本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





鈴木庄吾

没年月日:1991/10/05

 北海道東海大学教授のデザイナー鈴木庄吾は10月5日午前4時15分、肺水腫のため、東京都中野区の病院で死去した。享年59。昭和7(1932)年7月27日、福島県いわき市に生まれる。同26年福島県立磐城高等学校を卒業し、東京芸術大学デザイン科に学んで同33年同校を卒業した。その後、静岡県工業試験場に入り、在職中にフィンランド中央工芸大学に赴き、北欧デザインを研究。伊勢丹研究所を経てフリーデザイナーとして活躍した。同59年北海道東海大学芸術工学部デザイン学科で教鞭をとり始め、翌60年同科専任教授となる一方、北方生活研究所所長をつとめた。インダストリアル・デザインを専門とし、日本流行色協会参与、日本インテリア学会理事、北欧建築デザイン協会理事をつとめ、Gマーク審査員、北方産業デザイン振興事業専門委員でもあった。寒冷地の生活を深く理解し、その特色に適し、生活をいろどる工業デザインを生んだ。

豊口克平

没年月日:1991/07/18

 日本の工業デザイン界の重鎮、豊口克平は、7月18日午後3時48分、肺性心のため神奈川県鎌倉市の清川病院で死去した。享年85。明治38(1905)年11月16日、秋田県に生まれ、同県立秋田工業学校を卒業して大正14(1925)年に東京高等工芸学校工芸図案科に入学。昭和3(1928)年に同校を卒業。同4年、研究団体形而工房を結成。同8年、商工省(現通産省)産業工芸試験所に入り、輪出工芸品や家具のデザインに新機軸を打ち出し、同34年に退職するまで工業デザイン界の近代化に貢献した。その後、同34年より武蔵野美術大学教授として教鞭をとったほか、同35年、豊口デザイン研究所を設立。35年第1回モスクワ日本産業見本市会場デザイン、36年より41年まで日本巡航見本市船さくら丸展示設計、44年大阪万国博覧会協会ディスプレイデザイン顧問などを担当。また、同29年より48年まで日本インダストリアルデザイナー協会理事、同33年より日本インテリアデザイナー協会理事となり、それらの理事長を歴任。同49年、双方の名誉理事となった。同52年、武蔵野美術大学名誉教授となり、平成2(1990)年には通産省デザイン功労賞の第1回受賞者に選ばれた。著書に『標準家具』『デザイン戦術』などがある。

大熊喜光

没年月日:1990/04/09

 東京造形大学教授の環境デザイン家、大熊喜光は4月9日午後4時26分、高血圧性脳内出血のため、東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年49。昭和16(1941)年2月12日、東京都に生まれる。東京、九段高校を経て武蔵野美術大学造形部産業デザイン学科を卒業。都市、建築を含む環境デザイン、インテリア・デザイン、色彩・知覚心理学等環境心理学を専門とし、オフィス環境研究所(プラス株式会社)所長、建築事務所(都市計画同人)取締役をつとめたほか、デザイン事務所「アトリエ35、4」を主宰した。また、東京造形大学環境デザイン研究室で教鞭をとった。昭和47年東京大聖堂納骨堂、同55年プラス株式会社横浜支店ショールーム、同54年同社本館改築及び同社アネックス、同61年ハイパーチェア「MEGA」計画、同62年オフィス環境研究所オフィス環境設計、平成元年コミュニティオフィス武蔵野オフィス環境設計等のデザインを行ない、著書に『近未来のオフィス環境について』(ORBIT研究部会)等がある。

