本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





中村誠

没年月日:2013/06/02

 グラフィックデザイナー、アートディレクターの中村誠は6月2日、肺炎のため死去した。享年87。 1926(大正15)年5月9日、岩手県盛岡市に生まれる、生家はゴム長靴などを扱う中村ゴム店を営んでいた。幼少期に近所の薬局の店頭に飾られた資生堂化粧品のポスターに強く魅せられ、同社広報誌『花椿』の山名文夫による表紙画を模写した。33年岩手県立盛岡商業学校(現、岩手県立盛岡商業高等学校)に入学。美術部に所属、写真に興味を持ち、フォトグラムも制作する。同年秋には全国商業学校ポスター展で入選。同校在学中に生家の中村ゴム店が閉店。43年12月、同校を繰上げ卒業。44年4月東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科図案部に入学。主任は和田三造、担任は小池岩太郎で、2年生のときに軍の教育用図面を描く作業に動員される。46年「ニッポンルネッサンス・広告展」(日本橋・三越、主催は日本広告会)に出品。47年10月から資生堂宣伝部嘱託となり、翌年11月まで勤める。48年3月同校工芸科図案部を卒業。49年9月、資生堂に入社、宣伝部に配属。52年第37回二科展の商業美術部に出品。53年第3回日本宣伝美術会展に出品、特選を受賞、会員となる。以後68年の同会解散まで毎年出品。57年「資生堂香水」で第10回広告電通賞雑誌広告電通賞を受賞。60年ころ、写真家横須賀功光やデザイナー村瀬秀明と知り合い、新しい写真表現と印刷技術を駆使する広告制作に取り組む。63年「資生堂海外向け企業ポスター」(コスチュームは三宅一生、写真は横須賀功光)で日宣美会員賞受賞。また同年、ADC金賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞して、新時代のアートディレクターとして一躍注目を浴びる。66年同社の夏用化粧品「ビューティケイク」のキャンペーンでモデル前田美波里を起用し、「太陽のように愛されよう」というコピーがヒットし社会現象となる。70年「モナリザ百微笑展」(銀座一番館ギャラリー)で福田繁雄と50点ずつの作品を展示、翌年から「ジャポン・ジョコンダ」展としてパリ装飾美術館で開催、その後アメリカをはじめ十数カ国に巡回される。76年第6回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレで「資生堂ネイルアート・資生堂フラッシュアイズ」が商業部門で金賞受賞。資生堂では宣伝部デザイン課長(1962年から)、宣伝部制作室長(1969年から)、宣伝部長兼制作室長(1977年から)、役員待遇宣伝部長(1979年から)、役員待遇宣伝制作部長(1982年から)、常勤顧問(1987年から)を務める。資生堂を離れた後はフリーのグラフィックデザイナーとなり、自然やエコロジーをテーマにした作品を多く発表した。93年紫綬褒章受章。それまでの山名文夫らによって作られた繊細なイラストレーションによる資生堂のイメージを刷新、時代を先導するブランドイメージを確立し、戦後の日本広告界やグラフィックデザイン界を牽引してきたアートディレクターとして位置づけられる。 作品集に『富嶽三十六景・江戸小紋と北斎』(凸版印刷、1972年)、『紀信と玉三郎』(凸版印刷、1973年)、『中村誠の仕事―アートディレクションとデザイン』(講談社、1988年)がある。観光文化交流センター「プラザおでって」開館にあわせて、全作品193点とコレクション200点を盛岡市に寄贈、2000年に同館の柿落としとして「中村誠ポスター展」を開催。2008年7月に萬鉄五郎記念美術館で回顧展を開催。国際グラフィック連盟(AGI)会員、東京ADC委員、JAGDA理事を歴任。「日本のポスター100年」展(銀座松屋、1968年)、グラフィックイメージ72(東京セントラル美術館、1972年)、グラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74(東京セントラル美術館ほか、1974年)などの企画展で作品が展観された。

片山利弘

没年月日:2013/01/09

 グラフィックデザイナーの片山利弘は1月9日(現地時間)、食道がんのため、米ボストン郊外の自宅で死去した。享年84。 1928(昭和3)年7月17日、画家片山弘峰の次男として大阪府に生まれる。53年永井一正、木村恒久、田中一光とデザインの研究会「Aクラブ」を結成。同年からフリーランスのデザイナーとして活動、日本宣伝美術会会員となる。このころ第2回記録映画の会「忘れられた人々と安部公房特別研究報告」(大阪・大手前会館)の告知ポスターのデザインをきっかけにして、幾何学的な基本形態(エレメント)とその規則的な変形・配置(システム)による制作手法に取り組む。50年代後半、亀倉雄策らが主催する「21の会」に参加。60年日本デザインセンターに入社、東京に転居。このころ桑沢デザイン研究所講師を勤める。63年から3年間、スイス・ガイギー製薬会社の招待を受け、バーゼルに滞在、同社でデザインを担当。65年にバーゼル、ハーマン・ミラーで個展を開催し「Visual Construction」シリーズを発表、ヴィンタートゥール、ベルン、ジュネーブへ巡回。同年、ペルソナ展(銀座松屋)に参加。スイス滞在中に、現地のデザイン雑誌『GRAPHIS』114号(1964年)に小特集で取り上げられ、また同誌124号(1966年)では表紙を飾る。66年バーバード大学カーペンター視覚芸術センターの招聘を受け、アメリカのボストンへ移住、同センターで教育とデザインを担当、以後およそ30年にわたって同大学デザイン研究科の学生を指導。68年アメリカ・グラフィック・アート協会の招待による個展をニューヨークで開催、同年ボストン、カナダ・トロントでも個展を開催。70年東京プラザ・ディックで個展「Square + Movement」を開催、マグネット付きのエレメントを金属パネルの支持体に配置することでイメージを多様に変化させる観客参加型の作品を発表。75年ボストン市の地下鉄のための環境デザインを担当、地下鉄駅に4×13.5mの壁画を制作。同年、ボストン市のArt Asia ギャラリーで個展を開催、「Topology」シリーズを発表。77年オーストリアのウィーンで芸術家協会主催による個展を開催。80年代以降、日本国内の建築家らとのコミッションワークを数多く取り組み、赤坂プリンスホテル「Homage to the crystal(大宴会場の壁面彫刻)」(1983年、建築設計は丹下健三・都市・建築設計研究所)、大原美術館新館ホール「レリーフ彫刻+石壁」(1991年、建築設計は浦辺設計、石の仕事は和泉正敏)、松下電器産業・情報通信システムセンター「ロビーのランドスケープデザインと彫刻」(1992年、建築設計は日建設計、石の仕事は和泉正敏)、JT本社ビル「銅版によるレリーフ/ホワイエ壁面、回廊壁面」(1995年、建築設計は日建設計)などを手掛けた。1990(平成2)年からはハーバード大学カーペンター視覚芸術センターのディレクターを務め、95年に退官。 作品集に『片山利弘作品集』(鹿島出版会、1981年)、著書に『ハーバード大学視覚芸術センター片山利弘教室:4-8カ月間のグラフィックデザイン演習』(武蔵野美術大学出版部、1993年)、『Graphic design―ハーバード大学視覚芸術センター片山利弘教授グラフィック・デザイン教室』(京都造形芸術大学、2009年)、共著に『12人のグラフィックデザイナー』第3集(美術出版社、1969年)、メキシコの詩人オクタビオ・パスとの詩画集『3 notations/rotations』(ハーバード大学カーペンター視覚芸術センター、1974年)などがある。またグラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74ワード+イメージ(東京セントラル美術館ほか、1974年)、1976年現代ポスターの展望〈私はだれ〉展(池袋・西武美術館)などの企画展で作品が展観された。

