本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





堀友三郎

没年月日:2014/07/07

 染色家の堀友三郎は7月7日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年、堀朋近・順の三男として大阪市に生まれる。(本籍は石川県)。1941(昭和16)年関西学院中学部卒業。多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)図案科に入学。3年次より同校図案科染色教室を専攻。木村和一に師事。学生時代には母方の叔父である洋画家の中村研一の自宅で過ごす。もう一人の叔父である洋画家の中村琢二との関わりもあり、制作態度の異なる両叔父に影響を受けながら育つ。 44年、第31回光風会展に「紅型バラ」を出品し初入選。学徒動員を受け、9月に兵役、金沢へ入隊する。翌年の45年、9月に復員。多摩帝国美術学校図案科染色教室を不在卒業。その後は、師である木村和一主宰の染人社、東京染織作家協会、真赤土工芸会の各会員として活躍する。56年、32歳の時に第42回光風会展に「早春譜」を出品。第12回日展に「瀬戸の潮」を出品し、初入選。後に、同作品はソ連政府の買い上げとなり、レニングラード美術館に収蔵される。58年、第44回光風会展に「海」を出品。光風工芸賞を受賞し、光風会会友に推挙される。同年、第1回新日展に「伊豆の海」を出品。60年、第3回新日展に出品した「造船」(石川県立美術館蔵)が、特選並びに北斗賞を受賞。その後、采匠会展、日本現代工芸美術展でも作品を発表。64年、第50回光風会展に「湖畔の映」を出品。光風工芸会員賞を受賞。67年からは、第53回光風会展、第6回日本現代工芸美術展、第10回新日展で審査員を務める。翌年の68年には日展会員に推挙される。同年、横浜シルク博物館展の審査員も務める。その後も審査員などを歴任し、71年、東京家政大学非常勤講師に就任。75年、51歳の時に第61回光風会展に出品した「雪景」で杉浦非水賞を受賞。翌年からは朝日カルチャーセンター(新宿)の講師に就任。以後、30年にわたり務める。77年には花山研究所講師に就任。78年、現代工芸美術家連盟を脱退し、日本新工芸家連盟を創立、総務委員となる。東京家政大学講師を辞任する。79年、第65回光風会に「語らいを」を出品し、第65回光風会特別記念賞を受賞。同年、妻の紀子が逝去する。80年、『のり染パネル制作』(美術出版社)を出版。81年、社団法人日本新工芸家連盟初代理事に就任。82年、第20回采匠会展に作品を発表。同展を最後に解散。84年、光風会幹事、日展評議員に就任。85年、第7回日本新工芸展に「岩手の山にかゝる虹」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学染織デザイン科主任教授に就任。川徳デパート(岩手・盛岡)やギャラリー・スペース21(東京・新橋)で個展を開催。日本新工芸家連盟脱退。86年、光風会理事に就任。紺綬褒章を受章。87年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。『堀友三郎丸紋図案集』(六芸書房)を出版。同書は染につかう型紙を意識して型の繋ぎ目を考えながらデザインをまとめたという。さらに、九谷焼の徳田八十吉の自宅で絵皿に絵付けをしたことを想いだし、丸紋に九谷焼のような縁紋様が加えられている。1989(昭和64年・平成元)年には財団法人中村研一記念美術館初代館長、常任理事に就任。翌年の90年、明日へのかたち展に作品を発表。石川県立美術館で「堀友三郎特別展」が開催される。紺綬褒章を受章(2回目)。93年、財団法人福沢一郎記念美術財団理事就任。95年、多摩美術大学を定年退職し客員教授となる。多摩美術大学付属美術館において退職記念展が開催される。翌年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。退職後も、精力的に作品を発表しながら、各展覧会で審査員を歴任する。2000年、ギャリ―白雲(大阪)、ギャラリータマミジアムにて個展を開催。勲四等瑞宝章を受章。国立台湾工芸研究所で講演を行うなど、国内外で活躍をする。01年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で喜寿記念展を開催。翌年、脳梗塞で倒れる。以後、失語症のリハビリを続けながら制作を続け、病前同様に審査員も務める。04年、光風会展に「雪凌」を出品。同会を定年退職し、名誉会員となる。第36回日展に「蔵王」を出品。日展参与になる。文芸春秋画廊(東京・銀座)にて個展を開催。05年、杉並より調布に転居する。07年、調布市文化会館にて「堀友三郎展」(調布市文化・コミュニティ振興財団主催)が開催される。09年、『堀友三郎 染色画集』(求龍堂)を刊行。 堀の作風は50年代中頃から60年代は初期の抽象形態による構成的な作風、その後、80年代前半にかけては具象が曲線を中心とした抽象の中に溶け込む画風、その後、実景の追及に大別されると評されている。毎日デッサンを欠かさず、デザインの発想の根本には「写生」があると学生に諭し、絵描き以上のデッサン力がないと良いデザイナーにはなれないと力説していたという。堀は自らの考えとして、工芸作品はしっかりとしてデザインと優秀な技術が伴わないと良い作品とはならない。いくら発想が良く、デザインの素晴らしいものができても技術的に難点があっては作品にならない。デザイナーであると共に職人でなければいい仕事は望めないという言葉を残している。 晩年に至るまでの多くの作品は石川県立美術館に所蔵されている。

田島比呂子

没年月日:2014/01/19

 重要無形文化財「友禅」保持者の田島比呂子は1月19日、前立腺がんのため神奈川県藤沢市の介護施設で死去した。享年91。 1922(大正11)年2月4日東京に生まれる。本名博。幼いころから絵を書くのが好きであった田島は、1936(昭和11)年、兄が亡くなった代わりに東京小石川で友禅模様師をしていた高村樵耕に内弟子として入門。動植物の模写や師が描くのを隣で見て同じように描くなど、日本画の基礎を学ぶ。当時、友禅染の世界は意匠をデザインする模様師と染色を行う染師に仕事が二分されており、田島は前者の模様師として弟子入りをした。これが、後にデザインを考案する作家としての活動におおいに役立ったといえる。 43年、通信兵として満州へ出征。ツルやサギが何千羽も一斉に舞う姿に心うたれる。3年後の46年、復員。しかし、48年に肺結核を患い千葉九十九里の病院に入院し療養生活を送る。療養中に正岡子規の全集に影響を受け、俳句・短歌を詠みはじめ新聞に投稿する。限られた文字数で推敲を重ねて表現する手法は、丹念に試し染を行う友禅染への制作態度に引き継がれていく。54年、退院し、師事していた高村樵耕の息子である高村柳治の屋敷の隣に移住する。同年、友禅の制作を再開、模様師として独立する。柳治に勧められ、日本伝統工芸展に出品し、作家活動を開始する。同時に、社団法人日本工芸会に入会し、友禅の中村勝馬や山田貢との交流がはじまる。田島は作家活動の開始時、「友禅染の着物に携わるのは男子一生の仕事にあらず」という時代の風潮があり、比呂子という雅号を使い始めたという。59年、第6回日本伝統工芸展で「揺影(一)」が初入選。2年後、(社)日本工芸会の正会員となる。66年、44歳の時に第13回日本伝統工芸展で「青東風」が日本工芸会総裁賞を受賞。同年、第6回伝統工芸新作展では「竹あかり」が日本工芸会賞を受賞。その後、東京都北区十条仲原、鎌倉極楽寺と居を移し、70年、48歳の時に結婚し藤沢市鵠沼海岸に転居する。この頃より、妻に生地の縫い合わせや地染めを担当してもらいながらも、その他の工程は全て田島自身が担う制作スタイルとなる。72年、(社)日本工芸会理事に就任する。77年、(社)日本工芸会工芸技術保存事業「茶屋辻帷子の復原」に参加。下図、下絵、伏せ糊、藍彩色、藍線描という茶屋辻の中核である工程を担当する。86年、(社)日本工芸会常任理事に就任、87年、紫綬褒章を受章。1990(平成2)年第2回茶屋辻帷子の復原」に参加。本事業では、指導的立場を担う。93年、勲四等旭日小綬章を受章。98年、第45回日本伝統工芸展に「入江」を出品。日本工芸会保持者賞を受賞。翌年、77歳の時に、「友禅」の分野では8人目の重要無形文化財保持者に認定される。藤沢市の名誉市民となる。2000年藤沢市制60周年記念特別展「田島比呂子・友禅展」を藤沢市民ギャラリーで開催。04年、シルク博物館にて「人間国宝 自然をいつくしむ手描友禅 田島比呂子展」を開催。出品作品54点すべてに田島の短歌が添えられる。09年、87歳の時に記録映画「創作に生きる 友禅作家・田島比呂子」が制作される。 仕事場には何十冊もの写真集がおかれ、スケッチだけでなく趣味のカメラで撮りためた写真が積み上げられていたという。また、田島はデザイン面だけでなく、技法の面でも高く評価されている。特に、糊の使い方に研究を重ねており、伏せた糊をたんぽで叩き斑を表現する「叩き糊」や、友禅染の特徴ともいえる糸目糊の輪郭線を作らないこともできる「堰出し糊」は、何れも田島比呂子の特徴的な技法に位置付けることができる。 作品はシルク博物館、東京国立博物館等に所蔵されている。

