本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





高村規

没年月日:2014/08/13

 写真家の高村規は、8月13日心不全のため死去した。享年81。 1933(昭和8)年5月15日東京市本郷区駒込林町(現、文京区千駄木)に生まれる。父は鋳金家高村豊周、祖父は彫刻家高村光雲、彫刻家で詩人の高村光太郎は伯父。58年日本大学芸術学部写真学科卒業。在学中の56年に高村光太郎が死去、翌年開催された「高村光太郎遺作展」(三越日本橋本店)のために、初めて光太郎の彫刻作品を撮影する。同じく57年に刊行された彫刻写真集『高村光太郎』(高村豊周他編、筑摩書房)の写真を担当、筑摩書房嘱託となり、雑誌『太陽』のグラビア撮影などを担当する。大学を卒業した58年より伊藤憲治デザインルームに勤務、59年よりフリーランスとなる。広告やファッションなど幅広い仕事を手掛ける一方、日本広告写真家協会には設立初期より加わり、後に同協会副会長(1985-89年)、会長(1998-2002年)を歴任、日本写真協会理事(1999-2003年)を務めるなど写真業界団体における活動にも尽力した。また71年より長く金沢美術工芸大学で非常勤講師として教鞭を執った。 美術作品の撮影にも取り組み、とくに全作品の撮影を担当した『高村光太郎彫刻全作品』(六耀社、1979年)や『光太郎と智恵子』(共著、新潮社、1995年)などの高村光太郎・智恵子夫妻に関する写真の仕事の他、父、祖父の仕事を集成する『高村豊周作品集 鋳』(筑摩書房、1981年)、『高村規全撮影 木彫 高村光雲』(中教出版、1999年)などの写真集を上梓、また「高村光太郎 彫刻の世界」展(銀座和光、1981年)、「光太郎の巴里」(キヤノンサロン、東京、大阪、福岡他、1989年)、「木彫 高村光雲」(文京シビックセンター、2003年)などの個展を開催するなど、高村家の芸術家をめぐる撮影をライフワークとして数多く手掛け、75年以来、高村光太郎記念会理事長も務めた。 2004(平成16)年旭日小綬章を受章。また同年文京区区民栄誉賞を受賞した。

外山ひとみ

没年月日:2014/06/01

 写真家、ジャーナリストの外山ひとみは6月1日、急性骨髄性白血病のため東京都内の病院で死去した。享年55。 1958(昭和33)年9月1日静岡県富士市に生まれる。静岡県立吉原高校卒業。高校時代に写真部に所属し写真を撮り始める。79年東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業。この年、自費出版で写真集『家』を刊行。以後、フリーランスの写真家として人物取材を中心に雑誌などに発表する。 さまざまな社会的テーマに取り組み、90年代にはアジアに関心を広げ、1994(平成6)年から95年にかけてはインドシナ半島を小型バイクで縦断してヴェトナムを取材、個展「ヴェトナム・ドリーム」(コニカプラザ、東京、1995年)を開催、97年にはヴェトナムと日本で写真展「ヴェトナム颱風」を同時開催した。 写真および文章による著作を数多く発表、主なものに『MISS・ダンディ―男として生きる女性たち』(新潮社、1999年)、『ヴェトナム颱風』(新潮社、2003年)、『平成の舞姫たち』(モーターマガジン社、2010年)、『ニッポンの刑務所』(講談社、2010年)、『女子刑務所―知られざる世界』(中央公論新社、2013年)、『All Color ニッポンの刑務所30』(光文社、2013年)など。刑務所の取材には20年以上にわたってライフワークとして取り組み、国内数十か所の刑務所や少年院のドキュメンタリーを通じて、受刑者の生活だけでなく、犯罪の背景や司法制度の問題など幅広い観点から日本社会の一面を描き出す仕事として評価された。

内山英明

没年月日:2014/04/14

 写真家の内山英明は4月14日、脳出血のため死去した。享年65。 1949(昭和24)年12月7日静岡県菊川町(現、菊川市)に生まれる。76年東京綜合写真専門学校中退。日本各地で旅役者や傀儡師を取材、78年の「粧像記」(銀座ニコンサロン)、81年「日本劇場・梅沢家の人々」(新宿ニコンサロン)などで発表し評価される。80年代には自らと同世代である30代の作家や音楽家などの表現者の撮影、また80年代後半からは「迷宮都市」というテーマで世界各地の都市の撮影に取り組んだ。1992(平成4)年から2年にわたり、日本で初めて性行為によるHIV感染を公表した平田豊の支援活動に関わるとともに、彼を取材した『いつか晴れた海で―エイズと平田豊の道程』(吉岡忍との共著、読売新聞社、1994年)を刊行。 93年に東京の未来的な都市空間を撮影する過程で地下施設を取材、これをきっかけに都市の地下空間をテーマとする撮影に着手。それらの仕事をまとめた2000年の個展「JAPAN UNDERGROUND 地下の迷宮 II」展(銀座ニコンサロン、2000年)により、第25回伊奈信男賞を受賞。同年写真集『JAPAN UNDERGROUND』(アスペクト)を刊行。同シリーズはこれ以降08年の第4集まで刊行され、その第3集『JAPAN UNDERGROUND3』および、夜の都市風景をテーマとする『東京デーモン』 (ともにアスペクト、2005年) により、第25回(2006年)土門拳賞、また都市の地下に取材した一連の仕事により、06年日本写真協会賞年度賞を受賞した。 13年には、東日本大震災による福島原発の事故以前から日本各地で原子力関連の実験施設や研究所に取材を重ねていた作品による個展「アトムワールド」(新宿ニコンサロン)を開催するなど、都市やその地下に取材した90年代以降の一連の仕事は、いずれも文明史的なスケールを持ち、同時代に対する鋭い洞察をはらんだ仕事として高く評価された。 上記以外の主な写真集に『等身大の青春―俵万智』(深夜叢書社、1989年)、『都市は浮遊する』(講談社、1993年)、『東京エデン』(アスペクト、2007年)などがある。

