本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





飯塚小玕斎

没年月日:2004/09/04

 人間国宝(重要無形文化財保持者)の飯塚小玕斎は、9月4日、肺炎のため死去した。享年85。1919(大正8)年5月6日、東京市本郷区(現・東京都文京区)に、飯塚琅玕斎の次男として生まれる。本名・成年。1942(昭和17)年東京美術学校油画科を卒業し入隊、出征する。46年疎開先の栃木市に復員し、栃木市立高等女学校で講師を約10年間勤める。その後帰京し、81年群馬県太田市に転居した。復員後に、近代竹工芸の確立に重要な役割を担い工芸界の重鎮であった父琅玕斎の厳しい指導を受けて修業し、飯塚家の伝統のわざはもとより琅玕斎の格調を重んじる制作を学んだ。1947年第3回日展初入選。翌年の第4回日展に成年子と号して出品し、50年亡き兄が号した小玕斎を受け継いだ。53年第9回日展で北斗賞を受賞し、翌年第10回展で特選、60年第3回新日展で菊華賞を受賞、伝統技法による花籃等の制作に加え壁面の制作に挑むなど気鋭の竹工芸家として活躍した。62年日展会員。74年第17回日本伝統工芸展へ出品して以降同展を中心に活動し、第17回展文部大臣賞、翌75年第18回展で朝日新聞社賞と受賞を重ねた。その後、鑑審査委員をたびたびつとめ、理事や木竹部会長を長く勤めた。81年紫綬褒章、89年勲4等旭日小綬章を受章。琅玕斎から継承した伝統のわざを現代的な感性で洗練させ、精緻精細な竹刺し編みや束ね編み等による芸術の格調を基調とする制作を主として独自の力強い荒い編組作品の創作なども繰り広げ、今日の伝統的な竹工芸の基盤を形成した。79年から82年にかけて正倉院宝物の竹工芸品の調査研究に努め、自らの創作の世界を広げた。82年重要無形文化財「竹工芸」保持者の認定を受け、以降日本伝統工芸展を中心に後進の指導に積極的に努め、その普及と発展に尽力した。

松林猶香庵

没年月日:2004/08/14

 陶芸作家で、朝日焼14世の松林猶香庵は、8月14日午後4時20分多臓器不全のため死去した。享年83。1921(大正10)年3月10日、京都府宇治市に生まれる。本名松林豊彦。1936(昭和11)年京都市立第二工業学校陶磁器科を卒業後、国立陶磁器試験所に学ぶ。39年同試験場を修了し、1年間助手を務める。試験所在籍中は、水町和三郎の指導のもとで、多くの名品に学ぶ。46年父の朝日焼13世光斎の死去に伴い、14世豊斎を継承。この頃、陶芸作家の楠部彌弌に師事し、公募展にも出品をする。47年第3回日展には「豊芽の図大鉢」を出品。しかし、松林は、通常他の窯では区別されない窯変による色彩・釉調の変化を「燔師」と「鹿背」と分けて呼ぶ、朝日焼の繊細な茶陶の中に自らの進む道を見出す。その後は朝日焼の伝統的な造形を基調としながら、独学で朝日焼の最たる特徴である御本手の「燔師」・「鹿背」と呼ぶ窯変や、梅華皮・三島などの技法をより深く追求する。52年10月大坂三越で初個展開催。以後、個展を中心に作品を発表する。55年頃から何度か国宝の茶碗「喜左右衛門井戸」を手にする機会を得る。その見事な梅華皮を念頭において梅華皮茶碗の焼成を繰り返し、65年頃自身の理想に近い梅華皮茶碗を作り出し、これによって自らの技への自信を深めていく。また作陶と並行して、窯変を決定づける窯の研究にも没頭し、52年の登窯の築窯をはじめとし、幾つもの窯を築き試行錯誤を繰り返す。75年には、不確定要素の多かった窯変の創出を意識下におくことを目的とした窯「玄窯」を完成させる。「玄窯」は、窖窯と登窯を繋げた他に例を見ない構造に加え、窯内雰囲気を観察・記録できる当時最新の装置を付けた窯である。「玄窯」完成後、松林はさらに窯変の研究を続け、朝日焼の窯変を「土と炎の出会いによる土の窯変」という独自の言葉で表現している。そして80年頃、「鹿背」に用いる土と古朝日の土をあわせることで、従来の朝日焼にはなかった窯変による「紅鹿背」と呼ぶ、ほのかな紅色の発色に成功し、これを用いた作品制作に邁進する。1994(平成6)年11月大徳寺管長福富雪底のもとで得度し、長男良周に15世豊斎を譲り、隠居名の「猶香庵」を名乗る。その後も精力的に制作を続け、各地で個展を開催し、作品を発表する。松林猶香庵の作風は、伝統を踏まえ抑制のきいた造形の上に、窯変による色彩・釉調の変化を加えることで、瀟洒かつ温雅な独自の世界を表出している。こうした松林の作品は、茶を喫するために作られた茶陶の世界において高い評価を得たものである。

坂高麗左衛門

没年月日:2004/07/26

 陶芸作家で萩焼宗家坂窯の十二代坂高麗左衛門(本名、坂達雄)は、7月26日午前7時45分、脳挫傷のため山口県萩市内の病院で死去した。享年54。1949(昭和24)年8月11日、東京都新宿区に山中關とオヨの長男として生まれる。76年に東京芸術大学絵画科日本画専攻を卒業し、同大大学院美術研究科絵画専攻に進学。78年の課程修了後も、同大芸術資料館にて重文「浄瑠璃寺吉祥天厨子絵」の臨模研究や80年の国宝「観心寺木造如意輪観音坐像」復元事業に参加して彩色を担当するなど、日本中世絵画を対象に制作研究を継続した。82年、前年に没した十一代坂高麗左衛門(本名、信夫)の息女素子と婚姻を結び、また彼女の母幸子の養子となって萩藩御用窯の系譜をひく坂窯を後継した。83年の京都市工業試験場窯業科陶磁器研修生を修了後、84年から萩での作陶生活に入った。翌年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展から本格的な発表活動を開始。以降、日本画の制作研究で体得した運筆や賦彩の表現技法を造形思考の核に据え、萩伝統の陶技と絵画的意匠の総体的融合をめざした造形表現を追求し、作陶活動を展開した。個展活動は、86年の柿傅ギャラリー(東京)と玉屋(福岡)での初個展以来、88年5月29日の十二代襲名前に2回、襲名後は生前49回におよんだ。公募展への出品活動では、87年の第34回日本伝統工芸展で自ら開発した「陶彩」技法を用いた径41cmの「萩夏秋草八角陶筥」が初入選し、88年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展ではNHK山口放送局賞を受賞するなど、新進作家として早くから注目された。以後日本伝統工芸展において、89(平成元)年の第36回展に「萩茶碗」、92年の第39回展には「萩茶碗」が、そして94年の第41回展では「萩櫛目面取茶碗」がそれぞれ入選し、同年日本工芸会正会員となった。また、89年には田部美術館大賞茶の湯造形展にも入選している。90年から99年にかけては萩女子短期大学講師として陶芸指導にあたった。97年7月には「やきもの探訪-萩焼に日本画を」が NHKで放送(BS2)されている。2001年に山口県文化功労賞を受賞。作品は、坂窯伝統の井戸形茶碗をはじめ、萩焼の陶胎を用いながらも釉下に多彩な色料を施して器面を華やかに彩った茶碗・水指・香炉・花入・皿・筥・壺など多種の器形を制作し、ことに晩年の装飾は温雅な美質をそなえた抒情性のある絵画的表現を特長とした。