齋藤明

没年月日:2013/11/16

 鋳金で重要無形文化財保持者である齋藤明は11月16日、老衰のため死去した。享年93。 1920(大正9)年3月17日、東京都西巣鴨に鋳金家齋藤鏡明の長男として生まれる。鏡明は佐渡出身で、佐渡の本間琢斉に学び、1909(明治42)年頃に東京に移り巣鴨に工場を設立している。1935(昭和10)年、父に鑞型鋳造の技法を学んだが、38年、18歳の時父が急逝し、鋳物工場を引き継いだ。この工房には佐々木象堂、2代宮田藍堂ら蠟型を得意とした佐渡の鋳金家が冬の間制作場としたため、彼らから技術指導を受ける機会に恵まれた、50年、高村光太郎の弟で鋳金家の高村豊周に師事し、豊周が72年逝去するまでその工房の主任をつとめた。工房では高村光太郎の彫塑原型のブロンズ鋳造を多く手掛けた。豊周に師事した年、第6回日展に「鋳銅」蝶両耳花瓶」を出品し初入選した。68年、第13回日本茶器花器美術工芸展で青銅大壺「跡」で文部大臣賞を受賞した。73年、浅草寺五重塔の建立にあたって、塔納置の舎利容器を制作する。75年、日本伝統工芸展に「蠟型朧銀流水壷」を初出品、初入選し、以後日展から伝統工芸展に移った。87年、第17回伝統工芸日本金工展に「蠟型朧銀花器」を出品、東京都教育委員会賞を受賞する。1993(平成5)年、国の重要無形文化財保持者に認定され、95年勲四等瑞宝章を受章した。 作品は縄文や弥生土器にみられえるような装飾性を抑えた簡素な造形を好み、日展時代には四分一や青銅、緋色銅を用いた作が多いが、伝統工芸展で新たに吹分(ふきわけ)の技法を発表する。吹分は、青銅に真鍮、青銅に銅など異なる金属を鋳型に流し込んで、色彩的な変化を付けるとともに、その境界の金属の交じり合う微妙な融合の美を追求したものので、明治時代以前には全くなかった技法である。日本鋳金家協会顧問・東京芸術大学美術学部非常勤講師なども勤め、金工界にも尽力した。

鈴木雅也(三代鈴木表朔)

没年月日:2013/10/07

 漆芸家の鈴木雅也は10月7日午後10時47分、京都市左京区の病院で死去した。享年81。 1932(昭和7)年2月26日、父貞次(二代表朔)の長男として京都市中京区に生まれる。生家は祖父の初代表朔(1874-1943)、父の二代表朔(1905-1991)と続く京塗師の家系。幼い頃から父に塗りの基本を学び、44年に京都市立美術工芸学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校、学制改革のため卒業時の校名は京都市立日吉ヶ丘高等学校)漆工科に入学。卒業制作では第1席(学校賞)を受賞。50年に同校を卒業後、東京芸術大学美術学部に入学。漆芸科では松田権六らの指導を受け、家業である伝統的な塗りの仕事とは異なる表現を学ぶ。53年、卒業制作の「こでまり草の図・棚」を第9回日展に出品し、在学中に初入選を果たす。さらに専攻科に進み55年修了、日展を中心に出品、入選を重ねる。64年第3回日本現代工芸美術近畿展で京都府知事賞、66年京展で市長賞を受賞。68年、漆の新たな表現の可能性を目指し、京都にて伊藤祐司、服部俊夫(現、峻昇)らとともに若手の漆芸作家によるグループ「フォルメ」を結成、実験的な創作に取り組む。72年第11回日本現代工芸美術展で「オブジェ 連鎖するかたち」が現代工芸賞、翌73年の第5回日展で「連鎖するかたち」が特選となる。凹凸をつけた透明なアクリル樹脂の胎に不透明な漆を塗り重ね、両方の素材の特性を活かしたもので、新素材による斬新な視覚効果をねらった漆造形は高く評価された。77年、明日をひらく日本新工芸展で「森の函」が箱根彫刻の森美術館賞を受賞、翌78年には京都市芸術新人賞を受賞。この頃から抽象的な造形作品は、次第に自然を題材にした具象的な作品へと変化し、古典的な画題を現代の感性で再解釈し新たな表現を追求した。明るい色調の彩漆を何度も塗り重ねた上に、蒔絵、螺鈿、卵殻を組み合わせ、光や波、咲き誇る花々などを大胆にデザイン化した作品が多い。一方で棗や香合などの伝統的な器物や道具類の制作も続けた。88年京都府立文化博物館の新築にあたり、歴史展示室の造形演出作品の企画および制作を担当。1989(平成元)年には30年間の代表作を収録した『繚乱の漆芸 鈴木雅也作品集』(ふたば書房)を出版。92年三代表朔を襲名。93年第3回日工会展に「透胎 こすもすのはこ」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、圓山記念日本工藝美術館にて「繚乱の漆芸・鈴木雅也の世界展」を開催。96年に京都府文化賞功労賞、98年に京都市芸術功労賞を受賞。2011年第43回日展で「函・風光る」が内閣総理大臣賞となる。日展参与、日工会代表、京都工芸美術作家協会理事長などを務め、後進の育成にも尽力した。主な所蔵先は東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、ヴィクトリア&アルバート美術館(イギリス)、シアトル美術館(アメリカ)など。

天田昭次

没年月日:2013/06/26

 日本刀で重要無形文化財保持者である天田昭次は6月26日死去した。享年85。 1927(昭和2)年8月4日、新潟県北蒲原郡本田村本田(現、新発田市)に刀匠天田貞吉の長男として生まれる。本名誠一。37年、父貞吉は死去したが、父の3回忌に訪れた東京の刀匠で日本刀復興運動の提唱者でもあった栗原彦三郎昭秀の誘いを受け、40年小学校卒業するとすぐに上京し、昭秀が設立した日本刀鍛錬伝習所に入門する。最初の作刀は52年、第二次世界大戦後、制作を禁じられていた日本刀の復興を図るため、昭秀が日本政府から許可された「講和記念刀」のうちの3口で、その1口に「昭聖」と銘を切った。その頃伊勢神宮の式年遷宮御神宝大刀の制作依頼が兄弟子にあたる宮入昭平にあり、その助手として奉仕した。54年、文化財保護委員会から日本刀の制作承認を受け、新制度のもとで作刀を行うようになる。55年、財団法人日本美術刀剣保存協会が主催した第1回作刀技術発表会に出品、93名出品中の8位で優秀賞を受賞、57年の第3回、58年の第4回展でも優秀賞を得ている。58年、それまで使用していた鉄では理想としていた相州正宗や貞宗など鎌倉時代の古名刀の域には達しないとして、その元となる製鉄から行わなければならないと考え、自家製鉄の本格的な研究に取り組んだ。しかし60年病により作刀、研究活動は停滞することとなる。68年恢復して作刀を開始し、自家製鉄による作品を第4回新作名刀展(作刀発表会から改称)に出品し、奨励賞を受賞した。70年、第6回展では名誉会長賞、72年に同展の無鑑査に認定され、財団法人日本美術刀剣保存協会より小形製鉄炉の研究で第1回薫山賞を受賞した。77年第13回新作名刀展に無鑑査として出品し、無鑑査を含むすべての出品者の最高賞である正宗賞を受賞した。78年、新潟県無形文化財保持者に認定され、85年、新作名刀展で2度目の正宗賞を受けた。1990(平成2)年、全日本刀匠会理事長に就任し、現代刀匠の技術向上、育成に努めた。97年、国の重要無形文化財保持者に認定され、99年、勲四等旭日小綬章を受章する。 天田昭次の作品は太刀、刀、脇指、短刀で、伊勢神宮神宝では直刀も製作している。特に鍛えは自家製鉄による鍛肌の美しさを強く出し、刃文は相州伝の明るく冴えた大乱れが多く、また山城伝の直刃を得意としており、正宗賞受賞作も直刃であった。また理論家としての著述も多く、76年、「自然通風炉による古代製鉄復元法実験」(『鉄と鋼』)、2004年『鉄と日本刀』(慶友社)の著書を発表している。

