本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





福島菊次郎

没年月日:2015/09/24

 写真家・ジャーナリストの福島菊次郎は9月24日脳梗塞のため山口県柳井市の病院で死去した。享年94。 1921(大正10)年3月15日、山口県都濃郡下松町(現、下松市)に生まれる。太平洋戦争末期に二度にわたり陸軍に召集され、終戦まで従軍。戦後復員し、郷里で時計店を開業。戦争末期、広島の部隊に配属されるも、原爆投下直前に九州方面に配置されたことで被爆を免れた経験を持ち、戦後広島に通い、被爆者の撮影を重ねるようになる。写真雑誌への投稿などを通じ評価を高め、1961(昭和36)年、10年以上にわたって被爆者の一家族を撮りためた写真により『ピカドン ある原爆被災者の記録』(東京中日新聞社)を刊行。これにより同年、第5回日本写真批評家協会賞特別賞を受賞、またこの年上京、フリーランスの写真家となる。以降、ライフワークとしてとりくんだ被爆地広島の他、全共闘運動(『ガス弾の谷間からの報告』M.P.S.出版部、1969年)、兵器産業(『迫る危機 自衛隊と兵器産業を告発する』現代書館、1970年)、三里塚闘争(『戦場からの報告 三里塚1967-1977』社会評論社、1977年)、公害(『公害日本列島』三一書房、1980年)など、多岐にわたる社会問題にとりくみ、多数の写真集、著作を発表、また雑誌等に多く寄稿した。 80年代には瀬戸内海の無人島に入植し、ジャーナリストとしての活動を離れるが、昭和の終焉にあたって、あらためて戦争責任を問うために活動を再開、取材の他、執筆、講演、また自身の仕事を写真パネルに仕立て、各地の展示に貸出すなど、広く問題提起を続けた。 晩年は2011(平成23)年に発生した東日本大震災における原発事故を取材、常に反権力、反戦の立場から徹底した取材と発言を重ねてきた姿勢があらためて注目され、その活動を追った映画『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』(長谷川三郎監督、2012年)が制作され、代表作をまとめた写真集『証言と遺言』(デイズジャパン、2013年)も刊行された。15年に死去した後も『ピカドン ある原爆被災者の記録』(復刊ドットコム、2017年)が復刻されるなど、再評価が進んでいる。

中平卓馬

没年月日:2015/09/01

 写真家の中平卓馬は9月1日肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年77。 1938(昭和13)年7月6日、東京市渋谷区原宿に生まれる。63年東京外国語大学スペイン科卒業。同年、現代評論社の総合誌『現代の眼』の編集部に入る。写真家東松照明に映画批評の寄稿を依頼したことをきっかけに、写真に関心を持ち、同誌に写真ページを設け、編集を担当、自らも撮影するようになる。65年現代評論社を退社、日本写真家協会主催の「写真100年 日本人による写真表現の歴史」展(東京・西武百貨店池袋店、1968年)の編纂作業に携わる一方、『現代の眼』、『アサヒグラフ』などに作品を発表、写真家、批評家として活動を展開する。 66年には森山大道と共同事務所を開設。68年に多木浩二、高梨豊、岡田隆彦を同人として季刊誌『PROVOKE』を創刊(2号より森山大道が参加、3号で終刊)。同誌などに発表した作品により69年、第13回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。既成の写真美学を否定し、「アレ・ブレ・ボケ」と評された過激な写真表現が注目され、写真集『来たるべき言葉のために』(風土社、1970年)、雑誌等に寄稿した文章による評論集『なぜ、植物図鑑か』(晶文社、1973年)など、実作、批評の両面から写真表現にラディカルな問いを発する活動を展開、当時の写真界に特異な存在感を示した。69年および71年には「パリ青年ビエンナーレ」、74年には「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に参加。 77年に急性アルコール中毒で倒れ記憶の一部を失うが、療養の後、写真家として再起。83年には写真集『新たなる凝視』(晶文社)を発表。1989(平成元)年には『Adieu a X』(河出書房新社)を刊行、翌年同写真集に対し第2回写真の会賞を受賞。97年には個展「日常 中平卓馬の現在」(愛知・中京大学アートギャラリーC・スクエア)を開催。その後、2010年代初めまで活動を続けた。 73年にそれまでの作品を自己批判、プリントやネガの大半を焼却したとされていたが、当時の助手のもとにかなりのネガが残されていたことが判明し、それをきっかけとして03年には横浜美術館で大規模な個展「中平卓馬:原点復帰-横浜」が開催された。また同年ドキュメンタリー映画「カメラになった男-写真家中平卓馬」(小原真史監督)が制作され、評論集『見続ける涯に火が…批評集成1965-1977』(オシリス、2007年)、写真集『来たるべき言葉のために』(1970年の写真集の復刻、オシリス、2010年)、初期の雑誌掲載作品の集成『都市 風景 図鑑』(月曜社、2011年)が刊行されるなど、晩年あらためてその仕事に注目が集まり、再評価が進んでいた。

丹野章

没年月日:2015/08/05

 写真家の丹野章は8月5日急性肺炎のため八王子市内の病院で死去した。享年89。 1925(大正14)年8月8日、東京に生まれる。1947(昭和22)年、大内写真工房に入社、大内英吾のもとで広告写真にとりくむ。日本大学専門部芸術科で写真を専攻、49年卒業。51年に独立、フリーランスとなる。57年、戦後に出発した若手写真家による展覧会、第一回「10人の眼」展に〈サーカス〉連作を出品。同展の主要メンバー東松照明、奈良原一高らと59年自主エージェンシーVIVOを結成(1961年に解散)。初めての写真集として『ボリショイ劇場』(音楽之友社、1958年)を刊行するなど、舞台写真から身体表現へと関心を広げ、その他の写真集に70年代から長くとりくんだ主題による『壬生狂言』(イメージハウス、1990年)、『壬生狂言』(光陽出版社、1992年)、『日本で演じた世界のバレエ1952-1972』(イメージハウス、1995年)などがある。また炭鉱や基地問題など社会的主題の取材にもとりくみ、日本写真リアリズム集団にも参加、1989(平成元)年から2001年まで理事長を務めた。98年、第48回日本写真協会賞功労賞を受賞。死去の翌月、初期作品による写真集『昭和曲馬団』(禅フォトギャラリー、2015年)が刊行され、刊行記念の個展(東京・禅フォトギャラリー)が開催されるなど、晩年その仕事への再評価が始まっていた。 また日本写真家協会の著作権委員として著作権法の改正について70年、国会で意見陳述し、71年の日本写真著作権協会の創設に尽力、写真の著作権保護期間延長に関する活動に長く携わった。その功績に対し、99年、著作権制度百年記念功労者として文部大臣表彰を受けた。また2000年代に入り、03年には新たに創設された日本写真家ユニオンの初代理事長に就任、また個人の肖像権保護意識が高まる中、『撮る自由―肖像権の霧を晴らす』(本の泉社、2009年)を著すなど、社会的存在としての写真家の権利と自由について発言を続けた。

