本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





伊藤平左エ門

没年月日:1976/02/03

 慶長年間から300余年続く宮大工の当主伊藤平左エ門は、2月3日午後9時5分、脳血栓のため名古屋市の岡山病院で死去した。享年80。旧名次郎、諱正道。明治28(1985)年4月22日、伊藤満作の次男として名古屋市に生まれ、愛知県立第一中学校を経て、大正6(1917)年3月名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築科卒業、大正11年1月、十一代目伊藤平左エ門を襲名、社寺建築請負の家業を継いだ。昭和3年1月より約2ヶ月間、タイ及びインドの仏蹟を巡歴した。昭和26年11月一級建築士免許、昭和45年11月勲五等に叙し瑞宝章を授けられた。 伝統的手法による社寺建築の造営に従事し、寺院建築では設計施工121棟、設計3棟、施工10棟、神社建築では設計施工77棟、設計7棟、施工17棟、その他の建物5棟、物件18を数え、主要作品としては、昭和元年の兵庫・円教寺摩尼殿、同4年の東京・青松寺本堂、同10年の京都・金戒光明寺の大方丈ほか4件、同年の千葉・新勝寺内仏殿と書院、同28年の米国ニューヨーク近代美術館内の古典住宅、同32年の島根・出雲大社拝殿がある。なお論文、著書としては、「ポロンナルワの仏教建築」(東洋美術第12冊、昭和4年)、「★羅古代法輪に就いての考察」(東洋美術第11号、昭和6年)、「建築の儀式」(彰国社、昭和34年)、「古建築秘話」(鳳山社、昭和37年)、「宮大工十話」(毎日新聞社、昭和40年)を挙げることができる。

西岡楢光

没年月日:1975/03/12

 法隆寺大工棟梁西岡楢光は、3月12日老衰のため、奈良県生駒郡の自宅で死去した。享年90歳。昭和9年から20年間かかりで行われた五重塔、金堂など法隆寺の「昭和の大修理」の大工棟梁を務めるなど宮大工一筋に生きた。昭和30年紫綬褒章、同40年には勲四等瑞宝章を受章、昭和49年3月、後継者の長男常一、二男楢二郎とともに「宮大工一家」として吉川英治賞を受賞した。

金剛よしゑ

没年月日:1975/03/08

 宮大工金剛組38代目の女棟梁であった金剛よしゑは、3月8日、老衰のため死去した。享年80歳。金剛よしゑは明治27年(1894)5月25日、京都府福知山市に生まれ、明治42年3月京都府天田郡立高等小学校を卒業、大正6年(1917)9月、金剛組37代金剛治一と結婚。昭和7年(1932)9月金剛治一死去後は、38代をついで1000年以上つづいている宮大工金剛組当主となって組を守り、昭和9年(1934)の第1次室戸台風で倒れた大坂四天王寺五重塔再建で話題をよんだ。そのほかにも、四天王寺金堂・西大門を再建、旧水戸藩偕楽園好文亭復元、水戸弘道館修復、旧江戸城田安・清水門復元、永平寺鐘楼復元、大阪奈良の護国神社新築、東本願寺天満院建立、那智山青岸渡寺三重塔建立などの仕事を手がけた。その生涯はテレビ・ドラマ化されたが、晩年は戦没者慰霊のため千巻の写経を完成させた。

内田祥三

没年月日:1972/12/14

 文化勲章受章者、日本学士院会員、元東大総長、工学博士内田祥三は12月14日急性肺炎にため赤坂山王病院で死去した。享年87才。東京都江東区出身。1907年(明治40)に東京帝大工科大学建築学科卒業後、1911年より同大学講師。1921年には教授になり1943年3月から45年12月まで総長に就任。戦後は文化財保護委員を勤め、1972年11月に文化勲章を受賞した。1910年前後から学究生活に入るが、その当時までの石造や練瓦造りの建築に対して鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造が日本に移入される時期であったので、防水・防震、構造としての鉄筋コンクリートを基本とする近代都市建築の基礎づくりに貢献した。都市計画法、市街地建築物法の制定にも功績があり、戦時中から戦後にかけての防火建築の研究も都市防火の進歩につくすものが大きかった。関東大震災後の東大安田講堂附属病院、図書館、といちょう並木の建築群および東京海上ビルの設計者でもあった。

