本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





吉田桂二

没年月日:2015/12/09

 建築家の吉田桂二は12月9日死去した。享年85。 1930(昭和5)年9月16日、岐阜県に生まれる。45年大阪陸軍幼年学校に入学、終戦後岐阜市立中学校へ復学し卒業。47年に東京美術学校(現、東京藝術大学)に入学し、吉田五十八、吉村順三、山本学治らに師事する。52年に建築学科卒業後、建設工学研究会・池辺研究室に入所。57年に吉田秀雄、小宮山雅夫、戎居研造とともに連合設計社を設立する(1959年に連合設計社市谷建築事務所に改組)。戦後、住宅の量産化が進み、プレハブ工法が木造住宅の主流になっていくなかで、日本の風土と伝統文化に根ざした住宅を追及し、伝統木造構法による住宅の設計に従事した。 63年の地中海への旅行を皮切りに日本国内、ヨーロッパ、中東、アジア、アフリカへと、世界の民家、集落を旅する。76年に、居住者が集団離村し廃村になっていた信州の大平宿を初めて訪れ、当時非常勤講師を務めていた日本大学理工学部の学生とともに4年間にわたり調査を行う。飯田市民が主体となっていた保存運動に協力し、80年に観光資源保護財団(現、日本ナショナルトラスト)が実施した調査に参加した他、民家の保存改修事業の設計監理をボランティアとして担当した。83年に「大平の民家とその系譜」と題する論文で日本大学より工学博士号を取得。この活動をきっかけに、全国の町並の調査と保存、町づくり、古民家の再生に携わることになり、保存と創造の両立を以降の課題として自ら実践した。 86年に観光資源保護財団の依頼を受け飛騨古川(岐阜県古川町、現、飛騨市)の調査に参加。この際、かつて町役場が建ち、その後広場となっていた敷地に飛騨の匠の大工道具を展示するための施設・地域集会所を提案。この計画は後に日本ナショナルトラストのヘリテージセンターの一つ、「飛騨の匠文化館」として実現する。これをはじめとする飛騨古川における一連の修景計画の業績により、1991(平成3)年に吉田五十八賞特別賞を受賞した。 同時期には茨城県古河市の町づくりにもかかわり、かつて出城のあった地に町づくりと文化の拠点として古河歴史博物館を設計する。本館はRC造だが、塗屋造りをモチーフに、屋根を瓦葺とし、卯建など古河の町で見られる要素をデザインに取り入れる。また、隣接して建つ鷹見泉石邸を復原し、分館とする。この博物館の設計と周辺の修景における歴史的景観保存への取り組み、地域に密着した設計が評価され、92年に日本建築学会賞(作品賞)を受賞した。 この他、熊川、内子、熊本など日本各地で町並み保存と歴史的景観を活かした町づくりに取り組み、古民家の再生にかかわるとともに、葛城の道歴史文化館(1986年)、坂本善三美術館(1996年)、大乗院庭園文化館(1997年)、おぐに老人保健施設(2000年)、内子町図書情報館(2002年)、高瀬蔵(2005年)など、町づくりの拠点となる多くの地域公共建築を設計した。 2003年から連合設計社市谷建築事務所において「吉田桂二の木造建築学校」を開校し、実務に携わる建築士、地域工務店、大工を対象に木造建築の設計の技術を教えた。 『住みよい間取り』(主婦と生活社、1980年)、『納得の間取り―日本人の知恵袋』(講談社+α新書、2000年)、『木造住宅設計教本』(彰国社、2006年)などの木造住宅設計マニュアル、『保存と創造をむすぶ』(建築資料研究社、1997年)など古民家の再生と町づくりを扱う図書、『日本の町並み探求伝統・保存とまちづくり』(彰国社、1988年)、『旅の絵本 地中海・町並み紀行』(東京堂出版、1997年)ほか表現力に富んだスケッチを収集した絵本など、多数の著書がある。

東孝光

没年月日:2015/06/18

 建築家で大阪大学名誉教授の東孝光は6月18日、肺炎のため死去した。享年81。 1933(昭和8)年9月20日、大阪市に生まれる。57年大阪大学工学部構築工学科を卒業後、郵政省大臣官房建築部に勤務。60年に坂倉順三建築事務所に入所し、「枚岡市庁舎」(1964年、西澤文隆とともに担当)、「新宿駅西口広場・地下駐車場」(1966年)などの実施設計・監理を坂倉のもとで担当した。 東京都渋谷区神宮前に自邸「塔の家」を設計(1966年竣工)、わずか6坪の変形の土地に建つRC造打ち放しの建物は、6層の内部に一切の仕切りを設けることなくプライバシーを確保して都市における狭小住宅のあり方を明快に提示し、一躍注目を集めた(2003年、「日本におけるDOCOMOMO 100選」に選定)。 67年に独立し、東孝光建築研究所を設立。「粟辻邸」(1971年)、「羽根木の家」(1982年)、「阿佐ヶ谷の家」(1993年)など、長女の東理恵との共同設計作品も含めて100件以上の住宅設計を手掛けた。1995(平成7)年に「塔の家から阿佐谷の家に至る一連の都市型住宅」で日本建築学会賞(作品)受賞。また、「大阪万国博覧会三井グループ館」(1970年)や、「さつき保育園」(1969-76年)、「姫路工業大学書写記念会館」(1995年)などの教育施設の設計も行なっている。 85年に大阪大学工学部環境工学科教授に就任。97年に退官後2003年まで千葉工業大学工業デザイン学科教授を務めた。 主な著書に、『日本人の建築空間』(彰国社、1981年)、『都市住居の空間構成』(鹿島出版会、1986年)、『「塔の家」白書』(住まいの図書館出版局、1988年)、『都市・住宅論』(鹿島出版会、1998年)などがある。