大竹省二

没年月日:2015/07/02

 写真家の大竹省二は7月2日、心原生脳塞栓症のため死去した。享年95。 1920(大正9)年5月15日、静岡県小笠郡横須賀町(現、掛川市)に生まれる。1933(昭和8)年東京に転居。中学時代から写真を撮り始め、写真雑誌のコンテストに入選を重ねるようになり、すぐれた少年アマチュア写真家として知られるようになる。40年上海の東亜同文書院に入学。42年陸軍に応召。対外宣伝誌のための写真撮影や、北京大使館報道部付として同大使館の外郭団体、華北弘報写真協会の結成に協力するなど、情報関連の軍務にあたり、終戦は東京で迎える。 46年連合軍総司令部(GHQ)報道部の嘱託となる。アーニー・パイル劇場に配属され舞台や出演者の撮影を担当。その後『ライフ』誌やINP通信社の専属を経て、50年フリーランスとなる。その間、同世代の秋山庄太郎、稲村隆正らと49年日本青年写真家協会を結成。50年には日本写真家協会の設立に参加、また同年三木淳らと集団フォトの結成にも参加した。53年には二科会写真部の創設会員となった。 51年から5年にわたり来日した音楽家のポートレイトを撮影、『アサヒカメラ』誌上に連載し、最初の写真集として、その仕事をまとめた『世界の音楽家』(朝日新聞社、1955年)を出版、また54年に来日したマリリン・モンローを撮影するなど、人物写真の名手として評価を確立する。とくにモダンで洗練された女性写真やヌード写真で知られ、56年には女性写真の分野で活躍する写真家たちのグループ、ギネ・グルッペの結成に参加。71年からは5年にわたり、日本テレビの番組「お昼のワイドショー」で一般から募集したモデルのヌードを撮影する「美しき裸像の思い出」という企画で撮影を担当、話題を呼んだ。この企画から写真集『ファミリー・ヌード』(柴田宏二との共著、朝日ソノラマ、1977年)が刊行された。 上記以外の主な写真集に、『照る日曇る日』(日本カメラ社、1976年)、『101人女の肖像』(講談社、1982年)、『昭和群像』(日本カメラ社、1997年)、『赤坂檜町テキサスハウス』(永六輔との共著、朝日新聞社、2006)など。文筆家としても優れ、終戦後の混乱期の経験をつづった回想記『遥かなる鏡 ある写真家の証言』(東京新聞出版局、1998年)がある。 83年には戦前に撮影した写真をまとめた写真集『遥かなる詩 大竹省二初期写真集』(桐原書店)を出版、翌年同題の個展(東京・ミノルタフォトスペース)を開催し、知られざる初期作品に注目が集まった。 1992(平成4)年、第42回日本写真協会賞功労賞を受賞した。

大倉舜二

没年月日:2015/02/06

 写真家の大倉舜二は2月6日、悪性リンパ腫のため死去した。享年77。 1937(昭和12)年5月2日、東京市牛込区袋町(現、東京都新宿区袋町)に生まれる。母方の祖父は日本画家川合玉堂。56年独協高校卒業。幼少期より昆虫に興味を持ち、とくに蝶に親しむ。高校在学中、近所に住んでいた画家・植物写真家の富成忠夫に写真の基礎を学び、富成の仕事を手伝う。その成果は後に、富成との共著『蝶』(ぺりかん写真文庫、平凡社、1958年)として刊行された。この経験をきっかけに写真家を志し、高校卒業後、兄の紹介で写真家三木淳の事務所に短期間通い、その後佐藤明の助手を約三年務めた後、60年に独立する。 60年代は主に『装苑』や『婦人画報』などでファッション写真を手がけつつ、『カメラ毎日』などに自らの作品を発表するようになり、71年最初の写真集『emma』(カメラ毎日別冊、毎日新聞社)を刊行。同シリーズから写真集を出した立木義浩や沢渡朔らとともに気鋭の写真家として評価を確立する。一方、60年代末には料理写真に仕事の領域を広げ、日本の料理を、器や配膳、作法など文化的背景もふまえて撮影し、高く評価された。72年、ファッション・料理に関する一連の写真に対し第3回講談社出版文化賞を受賞。その後、78年、『ミセス』誌での連載をまとめた『日本の料理』(文化出版局)刊行。また1993(平成5)年には、前作が料亭などの「ハレ」の料理であったのに対し、日常の和食を対象とした『日本の料理』(セシール)を刊行した。 また70年代の半ばから約10年をかけて日本に生息する24種のミドリシジミ蝶の生態の撮影を重ね、86年『ゼフィルス24』(朝日新聞社)を刊行、これにより87年、第37回日本写真協会賞年度賞を受賞した。他に80年代には、『ONNAGATA 坂東玉三郎』(平凡社、1983年)、『七代目菊五郎の芝居』(平凡社、1989年)など一連の人物写真の他、生け花の撮影など、コマーシャル写真家としての豊富な経験と卓越した技術に裏打ちされた、多彩な仕事を展開した。 90年代後半からは東京をめぐって『武蔵野』(シングルカット、1997年)、『Tokyo X』(講談社インターナショナル、2000年)、『Tokyo Freedom』(日本カメラ社、2005年)の三部作を発表、世紀転換期の東京の様相と社会に対する批判的な視点を提示した。 2002年にはその仕事を振り返る個展「大倉舜二展:仕事ファイル1961-2002」(東京・ガーディアン・ガーデン、クリエイションギャラリーG8)が開催された。

木之下晃

没年月日:2015/01/12

 写真家の木之下晃は1月12日虚血性心不全のため死去した。享年78。 1936(昭和11)年7月16日、長野県諏訪郡上諏訪町(現、諏訪市上諏訪町)に生まれる。55年長野県諏訪清陵高校卒業。日本福祉大学社会福祉学部卒業後、中日新聞社、博報堂に勤務、広告写真などに携わる。音楽好きで演奏会に通ううちに、勤務地の名古屋で開催される音楽演奏会の記録撮影の仕事を得、それをきっかけに、音楽をめぐる写真の撮影を行うようになる。70年『音と人との対話 音楽家 木之下晃写真集』を自費出版、これにより71年日本写真協会賞新人賞を受賞。73年、フリーランスの写真家となる。 初期は主としてポピュラー音楽の演奏会を対象に、広告写真での経験を生かし、ブレやゆがみなどの効果を駆使し「音の映像化」というテーマを追求したが、80年代にはクラシック音楽を対象に、音楽家の演奏中のポートレイトにとりくむ。その後、オフステージの音楽家たちの肖像や、音楽の歴史をたどる紀行、世界各地のコンサートホールや歌劇場など、音楽をとりまく幅広いテーマに仕事の領域を展開し、音楽写真家として国際的に高い評価を受けた。85年、『世界の音楽家』(全3巻、小学館、1984-85年)により第36回芸術選奨文部大臣賞、2005(平成7)年第55回日本写真協会賞作家賞、07年第18回新日鐡音楽賞特別賞を受賞。 上記以外の主な写真集に『SEIJI OZAWA―小澤征爾の世界』(講談社、1981年)、『巨匠 カラヤン』(朝日新聞社、1992年)、『渡邊暁雄』(音楽之友社、1996年)、『朝比奈隆―長生きこそ、最高の芸術』(新潮社、2002年)、『カルロス・クライバー』(アルファベータ、2004年)、『武満徹を撮る』(小学館、2005年)、『マエストロ 世界の音楽家』(小学館、2006年)、『ヴェルディへの旅』(実業之日本社、2006年)、『MARTHA ARGERICH』(ショパン、2007年)、『石を聞く肖像』(飛鳥新社、2009年)、『最後のマリア・カラス』(響文社、2012年)、『栄光のバーンスタイン』(響文社、2014年)など。 個展での発表も多く、06年には茅野市に代表作104点を寄贈したことを記念して「木之下晃写真展 世界の音楽家」(茅野市美術館)が開催された。