西大由

没年月日:2013/06/20

 鋳金家の西大由は6月20日、急性心不全により死去した。享年90。 1923(大正12)年5月25日、福岡県築上郡に生まれる。1941(昭和16)年、東京美術学校工芸科鋳金部入学、高村豊周、丸山不忘、内藤春治に師事する。在学中の43年から45年まで兵役に就き、戦後学校に復帰する。47年東京都練馬区石神井町にアトリエを構え、同年「春之意香炉」を第3回日展に出品、初入選する。48年同校を卒業し、岐阜県多治見市の多治見製作所鋳金技師となる。53年、東京藝術大学美術学部助手となり、同年から薬師寺東塔水煙及び月光菩薩台座の修理に従事する。55年、第11回日展で「青銅壺」が特選、翌年無鑑査となった。61年社団法人第4回新日展で「泪羅に立つ」が菊華賞を受賞し、翌年会員に推挙される。63年第6回高村光太郎賞を受賞する。69年、東京藝術大学美術学部助教授、78年に教授となる。作品の公募展での発表は51年の第7回日展から、88年の改組第20回日展まで、日展が中心であったが、1989(平成元)年から日本伝統工芸展に出品するようになる。その間、79年には日本新工芸連盟創設に参加し、86年まで出品している。86年には、日本丸、海王丸の船首像を制作した。91年に東京藝術大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。 作家としての制作活動のほか、日本金工の歴史、古代鋳造技術の研究も行い、64年から80年まで東大寺大仏の鋳造と補修に関する技術的研究を続け、同校の紀要にその成果を発表した。また88年、文化庁文化財保護審議会専門委員を務める。2000年、勲三等瑞宝章を受章した。 作品は青銅あるいは朧銀による壺や花入れなど伝統的な形象に、色上げの工夫を行い、また鳥や動物、果実など自然からのモチーフを抽象化して表現し、極限まで単純化した造形には独特の抒情性を醸成している。

十四代酒井田柿右衛門

没年月日:2013/06/15

 陶芸家で色絵磁器の重要無形文化財保持者の十四代酒井田柿右衛門は、6月15日午前8時45分、転移性肝腫瘍のため佐賀市内の病院で死去した。享年78。 1934(昭和9)年8月26日、佐賀県西松浦郡有田町に、酒井田渋雄(のちの十三代酒井田柿右衛門)とツネの長男として生まれる。襲名までの本名は正(まさし)。多摩美術大学日本画科に進み、絵画的な構想力や描画技術の基礎を習得。58年に卒業すると帰郷し、祖父・十二代柿右衛門と父が復興させた「濁手(にごしで)」の製陶技術とともに、とくに祖父からは絵具の調合と絵付け技術を、父からは素地の成形と焼成技術を受け継いだ。作品としての発表は66年からで、一水会と西部工芸展に入選し、陶芸家としてデビューした。翌年には一水会で一水会会長賞を受賞。68年からは日本伝統工芸展にも入選を果たし、その後も日本伝統工芸展をはじめ、一水会や西部工芸展、さらには佐賀県展や九州山口陶磁展等で実績を積む。70年にはヨーロッパに旅行して各国の美術館や窯業地を視察。また、柿右衛門初期におけるオランダ貿易と東西交通や、在欧作品と〓製品についても見聞を重ねた。71年日本工芸会正会員。この年、柿右衛門製陶技術保存会の「柿右衛門(濁手)」技法が重要無形文化財の総合指定を受け、76年には技術保持団体として認定。同年、東京で初の個展を開催した。82年7月、父・十三代柿右衛門の死去にともない柿右衛門製陶技術保存会の会長に就任、同年10月には十四代柿右衛門を襲名した。84年日本陶磁協会賞受賞。86年には第33回日本伝統工芸展で「濁手山つつじ文鉢」が日本工芸会奨励賞を受賞した。この頃より海外において十四代柿右衛門展の開催機会が増え、「濁手」と呼ばれる独特の白素地に、赤絵を基調として草花を描いた作品の評価が高まりをみせる。1992(平成4)年の第39回日本伝統工芸展では「濁手蓼文鉢」が二度目となる日本工芸会奨励賞受賞し、色絵磁器の陶芸家としての地位を確固たるものとする。翌年には国際陶芸アカデミー(IAC)名誉会員となる。60歳を過ぎたころより、地元陶芸団体等において要職に就き、後進の指導とともに、地域の陶磁文化発展のために力を注ぐ。98年、長年にわたる国際文化交流の功績により外務大臣表彰、99年には濁手の伝統的技法の伝承に努め、地域の文化発展と向上に貢献したことにより文部大臣賞表彰を受ける。その後も、作家として濁手を中心とした創作活動と、技術保存会会長として様式美の継承の両立をはかり、2001年には父も受けることがなかった重要無形文化財「色絵磁器」の保持者に認定された。05年、旭日中授章受章。06年には有田町名誉町民の称号を受けた。十四代柿右衛門は、柿右衛門家の当主として、祖父と父が再興を成し遂げた「濁手」の技術を継承する。と同時に、独特の白地と柿右衛門伝統の赤絵を効果的に用いた優美な絵付と模様構成により独自の作風を築き上げ、濁手の新たな境地を切り拓いた陶芸家であった。

加藤重髙

没年月日:2013/04/09

 陶芸家の加藤重髙は、4月9日午前10時50分、ぼうこうがんのため自宅で死去した。享年85。 1927(昭和2)年4月26日、愛知県瀬戸市窯神町に加藤唐九郎ときぬの三男として生まれる。15歳になる42年頃から、陶芸家として活躍していた父・唐九郎の助手として作陶を始め、愛知県立窯業学校を卒業した45年頃からは個人作家としての活動をも開始した。陶技は、愛知県瀬戸地域の伝統的な技法である灰釉・鉄釉・志野・織部・黄瀬戸を中心に、信楽や唐津など幅広く、58年の第1回新日展に「織部壺」で初入選を果たし作家としてデビューした。65年には第4回日本現代工芸美術展に入選し、翌年の第5回展では「流れ」を出品し工芸賞を受賞。66年の第9回日展では「刻文方壺」で特選・北斗賞を受賞し、翌年には、前年(昭和41年度)の活躍に対して日本陶磁協会賞を受賞した。またその間、63年から始まった陶芸公募展の第1回朝日陶芸展に「湧く」を出品して入選し、以降、69年の第7回展まで連続入選。65年の第3回展、66年の第4回展、68年の第6回展では受賞を果たし、70年の第8回展では審査員を務めた。68年には広島県宮島町役場に初の陶壁を設置した。71年以降、公募展や団体展の出品をすべてやめて個展を中心とした活動に切り替え、茶碗や花生、水指などの茶陶を中心に発表。とくに86年までは、ほぼ毎年のように陶壁を制作し、数多くの作品を残したことから、陶壁の作家としても知られた。1998(平成10)年、名古屋市芸術特賞を受賞し、翌年には受賞記念の個展を名古屋で開催した。 加藤重髙の活動は、日展を活動の場とした70年までの第1期(日展時代)と、公募展や団体展での発表をやめた71年から父・唐九郎がなくなる85年までの、すなわち唐九郎の作陶活動を支えたアシスタント時代の第2期、唐九郎の没後の86年から亡くなる2013年までの第3期にほぼ大別できる。第1期では公募展や団体展を意識した大形の作品を数多く手がけた。作品は、土を巧みに扱いながら素材感を最大限に生かしたもので、スペインの画家ジョアン・ミロが唐九郎を訪ねた際、唐九郎よりも重髙の作品に興味を示し、その才能を高く評価したというエピソードが残っている。第2期は、自身の創作性を一切おもてに出すことのない助手として父の作陶を支える一方で、個展を発表の場として茶陶を中心に、建築の壁面を飾る陶壁も数多く制作した。そして第3期は、日展時代に培った土への探究をさらに強く打ち出した刻文による表現を確立させて、叩きの技法を用いた迫力ある作品を生み出すとともに、父の影として培った茶陶の造形を独自に発展し展開させた。なかでも、鼠志野に見られる独特の釉色が生み出す独自の世界は、重髙芸術の真骨頂ともいえるものである。また最晩年は、朝鮮唐津にも力を入れて、独自の造形観を見せつけた。

