本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





佐野猛夫

没年月日:1995/10/02

 京都市立芸術大学名誉教授で日本芸術院賞受賞のろうけつ染作家の佐野猛夫は10月2日午前4時26分、がん性腹膜炎のため京都市左京区の石野病院で死去した。享年81。大正2(1913)年10月22日、滋賀県守山町(現守山市)に生まれる。母あいの生家は西陣の刺繍業者であった。長浜尋常高等小学校在学中の大正12年ころから絵に熱中するようになり、同14年同校を卒業した翌年、京友禅の仕事をしている京都の兄宅に同居する。昭和2(1927)年京都市立工芸学校図案科に入学。山田江秀、山鹿健吉(清華)らに師事する。同5年ころより懸賞図案に応募し入賞する。同7年京都市立美術工芸学校を卒業。一時服飾図案を志したが、創作図案の道を選び、同8年第20回商工省工芸美術展図案部に創作図案「祭礼の図額」で初入選。同年第14回帝展に「大阪天満祭ノ図鑞染壁掛」で初入選。翌年の帝展には落選するが、同年山鹿清華の東宝劇場大緞帳制作に参加したことから、以後東京、大阪、神戸などで緞帳制作に携わるようになる。同10年1か月ほど沖縄に滞在して紅型や沖縄の工芸を学ぶ。同年に開設された京都市美術展に「鑞染壁掛琉球ノ女」を出品。また同年京都市美術工芸学校卒業の新人染織家集団「木旺社」の結成に参加する。同11年蒼潤社第1回美術工芸展で工芸奨励賞受賞。同12年第2回京都市展に「請雨の図染額」を出品して市長賞を受賞、同年第1回新文展に臈纈染四曲屏風「鳴禽の図」を出品。同13年第2回工芸院展に風呂先屏風「沼」を出品し工芸院賞を受賞。同15年紀元2600年奉祝展に出品するとともに、山鹿清華、皆川月華、稲垣稔二郎らによって結成された京都染織繍芸術協会に参加。同17年第7回京都市展に「土に遊ぶ染屏風」を出品して市長賞受賞。翌年より日本美術及工芸統制協会により戦時下の統制が始まるが、文部省より特別待遇の査定を受け、独自の研究を継続する。同19年奉祝京都市展に「屏風雛二題」を出品して受賞。戦後、同20年第1回京展に「木綿を織る」を出品して市長賞第二席となり、以後も同展に出品したほか、翌年から開催された日展にも参加。同21年秋、第2回日展に臈纈屏風「童女の図」を出品して特選となる。同23年初個展を京都河原町三条の朝日会館で開催。同年は京展、日展に出品せず新匠工芸会展に「蠟染布」を出品して新匠工芸会賞を受賞し同会会員に推される。また、同年京都府主催輸出工芸美術展において「蠟染更紗布」「立花壺文広幅染布」で商工大臣賞を受賞。同27年小合友之助が日展処遇問題により新匠会を退会したため、日展、新匠会を退くが、小合自身からも、また岩田藤七、高村豊周らからも日展復帰を促され、同29年第10回日展に臈纈「風景屏風」を出品して特選受賞。この頃多様な布地を用いたり、実用性を離れた自由な表現を試みたりし、昭和30年代半ばを過ぎると自然物の写実に基づく図案化から抽象図案へと展開を示した。同36年京都市立芸術大学工芸科染織専攻の助教授に就任、同38年同教授となった。同39年より自由な蠟の操作を求めてバック・ワックス技法による制作を試み、同42年京都市立美術大学のインドネシア調査旅行に参加してジャワ・パリ島を中心に染織技法の調査を行うなどして、研究を進めた。同44年第1回改組日展に「黒い潮」を出品して文部大臣賞受賞。同48年第4回改組日展に「噴煙の島」を出品して日本芸術院賞を受賞、同49年社団法人日本学士会よりアカデミア賞を受賞する。同51年よりたびたび日展常務理事をつとめたほか、同57年京都工芸美術作家協会理事長に就任した。同58年京都工芸界の高度な水準の維持に貢献し、優れた創作と育成活動をしたことが評価されて京都新聞文化賞を受賞。同63年京都府文化賞特別功労賞を受賞した。平成2(1990)年京都府文化芸術会館の主催により自選回顧展を開催。同3年作品集『佐野孟夫蠟染作品』(ふたば書房)を刊行した。伝統的な臈纈染を基礎に、より自由な表現を目指して多様な技法の研究により独自の手法を築き、水、潮をモティーフとした抽象的な作品に斬新な感性を示した。昭和41年より下村良之介、辻晋堂らとともに版画グループ「八ピキの泉」展に参加し銅版画も制作。著書に『染織入門』(昭和44年、保育社)、エスキース集『佐野猛夫倉創作の周辺』(同51年、マリア書房)がある。

