本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





村岡三郎

没年月日:2013/07/03

 彫刻家の村岡三郎は、7月3日肺炎のため滋賀県大津市の病院で死去した。享年85。 1928(昭和3)年6月25日、大阪市に生まれる。旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)に学ぶ。45年九州の航空隊に配属、「特攻」要員として終戦を迎える。47年に同中学校を卒業。50年、大阪市立美術研究所彫刻部を修了。同年3月、第1回関西総合美術展覧会に出品、同年9月、第36回二科展に初入選。二科展には、以後67年の第52回展まで出品を続けた。65年10月、第1回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「作品(冬眠中)」(材質:金属、ゴムその他)を出品、K氏賞受賞。69年10月、第3回同展(同会場)に「自重」(材質:ポリエステル)を出品、大賞を受賞。71年10月、第4回同展でも「ゲル化(硬化)」(材質:F.R.P.)によって再びK氏賞受賞。また69年8月に、信濃橋画廊(大阪市)にて「砂」と題した初個展を開催。以後、個展、ならびにコンクール形式の展覧会、または現代美術を紹介する各地の美術館の企画展に出品を重ねた。 77年5月、「ホヴァリング」(空中停止)と題して個展(信濃橋画廊)を開催、自らの落下中の姿を撮影した写真映像と、ドローイングや鉄を素材にした作品によるインスタレーションを試み、コンセプチュアルアートとして評価された。83年10月、「熔断1380°C×6000」を信濃橋画廊の個展で発表、溶断した鉄棒を展示して溶断する身体と時間を意識化さることを試みた。この溶断、溶接の行為は、以後村岡にとって重要な表現のひとつとなった。86年7月から翌月にかけて、中国新疆ヴィグル地区に赴き、タクラマカン砂漠を旅行。この時の体験は、その後の制作に大いに影響を与え、特にこの地の岩塩を得たことから、鉄、硫黄とともに塩もその後の表現の要素に加わった。87年11月、第4回牛窓国際芸術祭―彫刻と空間(会場、岡山県牛窓町)に、「牛窓・7つの酸素」を出品、酸素ボンベを初めて作品に組みいれた。70年代から80年代にかけて、村岡の作品は、元素的な素材を取りあげて、溶接、熱、振動の痕跡を作品化、もしくはインスタレーションとして提示し、自然、身体、宇宙、生命等を強く意識した創作活動をつづけた。 1990(平成2)年、第44回ヴェネツィア・ビエンナーレに遠藤利克とともに日本館に出品(日本のコミッショナーは美術評論家建畠晢)、国際的にも注目された。97年11月、東京国立近代美術館にて「村岡三郎展 熱の彫刻―物質と生命の根源を求めて」を開催(同展は、翌年3月まで京都国立近代美術館を巡回。)80年代から90年代までの近作を中心に28点を出品。同展の成果により、99年1月に第40回毎日芸術賞を受賞。 青年期にあたる戦中、戦後の時期の苛烈な体験から、内面に虚無を抱えこむことなく、また情緒性や感傷を一切排し、科学、物理学の原理的な理論を援用しながら、自らの死生観と想像力を元素的な物体を素材にして表現した特異なアーティストであった。身体性、観念性と即物性を力技で作品化した点から、日本の戦後美術から現代美術においてユニークな位置を占めている。なお創作活動と並行して、81年から滋賀大学教育学部教授として勤め、93年3月に退官。続いて同年4月より2002年まで京都精華大学芸術学部教授を勤めた。没後、2013年7月、京都精華大学(会場、同大学ギャラリーフロール)にて「故 村岡三郎先生 追悼展示」が開催された。

天田昭次

没年月日:2013/06/26

 日本刀で重要無形文化財保持者である天田昭次は6月26日死去した。享年85。 1927(昭和2)年8月4日、新潟県北蒲原郡本田村本田(現、新発田市)に刀匠天田貞吉の長男として生まれる。本名誠一。37年、父貞吉は死去したが、父の3回忌に訪れた東京の刀匠で日本刀復興運動の提唱者でもあった栗原彦三郎昭秀の誘いを受け、40年小学校卒業するとすぐに上京し、昭秀が設立した日本刀鍛錬伝習所に入門する。最初の作刀は52年、第二次世界大戦後、制作を禁じられていた日本刀の復興を図るため、昭秀が日本政府から許可された「講和記念刀」のうちの3口で、その1口に「昭聖」と銘を切った。その頃伊勢神宮の式年遷宮御神宝大刀の制作依頼が兄弟子にあたる宮入昭平にあり、その助手として奉仕した。54年、文化財保護委員会から日本刀の制作承認を受け、新制度のもとで作刀を行うようになる。55年、財団法人日本美術刀剣保存協会が主催した第1回作刀技術発表会に出品、93名出品中の8位で優秀賞を受賞、57年の第3回、58年の第4回展でも優秀賞を得ている。58年、それまで使用していた鉄では理想としていた相州正宗や貞宗など鎌倉時代の古名刀の域には達しないとして、その元となる製鉄から行わなければならないと考え、自家製鉄の本格的な研究に取り組んだ。しかし60年病により作刀、研究活動は停滞することとなる。68年恢復して作刀を開始し、自家製鉄による作品を第4回新作名刀展(作刀発表会から改称)に出品し、奨励賞を受賞した。70年、第6回展では名誉会長賞、72年に同展の無鑑査に認定され、財団法人日本美術刀剣保存協会より小形製鉄炉の研究で第1回薫山賞を受賞した。77年第13回新作名刀展に無鑑査として出品し、無鑑査を含むすべての出品者の最高賞である正宗賞を受賞した。78年、新潟県無形文化財保持者に認定され、85年、新作名刀展で2度目の正宗賞を受けた。1990(平成2)年、全日本刀匠会理事長に就任し、現代刀匠の技術向上、育成に努めた。97年、国の重要無形文化財保持者に認定され、99年、勲四等旭日小綬章を受章する。 天田昭次の作品は太刀、刀、脇指、短刀で、伊勢神宮神宝では直刀も製作している。特に鍛えは自家製鉄による鍛肌の美しさを強く出し、刃文は相州伝の明るく冴えた大乱れが多く、また山城伝の直刃を得意としており、正宗賞受賞作も直刃であった。また理論家としての著述も多く、76年、「自然通風炉による古代製鉄復元法実験」(『鉄と鋼』)、2004年『鉄と日本刀』(慶友社)の著書を発表している。

秋山忠右

没年月日:2013/06/25

 写真家の秋山忠右は、6月25日肺炎のため死去した。享年72。 1941(昭和16)年3月17日東京都品川に生まれる。早稲田大学政治経済学部を経て、64年東京綜合写真専門学校研究科を卒業。写真家石元泰博に師事する。65年にフリーランスとなり、同年、東京綜合写真専門学校の同期で、同じく石元に師事していた佐藤晴雄と共同制作した「若い群像」を発表。この作品により65年の第二回準太陽賞を受賞。同作は広角レンズを使用し雑踏の中で都会の若者の存在をとらえたもの。佐藤とはその後も共同制作を続け、社会的な視点に立ったさまざまな作品を雑誌、展覧会などで発表した。 個人としての作品も精力的に発表、主な写真集に小説家北方謙三と組んで冷戦末期の東西ヨーロッパやカリブのカーニヴァル、アフリカ、東南アジアなどを取材した『国境流浪』(平凡社、1990年、のち京都書院より上下巻で文庫化、1998年)、20世紀最後の10年を迎えた首都の様相を空撮によって記録した『空撮大東京』(昭文社、1991年)、現代農業に従事する多彩な人々を取材した『farmer』(冬青社、2000年)、東京郊外国道16号線沿いの犯罪現場跡を取材した『ZONE-郊外・事件の記憶』(日本カメラ社、2004年)などがある。個展での発表も多く、1998(平成10)年にはニコンサロンでの長年の展示活動に対し、伊奈信男特別賞を受賞した。 またコマーシャル撮影も手がけ、91年ACC全日本CMフェスティバル・テレビCM部門優秀賞、92年カンヌ国際広告祭(現、カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル)入賞などの受賞がある。 70年より長く母校である東京綜合写真専門学校の講師を務め、2001年には同校を運営する学校法人写真学園の理事に就任した。

