本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





早川良雄

没年月日:2009/03/28

 グラフィックデザイナーとして、長らく現役で活躍した早川良雄は、3月28日午前11時33分、肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年2月13日、大阪市福島区生まれ。両親に姉、弟、妹という家族構成であったが、母親は早川がまだ少年時代に39歳の若さで亡くなっている。小学生の頃より絵が得意であったことから、担任教師の勧めで1931(昭和6)年、開校間もない大阪市立工芸学校工芸図案科に入学。同校教師で当時新しかったバウハウスの教育理論を実践した画家山口正城から影響を受ける。デザインに対する関心はこの時期より芽生え、いくつかの公募展で受賞を重ねる。卒業翌年の37年、三越百貨店大阪支店の装飾部に入社。ウィンドウ・ディスプレイの仕事などを担当し、舞台装置やインテリア・デザインといった空間デザインの仕事を覚える。しかし翌38年に召集され日中戦争に従軍。京城(現在のソウル)で終戦を迎える。同年秋に帰国後、大阪市役所勤務を経て、48年親友であったデザイナー山城隆一の推薦により近鉄百貨店宣伝部に入社。ここで制作した「秀彩会」ポスターが、デザイン専門誌『プレスアルト』で紹介されるなど評判となる。49年関西を代表するデザイナーであった今竹七郎のアシスタントとして働いていた千畑梅と結婚。50年来阪した亀倉雄策と出会う。亀倉は早川のポスターの斬新なデザイン感覚に驚き、これが契機となって51年、亀倉や原弘、河野鷹思らが結成した日本宣伝美術会、通称日宣美に、関西の若手デザイナーたちとともに参加。また同年大阪で画家瑛九を中心にデモクラート美術家協会が結成されると山城らと参加。泉茂、吉原英雄らジャンルを超えた芸術家たちとの交流を深めた。52年近鉄を退社しフリーランスとなると、54年には大阪心斎橋に早川良雄デザイン事務所を立ち上げる。事務所は知己であったカロン洋裁研究所校長国松恵美子から洋裁学校の一室を提供されたもので、その縁から、この時期同研究所の生徒募集ポスターを多数制作。早川の代名詞となった「カストリ明朝」と呼ばれる独特の書体が多く用いられた。52年には神戸三宮のセンター街にできた喫茶店「G線」のインテリアや什器をコーディネイトするなど多方面に仕事を展開。55年国際グラフィックデザイナー連盟(AGI)会員、58年第8回日宣美展会員賞受賞など、次第にデザイナーとしての評価も高まり、「グラフィック’55」や60年世界デザイン会議への参加を通して、その存在が広く知られるようになると、61年に東京事務所を銀座に開設。以後東京での活動を本格化させていく。その後も66年ブルーノ・グラフィックアート・ビエンナーレ展(チェコ)二等賞、67年日本サインデザイン協会第2回SDA賞金賞ならびに銀賞、78年第13回造本装幀コンクール通産大臣賞、84年日本宣伝賞第5回山名賞など、多くのコンクール等で受賞を重ね、一方では70年日本万国博覧会の色彩基本計画への参画、87年「世界デザイン博覧会’89名古屋」のためのポスター制作をはじめとする多くのイヴェントや、京阪百貨店、伊奈製陶(INAX)などの企業ポスター、ロゴマークの制作、さらに『文学界』、『日経デザイン』など雑誌の表紙デザインも手がけるなど、広範に活動を展開する。また、個性的なイラストは画家としての活動へと広がり、68年から始まる「顔たち」と「形状」の両シリーズにおいて優れた色彩感覚と構成力を発揮し、30年以上続くシリーズとなった。2002(平成14)年には大阪市立近代美術館(仮称)コレクションによる大規模な回顧展が開催された他、歿後となる10年には東京国立近代美術館、11年には国立国際美術館にて相次いで回顧展が開催された。82年紫綬褒章受章、88年勲四等旭日小綬章受章。60年以上を第一線のデザイナーとして活躍した早川は、また多くの後進デザイナーたちに影響を与え慕われた存在であった。

佐々木崑

没年月日:2009/03/27

 写真家の佐々木崑は3月27日、脳出血のため埼玉県飯能市の自宅で死去した。享年90。1918(大正7) 年11月2日中国・青島に生まれる。本名幸一。23年に家族とともに神戸に移り、1937(昭和12)年神戸村野工業学校(現、神戸村野工業高等学校)を卒業、上京し日本理化工業(現、大陽日酸株式会社)に勤務する。39年より42年まで従軍、終戦を神戸で迎えた。中学時代より写真に関心を持ち、アマチュア写真家としてのキャリアを積み、戦後の51年に撮影行で神戸を訪れた木村伊兵衛の知遇を得、師事する。55年神戸でカメラ機材店を開業、57年には大阪に移り商業写真スタジオを経営するかたわら、神戸の麻薬地帯や遊郭、未就学児童といった社会問題をとりあげたルポルタージュを『アサヒグラフ』誌などに発表した。木村の誘いもあり60年にふたたび上京しフリーランスの写真家となり、木村の撮影の助手や62年に来日したW.ユージン・スミスの暗室助手も務めた。63年、科学映画の制作会社東京シネマに入社、スチル写真を担当、顕微鏡写真など特殊な科学写真の撮影に従事する。66年、『アサヒカメラ』1月号より「小さい生命」の連載を開始(80年6月号まで)、「続・小さい生命」(83年3月号より91年12月号まで)とあわせ、同誌上で256回の連載を通じ、昆虫や小動物の脱皮や羽化、誕生などの様子を接写した写真を発表し、自然科学写真の先駆者としての評価を確立する。同連載により72年第22回日本写真協会賞年度賞を受賞。68年には個展「小さい生命」(銀座ニコンサロン)を開催、以後、同題の個展は日本全国および海外でも開催された。主な写真集に『小さい生命』(朝日新聞社、1971年)、『ホタルの一生』(フレーベル館、1981年)、『MORPHE 花の形態誌』(アイピーシー、1988年)、『新・小さい生命』(朝日新聞社、1992年)、『誕生物語』(データハウス、1994年)など。また撮影に必要な機材を自作するなどカメラ機材や撮影技法についても深い知識を持ち、カメラ雑誌での機材テストや技法書の執筆などもてがけた。78年には竹村嘉夫らと日本自然科学写真協会(SSP)を設立、副会長に就任。81年より2002(平成14)年まで会長を務め、退任後名誉会長となる。また各地の写真団体の指導にあたるなどアマチュア写真家の育成にも尽力した。92年、勲四等瑞宝章を受章。2000年には第50回日本写真協会賞功労賞を受賞した。