今泉俊光

没年月日:1995/08/28

 刀工の最長老で岡山県指定重要無形文化財保持者の備前刀刀工今泉俊光は8月28日午後4時24分、老衰のため岡山県邑久郡長船町長船172の自宅で死去した。享年97。明治31(1898)年4月21日、佐賀県に生まれ、大正13(1924)年に岡山県倉敷市で独学で作刀の研究を始める。昭和20(1945)年2月岡山県邑久郡長船町に移り住み、鍛刀場を開設。伝統的備前刀を中心に本格的な作刀研究に取り組み、衰退の危機にあった備前長船刀を復興させた。同34年岡山県重要無形文化財保持者の認定を受ける。同43年吉川英治賞を受賞。同52年全日本刀匠会の名誉会員となる。平成3(1991)年新作刀展覧会で特別賞を受賞。同5年には岡山市の林原美術館で「今泉俊光-作刀六十年の歩み」展が開催された。素材づくりから工夫を重ね、刃文に鎌倉時代の味わいのある独自の風格ある作風を示した。

西出大三

没年月日:1995/07/08

 重要無形文化財保持者(人間国宝)で日本工芸会参与の西出大三は7月8日午前4時30分、脳こうそくのため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年82。大正2(1913)年6月7日石川県江沼郡橋立村字橋立に生まれ、昭和7(1932)年石川県立第一中判交を卒業して東京美術学校彫刻科に入学。木彫および古美術品の修理を学ぶ。特に仏像にほどこされた截金に興味を抱いて研究を進める。また、同7年より25年まで袈裟の研究も行った。同12年同校卒業。同13年第21回二科展に「裸婦」で入選。同21年春第1回日展に木彫「あま」を出品。同30年に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択された截金の技術保持者として同年より翌31年にかけて記録作成にたずさわる。同33年第5回日本伝統工芸展に「截金彩色飾合子富士」を出品して技術賞を受賞。同34年東京芸術大学で截金についての特別実習および特別講義を行って以降、国内外で截金技術の紹介を行う。同60年国の重要無形文化財保持者に選ばれた。日本工芸会理事、財団法人民族衣装文化普及協会評議員、日本七宝作家協会顧問をつとめ、截金のみならず七宝、ガラスなど従来注目されていなかった諸分野の発展、向上に尽くした。香合、合子、置物、盤などの古典的器物のほか木彫の置物、絵画にも繊細な截金装飾をほどこし、伝統技法を今日の造形に活かした。

暮田延美

没年月日:1995/04/02

 東京芸術大学名誉教授の染織家暮田延美は4月2日午後2時47分、肝不全のため神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会病院で死去した。享年85。明治43(1910)年1月9日群馬県桐生市新宿一丁目411番に生まれる。大正14(1925)年群馬県立桐生中学校に入学し、昭和4(1929)年に同校を卒業して東京美術学校工芸科図案部に入学する。同9年3月に同校を卒業して同年6月より東京高島屋百貨店宣伝部に入るが同10年9月に退職して大阪府商工技手となり、府立工業奨励館に勤務する。同13年1月同館を退職して制作に入る。同15年東京高島屋の依頼によりサンフランシスコ万国博覧会日本館の室内装飾デザインを担当。同16年東京高島屋図案部の嘱託により創作梁繍図案の制作を行う。また同年文展に入選する。戦後は図案家として自営し染織、印刷、室内装飾を行い、同27年みやこ染桂屋株式会社に染織技術部長として在籍する。この間主婦の友社発刊の『染織手芸』、婦人画報社刊行の『染めもの全書』に執筆した。同35年『家庭百科事典』 (暁教育図書社出版)のうち染織全般を執筆。同42年8月東京芸術大学美術学部教授となり、同52年定年退職するまで同校で後進の指導にあたった。この間、同50年7月から8月までフランス、ドイツ、オーストリア、東欧諸国を訪れ、諸国の染織、デザインを調査している。

