本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





石黒鏘二

没年月日:2013/12/19

 彫刻家で元名古屋造形芸術大学(現、名古屋造形大学)学長の石黒鏘二は12月19日午前7時16分、食道がんのため死去した。享年78。 1935(昭和10)年6月4日、愛知県名古屋市に生まれる。51年に愛知県立旭丘高校美術科へ入学、高校3年の時に行動美術展に彫塑の「裸婦」を出品し入選。54年東京藝術大学美術学部彫刻科へ入学し石井鶴三の教室に学ぶ。58年に卒業した後は名古屋に戻り、61年より豊橋のマネキン制作会社に勤務しながら制作を続けるが、そこでの業務を通じて様々な技術・技法を習得し、また多くの人々と交流した経験は、後に「マネキン会社大学卒業」を自称するほどに大きな糧となる。69年より身近な題材をモティーフとした鉄溶接による彫刻作品を発表、1970年代後半からはステンレススチールによる抽象的な野外彫刻を数多く手がけるようになる。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展佳作賞、83年同優秀賞、85年同彫刻の森美術館賞、第11回現代日本彫刻展宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。また1989(平成元)年に愛知県芸術文化選奨文化賞を、2004年には文部科学省地域文化功労者賞を受賞。一方、名古屋造形芸術大学において67年の開学以来教鞭をとり、98年から2006年まで名古屋造形芸術大学学長を務めた。90年代には「記憶のマテリアル」、2000年代に入ると「記憶のモニュメント」と題するインスタレーションを発表。11年からは千種川歩のペンネームで小説の執筆にも取り組んだ。13年には碧南市藤井達吉現代美術館にて「記憶のモニュメント その軌跡の展開 石黒鏘二展」が開催されている。

村岡三郎

没年月日:2013/07/03

 彫刻家の村岡三郎は、7月3日肺炎のため滋賀県大津市の病院で死去した。享年85。 1928(昭和3)年6月25日、大阪市に生まれる。旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)に学ぶ。45年九州の航空隊に配属、「特攻」要員として終戦を迎える。47年に同中学校を卒業。50年、大阪市立美術研究所彫刻部を修了。同年3月、第1回関西総合美術展覧会に出品、同年9月、第36回二科展に初入選。二科展には、以後67年の第52回展まで出品を続けた。65年10月、第1回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「作品(冬眠中)」(材質:金属、ゴムその他)を出品、K氏賞受賞。69年10月、第3回同展(同会場)に「自重」(材質:ポリエステル)を出品、大賞を受賞。71年10月、第4回同展でも「ゲル化(硬化)」(材質:F.R.P.)によって再びK氏賞受賞。また69年8月に、信濃橋画廊(大阪市)にて「砂」と題した初個展を開催。以後、個展、ならびにコンクール形式の展覧会、または現代美術を紹介する各地の美術館の企画展に出品を重ねた。 77年5月、「ホヴァリング」(空中停止)と題して個展(信濃橋画廊)を開催、自らの落下中の姿を撮影した写真映像と、ドローイングや鉄を素材にした作品によるインスタレーションを試み、コンセプチュアルアートとして評価された。83年10月、「熔断1380°C×6000」を信濃橋画廊の個展で発表、溶断した鉄棒を展示して溶断する身体と時間を意識化さることを試みた。この溶断、溶接の行為は、以後村岡にとって重要な表現のひとつとなった。86年7月から翌月にかけて、中国新疆ヴィグル地区に赴き、タクラマカン砂漠を旅行。この時の体験は、その後の制作に大いに影響を与え、特にこの地の岩塩を得たことから、鉄、硫黄とともに塩もその後の表現の要素に加わった。87年11月、第4回牛窓国際芸術祭―彫刻と空間(会場、岡山県牛窓町)に、「牛窓・7つの酸素」を出品、酸素ボンベを初めて作品に組みいれた。70年代から80年代にかけて、村岡の作品は、元素的な素材を取りあげて、溶接、熱、振動の痕跡を作品化、もしくはインスタレーションとして提示し、自然、身体、宇宙、生命等を強く意識した創作活動をつづけた。 1990(平成2)年、第44回ヴェネツィア・ビエンナーレに遠藤利克とともに日本館に出品(日本のコミッショナーは美術評論家建畠晢)、国際的にも注目された。97年11月、東京国立近代美術館にて「村岡三郎展 熱の彫刻―物質と生命の根源を求めて」を開催(同展は、翌年3月まで京都国立近代美術館を巡回。)80年代から90年代までの近作を中心に28点を出品。同展の成果により、99年1月に第40回毎日芸術賞を受賞。 青年期にあたる戦中、戦後の時期の苛烈な体験から、内面に虚無を抱えこむことなく、また情緒性や感傷を一切排し、科学、物理学の原理的な理論を援用しながら、自らの死生観と想像力を元素的な物体を素材にして表現した特異なアーティストであった。身体性、観念性と即物性を力技で作品化した点から、日本の戦後美術から現代美術においてユニークな位置を占めている。なお創作活動と並行して、81年から滋賀大学教育学部教授として勤め、93年3月に退官。続いて同年4月より2002年まで京都精華大学芸術学部教授を勤めた。没後、2013年7月、京都精華大学(会場、同大学ギャラリーフロール)にて「故 村岡三郎先生 追悼展示」が開催された。

神山明

没年月日:2012/12/24

 彫刻家で東海大学教授の神山明は、12月24日心不全で死去した。享年59。 1953(昭和28)年1月20日東京都生まれ。75年東京藝術大学美術学部工芸科デザイン専攻卒業、77年同校大学院美術研究科デザインの基礎造形及び理論専攻修了。76年第11回神奈川県美術展に出品。79年に初個展を白樺画廊(東京)で開催。以後個展は、85年コバヤシ画廊(東京、以後4回)、87年エスェズギャラリー(島田画廊、東京、以後5回)、1994(平成6)年ギャルリーユマニテ(東京・名古屋、以後6回)などで開催。企画展ではびわこ現代彫刻展、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品。81年第2回ヘンリー・ムア大賞展で佳作賞、85年エンバ賞美術展で優秀賞、87年第18回現代日本美術展で佳作賞を受賞。88年第8回ハラアニュアル(原美術館)、89年第20回サンパウロ・ビエンナーレ、90年「作法の遊戯・90年春・美術の現在」(水戸芸術館)、92年「はこで考える」(北海道立旭川美術館、伊丹市立美術館)、2002年「東日本‐彫刻 39の造形美」(東京ステーションギャラリー)、10年「創造と回帰 現代木彫の潮流」(北海道立近代美術館)などに出品した。 80年代中頃から展開した立体作品は、杉材を組み合わせオイルステインで塗装し、作者が好んだ三日月の形を組み入れた風景彫刻である。家屋や劇場、神殿、または灯台のようであり、既視感をくすぐる構造物だった。ドールハウスや建築の模型をも思わせるが、内部も緻密につくりあげ、工作少年の故郷といえるような原風景がそこには表れていた。2006年からは紙を用いた白い立体とレリーフも展開し、人体や静物の形が暗示され、08年の「世界のはじまり、世界の終り」では40個あまりの舟型の上に柩のような人型が並び、作者の新たな造形力を見せた。11年心臓の大病を患ったことが、その後の制作に影響した。 教員歴では、東京藝大の助手、非常勤講講師、埼玉大学と東京大学の非常勤講師をはじめ、85年東海大学教養学部芸術学科専任講師に就任、90年より同助教授、96年より同教授を務めた。また2000年から1年間パリ国立高等装飾学校に学んだ。450余点を収録した作品集『AKIRA KAMIYAMA WORKS 1984-2012』(私家版、2012年)がある。

