本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





大久保婦久子

没年月日:2000/11/04

 皮革工芸家で日本芸術院会員の大久保婦久子は11月4日午後5時25分、心不全のため、東京都新宿区の病院で死去した。享年81。1919(大正8)年1月19日静岡県加茂郡下田町(現 下田市)に生まれる。本名ふく。1931(昭和6)年下田尋常高等小学校を卒業し静岡県立下田高等女学校に入学。35年に同校を卒業して女子美術専門学校(現 女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。39年、同校を卒業。在学中に皮革染織を学んだことがきっかけとなり、皮革工芸を制作し始める。50年に東京銀座資生堂で個展を開催。翌年から山崎覚太郎に師事する。52年第8回社団法人日展第四科工芸部に「逍遥」(3枚折りスクリーン)で初入選し、以後同展に入選を続ける。53年第9回日展に「四季」(4枚折りスクリーン)を出品。また、同年第39回光風展に「向日葵」を出品し、以後同展に出品を続ける。55年第1回新日展に「春昼」(キャビネット)を出品して北斗賞受賞。58年6月から7ケ月間、皮革工芸研究のためイタリアに滞在。50年代の作品は家具などの装飾に皮革を素材とした造型作品を用いたものが多かったが、60年代に入ると皮革を素材とする造型作品自体を独立させるようになる。61年第4回日展に「うたげ」を出品して特選および北斗賞受賞。翌年日展無鑑査となる。また62年第1回現代工芸美術協会展に「黒い太陽」を出品して初入選。64年第7回日展に「まりも」を出品して菊華賞受賞。65年日展工芸部審査員および現代工芸美術協会会員、66年日展会員となる。69年総合美術展「潮」を結成。以後、同展にも出品を続ける。60年代後半に、皮革表面を打つことによる凹凸の表現のみならず、編みこみ、張り込みなど多様な技法を用いるようになり、70年代のはじめにはイタリアの作家ルーチョ・ファンタナのキャンバスを鋭利に切り裂く作品に学んだ皮革造型を試みる。また、70年代後半からは縄文など古代のモティーフに興味を抱き、縄目やうねりを作品に取り入れるようになる。79年中国へ旅行。80年現代女流美術展に招待出品し以後同展に出品を続ける。また、同年光風会を退会。81年第20回現代工芸展に「折」を出品して内閣総理大臣賞受賞。82年第14回日展に「神話」を出品し、翌年この作品により第39回恩賜賞日本芸術院賞を受賞し、85年日本芸術院会員となる。87年皮革造型グループ「ド・オーロ」を結成し、その同人となり、以後毎年同展に出品を続ける。1989(平成1)年郷里の静岡県立美術館で「大久保婦久子展」を開催。95年文化功労者に選ばれる。2000年「大久保婦久子展」を大丸ミュージアム・東京、大丸ミュージアム・KYOTOで開催。同年文化勲章を受章し、11月3日に皇居で行われた文化勲章親授式に出席した直後の死去であった。洋画家の故・大久保作次郎夫人で、作次郎の母校東京美術学校に学んだ工芸家とも広く交遊し、伝統技術の伝承にとどまらない新しい工芸を模索する動きの中にあって、江戸時代まで仏具や武器・武具の制作に持ちられていた皮革工芸技術を、自立的な造型作品の制作に生かして、新境地を開いた。

市橋とし子

没年月日:2000/10/26

 人形作家の市橋とし子は、10月26日午前11時15分、老衰のため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年93。1907(明治40)年8月21日、東京都千代田区神田に生まれる。本名登志(とし)。1925(大正14)年、東京女子高等師範学校保育実習科を卒業。1938(昭和13)年に横浜へ転居し、40年、近所の洋装店で見た人形作家今村繁子の人形に感動。すぐさま今村の家を訪問して弟子となり人形制作を学んだ。戦中から終戦直後にかけては制作をやめていたが、49年、偶然路上で今村に再会。今村の強いすすめで出品した同年の第1回現代人形美術展で、「午下がり」が特選第一席を受賞。翌年の同展でも「おしくらまんじゅう」が特選第一席を受賞。桐塑(桐のおが屑と生麩糊をこねたもの)技法により、身近な生活に取材した人物の姿を繊細かつ詩情豊かに表現する清麗な作風を確立した。54年からは全日本女流美術展にも出品。このころ、より人肌に近い質感を求めて、仕上げに和紙を用いた紙張りの手法を取り入れるようになる。61年、第8回日本伝統工芸展に出品、以後同展に出品を続け、日本工芸会人形部長および理事を務めた。65年からは彫刻家金子篤司に師事して彫刻デッサンや木彫を学び、人形制作においても、一層、的確な構成力を見せるようになった。85年、勲四等瑞宝章を受章。1989(平成1)年、重要無形文化財「桐塑人形」保持者(人間国宝)に指定される。90年、横浜文化賞を受賞。94年、銀座の和光にて個展を開催。98年から翌年にかけて新宿伊勢丹美術館などを巡回した回顧展「市橋とし子人形展-人形はだませない-」が開催された。次男奥村昭雄は建築家、四男徹雄はピアニスト。