高村規

没年月日:2014/08/13

 写真家の高村規は、8月13日心不全のため死去した。享年81。 1933(昭和8)年5月15日東京市本郷区駒込林町(現、文京区千駄木)に生まれる。父は鋳金家高村豊周、祖父は彫刻家高村光雲、彫刻家で詩人の高村光太郎は伯父。58年日本大学芸術学部写真学科卒業。在学中の56年に高村光太郎が死去、翌年開催された「高村光太郎遺作展」(三越日本橋本店)のために、初めて光太郎の彫刻作品を撮影する。同じく57年に刊行された彫刻写真集『高村光太郎』(高村豊周他編、筑摩書房)の写真を担当、筑摩書房嘱託となり、雑誌『太陽』のグラビア撮影などを担当する。大学を卒業した58年より伊藤憲治デザインルームに勤務、59年よりフリーランスとなる。広告やファッションなど幅広い仕事を手掛ける一方、日本広告写真家協会には設立初期より加わり、後に同協会副会長(1985-89年)、会長(1998-2002年)を歴任、日本写真協会理事(1999-2003年)を務めるなど写真業界団体における活動にも尽力した。また71年より長く金沢美術工芸大学で非常勤講師として教鞭を執った。 美術作品の撮影にも取り組み、とくに全作品の撮影を担当した『高村光太郎彫刻全作品』(六耀社、1979年)や『光太郎と智恵子』(共著、新潮社、1995年)などの高村光太郎・智恵子夫妻に関する写真の仕事の他、父、祖父の仕事を集成する『高村豊周作品集 鋳』(筑摩書房、1981年)、『高村規全撮影 木彫 高村光雲』(中教出版、1999年)などの写真集を上梓、また「高村光太郎 彫刻の世界」展(銀座和光、1981年)、「光太郎の巴里」(キヤノンサロン、東京、大阪、福岡他、1989年)、「木彫 高村光雲」(文京シビックセンター、2003年)などの個展を開催するなど、高村家の芸術家をめぐる撮影をライフワークとして数多く手掛け、75年以来、高村光太郎記念会理事長も務めた。 2004(平成16)年旭日小綬章を受章。また同年文京区区民栄誉賞を受賞した。

外山ひとみ

没年月日:2014/06/01

 写真家、ジャーナリストの外山ひとみは6月1日、急性骨髄性白血病のため東京都内の病院で死去した。享年55。 1958(昭和33)年9月1日静岡県富士市に生まれる。静岡県立吉原高校卒業。高校時代に写真部に所属し写真を撮り始める。79年東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業。この年、自費出版で写真集『家』を刊行。以後、フリーランスの写真家として人物取材を中心に雑誌などに発表する。 さまざまな社会的テーマに取り組み、90年代にはアジアに関心を広げ、1994(平成6)年から95年にかけてはインドシナ半島を小型バイクで縦断してヴェトナムを取材、個展「ヴェトナム・ドリーム」(コニカプラザ、東京、1995年)を開催、97年にはヴェトナムと日本で写真展「ヴェトナム颱風」を同時開催した。 写真および文章による著作を数多く発表、主なものに『MISS・ダンディ―男として生きる女性たち』(新潮社、1999年)、『ヴェトナム颱風』(新潮社、2003年)、『平成の舞姫たち』(モーターマガジン社、2010年)、『ニッポンの刑務所』(講談社、2010年)、『女子刑務所―知られざる世界』(中央公論新社、2013年)、『All Color ニッポンの刑務所30』(光文社、2013年)など。刑務所の取材には20年以上にわたってライフワークとして取り組み、国内数十か所の刑務所や少年院のドキュメンタリーを通じて、受刑者の生活だけでなく、犯罪の背景や司法制度の問題など幅広い観点から日本社会の一面を描き出す仕事として評価された。

内山英明

没年月日:2014/04/14

 写真家の内山英明は4月14日、脳出血のため死去した。享年65。 1949(昭和24)年12月7日静岡県菊川町(現、菊川市)に生まれる。76年東京綜合写真専門学校中退。日本各地で旅役者や傀儡師を取材、78年の「粧像記」(銀座ニコンサロン)、81年「日本劇場・梅沢家の人々」(新宿ニコンサロン)などで発表し評価される。80年代には自らと同世代である30代の作家や音楽家などの表現者の撮影、また80年代後半からは「迷宮都市」というテーマで世界各地の都市の撮影に取り組んだ。1992(平成4)年から2年にわたり、日本で初めて性行為によるHIV感染を公表した平田豊の支援活動に関わるとともに、彼を取材した『いつか晴れた海で―エイズと平田豊の道程』(吉岡忍との共著、読売新聞社、1994年)を刊行。 93年に東京の未来的な都市空間を撮影する過程で地下施設を取材、これをきっかけに都市の地下空間をテーマとする撮影に着手。それらの仕事をまとめた2000年の個展「JAPAN UNDERGROUND 地下の迷宮 II」展(銀座ニコンサロン、2000年)により、第25回伊奈信男賞を受賞。同年写真集『JAPAN UNDERGROUND』(アスペクト)を刊行。同シリーズはこれ以降08年の第4集まで刊行され、その第3集『JAPAN UNDERGROUND3』および、夜の都市風景をテーマとする『東京デーモン』 (ともにアスペクト、2005年) により、第25回(2006年)土門拳賞、また都市の地下に取材した一連の仕事により、06年日本写真協会賞年度賞を受賞した。 13年には、東日本大震災による福島原発の事故以前から日本各地で原子力関連の実験施設や研究所に取材を重ねていた作品による個展「アトムワールド」(新宿ニコンサロン)を開催するなど、都市やその地下に取材した90年代以降の一連の仕事は、いずれも文明史的なスケールを持ち、同時代に対する鋭い洞察をはらんだ仕事として高く評価された。 上記以外の主な写真集に『等身大の青春―俵万智』(深夜叢書社、1989年)、『都市は浮遊する』(講談社、1993年)、『東京エデン』(アスペクト、2007年)などがある。

