を学び、英国RBAの会員であつた、法学士で広田内閣の際には文相秘書官となつた。

金復鎮

没年月日:1940/08/18

 彫刻家金復鎮は8月18日京城の自宅で逝去した。享年40歳。朝鮮忠清北道清州郡に生る。大正14年東京美術学校卒業後、左翼運動のため昭和3年より6年間囹圄の身となり、同10年より暫く京城中央日報学芸部長を勤務、又朝鮮美術院を創立して後輩の指導に当つた。帝展、文展に入選3回、鮮選では6回特選となり推薦であつた。大作に全北金堤郡金山寺の丈60尺の弥勒仏があり、又忠北報恩僧離山法住寺の丈80尺の弥勒仏を未完成のままで逝去した。

牧俊高

没年月日:1940/06/14

 牧俊高は脳溢血のため滝野川区の自宅で逝去した。享年62歳。本名寛五郎、東京の出身で、能姿の木彫を得意とし、帝展に連年出品、文展の無鑑査に推され、又東邦彫塑院の会員であつた。本年8月三越に遺作展が開かれた。

明珍恒男

没年月日:1940/03/18

 奈良県美術院主事明珍恒男は3月18日急性肺炎のため奈良市の自宅に於て逝去した。享年59歳。明治15年8月19日長野県に生れ、年少にして高村光雲に師事した。17歳にて東京美術学校木彫科に入学、同36年卒業するや直ちに日本美術院二部(後の奈良美術院)に入所し、逝去に至る迄の38年間国宝仏像の修理に従ひ、修理技術者として多大の業績を貽した。昭和10年、新納忠之介の跡を継いで奈良美術院主事に就任した。自身の創作では主なるものとして京都の東寺食堂の十一面観音、大阪四天王寺復興五重塔の扉彫刻8面が挙げられる。保存行政上の方面に於ても予て文部省宗教局囑託、三重県社寺宝物調査囑託、滋賀県社寺宝物修理囑託、奈良県史蹟名勝天然記念物調査委員等の任にあり、尚「仏像彫刻」(スゞカケ出版社刊行)をはじめ古美術に関する研究論文30余稿を残した。

武井直也

没年月日:1940/02/05

 日本美術院の元同人、日本彫刻科協会々員武井直也は、2月5日チブスのため東大病院に於て急逝した。享年48歳。 明治26年6月16日長野県岡谷に生れ、大正3年戸張孤雁に師事、翌年東京美術学校彫刻科に入学した。同7年日本美術院に初入選となり、同9年卒業、同12年日本美術院研究会員となる。翌年渡仏、ブールデルに学び、昭和2年帰朝、同年の院展に滞仏作を発表した。同7年日本美術院同人となつたが、同11年に脱退し、日本彫刻家協会を設立、現在に及んだもので、又文展の無鑑査に推されてゐた。精力的な作家で、多くの作品を残したが、今春の日本彫刻家協会展に於て遺作の一部が陳列された。

荻島安二

没年月日:1939/03/21

 構造社会員荻島安二は3月21日急性リウマチスのため、逝去した。享年45歳。明治28年横浜市に生る。朝倉文夫に師事し、旧文展及初期帝展に逐年出品したが後ニ科展に転じた。昭和8年構造社に入会し、同年第7回より毎年出品、同12年に文展無鑑査に推薦された。予て商業彫塑の方面に独自の才能を発揮し、島津製作所マネキン部の顧問であつた。尚本年の構造社第12回展に遺作の特別陳列が行はれた。

佐崎霞村

没年月日:1939/01/09

 木彫家佐崎霞村は病気のため1月9日逝去した。享年62歳。本名宗二、明治11年3月22日、造園師佐崎宗平(号可村)の次男として東京に生れた。初め京都の大仏師内藤光石に入門し、24歳の時上京して竹内久一に師事した。大正11年帝展に初入選し、昭和5年大作「執金剛神」が特選となり、無鑑査に推された。帝展には常に薄肉彫刻仏像を出品し、「聖観」「不動」「寂光」等が主なもので又毎回日本木彫会に出品したほか、昭和11年に比叡山阿弥陀堂本尊の木彫丈六如来像を制作し、同13年には浅草本願寺別院内陣蟇股彫刻を製作してゐた。

後藤泰彦

没年月日:1938/07/29

 構造社会員後藤泰彦は昭和13年5月出征し、中支戦線に於て伍長として奮戦中7月29日敵弾を受け、名誉の戦死を遂げた。明治35年4月3日、熊本県に生る、昭和4年妻子を郷里に残し単身上京、一時彫刻家田島亀彦に師事したが、後彫塑を独修し、昭和5年構造社展に初入選し、同7年会友に、同9年会員に推薦され現在に至った。晩年の作品として「黎明」「李氏騎馬像」「永井柳太郎氏像」等がある。尚構造社第12回展に於て、遺作を陳列した。

牡鹿頂山

没年月日:1938/05/31

 彫刻家牡鹿頂山は5月31日逝去した。享年39歳。 本名春吉、大正14年上京、羽下修三、関野聖雲、北村西望に師事す。旧帝展第7回より14回迄連年入選してゐた。

工藤繁造

没年月日:1936/03/28

 日本美術院々友で、青森県立弘前工業学校の彫刻図画嘱託教師であつた工藤繁造は病気の為37歳で夭折した。農家に生れ自由労働者をしながら彫刻に精進し、前田照雲に約1年間師事した外は独力で勉強し、大正13年院展入選以来「村童」「雪路」「山鳩」「添乳」「俵結ぶ男」「牡鶏」等を殆ど毎年出品、昭和8年院友に推薦された異色ある作家であつた。