横山一夢

没年月日:2000/03/28

 木工芸家で日展参与を務めた横山一夢は3月28日午前2時20分、肺炎のため富山県高岡市の病院で死去した。享年89。1911(明治44)年3月1日、木彫の町として知られる富山県東砺波郡井波町に生まれる。本名善作(ぜんさく)。職人の家系に生まれて木彫技術を習得し、大島五雲(二代)に師事して無名の彫刻師として寺院の改修などにも加わった。1934(昭和9)年に独立自営をはじめると職人という枠にとらわれず独自の意匠作りに励み、41年、当時職人の応募はほとんど考えられていなかった中で、第4回新文展に「鷺の衝立」を出品し初入選を果たす。以後、山崎覚太郎(富山市出身の漆芸家)の指導を受けながら文展、日展に出品を続け、戦後の混乱期も旧来の徒弟制度を越えて井波美術協会や富山県工芸作家連盟を中心に幅広い創作活動を展開することで乗り越えた。53年「響」で第9回日展北斗賞、58年「秋の調」で第1回新日展特選と受賞を重ね、63年には日展会員、71年から日展評議員、1992(平成4)年からは日展参与を努めた。この間、62年に富山県工芸文化賞を、63年に富山新聞社芸術賞、72年に黄綬褒章、75年に北日本新聞文化賞を受賞し、79年には井波町に横山一夢工芸美術館を設立した。80年「静かな朝」で第19回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞、82年に国際アカデミー賞と勲四等瑞宝章を受章し、90年富山県無形文化財「木工芸木彫象嵌技術」保持者に認定された。主に鳥をモティーフとし、木目や木質の違いを活かした静かで簡潔な作風で知られた。木工芸の伝統を継承しながら近代的な装飾美の世界を築き、木彫職人の技術を美術工芸の世界に引き上げた業績が高く評価されている。長男善一は造形作家、次男幹は木工芸作家。

田邊一竹齋

没年月日:2000/02/24

 竹工芸作家で日展参与を務めた田邊一竹齋は、2月24日午後8時35分、低酸素血症のため大阪府堺市の病院で死去した。享年89。1910(明治43)年5月9日、大阪府堺市に生まれる。本名利雄(としお)。幼少より父、田邊常雄(初代竹雲齋)より竹工芸を学ぶ。1931(昭和6)年、「蟠龍図網代方盆」が第12回帝展に初入選し、以来帝展、文展、日展に入選を繰り返す。はじめ小竹雲齋を号し、37年に父が没すると二代竹雲齋を襲名。52年「螺旋紋花籃」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。60年からたびたび日展審査員を努める。61年から日展会員、76年から日展評議員、1992(平成4)年から日展参与を務めた。この間、59年には大阪府芸術賞を受賞し、73年には堺市より有功賞を授与されている。また、78年の日本新工芸家連盟の結成に参加し、80年「〈伸〉花籃」で第2回日本新工芸展内閣総理大臣賞を受賞。同年、竹芸家同志11名による「竹人会」を創立。81年に勲四等瑞宝章、83年に紺綬褒章を受章。85年には東京国立近代美術館の「竹の工芸-近代に於ける展開-」展に出品し、第1回日工会展に参加した91年には、長男小竹(本名久雄)の三代竹雲齋襲名にともない、一竹齋と改号。レース編みのように繊細な「透かし編み技法」を生み出し、竹工芸の伝統に根ざした格調高い作風で知られた。次男節雄(号陽太)も竹工芸家。

小口正二

没年月日:2000/01/21

 漆芸家で日展参与を務めた小口正二は、1月21日午前6時58分、肺炎のため長野県諏訪市の病院で死去した。享年92。1907(明治40)年7月24日、長野県諏訪郡上諏訪町に生まれる。1927(昭和2)年に山本鼎の主宰する農民美術研究所(上田市)の受講生となり、木彫を学ぶ。37年、仙台の国立工芸指導所に入り、各種漆芸技法を修得。43年「柏の図彫漆手箱」で第6回新文展に初入選し、46年「彫漆躍進魚図手筥」で第1回日展特選、59年「彫漆飾棚」で第2回新日展特選・北斗賞を受賞。彫漆技法によって抽象的な文様を力強く表す、近代的な感覚にあふれる作風を確立した。63年から日展会員、82年から日展評議員を務め、同年、彫漆パネル「夏の語らい」で第21回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞。84年から日展参与を務め、同年、長野県芸術文化功労者表彰を受けた。