中里逢庵

没年月日:2009/03/12

 陶芸家で日本芸術院会員の中里逢庵は3月12日午後1時31分、慢性骨髄性白血病のため唐津市内の病院で死去した。享年85。1923(大正12)年5月31日、佐賀県唐津町で父重雄(重要無形文化財「唐津焼」保持者・12代中里太郎右衛門)、母ツヤの長男として生まれ、忠夫と命名される。小学校を出ると、「絵の描けない陶工は出世できん。美術学校に入って絵を習え。そのために有田工業よりも唐津中学の方がよかろう」という親の意見で、県立唐津中学を経て官立東京高等工芸学校工芸図案科(現、千葉大学工学部)に学んだ。1943(昭和18)年、宮崎の航空教育隊に入営。45年5月頃、所属した中隊は台湾の台北空港に展開、終戦後は台中に帰り、捕虜生活を送った。46年に台湾より復員。その年、陶芸家の加藤土師萌が北波多村の岸岳古窯跡の調査に来唐、加藤から作陶の基本を学ぶ機会を得た。また、度々父とともに桃山時代の古唐津の古窯跡の調査を行い、古唐津を再現した父の後を受け、古唐津の叩き・三島・鉄絵の技法などの陶技を習得、さらには古唐津風の作風から飛躍した独自のスタイルの模索へと向かった。父・無庵(12代太郎右衛門)は途絶えてしまっていた古唐津の技法を、古窯跡から出土する古陶片に学ぶことにより、現代によみがえらせている。そして、昭和初期の頃まで唐津焼の主流だった京風の献上唐津を一変させ、現代での唐津焼のスタンダードというべき桃山時代の古唐津風のスタイルを確立した。その功績が認められ、76年に無庵は重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けている。忠夫と弟の重利、隆の三兄弟は、いわば再興された古唐津を受け継ぐ第二世代であった。第一世代の父・無庵は古唐津再興によって高く評価された。第二世代は古唐津を再興した父からバトンを受け、次なる新たな唐津焼の創造という宿命を背負わされていたのである。51年、第7回日本美術展で忠夫の陶彫「牛」が初入選。以降、日本美術展を舞台に連続十回の入選を果たす。56年の第12回日本美術展で「陶・叩き三島壺」が北斗賞を受賞。57年、第8回日本美術展入選の陶彫「羊」がソ連文化庁買い上げ、58年、第1回日展にて叩き壺「牛」が特選を受賞した。61年、第3回日展入選の「壺」が社団法人日本陶磁協会賞を受賞。65年、現代工芸美術協会ベルリン芸術祭視察団の一員として外務省派遣となり、ヨーロッパ、中近東諸国を40日間歴訪、その見聞をもとに昭和40年代にはトルコブルーの青釉による「翡翠唐津」の作風を創作した。69年、父12代中里太郎右衛門の得度により、13代中里太郎右衛門を襲名。この頃より韓国、台湾、タイ、マレーシア、インドネシアなどの海外を視察し、各地から出土する唐津焼や叩きの技法を調査し始める。71年にはタイ北部、チェンマイ市郊外のカンケオ村で作陶し、1996(平成8)年までいわゆる「ハンネラ」スタイルの水指・花生等をつくった。81年の第13回日展に出品した「叩き唐津三島手付壺」が内閣総理大臣賞、84年の第15回日展に出品した「叩き唐津手付瓶」も第40回日本芸術院賞を受賞、85年には日展理事に就任する。92年に佐賀県重要無形文化財に認定される。また、作陶の傍ら唐津焼の起源を精力的に研究したことでも知られ、東南アジアなど各地を踏査して叩き技法のルーツを調査し、『陶磁大系13唐津』(平凡社、1972年)、『日本のやきもの14唐津』(講談社、1976年)、『日本陶磁大系13唐津』(平凡社、1989年)などに論文を積極的に発表、2004年には博士論文「唐津焼の研究」を京都造形芸術大に提出、博士号を取得した。07年に日本芸術院会員になったほか、日本工匠会会長なども務めた。02年には京都・大徳寺で得度、「太郎右衛門」の名跡を長男忠寛(14代)に譲り、以後は「逢庵」として制作を続けていた。中里逢庵の一生を振り返ると、古唐津再興をなした父・無庵の跡を継ぎ、伝統ある中里家を維持していくために古唐津スタイルを堅持しながらも、芸術性の高いモダンな唐津焼を求めていった。生業と芸術の間を揺れ動き、陶芸家および陶磁研究者としても粉骨砕身した一生と言えよう。