岡村崔

没年月日:2014/02/04

 写真家の岡村崔は2月4日、肺がんのため死去した。享年86。 1927(昭和2)年12月13日、東京府下吉祥寺に生まれる。5歳の頃、両親の故郷静岡県に転居。幼少期は相良、その後静岡市内に移り、45年静岡県立静岡中学(現、静岡高校)卒業。48年に芝浦工業専門学校(現、芝浦工業大学)を卒業し、日本大学工学部(現、理工学部)建築学科に入学(のち中退)。中学在学中より登山を始め、山岳風景の写真にも取り組むようになる。58年、登山の国際大会に参加するため初めて渡欧。この頃より専攻した建築から関心を広げ、ロマネスクの彫刻などヨーロッパの文化、美術に興味を持ち、渡航を重ねる。65年にはローマに移住、ヨーロッパ各地の美術作品や教会建築などの撮影を中心に美術写真の専門家として活動するようになった。高所作業が必要な建築装飾や壁画の撮影を、登山の経験を生かして数多く手掛け、とくにヴァティカン市国システィナ礼拝堂のミケランジェロによるフレスコ画「天地創造」をはじめとした壁画の撮影は、80年から約20年に渡って行われた修復作業の前後およびその過程において、細部にわたって壁画全体を精密に記録したもので、美術史家ケネス・クラークが「ミケランジェロのベールを剥がした」と記すなど国際的に高く評価された。1995(平成7)年に帰国後は静岡に暮らした。 国内外の多くの美術書のための撮影に携わり、その主なものに『大系世界の美術』(全20巻、学習研究社、1971-1975年)、『世界彫刻美術全集』(全13巻、小学館、1974-1977年)、鹿島卯女編『ローマの噴水』(鹿島出版会、1975年)、高階秀爾編『受胎告知』(鹿島出版会、1977年)、『ミケランジェロ・ヴァティカン壁画』(アンドレ・シャステル解説、講談社、1980年)、『ミケランジェロ ヴァティカン宮殿壁画』(嘉門安雄解説、講談社、1981年)、M.パロッティーノ他『エトルリアの壁画』(青柳正規他訳、岩波書店、 1985年)、フレデリック・ハート他『ミケランジェロ・システィーナ礼拝堂』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1990年)、『NHKフィレンツェ・ルネサンス』(全6巻、日本放送協会出版、1991年)、ピエールルイージ・デ・ヴェッキ他『最後の審判』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1996年)、ピエールルイージ・デ・ヴェッキ他『システィーナ礼拝堂 甦るミケランジェロ』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1998年)などがある。 また「ミケランジェロのヴァティカン壁画」(西武美術館他、1980年)、「ヴァティカン宮ラファエロの壁画」(大丸ミュージアム、大阪他、1987年)、「ボッティチェリ ヴィーナスの誕生・春」(大丸ミュージアム、大阪他、1989年)などの展覧会でもその仕事が紹介された。 システィナ礼拝堂の撮影などに対し81年日本写真協会賞年度賞、『NHK フィレンツェ・ルネサンス』に対し92年第15回マルコ・ポーロ賞(監修者他との共同受賞)など、多数の賞を受けた。

秋山忠右

没年月日:2013/06/25

 写真家の秋山忠右は、6月25日肺炎のため死去した。享年72。 1941(昭和16)年3月17日東京都品川に生まれる。早稲田大学政治経済学部を経て、64年東京綜合写真専門学校研究科を卒業。写真家石元泰博に師事する。65年にフリーランスとなり、同年、東京綜合写真専門学校の同期で、同じく石元に師事していた佐藤晴雄と共同制作した「若い群像」を発表。この作品により65年の第二回準太陽賞を受賞。同作は広角レンズを使用し雑踏の中で都会の若者の存在をとらえたもの。佐藤とはその後も共同制作を続け、社会的な視点に立ったさまざまな作品を雑誌、展覧会などで発表した。 個人としての作品も精力的に発表、主な写真集に小説家北方謙三と組んで冷戦末期の東西ヨーロッパやカリブのカーニヴァル、アフリカ、東南アジアなどを取材した『国境流浪』(平凡社、1990年、のち京都書院より上下巻で文庫化、1998年)、20世紀最後の10年を迎えた首都の様相を空撮によって記録した『空撮大東京』(昭文社、1991年)、現代農業に従事する多彩な人々を取材した『farmer』(冬青社、2000年)、東京郊外国道16号線沿いの犯罪現場跡を取材した『ZONE-郊外・事件の記憶』(日本カメラ社、2004年)などがある。個展での発表も多く、1998(平成10)年にはニコンサロンでの長年の展示活動に対し、伊奈信男特別賞を受賞した。 またコマーシャル撮影も手がけ、91年ACC全日本CMフェスティバル・テレビCM部門優秀賞、92年カンヌ国際広告祭(現、カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル)入賞などの受賞がある。 70年より長く母校である東京綜合写真専門学校の講師を務め、2001年には同校を運営する学校法人写真学園の理事に就任した。

管洋志

没年月日:2013/04/10

 写真家の管洋志は、4月10日大腸がんのため死去した。享年67。 1945(昭和20)年7月9日福岡県福岡市に生れる。68年日本大学芸術学部写真学科卒業。大学の先輩にあたる木村惠一と熊切圭介の協同事務所K2で約一年間アシスタントを務める。69年より約一年半ネパールに滞在、同地で中国からのチベット族の難民を取材し、帰国後、初の個展「チベット難民」(銀座ニコンサロン、1970年)を開催した。以降もアジア各地での撮影を重ねるとともに、アジアの人と風土へのまなざしの原点として、自身の原体験でもある故郷福岡の博多祇園山笠の撮影にとりくんだ。83年、写真集『博多祇園山笠』(講談社)、『魔界 天界 不思議界 バリ』(講談社)を刊行。84年には一連のアジア取材の成果として雑誌に発表された「戦火くすぶるアンコールワット」他の作品により第15回講談社出版文化賞写真賞を受賞した。87年には写真集『バリ・超夢幻界』(旺文社、1987年)で第6回土門拳賞を受賞、1998(平成10)年には写真集『ミャンマー黄金』(東方出版、1997年)で第14回東川賞国内作家賞を受賞した。 日本国内およびアジア各地での取材対象は、背後にあるアジア共通のコスモロジーへの関心を基盤としつつ、土地ごとの自然や風土に根ざした人々の生活や信仰、祭礼など多岐に及び、カラーフィルムを駆使した独特の色彩の写真による作品世界を構築した。アジアをめぐる取材を重ねる一方で、児童福祉施設や盲学校などに取材した子供たちをめぐる仕事にも長年にわたってライフワークとしてとりくんだ。また母校日本大学の客員教授、ニッコールクラブ顧問などを歴任し、後進やアマチュア写真家の指導にあたるとともに、2000年日本写真家協会の常務理事に就任、企画担当として同協会主催の「日本の子ども60年」(東京都写真美術館、2005年、以降海外各地を巡回)、「生きる―東日本大震災から一年」(富士フォトギャラリー新宿、2012年、仙台およびドイツ・ケルンに巡回)などの企画運営に尽力した。 死去の翌年、長く顧問を務めたニコンサロンで遺作展「一瞬のアジア people and nature in harmony」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン、2014年)が開催された。