剣持昤

没年月日:1972/07/29

 建築家・和光大学助教授剣持昤は7月29日オーストリアのグラーツで交通事故のため死去。享年34才。1938年4月9日、デザイナーの剣持勇を父として仙台市東北医学部附属病院で生れた。1961年東京大学工学部建築学科卒、同63年大学院修士課程修了。65年6月総建築研究所(株)設立所長。66年東京大学院博士課程修了(工学博士)。和光大学助教授アメリカン・フットボール部顧間、和光学園評議員を兼ねる。同年一級建築士資格取得。68年9月ISO・TC59の1968年度定例会議に日本建築学会より派遣され出席。72年6月ヨーロッパ諸国における工業化発展事情の視察および業務打ち合せのためヨーロッパ滞在日程の最終日に上記の事故に遭った。独自の建築生産工業化理論に基き、新しい規格構成材および建築構成システムの研究開発ならびに種々の情報活動を通じて、新しい建築家としての活躍を行っていた。

佐藤武夫

没年月日:1972/04/11

 元日本建築学会長、佐藤武夫設計事務所長、工学博士佐藤武夫は肺結核のため4月11日東京聖路加国際病院で死去した。享年72才。名古屋市出身。1922年(大正13)早稲田大学理工学部建築学科卒業。ただちに早稲田大学に教鞭をとり、1937年から1951年まで教授。1930年より1948年まで日本女子大教授として建築計画、設計、建築音響学を担当。1957年より58年まで日本建築学会長。他に日本建築士会連合会、東京建築士会、日本音響学会、日本建築家協会各理事を歴任。1969年建築美術工業協会の設立に尽力し、建築と美術、工業との協力関係の向上に貢献。1935「オーディトリアムの音響設計に関する研究」により工学博士を与えられた。建築作品には日比谷公会堂、早大大隈講堂、旭川市庁舎、ホテル・ニュージャパン、福岡県文化会館、水戸市庁舎、北海道開拓記念館等々で画家、彫刻家、工芸家との協力を積極的に実践してきた。その業績によって1967年日本芸術院賞を受賞。

内藤多仲

没年月日:1970/08/25

 早大名誉教授、学士院会員の建築家内藤多仲は、8月25日老衰のため新宿の国立第一病院で死去した。享年84歳。山梨県出身で、明治43年東大工学部卒業後、明治45年から昭和31年まで早大教授をつとめた。この間、耐震建築構造の設計方式を確立し、地震工学の世界的権威といわれる。東京タワー、通天閣など各地のテレビ塔60基や、歌舞伎座、旧日本興業銀行ビルなどを設計した。関東大震災にも同氏の設計した歌舞伎座などのビルは、殆ど被害がなく、理論の正しさを実証した。日本建築学会長を二度にわたりつとめ、昭和37年文化功労者、同39年勲二等旭日重光章を受けた。

藤原義一

没年月日:1969/12/10

 元京都工芸繊維大学教授藤原義一は12月10日脳軟化症のため京都市左京区の自宅で死去した。享年71才。多年にわたる古建築の研究とその保存修理、および管理事業に力をつくし、功績があった。明治31年3月21日神戸市で生まれた。大正14年第三高等学校理科卒業、ついで昭和3年京都帝大工学部建築科卒業、昭和5年同大学院終了。昭和4年9月神戸高等工業学校講師、10月同志社女学校専門部講師、5年より12年3月まで京都帝大講師。15年5月京都絵画専門学校教授。16年4月京都市技師。19年4月彦根工業専門学校教授。21年2月工学博士の学位を授与される。23年3月京都工業専門学校教授。24年3月から36年まで京都工芸繊維大学教授。37年より42年まで近畿大学教授。主要著書「日本建築史」(天沼後一と共著、昭和8年誠文堂)「京都の古建築」(昭和19年桑名文星堂)「日本古建築図録」上下(昭和22年星野書店)