秋山光和

没年月日:2009/03/10

 美術史家で東京文化財研究所名誉研究員、東京大学名誉教授の秋山光和は3月10日、老衰のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年90。1918(大正7)年5月17日、京都市下京区(現、東山区)に帝室博物館学芸課長、金沢美術工芸大学長を務めた秋山光夫、花枝の長男として生まれる。秋山の誕生に前後して父光夫が宮内省図書寮に奉職。一家は東京に居を移し、私立暁星小学校に通う。幼少時から母方の祖父で元駐ベルギー公使堀口久萬一と祖母からフランス語の手ほどきを受け、1931(昭和6)年、旧制東京高等学校尋常科に入学し、同高等科文科丙類(仏語専修)を卒業。祖父からの勧めもあり一時は外交官も志したが、38年4月、東京帝国大学文学部美術史学科に入学。41年3月、学士論文「藤原時代やまと絵の研究」を提出し、同学科を卒業。同年7月美術研究所嘱託となるが、翌年1月、海軍予備少尉に任官。軍司令部付転任を経て、海軍予備大尉に任官される。45年8月の召集解除をうけ、同年10月、再び美術研究所嘱託、48年4月国立博物館研究員となる。50年には、戦後初のフランス政府招聘留学生として渡仏。パリ大学、国立ギメ東洋美術館、フランス国立図書館において調査・研究を行う。在仏中は特に、ポール・ペリオ収集資料の分析を深め、その後の敦煌壁画研究の基盤を築く。帰国後の52年4月東京国立文化財研究所美術部第一研究室研究員、63年4月同室長を経て、67年2月東京大学文学部助教授に転任。79年同大学を定年退官し、学習院大学哲学科教授となる。81年にはフランス国立高等研究院(Ecole pratique des Hautes Etudes)で、85年にはコレージュ・ド・フランス(College de France)でそれぞれ客員教授として特別講義を担当。87年東京大学名誉教授。また、59年フランス政府芸術文化勲章(シュヴァリエ)、翌年同勲章(オフィシェ)受章。当研究所編『美術研究』等に掲載した諸論考をまとめた『平安時代世俗画の研究』(吉川弘文館、1964年、2002年再版)により67年日本学士院恩賜賞受賞、69年文学博士を授与される。1991(平成3)年勲三等旭日中綬章、92年ベルギー政府レオポルド三世勲章、98年フランス政府レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)、同芸術文化勲章(コマンドール)受章。85年には人文系研究者として日本初のフランス学士院客員会員、88年イギリス学士院客員会員となる。89年の学習院大学定年退職後も日仏会館常務理事(後に副理事長)、東方学会理事、國華清話会初代会長などを歴任する。海外での日本美術展をいくつも成功させるほか、後学の教育にも熱心につとめ、その門下は今日、日本のみならず諸外国において第一線の研究者として活躍する。国内外において精緻な作品調査を数多く実施し、それをもとに日本を中心とする東アジアを主たるフィールドとして作品研究を進める。なかでも帝室博物館の特別展で邂逅し、以後の秋山を美術史研究へと邁進させた国宝「源氏物語絵巻」をはじめとするやまと絵研究において顕著な業績を残す。その研究姿勢は綿密な作品調査に基づき、関連する文字資料を渉猟した上で、作品に真摯に対峙し、それぞれの作品が持つ多様な情報をいかに引き出すのかという点にあると言えるだろう。その一つの結実が仏留学中に修得したX線透過撮影、赤外線撮影といった美術作品の光学的・科学的手法による調査研究である。その研究成果は当研究所光学研究班による『光学的手法による古美術品の研究』(吉川弘文館、1955年)をはじめとする諸論考で発揮され、日本における美術品光学調査の先駆的研究として高く評価される。執筆した膨大な論考は92年発行の『秋山光和博士年譜・著作目録』で確認することができる。主要な編著書に、『栄山寺八角堂の研究』(福山敏男と共著、便利堂、1951年)、『信貴山縁起絵巻』(藤田経世と共著、東京大学出版会、1957年)、ジェルマン・バザン『世界美術史』(柳宗玄と共訳、平凡社、1958年)、“La Peinture Japonaise”(同英訳版“Japanese Painting”, Geneve:Skira, 1961)、『高雄曼荼羅』(高田修・柳沢孝・神谷栄子と共著、吉川弘文館、1967年)、『扇面法華経の研究』(柳澤孝・鈴木敬三と共著、鹿島研究所出版会、1972年)、『法隆寺玉虫厨子と橘夫人厨子(奈良の寺6)』(岩波書店、1975年)、『定本 前田青邨作品集』(鹿島出版会、1981年)、『平等院大観』3(柳澤孝と共著、岩波書店、1992年)などがある。なかでも『平安時代世俗画の研究』(前出)、『絵巻物(原色日本の美術8)』(小学館、1968年)、『王朝絵画の誕生』(中央公論社、1968年)、『源氏絵(日本の美術119)』(至文堂、1976年)、『日本絵巻物の研究』上・下(中央公論美術出版、2000年)など、やまと絵研究を志す者が第一に取るべき論考を多く世に出し、その研究の尖鋭性はいまなお失われていない。この他、喜寿記念として出版された『出会いのコラージュ』(講談社、1994年)は自身の半生や美術にかかわる秋山の随想をまとめる。没後、秋山の研究資料は東京文化財研究所、文星芸術大学(栃木県宇都宮市)他に寄贈される。なかでも1万冊を超す蔵書の寄贈を受けた文星芸術大学は、同敷地内に独立した建築物を伴う秋山記念文庫を設立し、秋山の書斎も再現される。2011年5月には同大学上野記念館において「秋山記念文庫開設記念展 SALON de Mont’ Automne」が開催され、秋山の手描きスケッチをはじめとする研究資料を中心に、前田青邨(青邨三女日出子は秋山の妻)の作品や、堀口大学(秋山伯父)の資料が展観される。お茶の水女子大学教授で東洋美術史研究者の秋山光文は長男。