二川幸夫

没年月日:2013/03/05

 建築写真家、編集者の二川幸夫は、3月5日腎盂がんのため死去した。享年80。 1932(昭和7)年11月4日大阪市に生まれる。大阪市立都島工業高等学校で建築を学び、早稲田大学文学部に進む。美術史を専攻し56年に卒業。在学中、同大学教授で建築史家の田辺泰の示唆を受けて飛騨高山の古民家を訪れ、これをきっかけに日本各地の民家の撮影に着手した。約7年にわたって続けられた取材は、57年より『日本の民家』(文・伊藤ていじ、美術出版社、全10巻、1957-1959年)として刊行され、59年に第13回毎日出版文化賞を受賞。以後、建築写真家として古典的な建築物から現代の建築家の作品まで、国内外の多様な建築の撮影を重ねた。70年、建築専門の出版社「A. D. A. Edita Tokyo」を設立。企画・編集・撮影をてがけた『フランク・ロイド・ライト全集』(全12巻、1985-1991年)や建築写真誌『GA(Global Architecture)』(77号まで発行、1970-1999年)など数多くの書籍、雑誌を刊行する。その多くは日英併記であり、上質な写真によって海外の建築を紹介するとともに日本の建築を国際的に発信するうえで大きな役割を担った。 建築空間を的確にとらえる写真家としての確かな技量に加え、安藤忠雄の初期作品をいちはやく評価し、その後長く撮影を続け作品集を作るなど、現代建築に関する造詣の深さ、見識の高さで知られ、その写真は記録としてだけでなくすぐれた批評としても機能し、建築界に影響を与えるものであり続けた。出版活動も含めた活動は国際的にも評価され、75年アメリカ建築家協会(AIA)賞、85年国際建築家連合(UIA)賞、1997(平成9)年日本建築学会文化賞など国内外から多くの賞を受けた他、97年に紫綬褒章、2005年には旭日小綬章を受章している。 死去の直前、国内の美術館としては初の個展となる「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」(パナソニック汐留ミュージアム、2013年、青森県立美術館に巡回)が開会し、講演会を行うなど、最晩年まで精力的な活動を展開していた。

東松照明

没年月日:2012/12/14

 写真家の東松照明は、12月14日肺炎のため那覇市内の病院で死去した。享年82。 1930(昭和5)年1月16日愛知県名古屋市に生まれる。本名・照明(てるあき)。50年愛知大学経済学部に入学。写真部に入部し、カメラ雑誌の月例公募欄への応募などの制作活動とともに、52年の全日本学生写真連盟の結成に向けた活動にも携わる。54年同大学を卒業、上京し『岩波写真文庫』の特別嘱託を経て、56年よりフリーランスとなる。59年奈良原一高、川田喜久治、細江英公らと写真家の自主運営によるエージェンシー「VIVO」を結成(1961年解散)。65-69年多摩芸術学園写真学科講師、66-73年東京造形大学助教授。72年沖縄に移住、那覇および宮古島に約2年にわたって滞在後、帰京。86年に心臓のバイパス手術を受け、87年療養を兼ね千葉県一宮町に移住。1998(平成10)年に長崎市、2010年からは沖縄市に移り住んだ。 『中央公論』誌に発表した「地方政治家」(1957年)などの一連のルポルタージュが評価され、57年度日本写真批評家協会賞新人賞を受賞、61年には土門拳とともに撮影にあたった『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』(原水爆禁止日本協議会、1961年)により同作家賞を受賞するなど、第二次世界大戦後に出発した新世代の写真家の旗手として早くから注目された。60年代には在日米軍の存在を通して戦後社会を見据えた「占領」や、消えゆく日本の原風景としての「家」、被爆地長崎をテーマとした「NAGASAKI」など、同時代の日本社会の根底を深く掘り下げる一連の作品にとりくみ、評価を確立する。67年には自ら出版社「写研」を設立、写真集『日本』(1967年)、『おお! 新宿』(1969年)、機関誌『KEN』(1970-1971年)などを刊行、また66年より日本写真家協会主催の「写真100年」展(1968年)に編纂委員として参加、同展をもとに刊行された『日本写真史1840-1945』(平凡社、1971年)の編集、執筆にも携わるなど多彩な活動を展開した。 米軍基地への関心から60年代末よりたびたび沖縄を取材で訪れ、沖縄の返還後には長期滞在し、沖縄の風土に日本の原風景を重ね見た写真集『太陽の鉛筆』(カメラ毎日別冊、毎日新聞社、1975年)を発表。同書により毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞。こうしたとりくみを通じて関心を同時代の社会から日本の基層文化へと広げ、また70年代後半にはそれまでのモノクロ中心からカラー中心へと転換するなど、沖縄滞在は一つの転機となった。帰京後74-76年には、宮古島で現地の若者と自主学校「宮古大学」を運営した経験を踏まえ、荒木経惟、森山大道らとWORKSHOP写真学校を開設・運営。この活動はその後の写真家による自主運営ギャラリーなどの活動の源泉の一つとされる。以後80年代にかけては、引き続き沖縄に取材した「光る風――沖縄」(撮影1973-1991年、写真集『日本の美 現代日本写真全集第8巻 光る風 沖縄』、1979年)、「京」(1982-1984年)、「さくら」(撮影1979-1989年、写真集『さくら・桜・サクラ120』、ブレーンセンター、1990年)などのカラー作品を発表。また81年には実行委員会形式の写真展「いま!! 東松照明の世界・展」が日本各地を巡回した。80年代後半から千葉県一宮町の海岸などで撮影された「プラスチックス」(撮影1987-1989年、個展1989年)、「インターフェイス」(撮影1991-1996年、一部先行作品の撮影は1966、1968-1969年。個展1996年)など、俯瞰構図で被写体を直截的に捉えつつ、抽象性を帯びたカラー作品を発表する。 90年代にはメトロポリタン美術館(1992年)、東京国立近代美術館(1996年)、東京都写真美術館(1999年)などで数多くの新作展や回顧展が開催され、2000年代に入ると「長崎マンダラ」(長崎県立博物館、2000年)以後、沖縄(2002年)、京都(2003年)、愛知(2006年)、東京(2007年)において、「マンダラ(または曼陀羅)」と題し、従来の発表の文脈を解体し、撮影地ごとに新たな視点で作品を編成し直した展覧会を開催。また海外で本格的な回顧展(「Shomei Tomatsu:Skin of the Nation」2004-2007年に、ニューヨーク、サンフランシスコ他、欧米5都市を巡回)が開催され、09年には「東松照明展:色相と肌触り 長崎」(長崎県美術館)、11年には「東松照明と沖縄:太陽へのラブレター」(沖縄県立博物館・美術館)、「写真家・東松照明全仕事」(名古屋市美術館)が開催されるなど、戦後の日本におけるもっとも重要な写真家の一人として、晩年にはその仕事への評価が進められた。95年に紫綬褒章、05年に日本写真協会賞功労賞を受ける。 三度にわたって写真集が刊行され、その後も撮影にとりくんだ「NAGASAKI」シリーズに典型的なように、東松はしばしば一つの主題を繰り返しとりあげ、また晩年には過去の作品をくり返し再検証し、新たな構成で発表を重ねた。こうした写真を「過去の時間」と「現在進行形の時間」という二重の時間性において問い直す営為を通じて、同時代に対して常にアクチュアルな問題提起を試みる姿勢は、文明論的な批評性を持つ視点のとり方や、独特の造形・色彩感覚にもとづく映像美とともに、東松の写真家としての仕事を特徴づけるものであった。作品はもとより、発言や行動を通じても同時代及び後続の世代に大きな影響を与えた。死去後の13年5月には『現代思想5月臨時増刊号 総特集東松照明 戦後マンダラ』が刊行された。