岡村崔

没年月日:2014/02/04

 写真家の岡村崔は2月4日、肺がんのため死去した。享年86。 1927(昭和2)年12月13日、東京府下吉祥寺に生まれる。5歳の頃、両親の故郷静岡県に転居。幼少期は相良、その後静岡市内に移り、45年静岡県立静岡中学(現、静岡高校)卒業。48年に芝浦工業専門学校(現、芝浦工業大学)を卒業し、日本大学工学部(現、理工学部)建築学科に入学(のち中退)。中学在学中より登山を始め、山岳風景の写真にも取り組むようになる。58年、登山の国際大会に参加するため初めて渡欧。この頃より専攻した建築から関心を広げ、ロマネスクの彫刻などヨーロッパの文化、美術に興味を持ち、渡航を重ねる。65年にはローマに移住、ヨーロッパ各地の美術作品や教会建築などの撮影を中心に美術写真の専門家として活動するようになった。高所作業が必要な建築装飾や壁画の撮影を、登山の経験を生かして数多く手掛け、とくにヴァティカン市国システィナ礼拝堂のミケランジェロによるフレスコ画「天地創造」をはじめとした壁画の撮影は、80年から約20年に渡って行われた修復作業の前後およびその過程において、細部にわたって壁画全体を精密に記録したもので、美術史家ケネス・クラークが「ミケランジェロのベールを剥がした」と記すなど国際的に高く評価された。1995(平成7)年に帰国後は静岡に暮らした。 国内外の多くの美術書のための撮影に携わり、その主なものに『大系世界の美術』(全20巻、学習研究社、1971-1975年)、『世界彫刻美術全集』(全13巻、小学館、1974-1977年)、鹿島卯女編『ローマの噴水』(鹿島出版会、1975年)、高階秀爾編『受胎告知』(鹿島出版会、1977年)、『ミケランジェロ・ヴァティカン壁画』(アンドレ・シャステル解説、講談社、1980年)、『ミケランジェロ ヴァティカン宮殿壁画』(嘉門安雄解説、講談社、1981年)、M.パロッティーノ他『エトルリアの壁画』(青柳正規他訳、岩波書店、 1985年)、フレデリック・ハート他『ミケランジェロ・システィーナ礼拝堂』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1990年)、『NHKフィレンツェ・ルネサンス』(全6巻、日本放送協会出版、1991年)、ピエールルイージ・デ・ヴェッキ他『最後の審判』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1996年)、ピエールルイージ・デ・ヴェッキ他『システィーナ礼拝堂 甦るミケランジェロ』(若桑みどり監訳、日本テレビ放送網、1998年)などがある。 また「ミケランジェロのヴァティカン壁画」(西武美術館他、1980年)、「ヴァティカン宮ラファエロの壁画」(大丸ミュージアム、大阪他、1987年)、「ボッティチェリ ヴィーナスの誕生・春」(大丸ミュージアム、大阪他、1989年)などの展覧会でもその仕事が紹介された。 システィナ礼拝堂の撮影などに対し81年日本写真協会賞年度賞、『NHK フィレンツェ・ルネサンス』に対し92年第15回マルコ・ポーロ賞(監修者他との共同受賞)など、多数の賞を受けた。

秋山忠右

没年月日:2013/06/25

 写真家の秋山忠右は、6月25日肺炎のため死去した。享年72。 1941(昭和16)年3月17日東京都品川に生まれる。早稲田大学政治経済学部を経て、64年東京綜合写真専門学校研究科を卒業。写真家石元泰博に師事する。65年にフリーランスとなり、同年、東京綜合写真専門学校の同期で、同じく石元に師事していた佐藤晴雄と共同制作した「若い群像」を発表。この作品により65年の第二回準太陽賞を受賞。同作は広角レンズを使用し雑踏の中で都会の若者の存在をとらえたもの。佐藤とはその後も共同制作を続け、社会的な視点に立ったさまざまな作品を雑誌、展覧会などで発表した。 個人としての作品も精力的に発表、主な写真集に小説家北方謙三と組んで冷戦末期の東西ヨーロッパやカリブのカーニヴァル、アフリカ、東南アジアなどを取材した『国境流浪』(平凡社、1990年、のち京都書院より上下巻で文庫化、1998年)、20世紀最後の10年を迎えた首都の様相を空撮によって記録した『空撮大東京』(昭文社、1991年)、現代農業に従事する多彩な人々を取材した『farmer』(冬青社、2000年)、東京郊外国道16号線沿いの犯罪現場跡を取材した『ZONE-郊外・事件の記憶』(日本カメラ社、2004年)などがある。個展での発表も多く、1998(平成10)年にはニコンサロンでの長年の展示活動に対し、伊奈信男特別賞を受賞した。 またコマーシャル撮影も手がけ、91年ACC全日本CMフェスティバル・テレビCM部門優秀賞、92年カンヌ国際広告祭(現、カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル)入賞などの受賞がある。 70年より長く母校である東京綜合写真専門学校の講師を務め、2001年には同校を運営する学校法人写真学園の理事に就任した。

管洋志

没年月日:2013/04/10

 写真家の管洋志は、4月10日大腸がんのため死去した。享年67。 1945(昭和20)年7月9日福岡県福岡市に生れる。68年日本大学芸術学部写真学科卒業。大学の先輩にあたる木村惠一と熊切圭介の協同事務所K2で約一年間アシスタントを務める。69年より約一年半ネパールに滞在、同地で中国からのチベット族の難民を取材し、帰国後、初の個展「チベット難民」(銀座ニコンサロン、1970年)を開催した。以降もアジア各地での撮影を重ねるとともに、アジアの人と風土へのまなざしの原点として、自身の原体験でもある故郷福岡の博多祇園山笠の撮影にとりくんだ。83年、写真集『博多祇園山笠』(講談社)、『魔界 天界 不思議界 バリ』(講談社)を刊行。84年には一連のアジア取材の成果として雑誌に発表された「戦火くすぶるアンコールワット」他の作品により第15回講談社出版文化賞写真賞を受賞した。87年には写真集『バリ・超夢幻界』(旺文社、1987年)で第6回土門拳賞を受賞、1998(平成10)年には写真集『ミャンマー黄金』(東方出版、1997年)で第14回東川賞国内作家賞を受賞した。 日本国内およびアジア各地での取材対象は、背後にあるアジア共通のコスモロジーへの関心を基盤としつつ、土地ごとの自然や風土に根ざした人々の生活や信仰、祭礼など多岐に及び、カラーフィルムを駆使した独特の色彩の写真による作品世界を構築した。アジアをめぐる取材を重ねる一方で、児童福祉施設や盲学校などに取材した子供たちをめぐる仕事にも長年にわたってライフワークとしてとりくんだ。また母校日本大学の客員教授、ニッコールクラブ顧問などを歴任し、後進やアマチュア写真家の指導にあたるとともに、2000年日本写真家協会の常務理事に就任、企画担当として同協会主催の「日本の子ども60年」(東京都写真美術館、2005年、以降海外各地を巡回)、「生きる―東日本大震災から一年」(富士フォトギャラリー新宿、2012年、仙台およびドイツ・ケルンに巡回)などの企画運営に尽力した。 死去の翌年、長く顧問を務めたニコンサロンで遺作展「一瞬のアジア people and nature in harmony」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン、2014年)が開催された。