月山貞一

没年月日:1995/04/01

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀工月山貞一は4月1日午前7時50分、心不全のため奈良県桜井市の済生会中和病院で死去した。享年87。明治40(1907)年11月8目、大阪市東区鎗屋町に刀鍛冶月山貞勝の第三子として生まれる。本名昇(のぼる)。月山家は鎌倉時代に発祥した出羽月山鍛冶を祖とし、享和元年に生まれ家業を継いで月山鍛冶となった月山貞吉(本名奥山弥八郎)が天保4年ころに大阪に移住したことに始まる大阪月山家の正系に当たる。大正7(1918)年、初代貞一の死去のころから父貞勝より刀工を学び、同12年16歳で大阪美術協会展に貞光の銘で初入選。昭和2年から3年にわたり、内務省神宮司庁の依頼により父とともに皇大神宮式年御料神宝太刀58振、鉾43柄の制作にあたる。同4年父とともに昭和天皇の佩刀、大元帥刀を制作。同10年大阪から奈良吉野山に鍛刀場を移し、同18年奈良樫原の月山日本刀鍛錬場に移る。同年12月父の死去に伴い、大阪陸軍造兵廠軍刀鍛錬所の責任者となる。同20年8月敗戦後、マッカーサー指令により刀剣製造が禁止され、伝統技術衰退の危機をむかえるが、その中にあって同23年財団法人日本美術刀剣保存協会が設立され、同29年武器製造法令により文化財保護委員会から作刀許可を受けて日本刀制作の伝統保存が計られるようになるまで、刀鍛冶の火を守り続けた。同31年刀銘貞光を貞照とし、同41年祖父の銘を受けて二代貞一を襲名。この間の同40年奈良県桜井市茅原に月山日本刀鍛錬道場を開設する。同42年第3回新作名刀展に名槍「日本号」を写した作品を出品して文化庁長官賞ならびに正宗賞を受賞。同44年第5回同展に「相州伝切物埋忠明寿」により3年連続最高賞、正宗賞・文化庁長官賞を受賞し、同45年より同展に無鑑査出品、審査委員にも推された。同45年奈良県無形文化財保持者として認定され、翌46年国指定重要無形文化財「日本刀」保持者の認定を受けた。同年この認定を記念して神戸三越で「人間国宝月山貞一展」を開催。同48年自伝『日本刀に生きる』を刀剣春秋社より刊行。同年東京上野松坂屋で「人間国宝月山貞一展」、同54年北海道旭川市マルカツで「人間国宝月山貞一展」、同56年山形市松坂屋で「人間国宝月山貞一展」が開催された。大和系の柾目鍛え、相州系の大板目鍛え、山城系の小木目鍛えなど大和、相州、山城、備前、美濃の五地方に伝わる独自の鉄の鍛え方である五ケ伝の鍛法、近世に登場した大阪新刀鍛冶の作風をすべて身につけた上、月山家家伝の独自の地肌模様「綾杉伝」と刀工彫刻を伝承し、現代刀工界の最高峰として活躍し、後進の育成にも努めた。全日本刀匠会理事長、美術刀剣匠会長などを歴任。同63年米国ボストン美術館で「月山歴代と伝統」展を開催するなど、伝統技術の海外紹介にも積極的に当たった。古刀の模造のほか、「伊勢神宮式年御料太刀」など社寺の奉納刀に多くの名作を生んだ。

小林尚珉

没年月日:1994/12/27

 日展会員の彫金、鍛金作家小林尚珉は12月27日午前6時20分肺炎のため京都府宇治市の病院で死去した。享年82。明治45(1912)年6月25日青森市に生まれる。本名国雄。昭和15年2600年奉祝展に初入選。以後、新文展第4回、第5回に入選。日展には第2回目から出品を続ける。同27年祇園祭の菊水鉾の再興に際し鉾の金具を制作。同29年第10回日展に「浴光鉄打出置物」を出品して北斗賞を受賞する。同38年青森市、弘前市で個展。同39年第7回日展に「創生」を出品して菊華賞受賞。同42年日本現代工芸美術展会員、翌43年日展会員となる。同52年青森市で「小林尚珉父子四人展」を開催。同54年日本新工芸家連盟が創立されるとその創立会員となったほか、平成元年京都創工展創立会員、同3年日工会創立会員となった。昭和60年京都府文化功労者に選ばれている。同54年青森市制施行80周年記念「アルミ打出し―白鳥」(青森市民美術館蔵)、平成2年滋賀県湖東町立老人福祉センターロビーに「双鶴―アルミニウム打ち出し壁画」など大規模な作品も制作した。

古田行三

没年月日:1994/12/22

 国指定重要無形文化財「本美濃紙」の保持団体「本美濃紙保存会」会長をつとめた古田行三は12月22日午前6時55分脳こうそくのため岐車県美濃市蕨生1914-1の自宅で死去した。享年72。大正12(1923)年3月10日岐阜県美濃市蕨生1914-1に父恒二、母なつの長男として生まれる。昭和11(1936)年下牧高等小学校卒業。同年4月製紙試験場で古田健ーに実技研修を受け、同年5月より自宅で父母の指導のもとに紙漉きを学ぶ。同15年紙業界不況のなかで漉き手として自立するが、同18年徴兵され、同20年12月復員するまで家業を離れる。紙漉き業界は戦時下の原料統制、戦後の混乱のなかで低迷し、同30年代の高度成長期には後継者不足に悩んだ。こうしたことから、同35年那須楮を原料としている紙漉き業者が協議して生産協同組合を結成、同43年同組合を「本美濃紙保存会」と改称し、その初代会長となる。同会は翌44年文部省により重要無形文化財保持団体の認定を受ける。同50年代後半から文化財保存等の観点から美濃紙が再評価され、海外での紙漉きの実演、指導等が行われるようになり、一方、原料を海外に求める等、生産技術の革新も試みられるようになった。原料問屋が紙の市場を支配し、紙漉き人は問屋から楮を借りて生産するという旧体質を改善し、洋紙の大量生産によって衰退の一途を辿りつつあった美濃紙の紙漉ぎ技術を守り伝えることに尽力した。