藤代松雄

没年月日:2004/06/12

 刀剣研磨師で人間国宝の藤代松雄は6月12日、脳こうそくのため死去した。享年90。 1914(大正3)年4月21日、刀剣研磨師である藤代福太郎の三男として東京神田に生まれる。「早研ぎの名人」といわれた父に1927(昭和2)年より刀剣の研磨技術を習う。51年より『名刀図鑑』を刊行、写真技術を最高度に利用して茎の銘やこれまで再現不可能であった地の状態、刃中の働きなどを写し、戦後の刀剣愛好家の啓蒙に寄与した。55年日光二荒山神社所蔵の御神刀「山金造波文蛭巻大太刀(禰々切丸)」(重要文化財)を研磨。61年『日本刀工辞典』改訂版を刊行、同書は元来兄義雄の著作(37年刊)であり、これに共著という形で版を重ねることで新たな資料を加え、より完全な銘の辞典の完成を目指した。70年美術刀剣研磨技術保存会を結成、88年からは同会の幹事長を務める。1990(平成2)年 国宝 短刀 来国光(名物有楽来)、93年吉備津神社所蔵の大太刀 法光「吉備津丸」を研磨。96年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。98年勲四等旭日小綬章受章。

清水卯一

没年月日:2004/02/18

 陶芸家で鉄釉陶器の重要無形文化財保持者の清水卯一は、2月18日午後11時、大腸がんのため滋賀県滋賀郡志賀町(現、大津市)八屋町の自宅で死去した。享年77。1926(大正15)年3月5日、京都市東山区五条橋に、京焼陶磁器卸問屋を営む父清水卯之助、母モトの長男として生まれる。11歳のときに父が病死し、1938(昭和13)年に家業を継ぐため立命館商業学校へ入学するが、作陶に興味を抱き、近隣の轆轤師宮本鉄太郎らを知る。40年には同校を2年修了とともに中退し、14歳で石黒宗麿に師事し、通い弟子となる。しかし戦時体制の強化に伴い、数ヶ月で五条坂から八瀬への通い弟子を中断し、自宅に轆轤場を設けて作陶を始める。翌年、伏見の国立陶磁器試験場に伝習生として入所し、日根野作三、水町和三郎らの指導を受ける。43年には京都市立工業試験場窯業部の助手となるが、終戦を機に辞職し、自宅を工房にして作陶を再開。47年、前衛的な陶芸家集団「四耕会」の結成に参加。また49年には、「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」などの結成にも参加する。51年には第7回日展に初入選し、以後、55年の第11回展まで出品。同年、第2回日本伝統工芸展に石黒の推薦を受けて出品し、以後、活動の場とし、57年には日本工芸会正会員となる。翌年の第5回展の奨励賞をはじめ、第7回展では日本工芸会総裁賞、第9回展では優秀賞朝日新聞社賞を受賞するなど、若手の実力派としてふさわしい創作性豊かな作品を発表し評価を得る。またこの間、55年には日本陶磁協会が新設した第1回日本陶磁協会賞を受賞。海外展においても、59年のブリュッセル万国博覧会でグランプリ受賞をはじめ、62年のプラハでの国際陶芸展で金賞、63年のワシントン国際陶磁器展で最高賞、67年イスタンブール国際陶芸展でグランプリを受賞するなど、めざましい活躍をみせる。この頃の作品は主に、鉄釉や柿釉、天目などの鉄釉系技法に基づくもので、轆轤挽きによる端正なフォルムと融合させて独自の世界をつくり上げた。70年には、滋賀県志賀町の蓬莱山麓へ工房を移転し、念願であった登窯を築窯。またガス窯も設けて蓬莱窯と名付け、さまざまな作品を制作する場とする。この移転が転機となり、自宅周辺で採集した陶磁器に適した土や釉薬を新たな素材として加え、さらに作域を広げる。73年の第20回日本伝統工芸展では、蓬莱の地土を使った「青瓷大鉢」の評価と、これまでのすぐれた制作の展開に対する評価によって20周年記念特別賞を受賞。その後も土と釉薬の研究に情熱を傾け、青瓷、鉄耀、蓬莱耀、蓬莱磁など、伝統的な技術と豊かな創造力による意欲的な作品を次々に発表し高い評価を受ける。85年には石黒宗麿に続いて二人目となる、「鉄釉技法」で重要無形文化財保持者に認定される。1989(平成元)年、ポーラ伝統文化振興財団が記録映画「伝統工芸の名匠シリーズ・清水卯一のわざ-土と炎と人と」を制作。92年には京都市文化功労者表彰を受ける。99年、1940年から1998年までの作品147点を滋賀県立近代美術館に寄贈。とくに認定後は、日ごろの仕事の積み重ねを大切にする姿勢を説きながら、若手陶芸家の指導に蓬莱窯を開放するなどして、積極的に後進の育成にも尽力した。