眞板雅文

没年月日:2009/03/09

 立体造形において独自の試みを展開した美術家の眞板雅文は、3月9日心筋梗塞のため自宅で倒れ、神奈川県大磯町の病院で死去した。享年64。1944(昭和19)年11月11日、中国東北部撫順(旧満州)で生まれる。47年引き揚げ後、神奈川県横須賀で育ち、私立三浦高校在学中、教師の柴田俊一から指導を受け、現代美術に興味を示すようになる。1966年第7回現代日本美術展に出品、同年銀座の村松画廊で初個展(以後同画廊で83年までに5回個展を開催)を行う。初個展の作品は、矩形の支持体に複数の板をレリーフ状に構成したものだった。60年代末からは、海面を撮影した写真と鉛の棒、ガラス、電灯などを組み合わせたインスタレーションの作品を展開するようになる。71年、第6回国際青年美術家展で大賞を受賞、シェルター・ロック財団等の奨学金を得て2年間のフランス滞在を果たす。パリのギャラリー・ランベールで個展を開催するも、肺結核にかかり療養生活を余儀なくされたが、この体験は眞板にとって制作の姿勢を見つめ直す機会ともなった。73年に帰国後、神奈川県二宮町に住む。74年から、紀伊國屋画廊での第2回次元と状況展に参加、このグループ展には10回展まで出品を続ける。76年、第37回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。77年、第10回パリ・青年ビエンナーレに出品。海外への出品、旅行により、各地の風土にふれ、より自然と美術との関わりに思いをめぐらすようになる。80年代に入ると、ロープや布を用い、それを織り込んだ、網状や円のかたちをとる呪術的な趣を醸し出す作品を展開する。国内の画廊での個展や美術館の企画展への出品を重ねる中で、85年、ガストン・バシュラール生誕100年祭企画でのフランス、トロア市での展示、86年、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレへの出品は、ひとつの転機となった。作品の巨大化と野外彫刻、公共スペースのモニュメントの仕事が多くなっていく。構造上、作品の素材にはそれまで以上に、石や金属が使用されるようになるが、自然、とくに水へのこだわりは、止むことがなかった。その作風を耕すかのように、神奈川県秦野市(81年から)や長野県富士見町(94年から)の古民家を改造したアトリエで過ごすことも多くなっていく。1994(平成6)年、畏友安齋重男との神奈川県立近代美術館での展覧会「写真と彫刻の対話」では、代表作ともいえる29個の水盤状の立体「永遠の一端」を制作した。95年第7回本郷新賞を受賞。この頃から、竹を逆円錐状に組み上げる巨大な作品をみせるようになる。その環境造形としての試みは、97年下山芸術の森発電所美術館や2003年大原美術館の個展「音・竹水の閑」にみられた。現代美術の領域において、竹、自然石、布、水といった人々に親しめる素材を用い、ダイナミックに時に繊細に表現した作家といえよう。作品集に『眞板雅文1999』(小沢書店、1999年)がある。

森田茂

没年月日:2009/03/02

 洋画家の森田茂は2日午後9時20分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年101。1907(明治40)年3月30日、茨城県真壁郡下館町に生まれる。1913(大正2)年、下館男子尋常高等小学校(現、下館市立下館小学校)に入学。その後、父の転任により、東京と下館の間で転居を繰り返すが、17年に両親とともに大阪市に転居し、第一西野田尋常小学校に転校。19年、同校を卒業して大阪府立今宮中学校に入学する。20年、栃木県立宇都宮中学校に転校し、24年に同校を卒業。同年、茨城県師範学校本科に入学。この頃から油彩画を描き始める。25年、同校を卒業して真壁郡大田尋常高等小学校の教員となる。26年、第3回白牙会展に「静物」で初入選。また、同年第7回帝展で同郷の熊岡美彦らの作品を見て感銘を受け、熊岡を訪ねて上京を勧められる。28年、大田尋常高等小学校を退職して上京し、東京市深川区臨海尋常小学校図画専科の教員となる。30年第7回槐樹社展に「静物」で初入選。翌年の第8回同展に「少年」で入選する。31年、熊岡美彦が設立した熊岡洋画研究所の夜間部に入所。33年、熊岡らによって前年に創立された東光会の第1回展に「白衣」で入選。34年第2回同展に「少女像」と道化師の舞台稽古を描いた「稽古」が入選。「稽古」でK氏奨励賞を受賞する。同年第15回帝展に旅芸人の姿を描いた「神楽獅子の親子」で初入選。35年から東光会無鑑査となる。36年文展鑑査展に飛騨の神事のひとつを描いた「飛騨広瀬の金蔵獅子」で入選。37年第5回東光会展に「組閣前夜(政人)」「組閣前夜(入京)」「組閣前夜(記者)」を出品して同会会友に推される。38年、第6回東光会展に「膺懲の夏」を出品し、同会会員に推される。第2回文展に「金蔵獅子」が入選し、特選となる。40年、人形を描き始め「森田茂画伯文楽人形・飛騨祭油絵展」(名古屋・丸善画廊)、「森田茂画伯洋画展」(高山市公会堂)を開催。同年の紀元二千六百年奉祝展には「人形をつくる男」で入選する。戦後の46年第2回日本美術展に「阿波人形」で入選し、以後、日展に出品を続ける。また、47年に再興した東光会展にも毎年出品する。49年、日展依嘱となる。58年、社団法人となった日展の会員となり、62年、日展評議員となる。同年、エジプト、フランス、イタリア、スペイン等を訪れ、エジプトの自然や文化に興味を抱く。63年第29回東光会展に「ロバに乗るエヂプト人」、同年第6回社団法人日展に「ラクダと人」を出品。65年には東南アジアを旅行し第31回東光会展に「バンコックの朝の礼拝」「バンコックの寺院と僧」、同年第8回社団法人日展に「バンコックの僧達」を出品する。66年、山形県羽黒山で初めて黒川能を観て農民の祭と一体化した素朴さと土着性に感銘を受け、同年の第9回日展に「黒川能」を出品して文部大臣賞を受賞。翌年には自ら能を習い始める。69年第1回改組日展に「黒川能」を出品。70年に同作品で昭和44年度日本芸術院賞を受賞。76年、日本芸術院会員となる。77年、東光会理事長、82年、日展顧問となる。86年、高山市民文化会館で「森田茂展」、茨城県立美術博物館で「森田茂展―画業60年の歩み」が開催される。1993(平成5)年文化勲章受章。97年には「卒寿記念森田茂展」が下館市文化ギャラリー、横浜そごう美術館等で開催され、2003年にはしもだて美術館開館記念展として「森田茂展」が開催された。森田の画業は初期から慎ましい庶民の生活の情景に取材した制作が多く、神事や奉納舞への興味もそれに根ざしていた。黒川能を描いた作品は、次第に対象の視覚的描写に留まらず、幾度も絵具を塗り重ねてつくる重厚なマチエールと抽象化されたかたちによって、場のエネルギーといった不可視のものを描き出すようになっていった。年譜、出品歴、関連文献等は展覧会図録および『森田茂画集』(求龍堂、1988年)に詳しい。