西大由

没年月日:2013/06/20

 鋳金家の西大由は6月20日、急性心不全により死去した。享年90。 1923(大正12)年5月25日、福岡県築上郡に生まれる。1941(昭和16)年、東京美術学校工芸科鋳金部入学、高村豊周、丸山不忘、内藤春治に師事する。在学中の43年から45年まで兵役に就き、戦後学校に復帰する。47年東京都練馬区石神井町にアトリエを構え、同年「春之意香炉」を第3回日展に出品、初入選する。48年同校を卒業し、岐阜県多治見市の多治見製作所鋳金技師となる。53年、東京藝術大学美術学部助手となり、同年から薬師寺東塔水煙及び月光菩薩台座の修理に従事する。55年、第11回日展で「青銅壺」が特選、翌年無鑑査となった。61年社団法人第4回新日展で「泪羅に立つ」が菊華賞を受賞し、翌年会員に推挙される。63年第6回高村光太郎賞を受賞する。69年、東京藝術大学美術学部助教授、78年に教授となる。作品の公募展での発表は51年の第7回日展から、88年の改組第20回日展まで、日展が中心であったが、1989(平成元)年から日本伝統工芸展に出品するようになる。その間、79年には日本新工芸連盟創設に参加し、86年まで出品している。86年には、日本丸、海王丸の船首像を制作した。91年に東京藝術大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。 作家としての制作活動のほか、日本金工の歴史、古代鋳造技術の研究も行い、64年から80年まで東大寺大仏の鋳造と補修に関する技術的研究を続け、同校の紀要にその成果を発表した。また88年、文化庁文化財保護審議会専門委員を務める。2000年、勲三等瑞宝章を受章した。 作品は青銅あるいは朧銀による壺や花入れなど伝統的な形象に、色上げの工夫を行い、また鳥や動物、果実など自然からのモチーフを抽象化して表現し、極限まで単純化した造形には独特の抒情性を醸成している。

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

 美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

大屋美那

没年月日:2013/06/18

 フランス近代美術史研究者であり、国立西洋美術館主任研究員の大屋美那は、松方コレクション研究のため訪れたフランス・パリで急性骨髄性白血病を発症し、6月18日聖ルイ病院で急逝した。享年50。 1962(昭和37)年7月27日、中央公論社の編集者尾島政雄の長女として神奈川県藤沢市に生まれる。81年4月学習院大学文学部哲学科(美学美術史専攻)に入学、88年3月同大学大学院人文科学研究所(哲学専攻)修士課程を修了。同年11月静岡県立美術館学芸員となり、「ピカソ展」(1990年)、「栗原忠二展」(1991年)などを担当、鈴木敬初代館長のもと学芸員としての活動の素地を固める。1992(平成4)年美術館連絡協議会の海外研修派遣制度によりテキサス大学オースティン校モダニズム研究所へ派遣され、セザンヌ研究の大家リチャード・シフ所長のもと研鑽を積む。帰国後の93年、同館の別館・ロダン館の設立準備に参加する一方、ロダン研究の第一人者ジョン・L.タンコックと共同で国際シンポジウム「ロダン芸術におけるモダニティ」を企画し、94年10月、静岡県立美術館を会場にヨーロッパ・アメリカ両大陸のロダン研究者を一堂に集める稀有な機会を実現した。このときに出会ったオルセー美術館彫刻部門学芸員アンヌ・パンジョーやロダン美術館学芸員アントワネット・ル・ノルマン=ロマン、マサチューセッツ工科大学名誉教授ルース・バトラー(所属はいずれも当時)らとは終生親交を深めることになる。1995年、全国美術館会議により組織された阪神・淡路大震災被災美術館支援活動では訪問調査の一員として活躍した。1996年静岡県立美術館退職。1997年国立西洋美術館客員研究員となり、松方コレクションにおけるロダン彫刻作品調査に取り組み、その成果を「松方コレクションのロダン彫刻に関する調査報告」(『国立西洋美術館研究紀要』4号所収、2000年)として発表した。 2001年4月国立西洋美術館に主任研究官として採用され(2006年度以降は主任研究員)、学芸課絵画・彫刻第二室を経て、07年同課版画素描室長、2010年より同課研究企画室長を務めた。その間、06年3月にロダン美術館とオルセー美術館の協力を得て「ロダンとカリエール」展を実現、国立西洋美術館での開催後に巡回したオルセー美術館で国際的評価を得た。08年から09年まで国立西洋美術館在外研究制度により上述のル・ノルマン=ロマンが所長を務めるフランス国立美術史研究所(INHA)の客員研究員としてパリに滞在し、松方コレクション形成に関与したリュクサンブール美術館長(後にロダン美術館初代館長)レオンス・ベネディットの資料調査など、フランス国立美術館資料室、ロダン美術館資料室ほかで精力的な調査活動を行った。帰国後の10年2月、松方幸次郎と交友しコレクションの指南役ともなった英国の画家に焦点を当てた「フランク・ブラングィン」展を実現、それまで殆ど顧みられることがなかった画家ブラングィンを近代美術史に明確に位置づけたと同時に、松方幸次郎との交友関係を実証的に検証した功績により、11年第6回西洋美術振興財団賞学術賞を受賞した。 展覧会企画を手がける一方、美術館のコレクションの充実にも力を注ぎ、ジョヴァンニ・セガンティーニ「羊の剪毛」(旧松方コレクション)、ポール・セザンヌ「ポントワーズの橋と堰」(ともに油彩作品)、フランク・ブラングィン「共楽美術館構想俯瞰図、東京」(水彩素描作品)をはじめとする数々の作品購入を担当した。また彫刻コレクションの収蔵展示環境の刷新にも取り組み、近年展示される機会の稀であったロダンやブールデルの作品を一堂に集めた「手の痕跡」展(2012年)に結実させるなど、美術館の現場で働く学芸員としての本領も発揮した。11年頃より担当した個人コレクター橋本貫志の大規模な指輪コレクションの一括寄贈に際しては、国立西洋美術館にとって新分野となる装飾美術の作品収蔵・管理体制の構築に尽力した。 美術館での公務の傍ら、12年から他界するまでジャポニスム学会理事を務め、また学習院大学、日本大学、東京大学、慶應義塾大学、日本女子大学、放送大学で講師を務めるなど、学会活動・教育活動に従事した。一貫してフランス近代彫刻、松方コレクション研究に取り組み、急逝する直前にはフランス近代の彫刻家カルポーについての研究論文を脱稿している(「ジャン=バティスト・カルポーと1850-60年代のローマ」『ローマ──外国人芸術家たちの都』所収、没後の2013年10月に刊行)。また静岡県立美術館時代以来親交の深かったバトラーによるロダンの評伝の翻訳にも着手していた(出版計画は共訳者らに引き継がれることになり、翻訳・刊行作業が今も続けられている)。なお、13年6月22日発行のフランスの主要紙『ル・モンド』に訃報記事が掲載され、フランス側の美術関係者からも追悼の意が寄せられた。 論文集として『大屋美那論文選集──印象派、ロダン、松方コレクション』(2014年)、また主要業績をまとめたものに『国立西洋美術館研究』18号(2014年)所収「大屋美那・国立西洋美術館主任研究員 業績目録」(『大屋美那論文選集』に再録)がある。