渡辺力

没年月日:2013/01/08

 インダストリアル・デザイナーの渡辺力は、1月8日心不全のため死去した。享年101。 1911(明治44)年7月17日、東京に生まれる。1936(昭和11)年、東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)木材工芸科卒業。卒業後、群馬県工芸所にて勤務し、当時同所に招聘されていたブルーノ・タウトのアシスタントを務める。40年、母校・東京高等工芸学校嘱託となり、設計製図を講義。その間、「整理棚」(1942年)等を制作し、木工家具のデザインを手がける。43年、東京帝国大学(現、東京大学)農学部林学科選科(森林利用学)修了、同大学助手となり、航空研究所へ出向。45年3月に徴兵を受け、横須賀で入隊。同年5月末、山形県に移り、神町海軍航空隊近くの駐屯地で終戦を迎えた。49年、渡辺力デザイン事務所を設立し、独立。戦前から建築雑誌の編集部に出入りしていた関係で、建築家との交友があり、デザイナーとして独立後は清家清設計「うさぎ幼稚園」(1949年、現存せず)や「宮城教授の家」(1953年、東京)などの家具を担当している。傍ら、新制作協会展(東京都美術館)で「挟み材による家具」(1951年、新建築賞受賞)、新日本工業デザイン展(毎日新聞社主催)で「ヒモイス」(1952年)、第11回ミラノ・トリエンナーレで「テーブルとスツール(通称トリイ・スツール)」(1957年、金賞受賞)など、自身のデザインを精力的に発表していく。「ヒモイス」は、当時規格材として輸出されていたナラ材を用いて、座面と背もたれにはひもを組み、構造的にも、素材・仕上げの点からも簡素に無駄なくまとめられ、大量にかつ安価に生産できるデザインとして注目された。籐家具の山川ラタン製作の「スツール」は、夏の家具というイメージが強かった籐を一年中使えるものとした。渡辺の椅子のデザインは、日本の伝統的な建築や道具に見られる形を想起させ、これにより渡辺は、戦後の国際的なデザインシーンにおいて、日本を代表するデザイナーの一人に数え上げられるようになる。52年、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)発足にともない、理事に就任。53年、国際デザインコミッティー(現、日本デザインコミッティー)の設立に参画。56年には、工業デザイン視察団として渡米し、ヨーロッパを経由して帰国。インダストリアル・デザインが日本に根づき、発展する過程で重要な役割を担った。56年、松村勝男、渡辺優とともにQデザイナーズを設立(Qは「良質の仕事(Qualitatsarbeit)」を念願してつけられた)。59年、加藤達美、菱田安彦、勝見勝らと財団法人クラフトセンタージャパンを創立。66年、東京造形大学室内建築科の開講に尽力、開講後は教授に就任し、後進の育成にも意を注いでいる。産業が成熟してくる1970年代以降は、服部セイコーのクロックシリーズ「小さな壁時計」(1970年)といった身の周りの製品から、第一生命ビル(現、DNタワー21、日比谷)の「ポール時計」(1972年)にみる公共空間、企業の役員室や、軽井沢プリンスホテル南館(1982年)をはじめとする、大規模なホテルの室内インテリアもデザインした。76年、紫綬褒章受章。1991(平成3)年、第19回国井喜太郎産業工芸賞受賞。2000年以降は、セイコーウオッチから腕時計の新作を発表するなど、60年余り第一線で活動した。学究肌で、デザイン活動の傍ら、家具、インテリア、建築に関する執筆も多数。著作には、『素描』(建築家会館、1995年)、『ハーマンミラー物語:イームズはここから生まれた』(平凡社、2003年)がある。 渡辺のデザイン思想は機能主義に貫かれており、徹底して産業の立場から「工芸」を考えてきた。その思想の具現化にあたって基本となっているのは、室内に点在する椅子であり、家具である。機能的で健康な生活を実現するための家具を空間のなかに配し、室内を起点として、建築へと創造空間を拡げていくその手法によって、装飾を極力省きつつ、格調を備えた時計やインテリアで、日本の生活空間に合ったデザインを幅広く手がけ、独自の地歩を築いた。

石岡瑛子

没年月日:2012/01/21

 デザイナー、アートディレクターとして国内、ならびにアメリカを中心に多彩な活動をした石岡瑛子は、1月21日膵臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年73。 1938(昭和13)年7月12日、東京都に生まれる。61年3月、東京藝術大学美術学部工芸科図案部卒業。資生堂に入社後、同社サマーキャンペーン「太陽に愛されよう」(1966年)等、担当したポスターがつぎつぎと注目を集め、65年には日本宣伝美術会(略称:JACC、通称:日宣美)主催の第15回公募展にて、「シンポジウム:現代の発見」ポスター3点により「日宣美賞」受賞。70年に石岡瑛子デザイン事務所を設立、フリーランスのデザイナーとして活動の幅を広げた。PARCOや角川書店の広告等を担当し、75年にPARCOの一連の広告デザインにより第21回毎日デザイン賞受賞。79年に制作された「西洋は東洋を着こなせるか」(PARCO)などのコピーとともに、無国籍的な鮮烈なイメージのポスターは、メッセージとともに高度成長期の日本において社会的な注目をあつめた。80年代以降、活動の場をアメリカ等の海外にひろげ、85年アメリカ等で公開されたポール・シュレーダー監督の映画「MISHIMA」の美術監督をつとめ、これによって同年第38回カンヌ国際映画祭芸術貢献賞受賞。87年、マイルス・デービスのアルバム『TUTU』のアート・ワークでグラミー賞受賞。88年、ブロードウェイのミュージカル『M.バタフライ』の舞台セットと衣装の部門で、トミー賞にノミネートされた。写真集『ヌバ』を契機に、第二次世界大戦をはさんでドイツの女優、映画監督、写真家として活動していたレニー・リーフェンシュタールに直接取材をかさね、プロデューサーとして企画構成にあたり、1991(平成3)年12月にレニー・リーフェンシュタール展(Bunkamura ザ・ミュージアム)を開催。92年に公開されたフランシス・フォード・コッポラ監督の映画「ドラキュラ」では、監督からの要望でコスチュームデザインを担当、これによって第65回アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。その後も、映画、ミュージカル、オペラ、ミュージック・ビデオ等において舞台美術、コスチュームデザインなどを担当して多岐にわたり効果的で斬新な視覚表現に取り組んだ。2002年、紫綬褒章受章。05年6月、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科の教授として後進の教育にあたった(翌年3月まで)。08年、北京オリンピックの開会式では衣装デザインを担当した。 グラフィックデザインからはじめた石岡の仕事は、つねに時代の先端を意識しながら、近未来的な志向と東西両洋にわたる時間と空間の間を縦横に横断する柔軟な感性に裏づけられたもので、その感性からうまれたアイデアを卓抜した企画構成力によって実現してきたからこそ、国を越えて多くの人に新鮮な驚きと共感を呼び、世界的にも高く評価された。なお作品集には、国内において『石岡瑛子 風姿花伝』(求龍堂、1983年)、『EIKO ISHIOKA』(世界のグラフィックデザイン68、公益財団法人DNP文化振興財団、2005年)等があり、またそれぞれの大きなプロジェクトにあたっての回想的な文集に、『私デザイン』(講談社、2005年)がある。