稲越功一

没年月日:2009/02/25

 写真家の稲越功一は2月25日、肺腺がんのため東京都中央区の病院で死去した。享年68。1941(昭和16)年1月3日岐阜県高山市に生まれる。本名幸一。広告会社にグラフィックデザイナーとして勤務した後、70年有限会社イエローを設立し、フリーランスの写真家として活動を始める。71年、アメリカに取材した最初の写真集『Maybe, maybe』(求龍堂)を出版。繊細な感覚のストリートスナップで注目され、73年の『meet again』(写真評論社)ではテレビ画面のみを撮影するなど、社会性や政治性を捨象した新鮮な映像感覚の初期作品により評価を得た。雑誌等のエディトリアルな仕事も多くてがけ、とくに芸能人や歌舞伎役者を中心とする肖像写真には定評があった。シリーズ「男の肖像」(写真集は集英社刊、1981年)により80年第11回講談社出版文化賞写真賞を受賞。主要な写真集に『男の肖像』(集英社、1981年)、『女の肖像』(文藝春秋社、1984年)、『Ailleurs』(フランス コントルジュール社、1993年)、『使いみちのない風景』(朝日出版社、1994年、のち中公文庫、1998年)、『平成の女たち』(世界文化社、1996年)、『三大テノール日本公演公式写真集』(選択エージェンシー、1997年)、『アジア視線』(毎日新聞社、1999年)、『野に遊ぶ魯山人』(平凡社、2003年)、『まだ見ぬ中国』(NHK出版、2008年)など。文章の書き手としてもすぐれ、多くの写真集に自らつづったエッセイを収載した。『風の炎 稲越功一―印度朱光』(キヤノンクラブ、北欧社、1980年)や『記憶都市』(白水社、1987年、同年同題の個展を渋谷西武シードホールで開催)、『Out of Season INAKOSHI 1969―1992』(用美社、1993年)などにまとめられた叙情的な風景写真の仕事は、ライフワークとして続けられ、晩年は松尾芭蕉の足跡をたどる旅をモティーフとした「芭蕉景」と題するシリーズにとりくんでいたが、生前最後の個展となった「芭蕉景」(ライカ銀座店サロン、2009年)の会期中に死去。当初は自らも企画に加わっていた個展「Mind’s Eye 心の眼―稲越功一の写真」(東京都写真美術館、2009年)が死去の半年後に開催され、あわせて同題の写真集(求龍堂)が刊行された。

平木収

没年月日:2009/02/24

 写真評論家、九州産業大学教授の平木収は2月24日、食道がんのため福岡市内の病院で死去した。享年59。1949(昭和24)年8月7日京都府与謝郡宮津町(現、宮津市)に生まれる。京都市伏見区で幼少期を過ごし68年京都府立桃山高等学校卒業。72年早稲田大学第二文学部に入学、77年卒業(美術史専修)。少年時代より写真に関心を持ち、大学在学中の76年3月に東京綜合写真専門学校研究科の学生であった谷口雅らと新宿百人町に自主ギャラリー「フォトギャラリー・プリズム」を開設、77年10月の活動終了までに二度の個展(「レオナルドにならいて」、1976年、「写真機は文房具かなあ」、1977年)を開催する。大学では写真の芸術性について研究し、二つの個展が写真論的な視点にもとづくものであったことにも表われているように、写真をめぐる理論や歴史研究にも早くから幅広い関心をもち、75年『カメラ毎日』誌(6月号)に初めての評論「フォルカー・カーメン著『芸術としての写真』エネルギッシュな収集、対比の妙」を寄稿、80年『日本カメラ』誌において写真展評の連載を始め、実作から評論・研究へと軸足を移す。以後、同誌や『アサヒカメラ』誌などに多くの写真展評、書評などを寄稿、写真評論家として活動する。その評論活動は写真展や写真集などを丹念に実見するフィールドワークに基づくものであり、78年の初の渡欧以降、晩年に至るまでパリ写真月間、アルル写真フェスティバルをはじめとする写真関連の催しの取材や写真研究のため、欧米やアジア諸国にたびたび渡航するなど、そのフィールドは広く海外にも及んだ。85年にツァイト・フォト・サロンにより期間限定で開館した「つくば写真美術館’85」で開かれた「パリ・ニューヨーク・東京」展(つくば写真美術館’85の会期終了後、宮城県美術館に巡回)では、キュレーター・グループの一員として展覧会の企画・運営に携わり、主として19世紀の写真を担当。87年には川崎市教育委員会市民ミュージアム準備室嘱託となり、川崎市市民ミュージアムの設立準備に従事、88年同ミュージアム開館に際し学芸第二室写真部門担当学芸員に就任、1994(平成6)年同学芸主任を辞するまで同ミュージアム写真部門で「写真家・濱谷浩展」(1989年)、「ルイス・ボルツ 法則」(1992年)など多くの写真展を担当する。退任後も、「ピュリツァー賞写真展二〇世紀の証言」(Bunkamuraザ・ミュージアム他、1998年)など多くの写真展を企画・監修した。81年には東京綜合写真専門学校の非常勤講師となり、以後、日本写真芸術専門学校、武蔵野美術大学、京都造形芸術大学、早稲田大学、同芸術学校、玉川大学、東京藝術大学、東北芸術工科大学などで非常勤講師を務め写真史などを講じる。02年早稲田大学芸術学校客員教授に就任(06年3月まで)。05年には九州産業大学芸術学部教授に就任し、死去の直前まで学生の指導にあたった。原点としての実作者としての活動に始まり、評論家、キュレーター、教育者など、平木の写真に関わる広範な活動は、彼自身の造語「フィログラフィー(画像学)」に見られるように、狭義の写真史・写真研究にとどまらない、より広範な文明史的文脈のなかに写真を位置づけ、また畏敬し、享受しようとする柔軟な態度に貫かれていた。写真への尽きせぬ関心をさまざまな方法で伝え続けたその多面的な仕事を通じて、指導を受けた学生だけでなく、写真家や写真研究者にも平木の薫陶を受けたものは多い。そうした功績に対し、99年に日本写真文化協会功労賞、死去の翌年第60回日本写真協会賞功労賞が授与された。単著に『映像文化論』(武蔵野美術大学出版局、2002年)、遺稿集『写真のこころ』(『写真のこころ』編集委員会〔佐藤洋一、竹内万里子、徳山喜雄〕編、平凡社、2010年)がある。また09年5月に東京・市谷で開かれた「お別れの会」に際して刊行された『平木収 1949―2009』に詳細な年譜、執筆文献リストが収載されている。

