本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





飯田善国

没年月日:2006/04/19

 彫刻家飯田善国は4月19日、心不全のため、滞在先であった長野県松本市内の病院で死去した。享年82。1923(大正12)年7月10日、現在の栃木県足利市小曽根町に生まれる。1943(昭和18)年4月、慶応義塾高等部に入学、同年12月応召。46年1月、中国より復員。同年9月、慶応義塾大学に復学して文学部に編入、同学部ではじめ国文学、ついで美学を専攻し、折口信夫、池田弥三郎、西脇順三郎に学んだ。49年に同大学を卒業後、東京芸術大学美術学部油絵科に入学し、梅原龍三郎教室に学んだ。卒業後の53年7月、丸善画廊(東京日本橋)で初個展開催。その案内状には、梅原龍三郎が一文を寄せた。55年、河原温、池田龍男、石井茂雄等と「制作者懇談会」を結成。56年、渡欧。ローマ滞在中に絵画から彫刻を志すようになり、彫刻家ファッツィーニに師事。57年ヴィーンに移り、銅版画を学ぶ。その後、ヴェネツィア、アイスランドのレイキャビック、60年10月、ミュンヘンで彫刻と版画による個展開催。同地で開催されたヘンリー・ムーアの彫刻展に感銘を受ける。61年、ヴィーンのクラージュ劇場で「KATAKI」の主役を演じ、同地で話題となる。一方同年から、鉄、木を素材に本格的に抽象彫刻作品の制作を始める。ベルリンに移り、ヴィーンとの往復を繰り返しながら制作をつづけ、またオーストリア人カタリーナ・バイテルと結婚。67年11月、帰国。68年、第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「ミラー・オン・ザ・コンストラクション」を出品、大賞受賞。69年9月、前年より運営委員として国内外を奔走して準備にあたった「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」(大阪)が開催される。72年、西脇順三郎との共同制作で詩画集『クロマトポイエマ』を制作、この作品をもとに南天子画廊(東京)で個展開催。この共同制作を契機にアルファベットの言葉と色彩を組み合わせた表現を試みるようになる。70年代末頃より、ステンレスの立体とナイロンのカラーロープを組み合わせた立体作品の制作が始まる。また、個展開催とともに各地の野外彫刻展にも積極的に出品し、あわせて、89年の彫刻噴水「シーソー(虹と水の広場)」(東京都町田市芹ヶ谷公園)など公共空間での彫刻作品の制作も多くすすめられた。88年、三重県立美術館、目黒区美術館、京都国立近代美術館を巡回した回顧展「つながれた形の間に―飯田善国展」を開催。1993(平成5)年7月、目黒区美術館で「飯田善国―画家としてのプロフィール展」開催。94年12月、慶応義塾大学(三田キャンパス、北新館ノグチ・ルーム)で「光の糸が見える―飯田善国展」開催。97年12月、神奈川県立近代美術館で「連続する出会い 飯田善国展」開催。さらに没後の2006年9月から翌年6月にかけて、町田市立国際版画美術館、足利市立美術館にて「飯田善国―版画と彫刻」展が開催された。飯田の創作活動は、彫刻にとどまらず、絵画、版画、詩というように多岐にわたるが、いずれもが視覚的な造形表現と言語表現とが分かちがたく結びついており、その点から観念性を強める現代美術において独自の位置をしめている。なお、飯田には版画集、作品集、彫刻論、エッセイ、詩集等の刊行も多くあり、その主要なものを刊行年順にあげると、下記の通りである。 『見えない彫刻』(小沢書店、1977年)『震える空間』(小沢書店、1981年)『ラッセル広場の空』(小沢書店、1982年)『20世紀思想家文庫5 ピカソ』(岩波書店、1983年)詩集『見知らぬ町で』(思潮社、1983年)作品集『飯田善国 ミラーモビール』(美術出版社、1987年)『彫刻家 創造への出発』(岩波書店(岩波文庫)、1991年)版画集『M.M.曲面シンドローム』(ノマルエディション、1992年)版画集『うしなわれないことば』(ギャラリーAPA、1994年)『彫刻の思想』(小沢書店、1995年)『妖精の距離 カントリーボーイ年代記』(小沢書店、1997年)版画集『SHADOW OF THE SKY / VOICE OF THE EARTH』(ギャラリーAPA、1998年)作品集『飯田善國・絵画集』(銀の鈴社、1999年)詩集『Gahlwayの女たち』(思潮社、2001年)