深瀬昌久

没年月日:2012/06/09

 写真家の深瀬昌久は、6月9日脳出血のため東京都多摩市内の老人養護施設で死去した。享年78。1992(平成4)年に新宿ゴールデン街の行きつけの店の階段から転落、脳挫傷により障害を負い、以降、療養を続けていた。 1934(昭和9)年、北海道中川郡美深町に生まれる。本名昌久(よしひさ)。実家は祖父の代から写真館を営む。家業の手伝いとして早くから写真に触れ、高校時代にはカメラ雑誌公募欄に作品を投稿するようになる。56年日本大学芸術学部写真学科を卒業、第一宣伝社に入社。64年日本デザインセンターに転職、67年に河出書房写真部長に就任するが翌年同社が倒産し退社、フリーランスとなる。 第一宣伝社に勤務していた60年に初個展「製油所の空」(小西六ギャラリー、東京)を開催。翌61年個展「豚を殺せ!」(銀座画廊、東京)を開催。芝浦の屠畜場で撮影したカラー作品と、妊婦のヌードや死産した嬰児などを撮影したモノクロ作品からなる二部構成の展示で注目され、以降、『カメラ毎日』などに作品を発表するようになる。63年に出会い64年に結婚した鰐部洋子(1976年に離婚)をモデルとし、演出された状況での撮影、日常生活や旅先でのスナップなど、さまざまな場面で彼女をとらえた写真による一連の作品は、この時期の深瀬の仕事の中核を成し、71年に出版された最初の写真集『遊戯』(映像の現代シリーズ第4巻、中央公論社)や『洋子』(ソノラマ写真選書、朝日ソノラマ、1978年)などに結実する。74-76年東松照明、荒木経惟ら6人の写真家がそれぞれ教室を開講するWORKSHOP写真学校の設立に参画、講師を務める。74年には「New Japanese Photography」展(ニューヨーク近代美術館)、「15人の写真家」(東京国立近代美術館)に出品。 76年から82年にかけて『カメラ毎日』に「烏」と題する連作を断続的に連載。76年開催の個展「烏」(新宿ニコンサロン、東京他)で第2回伊奈信男賞を受賞。86年、同連作による写真集『鴉』(蒼穹社)を出版。また71年に『カメラ毎日』に連載した「A PLAY」のために撮影を行ったことをきっかけに、実家の写真館のスタジオで肖像写真用大型カメラを使って家族を撮影する仕事を約二十年にわたって継続し、写真集『家族』(アイピーシー、1991年)にまとめた。87年には病床の父とその死を記録した作品による個展「父の記憶」(銀座ニコンサロン、東京他)を開催、後に写真集『父の記憶』(アイピーシー、1991年)にまとめる。故郷への旅と自らの分身のような烏を中心的なモティーフとした「烏」連作と、故郷の家族をめぐる一連の作品に区切りをつけたのち、90年代初頭に深瀬の仕事は、自分の姿を画面の一部に写し込んだ旅のスナップ「私景」の連作や、入浴する自分を水中カメラで撮影した「ブクブク」、飲み屋で出会った客と舌を接触させて撮影した「ベロベロ」など、自分自身の存在をさまざまなかたちで見つめる仕事へと展開していった。これらの作品からなる92年の個展「私景 ’92」(銀座ニコンサロン、東京)の数か月、転落事故に遭い、写真家としての活動は中断された。 92年、伊奈信男賞特別賞(ニコンサロンでの計10回の個展に対して)、第8回東川賞特別賞(写真集『鴉』、『家族』他一連の作家活動に対して)をそれぞれ受賞。

石元泰博

没年月日:2012/02/06

 写真家で文化功労者の石元泰博は、2月6日肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年90。 1921(大正10)年6月14日、アメリカ合衆国サンフランシスコで生まれる。両親は高知県からの移民。24年両親とともに高知県高岡町(現、土佐市)に移住。1939(昭和14)年高知県立高知農業学校(現、高知県立高知農業高等学校)を卒業、近代農法を学ぶために渡米し、カリフォルニア大学農業スクールに進むが、第二次大戦の開戦により、42年コロラド州の日系人収容所アマチ・キャンプに収容される。44年沿岸諸州への居住禁止を条件に終戦前にキャンプから出ることを許され、シカゴに移住。当初建築を学ぶためノースウェスタン大学に入学するが、キャンプ時代にとりくみはじめた写真趣味が高じ、シカゴでスタジオを経営していた日系人写真家ハリー・K.シゲタ(重田欣二)の推薦を得て地元のカメラクラブに入会、さらに写真を学ぶため48年、インスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス、49年にイリノイ工科大学に編入)写真科に入学、ハリー・キャラハン、アーロン・シスキンらに師事した。52年同校を卒業。在学中50年に『Life』誌のヤング・フォトグラファーズ・コンテストに入賞、また優秀学生に授与される学内賞モホリ=ナジ賞を51年、52年に受賞するなど早くからその才能を示した。 53年に帰国。この際、ニューヨーク近代美術館の写真部長を務めていた写真家エドワード・スタイケンの依頼により「The Family of Man」展の出品作品の収集にあたるが、日本の写真界の協力が十分に得られず作品を集めることができなかった。同年開催の「現代写真展 日本とアメリカ」(国立近代美術館、東京)には、スタイケンが選択・構成を担当したアメリカ側の作家の一人として選ばれ出品。またこの年来日したニューヨーク近代美術館建築部門キュレーターの調査に同行、はじめて桂離宮を訪問、撮影に着手した。こうした過程を通じて知り合った吉村順三や丹下健三ら建築家や、批評家瀧口修造、デザイナーの亀倉雄策らが、バウハウスの流れを汲む正統なモダニズムにもとづく石元の作品をいちはやく評価する。丹下とは後に『桂 日本建築における伝統と創造』(丹下およびW.グロピウスとの共著、国内版、造形社、英語版、イェール大学出版部、1960年、改訂版、1970年)を出版した。54年には瀧口修造の企画により個展(タケミヤ画廊、東京)を開催。また54年開校の桑沢デザイン研究所で写真の授業を担当する(滞米時等の中断をはさみ、66年まで)。57年第1回日本写真批評家協会賞作家賞を受賞(「日本のかたち」「桂離宮」に対して)。58年、造形・構成的な傾向の作品から街中での人物スナップまで、シカゴおよび東京で撮りためたさまざまな写真を三部構成にまとめた写真集『ある日ある所』(芸美出版社)を刊行。 56年に勅使河原蒼風のもとで華道を学んでいた川又滋と結婚。アメリカ国籍であったためビザ更新の必要があり、58年末に夫人とともにアメリカに戻り61年末までシカゴに滞在した。この間同地で撮りためた作品により、62年個展「シカゴ、シカゴ」(日本橋白木屋、東京)を開催。69年には写真集『シカゴ、シカゴ』(美術出版社)を刊行し、同書により翌年毎日芸術賞を受賞する。シカゴから戻ると当初は藤沢に居を定め、71年には品川に移住。この間、66年から72年まで東京造形大学写真科教授として教育に携わる。69年には日本国籍を取得した。 60年代以降の石元は、建築写真および日本の伝統文化をめぐる作品、シカゴおよび東京を中心とする都市風景をめぐる作品、ポートレイト、多重露光などの技法を駆使した実験的な作品など、多様な仕事にとりくんでいく。いずれにおいてもシカゴで学んだモダニズム写真を背景とした、確かな造形感覚や高い写真技術、また自らに妥協を許さない姿勢に裏打ちされたすぐれた仕事を数多く発表し、日本写真界における独自の評価を確立していった。この時期の代表的な作品に、芸術選奨文部大臣賞および日本写真協会賞年度賞(1978年)を受賞した「伝真言院両界曼荼羅」(73年撮影、個展、西武美術館、東京、1977年他国内外を巡回、写真集『教王護国寺蔵 伝真言院両界曼荼羅』平凡社、1977年)や、修復後の81年に再撮影した「桂」(個展「桂離宮」西武百貨店大津ホール、滋賀、1983年他、写真集『桂離宮 空間と形』磯崎新と共著、岩波書店、1983年)、山手線の29の駅の周辺を8x10インチ判カメラで撮影した「山の手線・29」(個展、フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1983年)、同じく大判カメラで花を撮影した「HANA」(個展、フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1988年、写真集『HANA』求龍堂、1988年)など。 80年後半から90年代以降、石元は、路上の落ち葉や空き缶、雪に残る足跡、自宅から見た雲など、刻々と形を変えていく被写体をめぐる一連の作品にとりくむ。「さだかならぬもの」と写真家自身が呼んだこれらの被写体をめぐる仕事は「石元泰博―現在の記憶」(東京国立近代美術館フィルムセンター展示室、1996年)などで発表された。こうした試みは2000年代にかけて、より不定形な被写体である水面の反射や、渋谷の雑踏でのノーファインダー撮影によるスナップショットなどへと展開し、写真集『刻―moment』(平凡社、2004年)、『シブヤ、シブヤ』(平凡社、2007年)などにまとめられ、晩年になっても新たな探求を続ける姿勢が注目された。また90年代以降には、「石元泰博―シカゴ、東京」展(東京都写真美術館、1998年)、「Yasuhiro Ishimoto:A Tale of Two Cities」(シカゴ美術館、1999年)、「石元泰博写真展1946-2001」(高知県立美術館、2001年)、「石元泰博写真展」(水戸芸術館、2010年)などの回顧展が開催され、長いキャリアの再検証・評価も進められた。 上述以外の主な受賞・受章に83年紫綬褒章、1990(平成2)年日本写真協会賞年度賞、92年日本写真協会賞功労章、93年勲四等旭日小綬章などがある。96年には文化功労者に選ばれ、死去後、正四位旭日重光章が授与された。 01年の高知県立美術館での個展開催をきっかけに、石元は故郷高知県に作品の寄贈を申し入れ、全作品の寄贈が04年に決定し、プリント、ネガフィルム、ポジフィルム、蔵書等が生前より没後にかけ、段階的に寄贈された。これをうけて14年6月、高知県立美術館に石元泰博フォトセンターが開設され、著作権管理を含む石元作品の保存・研究・普及を担うアーカイヴとしての活動を開始した。