佐治賢使

没年月日:1999/06/14

 漆芸家の佐治賢使は6月14日、急性心不全のため市川市の病院で死去した。享年85。1914 (大正3)年1月1日岐阜県に生まれる。本名は正。東京美術学校工芸科に在学中の36(昭和11)年文展に「漆盛器」が初入選。38年同校を卒業。43年第6回新文展で「漆ひるがほ小屏風」が特選となり、以後出品、特選を重ねる。51年日本冶金株式会社勤務を経て、58年第1回新日展で「追想スクリーン」が文部大臣賞、61年に前年の第3回新日展出品作「二曲屏風 都会」が第17回日本芸術院賞を受賞。同年日展会員となり、78年帖佐美行らと日本新工芸家連盟を設立。色漆や乾色粉、金蒔絵、螺鈿など多様な技法を駆使し、なおかつ現代的な感覚を取り入れた絵画的表現で独自の世界を確立した。81年日本芸術院会員、89(平成元)年文化功労者となり、95年文化勲章を受章。長男は漆芸家ヒロシ。

角谷一圭

没年月日:1999/01/14

 釜師の角谷一圭は1月14日、肺炎のため大阪市の病院で死去した。享年94。1904(明治37)年10月12日大阪市に生まれる。本名辰治郎。17(大正6)年釜師の父巳之助より茶の湯釜の制作技法を習得。のち大国藤兵衛、香取秀真に茶釜、鋳金全般を学ぶ。また細見古香庵からも茶釜制作上の影響を受けた。47(昭和22)年昭和天皇大阪行幸の際に釜を献上する。52年第8回日展に初入選、以後56年第12回日展まで出品するが、58年第5回日本伝統工芸展に「海老釜」を出品して高松宮総裁賞を受賞し、以後は同展に出品、61年には同8回展出品作「独楽釜」で朝日新聞社賞を受賞、その間58年布施市文化功労賞、同年大阪府芸術賞を受けるなど受賞を重ねる。終戦直後に出回った名釜修理・修復に携わり、茶釜の形態、地紋、鉄味を調査、その成果に基づき鎌倉期の筑前・芦屋釜を範とし、のち和銑釜を研究、優雅で格調高い作風を確立した。73年第60回伊勢神宮式年遷宮神宝鏡31面を鋳造、93(平成5)年第61回遷宮の折も制作を手がけた。76年勲四等瑞宝章を受章、78年国の重要無形文化財「茶の湯釜」保持者(人間国宝)となる。84年文化庁企画「茶の湯釜」記録映画で「馬ノ図真形釜」を制作。著書に『釜師―茶の湯釜のできるまで』(1974年 浪速社)がある。弟莎村は釜師、長男征一は金工作家。

隅谷正峯

没年月日:1998/12/12

 刀剣作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の隅谷正峯は12月12日午後1時16分、急性循環器不全のため石川県松任市の石川中央病院で死去した。享年77。大正10(1921)年1月24日、金沢で醸造業を営む隅谷友吉の長男として生まれる。旧制金沢第一中学校に在学中に日本刀に興味を抱くようになり、立命館大学理工学部機械工学科を昭和16年に卒業した後、同学に創設された日本刀鍛錬研究所で同17年より桜井正幸に師事して作刀技術を学ぶ。また、広島県尾道市にあった興国日本刀鍛錬所でも作刀研究を進めた。戦後、帰郷し、作刀禁止が解かれた同28年から制作を再開。同29年作刀許可を受け、第1回作刀技術発表会に初入選。以後39年まで全10回行われた同展に毎回出品し、優秀賞を4回、特賞を4回受賞する。同30年日本美術刀剣保存協会の新作刀技発表会に入選。同40年作刀技術発表会を引き継ぐかたちで創設された新作名刀展に第1回から出品して名誉会長賞並びに正宗賞、同41年第2回同展で正宗賞・毎日新聞社賞を受賞する。同42年、同展無鑑査となり、審査員を委嘱され、同49年第10回同展で正宗賞を受賞する。この間、同42年石川県指定無形文化財保持者となる。同46年小型たたらによる自家製鋼を研究・開発し、同50年正倉院御物の刀子の研究・模造を行うなど、各地の古今の作刀、研磨技術を研究し、同56年国指定重要無形文化財保持者に認定された。この間、同46年日本美術刀剣保存協会協議員を委嘱され、同59年には全日本刀匠会理事長に就任。平成2(1991)年には同会顧問、同4年には日本美術刀剣保存協会理事となった。主な作品に、伊勢神宮式年遷宮御神宝纏御太刀(昭和39年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十二振(同44年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十六振(平成元年)のほか、皇太子妃、秋篠宮真子内親王の守り刀などがある。飛鳥・奈良時代から現代にいたる刀剣技術を研究し、なかでも鎌倉期の備前伝の鍛錬法を得意とした。奈良時代に貴人が装身具に用いた「刀子(とうす)」の制作で知られた。平成3年、佐野美術館、石川県立美術館で「隅谷正峯展」が開催され、略歴などは同展図録に詳しい。