関谷四郎

没年月日:1994/12/03

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鍛金家関谷四郎は12月3日午前3時10分、肺炎のため東京都板橋区の東京都老人医療センターで死去した。享年87。明治40(1907)年2月11日、秋田市外旭川字家ノ前(現、秋田市保戸野新町)に生まれる。5才の時、父を失い幼時の大病によって足が不自由になったことから、座業を生業とするべく秋田市内の森金銀細工工店で秋田の伝統工芸、銀線細工を学ぶ。昭和2(1927)年、秋田県主宰の鍛金講習会のため来県していた河内宗明に出会い、同年弟子入りする。同6年より日本鍛金協会展に出品を重ねる。同13年独立して東京の本郷団子坂に工房を設立。同17年第5回新文展に「銀流し花瓶」で初入選。以後同展、日展に出品する。同37年より日本伝統工芸展に出品し、同38年伝統工芸新作展で奨励賞、同40年日本伝統工芸展で優秀賞、同年の伝統工芸新作展で優秀賞、教育委員会賞、同43年日本伝統工芸展で総裁賞を受賞。同44年以降日本伝統工芸展に招待出品を続け、たびたび審査員を努める。同48年新作工芸展20周年記念展で特別賞、同51年同展で稲垣賞受賞、同52年国指定重要無形文化財保持者に認定された。彫金による表面加工を行わず鍛金のみで豊かな質感をもたせる工夫として、異種の細い板金をろうで溶接する接着技法を創出しその織りなす洗練された、幾何学文様と、表面の質感を特色とする斬新な作風を示した。金工作家グループ東京関友会を同56年、秋田関友会を同60年に設立、後進の育成にも尽力した。同62年秋田魁新報社主催により傘寿記念展を開催。平成6年8月28日から10月2日まで秋田市立赤れんが郷土館で「米寿記念人間国宝関谷四郎展」を開催した。

原直樹

没年月日:1994/09/21

 日展参与の鋳金工芸家原直樹は、9月21日嚥下性肺炎のため新潟県柏崎市大久保の自宅で死去した。享年87。明治39(1906)年10月26日新潟県刈羽郡大洲村大久保34番(現柏崎市大久保)に生まれ、高等小学校卒業の年の大正10年5月から香取秀真に師事、また川端画学校デッサン科に学び、昭和3年東京美術学校塑造科に入学、同8年卒業した。美術学校在学中の同5年帝展第四部(工芸)に初入選、同6―8年の聞は第三部(塑像)に「心」「凝視」「讃光」が連続入選し、同9年からは第四部に出品を続けた。同18年の新文展に「鋳銅木盤」で特選を受ける。戦後は日展に所属し、同32年日展会員に同44年新日展の評議員に挙げられた。同53年3月脳血栓に襲われ以後制作不可能となり、前年作の鋳銅花器「古谿愁」が最後の日展出品作となった。この問、新潟大学教育学部美術科の講師もつとめた。作品は他に、黄銅「狐」(昭和24年)、「蝋型錫飾箱」(同26年)などがある。長男正樹は東京芸術大学教授。

小野光敬

没年月日:1994/06/29

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀剣研磨師小野光敬は6月29日午前1時18分、肝不全のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。享年80。大正2(1913)年7月30日、岩手県盛岡市に生まれる。本名清之助(せいのすけ)。刀剣研磨の道に志し、昭和4(1929)年、研師加藤勇之助に入門。同13年には上京して本阿弥光遜(こうそん)に師事し、万剣制作に関する基礎的知識を得ると共に、相州伝を中心に各伝の鍛法をいかす正統な技法を学んだ上、本阿弥流の「家研ぎ」の技法を修得、同18年独立し、以後、専ら優品の研磨に従事した。戦後、同22年4月より、同42年まで東京国立博物館学芸部工芸課刀剣室に勤務。この問、同27年に正倉院蔵万三振の研磨、同年四天王寺蔵国宝「丙子椒林剣」「七星剣」の研磨、同32年より42年まで第一次正倉院蔵刀剣類研磨にたずさわる。同42年には国宝「沃懸地獅子文毛抜形太刀」の研磨を行い、翌43年より52年まで第二次正倉院蔵刀剣類研磨にたずさわった。この間同45年日本万研磨技術保存会副幹事長となり、同50年に重要無形文化財「刀剣研磨」の保持者に認定された。同57年日本刀研磨技術保存会幹事長に就任。上古刀をはじめ社寺仏閣所蔵の刀剣研磨を中心に活躍し、地鉄の研究をもとに自然の地肌や刀剣を研ぎ起す「差し込み研ぎ」技法を復活させることに貢献した。また、各種講習会により伝統的な技術を後進に伝綬することにもつとめ、万剣研磨技術の伝承、発展に尽力した。