高田正二郎

没年月日:1989/07/04

 東京芸術大学名誉教授、日本デザイン学会会員の高田正二郎は、7月4日午後8時50分、心不全のため東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年76。大正2(1913)年1月13日、東京都日本橋区に老舗東寿司を営む高田満之助の次男として生まれる。昭和4(1929)年都立第三中学校を卒業。在学中に日本パステル画会に入会し矢崎千代治に学ぶ。同5年、従兄であった彫刻家吉田久継にデッサンの手ほどきを受け、また東京美術学校図案科教授島田佳矣、同助教授千頭庸哉に鉛筆画などを学ぶ。同6年東京美術学校図案科に入学。和田三造、広川松五郎に師事。同7年東京湾汽船ポスター懸賞募集、キッコーマン醤油新聞広告懸賞募集に応募してそれぞれ入選。在学中から各コンクール等で入選、受賞をかさね、同13年東美校を卒業する。翌年第26回光風会展に「水(三部作ノ内)」「華(三部作ノ内)」を出品して工芸賞受賞。同18年には洋画家中村研一に師事し同20年の戦争美術展に「ビルマ進攻作戦開始」を出品して奨励賞を受ける。戦後は同21年母校の工芸科図案部講師となり図案家として活躍するとともに日展洋画部にも出品し、同24年第5回日展出品作「ひととき」で特選受賞。その後も、新日展となる以前まで、日展への出品を続け、一方同24年光風会会員となった。はとバス社章、富士銀行マーク、防衛庁自衛官階級章などをデザインし、同30年日本デザイン学会会員となる。同32年文部省在外研究員としてニューヨーク・プラット美術学校(Pratt Institute)に留学。翌年欧州を歴遊する。社章、広告、本の装丁、各種イベントに関連するデザインのほか、昭和42年新日本産業株式会社制作「明治百年記念明治天皇肖像メダル」、同43年同社制作「吉田茂肖像メダル」、同47年同社制作「沖縄返還記念ニクソン・佐藤栄作肖像メダル」など多くの記念メダルのデザインも行なう。この間、昭和35年東京芸術大学デザイン科助教授、同51年同教授となったほか、福井大学、税務大学で講師をつとめ、朝日広告賞など多くの懸賞、公募の審査員となって、教育、普及にも寄与した。同55年東京芸大を定年退官して同大名誉教授となり、同60年より翌年まで山梨県立宝石美術専門学校長となった。同52、53、54年にそれぞれギャラリー・ジェイコで個展が開催されている。著作には、雑誌『アトリエ』別冊に発表した「レタリングの学び方」(90号、昭和42年)、「レタリングの書き方」(97号、同43年)、「鉛筆画の描き方」(92号、同42年)などがある。

原弘

没年月日:1986/03/26

 わが国のグラフィック・デザインの草分けで武蔵野美術大学名誉教授の原弘は、3月26日午前7時、心不全のため東京都新宿の自宅で死去した。享年82。明治36(1903)年6月22日長野県飯田市に生まれ、大正10年東京府立工芸学校を卒業。同校で印刷を学び、タイポグラフィーの研究に従事する。同13年村山知義らの三科公募展に出品。同14年「Die Neue Typographie」を翻訳自費出版する。バウハウスやロシア構成主義に興味を抱き、グラフィック・デザインにおけるエレメントの構成を日本に紹介して日本のモダン・デザインを主導した。昭和5年花王石鹸新製品パッケージ図案指名コンペで採用される。同8年写真家名取洋之助が設立した日本工房に参加。同12年パリ万博、14年ニューヨーク万博の写真大壁画を担当する。16年東方社に参加し、宣伝雑誌「FRONT」の図案、構成に従事。戦後23年より武蔵野美術大学で教鞭をとるほか、日本宣伝美術会中央委員、日本デザインセンター取締役などを歴任した。東京オリンピックのグラフィック計画に参加したほか、書籍装幀にすぐれ、ライプチヒ書籍美術賞のほか、昭和28年には『世界の現代建築』の装幀で文部大臣装幀美術賞を受賞している。著書に『グラフィック・エレメント』などがある。

飯田三美

没年月日:1984/04/19

 武蔵野美術大学教授で、プロダクトデザイン工業株式会社社長の飯田三美は、4月19日午前4時30分、クモ膜下出血のため、東京都大田区の牧田総合病院で死去した。享年59。大正13(1924)年12月1日、茨城県新治郡に生まれる。昭和12(1937)年4月、茨城県立土浦高等中学校に入学。同16年4月、東京美術学校に入り、同23年同校工芸科鋳金部を卒業する。同校在学中の同22年、「鋳銅花瓶」で第3回日展に初入選、同23年4月より26年まで横須賀米海軍基地鋳造工場で、米国工業鋳造の研究にたずさわる。この間、同23年東京都輸出工芸展一席となったほか、同26年の日展にも「青耳紋青銅花生」で入選する。合成樹脂による工業製品の研究に従事し、同27年、日産自動車試作工場で自動車の軽量化を研究、同29年、フジキャビンの製作を手がける。同31年フローレンス国際工芸美術展に出品。同33年、武蔵野美術学校助教授となり、教鞭をとる一方、同36年、合成樹脂とデザイン・造形を結びつけた会社プロダクトデザイン工業を設立する。同42年、自動車ボディーの軽量化の研究の成果として本田技術研究所出品のメキシコレース車ボディーを製作し優賞を受けたほか、同43年日本産業見本市においては艦・樹脂加工部を担当、同45年大阪での万博では電気通信館内合成樹脂部を担当・製作する。また同45年より、武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科教授およびプロダクト・デザイン工業社長をつとめる。著作には、同42年鳳山社刊『現代デザイン事典』のうち樹脂部の項他がある。