十四代酒井田柿右衛門

没年月日:2013/06/15

 陶芸家で色絵磁器の重要無形文化財保持者の十四代酒井田柿右衛門は、6月15日午前8時45分、転移性肝腫瘍のため佐賀市内の病院で死去した。享年78。 1934(昭和9)年8月26日、佐賀県西松浦郡有田町に、酒井田渋雄(のちの十三代酒井田柿右衛門)とツネの長男として生まれる。襲名までの本名は正(まさし)。多摩美術大学日本画科に進み、絵画的な構想力や描画技術の基礎を習得。58年に卒業すると帰郷し、祖父・十二代柿右衛門と父が復興させた「濁手(にごしで)」の製陶技術とともに、とくに祖父からは絵具の調合と絵付け技術を、父からは素地の成形と焼成技術を受け継いだ。作品としての発表は66年からで、一水会と西部工芸展に入選し、陶芸家としてデビューした。翌年には一水会で一水会会長賞を受賞。68年からは日本伝統工芸展にも入選を果たし、その後も日本伝統工芸展をはじめ、一水会や西部工芸展、さらには佐賀県展や九州山口陶磁展等で実績を積む。70年にはヨーロッパに旅行して各国の美術館や窯業地を視察。また、柿右衛門初期におけるオランダ貿易と東西交通や、在欧作品と〓製品についても見聞を重ねた。71年日本工芸会正会員。この年、柿右衛門製陶技術保存会の「柿右衛門(濁手)」技法が重要無形文化財の総合指定を受け、76年には技術保持団体として認定。同年、東京で初の個展を開催した。82年7月、父・十三代柿右衛門の死去にともない柿右衛門製陶技術保存会の会長に就任、同年10月には十四代柿右衛門を襲名した。84年日本陶磁協会賞受賞。86年には第33回日本伝統工芸展で「濁手山つつじ文鉢」が日本工芸会奨励賞を受賞した。この頃より海外において十四代柿右衛門展の開催機会が増え、「濁手」と呼ばれる独特の白素地に、赤絵を基調として草花を描いた作品の評価が高まりをみせる。1992(平成4)年の第39回日本伝統工芸展では「濁手蓼文鉢」が二度目となる日本工芸会奨励賞受賞し、色絵磁器の陶芸家としての地位を確固たるものとする。翌年には国際陶芸アカデミー(IAC)名誉会員となる。60歳を過ぎたころより、地元陶芸団体等において要職に就き、後進の指導とともに、地域の陶磁文化発展のために力を注ぐ。98年、長年にわたる国際文化交流の功績により外務大臣表彰、99年には濁手の伝統的技法の伝承に努め、地域の文化発展と向上に貢献したことにより文部大臣賞表彰を受ける。その後も、作家として濁手を中心とした創作活動と、技術保存会会長として様式美の継承の両立をはかり、2001年には父も受けることがなかった重要無形文化財「色絵磁器」の保持者に認定された。05年、旭日中授章受章。06年には有田町名誉町民の称号を受けた。十四代柿右衛門は、柿右衛門家の当主として、祖父と父が再興を成し遂げた「濁手」の技術を継承する。と同時に、独特の白地と柿右衛門伝統の赤絵を効果的に用いた優美な絵付と模様構成により独自の作風を築き上げ、濁手の新たな境地を切り拓いた陶芸家であった。

中村誠

没年月日:2013/06/02

 グラフィックデザイナー、アートディレクターの中村誠は6月2日、肺炎のため死去した。享年87。 1926(大正15)年5月9日、岩手県盛岡市に生まれる、生家はゴム長靴などを扱う中村ゴム店を営んでいた。幼少期に近所の薬局の店頭に飾られた資生堂化粧品のポスターに強く魅せられ、同社広報誌『花椿』の山名文夫による表紙画を模写した。33年岩手県立盛岡商業学校(現、岩手県立盛岡商業高等学校)に入学。美術部に所属、写真に興味を持ち、フォトグラムも制作する。同年秋には全国商業学校ポスター展で入選。同校在学中に生家の中村ゴム店が閉店。43年12月、同校を繰上げ卒業。44年4月東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科図案部に入学。主任は和田三造、担任は小池岩太郎で、2年生のときに軍の教育用図面を描く作業に動員される。46年「ニッポンルネッサンス・広告展」(日本橋・三越、主催は日本広告会)に出品。47年10月から資生堂宣伝部嘱託となり、翌年11月まで勤める。48年3月同校工芸科図案部を卒業。49年9月、資生堂に入社、宣伝部に配属。52年第37回二科展の商業美術部に出品。53年第3回日本宣伝美術会展に出品、特選を受賞、会員となる。以後68年の同会解散まで毎年出品。57年「資生堂香水」で第10回広告電通賞雑誌広告電通賞を受賞。60年ころ、写真家横須賀功光やデザイナー村瀬秀明と知り合い、新しい写真表現と印刷技術を駆使する広告制作に取り組む。63年「資生堂海外向け企業ポスター」(コスチュームは三宅一生、写真は横須賀功光)で日宣美会員賞受賞。また同年、ADC金賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞して、新時代のアートディレクターとして一躍注目を浴びる。66年同社の夏用化粧品「ビューティケイク」のキャンペーンでモデル前田美波里を起用し、「太陽のように愛されよう」というコピーがヒットし社会現象となる。70年「モナリザ百微笑展」(銀座一番館ギャラリー)で福田繁雄と50点ずつの作品を展示、翌年から「ジャポン・ジョコンダ」展としてパリ装飾美術館で開催、その後アメリカをはじめ十数カ国に巡回される。76年第6回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレで「資生堂ネイルアート・資生堂フラッシュアイズ」が商業部門で金賞受賞。資生堂では宣伝部デザイン課長(1962年から)、宣伝部制作室長(1969年から)、宣伝部長兼制作室長(1977年から)、役員待遇宣伝部長(1979年から)、役員待遇宣伝制作部長(1982年から)、常勤顧問(1987年から)を務める。資生堂を離れた後はフリーのグラフィックデザイナーとなり、自然やエコロジーをテーマにした作品を多く発表した。93年紫綬褒章受章。それまでの山名文夫らによって作られた繊細なイラストレーションによる資生堂のイメージを刷新、時代を先導するブランドイメージを確立し、戦後の日本広告界やグラフィックデザイン界を牽引してきたアートディレクターとして位置づけられる。 作品集に『富嶽三十六景・江戸小紋と北斎』(凸版印刷、1972年)、『紀信と玉三郎』(凸版印刷、1973年)、『中村誠の仕事―アートディレクションとデザイン』(講談社、1988年)がある。観光文化交流センター「プラザおでって」開館にあわせて、全作品193点とコレクション200点を盛岡市に寄贈、2000年に同館の柿落としとして「中村誠ポスター展」を開催。2008年7月に萬鉄五郎記念美術館で回顧展を開催。国際グラフィック連盟(AGI)会員、東京ADC委員、JAGDA理事を歴任。「日本のポスター100年」展(銀座松屋、1968年)、グラフィックイメージ72(東京セントラル美術館、1972年)、グラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74(東京セントラル美術館ほか、1974年)などの企画展で作品が展観された。

