本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





徳田八十吉

没年月日:2009/08/26

 彩釉磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の徳田八十吉は8月26日午前11時04分、突発性間質性肺炎のため石川県金沢市下石引町の金沢医療センターで死去した。享年75。1933(昭和8)年9月14日、石川県能美郡小松町字大文字町(現、小松市大文字町)に二代徳田八十吉の長男として生まれる。本名正彦。生家は、祖父の初代徳田八十吉(1873―1956)、父の二代徳田八十吉(1907―97)と続く九谷焼の家系で、初代八十吉は1953年に「上絵付(九谷)」の分野で国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定されている。古九谷再現のための釉薬の研究と調合に取り組んだ祖父と陶造形作家として日展を中心に作品を発表し富本憲吉にも学んだ父のもとで育った徳田は、52年4月に金沢美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)陶磁科へ入学、54年3月に同大学を中退し、父・二代八十吉の陶房で絵付技術を学び、55年の秋、病に倒れた祖父・初代八十吉から上絵釉薬の調合を任されて翌年2月祖父が亡くなるまでの数ヶ月間に釉薬の調合を直接教わった。本格的に陶芸の道に進む意志を固めたのは57年のこと。すでに1954年から日展に出品していたが、9度の落選を経験した後、63年第6回日展に「器「あけぼの」」を出品して初入選(以後6回入選)。初入選作品は鉢型の器の外面を口縁に沿って上から下に青、黄、緑、紺と色釉を塗り分けたもので、色釉のグラデーションを初めて試みたという点で重要である。しかし、後に代名詞となる「燿彩(ようさい)」に見られる自己の様式、すなわち特有の透明感のある色調と段階的な色彩の変化を確立するまでには、ここから80年代前半にいたる上絵釉薬の調製法と絵付・焼成法に関する研究、技の錬磨を必要とした。焼成法に関する大きな変化は電気窯の使用である。当初は父の薪窯(色絵付)で焼成をしていたが、薪窯の温度を上げることに限界を感じ、69年に独立して小松市桜木町に工房兼自宅を構えた際、電気窯による高温焼成を始めた。素地は1280度で固く焼き締めた薄い磁器を用い、色釉の美しさを効果的に見せるため、研磨の工程では器表面の微細な孔なども歯科医の用具にヒントを得た独自の手法で全て整えて平滑な素地を実現した。上絵付の焼成は1040度に達する上絵としては極めて高い温度で行い、ガラス釉の特質を活かした高い透明感と深みのある色調を表出した。色釉は古九谷の紫、紺、緑、黄、赤の五彩のうち、赤はガラス釉でないため使わず、残りの四彩を基本とし、少しずつ割合を変えて調合することで200を超える中間色の発色が可能になったという。こうした技術の昇華を経て生まれたのが「燿彩」という様式である。それは花鳥をはじめとする描写的な上絵付による色絵の世界を超えて、九谷焼が継承してきた伝統の色そのものの可能性を広げたいという探求心が結実した色釉のグラデーションによる抽象表現の極みであり、83年から「光り輝く彩」の意を込めたこの作品名を使うことが多くなった(2003年の古希記念展の後は「耀彩」と表記)。71年の第18回日本伝統工芸展に初出品して「彩釉鉢」でNHK会長賞を受賞、翌年に日本工芸会正会員となる(以後38回入選)。77年の第24回日本伝統工芸展に「燿彩鉢」を出品して日本工芸会総裁賞、81年の第4回伝統九谷焼工芸展に「彩釉鉢」を出品して優秀賞、1983年の第6回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉組皿」を出品して九谷連合会理事長賞、84年の第7回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉線文壺」を出品して大賞、85年に北国文化賞、86年に日本陶磁協会賞、同年の第33回日本伝統工芸展に「燿彩鉢「黎明」」を監査員出品して保持者選賞、88年に第3回藤原啓記念賞、1990(平成2)年に小松市文化賞、同年の’90国際陶芸展に「燿彩鉢「心円」」を出品して最優秀賞、1991年の第11回日本陶芸展に「燿彩鉢「創生」」を推薦出品して最優秀賞(秩父宮杯)、93年に紫綬褒章、97年にMOA岡田茂吉大賞などを受賞。86年に石川県九谷焼無形文化財資格保持者、97年に国の重要無形文化財「彩釉磁器」保持者に認定された。94年6月に日本工芸会理事(~2004年6月)、98年4月に日本工芸会石川支部幹事長(~2006年4月)、2004年6月に日本工芸会常任理事(~2008年6月)に就任。97年には小松市の名誉市民に推挙された。05年に九谷焼技術保存会(石川県無形文化財)会長、07年1月に小松美術作家協会会長、同年3月に財団法人石川県美術文化協会名誉顧問に就任。海外展への出品も多く、91年に国際文化交流への貢献が認められ外務大臣より表彰された後も07年の大英博物館「わざの美 伝統工芸の50年展」にともなって「私の歩んだ道」と題する記念講演を行うなど最晩年まで貢献を続けた。没後の10年7月22日から9月6日に石川県立美術館で「特別陳列 徳田八十吉三代展」(同館主催)、11年1月2日から12年1月29日に横浜そごう美術館、兵庫陶芸美術館、高松市美術館、MOA美術館、茨城県陶芸美術館、小松市立博物館、小松市立本陣記念美術館、小松市立錦窯展示館で「追悼 人間国宝 三代徳田八十吉展―煌めく色彩の世界―」(朝日新聞社・開催各館主催)が開催された。

高橋敬典

没年月日:2009/06/23

 鋳金家で茶の湯釜の重要無形文化財保持者である高橋敬典は6月23日、慢性腎不全のため自宅で死去した。享年88。1920(大正9)年9月22日、山形市銅町に父高橋庄三郎、母ちよの一人息子として生まれる。本名高治。1938(昭和13)年、父の営んでいた鋳造業「山正鋳造所」の家業を継ぐ。始めは様々な鋳物を制作していたが、50年に漆芸家結城哲雄の招きで鋳造の制作指導に山形に来た初代長野垤至に師事し、この頃から和銑(わずく)を用いた茶の湯釜制作を行なう。51年、第7回日展に初出品した「和銑平丸釜地文水藻」が入選し、以後も日展に出品を続け入選を重ねた。その後発表の場を日本伝統工芸展に移し、63年の第10回日本伝統工芸展で「砂鉄松文撫肩釜」が奨励賞を受賞し、76年には「甑口釜」でNHK会長賞を受賞する。師であった長野垤至が芦屋釜、天明釜などの茶の湯釜を歴史的に研究したため、敬典もこうした古作の表現法を研究するとともに、材料の鉄も砂鉄から製鉄した和銑にこだわり、また地元の馬見ケ崎川で採集した川砂や土を用いて鋳型作りを行なった。作風は古作を研究したといっても、芦屋釜の真形(しんなり)、天明の形にはまった作はほとんどなく、垤至の進めた斬新な造形を受け入れ、肌はきめ細やかな絹肌か、あるいは砂肌とした綺麗なものが多い。また地文は肌の美しさを強調するため施さないものが多いが、波や松、竹などを全面ではなく控えめに配した作、あるいは細い筋を入れた作を残している。1992(平成4)年、勲四等瑞宝章を受章、96年、茶の湯釜で国の重要無形文化財に認定された。代表作に文化庁買上の「波文筒釜」(1971年・東京国立近代美術館)、「平丸釜」(1999年・東京国立博物館)。