今野忠一

没年月日:2006/04/15

 日本画家で日本美術院常務理事の今野忠一は4月15日、脳梗塞のためさいたま市の病院で死去した。享年91。1915(大正4)年3月26日、山形県東村山郡干布村(現、天童市上荻野戸)に生まれる。本名忠市。1931(昭和6)年山形の南画家後藤松亭に入門し、松石と号する。34年山形出身の日本画家高嶋祥光を頼って上京、児玉希望の門人となり、欣泉と号して写実的な風景画を学ぶ。しかし40年には同郷の彫刻家新海竹蔵を介して郷倉千靱の草樹社に入塾、忠一と号して花鳥画に取り組む。40年第27回院展に「菜園」が初入選。郷里での疎開ののち、戦後46年より再び院展に入選を続け、54年第39回「晩彩」、56年第41回「残雪」、59年第44回「吾妻早春」がいずれも奨励賞を受賞する。55年第40回「暮秋」は日本美術院賞、57年第42回「樹と鷺」が同賞次賞、58年第43回「老樹」は同次賞・文部大臣賞を受賞し、59年同人に推挙された。初期の花鳥画から50年代には風景画に転じ、主に山岳風景をモティーフに、写実と心象が深く融合する深遠な画境を展開。60年第45回「源流」、61年第46回「照壁」等を発表し、77年第62回「妙義」は内閣総理大臣賞を受賞した。78年から88年まで愛知県立芸術大学日本画科主任教授を務める。88年日本美術院理事に選任。1990(平成2)年郷土の天童市美術館で「今野忠一とその周辺展」を開催、以後同館で回顧展をたびたび催し、没後すぐの2006年にも追悼展を行っている。92年から96年まで『中央公論』の表紙絵を担当。92年東北芸術工科大学芸術学部美術科主任教授となる。同年には『今野忠一画集』(ぎょうせい)が刊行。2001年日本美術院常務理事となる。

富永直樹

没年月日:2006/04/11

 日本芸術院会員の彫刻家富永直樹は4月11日午前9時56分、虚血性心不全のため死去した。享年92。1913(大正2)年5月18日、長崎市に生まれる。本名良雄。26年長崎県長崎中学校に入学。同校在学中に、同郷の彫刻家の官展出品作が街に展示されているのを見て、彫刻に興味を抱くようになる。1933(昭和8)年、東京美術学校彫刻科塑造部に入学。当時、同校では北村西望、朝倉文夫、建畠大夢が彫刻科で教鞭を取っており、主に北村西望に師事した。同校在学中の36年文展に、対象を写実的把握の上で理想化を加えたブロンズ像「F子の首」を出品して初入選。以後、官展に出品を続ける。38年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業し、同校彫刻科研究科に進学、40年に同科を卒業する。50年、第6回日展に「殊勲者」を出品し特選受賞。同年、本名を良雄から直樹と改称する。51年、第7回日展にザイルを肩に立つ登山者をあらわした「山」を出品し前年に続いて特選受賞。52年、第8回日展にラグビーボールを抱えて一点を見つめるラガーをとらえた「主将」を無鑑査出品して、3年連続特選を受賞するとともに、朝倉賞を受賞。53年、日展審査員、54年同会員となる。同展が社団法人となって以降も出品を続け、62年評議員、73年理事に就任。この間、68年第11回日展に「平和の叫び」を出品して文部大臣賞受賞。71年には改組第3回日展に「新風」を出品し、翌年日本芸術院賞を受賞する。74年日本芸術院会員となり、79年に日展理事長に就任した。現在の日本彫刻会の前身である日本彫塑家倶楽部の第1回展(1953年)に「マドンナ」を出品して以降、61年に日本彫塑会、81年に社団法人日本彫刻会となる同会に出品を続け、1972年に同会理事、86年に同会理事長となった。この間の81年「北村西望・富永直樹彫刻二人展」を神戸・大丸にて開催。83年大阪、東京の高島屋で「富永直樹彫刻50年展」を開催した。穏健な写実をもとに、理想化を加えた人物像を多く制作し、大分県庁前の「西洋音楽発祥記念碑」(1971年)、学習院中等科正門前の「桜咲く校庭(学習院生徒像)」(1978年)、大分市駅前の「大友宗麟公」(1982年)、長崎平和会館前の「原爆殉難教え子と教師の像」(1982年)など公共の場の彫刻も数多く制作している。ロダンの叙情的な作風よりも、ブールデルの構築的な造形を評価し、着衣の男性像を好んでモチーフとした。作品集に『富永直樹彫刻作品』(実業之日本社、1982年)、『富永直樹彫刻作品Ⅱ』(実業之日本事業出版部、1990年)がある。84年、文化功労者となり、1989(平成元)年、文化勲章を受章。長年、三洋電機のデザイン部門に勤務し、常務をつとめるなど、企業人の一面も持った。