柳宗理

没年月日:2011/12/25

 工業デザイナーで、文化功労者の柳宗理は、12月25日、肺炎のため死去した。享年96。 1915(大正4)年6月29日、民芸運動の創始者の柳宗悦と声楽家の兼子の第一子として東京市原宿に生まれた。本名は宗理(むねみち)。1935(昭和10)年東京美術学校洋画科に入学、南薫造教室に所属するが、バウハウスで学んだ水谷武彦の講義を聞き、また、ル・コルビュジエの思想に感銘を受けデザイナーを志す。40年社団法人日本輸出工芸連合会(商工省の外郭団体)の嘱託となる。商工省貿易局の招聘により、日本の輸出工芸の指導のために来日したフランス人デザイナーのシャルロット・ペリアンのアシスタントとして日本各地の地場産業の視察に同行、その後のデザインへの取り組みに影響を受ける。42年坂倉準三建築研究所研究員となる(~1945年)。43年陸軍報道部宣伝班員としてフィリピンに渡る。 46年フィリピンから帰国し、工業デザインに着手。48年松村硬質陶器のために手がけたテーブルウェア「硬質陶器シリーズ」が工業デザイナーとしてデビューとなる。50年柳インダストリアルデザイン研究所を設立。52年第1回新日本工業デザインコンクール(毎日新聞社主催)で「レコードプレーヤー」(日本コロンビア)が第一席となる。同年、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)設立に参加。53年女子美術大学講師となる(~1967年)。同年4月財団法人柳工業デザイン研究会設立。同年10月国際デザインコミッティー(現在の日本デザインコミッティー)が発足し会員となる。54年ポリエステルの「スタッキング・スツール(エレファント・スツール)」(コトブキ)をデザイン。55年金沢美術工芸大学産業美術学科教授となる(1967年からは嘱託、1997年からは特別客員教授)。56年6月第1回柳工業デザイン研究会展(銀座松屋)開催、成形合板による「バタフライ・スツール」(天童木工)を発表する。同年6月第6回アスペン国際デザイン会議(アメリカ・コロラド州)に参加。57年7月第11回ミラノ・トリエンナーレに「バタフライ・スツール」、「白磁土瓶」などを出品し、インダストリアル・デザイン金賞を受賞。60年5月世界デザイン会議が東京で開催され実行委員となる。同年、「柳宗理陶器のデザイン展」(銀座松屋)開催。61年西ドイツのカッセル・デザイン専門学校教授として招聘され、62年まで滞在。64年東京オリンピックの「トーチホルダー」などをデザイン。65年「デザイナーのタッチしないデザイン ANONYMOUS DESIGN」展(銀座松屋)を企画。66年世界デザイン会議(フィンランド)に日本代表として参加。68年「柳宗理歩道橋計画案展」(銀座松屋)開催。72年札幌オリンピックの「聖火台」、「トーチホルダー」などをデザイン。75年「柳宗理のデザイン展」(銀座松屋)、「ストリートファニチャー展」(銀座松屋)開催。77年12月日本民藝館館長となり、翌78年1月には日本民藝協会会長となる。80年6月「柳宗理:デザイナー・作品・1950-80」展(ミラノ市近代美術館、イタリア)開催。83年6月、「柳宗理デザイン展 1950‐1983」(イタリア文化会館、東京)開催。88年8月、「柳宗理Sori Yanagi’s Works and Philosophy」展(有楽町西武クリエイターズ・ギャラリー、東京)開催。1998(平成10)年4月、「柳宗理 戦後デザインのパイオニア」展(セゾン美術館、東京)開催。2002年11月、文化功労者となる。03年8月「柳宗理デザイン展・金沢 うまれるかたち」(金沢市民芸術村)開催。07年1月「柳宗理 生活のなかのデザイン」展(東京国立近代美術館)開催。08年英国王立芸術協会より、ロイヤルデザイナー・フォー・インダストリー(Hon RDI)の称号を授与される。 戦後日本の工業デザインの基礎を作った工業デザイナーの草分け的存在であり、テーブルウェアや台所用品などの生活用具から、家具、ベンチなどのストリートファニチャー、歩道橋、高速道路の防音壁、さらには、札幌オリンピックの聖火台など、幅広い領域で活動した。代表作「バタフライ・スツール」に見られるように、日本の伝統的な造形感覚とモダンデザインの合理性とを結びつけ、無駄なデザインを省いた純粋な形の中に、手仕事のぬくもりや日本の風土性を感じさせるデザインは国内外で高く評価された。「デザインの至上目的は人類の用途の為にということである」「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない」という言葉からもうかがえるように健全な人間社会のあるべき姿というものを追求する思想性を備えた工業デザイナーだった。デザインに関する文章も多く、著書に『デザイン 柳宗理の作品と考え』(用美社、1983年)、『柳宗理 エッセイ』(平凡社、2003年)などがある。