二川幸夫

没年月日:2013/03/05

 建築写真家、編集者の二川幸夫は、3月5日腎盂がんのため死去した。享年80。 1932(昭和7)年11月4日大阪市に生まれる。大阪市立都島工業高等学校で建築を学び、早稲田大学文学部に進む。美術史を専攻し56年に卒業。在学中、同大学教授で建築史家の田辺泰の示唆を受けて飛騨高山の古民家を訪れ、これをきっかけに日本各地の民家の撮影に着手した。約7年にわたって続けられた取材は、57年より『日本の民家』(文・伊藤ていじ、美術出版社、全10巻、1957-1959年)として刊行され、59年に第13回毎日出版文化賞を受賞。以後、建築写真家として古典的な建築物から現代の建築家の作品まで、国内外の多様な建築の撮影を重ねた。70年、建築専門の出版社「A. D. A. Edita Tokyo」を設立。企画・編集・撮影をてがけた『フランク・ロイド・ライト全集』(全12巻、1985-1991年)や建築写真誌『GA(Global Architecture)』(77号まで発行、1970-1999年)など数多くの書籍、雑誌を刊行する。その多くは日英併記であり、上質な写真によって海外の建築を紹介するとともに日本の建築を国際的に発信するうえで大きな役割を担った。 建築空間を的確にとらえる写真家としての確かな技量に加え、安藤忠雄の初期作品をいちはやく評価し、その後長く撮影を続け作品集を作るなど、現代建築に関する造詣の深さ、見識の高さで知られ、その写真は記録としてだけでなくすぐれた批評としても機能し、建築界に影響を与えるものであり続けた。出版活動も含めた活動は国際的にも評価され、75年アメリカ建築家協会(AIA)賞、85年国際建築家連合(UIA)賞、1997(平成9)年日本建築学会文化賞など国内外から多くの賞を受けた他、97年に紫綬褒章、2005年には旭日小綬章を受章している。 死去の直前、国内の美術館としては初の個展となる「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」(パナソニック汐留ミュージアム、2013年、青森県立美術館に巡回)が開会し、講演会を行うなど、最晩年まで精力的な活動を展開していた。

東松照明

没年月日:2012/12/14

 写真家の東松照明は、12月14日肺炎のため那覇市内の病院で死去した。享年82。 1930(昭和5)年1月16日愛知県名古屋市に生まれる。本名・照明(てるあき)。50年愛知大学経済学部に入学。写真部に入部し、カメラ雑誌の月例公募欄への応募などの制作活動とともに、52年の全日本学生写真連盟の結成に向けた活動にも携わる。54年同大学を卒業、上京し『岩波写真文庫』の特別嘱託を経て、56年よりフリーランスとなる。59年奈良原一高、川田喜久治、細江英公らと写真家の自主運営によるエージェンシー「VIVO」を結成(1961年解散)。65-69年多摩芸術学園写真学科講師、66-73年東京造形大学助教授。72年沖縄に移住、那覇および宮古島に約2年にわたって滞在後、帰京。86年に心臓のバイパス手術を受け、87年療養を兼ね千葉県一宮町に移住。1998(平成10)年に長崎市、2010年からは沖縄市に移り住んだ。 『中央公論』誌に発表した「地方政治家」(1957年)などの一連のルポルタージュが評価され、57年度日本写真批評家協会賞新人賞を受賞、61年には土門拳とともに撮影にあたった『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』(原水爆禁止日本協議会、1961年)により同作家賞を受賞するなど、第二次世界大戦後に出発した新世代の写真家の旗手として早くから注目された。60年代には在日米軍の存在を通して戦後社会を見据えた「占領」や、消えゆく日本の原風景としての「家」、被爆地長崎をテーマとした「NAGASAKI」など、同時代の日本社会の根底を深く掘り下げる一連の作品にとりくみ、評価を確立する。67年には自ら出版社「写研」を設立、写真集『日本』(1967年)、『おお! 新宿』(1969年)、機関誌『KEN』(1970-1971年)などを刊行、また66年より日本写真家協会主催の「写真100年」展(1968年)に編纂委員として参加、同展をもとに刊行された『日本写真史1840-1945』(平凡社、1971年)の編集、執筆にも携わるなど多彩な活動を展開した。 米軍基地への関心から60年代末よりたびたび沖縄を取材で訪れ、沖縄の返還後には長期滞在し、沖縄の風土に日本の原風景を重ね見た写真集『太陽の鉛筆』(カメラ毎日別冊、毎日新聞社、1975年)を発表。同書により毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞。こうしたとりくみを通じて関心を同時代の社会から日本の基層文化へと広げ、また70年代後半にはそれまでのモノクロ中心からカラー中心へと転換するなど、沖縄滞在は一つの転機となった。帰京後74-76年には、宮古島で現地の若者と自主学校「宮古大学」を運営した経験を踏まえ、荒木経惟、森山大道らとWORKSHOP写真学校を開設・運営。この活動はその後の写真家による自主運営ギャラリーなどの活動の源泉の一つとされる。以後80年代にかけては、引き続き沖縄に取材した「光る風――沖縄」(撮影1973-1991年、写真集『日本の美 現代日本写真全集第8巻 光る風 沖縄』、1979年)、「京」(1982-1984年)、「さくら」(撮影1979-1989年、写真集『さくら・桜・サクラ120』、ブレーンセンター、1990年)などのカラー作品を発表。また81年には実行委員会形式の写真展「いま!! 東松照明の世界・展」が日本各地を巡回した。80年代後半から千葉県一宮町の海岸などで撮影された「プラスチックス」(撮影1987-1989年、個展1989年)、「インターフェイス」(撮影1991-1996年、一部先行作品の撮影は1966、1968-1969年。個展1996年)など、俯瞰構図で被写体を直截的に捉えつつ、抽象性を帯びたカラー作品を発表する。 90年代にはメトロポリタン美術館(1992年)、東京国立近代美術館(1996年)、東京都写真美術館(1999年)などで数多くの新作展や回顧展が開催され、2000年代に入ると「長崎マンダラ」(長崎県立博物館、2000年)以後、沖縄(2002年)、京都(2003年)、愛知(2006年)、東京(2007年)において、「マンダラ(または曼陀羅)」と題し、従来の発表の文脈を解体し、撮影地ごとに新たな視点で作品を編成し直した展覧会を開催。また海外で本格的な回顧展(「Shomei Tomatsu:Skin of the Nation」2004-2007年に、ニューヨーク、サンフランシスコ他、欧米5都市を巡回)が開催され、09年には「東松照明展:色相と肌触り 長崎」(長崎県美術館)、11年には「東松照明と沖縄:太陽へのラブレター」(沖縄県立博物館・美術館)、「写真家・東松照明全仕事」(名古屋市美術館)が開催されるなど、戦後の日本におけるもっとも重要な写真家の一人として、晩年にはその仕事への評価が進められた。95年に紫綬褒章、05年に日本写真協会賞功労賞を受ける。 三度にわたって写真集が刊行され、その後も撮影にとりくんだ「NAGASAKI」シリーズに典型的なように、東松はしばしば一つの主題を繰り返しとりあげ、また晩年には過去の作品をくり返し再検証し、新たな構成で発表を重ねた。こうした写真を「過去の時間」と「現在進行形の時間」という二重の時間性において問い直す営為を通じて、同時代に対して常にアクチュアルな問題提起を試みる姿勢は、文明論的な批評性を持つ視点のとり方や、独特の造形・色彩感覚にもとづく映像美とともに、東松の写真家としての仕事を特徴づけるものであった。作品はもとより、発言や行動を通じても同時代及び後続の世代に大きな影響を与えた。死去後の13年5月には『現代思想5月臨時増刊号 総特集東松照明 戦後マンダラ』が刊行された。