大山忠作

没年月日:2009/02/19

 日本画家で文化勲章受章者の大山忠作は2月19日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。享年86。1922(大正11)年5月5日、福島県安達郡二本松町字下ノ町(現、二本松市根崎)の染物業を営む家に生まれる。小学校卒業後上京、名教中学を経て40年東京美術学校日本画科に入学する。44年学徒出陣のため繰上げ卒業となり航空部隊に配属、南方を転戦し46年台湾から復員した。同年の第31回院展に「三人」が入選、また第2回日展に美校の師小場恒吉を描いた「O先生」が初入選、以後落選を経験することなく日展に入選を続ける。47年高山辰雄らの一采社に参加、同年より山口蓬春に師事する。またこの年、法隆寺金堂壁画模写に橋本明治班の一員として参加し、第九号壁を担当。49年第5回日展に「群童」、50年同第6回に「室内」等人物画を出品し、52年第8回日展では「池畔に立つ」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。翌年の第9回日展に「浜の男」を無鑑査出品し、55年第11回日展で「海浜」が再び特選・白寿賞を受賞する。61年日展会員となる。67年法隆寺金堂壁画再現模写に従事、第十一号壁の普賢菩薩を担当。68年第11回日展の「岡潔先生像」で文部大臣賞を受賞。川越喜多院の五百羅漢に取材し、72年の第4回改組日展に出品した「五百羅漢」により73年、日本芸術院賞を受ける。70年日展評議員、75年理事となる。78年より2年をかけて成田山新勝寺光輪閣襖絵「日月春秋」28面を制作、84年には同襖絵「杉・松・竹」22面を完成させる。人物画をはじめとして、花鳥、風景等さまざまな主題を手がけながら、抑制の効いた色調と堅牢な古典的形態による画風を展開した。86年日本芸術院会員となる。87年福島県立美術館で「大山忠作展・画業40年の歩み」開催。1992(平成4)年日展理事長に就任。同年成田山新勝寺聖徳太子堂壁画6面を完成。99年文化功労者に選ばれる。2005年日展会長に就任。06年には文化勲章を受章。07年に二本松市へ自作169点を寄贈、没後の09年10月、二本松市市民交流センター内にそれらの作品を中心に収蔵展示する大山忠作美術館が開館した。画集に『大山忠作画集』(講談社、1982年)、『大山忠作画集』(朝日新聞社、1994年)がある。

今井寿恵

没年月日:2009/02/17

 写真家の今井寿恵は2月17日、急性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年77。1931(昭和6)年7月19日東京市に生まれる。52年文化学院美術科卒業(油絵専攻)。父が銀座松屋の営業写真室を運営しており、父の知人の勧めもあって、文化学院卒業後に写真制作を始め、56年に初個展「白昼夢」(松島ギャラリー)を開催。カラーフィルムを用いた幻想的な作風で注目され、ファッション雑誌などの仕事と並行して、「心象的風景」(富士フォトサロン、1957年)、「ロバと王様とわたし」(月光ギャラリー、1959年)、「オフェリアそのご」(小西六ギャラリー、1960年)などの個展を開催。フォトモンタージュなどの技法を用いたフォトポエムと評される作品は、50年代初頭に隆盛したリアリズム写真運動から、主観主義写真など、より写真家個人の視点や内面に立脚し、造形的な側面も重視する写真表現へと移行していく当時の日本の写真界において高く評価され、59年には第3回日本写真批評家協会賞新人賞(個展「ロバと王様とわたし」に対して)、60年にはカメラ芸術賞大賞をそれぞれ受賞した。62年には評論家福島辰夫が中心になって企画した「NON」展(銀座松屋)に参加。しかし同年に交通事故に遭い、一時失明状態になるなどの後遺症のため制作活動を数年間休止する。交流のあった寺山修司の誘いで競馬場を訪れたことなどをきっかけに馬に関心を持ち、70年にイギリスで当時全盛期を迎えていた競走馬ニジンスキーに出会ったことからサラブレッドという新たなモティーフを得て、写真家としての活動を本格的に再開、71年個展「馬に旅して」(ニコンサロン)を開催した。以後、サラブレッドや騎手など、世界各地で競走馬をめぐる撮影を重ね、新たな評価を確立した。77年に出版した写真集『通りすぎる時―馬の世界を詩う』(駸々堂)により78年第28回日本写真協会賞年度賞を受賞。また2004(平成16)年にはJRA(日本中央競馬会)創立50周年に際し、特別表彰を受けた。主な写真集に『テンポイント』(駸々堂、1978年)、『シンボリルドルフ』(角川書店、1985年)、『サラブレッド讃歌』(玄光社、1987年)、『夢を駆けるトウカイテイオー』(角川書店、1994年)、『武豊』(角川書店、1994年)などがある。