三輪壽雪

没年月日:2012/12/11

 萩焼の陶芸家で重要無形文化財保持者(人間国宝)の三輪壽雪は12月11日、老衰のため死去した。享年102。 1910(明治43)年2月4日山口県萩市で生まれる。本名は節夫。生家は代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯でもあって家督を継いでいた次兄の休和(1970年に重要無形文化財「萩焼」保持者の認定を受ける)を助け、陶技を学んだ。以後、独立までの約30年間、作陶の修業に打ち込み、陶技の基礎を築いている。その期間中ではあったが、1941(昭和16)年には三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子の千歳山窯に弟子入りする機会を得ることがあり、それ以後自己表現としての茶陶の制作を志向するきっかけをつかむこととなった。 55年に雅号を「休」と称して作家活動を開始し、57年には日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選する。また、60年には日本工芸会正会員となり、十代休雪と並び高い評価を受けている。彼の作風は、萩焼の伝統を受け継ぎながらも独自の感覚を吹込んだもので、因習的な茶陶の作風に新たな展開を示した。とくに釉薬の表現に新境地を開拓し、藁灰釉を活かした伝統的な萩焼の白釉を兄休雪と共に革新させ、いかにも純白に近いような、いわゆる「休雪白」を創造した。「休雪白」のように白釉を極端に厚塗りする技法は古萩にはなく、いかにもモダンなスタイルでもある。この「休雪白」を用いて「白萩手」「紅萩手」「荒ひび手」といった、独特の質感を呈する豪快かつ大胆なスタイルを創成させている。 67年、兄の休雪の隠居後、三輪窯を受け継ぎ十一代休雪を襲名。76年紫綬褒章、82年には勲四等瑞宝章を受章、83年4月13日に重要無形文化財「萩焼」保持者に認定された。兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙とされる。その後も作陶への探究を続け、粗めの小石を混ぜた土を原料とした古くからの技法である「鬼萩」を自らの技法へと昇華させた。2003(平成15)年に長男龍作へ休雪を譲り、自らは壽雪と号を改めた。土練機を用いず土踏みでの粘土作りを続けるなど、全ての作陶過程を自らの手で行う事にこだわりを持ち、晩年まで活動を続けた。壽雪はいわば近代萩焼の革新者であり、それまで注目されなかった桃山時代の雄渾なるスタイルを現代に甦らせることで、現在美術としての萩焼を創出させたのである。その業績は、美濃焼における荒川豊蔵、唐津焼における中里無庵、あるいは備前焼における金重陶陽らに、匹敵するものであろう。しかし、じつのところは、あまり器用な作陶家ではなかったようだ。「不器用は、不器用なりに。茶碗の場合はの。器用すぎてもいかんのじゃ、これは。茶碗の場合はの。器用すぎるほど、土が伸びてしまっていかんのじゃ。やっぱし技術的には稚拙なところが、多少はあるほうが茶陶、茶碗としては、好ましい雰囲気のものになるわけじゃ」と本人は語っている。

大場松魚

没年月日:2012/06/21

 蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)の大場松魚は6月21日午前11時5分、老衰のため石川県津幡町のみずほ病院で死去した。享年96。 1916(大正5)年3月15日、石川県金沢市大衆免井波町(現、金沢市森山)に塗師の和吉郎(宗秀)の長男に生まれる。本名勝雄。1933(昭和8)年3月、石川県立工業学校図案絵画科を卒業、父のもとで家業の髹漆を学ぶ。43年3月、金沢市県外派遣実業練習生として上京し、金沢出身の漆芸家で同年5月に東京美術学校教授となる松田権六に師事。内弟子として東京都豊島区の松田宅に寄宿して2年間修業を積み、松田の大作「蓬莱之棚」などの制作を手伝った。45年3月、研修期間終了のため金沢に帰り、海軍省御用のロイロタイル工場に徴用されるが、徴用中に「春秋蒔絵色紙箱」を制作し、本格的な作家活動に入る。終戦後、同作品を第1回石川県現代美術展に出品して北国新聞社賞を受賞し、金沢市工芸展に「飛鶴蒔絵手箱」を出品して北陸工芸懇和会賞を受賞。46年2月の第1回日展に「蝶秋草蒔絵色紙箱」を出品して初入選。同年10月の第2回日展に出品した「槇紅葉蒔絵喰籠」は石川県からマッカーサー(連合国軍最高司令官)夫人に贈呈されたという。48年の第4回日展に「漆之宝石箱」を出品して特選を受賞。52年6月から翌年の9月にかけて第59回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御太刀箱)を制作。53年の第9回日展に「平文花文小箪笥」(石川県立美術館)を出品して北斗賞を受賞。このころから後に大場の代名詞となる平文技法を意識的に用い始める。56年の第3回日本伝統工芸展に出品して初入選。57年の第4回日本伝統工芸展に「平文小箪笥」を出品して奨励賞を受賞。同年は第13回日展にも依嘱出品し、これが最後の日展出品となった。58年の第5回日本伝統工芸展に「平文宝石箱」(東京国立近代美術館)、翌年の第6回展に「平文鈴虫箱」を出品して、ともに朝日新聞社賞を受賞。66年11月、金沢市文化賞を受賞。73年の第20回日本伝統工芸展に「平文千羽鶴の箱」(東京国立近代美術館)を出品して20周年記念特別賞を受賞。59年に日本工芸会の正会員となり、64年に理事、86年に常任理事に就き、87年から2003(平成15)まで副理事長として尽力した。60年以降は同会の日本伝統工芸展における鑑審査委員等を依嘱され、また86年から03年まで同会の漆芸部会長もつとめた。64年8月より67年5月まで中尊寺金色堂(国宝)の保存修理に漆芸技術者主任として従事。72年5月から翌年の3月にかけて第60回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御櫛箱・御衣箱)を制作。こうした機会を通じて古典技法に対する造詣を深めつつ、蒔絵の分野の一技法であった平文による意匠表現を探求して独自の道を開いた。平文は、金や銀の板を文様の形に切り、器面に埋め込むか貼り付けるかして漆で塗り込み、研ぎ出すか金属板上の漆をはぎ取って文様をあらわす技法である。大場の平文は、蒔絵粉に比して強い存在感を示す金属板の効果を意匠に生かす一方、筆勢を思わせるほど繊細な線による表現も自在に取り入れ、これに蒔絵、螺鈿、卵殻、変り塗などの各種技法を組み合わせて気品ある作風を築いたと評される。77年2月に石川県指定無形文化財「加賀蒔絵」保持者に認定され、78年に紫綬褒章を受章、そして82年4月に国の重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定された。漆芸作家としての人生を通して金沢に居を構え、多くの弟子を自宅工房に受け入れ、地場の後継者育成に尽力した功績は大きく、研修・教育機関においても、67年4月から輪島市漆芸技術研修所(現、石川県輪島漆芸技術研修所)の講師、88年から同研修所の所長をつとめ、77年4月には金沢美術工芸大学の教授に着任、81年3月の退任後(名誉教授)も客員教授として学生を指導した。

藤平伸

没年月日:2012/02/27

 陶芸家で京都市立芸術大学名誉教授の藤平伸は、2月27日老衰のため死去した。享年89。 1922(大正11)年7月25日、京都市五条坂の藤平陶器所を営む藤平政一の次男として生まれる。父政一と五条坂の作陶仲間として昵懇の仲であったのが、陶芸家河井寛次郎であった。じつは「伸」という名前の命名者は、父の畏友である河井寛次郎であったという。父の仕事を見ながら成長し、1940(昭和15)年に京都高等工芸学校(現、京都工芸繊維大学)窯業科に入学したが、二年生の時、結核に倒れて退学。四年間の闘病生活の間、スケッチや読書に明け暮れ、回復後は銅版画教室に通う。この時期の体験が後の作陶に大きな影響を与え、「病気をしていなかったら、いまの自分はなかった」と自ら語るように、死に対峙したことにより、清らかさの漂うメルヘン的な作風が培われたと考えられる。 51年頃、父のもとで陶芸の道に入り、53年に日展初入選。56年、京都陶芸家クラブに入って、六代目清水六兵衛氏の指導を受ける。以後、日展を主舞台に活動し、57年に第13回日展で陶板によるレリーフの「うたごえ」が、特選の北斗賞を受賞。我が国の工芸において富本憲吉、河井寛次郎、八木一夫等と共に近代の京都陶芸史に足跡を残す一人となった。70年に京都市立芸術大学に助教授として招かれ、73年に教授となって88年に退官するまで作陶と後進の指導を行っている。 その陶芸の作風には気負いは全く感じられず、まさに自然体の姿勢が創作への源ともなっていた。轆轤を使わず、手捻りやタタラで成形を行っている。作品は単に器だけでなく、人物(陶人形)や鳥や馬などの動物、建築物などの詩情溢れる陶彫も手掛けている。そのモチーフの多くは、中国・漢代や唐代などの俑に代表される、墓に埋納される明器からの影響を受けていた。器には鳥・花・人物などの具象的なモチーフを線描・刻線・貼り付けなどの技法を用いて、軽妙な作風を示している。それら心温まる陶彫と器の作品群などにより、「陶の詩人」とも呼ばれている。 62年に日展菊華賞、73年に日本陶磁協会賞、1990(平成2)年に京都美術文化賞、93年には毎日芸術賞などをそれぞれ受賞。日展評議員、京都市立芸術大学名誉教授でもあった。“遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の聲きけば 我が身さえこそ揺るがるれ”、という平安時代末期に後白河法皇により編まれた今様歌謡(『梁塵秘抄』巻第二)をとくに好み、書にも残している。この歌の精神を持った、まことに京都の文人らしい軽妙洒脱でメルヘンの世界をやきもので表現し、日本の創作陶芸において独自の境地を開拓した陶芸家であった。