石井和紘

没年月日:2015/01/14

 建築家の石井和紘は1月14日、急性呼吸促迫症候群のため死去した。享年70。 1944(昭和19)年2月1日、東京都に生まれる。67年東京大学工学部建築学科卒業、同大学院に進学ののち、72年より米・イェール大学に留学。75年に東京大学大学院工学系博士課程およびイェール大学建築学部修士課程を修了。76年に石井和紘建築研究室(1978年に石井和紘建築研究所に改称)を設立。 東大大学院在籍中に香川県直島町から吉武泰水研究室に依頼された文教地区計画の一環として「直島小学校」(1970年竣工)の設計を担当して町長の目に留まり、以後「直島幼児学園」(1974年、難波和彦との共同設計)、「町民体育館・武道館」(1976年)などを次々と手掛けた。多様性をテーマにした「54の窓(増谷医院)」(1975年、難波との共同設計)でポストモダン建築家として一躍注目を集めた。また同じ頃に、装飾の象徴性を否定した近代建築を批判してポストモダン建築を提唱したロバート・ヴェンチューリ他著『ラスベガス-忘れられたシンボリズム』の翻訳(鹿島出版会、1978年、伊藤公文との共訳)も行っている。 シンボルとしての屋根を記号化した「54の屋根(建部保育園)」(1979年)やファサードが記号化された「ゲイブルビル」(1980年)などを経て「直島町役場」(1983年)で世間にも強烈な印象を与えた。ここでは京都西本願寺飛雲閣の屋根をはじめ、近代も含む日本建築史上の様々な名建築から意匠や形態が直接的かつ強引に引用されており、造形としては相当に破綻しているが、このような時に過剰なまでの諧謔性は石井作品を通底しており、ポストモダニズムがもてはやされた当時の時代の空気と強く共鳴し合う部分でもあった。その究極と言えるのが「同世代の橋」(1986年)で、石井と同世代の建築家13組の特徴的意匠要素がファサードに脈絡なく組み込まれている。 重伝建地区内において既存のRC造公民館を醤油蔵の外観で覆い隠した「吹屋国際交流ヴィラ」(1988年)を経て、続く「数寄屋邑」(1989年、日本建築学会賞(作品)受賞)「清和村文楽館」(1992年)などの作品においては数寄屋や木造といった日本的伝統が大きなテーマとなり、「くにたち郷土文化館」(1994年)や「宮城県慶長使節船ミュージアム」(1996年)では建物のボリュームを地中に埋没させ、主張の強かった初期の作風からは大きく変容を遂げるに至った。 著作に『イェール 建築 通勤留学』(鹿島出版会、1977年)、『数寄屋の思考』(鹿島出版会、1985年)、『私の建築辞書』(彰国社、1988年)などがあり、中期までの作品は『SD』編集部編『現代の建築家 石井和紘』(鹿島出版会、1991年)に収録されている。

岡田新一

没年月日:2014/10/27

 建築家の岡田新一は10月27日、東京都内にて呼吸不全のため死去した。享年86。 1928(昭和3)年、茨城県水戸市に生まれる。48年旧制静岡高等学校卒業、東京大学工学部建築学科、同大学院に進学し、57年に修士課程修了後、鹿島建設株式会社に入社。同社設計部在籍中にイェール大学建築芸術学部大学院に留学、63年修了後Skidmore Owings and Merrill設計事務所(ニューヨーク)に出向。65年鹿島建設株式会社理事・設計部企画課長。 69年、最高裁判所新庁舎設計競技に参加して最優秀賞を獲得。「法と秩序を象徴する正義の殿堂として、この地位にふさわしい品位と重厚さを兼ね備えると共に、その機能を果たすに足りる内容を持つこと」を要件としたこのコンペには、丹下健三チームをはじめ217点の応募があったが、5年前の国立劇場コンペ(竹中工務店設計部一等当選)に続いて建設会社設計部の案が選ばれたことは、高度成長期における設計組織の台頭を象徴する出来事として、建築界に少なからぬ衝撃を与えた。 コンペの規定に従い独立して株式会社岡田新一設計事務所を設立したのち、74年に竣工した最高裁判所庁舎は、7棟からなる巨大建築で、白御影石貼りの壁がそそり立つ外観が威圧的にすぎるとの批判も巻き起こした。翌75年に日本建築学会賞に選ばれた同庁舎は、岡田の代表作品となるとともに、以後における、警視庁本部庁舎(1980年)、岡山市立オリエント美術館(1981年)、東京大学医学部付属病院(1982年基本計画)といった、大規模な公共建築を中心に設計活動を行う方向性と、石材などを多用した重厚な作風を確立する契機ともなった。JA25 SHIN’ICHI OKADA 特集岡田新一(1997年、新建築社)には、最高裁判所庁舎以来、当時までの代表的作品が収録されており、2008(平成20)年には岡山県立美術館開館20周年特別展として、「建築家岡田新一と岡山県立美術館20年」が開催された。 都市計画や国土計画等の分野でも、審議委員等の立場も含めて発信を行ったほか、「都市を創る」(彰国社、1995年)、「病院建築:建築におけるシステムの意味」(彰国社、2005年)など、設計にあたっての考え方やプロセスを体系化して著述・公開することにも力を注いだ。訳書に、「SD選書11 コミュニティとプライバシィ」(S.シャマイエフ、C.アレキザンダー著、鹿島出版会、1978年)がある。 89年米国建築家協会(AIA)名誉会員、96年には「宮崎県立美術館及び一連の建築設計」に対して日本芸術院賞及び恩賜賞受賞、04年芸術院会員、10年日本建築学会名誉会員。08年には旭日中綬章を受章している。

大谷幸夫

没年月日:2013/01/02

 建築家で東京大学名誉教授の大谷幸夫は、1月2日午後0時10分、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。享年88。 1924(大正13)年2月20日、東京市赤坂区(現、東京都港区)に生まれる。東京帝国大学第一工学部建築学科を1946(昭和21)年に卒業後、同大学院特別研究生として丹下健三研究室に所属、51年満期退学後も60年まで同研究室にて研修。56~64年東京大学工学部建築学科非常勤講師、64年から同都市工学科助教授、71~84年同教授。83年から千葉大学工学部建築学科教授を兼任、1989(平成元)年同定年退官。この間、61年に設計連合を設立、67年大谷研究室を発足し、その代表として設計活動を行った。 丹下研究室に所属した15年の間に、広島平和記念公園及び記念館(1955年竣工)、旧東京都庁舎(1957年竣工)など、丹下健三の初期の代表作品にコンペ段階から実施設計・監理までを通じて携わり、その右腕として大きな役割を果たした。 独立後間もない63年に設計競技で最優秀賞を獲得した国立京都国際会館(1966年第Ⅰ期竣工)では、日本の文化的伝統と現代建築としての国際性の共存、あるいは自然との関係から導き出される建築形態、といった構想のもと、印象深い造形意匠と機能配置の合理性を見事に両立させてみせた。また、その後の四期にわたる増築過程(1971~2001年)をも通じて、基本単位としての建築が集まることで総体としての都市を構成するという大谷の方法論を実践する場となり、2003年には日本におけるDOCOMOMO100選にも選定されている。 大谷は都市計画家としても数多くのプロジェクトを手掛けたが、川崎市河原町高層公営住宅団地(1972年第Ⅰ期竣工)に見られるように、市民が主体として参画できる都市のあり方を模索すると同時に、課題設定から導かれる必然的形態への指向が顕著であったといえる。このため、沖縄コンベンションセンター(1987年)や、歴史的建造物を内包する千葉市美術館・中央区役所(1995年)のように、時にかなり癖の強い形態意匠も含めて作風の幅が広いことも大谷の特徴である。 56年に「五期会」を結成して建築設計組織の変革を主張し、のちには「都市政策を考える会」の代表として政策提言を行うなど、社会との関わりにおいても活発に発言・行動した。83年には「金沢工業大学北校地の一連の作品」で日本建築学会(作品)賞を受賞、97年には「建築と都市の総合的把握に基づく一連の設計活動・社会的活動・建築教育における功績」で日本建築学会大賞を受賞した。 文化財保護審議会専門委員会委員(1974~80年)、厚生省生活環境審議会委員(1978~86年)、建設省建築審議会委員(1981~87年)、日本建築学会理事(1970~72年)、同都市計画委員会委員長(1975~80年)、日本建築家協会理事(1971~76、1984~86年)、日本都市計画学会評議委員(1978~84年)等を歴任。 上記以外の主な受賞歴等として、2001年勲三等瑞宝章受章、2002年日本建築家協会名誉会員など。主な著作に、『空地の思想』(北斗出版、1979年)、『大谷幸夫建築・都市論集』(勁草書房、1986年)などがあり、代表的設計作品は『都市的なるものへ―大谷幸夫作品集』(建築資料研究社、2006年)に収録されている。