青葉益輝

没年月日:2011/07/09

 グラフィックデザイナーの青葉益輝は、7月9日午後11時、食道がんのため東京都内の自宅で死去した。享年71。 1939(昭和14)年7月18日東京に生まれる。62年桑沢デザイン研究所を卒業後、オリコミ(広告代理店)に入社、主に東京都のポスターを担当する。69年A&A青葉益輝広告制作室を設立。72年東京アートディレクタースクラブADC賞受賞。80年日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の理事となる(~2011年)。82年個展「平和ポスター展」(松屋銀座)開催。同年、ブルノ国際グラフィック・ビエンナーレ(チェコスロバキア)にてグランプリ受賞。83年ソ連平和ポスター展にて奨励賞受賞。同年、世界平和大会(旧ユーゴスラビア)の公式ポスターを制作。86年交通万国博覧会(バンクーバー)日本政府館のグラフィックを担当。87年個展「Graphically」(ギンザグラフィックギャラリー、東京)開催。同年、ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレにて金賞受賞。1992(平成4)年個展「青葉益輝環境ポスター展」(ショーモン、フランス)開催。同年、ニューヨークADC国際展金賞受賞。94年「自然との共生」をテーマに長野オリンピック(1998年)の第1号公式ポスターを制作。95年日本宣伝賞山名賞受賞。2006年紫綬褒章受章。07年個展「AOBA SHOW」(ギンザグラフィックギャラリー、東京)開催。11年、個展「青葉益輝・平和ポスター展」(調布市文化会館たづくり、東京)開催。 商業広告の仕事の一方で、東京都の美化運動のための公共ポスター「灰皿ではありません」(1971年)など環境保護をテーマとするポスターや、「THE END」(1981年)など平和をテーマとする社会性の強いポスターの自主制作に取り組んだ。 著書に『アートディレクター』(浅葉克己、長友啓典との共著、東洋経済新聞社、1987年)、『青葉益輝』(ggg Books、1995年)、『心に「エコ」の木を植えよう』(求龍堂、2008年)などがある。

粟津潔

没年月日:2009/04/28

 幅広いジャンルで独自の創作活動を展開したグラフィックデザイナー粟津潔は、4月28日午後2時44分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。享年80。1929(昭和4)年2月19日、東京都生まれ。逓信省の技師だった父恵昭は、粟津が生まれた翌年踏切事故に遭い30歳で亡くなっている。小学校を終えると町工場や建具組合の事務所で働きながら、夜間商業学校に学び、戦争激化のために繰り上げ卒業となった45年法政大学産業経営学科専門部に入学するが翌年中退。国鉄に勤めながら独学で絵を描き始め、48年退職すると、映画プログラムや看板などを制作する日本作画会に就職。その後日本アニメーション、独立映画宣伝部と職を変えながら挿絵やポスターを描き、55年キャンペーン・ポスター《海を返せ》で日本宣伝美術会賞を受賞。翌56年にも日宣美奨励賞を受賞し同会員となる。58年3年間嘱託で勤めた日活宣伝部を退社。60年世界デザイン会議に参加。黒川紀章ら建築家による、新陳代謝する都市建築を提唱した「メタボリズム」の運動に共鳴し彼らのグループに加わると、菊竹清訓設計の出雲大社宝物殿の鉄扉デザイン、逓信博物館のパネル、レリーフ等、建築デザインを多く手がける。また62年勅使河原宏監督の映画『おとし穴』のポスター、タイトルバックを担当して以降、『怪談』、『砂の女』(共に1964年)などのタイトルバックや、篠田正浩監督『心中天網島』(1969年)の映画美術などを手がけるかたわら、自身も実験映画を製作し、74年にはそれら10本を渋谷パルコにてまとめて公開する「粟津潔映像個展」を開催。70年第3回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレで「心中天網島」、「ANTI WAR」のポスターが銀賞および特別賞を受賞。また64年には武蔵野美術大学造形学部デザイン科助教授となり70年まで勤める。65年福田繁雄、田中一光ら気鋭のデザイナー11人によるグループ展「ペルソナ」を開催。70年の日本万国博覧会ではシンボルゾーンのテーマ館基本構想計画設計を担当。以後、85年「科学万博つくば’85」政府テーマ館プロデュースほか、公式イヴェントや公共デザインの仕事を多数手がける。主なものに75年国立民族学博物館中央パティオのデザイン、1992(平成4)年江戸東京博物館のプラザタイル計画デザイン、展示設計総合アート、96年寺山修司記念館の統合計画・建築設計、展示プロデュースがある。また88年川崎市市民ミュージアム建設委員会委員として同館の開館に尽力し、2000年には設立準備段階から携わっていた印刷博物館初代館長に就任。同年度の毎日デザイン賞、特別賞を受賞する。「トータルデザイン」の理論を提唱するなど、知的好奇心の旺盛さは広範な学問研究へと向かい、タイポグラフィーを文字の起源から研究するために漢字学者白川静に傾倒。また民俗学研究を経て、地図や指紋、判子など土俗的な題材を反復させながら用いる独特のデザインの世界を生み出した。こうして作り出されたカラフルなポスターや書籍装丁などの印刷物は、情報伝達手段としてのグラフィックデザインの機能性を具えるだけでなく、時代の雰囲気や感性とマッチすることで多くの人々から支持を集めた。晩年はアメリカの先住民のロックアートや象形文字などにも関心を寄せるなど、生涯を通して建築、音楽、文学、映像と、多彩なジャンルを横断する創作活動を展開した。主な著書に『デザインの発見』(1966年)、『粟津潔 デザインする言葉』(2005年)、『不思議を眼玉に入れて:粟津潔横断的デザインの原点』(2006年)、など。最晩年となった2007年には、金沢21世紀美術館で大回顧展「粟津潔 荒野のグラフィズム」が開催されている。90年紫綬褒章、2000年勲四等旭日小綬章を受章。