田口善国

没年月日:1998/11/28

 東京芸術大学名誉教授の漆芸家で、国の重要無形文化財(人間国宝)の田口善国は11月28日午前2時11分、心不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年75。大正12(1923)年3月1日東京都麻布に生まれる。本名善次郎。生家は医者で、父と交遊のあった漆芸家松田権六に昭和14(1939)年に弟子入した。また、やはり父と交遊のあった奥村土牛に昭和11年から同16年まで日本画を学び、吉野富雄に古美術を学んだ。同21年第2回日展に「風呂先屏風みのりの朝」で初入選。以後、同22年第3回日展に「風呂先屏風蒔絵俵に鼠」、同23年第4回展に「蒔絵盃ピアノとルリ鳥」、同26年第7回展に「四枚折蒔絵屏風親子つばめ」で入選する。この間、同25年から2年間、東京芸術大学研究生として小場恒吉に日本文様を学び、図案などを研究する。同35年より日光東照宮拝殿蒔絵扉の復元修理に従事。同36年日本伝統工芸展に「蒔絵手箱」を出品して奨励賞を受賞し、同37年日本工芸会会員となる。同38年の同展では「平文蒔絵箱」で、翌年は「蒔絵飾箱 日蝕」で2年連続奨励賞を受賞。同43年同展では「野原蒔絵小箱」で文部大臣賞を受賞する。同53年MOA岡田茂吉賞工芸部門優秀賞を受賞。同55年大倉集古館所蔵の蒔絵「夾紵大鑑」の復元修理をする。同64年国の重要無形文化財保持者(蒔絵)に指定された。同39年中尊寺金色堂復元修理に参加。同49年から翌年まで東京芸術大学美術学部講師をつとめ、同50年同学助教授、同57年同教授となった。平成2(1990)年同学を停年退職し、同名誉教授となった。古美術品の復元修理を通して伝統的な漆芸技法を研究し、蒔絵、螺鈿の高度な技術を習得。そうした技術を生かし、動植物を主なモティーフとする斬新な意匠、表現を試みて現代的な漆器を制作した。

浅蔵五十吉

没年月日:1998/04/09

 九谷焼の陶工で文化勲章受章者の浅蔵五十吉は4月9日午後1時25分、呼吸不全のため金沢市の金沢大学医学部付属病院で死去した。享年85。大正2(1913)2月26日、石川県能美郡寺井町に生まれる。父は先代五十吉で、10代の頃から父に師事して陶芸を学び、昭和3年に初代徳田八十吉に師事。同21年から色絵陶磁の北出塔次郎に師事する。同21年第1回日展に「青九谷水鉢」で初入選し、以後毎年出品。同27年第8回日展に「磁器長角水盤」で、同30年第11回目日展に窯変「交歓」花器で北斗賞受賞。同32年第13回目日展には「構成の美」花器を出品して特選・北斗賞を受賞する。同52年第9回改組日展に「釉彩華陽飾皿」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同56年「佐渡の印象」により日本芸術院賞を受賞し、同59年日本芸術院会員、平成4(1992)年文化功労者となった。同8年文化勲章を受章。伝統的な技法を基礎に、花鳥を主とする独特の意匠を施し、鑑賞性と実用性の両立に留意した制作を試みる。同2年、横浜、京都、大阪、東京の高島屋で戦後から新作までの作品を展観する喜寿記念展が開催された。昭和62年には『色絵磁器・浅蔵五十吉作品集』(産経出版)が刊行されている。