杵島隆

没年月日:2011/02/20

 写真家の杵島隆は2月20日、敗血症のため東京都新宿区内の病院で死去した。享年90。 1920(大正9)年12月24日アメリカ合衆国カリフォルニア州カレキシコに、移民一世の父母のもと生まれる。旧姓渡邊。24年にいわゆる排日移民法が施行され、その影響を懸念し、母の実家である鳥取県西伯郡の杵島家に預けられ、養子として育てられる。1938(昭和13)年鳥取県立米子中学校卒業。アメリカ国籍であったため進学に不都合を生じ、電気会社に就職するが、39年養父の知人増谷麟が重役を務める東宝映画株式会社に増谷の推薦により入社し、東宝の委託学生として日本大学専門部映画科に入学する。42年同大学を繰り上げ卒業し、東宝撮影所に勤務。43年杵島家の籍に入り日本国籍を取得、海軍飛行予備学生に志願、海軍航空隊に任官し各地を転戦、福岡の基地で特攻待機中に終戦を迎え、除隊後帰郷。 終戦直後に知人からカメラを譲られ、中学時代にとりくんだ写真撮影を再開、作品を作り始めるとともに、郷里で現像・焼き付けや撮影などの仕事を手がけるようになる。48年には同郷の写真家植田正治に師事。戦後に復刊した『アサヒカメラ』、『カメラ』など写真雑誌の月例懸賞欄に作品を投稿、入賞を重ねる。とくに『カメラ』1950年5月号月例で特選となった「老婆像」は、ソラリゼーションの技法によるマチエールを生かした表現により、同欄の評者を務めていた土門拳に高く評価され、杵島の存在を広く知らしめるものとなった。50年植田を中心に山陰地方の若手写真家が結成した「写真家集団エタン派」に参加。広告写真の懸賞にもたびたび入賞し、53年には上京してライト・パブリシティに入社、広告写真家として活動を始める。55年にフリーランスとなり、56年キジマスタジオを設立。 広告写真家としてさまざまな撮影を手がけるかたわら、「グラフィック集団」(55年の第2回展から参加)、女性写真の分野で活躍する秋山庄太郎、稲村隆正らが結成した「キネグルッペ」(56年に参加)などの活動に加わり、58年には個展「裸」(富士フォトサロン)で、皇居桜田門前で撮影した斬新なヌード作品を発表するなど、作家活動も並行して展開した。 60年代以降も広告写真やファッション写真などの撮影のほか、テレビCMの制作やショーウィンドーディスプレーなど幅広い分野の仕事を手がける。とくに蘭の撮影と、歌舞伎や文楽などの伝統芸能をめぐる撮影はライフワークとなり、75年に出版された写真集『蘭』(講談社)により76年日本写真協会賞年度賞を受賞した。その他の主要な写真集に『義経千本桜』(日本放送出版協会、全4冊、1981年)、『裸像伝説1945-1960』(書苑新社、1998年)がある。 58年に日本広告写真家協会の結成に参画した他、日本写真家協会副会長(88-90年)、東京写真文化館館長などを務めた。1991(平成3)年に勲四等瑞宝章、2001年に日本写真協会賞功労賞を受賞。また同年には米子市美術館で回顧展が開催された。詳細な年譜が同展図録に収載されている。