森郁夫

没年月日:2013/05/30

 帝塚山大学名誉教授で歴史考古学を研究し、特に瓦研究の第一人者でもあった森郁夫は胃癌のため5月30日に死去した。享年75。 1938(昭和13)年2月25日、名古屋市に生まれる。60年3月、國學院大学文学部史学科卒業後、64年4月、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部、71年には飛鳥藤原宮跡調査室に着任。85年4月 京都国立博物館に転出、学芸課考古室長として着任し、1995(平成7)年3月まで勤務した。同年4月、帝塚山大学教養学部(現、人文学部)教授として着任、97年4月に帝塚山大学考古学研究所長を兼務。98年1月 「古代寺院造営の研究」で國學院大學より博士(歴史学)の学位を取得した。2004年4月には自ら設立に尽力した帝塚山大学附属博物館の初代館長に就任。10年3月、帝塚山大学名誉教授に就任した。和歌山県文化財センター理事長、三河国分寺整備委員会委員長、日本宗教文化史学会評議員などを務めた。 國學院大学では大場磐雄に師事し、当初は地鎮や鎮壇具に関する研究を始め、処女論文「密教による地鎮・鎮壇具の埋納について」(『佛教藝術』84号)を発表。66年、出土遺物のうち瓦を担当する奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部考古第三調査室に着任したことを受け、本格的に瓦の研究を始めた。平城京や飛鳥宮・藤原京、その寺院跡等での豊富な調査経験を踏まえ、瓦に留まらず、京内の土器の研究も進めた。84年には三都土器研究会を立ち上げ、99年には古代の土器研究会として発展、会長に就任している。京都国立博物館に在任中は「畿内と東国」展(1988年)、「平城京」展(1989年)、「倭国」展(1993年)など精力的に考古分野の特別展を企画、開催した。特に「畿内と東国」展は全国及び朝鮮半島までの瓦を概観した古代瓦に関する初めての大規模な展覧会であり、古代瓦の持つ歴史的価値を多くの人に知らしめた。古代における瓦生産は当時の最先端の技術であり、寺院造営を表象するとの主張は『瓦と古代寺院』(六興出版、1983年)、論文集『日本の古代瓦』(雄山閣出版。1991年)などの著書にまとめられ、その後の瓦研究ひいては古代史研究に大きな影響を与えた。晩年、その集大成として『日本古代寺院造営の研究』(法政大学出版局、1998年)を出版。没後も遺稿を纏めた『一瓦一説』(淡交社、2014年)が出版されている。 帝塚山大学に移ってからは、同考古学研究所、同附属博物館の設立に奔走。研究所を拠点として歴史考古学研究会などを主宰し、ここから多くの瓦研究者が育っていった。さらに同研究所においては市民大学講座も定期的に開催したほか、一般向けの著作も多く、法隆寺夏季講座の講師を長年務めるなど一般市民への文化財理解の普及にも努め、多くの古代史ファンに慕われた。

鳥山健

没年月日:2013/05/05

 大阪市にギャラリー白(はく)を開廊し代表取締役を務めた鳥山健は5月5日17時30分、大阪市内の病院で死去した。享年90。 1922(大正11)年11月1日、福岡県筑紫郡那珂村(現、福岡県福岡市博多区)に生まれた。関西学院大学社会学部卒業。大阪市内の自宅で出版社を立ち上げ、高校の国語のサブテキストの製作・販売に携わる一方、1967(昭和42)年、大阪市中央区今橋に開設された今橋画廊の企画責任者となる。今橋画廊では、現代美術家を若手、ベテランを問わず紹介するとともに、デザインや陶芸、染織、書などの分野で新しい表現を模索する作家にも積極的に門戸を開くなど、古くから「ものづくり」が盛んで、美術の概念的枠組みが緩やかな関西の風土に根ざした独自の企画を展開した。 79年10月、有志5名で有限会社ギャラリー白を設立して代表取締役となり、大阪市北区西天満の千福ビル2階に同名の画廊を開設、今橋画廊時代の運営方針をより明確に打ち出す。また、80年代初頭に関西の若い作家の間で台頭しつつあった絵画復権の動き、表現主義的への回帰を敏感に察知し、YES ARTなどの企画展を開催して、ミニマル、コンセプチュアルな方向性に行き詰まり活路を模索していた東京の現代美術界に衝撃を与え、全国的に注目される存在となる。以後、80年代から90年代にかけて、関西の最先端の美術動向のよき理解者、支援者として、多くの才能を東京のみならず国際的な舞台へと送り出した。企画展のテキストの書き手に関西の若い学芸員や研究者を登用し、批評家の育成に心を配ったことも特筆される。 2002(平成14)年2月、ギャラリー白をいったん閉廊するが、同年9月に同じ西天満の星光ビル2階で再開廊。03年9月には3階にギャラリー白3を増設し、最晩年まで関西の現代美術に関わり続けた。逝去した年の11月17日には、大阪キャッスルホテルで「鳥山健さんを偲ぶ会」が催され、関係者約200名が参集して、故人の業績や人柄に思いをはせた。

管洋志

没年月日:2013/04/10

 写真家の管洋志は、4月10日大腸がんのため死去した。享年67。 1945(昭和20)年7月9日福岡県福岡市に生れる。68年日本大学芸術学部写真学科卒業。大学の先輩にあたる木村惠一と熊切圭介の協同事務所K2で約一年間アシスタントを務める。69年より約一年半ネパールに滞在、同地で中国からのチベット族の難民を取材し、帰国後、初の個展「チベット難民」(銀座ニコンサロン、1970年)を開催した。以降もアジア各地での撮影を重ねるとともに、アジアの人と風土へのまなざしの原点として、自身の原体験でもある故郷福岡の博多祇園山笠の撮影にとりくんだ。83年、写真集『博多祇園山笠』(講談社)、『魔界 天界 不思議界 バリ』(講談社)を刊行。84年には一連のアジア取材の成果として雑誌に発表された「戦火くすぶるアンコールワット」他の作品により第15回講談社出版文化賞写真賞を受賞した。87年には写真集『バリ・超夢幻界』(旺文社、1987年)で第6回土門拳賞を受賞、1998(平成10)年には写真集『ミャンマー黄金』(東方出版、1997年)で第14回東川賞国内作家賞を受賞した。 日本国内およびアジア各地での取材対象は、背後にあるアジア共通のコスモロジーへの関心を基盤としつつ、土地ごとの自然や風土に根ざした人々の生活や信仰、祭礼など多岐に及び、カラーフィルムを駆使した独特の色彩の写真による作品世界を構築した。アジアをめぐる取材を重ねる一方で、児童福祉施設や盲学校などに取材した子供たちをめぐる仕事にも長年にわたってライフワークとしてとりくんだ。また母校日本大学の客員教授、ニッコールクラブ顧問などを歴任し、後進やアマチュア写真家の指導にあたるとともに、2000年日本写真家協会の常務理事に就任、企画担当として同協会主催の「日本の子ども60年」(東京都写真美術館、2005年、以降海外各地を巡回)、「生きる―東日本大震災から一年」(富士フォトギャラリー新宿、2012年、仙台およびドイツ・ケルンに巡回)などの企画運営に尽力した。 死去の翌年、長く顧問を務めたニコンサロンで遺作展「一瞬のアジア people and nature in harmony」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン、2014年)が開催された。