佐藤忠良

没年月日:2011/03/30

 彫刻家で、東京造形大学名誉教授の佐藤忠良は3月30日、老衰のため東京都杉並区永福の自宅で死去した。享年98。 1912(明治45)年7月4日、宮城県黒川郡落合村舞野字仁和多利86番地(現、大和町落合字舞野)に生まれる。父は郡立黒川農学校の教師をしていた。1919(大正8)年、前年に父が没したため、母の実家である北海道夕張町に転居。1930(昭和5)年3月、札幌第二中学校を卒業、32年画家を志して上京、中学校の一年下であった船山馨(小説家、1914-1981)の下宿に同居しながら川端画学校に通学。34年4月、東京美術学校彫刻科塑像部に入学、同級に舟越保武、山本恪二、昆野恆等がいた。37年4月、美術学校の先輩であった柳原義達のすすめで第12回国画会に「裸習作」等を出品、初入選で同会奨学賞を受賞。同年、中学の先輩にあたる本郷新、山内杜夫等が前年結成した造型彫刻家協会(ZTK)に参加。38年10月、第2回文部省展覧会に「女」が初入選。39年3月、東京美術学校を卒業、国画会彫刻部を退会した本郷新、山内杜夫とともに新制作派協会彫刻部創立に参加、会員となる。同年11月の第4回同協会展に「海(トルソ)」、「空(トルソ)」を出品。以後、同協会展に2009(平成21)年まで、戦中、戦後の一時期をのぞき毎回出品。44年7月召集、満州に渡り、ソ連、朝鮮国境近くの東寧に派遣される。45年、終戦を知らぬまま約一か月間逃避行をつづけた後に投降、その後3年間シベリアの収容所(イルクーツク州タイシュタット)に抑留。48年夏、舞鶴港に帰還。東京世田谷の本郷新のアトリエに寄寓して、制作活動を再開。 52年9月、第16回新制作展に「群馬の人」を出品。この作品は翌年1月の朝日新聞社主催第4回秀作美術展に選抜された後、東京国立近代美術館に収蔵された。「群馬の人」は、後に「美男美女でない日本人の顔を作り続けたが、(中略)本当のいい男、女、言いかえれば生き生きした人間の顔を作りたかっただけだったのだ。」(『つぶれた帽子』より)と記しているが、当時は素朴ながら力強いリアリズムが評価された。59年、絵本『やまなしもぎ』(福音館書店)を刊行、以後『おおきなかぶ』(1962年)等絵本原画の制作が80年代までつづく。60年4月、「群馬の人」をはじめとする一連の日本人の顔をテーマにした作品に対して、第3回高村光太郎賞を受賞。50年代から60年代にかけては、女性像と並行して、小児をモデルにその無垢な表情と動作を表現した作品の制作をつづけた。66年、東京造形大学美術科主任教授となる。71年、同大学の学生たちとヨーロッパ各地を訪れる、これが初めてのヨーロッパ旅行であった。72年、第36回新制作展に「帽子・夏」を出品、この時期より帽子をかぶり、ジーパンをはいた女性像が現代的で新鮮な具象表現として注目された。73年10月、「支倉常長像」がメキシコ南部の都市アカプルコ・デ・フレアス市に設置されるにあたり、除幕式に出席。その帰途アメリカ、ヨーロッパ各地を巡り、ヘンリー・ムーア、マリノ・マリーニ、ジャコモ・マンズー等のスタジオを訪れる。74年1月、前年11月東京で開催した「佐藤忠良自選展」の評価により第15回毎日芸術賞、また「帽子・あぐら」(前年9月、第37回新制作協会展出品)により、同年3月芸術選奨文部大臣賞をそれぞれ受賞。75年10月、「カンカン帽」(1975年9月、第39回新制作展出品)により第6回中原悌二郎賞を受賞。 81年5月、パリの国立ロダン美術館にて、彫刻117点、デッサン20点からなる「Churyo Sato(佐藤忠良展)」開催。同年8月、「パリ・国立ロダン美術館開催記念;ブロンズの詩・佐藤忠良展」を国立国際美術館で開催。同展は、その後、83年までに全国8館を巡回。86年、東京造形大学名誉教授となる。88年11月、彫刻94点、レリーフ5点、デッサン50点等から構成された「佐藤忠良のすべて」展が岩手県民会館で開催され、これを皮切りに全国11会場を巡回。89年1月、1988年度朝日賞を受賞。90年6月、宮城県美術館に佐藤忠良記念館が開館。92年、彫刻芸術と地方文化の振興に寄与した功績により第41回河北文化賞受賞。同年8月、テレビ番組収録のためにシベリアの抑留地付近を再訪、同年10月にNHK衛生放送で「彫刻家佐藤忠良の世界」が二日間にわたり放送される。95年4月、生誕地である宮城県大和町の大和町ふれあい文化創造センター内に佐藤忠良ギャラリーが開設。98年3月、佐川美術館(滋賀県守山市)内に佐藤忠良館が開設、記念展が開催される。2008年9月、札幌芸術の森野外美術館内に佐藤忠良記念子どもアトリエが開設。10年12月、世田谷美術館で「ある造形家の足跡:佐藤忠良展」が開催され、彫刻87点、素描72点、絵本・挿絵原画79点等が出品された。同展が、生前最後の個展になった。 佐藤は、柳原義達(1910-2004)、舟越保武(1912-2002)とならんで、戦後の良質な具象彫刻において欠くべからざる存在であり、その作品は生活感情と時代感覚に根ざした現代の人間像として生き生きと表現した点で高く評価される。長期間にわたる創作のなかで生まれた数々の作品は、作風の上で大きな展開があるわけでもなく、また各時代の流行や風俗と無縁ではない。しかし一貫しているのは、写実を通して生きた人間を表現することに徹したものであった。上記の展覧会において刊行された図録等の他に、下記のような作品集、著作がある。主要な作品集『彫刻=佐藤忠良1949-1971』(現代彫刻センター、1971年)『佐藤忠良作品集』(現代彫刻センター、1973年)『佐藤忠良作品集 大きな帽子』(現代美術社、1978年)『旅の走り描き 自選素描集』(現代美術社、1980年)『アトリエの中から 自選素描集』(現代美術社、1980年)『佐藤忠良』(全2冊、講談社、1989年)『佐藤忠良作品集』(河北新報社、1990年)藤田観龍『佐藤忠良写真集―全野外作品』(本の泉社、2003年)『佐藤忠良 彫刻七十年の仕事』(講談社、2008年)主要な著述集等『対談 彫刻家の眼』(対談舟越保武)(講談社、1983年)『子どもたちが危ない―彫刻家の教育論』(岩波書店、1885年)『つぶれた帽子』(日本経済新聞社、1988年)『触ることから始めよう』(講談社、1997年)『ねがいは「普通」』(対談安野光雅)(文化出版局、2002年)『彫刻の〈職人〉佐藤忠良―写実の人生を語る』(草の根出版会、2003年)『生誕100年 彫刻家佐藤忠良』(美術出版社、2013年)

向井良吉

没年月日:2010/09/04

 武蔵野美術大学名誉教授で、彫刻家の向井良吉は、老衰のため9月4日に死去した。享年92。1918(大正7)年1月26日、京都市下京区仏光寺通柳馬場西入東前町406番地に生まれる。生家は、額縁、屏風の製造を営んでいた。3人兄弟の末弟で、長兄は、洋画家の潤吉。30(昭和5)年、京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。35年3月、同学校を卒業し、4月に東京美術学校彫刻科塑像部に入学。在学中の40年9月、新制作派協会第5回展に「臥せるトルソ」が初入選。41年12月、同学校を繰り上げ卒業、同窓に建畠覚造がいた。翌年2月、福井県鯖江の陸軍歩兵第36連隊に入営、幹部候補生の訓練を受けた後南太平洋ニューブリテン島ラバウルに配属。45年8月、敗戦をラバウルでむかえる。抑留生活の後、46年6月復員、京都に居住、7月にはマネキン会社七彩工芸を創業。51年9月、行動美術協会第6回展の彫刻部に「航海」を出品、会員となり、以後同協会展を作品発表の場とする。54年から一年間ほどパリを中心に、ヨーロッパに遊学。58年9月、行動美術協会展第13回展に「飛翔する形態」、「発掘した言葉」を出品。「発掘した言葉」は、過酷な戦中期の体験、記憶を造形に昇華させ、「蟻の城」シリーズへの展開を導いたことからもこの作家の創作の基点となる代表作となった。同時に戦後彫刻のなかでも、抽象表現の可能性と合成樹脂等の戦後に開発された素材の多様化を予知させる独自の位置を占めている。59年9月、第5回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表として「発掘した言葉1」等4点を出品。61年4月、「蟻の城」(1960年)に対して、第4回高村光太郎賞を受賞、同月、依頼を受けて制作にあたっていた東京上野の東京文化会館大ホールの音響壁面と緞帳が完成。同年7月、創設に尽力した第1回宇部市野外彫刻展が開催され、選考委員として出品。62年6月、第31回ベニス・ビエンナーレの日本代表に選ばれ、「蟻の城Ⅰ」等7点出品。68年10月、神戸須磨離宮公園第1回現代彫刻展が開催され、運営委員を務める。73年6月、第1回彫刻の森美術館大賞の審査委員。80年9月、初の個展となる向井良吉彫刻展(東京、現代彫刻センター)を開催、「ヴァイオリン・チェロ」等11点を出品。81年3月、第31回芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年4月、武蔵野美術大学造形学部芸能デザイン学科教授となる(88年に定年退職、名誉教授となる)。1989(平成元)年5月から11月まで、三重県立美術館、伊丹市立美術館、神奈川県立近代美術館を巡回した「向井良吉展」が開催され、55年制作の「アフリカの木」以後の戦後の代表作62点と新作12点を中心にした個展が開催された。2000年2月には、「向井良吉展」が世田谷美術館において、彫刻作品の代表作64点をはじめ、その多方面の創作活動を跡づけるために大型壁面レリーフ1点、デザインを担当したタペストリー7点、舞台装置のマケット11点、陶磁器等によって構成された本格的な回顧展が開催された。日本における戦後彫刻から現代彫刻の展開のなかで、歴史を生き抜いて築いた思想と造形表現の問題を作品に結実させた点で、良質な面を確実に残した彫刻家であった。