熊谷元一

没年月日:2010/11/06

 写真家、童画家の熊谷元一は、11月6日老衰のため東京都内の介護施設で死去した。享年101。1909(明治42)年7月12日、長野県下伊那郡会地村(現、阿智村)に生まれる。1929(昭和4)年長野県飯田中学校(現、飯田高等学校)卒業。30年下伊那郡で尋常高等小学校の代用教員となる。33年長野県教員赤化事件(2.4事件)に連座し退職。幼少の頃より絵に関心を持ち、代用教員在職中に童画(子供向けの絵画)にとりくみ始める。32年絵本雑誌『コドモノクニ』に初めて作品が掲載され、以後、郷土を描く童画家としての評価を高め、教職を辞した後は童画に専念。34年指導を受けていた童画家武井武雄の依頼で、童画制作の資料のために案山子を撮影したことから写真に興味を持ち、36年初めてカメラを購入。写真を用いた村誌の制作を思い立ち、約2年間かけて農村の暮らしを撮影する。それをまとめた手作りの写真帳が美術評論家の板垣鷹穂に評価され、板垣の推薦により、38年『会地村 一農村の写真記録』が朝日新聞社より出版される。これを契機として39年拓務省(のち大東亜省に吸収)に嘱託として採用され上京、事務全般を担当する傍ら満州出張の折に現地を撮影。童画家としても絵本『ヤマノムラ』(教養社、1942年)、同『あの村この村』(博文館、1943年)を出版する。終戦後は郷里の小学校の教師に復職。49年より農林省農業綜合研究所駐村研究員に任じられたことを機に、写真撮影を再開。教職の傍ら、農村の婦人の生活を調査、撮影。53年に新評論社から『村の婦人生活』として刊行するとともに、それらの写真を岩波写真文庫編集部に送ったことをきっかけに同写真文庫において、いずれも伊那谷を撮影地とした『かいこの村』(岩波写真文庫84、1953年)、『農村の婦人 南信濃の』(同121、54年)、『一年生 ある小学校教師の記録』(同143、1955年)が出版される。53年に担任したクラスを1年間記録した『一年生』は、第1回毎日写真賞を受賞するなど高く評価された。66年小学校教員を定年退職し、東京都清瀬市に移住。退職後に発表された絵本『二ほんのかきのき』(福音館、1968年)は版を重ね約30年で総部数が100万部に達し、童画家としての代表作となった。清瀬移住後も郷里阿智村の撮影を続け、『ある山村の昭和史 写真記録集 信州阿智村39年』(信濃路、1975年)、『グラフィック・レポート ふるさとの昭和史 暮らしの変容』(岩波書店、1989年)などを出版するとともに、移住先の清瀬でも市内の風景や市民生活にレンズを向け、その成果は『清瀬の三六五日―写真集』(清瀬市郷土博物館、1999年)などにまとめられた。写真と童画によって長年にわたって郷土の暮らしに眼を向け続けた熊谷の営為は、昭和の終わりから平成初頭の時期、昭和という時代を回顧する気運の高まりの中で改めて評価され、その顕彰が進んだ。81年に阿智村で「熊谷元一童画写真保存会」が発足、88年村内に熊谷から寄贈された作品を保存展示するふるさと童画写真館(のち熊谷元一童画写真館に改称)が開設された。1990(平成2)年には第40回日本写真協会賞功労賞を受賞。92年『画集 熊谷元一の世界』(郷土出版社)刊行。93年長野県教育関係功労賞受賞。94年地域文化功労者として文部大臣表彰を受ける。同年『熊谷元一写真全集』(全4巻、郷土出版社)により第48回毎日出版文化賞を受賞。95年には伊那谷の暮らしと文化を童画と写真により記録し続けた功績により信濃毎日新聞社から第2回信毎賞を受賞した。96年阿智村により熊谷元一写真賞創設。97年には『日本の写真家17熊谷元一』(岩波書店)が刊行された。評伝に矢野敬一『写真家・熊谷元一とメディアの時代』(青弓社、2005年)がある。

高田誠三

没年月日:2010/10/02

 写真家の高田誠三は、10月2日扁桃扁平上皮がんのため死去した。享年81。1928(昭和3)年10月14日、大阪に生まれる。49年大阪府立化学工業専門学校(現、大阪府立大学工学部)卒業。ハリス株式会社(現、クラシエフーズ)に入社し、チューインガムの研究に従事。在学中の48年に浪華写真倶楽部に入会。戦後の再興途上にあった同倶楽部において若手の中心的なメンバーの一人として頭角を現し、各種のコンテストで入賞を重ね、評価を高めた。56年、勤務先の会社を辞し写真家として独立、商業写真などを手がけるが、70年代半ばより、風景写真へのとりくみを活動の中心とするようになる。69年より75年までなんばデザイナー学院教授、76年より大阪芸術大学で教鞭を執り、講師、助教授、教授を歴任。1998(平成10)年からは同大学写真学科長を務め、2000年に退任した。大学での教育とともに、浪華写真倶楽部や、理事を務めた全日本写真連盟、02年の創設より参加した日本風景写真協会の活動などを通じ、多くの後進やアマチュア写真家の指導、育成にあたった。風景写真の第一人者として、日本の自然の美を生涯のテーマとし、長年にわたって四季を通じて各地に取材を重ねた。主として35mmカメラを使用し、平明でありながら完璧な風景の美を追究した作風によって知られた。『アサヒカメラ』などの写真雑誌に発表された作品も多く、作品集に『彩々流転』(日本写真企画、1991年)、『高田誠三集』(ブティック社、1998年)など、また写真技法書として『暗室の特殊技法』(朝日ソノラマ、1977年)がある。

藤井秀樹

没年月日:2010/05/03

 写真家の藤井秀樹は5月3日、肝臓がんのため八王子市内の病院で死去した。享年75。1934(昭和9)年8月28日東京に生まれる。本名秀喜。子供の頃からカメラに親しみ、高校在学中の52年に映画館の火災を撮影した写真が新聞紙面に掲載され、同年サン写真新聞優秀報道写真賞を受賞した。こうした経験から写真家を志し、54年日本大学芸術学部写真学科に入学。学業と並行して、秋山庄太郎に師事、助手を務める。57年婦人生活社に入社、ファッション誌『服装』の専属として、さまざまな撮影を担当。60年日本デザインセンターに移り、広告写真を担当、自動車会社の広告のために日本で初めて本格的な自動車のスタジオ撮影にとりくむなど、新しい広告写真表現で注目された。63年に同社を辞し、フリーランスとなり、65年スタジオ・エフ設立。同年、丘ひろみをモデルに起用したマックスファクター社の広告写真によりスペイン新聞広告賞金賞を受賞、以降8年にわたって手がけた同社の広告により評価を確立する。75年に国際写真雑誌『Zoom』29号で特集されるなど、その作品は海外でも評価が高く、生涯にわたって広告写真の一線で活動を続けた。また女優のポートレイトも多く手掛け、それらをまとめた『藤井秀樹女優作品集』(竹書房、1994年)が出版されている。全身に化粧を施したモデルを被写体に日本の伝統美を表現した、メークアップアーティスト小林照子との共同作業による「からだ化粧」の連作は、81年の展覧会(オリンパスギャラリー、東京・新宿)での発表以降、ライフワークの一つとなった。84年に出版された写真集『からだ化粧』(日本芸術出版社)などにより85年第35回日本写真協会賞年度賞を受賞。また80年代半ばからは感光乳剤を布や石などさまざまな素材に塗布して支持体とする印画技法を試み、独自に「フジイグラフィ(Fグラ)」と呼んで作品制作にとりくんだ。90年代後半からは小児病院の設立などカンボジアの児童支援に尽力するとともに、たびたび同国を訪問し子供たちのくらしを撮影、2004年には『カンボジアと子どもたちの戦後』(丹精社)を上梓している。83年日本写真芸術専門学校に講師として招聘され、以後同校で教鞭を執り、02年から校長を務めた。また02年から04年まで社団法人日本広告写真家協会会長を務めた。