細見華岳

没年月日:2012/01/01

 綴織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の細見華岳は1月1日、急性心不全のため死去した。享年89。 綴織は「爪で織る錦」とも称され、かつては天竺織、納錦、綴縷錦、などの字が充てられていた。経糸の下に原寸大の下絵を置き、杼に通した緯糸で経糸を綴りわけ文様を表す。その特長は、文様表現に必要な部分のみ色糸を入れるため、多彩で複雑な絵柄も自由自在に表現できる。綴織の技術者は爪先が櫛状に砥がれ整えられているが、細見華岳の爪も同様に整えられていたという。 綴織は正倉院御物にも確認されるが、日本で織りだされたのはいつ頃かは定かではない。林瀬平が織りだしたという説(『西陣天狗筆記』)や、京都御室にある仁和寺の僧が手内職に綴れを織り始めた、など諸説ある。明治時代に入ると2代川島甚兵衞の尽力もあり室内装飾品として重宝された。戦前までは京都の御室で織られたものが本綴れと称され、御室界隈には綴れを織る機屋が集中した。 細見華岳は1922(大正11)年8月23日、兵庫県氷上郡春日町(現、丹波市)の農家に生まれる。37年、京都西陣の帯の織元、京都幡多野錦綉堂に入所。綴織の技術を習得する。40年に始まる七・七禁令施行時には企業が川島織物などに合併されながらも仕事を続けていたが、43年に徴兵され満州第11国境守備隊に入隊する。敗戦後はシベリアに抑留され、48年に帰国。 帰国後、故郷の丹波へ戻ったが織物の道を再び志し、翌年、綴れの聖地御室に独立して綴織工房をもつ。独立後は羅の重要無形文化財保持者である喜多川平朗、友禅の重要無形文化財保持者である森口華弘などに指導を受けながら日本伝統工芸展を中心に活躍した。喜多川平朗に勧められ出品した第1回日本伝統工芸近畿展に出品し入選。その後、63年には第10回日本伝統工芸展に綴帯「ながれ」を出品し初入選。翌年の日本伝統工芸染織展では綴帯「陶彩」で日本工芸会賞を受賞する。65年、社団法人日本工芸会正会員に認定。68年、日本伝統工芸染織展にて日本工芸会賞受賞。この頃より「よろけ織」への挑戦を始める。75年、近畿支部日本伝統工芸展にて大阪府教育委員会賞受賞。同年、京都府伝統産業新製品作品展にて奨励賞受賞。 76年には、フランス・ポーランド・旧ユーゴスラヴィアで開催された「現代日本の染織展」に出品。84年の第21回日本伝統工芸染織展では紗変織夏帯「渚の月」にて文化庁長官賞受賞。翌年、第32回日本伝統工芸展では綴帯「友愛」にて日本工芸会会長賞を受賞。この作品は日中友好10周年を記念して中国へ行った時に訪ねた動物園の孔雀の美しさに感動し誕生したという。友愛の名はかつて戦った中国の人々が親切だったことに感動してつけられた。87年、第34回日本伝統工芸展では有紋薄物着尺「爽」が保持者選賞を受賞。1990(平成2)年には銀座・和光にて個展「綴と50年」を開催する。 翌年、沖縄県立芸術大学美術工芸学部教授に就任。97年まで学生の指導にあたる。92年、京都府指定無形文化財「綴織」保持者に認定。93年には勳四等瑞宝章を受章。96年銀座・和光にて個展「つづれ織・波と光」を開催。京都市の指定より5年後の97年には重要無形文化財「綴織」保持者(人間国宝)に認定される。98年、式年遷宮記念神宮美術館に綴帯「晨」等を献納。2002年、京都市文化功労者表彰。03年銀座・和光にて個展「-つづれ織・糸の旋律-」を開催。05年、西陣織物館に綴織額を寄贈。翌年、横浜のシルク博物館にて「-綴織に心をこめて-人間国宝 細見華岳展」が開催される。11年には卒寿を記念して「細見華岳展―つづれ織・糸の旋律―」(銀座・和光)を開催。 作品は文化庁、東京国立近代美術館、シルク博物館などに所蔵されている。

早川尚古齋

没年月日:2011/12/07

 重要無形文化財保持者(竹工芸)の五世早川尚古齋は12月7日、肺炎のため死去した。亨年79。 1932(昭和7)年6月12日、竹工芸家四世早川尚古齋の長男として大阪に生まれる。本名修平。初代は越前鯖江に生まれ、京都で修業したのちに大阪で名を馳せた籃師である。45年大阪空襲で2度の戦災に遭い、京都市右京区に居を移す。51年、京都府立山城高等学校卒業後、父のもとで修業に入る。号は尚坡。見て覚えろと言われ、時には四世の籃をほどいて独習した。その後、早川家に伝わる伝統的な鎧組、そろばん粒形花籃、興福寺形牡丹籃の3種類の形を習得し独立が許され、65年初めての個展を大阪三越で開催する。この時、今東光の命名によって尚篁と改号する。翌年、第13回日本伝統工芸展に「重ね編広口花籃」を初出品し初入選する。 76年、第23回日本伝統工芸展に「切込透文様盛物籃」を出品し日本工芸会奨励賞を受賞する。「切込透」とは早川家の伝統的な鎧組(幅の広い竹材を揃えて組む)を基本として五世早川尚古齋が考案したもので、幅広の材を部分的に細かく削り、幅の広いところと狭いところを組み合わせることにより透かし文様が表れる組み方である。伝統を踏まえた上での新たな試みが評価をされたといえる。77年、父・四世早川尚古齋三回忌を機に五世早川尚古齋を襲名する。同年、大阪美術倶楽部で襲名記念「歴代尚古齋展」を開催し、その後も京都市美術館「現代の工芸作家展―京都を中心とした―」(1978年)への招待出品、大阪大丸や大阪三越で多くの個展を開催する。 82年、50歳の時に第29回日本伝統工芸展ではじめて鑑査委員を務め、その後歴任する。83年、名古屋松坂屋本店で「竹の道30年展」を開催。同年、東京国立近代美術館で「伝統工芸30年の歩み展」が開催され後に同館所蔵となる「切込透文様盛物籃」(第23回日本伝統工芸展、日本工芸会奨励賞受賞作)を出品する。その後も展覧会への出品が続き、「竹の工芸―近代における展開―」(東京国立近代美術館、1985年)や「現代作家15人展」(京都市美術館、1985年)、「心と技―日本伝統工芸展・北欧巡回展」(1990年)や「第7期 現代京都の美術・工芸展」(京都府京都文化博物館、1990年)、「北欧巡回展帰国記念伝統工芸名品展」(大阪、名古屋、東京日本橋三越、1991年)に出品する。1991(平成3)年、以前より審査員などで活躍をしていた日本煎茶工芸協会常務理事に就任する。この頃には組技法の作品を多く出品し「組の早川」と称されるようになる。 92年、京都府指定無形文化財「竹工芸」保持者に認定される。その後も「現代京都の美術・工芸展」(京都府京都文化博物館、1995年)や京都府指定無形文化財保持者9人で開催した合同展覧会「伝統と創生」(京都府京都文化博物館、2000年)などに出品する。96年、第43回日本伝統工芸展に「透文様盛物籃」を出品し、重要無形文化財保持者から選ばれる日本工芸会保持者賞を受賞する。 99年、国際芸術文化賞を受賞する。2001年、初代尚古齋の縁の地にある福井県鯖江市資料館で「竹工芸の技と美―早川尚古齋展」が開催される。02年竹芸の道五十年と古希を記念して『「竹芸の道」五十周年記念 五世早川尚古齋作品集』を刊行する。