雨宮淳

没年月日:2010/02/08

 彫刻家の雨宮淳は2月8日午前9時52分、心不全のため東京都文京区の病院で死去した。享年72。1937(昭和12)年4月18日彫刻家で東京美術学校彫刻科教授であった雨宮治郎の子として東京都に生まれる。61年日本大学芸術学部を卒業。在学中は映画を学んだ。大学卒業の年に彫刻家になる決心をし、加藤顕清に彫刻理論を学んだほか、父雨宮治郎に師事。63年に日展に「首(B)」で初入選。同年、日彫展にも初入選する。64年に日彫展で奨励賞を受賞し、日本彫塑会会員となる。65年日彫展で努力賞受賞。66年、第9回新日展に男性裸体立像「望」を出品して特選となる。翌年も第10回新日展に男性裸体立像「未来を背負う人間像」を出品して二年連続特選となった。初期にはもっぱら男性像をモティーフとしたが、72年から裸婦像を中心に制作するようになり、以後、裸婦の作家として知られるようになる。74年社団法人日展会員となる。83年東京野外現代彫刻展で大衆賞受賞。84年第14回日彫展に「独」を出品して第5回西望賞受賞。1991(平成3)年第23回日展に右足を踏み出す等身大の裸婦立像を表した「暁雲」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。97年、直立してうつむく等身大の裸婦立像を表した「韻」を第28回日展に出品作し、第53回日本芸術院賞受賞を受賞。2001年に日本芸術院会員となる。64年に父の雨宮治郎が、94年には姉で彫刻家の雨宮敬子が芸術院会員となっており、親子姉弟続いての日本芸術院会員となった。初期から一貫してブロンズによる人物裸体像を主に制作し、対象の写実に基づきつつも、西洋の理想化された身体像に学んだ端正な作風を示した。コントラポストなど古典的なポーズを好み、男性像においては力強い、女性像においては静的な身振りによって、抽象的な概念を表現した。85年から03年まで宝仙学園短大教授として後進の指導に当たったほか、02年から05年まで日本彫刻会理事長をつとめた。日展出品略歴 第6回新日展(1963年)「首(B)」(初入選)、第9回(1966年)「望」(特選)、第10回(1967年)「未来を背負う人間像」(特選)、改組第1回日展(1969年)「靖献」、第5回(1973年)「杜若」、第10回(1978年)「爽籟」、第15回(1983年)「秋興」、第20回(1988年)「秋入日」、第25回(1993年)「晨暉」、第30回(1998年)「躍如」、第35回(2003年)「旭日昇天」、第40回(2008年)「トルソー」、第42回(2010年)「聡慧」(遺作)

伊東傀

没年月日:2009/02/01

 東京藝術大学名誉教授の彫刻家伊東傀は2月1日、心不全のため死去した。享年90。1918(大正7)年10月4日、荏原郡品川宿字南品川2―20に海苔の養殖製造卸業を家業とする伊藤岩吉の次男として生まれる。本名伊藤茂之。1931(昭和6)年に城南尋常小学校を卒業するが胃腸を患い、3年間闘病生活を送る。1939年、私立高輪中学校を卒業して東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科に入学する。同校構内に立つロダン「青銅時代」に感銘を受けたことが、その後の制作の指針となった。44年9月に東京美術学校彫刻科塑造部を繰り上げ卒業となる。同年応召するが体調を壊し、召集解除となって帰国する。同年、東京美術学校彫刻科研究科に入学。45年12月に高輪学園の図画教諭となり51年3月まで教鞭をとる。46年、柳原義達、菊池一雄の仕事に共感し、彼らの所属する新制作派協会の第10回展に「手」(ブロンズ)を出品して新作家賞を受賞し同会会友となる。47年東京美術学校彫刻研究科を修了。48年、第12回新制作派協会展に「首 M.I」を出品し、新制作派協会賞を受賞。50年、毎日新聞社主催連合展に新制作派協会からの推薦で「青年の首O」を出品。51年、第15回新制作派協会展に「トルソ」(石膏)を出品し、同会会員に推挙され、2004(平成16)年に退会するまで毎年同展へ出品を続けた。52年東京藝術大学美術学部講師となる。53年、日産自動車車体製造法に参画。55年、第3回国際美術展でペリクレ・ファツィーニ、マリノ・マリーニ、ヘンリー・ムーアなどの海外の現代作家による彫刻を見、文学性とは離れた量塊表現に触発されて、それまでのアカデミックな表現から、対象の形を幾何学的形態としてとらえなおして再構築する作風へと変化する。60年、東京都三鷹市文化会館に「トリ」を設置。62年、文部省の派遣によりフランスへ出張。65年、東京藝術大学彫刻科助教授となる。74年に現代彫刻センターで個展を開催し、出品作「銀座の女」で土方定一の評価を得る。78年、東京藝術大学教授となる。81年第9回長野市野外彫刻賞を受賞し、「マントの女」が長野市に設置される。86年、東京藝術大学を定年退官し名誉教授となる。沖縄県立芸術大学設立に早くから関わり、86年10月、同学教授、92年同学美術工芸学部長となる。97年同学退職。2003年沖縄県立芸術大学名誉教授となる。2004年、新制作協会を退会する。85年に東京藝術大学退官記念として同学陳列館で行われた展覧会の際、自らの足跡を初期、1960年代、70年から75年、75年以降の4期に分けて語っているように、初期にはロダンに学んだアカデミックな人体表現がなされ、60年代には海外の現代作家に触発された簡略化された具象表現となり、第三期には対象の写実を離れた量塊としての構成が見られ、それ以後は構成的な傾向が強まっていった。道化師、水着の女、鳥、ふくろうをモティーフとした作品が多い。主要なコレクションは笠間日動美術館、沖縄県立美術館などに収蔵されている。

水井康雄

没年月日:2008/09/03

 パリを拠点にモニュメンタルな環境彫刻を制作し、国際的に活躍した水井康雄は9月3日、すい臓がんのためフランス・アプトの病院で死去した。享年83。1925(大正14)年5月30日、京都に生まれ、1947(昭和22)年神戸高等工業学校機械科を卒業。終戦の混乱期の中で、過去の教育の一切を捨て、一人でできる仕事を志向して東京芸術大学彫刻科に入学。平櫛田中、菊池一雄、山本豊市らに師事し、53年に同科を卒業する。同年フランス給費留学生としてパリに留学し、パリ国立美術学校で58年までA・ジャニオ、M・ジモンに学んだ。59年からフランス国内外での団体展に出品したほか、複数の作家がひとつの場所に集まって制作し、研鑽する彫刻シンポジウムに参加。59年のビエンナーレ・ド・パリでA・シュス個人賞を受賞。60年にオーストリアの採石場で開かれた石彫のシンポジウムに参加して以後、石を自らの心身を矯めなおす素材として重視し、好んで用いるようになる。62年には第1回ベルリン・シンポジウムで同年度ドイツ批評家賞受賞、64年には第7回高村光太郎賞を受賞した。ロマネスク彫刻に深い共感を抱き、周囲の環境や歴史、人々の暮らしを踏まえ、その場に溶け込む造形をめざし、公共の場に設置される大規模な作品を得意とした。ボルドー大学法学部に設置されている「泉の化石」ほかフランスやヨーロッパに多くの作品を残すが、国内では東京オリンピックの際に竣工した東京代々木競技場にある「余韻の化石」「火の化石」「音の化石」(各1964年)など花崗岩によるレリーフ大作、噴水と組み合わせた神戸総合運動公園の石彫「Fountain Date6」(1985年)、宇部市渡辺翁記念公園の「石凧」(1964年)などがある。手先の器用さが通じない石という素材を好んだが、小品ではブロンズなどの金属を素材とする制作も行った。火、水、風など不定形のモティーフを好み、抽象的な形を志向した。