坂倉準三

没年月日:1969/09/01

 建築家、前日本建築家協会会長の坂倉準三は、9月1日午後3時10分、心筋コウソクのため東京都港区の自宅で死去した。享年68歳。明治34年5月29日岐阜県羽島市に生まれた。昭和2年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。1929年からパリ大学エコール・スペシャル・デ・トラヴォ・ピュブリックにて建築を修学、’31年~’36年パリ市・ル・コルビュジェ建築事務所に於て建築並びに都市計画の設計監理の実務を研究。’36年~’39年パリ万国博日本館の設計監理に当り、’37年には万博建築大賞を受けた。’40年(昭和15年)坂倉準三建築研究所を創設。同年より’42年まで商工省の委嘱により輸出工芸指導官としてコルビュジェの協力者シャルロット・ペリアン女史を招き、日本の工芸美術刷新育成のための諸活動に協力した。戦後昭和21年から25年までには、連合軍司令部技術本部の委嘱により連合軍関係設営の設計を担当、以後没前まで、国の内外を問わず、精力的な活動を続けた。国内の主要設計作品には、神奈川県立近代美術館、羽島市庁舎、塩野義製薬研究所、新宿駅西口広場、神奈川県新庁舎、山口県立博物館、岐阜市民会館、日本万国博電力館があり、外国関係では、戦前のパリ万国博日本館の他、’55年-ドイツ・アウグスブルグにディーゼル記念日本石庭、’61年-ドイツ・ミュンヘンに日本住宅(書院造り)、’66年~9年-タイ国各地に専門教育学校25校を設計、’66年-日本駐仏大使公邸新築計画に協力、等がある。また日本建築家協会会長、建設省建築審議会委員、東京都建築審査会委員、通産省デザイン奨励審議会委員、国立西洋美術館評議員、神奈川県立近代美術館評議員などをつとめた。

山田守

没年月日:1966/06/13

 東海大学教授、山田守建築設計事務所長の山田守は、6月13日午前4時15分、胃がんのため死去した。山田守は、大正9年、東大建築学科を卒業、分離派建築会の主要なメンバーとして活躍し、逓信省営繕技師として今日の逓信建築の基礎を築き、昭和初年には、関東大震災後の橋梁復興に尽力し、戦後は東京厚生年金病院をはじめとする病院建築の発展と近代化に大きな功績を残した。年譜明治27年(1894) 4月19日、岐阜県羽島郡に生れる。明治45年 大垣中学校卒業。大正6年 第四高等学校卒業。大正9年 東京帝国大学工学部建築学科を卒業、分離派建築会を組織、逓信省営繕技師となる。大正13年 門司電話局(門司市)。大正14年 東京中央電信局(東京・大手町)。昭和2年 大阪中央電信局(大阪・堂島)。昭和3年 復興院橋梁課嘱託となり永代橋、清州橋など隅田川6大橋、及びお茶の水聖橋の設計に関与する。昭和4年 中国、シンガポール、印度、イタリア、フランス、スイス、ドイツ、チェコ、オーストリー、ハンガリーなどヨーロッパ諸国及びアメリカに出張、その間フランクフルト・アム・マインにおいて開催された第2回国際新建築会議に出席。昭和5年 名古屋中央電話局(名古屋市)。昭和9年 宇部電話局(宇部市)。昭和10年 日本技術協会常務理事となる、以来科学技術の教育・普及につとめる。昭和11年 熊本貯金局、神戸中央電話局。昭和12年 東京逓信病院竣工、これに対して逓信協会賞を受ける。広島貯金局。昭和13年 大阪逓信病院(大阪・桃谷)。昭和15年 逓信省営繕課長に就任。昭和17年 現東海大学の前身航空科学専門学校の設立に協力する。昭和19年 国防電話局(東京・永田町)勲三等瑞宝章をうける。昭和20年 逓信省を退官する。昭和21年 通信建設工業株式会社を設立、専務取締役となる。昭和24年 通信建設工業株式会社を解散、山田守建築事務所を開設する。昭和26年 東海大学理事に就任し、工学部建設工学科主任教授となる。昭和28年 東京厚生年金病院(東京・飯田橋)文部大臣賞を受ける、防衛庁東京中央病院(東京・三宿)。昭和29年 大阪厚生年金病院、建築学会賞をうける。昭和30年 九州厚生年金病院(北九州市)。昭和31年 大阪市立医科大付属病院(大阪・天王寺)。昭和32年 逓信建築の功労に対し前島賞をうける。厚生年金保険庁舎(東京・杉並)長沢浄水場。昭和33年 熊本逓信病院(熊本市)。昭和35年 メキシコ建築家協会より外国特別会員に推される。社会保険横浜中央病院(横浜市)、国際電信電話研究所(東京・恵比寿)、AOAビル(東京・青山)、市立岸和田市民病院(岸和田市)。昭和37年 大阪船員保険病院(大阪・港)、大和郡山市庁舎、郡山綜合病院(奈良県郡山市)。昭和38年 日本武道館の設計競技に当選。昭和39年 藍綬褒章を受ける。日本武道館(東京・千代田区)、京都タワー・ビル(京都市)、市立清水綜合病院(清水市)。昭和40年 勲三等旭日中綬章をうける。玉造整形外科病院(島根県)、ヨーロッパ諸国、アメリカ、ブラジルに建築調査旅行。昭和41年 4月頃より健康を害し療養、6月13日逝去。