菊竹清訓

没年月日:2011/12/26

 建築家の菊竹清訓は12月26日、東京都内にて心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年、福岡県久留米市に生まれる。44年早稲田大学専門部工科建築学科に入学、50年同大学理工学部建築学科卒業後、(株)竹中工務店、村野・森建築設計事務所勤務を経て、53年に菊竹清訓建築設計事務所を設立。 58年の自邸スカイハウス(日本におけるDOCOMOMO150選)で4枚のコンクリート壁で空中に持ち上げられた正方形の基本空間に生活の変化に応じて様々なユニットや設備を着脱するという建築像を提示して注目を集め、翌年にかけてはこの考え方を都市スケールに展開した「海上都市」「塔状都市」の構想を『国際建築』誌上にて発表した。60年に東京で開催された世界デザイン会議を契機に川添登が呼びかけて若手建築家らが結成したメタボリズム・グループに参加し、機能主義の限界を打破する建築や都市のあり方を提唱した菊竹の思考は、「建築は代謝する環境の装置である」という63年の彼の文章(『建築代謝論 か・かた・かたち』(彰国社、1969年)所収)に集約されている。 そして、自身の方法論を実践した作品として、国立京都国際会館コンペ案(1963年)、出雲大社庁の舎(1963年、日本建築学会作品賞、芸術選奨文部大臣賞、米国建築家協会汎太平洋賞、日本におけるDOCOMOMO100選)、ホテル東光園(1965年、日本におけるDOCOMOMO150選)、都城市民会館(1966年、日本におけるDOCOMOMO150選)などを次々と設計し、70年大阪万博のエキスポタワーでは「塔状都市」、75年の沖縄海洋博アクアポリスでは「海上都市」のアイデアが試みられた。 その後、銀行や商業建築などを手掛けた時期を経て、90年代以降は、江戸東京博物館(1993年)、島根県立美術館(1999年)、九州国立博物館(2005年)など大型の作品が目立つ。 千葉工業大学教授、早稲田大学客員教授などとして後身の指導にあたったほか、菊竹事務所からは伊東豊雄、長谷川逸子、内藤廣ほか、現在の日本を代表する建築家が多数輩出していることも特筆に値する。 1995(平成7)年「軸力ドームの理論とデザイン」で早稲田大学より工学博士号取得。プロデューサーや委員として博覧会等の国家的プロジェクトに積極的に参画したほか、日本建築家協会副会長、日本建築士会連合会会長などを歴任した。 上記以外の主な受賞歴に、78年UIA国際建築家連合オーギュスト・ペレー賞作品部門・方法論部門、79年毎日芸術賞(京都信用金庫の一連の作品)、2000年ユーゴスラヴィア・ビエンナーレ「今世紀を創った世界建築家100人」、06年早稲田大学芸術功労者賞など。06年勲三等旭日中綬章受章。また、71年米国建築家協会特別名誉会員、94年フランス建築アカデミー会員など、諸外国からの顕彰も多い。 他の著作に『人間の建築』(井上書院、1970年)、『海上都市』(鹿島出版会、1973年)、『現代建築をどう読むか―日本建築シンドローム』(彰国社、1993年)などがあり、作品集も多数出版されている。

林昌二

没年月日:2011/11/30

 建築家の林昌二は11月30日、東京都内にて心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年、東京市小石川区(現、東京都文京区)に生まれる。45年東京高等師範学校附属中学校卒業。東京工業大学工学部建築学科で清家清に学び、53年に卒業後、日建設計工務株式会社(現、株式会社日建設計)に入社。以後、同社のチーフアーキテクトとして活躍し、73年取締役、80年副社長、1993(平成5)年副会長・都市建築研究所所長を歴任し、2011年3月の退任まで同社顧問を務めた。 55年の旧掛川市庁舎に始まる担当作品は、62年の三愛ドリームセンター(日本におけるDOCOMOMO100選)を経て、代表作となる66年のパレスサイドビルディング(日本におけるDOCOMOMO20選)を生む。戦後日本のオフィスビルとして最高傑作の一つと言えるこの建築では、欧米で主流となっていたセンターコアシステムを採らずにエレベーターや水回りを収めたシャフトを両端部に配する独創的プランを考案し、当時としては最大規模の容積率を充足しながら、新技術に裏打ちされた美しいプロポーションや各所にちりばめられた細やかなディテールなど、五十年近くを経た現在も全く古さを感じさせない。 林は建築誌上等に多くの文章を書いているが、74年に建築史家の神代雄一郎が発表した論考に端を発した、いわゆる「巨大建築論争」では組織設計事務所の立場を代表して「その社会が建築を創る」(『新建築』1975年4月号所収)と反駁しており、総合的技術力が初めて可能にする建築を生み出し続けていることへの強い自負が感じられる。 日本建築学会作品賞を受賞した71年のポーラ五反田ビルや82年の新宿NSビルなど、オフィスビルを最も得意としたが、妻の林雅子と共同設計した自邸「私たちの家」(Ⅰ期1955年、Ⅱ期1978年)も佳作として知られる。 90~92年新日本建築家協会会長。同名誉会員、米国建築家協会名誉会員、日本建築学会名誉会員。80年「筑波研究学園都市における研究および教育団地の計画と建設」で日本建築学会業績賞受賞。 著作に『建築に失敗する方法』(彰国社、1980年)、『私の住居・論』(丸善、1981年)、『オフィスルネサンス インテリジェントビルを超えて』(彰国社、1986年)『二十二世紀を設計する』(彰国社、1994年)、『建築家林昌二毒本』(新建築社、2004年)、『林昌二の仕事』(新建築社、2008年)などがあり、主要作品は『空間と技術 日建設計・林グループの軌跡』(鹿島出版会、1972年)などにも収録されている。