井波唯志

没年月日:2011/01/25

 漆芸家の井波唯志は1月25日、急性心不全にて死去した。亨年87。 1923(大正12)年3月10日、代々加賀蒔絵を営む二代目喜六斎の長男として金沢市に生まれる。本名忠。1944(昭和19)年東京美術学校附属文部省工芸技術講習所卒業。在学中は漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に師事し美術工芸の方向を探求するようになる。その後、父の二代目喜六斎(日本工芸会正会員)より加賀蒔絵の技術を習得するが、活躍の場は日本工芸会ではなく日展や日本現代工芸美術展が中心となる。両展で評価を受けたものの多くが漆屏風や漆芸額であり題材も抽象的でモダンな作風である。 46年、第2回日展で出品した手筥「夏の蔓草」が初入選。以来、連続入選し、第10回日展では漆屏風「彩苑」が第1回改組日展では漆屏風「化礁譜」が特選・北斗賞を受賞する。74年には日展会員に、その5年後には日展評議員に就任する。1994(平成6)年、第26回日展では漆屏風「晴礁」が日本芸術院賞を受賞し、翌年には日展理事に就任している。 一方、日本現代工芸美術展では64年の第3回展に出品した「白日」が現代工芸賞を受賞する。その後も同展での活躍が続き、第5回展出品の「風かおる」や第8回展出品の「湖精」が外務省に、第10回展出品の「海の棹歌」がノルウェー・トロンドハイム美術館買い上げとなる。84年に開催された第23回展では漆芸額「汀渚にて」が内閣総理大臣賞を受賞する。なお、第10回では審査員も務め、75年には現代工芸美術家協会理事に就任する。 これらの活躍と並行し、53年には輪島市立輪島漆器研究所所長に就任する。その後十五年間にわたり漆芸パネルや大型家具の開発など時代に合わせた漆器意匠開発に努める。75年には石川美術文化使節副団長として渡欧。翌年から二年間にかけて横浜高島屋で父子漆芸展を開催し、同展以降は父喜六斎の作品と共に出品されることも多くなる。 その後も「金沢四百年記念国際工芸デザイン交流展」(1982年)や開館記念特別展「現代漆芸の巨匠たち」(輪島漆芸美術館、1991年)、「開館十周年記念特別展 石川の美術―明治・大正・昭和の歩み―」展(石川県立美術館、1994年)、浦添市美術館開館5周年記念「輪島漆芸展」(浦添市美術館)、特別展「輪島の現在漆芸作家」(石川県輪島漆芸美術館、1997年)、「日蘭交流400周年記念日本現代漆芸展」(ヤン・ファン・デルトフト美術館、2000年)、友好提携石川県輪島漆芸美術館10周年記念「漆芸の今、現代輪島漆芸」展(浦添市美術館、2001年)、「現代漆芸作家―輪島の今:開館15周年記念展」(輪島漆芸美術館、2006年)等に出品を重ねる。また、大阪心斎橋大丸や日本橋三越で多くの個展を開催する。 2008年にはイタリア・ローマ日本文化会館で開催されたローマ賞典祭「北陸の工芸・現代ガラス工芸展」に花器「洋々」を出品。長年の活躍の場でもあった第48回日本現代工芸美術展(2009年)に「翔陽」を、そして第42回日展に「宙と海の記憶」(2010年)を出品している。2011年には石川県輪島漆芸美術館「漆、悠久の系譜:縄文から輪島塗、合鹿椀:開館20周年記念特別展」において父喜六齋の「縞模様研出蒔絵宝石箱」とともに第32回日展へ出品した漆屏風「水澄めり」が出品される。 加賀蒔絵の系譜を想起させる伝統的な蒔絵の作品だけでなく、朱漆等が印象的で抽象的な作風も多く見られる。蒔絵粉の粒度や細やかな技法の違いによる表現を検討するため、必ず試験手板を数種類制作した上で作品に用いたという。上記以外にも北國文化賞(1982年)や石川テレビ文化賞(1985年)、輪島漆器蒔絵組合功労賞(1986年)、紺綬褒章(1987年、1990年)、漆工功労者表彰(日本漆工協会、1993年)、石川県文化功労賞(1994年)、勲四等旭日小綬章(1995年)を受賞(章)している。 2013年、石川県輪島漆芸美術館で回顧展でもある「漆革新 井波家四代の足跡」が開催される。作品は石川県立美術館や石川県輪島漆芸美術館に所蔵されている。

永山光幹

没年月日:2010/03/22

 刀剣研磨で重要無形文化財保持者である永山光幹は3月22日死去した。享年90。1920(大正9)年3月21日、神奈川県中郡相川村(現、厚木市)の農家に7人兄弟の末子として生まれる。本名永山茂。1934(昭和9)年、14歳のとき東京下谷区黒門町の研師で、鑑定家でもあった本阿弥光遜に入門し、刀剣研磨の道に進む。師の光遜は水戸の本阿弥家の研師であったが、別系統で名人と呼ばれていた本阿弥琳雅に学び、将軍家や大名の所蔵していた刀剣を代々伝承された技で研ぐ家研ぎの継承者であった。44年、兵役に召集され歩兵第49連隊に入営し中国に出征し、現地でも軍刀の研磨に従事した。46年、復員し、ただちに光遜に再入門するが、戦後進駐軍による日本刀の没収、愛好家や旧大名の経済力の低下などにより、本格的な研磨の依頼はほとんどなかったと本人は回顧している。48年に日本刀の保存を目的として設立された日本美術刀剣保存協会が開催した55年の研磨技術発表会で無鑑査に認定され、名実ともに名工との評価を得、同展の審査委員となる。56年神奈川県平塚市で開業、59年中郡大磯町西小磯に転居し、弟子を採り始める。永山の功績の大きなところは、秘伝、奥義といった貴重な成果を隠してはならないとして、技術を開示したことと、後継者を多く養成したことである。68年に平塚の旧宅に「永山美術刀剣研磨研修所」を開設し、月謝制によって研磨の技術を教えたことでも裏付けできる。78年、ユネスコの要請によりベネチアの東洋美術館の所蔵刀剣の調査を行い、帰国後10点を研磨した。研磨した刀剣は春日大社の国宝の金装花押散兵庫鎖太刀、重要文化財の堀川国広はじめ多くの重要文化財がある。また『刀剣鑑定読本』、『日本刀を研ぐ』など刀剣の研磨、鑑定に関する著作もある。1998(平成10)年、重要無形文化財に認定され、2000年勲四等旭日小綬章を受章する。

伊砂利彦

没年月日:2010/03/15

 染色作家の伊砂利彦は3月15日、肺がんのため死去した。享年85。1924(大正13)年9月10日、伊砂藤太郎、正代の長男として京都市中京区三条猪熊町に生まれる。実家は3代続いた友禅の糊置き業であった。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業。44年に海軍二期予備生徒として滋賀海軍航空隊に入隊。45年終戦とともに復員。京都市立絵画専門学校図案科卒業。以後、家業の染色に従事する。戦後の失業者救済事業として、友禅染を元来の分業ではなく一貫作業で行う工房の経営を任される。この経験は、複雑な染色工程や技術を学ぶ機会となった。その後、仕事増加により生活も安定する一方、作品の制作をはじめる。富本憲吉の「模様より模様を作らず」に感銘を受け、同氏が主催する新匠会で活躍することとなる。当初は蝋纈染の作品を制作していたが、その後、型絵染へと表現技法が変化していく。そこには初期の新匠会を牽引し、型絵染で活躍した稲垣稔次郎の存在があったという。53年、第8回新匠会公募展に蝋纈パネル「新芽」を出品、初入選。以後、同展に連続出品する。54年に工房を開設。松、水、音楽や海などをテーマに幅広い作品を制作した。58年新匠会会友となり、翌年には新匠会会員となる。63年京都の土橋画廊で初個展、型絵染「松シリーズ」小品展開催以降、継続的に個展を開催する。71年第26回新匠会展出品の着物「流れ」が富本賞受賞。同年、京都・射手座で安田茂郎と二人展を開催。75年に新匠会が新匠工芸会と改称され、同会の会務責任者となる。80年には「近代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)、「染と織 現代の動向」展(群馬県立近代美術館)に出品。世界クラフト会議ウィーン会場で、着物を展示し日本の着物について講演する。82年には「ろう染の源流と現代展」(サントリー美術館)や「染色展」(西武美術館)に出品。83年「現代日本の工芸―その歩みと展開―」(福井県立美術館)に出品。84年、京都芸術短期大学客員教授となる。85年、第40回新匠工芸会展で型絵染屏風「スクリャービン 焔にむかって」が第40回新匠工芸会記念大賞を受賞。87年『伊砂利彦作品集』(用美社)を出版。88年京都市京都芸術文化協会賞を受賞。1989(平成元)年京都府京都文化功労賞と京都美術文化賞を受賞。同年、沖縄県立芸術大学教授となる。90年フランス政府より芸術文化勲章シュバリエ章を受章。91年「羽衣」パリ公演(世界文化会館、ユネスコホール)の舞台美術を担当。第46回新匠工芸会に型絵染屏風「沖縄戦で逝きし人々にささげる鎮魂歌」等を出品。以降、沖縄を主題とした作品が評価を受ける。92年第47回新匠工芸会展で「海に逝きし人々に捧げる鎮魂歌」で第47回新匠工芸会富本賞受賞。京都市文化功労者となる。93年沖縄県庁舎警察棟の記念碑彫刻と壁面装飾を制作。「現代日本の染織」展(福島県立美術館)に出品。94年「現代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)や「現代の染め―4人展」(国立国際美術館)に出品。95年沖縄県立芸術大学奏楽堂緞帳を制作。99年、フランスのシャルトルステンドグラス国際センターで個展「フランス、パリ―シャルトル」を開催。「京の友禅」展(目黒区美術館)に出品。2001年、京都芸術センターで、特大和紙型絵染「月四部作」を公開制作し、内覧会を開催。03年「音楽による造形のきもの」展(フランス シャルトル―サンテチェンヌ)に出品。04年、京都市美術館別館にて「-傘寿を記念して-伊砂利彦と11.5人展」開催。05年、東京国立近代美術館工芸館にて「伊砂利彦―型染の美」展開催。京都迎賓館に型絵染額装「花」「一文字松」「水の表情12景」を制作。06年、「音と形の出会い―伊砂利彦とドビュッシーをめぐって―」展開催(京都芸術センター)。京都迎賓館に型絵染屏風「ムソルグスキー展覧会の絵」より「リモージュの市場」「キエフの大門」を制作。沖縄県立芸術大学名誉教授となる。同年、『型絵染 伊砂利彦の作品と考え』(用美社)を出版。ここには、40年に亘る作品がまとめられている。08年、福島県立美術館にて「伊砂利彦 志村ふくみ 二人展」開催。同展では両氏による共同制作も行われた。09年、第64回新匠工芸会展では「孫よりの贈りもの バラの園」が審査員特別賞受賞。10年、日本文化藝術財団の第1回創造する伝統賞を受賞。11年には追悼「伊砂利彦回顧展」(福島県立美術館)が開催された。作品は京都国立近代美術館、東京国立近代美術館、福島県立美術館などに収蔵されている。