伊東傀

没年月日:2009/02/01

 東京藝術大学名誉教授の彫刻家伊東傀は2月1日、心不全のため死去した。享年90。1918(大正7)年10月4日、荏原郡品川宿字南品川2―20に海苔の養殖製造卸業を家業とする伊藤岩吉の次男として生まれる。本名伊藤茂之。1931(昭和6)年に城南尋常小学校を卒業するが胃腸を患い、3年間闘病生活を送る。1939年、私立高輪中学校を卒業して東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科に入学する。同校構内に立つロダン「青銅時代」に感銘を受けたことが、その後の制作の指針となった。44年9月に東京美術学校彫刻科塑造部を繰り上げ卒業となる。同年応召するが体調を壊し、召集解除となって帰国する。同年、東京美術学校彫刻科研究科に入学。45年12月に高輪学園の図画教諭となり51年3月まで教鞭をとる。46年、柳原義達、菊池一雄の仕事に共感し、彼らの所属する新制作派協会の第10回展に「手」(ブロンズ)を出品して新作家賞を受賞し同会会友となる。47年東京美術学校彫刻研究科を修了。48年、第12回新制作派協会展に「首 M.I」を出品し、新制作派協会賞を受賞。50年、毎日新聞社主催連合展に新制作派協会からの推薦で「青年の首O」を出品。51年、第15回新制作派協会展に「トルソ」(石膏)を出品し、同会会員に推挙され、2004(平成16)年に退会するまで毎年同展へ出品を続けた。52年東京藝術大学美術学部講師となる。53年、日産自動車車体製造法に参画。55年、第3回国際美術展でペリクレ・ファツィーニ、マリノ・マリーニ、ヘンリー・ムーアなどの海外の現代作家による彫刻を見、文学性とは離れた量塊表現に触発されて、それまでのアカデミックな表現から、対象の形を幾何学的形態としてとらえなおして再構築する作風へと変化する。60年、東京都三鷹市文化会館に「トリ」を設置。62年、文部省の派遣によりフランスへ出張。65年、東京藝術大学彫刻科助教授となる。74年に現代彫刻センターで個展を開催し、出品作「銀座の女」で土方定一の評価を得る。78年、東京藝術大学教授となる。81年第9回長野市野外彫刻賞を受賞し、「マントの女」が長野市に設置される。86年、東京藝術大学を定年退官し名誉教授となる。沖縄県立芸術大学設立に早くから関わり、86年10月、同学教授、92年同学美術工芸学部長となる。97年同学退職。2003年沖縄県立芸術大学名誉教授となる。2004年、新制作協会を退会する。85年に東京藝術大学退官記念として同学陳列館で行われた展覧会の際、自らの足跡を初期、1960年代、70年から75年、75年以降の4期に分けて語っているように、初期にはロダンに学んだアカデミックな人体表現がなされ、60年代には海外の現代作家に触発された簡略化された具象表現となり、第三期には対象の写実を離れた量塊としての構成が見られ、それ以後は構成的な傾向が強まっていった。道化師、水着の女、鳥、ふくろうをモティーフとした作品が多い。主要なコレクションは笠間日動美術館、沖縄県立美術館などに収蔵されている。

鶴田武良

没年月日:2009/01/18

 中国絵画史の研究者である鶴田武良は1月18日、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で死去した。享年71。1937(昭和12)年3月2日、大阪市に生まれる。61年東北大学文学部東洋芸術史学科を卒業後、シェル石油株式会社に入社するが、64年に東北大学大学院文学研究科修士課程(美術史学専攻)に入学。66年に修士課程を修了後、同研究科博士課程に進学。68年から72年まで大阪市立美術館に学芸員として勤務。72年に東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)に転職後は美術部資料室、情報資料部文献資料室、美術部第一研究室の研究員を経て、80年より修復技術部第二研究室長、83年より情報資料部写真資料室長を務める。88年に情報資料部長、1992(平成4)年に美術部長となり、98年定年により退職。中国絵画史を専門とし、大阪市立美術館勤務時代、橋本末吉コレクションとの出会いをきっかけに72年特別展「近代中国の画家」を開催、それまで研究対象として顧みられることの少なかった中国の近代美術に目を向けるようになる。東京国立文化財研究所に転職後は、近世~近代の来舶画人についての論考を『国華』や同研究所が発行する研究誌『美術研究』に連載。80年から翌年にかけて文部省在外研究員としてアメリカで調査を行った他、中国、台湾で地道な資料収集を重ね、『民国期美術学校畢業同学録・美術団体会員録集成』(和泉市久保惣記念美術館久保惣記念文化財団東洋美術研究所紀要2・3・4号 1991年)、『中国近代美術大事年表』(和泉市久保惣記念美術館久保惣記念文化財団東洋美術研究所紀要7・8・9号 1997年)等の基礎資料集成に結実。論考もそれらの資料に裏付けられた手堅い手法によるもので、91年からは清末~解放後の美術を対象に「近百年来中国絵画史研究」と題した連載を7回にわたり『美術研究』に発表。北京や台北でも学会発表や講演を重ね、数多くの論考が中国語に翻訳されている。退職後は中国近現代美術研究資料センターを主宰。99年台湾・林宗毅博士文教基金会第1回文化賞を受賞。2007年には収集した書籍・スライド・写真・フィルム等を広東美術館に寄贈、「鶴田武良中国近現代美術史研究文庫」として伝えられることになる。主要な編著書は下記の通りである。 『近代中国絵画』(角川書店、1974年)『近代中国絵画』(1974年角川書店刊本の中国文訳本、台湾・雄獅美術図書公司、1977年)米沢嘉圃と共著『水墨画大系第11巻 八大山人・揚州八怪』(講談社、1975年)川上涇と共編『中国絵画』(朝日新聞社、1975年)長尾正和と共著『呉昌碩』(講談社、1976年)川上涇と共著『中国の名画』(世界文化社、1977年)宮川寅男他と共著『東洋の美術Ⅰ』(旺文社、1977年)『月影館審定近代中国絵画』(日貿出版社、1984年)『鉄斎筆録集成』第1巻(便利堂、1991年)『日本の美術326 宋紫石と南蘋派』(至文堂、1993年)『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)『風景心境―台湾近代美術導読』(台湾・雄獅図書公司、2001年)『定静堂蒐集明清書画』(和泉市久保惣記念美術館、2001年)顏娟英他と共編『上海美術風雲―1872―1949 申報藝術資料條目索引』(台湾・中央研究院歴史語言研究所 2006年)

館勝生

没年月日:2009/01/16

 画家の館勝生は1月16日、がんのため大阪市で死去した。享年44。1964(昭和39)年2月1日、三重県桑名市に生まれる。87年大阪芸術大学芸術学部美術学科卒業。在学時にはデモクラート美術家協会の創立メンバーだった泉茂のゼミに入る。ニュー・ペインティングの影響を受けながら、大きなストロークによる有機的な形象の平面作品を個展やグループ展で発表、中原浩大、石原友明、松井智恵ら“関西ニューウェーヴ”の作家として注目を集める。1991(平成3)年、東京で初個展を開催(永井祥子ギャラリーSOKO)。94年VOCA展奨励賞を受賞。98年、原美術館で旧作を含めた個展「ハラドキュメンツ5 館勝生―絵画の芽」を開催。この時期を境にストロークを控え、余白の中に核となる痕跡をとどめた作を発表。2001年三重県立美術館県民ギャラリーで展覧会を開催。晩年はがんに侵されていることを知りつつも創作意欲は衰えず、亡くなる前月までアトリエで制作を続けていた。没後の09年8月、学生時代より個展やグループ展をほぼ毎年開催してきた大阪のギャラリー白で個展が開かれるとともに、画集『館勝生 Tachi Katsuo』が刊行された。