瀬戸浩

没年月日:1994/05/11

 益子焼の陶芸家瀬戸浩は5月11日午前9時10分肺がんによる呼吸不全のため栃木県河内郡南河内町の病院で死去した。享年53。昭和16(1941)年2月26日徳島市に生まれ、幼少期を鳥取市で過ごす。昭和39年京都市立美術学校工芸科陶磁器専攻科を卒業。富本憲吉、近藤悠三、藤本能道、清水九兵衛に師事し、在学中の同38年日本伝統工芸展に「白い壷」で初入選。新匠展にも入選する。同40年栃木県益子に築窯。同46年日本陶芸展に「灰釉刷毛目鉢」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同47年アメリカインディアナ大学、南コロラド州立大学講師として招聴され、渡米。翌48年ニューヨーク、コロラド、インディアナ州立美術館で個展を開催する。同49年、東京の南青山グリーンギャラリーで個展「原色による試み」を開催。同51年には同ギャラリーで個展「建築空間の為に」を開催し、従来の陶芸にとどまらず、新局面への模索を続けた。同53年国際交流基金によりフィリピン、タイ、インドネシアへ派遣され、また同年オーストラリア「アートヴィクトリア’78」に招聘されるなど、国際的にも活躍。同58年北関東美術展に「ストライブの板皿」を出品して優秀賞受賞。同年第7回日本陶芸展に「黒紬銀条文板皿」を出品して外務大臣賞を受賞する。同60年朝日陶芸展に招待出品。同58、60、61年には三越本屈にて「ストライプ」と題して個展を開催している。同55年東北新幹線宇都宮駅陶壁画「栃の木讃歌」等、公共の場の壁画も制作した。

山本陶秀

没年月日:1994/04/22

 備前焼き作家で轆轤の達人と称された国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の山本陶秀は、4月22日午後零時35分肺炎のため岡山市の岡山赤十字病院で死去した。享年87。明治39(1906)年4月24日、岡山県和気郡伊部町伊部(現・備前市伊部)に農業を営む父源次郎、母君の次男として生まれる。本名政雄。大正8(1919)年伊部尋常高等小学校を卒業し、同10年当時伊部の窯元として最大手だった黄薇堂の見習いとなって陶芸の道に入る。同12年伊部の窯元桃渓堂へ移り花器、花入れ細工物等を制作する本格的な作陶を始める。昭和8(1933)年、伊部に開窯して独立、同13年楠部禰弌に入門する。同14年第6回中国四国九県連合工芸展に花入れを出品して優良賞受賞。同16年にも同展で受賞する。同18年当時軍需省の管轄にあった国立京都窯業試験場の図案部長水町和三郎の発案により備前焼緋襷を応用した南方むけ食器を生産することとなり、その制作者に選ばれ、軍需省嘱託として備前焼きの皿などの食器制作にあたった。同23年国の技術保存認定を受ける。同26年北大路魯山人、イサム・ノグチらが伊部を訪れた際、交遊し作陶の面でも多くを学ぶ。同29年岡山県重要無形文化財作家に指定される。同30年第2回日本伝統工芸展に「備前旅枕花入」で初入選。以後同展に出品を続ける。同34年ブリュッセル万国博覧会に「緋襷大鉢」を出品してグランプリ金賞を受賞。また、同年日本伝統工芸会の正会員となる。同39年はじめて欧州旅行に発ち、オランダ、フランス、ドイツ、イギリスを訪れて美術品、史迹、古窯跡とともに現代の欧州陶芸を視察し、備前焼の価値を再確認する。同42年韓国へ赴きソウルを中心に歴史ある窯元を視察。翌43年には台湾、香港、マレーシア、シンガポール等東南アジアの視察旅行に赴く。同44年地元作家、窯元、陶商の団体である備前焼陶友会副会長に就任。同45年日本工芸会理事となる。同47年岡山県文化賞受賞。同51年「陶歴55年記念備前山本陶秀茶入展」を東京日本橋三越で開催し、同展を訪れた谷川徹三に評価されて翌52年毎日芸術賞受賞。同58年「山本陶秀喜寿記念展」を東京日本橋三越、大阪心斎橋大丸、小倉井筒屋で開催。同61年「山本陶秀傘寿記念展」を岡山天満屋、岐阜近鉄百貨居、大阪京阪百貨店、東京東急百貨店、小倉井筒屋で開催。同62年国指定重要無形文化財保持者「備前焼」に認定される。その後も平成元(1989)年東京日本橋三越で「人間国宝山本陶秀展」、同2年広島福屋で「作陶70年人間国宝山本陶秀展」、同3年名古屋松坂屋および東京日本橋三越で「人間国宝 備前山本陶秀展」を開催するなど多くの個展により作品を発表した。桃山期の「間合い」を重んじた備前焼に学び、華麗な作風を示した金重陶陽、大胆豪放な趣で知られた藤原啓という備前焼の人間国宝の作風に対し、陶秀は熟練を極めた轆轤技術によって均整のとれた端正、清楚な作品を制作した。画集に『備前山本陶秀作品集』(毎日新聞社 昭和49年)、『人間国宝 備前山本陶秀』(山陽新聞社 平成4年)等がある。