畑正夫

没年月日:1982/02/13

 名古屋芸術大学教授のデザイン家畑正夫は、2月13日午前4時20分、急性胆道炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年68。1914(大正3)年1月30日、東京都文京区に生まれ、36年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する。37年8月より商工省工芸指導所(工業技術院製品科学研究所)に勤務。60年より多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京造型大学の講師を歴任し、79年4月名古屋芸術大学美術学部デザイン科教授となる。また、60年10月より日本クラフトデザイン協会理事長をつとめる。電々公社によって制定された電話器のデザインなどを手がけ、65年より73年まで日本工業新聞の「今週のデザイン」「デザイン・コーナー」に執筆している。

菱田安彦

没年月日:1981/04/04

 宝石や装飾品などのジュエリーデザイナーとして国際的に知られた武蔵野美術大学教授の菱田安彦は、4月4日午後7時10分、肝不全のため東京都品川区の昭和医大付属病院で死去した。享年53。1927(昭和2)年8月23日岐阜県に生まれ、その後金沢、東京などに移る。44年陸軍予科士官学校に入学し翌年陸軍航空士官学校に進んだところで終戦を迎え、東京美術学校工芸科彫金部に編入、53年に卒業した。この間49年の第5回日展「金工オルゴールの小筥」以来52年の第8回展まで日展に出品し入選している。54年イタリア国立ローマ工芸学校に留学し、ヨーロッパ各地をまわって翌年帰国する。56年に国際工芸美術協会、USアクセサリー協会、クラフト・センター・ジャパンの設立に参加、翌57年には日本ジュウリーデザイナー協会設立に参加し初代理事長に就任している。その後ミュンヘン国際工芸展をはじめ、国際ジュウリー・アート展ほか数多くの国際展に出品し、71、72年にはデビアス・ダイヤモンド・インターナショナル・コンテストの審査員をつとめるなど、国際的に知られていた。また、武蔵野美術大学教授、日本ジュウリー・デザイナー協会常任理事、社団法人日本クラフトデザイン協会会員、財団法人日伊協会理事などもつとめた。著書・訳書には、「美について」「アクセサリー」「宝石の魅力」「世界の宝石美術館」「アートジュウリー」「彫金」他がある。

山名文夫

没年月日:1980/01/14

 元多摩美術大学教授で日本のグラフィックデザインの草分けの一人である山名文夫は、1月14日午後10時50分、心不全のため東京都狛江市の慈恵医大第三病院で死去した。享年82。1987(明治30)年3月17日和歌山県に生まれ、1916年和歌山中学校を卒業した後、赤松麟作洋画研究所で油絵を学び、『苦楽』『女性』などの雑誌の表紙や挿絵を描いた。23年プラント社(出版)美術部に入社したが、28年同社が解散したため、29年資生堂広告意匠部に入社、ポスターや広告に、流れるような繊細な線で女性の顔や花の模様などを描いた現代的なグラフィックデザインを次々に生み出した。43年一たん退社し、戦後47年復社、56年から同社顧問をつとめていた。また46年多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)図案科教授(67年退職)となる一方、商業デザイナーの地位向上を目指して51年に結成された日本宣伝美術会の初代委員長となり、65年には日本デザイナー学院を開校するなど、我国の広告文化に大きな影響を与えた。この間53年にデザイン生活30年を記念して銀座資生堂ギャラリーほか大坂・名古屋などで個展を開催し、また55年には第1回毎日産業デザイン特別賞(商業デザイン部門)を受賞、56年第9回広告電通賞ポスター作家賞、61年第6回日本宣伝クラブ吉田賞などを受賞し、67年には、デザイン教育における功労を認められ、勲四等瑞宝章を受章した。このほか、文部省教科書検定審議委員(56年より)、朝日新聞・日本経済新聞・広告電通賞審議会の各広告作品コンクールの審査員、東京広告協会顧問などをつとめた。著書に『女性のカット』(28年)『カフェ・バー・喫茶店広告図案集』(30年)『花の図案集』(48年)『山名文夫装画集』(53年)『山名文夫新聞広告作品集』(63年9『山名文夫イラストレーション作品集』(71年)『唐草幻像作品集』(73年)などがある。