大高正人

没年月日:2010/08/20

 建築家の大高正人は、8月20日午後6時35分、老衰のため死去した。享年86。1923(大正12)年9月8日、福島県田村郡三春町に生まれる。44年旧制浦和高等学校を卒業後、東京大学工学部建築学科に入学。47年に卒業後、同大学院に進み、49年修了。同年に前川國男建築設計事務所入所。62年に独立して大高建築設計事務所を設立、同代表取締役。81年から1991(平成3)年まで計画連合代表取締役。60年に東京で開催された世界デザイン会議に向けて川添登を中心に結成された「メタボリズム・グループ」に参加、59年に発表した「海上帯状都市」などの提案を行った。日本建築学会都市計画委員会に62年に設置された人工土地部会での検討にも参加し、その成果は、大高の設計により68年に第1期工事が竣工した「坂出人工土地」として結実した。コンクリートの人工地盤を設けて下部を駐車場と商店街などに利用し、上部に住宅団地とオフィス、歩行者空間を設けるというこの再開発計画は、戦後日本が直面していた都市の諸問題を解決する画期的手法として67年に日本都市計画学会石川賞を受賞した。その後も、原爆によって生じた木造スラムの再開発計画である「広島市基町・長寿園高層アパート」(1972~76年竣工)の設計を手掛け、ここでも人工地盤や屋上庭園といった計画手法や建設コスト削減のための工夫を試みている。これらの実験的計画は結局、経済効率の悪さや法制度との不整合などから一般解とはなりえなかったものの、メタボリズムの建築家たちによる都市計画的提案の大半が構想のみに終わった中で大高の計画が長年をかけて実現に漕ぎつけたことは、その地道な問題解決能力のなせる技であっただろう。一方、単体の建築作品としては公共建築を得意とし、千葉県文化会館(1968年、日本建築学会(作品)賞)や栃木県議会議事堂(1969年、芸術選奨文部大臣賞)、群馬県立歴史博物館(1980年、毎日芸術賞)をはじめとする数多くの建物を設計した。その活動には、他のメタボリストのような派手さこそなかったが、大高の作品から、「坂出人工土地」のほか、「千葉県立中央図書館」(1968年)、「花泉農協会館」(1965年)の計3件が、代表的な現存の近代建築として日本におけるDOCOMOMO150選に選出されていることが示すように、戦後日本の一時代を画した建築家の一人ということができる。中央建築審査会委員(1974~82年)、建築審議会委員(1975~93年)、日本建築学会理事(1976~77年)、都市計画委員会委員長(1980~82年)、日本建築士会連合会副会長(1988~98年)等を歴任。上記以外の主な受賞歴等として、88年紫綬褒章。2000年日本建築学会名誉会員。03年日本建築家協会名誉会員。同年旭日中授章受章など。著作に、川添登と共編による『メタボリズムとメタボリストたち』(美術出版社、2005年)がある。

田中文男

没年月日:2010/08/09

 大工棟梁として活躍してきた田中文男は肺癌のため8月9日死去した。享年78。1932(昭和7)年千葉県に生まれ、46年尋常小学校高等科を卒業し、千葉県で大工棟梁に弟子入り、53年年季奉公を終えて上京し、重要文化財根津神社修理工事の現場で働く。早稲田大学工業高等学校(定時制)で学びながら、奈良県今井町や秋山郷、滋賀県湖北地方の民家調査に参加。太田博太郎や大河直躬など建築史研究者の活動に協力する。58年に田中工務店、次いで62年に株式会社真木建設設立。以後文化財建造物の保存修理工事に請負として携わる。71年重要文化財旧花野井家住宅解体移築修理工事、79年東京都指定有形文化財法明寺鬼子母神堂保存修理工事、82年重要文化財泉福寺薬師堂保存修理工事、83年東京都指定有形文化財武蔵御嶽神社旧本殿保存修理工事など多数の文化財建造物の保存修理工事に功績を残す。一方で工務店経営の傍ら82年には宮沢智士らと「普請帳研究会」を発足させ、建築生産や技術についての調査研究を進め、季刊の機関誌「普請研究」を10年40号にわたって発行した。「普請研究」は技術の実務と学問を橋渡しする田中の姿勢を体現し、建築史研究の深化発展に寄与するとともに多くの技術者や研究者の発表の場となり、後進の育成の場ともなった。1991(平成3)年には建築施工の実務を後進に譲り、有限会社真木設立。佐賀県吉野ヶ里遺跡の北内郭の復元設計などに携わり、95年財団法人国際技能工芸振興財団設立発起人、96年専門学校富山国際職藝学院オーバーマイスター就任、ベトナム・フエ明命帝陵修復プロジェクト現地指導。業績は文化財に止まらず、現代建築の施工にも足跡を残した。初期には60年宮脇檀設計による銀座帝人メンズショップの店舗改装や66年同設計者によるVANジャケット石津謙介の別荘「もうびぃでぃっく」の施工、その後は自身の考案による校倉構法や文化財修理の経験を生かした民家型構法の開発による高品質住宅の提案を行った。一般には肩書きを宮大工と呼ばれることが多く、実際に社寺建築を多く手がけていたが、興味や能力はそこに止まらず、プロデューサー、コーディネーターとして非凡な才能を発揮した。実務を通して培った幅広い知識と理論に裏打ちされた交友関係は分野を越え、建築史研究者、文化財関係者から建築家、ファッションデザイナー、林業家まで非常に幅広かった。豪放磊落さと人を気遣う細心さを併せ持つ希有の人物であった。