中里逢庵

没年月日:2009/03/12

 陶芸家で日本芸術院会員の中里逢庵は3月12日午後1時31分、慢性骨髄性白血病のため唐津市内の病院で死去した。享年85。1923(大正12)年5月31日、佐賀県唐津町で父重雄(重要無形文化財「唐津焼」保持者・12代中里太郎右衛門)、母ツヤの長男として生まれ、忠夫と命名される。小学校を出ると、「絵の描けない陶工は出世できん。美術学校に入って絵を習え。そのために有田工業よりも唐津中学の方がよかろう」という親の意見で、県立唐津中学を経て官立東京高等工芸学校工芸図案科(現、千葉大学工学部)に学んだ。1943(昭和18)年、宮崎の航空教育隊に入営。45年5月頃、所属した中隊は台湾の台北空港に展開、終戦後は台中に帰り、捕虜生活を送った。46年に台湾より復員。その年、陶芸家の加藤土師萌が北波多村の岸岳古窯跡の調査に来唐、加藤から作陶の基本を学ぶ機会を得た。また、度々父とともに桃山時代の古唐津の古窯跡の調査を行い、古唐津を再現した父の後を受け、古唐津の叩き・三島・鉄絵の技法などの陶技を習得、さらには古唐津風の作風から飛躍した独自のスタイルの模索へと向かった。父・無庵(12代太郎右衛門)は途絶えてしまっていた古唐津の技法を、古窯跡から出土する古陶片に学ぶことにより、現代によみがえらせている。そして、昭和初期の頃まで唐津焼の主流だった京風の献上唐津を一変させ、現代での唐津焼のスタンダードというべき桃山時代の古唐津風のスタイルを確立した。その功績が認められ、76年に無庵は重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けている。忠夫と弟の重利、隆の三兄弟は、いわば再興された古唐津を受け継ぐ第二世代であった。第一世代の父・無庵は古唐津再興によって高く評価された。第二世代は古唐津を再興した父からバトンを受け、次なる新たな唐津焼の創造という宿命を背負わされていたのである。51年、第7回日本美術展で忠夫の陶彫「牛」が初入選。以降、日本美術展を舞台に連続十回の入選を果たす。56年の第12回日本美術展で「陶・叩き三島壺」が北斗賞を受賞。57年、第8回日本美術展入選の陶彫「羊」がソ連文化庁買い上げ、58年、第1回日展にて叩き壺「牛」が特選を受賞した。61年、第3回日展入選の「壺」が社団法人日本陶磁協会賞を受賞。65年、現代工芸美術協会ベルリン芸術祭視察団の一員として外務省派遣となり、ヨーロッパ、中近東諸国を40日間歴訪、その見聞をもとに昭和40年代にはトルコブルーの青釉による「翡翠唐津」の作風を創作した。69年、父12代中里太郎右衛門の得度により、13代中里太郎右衛門を襲名。この頃より韓国、台湾、タイ、マレーシア、インドネシアなどの海外を視察し、各地から出土する唐津焼や叩きの技法を調査し始める。71年にはタイ北部、チェンマイ市郊外のカンケオ村で作陶し、1996(平成8)年までいわゆる「ハンネラ」スタイルの水指・花生等をつくった。81年の第13回日展に出品した「叩き唐津三島手付壺」が内閣総理大臣賞、84年の第15回日展に出品した「叩き唐津手付瓶」も第40回日本芸術院賞を受賞、85年には日展理事に就任する。92年に佐賀県重要無形文化財に認定される。また、作陶の傍ら唐津焼の起源を精力的に研究したことでも知られ、東南アジアなど各地を踏査して叩き技法のルーツを調査し、『陶磁大系13唐津』(平凡社、1972年)、『日本のやきもの14唐津』(講談社、1976年)、『日本陶磁大系13唐津』(平凡社、1989年)などに論文を積極的に発表、2004年には博士論文「唐津焼の研究」を京都造形芸術大に提出、博士号を取得した。07年に日本芸術院会員になったほか、日本工匠会会長なども務めた。02年には京都・大徳寺で得度、「太郎右衛門」の名跡を長男忠寛(14代)に譲り、以後は「逢庵」として制作を続けていた。中里逢庵の一生を振り返ると、古唐津再興をなした父・無庵の跡を継ぎ、伝統ある中里家を維持していくために古唐津スタイルを堅持しながらも、芸術性の高いモダンな唐津焼を求めていった。生業と芸術の間を揺れ動き、陶芸家および陶磁研究者としても粉骨砕身した一生と言えよう。

青木龍山

没年月日:2008/04/23

 陶芸家で文化勲章受章者の青木龍山は4月23日午後11時10分、肝不全により死去した。享年81。1926(大正15)年8月18日佐賀県西松浦郡有田町外尾山の青木兄弟商会(陶磁器製造販売会社)を経営していた父重雄、母千代の長男として生まれる。1933(昭和8)年、外尾尋常小学校入学、13歳で卒業、父から将来焼き物で身をたてようと思うなら佐賀県立有田工業学校(現、佐賀県立有田工業高校)に進学した方がいいとの助言を受け、同学に入学。4年間、図案科にて日本画、デザイン、陶画を学ぶ。当時、1学年上級に第14代今泉今右衛門がおり、交流を深めたという。43年、卒業と同時に東京美術学校を受験した際に、身体検査で胸部疾患と診断され不合格となる。徴兵検査も不合格となり兵役を免れる。胸部疾患も健康的な生活を送るうちに治癒し、47年、東京多摩美術大学(現、多摩美術大学)日本画科に入学。51年卒業すると同時に、神奈川県の法政大学第二高等学校および法政大学女子高等学校の美術教師となり勤務する。2年後、祖父の興した青木兄弟商会に入る。父の経営する同商会は戦後の混乱から経営状態が厳しく、新しい時代に適応した経営感覚と技術の導入が必要と考えた父に呼び戻された。この際、勢いよく、大きく躍動する龍にあやかりたいとの願いを込めて龍山を名乗る。会社では絵付けを担当し、ベストセラー商品にも携わる。この頃より有田焼の香蘭社の9代深川栄左衛門の女婿であった水野和三郎に師事。同時期、佐賀県は窯業の振興のため後継者育成事業として轆轤の実技指導を行う。龍山もこの事業で、磁器大物成型の轆轤で記録措置を講ずべき無形文化財に選択された初代奥川忠右衛門に轆轤技術を学ぶ。帰郷した同年、有田陶磁器コンクールで1等受賞。翌年には同展で知事賞を受賞する。そして秋に第10回日展に染付「花紋」大皿を初出品し入選。55年、田中綾子と結婚し、夫婦での作陶生活が始まる。56年、青木兄弟商会は有田陶業と改名するも倒産し、会社の窯が使えなくなる。以降、63年に伯父の資金協力を得て自宅に念願の窯を持つまで仮窯生活を送る。その後は、フリーの陶磁器デザイナーとして生計を立てながら日展入選を目指し、個人作家として生きる道を決意する。当初は染付、染錦の作品での出品が多いがその後制作の重心を天目へと定めていく。日展へは毎年出品し、入選、特選候補となるが特選とならずに創作活動に悩む。71年、第3回日展において「豊」が特選。翌年より日展に出品する作品は天目による「豊」シリーズが多くなる。73年、第12回日本現代工芸美術展で「豊延」が、会員賞および文部大臣賞受賞。81年、社団法人日本現代工芸美術家協会理事に就任。81年、社団法人日展会員。88年、第27回日本現代工芸美術展で天目「韻律」が、文部大臣賞受賞。同年、社団法人日展評議員に就任。翌年、横浜高島屋にて「青木龍山・清高父子展」を開催。1991(平成3)年、第22回日展出品作「胡沙の舞」にて日本芸術院賞受賞、日展理事に就任する。東京高島屋において、第30回記念日本現代工芸美術秀作展及び選抜展に出品。フランクフルト工芸美術館(ドイツ)における海外選抜展に父子ともに出品が決定する。佐賀県政功労者文化部門にて知事表彰、佐賀新聞社芸術部門の佐賀新聞文化賞を受賞。93年には博多大丸において個展を開催、日本芸術院会員に就任。第52回西日本文化賞受賞。社団法人日本現代工芸美術家協会副会長、及び社団法人日展常務理事に就任する。博多大丸にて日本芸術院会員就任記念「青木龍山回顧展」を開催。同年、日展審査員を委嘱、翌年には日本橋三越特選画廊にて個展を開催。95年、『日本芸術院会員 青木龍山 ひたすらに』を佐賀新聞社より刊行。97年、三越にて「青木龍山作陶展」開催。99年、文化功労者となる。2000年、佐賀大学文化教育学部美術工芸科客員教授に就任。大英博物館で開催された佐賀県陶芸展に天目「春の宴」と油滴天目「茶盌」を出品。同年、『陶心一如青木龍山聞書』(荒巻喬、西日本新聞社)を刊行。05年、佐賀で初めて文化勲章を受章する。