野々村一男

没年月日:2008/02/11

 日本芸術院会員の彫刻家、野々村一男は2月11日午前11時33分、老衰のため名古屋市の自宅で死去した。享年101。1906(明治39)年11月15日、愛知県名古屋市西区江中町に生まれる。生家は建築業を営んでおり、家業を継ぐよう期待されたが、反対を押して上京。東京美術学校(現、東京芸術大学)彫刻科塑造部に入学し、在学中の1929(昭和4)年第10回帝展に「座女」で初入選。36年3月、同校を卒業する。36年、「彫刻芸術の既成概念を廃して価値要素を学究的に考察する」ことをめざして、早川巍一郎、加藤顕清、大須賀力らとともに日本彫刻家協会を結成。同年の文展鑑査展に「現實への飛躍」を出品。1937年7月、応召して中国大陸に渡り、38年6月に除隊。38年第2回新文展に「渡河戦」を出品して特選となる。52年第8回日展に「人間告訴」を出品し特選・朝倉賞受賞。58年第1回新日展に会員として「躍進」を出品、61年日展評議員となる。80年第12回改組日展にブロンズによる男性裸体立像「物との、はざま」を出品し、翌年同作品により日本芸術院賞受賞。81年日展理事、82年日展参事となる。88年、長年の業績により日本芸術院会員となった。1989(平成元)年喉頭がんのため声帯を失うが、制作の面では新局面を拓く。従来、重力に逆らうことなく立つ、あるいは座るポーズを基本とする男性、女性の裸体像によって抽象的概念を表現していたが、右ひざを曲げて体を地面に並行に仰向けに倒した人体をとらえた2003年の第35回改組日展出品作「サハラサバク上空にて(日没も過ぎて地平線がなく成る寸前の感)」、飛翔する人体をとらえた04年の第36回改組日展出品作「ふりそそぐ宇宙線の音を聞き我が生存の心ふくらむ」や、浮遊する人体をとらえた第37回改組日展出品作「空中遊泳」などのように、日常性から離れた状況の人体像によって生命や自然観などをあらわす作品へと移行した。02年日本橋三越で「野々村一男彫刻展」を開催し、1933年から2002年までの70年にわたる制作の過程が跡づけられた。裸体全身像をモティーフとする塑像を得意とし、一貫して官展に出品して、彫塑におけるアカデミックな表現を模索し続けた。晩年はレリーフ作品が多くなる一方、茶器などの作陶も行ったほか、1966年の開学以来、愛知県立芸術大学で教鞭を取り、後進の指導に当たった。官展出品歴:第10回帝展(1929年)「座女」、第11回帝展不出品、第12回帝展「仰ぐ者」、第13回帝展「少女坐像」、第14回帝展「思凡」、第15回帝展「生」、昭和11年文展鑑査展「現實への飛躍」、第1回新文展(1937年)「或る感情」、第2回新文展「渡河戦」(特選)、第3回新文展「青年達」、紀元2600年奉祝展(1940年)「破殻」、第4回新文展(1941年)「感」(無鑑査)、第5回新文展不出品、第6回新文展「攻防」(招待)、第1、2回日展不出品、第3回日展(1947年)「男」(招待)、第4回日展「生存者」、第5回日展「青女」、第6回日展「立女(未完)」、第7回日展「始動」、第8回日展「人間告訴」(特選・朝倉賞)、第9回日展「青年」(無鑑査)、第10回日展「島嶼」(審査員)、第11回日展「野牛」、第12回日展「女帝ト野牛(試作)」、第13回日展「感」、第1回新日展(1958年)「躍進」(会員)、第2回新日展「示行」、第3回新日展「創伸」、第4回新日展不出品、第5回新日展「青」(評議員)、第6回新日展「植物学者伊藤圭介」、第7回新日展「手を持つ男」、第8回新日展「組織なき個」、第9回新日展「火」、第10回新日展「汎」、第11回新日展(1968年)「感」、第1回改組日展(1969年)「直情」(評議員)、以後、毎年出品、第5回改組日展(1973年)「守の宇宙」、第10回改組日展(1978年)「汎」、第15回改組日展(1983年)「山の風」(参事)、第20回改組日展(1988年)不出品、第25回改組日展(1993年)「我が地球生命萌ゆ」(顧問)、第30回改組日展(1998年)「宇宙での生存の意識」、第35回改組日展(2003年)「サハラサバク上空にて(日没も過ぎて地平線がなく成る寸前の感)」、第39回改組日展(2007年)「陸と空」(レリーフ)

清水九兵衞

没年月日:2006/07/21

 金属素材の抽象彫刻で知られ、清水焼の七代目として作陶でも活躍した清水九兵衞は7月21日午後1時21分、腎がんのため京都市内の病院で死去した。享年84。1922(大正11)年5月15日、愛知県大久手町(現、名古屋市)に塚本竹十郎の三男として生まれ、広(ひろし)と命名される。東田小学校を卒業し、1935(昭和10)年、愛知県立第一中学校に入学。40年名古屋高等工業学校建築科に入学し、42年9月に同科を切り上げ卒業して同年10月に臨徴兵として名古屋で入隊。43年習志野騎兵学校に派遣され、44年に加古川の戦車連隊に転属となり、同年暮れ沖縄に渡る。46年に復員して上京。工芸講習所の研修生となるが、漆工芸が中心であったため興味を失い、彫刻家を志して49年東京芸術大学工芸科鋳金部に入学する。同学在学中、江戸時代から続く京都の清水焼六代目清水六兵衞の長女と結婚し、養嗣子となる。53年、東京芸術大学鋳金部を卒業して作陶に携わり、清水洋の名で陶芸作品を発表。56年、彫刻家加藤顕清のアトリエに内弟子として入る。58年東京芸術大学専攻科に入学し、彫刻家千野茂に師事する。63年京都市立美術大学工芸科助教授となり陶磁器作成の指導にあたる。66年8月、五東衞の名で三浦景生との二人展を東京の養清堂画廊で開催し、抽象彫刻を発表。67年に彫刻に専念することを決意する。68年東京の南画廊で個展を開催、この時から九兵衞と名乗る。同年京都市立芸術大学教授となる。69年4月に渡欧しローマを拠点として各地を巡遊。イタリアの彫刻が建築や生活空間になじみ、親和していることに強い興味を抱く。また、イタリアの古い町の屋根の連なりに愛着を覚え、帰国後、京都の黒瓦の屋根の連なりに直線構造でありながら曲線を感じさせるものを認め、制作の指針を得る。71年3月、京都市立芸術大学を退職。同年12月東京の南画廊で個展を開催し、アルミを素材とする抽象彫刻5点を含む制作を展示。73年第1回彫刻の森美術館大賞展に71年制作の「作品A」を出品。74年7月、南画廊の個展で、それまでの立体造形への関心を明確化し、その後も長くテーマとなる「affinity」(親和)を作品名とする抽象彫刻を発表する。このころ盛んになる野外彫刻展に積極的に参加し、74年9月第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に、展示場所の地面の隆起に沿ってゆるやかに隆起する帯状のアルミによる作品「AFFINITY―D」を出品して神戸市教育委員会賞受賞。75年、第2回彫刻の森美術館大賞展に「affinity A」を出品。同年の第6回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「AFFINITY―K」を出品し、毎日新聞社賞・東京国立近代美術館賞を受賞。また、同年第6回中原悌二郎賞優秀賞を受賞する。76年第17回毎日芸術賞受賞。同年、第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「AFFINITY―L」を出品して神戸市公園協会賞受賞。77年第9回日本芸術大賞。また同年、第3回彫刻の森美術館大賞展に「AFFINITYの継続」を出品して大賞、第7回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「樹と四つの立方体」を出品して群馬県立近代美術館賞受賞。78年、第6回長野市野外彫刻賞を受賞し、同年の第6回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にカーブするアルミ板を組み合わせ、石の台座に固定した作品「BELT」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展に「BELT―Ⅱ」を出品して優秀賞を受賞。同年第8回現代日本彫刻展に「WIG―A」を出品して、宇部興産株式会社賞受賞。80年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「緋甲PROTECTOR―Ⅰ」を出品して大賞受賞。82年、東京のフジテレビギャラリーで個展を開催、また京都府立芸術会館でも「清水九兵衞展」を開催する。84年、大正海上火災東京本社ビルに、ひょうたん型の池のくびれの部分から立ち上がるパイプ状のオブジェと、同じくくびれの部分から垂直に立ち上がった後、水面に向かって傾斜し、水面すれすれで再度隆起するオブジェを組み合わせたアルミによる作品「朱龍」を設置し、翌年この作品によって吉田五十八賞(建築関連美術の部)を受賞。同年、和歌山県立近代美術館で開催された「彫刻の4人―清水九兵衞・山口牧生・森口宏一・福岡道雄展」に出品。86年および87年、ロスアンジェルス・アートフェアー(ICAF/LA)で個展を開催。87年9月、フジテレビギャラリーで個展を開催。1991(平成3)年4月、京都造形芸術大学彫刻科教授となり、95年に同客員教授、2002年に同特任教授となった。97年からは金沢美術工芸大学教授もつとめた。この間、91年芦屋市立美術博物館で「空間と彫刻―清水九兵衞展」、92年三重県立美術館で「清水九兵衞展」、95年国立国際美術館で「清水九兵衞―アフィニティー/親和の神話」展が開催された。98年、中原悌二郎賞を受賞。陶芸から彫刻への興味の移行が土の質感と素材としての個性の強さになじまなかったことにあると清水は回想しているが、ここにあらわれる質感への繊細な感性と、空間や環境に親和する立体造形への希求は、清水の制作に一貫して認められる。近代彫刻が、素材や表面の質感よりも量塊性やムーヴマンなどを要件とし、周囲の空間に対して強い力と緊張感をもたらすのに対し、コンクリートやガラスを多用した無機的高層建築の立ち並ぶ現代の都市空間において、素材、質感、かたちを含めて、周囲と調和し、親和する立体造形性という新たな試みを行った。