久保田一竹

没年月日:2003/04/26

 染織家久保田一竹は4月26日午後4時50分、多臓器不全のため山梨県の病院で死去した。享年86。 1916(大正5)年10月7日東京の神田に生まれる。小学校の教師に絵の才能を見いだされ、1931(昭和6)年、親元を離れ友禅師小林清に入門した。34年には大橋月皎に人物画を学び、36年には北川春耕に山水と水墨画を学んだ。20歳のとき帝室博物館(現、東京国立博物館)で室町時代に栄え江戸時代に途絶えた幻の染色「辻が花」の小裂に出会い魅了される。太平洋戦争での徴兵、シベリア抑留により一時制作中断を余儀なくされたが、約20年をかけて61年、独自の染色法「一竹辻が花」を完成させた。83年パリ・チェルヌスキ美術館での「一竹辻が花展」を皮切りに海外でも活躍するようになり、88年にはバチカン宮殿にて上演された創作能「イエズスの洗礼」の衣装制作を手がけ、1990(平成2)年フランスよりフランス芸術文化勲章シェヴァリエ章を受章、96年にはワシントンDCスミソニアン国立自然史博物館にて個展を開いた。国内でも、93年に文化庁長官賞を受賞、94年に自作品を展示した久保田一竹美術館を開館し、久保田一竹作品集『一竹辻が花 光の響』(小学館刊)を出版した。95年からは創作能をも手がけるようになり、活動の場は多岐にわたった。化学染料を駆使した、他に類を見ない鮮やかで重厚な色合いで知られた。

松井康成

没年月日:2003/04/11

 陶芸家で、「練上手(ねりあげで)」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された松井康成は、4月11日午後4時42分、急性呼吸器不全のため死去した。享年75。1927(昭和2)年5月20日、長野県北佐久郡本牧村生まれ。本名宮城美明(みめい)。52年明治大学文学部文学科卒業。同年、茨城県笠間の浄土宗月崇寺(げっそうじ)住職の長女松井秀子と結婚、松井姓となる。57年月崇寺第二十三世住職となる。60年月崇寺境内に窯を築き、古陶磁の研究に基づく倣古作品を制作していたが、陶芸家田村耕一のすすめで、68年頃からは練上手の技法に専念するようになる。69年第9回伝統工芸新作展に「練上手大鉢」が初入選し、奨励賞を受賞。同年、第16回日本伝統工芸展に「練上手壺」を出品し、初入選。70年第10回伝統工芸新作展に「練上手辰砂鉢」を出品し、日本工芸会賞を受賞。71年第18回日本伝統工芸展に「練上線文鉢」を出品し、日本工芸会総裁賞受賞。73年第2回日本陶芸展(公募部門第1部)に「練上線文鉢」を出品し、最優秀作品賞・秩父宮賜杯受賞。74年日本陶磁協会賞を受賞。75年第22回日本伝統工芸展に「練上壺」を出品し、NHK会長賞を受賞。76年「嘯裂(しょうれつ)」と「象裂瓷(しょうれつじ)」をあいついで発表。「嘯裂」とは、器の表面を刷毛や櫛などで荒らし、傷を入れることによって生じるひび割れを模様に見立てたもので、また、「象裂瓷」とは異なる種類の色土を二層、三層に重ね、成形後に深く切込みを入れて下層の色土が見えるようにする技法である。いずれも土そのものの粗く厳しい質感をあらわしたもので、それまでの練上にはない、松井康成独自の作品世界を示すものとして高く評価された。79年から現代工藝展(資生堂ギャラリー)に参加。83年からは「堆瓷(ついじ)」と呼ぶ、彩泥の技法による作品を発表。85年には「破調練上」を発表。86年第2回藤原啓記念賞を受賞。87年には「風白地(ふうはくじ)」と呼ぶ、器の表面に粗い砂を強く吹き付けることによって荒涼とした雰囲気を表現した作品を発表。1990(平成2)年日本工芸会常任理事となる。同年、日本陶磁協会金賞受賞。91年第4回MOA岡田茂吉賞大賞受賞。92年には、釉薬による光沢と鮮やかな色土による華麗な「萃瓷(すいじ)」を発表。93年「練上手」の技法により重要無形文化財保持者に認定される。同年、パリで松井康成展開催(三越エトワール)。同年、茨城新聞社より茨城賞受賞。94年「人間国宝松井康成練上の美」展開催(朝日新聞社主催、日本橋高島屋ほか)。同年、茨城県より特別功績賞受賞。96年「玻璃光(はりこう)」と呼ぶ、焼成後にダイヤモンドの粉末で研磨した、滑らかでしっとりとした光沢を放つ作品を発表。同年、茨城県近代美術館にて「変貌する土――松井康成の世界」展開催。99年平成11年度重要無形文化財「練上手」伝承者養成研修会の講師を勤める(翌年も)。練上手の作品は色の異なる土を組み合わせて成形するため、土の収縮率の違いなどから、焼成の段階で割れる可能性が高いが、松井康成は少量でも発色の良い呈色剤を加えることにより、同じ性質でも色の異なる土を作り出す工夫をし、色彩豊かな練上げ作品を制作した。そして、「嘯裂(しょうれつ)」、「象裂瓷(しょうれつじ)」、「堆瓷(ついじ)」、「風白地(ふうはくじ)」、「萃瓷(すいじ)」、「玻璃光(はりこう)」などの技法を新たに創案し、多彩な作品を制作、練上の技法による表現の可能性を広げ、それまでには見られない独自の作品世界を切り開いていった。作品集に、『松井康成陶瓷作品集』(講談社、1984年)、『松井康成練上作品集1985―1990』(講談社、1990年)。また、著書に『松井康成随想集:無のかたち』(講談社、1980年)、『宇宙性』(講談社、1994年)。

前田竹房斎

没年月日:2003/03/12

 人間国宝(重要無形文化財保持者)の前田竹房斎は、3月12日午前10時3分、急性心不全のため大阪府堺市内の病院で死去した。享年85。1917(大正6)年7月7日、堺市に生まれる。1935(昭和10)年高級花籃の名匠であった初代竹房斎に師事したが、修業中途に兵役に就き、復員して後にほぼ独学で竹工芸の研鑽に努めた。52年二代竹房斎襲名、翌年には皇太子殿下、56年天皇陛下・皇后陛下への献上品制作の栄誉を得た。47年大阪工芸展、53年関西美術展に初入選して以降に受賞を重ねた。また53年初入選を果たした日展では、68年まで立体造形的な制作で活躍した。59年第6回日本伝統工芸展に初出品、70年以降は毎回出品した。72年第1回伝統工芸木竹展奨励賞、第19回日本伝統工芸展で優秀賞を受賞し、86年第35回展では重要無形文化財保持者選賞を受賞した。同展で鑑査委員をたびたび務め、伝統工芸や大阪府工芸協会等で後進の指導にも熱心にあたった。1995(平成7)年重要無形文化財「竹工芸」保持者の認定を受けた。竹材の選択と素材の特性を高度にいかして現代生活に即した創作性の獲得に専念し、堅実で卓越した編組技法とその自由な表現に徹した。細い丸ひごを並列して透かしと内の重ね編みとを効果的に併用した繊細な制作や独創の重ね網代編みの花籃など、清新で力強い、高雅な格調を築き上げた。また花籃や盛器、茶箱等の煎茶道具にも自由で気品のある創作精神を示した。