寺井直次

没年月日:1998/03/21

 人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家寺井直次は3月21日午後0時55分、内臓疾患のため金沢市の病院で死去した。享年85。大正元(1912)年12月1日、金沢市の鍛冶職で金物商を営む家に生まれる。昭和5(1930)年石川県立工業学校漆工科描金部を卒業し、東京美術学校工芸科漆工部に入学、六角紫水・松田権六・山崎覚太郎らの指導を受ける。また在学中に日本画を金沢出身の画家田村彩天に学び、その後の工芸意匠案出の糧とする。同10年同学校を卒業、乾漆による卒業制作の「鵜文様飾筥」は翌年の改組第1回帝展に初入選するが、展覧会活動は以後しばらく休止し、財団法人理化学研究所に勤務しながらアルミを素地にした金胎漆器の技術の開発に専念した。同16年からは輸出漆器生産のため同研究所の静岡工場に工芸部長として赴任、同16年からは副工業長を勤める。戦後は依願退職して金沢に帰り、鶏などの卵の殻を細かく割り、その一つ一つを張り合わせて、柔らかな量感に富む蒔絵の卵殻技法に工夫を重ねた。創作活動再出発の第一作として卵殻を用いた「双鳩模様手筥」を制作、これが同21年の第1回日展に入選する。同23年第4回日展《鷺之図小屏風》、および同30年第 12回展に「極光」二曲屏風で特選を、 同29年第11回日展に「雷鳥の図箱」で北斗賞を受賞、同32年には日展会員となる。同25年より47年まで石川県立工業学校漆工科教諭となる。同30年からは日本伝統工芸展に出品し、主として鶉の卵殻を用いた、より繊細で華麗な作品を発表、同35年には同会理事に就任する。同43年北国文化賞、同45年金沢市文化賞を受賞。同47年石川県立輪島漆芸技術研修所初代所長となるが、翌年辞任、以後はかつて理化学研究所で研究していた金胎漆器の制作に再び取り組むようになる。同52年加賀蒔絵で石川県指定無形文化財保持者に認定。同58年に勲四等瑞宝章を受章。同60年、蒔絵で重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定、同年社団法人日本漆工協会功労賞を受賞。同63年文化庁工芸技術記録映画「蒔絵 寺井直次の卵殻のわざ」完成。平成元(1989)年中日文化賞を受賞。同4年新東京国際空港の貴賓室にかかげる漆額「極光(オーロラ)」を作成。同5年『寺井直次作品集』(能登印刷出版部)刊行。同6年石川県立美術館で「蒔絵・人間国宝 寺井直次の世界」展が開催された。

音丸耕堂

没年月日:1997/09/08

 人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家音丸耕堂は、9月8日午前9時8分、肺炎のため高松市の病院で死去した。享年99。本名芳雄。明治31(1898)年、6月15日、香川県高松市に生まれる。小学校を卒業後、13歳で讃岐彫りを専門とする石井磬堂に弟子入りし、4年間讃岐彫りを学ぶ。16歳で独立自営しつつ、独学で彫漆を学び、20歳のときに香川漆器の玉楮象谷(たまかじしょうこく)の作風にひかれて私淑した。漆芸家の磯井如真、金工家の北原千鹿、大須賀喬らと交友し、大正期から昭和10年ころまで堆朱、堆黒、紅花緑葉など古来の色漆を用いた彫漆を行い、さらに緑漆と黒漆の色彩的コントラストをいかした西洋風の作風へと移行した。昭和7(1932)年第13回帝展に「彫漆双蟹手箱」で初入選。以後官展を中心に出品し、同12年上京してからは、色漆の色彩の幅を広げ、新色を用いる試みを行った。同17年第5回文展に「彫漆月の花手箱」を出品して特選受賞。戦後も日展に出品し、同24年第5回日展に「彫漆小屏風」を出品して特選を受賞する。工芸家の地位の向上を目指して香川県の工芸家たちと香風会を設立。同30年重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定される。日本工芸会の創立に参加し、日本伝統工芸展にも出品を続け、同48年第20回日本伝統工芸展に「彫漆菊水指」を出品して20周年記念特別賞を受賞。昭和51年2月東京・板橋常盤台の日本書道美術館で20余点の作品を展示する展覧会を開催した。色漆を数十回から数百回塗り重ねた厚い漆の層に文様を彫り込む彫漆の技法を完成させ、昭和52年ころから色彩の断層面を表に出した平行しま模様を用いた作品を多く制作して、伝統的工芸技術による斬新な作風を打ちだした。色漆に金銀粉を混入して塗り、漆の固まる間に金銀が沈澱して層をつくるのをいかし、文様があらわれるように研ぎ出す技法や、彫り口の傾斜の角度により、重ねた色漆の層の断面を加減して微妙な文様をあらわす技法など、彫漆による多様な表現の可能性を引きだした。同57年、後進の育成に寄与すべく「公益信託音丸漆芸研究奨励基金」を設立した。同63年東京池袋の西武アートフォーラムで「音丸耕堂鳩寿記念回顧展」が開催され、平成6(1994)年に回顧展が開催されている。

北岡高一

没年月日:1996/12/18

 機織りに用いる竹筬の製作者で国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の北岡高一は12月18日午後10時、心筋こうそくのため京都市上京区小川通寺之内下ルの自宅で死去した。享年62。昭和9(1934)年2月20日京都市上京区小川通寺之内下ル射場町577番地に生まれる。生家は天正9(1581)年創業と伝えられる京都の筬(おさ)屋で、京都の重要な地場産業である絹織物のための機織り道具である筬(おさ)を製作し続けてきた。筬は縦糸の配列を整えるとともに織幅を一定に保ち、さらに縦糸と緯糸の打ち込みを堅固にするための櫛のような機能を持つ。材料により金筬と竹筬に分類され、また用途によって絹織物用の絹筬と綿織物用の綿筬等に分けられる。絹織物に用いられる竹筬は密度が高く、曲尺一寸に120枚もの羽が入る精巧なもので、金欄や爪掻き綴など濡緯(水で濡らした緯糸)を用いる高度な織物には絹筬が必須である。北岡高一は幼少時から父忠三に師事して伝統的な絹筬の製作、修理を学び、京都第一工業高校(現洛陽高校)を卒業後、家業の絹筬製作に専念した。平成3年(1991)年京都府選定保存技術筬製作の保持者として京都府教育委員会の認定を受け、同8年5月に国の重要無形文化財(筬製作・修理)保持者(人間国宝)として認定された。精緻な絹筬製作に高度な技術を示し、また、破損した筬の修理も併せて手がけ、伝統的な絹織物制作のために尽力した。