河合誓徳

没年月日:2010/03/07

 陶芸家で日本芸術院会員の河合誓徳は3月7日、肺炎のため死去した。享年82。1927(昭和2)年4月3日、大分県東国東郡国見町竹田津の円浄寺住職父坂井誓順、母シゲの二男として生まれる。少年期、考古学の本に掲載された土器に魅せられ陶芸への憧れを抱く。40年、旧制宇佐中学校に入学。43年鹿児島海軍航空隊甲飛13期飛行練習生として入隊、上海海軍航空隊を経て、45年終戦により復員。47年京都にて日本画家山本紅雲に師事。49年国東へ戻されるが、陶磁の道を諦められず単身で佐賀県有田町諸隈貞山陶房に弟子入り。色絵付を学ぶ。51年京都の加藤利昌陶房にて下絵付に従事。52年京都陶芸家クラブに加入、6代清水六兵衛に師事。同年、第8回日展に「花器」を初出品、初入選。以降、入選が続く。53年12月6日、河合栄之助の長女登志子と結婚。河合家の後継者となる。その後、61年設立の日本現代工芸美術家協会にも活躍の幅を広げる。この時期の作品は白磁を中心とした造形性追求の時代と評される。62年日展で「蒼」が特選・北斗賞を受賞。64年第3回日本現代工芸美術展入選の「白磁瓶」が台湾、中南米各国に巡回。以降、日本現代工芸美術展の海外巡回に精力的に参加。66年現代工芸美術家協会会員になる。68年日展で「宴」が菊華賞を受賞。同年、京都工芸美術展審査員を務める。69年第1回改組日展の審査員を務める。71年日本現代工芸美術10回記念展では審査員を務める。同展に「円像」を出品し現代工芸会員賞・文部大臣賞を受賞。72年日展会員となる。75年紺綬褒章を受章。朝日会館において個展を開催。76年現代工芸美術家協会理事に就任。77年、スイス・スピッ芸術協会より文化交流のため招聘され作品展を開催。約1ヶ年に亘り、スイス国内主要都市に於いて作品巡回。「白象」がベルン美術館に保存される。79年日展で「翠影」が会員賞受賞。同年、用の重要性を主張する新日本工芸家連盟を結成し総務委員に就任。第1回日本新工芸展では審査員を務める。同展に「卓上の宴」を出品。この頃より、作品が壺や鉢などの大器から筥などの小さなものへと変化していく。その後、日展と日本新工芸展を中心に活動を行う。80年日展評議員になる。81年個展を高松国立公園屋島山上美術画廊遊仙亭(10月)、大分トキハ(11月)で開催。83年第5回日本新工芸展「木立の道」で内閣総理大臣賞を受賞。7月1日~7日東京銀座和光ホールにおいて個展を開催。85年11月7~12日には「大分トキハ創立50周年記念トキハ会館落成記念河合誓徳陶芸展」を開催。87年「高島屋美術部80周年記念陶筥展」を東京、横浜、大阪、京都で開催。88年、オーストラリア建国200年新工芸10回記念展では実行委員を務め、「釉裏紅富貴」(八角陶筥)を出品。この頃より染付の青や 裏紅の赤で表現する作品を数多く発表。1989(平成元)年、日展で「行雲」が内閣総理大臣賞受賞。高島屋横浜店創業30周年記念「瑞松」展開催。高知とでん西武において陶筥展開催。90年大阪高島屋において「花・草原・雲」展開催。91年、第13回日本新工芸展「草映」で内閣総理大臣賞受賞。2月東急デパートにおいて陶芸三人展(加藤卓男、北出不二雄、河合誓徳)を開催。92年3月、第10回京都府文化賞功労賞受賞。パリ三越エトワール開館記念NHK主催日本の陶芸「今」に「釉裏紅富貴」「草映」(陶筥)出品。11月西武池袋店において「甦る釉裏紅 河合誓徳四十年の歩み展」開催、続いて大分トキハに巡回。93年京都高島屋において「彩象 河合誓徳展」開催。95年日展監事になる。京都高島屋において「香炉展」開催。97年日本芸術院賞受賞、日展理事に就任。東京、横浜、京都、大阪高島屋にて「古稀記念 河合誓徳展」開催。98年京都市文化功労者として表彰される。2000年日本新工芸家連盟副会長に就任。02年大分県立芸術会館にて「河合誓徳展―磁器の新しい表現を求めて」開催。東京・京都高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。日本新工芸家連盟会長に就任。03年、大阪・名古屋・横浜高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。映像資料「日本の巨匠次世代へ伝えたい芸術家二百人の素顔」(第3巻、細野正信監修、日本芸術映像文化支援センター製作・著同朋舎メディアプラン)が発行される。同年、日本新工芸家連盟会長に就任。05年日本芸術院会員、07年日展常務理事、08年日展顧問を務める。