与那嶺貞

没年月日:2003/01/30

 染織家の与那嶺貞は1月30日午後3時15分、気管支肺炎のため沖縄県浦添市の病院で死去した。享年94。1909(明治42)年1月20日、沖縄県読谷に生まれ、首里女子実業学校(現・沖縄県立女子工芸学校)で染織を学んだ。その後、読谷に戻って女子補修学校の教師をしながら織物の制作を続けた。1964(昭和39)年、村の生活改良普及員を勤めていたときに村長から依頼を受け、当時ほとんど途絶えかかっていた読谷山花織の復興に取り組む。読谷山花織は、読谷村長浜を拠点として展開された南方諸国との交易により、14、15世紀頃に伝えられた織物の技法である。本来木綿を中心とし、濃紺等に染められた平織の地に、白、黄、赤、緑等の色糸を浮かせて模様を織り出すのが特徴。銭花、風車、扇花の3つを基本として30種類程度の模様があり、また絣をあわせて使うことで幾何学的な構成に表情が加わる。染料は琉球藍のほか、ティカチ(車輪梅)やヤマモモ、福木等の植物染料が主である。かつて琉球王朝の御用布として読谷村一帯で織られ、同地の住民以外、庶民には許されなかったこの歴史ある織物も、時代の推移に押されて明治中頃から衰退しはじめていた。戦後織手を失い、作品も灰燼に帰すという困難な状況ではあったが、与那嶺は、土地の古老から聞き取り調査を行い、わずかに残っていた祭り衣裳などを手がかりとして、読谷山花織の技法と文様の復元に到達した。さらに糸や道具類の調達から高機の改良に努めて伝統的な読谷山花織の技法を高度に体得、また木綿地だけでなく、絹地による制作技法の改良にも大きく貢献した。75年に沖縄県指定無形文化財「読谷山花織」の保持者に認定。後継者の育成や普及にも力を注ぎ、伝統を根底としながらも現代的な感覚を盛り込んだ作品は高い評価を呼んだ。1995(平成7)年第15回伝統文化ポーラ賞にて「読谷山花織の復興」により特賞受賞。99年6月21日重要無形文化財「読谷山花織」の保持者に認定。

城ノ口みゑ

没年月日:2003/01/16

 重要無形文化財「伊勢型紙糸入れ」の保持者、城ノ口みゑは、1月16日、三重県鈴鹿市白子町の自宅で心不全のため死去した。享年86。1917(大正6)年1月2日、三重県鈴鹿市白子町に生まれる。同町は、小紋などの型染めに用いる、いわゆる伊勢型紙の主要産地として知られる。伊勢型紙は、楮紙を柿渋で貼り合せたもので、これに専用の彫刻刀で文様を透かし彫りする。透かし部分の多い型紙は、補強のため、いったん文様を彫り上げたあとから二枚に剥がして、あいだに細い絹糸を挟み入れる「糸入れ」の工程を施す。伊勢地方の女性達を主要な担い手として伝承された、家内手工の補強法であったが、ひじょうに難しく、習得にも時間がかかる技術であったため、やがて、紗を裏張りする簡便な補強法のほうが普及してゆくことになった。城ノ口みゑは、「糸入れ」の需要がまだ高かった昭和戦前期に、祖母や母・すえを通じて、この伝統の型紙補強技術を習得し、家政女学校を卒業した頃から、家族とともにこれに従事した。以来、さまざまな技術革新や型紙業界自体の変革にともなって後継者が減少する中でも、変わらず高い水準の技術を保持し続けた。1955(昭和30)年2月、初の重要無形文化財保持者30名が認定された際には、他の型紙技術者5名とともに、重要無形文化財「伊勢型紙糸入れ」保持者として認定を受けた。63年に鈴鹿市が「伊勢型紙伝承者養成事業」を開始すると、講師に就任し、以後これに長くたずさわって後継者の育成に尽力した。城ノ口の死去によって、55年認定時の伊勢型紙関係の重要無形文化財保持者はすべて世を去ったことになるが、糸入れを含む伊勢型紙の制作技術そのものは、現在、伊勢型紙技術保存会によって伝承されている。同保存会は、1993(平成5)年に重要無形文化財「伊勢型紙」の保持団体として認定を受けている。

山田貢

没年月日:2002/12/07

 友禅作家で重要無形文化財保持者の山田貢は、12月7日午前0時10分、心不全のため埼玉県坂戸市の病院で死去した。享年90。 1912(明治45)年2月3日、岐阜県岐阜市に生まれる。14歳で友禅作家の中村勝馬に師事して手書友禅、蠟染の技法を学んだ。1929(昭和4)年、師の中村に同行して東京に出るが、45年には師とともに山梨県に疎開し移住した。47年の第32回二科展工芸部に初入選し、以後連続入選を果たす。この間の51年には友禅作家として独立するが、その後も友禅染の技術の錬磨に励むとともに、友禅染め誕生期の品格を理想としながら能装束・狂言装束の意匠と文様の研究を行う。57年からは日本伝統工芸展に出品し、60年には日本工芸会正会員となる。68年、日本工芸会常任理事、染織部会長に就く。71年から79年にかけて、東京藝術大学美術学部非常勤講師を務め、後進の指導にもあたる。77年の第24回日本伝統工芸展では、能装束の鱗文をヒントに網干の三角模様を連続させた風景模様を配した《夕凪》が日本工芸会賞(奨励賞)を受賞する。81年、日本工芸会が主催した「茶屋染帷子」の復元事業に参加し、糸目糊の担当としてその指導を行う。作品は、写生を基にした松文・麦穂文・波文・魚文などの自然物のほか、網干文に代表される人工物、さらには巴文などの古典的な模様を題材に、伝統的な糯糊による糸目・堰出し・叩きなどの各糊防染の手法を用いて色挿しを行うもので、巧みな糊置きにより、絵際のはっきりした力強い線構成による簡明な意匠が好評を得る。82年世田谷区特別文化功労者。83年には勲四等瑞宝章を受章。84年、「友禅」で重要無形文化財保持者に認定される。翌年には日本工芸会参与に就任。87年金沢美術工芸大学の非常勤講師となり、再び後進の育成にあたる。1990(平成2)年、第2回茶屋染帷子の復元事業に参加し、糸目糊の研究に専念してその成果を示す。94年と95年には、重要無形文化財「友禅」伝承者養成研修事業の講師として伝統技法の保存・公開・育成に尽力する。同年、小田急百貨店において個展を開催。ポーラ伝統文化振興財団がビデオ「山田貢の友禅―凪―」を制作。99年には文化学園服飾博物館において「友禅 東京派五〇年の軌跡―中村勝馬・山田貢・田島比呂子・中村光哉―」展が開催された。作品は、伝統的な技法を駆使しつつも、大胆な構図と清新な色調、現代的な感覚で見る者を魅了した。また、没するまで精力的に活動し、復元事業をはじめ後進の育成にも専念するなど、伝統工芸の保存・公開に尽力した功績は大きい。