深瀬昌久

没年月日:2012/06/09

 写真家の深瀬昌久は、6月9日脳出血のため東京都多摩市内の老人養護施設で死去した。享年78。1992(平成4)年に新宿ゴールデン街の行きつけの店の階段から転落、脳挫傷により障害を負い、以降、療養を続けていた。 1934(昭和9)年、北海道中川郡美深町に生まれる。本名昌久(よしひさ)。実家は祖父の代から写真館を営む。家業の手伝いとして早くから写真に触れ、高校時代にはカメラ雑誌公募欄に作品を投稿するようになる。56年日本大学芸術学部写真学科を卒業、第一宣伝社に入社。64年日本デザインセンターに転職、67年に河出書房写真部長に就任するが翌年同社が倒産し退社、フリーランスとなる。 第一宣伝社に勤務していた60年に初個展「製油所の空」(小西六ギャラリー、東京)を開催。翌61年個展「豚を殺せ!」(銀座画廊、東京)を開催。芝浦の屠畜場で撮影したカラー作品と、妊婦のヌードや死産した嬰児などを撮影したモノクロ作品からなる二部構成の展示で注目され、以降、『カメラ毎日』などに作品を発表するようになる。63年に出会い64年に結婚した鰐部洋子(1976年に離婚)をモデルとし、演出された状況での撮影、日常生活や旅先でのスナップなど、さまざまな場面で彼女をとらえた写真による一連の作品は、この時期の深瀬の仕事の中核を成し、71年に出版された最初の写真集『遊戯』(映像の現代シリーズ第4巻、中央公論社)や『洋子』(ソノラマ写真選書、朝日ソノラマ、1978年)などに結実する。74-76年東松照明、荒木経惟ら6人の写真家がそれぞれ教室を開講するWORKSHOP写真学校の設立に参画、講師を務める。74年には「New Japanese Photography」展(ニューヨーク近代美術館)、「15人の写真家」(東京国立近代美術館)に出品。 76年から82年にかけて『カメラ毎日』に「烏」と題する連作を断続的に連載。76年開催の個展「烏」(新宿ニコンサロン、東京他)で第2回伊奈信男賞を受賞。86年、同連作による写真集『鴉』(蒼穹社)を出版。また71年に『カメラ毎日』に連載した「A PLAY」のために撮影を行ったことをきっかけに、実家の写真館のスタジオで肖像写真用大型カメラを使って家族を撮影する仕事を約二十年にわたって継続し、写真集『家族』(アイピーシー、1991年)にまとめた。87年には病床の父とその死を記録した作品による個展「父の記憶」(銀座ニコンサロン、東京他)を開催、後に写真集『父の記憶』(アイピーシー、1991年)にまとめる。故郷への旅と自らの分身のような烏を中心的なモティーフとした「烏」連作と、故郷の家族をめぐる一連の作品に区切りをつけたのち、90年代初頭に深瀬の仕事は、自分の姿を画面の一部に写し込んだ旅のスナップ「私景」の連作や、入浴する自分を水中カメラで撮影した「ブクブク」、飲み屋で出会った客と舌を接触させて撮影した「ベロベロ」など、自分自身の存在をさまざまなかたちで見つめる仕事へと展開していった。これらの作品からなる92年の個展「私景 ’92」(銀座ニコンサロン、東京)の数か月、転落事故に遭い、写真家としての活動は中断された。 92年、伊奈信男賞特別賞(ニコンサロンでの計10回の個展に対して)、第8回東川賞特別賞(写真集『鴉』、『家族』他一連の作家活動に対して)をそれぞれ受賞。

石元泰博

没年月日:2012/02/06

 写真家で文化功労者の石元泰博は、2月6日肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年90。 1921(大正10)年6月14日、アメリカ合衆国サンフランシスコで生まれる。両親は高知県からの移民。24年両親とともに高知県高岡町(現、土佐市)に移住。1939(昭和14)年高知県立高知農業学校(現、高知県立高知農業高等学校)を卒業、近代農法を学ぶために渡米し、カリフォルニア大学農業スクールに進むが、第二次大戦の開戦により、42年コロラド州の日系人収容所アマチ・キャンプに収容される。44年沿岸諸州への居住禁止を条件に終戦前にキャンプから出ることを許され、シカゴに移住。当初建築を学ぶためノースウェスタン大学に入学するが、キャンプ時代にとりくみはじめた写真趣味が高じ、シカゴでスタジオを経営していた日系人写真家ハリー・K.シゲタ(重田欣二)の推薦を得て地元のカメラクラブに入会、さらに写真を学ぶため48年、インスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス、49年にイリノイ工科大学に編入)写真科に入学、ハリー・キャラハン、アーロン・シスキンらに師事した。52年同校を卒業。在学中50年に『Life』誌のヤング・フォトグラファーズ・コンテストに入賞、また優秀学生に授与される学内賞モホリ=ナジ賞を51年、52年に受賞するなど早くからその才能を示した。 53年に帰国。この際、ニューヨーク近代美術館の写真部長を務めていた写真家エドワード・スタイケンの依頼により「The Family of Man」展の出品作品の収集にあたるが、日本の写真界の協力が十分に得られず作品を集めることができなかった。同年開催の「現代写真展 日本とアメリカ」(国立近代美術館、東京)には、スタイケンが選択・構成を担当したアメリカ側の作家の一人として選ばれ出品。またこの年来日したニューヨーク近代美術館建築部門キュレーターの調査に同行、はじめて桂離宮を訪問、撮影に着手した。こうした過程を通じて知り合った吉村順三や丹下健三ら建築家や、批評家瀧口修造、デザイナーの亀倉雄策らが、バウハウスの流れを汲む正統なモダニズムにもとづく石元の作品をいちはやく評価する。丹下とは後に『桂 日本建築における伝統と創造』(丹下およびW.グロピウスとの共著、国内版、造形社、英語版、イェール大学出版部、1960年、改訂版、1970年)を出版した。54年には瀧口修造の企画により個展(タケミヤ画廊、東京)を開催。また54年開校の桑沢デザイン研究所で写真の授業を担当する(滞米時等の中断をはさみ、66年まで)。57年第1回日本写真批評家協会賞作家賞を受賞(「日本のかたち」「桂離宮」に対して)。58年、造形・構成的な傾向の作品から街中での人物スナップまで、シカゴおよび東京で撮りためたさまざまな写真を三部構成にまとめた写真集『ある日ある所』(芸美出版社)を刊行。 56年に勅使河原蒼風のもとで華道を学んでいた川又滋と結婚。アメリカ国籍であったためビザ更新の必要があり、58年末に夫人とともにアメリカに戻り61年末までシカゴに滞在した。この間同地で撮りためた作品により、62年個展「シカゴ、シカゴ」(日本橋白木屋、東京)を開催。69年には写真集『シカゴ、シカゴ』(美術出版社)を刊行し、同書により翌年毎日芸術賞を受賞する。シカゴから戻ると当初は藤沢に居を定め、71年には品川に移住。この間、66年から72年まで東京造形大学写真科教授として教育に携わる。69年には日本国籍を取得した。 60年代以降の石元は、建築写真および日本の伝統文化をめぐる作品、シカゴおよび東京を中心とする都市風景をめぐる作品、ポートレイト、多重露光などの技法を駆使した実験的な作品など、多様な仕事にとりくんでいく。いずれにおいてもシカゴで学んだモダニズム写真を背景とした、確かな造形感覚や高い写真技術、また自らに妥協を許さない姿勢に裏打ちされたすぐれた仕事を数多く発表し、日本写真界における独自の評価を確立していった。この時期の代表的な作品に、芸術選奨文部大臣賞および日本写真協会賞年度賞(1978年)を受賞した「伝真言院両界曼荼羅」(73年撮影、個展、西武美術館、東京、1977年他国内外を巡回、写真集『教王護国寺蔵 伝真言院両界曼荼羅』平凡社、1977年)や、修復後の81年に再撮影した「桂」(個展「桂離宮」西武百貨店大津ホール、滋賀、1983年他、写真集『桂離宮 空間と形』磯崎新と共著、岩波書店、1983年)、山手線の29の駅の周辺を8x10インチ判カメラで撮影した「山の手線・29」(個展、フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1983年)、同じく大判カメラで花を撮影した「HANA」(個展、フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1988年、写真集『HANA』求龍堂、1988年)など。 80年後半から90年代以降、石元は、路上の落ち葉や空き缶、雪に残る足跡、自宅から見た雲など、刻々と形を変えていく被写体をめぐる一連の作品にとりくむ。「さだかならぬもの」と写真家自身が呼んだこれらの被写体をめぐる仕事は「石元泰博―現在の記憶」(東京国立近代美術館フィルムセンター展示室、1996年)などで発表された。こうした試みは2000年代にかけて、より不定形な被写体である水面の反射や、渋谷の雑踏でのノーファインダー撮影によるスナップショットなどへと展開し、写真集『刻―moment』(平凡社、2004年)、『シブヤ、シブヤ』(平凡社、2007年)などにまとめられ、晩年になっても新たな探求を続ける姿勢が注目された。また90年代以降には、「石元泰博―シカゴ、東京」展(東京都写真美術館、1998年)、「Yasuhiro Ishimoto:A Tale of Two Cities」(シカゴ美術館、1999年)、「石元泰博写真展1946-2001」(高知県立美術館、2001年)、「石元泰博写真展」(水戸芸術館、2010年)などの回顧展が開催され、長いキャリアの再検証・評価も進められた。 上述以外の主な受賞・受章に83年紫綬褒章、1990(平成2)年日本写真協会賞年度賞、92年日本写真協会賞功労章、93年勲四等旭日小綬章などがある。96年には文化功労者に選ばれ、死去後、正四位旭日重光章が授与された。 01年の高知県立美術館での個展開催をきっかけに、石元は故郷高知県に作品の寄贈を申し入れ、全作品の寄贈が04年に決定し、プリント、ネガフィルム、ポジフィルム、蔵書等が生前より没後にかけ、段階的に寄贈された。これをうけて14年6月、高知県立美術館に石元泰博フォトセンターが開設され、著作権管理を含む石元作品の保存・研究・普及を担うアーカイヴとしての活動を開始した。