蓮田修吾郎

没年月日:2010/01/06

 日本芸術院会員で文化勲章を受章した金属造型作家の蓮田修吾郎は1月6日午後10時24分、敗血症のため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院で死去した。享年94。1915(大正4)年8月2日石川県金沢市野田町に父修一郎、母つぎの長男として生まれる(幼名「修次」)。1928(昭和3)年石川県立工業学校図案絵画科へ入学、卒業制作「藤下遊鹿」で御大典記念奨学資金賞を受賞。1933年東京美術学校工芸科鋳金部予科へ入学、翌34年同校の工芸科鋳金部へ入学。この年から母の命名により「修吾郎」と呼称する。36年同人と工芸新人社(翌年に工芸青年派と改称)を設立、作品を発表(~39年)。38年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業するに際し優等証書及び銀時計(陸奥宗光伯爵奨学資金賞)を拝受。在学中高村豊周の指導を受け、実在工芸美術展に出品し入選を重ね、38年第3回展では卒業制作の鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」で実在工芸賞を受賞。39年から45年まで軍役をつとめ、46年に復員して金沢に帰る。48年金沢市在住の同人とR工芸集団を設立し作品を発表(~49年)。49年第5回日展に鋳銅「水瓶」を出品(~2009年)、初出品初入選。同年上京して東京都板橋区に住む。51年第7回日展に鋳白銅「鷲トロフィー」を出品、特選、朝倉賞を受賞。52年同人と創作工芸協会を設立し作品を発表(~59年)。53年第9回日展に鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」を出品、北斗賞を受賞。57年日ソ展招待出品に際し鋳銅「氷洋の幻想」がソ連政府買上となる。59年第2回日展(新日展)に黄銅浮彫「野牛とニンフ」を出品、文部大臣賞を受賞し金沢市に寄贈。同年東京芸術大学美術学部非常勤講師となる。60年同人と工芸「円心」を設立し作品を発表(~69年)。61年第4回日展に鋳銅浮彫「森の鳴動」を出品、日本芸術院賞を受賞。同年現代工芸美術家協会の設立に際し常務理事に就任、東京芸術大学美術学部助教授(鋳金研究室主任)となる。62年鋳銅浮彫「仁王の印象」(1955年第11回日展出品作)と青銅方壺「方容」が日本政府買上となり、前者は西ドイツ首相に、後者はメキシコ大統領に献上される。同年より開催の日本現代工芸美術展に出品(~2006年)。65年西ドイツのベルリン芸術祭使節として渡欧、中近東各国を視察。同年「修吾郎」の呼称が法的に認可され戸籍上の名前となる。66年紺綬褒章を受章。同年第1回個展を日本橋高島屋で開催。67年に鎌倉へ住居を移しアトリエを新築する。69年社団法人日展が改組、理事に就任。70年第2回個展を銀座石井三柳堂で開催。71年神奈川県工芸会の会長に就任。72年神奈川県と静岡県在住の工芸作家による現代工芸美術家協会神静会の設立に際し会長に就任。1973年第3回個展を日本橋高島屋で開催。74年日展(改組日展)の常務理事に就任。75年東京芸術大学美術学部教授、日本芸術院会員となる。76年現代工芸美術家協会の副会長に就任。同年4月に東京芸術大学美術学部教授を退任、12月に日本金属造型研究所(東京都銀座7丁目)を設立し理事長に就任。77年独日文化協会会長の招聘により訪独し、西独をはじめ欧州各地を視察する。78年美術雑誌『ビジョン』に欧州紀行を執筆(連載)。同年第1回日本金属造型作家展を開催、以後毎年西独の金属造型作家を招待して日独文化交流展とする。79年『黄銅への道』を出版。80年日本金属造型作家展ドイツ巡回展に同行(ハンブルグ美術工芸博物館をはじめ7都市)。81年現代工芸美術家協会の会長に就任、日本金属造型振興会が財団法人として国に認可され理事長に就任。同年『蓮田修吾郎・金属造型』を出版。この年の9月27日、79年から総理府と北方領土対策協議会の制作依頼を受けた根室ノサップ岬の北方領土返還祈念シンボル像「四島のかけ橋」が完成し、以降、山梨県清里の森モニュメント「森の旋律」(87年)、金沢駅西広場モニュメント「悠颺」(91年)をはじめとする野外のモニュメント等の公共性の高い作品を日本金属造型振興会を拠点に数多く手がける。82年ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章。同年『公共の空間へ』を出版。86年東京芸術大学名誉教授となる。同年「今日の金属造型展-日本とドイツの作家たち-」を開催(石川県立美術館ほか3館巡回)。『環境造形への対話』を出版。87年文化功労者となり、1991(平成3)年文化勲章を受章する。92年石川県名誉県民、金沢市名誉市民となる。96年日展の顧問に就任。98年に現代工芸美術家協会の最高顧問に就任。03年鎌倉生涯学習センター市民ギャラリー「蓮田修吾郎の世界展」開催、07年鎌倉市名誉市民となり、09年鎌倉市鎌倉芸術館で「金属造型の世界 鎌倉市名誉市民 蓮田修吾郎展」が開催される。「用即美」という工芸理念を掲げ35年に設立された実在工芸美術会の展観に出品した戦前の活動を経て、戦後は日展を中心に出品しつつ、用を度外視した「純粋美」の探求と創造を主張する日本現代工芸美術協会をはじめ創作工芸協会や工芸「円心」等の新しい工芸団体の設立に関わり出品活動を展開した。戦後の作品は大別すると、「方壺」に代表される立体造型の追求と浮彫による壁面装飾的な心象風景シリーズの展開の二系列が際立つ。ここに彫刻的、絵画的な要素を消化した金属造型の在り方が模索され、構想され、やがて工芸と建築、公共空間との接点が加味されるに至り、後年の日本金属造型振興会を拠点とする金属による環境造型の制作活動が展開された。没後、作品と資料等が金沢市に寄贈され、2012年に金沢21世紀美術館市民ギャラリーで「蓮田修吾郎展」が開催されている。

大隅俊平

没年月日:2009/10/04

 刀匠で日本刀の重要無形文化財保持者である大隅俊平は10月4日、胃がんのため自宅で死去した。享年77。1932(昭和7)年1月23日、群馬県新田郡沢野村富沢(現、太田市富沢町)に生まれる。本名貞男。1946年、沢野尋常小学校を卒業。52年7月、長野県埴科郡坂城町の刀匠宮入昭平(昭和38年重要無形文化財認定)に師事する。57年刀剣類作刀承認を文部省から得る。翌58年、財団法人日本美術保存協会主催の新作技術発表会に初出品した刀が最優秀賞を受賞する。60年、師昭平への師事を終え、太田市富沢町に帰り制作を始める。59年から64年まで作刀技術発表会で毎年優秀賞および入選を重ねる。65年、財団法人日本美術保存協会主催の第1回新作名刀展(作刀技術発表会を改変)出品の太刀で努力賞、翌年の第2回でも努力賞を経て、67年の第3回から69年の第5回展で連続して特賞である名誉会長賞を受賞し、その後も文化庁長官賞、毎日新聞社賞受賞を続け、72年、新作名刀展無鑑査となる。74年に出品の太刀が重要無形文化財保持者、無鑑査からの出品作品を含めた全作品の中から最優作として正宗賞を受賞し、名実ともに最も優れた現代刀匠の一人と認められるに至った。77年、群馬県指定重要無形文化財保持者に認定され、翌78年には新作名刀展において2度目の正宗賞を受賞した。1997(平成9)年、国の重要無形文化財に認定された。作品は太刀、刀、短刀で、太刀には3尺(90㎝)を超える大太刀もある。理想とした作風は鎌倉時代後期の京都の来派(らいは)や備中の青江派(あおえは)で、太刀は反りの高い優美な姿を見せている。鍛えは小板目肌で、刃文は来国俊や来国光にみる小沸(こにえ)のついた直刃に小互の目が交じり、小足(こあし)の入ったものと、青江派の匂口が締った直刃に逆足が入ったものが多い。また初期には互の目乱れや丁字刃の刃文を焼いた作がある。代表作は2回の正宗賞受賞の直刃の太刀や、東京国立博物館蔵の太刀、太田市の3尺7寸(112cm)の大太刀で、このほか伊勢神宮の遷宮のための直刀や、高松宮殿下、同妃殿下、高円宮殿下のお守り刀などの制作を行なっている。

増田三男

没年月日:2009/09/07

 彫金家で彫金の無形文化財保持者である増田三男は、9月7日、老衰のため自宅で死去した。享年100。1909(明治42)年4月24日、埼玉県北足立郡大門村に父伸太郎、母チカの7人兄弟の三男として生まれる。1924(大正13)年、埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業、埼玉県立浦和中学校を経て、1929(昭和4)年、20歳で東京美術学校(現、東京藝術大学)金工科彫金部に入学する。大学では清水亀蔵(南山)、海野清らに学ぶ。34年、彫金部を卒業し、さらに同美術学校金工科彫金部研究科にすすみ、36年同研究科を終了する。在学中の33年、第14回帝展に「壁面燭台」が初入選する。研究科終了後は同校資料館で国宝をはじめとする文化財の模造制作に従事し、また個人的には柳宗悦が主宰した民芸運動に関心をいだき民芸論を研究した。この頃の工芸関係の公募展は帝展が最高権威であり、また国画会展の工芸部も有力であった。当時国画会工芸部は民芸派の作家が多く活躍しており、帝展の美術品としてのレベルの高さや技術力よりも、実際に生活の場で使える工芸作品が出品されていて、増田自身は師である清水南山らが出品していた帝展(のちに文展)と、国画会工芸部の両方に出品した。36年、11回国画会に出品した「筥」2点が初入選をはたしている。この国画会における工芸部門の創設に尽力した陶芸家富本憲吉に図案の指導を受け、以後増田は富本憲吉を生涯の師と仰ぐようになる。39年には第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が特選、42年の第17回国画会展では「野草文水指」が国画奨励賞を受賞した。戦時中はとくに金属使用の規制や奢侈品等製造販売禁止令などが発布されて金工作家はとくに苦境におちいったが、第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が入賞したことにより金属材料の配給を受け、その技術保存の立場から制作を続けることができた。第二次世界大戦中の44年、中学のときの母校である浦和中学の美術講師となり、以後76年に退職するまで30年以上にわたって木工芸の授業を担当した。62年、第9回日本伝統工芸展に初出品した「金彩銀蝶文箱」が東京都教育委員会賞を受賞したのを期に、その活躍の場を日本伝統工芸展とするようになり、69年、同展出品の「彫金雪装竹林水指」が朝日新聞社賞を受賞、1990(平成2)年、「金彩銀壺 山背」が保持者選賞を受賞した。91年、82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定される。増田の作品は初期の第14回帝展「壁面燭台」(うらわ美術館蔵)や煙草セット(1937年・東京国立近代美術館蔵)等は、鉄の廃材を利用した当時としてはモダンな作品であった。40年代後半からは古文化財の模造によって培われた日本伝統の自然をイメージした小作品を生涯にわたって制作した。箱、壺、水指などを、銀をはじめ素銅、真鍮を打ち出し成形し、そこに菟、鹿や鴛鴦、蝶、梅や柳などの身近な動植物を意匠として、それを蹴彫、切嵌象嵌、布目象嵌によって表し、地には魚々子や千鳥石目を施した作が多い。また金や銀の鍍金による彩金の技法によって季節感、自然感を豊かに表現した。

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