早川良雄

没年月日:2009/03/28

 グラフィックデザイナーとして、長らく現役で活躍した早川良雄は、3月28日午前11時33分、肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年2月13日、大阪市福島区生まれ。両親に姉、弟、妹という家族構成であったが、母親は早川がまだ少年時代に39歳の若さで亡くなっている。小学生の頃より絵が得意であったことから、担任教師の勧めで1931(昭和6)年、開校間もない大阪市立工芸学校工芸図案科に入学。同校教師で当時新しかったバウハウスの教育理論を実践した画家山口正城から影響を受ける。デザインに対する関心はこの時期より芽生え、いくつかの公募展で受賞を重ねる。卒業翌年の37年、三越百貨店大阪支店の装飾部に入社。ウィンドウ・ディスプレイの仕事などを担当し、舞台装置やインテリア・デザインといった空間デザインの仕事を覚える。しかし翌38年に召集され日中戦争に従軍。京城(現在のソウル)で終戦を迎える。同年秋に帰国後、大阪市役所勤務を経て、48年親友であったデザイナー山城隆一の推薦により近鉄百貨店宣伝部に入社。ここで制作した「秀彩会」ポスターが、デザイン専門誌『プレスアルト』で紹介されるなど評判となる。49年関西を代表するデザイナーであった今竹七郎のアシスタントとして働いていた千畑梅と結婚。50年来阪した亀倉雄策と出会う。亀倉は早川のポスターの斬新なデザイン感覚に驚き、これが契機となって51年、亀倉や原弘、河野鷹思らが結成した日本宣伝美術会、通称日宣美に、関西の若手デザイナーたちとともに参加。また同年大阪で画家瑛九を中心にデモクラート美術家協会が結成されると山城らと参加。泉茂、吉原英雄らジャンルを超えた芸術家たちとの交流を深めた。52年近鉄を退社しフリーランスとなると、54年には大阪心斎橋に早川良雄デザイン事務所を立ち上げる。事務所は知己であったカロン洋裁研究所校長国松恵美子から洋裁学校の一室を提供されたもので、その縁から、この時期同研究所の生徒募集ポスターを多数制作。早川の代名詞となった「カストリ明朝」と呼ばれる独特の書体が多く用いられた。52年には神戸三宮のセンター街にできた喫茶店「G線」のインテリアや什器をコーディネイトするなど多方面に仕事を展開。55年国際グラフィックデザイナー連盟(AGI)会員、58年第8回日宣美展会員賞受賞など、次第にデザイナーとしての評価も高まり、「グラフィック’55」や60年世界デザイン会議への参加を通して、その存在が広く知られるようになると、61年に東京事務所を銀座に開設。以後東京での活動を本格化させていく。その後も66年ブルーノ・グラフィックアート・ビエンナーレ展(チェコ)二等賞、67年日本サインデザイン協会第2回SDA賞金賞ならびに銀賞、78年第13回造本装幀コンクール通産大臣賞、84年日本宣伝賞第5回山名賞など、多くのコンクール等で受賞を重ね、一方では70年日本万国博覧会の色彩基本計画への参画、87年「世界デザイン博覧会’89名古屋」のためのポスター制作をはじめとする多くのイヴェントや、京阪百貨店、伊奈製陶(INAX)などの企業ポスター、ロゴマークの制作、さらに『文学界』、『日経デザイン』など雑誌の表紙デザインも手がけるなど、広範に活動を展開する。また、個性的なイラストは画家としての活動へと広がり、68年から始まる「顔たち」と「形状」の両シリーズにおいて優れた色彩感覚と構成力を発揮し、30年以上続くシリーズとなった。2002(平成14)年には大阪市立近代美術館(仮称)コレクションによる大規模な回顧展が開催された他、歿後となる10年には東京国立近代美術館、11年には国立国際美術館にて相次いで回顧展が開催された。82年紫綬褒章受章、88年勲四等旭日小綬章受章。60年以上を第一線のデザイナーとして活躍した早川は、また多くの後進デザイナーたちに影響を与え慕われた存在であった。

福田繁雄

没年月日:2009/01/11

 日本グラフィックデザイナー協会会長で、グラフィックデザイナーとして国際的に活躍した福田繁雄は、1月11日午後10時30分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。享年76。1932(昭和7)年2月4日、東京生まれ。田中国民学校卒業後、台東区今戸高等小学校に入学するが、太平洋戦争の激化により44年母親の実家のある岩手県二戸市福岡町に疎開。戦後51年同地の県立福岡高等学校卒業後、帰京すると53年東京藝術大学美術学部図案科に入学。在学中より日本宣伝美術会展や日本童画会展をはじめ、幾つものコンクールで受賞を重ねる。またこの頃亀倉雄策に見出され、松屋デパートのポスターを手掛ける。56年に卒業後は味の素株式会社広告部制作室に入社するが、日宣美会員に推挙された58年退社。河野鷹思を中心とする株式会社デスカの設立に参加した後、59年フリーのデザイナーとなる。60年世界デザイン会議でイタリア人デザイナー、ブルーノ・ムナーリと出会うと、彼の「遊び」のデザインに影響を受け、61年ミラノにあるムナーリのアトリエを訪問。62年にはこの時の旅行を図形表現した『わたしと国々』を朝日出版から出版。以降、大学時代から行っていた絵本制作に本格的に取り組み、『Romeo and Juliet』、『こぶとり日本昔話』などを相次いで自費出版する。また同じ頃にエッシャーの絵画と出会い、後の視覚トリックによるデザインの出発点となる。65年「グラフィックデザイン展ペルソナ」に出品。新しい世代のデザイナーとして注目を集めると、66年第2回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ展奨励賞を皮切りに、以後国内外の公募展や企画展への出品が相次ぐ。また、69年日本万国博覧会サイン計画への参加や71年札幌冬季オリンピック参加メダル、ピクトグラム、公式ガイドブックの制作など国家的イヴェントへの参画も増えていく。一方、63年の長女誕生をきっかけに始まった玩具制作は、60年代後半からは彫刻へと展開し、67年ニューヨークIBMギャラリーでの個展「Toys and Things」や、73年第5回現代日本彫刻展(宇部市)入選というかたちで結実する。福田の立体作品の代名詞といえるのが「二つの形をもった一つの形」シリーズで、見る角度によってまったく異なる形がシルエットとなって現れるトリッキーな仕掛けは、同時代の難解な現代美術にはないユーモア精神に溢れたものであった。これらの立体作品は全国各地にパブリック・アートとしても設置され、福田の創作活動を従来のグラフィック・アートから大きく飛躍させた。ユニバーサル・デザインを標榜する福田の海外での活動は目覚ましく、その評価も日本のデザイナーの中でも突出している。1995(平成7)年ポーランド、ビラヌフ・ポスター美術館での個展に代表される展覧会の開催を始め、72年第4回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞、75年第21回オリンピック・モントリオール大会記念銀貨デザイン国際コンペ最高賞、95年ユネスコ国際ポスター展グランプリ、サヴィニャック賞(パリ)といった受賞歴の他、86年英国王室芸術協会(R.D.I.)会員、87年ニューヨークADC殿堂入り、91年ポーランド国立ポスター美術財団名誉会長などの要職にも就いている。国内でも81~86年に東京藝術大学デザイン科助教授を務めたのを始め、98年社団法人日本サインデザイン協会顧問、2000年日本グラフィックデザイナー協会会長などを歴任。その間、78年第12回SDA賞最優秀賞、80年第11回「講談社出版文化賞」ブックデザイン賞、87年日本宣伝賞第8回山名賞、93年ECOPLAGAT:環境と自然保護国際ポスターコンクール、グランプリ、97年通商産業大臣デザイン功労者表彰、2001年岩手県勢功労者表彰を受け、99年には岩手県二戸市に福田繁雄デザイン館をオープンさせた。76年文部省芸術選奨美術部門文部大臣賞新人賞、97年紫綬褒章。歿後2011~12年には、三重県立美術館を始め全国6美術館を巡回する大回顧展が開催されるなど、従来のグラフィックデザイナーの枠を超えた独創的な創作活動は、その遊び心と親しみやすさから広く人々を魅了し続けている。