林宗毅

没年月日:2006/04/03

 実業家で、中国書画の収集家としても知られる林宗毅は、病気療養中のところ、4月3日、東京にて死去した。享年83。林宗毅は、台湾三大名家の第一に挙げられる板橋林本源家の嫡流として、1923(中華民国12)年4月22日、台北の板橋鎮に生まれた。字を志超といい、定静堂と号した。原籍は福建省漳州府龍渓県。1778(乾隆43)年、五代の祖である林應寅の代に台湾に移り、のちに應寅の子林平侯が居を台北県新荘鎮に定め、土地の開墾・塩の専売・貿易等によって財を築いた。1846(道光26)年から1853(咸豊3)年の間に、平侯の二人の子、林國華・林國芳が板橋鎮に移居し、林國華・林國芳それぞれの屋号である本記・源記を合わせて、林家は林本源と総称するようになった。福建の造園技術の粋を集めて築造した林本源園邸は、現在も台北県の古跡として一般に公開されている。定静堂をはじめ、来青閣、方鑑斎、汲古書屋等の別号は、いずれも林本源園邸の楼亭や書斎の名称に由来している。1944(中華民国33)年、台北帝国大学医学部に入学するも、翌年終戦のため退学。1948(中華民国37)年、国立台湾大学文学院外国文学系を卒業。1953(昭和28)年、東京大学大学院(旧制)文学部英文学科を修了。1973(昭和48)年、日本に帰化した。長らく、台湾・日本・アメリカなどで実業家として活躍するかたわら、30歳の頃から中国書画の収集に心を砕き、約1000件のコレクションを形成した。それらの収蔵品は、一般に公開して研究に役立てたいとの考えから、『定静堂中国明清書画図録』(求龍堂、1968年)・『定静東方美術館開館記念展目録』(凸版印刷、1970年)・『近代中国書画集』(中央公論事業出版、1974年)を編修発行、一方では林家にまつわる貴重な文献を『定静堂叢書』として刊行した。収蔵品は、台北の国立故宮博物院(1983・1984・1986・2002年)、東京国立博物館(1983・1990・2001・2003年)、和泉市久保惣記念美術館(2000年)に寄贈し、それにより紺綬褒章を受章(複数回)、中華民国教育部文化奨章(1984)、国立故宮博物院栄誉章(1986年)、中華民国総統奨状扁額(1986年)、中華民国行政院文化建設委員会「第6回文馨奨」の「金奨特別奨章」(2003年)を受章した。『定静堂清賞』(東京国立博物館、1991年)、『林宗毅先生捐贈書画目録』(国立故宮博物院、1986年)、『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)等があり、三館に寄贈した収蔵品から名品を選んだ『定静堂中国書画名品選』(財団法人林宗毅博士文教基金会・国立故宮博物院、2004年)がある。1983(中華民国72)年、中華学術院名誉哲士。1987(中華民国76)年、中国文化大学名誉文学博士。