辻清明

没年月日:2008/04/15

 陶芸家の辻清明は4月15日肝臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年81。1927(昭和2)年1月4日東京府荏原郡(現、東京都世田谷区)に生まれる。少年の頃より陶芸に興味を持ち、11歳のときより轆轤を学ぶ。41年、14歳の時には姉・輝子とともに辻陶器研究所を設立し、倒焰式窯を築く。また、この頃から富本憲吉や板谷波山のもとで学ぶ。43年、高島屋でやきものの文房具類を常設展示。徴用で立川の日立航空機の工場で働く。48年、富本憲吉を中心とする新匠美術工芸会展に出品。同年、札幌の北海道拓殖銀行ロビー、丸井デパートで個展を開催。49年、新たにガス窯を築き低火度色釉を施した作品の試作に成功。51年、同志と「新工人」会を設立し、以後約十年にわたって活動する。52年、第一回新工人展を開催。同年、光風会展に出品し、2年連続で光風会展出品工芸賞受賞。53年、1月和田協子(協)と結婚。漆工芸家であった協子も新工人のメンバーであった。55年多摩市連光寺の高台に辻陶器工房を設立し、3室の登窯を築窯。信楽土で自然釉の掛かった作品を作り始める。同年、現代生活工芸協会賞を受賞。56年、朝日新聞社主催現代生活工芸展審査員、62年妻の協子とともに、辻清明・辻協新作陶芸展を日本橋三越で開催し、以降たびたび二人展を行う。翌年から画廊現代陶芸代表作家展等に出品する(75年まで)。63年、五島美術館にて個展を開催、アメリカ合衆国・ホワイトハウスに「緑釉布目板皿」を納める。64年、日本陶磁協会賞を受賞、現代国際陶芸展招待出品。65年日本陶磁協会賞受賞作家展に出品する。以降2006年まで毎年出品する。同年にはアメリカ・インディアナ大学美術館に「信楽自然釉壺」を納める。67年、米国ペンシルバニア州立大学美術館に「信楽窯変花生」が所蔵される。68年には京都国立近代美術館および東京国立近代美術館主催「現代陶芸の新世代」展に招待出品。69年、三越日本橋店にて「辻清明陶芸二十五周年展」を開催する。翌年、京都国立近代美術館に「信楽壺」が所蔵される。70年、東京国立近代美術館に「球と方形の対話」が買上、京都国立近代美術館主催「現代の陶芸展―ヨーロッパと日本―」展に招待出品。翌年より2005年まで毎日新聞社主催「日本陶芸展」に招待出品、第1回、第2回海外巡回展に選抜される。73年西ドイツのヘニッシ画廊にて個展を開催、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に「茶盌」を納める。その年より75年まで「現代選抜陶芸展」に出品、74年には迎賓館が作品を買上、「ファエンツァ国際陶芸展」に招待出品。76年、「作陶三十五周年記念 辻清明」展を日本橋壺中居にて開催。78年、小田急百貨店画廊にて個展を開催。翌年、日本経済新聞社主催「信楽展」に実行委員として関わり、自身も出品。80年、日本経済新聞社主催「現代陶芸百選展」出品。「炎で語る日本のこころ―辻清明作陶展」を新宿・小田急百貨店にて開催。82年、西武美術館主催の作陶四十五周年記念「炎の陶匠 辻清明」展を開催する。83年日本陶磁協会賞金賞を受賞。86年、作陶五十年記念『辻清明作品集』(講談社)を刊行。87年、多摩の工房が周囲の開発により仕事への支障が懸念されたため長野県穂高町に工房と登り窯を完成させる。しかし、2年後に工房と母屋が蒐集した工芸品・書籍と共に焼失。1990(平成2)年、藤原啓記念賞を受賞する。91年、「辻清明の眼 ガラス二千年展」(清春白樺美術館)では江戸切子などのガラスコレクションを展観、同年自身で制作したガラス器展を銀座の吉井画廊で開催。93年、NHK教育テレビの趣味百科「やきものをたのしむ」に夫婦で出演。96年、『焱に生きる 辻清明自伝』(日本経済新聞社)を刊行。2003年ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の「日本―写真と陶芸―伝統と現代」展に招待出品。06年、東京都名誉都民となる。翌年、「美の陶匠 辻清明傘寿展」を大阪梅田阪急にて開催。精力的な活動は没後の10年刊行の『独歩 辻清明の宇宙』(清流出版株式会社)に詳しい。女性で初めて日本陶磁協会賞を受賞した妻、協子も08年、7月8日肝臓がんのため死去。享年77。

森口華弘

没年月日:2008/02/20

 友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)である森口華弘(本名平七郎)は2月20日午後4時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1909(明治42)年12月10日、滋賀県野洲郡守山町に父周次郎、母とめの三男として生まれる。本名は平七郎。1921(大正10)年3月、守山尋常小学校(現、守山市立吉身小学校)を卒業。24年、母の従兄坂田徳三郎の紹介で友禅師・三代中川華邨に師事し、その一方、華邨の紹介で疋田芳沼に就いて日本画を学ぶ。1934(昭和9)年、師の華邨の作風をひろめるという意味を込めて坂田徳三郎により名付けられた雅号「華弘」を用いる。2年後、1月8日に林智恵と結婚、中川家を出て一家を構え、39年1月には独立して工房をもつ。これに前後して華弘の代表的な技法である「蒔糊(まきのり)」の着想が生まれる。「蒔糊」の技術は、東京国立博物館で目にした江戸時代の撒糊技法が施された小袖と漆蒔絵の梨子地から、江戸時代より伝わる撒糊技法と漆芸の蒔絵技法と組み合わせることを着想したという。41年には丸川工芸染色株式会社に取締役・技術部長として勤務。しかし、戦争下、贅沢品禁止令、企業整備令の施行や社員の軍事工場への徴用の中、友禅の仕事は続けられなくなる。戦後、友禅の仕事を徐々に再開し、49年には市田株式会社主催の柳選会に参画、52年には京都工人社に加わり伝統工芸の保護・育成にも携わる。55年、第2回日本伝統工芸展に蒔糊を施した友禅着物「おしどり」「早春」「松」を出品し、全作入選。そのうち「早春」は朝日新聞社賞を受賞。56年、第3回日本伝統工芸展で友禅着物「薫」が文化財保護委員会委員長賞を受賞し、日本工芸会正会員となる。翌年から同展鑑査員に就任。58年には第1回個展を東京日本橋三越にて開催(以後毎年開催)。翌年、全国絹製品競技大会で通産大臣賞を受賞。60年、京都新聞文化賞を受賞。この頃から社団法人日本工芸会理事として活躍。62年には常任理事となる。翌年、「現代日本伝統工芸展」(オランダ・西ドイツ)に出品。67年、57歳の若さで国の重要無形文化財保持者に認定される。同年、「近代日本の絵画と工芸」展(京都国立近代美術館)に出品。70年には社団法人日本工芸会副理事長就任。翌年、紫綬褒章を受章、その後73年には第20回日本伝統工芸展に友禅着物(梅華文様)を出品、20周年記念特別賞を受賞。同年、「現代日本の伝統工芸展」(中国展観記念)に出品。翌年、京都市文化功労賞受賞後、「京都近代工芸秀作展」「現代日本の伝統工芸展」(ポルトガル・オーストリア・イタリア・スペイン)等に出品。76年『友禅―森口華弘撰集』(求龍堂)を刊行、「森口華弘五十年」(東京・京都 日本経済新聞社主催)を開催。80年、勲四等旭日小綬章を受章。同年、「染と織―現代の動向」展、翌年、「現代工芸の精華―京都作家秀作」展に出品。82年には「友禅・人間国宝 森口華弘展」(石川県立美術館)が開催。「人間国宝展米国展」(ボストン・シカゴ・ロサンゼルス)にも出品。翌年からも多くの作品を展覧会に出品し、「伝統工芸30年の歩み」展(東京国立近代美術館)、「現代日本の工芸―その歩みと展開」展(福井県立美術館)、「京都国立近代美術館所蔵 近代京都の日本画と工芸」展(群馬県立近代美術館)等に出品。特に85年「現代染織の美―森口華弘・宗廣力三・志村ふくみ展」(東京国立近代美術館 日本経済新聞社主催)、翌86年「人間国宝・友禅の技 森口華弘展」(滋賀県立近代美術館)と森口の歴史を振り返るような内容の展覧会も開催される。87年、京都府文化特別功労賞を受賞。その後も、「近代の潮流・京都の日本画と工芸」展(京都市美術館)、「人間国宝・友禅 森口華弘」展(守山市民ホール)、「染織の美―いろとかたち―」展(新潟市美術館)等に出品。1994(平成6)年には「伝統と創生 友禅の美 森口華弘・邦彦展」(大阪・京都大丸、読売新聞社主催)において父子の作品を一堂に展観する。翌年、滋賀県守山市の名誉市民第一号の称号を受ける。98年にはポーラ文化賞を受賞。翌年からも「京友禅―きのう・きょう・あした」展(目黒区美術館)、「開館30周年記念展Ⅰ工芸館30年のあゆみ」(東京国立近代美術館工芸館)等に出品。2007年、息子森口邦彦が友禅の重要無形文化財保持者に認定され、父子ともに友禅の重要無形保持者となる。没後の09年4月、「森口華弘・邦彦展―父子、友禅人間国宝」が滋賀県立近代美術館、東京日本橋三越にて開催される。