加藤重髙

没年月日:2013/04/09

 陶芸家の加藤重髙は、4月9日午前10時50分、ぼうこうがんのため自宅で死去した。享年85。 1927(昭和2)年4月26日、愛知県瀬戸市窯神町に加藤唐九郎ときぬの三男として生まれる。15歳になる42年頃から、陶芸家として活躍していた父・唐九郎の助手として作陶を始め、愛知県立窯業学校を卒業した45年頃からは個人作家としての活動をも開始した。陶技は、愛知県瀬戸地域の伝統的な技法である灰釉・鉄釉・志野・織部・黄瀬戸を中心に、信楽や唐津など幅広く、58年の第1回新日展に「織部壺」で初入選を果たし作家としてデビューした。65年には第4回日本現代工芸美術展に入選し、翌年の第5回展では「流れ」を出品し工芸賞を受賞。66年の第9回日展では「刻文方壺」で特選・北斗賞を受賞し、翌年には、前年(昭和41年度)の活躍に対して日本陶磁協会賞を受賞した。またその間、63年から始まった陶芸公募展の第1回朝日陶芸展に「湧く」を出品して入選し、以降、69年の第7回展まで連続入選。65年の第3回展、66年の第4回展、68年の第6回展では受賞を果たし、70年の第8回展では審査員を務めた。68年には広島県宮島町役場に初の陶壁を設置した。71年以降、公募展や団体展の出品をすべてやめて個展を中心とした活動に切り替え、茶碗や花生、水指などの茶陶を中心に発表。とくに86年までは、ほぼ毎年のように陶壁を制作し、数多くの作品を残したことから、陶壁の作家としても知られた。1998(平成10)年、名古屋市芸術特賞を受賞し、翌年には受賞記念の個展を名古屋で開催した。 加藤重髙の活動は、日展を活動の場とした70年までの第1期(日展時代)と、公募展や団体展での発表をやめた71年から父・唐九郎がなくなる85年までの、すなわち唐九郎の作陶活動を支えたアシスタント時代の第2期、唐九郎の没後の86年から亡くなる2013年までの第3期にほぼ大別できる。第1期では公募展や団体展を意識した大形の作品を数多く手がけた。作品は、土を巧みに扱いながら素材感を最大限に生かしたもので、スペインの画家ジョアン・ミロが唐九郎を訪ねた際、唐九郎よりも重髙の作品に興味を示し、その才能を高く評価したというエピソードが残っている。第2期は、自身の創作性を一切おもてに出すことのない助手として父の作陶を支える一方で、個展を発表の場として茶陶を中心に、建築の壁面を飾る陶壁も数多く制作した。そして第3期は、日展時代に培った土への探究をさらに強く打ち出した刻文による表現を確立させて、叩きの技法を用いた迫力ある作品を生み出すとともに、父の影として培った茶陶の造形を独自に発展し展開させた。なかでも、鼠志野に見られる独特の釉色が生み出す独自の世界は、重髙芸術の真骨頂ともいえるものである。また最晩年は、朝鮮唐津にも力を入れて、独自の造形観を見せつけた。

山口昌男

没年月日:2013/03/10

 文化人類学者の山口昌男は3月10日午前2時24分、急性肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年81。 1931(昭和6)年8月20日北海道美幌町に生まれる。美幌尋常小学校、旧制網走中学校を経て、新制網走高校(現、北海道網走南が丘高等学校)を50年3月に卒業。同年4月から青山学院大学文学部第二部に入学し、在学中に展覧会と古書店に頻繁に訪れる。51年、東京大学文学部に入学。同学年に作曲家となる三好晃、美学者となる宇波彰らがいた。在学中は展覧会や演奏会に通い、毎週日曜日に黒田清輝の甥で光風会の画家であった黒田頼綱にデッサンを学ぶ。また、東京大学駒場美術研究会で磯崎新らと交遊する。55年坂本太郎の指導のもと、卒業論文「大江国房」を提出して同国史学科を卒業。同年4月から61年3月まで麻布学園で日本史を教える。同学園での教え子に川本三郎、山下洋輔らがいる。57年に東京都立大学大学院に入学し、社会人類学を専攻。60年、修士論文「アフリカ王権研究序説」を提出して同学大学院社会研究科社会人類学専攻修士課程を修了し、博士課程に進学。63年10月からナイジェリアのイバダン大学社会学講師となる。66年東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所講師、翌年助教授となり、通称「AA研」と呼ばれた同研究所を拠点に、69年に「文化と狂気」を『中央公論』に、「道化の民族学」を『文学』に連載、「王権の象徴性」(『伝統と現代』)、「失われた世界の復権」(『現代人の思想 第15巻 未開と文明』解説)を執筆して注目される。70年6月から「本の神話学」を『中央公論』に連載。71年に『アフリカの神話的世界』(岩波新書)、『人類学的思考』(せりか書房)、『本の神話学』(中央公論社)を出版。同年9月にパリ高等研究院客員教授となり、レヴィ・ストロースのゼミで「ジュクン族の王権と二元的世界観」と題して発表する。73年、「歴史・祝祭・神話」を『歴史と人物』に、「道化的世界」を『展望』に掲載。74年、『トリックスター』(ポール・ラディンほか著、晶文社)に解説「今日のトリックスター」を掲載。77年「文化における中心と周縁」を『世界』に掲載し、また、同年、『知の祝祭』(青土社)を刊行する。これらの著作で述べられた「中心と周縁」理論や、道化に社会秩序をかく乱する役割を見出す「トリックスター論」などは、70年代以降の思想界を牽引するものとなり、山口と同じく青土社刊行の『現代思想』や『ユリイカ』で活躍し、構造主義や記号論なども紹介した中村雄二郎とともに、西洋近代的知の体系への懐疑を促す大きな力となった。1989(平成元)年、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長となり、94年に同研究所を定年退職。この間の92年、電通総研で「経営の精神文化史研究会」発足に尽力。94年静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授および中央大学総合政策学部客員教授となる。また、同年、フランスのパルム・アカデミック賞受賞。95年、晩年の大著となる『「挫折」の昭和史』、『「敗者」の精神史』を岩波書店から刊行。97年に札幌大学文化学部長、99年同学長となった。同年2月、銀座の画廊「巷房」で「越境の人 山口昌男ドローイング展」、10月丸善京都河原町店ギャラリーで「山口昌男ドローイング展」を開催。同年、山口の描いたスケッチ1500点から100点を掲載した『踊る大地球 フィールドワーク・スケッチ』(晶文社)を刊行。2011年文化功労者となった。幼少期から漫画をはじめ、視覚芸術に強い興味を抱いていた山口は、60年代からアフリカ彫刻に関する論考を行い、70年代以降は学際的研究が盛んになる中、周縁や祝祭といった自説の観点から美術に関して多くの考察を残している。日本の思想界全体に西洋的な知的枠組みの再考を促し、既成の学問領域の横断から生まれる新たな思考を提起し、美術についても狭義の「美術」の枠組みにとらわれず、また、美術史学とは異なる方法によって美術や視覚芸術に関わった人々についての調査・論考を行った。大著、『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)は、日本人の全員が「敗者」となった45年に次いで日本に多くの「敗者」をもたらした明治維新に着目し、久保田米僊ら美術家も含む「敗者」、すなわち佐幕派に属する個々人が、新たな体制がつくられていく中でどのように生きたかを丹念に記し、日本近代の精神の複層性を浮き彫りにするとともに、日本近代美術史に新たな視点を提示した。死去の約二ヵ月後、『ユリイカ』2013年6月号で「山口昌男-道化・王権・敗者」と題する特集が組まれ、山口の弟子である高山宏と中沢新一による追悼対談ほか、多くの関係者による追悼の論考が掲載された。年譜と著作目録は同誌に詳しい。