平野利太郎

没年月日:1994/03/04

 日展会員の染織工芸家平野利太郎は3月4日午後11時43分急性呼吸不全のため東京都町田市の町田病院で死去した。享年89。明治37(1904)年4月18日東京都四谷区永住町に生まれる。曾祖父以来代々刺繍を家業とする家に生まれ、父松太郎に師事して伝統的な日本刺繍を学ぶ。また、岡倉秋水に日本画を学ぶ。昭和4(1929)年第10回帝展に「宝相華(三折衝立)」で初入選。同8年第14回帝展に「七面鳥刺繍手箱」で入選して以後、新文展、日展に出品を続ける。同11年秋の文展に「みのり刺繍壁掛」を出品して選奨受賞。同16年新文展無鑑査。戦後も日展に出品し同21年第1回日展に「海山の幸刺繍二曲屏風」を出品して特選となる。同26年日展依嘱。同33年日展会員となる。同28年よりたびたび日展審査員をつとめた。江戸時代から続く伝統的な日本刺繍を現代に生かし、屏風、衝立等を多く出品。日本工芸会、工彩会等にも出品し、昭和30年から実践女子大学講師もつとめた。

面屋庄三

没年月日:1994/02/14

 京人形師で本名岡本庄三の名で新制作協会会員の彫刻家としても活躍した面屋庄三は2月14日午後10時30分、急性心不全のため京都市中京区押小路通富小路角橘町の自宅で死去した。享年83。明治43(1910)年4月20日京都市下京区に生まれる。昭和4(1929)年、京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業。人形を先代の12世面屋庄次郎に、彫刻を藤川勇造に学ぶ。伝統的京人形を制作し、昭和28年に三ツ折人形で国の無形文化財保持者に認定された。同33年よりあまがつ会人形展を毎年開催。同38年からは荘人会人形展も開催し、京人形の普及に努めた。同45年に13世面屋を襲名。また、彫刻家として新制作協会展に出品し、昭和26年第15回展に「女像」を出品して新作家賞、翌27年には「習作婦」「首」を出品して同賞を受賞し翌28年同会会員となった。彫刻は婦人像を中心に人体を主要なモティーフとし、表面のマティエール等に人形との共通点が見いだせる。京都市文化功労者、国際芸術文化賞などを受賞。『京人形あれこれ』などの著書もある。三ツ折人形のほか、御所雛、相込人形等も得意とした。京都五條大橋西詰の「牛若弁慶像」を制作したことでも知られる。

岩田久利

没年月日:1994/01/08

 日展理事のガラス工芸家岩田久利は1月8日午前9時44分呼吸不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年68。昭和元(1925)年12月18日、ガラス工芸家岩田藤七の長男として東京に生まれる。東京美術学校工芸部図案科に学び、在学中の同24年第5回日展に「硝子ぶどうの鉢」で初入選し以後も日展に出品を続ける。同26年東京美術学校を卒業。制作のかたわら、東京工業大学でガラスの組成を研究する。同30年第11回日展に「藻」を出品して特選、同31年第12回同展には「萌生」を出品して二年連続特選となった。同30年より光風会にも出品。同33年日展会員となり、同年からたびたび日展審査員をもつとめる。同47年日本ガラス工芸会を設立し、同年より同52年までその初代会長をつとめる。同51年第8回改組日展に「孔雀文大皿」を出品して文部大臣賞を受賞。同57年毎日芸術賞を受賞し、同58年「聖華」で日本芸術院賞を受賞した。父の創立になる岩田工芸硝子を継ぎ、社長をつとめつつ制作を続け、斬新で優美な作風を示した。宙吹きガラスを得意とし、国際的にも高い評価を得た。

石井昭房

没年月日:1993/10/26

 鎌倉中期の備前一文字助真の流れをひく「重花丁字乱れの刀文」で知られた刀匠、石井昭房は10月26日午後7時、心不全のため千葉県鴨川市の病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月3日、千葉県館山市に生まれる。本名昌次。千葉県安房郡館野の山本尋常小学校を卒業。昭和10(1935)年1月より栗原昭秀、笠間繁継に師事。笠間には同10年10月まで師事したが、後には専ら栗原のもとで備前一文字の作刀法を学ぶ。同14年5月独立。同30年第1回作刀技術発表会に入選。同31年第2回同展で努力賞、同32、33年の同展では特選となった。日本美術刀剣保存協会に所属し、千葉県指定無形文化財となった。山城の技術も研究したが、備前一文字の作刀法を最も得意とし、代表作に昭和15年制作の丁字の刀、同年作の安房神社蔵の丁字の太刀、同39年制作の長狭高校蔵の大丁字の太刀などがある。