中村光哉

没年月日:2002/11/09

 染織家で東京藝術大学名誉教授の中村光哉は11月9日午前8時30分、悪性リンパ腫のため神奈川県横須賀市の病院で死去した。享年80。 1922(大正11)年8月6日、友禅染めで重要無形文化財となった染色家中村勝馬の長男として東京青山に生まれる。1940(昭和15)年東京美術学校日本画科に入学するが43年12月、動員により同校を仮卒業。翌年9月、飛行兵として出征中に同校を卒業する。45年8月、終戦により復員し染色活動に入る。46年10月第2回日展に染色屏風「やなぎ 利休屏風」で初入選。以後日展に出品し、56年第12回同展で「楽器」により北斗賞受賞。59年第15回日展に回転木馬などの遊園地風景を図案化した「遊園地」を出品して特選・北斗賞を受賞する。62年4月、東京新橋の全線画廊にて個展を開催。同年11月、母校である東京藝術大学に染色教室が設けられたことに伴い、同学講師となる。65年日展会員および現代工芸美術家協会評議員となる。67年東京藝術大学美術学部工芸科に染色講座が開設されるのに伴い、同科助教授となる。68年日本現代工芸美術東欧展に際し、現代工芸美術家協会代表委員として視察のために渡欧。78年東京藝術大学教授となる。80年2月日本橋高島屋美術画廊にて個展を開催し、同年9月には銀座ミキモト・ホールで開催された「現代の染色20人展」に参加する。また、同年3月現代工芸美術家協会理事となる。82年、出品を続けてきた日展の評議員となる。86年「中村勝馬・中村光哉二人展」を水戸甚デパートで開催。1989(平成元)年3月日本現代工芸美術展に「好日」を出品して内閣総理大臣賞受賞。84年より横須賀市に居住したことから90年、横須賀市の主催で「郷土ゆかりの芸術家シリーズⅤ」として「中村光哉染色作品展」を同市はまゆう会館で開催し、初期の作品から近作まで29点を展観した。年譜は同展図録に掲載されている。 染色技法は父中村勝馬に師事し、初期には蝋けつ染技法をよく用いたが後には友禅を得意とした。具象的モティーフを幾何学的にデフォルメする試みを初期から行い、昭和40年代後期には幾何学的抽象形体による構成をおこなったが、その後、雲、炎、波など不定形のモティーフを好んで主題とし、対象を写実的にとらえた上で形体を簡略化するとともに、色彩においても再現的表現からはなれて装飾的な色面構成を行うようになった。そうしたなかに雲形、鱗模様など伝統的文様をもとり入れ、伝統技法を用いながら、色彩と形体に斬新なデザイン性を融合させて、友禅染の世界に新たな展開をもたらした。横須賀市に居を写してからは海、船に取材した作品を多く制作している。作品集に『イメージを染める』(染色と生活社 1983年)、『中村光哉作品集―抽象と文様―』(京都書院 1985年)などがある。

帖佐美行

没年月日:2002/09/10

 彫金家で、文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員、日展顧問の帖佐美行が、9月10日、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年87。 1915(大正4)年3月25日、鹿児島県薩摩郡宮之城町生まれ。本名、良行。13歳の時に上京、1930(昭和5)年から38年まで彫金家小林照雲に師事、40年からは彫金家海野清に師事する。41年美術協会展で入賞(銀賞1、銅賞2)。42年第5回新文展に「銅芥子文花瓶」で初入選。54年第10回日展では「龍文象嵌花瓶」で、また翌55年第11回日展では「回想銀製彫金花瓶」で2年連続特選受賞。56年からは光風会会員となる(常務理事を経て86年退会)。57年からは日展審査員、58年からは日展評議員をつとめる。61年現代工芸美術家協会創設に参加する。62年第5回新日展では「牧場のある郊外」(愛知県貿易センター蔵)で文部大臣賞を受賞する。66年には、65年の第8回新日展に出品した「夜光双想(或るホールの為に)」(日本放送協会蔵)で日本芸術院賞を受賞。69年日展理事となる。74年日本芸術院会員となる。同年日本金工作家協会会長となる。78年には現代工芸美術家協会を退会し、日本新工芸家連盟を結成する。80年東大寺大仏殿の昭和大修理の落慶法要を記念し、奉賛荘厳具として「白鳳凰」(大花瓶一対)と「青龍」(大香炉)を制作し献納した。82年には日本新工芸家連盟の会長に就任。同年宮之城町名誉町民章受章。84年皇居新宮殿のために「和讃想」(彫金壺)を制作。85年「帖佐美行展:日本工芸界の巨匠」(読売新聞社主催、東京、山口、福岡、大阪、鹿児島、名古屋を巡回)。87年勲三等旭日中綬章受章、同年文化功労者となる。88年鹿児島県民特別賞。1990(平成2)年「帖佐美行展:彫金の芸術」(東京、名古屋、大阪を巡回)、91年「帖佐美行展:彫金:豪放と優美と」(世田谷美術館)。93年文化勲章受章。95年日展顧問となる。 42年の新文展初入選以来、新文展、日展を舞台に活動を展開した。1950年代後半からは建築装飾としての作品にも積極的に取り組み、壁面装飾用の大型パネルの制作を行った。従来、彫金で大型パネルの制作を行うことは稀だったが、帖佐は鉄パイプをつぶして接合した大型パネルを制作し注目された。1980年頃からは、香炉や花瓶などの器物に重点をおくようになる。ユニークな形の器の表面に鏨(たがね)を打ち込んで繊細な文様をあらわし、金色や緑青色や紅茶色や紫色などの着色をほどこした、詩情あふれる独自の作品世界を作り上げた。帖佐は彫金の技法を駆使し、生命や宇宙の神秘、自然の偉大さや崇高さなどといった壮大なテーマを、鳥や木などをモチーフに表現し、幻想的で詩情あふれる作品世界を展開させた。 著書・作品集には、『金工の詩:帖佐美行の芸術』(形象社 1976年)、『新工芸論:美にいきる』(形象社 1979年)、『美行素描』(形象社 1981年)、『彫金の華:帖佐美行作品集』(日本経済新聞社 1984年)、『千年の美:帖佐美行の世界』(清水光夫著、新評社 1995年)ほか。