飯田善国

没年月日:2006/04/19

 彫刻家飯田善国は4月19日、心不全のため、滞在先であった長野県松本市内の病院で死去した。享年82。1923(大正12)年7月10日、現在の栃木県足利市小曽根町に生まれる。1943(昭和18)年4月、慶応義塾高等部に入学、同年12月応召。46年1月、中国より復員。同年9月、慶応義塾大学に復学して文学部に編入、同学部ではじめ国文学、ついで美学を専攻し、折口信夫、池田弥三郎、西脇順三郎に学んだ。49年に同大学を卒業後、東京芸術大学美術学部油絵科に入学し、梅原龍三郎教室に学んだ。卒業後の53年7月、丸善画廊(東京日本橋)で初個展開催。その案内状には、梅原龍三郎が一文を寄せた。55年、河原温、池田龍男、石井茂雄等と「制作者懇談会」を結成。56年、渡欧。ローマ滞在中に絵画から彫刻を志すようになり、彫刻家ファッツィーニに師事。57年ヴィーンに移り、銅版画を学ぶ。その後、ヴェネツィア、アイスランドのレイキャビック、60年10月、ミュンヘンで彫刻と版画による個展開催。同地で開催されたヘンリー・ムーアの彫刻展に感銘を受ける。61年、ヴィーンのクラージュ劇場で「KATAKI」の主役を演じ、同地で話題となる。一方同年から、鉄、木を素材に本格的に抽象彫刻作品の制作を始める。ベルリンに移り、ヴィーンとの往復を繰り返しながら制作をつづけ、またオーストリア人カタリーナ・バイテルと結婚。67年11月、帰国。68年、第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「ミラー・オン・ザ・コンストラクション」を出品、大賞受賞。69年9月、前年より運営委員として国内外を奔走して準備にあたった「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」(大阪)が開催される。72年、西脇順三郎との共同制作で詩画集『クロマトポイエマ』を制作、この作品をもとに南天子画廊(東京)で個展開催。この共同制作を契機にアルファベットの言葉と色彩を組み合わせた表現を試みるようになる。70年代末頃より、ステンレスの立体とナイロンのカラーロープを組み合わせた立体作品の制作が始まる。また、個展開催とともに各地の野外彫刻展にも積極的に出品し、あわせて、89年の彫刻噴水「シーソー(虹と水の広場)」(東京都町田市芹ヶ谷公園)など公共空間での彫刻作品の制作も多くすすめられた。88年、三重県立美術館、目黒区美術館、京都国立近代美術館を巡回した回顧展「つながれた形の間に―飯田善国展」を開催。1993(平成5)年7月、目黒区美術館で「飯田善国―画家としてのプロフィール展」開催。94年12月、慶応義塾大学(三田キャンパス、北新館ノグチ・ルーム)で「光の糸が見える―飯田善国展」開催。97年12月、神奈川県立近代美術館で「連続する出会い 飯田善国展」開催。さらに没後の2006年9月から翌年6月にかけて、町田市立国際版画美術館、足利市立美術館にて「飯田善国―版画と彫刻」展が開催された。飯田の創作活動は、彫刻にとどまらず、絵画、版画、詩というように多岐にわたるが、いずれもが視覚的な造形表現と言語表現とが分かちがたく結びついており、その点から観念性を強める現代美術において独自の位置をしめている。なお、飯田には版画集、作品集、彫刻論、エッセイ、詩集等の刊行も多くあり、その主要なものを刊行年順にあげると、下記の通りである。 『見えない彫刻』(小沢書店、1977年)『震える空間』(小沢書店、1981年)『ラッセル広場の空』(小沢書店、1982年)『20世紀思想家文庫5 ピカソ』(岩波書店、1983年)詩集『見知らぬ町で』(思潮社、1983年)作品集『飯田善国 ミラーモビール』(美術出版社、1987年)『彫刻家 創造への出発』(岩波書店(岩波文庫)、1991年)版画集『M.M.曲面シンドローム』(ノマルエディション、1992年)版画集『うしなわれないことば』(ギャラリーAPA、1994年)『彫刻の思想』(小沢書店、1995年)『妖精の距離 カントリーボーイ年代記』(小沢書店、1997年)版画集『SHADOW OF THE SKY / VOICE OF THE EARTH』(ギャラリーAPA、1998年)作品集『飯田善國・絵画集』(銀の鈴社、1999年)詩集『Gahlwayの女たち』(思潮社、2001年)

富永直樹

没年月日:2006/04/11

 日本芸術院会員の彫刻家富永直樹は4月11日午前9時56分、虚血性心不全のため死去した。享年92。1913(大正2)年5月18日、長崎市に生まれる。本名良雄。26年長崎県長崎中学校に入学。同校在学中に、同郷の彫刻家の官展出品作が街に展示されているのを見て、彫刻に興味を抱くようになる。1933(昭和8)年、東京美術学校彫刻科塑造部に入学。当時、同校では北村西望、朝倉文夫、建畠大夢が彫刻科で教鞭を取っており、主に北村西望に師事した。同校在学中の36年文展に、対象を写実的把握の上で理想化を加えたブロンズ像「F子の首」を出品して初入選。以後、官展に出品を続ける。38年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業し、同校彫刻科研究科に進学、40年に同科を卒業する。50年、第6回日展に「殊勲者」を出品し特選受賞。同年、本名を良雄から直樹と改称する。51年、第7回日展にザイルを肩に立つ登山者をあらわした「山」を出品し前年に続いて特選受賞。52年、第8回日展にラグビーボールを抱えて一点を見つめるラガーをとらえた「主将」を無鑑査出品して、3年連続特選を受賞するとともに、朝倉賞を受賞。53年、日展審査員、54年同会員となる。同展が社団法人となって以降も出品を続け、62年評議員、73年理事に就任。この間、68年第11回日展に「平和の叫び」を出品して文部大臣賞受賞。71年には改組第3回日展に「新風」を出品し、翌年日本芸術院賞を受賞する。74年日本芸術院会員となり、79年に日展理事長に就任した。現在の日本彫刻会の前身である日本彫塑家倶楽部の第1回展(1953年)に「マドンナ」を出品して以降、61年に日本彫塑会、81年に社団法人日本彫刻会となる同会に出品を続け、1972年に同会理事、86年に同会理事長となった。この間の81年「北村西望・富永直樹彫刻二人展」を神戸・大丸にて開催。83年大阪、東京の高島屋で「富永直樹彫刻50年展」を開催した。穏健な写実をもとに、理想化を加えた人物像を多く制作し、大分県庁前の「西洋音楽発祥記念碑」(1971年)、学習院中等科正門前の「桜咲く校庭(学習院生徒像)」(1978年)、大分市駅前の「大友宗麟公」(1982年)、長崎平和会館前の「原爆殉難教え子と教師の像」(1982年)など公共の場の彫刻も数多く制作している。ロダンの叙情的な作風よりも、ブールデルの構築的な造形を評価し、着衣の男性像を好んでモチーフとした。作品集に『富永直樹彫刻作品』(実業之日本社、1982年)、『富永直樹彫刻作品Ⅱ』(実業之日本事業出版部、1990年)がある。84年、文化功労者となり、1989(平成元)年、文化勲章を受章。長年、三洋電機のデザイン部門に勤務し、常務をつとめるなど、企業人の一面も持った。

建畠覚造

没年月日:2006/02/16

 彫刻家で文化功労者の建畠覚造は2月16日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年86。1919(大正8)年4月22日、現在の東京都荒川区日暮里に、彫刻家建畠大夢(1880―1942)の長男として生まれる。東京市第一中学校を経て1941(昭和16)年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業、同年第4回新文展に「黙」が入選し、特選を受賞。44年 在仏印日本文化会館員として、サイゴン(現在のホーチミン市)に赴任。終戦後の46年にベトナムから帰国。50年の行動美術協会創立にあたり彫刻部に参加。53年から55年まで渡欧。滞欧中の54年にサロン・ド・メ、サロン・ド・レアリテヌーベルに出品。この滞欧中に具象から抽象表現を試みるようになる。また、パリにて柳原義達、向井良吉と交友。55年3月帰国、同年国立近代美術館にて開催された「日米抽象美術展」に、神奈川県立近代美術館の「今日の新人・1955年展」に、東京都美術館の「第3回日本国際美術展」にそれぞれ出品。56年、朝日新聞社主催の「世界・今日の美術展」(東京、高島屋)に出品。この50年代から60年代にかけては、動植物の有機的なフォルムから触発された抽象表現の作品を発表していた。62年、多摩美術大学彫刻科助教授となり、66年から73年まで同大学教授として後進を指導。67年、第10回高村光太郎賞を「壁体」で受賞。70年代になると、傘、車輪をモチーフにした金属彫刻を発表。78年の神奈川県民ギャラリーで開催された建畠覚造展では、そうした傘をモチーフにしたユーモアと冷たい金属の質感と鏡面の特性を組み合わせた作品を中心に発表した。70年代末頃から80年代半ばにかけて建畠は合板を重ねる技法による作品を発表し、規格の定まった工業製品としての合板の無表情の表面と接着された合板の断層をたくみに表現にとりこみ、独特の重層的なフォルムをみせる作品を制作した。80年代半ば以降には、表面を黒いウレタン塗装仕上げとする作品を制作したが、いずれもスパイラル(渦巻き)やウェーブ(波)状のフォルムによって、表面の無表情とはうらはらの温かみをもつ抽象表現に達した。その間の81年に、第12回中原悌二郎賞を「CLOUD 4(大)」で受賞。82年には、父の出身地である和歌山県立近代美術館にて「建畠覚造展」を開催。83年にヘンリー・ムーア大賞展優秀賞を受賞した。一方、60年代から80年代にかけては、建築にともなう壁面の装飾、各地の公共的な野外での彫刻作品の制作にも積極的に参加、コンクリート、アルミニウム、ステンレス等の様々な素材を駆使して、その独自の造形表現を発表しつづけた。この当時、「技術というものは考えるもので、習熟するものではないと思うのです。逆に感性は、人間が本来もって生れたものだとよくいうけれど、感性こそみがかれるものなんですね。職人を例にとったわけですが、一つのものをつくるとき、感性はつねにみがかれていなければ駄目になりますし、技術は高度な思考の領域にあるのだという気でぼくもいるのです。」(「作家訪問 建畠覚造―考える技術」、『美術手帖』1986年5月)と発言している。個展発表のための作品にしても、野外に設置される大型の公共彫刻にしても、つねにそのユーモラスで柔軟な感覚と研ぎすまされた感性によってうまれた独自のフォルムをもつ造形性、木、金属、石を問わず素材の制約をこえて自在に表現しようとする意欲と弛みない実践に支えられていたといえる。86年、武蔵野美術大学客員教授となる。1990(平成2)年、芸術選奨文部大臣賞受賞。92年には、初期からの作品294点を収めた『建畠覚造作品集』(講談社)が刊行された。2005年、文化功労者に選ばれた。戦後の日本の抽象彫刻を語る際に、国内外において注目される多くの作品によって欠くことのできない存在の一人であった。