岸田日出刀

没年月日:1966/05/03

 東京大学名誉教授・工学博士の岸田日出刀は、5月3日午後3時30分、心筋こうそくのため山梨県山中湖畔の別荘で死去した。享年67才。岸田日出刀は、昭和4年以降東京大学工学部建築学科教授をつとめ、建築意匠に関する論文を多数発表し建築の造型意匠の権威として知られ、また前川国男、丹下健三など現代日本建築界に活躍している建築家を育成した功績も大きく、日本建築学会会長、文化財専門審議会第二分科会専門委員、東京オリンピックの施設特別委員長などを歴任した。手がけた主要な作品には、故内田祥三との共作東大安田講堂(1922-25)、東大図書館(1928)、衆・参院議長公邸、高知県庁、西本願寺津村別院などがある。著書も多く主要なものに、「日本建築史」(昭和7年)「欧州近代建築史」(昭和8年)「第11回オリンピック大会と競技場」(昭和12年)「薨」(昭和12年)「堊」(昭和13年)「過去の構成」(昭和13年)「熱河遺跡」(昭和15年)「扉」(昭和17年)「日本の城」(昭和19年)「焦土に立ちて」(昭和21年)「窓」「縁」などがある。略年譜明治32年(1899) 2月6日、福岡市に生れる(郷里は鳥取県)大正5年 東京府立第三中学校卒業。大正8年 第一高等学校二部甲類卒業。大正11年 東京帝国大学工学部卒業。大正12年 東京帝国大学工学部講師。大正14年 東京帝国大学工学部助教授となり、ヨーロッパ諸国に出張(1年間)昭和4年 東京帝国大学工学部教授・工学博士。昭和11年 ヨーロッパのヴェルクブント運動に刺激されて創設された日本工作文化連盟に参加。昭和23年 日本学術会議会員に選ばれる。昭和25年 建築界につくした功績によって昭和24年度日本芸術院賞を受賞。昭和34年 東京大学工学部教授を定年退職。昭和41年 5月3日午後3時30分死去。