大野五郎

没年月日:2006/03/07

 洋画家の大野五郎は3月7日、慢性心不全のため東京都あきる野市内の病院で死去した。享年96。1910(明治43)年2月13日、父大野東一、母幹の五男として東京府下北豊郡岩淵町(現在の東京都北区)に生まれる。父東一は、当時の栃木県都賀郡谷中村の村長を務めていたが、08年に足尾銅山鉱毒事件のために離村していた。青年期に及んで実兄で詩人であった四郎の影響もあって絵画に関心をもち、26年、斉藤與里の紹介で藤島武二が指導する川端画学校に入学する。1928(昭和3)年、第3回一九三〇年協会展に「姉弟三人」など3点が初入選、第5回展まで出品した。この頃長谷川利行、靉光、井上長三郎を知る。29年、同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホ、フォーヴィスムの影響を深く受けることになり、原色と太い筆致を特徴とする画風の基礎を形成することとなった。また、ここで田中佐一郎、中間冊夫、森芳雄、伊藤久三郎と知りあうことになる。30年に第17回二科展に「風景」「少女」が入選。31年、第1回独立美術協会展に「横向いた肖像」「Nの肖像」が入選、O氏賞を受賞した。この頃、兄四郎がバー「ユレカ」を開店、店を手伝うようになり、ここにあつまる小熊秀雄などの詩人たちとの交友がはじまる。42年横瀬喜久枝と結婚、44年には長男俊介が誕生した。その間の43年に井上長三郎、寺田政明、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、松本竣介、麻生三郎と新人画会を結成し、展覧会を翌年の第3回展まで開催した。46年に再興した独立美術協会の準会員に迎えられるが、翌年同会を脱退して自由美術家協会に参加。64年には、同協会を離れ、寺田政明、森芳雄、吉井忠とともに主体美術協会を結成した。以後、2005(平成17)年まで毎年出品をつづけ、同協会の結成会員として象徴的な存在となった。また昭和期の史的回顧展に出品されることが多く、88年に練馬区立美術館、広島県立美術館を巡回した「靉光展 青春の光と闇」、91年に板橋区立美術館にて開催された「昭和の前衛展 表現の冒険者たち」、同年に神奈川県立近代美術館にて開催された「松本竣介と30人の画家たち展」、08年に板橋区立美術館で開催された「新人画会展 戦時下の画家たち」等に戦前期の作品が出品された。その没後の同年4月に、「大野五郎―画業八〇年の軌跡」が、八王子市夢美術館にて開催され、初期作から05年までの作品67点が出品された。その画風は、自ら語るように酒を愛し、豪放磊落の性格を表したように、赤い輪郭線を特徴とするフォーヴィスムの流れを汲んだものであった。