須藤雅路

没年月日:1979/05/17

 東京芸術大学名誉教授、東海大学教授の須藤雅路は、5月17日脳血センのため東京杉並区の西荻中央病院で死去した。享年78。1900(明治33)年10月2日福岡県宗像郡に生まれ、福岡県立中学修猷館を卒業後、20年東京美術学校図案科に入学、25年卒業する。同年香川県立工芸学校教諭となり27年まで在職、28年東京白木屋本店室内装飾部に転じたが翌年退き、福岡県商工技手となり福岡工業試験場(のち久留米工業試験場、内務省商工課に転ず)に勤務する。37年から大阪府商工技師となり大阪府工芸奨励館に勤務し、52年同館第三部工芸課長となる。53年東京芸術大学美術学部図案科教授に就任、68年に退官するまで東京芸術大学評議員を5度つとめる。またこの間、57年から60年まで意匠奨励審議会委員、59年デザイン奨励審議会委員、60年から62年まで東京都立工業奨励館評議員、64年教科用図書検定調査審議会調査員、65、67年に大学設置審議会専門委員等をつとめる。わが国デザイン教育の草分け的存在として後進を育成したほか、一時構造社絵画部に会員として所属した他、商工省図案展などに作品を発表する。68年に退官後、東京芸術大学名誉教授の称号を受け、引き続き東海大学教授として教鞭をとる。69年紺綬褒章、71年勲三等旭日中綬章を授けられる。

剣持昤

没年月日:1972/07/29

 建築家・和光大学助教授剣持昤は7月29日オーストリアのグラーツで交通事故のため死去。享年34才。1938年4月9日、デザイナーの剣持勇を父として仙台市東北医学部附属病院で生れた。1961年東京大学工学部建築学科卒、同63年大学院修士課程修了。65年6月総建築研究所(株)設立所長。66年東京大学院博士課程修了(工学博士)。和光大学助教授アメリカン・フットボール部顧間、和光学園評議員を兼ねる。同年一級建築士資格取得。68年9月ISO・TC59の1968年度定例会議に日本建築学会より派遣され出席。72年6月ヨーロッパ諸国における工業化発展事情の視察および業務打ち合せのためヨーロッパ滞在日程の最終日に上記の事故に遭った。独自の建築生産工業化理論に基き、新しい規格構成材および建築構成システムの研究開発ならびに種々の情報活動を通じて、新しい建築家としての活躍を行っていた。

上野伊三郎

没年月日:1972/05/23

 元京都市立美術大学教授で、インターナショナルデザイン学校長の上野伊三郎は、23日肺ガンのため死去した。早稲田大学工学部を卒え、ベルリン大、ウイーン等に留学し、大正15年帰国してのち建築事務所を開き、戦後は24年から38年まで京都市立美大デザイン科主任教授をつとめ故リッチ夫人とともに日本のデザイン界に活躍した。著書に「タウト現代の建築」「ヨセフ・ホフマン」等がある。

松川烝二

没年月日:1972/03/01

 女子美術大学教授松川烝二は3月1日十二指腸潰瘍のため都内世田谷区の自宅で死去した。享年60才。1911年(明治44)6月30日現在の都内中央区に生れ、1936年東京美術学校工芸部図案科を卒業。4月から森永製菓株式会社に、9月から森永食品工業株式会社に移り、38年8月に製品企画課長代理となったが、9月から44年11月まで兵役についた。兵役解除後は商工省工芸指導所嘱託となり、1947年3月同所第二設計室長となる。1948年4月から11月まで文部省初等中等教育局デザイン教育計画を担当。それと並行して48年4月より50年3月まで森永乳業の、49年4月より63年3月まで森永製菓株式会社の嘱託、47年8月より57年2月まで花王石鹸株式会社の製品企画を担当。54年4月から女子美術大学芸術学部ヴィジョン・コース担当。60年から65年まで日本パッケージ・デザイン協会理事。その間、森永TVタイム、デザイン、国際見本市タイヤ・パネル・デザイン、デラックスおよびワンカップ大関デザインを製作。62年2月には前年度パッケージ・デザインにより通産大臣賞受賞。