鹿島一谷

没年月日:1996/11/23

 布目象嵌の技術を伝承する金工家で区に指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鹿島一谷は11月23日午後零時20分、老衰のため東京都台東区池之端の自宅で死去した。享年98。明治31年5月11日、東京都下谷区に生まれる。父一谷光敬、祖父一谷斎光敬と金工を家業とする家の長男で本名栄一。同45年下谷高等小学校を卒業。父、祖父より布目象嵌を、後藤一乗、関口一也、関口真也父子に彫金を学び、父が早世したため20歳で独立する。昭和4(1929)年第10回帝展に一谷の名で「焔文様金具」で初入選。同7年第13回帝展に栄一の名で「朧銀布目水鴛文盆」を出品する。同24年第5回日展に「金工水牛文花器」で特選受賞。同30年社団法人日本工芸会の創立に参加し同会正会員となる。同32年3月文化財保護委員会により、記録作成等の措置を投ずるべき無形文化財布目象嵌の技術者として選択される。同39年、唐招提寺蔵国宝金亀舎利塔保存修理、同40年山形県天童市若松寺重要文化財金銅観音像懸仏保存修理に従事する。同54年国指定重要無形文化財保持者の認定を受ける。同59年、東京都日本橋三越本店で初めての個展を開催し、その後同じく日本橋三越本店で同63年、平成5、7年に個展を開催。平成2(1990)年には日本橋三越本店で「人間国宝 音丸耕堂・鹿島一谷」展を開催した。

大野昭和斎

没年月日:1996/08/30

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の木工芸家大野昭和斎は8月30日午前5時36分、肺炎のため岡山県倉敷市の倉敷平成病院で死去した。享年84。明治45(1912)年3月4日岡山県総社市八代244番地に大野斎三郎の長男として生まれる。本名片岡誠喜男(かたおか・せきお)。大正9(1920)年、一家で倉敷市西阿知町に移住し、同15年西阿知尋常高等小学校を卒業して同年より父に木竹工芸の手ほどきを受ける。昭和10(1935)年文人画家柚木玉邨より「昭和斎」の号を授受。同12年中国四国九県連合展に「松造小箱」を出品して特賞受賞。同13年より岡山県工芸協会工芸展に出品し同14年同会評議員となる。同38年日本工芸会中国支部展に「桑盛器」を出品して支部長賞受賞。同40年第12回日本伝統工芸展に「欅香盆」で初入選し、以後同展に出品を続け、同43年第15回同展に「拭漆桑飾筥」で日本工芸会会長賞を受賞して、同年日本工芸会正会員となる。同49年「木創会」を創立し、伝統工芸の保護と後進の指導にあたった。同52年岡山県重要無形文化財の指定を受け、同59年には国の重要無形文化財「木工」保持者となった。また、同年日本工芸会参与となる。同60年人間国宝認定記念展として「大野昭和斎-木のこころ」展が倉敷市主催により市立美術館で開催される。平成4(1993)年『人間国宝大野昭和斎の木工芸』が至文堂より刊行され、また同年その出版記念として「傘寿 人間国宝大野昭和斎木工芸展」が倉敷三越百貨店で開催された。指物、くり物、木象嵌、すり漆等の諸技術を総合的に駆使し、伝統技術を現代の器に生かす試みを続け、木目に金箔を擦り込む「杢目沈金」の技法を創出して知られた。