基俊太郎

没年月日:2005/06/02

 彫刻家で碌山美術館顧問の基俊太郎は6月2日に死去した。享年81。1924(大正13)年鹿児島県名瀬市(現、奄美市)に生まれる。1943(昭和18)年東京美術学校彫刻科彫塑部予科に入学、教授の石井鶴三、助教授の笹村草家人の感化を受ける。49年再興第34回院展に「首習作」が初入選。翌年東京美術学校彫刻科を卒業。同年石井鶴三教室にイサム・ノグチを迎えた折、基の「杉山晸勇像」を見て「私もこういうのが作りたいけれど私には出来ません。これはジャコメッティですね」と推奨される。同年この「杉山晸勇像」が院展に入選し、日本美術院院友に推挙される。57年石井鶴三を中心とする法隆寺金堂雲斗雲肘木の復元事業に携わる。53年東京芸術大学彫刻科石井教室の助手となる。55年第40回院展に「夏の人」を出品、日本美術院同人に推挙される。58年碌山美術館開館のために笹村草家人とともに助力。桂離宮の庭園を精緻に調べ、独自の住空間理論を得た基は60年芸大講師を辞し渡米、61年ハーバード大学大学院造園科で特別講義「空間の概念と形式について」を行う。渡米中に日本美術院彫塑部の解散を知る。帰国後、造形の本質を見つめ、美術運動や団体に拘ることなく独自の空間論からなる彫刻、建築、テラコッタ、鉄による造形等、幅広い制作活動を展開していく。また造形論や故郷奄美大島の環境と自然について明晰な評論を残した。84年には碌山美術館の顧問となり、晩年には同館の収蔵庫や絵画展示棟等の建設に尽力した。

淀井敏夫

没年月日:2005/02/14

 心棒に石膏を直接つける技法で細く伸びるフォルムを構成し、独自の作風を示した彫刻家淀井敏夫は2月14日、肺炎のため東京と新宿区の病院で死去した。享年93歳。1911(明治44)年2月15日、兵庫県朝来郡山口村佐中に生まれる。後、両親とともに大坂へ転居。高津小学校を経て、1928(昭和3)年大阪市工芸学校を卒業。同校で吉川政治に木彫を学ぶ。同年、上京して東京美術学校彫刻科に入学。北村西望に塑像を、関野聖雲に木彫を学ぶ。同校在学中の31年第12回帝展に「男立像」で初入選。33年東京美術学校を卒業。35年第10回国画会展に「仕事着の青年」を出品する。36年大阪市立工芸学校教諭となり、同年の第23回二科展に「若き手工業者」を出品。37年には同展に「少年」を出品する。40年、大阪市立工芸学校教諭を辞して上京。同年大阪市主催奉祝二千六百年記念展に「三船氏」「征くもの」を出品し、大阪市長賞を受賞する。41年第5回東邦彫塑院展に「少年像」、43年第6回新文展に「坐像」を出品。44年応召し翌年の終戦は堺市で迎える。48年第33回二科展に「仕事着の人」、49年第34回同展に「労人」を出品して同会準会員となる。以後も二科展で活躍し、51年同会会員となり、54年第39回展に「坐像」を出品して二科会会員努力賞を受賞。65年に渡欧し、翌年渡欧の成果をギャラリー・キューブでの個展で発表する。72年第一回平櫛田中賞を受賞し、東京の日本橋高島屋で受賞記念展が開催される。また、同年72年第57回二科展に「夏の海」「クレタの渚」「渚のエウローペ」を出品し青児賞を受賞。73年第58回二科展に「砂とロバと少年」「小さいキリン」を出品し、前者により内閣総理大臣賞を受賞する。76年第61回二科展にベンチ座る二人の人物を表した「ローマの公園(大)」および「流木と椅子で」を出品。77年「ローマの公園(大)」で日本芸術院賞を受賞、78年「ローマの公園(大)」で長野市野外彫刻賞を受賞。82年日本芸術院会員となる。85年兵庫県立近代美術館、姫路市立美術館で個展を開催。87年日本橋高島屋で「彫刻50年の歩み 淀井敏夫展」を開催する。1994(平成6)年文化功労者となる。99年あさご芸術の森美術館に淀井敏夫記念館が開館する。2001年文化勲章を受章。54年母校の東京藝術大学の講師として教鞭を取り、59年同助教授となり、65年に同教授、73年同美術学部長となって、78年に定年退官するまで、後進の指導に尽力し、定年とともに同名誉教授となった。初期には対象を再現的にとらえるアカデミックな塑像を制作したが、1950年代半ばから対象のフォルムをそぎ落とすデフォルメが行われるようになり、心棒に直接石膏をつける独自の技法を用い、複数の人体像を組み合わせて自然と人との関わりをあらわす作風となった。70年代に野外彫刻が盛んになるのに伴い、箱根彫刻の森美術館の「ローマの公園(大)」(76年)、宝塚市宝塚大橋の「渚」(78年)、釧路大規模運動公園の「飛翔」(87年)など大規模な野外彫刻も手がけた。的確な対象把握をもとに、量塊性を削いでいき、存在感や動きの中枢に迫るフォルムを創出し、抽象彫刻が出現して以降の具象彫刻の展開にひとつの指針を示した。 二科展出品歴 第23回(36年)「若き手工業者」、24回「少年」、33回(48年)「仕事着の人」、34回「労人」、35回(50年)「青年立像」、36回「画家の像」、37回「立像」、38回「坐像」、39回「坐像」(会員努力賞)、40回「★る」、41回「夏の雲」、42回「海辺・夏」、43回「人体・夏」、44回「波・群」、45回「波」、46回「渚」「キリン」、47回「破船」、48回「闘った鶏」「小さいキリン」、49回「野の鶏」、50回「アラブの夜の森」「座」、51回「聖マントヒヒ」、52回「童話も行くサッカラの道」「羊を追うトレドの山道」「浜辺の椅子」、53回「戯れる波と少年と犬」「貝殻」、54回「放つ」「法隆寺金堂炎上」、55回「海辺の女」、56回「 北の砂浜」、57回「夏の海」「クレタの渚」「渚のエウローペ」(青児賞)、58回「砂とロバと少年」(内閣総理大臣賞)「小さなキリン」、59回「ローマの公園」(石膏)、60回「牛と女と地中海」、61回「ローマの公園(大)」「流木と椅子で」、62回「夏の終わり(大)」、63回「渚(大)」、64回「渚のエウローペ(大)」、65回(80年)「海辺の母子」「K氏像」、66回「ルクソールにて」「海の鳥と少年」、67回「夏・流木と女(大)」、68回「放つ」、69回「エピダウロス・春(大)」、70回「幼いキリン・堅い土」、71回「漂泊・貝殻と雲と鳥」、72回「釧路湿原に捧ぐ」、73回「海」