蔵田周忠

没年月日:1966/03/07

 建築家・武蔵工業大学教授蔵田周忠は、3月7日午後3時8分、脳出血のため東京世田谷の国立第2病院で死去した。享年71才。蔵田周忠は、明治28年2月26日、山口県萩市に生れ、大正10年早稲田大学工学部建築学科選科を修了後、協和銀行九段支店(昭和2年)から杉並区立杉並公民館(昭和28年)にいたる建築設計活動、武蔵工大を中心とする教育活動、その他多くの著書にみられる文筆活動、日本建築学会・東京建築士会の創設と運営、一級建築士試験委員、中央建築審議会委員など広い社会的活動によって、日本建築界・デザイン界に貢献するところ大きく、昭和36年黄綬褒章、同40年勲四等瑞宝章を授与された。略年譜明治28年(1895) 2月26日・山口県萩市に生れる。大正2年 私立工手学校建築科を卒業。大正3年 三橋四郎建築事務所製図員となる。大正4年 曽根・中条建築事務所に勤務。大正9年 早稲田大学工学部建築学科選科に入学大正10年 早稲田大学工学部建築学科選科卒業。平和記念東京博覧会技術員となる。大正10年 関根建築事務所技師昭和2年 東京高等工芸学校講師となり立体デザインを担当(昭和18年9月まで)昭和5年 3月渡欧し、ドイツにあって建築・デザイン研究。昭和6年 5月帰国、蔵田周忠建築事務所を開所。昭和7年 武蔵工業専門学校教授となる。昭和8年 ドイツより勲章「ローテクロイツ」を贈られる。昭和24年 武蔵工業大学教授、東京芸術大学美術学部講師(昭和37年3月まで)作品 協和銀行九段支店、大阪土佐堀支店、京王閣遊園、明治天皇聖跡記念館(昭和2年) 三峰神社秩父宮登山記念館(昭和3年) 東京等々力住宅区計画(内4戸実施、昭和10年) 安川邸(北九州市戸畑、昭和11年) 貝島邸(東京尾山台、昭和12年) 甲府市庁舎(昭和13年) 武蔵工業大学(昭和14年) 山口市庁舎(昭和24年) 千葉県自治会館(昭和26年) 杉並区立杉並公民館(昭和28年)著書 エジプトの文化と建築(洪洋社、大正11年)印度の文化と建築(洪洋社、大正13年)、近代建築思潮(洪洋社、大正13年)、近代英国田園住宅抄(建築画報社、大正15年)、ロダン以後(中央美術社、大正15年)、ルネサンス文化と建築・上・下(洪洋社、大正15、昭和2年)、欧州都市の近代相(六文館、昭和7年)、近代的角度(信友堂、昭和8年)、現代建築(東学社、昭和10年)、生産工業的家具(洪洋社、昭和10年)、陸屋根(相模書房、昭和15年)、ブルーノ・タウト(相模書房建築新書、昭和17年)、建築透視図(アルス、昭和18年)、建築と製図(相模書房、昭和22年)、小住宅の設計(主婦の友社、昭和22年)、製図・建築ハンドブック(彰国社、昭和24年)、グロピウス・近代建築家シリーズ(彰国社、昭和28年)、民家帖(古今書院、昭和30年)、塔のある風景(彰国社、昭和32年)、日本近代建築の研究(相模書房、昭和34年)、訳書・グロピウス「生活空間の創造」(彰国社、昭和33年)

岸熊吉

没年月日:1960/11/23

 古文化財の保存修理に長らくたずさわっていた岸熊吉は11月23日、脳溢血のため奈良市の自宅で逝去した。享年79才。明治15年1月8日福井市に生れた。中学時代に上京、明治31年東京美術学校図案科を卒業し、直ちに内務省宗教局国宝調査室で国宝建造物実測図のトレースの仕事に入っていった。同32年、京都府の社寺建造物修理技手を嘱託され、醍醐寺経蔵修理工場に、又本願寺飛雲閣修理工事場にも勤務した。大正10年奈良県技師に任ぜられ、以後退官までの20年間に県内国宝建造物約50棟の修理に関与した。その主なものは、東大寺南大門・転害門・大湯屋、興福寺東金堂、唐招提寺礼堂、当麻寺金堂・講堂、室生寺灌頂堂、春日神社本殿、石上神社拝殿その他がある。昭和9年、法隆寺国宝保存工事事務所より法隆寺国宝保存工事計画調査を嘱託され、更に16年、法隆寺国宝保存工事事務所長兼技師を嘱託された。20年同嘱託を解かれ、その後は文化財保護に関する各委員を委嘱され、34年には長年の功により紫授褒賞を授与された。

吉田種次郎

没年月日:1957/12/04

 社寺修理技師、無形文化財指定保持者吉田種次郎は12月4日、奈良市の自宅で逝去した。享年87歳。明治4年9月12日奈良市に生れ、同36年より昭和27年迄国宝建造物の修理に、工事設計監督に従事していた。法隆寺南大門、西円堂細殿、東院鐘楼の解体修理のほか、県下社寺の修理にたずさわり、その規矩術の研究により、昭和27年無形文化財の指定保持者に認定され、また同30年2月多年の功績に依り紫綬褒章をうけている。32年12月4日勲5等に叙せられ瑞宝章を授与された。