羽田登喜男

没年月日:2008/02/10

 友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の羽田登喜男は2月10日午後10時22分、肺炎のため京都市上京区の病院で死去した。享年97。1911(明治44)年1月14日、石川県金沢市に造園師・羽田栄太郎の三男として生まれる。1925(大正14)年、隣家の南野耕月に加賀友禅を学ぶ。1931(昭和6)年、京都にて同郷の曲子光峰に京友禅を学ぶ。以降、羽田は生涯にわたり京都で制作を行う。金沢では加賀友禅の下絵、糊置き、色挿し等一連の作業の基礎を習得し、京都では京友禅のみならず、美術工芸品の鑑賞など文化に触れることの重要性を学んだという。一般的に京友禅は工程が分業されているが、羽田はすべての工程を自身で行う制作態度をとった。43年には政府認定の京都友禅技術保存資格者となり、戦中も作品を制作。55年、第2回日本伝統工芸展において訪問着「孔雀」が初入選。翌年出品した友禅訪問着「雉子」「鴛鴦」で初めての連作が試みられる。その後も春秋をテーマに連作を残す。57年には社団法人日本工芸会正会員となり、62年には理事に就任。71年、日本伝統工芸展審査員に就任。76年には第23回日本伝統工芸展で「白夜」が東京都教育委員会賞を受賞。同年、藍綬褒章を受章。78年、京都府美術工芸功労者表彰を受ける。79年に紺綬褒章、82年に勲四等瑞宝章を受章。同年、祇園祭蟷螂山の前掛「瑞祥鶴浴之図」を制作。84年にも祇園祭蟷螂山の胴掛2面「瑞光孔雀之図」と「瑞苑浮遊之図」を制作する。86年、京都府より英国王室ダイアナ皇太子妃に贈られた振袖「瑞祥鶴浴文様」を制作。88年、友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。同年、社団法人日本工芸会参与。90年、京都府文化功労賞特別賞受賞、京都市文化功労者表彰を受ける。翌年、祇園祭蟷螂山見送り「瑞苑飛翔之図」を制作。92年より翌年にかけて「友禅 人間国宝 羽田登喜男」展を石川県立美術館と京都市美術館にて開催。初期の作品から最近作までの約70数点が展観された。96年、フランスのリヨン染織美術館にて「羽田家のキモノ」展が開催。99年には祇園祭蟷螂山水引「吉祥橘蟷螂図」を制作、献納。2004年、祇園祭蟷螂山後掛「瑞兆遊泳之図」を献納し全懸装品を制作完納する。これらの制作には後継者である息子羽田登も携わり、その技術伝承に努める。07年10月10日、高齢のため制作活動を終了。羽田は、「着物は身につけて初めて完成するもので、主役である女性をいかに美しくひきたたせるかが大切」と常々語り、着装を意識した制作を心がけたという。著作に『羽田登喜男作品集』(八宝堂、1966年)、『春秋雅趣』(フジアート出版、1981年)、『春秋雅趣 二』(フジアート出版、1989年)、『遊於芸』(フジアート出版、1992年)などがある。

島岡達三

没年月日:2007/12/11

 益子焼の陶芸家で、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)の島岡達三は12月11日午後11時5分、急性腎不全で死去した。享年88。1919(大正8)年10月27日、東京市芝区愛宕町の三代続く組紐師米吉と妻かうの長男として生まれる。父の勧めで1936(昭和11)年東京府立高等学校高等科理科に学び、39年東京工業大学窯業学科に入学、陶磁器を専攻する。東工大の前身、東京高等工業学校には、教官に板谷波山、卒業生に濱田庄司、河井寛次郎らがいた。入学後、益子に濱田を訪ね卒業後の入門を許される。その際に濱田は島岡に対し「大学にいる間から轆轤の勉強をしなさい」と助言をしている。その言葉通り、大学一年の夏期休暇は岐阜県駄知の製陶所で轆轤技法習得、二年目は夏期休暇の前半を益子の小田部製陶所で修行、後半を濱田の勧めで大阪を拠点に西日本の民窯を巡る。三年目には沖縄の壷屋で学ぶ予定となっていたが、太平洋戦争の影響で断念せざるを得なかった。41年大学を繰り上げ卒業し、翌年軍隊へ入営、その翌年にはビルマへ出征。45年ビルマで終戦を迎え、タイのナコンナヨークの捕虜収容所に入る。翌年に復員すると両親を伴い益子の濱田へ弟子入りを果たす。年に6~8回は登り窯を焚く濱田のもとで、昼間は土作りに始まる下仕事に取り組む。50年、濱田の世話で益子の栃木県窯業指導所の試験室へ技師として入所。この指導所時代、粘土や釉薬を徹底的に研究することができたという。また、この時代に濱田に学校教材として販売する複製品の原型作りの仕事が舞い込む。島岡は濱田について古代土器を学ぶために各地の博物館や大学へ赴く。特に東京大学理学部では縄文土器の第一人者である山内清男講師から縄文加工法を学ぶ。この時の経験が島岡の縄文象嵌の着想に大いに役立つ。53年指導所を退職し、独立すると濱田邸の隣に窯を築く。翌年、東京いずみ工芸展で初個展。濱田と同じ土を使い、同じように窯詰めをすると自ずと濱田と同じような作品が生まれる。島岡は名もない職人的な仕事をしようと考えていたが、濱田は個人作家として自分のものを作るように諭した。濱田のこの指摘と朝鮮李朝の古典的な彫三島の技法が縄文象嵌の着想となった。縄文象嵌は縄文土器に見るような縄目部分に泥將を埋め装飾する技法である。島岡は組紐師である父親に紐を組んでもらい素地に転がし加飾した。60年から縄文象嵌技法を本格的に行い、この技法に地元の素材を使った柿釉や黒釉などの六種の釉薬と、独自に工夫した釉薬を組み合わせ多彩な表現を展開していく。その後、個展を東京丸ビルの中央公論社画廊、大阪阪急百貨店、広島福屋等で開催。62年には日本民藝館新作展にて日本民藝館賞受賞。64年にはカナダ・アメリカで個展並びに作陶指導を行う。その後も海外での活躍が続き、68年にはロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ渡米、72年にはオーストラリア政府の招聘で渡豪、視察指導をする。74年にはボストンでの個展、トロントでの講義のため、アメリカ・カナダへ歴訪。その後も精力的な活動を続け、多くの展覧会へ出品し活躍を続ける。80年、栃木県文化功労章を受章。1994(平成6)年には日本陶磁協会賞金賞を受賞。若くから陶芸指導や講演などの後継者育成や陶芸普及に尽力し、96年にはNHK教育テレビ趣味百科「陶芸に親しむ」に講師として出演、同年、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)に認定される。その後、97年には益子町陶芸メッセにて「重要無形文化財保持者認定記念島岡達三展」、98年には銀座松屋にて「傘寿記念―陶業55年の歩み島岡達三展」を開催する。99年には文化庁企画制作の工芸技術記録映画「民芸陶器(縄文象嵌)―島岡達三の技―」が完成。同年、勲四等旭日小綬章を受章、2002年栃木名誉県民の称号を授与される。翌年、第40回記念島岡達三陶業展を松屋銀座にて開催。執筆作品に『カラーブックス日本の陶磁7 益子』(保育社、1974年)、NHK趣味入門『陶芸』(日本放送出版協会、1998年)がある。