いわしげ孝

没年月日:2013/03/06

 漫画家いわしげ孝は、3月6日病気のため死去した。享年58。 1954(昭和29)年12月31日鹿児島県鹿児島市に生まれる。本名岩重孝。鹿児島県立鹿児島工業高校を経て、二松学舎大学卒業。70年『週刊少年ジャンプ』の第5回新人漫画賞で「小さな命」が入選し、翌年同誌に掲載されデビューする。その後、高校生ながらも、集英社の手塚賞に「スクラップ」、「ブルースを歌う少女」が佳作入選するが、学業を優先し執筆活動を控え、大学へ進学する。78年第2回小学館新人コミック賞に「忘れ雪」が選ばれ、本格的デビューを果たす。80年の短篇「土用前」では、鹿児島男子高校生3人と先生、東京からきたその彼女がおりなす一夜の出来事をコミカルに描き、いわしげが得意とした男子の「恥」を朗らかに捉えている。同年創刊直後の『ビッグコミック』に「ぼっけもん」を連載、上京男子の都会での青春成長物語が大ヒットとなり、第31回小学館漫画賞を受賞する。その後、ボクシングを描いた『二匹のブル』(ここまで岩重孝名義、瀬叩龍[雁屋哲]原作、全10巻、小学館、1988年)、高校を飛び出し南米にエルドラドを求める探検活劇『ジパング少年』(全15巻、小学館、1989年)、自身の体験を活かした10年半にわたる柔道漫画『花マル伝』と『新・花マル伝』(両者合わせて38巻、小学館、1993年~2003年)は、中学からのライバル同士が世界大会で決勝を戦うという、代表作のひとつとなる。「ぼっけもん」の大人編とも言える『単身花火-桜木舜の単身赴任・鹿児島』(全5巻、小学館、1993年)『上京花火-花田貫太郎の単身赴任・東京』(全7巻、同、2013年)を『ビッグコミック』に連載していたが、後者は2010(平成22)年には病気のため休載、再開後の12年2月分が絶筆となった。他に、『まっすぐな道でさみしい種田山頭火外伝』(講談社、2003年)、『青春の門-筑豊篇』(五木寛之原作、同、2005年)などがある。

二川幸夫

没年月日:2013/03/05

 建築写真家、編集者の二川幸夫は、3月5日腎盂がんのため死去した。享年80。 1932(昭和7)年11月4日大阪市に生まれる。大阪市立都島工業高等学校で建築を学び、早稲田大学文学部に進む。美術史を専攻し56年に卒業。在学中、同大学教授で建築史家の田辺泰の示唆を受けて飛騨高山の古民家を訪れ、これをきっかけに日本各地の民家の撮影に着手した。約7年にわたって続けられた取材は、57年より『日本の民家』(文・伊藤ていじ、美術出版社、全10巻、1957-1959年)として刊行され、59年に第13回毎日出版文化賞を受賞。以後、建築写真家として古典的な建築物から現代の建築家の作品まで、国内外の多様な建築の撮影を重ねた。70年、建築専門の出版社「A. D. A. Edita Tokyo」を設立。企画・編集・撮影をてがけた『フランク・ロイド・ライト全集』(全12巻、1985-1991年)や建築写真誌『GA(Global Architecture)』(77号まで発行、1970-1999年)など数多くの書籍、雑誌を刊行する。その多くは日英併記であり、上質な写真によって海外の建築を紹介するとともに日本の建築を国際的に発信するうえで大きな役割を担った。 建築空間を的確にとらえる写真家としての確かな技量に加え、安藤忠雄の初期作品をいちはやく評価し、その後長く撮影を続け作品集を作るなど、現代建築に関する造詣の深さ、見識の高さで知られ、その写真は記録としてだけでなくすぐれた批評としても機能し、建築界に影響を与えるものであり続けた。出版活動も含めた活動は国際的にも評価され、75年アメリカ建築家協会(AIA)賞、85年国際建築家連合(UIA)賞、1997(平成9)年日本建築学会文化賞など国内外から多くの賞を受けた他、97年に紫綬褒章、2005年には旭日小綬章を受章している。 死去の直前、国内の美術館としては初の個展となる「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」(パナソニック汐留ミュージアム、2013年、青森県立美術館に巡回)が開会し、講演会を行うなど、最晩年まで精力的な活動を展開していた。

ドナルド・リチー

没年月日:2013/02/19

 映画評論家、映画作家のドナルド・リチーは2月19日に東京都内の病院で死去した。享年88。アメリカに生まれ、日本で70年近くを過ごし、日本映画を欧米圏に積極的に紹介し国際的な評価を高める地歩を築いた。2004(平成16)年に旭日小綬章を受章した。 1924(大正13)年4月11日アメリカ合衆国オハイオ州のリマに生まれる。少年時代から映画に関心を持ち、映画館で映画を多数見て過ごした。オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年米国公開)を見たのが契機となり、8mmフィルムで自分でも作品を作り始める。リマ中央高校を卒業後、アルバイトをしながらヒッチハイクでアメリカ各地を巡り、終戦直後の1946(昭和21)年、22歳の時に米国進駐軍文化財部のタイピストとして来日した。東京で47年から49年まで「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」紙の映画批評欄を担当。アメリカに帰国してコロンビア大学に入学、54年に大学を卒業した後、再び来日。54年から69年まで「ジャパンタイムズ」紙の映画批評を担当した。59年には映画評論家ジョセフ・アンダーソンとともに『The Japanese Film:Art and Industry』を出版。これは英語による日本映画についての統括的な最初の研究図書となった。そのため、欧米圏の多くの映画研究者から日本映画研究のための必読書と目された。また、61年にはカンヌ映画祭での溝口健二監督回顧上映に協力し、同年のベルリン映画祭では黒澤明監督特集、63年の小津安二郎監督特集の企画・上映の責任者を務め、日本映画を積極的に欧米へ紹介。現在では国際的に評価の高い、日本映画黄金期の監督を知らしめる礎の一端を担った。そうした貢献に対して63年には日本映画海外普及協会(ユニジャパン・フィルム)、日本映画製作者連盟から表彰を受け、同年から69年まで日本映画海外普及協会の顧問を受け持つこととなる。69年から73年にかけては、ニューヨーク近代美術館の映画部門キュレーターに就任し、日本映画の特集や、アメリカ実験映画についての巡回上映を世界各地で行うなど、意欲的な活動を継続。『小津安二郎の美学』『黒沢明の世界』など日本映画に関する多くの研究書を著した。83年には川喜多記念映画文化財団より日本映画への文化的貢献に対して第一回川喜多賞を受賞した。英語圏でのリチーの多数の映画評論・著作物は日本において2015年現在ではまだ翻訳がなされておらず、その評論活動の全容が伝えられているとは言えない。今後、国外から見た当時の日本映画を知る方法のひとつとして、また、映画そのものへのリチーの深い考察を検証する材料としても翻訳が待たれるであろう。 リチーは一方で8mmフィルムや16mmフィルムによる実験映画、映像作品の制作も続け、62年に監督した『戦争ごっこ/Wargames』がベルギーのクノック・ル・ズート国際実験映画祭、メルボルン映画祭で入賞。64年には飯村隆彦、大林宣彦、高林陽一らとともに実験的な個人映画を制作・上映するグループ「フィルム・アンデパンダン」の活動に参加し、実験映画勃興期において日本の映画作家らの中で果たした役割も大きい。リチーのその他の映画作品では65年に監督した『Life』が世界各国で公開され、ニューヨーク近代美術館に永久コレクションとして映画フィルムが収蔵されたほか、『熱海ブルース/Atami Blues』(サウンド編集版1967年)、『五つの哲学的童話』(1967年)や、黒澤明監督についての映像作品『映画監督:黒澤明』(1975年)など多数あり、映画作家としての活動も旺盛であった。 加えて、リチーは映画以外のジャンルにおいても評論・教育・創作活動を行った。出身である米国文学については50年に『現代アメリカ芸術論』、56年に『現代アメリカ文学潮流』を日本で出版し、54年から59年まで早稲田大学でアメリカ文学について講義を持った。その一方で、映画以外の創作として自身で小説を書き、演劇の戯曲を書き下ろしたほか、日本の伝統芸能である歌舞伎、能の脚本・演出も行った。『日本の伝統1 いけばな』(伊藤ていじと共著、1967年)『日本への旅』(1981年)など日本文化についても盛んに論じ、さらには美術、音楽、版画といった多岐にわたる分野に関心を持ち、多彩な評論・創作を展開した。映画評論を中心としながらもある種の百科事典的な活動が特徴でもあったと言えるだろう。没後、その執筆原稿はボストン大学の資料保存センター(Howard Gotlieb Archival Research Center)に寄贈された。