木村恒久

没年月日:2008/12/27

 グラフィックデザイナーの木村恒久は12月27日、肺がんのため自宅で死去した。享年80。  1928(昭和3)年5月30日、大阪府に生まれる。45年大阪市立工芸学校(現、市立工芸高等学校)図案科を卒業、海軍の予科練に入隊してすぐ終戦となり、しばらくはヤミ市の片隅で看板の制作を手がけて家計を支える。その後、沢村徹に弟子入りしてデザインの現場を体験。毎日新聞商業デザインコンクールの52年第20回ポスターの部「ペニシリン昭和鼻薬」で技能賞、翌第21回第2部(ポスター)「エナルモンB帝国臓器」で日宣美会員賞、翌第22回第1部(新聞広告)「大和銀行/大和定期」で通産大臣賞を受賞。同コンクール入賞者の懇親会から53年に「Aクラブ」というデザイン研究会が発足、その中心メンバーだった永井一正、片山利弘、田中一光らと「若手四天王」と呼ばれ、精力的にデザイン制作、批評活動を行う。55年よりユアサ電池株式会社に招かれ嘱託となるが、60年に上京し、亀倉雄策らが設立したデザイナー集団の日本デザインセンターに参加。62年日本建築家協会主催「モデュール展」で原弘と共同制作を行い、ADC銅賞を受賞。64年に独立。66年、宇野亜喜良、永井一正、和田誠らグラッフィク・デザイナーが集まり前年に開催した展覧会「ペルソナ」で毎日産業デザイン賞を受賞。68年東京造形大学助教授となる。同年チェコ・グラフィック・ビエンナーレでチェコ建築家協会賞を受賞。70年頃から複数の写真を精巧に組み合わせて全く異なるイメージを生み出すフォト・モンタージュの手法で、現代社会を鋭く風刺した。77年『季刊ビックリハウスSUPER』で「木村恒久のヴィジュアル・スキャンダル」の連載を開始、その原画展を渋谷パルコで開催し、話題を呼ぶ。79年、作品集『キムラカメラ』を刊行。80年に毎日デザイン賞を受賞。1993(平成5)年に東京造形大学客員教授となる。96年ポンピドゥー・センターと東京都現代美術館の共催による「近代都市と芸術展」に招待出品。また99年にギンザ・グラフィック・ギャラリー第154回企画展「木村恒久展what?」、2000年には川崎市市民ミュージアムで「木村恒久原画展」が開催される。没する直前の08年11月にうらわ美術館で始まった「氾濫するイメージ―反芸術以後の印刷メディアと美術1960’―70’」展では、赤瀬川原平や横尾忠則ら印刷メディアを通して活動を展開した8名の作家の一人として、70年代のフォト・モンタージュ作品が展観された(八王子市夢美術館、足利市立美術館を巡回)。

田中一光

没年月日:2002/01/10

 グラフィックデザイナーでアートディレクターの田中一光は、1月10日午後10時過ぎに港区南青山の路上で倒れているのが発見され病院に運ばれたが、11時53分に死亡が確認された。急性心不全だった。享年71。1930(昭和5)年1月13日奈良県奈良市に生まれる。奈良県立奈良商業学校を経て、50年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)図案科を卒業。鐘紡紡績に入社し、意匠課で染織デザインを担当。52年産経新聞大阪本社に転じ、やがてグラフィックデザインを手がける。京都市立美術専門学校時代から演劇サークルに参加していたが、このころ、自らの描いたポスターを契機に吉原治良の舞台美術の助手をつとめる。53年、同世代の作家たちと「Aクラブ」を結成、早川良雄や山城隆一らを講師に招き、勉強会を催した。51年に結成された日本宣伝美術会、通称日宣美には53年から70年まで会員として参加した。53年のタンゴ「オルケスタ ティピカ カナーロ」のポスターデザインは、その鮮やかな色彩と微妙に歪めた線を生かした造型感覚が衝撃をもって迎えられた初期の代表作である。54年からは産経観世能のポスターデザインを手がけ、それらは田中が持つ日本の伝統芸術への関心をうかがわせた。57年ライト・パブリシティ社に請われ、活動の拠点を東京に移す。60年株式会社日本デザインセンター創立に参画、主にトヨタ自動車販売の広告宣伝を担当する。同年、初めて東京で開かれた世界デザイン会議では広報デザインを担当。60年、アメリカのデザイン事情視察のため初渡米。63年フリーとなって東京青山に田中一光デザイン室(76年株式会社田中一光デザイン室)を開き、竹中工務店のPR誌をはじめアートディレクションを手がけた。70年の大阪万博では日本政府館一号館の展示デザインを担当。84年にはモスクワで開かれた日本デザイン展の展示を担当し、85年つくば科学万博ではシンボルマークを制作。73年、西武劇場(現PARCO劇場)のグラフィックデザインを担当したことを皮切りに、西武美術館、西武百貨店をはじめとするセゾングループ全般に、文化事業にとどまらないクリエィティブディレクターとして関わり、無印良品の企画・監修にも携わる。70年代後半から、プロデューサーとしての仕事は企業にとどまらず、ギンザ・グラフィック・ギャラリーやギャラリー・間などの企画・運営にまでわたった。その一方で多くのタイポグラフィを創り、エディトリアルデザインにも秀で、土門拳『文楽』(駸々堂出版 1972年)や“JAPANESE COLORING”(Japan Day Preparation Committee 1981)など多数の作品がある。田中が構成した『人間と文字』(平凡社 1995年)は、この方面における集大成ともいえる仕事である。田中は、大胆で明快な構成と色彩、強い平面性を特色とし、40年以上にわたってグラフィックデザイン界を牽引、戦後デザインの方向性を確立した。80年のエッセイ集『デザインの周辺』(白水社)をはじめ、2001(平成13)年には「田中一光自伝 われらデザインの時代」(白水社)を上梓。ミラノ近代美術館やベルリンのバウハウス・アーカイブ・デザイン・ミュージアムを含む国内外で個展を開催。03年には東京都現代美術館で「田中一光回顧展 われらデザインの時代」が開かれている。54年に日宣美会員部門賞を受賞したことに始まり、毎日産業デザイン賞、芸術選奨文部大臣新人賞、朝日賞などのほか受賞多数、83年には第4回山名賞、99年第1回亀倉雄策賞を受賞している。94年紫綬褒章受章、00年には文化功労者。国際グラフィックデザイナー(AGI)連盟会員。ニューヨークADCの殿堂入りを果たす。日本グラフィックデザイナー協会理事。

内山昭太郎

没年月日:2000/12/14

 デザイナーで、広島市立大学大学院教授、東京芸術大学名誉教授の内山昭太郎は、12月14日死去した。享年69。1931(昭和6)年4月17日に生まれ、56年、東京芸術大学美術学部工芸科図案部を卒業、日本テレビ放送網株式会社に入社。73年、同社を退社し、多摩美術大学美術学部デザイン科講師となる。同大学には、87年まで教授としてつとめ、同年から東京芸術大学美術学部デザイン科教授となる。1999(平成11)年に同大学を退官し、同年から広島市立大学大学院芸術学研究科教授となる。主として電波媒体を中心にしたアートデザインから、マルチメディアによるデザイン教育研究をおこなった。著書に『コングラのすべて』(共著、誠分堂新光社 82年)、『パーソナル・グラフィックス』(共著、誠分堂新光社 82年)がある。また、展覧会には、94年に「電脳魚類図鑑」(天王洲オフィスアートギャラリー)、98年に「退官記念展“電視芸上”」(東京芸術大学陳列館)、2000年に「電脳遊園地」(東京銀座、松屋ギャラリー)などがある。