山崎昭二郎

没年月日:1993/05/28

 文化庁選定保存技術「建造物彩色」保持者の山崎昭二郎は5月28日午後8時40分、消化管不全のため兵庫県赤穂市の赤穂中央病院で死去した。享年66。昭和2(1927)年3月5日、兵庫県赤穂市に生まれる。同25年東京美術学校工芸科図案部を卒業、同29年より同31年まで、小場恒吉を主任とする宇治平等院鳳凰堂の彩色文様の復元に従事。同31年以後は主任として社寺建築の文様復元を行ない、34年には京都市醍醐寺五重塔彩色文様の復元を行なったほか、同35年広島県明王院五重塔、同36年京都府海住山寺五重塔、同38年奈良県興福寺北円堂、同39年岩手県中尊寺経蔵、大分県富貴寺大堂、奈良県薬師寺東塔、福島県白水阿弥陀堂、同41年和歌山県金剛三昧院多宝塔、同42年滋賀県西明寺三重塔、同43年宮城県大崎八幡神社本殿拝殿、同44年京都府浄瑠璃寺三重塔、同45年奈良県唐招提寺金堂、同48、49年京都府東福寺三門、同52年広島県厳島神社五重塔、同55年滋賀県日吉神社末社東照宮社殿、同56年京都府教王護国寺五重塔、同57年京都府知恩寺経蔵、同59年滋賀県石山寺多宝塔、同60年同県宝厳寺観音堂、同61年奈良県霊山寺三重塔、同62年山梨県清白寺仏殿、同63年滋賀県園城寺毘沙門堂、同64年京都府蓮華王院本堂、平成2年和歌山県浄明寺三重塔、同3年京都府岩船寺三重塔、同4年奈良県興福寺三重塔の彩色文様復元図を作製した。これらは建築彩色文様の一部を復元したものであるが、この他に同50年正倉院御物「粉地彩絵八角几」模造に復元彩色を施す等の仕事もした。同54年国指定建造物彩色選定保存技術認定保持者に認定された。彩色文様復元図の多くは文化庁や東京国立博物館の所蔵になり、これらを展示した「日本建築の装飾彩色」展が平成2年3月、国立歴史民俗博物館で行なわれた。

小松芳光

没年月日:1993/01/06

 金沢美術工芸大学名誉教授、石川県無形文化財蒔絵技術保持者の漆芸家小松芳光は、1月6日午前8時5分、老衰のため金沢市の同市立病院で死去した。享年89。明治36(1903)年8月8日、石川県金沢市に生まれる。本名森作。大正13(1924)年東京美術学校聴講生となり、聴講後、植松包美に師事。昭和2(1927)年第8回帝展に「花圃文様漆器手箱」で初入選。同5年第11回帝展に「秋酣蒔絵手箱」、同6年第12回帝展に「からむしの棚」、同7年第13回帝展に「漆器春花秋葉文庫」、同9年第15回帝展に「王魚蒔絵硯箱」で入選する。新文展にも出品し、同11年新文展鑑査展に「水辺衝立」で入選。同13年第2回新文展に「漆器湖畔小景小屏風」を出品して特選となる。同17年7、8月、古美術研究のため朝鮮半島へ渡る。戦後は日展に出品し、同21年春第1回日展では「籬の秋手箱」で特選受賞。以後も同展に出品を続け、同25、30、34、43年日展審査員、同33年日展評議員、同55年日展参与となった。同30年北国文化賞受賞。同43年第11回改組日展に「サボテン漆パネル」を出品して文部大臣賞を受賞する。また、同23年より金沢美術工芸大学教授として後進の指導にあたり、同44年同学を定年退官して名誉教授となった。同45年渡米し個展を開催。同46年より金沢市立中村記念美術館館長をつとめる。また同年、以前から審査員をつとめていた日本現代工芸美術家協会の理事となった。同52年、石川県無形文化財蒔絵技術保持者に認定される。工芸に求められる「用」の面よりも、漆の造形的特性を重視し、衝立、パネル、屏風などを作品形式として好み、絵画的装飾性の高い作品を多く制作した。帝展・新文展・帝展出品歴帝展第8回(昭和2年)「花圃文様漆器手箱」、同第11回(同5年)「秋酣蒔絵手箱」、同第12(同6年)「からむしの棚」、同第13回(同7年)「漆器春花秋葉文庫」、同15回(同9年)「王魚蒔絵硯箱」、文展鑑査展(同11年)「水辺衝立」、新文展2回(同13年)「漆器湖畔小景小屏風」(特選)、紀元2600年奉祝展(同15年)「漁書棚」、新文展5回(同17年)「溜り船机」、同6回(同18年)「豊熟硯筥」、戦時特別展(同19年)「漁村晴日小屏風」、日展第1回(同21年春)「籬の秋手箱」(特選)、同2回(同年秋)「春庭草」、同3回(同22年)「水門小屏風」、同5回(同24年)「乾漆春華飾筥」、同6回「漆器山路手筥」、同7回「早春華映衝立」、同8回「芦の華飾筥」、同9回「樹間晴日漆器衝立」、同10回(同29年)「『石影』」漆二曲屏風」、同11回「湖畔漆パネル」、同12回「河畔来福屏風」同13回「河霧二曲屏風」、改組日展第1回(同33年)「噴水二曲屏風」、同2回「漆器パネル 塔」、同3回「階段と花 漆パネル」、同4回「河の面漆棚」、同5回(同37年)(水と石の構成 漆二曲屏風」、同6回「悠久漆二曲屏風」、同7回「漆手箱貝殻層を憶う」、同8回不出品、同9回「パネル蒼い石垣」、同10回(同42年)「樹間漆二曲屏風」、同11回「サボテン漆パネル」(文部大臣賞)、社団法人日展第1回(同44年)「漆パネル 池」、同2回不出品、同3回「水鳥の巣」、同4回「階段の譜二曲屏風」、同5回(同48年)「水門漆二曲屏風」、同6回「湿原の花漆二曲屏風」、同7回「躍進漆パネル」、同8回「磯飾筥」、同9回「孔雀紋漆飾箱」、同10回(同53年)「呉竹漆盛器」、同11回「野葡萄手附盤」、同12回「空蝉と美男蔓 宝石箪司」、同13回「ひさご漆飾筥」、同14回不出品、同15回(同58年)「夕月軸盆」、同16回「此君漆飾箱」、同17回不出品、同18回「遊魚漆箱飾盆」、同19回、20回不出品、同21回(平成元年)「閑庭」、同22回「古今松韻盛器」、同3、4年不出品