江里佐代子

没年月日:2007/10/03

 截金師で人間国宝の江里佐代子は、滞在先のフランス東北部アミアンで10月3日、脳出血のため死去した。享年62。1945(昭和20)年7月19日、京都市の刺繍工芸京繍の老舗に生まれる。64年に京都市立日吉ヶ丘高校美術課程日本画科、66年に成安女子短期大学意匠科染色コースを卒業。74年に仏師江里康慧と結婚したことで、工房に出入りする職人から技術を学び始め、夫康慧がつくる仏像に彩色や金泥をほどこした。その後、江里は、截金技法が途絶えることを危惧していた江里家の希望をくみ、78年に北村起祥のもとに弟子入りして截金の技法を学んだ。截金は、本来、仏像や仏画を荘厳する技法であるが、江里はそれを棗、香盒、筥などの工芸品に応用し、截金技法の新しいあり方を追求していった。そうした工芸品の小さな平面には、金、銀、プラチナなどの截金線や截箔が自在に組み合わされて精緻かつ可憐な文様に結実し、完結した小世界が生み出されている。自身は、あるインタビューのなかで、高校や大学では日本画家を目指したが、女流画家の道は厳しいため、身近であった工芸美術の分野に進もうと考えていたと語っている。江里がかねてから抱いていた希望と新たに習得した截金技法とが見事に結びつき、伝統技法が現代に息を吹き返したと言えるだろう。江里は、81年のアメリカ・サンタフェでの「截金展」をかわきりに個展を開き、作品を発表していった。最初の3回までは工芸の個展であったが、1990(平成2)年からは夫康慧と合同で作品を発表し始め、伝統技法の原点と発展との二つの側面が伝えられるよう努めたという。公募展にも積極的に参加しており、82年の京都府工芸美術展では、初出品にして截金彩色屏風「萬象放輝」が大賞に選ばれたのをはじめ、86年の京展には截金衝立「コスミックウェーブ」を出品し、京都市市長賞を受賞した。83年、第30回日本伝統工芸展で、截金彩色飾小筥「たまゆら」が初入選、以降、毎年連続出品した。91年、同展において、截金彩色八角筥「花風有韻」が最高賞の日本工芸会総裁賞、2001年には截金飾筥「シルクロード幻想」が高松宮記念賞を受賞した(いずれも文化庁所蔵)。この間、86年に日本工芸正会員に認定、93年には、第40回日本伝統工芸展鑑査員、また04年には第51回同展鑑・審査員を務めている。90年「心と技―日本の伝統工芸」(北欧巡回展、文化庁主催)、「江里佐代子截金展」(ドイツ・フランクフルト JALプラザ)など国外の展覧会にも出品、截金の実演を披露するなど、よりひろく截金の魅力を伝えた。2000年以降、江里は、次々と截金の新たな展開と可能性を追求していった。頻繁に使用される香盒や棗などには、金箔が矧がれるのを防ぐために截金と漆芸を融合させた技法を応用。また、公共施設などの壁面装飾やスクリーンなどの大規模な作品にも、意欲的に取り組んだ。2000年には第13回京都美術文化賞受賞、02年に重要無形文化財「截金」保持者(人間国宝)に認定されたが、当時最年少での人間国宝認定であった。同年、第22回伝統文化ポーラ賞、03年第21回京都府文化賞功労賞、06年京都市文化功労者受賞ほか受賞多数。05年「金箔のあやなす彩りとロマン―人間国宝江里佐代子・截金の世界展」(佐野美術館ほか巡回)を開催した。07年、イギリス・大英博物館で開催された展覧会「Crafting Beauty In Modern Japan」で截金の実演と講演を行い、その後、次作研究のために訪れたフランス・アミアンで急逝。アミアン大聖堂を訪問直後のことだったという。

髙橋節郎

没年月日:2007/04/19

 現代漆工芸の第一人者である髙橋節郎は、4月19日午前9時5分肺炎のため死去した。享年92。1914(大正3)年9月14日、父太一・母梅見の三男として長野県穂高町に生まれる。1938(昭和13)年東京美術学校工芸科漆工部を卒業。本来は画家志望であったが「絵では食えない」という父の反対で工芸科を選択、在学中には漆の魅力に目覚め「何も絵具で描くだけが絵ではない。漆で絵を描こう」と思い至ったという。40年東京美術学校研究科を修了、同年の紀元二六〇〇年奉祝美術展で「ひなげしの図小屏風」が初入選、翌年の第4回新文展では「木瓜の図二曲屏風」が特選を受賞し注目を浴びる。戦後は日展を中心に活躍し、51年には第7回日展「星座」で特選・朝倉賞を受賞、55年には日本橋三越にて第1回個展を開催、60年には第3回新日展「蜃気楼」で文部大臣賞を受賞と、精力的な制作活動をみせる。髙橋は“美術工芸”ではなく“工芸美術”、つまり“美術”という視点に立ち“工芸”作品の可能性を広げるという考えを持っている。これは自身も参加し61年に結成した現代工芸美術家協会の理念でもある。同協会創立者の山崎覚太郎は美術学校時代の恩師でもある。その後、新日展や日本現代工芸美術展、五都展、和光展に出品するほか、64年には日本現代工芸美術巡回メキシコ展・アメリカ展、66年には日本現代工芸美術巡回ローマ展、翌年には日本現代工芸美術巡回ロンドン展・モントリオール展に参加、海外に活躍の場を広げていく。76年東京芸術大学美術学部教授に就任、教鞭を執りながら制作を続ける。80年には社団法人日本漆工協会副会長に就任、漆工功労者として表彰される。82年には定年により同校を退官、社団法人現代工芸美術家協会副会長に就任。84年には紺綬褒章、86年には勲三等瑞宝章、1990(平成2)年には文化功労者に顕彰される。95年、東京芸術大学名誉教授に就任すると豊田市美術館の設立に伴い、髙橋の作品を展示する髙橋節郎館が併設される。97年には文化勲章を受章。同年、第18回オリンピック冬季競技大会(長野)の公式記念メダルのデザインを制作、フランスのパリで「漆の黒・光のメッセージ―現代日本の漆芸―髙橋節郎」展を開催。99年には東京銀座・和光ホールで「髙橋節郎墨彩展―ヨーロッパ・安曇野・大和路を描く―」を開催、漆芸の枠を超えた活動をみせる。2003年6月18日には長野県穂高町に残る生家に安曇野髙橋節郎記念美術館が開館。翌年には卒寿を記念し、豊田市美術館併設髙橋節郎館と安曇野髙橋節郎記念美術館、大阪阪神百貨店で「卒寿記念髙橋節郎―漆絵から鎗金へ/一九三〇-六〇年代」を開催。

三浦小平二

没年月日:2006/10/03

 陶芸家で青磁の重要無形文化財保持者(人間国宝)の三浦小平二は10月3日午前1時56分に急性心筋梗塞のため死去した。享年73。1933(昭和8)年、現在の新潟県佐渡市相川に生まれる。父は佐渡無名異焼の三浦小平。1951年東京芸術大学美術学部彫刻科に入学し平櫛田中に指導を受ける。高田直彦らと陶磁器研究会(陶研)をつくり、加藤土師萌に師事し、芸大最初の窯を築く。また、父の薦めで京都の製陶会社や岐阜県陶磁器試験場にて陶技を根本から学ぶ。その後、母校に戻り、副手、非常勤講師を務めながら制作の目標を灰釉陶器から鈞窯、青磁へと定めた。76年、第23回日本伝統工芸展に出品した「青磁大鉢」において文部大臣賞を受賞。これは、作者の生地・佐渡の朱泥土の素地を轆轤成形で薄く挽き上げ、明るい青白色の青磁釉がたっぷりとかかった作品である。この作品は72年台北の故宮博物院における宋代青磁の調査から佐渡の朱泥土を使用することを思い立ち実現したという。その後、1992(平成4)年、郷里に「三浦小平二小さな美術館」を設立、93年に日本陶磁協会賞金賞、94年にはMOA岡田茂吉賞工芸部門大賞、95年には第42回日本伝統工芸展に出品した「青磁飾壺『寺院』」が日本工芸会保持者賞、96年紫綬褒章を受章。三浦の作風はアジア・アフリカの風物をモチーフとしたものが見られ、これらは本人が「創作の原点」と語った海外への旅の影響といわれている。東アフリカ牧畜民のマサイ族との出会いやアフガニスタン砂漠の中の湖バンディ・アミールの神秘的な青色の感動が作域を広げたと考えられる。97年、青磁で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。2000年東京芸術大学名誉教授、文星芸術大学陶芸科主任教授に就任。05年文星芸術大学陶芸科客員教授にと後進の指導に心血を注いだ。06年、「[作陶50年]人間国宝三浦小平二展」を日本橋三越、新潟三越で開催した同年、逝去。没後、遺族が作品30点を佐渡市へ寄贈したことを機に、08年「[特別展]人間国宝三浦小平二の世界―青磁以前の作品、青磁の世界、画家・三浦小平二―」展が佐渡博物館、両津郷土博物館、相川郷土博物館にて開催された。