嶋本昭三

没年月日:2013/01/25

 画家・現代美術家で具体美術協会の主要メンバーでもあった嶋本昭三は1月25日、急性心不全のため兵庫県西宮市の病院で死去した。享年85。 1928(昭和3)年1月22日、大阪に生まれる。関西学院大学文学部在学中に、新制作協会の大住閑子と出会ったことをきっかけに絵を描き始める。大住の上京後は、同会の増田雅子に学ぶ。47年、増田の紹介により、画家吉原治良の門下となる。関西学院大学を卒業する50年頃、新聞紙を貼り合わせたキャンヴァスに穴を開けた作品を制作し、その斬新さを吉原に高く評価される。このころから、吉原門下生たちのリーダー的な役割を果たす。53年、大阪市立豊崎中学校に美術教員として着任。54年、吉原門下の作家たちの作品を海外に発信するための雑誌を制作する際にも、印刷機の入手や作業場所の提供など、中心的な役割を果たした。雑誌名は嶋本の提案した「具体」という名称が採用され、具体美術協会が発足。以降、具体美術協会の中心メンバーとして、主要な具体展すべてに参加。55年7月の「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」(芦屋公園)では、トタンに穴を開けた作品。同年10月、東京の小原会館で開催された第1回具体美術展には、上を歩くことができる体験型の作品を出品。翌年2月には、ポロックをはじめとする海外の作家へ雑誌『具体』を発送する作業も担当。同年の「野外具体美術展」では、上を歩く作品を再度出品するとともに、「大砲絵画」を制作。この手法をヒントに、10月の第2回具体美術展では、絵具を詰めた瓶を投げつけて描く手法を初めて用いる。以降、嶋本にとって主要な制作方法のひとつとなる。62年、グタイピナコテカ開館に際して行われた連続個展シリーズで、最初の個展を担当。69年、関西女子学園短期大学専任講師(1971年助教授、74年教授)。70年の大阪万博では、お祭り広場で「1000人の花嫁」のアート・プロデュースを担当。72年の吉原の死去によって具体美術協会が解散する前年に退会するまで、中心メンバーとして活躍した。 75年、アーティスト・ユニオンに参加。翌年、同会の事務局長に選出。このころから、メール・アートを本格的に行うようになり、国際的なネットワークが構築されていく。80年、アーティスト・ユニオンがアート・アンアイデンティファイド(AU)に改名した後も、同会の運営を担う。86年、「大阪姉妹都市まつり」にイタリアの芸術家G・A・カヴェリーニを招待した際に、自らの頭を剃り上げ、メッセージを書き込むヘッド・アートを初めて行う。これはのちに海外の雑誌や新聞に大きく取り上げられる。1989(平成元)年、被差別部落の人々とともに、鴨川の河原に「へ」の字を描いた模造紙を一万枚並べるプロジェクトを実施。91年、宝塚造形芸術大学教授に就任。92年、ペインティングした廃ビルを崩壊させる「タイム・ラック」を、翌年には人間を十字架に磔にするパフォーマンスを行う。このころから、裸体の女性による女拓の制作を始める。同年、障害者の芸術祭のアート部門実行委員長を務め、94年には、日本障害者芸術文化協会会長に就任。また、85年に来日した、メール・アーティストで元原爆製造関係者である原子物理学者バーン・ポーターと交流を持ち、95年には彼によってノーベル平和賞に推薦される。98年には、ロスアンジェルスのMOCAを皮切りに世界を巡回した「Out of Actions:Between Performance and Object」展に穴の作品を出品し、ケージ、フォンタナ、ポロックとともに第1室に展示された。同年には、早い時期にアメリカで具体を紹介したアラン・カプローとともに、台湾でパフォーマンスを行った。その後も、世界各地の具体展においてパフォーマンスを披露するとともに、自身の個展も活発に行う。タピエ以降、具体の作家たちの多くが絵画へと傾倒していく中、パフォーマンスやメール・アートなど独自の路線を追求していった嶋本の活動が、結果的に、具体の名を世界に知らしめる役割を担ったと言えるだろう。 主な受賞には、95年に井植記念館文化賞、99年に紫綬褒章、2000年に兵庫県文化賞(現代美術)などがある。主な著書には、『芸術とは、人を驚かせることである』(毎日新聞社、1994年)、『ぼくはこうして世界の四大アーティストになった』(毎日新聞社、2001年)がある。

片山利弘

没年月日:2013/01/09

 グラフィックデザイナーの片山利弘は1月9日(現地時間)、食道がんのため、米ボストン郊外の自宅で死去した。享年84。 1928(昭和3)年7月17日、画家片山弘峰の次男として大阪府に生まれる。53年永井一正、木村恒久、田中一光とデザインの研究会「Aクラブ」を結成。同年からフリーランスのデザイナーとして活動、日本宣伝美術会会員となる。このころ第2回記録映画の会「忘れられた人々と安部公房特別研究報告」(大阪・大手前会館)の告知ポスターのデザインをきっかけにして、幾何学的な基本形態(エレメント)とその規則的な変形・配置(システム)による制作手法に取り組む。50年代後半、亀倉雄策らが主催する「21の会」に参加。60年日本デザインセンターに入社、東京に転居。このころ桑沢デザイン研究所講師を勤める。63年から3年間、スイス・ガイギー製薬会社の招待を受け、バーゼルに滞在、同社でデザインを担当。65年にバーゼル、ハーマン・ミラーで個展を開催し「Visual Construction」シリーズを発表、ヴィンタートゥール、ベルン、ジュネーブへ巡回。同年、ペルソナ展(銀座松屋)に参加。スイス滞在中に、現地のデザイン雑誌『GRAPHIS』114号(1964年)に小特集で取り上げられ、また同誌124号(1966年)では表紙を飾る。66年バーバード大学カーペンター視覚芸術センターの招聘を受け、アメリカのボストンへ移住、同センターで教育とデザインを担当、以後およそ30年にわたって同大学デザイン研究科の学生を指導。68年アメリカ・グラフィック・アート協会の招待による個展をニューヨークで開催、同年ボストン、カナダ・トロントでも個展を開催。70年東京プラザ・ディックで個展「Square + Movement」を開催、マグネット付きのエレメントを金属パネルの支持体に配置することでイメージを多様に変化させる観客参加型の作品を発表。75年ボストン市の地下鉄のための環境デザインを担当、地下鉄駅に4×13.5mの壁画を制作。同年、ボストン市のArt Asia ギャラリーで個展を開催、「Topology」シリーズを発表。77年オーストリアのウィーンで芸術家協会主催による個展を開催。80年代以降、日本国内の建築家らとのコミッションワークを数多く取り組み、赤坂プリンスホテル「Homage to the crystal(大宴会場の壁面彫刻)」(1983年、建築設計は丹下健三・都市・建築設計研究所)、大原美術館新館ホール「レリーフ彫刻+石壁」(1991年、建築設計は浦辺設計、石の仕事は和泉正敏)、松下電器産業・情報通信システムセンター「ロビーのランドスケープデザインと彫刻」(1992年、建築設計は日建設計、石の仕事は和泉正敏)、JT本社ビル「銅版によるレリーフ/ホワイエ壁面、回廊壁面」(1995年、建築設計は日建設計)などを手掛けた。1990(平成2)年からはハーバード大学カーペンター視覚芸術センターのディレクターを務め、95年に退官。 作品集に『片山利弘作品集』(鹿島出版会、1981年)、著書に『ハーバード大学視覚芸術センター片山利弘教室:4-8カ月間のグラフィックデザイン演習』(武蔵野美術大学出版部、1993年)、『Graphic design―ハーバード大学視覚芸術センター片山利弘教授グラフィック・デザイン教室』(京都造形芸術大学、2009年)、共著に『12人のグラフィックデザイナー』第3集(美術出版社、1969年)、メキシコの詩人オクタビオ・パスとの詩画集『3 notations/rotations』(ハーバード大学カーペンター視覚芸術センター、1974年)などがある。またグラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74ワード+イメージ(東京セントラル美術館ほか、1974年)、1976年現代ポスターの展望〈私はだれ〉展(池袋・西武美術館)などの企画展で作品が展観された。

