本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





松島健

没年月日:1998/02/27

 2月27日午後0時33分、胆嚢ガンのため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉病院で死去。文化庁美術工芸課主任文化財調査官を経て、東京国立文化財研究所情報資料部長を歴任。享年54。日本彫刻史。松島は昭和19(1944)年2月27日、東京で生まれた。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程において日本彫刻史を専攻。ことに鎌倉彫刻に関心を寄せ、修士論文『運慶の生涯と芸術』を大学に提出する。なお、この修士課程在学中の同43年から2年間、文化庁の調査員に採用されている。同45年4月、同大学院後期博士課程に進学するも5月1日、東京国立博物館学芸部資料課資料室に文部技官として採用され、これにともない大学院後期博士課程を退学する。同46年4月1日付で、学芸部美術課彫刻室併任となり、同48年8月1日付で、文化庁に出向、文化財保護部美術工芸課に転任。同55年10月1日付で文化財保護部美術工芸課文化財調査官に昇任する。同57年12月1日から86年5月31日まで文化財保護部美術工芸課文化財管理指導官を併任し、平成2(1990)年4月1日文化財保護部美術工芸課主任文化財調査官に昇任する。同8年4月1日付で東京国立文化財研究所情報資料部長に昇任した。  松島の日本彫刻史の研究者としての研鑽は文化庁文化財保護部美術工芸課時代に培われたものといっても過言でない。この文化庁時代の松島の仕事は文化財(彫刻)の指定および指定文化財の修理計画の立案と修理指導、保存施設事業計画の立案と実施指導、保存管理、文化財の公開活動など文化財保護行政の多岐にわたった。また職務の一環として中国における鑑真大師像回国巡展(昭和55年4月19日~5月24日)をはじめとして在職中、海外で開催された日本美術の展覧会において自ら日本彫刻の名品の選定に関わりその魅力を海外に伝えた功績は大きい。ことに平成2年、主任文化財調査官に昇任に昇進してからは彫刻部門の総括責任者として指定・保存・公開事業に強い指導力を発揮し、一時期中断していた仏像の国宝指定を積極的に推し進め、以後、仏像の国宝指定を再開させた功績は特筆されよう。この松島の文化庁での職務は美術史研究者としての方向性にもおおきく反映し、職務の傍ら現場において実査にもとづく知見に立脚した論を展開させていった。その関心の中心は大学院時代以来、終始一貫して鎌倉彫刻、ことに運慶にあったようで、その意味では同3年にイギリス大英博物館において行われた「鎌倉彫刻展」はかれのこれまでの研究活動に裏打ちされた作品選定がなされており、鎌倉時代の仏像をはじめてまとまった形で海外に紹介した展覧会としても高い評価を得た。また、同5年まで行われた東大寺南大門金剛力士像の本格的解体修理は主任文化財調査官として監督・監修に携わるとともに松島の彫刻史研究者としての生涯において大きな意味を持ち得たようである。この自らのなし得た仕事と金剛力士像・運慶への熱い思いは東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』(朝日新聞社、同9年)および、松島の死をもってうち切られることとなった産経新聞の紙面上での中世史学者・上横手雅敬との対論「運慶とその時代」(のちに文化庁文化財保護部美術工芸課時代の部下であった根立研介・現、京都大学文学部助教授によって『歴史ドラマランド・運慶の挑戦 中世の幕開けを演出した天才仏師』(文永堂、同11年)としてまとめられた)において窺われる。松島の研究者生活において転機となったのは同8年4月の東京国立文化財研究所へ情報資料部長としての移動であった。文化財の指定・保護という長年の激務から解放され研究者として研究活動に専念、その精力的な調査研究活動は周囲に万年青年ぶりを印象づけた。そのなかで松島が新たに取り組んだのは、ひとつは東京国立文化財研究所での情報資料部長という職掌を念頭においた国宝彫刻のCD-ROM版化であり、いまひとつは勢力的に調査・研究活動を行うなかで自らが見出した長野・仏法紹隆寺不動明王像の運慶作の可能性を探ることである。ことに後者は大学院時代以来のフィールドワークの中心に運慶があったことを窺うに足る。そして、翌同9年10月22日に開催された東京国立文化財研究所美術部情報資料部公開学術講座では、この仏法紹隆寺不動明王像の運慶作の可能性を「新発見の運慶様の不動明王像」と題して講演に及び自説を披露している。しかしながら、その頃、すでに癌は松島の身体を蝕みはじめ、病名について告知を受けながらもあえて延命治療は行わず、力の限り研究に邁進した。おしむらくは松島が最後に取り組んだ研究の内容が活字化をみなかったことである。12月には湘南鎌倉病院に再入院。