野口園生

没年月日:1996/07/25

 衣裳人形作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の野口園生は7月25日午後5時10分、心不全のため静岡県伊東市大室高原の自宅で死去した。享年89。明治40(1907)年1月23日東京府下谷区谷中清水町1番地に生まれる。大正13(1924)年、東京市立女子第一技芸高等女学校(現・東京都立忍岡高校)を卒業。昭和12(1937)年堀柳女人形塾に入門し、翌13年申戌会芸術人形展に「みぞれ降る日」を出品。同14年童宝美術院人形展に「家路」を出品して奨励賞、同15年同展に「遊山」を出品して優秀賞を受ける。同18年戦時下にあって堀人形塾が解散したため、しばらく制作を中断するが、戦後再開し、同22年第3回日展に「宴の途」を出品。同23年第1回東京都工芸協会展に「秋の草」を出品して二等賞、翌年の同展には「港町」を出品して同三等賞を受賞した。同25年人形塾を開き、また同年の現代人形美術展に「雨後」を出品して朝日新聞社賞受賞。同28年の現代人形美術展では「霧の朝」で努力賞を受賞する。同30年より蒼園会を主宰し銀座松屋で展覧会を開催する。同31年日本伝統工芸展に入選して以後同展に出品を続け同34年日本工芸会会員となった。同37年日本伝統工芸展新作展に「寂秋」を出品して奨励賞受賞。以後も日本伝統工芸展、同新作展に出品を続ける。同59年喜寿記念『ごくらく一寸のぞきみ』を刊行。同61年国指定重要無形文化財保持者(衣裳人形)に認定され、同年『野口園生人形作品集』が刊行された。同62年より平成5年まで人間国宝新作展に小品の出品を続けた。日常生活に根ざした季節感、自然の情趣を大胆にデフォルメした人体によって表現し、独自のフォルムと詩情を持つ作風を示した。

本阿弥日洲

没年月日:1996/07/13

 刀剣研ぎ師で国指定重要無形文化財保持者の本阿弥日洲は7月13日午前7時35分、急性心不全のため東京都大田区上池台の自宅で死去した。享年88。明治41(1908)年2月23日、東京に生まれる。本名猛夫。名研ぎ師と言われた父平井千葉に幼少のころから家業の刀剣研磨・鑑定を学んだ後、本阿弥琳雅に師事して刀剣鑑定法を修練した。昭和3(1928)年本阿弥家の養子となって室町時代から続く名家である本阿弥家を継いで第23代当主となった。戦前は内務省神社局の命により伊勢神宮内陣や明治神宮内陣の宝刀の研磨を行う一方、軍刀審査員となり、また文部省の命により神社仏閣等の国宝、重要文化財刀剣の研磨に従事した。戦後は長く刀剣登録審査委員をつとめ、研師の立場から日本刀の姿、平肉の置き加減、帽子の形、焼刃の処理などについて現代刀匠の刀剣制作に助言を与え、伝統的作刀の技法を継承することに寄与した。古刀から現代刀に至る幅広い時代の刀の研磨に通暁し、特に相州物、山城物などの各伝の刀剣類の研磨を得意とした。海外に所蔵される日本の刀剣の調査、保存にも寄与し、昭和47年には米国のメトロポリタン美術館、ボストン美術館にある日本の刀剣の調査を行っている。砥石の選択、刀身の砥石への当て方、刀身の押し引きの調子、鍛造及び下地の仕上げ、拭いの材料の作り方等に卓抜な技量を示し、同50年に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定された。上古刀をはじめ、美術刀剣類の研磨、刀剣鑑定に優れ、後進の指導に尽力した。

谷口良三

没年月日:1996/06/07

 日展評議員の陶芸家谷口良三は6月7日午後6時15分、肺がんのため京都市上京区の京都府立医科大病院で死去した。享年70。大正15(1926)年3月8日京都市東山区五条橋東6丁目に生まれる。昭和17年京都市立第二工業高校窯業科を卒業。同20年日本製鉄に勤務する。同22年四耕会を結成。翌23年京都陶芸家クラブに加入し六代清水六兵衛に師事する。同31年第5回現代日本陶芸展に「白釉線花器」を出品して第一席となる。同36年第4回日展に「線花器」を出品して北斗賞特選受賞。同39年国際陶芸展に「赫釉方壷」を招待出品する。同40年第9回日展に「碧象」を出品して菊華賞受賞。同47年ヨーロッパ、中近東に研修旅行し、同49年フランス、イタリア、スペインに赴く。同51年第62回光風会展で辻永記念賞受賞。同年東京日本橋三越本店ではじめての個展を開催する。同56年、平成3年にも同店で個展を開催。この間同52年岡山高島屋、同53年京都朝日画廊、同59年高砂市福祉センターなどで個展を開催。同56年京展に「樹想」を出品して須田賞受賞。平成元(1989)年京都府文化功労賞受賞。同2年日展評議員となり、同7年第27回日展に「夕照」を出品して内閣総理大臣賞を受賞した。同年高砂文化センターで個展を開催している。碧彩と呼ばれる独自の色合いの陶磁器を制作し、京焼に新風を吹き込んだ。昭和50年より60年まで新潟大学非常勤講師、同51年より平成6年まで金蘭短期大学非常勤講師をつとめ、後進の指導にあたった。