杵島隆

没年月日:2011/02/20

 写真家の杵島隆は2月20日、敗血症のため東京都新宿区内の病院で死去した。享年90。 1920(大正9)年12月24日アメリカ合衆国カリフォルニア州カレキシコに、移民一世の父母のもと生まれる。旧姓渡邊。24年にいわゆる排日移民法が施行され、その影響を懸念し、母の実家である鳥取県西伯郡の杵島家に預けられ、養子として育てられる。1938(昭和13)年鳥取県立米子中学校卒業。アメリカ国籍であったため進学に不都合を生じ、電気会社に就職するが、39年養父の知人増谷麟が重役を務める東宝映画株式会社に増谷の推薦により入社し、東宝の委託学生として日本大学専門部映画科に入学する。42年同大学を繰り上げ卒業し、東宝撮影所に勤務。43年杵島家の籍に入り日本国籍を取得、海軍飛行予備学生に志願、海軍航空隊に任官し各地を転戦、福岡の基地で特攻待機中に終戦を迎え、除隊後帰郷。 終戦直後に知人からカメラを譲られ、中学時代にとりくんだ写真撮影を再開、作品を作り始めるとともに、郷里で現像・焼き付けや撮影などの仕事を手がけるようになる。48年には同郷の写真家植田正治に師事。戦後に復刊した『アサヒカメラ』、『カメラ』など写真雑誌の月例懸賞欄に作品を投稿、入賞を重ねる。とくに『カメラ』1950年5月号月例で特選となった「老婆像」は、ソラリゼーションの技法によるマチエールを生かした表現により、同欄の評者を務めていた土門拳に高く評価され、杵島の存在を広く知らしめるものとなった。50年植田を中心に山陰地方の若手写真家が結成した「写真家集団エタン派」に参加。広告写真の懸賞にもたびたび入賞し、53年には上京してライト・パブリシティに入社、広告写真家として活動を始める。55年にフリーランスとなり、56年キジマスタジオを設立。 広告写真家としてさまざまな撮影を手がけるかたわら、「グラフィック集団」(55年の第2回展から参加)、女性写真の分野で活躍する秋山庄太郎、稲村隆正らが結成した「キネグルッペ」(56年に参加)などの活動に加わり、58年には個展「裸」(富士フォトサロン)で、皇居桜田門前で撮影した斬新なヌード作品を発表するなど、作家活動も並行して展開した。 60年代以降も広告写真やファッション写真などの撮影のほか、テレビCMの制作やショーウィンドーディスプレーなど幅広い分野の仕事を手がける。とくに蘭の撮影と、歌舞伎や文楽などの伝統芸能をめぐる撮影はライフワークとなり、75年に出版された写真集『蘭』(講談社)により76年日本写真協会賞年度賞を受賞した。その他の主要な写真集に『義経千本桜』(日本放送出版協会、全4冊、1981年)、『裸像伝説1945-1960』(書苑新社、1998年)がある。 58年に日本広告写真家協会の結成に参画した他、日本写真家協会副会長(88-90年)、東京写真文化館館長などを務めた。1991(平成3)年に勲四等瑞宝章、2001年に日本写真協会賞功労賞を受賞。また同年には米子市美術館で回顧展が開催された。詳細な年譜が同展図録に収載されている。