建畠覚造

没年月日:2006/02/16

 彫刻家で文化功労者の建畠覚造は2月16日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年86。1919(大正8)年4月22日、現在の東京都荒川区日暮里に、彫刻家建畠大夢(1880―1942)の長男として生まれる。東京市第一中学校を経て1941(昭和16)年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業、同年第4回新文展に「黙」が入選し、特選を受賞。44年 在仏印日本文化会館員として、サイゴン(現在のホーチミン市)に赴任。終戦後の46年にベトナムから帰国。50年の行動美術協会創立にあたり彫刻部に参加。53年から55年まで渡欧。滞欧中の54年にサロン・ド・メ、サロン・ド・レアリテヌーベルに出品。この滞欧中に具象から抽象表現を試みるようになる。また、パリにて柳原義達、向井良吉と交友。55年3月帰国、同年国立近代美術館にて開催された「日米抽象美術展」に、神奈川県立近代美術館の「今日の新人・1955年展」に、東京都美術館の「第3回日本国際美術展」にそれぞれ出品。56年、朝日新聞社主催の「世界・今日の美術展」(東京、高島屋)に出品。この50年代から60年代にかけては、動植物の有機的なフォルムから触発された抽象表現の作品を発表していた。62年、多摩美術大学彫刻科助教授となり、66年から73年まで同大学教授として後進を指導。67年、第10回高村光太郎賞を「壁体」で受賞。70年代になると、傘、車輪をモチーフにした金属彫刻を発表。78年の神奈川県民ギャラリーで開催された建畠覚造展では、そうした傘をモチーフにしたユーモアと冷たい金属の質感と鏡面の特性を組み合わせた作品を中心に発表した。70年代末頃から80年代半ばにかけて建畠は合板を重ねる技法による作品を発表し、規格の定まった工業製品としての合板の無表情の表面と接着された合板の断層をたくみに表現にとりこみ、独特の重層的なフォルムをみせる作品を制作した。80年代半ば以降には、表面を黒いウレタン塗装仕上げとする作品を制作したが、いずれもスパイラル(渦巻き)やウェーブ(波)状のフォルムによって、表面の無表情とはうらはらの温かみをもつ抽象表現に達した。その間の81年に、第12回中原悌二郎賞を「CLOUD 4(大)」で受賞。82年には、父の出身地である和歌山県立近代美術館にて「建畠覚造展」を開催。83年にヘンリー・ムーア大賞展優秀賞を受賞した。一方、60年代から80年代にかけては、建築にともなう壁面の装飾、各地の公共的な野外での彫刻作品の制作にも積極的に参加、コンクリート、アルミニウム、ステンレス等の様々な素材を駆使して、その独自の造形表現を発表しつづけた。この当時、「技術というものは考えるもので、習熟するものではないと思うのです。逆に感性は、人間が本来もって生れたものだとよくいうけれど、感性こそみがかれるものなんですね。職人を例にとったわけですが、一つのものをつくるとき、感性はつねにみがかれていなければ駄目になりますし、技術は高度な思考の領域にあるのだという気でぼくもいるのです。」(「作家訪問 建畠覚造―考える技術」、『美術手帖』1986年5月)と発言している。個展発表のための作品にしても、野外に設置される大型の公共彫刻にしても、つねにそのユーモラスで柔軟な感覚と研ぎすまされた感性によってうまれた独自のフォルムをもつ造形性、木、金属、石を問わず素材の制約をこえて自在に表現しようとする意欲と弛みない実践に支えられていたといえる。86年、武蔵野美術大学客員教授となる。1990(平成2)年、芸術選奨文部大臣賞受賞。92年には、初期からの作品294点を収めた『建畠覚造作品集』(講談社)が刊行された。2005年、文化功労者に選ばれた。戦後の日本の抽象彫刻を語る際に、国内外において注目される多くの作品によって欠くことのできない存在の一人であった。

渡辺克巳

没年月日:2006/01/29

 写真家の渡辺克巳は、1月29日肺炎のため東京都狛江市の病院で死去した。享年64。1941(昭和16)年10月17日岩手県盛岡市に生まれる。61年岩手県立盛岡第一高等学校(定時制)を卒業。57年から61年まで毎日新聞社盛岡支局で事務補助員を務め、基本的な写真技術を習得。62年上京し、東條会館写真部に勤務(67年退社)。65年、夜の盛り場をまわり、三枚一組二百円でポートレイトの撮影の注文を受け、翌日届ける「流しの写真屋」を始める。そうして撮りためた写真を『カメラ毎日』1973年6月号の公募欄「Album’73」に「新宿・歌舞伎町」と題して発表、新進の写真家として注目され、この年の「Album賞」に選ばれる。同年、写真集『新宿群盗伝66/73』(薔薇画報社)を刊行。また74年には初の個展「初覗夜大伏魔殿」(シミズ画廊、東京・荻窪)を開催、「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に参加した。70年代に入って、時代の変化により、流しの写真屋としての営業が成り立ちにくくなった後も、写真館の経営(76年から81年まで)などのかたわら新宿、歌舞伎町界隈に通い、街とそこに集まる人々を撮影し続けた。それらの作品は、『新宿群盗伝伝』(晩聲社、1982年)、『ディスコロジー』(晩聲社、1982年)、『新宿 1965―97』(新潮社、1997年)、『新宿グランドパレス』(新潮社、1998年)、『Hot Dog―新宿1999―2000』(ワイズ出版、2001年)などの写真集や、「真夜中のストリートエンジェル」(銀座ニコンサロン、1980年)、「新宿群盗伝伝」(銀座および新宿ニコンサロン、1982年)、「ごちゃまぜ天国」(コニカプラザ、1993年)、「LIVE」(プレイスM、2002年)などの個展で発表された。1998(平成10)年日本写真協会賞年度賞を受賞(前年の写真集『新宿 1965―97』に対して)。2006年個展「Gangs of Kabukicho」(Andrew Roth、アメリカ、ニューヨーク)開催、同題の写真集がPPP Editionsから刊行された。08年には回顧展「流しの写真屋渡辺克巳1965―2005」(ワタリウム美術館)が開催された。