翌2月27日に東京国立文化財研究所情報資料部長の現役のまま、54歳の生涯を終える。墓所は生前みずから選定した鎌倉・光觸寺とする。没後、東京国立文化財研究所時代に立案・監修にあたったCD-ROM版「国宝仏像」全5巻が完成をみる。なお美術史家河合正朝・慶應義塾大学文学部教授は義兄にあたる。編著書『名宝日本の美術5・興福寺』(小学館、昭和56年)、『日本の美術225・紀伊路の仏像』(至文堂、昭和60年)、『日本の美術239・地蔵菩薩像』(至文堂、昭和61年)、『KAMAKURA-The Renaissance of Japanese Sculpture(鎌倉時代の彫刻)』(British Museum Press、平成3年)、『東大寺南大門・国宝木造金剛力士像修復報告書』(東大寺、平成5年)『原色日本の美術9・中世寺院と鎌倉彫刻』(小学館、平成8年)、『大三島の神像』(大山祇神社、平成8年)、週間朝日百科『日本の国宝5・奈良薬師寺』(朝日新聞社、平成9年)、論文「興福寺十大弟子像」(『萌春』200、昭和46年)、「運慶小考」(『MUSEUM』244、昭和46年)、「鞍馬寺毘沙門三尊像について」(『MUSEUM』251、昭和47年)、「鎌倉彫刻在銘作品等年表」(『MUSEUM』296、昭和50年)、「吉祥天像」(『國華』991、昭和51年)、「地方における仏像の素材」(『林業新知識』753、昭和52年)、「立木仏について」(『林業新知識』754、昭和52年)、「千手観音像(旧食堂本尊)興福寺」(『國華』1000、昭和52年)、「慶禅作聖徳太子像・天洲寺」(『國華』1001、昭和52年)、「善導大師像来迎寺」(『國華』1001、昭和52年)、「日応寺の仏像(上・下)」(『國華』1011、1012、昭和53年)、「乾漆像の技法」(『歴史と地理』、昭和55年)、「東大寺金剛力士像(阿形・吽形の作者)」(『歴史と地理』、昭和55年)、「伊豆山権現像について」(『三浦古文化』、昭和56年)、「滝山寺聖観音・梵天・帝釈天像と運慶」(『美術史』112、昭和57年)、「道成寺の仏像―本尊千手観音像及び日光・月光菩薩像を中心にして-」(『仏教芸術』142、昭和57年)、「木造阿弥陀如来及両脇寺侍像」(『学叢』6、昭和59年)、「西園寺本尊考(上)」(『國華』1083、昭和60年)、「仏師快慶の研究」(『鹿島美術財団年報』3、昭和61年)、「地蔵菩薩像」(『國華』1097、昭和61年)、「天神像・荏柄天神社」(『國華』1099、昭和62年)、「奈良朝僧侶肖像彫刻論―鑑真像と行信像―」(『仏教芸術』176、昭和63年)、「石山寺多宝塔の快慶作本尊像」(『美術研究』341、昭和63年)、「円鑑禅師の寿像と造像」(『仏教芸術』181、昭和63年)、「書評と紹介・清水真澄著『中世彫刻史の研究』」(『日本歴史』493、平成元年)、「長楽寺の時宗祖師像」(『仏教芸術』185、平成元年)、「河内高貴寺弁財天像私見」(『國華』1147、平成3年)、「東大寺金剛力士像(吽形)の構造と製作工程」(『南都仏教』66、平成3年)、「東大寺金剛力士像(阿形)の構造と製作工程」(『南都仏教』68、平成5年)、「満昌寺鎮守御霊明神社安置の三浦義明像」(『三浦古文化』52、平成5年)、「興福寺の歴史」(『日本仏教美術の宝庫奈良・興福寺』展覧会図録概説、平成8年)、「臼杵摩崖仏の成立試論」(『國華』1215、平成9年)、随筆「平安初期の仏像―特別展平安時代の彫刻に寄せて」(『萌春』205、昭和46年)、「運慶とその時代(1・3・5・7・9)」(『産経新聞』平成8~9年)、「国宝の旅3・整形された仁王の顔」(『一冊の本』10、平成9年)、「解説薬師寺・藤原京から平城新京へ移転/薬師寺の移転をめぐる論争」(『週間朝日百科・日本の国宝005・奈良薬師寺』、平成9年)、「仁王像は“超大型のプラモデル”」(『一冊の本』15、平成9年)、作品解説「原色版解説・国宝梵天坐像」(『MUSEUM』246、昭和46年)、「原色版解説・家津美御子大神坐像」(『MUSEUM』247、昭和46年)、「原色版解説・毘沙門天立像」(『MUSEUM』248、昭和46年)、「口絵解説・鎌倉初期の慶派仏師の二作例」(『仏教芸術』96、昭和49年)、「千葉県君津市と富津市の彫刻」(『三浦古文化』16、昭和49年)、「国宝鑑賞シリーズ6大仏師定朝と鳳凰堂本尊」(『文化庁月報』182、昭和59年)、「国宝鑑賞シリーズ19木造十一面観音立像(国宝)」(『文化庁月報』195、昭和59年)、「男神坐像・京都府出雲大神宮―新国宝・重要文化財紹介」(『国立博物館ニュース』588、平成8年)、「そして一本の檜材に 寄木造り彫刻の構造と技法」(東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』朝日新聞社)、対論「運慶とその時代」(『歴史ドラマランド・運慶の挑戦 中世の幕開けを演出した天才仏師』文永堂)、CD-ROM版「国宝仏像」全5巻。