佐野利器

没年月日:1956/12/05

 学士院会員、工学博士佐野利器は、12月5日肺気腫のため逝去した。享年76歳。明治13年4月山形県山口三郎兵衛の四男に生れ、佐野誠一郎の養嗣子となつた。明治36年東大工学部建築科を卒業、大学院を経て同助教授となり各国に留学した。大正7年以来、昭和16年停年退官迄工学部教授をつとめ、また、宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会長、日本大学工学部長などを歴任した。日本の建築構造学を確立した一人で、とくに、家屋耐震構造論などの研究は著名である。大正4年学位をうけ、近年は東京市政調査会理事、東京都住宅協会評議員、生活科学化協会長の役職にあつた。我国建築の基礎的技術の進歩に貢献するところ多く、昭和25年学士院会員に推された、東大名誉教授でもある。

吉田鉄郎

没年月日:1956/09/08

 建築家吉田鉄郎は9月8日杉並区の自宅で逝去した。享年62歳。明治27年5月18日富山県東礪波郡に生れた。大正8年東京帝国大学工学部建築科を卒業、逓信省経理局営繕課に勤務した。この頃の作品に京都七条郵便局(現京都中央郵便局)がある。昭和6年7月渡欧、翌7年7月まで独逸を中心に、欧州各国、米国に留学、バウハウスでは日本建築について紹介をしている。帰国後の第一作となつた東京中央郵便局は、素直で健康な合理主義建築をとり入れた彼の最初の作品であるとともに、日本近代建築を代表する作品であつた。其後の作品には赤羽電話局、大阪中央郵便局があり、逓信省建築が他の保守的官庁建築にくらべて、最も近代的な動きを示したのは彼の功績によるところが大きい。昭和16年には第1回逓信協会功労賞をうけたが、19年逓信技師を辞し郷里に帰つた。21年日本大学教授となり25年病気のため退き、その後、北陸銀行新潟支店、同代々木寮、同長野支店などを手がけたが、病気のため著述に専念していた。著書は多く、“Das Japanischen Wohnhaus”, Berlin. 1935. “Japanische Architektur”, Tulingen, 1952. “The Japanese House and Garden” London, New York. 1955. 「日本の現代建築」「放送会館建築」、「スウェーデンの建築家」更にブルノータウトの訳書等多い。

伊東忠太

没年月日:1954/04/07

 日本学士院会員、日本芸術員会員、東大名誉教授工学博土伊東忠太は、4月7日文京区の白宅で逝去した。享年88。慶応3年10月26日山形県米沢市に生る。明治25年東京帝国大学造家学科を卒業、大学院に於いて日本建築学を研究した。同32年東大助教授、同38年教授に進み、昭和3年停年退官した。その後は早稲田大学教授となり、長年月にわたり後進の育成につとめた。この間、明治34年工学博土の学位を受け、中国、印度、トルコに留学、欧米を巡歴した。中国へは屡々出張した。昭和18年文化勲章を受け、同26年文化功労者に選ばれた。日本及び東洋建築を中心とする研究論文は200余にのぼりその主要なものは「伊東忠太建築文献」(全6巻)に収められて居るが単行図書には「法隆寺建築論」「木片集」「支那建築装飾」等がある。またその設計になる建築は、明治神宮をはじめ独白の様式を示している。(尚詳細については建築雑誌第21巻5月号岸田日出刀「伊東忠太」を参照。)略年譜明治25年 帝国大学工科大学造家学科卒業、大学院入学。明治28年 第4回内国勧業博覧会審査官。明治29年 古社寺保存会委員就任。明治30年 東京帝国大学工科大学講師。明治31年 任造神宮技師兼内務技師。明治32年 兼任東京帝国大学工科大学助教授、東京帝室博物館学芸委員。明治34年 工学博士の学位を受く、清国北京差遣明治35年 建築学研究の為3カ年支那、印度、土耳古へ留学。明治38年 帰国、任東京帝国大学工科大学教授、清国へ差遣。(この後数回差遣さる)明治44年 仏領印度支那、清国へ出張。大正12年 学術研究会議会員。大正14年 帝国学士院会員。昭和2年 帝室博物館評議員。昭和3年 東京帝国大学教授停年退職、名誉教授となる。早稲田大学教授。昭和4年 東方文化学院東京研究所研究員、国宝保存会委員。昭和8年 重要美術品等調査委員会委員、満日文化協会評議員。昭和9年 法隆寺国宝保存協議会委員。昭和13年 帝国芸術院会員。昭和14年 日独文化交換教授のためドイツに出張。昭和18年 文化勲章を授与さる。昭和26年 文化功労者に選ばる。昭和29年 4月7日永眠。主な作品平安神宮 京都市 明治28年明治神宮 東京都 大正4-9年不忍弁天天龍門 東京都 大正2-3年増上寺大殿 東京都 大正14年築地本願寺 東京都 昭和6-9年震災記念堂 東京都 昭和3-5年大倉集古館 東京都 大正15-昭和2年浅野総一郎邸 東京都 明治42年二楽荘 神戸市 明治43年荻外荘 東京都 昭和2年