祐乗坊宣明

没年月日:2000/04/03

 グラフィックデザイナーで、元多摩美術大学教授の祐乗坊宣明は4月3日午後0時33分、肺炎のため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年87。1913(大正2)年3月25日、東京府本所区に生まれる。東京朝日新聞社出版局に入社、約30年間にわたる在社中、数多くのアーティストたちをコーディネイトする一方、1952(昭和27)9月、アートディレクターの専門的機能を社会的に確立し、推進することを目的とした東京アートディレクターズクラブ(ADC)創立に尽力した。その後、68年から現在の多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科で教鞭をとるようになり、教授として1991(平成3)年3月に退職。在職中は、後進の指導に熱心に取り組み、多くのデザイナーを育成した。なお、長男英明氏は作家嵐山光三郎。

今竹七郎

没年月日:2000/02/26

 グラフィックデザイナーで洋画家の今竹七郎は2月26日午前3時41分、呼吸不全のため兵庫県西宮市内の病院で死去した。享年94。1905(明治38)年神戸市下山手に生まれ、幼少より神戸の欧風化した雰囲気の中で育つ。1926(大正15)年関西で初めて創刊された少女雑誌『乙女の園』の挿画を描く。1927(昭和2)年神戸大丸百貨店意匠部に入社、飾窓、店内装飾、催場の構成などを担当、翌年には宣伝部付のデザイナーとなる。近代都市化の進む20年代の大阪・神戸を舞台にグラフィックデザインの仕事を始め、以後専ら阪神間を活動の拠点とする。29年新興写真運動を実践した中山岩太らとともに、神戸商業美術研究会を設立。30年大阪高島屋の宣伝部に入社。35年明治チョコレートの新聞広告で大毎東日産業美術展の第1位商工大臣賞を受賞。都会的感覚溢れるランランポマードの新聞広告(36~49年)等で独自のスタイルを確立していく。一方で、デザイン広告誌『広告界』に37年「シュールレアリスムと商業美術」の論説を寄せ、39年より同誌に「素描教室」と題してデザイン造形に関する解説を2年にわたり寄稿するなど、理論家としての側面を発揮する。戦後は終戦と同時に神戸元町に独自のスタジオ「日本デザイン」を開設、のち大阪へ移転し48年に「今竹造形美術研究室」と改称。51年には看護婦姿の少女をあしらった近江兄弟社のメンソレータムトレードマークや関西電力の社章を発表。54年国際印刷美術展で通産大臣賞受賞。1991(平成3)年兵庫県文化賞を受賞。画家の片手間仕事であったグラフィックデザインを自立した領域にまで高めたパイオニアとして知られる一方、31年に林重義が主宰する月曜会に入り、35年第5回独立展に「枯木のある風景」を出品、入選するなど絵画制作にも精力を傾け、39年には春陽会に初入選、同会を主な作品発表の場とする。53年の「摩天楼」以降は一貫して抽象表現をとり、具体美術協会の指導者吉原治良とも親密な交際があった。そのデザインと絵画における活動の全容については、89年に兵庫県立近代美術館と西武百貨東京池袋店で開かれた「今竹七郎の世界」展、同年刊行の画集『昭和のモダニズム 今竹七郎の世界』、98年西宮市大谷記念美術館で開催の「モダンデザイン・絵画の先駆者 今竹七郎展」等で紹介されている。

大高猛

没年月日:2000/01/22

 グラフィックデザイナーで、浪速短期大学名誉教授の大高猛は、1月22日午前6時5分、急性すい炎のため大阪市中央区の病院で死去した。享年73。1926(大正15)年4月20日、山口県豊浦郡豊浦町に生まれる。1948(昭和23)年、明治工業専門学校を卒業後、53年に大高デザインを設立。55年、日宣美展で特選受賞。66年、大阪万国博覧会のために、五大陸をイメージした桜の花びらのシンボルマークが選ばれる。67年から70年まで、同博覧会のアートディレクターをつとめた。69年、東京ADC賞受賞。81年、国際デザイン交流協会アートディレクターをつとめ、83年には、神戸ワイナリー環境デザイン総合ディレクターとなり、大阪府産業功労賞を受賞。1994(平成6)年、「クリエーター大高猛の仕事、私事展」(京阪百貨店)を開き、その多彩な業績が回顧された。95年、大阪市文化功労賞を受ける。そのほか、日清カップヌードルのパッケージデザイン、関西国際空港のキャラクターデザインなどを手がけ、2000年春の選抜高校野球大会の優勝メダルのデザインが、最後の仕事となった。

亀倉雄策

没年月日:1997/05/11

 グラフィックデザイナーで、文化功労者の亀倉雄策は、5月11日、心不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年82。大正4(1915)年4月6日、新潟県西蒲原郡吉田町に生まれた。旧制日大第二中学校卒業後の昭和10(1935)年に、川喜田煉七郎が主宰する新建築工芸学院で、バウハウス流の基礎的な構成理論と方法論を学んだ。同13年、日本工房に入社、写真家名取洋之助のもと、デザイナー河野鷹思、そして友人であった写真家土門拳とともに、海外向けのグラフ雑誌の編集にたずさわった。戦後の同26年には、公告美術を、単なる商品宣伝から、社会的、文化的な意味をも担わせる目的から、全国のデザイナーを糾合する団体日本宣伝美術会(日宣美)の創立に、呼びかけの人のひとりとして参画した。同会は、公募展を主催するなど、戦後日本のグラフィックデザインの水準を上げ、裾野をひろげたことで大きな功績があった。また、デザイナーとしての亀倉の才能が発揮されるのも、50年代から60年代にかけてであり、代表的な作品には、直線と曲線を駆使し斬新な構成をしめした日本光学(NIKON)のカメラの一連のポスター、そして写真を使用して力動感と競技の一瞬の緊迫感をストレートに表現した東京オリンピックのポスターがあり、ことに後者は、同41年の第一回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレにおいて芸術特別賞を受賞し、国際的にも高い評価を得た。以後、同45年の万国博覧会、同47年の札幌オリンピック冬季大会の公式ポスターを手がけ、内外にその名がひろく知られるようになった。同53年に日本グラフィックデザイナー協会の創立に参加し、会長に就任するなど、70年代から80年代にかけては、デザイナーとして活躍する一方で、デザイン会のリーダーとして中心的な役割をはたした。同59年には、毎日芸術賞の美術部門賞を受賞し、平成3(1991)年には、文化功労者に選出された。同8年には、東京国立近代美術館フィルムセンターで、戦後からの代表作93点からなる「亀倉雄策のポスター」展が開催され、それぞれの時代にあって人々の感覚と嗜好を先取りし、社会的にも文化的にも、メルクマールとなるようなポスターの数々が回顧された。