塩多慶四郎

没年月日:2006/09/24

 漆芸家で髹漆の重要無形文化財保持者(人間国宝)の塩多慶四郎は9月24日午後8時7分に肺炎のため死去した。享年80。1926(大正15)年1月17日、輪島市河井町の輪島塗塗師角野勝次郎の四男として生を受ける。3歳のときに母の実家である塩多家の養子に入る。塩多家も三代続く輪島塗塗師であった。1941(昭和16)年、尋常高等小学校を卒業し、養父塩多政のもとで輪島塗の修行を始める。その後、45年、滋賀県大津海軍航空隊にて終戦を迎える。同年、輪島へ復員し家業の塗師を手伝う。48年、大日本紡績大垣化学紡績工場試験室に勤務し、化学塗料の研究に従事する。その後、26歳のときに輪島へ帰郷。塩多漆器店四代目を継ぎ、本格的に輪島塗に携わり始める。64年、勝田静璋について蒔絵を学び始め、同年、第6回石川の伝統工芸展(日本工芸会石川支部の展覧会)に入選。翌年、「乾漆菓子鉢」にて第12回日本伝統工芸展に入選を果たす。また、同年、文化庁・日本工芸会共催による技術伝承者養成事業に参加した塩多は生涯の師と仰ぐ松田権六と出会う。松田の「塗りと形が良ければ加飾などいらない」との示唆に触発され、漆塗りの持つ本当の美しさを追求することになったという。その後、71年、第27回現代美術展において「乾漆古代朱盤」が技術賞を受賞したのを皮切りに受賞を重ねる。第15回石川の伝統工芸展にて「乾漆堆黒りんか盤」が日本工芸会会長賞、第23回日本伝統工芸展にて「乾漆線文盤」が日本工芸会会長賞を受賞する。78年輪島塗が重要無形文化財に指定され、輪島塗技術保存会が発足。同会会員に認定される。その後も精力的に活動を続け、第24回日本伝統工芸展にて朝日新聞社賞、第3回石川県工芸作家選抜美術展にて石川県知事賞を受賞。その後日本伝統工芸展にて監査員を務め、工芸界の発展に尽力した。86年には北國文化賞、翌年には紫綬褒章、1991(平成3)年石川テレビ賞を受賞。95年、「髹漆」にて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。同年にはMOA岡田茂吉賞大賞を受賞、日本工芸会参与、石川県立輪島漆芸技術研究所主任講師に就任し、後進の指導に心血を注いだ。同年「乾漆蓋物 悠悠」の制作の直後に病に倒れる。96年、初の回顧展「人間国宝 塩多慶四郎の世界」を石川県輪島漆芸美術館で開催。再起を果たせぬまま逝去。

山田常山

没年月日:2005/10/19

 陶芸家で「常滑焼(急須)」の重要無形文化財保持者の三代山田常山は、10月19日午後5時6分、転移性肝がんのため愛知県常滑市の病院で死去した。享年81。1924(大正13)年10月1日、愛知県常滑市に祖父・初代山田常山、父・二代常山と二代続く急須づくりを専門とする陶家の長男として生まれる。本名は稔。祖父は妥協を許さない厳しさと精緻な作風で名工と謳われ、父もその技を継承した名手として名を馳せた陶工であった。その二人に少年のころから基礎的な陶技を学び、中学に入るころには急須づくりを始める。1941(昭和16)年、愛知県立常滑工業学校窯業科を卒業。翌年、常滑にある愛知県陶器試験場に入所し、窯業に関する専門知識を学ぶ。46年からは本格的に修業するため、父・二代常山に師事する。48年、同志と常滑工芸会を設立。同年、第1回常滑陶芸展で「朱泥茶注」が常滑町長賞を受賞し、作家としてのデビューを果たす。また、この頃から父の号であった小常山を名乗る。58年、ブリュッセル万国博覧会の日本第三部陶器類でグランプリを受賞。同年、第5回日本伝統工芸展で横手タイプの朱泥の急須が初入選し、以後、同展を中心に活動を展開する。初入選は朱泥の急須であったが、その後は朱泥土に二酸化マンガンを混ぜ込んだ紫泥や烏泥、自然釉の急須を出品しつつその存在を知らしめていく。61年、名古屋の百貨店で初の個展を開催。また同年に父の死去に伴い、三代常山を襲名する。三代常山の急須は、地元で産出される粘りの強い朱泥土(田土)を用い、本体、注口、把手、蓋のすべてを、轆轤を使って成形し、それらを組み立ててつくり上げる。技法からみると、朱泥土をベースとした、朱泥、紫泥、烏泥に加え、象牙色の白泥、古常滑を祖とする自然釉や、土そのものの風合いを生かした焼き締めによる南蛮などがある。また、表面の装飾を伴う技法では、窯変を利用した緋襷や、常滑独特の海藻を用いた藻掛、炭化焼成する燻しに加え、梨の肌を思わせる梨皮や、糸を巻いたような糸目、櫛状の道具で線を引いた櫛目などがある。形のバリエーションは広く、胴部が算盤の玉のように張り出した算盤形や、鎌倉期の古常滑の壺を思わせるような肩が大きく張った鎌倉形、そのほかにも野菜や果物をはじめ、身近にあるさまざまなものから着想を得た形などがあり、煎茶具として用いる伝統的なものから、北欧のデザインに触発されたモダンなものまで、100種類以上を優に超える。また把手の付き方では、注口と一直線上に把手が付く茶銚、一般によく知られる横手や把手がなく注口だけの茶注、把手がなく注口が胴部に受け口のように付く宝瓶、注口が胴部と一体となった絞り出し茶注がある。これらには古典に敬意を表しながら、形や意匠などを試行錯誤で探った成果がしっかりと映し出され、すべてに卓越した轆轤技術があってこそ生み出される、手づくり急須のスタイルが確立されている。1993(平成5)年、日本陶磁協会賞受賞。翌年の94年には、「陶芸 ロクロによる手造り朱泥急須技法」で愛知県指定無形文化財保持者に認定される。96年、勲五等瑞宝章受章。97年には愛知県陶磁資料館で「常滑急須―山田常山三代展」が開催され、その全貌とともに、祖父や父の作品も紹介される。98年には「常滑焼(急須)」の重要無形文化財保持者に認定。2004年、旭日小授章を受章する。また三代常山は、早くから後進の指導にも積極的で、75(昭和50)年に「常滑『手造り急須』の会」が設立されると会長に就任し、30年に亘り模範的な活動を通して技術の継承に尽力し、多くの後進を育て上げるとともに、急須の発展に貢献した。