吉田清

没年月日:2006/01/26

 東京美術倶楽部代表取締役の吉田清は1月26日、肺炎のため死去した。享年78。1927(昭和2)年2月11日、東京都に中村嵩山の四男として生まれ、吉田家養子となる。44年電機高校を中退。古美術商水戸幸に入店し、56年有限会社赤坂吉田を設立して同社代表取締役となる。58年、同社を有限会社赤坂水戸幸と改称。61年から63年まで東京美術倶楽部青年会理事長をつとめ、この間、第二次大戦で行方や消息が不明であった佐竹本三十六歌仙絵を一堂に集めた「佐竹本三十六歌仙展」を開催して注目された。東京美術倶楽部にあっては、81年に監査役、83年に取締役、1995(平成7)年に取締役副社長、97年に代表取締役となった。また、東京美術商協同組合にあっては、66年に理事、77年に専務理事、91年に理事長となり、99年全国美術商連合会会長となった。宗翠と号して茶の湯をよくし、79年財団法人小堀遠州顕彰会理事、84年光悦会役員、86年財団法人MOA美術館光琳茶会役員、2000年大師会理事となり、東都茶道界の重鎮であった。著書に『佐竹本三十六歌仙図録』(共著、東京美術青年会、1962年)、『古筆手鑑梅の露』(書芸文化院、1964年)、『写経手鑑紫の水』などがある。

脇田愛二郎

没年月日:2006/01/26

 立体造形、版画等の平面作品を、アメリカ及び国内で発表していた美術家脇田愛二郎は、肝不全のため、東京都文京区の病院で死去した。享年63。1942(昭和17)年、現在の東京都港区に、画家脇田和(1908―2005)の二男として生まれる。64年武蔵野美術大学を卒業後に渡米。翌年からニューヨークに住み、ブルックリン・アート・ミュージアムに学ぶ。69年、ニューヨークのマーサ・ジャクスン・ギャラリーで個展を開催。60年代から工業製品であるワイヤーを素材に使用、円形状に並べたレリーフ状の作品を制作、さらにそれを転用して版画作品を制作した。以後、70年代にかけて、「螺旋」をテーマにした立体(木製、金属製)、平面作品を発表した。また78年に『脇田愛二郎の環境造形』(アート・テクニック・ナウ第12巻、河出書房新社)を刊行。(95年に増補版を刊行。)同書で、「彫刻とか、絵とか、版画とかさまざまなカテゴライズされた仕事をするのではなく、人間と物と場の相関関係を重視すべきであろう。」と述べている。その創作活動は、素材を問わない多岐なものだが、いずれも立体、平面作品において、つねに作品が置かれることで、その空間の意味を変移させようとする志向がはたらいていたといえる。そのために脇田は、70年代から「環境」への関心を早く持つようになった。70年代末頃からステンレス製の直方体に木製の太いリングがからみつく作品を発表、これにより83年に第11回平櫛田中賞を受賞。85年、詩人辻井喬との共作で詩画集『錆』(河出書房新社)を刊行。86年の第2回東京野外現代彫刻展(会場、東京都世田谷区砧公園)に「ねじられた錆の柱」を出品、大賞受賞。同年7月に渋谷区立松涛美術館にて「特別陳列脇田愛二郎」展を開催。鉄、アルミニウム等の金属による立体作品「ねじられた柱」のシリーズ16点を出品した。