熊谷元一

没年月日:2010/11/06

 写真家、童画家の熊谷元一は、11月6日老衰のため東京都内の介護施設で死去した。享年101。1909(明治42)年7月12日、長野県下伊那郡会地村(現、阿智村)に生まれる。1929(昭和4)年長野県飯田中学校(現、飯田高等学校)卒業。30年下伊那郡で尋常高等小学校の代用教員となる。33年長野県教員赤化事件(2.4事件)に連座し退職。幼少の頃より絵に関心を持ち、代用教員在職中に童画(子供向けの絵画)にとりくみ始める。32年絵本雑誌『コドモノクニ』に初めて作品が掲載され、以後、郷土を描く童画家としての評価を高め、教職を辞した後は童画に専念。34年指導を受けていた童画家武井武雄の依頼で、童画制作の資料のために案山子を撮影したことから写真に興味を持ち、36年初めてカメラを購入。写真を用いた村誌の制作を思い立ち、約2年間かけて農村の暮らしを撮影する。それをまとめた手作りの写真帳が美術評論家の板垣鷹穂に評価され、板垣の推薦により、38年『会地村 一農村の写真記録』が朝日新聞社より出版される。これを契機として39年拓務省(のち大東亜省に吸収)に嘱託として採用され上京、事務全般を担当する傍ら満州出張の折に現地を撮影。童画家としても絵本『ヤマノムラ』(教養社、1942年)、同『あの村この村』(博文館、1943年)を出版する。終戦後は郷里の小学校の教師に復職。49年より農林省農業綜合研究所駐村研究員に任じられたことを機に、写真撮影を再開。教職の傍ら、農村の婦人の生活を調査、撮影。53年に新評論社から『村の婦人生活』として刊行するとともに、それらの写真を岩波写真文庫編集部に送ったことをきっかけに同写真文庫において、いずれも伊那谷を撮影地とした『かいこの村』(岩波写真文庫84、1953年)、『農村の婦人 南信濃の』(同121、54年)、『一年生 ある小学校教師の記録』(同143、1955年)が出版される。53年に担任したクラスを1年間記録した『一年生』は、第1回毎日写真賞を受賞するなど高く評価された。66年小学校教員を定年退職し、東京都清瀬市に移住。退職後に発表された絵本『二ほんのかきのき』(福音館、1968年)は版を重ね約30年で総部数が100万部に達し、童画家としての代表作となった。清瀬移住後も郷里阿智村の撮影を続け、『ある山村の昭和史 写真記録集 信州阿智村39年』(信濃路、1975年)、『グラフィック・レポート ふるさとの昭和史 暮らしの変容』(岩波書店、1989年)などを出版するとともに、移住先の清瀬でも市内の風景や市民生活にレンズを向け、その成果は『清瀬の三六五日―写真集』(清瀬市郷土博物館、1999年)などにまとめられた。写真と童画によって長年にわたって郷土の暮らしに眼を向け続けた熊谷の営為は、昭和の終わりから平成初頭の時期、昭和という時代を回顧する気運の高まりの中で改めて評価され、その顕彰が進んだ。81年に阿智村で「熊谷元一童画写真保存会」が発足、88年村内に熊谷から寄贈された作品を保存展示するふるさと童画写真館(のち熊谷元一童画写真館に改称)が開設された。1990(平成2)年には第40回日本写真協会賞功労賞を受賞。92年『画集 熊谷元一の世界』(郷土出版社)刊行。93年長野県教育関係功労賞受賞。94年地域文化功労者として文部大臣表彰を受ける。同年『熊谷元一写真全集』(全4巻、郷土出版社)により第48回毎日出版文化賞を受賞。95年には伊那谷の暮らしと文化を童画と写真により記録し続けた功績により信濃毎日新聞社から第2回信毎賞を受賞した。96年阿智村により熊谷元一写真賞創設。97年には『日本の写真家17熊谷元一』(岩波書店)が刊行された。評伝に矢野敬一『写真家・熊谷元一とメディアの時代』(青弓社、2005年)がある。

高田誠三

没年月日:2010/10/02

 写真家の高田誠三は、10月2日扁桃扁平上皮がんのため死去した。享年81。1928(昭和3)年10月14日、大阪に生まれる。49年大阪府立化学工業専門学校(現、大阪府立大学工学部)卒業。ハリス株式会社(現、クラシエフーズ)に入社し、チューインガムの研究に従事。在学中の48年に浪華写真倶楽部に入会。戦後の再興途上にあった同倶楽部において若手の中心的なメンバーの一人として頭角を現し、各種のコンテストで入賞を重ね、評価を高めた。56年、勤務先の会社を辞し写真家として独立、商業写真などを手がけるが、70年代半ばより、風景写真へのとりくみを活動の中心とするようになる。69年より75年までなんばデザイナー学院教授、76年より大阪芸術大学で教鞭を執り、講師、助教授、教授を歴任。1998(平成10)年からは同大学写真学科長を務め、2000年に退任した。大学での教育とともに、浪華写真倶楽部や、理事を務めた全日本写真連盟、02年の創設より参加した日本風景写真協会の活動などを通じ、多くの後進やアマチュア写真家の指導、育成にあたった。風景写真の第一人者として、日本の自然の美を生涯のテーマとし、長年にわたって四季を通じて各地に取材を重ねた。主として35mmカメラを使用し、平明でありながら完璧な風景の美を追究した作風によって知られた。『アサヒカメラ』などの写真雑誌に発表された作品も多く、作品集に『彩々流転』(日本写真企画、1991年)、『高田誠三集』(ブティック社、1998年)など、また写真技法書として『暗室の特殊技法』(朝日ソノラマ、1977年)がある。

藤井秀樹

没年月日:2010/05/03

 写真家の藤井秀樹は5月3日、肝臓がんのため八王子市内の病院で死去した。享年75。1934(昭和9)年8月28日東京に生まれる。本名秀喜。子供の頃からカメラに親しみ、高校在学中の52年に映画館の火災を撮影した写真が新聞紙面に掲載され、同年サン写真新聞優秀報道写真賞を受賞した。こうした経験から写真家を志し、54年日本大学芸術学部写真学科に入学。学業と並行して、秋山庄太郎に師事、助手を務める。57年婦人生活社に入社、ファッション誌『服装』の専属として、さまざまな撮影を担当。60年日本デザインセンターに移り、広告写真を担当、自動車会社の広告のために日本で初めて本格的な自動車のスタジオ撮影にとりくむなど、新しい広告写真表現で注目された。63年に同社を辞し、フリーランスとなり、65年スタジオ・エフ設立。同年、丘ひろみをモデルに起用したマックスファクター社の広告写真によりスペイン新聞広告賞金賞を受賞、以降8年にわたって手がけた同社の広告により評価を確立する。75年に国際写真雑誌『Zoom』29号で特集されるなど、その作品は海外でも評価が高く、生涯にわたって広告写真の一線で活動を続けた。また女優のポートレイトも多く手掛け、それらをまとめた『藤井秀樹女優作品集』(竹書房、1994年)が出版されている。全身に化粧を施したモデルを被写体に日本の伝統美を表現した、メークアップアーティスト小林照子との共同作業による「からだ化粧」の連作は、81年の展覧会(オリンパスギャラリー、東京・新宿)での発表以降、ライフワークの一つとなった。84年に出版された写真集『からだ化粧』(日本芸術出版社)などにより85年第35回日本写真協会賞年度賞を受賞。また80年代半ばからは感光乳剤を布や石などさまざまな素材に塗布して支持体とする印画技法を試み、独自に「フジイグラフィ(Fグラ)」と呼んで作品制作にとりくんだ。90年代後半からは小児病院の設立などカンボジアの児童支援に尽力するとともに、たびたび同国を訪問し子供たちのくらしを撮影、2004年には『カンボジアと子どもたちの戦後』(丹精社)を上梓している。83年日本写真芸術専門学校に講師として招聘され、以後同校で教鞭を執り、02年から校長を務めた。また02年から04年まで社団法人日本広告写真家協会会長を務めた。

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