中䑓瑞真

没年月日:2002/04/23

 人間国宝(重要無形文化財保持者)で社団法人日本工芸会参与の中䑓瑞真は、4月23日午後1時50分、老衰のため東京都港区の自宅で死去した。享年89。1912(大正元)年8月8日、千葉県に生まれる。本名・眞三郎。14歳で上京して指物師竹内不山に師事し、箱物や茶の湯の道具類の指物を修業、ともに桑や杉、桐等の各種素材を駆使した伝統的な指物や透彫り、刳物等の木工芸を修得することに努めた。1933(昭和8)年、独立自営した。この頃から茶道を田中仙樵に学び、棚物や箱物等の茶道具の制作をよく修業した。また独学で刳物の伝統的な技法を高め、特に銘木桐材による制作に個性的な妙技を発揮した。62年第9回日本伝統工芸展に初入選を果たし翌年奨励賞を受賞するなど活躍し、65年以降には再々鑑査委員や審査委員、そして理事・木竹部会長を務めるなどして伝統木工の発展に寄与した。1993(平成5)年日本伝統工芸展40周年記念表彰を受けた。84年重要無形文化財「木工芸」保持者の認定を受け、いっそう後進の育成にも尽力した。茶道具の制作にも卓越した技量を発揮したが、軟質で杢目や木肌に優れた会津や南部の樹齢幾百年もの桐材をもって、刀の巧みな彫刻技術の仕上げにより特有の美しい光沢を表し気品を持たせ、かつ専有の高度な技術と洗練された感覚で盛器や蓋物等に清新で独自の木工作品を制作した。89年喜寿記念、92年傘寿記念、そして99年にも茶の湯の炉縁を多く手がけた米寿記念の個展を開催するなど、稀有となりつつある桐材の制作を主とする木工芸に特異な活躍を示した。

山田光

没年月日:2001/11/29

 陶芸家の山田光は11月29日午後5時58分、肺炎のため京都市左京区の病院で死去した。享年77。1923(大正12)年12月23日、東京府豊多摩郡杉並町阿佐ヶ谷に生まれるが、関東大震災の混乱を避けるため、一家で岐阜県岐阜市大江町にあった母てつの実家に帰郷、翌年1月7日同地に生まれたとして届出された。1945(昭和20)年京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)窯業科卒業。この年、父喆(徹秀)とともに八木一艸宅を訪ね、八木一夫に会う。46年「青年作陶家集団」結成に参加。第1回日展、第2回京展に入選。48年京展賞および新匠賞を受賞。同年、「青年作陶家集団」を解散し、同年7月、叶哲夫、鈴木治、松井美介、八木一夫とともに前衛陶芸家集団走泥社を結成。戦後やきもののあり方を模索していた陶芸の世界に、オブジェという用途性をもたない新たな造形としての道を切り拓いた。オブジェ制作の初期には、ロクロでひいた壺の側面を切ってタタラを貼り付ける、花器をその用をなさないほどに口を狭める、あるいは口を塞ぐなど、器形に立ち向かうかのような試みを重ねた。55年、鈴木治との二人展(東京新橋・美松書房画廊)では当時の制作を語る上で重要な作品が発表された。50年代後半には形体分割によるキュビスム的志向を示したが、60年代に入ると、後の山田に特徴的な板状または帯状の陶板があらわれ、オリベや伊羅保などの釉薬や焼き締めといった表面への試行を続けながら、同時に土はより薄く少なくなり、素材がもつ力の限界に挑むような形体が現われた。61年日本陶磁協会賞受賞。またプラハ国際陶芸展(62年)やファエンツァ国際陶芸展(72年)など海外展への参加も少なくない。一方で、62年、八木とともに「門工房」を設立し、本格的にクラフトを手がけた。79年9月大阪芸術大学教授に就任し(~94年)、この頃から黒陶による制作をはじめる。87年からはパラジウムの銀泥、1994(平成6)年の個展ではパイプ状の形体も取り入れた作品を発表し、飄々としつつも理知的な山田独自の制作に透明感を増したさらなる境地を開いた。95年京都市文化功労者、第36回日本陶磁協会賞金賞受賞。98年京都美術文化賞受賞。1999~2000年「陶の標―山田光」展(伊丹市立美術館、岐阜県美術館、目黒区美術館)。日本クラフトデザイン協会名誉会員。

金森映井智

没年月日:2001/11/25

 金工作家で、彫金の重要無形文化財保持者の金森映井智は、11月25日午前11時20分、心不全のため富山県高岡市の病院で死去した。享年93。1908(明治41)年2月3日、高岡市母衣町(現京町)に七人兄弟の長男として生まれた。本名榮一。生家は仏事用の菓子の製造販売業を営んでいた。1920(大正9)年、小学校を卒業すると高岡の地場産業である銅器工芸で身を立てることを決意するが、高岡金工に新風を吹き込んだ富山県立工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)教師の内島市平のすすめで同校に入学する。ここで、彫金、鋳金、鍛金、板金など、金工の幅広い知識を習得する。また、日本画を中島秋圃に学ぶ。卒業後は内島の内弟子として二年間彫金技法を学び、職人ではなく作家としての道を歩む。1930(昭和5)年、商工省第17回工芸展覧会に初入選し、褒状受賞。また同年、工芸の革新を目指して高村豊周らが結成した无型展に入選。翌年、23歳で金工作家として独立する。33年、第14回帝展に「胴張型青銅花瓶」が初入選し、以来、帝展、文展、日展に入選を繰り返す。41年には母校に非常勤講師として迎えられ、公募展の入選を目指しながら多くの後進を育成。また、富山県や高岡市の美術工芸指導者として、県展や市展をはじめ、その他の美術展や美術団体でも活動を展開。戦後すぐの作品には、写生をもとにしてつくり出された具象的な草花文がよく用いられており、この時期の特徴となっている。57年からは日展を離れ、第4回日本伝統工芸展に「青銅瑞鳥香炉」を出品し初入選。以後は同展を舞台に、金、銀の線象嵌、布目象嵌による作品を発表。62年には日本工芸会正会員となる。69年、高岡市市民功労者表彰。翌年には県政功労者表彰を受ける。73年に号を映井智と改め、76年の第23回日本伝統工芸展では「鋳銅象嵌六方花器」が日本工芸会総裁賞を受賞。翌年、日本工芸会金工部会評議員。80年には鑑査委員と審査委員を務める。同年、勲四等瑞宝章受章。その翌年には日本工芸会理事に就任した。1989(平成元)年、「彫金」で富山県初の重要無形文化財保持者に認定される。90年には高岡市名誉市民の称号を受ける。91年、富山県民会館美術館で「金森映井智回顧展」が開催され、2003年には高岡市美術館において「金森映井智の偉業を偲んで」と題した没後初の回顧展が開催された。作品は鋳銅製で、その多くは花器であるが、花器には具象的な意匠は不似合いと考え、直線や曲線による幾何学的模様を意匠に用いた。高岡の伝統である浮象嵌を基本に、さまざまな象嵌技法を組み合わせて、現代感覚にあふれた重厚な作風で独自の世界を築き上げた。