佐藤圀夫

没年月日:2006/01/24

 日本画家で日本芸術院会員、名古屋芸術大学名誉教授の佐藤圀夫は1月24日、転移性肺がんのため東京都立川市内の病院で死去した。享年83。1922(大正11)年8月16日、岩手県九戸郡野田村に生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校日本画科に入学し、46年卒業。同年第31回院展に「みそあげ」が初入選し、翌47年同第32回展にも「豆ひき」が入選。48年より髙山辰雄の誘いで一采社の研究会に参加し49年の第8回一采社展より出品、以後解散する61年第20回展まで出品する。49年第5回日展に「野田村」が初入選、以後日展に出品する。51年より一采社世話役の画商栗坂信の紹介で山口蓬春に師事。54年第10回日展「冬」が特選・白寿賞を受賞し、朝日秀作美術展に推薦された。続いて59年第2回新日展で「津軽の浜」が再び特選・白寿賞となり、62年同第5回「夕凪」は菊華賞を受賞。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描く。64年日展会員、76年同評議員となり、76年第8回改組日展に「十三湖の村」を出品、翌77年同第9回「山里」は文部大臣賞を受賞した。この間、70年に名古屋芸術大学教授となる(97年まで)。88年第20回日展出品作「月明」で1989(平成元)年日本芸術院賞を受賞。同年日展理事、99年日本芸術院会員、2000年日展常務理事となる。

川上涇

没年月日:2006/01/18

 東洋絵画史研究者の川上涇は1月18日、老衰のため東京都品川区上大崎の自宅で死去した。享年85。1920(大正9)年3月19日、京都市上京区河原町通荒神口に生まれる。1932(昭和7)年3月東京府立第一中学校を卒業。39年旧制第一高等学校を卒業し、同年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学する。瀧精一に師事し、41年12月に同科を卒業。42年4月応召して第一補充兵として近衛歩兵第一連隊に入隊し、42年12月陸軍少尉、45年8月陸軍中尉となり応召を解除される。45年10月より東京女子大学講師として日本美術史を講じ、46年2月より美術研究所嘱託となった。47年6月に東京帝国大学大学院を中退し、同年7月に美術研究所職員となる。48年12月東京女子大学を退職。52年4月に美術研究所が東京文化財研究所となると、同所美術部資料室に配属された。54年7月、東京国立文化財研究所の改組により同所美術部第一研究室に配属され、67年第一研究室長となり、76年4月美術部長となった。この間、1950年10月より成蹊大学講師、64年から67年3月まで横浜国立大学講師、67年からは埼玉大学講師をつとめたほか、東京大学、京都大学、東北大学の講師としても教鞭を取った。明代清代の絵画史を主な研究対象とし、作品に即した実証的な調査研究を行い、60年米沢嘉圃、鈴木敬とともに、台湾に渡り、当時台中にあった故宮博物院の所蔵になる絵画2800点あまりのうち約1000点を調査して、中国絵画の主要な優品の調査に基づく、新たな中国絵画史研究に一石を投じた。82年3月、停年により東京国立文化財研究所を退官する。その後も沖縄県立芸術大学などで講師として教鞭を取った。著書に『東洋美術 絵画Ⅰ』(共著、朝日新聞社、1967年)、『日本絵画館 12 渡来絵画』(講談社、1971年)、『東洋美術全史』(共著、東京美術、1972年)、『大阪市立美術館蔵中国絵画』(共編、朝日新聞社、1975年)、『水墨美術大系 4 梁楷・因陀羅』(共著、講談社、1977年)などがあり、個別作家の研究としては明代の宮廷画家王諤に関する論考「送源永春還図詩画巻と王諤」(『美術研究』221号、1962年)、「王諤筆山水図」(同232号、1964年)、および揚州八怪のひとりともされる華嵒に関する論考「新羅山人早期の作品 付華嵒略年譜」(『MUSEUM』174号、1965年)、「華嵒の秋声賦意図」(『美術研究』236号、1965年)、「研究資料 張四教筆新羅山人肖像―華嵒伝記の一資料」(同256号、1969年)がある。美術史学会、東方学会等に所属し、東方学会においては1987年から1999(平成11)年まで、秋山光和とともに同学会内に部会を組織し、同会内の美術史部会への道を開くなど、後進のために尽力し、長年の功績により2005年同会より功労者特別表彰を受けた。 『原色版美術ライブラリー0104 中国』(共著、みすず書房、1959年)『世界の美術10カルチュア版 中国の名画』(世界文化社、1977年)「邵宝題扁舟帰闕図私考」(『美術研究』248号、1967年)「研究資料 張四教筆新羅山人肖像―華嵒伝記の一資料―」(『美術研究』256号、1969年)「東洋館開館 宋元名画の数々」(『MUSEUM』212号、1968年)「研究資料 祁豸佳の生年」(『美術研究』269号、1970年)「祁豸佳の画蹟 上」(『美術研究』279号、1972年)「王鑑の画蹟(一)」(『美術研究』304号、1977年)