渡辺力

没年月日:2013/01/08

 インダストリアル・デザイナーの渡辺力は、1月8日心不全のため死去した。享年101。 1911(明治44)年7月17日、東京に生まれる。1936(昭和11)年、東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)木材工芸科卒業。卒業後、群馬県工芸所にて勤務し、当時同所に招聘されていたブルーノ・タウトのアシスタントを務める。40年、母校・東京高等工芸学校嘱託となり、設計製図を講義。その間、「整理棚」(1942年)等を制作し、木工家具のデザインを手がける。43年、東京帝国大学(現、東京大学)農学部林学科選科(森林利用学)修了、同大学助手となり、航空研究所へ出向。45年3月に徴兵を受け、横須賀で入隊。同年5月末、山形県に移り、神町海軍航空隊近くの駐屯地で終戦を迎えた。49年、渡辺力デザイン事務所を設立し、独立。戦前から建築雑誌の編集部に出入りしていた関係で、建築家との交友があり、デザイナーとして独立後は清家清設計「うさぎ幼稚園」(1949年、現存せず)や「宮城教授の家」(1953年、東京)などの家具を担当している。傍ら、新制作協会展(東京都美術館)で「挟み材による家具」(1951年、新建築賞受賞)、新日本工業デザイン展(毎日新聞社主催)で「ヒモイス」(1952年)、第11回ミラノ・トリエンナーレで「テーブルとスツール(通称トリイ・スツール)」(1957年、金賞受賞)など、自身のデザインを精力的に発表していく。「ヒモイス」は、当時規格材として輸出されていたナラ材を用いて、座面と背もたれにはひもを組み、構造的にも、素材・仕上げの点からも簡素に無駄なくまとめられ、大量にかつ安価に生産できるデザインとして注目された。籐家具の山川ラタン製作の「スツール」は、夏の家具というイメージが強かった籐を一年中使えるものとした。渡辺の椅子のデザインは、日本の伝統的な建築や道具に見られる形を想起させ、これにより渡辺は、戦後の国際的なデザインシーンにおいて、日本を代表するデザイナーの一人に数え上げられるようになる。52年、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)発足にともない、理事に就任。53年、国際デザインコミッティー(現、日本デザインコミッティー)の設立に参画。56年には、工業デザイン視察団として渡米し、ヨーロッパを経由して帰国。インダストリアル・デザインが日本に根づき、発展する過程で重要な役割を担った。56年、松村勝男、渡辺優とともにQデザイナーズを設立(Qは「良質の仕事(Qualitatsarbeit)」を念願してつけられた)。59年、加藤達美、菱田安彦、勝見勝らと財団法人クラフトセンタージャパンを創立。66年、東京造形大学室内建築科の開講に尽力、開講後は教授に就任し、後進の育成にも意を注いでいる。産業が成熟してくる1970年代以降は、服部セイコーのクロックシリーズ「小さな壁時計」(1970年)といった身の周りの製品から、第一生命ビル(現、DNタワー21、日比谷)の「ポール時計」(1972年)にみる公共空間、企業の役員室や、軽井沢プリンスホテル南館(1982年)をはじめとする、大規模なホテルの室内インテリアもデザインした。76年、紫綬褒章受章。1991(平成3)年、第19回国井喜太郎産業工芸賞受賞。2000年以降は、セイコーウオッチから腕時計の新作を発表するなど、60年余り第一線で活動した。学究肌で、デザイン活動の傍ら、家具、インテリア、建築に関する執筆も多数。著作には、『素描』(建築家会館、1995年)、『ハーマンミラー物語:イームズはここから生まれた』(平凡社、2003年)がある。 渡辺のデザイン思想は機能主義に貫かれており、徹底して産業の立場から「工芸」を考えてきた。その思想の具現化にあたって基本となっているのは、室内に点在する椅子であり、家具である。機能的で健康な生活を実現するための家具を空間のなかに配し、室内を起点として、建築へと創造空間を拡げていくその手法によって、装飾を極力省きつつ、格調を備えた時計やインテリアで、日本の生活空間に合ったデザインを幅広く手がけ、独自の地歩を築いた。

大谷幸夫

没年月日:2013/01/02

 建築家で東京大学名誉教授の大谷幸夫は、1月2日午後0時10分、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。享年88。 1924(大正13)年2月20日、東京市赤坂区(現、東京都港区)に生まれる。東京帝国大学第一工学部建築学科を1946(昭和21)年に卒業後、同大学院特別研究生として丹下健三研究室に所属、51年満期退学後も60年まで同研究室にて研修。56~64年東京大学工学部建築学科非常勤講師、64年から同都市工学科助教授、71~84年同教授。83年から千葉大学工学部建築学科教授を兼任、1989(平成元)年同定年退官。この間、61年に設計連合を設立、67年大谷研究室を発足し、その代表として設計活動を行った。 丹下研究室に所属した15年の間に、広島平和記念公園及び記念館(1955年竣工)、旧東京都庁舎(1957年竣工)など、丹下健三の初期の代表作品にコンペ段階から実施設計・監理までを通じて携わり、その右腕として大きな役割を果たした。 独立後間もない63年に設計競技で最優秀賞を獲得した国立京都国際会館(1966年第Ⅰ期竣工)では、日本の文化的伝統と現代建築としての国際性の共存、あるいは自然との関係から導き出される建築形態、といった構想のもと、印象深い造形意匠と機能配置の合理性を見事に両立させてみせた。また、その後の四期にわたる増築過程(1971~2001年)をも通じて、基本単位としての建築が集まることで総体としての都市を構成するという大谷の方法論を実践する場となり、2003年には日本におけるDOCOMOMO100選にも選定されている。 大谷は都市計画家としても数多くのプロジェクトを手掛けたが、川崎市河原町高層公営住宅団地(1972年第Ⅰ期竣工)に見られるように、市民が主体として参画できる都市のあり方を模索すると同時に、課題設定から導かれる必然的形態への指向が顕著であったといえる。このため、沖縄コンベンションセンター(1987年)や、歴史的建造物を内包する千葉市美術館・中央区役所(1995年)のように、時にかなり癖の強い形態意匠も含めて作風の幅が広いことも大谷の特徴である。 56年に「五期会」を結成して建築設計組織の変革を主張し、のちには「都市政策を考える会」の代表として政策提言を行うなど、社会との関わりにおいても活発に発言・行動した。83年には「金沢工業大学北校地の一連の作品」で日本建築学会(作品)賞を受賞、97年には「建築と都市の総合的把握に基づく一連の設計活動・社会的活動・建築教育における功績」で日本建築学会大賞を受賞した。 文化財保護審議会専門委員会委員(1974~80年)、厚生省生活環境審議会委員(1978~86年)、建設省建築審議会委員(1981~87年)、日本建築学会理事(1970~72年)、同都市計画委員会委員長(1975~80年)、日本建築家協会理事(1971~76、1984~86年)、日本都市計画学会評議委員(1978~84年)等を歴任。 上記以外の主な受賞歴等として、2001年勲三等瑞宝章受章、2002年日本建築家協会名誉会員など。主な著作に、『空地の思想』(北斗出版、1979年)、『大谷幸夫建築・都市論集』(勁草書房、1986年)などがあり、代表的設計作品は『都市的なるものへ―大谷幸夫作品集』(建築資料研究社、2006年)に収録されている。

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