平敷兼七

没年月日:2009/10/03

 写真家の平敷兼七は、10月3日肺炎のため浦添市内の病院で死去した。享年61。1948(昭和23)年沖縄県今帰仁村上運天(なきじんそん・かみうんてん)に生まれる。67年琉球政府立(現、沖縄県立)沖縄工業高校デザイン科卒業。上京し東京写真大学(現、東京工芸大学)工学部に入学するが、写真撮影の技術を学ぶため69年同学を退学し、東京綜合写真専門学校に入学。折からの学園紛争による学校の閉鎖期間に沖縄の離島を撮影。在学中より個展「オキナワ・南灯寮」(沖縄タイムスホール、1969年)を開催、『カメラ毎日』誌に作品(「故郷の沖縄」、1970年3月号)を発表するなど写真家としての活動を始め、72年に同校を卒業、帰沖した。第二次大戦の戦闘や戦後の占領、復帰後も残る米軍基地などに翻弄され続けた同時代の沖縄の人々の生を、政治とは距離を置きつつ、沖縄固有の歴史や文化をふまえたさまざまな視点から撮影し、とくに「職業婦人」と題する娼婦たちをめぐる作品などで評価を得た。85年には沖縄の写真家嘉納辰彦、石川真生らと同人写真誌『美風』を創刊、87年に同人による合同展「美風」(那覇市民ギャラリー)を開催するなど地元に根ざした活動を展開。写真集に『沖縄を救った女性達』、『沖縄の祭り―宮古の狩俣島尻の夏プーズ』、『沖縄戦で死んでいった人達のための「俑」』(いずれも私家版、1992年)などがある。2007(平成19)年には約40年にわたる作家活動のなかから代表作によって編まれた写真集『山羊の肺 沖縄一九六八―二〇〇五年』(影書房)を上梓、この写真集をもとに構成した同題の個展(銀座ニコンサロン・大阪ニコンサロン、2008年)により、第33回伊奈信男賞を受賞した。現代沖縄の代表的な写真家の一人として、「琉球烈像―写真で見るオキナワ」展(那覇市民ギャラリー、2002年)、「沖縄文化の軌跡1872―2007」展(沖縄県立美術館、2007年)、「沖縄・プリズム1872―2008」展(東京国立近代美術館、2008年)などにもその作品が選ばれている。

砂守勝巳

没年月日:2009/06/23

 写真家の砂守勝巳は6月23日、胃がんのため東京都内の病院で死去した。享年57。1951(昭和26)年9月15日、沖縄本島浦添に生まれる。57年フィリピン出身で沖縄駐留米軍基地の軍属であった父が任を解かれ、母の故郷奄美大島に移り少年時代を送る。8歳になる直前に父は妻子をおいて帰国。15歳で母が死去、大阪に移り18歳でボクシングを始める。69年から71年までプロボクサーとして活動。引退前から現像所に勤務していたことをきっかけに写真に関心を持ち、74年大阪写真専門学院に入学。75年に卒業し写真家として活動を始める。82年に大阪、釜ヶ崎のドキュメントによる個展「露地流転」(キヤノンサロン銀座、大阪、広島他)を開催、84年同じく大阪・釜ヶ崎に取材した「大阪流転」で『プレイボーイ』誌(集英社)主催の第3回プレイボーイ・ドキュメントファイル大賞奨励賞を受賞。1889(平成元)年に写真集『カマ・ティダ―大阪西成』(IPC)を出版。86年に撮影の仕事で29年ぶりに沖縄を訪れたことをきっかけに、たびたび沖縄に撮影のため通うようになり、沖縄で出会った混血のパンク・ロッカーや自身の生い立ち、父との再会などについてつづった写文集『オキナワン・シャウト』(筑摩書房、1992年、のち『沖縄シャウト』と改題、講談社文庫、2000年)を出版。93年の個展「漂う島とまる水」(銀座および大阪ニコンサロン、奄美文化センター他)で発表された作品にもとづく写真集『漂う島とまる水』(クレオ、1995年)は、出生地であり幼少期を過ごした沖縄、母の出身地で少年時代を過ごした奄美、そして生き別れとなった父を訪ねたフィリピンという島をめぐる私的な旅を主題に、島嶼の自然や暮らし、現代史に翻弄された沖縄の現実へのまなざしなど重層的な構造を持つ作品として評価され、同作により96年第15回土門拳賞および第46回日本写真協会賞新人賞を受賞した。その他の著作に写文集『オキナワ紀聞』(双葉社、1998年、のち『沖縄ストーリーズ』と改題、増補、ソニーマガジンズ、2006年)、写真週刊誌時代の経験などをつづった『スキャンダルはお好き?』(毎日新聞社、1999年)がある。

佐々木崑

没年月日:2009/03/27

 写真家の佐々木崑は3月27日、脳出血のため埼玉県飯能市の自宅で死去した。享年90。1918(大正7) 年11月2日中国・青島に生まれる。本名幸一。23年に家族とともに神戸に移り、1937(昭和12)年神戸村野工業学校(現、神戸村野工業高等学校)を卒業、上京し日本理化工業(現、大陽日酸株式会社)に勤務する。39年より42年まで従軍、終戦を神戸で迎えた。中学時代より写真に関心を持ち、アマチュア写真家としてのキャリアを積み、戦後の51年に撮影行で神戸を訪れた木村伊兵衛の知遇を得、師事する。55年神戸でカメラ機材店を開業、57年には大阪に移り商業写真スタジオを経営するかたわら、神戸の麻薬地帯や遊郭、未就学児童といった社会問題をとりあげたルポルタージュを『アサヒグラフ』誌などに発表した。木村の誘いもあり60年にふたたび上京しフリーランスの写真家となり、木村の撮影の助手や62年に来日したW.ユージン・スミスの暗室助手も務めた。63年、科学映画の制作会社東京シネマに入社、スチル写真を担当、顕微鏡写真など特殊な科学写真の撮影に従事する。66年、『アサヒカメラ』1月号より「小さい生命」の連載を開始(80年6月号まで)、「続・小さい生命」(83年3月号より91年12月号まで)とあわせ、同誌上で256回の連載を通じ、昆虫や小動物の脱皮や羽化、誕生などの様子を接写した写真を発表し、自然科学写真の先駆者としての評価を確立する。同連載により72年第22回日本写真協会賞年度賞を受賞。68年には個展「小さい生命」(銀座ニコンサロン)を開催、以後、同題の個展は日本全国および海外でも開催された。主な写真集に『小さい生命』(朝日新聞社、1971年)、『ホタルの一生』(フレーベル館、1981年)、『MORPHE 花の形態誌』(アイピーシー、1988年)、『新・小さい生命』(朝日新聞社、1992年)、『誕生物語』(データハウス、1994年)など。また撮影に必要な機材を自作するなどカメラ機材や撮影技法についても深い知識を持ち、カメラ雑誌での機材テストや技法書の執筆などもてがけた。78年には竹村嘉夫らと日本自然科学写真協会(SSP)を設立、副会長に就任。81年より2002(平成14)年まで会長を務め、退任後名誉会長となる。また各地の写真団体の指導にあたるなどアマチュア写真家の育成にも尽力した。92年、勲四等瑞宝章を受章。2000年には第50回日本写真協会賞功労賞を受賞した。