大熊喜邦

没年月日:1952/02/25

 工学博士、経済学博士、日本芸術院会員大熊喜邦は、2月25日老衰のため千代田区の自宅に於て没した。享年74歳。明治10年1月13日東京に生れ、第一高等学校を経て同36年東京帝国大学工科大学建築科を卒業した。同40年大蔵省臨時建築部技師、大正7年臨時議院建築局設計課長、昭和2年大蔵省営繕管財局の初代工務部長となり、国会議事堂の建築を指揮し、これを完成、同12年退官した。そのほか、文部省、人事院などの官庁建築を設計した。この間、昭和6年から7年にわたり建築学会会長をつとめた。同12年錦鶏間祗候を仰付けられ、同16年帝国芸術院会員となつた。そのほか史蹟名勝天然記念物調査委員、重要美術品等調査会委員などのほか諸種の委員会の委員であつた。最近は、文化財専門審議会第二分科会長兼史跡部会委員であつた。昭和18年「東海道宿駅と其本陣の研究」なる著作で経済学博士の学位を受けている。主な著書に「世界之議事堂」「泥絵と大名屋敷」「古鐔図録」などがある。

遠藤新

没年月日:1951/06/29

 建築界の権威遠藤新は6月29日心臓病のため東大付属病院で逝去した。享年62歳。明治23年福島県相馬郡に生れ、大正3年東京帝大工科を卒業。大正5年帝国ホテル設計の為来日中のフランク・ロイド・ライトに師事、伴われて同8年渡米、翌年帰国、同11年迄帝国ホテル設計監督中のライトの助手として働いた。同12年建築事務所を開設した。昭和7年渡満、同20年まで内地、満洲の両地で設計及び監督を続けた。同21年帰国、目白ヶ丘教会(25年)の作品を最後として長逝した。主要作品年譜は左記の通りであるが、ホテル、学校、寄宿舎、アパート、クラブ、住宅、事務所、店鋪、病院、教会等広般に亘る作品がある。大正11年 旧自由学園(東京目白)大正11年 山邑氏邸(芦屋)(以上はライトとの共同設計)大正12年 日比谷アーケード(東京日比谷)大正12年 旧陶々亭(東京日比谷)大正12年 東大YMCA(東京本郷)昭和4年 甲子園ホテル(兵庫県甲子園)昭和6年 梁瀬自動車ビル(東京日本橋)昭和7年 横浜女子商業学校昭和10年 現自由学園女子部(東京都北多摩郡)昭和11年 現自由学園男子部昭和11年 満洲中央銀行クラブ(新京)昭和16年 満洲中央銀行住宅集団(新京)昭和25年 目白ヶ丘教会(東京目白)(以上年代判明のもののみ)

横河民輔

没年月日:1945/06/25

 建築会の長老、工学博士横河民輔は6月25日逝去した。享年82。元治元年出生、明治23年東京帝国大学建築科を卒業し後欧米を視察し、東京に横河工務所を創立した。専ら欧風建築の設計工事にたずさわつたが就中帝国劇場三越呉服店等が知られている。後建築協会並に建築の資料協会々長に挙げられた。又中国及び日本の陶磁器の蒐集家として知られ、かつて帝室博物館に寄贈された横河コレクシヨンは世界屈指の蒐集である。晩年国宝保存会の委員であつた。

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