加藤舜陶

没年月日:2005/06/24

 陶芸家で「陶芸 灰釉(かいゆう)系技法」の愛知県指定無形文化財保持者の加藤舜陶は、6月24日午後1時24分、呼吸器疾患のため愛知県瀬戸市の病院で死去した。享年88。1916(大正5)年7月13日、愛知県瀬戸市で最も古い窯業地のひとつとして知られる赤津に、製陶業を営む父・二代春逸、母・としの長男として生まれる。本名は辰(しん)。生家は祖父・初代春逸の命名により屋号を舜陶園といい、その祖父は茶陶を得意とし、父は割烹食器を主に生産していた。1933(昭和8)年、瀬戸窯業学校4年修業の後、病気のため中退し、37年頃から作陶を始めるが召集を受ける。戦後、いち早く家業を復活させるとともに、個人作家としての制作も志し、三代春逸を名乗るべきところ、生まれ年の辰年にあやかり窯名を龍窯とし、舜陶園から名をとり舜陶と号する。50年の第6回日展に「黒い壺」が初入選し、以来、日展や日展系の団体展を発表の場とする。日展では瀬戸伝統の技法である織部、志野、伊羅保、鉄釉など、年ごとに技法の異なる作品を発表して注目を集め、60年の第3回新日展では「線彩花器」(現、花器「湖上の月」)で特選・北斗賞を受賞。受賞作は当時の瀬戸で盛んに使われた石炭窯が用いられたが、その窯の燃料を家業の製品と自身の作品とで使い分け、製品には石炭を、作品には薪を用いて作陶を行う。またこの頃より、石炭窯に薪を用いた灰釉作品の制作に本格的に乗り出し、土の素材感を生かした赤褐色の器体に緑色の釉薬が流れる一群の作品を生み出す。ところがしばらくすると、公害を理由に瀬戸では石炭窯の使用ができなくなり、ガス窯による灰釉作品の制作へと移行。これが転機となり、酸化コバルトを下地に灰釉を掛けた碧彩をつくり出し、灰釉技法の幅を広げる。その後、80年代に入ると、透明感ある釉調が特徴となる瀬戸伝統の御深井釉の研究に没頭。器面に線彫りや陰刻を施して酸化コバルトを象嵌する方法や、白化粧を施した後に掻き落としにより模様を描く方法など、次々に新しい技法を取り込んで灰釉の表現の幅を広げる。82年に日展評議員となり、同年、愛知県芸術文化功労賞を受賞。87年には勲四等瑞宝章を受章する。1990(平成2)年、第12回日本新工芸展で内閣総理大臣賞、翌年、第23回日展においても灰釉花器「悠映」で内閣総理大臣賞を受賞する。94年には「陶芸 灰釉系技法」で愛知県指定無形文化財保持者に認定される。2000年、中国陶磁器をはじめ、韓国、タイ、ベトナム、イランなど、作陶の源泉として収集したアジア地域の古陶磁コレクションのすべてを愛知県陶磁資料館に寄贈。同年、「加藤舜陶古陶磁コレクション―その作品とともに」が開催される。06年には瀬戸市美術館で「加藤舜陶回顧展」が開催され、その全貌が紹介される。長年にわたり、日展や新聞社が主催する公募展の審査員を務め、また、地元の瀬戸陶芸協会会長を歴任されるなど、後輩の指導・育成にも尽力した。

皆川泰蔵

没年月日:2005/04/10

 染色家の皆川泰蔵は4月10日午前11時13分、肺炎のため京都市山科区の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年京都に生まれる。父・八田源七の友人で染色家だった山鹿清華の勧めで京都市立美術工芸学校図案科に入学。1935(昭和10)年に卒業後、染色作家の道に進んだ。38年京都市展で市長賞、41年には文展に初入選を果たした。44年、近代染色の先駆・皆川月華の長女・千恵子と結婚して皆川姓となった。終戦直後に京都・洛北大原で民家の素朴な美しさに感銘を受け、以後、昭和20年代は民家の詳細なスケッチから “染色日本の民家”をテーマに制作を続け、「和染本栖湖畔」が49年の第5回日展で特選となった。昭和30年代に入ると、京都や奈良の神社や仏閣、また庭園に視野を向け、丹念な観察からより単純化と抽象化を進めた独自の作風を確立した。66年、訪中日本工芸美術家代表団員として中国を視察。45日間の旅の間に目にした異国の文化は新たな刺激となり、その後は中国だけでなく、韓国、東南アジア、インド、中近東、ロシア(旧・ソビエト連邦)、ヨーロッパ各地を訪ね歩きながら仕事を続け、まさに自ら回顧するとおり「創作と旅の連続」であった。「対象から受けた感動の残像を、ぎりぎりまで単純化を重ね、現実の風景を抽象化し、力強く魅力に満ちた作品を制作する」皆川の姿勢は、染色芸術の神髄と見事に合致し、豊かな物質感がろう染に独特な効果によって十全に引き出された。80年「皆川泰蔵 日本の染色展」(ベルリン国立世界民族博物館ほか)。1991(平成3)年「世界を染める 皆川泰蔵展」(大丸ミュージアムKYOTOほか)。後進の育成にも力を注ぎ、66年からは鹿児島女子短期大学教授も務めた。また、京都・祇園祭の山鉾の装飾も手がけている。84年京都府文化功労賞。89年京都市文化功労者。93年勲四等瑞宝章受章。社団法人現代工芸美術家協会理事、日本現代染織造形協会理事長。

加藤卓男

没年月日:2005/01/11

 陶芸家で重要無形文化財保持者(工芸技術「三彩」)の加藤卓男は、1月11日午前11時45分、肺炎のため岐阜県多治見市の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年9月12日、江戸時代から続く美濃焼窯元五代目加藤幸兵衛の長男として、岐阜県土岐郡市之倉村(現、多治見市市之倉町)に生まれる。1935(昭和10)年岐阜県立多治見工業学校(現、多治見工業高等学校)を卒業後、京都の商工省陶磁器試験所に入所。37年同試験所終業後、帰郷し家業の福寿園丸幸製陶所(現、幸兵衛窯)に勤務。翌38年より従軍。転属先の広島市で残留放射能により被爆。その後10年ほど入退院を繰り返す生活を余儀なくされたが、54年第10回日展に「黒地緑彩草花文花瓶」を出品し初入選。61年陶磁器意匠と技術の交換のため、フィンランド工芸美術学校に留学。この間、休暇を利用してはじめて中東各地の陶器の産地を訪れ、そこで古代ペルシア陶器の美に触れる。帰国後は本格的にペルシア陶、なかでもラスター彩の研究を志すようになった。63年第6回新日展に出品した「花器 碧い山」が特選北斗賞を受賞、翌64年には第3回日本現代工芸美術展で「流」が現代工芸賞を受賞。65年第8回日展で「油滴花器 煌」が再び北斗賞を受賞。作家活動の一方で続けていたペルシア陶研究の成果は、昭和50年代に自身のラスター彩作品として結実。ラスター彩とともに同じペルシア系統の青釉にも取り組み、独創的なフォルムと鮮やかな青色が融合した作品を制作した。80年には宮内庁正倉院事務所より正倉院三彩の「三彩鼓胴」と「二彩鉢」の復元制作を委嘱され、約7年間におよぶ研究と試作を経て復元に成功する。この経験と技術を生かし、自身の創意による三彩の仕事にも取り組んだ。88年紫綬褒章受章。1995(平成7)年重要無形文化財「三彩」の保持者に認定された。ペルシア陶に魅せられ、研究のため訪れた中東の古窯址発掘現場で、織部に似た陶片を発見して以来、加藤は、ペルシアから日本へと広がる壮大なやきものの技術交流と発展史へと興味を広げた。しかし、古代のペルシア陶の技法を解明、再現することにとどまらず、作家として、古陶磁研究を自己の表現の手段として昇華させ、清新な現代の陶芸を創造した点で高く評価される。朝日陶芸展をはじめとして国際的なコンペティションでたびたび審査員を務め、陶芸界のリーダー的存在として果たした役割も大きい。トルコ、イスタンブールの国立トプカプ宮殿博物館(86年)をはじめ国内外で開催した個展多数。2002年4月1日から30日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載(『砂漠が誘う―ラスター彩遊記』日本経済新聞社、2002年加筆所収)、作品集に『ラスター彩陶 加藤卓男作品集』(小学館、1982年)がある。没後、岐阜県現代陶芸美術館で回顧展「加藤卓男の陶芸展―陶のシルクロード」(06年)が開催された。