柳原義達

没年月日:2004/11/11

 新制作協会会員で文化功労者の彫刻家柳原義達は11月11日午前10時7分、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年94。 1910(明治43)年3月21日、神戸市栄町6丁目に生まれる。1928(昭和3)年3月兵庫県立神戸第三中学校(現、長田中学校)を卒業。在学中、神戸第一中学校の教師で日本画家村上華岳の弟子であった藤村良一(良知)に絵を学び、卒業後、京都に出て福田平八郎に師事するうち、『世界美術全集 33巻』(平凡社、1929年)に掲載されていたブールデル「アルヴェル将軍大騎馬像」の図版に感銘して、彫刻家を志す。31年上京して小林万吾の主宰する画塾同舟舎に学び、同年東京美術学校彫刻科に入学。朝倉文夫、北村西望、建畠大夢らが指導にあたっていたが、高村光太郎、清水多嘉示らに強い影響を受ける。同期生には峰孝、日本画の髙山辰雄、洋画の香月泰男らがおり、3期下の彫刻科に佐藤忠良、舟越保武がいた。東京美術学校在学中の、32年第13回帝展に「女の首」が入選。33年第8回国画会展に「女の首」で入選し国画奨学賞を受賞する。以後同展に出品を続ける。36年3月東京美術学校を卒業。37年スタイル画家小島操と結婚。同年第12回国画会展に「立女(女)」「坐像(女)」を出品して同会同人に推挙される。39年第14回国画会展に「R子の像」「山羊」を出品し国画会賞を受賞するが、同年、本郷新、吉田芳夫、佐藤忠良、舟越保武らとともに同会を脱退し、新制作派協会彫刻部の創立に参加、以後同会に出品を続ける。46年佐藤忠良とともにそれまでの作品を預けていた家が火災にあい、戦前までの作品を焼失。その喪失感と敗戦および敗戦直後の世相に感ずる屈辱感などを背景に、「レジスタンスという言葉の意味をより深く表現しようと思う私の姿であるかも知れない」(『孤独なる彫刻』、筑摩書房、1985年)と後に柳原が語る「犬の唄(シャンソン・ド・シャン)」を制作し、50年第14回新制作派協会展に出品。51年2月、戦後初めて欧州芸術の新動向を紹介するサロン・ド・メ東京展が開催され、その出品作に衝撃を受ける。同年板垣鷹穂、笠置季男らとともに小野田セメント後援の日比谷公園野外彫刻展に際して結成された「白色セメント造型美術会」に参加し、野外彫刻を作成する機会を得る。53年末、版画家浜口陽三と同じ船で渡仏し、グラン・ショーミエールでエマニュエル・オリコストに師事。それまでに学んだ日本近代のアカデミックな彫刻を捨て、「平面的な自分の目を立体的な量の目にすること」(柳原義達「反省の歴史」『美術ジャーナル』24、1961年9月)に努力する。この間、パリに滞在していた建畠覚造、向井良吉らと交遊。57年帰国。58年第1回高村光太郎賞を受賞。また第3回現代日本美術展に「座る(裸婦)」を出品して優秀賞を受賞。60年前後には、鉄くずを溶接した「蟻」や川崎市の向ケ丘遊園のモニュメント「フラワー・エンジェル」など、抽象彫刻も手がける。65年動物愛護協会から動物愛護のためのモニュメント制作を依頼され、烏や鳩をモティーフとした制作を始める。以後、これらのモティーフは柳原自身によって自画像と位置づけられ、自らの人生の足跡と重ねあわせた「道標」としてシリーズ化され、晩年まで繰り返し制作されることとなる。66年第7回現代日本美術展に「風と鴉」を出品。70年神戸須磨離宮公園第2回現代彫刻展に「道標・鴉」を出品し、兵庫県立近代美術館賞を受賞。同年菊池一雄、佐藤忠良、高田博厚、舟越保武、本郷新らとともに六彫展を結成し、第一回展を現代彫刻センターで開催した。74年「道標・鳩」で第5回中原悌二郎賞を受賞。83年神奈川県立近代美術館ほかで「柳原義達展」を開催。84年イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、オランダを旅行。70年代80年代には、現代日本彫刻展(宇部市)、神戸須磨離宮公園現代彫刻展、彫刻の森美術館大賞展、中原悌二郎賞などの審査委員をつとめる。1993(平成5)年東京国立近代美術館、京都国立近代美術館で「柳原義達展」を開催。94年この展覧会によって第35回毎日芸術賞を受賞。95年宮城県美術館から全国8館を巡回する「道標-生のあかしを刻む 柳原義達展」を開催。99年三重県立美術館、神奈川県立近代美術館で「柳原義達デッサン展」を開催。2000年世田谷美術館で「卒寿記念 柳原義達展」が開催された。02年宇部市に柳原義達・向井良吉作品展示コーナーが設置され、03年、作家自身から主要作品と関連資料の寄贈を受けて、三重県立美術館に柳原義達記念館が開設された。柳原は、日本近代彫刻のアカデミズムから発し、1950年代60年代に造形の世界を襲った抽象の嵐の中にあっても、形態の抽象化の本質を見極めて具象に留まり、「自然の動的組みたてを探る」ことに文学や絵では表現できない彫刻特有の性質を見出して、生に対する深い思索を立体に表す試みを続けた。68年日本大学芸術学部美術学科講師、70年同主任教授とり、80年に退任するまで長く後進の指導にあたり、学生時代からの友人である佐藤忠良、舟越保武らとともに日本の具象彫刻界の精神的支柱として、指針を示し続けた。作品集に『柳原義達作品集』(現代彫刻センター、1981年)、『柳原義達作品集』(講談社、1987年)、『札幌芸術の森叢書 現代彫刻集 Ⅷ 柳原義達』(札幌芸術の森、1989年)、『柳原義達作品集』(三重県立美術館、2002年)、著書に『彫刻の技法』(美術出版社、1950年)、『ロダン』(ファブリ世界彫刻集5、平凡社、1971年)、『彫塑2 首と浮彫』(美術出版社、1975年)、美術論集『孤独なる彫刻』(筑摩書房、1985年)がある。

土谷武

没年月日:2004/10/12

 彫刻家で新制作協会会員の土谷武は、10月12日、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年78。1926(大正15)年10月11日、京都府京都市に生まれる。生家の土谷家は、清水七兵衛を先祖とし、「瑞光」の窯名で代々製陶業を営んでいた(3代瑞光は、28年生まれの実弟稔が継ぐ。)。1939(昭和14)年4月、京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。44年3月、同校補修科を修了した後、4月に東京美術学校彫刻科塑像部に入学。49年3月に同校卒業、同年世田谷区宮坂に友人たちと共同アトリエ「アトリエ・ド・ムードン」を建て制作する。この頃より、柳原義達と交流を深め、その親交は生涯にわたった。57年4月、日本大学芸術学部美術学科非常勤講師となる、また同年新制作協会会員となる。61年から63年までフランスに留学。68年に多摩美術大学美術学部彫刻科教授となる(73年まで)。75年4月、日本大学芸術学部芸術研究所教授となり、80年から同大学同学部教授となる(96年まで)。79年8月、第1回ヘンリー・ムーア大賞展(箱根、彫刻の森美術館)に招待出品し、優秀賞を受賞。83年10月、第17回サンパウロ・ビエンナーレに出品。大学における後進の指導と同時に、個展、新制作協会展、美術館における各種企画展等に積極的に出品をつづけた。1994(平成6)年3月、芸術選奨文部大臣賞受賞。95年1月、第36回毎日芸術賞受賞。96年11月、紫綬褒章を受章。97年12月、『土谷武作品集』(美術出版社)を刊行。98年9月に東京国立近代美術館において「土谷武展」を開催し、初期から最新作まで87点を出品し、本格的な回顧展となった(同展は、京都国立近代美術館、茨城県近代美術館を巡回)。初期からの具象的表現から、60年代以降には抽象表現に転向するが、その素材は、石、鋼材、木などを組み合わせた野外彫刻によって真価を発揮し、高く評価された。特に後年の作品に顕著に表現されたように、鉄という素材にこだわりながら、重さと軽さ、硬さとしなやかさ、塊と広がりに対する独自の造形感覚によって、現代日本彫刻における抽象彫刻の代表的な作家のひとりにあげられる。

毛利武士郎

没年月日:2004/07/18

 彫刻家の毛利武士郎は、7月18日、内臓疾患で死去した。享年81。1923(大正12)年1月14日、当時の東京市荒川区日暮里渡辺町に、彫刻家毛利教武の次男として生まれる。1940(昭和15)年4月、東京美術学校彫刻科塑像部に入学。43年に同学校を卒業、翌年2月に応召、北満州の独立歩兵部隊、後に対戦車砲部隊に配属され、その後沖縄宮古島にて被弾負傷する。45年、終戦を同島の野戦病院で迎える。戦後は、51年2月の第3回読売アンデパンダン展に「小さな夜」を初出品。54年2月、第6回読売アンデパンダン展に「シーラカンス」、「抵抗」を出品。57年6月、サトウ画廊にて個展を開催し、針金と鉛板による抽象彫刻を出品する。59年9月、向井良吉、小野忠弘とともに第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。60年9月、第1回集団現代彫刻展に「鳩の巣NO.2」、「作品」を出品。61年7月、第1回宇部市野外彫刻展に「鳩の巣」を出品。この頃から、すでに抽象彫刻の作品は、高く評価されていたが、60年代半ばから新作の発表を絶った。その間、73年6月、東京国立近代美術館の「戦後日本美術の展開・抽象彫刻の多様化展」、81年の神奈川県立近代美術館の「日本近代彫刻の展開―開館30周年記念展第Ⅱ部」、同年9月の東京都美術館の「現代美術の動向Ⅰ―1950年代-その暗黒と光芒」など、戦後美術の回顧展にその作品が出品されていた。83年11月、富山県立近代美術館の「現代日本美術の展望―立体造形」展に、およそ20年ぶりにレリーフ状の新作「哭Mr.阿の誕生」を出品。作家の長期間にわたる沈黙の意味を問うものとして注目された。1992(平成4)年5月に東京から富山県黒部市にアトリエ兼住居を移転。99年5月には、富山県立近代美術館にて「毛利武士郎展」を開催、111点からなる本格的な回顧展となった。とりわけ、金属の鋳塊をコンピューターと連動した工作機械で精密に加工した新作は、この作家の独自の表現として話題となった。戦後の日本の抽象彫刻を代表する作家のひとりとして評価されているが、長い沈黙後の晩年である富山県に移住後の制作は、現代彫刻をめぐる技術と造形思考をめぐる独自の哲学に裏付けられた先鋭的な問題を深めた点で、発表時から美術界に少なからず衝撃をあたえ、今後も議論されるべき作品を残したことは高く評価される。