杉浦非水

没年月日:1965/08/18

 光風会会員、多摩美術大学名誉教授の日本画家・図案家杉浦朝武(号・非水)は、8月19日午後7時30分、老衰のため藤沢市の自宅で死去した。享年89才。明治9年(1876)愛媛県松山市に生れ、松山中学在学中に絵画の手ほどきをうけ、明治30年上京して川端玉章に師事した。34年東京美術学校日本画科卒業。黒田清輝に私淑し、34年欧州旅行から帰国した黒田のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感動して図案研究を志す。大阪三和印刷所、東京三越、都新聞社などの意匠図案を担当し、劇場の緞帳図案、雑誌表紙、ポスターなどを作成する。45年には光風会の創立に参加、また図案研究団体を創立し、デザイン運動をおこすなど多彩な活躍をなした。美術教育にもたずさわる。工芸図案界の先覚者として長年の功績に対して昭和29年度日本芸術院恩賜賞をうけた。主要作品三越-みつこしタイムズ表紙、長岡座緞帳図案、緞帳図案孔雀の図(旧帝劇)、三越新築のためのゼセッション風の美人ポスター、蝶のダンスポスター(三越)、新宿三越落成ポスター、京城三越落成ポスター、銀座三越落成ポスター七人社出品作品-窓、デプレダシォン、人魚のポスター、裸婦の図、七面鳥、浅間四題光風会出品作品-図案風猫の絵(宮内庁)、群鶏屏風、ペリカン屏風、浅間高原、夕の清洲橋、七面鳥、あすは雨か(浅間山残雪風景)、鵜其の他-長良川鵜飼と納涼ポスター、地下鉄ポスター(五種)、勧業債券ポスター(五種)、明治・大正名作展覧会ポスター、産業組合ポスター(五種)、陸軍展ポスター専売局-響、パロマ、桃山、光、扶桑、日光のタバコ図案著書(大正3年以降)非水図案集 非水の図案 しぼりの図案 非水花鳥図案集 非水一般応用図案集 非水創作図案集 非水百花譜(全20輯) 実用図案資料大成(全8巻・渡辺素舟共著)略年譜明治9年(1876) 5月15日愛媛県松山市に生れる。明治29年 松山中学校卒業、在学中に四条派の画家松浦巌暉に師事。明治30年 5月上京、川端玉章に師事、天真画塾に入り黒田清輝に洋画を学ぶ。9月東京美術学校日本画撰科に入学。明治33年 東京外国語学校仏語別科に入学。明治34年 東京美術学校卒業。明治34年 東京外国語学校修了。5月帰国した黒田清輝のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感激し図案研究を志す。明治35年 黒田清輝の推薦により大阪三和印刷所図案部主任に就職。11月大阪商船株式会社嘱託。明治36年 三和印刷所解散のため退職。大阪開催の第5回内国勧業博に出品。明治37年 4月島根県第二中学校教諭として浜田に赴任。明治38年 11月島根県第二中学校教諭辞職、上京。明治39年 11月都新聞社に入社。意匠図案を担当。明治41年 東京三越の招聘により図案部嘱託として入社、中央新聞を兼任(43年まで)明治43年 三越図案部主任となる。明治45年 3月日比谷図書館主催にて自作の書籍装幀・雑誌表紙図案展覧会を開催。6月中沢弘光、山本森之助ら6名と光風会を創立する。大正2年 国民美術協会創立、絵画部・装幀美術部・学芸部会員となる。大正10年 日本美術学校図案科講師となる。カルピス株式会社美術顧問となる。大正11年 11月図案及び絵画研究のため欧州に遊学、パリを根拠地としてドイツ、イタリア、オランダ各国を巡遊する。大正13年 帰国・図案研究の団体七人社を創立・主宰する。大正15年 七人社創作図案第1回展を三越において開催、その後毎年開催、10回に及ぶ。雑誌「アフィッシュ」を発行しデザイン運動をおこす。昭和4年 帝国美術学校創立され工芸図案科長に就任する。昭和9年 三越嘱託を辞職する。昭和10年 帝国美術学校を退職。多摩帝国美術学校を創立、校長兼図案科主任教授となる。昭和13年 専売局図案嘱託となる。昭和19年 太平洋戦争のため軽井沢に疎開する。昭和24年 疎開地帰京。昭和25年 多摩美術短期大学理事長図案科主任教授となる。東京都広告物審議会委員に任命される。昭和26年 文部省社会教育局通信教育審議会委員を嘱託される。昭和28年 多摩美術大学理事長兼図案科主任教授となる。昭和30年 芸術院恩賜賞(29年度)を授賞。昭和33年 紫緩褒章をうける。昭和35年 夫人翠子死去。昭和40年 勲四等旭日小緩賞を叙勲。昭和40年 5月米寿記念杉浦非水日本画展を日本橋三越で開催する。8月18日死去。