小林章男

没年月日:2010/03/27

 屋根瓦の製作者であり、国の選定保存技術保持者であった小林章男は、膀胱癌のため奈良市の病院で3月27日死去した。享年88。1921(大正10)年12月7日、江戸時代文政年間からつづく瓦匠、屋号「瓦宇」(かわらう)の当主の長男として奈良県奈良市に生まれる。1938(昭和13)年、家業の瓦製造業に就き、以後数多くの国宝、重要文化財等に指定された建造物の屋根瓦の製造及び修理事業に携わる。81年、奈良県瓦葺高等職業訓練学校(奈良県天理市)校長に就任、88年まで務める。82年、「現代の名工」として労働大臣表彰を受ける。84年、株式会社瓦宇工業所代表取締役に就任。同年、「鬼瓦づくり」で第4回伝統文化ポーラ賞(ポーラ伝統文化振興財団)の特賞を受賞。88年、国宝「法隆寺五重塔」をはじめとして、本瓦葺の建造物の修理で捕捉される役瓦(巴瓦、鬼瓦、鯱、鴟尾等)の製作技術が高く評価され、「屋根瓦製作(鬼師)」として国の選定保存技術保持者に認定される。1991(平成3)年、瓦職人の集まりである「日本鬼師の会」の会長に就任(95年まで)。同年、日本伝統瓦技術保存会の設立にあたり会長となる(97年まで)。また勲六等瑞宝章を受章。2002年、株式会社瓦宇工業所の会長に就任。代表的な仕事としては、昭和の東大寺大仏殿の瓦葺替工事を棟梁として成し遂げた。ほかに古建築瓦葺替工事は、近畿、中国、四国を中心に全国に及んでいる。この間、古代、中世から近世にわたるまで、瓦の様式、製法等を、全国にわたる調査と製作という実践を通じて蓄積された経験、技術、知見は、建築史、歴史考古学等の学界に多大に寄与した。また、多くの著作を残しており、主要な著作は下記のとおりである。『対談・鬼瓦その他』(大蔵経済出版、1980年)、『鬼瓦』(大蔵経済出版、1981年)、中村光行共著『鬼・鬼瓦(INAX BOOKLET)』(INAX、1982年)、『生きている鬼瓦』(石州瓦販売協業組合、1985年)、『獅子口を探る』(小林章男、1995年)、山田脩二共著『瓦―歴史とデザイン』(淡交社、2001年)、日本鬼師の会、京都府大江町共編『鬼瓦(棟端飾瓦)造り 鬼瓦読本』(日本鬼師の会、2004年)。なお、『史迹と美術』(史迹美術同攷会)における連載「鬼瓦百選」(第1回は721号)は、生前に原稿がすべて準備されていたため、同誌820号(2011年12月)において100回をもって完結した。

黒川紀章

没年月日:2007/10/12

 建築家の黒川紀章は10月12日午前8時42分、東京女子医科大学病院にて心不全のため死去した。享年73。1934(昭和9)年、愛知県名古屋市に生まれる。53年東海高校卒業後、京都大学工学部建築学科に進学。57年に卒業後、東京大学大学院に進み、64年同博士課程単位取得退学。在学中の62年に株式会社黒川紀章建築都市設計事務所を設立、死去まで同社代表取締役。東大大学院では磯崎新らとともに丹下健三研究室に所属し、この時期からスケールの大きい都市計画構想を発表し始める。とくに、世界デザイン会議が60年に東京で開催されるにあたり、その企画に関わった他の若手建築家らとともに結成したメタボリズム・グループによる『METABOLISM/1960―都市への提案』で、建築界の枠を超えて注目を集めた。「メタボリズム」とは新陳代謝を意味し、高度成長期の激変する社会状況を受けて、その変化に有機的に対応しうる都市と建築の在り方を提唱しようとする建築運動であった。黒川は、菊竹清訓と並んで、この思想を最も直截的に具現化した建築作品を設計した。工場生産された交換可能なユニットが縦動線や設備を収納したコンクリートシャフトに挿し込まれた中銀カプセルタワービル(1972年)がその代表例である。丹下の全体構想のもと、黒川たち門下生が多くのパビリオン設計を担った70年の大阪万博を最後に、このような未来志向的な巨大都市構想は現実社会から受け入れられずに終わるが、近代主義の超克はその後も黒川の問題意識の核心にあり、「共生の思想」と言葉を変えて、社会に向け発信され続けた。持続的発展の必要性が共通認識となった昨今、彼らの運動の先駆性を再評価する動きもみられる。黒川紀章は、ある時代において日本人に最も知られた建築家であった。女優若尾文子との再婚など、華やかな「建築家」のイメージがメディアを通じて流布され、日本におけるこの職能の認知に果たした役割は大きい。その一方で、保守政治との接近なども手伝って、プロフェッショナルな建築界からは厳しい評価を浴びることも多く、むしろ海外での評価が高かった。手掛けた建築作品は数多いが、一貫して大規模な公共施設を得意とした。80年代からは、広島市現代美術館(1990年、日本建築学会作品賞)、奈良市写真美術館(1992年、日本芸術院賞)など、博物館や美術館を次々と設計している。また、90年代からは海外プロジェクトに積極的に参画し、クアラルンプール新国際空港(1998年)やゴッホ美術館新館(アムステルダム、1999年)など単体の建築にとどまらず、国際コンペで優勝したカザフスタンの新首都計画や中国広州市の珠江口地区都市計画など、若き日に実現できなかった壮大な都市構想を追い求め続けた感がある。上記以外の主な受賞歴に、86年フランス建築アカデミーゴールドメダル、1989(平成元)年フランス芸術文化勲章など。98年日本芸術院会員、2006年文化功労者。また、英国王立建築家協会国際フェロー、米国建築家協会名誉会員など、諸外国からの顕彰も多い。『都市デザイン』(紀伊国屋書店、1965年)、『メタボリズムの発想』(白馬出版、1972年)、『共生の思想』(徳間書店、1987年)、『建築論Ⅰ・Ⅱ』(鹿島出版会、1985・90年)、『新・共生の思想』(徳間書店、1996年)など、著作多数。

篠原一男

没年月日:2006/07/15

 建築家の篠原一男は7月15日午後1時13分、神奈川県川崎市の病院で死去した。享年81。篠原一男は、1925(大正14)年4月2日静岡県に生まれた。1947(昭和22)年東京物理学校を卒業後、東北大学数学科を経て東京工業大学建築学科入学。53年卒業後、同大図学助手。62年東京工業大学助教授。67年「日本建築の空間構成の研究」にて工学博士。70年東京工業大学教授。84年イェール大学客員教授、86年東京工業大学定年退官、同名誉教授、ウィーン工科大学客員教授。同年篠原アトリエ設立。1995(平成7)年より99年まで神奈川大学大学院特任教授。建築を学んだ東工大では若き清家清に師事し、卒業後まもなくから日本の伝統建築の空間性を近代的表現に転化した住宅作品の設計を手がけた。同時に、早い時期から「住宅は芸術である」などの言説を通じても注目を集め、建築は社会的要請に応えるべきものであるとの当時の建築界の支配的風潮に真っ向から挑んだ。54年の久我山の家に始まる住宅作品は、62年から傘の家、66年白の家といった日本建築の伝統を明瞭に感じさせる作風から、70年未完の家、71年直方体の森、73年東玉川の住宅等を経て、76年上原通りの住宅に代表される幾何学形態をもつ抽象空間へと突き進み、84年ハウス・イン・ヨコハマに見られる前衛的表現に至る。一貫して架構システムを建築表現の中心に据えるとともに、はじめ数学者を志した経歴もあり、作品からは幾何学への強い志向が感じられる。住宅以外の作品としては82年日本浮世絵博物館、87年東京工業大学百年記念館、90年熊本北警察署等があるが、いずれも幾何学的形態操作と大胆な構造による外観が強い印象を与える。60年代以来、「プログレッシヴ・アナーキィ」や「ランダム・ノイズ」といった概念を打ち出しながら日本の都市を語るとともに、自らの作品群を「非統一的構造体」と命名したが、東京工業大学百年記念館はその集大成と言える。自ら言う「即物的な結合」から生み出された造形は、そのあまりのインパクトの強さから賛否両論を呼んだが、80年代を代表する建築の一つとなった。また、東工大篠原研究室からは多くの現代建築家が輩出しており、「シノハラ・スクール」として知られる。88年アメリカ建築家協会名誉会員(HFAIA)。72年「「未完の家」以後の一連の住宅」にて日本建築学会賞(作品賞)。89年「東京工業大学百年記念館」にて芸術選奨文部大臣賞。90年紫綬褒章。97年毎日芸術賞特別賞。2000年勲三等旭日中綬章。05年日本建築学会大賞。著書に、『住宅建築』(紀伊国屋書店、1964年)、『住宅論』(鹿島出版会、1970年)、『超大数集合都市へ』(A.D.A Edita Tokyo、2001年)、『篠原一男経由 東京発東京論』(鹿島出版会、2001年)など。