藤原雄

没年月日:2001/10/29

 備前焼の陶芸家で国指定重要文化財保持者(人間国宝)の藤原雄は、10月29日午前6時34分、多臓器不全のため岡山県倉敷市の川崎医大付属病院で死去した。享年69。1932(昭和7)年6月10日、同じく備前の陶芸家で人間国宝となった父・藤原啓の長男として岡山県和気郡伊里村穂浪(現・備前市)に生まれる。55年、明治大学文学部を卒業後、一時みすず書房に編集者として勤務するが、父の看病のため岡山へ戻る。復帰した父の助手となり、備前焼の技法を学んだ。58年、第5回日本伝統工芸展に<備前壷>を出品し初入選、また第7回現代日本陶芸展でも入選を果たす。60年には、初の個展(岡山天満屋、東京日本橋三越)を開催。翌61年には日本工芸会正会員となり、またスペイン・バルセロナにおける国際陶芸展では、グランプリを受賞(63年)するなど、備前焼の俊英としての地歩を固めた。64年にアメリカ、カナダ、メキシコ、スペイン等の国々を廻り、各地で備前焼講座や個展(アメリカ、カナダ)を開催、同時に米国コロンビア大学における第1回国際工芸家会議で日本代表として備前焼の解説を行うなど、海外へ広く備前焼を紹介した。こうした経験は後年、備前焼を世界に普及するという雄の一貫した活動へと結びついていく。67年に独立。同年、日本陶磁協会賞を受賞。金重陶陽や父・啓たちが拓いた茶陶としての現代備前陶という認識から出発した雄は、備前の土味を生かし、穏やかで明快な器形に削ぎや透かし、箆目、線彫で作家の作為性を加味した作風を確立した。とくに壷の制作に焦点を絞り、「百壷展」(岡山天満屋 1972年、及び東京日本橋高島屋 1974年)を開くなど、どっしりとした豪放な壷で新境地を開拓した。「古備前と藤原啓・雄父子」展(パリ市立チェネルスキー美術館他 1976年)、「備前一千年、そして今、藤原雄の世界」展(韓国国立現代美術館 1988年)など海外での発表も積極的に行い、備前焼の発展と普及に貢献した。1996年、備前焼で重要無形文化財保持者の認定を受ける。98年、紫綬褒章受章。96年から99年まで倉敷芸術科学大学で芸術学部教授も務めた。主な作品集に『藤原雄 備前 作陶集』(求龍堂 1987年)、『藤原雄 陶の譜:作陶生活40周年記念』(藤原雄陶の譜刊行会 1995年)がある。

今泉今右衛門

没年月日:2001/10/13

 「色絵磁器」の重要無形文化財保持者で、日本工芸会副理事長の十三代今泉今右衛門は、10月13日午後4時26分、心不全のため佐賀県有田町の自宅で死去した。享年75。1926(大正15)年3月31日、佐賀県有田町に、色鍋島を家業とする十二代今泉今右衛門の長男として生まれ、善詔(よしのり)と通称する。同家は、江戸初期いらいの鍋島藩窯の流れを汲む陶家で、江戸時代には、上絵(赤絵・色絵)を専門とするいわゆる御用赤絵屋として、鍋島藩直営の色絵磁器・色鍋島の制作の一翼をになった。明治に入り、藩窯が解体されてからは、当時の当主十代今右衛門が、従来の分業体制にのっとった上絵専業の家業から、素地づくり、本焼、上絵にいたるまでの一貫制作体制へと転換を進めて、現在の今右衛門陶房の基礎を築く。父・十二代の時代には、「色鍋島」が無形文化財の指定を受け、さらに1971(昭和46)年には、十二代を代表とする色鍋島技術保存会が、重要無形文化財の保持団体として指定を受けている。明治以降、代々の当主によって続けられてきた、このような伝承技法保存の試みは、十三代にも受け継がれた。49年、東京美術学校工芸科卒業後は、家業に従事して家伝の技術を習得。52年頃から、大川内や有田町などの窯跡発掘調査に随行し、初期伊万里の陶片を多数、実見。鍋島以外の古陶磁に触れたことが、のちの独自の作風の開拓につながったと、後年みずから回顧している。古陶磁研究のかたわらで、公募展への出品を開始しつつ、自身の表現を模索。57年、日展初入選、以後、59まで日展に出品する。62年からは日本伝統工芸展に主たる発表の場を移し、以後毎年、出品を重ねた。65年、第12回日本伝統工芸展への出品作「手毬花文鉢」が日本工芸会会長賞を受賞。同年、日本工芸会正会員となった。75年6月、父・十二代の逝去により、十三代今右衛門を襲名。翌76年4月、十二代から継承した技術保存会を色鍋島今右衛門技術保存会として再組織、会長となって、文化庁から重要無形文化財「色鍋島」の総合指定を受けた。おおよそこの頃までの作品は、伝統的な色鍋島の様式を踏襲し、白磁、染付の素地に、赤、黄、緑の上絵という特徴的な賦彩をほどこしたものが多いが、写生にもとづく細密な描写や、余白を生かす動的な構成において、新しい意匠への試みが見てとれる。十三代襲名後の76年からは、コバルトの染付の絵具を吹きつける「吹墨」の技法を用いて濃淡に富む地文の表現を実現し、さらに78年には、貴金属を含んだ黒色の顔料を、吹墨と同様の技法で地文に用いる「薄墨」の技法を創案して、複雑な色彩効果をもつ新たな色絵の表現を確立した。この技法を用いた「色鍋島薄墨草花文鉢」が、79年の日本伝統工芸展でNHK会長賞を受賞、さらに81年の日本陶芸展で、同じく「色鍋島薄墨露草文鉢」が、秩父宮賜杯を受賞した。「薄墨」や「吹墨」のほか、中国・明代の緑地金彩にヒントを得て、緑の上絵具を地色として塗りこめる技法も好んで用い、白地や淡色地の多い従来の色鍋島に、新しい作風をもたらした。88年、毎日芸術賞、MOA岡田茂吉賞を受賞。1989(平成元)年3月には、「色絵磁器」の重要無形文化財保持者に認定された。同年、日本陶磁協会金賞受賞。99年には、勲四等旭日小綬賞を受賞。また93年より2001年まで、佐賀県立有田窯業大学校校長をつとめ、後進の育成に尽力したほか、96年、財団法人今右衛門古陶磁美術館を開館し、かつて蒐集した初期伊万里の陶片や、伝来の鍋島、近代以降の歴代今右衛門の作品などを展示して、近世色絵磁器の研究発展にも貢献した。なお、十三代の逝去により、次男の雅登が、02年に十四代今右衛門を襲名している。