北村大通

没年月日:1992/12/16

 漆工芸家で国選定文化財保存技術保持者の北村大通は、12月16日心不全のため奈良県天理市の奈良東病院で死去した。享年82。漆工芸制作とともに、正倉院宝物の漆工品をはじめとする数々の文化財の修理で知られる北村大通は、明治43(1910)年3月19日奈良市に生まれた。本名久造。漆塗りで著名な吉岡家の家系にあり、幼児から父に技法の手ほどきを受け、奈良県立郡山中学校を経て東京美術学校漆工科に進み、昭和8年卒業した。その後、一時漆工から離れたが、兵役を機に漆工家に専念するに至った。同18年第6回新文展に「火焔獅子蒔絵箱」が初入選し、戦後も初期日展および日本伝統工芸展に制作発表を行った。同23年京都市立美術専門学校助教授に就任、翌年教授となったが同年中に依願退職した。同28年、奈良国立文化財研究所研究員を依嘱され、同年から同31年に至る第一次正倉院漆工品調査(第二次調査、同45-49年)に参加した。同32年、奈良県教育委員会の依嘱により、当麻曼荼羅厨子の修理施工に携わり、同38年には10年計画による正倉院漆工品の修理を開始し、同48年までの間、総点数233点の修理を行った。その後、数多くの文化財の修理並びに復元模型の制作に従事した。その主な修理品に、昭和38年四天王寺蔵重文「漆皮箱」、同41年手向山神社蔵重文「黒漆四枚居木鞍」、同44年春日大社蔵重文「亀甲蒔絵手箱」、同45-46年春日大社蔵国宝「黒漆平文根古志形鏡台」、同54年醍醐寺蔵重文「沃懸地螺鈿説相箱」、同57-58年東大寺蔵重文「朱塗布薩盥」、同60年東大寺蔵国宝「花鳥彩絵油色箱」などがあり、復元模型制作に正倉院宝物の「漆挟軾」「玉帯箱」、当麻寺の「曼荼羅厨子軒先板」、春日大社の「蒔絵筝」などがある。同50年、永年の功績に対して紫綬褒章が授与され、翌52年には国選定文化財保存技術者に認定された。また、同54年日本漆工協会により漆工功労者表彰を受けた。

寺本美茂

没年月日:1992/11/13

 日展評議員の彫金家寺本美茂は、11月13日午後9時38分、食道がんのため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年76。大正5(1916)年4月17日、京都市下京区に生まれる。本名勘次。昭和8(1933)年京都市立第二工業学校金工科を卒業し、磯崎美亜に入門。同15年紀元2600年奉祝展に「鉄布目象嵌飾筥」で初入選。同17年第5回新文展に「黄銅渡鳥文鉢」、翌年第6回新文展に「黄銅象嵌文壷」を出品する。戦後は同23年第4回日展に「銀線華文酒壷」を出品して以降日展を中心に活躍。同31年第12回日展に「切象嵌葉文花瓶」を出品して北斗賞、同34年第15回日展に「シャボテン文花器」を出品して特選北斗賞、同38年第19回日展に「シグナル青」を出品して菊華賞を受賞。光風会にも出品し、同31年同会会友、同37年同会会員となった。同41年日展会員となる。同43年、日本現代工芸チェコスロバキア展に際し派遣員として渡欧する。同53年日展評議員に就任。同54年日本新工芸家連盟の創立に加わり、同57年同会理事となる。この間の同54年第65回光風会展には「空の詩」を出品して辻永記念賞を受けた。同63年日本新工芸展に「白穂」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。独特の張りと丸みのある器に花鳥を象嵌であらわした洗練された作風を示した。

to page top