金城次郎

没年月日:2004/12/24

 陶芸家で、「琉球陶器」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された金城次郎は、12月24日午後10時45分、心筋こうそくのために死去した。享年92。1911(明治44)年、沖縄県那覇市に生まれる(入籍は翌年)。25(大正14)年、那覇市壺屋の名工新垣榮徳に師事。この年、新垣を通じて生涯交流を続けた陶芸家浜田庄司と出会う。金城は戦前、沖縄の伝統的な工芸を評価した柳宗悦の民藝論の薫陶を受け制作に励んだという。1939(昭和14)年、雑誌『工藝』第99号以降、同誌でしばしば紹介される。45年召集され、読谷で飛行場建設、その後壺屋の東窯で軍需品の製作に従事する。恩納村で捕虜となり、石川の収容所に収容される。同年11月、陶器製造先遣隊の一員として壺屋に帰る。46年壺屋で米軍よりかまぼこ形兵舎を払い下げて工房を開く。窯は新垣榮徳の登り窯を共同使用した。51年、戦後窮乏した壺屋の陶工を救うべく、浜田庄司ら民芸関係者の尽力により開催された第1回琉球民藝展(於東京、日本民藝協会主催)に出品。54年第6回沖縄美術展覧会(沖展)工芸部門新設に伴い新垣栄三郎、小橋川永昌と出品。この年、新垣と第1回陶芸二人展開催。55年、第29回国画会公募展(国展)初入選。この頃、益子(栃木)、龍門司(鹿児島)の窯を訪問、その後丹波、九州などの窯を機会あるごとに視察。56年、第30回国展出品「呉須絵台付皿」が新人賞、57年第31回国画展で「抱瓶黒釉指描」が国画賞受賞、同年、国展推薦新会友となる。この年、ルーマニア国立民芸博物館に作品が永久保存される。64年第18回全国民芸大会が沖縄で開催され、浜田庄司、バーナード・リーチが壺屋を訪問。66年明治神宮例大祭奉祝第4回全国特産物奉献式に「長型花瓶」奉納。67年、第1回沖縄タイムス芸術選奨大賞受賞、日本民藝館展入選。69年リーチの再訪を受ける。同年、第43回国展会友優秀賞受賞。この年、壺屋の登窯から出る煙が公害問題として表面化、壷屋の陶工ら、窯の使用回数を減らす。71年第1回日本陶芸展入選。72年、煙害から読谷村字座喜味に移り、初めて自分の登窯を開く。同年、沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定。73年、国画会会員となる。77年、現代の名工百人に選ばれる。78年末、脳血栓で倒れ、約4か月間静養後、手足に麻痺が残るが復帰。81年、勲六等瑞宝章受章。85年、「琉球陶器」の技法により、沖縄で初めて重要無形文化財保持者に認定された。2003(平成15)年、那覇市立壺屋焼物博物館にて「壺屋の金城次郎」展開催。卓越した轆轤の技術、線彫、指描などあらゆる壺屋の伝統的な技法を駆使し、壺屋に伝わる伝統的な器形、文様に基きながら、工夫を凝らしてバリエーション豊かな作品へと昇華させ、素朴で親しみやすい日常陶器を生涯作り続けた。躍動感溢れる魚文、海老文の線彫文様は特によく知られ、浜田庄司は、金城以外に魚や海老を笑わすことは出来ないと絶賛したという。作品集に、『金城次郎の世界』(沖縄タイムス社・読谷村、1985年)、『琉球陶器 金城次郎』(琉球新報社、1987年)、『人間国宝 金城次郎のわざ』(宮城篤正/源弘道監修、朝日新聞社、1988年)、『沖縄の陶工人間国宝金城次郎』(日本放送協会出版、1988年)、著書に『壺屋十年』(上村正美監修・構成、用美社、1988年)がある。

吉田文之

没年月日:2004/12/19

 工芸家の吉田文之は12月19日午後9時50分、肺炎で死去した。享年89。 1915(大正4)年奈良県奈良市に生まれ、16歳より父・吉田立斎に師事して撥鏤や螺鈿など漆芸全般技術を修業した。1935(昭和10)年の入隊から11年間は中断を余儀なくされたが、復員後にふたたび制作に戻り、32歳で独立。以来、撥鏤の制作と研究に専念し、この技術を伝承する国内唯一の工芸家であった。64年日本伝統工芸展に出品、以来同展を中心に香合、小箱、帯留など数々の作品を発表した。撥鏤は成形した象牙を紅・紺・緑色などに染め、細かな陰刻を施す。手前から向こうへ撥ねるように彫るところから「撥ね彫り」とも呼ばれ、彫りの浅深に応じて線に抑揚が生じ、色にも濃淡がもたらされる。また、染料は象牙の上層に留まるため、刻んだ跡に素地の白が冴えて、彩色部分との対比も美しい技法である。彫られた箇所にさらに顔料で色を加えれば華やかさが増し、繧繝の効果も得られる。中国唐代に盛行し、日本へは奈良時代に伝わって正倉院宝物にも作例が見られるが、平安以降衰亡した。明治期、正倉院宝物の復元修理に父の立斎が従事して古代の技術復興を果たしたのである。吉田も修業時代に父の助手として復元修理に参加。自らも78年と83年に宮内庁の依頼により正倉院宝物で「東大寺献物帳」に記述があった紅牙撥鏤尺、紅牙撥鏤撥を復元した。吉田は染まりにくい象牙に熱による変質をできるだけ抑えながら美しい色を呈するために染色工程に工夫を重ね、ぼかしの効果や工具の考案など撥鏤技法をつねに探求し続けた。繊細さを活かしたブローチやペンダントなど現代的な装身具にも積極的に取り組んだが、伝統的な意匠のほか、宇宙や北極の景色など斬新な表現も試みていた。85年4月13日 重要無形文化財「撥鏤」の保持者に認定。

高橋介州

没年月日:2004/10/29

 金工家で、日展参与の高橋介州は、10月29日午後0時13分、肺炎のため死去した。享年99。1905(明治38)年3月、石川県金沢市木ノ新保生まれ。本名、勇。1924(大正13)年金沢市の県外派遣実業実習生として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の聴講生となり海野清に師事、彫金技法を学ぶ。1929(昭和4)年、金沢市産業課の金属業界指導員となる。また同年、第10回帝展に初入選し、以後、帝展、新文展に入選を重ね、戦後は日展に出品を重ねる。48年には日展会員となる。そして、62年には日展評議員となり、80年には参与となる。作家活動の一方で、41年には石川県工芸指導所所長となり、62年からは石川県美術館館長をつとめた(71年3月まで)。そして、75年には加賀金工作家協会を結成し、会長として、若手作家の育成につとめた。76年勲四等瑞宝章受章。82年には加賀象嵌技術保持者として石川県無形文化財に認定された。動物や鳥などをモチーフとした香炉に、石川県の伝統的な彫金技法「加賀象嵌」の技術をいかして模様をあらわした装飾性豊かな作品を制作した。

藤田喬平

没年月日:2004/09/18

 ガラス工芸家で文化勲章受章者の藤田喬平は、9月18日午後10時13分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年83。1921(大正10)年4月28日東京府豊多摩群大久保町(現、東京都新宿区)に生まれる。1944(昭和19)年東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科彫金部卒業。46年第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選。同年染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加し、以後10年間、同会にて作品を発表する。47年岩田工芸硝子に入社。49年同社を退社し、ガラス作家として独立。葛飾のガラス工場を時間単位で借りて、制作を行う。50年代には、同世代の工芸作家グループ展「潤工会新作工芸展」やガラス作家グループ展「PIVOT」に参加、その後多数の個展を開催し、主に百貨店を舞台にガラス作家としての地歩を固めた。64年個展で発表した「虹彩」が、同年「現代日本の工芸」展(国立近代美術館京都分館)に招待出品される。73年個展で飾筥「菖蒲」を発表、以後この「菖蒲」シリーズは晩年まで制作が続けられた。「虹彩」に代表される、流動するガラスが冷えて固まる一瞬を作品に留めた「流動ガラス」シリーズ、琳派の作品に触発され、伝統的な美意識を作品に表出させた「飾筥」シリーズによって、藤田はガラス作家としての個性を明確に打ち出していった。76年日本ガラス工芸協会会長に就任。77年以降は、ガラスの生産地として世界的に有名なヴェネツィア、ムラノ島の工房でも制作をするようになり、ヴェネツィアの伝統的な装飾ガラス技法「カンナ」を多用した作品や大型のオブジェを手がけた。1989(平成元)年日本芸術院会員となる。94年勲三等瑞宝章受章、96年宮城県宮城郡松島町に「藤田喬平美術館」が開館、97年紺綬褒章受章、同年文化功労者の顕彰を受けた。国内外の展覧会へ作品を出品し、日本を代表するガラス作家として活躍するとともに、再三に亘り日本ガラス工芸協会会長を務めるなど、多方面から日本におけるガラス・アートの活動を牽引した。2000年12月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、作品集に『藤田喬平作品集:手吹ガラス』(アート社出版、1980年)、『雅の夢:藤田喬平ガラス』(京都書院、1986年)、『藤田喬平美術館・作品集』(藤田喬平美術館、1996年)、『藤田喬平のガラス』(求龍堂、2000年)。

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