清家清

没年月日:2005/04/08

 建築家の清家清は4月8日午前10時、肺炎のため東京都大田区の病院で死去した。享年86。清家清は、1918(大正7)年京都市に生まれた。大阪を経て23年父清家正の神戸高等学校教授就任により神戸に移転、25年神戸市立須磨尋常小学校入学。1931(昭和6)年兵庫県立神戸第二中学校入学。36年東京美術学校建築科入学。40年東京外国語学校速成科(伊語)修了。41年東京美術学校卒業、府立高等工業学校講師(43年まで)、東京工業大学建築学科入学。42年アテネフランセ初等科修了。43年東京工業大学卒業、海軍に入る。青島方面特別根拠地隊、海軍施設本部、舞鶴海軍施設部、海軍機関学校(海軍兵学校舞鶴分校)を経て終戦を迎える。終戦時は海軍技術大尉。45年東京工業専門学校講師(~48年)。46年都立工業専門学校講師(~47年)、東京工業大学助手。47年東京工業大学講師、48年同建築材料研究所助教授、50年同建築学科助教授、62年住宅平面の規模についての建築計画的研究で工学博士、東京工業大学教授、74年同工学部長、77年東京藝術大学美術学部に配置換え、79年東京工業大学定年退官、名誉教授。80年東京藝術大学美術学部長、84年放送大学客員教授(~92年)、86年東京藝術大学定年退官、名誉教授。87年デザインシステム設立。札幌市立高等専門学校の設立に尽力し、1991(平成3)年に校長就任(~97年)。作品は住宅を中心とする。障子や畳など和風の要素を用い、日本の伝統建築が持つ線と面のコンポジションの美しさを現代住宅に表現した軽快な作品で知られる。日本の伝統をモダニズムに見事に融合した住宅作家として、戦後日本の現代住宅デザインをリードした。51年森博士の家、52年斎藤助教授の家、53年宮城教授の家、54年私の家、数学者の家。54年これら一連の住宅により日本建築学会作品賞受賞。同年来日した建築家グロピウスが斎藤助教授の家他を見学、その招きで55年渡米、欧州を回って帰国。同年、近年の日本住宅の建築設計により芸術選奨文部大臣賞受賞。その他の主な作品、受賞に60年九州工業大学記念講堂、61年東京国際見本市鉄鋼特設館、62年埼玉農林会館、小原流家元会館(74年神戸市建築文化賞)、島沢先生の家、64年東京オリンピック村メインゲート、久が原の家、66年乃村工藝社東京社屋、黄金の国舞台装置、70年日本万国博覧会国連館ほか、続私の家、東が丘の家、代々木の家、続久が原の家(77年吉田五十八賞)、71年オーストラリア政府文化賞、駒込の家、75年静清総合卸センター組合会館、77年伊豆・三津シーパラダイス(78年沼津市建築賞、79年BCS賞)、82年軽井沢プリンスホテル、89年倅の家、93年八景島シーパラダイス、94年札幌市立高等専門学校など。83年 紫綬褒章。89年勲二等瑞寶章。81~82年日本建築学会会長。89~93年東京建築士会会長。91年日本建築学会大賞、デザイン功労者。著書に、『家相の科学 建築学が発見したその真理』(光文社、1969年)、『日本の木組』(淡交社、1979年)、『やすらぎの住居学 100の発想』(情報センター出版局、1984年)など。