植村鷹千代

没年月日:1998/02/26

 美術評論家の植村鷹千代は2月26日午前0時42分、肺気腫のため東京都新宿区の病院で死去した。享年86。明治44(1911)年11月2日、奈良県高市郡高取町の旧華族の家に生まれる。昭和7(1932)年大阪外語学校仏文科を卒業。その後日本外事協会、南洋経済研究所に勤務、南方古美術の研究を担当するかたわら、同14年より評論活動を開始、美術評論の草分け的存在として活躍する。同18~20年同盟通信社に勤務。この時期、「決戦下における生産美術の指命について」(『画論』27号)など戦意高揚のための評論を執筆する。同22年、モダンアートの幅広い結束を求めて結成された日本アバンギャルド美術家クラブに代表員として参加、翌24年3月の『アトリエ』には「レアリテとレアリズム」を掲載し、いわゆる“リアリズム論争”に加わって前衛美術擁護の論陣を張った。同40年より日本大学芸術学部講師となるが、この頃から伝統や風土への復帰への論調が目立つようになった。同46年美術愛好会サロン・デ・ボザール会長に就任。同52年紫綬褒章受章。同57年から10年間文化勲章・文化功労者選考委員を務めた。主要著書に『現代美の構想』(生活社 昭和18年)、『現代絵画の感覚』(新人社 昭和23年)、『幻想四季』また翻訳に、ドラクロワ『芸術論』(創元社 昭和14年)、ハーバード・リード『芸術と環境』(梁塵社 昭和17年)、アルフレッド・H.バー・ジュニア『ピカソ 芸術の50年』(創元社 昭和27年)、ハーバード・リード『芸術による教育』(水沢孝策と共訳 美術出版社 昭和28年)、ハーバード・リード『今日の絵画』(新潮社 昭和28年)、ガートルード・スタイン『若きピカソのたたかい』(新潮社 昭和30年)がある。

北村哲郎

没年月日:1998/02/20

 元共立女子大学教授、元東京国立博物館学芸部長の北村哲郎は2月20日午後0時35分、肺癌のため千葉県船橋市の千葉徳洲会病院で死去した。享年76。大正10(1921)年9月21日東京に生まれる。昭和19(1944)年10月慶應義塾大学文学部芸術学科を卒業する。同22年2月帝室博物館臨時職員となり、同年6月国立博物館事務嘱託となり陳列課染織室につとめる。同24年6月文部技官となる。同27年7月京都国立博物館学芸課勤務となり同37年8月同館学芸課普及室長となる。同41年1月から7月までアメリカ、カナダでの日本古美術展に随行して両国へ滞在。同43年1月東京国立博物館学芸部資料課主任研究官、翌44年4月同館学芸部工芸課長、同50年4月同企画課、翌51年9月同学芸部長となる。同53年4月文化庁文化財保護部文化財鑑査官となり、同57年退官して共立女子大学家政学部教授となった。服飾・染色史、人形の研究を専門とし、朝廷などの儀式に着用する有職の染織品や能装束の研究家として知られた。著書に『日本の工芸 織』(淡交社 昭和41年)、『日本の美術 人形』(至文堂 昭和42年)などがある。