鈴木治

没年月日:2001/04/09

 陶芸家で、戦後の日本の陶芸界をリードした走泥社の創立メンバーであり、京都市立芸術大学名誉教授の鈴木治は、4月9日午後1時10分、食道がんのため死去した。享年74。1926(大正15)年11月15日、京都市生まれ。生家のあった五条坂界隈は清水焼の中心地であり、父鈴木宇源治は永楽善五郎工房のろくろ職人であった。1943(昭和18)年京都市立第二工業学校窯業科卒業。戦後、46年中島清を中心に、京都の若手陶芸家が集まって結成された青年作陶家集団に参加。47年日展初入選。48年青年作陶家集団は第3回展をもって解散し、八木一夫、山田光らとともに走泥社を結成する。50年現代日本陶芸展(パリ)に出品、52年第1回現代日本陶芸展で受賞。54年第1回朝日新人展に、器の口を閉じた「作品」を出品する。用途をもたない、器の口を閉じた陶芸作品の出現は、陶芸の分野においては画期的な出来事であった。60年日本陶磁協会賞受賞。62年第3回国際陶芸展(プラハ)に「織部釉方壷」を出品し、金賞受賞。63年現代日本陶芸の展望展(国立近代美術館京都分館開館記念展)に「土偶」、翌64年現代国際陶芸展(国立近代美術館、東京)に「フタツの箱」を出品、いずれも白化粧の上に幾何学的な文様や記号をあらわした作品である。65年の個展以後は自らの作品を「泥像」と呼び、この頃から、信楽の土を主とした胎土の上に、赤化粧を施し、部分的にや灰をかけた焼き締め風の作品を制作する。67年個展に「馬」を出品、馬は鈴木にとって重要なモチーフであり、その後もしばしば馬を題材とした作品を制作する。70年ヴァロリス国際陶芸ビエンナーレ展(フランス)に「ふり返る馬」を出品し、金賞を受賞。71年走泥社東京展で青白磁(影青)の作品を出品、同年の個展で青白磁の「縞の立像」を出品。同年ファンツア国際陶芸展(イタリア)に「四角なとり」を出品、貿易大臣賞を受賞。79年京都市立芸術大学美術学部教授となる。82年個展に「雲」の連作を出品。83年の個展から、自らの作品に「泥象」という言葉を使いはじめる。「泥象」とは泥のかたちの意であり、人や動物だけでなく、雲や風や太陽といった自然現象をモチーフに制作を行う鈴木の造語である。同年、第7回日本陶芸展に「山の上にかかる雲」を出品、日本陶芸展賞を受賞。84年1983年度日本陶磁協会金賞、第一回藤原啓記念賞を受賞。85年毎日芸術賞を受賞。同年、伊勢丹美術館(東京)にて回顧展「泥象を拓く 鈴木治陶磁展」(大阪、岡山を巡回)が開催される。87年第五回京都府文化賞功労賞を受賞。同年、個展に「掌上泥象百種」、「掌上泥象三十八景」を出品。88年個展に、穴窯で制作した「穴窯泥象」を出品。1989(平成元)年「鈴木治展」(京都府立文化会館)が開催される。90年京都市立芸術大学美術学部長となる。92年京都市立芸術大学を退官、名誉教授となる。93年京都市文化功労者となる。94年紫綬褒章受章、第7回京都美術文化賞を受賞。98年第30回日本芸術大賞を受賞。同年、50周年記念’98走泥社京都展をもって走泥社は解散。同年、個展に「木」の連作を出品。99年第69回朝日賞、第17回京都府文化賞特別功労賞を受賞。同年、東京国立近代美術館工芸館にて回顧展「鈴木治の陶芸」展が開催される(福島、京都、広島、倉敷を巡回)。走泥社の創立メンバーであり、革新的陶芸の旗手として戦後を通じて日本の陶芸界の第一線で活動を続けた鈴木治は、馬や鳥、雲や太陽などをモチーフにした抽象的フォルムの詩情あふれる作品で高く評価される。『鈴木治陶芸作品集』(講談社 1982年)。

鴨政雄

没年月日:2000/12/06

 彫金作家の鴨政雄は12月6日午前1時37分、肺炎のため香川県高松市の病院で死去した。享年94。1906(明治39)年8月31日、香川県高松市に生まれる。彫金作家の鴨幸太郎は実兄。1925(大正14)年、香川県立工芸学校を卒業し上京。1930(昭和5)年、東京美術学校金工科を卒業して研究科に進学し、清水南山、海野清に師事(33年修了)。在学中の27年に北原千鹿らの「工人社」結成に参加し、新しい工芸を目指して制作活動を繰り広げる。足の切断で一時活動を休止したこともあったが、30年「彫金小筥」で第11回帝展に入選し、以後文展、日展を通じて入選を重ねる。戦前は飛行船や抽象文様などを用いた近代的な作風で注目された。43年に高松へ疎開し、戦後は高松で制作に励む。52年の「トカゲと蝶紋花瓶」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。59年から日展会員。66年に四国新聞文化賞を受賞し、67年から香川県明善短期大学にて教鞭を執る(69年から教授)。73年に山陽新聞文化賞を受賞し、同年香川県文化功労者表彰を受けた。85年、「彫金花瓶〈花と蝶〉」で第24回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞。1994(平成6)年には香川県文化会館で回顧展「彫金の世界・蝶と草花-鴨政雄展」が開催され、96年には北海道立近代美術館ほかを巡回した「日本工芸の青春期1920s-1945」展に出品した。日本美術工芸界の最長老のひとりとして、晩年の第32回改組日展(2000年)まで制作・発表を続けた。

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