林巳奈夫

没年月日:2006/01/01

 東洋考古学者で、京都大学名誉教授、日本学士院会員の林巳奈夫は、1月1日、急性心不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年80。1925(大正14)年5月9日、神奈川県に生まれる。1950(昭和25)年京都大学文学部史学科考古学専攻を卒業し、平凡社編集部を経て、57年京都大学人文科学研究所助手として赴任。68年助教授となり、75年同研究所教授となる。同年に京都大学より文学博士学位を取得した。1989(平成元)年定年退官、京都大学名誉教授となり、2005年に学士院会員に選定された。86年からは泉屋博古館理事の職にあった。林は、青銅器、玉器の考古学的研究、漢代の画像石の図像学的研究などを中心に、中国新石器時代から漢時代までの文化について、幅広く論究した。資料観察を徹底する実証主義的な考古学と、広範な資史料の精緻な解読の双方の成果を総合させることにより、中国古代社会の諸相を浮かび上がらせた。まず林は、青銅器の考古学的研究に取り組んだ。初期の著作である『中国殷周時代の武器』(京都大学人文科学研究所、1972年)をはじめ、とりわけ『殷周時代青銅器の研究 殷周青銅器綜覧一』(吉川弘文館、1984年)、『殷周時代青銅器紋様の研究 殷周青銅器綜覧二』(同、1986年)、『春秋戦国時代青銅器の研究 殷周青銅器綜覧三』(同、1988年)の三部作は、中国青銅器研究が依拠すべき基本図書として、国内外で広く受け入れられている。『殷周時代青銅器の研究』(1984年)により、翌年学士院賞を受賞した。これらの研究では資料の網羅性が徹底されており、膨大な資料の形態分析と機能分析、そしてそれにもとづいた精緻な編年が行われている。こうした研究手法は、玉器の研究においても遺憾なく発揮されており、『中国古玉の研究』(吉川弘文館、1991年)、『中国古玉器総説』(同、1999年)に結実している。また、学部生の頃に興味を抱いたという画像石の研究に新しい方法を切り開いた。すなわち、拓本や写真図版では確認しづらい図像を線画に描き起こし、そのかたちや配置を分析するもので、その成果の一端は、『漢代の文物』(京都大学人文科学研究所、1976年)にまとめられている。これは、1970年より5年間、京都大学人文科学研究所で行われた「漢代文物の研究」という共同研究を基にしたものである。後世の範とされる漢時代の文化的諸相について、金石、古文書など、伝統的な文献史料以外の文字資料の解読と、遺物、図像資料の考証の双方から体系的に捉えたもので、考古学ばかりではなく多くの学問分野が依拠すべき重要な業績としてよく知られている。定年退官後も、次々と論考、著作を発表し、林の学術的探究は亡くなるまでとどまることはなかった。机の上には書きかけの原稿があり、近年発表されていた論文をもとに出版の準備を進めていたという。先述の著作のほか、『三代吉金文存器影参照目録 附小校経閣金文拓本目録』(大安、1967年)、『漢代の神神』(臨川書店、1989年)、『中国古代の生活史』(吉川弘文館、1992年)、『中国文明の誕生』(吉川弘文館、1995年)、『神と獣の紋様学 中国古代の神がみ』(吉川弘文館、2004年)などがある。

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