丹下健三

没年月日:2005/03/22

 建築家の丹下健三は3月22日午前2時、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。享年91。ケンゾウ・タンゲとして日本のみならず世界でもトップクラスの建築家・都市計画家として知られた丹下健三は、1913(大正2)年大阪府堺市に生まれた。父親の転勤に伴って生後まもなく中国に移り、漢口を経て上海へ、20年上海日本人尋常小学校2年生の時に父親の出身地愛媛県今治市へ戻り、26年旧制今治中学入学、30年旧制広島高等学校理科甲類に進学。この旧制広島高校時代に芸術雑誌でみたフランス人建築家の巨匠ル・コルビジェの作品に感動したことが建築家を志すきっかけとなった。1935(昭和10)年東京帝国大学工学部建築学科入学、38年卒業、前川国男建築事務所に入る。41年東京帝国大学大学院入学、46年大学院修了、同年東京帝国大学工学部建築学科助教授。59年工学博士。大学院在学中の42年に大東亜建設記念営造計画コンペ、翌43年に在盤谷日本文化会館計画コンペで続けて一等入選。さらに49年広島市主催の広島平和記念公園コンペでも一等入選(55年完成)。51年ロンドンで開催された第8回CIAM(国際近代建築会議)に招待されて広島の計画を発表、日本を代表する建築家として海外でも知られるようになった。52年東京都庁舎コンペ一等入選(57年完成)、57年倉吉市庁舎、58年香川県庁舎、60年倉敷市庁舎。柱と梁、庇と縁の直線の構成から生まれる美、伊勢神宮や桂離宮などに代表される日本の伝統建築の美しさと力強さをモダニズムに融合させた斬新なデザインを次々と発表し、モダニズムを主導した欧米の建築界でも高い評価を受けてその一翼を担い、戦後日本の建築家の国際社会での地位確保に貢献した。関心は個別の建築デザインに止まらず、都市計画にも及んだ。61年1月「東京計画1960」発表。都市を有機体と考え、東京湾を横断する都市軸上に線上に発展する開いた都市を構想した。機能的アプローチから構造的アプローチへの転換であったと語る。61年丹下健三・都市建築設計研究所開設。64年東京大学工学部都市工学科新設、教授就任。64年東京オリンピック開催、代表作となる代々木の国立屋内総合競技場が完成した。吊り構造という新しい構造形式を採用し、構造力学者坪井善勝の協力を得て生み出された画期的で象徴的な造形の建築は世界の注目を集めた。この頃のテーマは「空間と象徴」であり、同様な造形美を誇る東京カテドラル聖マリア大聖堂、香川県立体育館が同じ年に完成している。67年山梨文化会館では、東京計画1960で試みた構造的アプローチを単体の建築で実現させて、有機的に成長する建築を提案した。70年日本万国博覧会会場マスタープランを手がけて、名実ともに日本の戦後復興と高度経済成長時代を支えた建築家となった。海外では、66年ユーゴスラビア・スコピエ都市再建震計画競技設計一等入選、その後、世界各地で数多くの建築・都市計画を手がける。主なものに、ネパール・ルンビニ釈尊生誕地聖域計画(69年~)、伊ボローニャ・フィエラ地区センター計画(71年~)、アルジェリア・オラン総合大学計画(71年~)、クウェート国際空港(79年)、伊ナポリ新都心計画(80年~)、ナイジェリア新首都都心計画(81年~)、シリア・ダマスカス国民宮殿(81年)、サウジアラビア王国国家宮殿・国王宮殿、同キングファイサル財団本部(82年)、シンガポール、マレーシアでの一連の作品などがある。また最近の作品としては、1991(平成3)年東京都新庁舎、96年フジテレビ本社ビル、05年癌研究会有明病院などが知られ、最後まで建築界に刺戟を与え続けた。74年東京大学定年退官、名誉教授。79年文化功労者。80年文化勲章。94年勲一等瑞宝章。海外では、76年西独プール・ル・メリット勲章、77年フランス国家功労勲章コマンドール、78年メキシコアギラ・アステカ勲章、79年イタリア国家有功勲章コメンダトーレ、83年フランス芸術アカデミー会員、ペルー太陽勲章グラン・オフィシェル、84年イタリア国家有功勲章グラン・オフィシェル、フランス文化芸術勲章コマンドール、89年イタリアサボイア文化勲章、96年フランスレジオン・ドヌール勲章コマンドールなど。また世界中の大学から多くの名誉博士号を受けた。62年ドイツ・シュツットガルト工科大学名誉工学博士、64年イタリア・ミラノ工科大学名誉建築学博士、70年イギリス・シェフィールド大学名誉文学博士、71年アメリカ・ハーバード大学名誉芸術博士、78年アルゼンチン・ベェノスアイレス大学名誉教授、97年中国・清華大学名誉教授、など。

芦原義信

没年月日:2003/09/24

 建築家で、文化勲章受章者の芦原義信は、大腸がんのため東京都新宿区の病院で死去した。享年85。1918(大正7)年、東京に生まれる。自身の述懐によれば、両親とも軍医の家系ながら、叔父に藤田嗣治、遠縁に小山内薫、兄は後に音楽舞踏評論家となる芦原英了がおり、芸術への関心がはやくからあったという。1942(昭和17)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業、同年、海軍技術士官として入隊。45年、復員後坂倉準三建築事務所、現代建築研究所等に勤務する。52年米国政府留学生として渡米、イエール大学の講習の後、ハーバード大学デザイン学部大学院に入学。53年同大学院を卒業後、ニューヨークのマルセル・ブロイヤー事務所に入所した。54年、帰国後中央公論ビルを設計、同年法政大学工学部講師となる(59年に同大学教授となる)。60年、中央公論ビルの設計に対して昭和34年度日本建築学会賞受賞。65年、駒沢公園(東京都世田谷区)オリンピック体育館及び管制塔の設計に対して、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、同年法政大学を辞任し、武蔵野美術大学教授建築科主任となる。66年、東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなった。68年、モントリオール日本館の設計に対して、昭和42年度芸術選奨文部大臣賞受賞。70年、東京大学教授となる。79年、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行、毎日出版文化賞を受賞。84年、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の設計に対して、日本芸術院賞を受賞。88年、日本芸術院会員となる。日本建築家協会、日本建築学会の会長を歴任。1998(平成10)年、文化勲章受章。モダニズム建築として注目されたが、そればかりではなく単体としての建築ではなく、都市と建築、内部と外部のつながり、そうした関心は、「街並みの美学」として結晶した。それに基づく提言は、日本における町づくり、町の景観への配慮という社会的、行政的な課題としても注目された。

大森健二

没年月日:2000/04/22

 建築家で工学博士の大森健二は4月22日午後10時、肺炎のため京都市の病院にて死去した。享年77。1923(大正12)年4月18日、京都市に生まれる。1949(昭和24)年、京都帝国大学工学部建築学科を卒業して京都府教育委員会国宝保存課に勤務し、大報恩寺本堂や平等院鳳凰堂の修理などを手がけた。56年の滋賀県教育委員会社会教育課をへて61年から京都府教育委員会文化財保護課に勤務、園城寺勧学院客殿や八坂神社本殿など、滋賀県および京都府下の数々の国宝・重要文化財建築の修理を担当した。62年、学位論文「中世建築における構造と技術の発達について」を京都大学に提出し、工学博士号を授与される。65年からは建築研究協会日本建築研究室に勤務し、その常務理事を兼ねる。68年に日本建築学会賞(論文)を、77年に密教学会賞(業績)をそれぞれ受賞している。実証的調査に基づいて建築技法を綿密に分析する研究手法は、中世建築史研究を大きく前進させただけでなく、現在でもひとつの模範とされているところである。また、中世建築技法への深い造詣を活かして、平安神宮社殿(79年)、延暦寺東塔(80年)、新勝寺大塔(84年)、湯島神社社殿(95年)などの設計を担当したことでも知られている。主著に『社寺建築の技術-中世を中心とした歴史・技法・意匠-』(理工学社 98年)がある。著作目録は『建築史学』35号(建築史学会 2000年9月)に掲載されているので、参照されたい。