稲越功一

没年月日:2009/02/25

 写真家の稲越功一は2月25日、肺腺がんのため東京都中央区の病院で死去した。享年68。1941(昭和16)年1月3日岐阜県高山市に生まれる。本名幸一。広告会社にグラフィックデザイナーとして勤務した後、70年有限会社イエローを設立し、フリーランスの写真家として活動を始める。71年、アメリカに取材した最初の写真集『Maybe, maybe』(求龍堂)を出版。繊細な感覚のストリートスナップで注目され、73年の『meet again』(写真評論社)ではテレビ画面のみを撮影するなど、社会性や政治性を捨象した新鮮な映像感覚の初期作品により評価を得た。雑誌等のエディトリアルな仕事も多くてがけ、とくに芸能人や歌舞伎役者を中心とする肖像写真には定評があった。シリーズ「男の肖像」(写真集は集英社刊、1981年)により80年第11回講談社出版文化賞写真賞を受賞。主要な写真集に『男の肖像』(集英社、1981年)、『女の肖像』(文藝春秋社、1984年)、『Ailleurs』(フランス コントルジュール社、1993年)、『使いみちのない風景』(朝日出版社、1994年、のち中公文庫、1998年)、『平成の女たち』(世界文化社、1996年)、『三大テノール日本公演公式写真集』(選択エージェンシー、1997年)、『アジア視線』(毎日新聞社、1999年)、『野に遊ぶ魯山人』(平凡社、2003年)、『まだ見ぬ中国』(NHK出版、2008年)など。文章の書き手としてもすぐれ、多くの写真集に自らつづったエッセイを収載した。『風の炎 稲越功一―印度朱光』(キヤノンクラブ、北欧社、1980年)や『記憶都市』(白水社、1987年、同年同題の個展を渋谷西武シードホールで開催)、『Out of Season INAKOSHI 1969―1992』(用美社、1993年)などにまとめられた叙情的な風景写真の仕事は、ライフワークとして続けられ、晩年は松尾芭蕉の足跡をたどる旅をモティーフとした「芭蕉景」と題するシリーズにとりくんでいたが、生前最後の個展となった「芭蕉景」(ライカ銀座店サロン、2009年)の会期中に死去。当初は自らも企画に加わっていた個展「Mind’s Eye 心の眼―稲越功一の写真」(東京都写真美術館、2009年)が死去の半年後に開催され、あわせて同題の写真集(求龍堂)が刊行された。

今井寿恵

没年月日:2009/02/17

 写真家の今井寿恵は2月17日、急性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年77。1931(昭和6)年7月19日東京市に生まれる。52年文化学院美術科卒業(油絵専攻)。父が銀座松屋の営業写真室を運営しており、父の知人の勧めもあって、文化学院卒業後に写真制作を始め、56年に初個展「白昼夢」(松島ギャラリー)を開催。カラーフィルムを用いた幻想的な作風で注目され、ファッション雑誌などの仕事と並行して、「心象的風景」(富士フォトサロン、1957年)、「ロバと王様とわたし」(月光ギャラリー、1959年)、「オフェリアそのご」(小西六ギャラリー、1960年)などの個展を開催。フォトモンタージュなどの技法を用いたフォトポエムと評される作品は、50年代初頭に隆盛したリアリズム写真運動から、主観主義写真など、より写真家個人の視点や内面に立脚し、造形的な側面も重視する写真表現へと移行していく当時の日本の写真界において高く評価され、59年には第3回日本写真批評家協会賞新人賞(個展「ロバと王様とわたし」に対して)、60年にはカメラ芸術賞大賞をそれぞれ受賞した。62年には評論家福島辰夫が中心になって企画した「NON」展(銀座松屋)に参加。しかし同年に交通事故に遭い、一時失明状態になるなどの後遺症のため制作活動を数年間休止する。交流のあった寺山修司の誘いで競馬場を訪れたことなどをきっかけに馬に関心を持ち、70年にイギリスで当時全盛期を迎えていた競走馬ニジンスキーに出会ったことからサラブレッドという新たなモティーフを得て、写真家としての活動を本格的に再開、71年個展「馬に旅して」(ニコンサロン)を開催した。以後、サラブレッドや騎手など、世界各地で競走馬をめぐる撮影を重ね、新たな評価を確立した。77年に出版した写真集『通りすぎる時―馬の世界を詩う』(駸々堂)により78年第28回日本写真協会賞年度賞を受賞。また2004(平成16)年にはJRA(日本中央競馬会)創立50周年に際し、特別表彰を受けた。主な写真集に『テンポイント』(駸々堂、1978年)、『シンボリルドルフ』(角川書店、1985年)、『サラブレッド讃歌』(玄光社、1987年)、『夢を駆けるトウカイテイオー』(角川書店、1994年)、『武豊』(角川書店、1994年)などがある。

小川隆之

没年月日:2008/10/08

 写真家の小川隆之は10月8日、肺気腫のため川崎市内の病院で死去した。享年72。1936(昭和11)年10月3日東京に生まれる。59年日本大学芸術学部写真学科卒業、文藝春秋社に入社、写真部に配属される。65年に同社を退社しフリーランスとなる。67年4月より68年3月までニューヨークに滞在して制作活動にとりくみ、帰国後『カメラ毎日』1968年9月号に滞米中の作品「New York Is」を巻頭32ページの特集により発表、同年にニコンサロン(東京、銀座)において同題の個展を開催。ベトナム戦争期のニューヨークの多様な現実をとらえた同シリーズにより68年、第12回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞する。以後、東京を拠点に報道、広告など広い分野で活躍し、コマーシャル・フィルムのカメラマンとしても多くの仕事を手がけた。代表的な仕事にオーソン・ウェルズをモデルに起用したニッカウヰスキーの広告シリーズがあり、写真およびテレビ・コマーシャル映像の撮影を担当した。82年にADC賞を受賞。また自らの作品制作にも継続的にとりくみ、主な個展に「オーソン・ウェルズ」(シードホール、東京、1987年)、「魂のメサ」(フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1999年)、「沈黙の肖像」(ギャラリーSOL、東京、2000年)などがある。90年代後半には、癌を患った経験から生まれた「Beyond the Mirror」と題する、レントゲン写真や自らの身体を題材とするフォトグラムによるセルフポートレートのシリーズを発表、新境地を開く。同シリーズは同題の個展(ヒューストン写真センター、アメリカ、1998年)で発表された他、東京都写真美術館で開催された「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」(1998年)にも出品された。

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