里見宗次

没年月日:1996/01/30

 グラフィックデザイナーの里見宗次は、1月30日午前2時40分、心不全のため奈良県大和郡山市の病院で死去した。享年91。明治37(1904)年11月2日大阪府住吉区に実業家の三男として生まれる。幼少期には長兄の同級生だった小出楢重が里見家に出入りし、その感化を受ける。東京の美術学校受験のため、日本画家の井口華秋に師事するが、フランスより帰国した小出の留学生活を目のあたりにし、パリ行きを決意。大正11(1922)年フランスに渡り、同23年に日本人で初めてエコール・デ・ボザール(パリ国立美術学校)の本科に入学。最初は油絵を学んだが、自活のためショパン広告社、のちフレガット広告社に勤務、商業美術に転じ戦前のパリで「ムネ・サトミ」の名前で活躍する。昭和3(1928)年に制作したゴロワーズのたばこポスターで国際的に注目され、同9年KLMオランダ航空のポスター等、アール・デコ様式の作風を展開、グラフィックデザイナーとしての地位を確立した。12年のパリ万国博覧会で日本国有鉄道のポスターが名誉賞と金杯を受賞。第二次世界大戦で一時帰国、外務省よりタイ・仏印国境画定委員としてサイゴンへ派遣、のちバンコクへ移りそこで終戦を迎える。以後もバンコクに残り、同27年に再び渡仏、制作を行った。同49年勲三等瑞宝章を受章。平成元(1989)年に帰国。作品集に『巴里花画集』(京都書院 平成3年)、著書に『のすどディアマン―ある広告美術家の歩いた道』(昭和56年)がある。

岡秀行

没年月日:1995/09/26

 アート・ディレクターで呉学園・日本デザイナー学院名誉院長の岡秀行は、9月26日午後1時23分心不全のため東京都中野区の中野総合病院で死去した。享年90。明治38(1905)年4月11日福岡県に生まれる。関東大震災の直後に上京し、図案家門屋秀雄に図案を学ぶ。昭和10年図案、写真撮影を併せて行う「オカ・スタジオ」を創設。戦後、商業デザイン産業が発展するなかで同業団体の設立に尽力し、同25年日本宣伝美術会創立に参加して同会の事務所をオカ・スタジオに置いた。同27年東京商業美術家協会を設立して同会委員長となる。同37年には地方17団体の結束を促して全国商業美術家連盟を結成し、その理事長に就任する。民家、民具など日本の風土や生活に根ざしたデザインに興味を抱き同35年に米国ニューヨーク近代美術館で開催される国際パッケージ展に出品を依頼されて以降、日本の伝統的な「包む」造形に注目して収集を始める。同39年には全国商業美術家連盟の第一回展として「日本伝統パッケージ展」を提案して日本橋白木屋で開催。わら、和紙、竹皮などによる様々な包装を展示し、モダニズム全盛時代にあって、異色の展観として識者の関心を引いた。同展の出品作品を写真撮影して同40年に刊行した『日本の伝統パッケージ』(美術出版社)は、国際的な注目を浴び、英語、ドイツ語、フランス語に訳されて各国で刊行された。同警がきっかけとなり、同50年ニューヨークのジャパン・ハウス・ギャラリーで「包む-日本の伝統パッケージ」展が開催され、同展は28か国、99回の展示を重ね、各地で高い関心を呼んだ。包む造形に表れた風土、環境、人々の心を紹介することに尽力し、他に『包 TSUTSUMU』(毎日新聞社 昭和47 年)、『こころの造形』 (美術出版社 同49年)を著すとともに、同63年目黒区美術館での「日本の伝統パッケージ展」開催に寄与した。

粟辻博

没年月日:1995/05/05

 多摩美術大学教授で染織デザイナーの粟辻博は5月5日午前1時22分肝不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年65。昭和4(1929)年7月20日、京都市上京区猪熊通元誓願寺下ルに生まれる。同25年京都市立美術専門学校(現京都芸術大学)を卒業し、鐘淵紡績意匠室に入社する。同33年同社を退き、独立。同38年フジエテキスタイルのデザインを初め、同46年毎日新聞社毎日産業デザイン賞準賞を受賞。翌年日本インテリア協会賞を受賞する。同49年米国でのナショナル・コントラクト・プロダクツ展で一席となり、同53年にはポーランドで開催されたテキスタイル・トリエンナーレで銀賞を受賞する。公共建築内のタベストリーなどを手がけ、国際的に活躍。同53年多摩美術大学教授となり、また同年ギャラリー問で、「粟辻博の自立した表層」展を開催した。平成2(1990)年作品集『粟辻博のテキスタイル・デザイン』を刊行。同4年米国で開催されたIDアニュアル・デサイン・レビューで金賞を受賞し、また同年国際テキスタイル・コンペティションで佳作賞を受賞。没年にあたる同7年には第22回国井喜太郎産業工芸賞を受賞した。代表作に京王プラザホテルのエントランスホールやグリルなどのタペストリー、大正本社ビルレセプションホールのタペストリー等がある。

小池岩太郎

没年月日:1992/07/21

 東京芸術大学名誉教授で、日本のインダストリアル・デザインの草分けとして知られた小池岩太郎は、7月21日午前1時25分、心不全のため、東京都新宿区の自宅で死去した。享年79。大正2(1913)年2月22日、東京芝に生まれる。同14年香川県立高松工芸学校を卒業。昭和5(1930)年、東京美術学校工芸科図案部に入学。同10年5月、同校を卒業して福岡県商工課技手となり、同14年12月、商工省工芸指導所(福岡)技手となる。同15年10月、沖縄漆工芸組合紅房工場長となるが、同17年母校東京美術学校図案部嘱託となり、同24年同校美術学部助教授となった。同28年GKデザイングループ発足にかかわる。同32年日本インダストリアルデザイナー協会理事長となり、同36年カウフマン国際デザイン賞審査員および日本万国博覧会デザイン顧問をつとめた。同40年東京芸術大学教授、同54年同美術学部長となり、同55年退官して同大名誉教授となった。この間、同41年デザイン奨励審議会委員、教育課程審議会専門調査委員、同48年デザインイヤー常任委員をつとめ、同56年「公共の色彩を考える会」を結成。同60年第12回国井喜太郎産業工芸賞を受け、平成3(1991)年には通産大臣よりデザイン功労者として表彰された。ヤマハのプレーヤー、日本酒「大関」の揺れるボトル等、家庭用品を中心にデザインする一方、多くのコンクールの審査、デザイン関係団体の運営にたずさわり、日本のインダストリアル・デザインの振興に寄与した。著書に『基礎デザイン』(昭和31年、美術出版社)、『デザインの話』(同49年、同社)等がある。

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