小田襄

没年月日:2004/01/24

 国際的な金属造形家で多摩美術大学教授の小田襄は1月24日午前9時22分、急性胆のう炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年67。金属素材による斬新な造形で知られた小田は、1936(昭和11)年6月3日、日展会員の彫刻家小田寛一を父に、東京都世田谷に生まれた。54年世田谷区立桜丘中学校を卒業し都立千歳高校に入学。父親が塑像家であったため、このころからすでに粘土や石膏での造形に親しむ。55年同校を卒業して56年東京芸術大学美術部彫刻科に入学。菊池一雄教室に入る。59年第23回新制作協会に「裸」で初入選。60年若林奮、高松次郎らと20代作家集団を結成して作品展を開催し、鉄鋳物とブロンズの作品を出品する。この年、以前から興味を抱いていた木版、銅版、リトグラフ等の版画の制作を始める。版画制作は立体造形と並行して生涯続けられたが、初期の版画はドローイングを主とし、次第に幾何学的形象を持つ明快な色面を構成する作品へと移行した。同年東京芸術大学彫刻科を卒業。卒業制作「儀式」は少しずつ差異を持つ似たような形をならべて全体を構成する「儀式」シリーズの一点で、この頃小田は「数において個と群、あるいは単位が組織化されることで単独で作品が存在する事実に強く捉われていた」(小田襄「私的領域について」『季刊現代彫刻』10)という。この作品によってサロン・ド・プランタン賞を受賞。同年4月同学彫刻専攻科に入学。鉄や真鍮を溶接した作品を制作し始める。同年第24回新制作協会展に鉄による作品「柩車」を出品して新作家賞受賞。61年第25回新制作協会展に「儀式」を出品して前年に引き続き新作家賞受賞。62年東京芸術大学専攻科を卒業。同年第5回現代日本美術展に真鍮を溶接した作品「儀式」を出品。63年神田スルガ台画廊で初個展「閉ざされた金属」を開催。同年第1回全国野外彫刻コンクール展(宇部市野外彫刻美術館)に「儀式-XIV」を出品し、宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。64年第6回現代日本美術展に鉄による大作「箱の人」を出品。同年7月渡欧。ユーゴスラヴィア、フォルマ・ビバ主催の国際彫刻シンポジウム金属部門に招待され、大小や縦横比の様々な方形の金属板で構成した「ラヴネの箱」を制作。この頃から国際的に注目され、同年9月の『ライフ』誌日本特集号に若手彫刻家として紹介される。イタリア、フランス、ドイツ、オランダ、スイス、エジプト、ギリシャなどを巡り、同年10月に帰国。65年第1回現代日本彫刻展(宇部市)にステンレスによる巨大なモビール「一週間」を出品し、宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。この頃、鉄やステンレスに着色した抽象的彫刻を制作。66年ポーランド美術連盟の招待によりプアヴィ市における「芸術と科学のシンポジウム」に参加し、金属による「風の鏡」を制作して、優秀賞を受賞。67年3月イタリア政府留学生となり、渡欧準備を始め、8月に北欧に向けて渡航。コペンハーゲンなど北欧諸国の後、チェコスロヴァキア、ドイツを経て、ヴェニス、フィレンツェを巡って10月からローマに居住する。都市の構造に興味を抱き、イタリア各地を巡って写真を撮る。68年7月チェコスロヴァキアのホジツェで開かれた国際彫刻シンポジウムに招待参加し石による作品を制作する。8月、プラハで個展を開催するが8月20日に五カ国の侵入によりウィーンへ脱出する。同年12月帰国の途につき、ヨーロッパを巡遊して帰国する。68年第3回現代日本彫刻展(宇部市)にステンレスによる「計画」を出品して毎日新聞社賞を受賞。73年7月、再度渡欧し、フランス、ドイツ、北欧、スペイン、東欧を巡り、11月末に帰国する。この間に行われた第5回現代日本彫刻展に出品し、神戸須磨離宮公園賞を受賞した「円と方形」にあらわれるように、初期から行われていた単純な幾何学的形態による構成は、方形と円形を基本的構成要素とする制作へと展開した。74年第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にステンレスによる「風景の領域」を出品し、神戸公園協会賞を受賞。75年第11回現代日本美術展に「円と方形-大地と天空の…」を出品し、佳作賞受賞。同年長野市野外彫刻賞を受賞する。77年第41回新制作展に「円柱と方形の要素」を出品。同年、この作品によって中原悌二郎賞優秀賞を受賞。79年代第1回ヘンリー・ムーア大賞展に「銀界…風景の時間」を出品して優秀賞受賞。80年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「銀界…風景の対話」を出品して国立国際美術館賞を受賞。82年第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「銀界…風景の中の風景」を出品して朝日新聞社賞受賞。83年神奈川県立近代美術館で「小田襄展」を開催。84年現代日本彫刻展(神戸須磨離宮公園)で大賞受賞、88年ラヴェンナ国際彫刻ビエンナーレで金メダル受賞、1994(平成6)年ニュージーランド国立サージェントギャラリーにて個展、96年倉吉市博物館で個展を開催した。初期から続けられた版画制作においては、70年の第7回東京国際版画ビエンナーレ、72年の第8回同展、73、74年の現代日本の版画展に出品したほか、個展での発表を行った。83年より90年まで東北工業大学教授、90年より多摩美術大学彫刻科教授をつとめ後進の指導にあたった。また、64年より日本美術家連盟に入り、84年より委員、理事、常任理事等を歴任し、2000年からは連盟理事長をつとめ、美術家の職能と社会的位置の擁護のために尽力した。1960年代初期には幾何学的な形態を組み合わせる構成を様々な素材によって試みたが、1960年代後半から素材は金属に絞られるようになり、鏡面のような表面を用い、周囲の風景や光の変化によって表情を変える作品を制作した。量塊性や、立体としての自立性を求めてきた近代彫刻の流れに対し、作品に色彩や鏡面を導入して立体造型に新たな一面を開いた。

西村公朝

没年月日:2003/12/02

 仏像彫刻家で、東京芸術大学名誉教授の西村公朝は、12月2日午前9時55分、心不全のため大阪市立吹田市民病院で死去した。享年88。1915(大正4)年6月4日、大阪府高槻市富田町に生まれた。彫刻家を志し、1935(昭和10)年に東京美術学校に入学、彫刻科の木彫を専攻する。40年に卒業。帰郷して私立大阪工科学校の美術教師となる。日本美術院(第二部)初代院長である新納忠之介の誘いにより、41年1月美術院に入り京都・妙法院(三十三間堂)千手観音像をはじめとする仏像の修理に取り組んだ。42年7月の応召に伴う中国出征中に仏像修理者としての道を改めて誓い、46年1月に復帰。52年、妙法院執事長である坂田公隆の勧めにより京都・青蓮院で得度。公朝の法名を授かったことを機に、戸籍名も利作から公朝に改めた。以後、仏教の研学にも努め、55年には愛宕念仏寺の住職となった。59年に美術院国宝修理所所長となり、68年に美術院の財団法人化を実現して所長を辞職し理事・技術顧問に就任するまでの間、約1300躯にものぼる仏像の修理に携わった。その間、64年に東京芸術大学大学院保存修復技術研究室の非常勤講師、67年に同大助教授、74年に教授となり、83年に退職するまで後進の育成に尽力した。86年から吹田市立博物館建設準備委員会の委員を経て、1992(平成4)年の開館から2003年まで同博物館館長をつとめた。その傍らで、仏像や仏画の制作にも取り組み、仏教の真髄を慈悲と見なしその教えを体現するために、伝統的な図像には必ずしも則らず、むしろそれを昇華し簡略化した親しみやすい仏像表現を追求した。71年以降毎年秋には、グループ展「ほとけの造形展」を開催している。また、あらゆるものに仏性は宿るという「悉有仏性」の仏性観から、粘土、ガラス、石など身近な素材を利用し、形式にとらわれない自由な発想で数多くの仏像を制作した。87年には比叡山延暦寺戒壇院本尊の釈迦如来像、同八部院堂本尊、妙見菩薩像等、91年(平成3)には目の不自由な人が自由に触れることのできる「ふれ愛観音」、2001年には法隆寺聖徳太子1380年御聖諱の大法要にちなんで勝鬘夫人、維摩居士像等の大作も制作し、晩年に至るまで創作意欲は衰えるところがなかった。2003年には吹田市メイシアターで「西村公朝 仏の世界」展、同年11月には京都・清水寺で「西村公朝 生まれてよかった」展、また、2005年には吹田市立博物館で三回忌を期して「西村公朝 祈りの造形」展が開催された。著書は、仏像研究の成果をまとめた『仏像の再発見』(吉川弘文館、1976年)をはじめ多数。75年、紫綬褒章。83年、仏教伝道文化賞。89年、東方文化賞。87年、勲三等瑞宝章。2000年、岐阜県主催第一回円空大賞。2002年、大阪文化賞を受賞。

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