平島二郎

没年月日:1998/10/20

 建築家の平島二郎は10月20日午後11時15分、胸部大動脈瘤破裂のため東京都千代田区の病院で死去した。享年69。昭和4(1929)年6月22日、東京都港区高輪南町に生まれる。同17年森村学園初等科を卒業し、同年麻布中学校に移ったが、同19年に成城学園に転じる。同25年東京芸術大学美術学部建築科に入学。一方で在学中に俳優座養成所舞台技術講習生となり舞台美術コースを同29年卒業、俳優座劇場舞台美術製作所に在籍する。同29年東京芸術大学を卒業するが、卒業設計には当時まだ知る人の少なかったシェル構造を選ぶ。シェル構造からスペインのトローハの作品に注目、さらにヨーロッパとアラブ世界の交流史に興味を持ち、また日本と世界の住宅の歴史を精査、自身の建築設計に独自の風土論を実現することとなる。同29年山脇巌の自邸内の研究室に入室し、バウハウスに留学した山脇夫妻のもと、グロピウス展の展示計画にも加わった。同30年、朝吹四朗建築事務所に就職。同36年スペイン政府名誉留学生に合格、スペイン国立マドリード大学トローハ研究室と、サン・フェルナンド美術学校に一カ年在籍。その間のヨーロッパ各地、また船旅の往路途次ではアジア各地を、帰国時に南米各地、北米合衆国を、建築、とくに住宅について視察した。同38年建築事務所開設。同年母校の講師として同43年まで在職、東京芸術大学図書館ほかの設計に加わった。同41年文部省委託のカッパドキア中世遺跡調査に従事。主な作品にはクレッセント・ハウス(同43年)、奥志賀高原ホテル(同44年)、那須御用邸基本設計(同49年)、葉山御用邸(同53年)、赤坂御用地内東宮仮御所(同57年)。平成10年の遠藤周作文学館の基本設計が遺作となった。著書に『世界建築史の旅』(美術出版社 昭和42年)。

西岡常一

没年月日:1995/04/11

 文化功労者で、文化財選定保存技術保持者の宮大工棟梁西岡常ーは、4月11日午前5時55分、前立腺がんのため奈良県生駒郡三郷町の奈良県立三室病院で死去した。享年86。明治41(1908)年9月4目、法隆寺棟梁西岡常吉の孫として、父楢光、母つぎとの聞に生まれた。大正14(1924)年、生駒農学校を卒業、祖父を師に大工見習となる。兵役の後、昭和6(1931)年に橿原神宮拝殿新築工事で父の代理棟梁をつとめた。同年、法隆寺西室修理工事で大工をつとめ、また法隆寺五重塔十分の一の学術模型を制作(東京国立博物館蔵)。同8年、法隆寺昭和大修理のための修理設計実測にあたり、翌年東院礼堂解体修理で初めて棟梁となった。同18年、五重塔の解体調査にあたり、ひきつづき解体部材の復元につとめた。同24年法隆寺金堂全焼にあたり、下層を新材で、上層を解体により難を免れた古材で復元するにあたり、その棟梁をつとめた。同42から50年まで、落雷により焼失していた法輪寺三重塔の再建にあたった。また同45年からは、薬師寺にまねかれ、同寺の伽藍を創建当時の姿に復興する事業に参加、東塔を参考にしながら西塔を復元、またあらたに三蔵院建立にたずさわった。同49年には、父子で吉川英治文化賞を受賞。同52年には、文化財選定保存技術保持者に指定され、平成4(1992)年には、文化功労者に選ばれた。法隆寺に伝わる飛鳥時代の木匠の技を継承する「最後の宮大工」といわれた。

圓堂政嘉

没年月日:1994/09/29

 元日本建築家協会会員の建築家圓堂政嘉は平成6年2月より療養中の米国ニューヨーク市ニューヨークホスピタル、コーネルメディカルセンターで、現地時間の9月28日午後9時35分(日本時間29日午前10時35分)、心不全のため死去した。享年73。大正9(1920)年11月30日横浜市南太田町に生まれる。父遠藤政直は工学博士で横浜高等工業高校教授をつとめた。昭和2(1927)年私立精華小学校に入学。同8年県立横浜第一中学校に入学し同13年に卒業する。同15年早稲田大学高等学院に入学。応召の後同20年9月早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業する。同21年村野藤吾建築事務所に入学。同24年同事務所を退き、同27年11月圓堂建築設計事務所を設立する。同37年圓堂政嘉と改名。同40年岩手県花巻の「信松園」の設計で建築業協会賞、同41年4月京王百貨店を含む業績一般に対して芸術選奨文部大臣賞を受賞。同5月下関の山口銀行本店で日本建築学会賞を受賞する。同43年より同50年まで日本建築家協会理事をつとめる。同53年西武春日井ショッピングセンターにより商業空間デザイン特別賞受賞。同55年東京大手町の大洋漁業本社により建築業協会賞を受賞する。同55年より57年まで再び日本建築家協会理事、同57年より61年まで同協会会長をつとめる。同62年、長年にわたる日米聞の建築における諸問題解決に対する貢献により、AIA(アメリカ建築家協会)名誉会員となる。同63年東京の広尾ガーデンヒルズにより建築業協会賞、同年岩手県の盛岡市先人文化記念館により同賞を受賞した。平成3(1991)年ニューヨーク市シーグラムビルにニューヨーク事務所を開き、東京とニューヨークを往復しつつ活動を続けたが、同5年末より体調を崩し、同6年2月よりニューヨークで療養中であった。

西山夘三

没年月日:1994/04/02

 住宅建築界重鎮で歴史的景観保存に住民の立場から発言を続けた京都大学名誉教授の西山夘三は、4月2日午前2時7分、くも膜下出血、脳動脈りゅう破裂のため京都市左京区の京都大学病院で死去した。享年83。明治44(1911)年3月1日、大阪市比華区西九条に生まれる。昭和5(1930)年第三高等学校理科乙類を卒業。同8年京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、同16年住宅営団(現在の住宅・都市整備公団)技師となって大衆住宅の研究を進める。同19年京都帝国大学工学部講師、同年9月同校助教授となる。同22年「庶民住宅の研究」で工学博士となる。同36年京都大学工学部教授となった。同41年『住み方の記』(文芸春秋社刊)で日本エッセイストクラブ賞受賞。「庶民住宅の研究」で同44年度日本建築学会賞受賞。同45年大阪万国博覧会では西山教室として会場整備の基本構想、に参加し、「お祭広場」を設計し、同博覧会跡地利用等、地域・都市計画にも参画した。同48年『これからのすまい-住様式の話』で毎日出版文化賞受賞。同49年京都大学を定年退官し、同名誉教授となる。早くから環境破壊を批判し、人間らしい居住空間としての地域・都市づくりを提唱。「住居学・建築計画学・地域計画学の発展に対する貢献」で同61年度日本建築学会大賞を受賞した。平成に入り、JR京都駅付近の再開発、高層計画をめぐって起きた景観論争で、同計画に反対する住民団体の代表として古都景観の保存を訴えていた。著書には他に『西山夘三著作集』全4巻(昭和44年)、『国民住宅論巧』(伊原書店)などがある。

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