福田繁雄

没年月日:2009/01/11

 日本グラフィックデザイナー協会会長で、グラフィックデザイナーとして国際的に活躍した福田繁雄は、1月11日午後10時30分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。享年76。1932(昭和7)年2月4日、東京生まれ。田中国民学校卒業後、台東区今戸高等小学校に入学するが、太平洋戦争の激化により44年母親の実家のある岩手県二戸市福岡町に疎開。戦後51年同地の県立福岡高等学校卒業後、帰京すると53年東京藝術大学美術学部図案科に入学。在学中より日本宣伝美術会展や日本童画会展をはじめ、幾つものコンクールで受賞を重ねる。またこの頃亀倉雄策に見出され、松屋デパートのポスターを手掛ける。56年に卒業後は味の素株式会社広告部制作室に入社するが、日宣美会員に推挙された58年退社。河野鷹思を中心とする株式会社デスカの設立に参加した後、59年フリーのデザイナーとなる。60年世界デザイン会議でイタリア人デザイナー、ブルーノ・ムナーリと出会うと、彼の「遊び」のデザインに影響を受け、61年ミラノにあるムナーリのアトリエを訪問。62年にはこの時の旅行を図形表現した『わたしと国々』を朝日出版から出版。以降、大学時代から行っていた絵本制作に本格的に取り組み、『Romeo and Juliet』、『こぶとり日本昔話』などを相次いで自費出版する。また同じ頃にエッシャーの絵画と出会い、後の視覚トリックによるデザインの出発点となる。65年「グラフィックデザイン展ペルソナ」に出品。新しい世代のデザイナーとして注目を集めると、66年第2回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ展奨励賞を皮切りに、以後国内外の公募展や企画展への出品が相次ぐ。また、69年日本万国博覧会サイン計画への参加や71年札幌冬季オリンピック参加メダル、ピクトグラム、公式ガイドブックの制作など国家的イヴェントへの参画も増えていく。一方、63年の長女誕生をきっかけに始まった玩具制作は、60年代後半からは彫刻へと展開し、67年ニューヨークIBMギャラリーでの個展「Toys and Things」や、73年第5回現代日本彫刻展(宇部市)入選というかたちで結実する。福田の立体作品の代名詞といえるのが「二つの形をもった一つの形」シリーズで、見る角度によってまったく異なる形がシルエットとなって現れるトリッキーな仕掛けは、同時代の難解な現代美術にはないユーモア精神に溢れたものであった。これらの立体作品は全国各地にパブリック・アートとしても設置され、福田の創作活動を従来のグラフィック・アートから大きく飛躍させた。ユニバーサル・デザインを標榜する福田の海外での活動は目覚ましく、その評価も日本のデザイナーの中でも突出している。1995(平成7)年ポーランド、ビラヌフ・ポスター美術館での個展に代表される展覧会の開催を始め、72年第4回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞、75年第21回オリンピック・モントリオール大会記念銀貨デザイン国際コンペ最高賞、95年ユネスコ国際ポスター展グランプリ、サヴィニャック賞(パリ)といった受賞歴の他、86年英国王室芸術協会(R.D.I.)会員、87年ニューヨークADC殿堂入り、91年ポーランド国立ポスター美術財団名誉会長などの要職にも就いている。国内でも81~86年に東京藝術大学デザイン科助教授を務めたのを始め、98年社団法人日本サインデザイン協会顧問、2000年日本グラフィックデザイナー協会会長などを歴任。その間、78年第12回SDA賞最優秀賞、80年第11回「講談社出版文化賞」ブックデザイン賞、87年日本宣伝賞第8回山名賞、93年ECOPLAGAT:環境と自然保護国際ポスターコンクール、グランプリ、97年通商産業大臣デザイン功労者表彰、2001年岩手県勢功労者表彰を受け、99年には岩手県二戸市に福田繁雄デザイン館をオープンさせた。76年文部省芸術選奨美術部門文部大臣賞新人賞、97年紫綬褒章。歿後2011~12年には、三重県立美術館を始め全国6美術館を巡回する大回顧展が開催されるなど、従来のグラフィックデザイナーの枠を超えた独創的な創作活動は、その遊び心と親しみやすさから広く人々を魅了し続けている。

田実栄子

没年月日:2009/01/03

 染織研究家の田実栄子は1月3日死去した。亨年81。1927(昭和2)年4月26日、朝鮮全羅北道裡里邑に生まれる。旧姓神谷(かみや)。40年4月、京城第一公立高等学校に入学し43年7月に同校を中退。44年4月に東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)文科に入学し、48年3月に同校を卒業、東京国立博物館附属美術研究所技術員となる。51年1月同第二研究部勤務となり、52年4月美術研究所が東京文化財研究所となるに際し美術部第二研究室勤務となって染織品の調査研究を行う。56年「鳴海有松地方の絞染」(『MUSEUM』61号)「明治期の型友禅―千総の見本裂調査を主として」(『MUSEUM』69号)、57年「明治期の写友禅―千総の見本裂調査を主として」(『MUSEUM』72号)を発表。62年美術部資料室に配置換え、73年1月美術部第一研究室研究員となり、同年4月美術部主任研究官となる。染織研究家山辺知行に師事し、『美術研究』に多くの論稿を発表。上杉家、徳川家、片倉家、伊達家など大名家遺品の調査研究のほか、型染、小千谷縮、辻が花などについても調査研究を行う。その後、それらの作品調査の成果を、『上杉家伝来意匠』(講談社、1969年、山辺知行と共著)、『小袖』(「日本の美術」第67号、1971年)、『紀州東照宮の染織品』(芸艸堂、1980年)、『武家の染織』(共著、中央公論社、1982年)、『型染』(芸艸堂、1975年)などにまとめる。本務の一方、お茶の水女子大学家政学部や日本女子大学大学院、東京造形大学、東京藝術大学美術部で講師を併任する。1989(平成元)年3月、東京国立文化財研究所を停年退官して同所名誉研究員となる。同年4月より96年3月まで大妻女子大学家政学部教授として「博物館実習」「服飾史特論」「染織工芸特論」などを講じた。

to page top