増村益城

没年月日:1996/04/20

 髹漆の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で日本工芸会参与の漆芸家増村益城は4月20日午前2時12分、腹膜炎のため東京都豊島区の平塚胃腸病院で死去した。享年85。明治42(1910)年7月1日、熊本県上益城郡益城町(旧津森村)田原344に父増村仁五郎、マタの七男として生まれる。本名成雄(なりお)。大正6(1917)年津森尋常小学校に入学し、同12年同校を卒業して同校高等科に入学するが、翌年熊本市立商工学校漆工科に入学。その頃、同校漆工科教員には財間六郎、藤芳太直(美術史、蒔絵)、川俣熊三郎(会津漆芸)らがいた。昭和2(1927)年同校漆芸科を卒業し、同校研究所研究生となる。同4年同研究所を修了。翌5年1月、熊本市立商工学校漆工科の同期生であった山本剛史の誘いにより奈良の漆芸家辻富太郎(永斎)に師事し、同7年1月やはり山本剛史の誘いによって上京して赤地友哉に師事する。同11年第13回東京工芸品展に本名成雄の名で「皆朱輪花盆」を出品し三等賞を受賞。翌年より独立して漆芸家として作家活動を始める。同13年第3回実在工芸展、同14年第4回同展に出品。また同14年第3回日本漆芸院展に益城の名で「黒呂色平卓」を出品して第二席となる。同15年紀元2600年奉祝記念展に「乾漆八花盆」で入選。同17年第5回文展に「髹飾卓」で入選。戦後も官展に出品し、同22年第3回日展に「髹飾卓」で入選以後、日展に出品を続ける。同27年第1回漆芸作家大同会に「柿紅葉銘々皿」を出品して研究賞を受賞し、以後同展に出品を続ける。同30年第1回日本漆芸展に「溜塗文机」を出品して文大臣賞受賞。同31年より日展のほか日本伝統工芸展にも出品し、同32年第4回同展に「乾漆盛器(日の丸)を出品して日本工芸会総裁賞受賞。翌年第5回同展に「乾漆根来盤」を出品して日本工芸会奨励賞、同35年第7回同展では「髹飾線文盛器」で日本工芸会文化財保護委員会委員長賞を受賞して、同40年より同展鑑査員をつとめる。同53年重要無形文化財「髹漆」保持者に認定され、同年より人間国宝新作展にも出品する。また、同年熊本岩田屋伊勢丹で「増村益城漆芸展」が開催された。後進の育成にも尽くし、同43年より香川県漆芸研究所講師、同51年より石川県輪島漆芸研究所講師をつとめる。同62年日本工芸会参与となった。乾漆技法を用い、複雑な曲線をもつ近代的な形、絵付けをせず、朱色、黒など漆本来の色一色で仕上げる独特の仕上げにより、現代生活に根ざした作風を確立した。同56年5月東京三越本店で「増村益城髹漆展」、同62年10月には熊本県立美術館で回顧展「増村益城展」が開催され、没後の平成7年には東京国立近代美術館で遺作展が開かれた。

金重素山

没年月日:1995/12/27

 備前焼作家の金重素山は12月27日午後5時50分肺炎のため岡山県赤磐郡山陽町の病院で死去した。享年86。明治42(1909)年3月31日、岡山県備前市伊部1531に備前焼窯元金重楳陽(慎三郎)を父として生まれる。本名七郎左衛門。父が幼時に死去したため、兄の金重陶陽に陶芸を学び、昭和2(1927)年より陶陽の助手として専ら窯焚をつとめる。大本教を信仰し、同26年陶陽窯を離れるにあたって大本教主出口直日の招請により京都府亀岡市の大本教本部の大本窯、花明山窯を制作の場と定めた。同34年大本教本部京都府綾部の鶴山窯に築窯して独立。同39年岡山市円山に登窯を築窯した。桃山時代の伊部焼「緋襷」に魅せられその再現に力を注ぎ、独自の窯を考案して焼成を試み、同40年電気窯による「緋襷」制作を創案して翌年それを完成させた。同42年東京日本橋壺中居にて「緋襷」のみの個展を開催した。同45、47年東京日本橋三越で個展を開催。同49年山陽新聞文化賞受賞。同53年天満屋岡山店にて「金重素山展」を開催する。同57年伊部に牛神下窯を築く。同58年岡山県指定重要無形文化財保持者の認定を受けた。同59年東京、大阪、名古屋にて「備前 金重素山展」を開催するとともに岡山高島屋で「金重素山展」を開催。平成2(1990)年松阪屋本店、三越本店にて「傘寿金重素山展」を開催。同年伝統文化保存振興への貢献に対して文化庁長官表彰を受ける。同3年天満屋岡山店にて茶陶展を開催し、同年岡山県文化賞受賞。同6年三木記念賞を同7年備前市功労賞を受賞した。昭和50年、54年に日本陶芸展に推薦出品したほか、兄陶陽一門の展覧会に協賛出品しているが、特定の団体に所属せず、茶陶を中心に独自の作陶を続けた。桃山風のおおらかなフォルムと緋襷の焼成により、風格ある作風を示す一方、伝統的備前焼きの進展に寄与した。

to page top