橋本徹郎

没年月日:1959/02/25

 第二紀会々員、日本宣伝美術会々員橋本徹郎は、2月25日逝去した。明治33年1月1日、兵庫県加古川郡に生れた。関西美術院で洋画を学び、昭和の初めから二科会に入選し、17年第29回二科展に会友となつた。しかしその後出品なく、戦後、二科会を離れ、第二紀会の創立に参加して同会の会員となつた。同時に作品は、従来の写実風景から抽象的な構成へと推移していつたが、第二紀会での出品は少なかつた。又一方、デザイナー、アートデイレクターとして活動も盛んであつた。 油絵作品略年譜大正15年 第13回二科展「花」「三光町風景」昭和2年 第14回二科展「花もつ女」「植物園の午後」昭和3年 第15回二科展「6月のペーヴメント」「手袋」昭和4年 第16回二科展「或る工夫」昭和5年 第17回二科展「PRIVATE ROOM」昭和7年 第19回二科展「あるグループ」「黄色いドレス」昭和9年 第21回二科展「静かなる丘」「イヴニングドレスの女」昭和10年 第22回二科展「樹氷」昭和11年 第23回二科展「海を配せる静物」「挨拶」昭和12年 第24回二科展「仮縫」「銀座の窓」昭和14年 第26回二科展「アカシヤの花咲く家」「まんさあど」昭和15年 第27回二科展「お祭り」(A)(B)昭和17年 第29回二科展「好日子」。二科会会友となる。昭和23年 第2回二紀会展「朝」昭和24年 第3回二紀会展「作品」(A)(B)(C)昭和25年 第4回二紀会展「みづたまり」「都会と月」昭和26年 第5回二紀会展「題のない絵」(A)(B)昭和30年 第9回二紀会展「アフターイメージ」「色面分割の中の円」

斎藤佳三

没年月日:1955/11/17

 図案装飾家斎藤佳三は、11月17日胃癌のため東京都世田谷区の自宅で逝去した。享年69歳。本名佳蔵。明治20年秋田県に生れ、大正5年東京美術学校図案科を卒業した。のち同校講師を勤め、また斎藤装飾美術研究所を創立した。主として美術工芸、服装方面で活躍したが、作曲をも試みた。著者に「世界の服飾史」「新しき民謡」などがある。

多田北烏

没年月日:1948/01/01

 商業美術家として著名な多田北烏は胃潰瘍のため1月1日沼津市の自宅で逝去した。享年60。本名は嘉寿計、明治22年松本に生れ、蔵前高工図案科選科、川端画学校に学び、凸版印刷図案部、市田オフセツト印刷意匠部長、東京図案研究所長等を歴任した。大正11年実用美術研究所サン・スタデイオを創設し商業美術の向上と後進の指導に努力した。又新興日本童画協会常務委員、全日本産業美術連盟常任委員をつとめ、実用版画美術協会を主宰した。著書に誠文堂発行「多田北烏図案集」その他がある。

濱田増治

没年月日:1938/11/27

 商業美術家濱田増治は十一月二十七日脳溢血の為逝去した享年四十七歳。 明治二十五年十月十五日大阪に生る。大正三年東京美術学校に彫刻を学び、在学中より雑誌に挿絵漫画を執筆。同五年頃同士と赤鳥社を組織して絵画を発表し、又太平洋画会に抽象表現主義の作品を出品した。同八年コドモ雑誌の編集主任となり、又会社に入り、広告図案、装飾設計等に従った。同十年、一時、図案事務所を経営したが、後新聞社に入り漫画挿絵を担任、又美術批評を執筆しその傍ら雑誌「広告と陳列」(後に広告界)の編集に関与した。同十五年商業美術家協会を有志と共に創立し、その創作展を逐年東京府美術館に開催した。昭和三年現代商業美術全集の編集委員長となり、二ヵ年を費して二十四巻を完成、同四年銀座に商業美術研究所を創立した。その後、新聞社其他の商業美術関係諸事業に関係し、七年に戸塚町に商業美術構成塾を創立、塾生の指導に従って居た。著述は商業美術総論(アルス発行)、商業美術教本上下二巻(富山房発行)、商業美術教科書上下二巻(富山房発行)、商業美術大意及び読本(高陽書院発行)、商業美術講義(富山房発行)、商業美術構成原理(高陽書院発行)、商業美術教本二巻(富山房発行)、商業美術講座五巻(アトリエ社発行)等がある。

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