橋本平八

没年月日:1935/11/01

 明治30年三重県に生れ、大正8年上京翌年佐藤朝山に師事、大正11年秋日本美術院展に初入選。大正13年日本美術院々友に推挙され、昭和2年同院同人に推された。昭和10年6月新帝国美術院展覧会規則に拠り、指定された。第15回院展の「石に就て」、第19回院展の「アナンガランガのムギリ像」、第1回聖徳太子奉賛展出品の「羅漢」等は其の代表作である。享年39。

陽咸二

没年月日:1935/09/14

 明治31年東京に生る。大正4年小倉右一郎に入門、大正7年文展に「老婆」を出品して初入選、同11年には帝展に「壮者」を出品して25歳にして特選となつた。此の時には既に「老婆」に示された写実主義は一転して、ギリシヤ彫刻クラシツク時代前期の影響を受けた様式化を示して居た。此の様式化は其後益々強調されて氏独自の様式を樹立するに至つた。昭和2年には構造社客員に、同4年には構造社会員となつた。昭和10年6月新帝国美術院の展覧会規則によつて指定された。前記「壮者」の外「降誕の釈迦」「サロメ」「千一夜物語」等が彼の代表作として挙げられる。享年38。

石本暁曠

没年月日:1935/08/23

 名恒介、明治21年島根県に生る。38年京都美術工芸学校卒、後米原雲海に師事昭和6年帝国美術院より推薦せられて帝展無鑑査となり、昭和8年京都市美術工芸学校の教員に任命せられた。享年48。

牧雅雄

没年月日:1935/08/14

 明治21年神奈川県に生る。太平洋画会研究所彫塑部に彫塑を修め、主として藤井浩祐の指導を受けた。昭和2年日本美術院同人に推された。享年48。

木村五郎

没年月日:1935/08/01

 明治32年東京に生れ、大正4年東京高工附属徒弟学校卒業後山本端雲に就いて木彫を習つた。後石井鶴三の風を慕つて其の指導を受け、又同氏の推薦で大正8年日本美術院研究会員となつた。翌10年「簸の川上の素盞雄尊」外1点が院展に初入選となり、大正15年には日本美術院の院友に挙げられ、昭和2年9月同院同人に推された。作る所は主として木彫でそれも小品を得意とした。享年37。

本間憲之助

没年月日:1935/07/22

 明治38年山形県に生れ、昭和6年日本美術学校卒業、昭和5年帝展初入選、其の後構造社に出品していた。享年31。

藤川勇造

没年月日:1935/06/15

 新に帝国美術院会員に任命され、旬日にして6月11日発病、同15日急逝した。 明治16年松平藩漆彫家玉楮象谷の嫡孫として高松市古新町に生れた。長じて香川県立工芸学校に学び、明治36年卒業と同時に東京美術学校彫刻科に入学、明治41年業を卒ふるや直ちに農商務省海外練習生となり、在仏8年、此の間巨匠アウギユスト・ロダンに師事した。大正5年帰朝し、同8年二科会会員に推薦され、爾後昭和10年迄二科会彫刻部の為に尽瘁して居た。昭和10年5月帝国美術院の改組と共に会員に任命され次で二科会と別れてその名誉会員とされた。作品は数多しとしないが佳作多く、就中「スザンヌ」「マリー・アントアネツト」(滞仏中)、「女浮彫」(昭和4年二科会出品)、「ボツス氏像」(昭和7年二科会出品)、「裸」(昭和8年二科会出品)等は夫々の時代に於ける秀作と見られる。又晩年には松平頼寿伯、若槻礼次郎男等の銅像の製作がある。享年53。左に岩井藤吉氏作製の作品年表(東京美術学校校友会会報第6号所載)を転載する。滞仏明治41-大正5 デデノ顔、トルソー、兎、スーザンヌ、マリー・アントアネツト、ブロンド、鷹大正10年 三輪田真佐子刀自銅像大正11年 トルソー、中江氏胸像大正12年 マドモアゼルS、無題大正13年 中江種造氏銅像大正14年 Tの顔、立つ女大正15年 ポーズせる女、詩人M昭和2年 女製作、Kの首、A氏像昭和3年 手を挙げる裸女、蹲る少女昭和4年 女浮彫、男習作、裸昭和5年 Nの顔、裸立像昭和6年 働く老夫、黒き像、吉岡弥生氏銅像、煙突掃除夫、秋山直之中将銅像昭和7年 MR・BORS、印度の男、海鳥を射る、裸、鴨昭和8年 裸、教育家O氏像、ソクラテス、志村源太郎氏像、鴨昭和9年 裸、花籠持つ少女、渡辺翁像 松平頼寿伯銅像、裸立像昭和10年 裸A、裸B、若槻礼次郎男銅像、小糸淳介氏像(絶作)年代不詳 宇喜田秀穂氏胸像、大島氏胸像、高木氏胸像、野崎氏胸像 井上重造氏胸像

堀江尚志

没年月日:1935/06/05

 明治31年盛岡市に生れ、大正11年東京美術学校彫刻科を卒業した。在学中既にその俊才の光芒を示し、第2回帝展に「ある女」を出品して特選を贏ち得、又第3回帝展の「をんな」も特選を占め、大正13年無鑑査に推薦された。其後帝展出品と同時に塊人社に属し、昭和10年帝展審査員に挙げられ将来を嘱望されて居たにも拘らず、其夭折せしは惜しまれる。享年38。

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