友部直

没年月日:1998/02/04

 共立女子大学名誉教授で遠山記念館館長をつとめた美術史家の友部直は2月4日午前7時47分、呼吸器疾患のため東京都板橋区の病院で死去した。享年73。大正13(1924)年10月14日、神奈川県に生まれる。昭和29(1954)年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業、同30年同大学助手となる。同31年共立女子大学文芸学部助手、同32年同大学専任講師に就任。同38年から39年までイギリスに留学し、ロンドン大学ウォーバーグ研究所でE.H.ゴンブリッチ教授に、大英博物館ギリシア・ローマ部でR.A.ヒキンズ博士に師事。同39年より共立女子大学文芸学部助教授、同45年より教授に就任、主にエジプト、古代地中海美術、および西欧工芸美術史について研究・執筆を続ける。同53~57年、同61~平成2(1990)年同大学文芸学部部長を、昭和57~61年同大学文学芸術研究所長を務める。平成3年から同9年まで遠山記念館館長に就任。同6年には共立女子大学名誉教授に推挙される。主要著書に『ヨーロッパのきりがみと影絵』(岩崎美術社 昭和54年)、『美術史と美術理論』(放送大学教育振興会 平成3年)、『エーゲ海 美の旅』(小学館 平成8年)、また翻訳にE.H.ゴンブリッチ『美術の歩み』(美術出版社 昭和47、49年)、ニコラウス・ペヴスナー『英国美術の英国性』(蛭川久康と共訳 岩崎美術社 昭和56年) がある。

佐竹徳

没年月日:1998/02/03

 日本芸術院会員の洋画家佐竹徳は2月3日午前9時3分、肺炎のため、岡山市の岡村一心堂病院で死去した。享年100。明治30(1897)年11月11日、大阪に生まれる。本名徳次郎。関西美術院で鹿子木孟郎に学び、後に上京して川端画学校で藤島武二に学ぶ。安井曽太郎にも師事した。大正6(1917)年、第11回文展に「清き朝」で初入選。同9年第2回帝展に「並樹」「静物」の2点が入選。同10年第3回帝展に「静物」を出品して特選受賞。この年、坂田一男からセザンヌ画集を見せられ感動する。同12年関東大震災の救済のために神戸から上京したキリスト教社会運動家賀川豊彦の講演を聞いて共感し、クリスチャンとなり、自然を神の造化として謙虚に見る姿勢を確立する。昭和4(1929)年第10回目帝展に「ダリア」を出品して再度特選となった。同5年帝展無鑑査となり、また、同年第11回帝展出品作「巌」で3回目の特選を受賞した。戦後も同21年第1回日展に「竹園」を出品して特選となり、その後も日展に出品を続けた。同24年頃から十和田奥入瀬の風景に魅せられ、長期滞在して制作。その後も風景を主なモティーフとした。同34年、セザンヌの作品に触発されて、赤土と青緑色のオリーブが織りなす岡山県牛窓の風景を好んで、同地にアトリエを構える。同42年第10回目新日展に牛窓風景に取材した「オリーブと海」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。翌43年同作品により第24回日本芸術院賞を受賞し、同年日本芸術院会員となった。同44年社団法人日展の改組が行われ、あらたに理事に選出されて同48年まで在任。退任にあたり参与への就任を固辞して会員としてとどまった。同61年4月「リージョンプラザ・上田創造館快感記念小山啓三、佐竹徳二人展」年が開催され、翌年東京の日動サロンおよび大阪日動画廊で「佐竹徳展」が開催された。平成元(1989)年第1回中村彝賞を受賞。同3年には茨城県近代美術館で「鈴木良三・佐竹徳展」が開催された。自然の素直な観照を緊密な構図、穏やかな色調で表現した。

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