本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





田村一男

没年月日:1997/07/10

 洋画家で、文化功労者の田村一男は、7月10日午前5時48分、心不全のため新宿区の病院で死去した。享年92。明治37(1904)年12月4日、東京府豊多摩郡中野町に生まれる。大正13(1924)年、磯谷商店に入店し、額縁作りに従事し、また岡田三郎助が主宰する本郷絵画研究所に入り、絵画を学んだ。昭和3(1928)年、第9回帝展に「赤山の午後」を初出品して、初入選をはたした。同6年、第18回光風会展に、「松の木風景」など3点が入選し、翌年磯谷商店を退き、中野区江古田にアトリエを構え、ここで終生制作をつづけることになる。同15年、光風会会員となり、同21年には同会の事務所を引継ぎ、自宅においた。また、同年の第2回日展に「高原初秋」を出品、特選となった。44年、社団法人日展の改組により、理事となり、後に参事、顧問をつとめた。同38年、第19回日本芸術院賞を受賞。同55年、日本芸術院会員となる。同57年、朝日新聞社より、「田村一男画集」を刊行。同61年には、長野県信濃美術館において「信州の風景画 田村一男・心象画の世界」展が開催された。平成4(1992)年、文化功労者に選ばれた。一貫して、山岳風景画を制作し、それは次第に写実性をはなれ、簡潔な構成と深い色彩による象徴的な風景画へと展開し、独自の恬淡とした画風を形成して評価された。

川口精六

没年月日:1997/07/07

 立軌会同人で幻想的な作風で知られた洋画家の川口精六は7月7日午前9時、脳こうそくのため千葉県柏市の病院で死去した。享年94。明治40(1907)年1月10日、群馬県前橋市文京町に生まれる。昭和6(1931)年川端画学校を修了し、10年第22回光風会展に「ホロホロ鳥」で初入選する。同12年第12回国画会展に「霜枯れの池隅」で初入選する。昭和14年第11回第一美術展で奨励賞受賞するが、同18年第一美術協会を退会する。以後自由美術協会展に出品し、同会会員となるが、同38年同会を退会。日本実在派展にも一時参加する。同46年立軌会会員となり、以後立軌展に出品を続けた。同46年に開かれた「現代の幻想絵画展」(朝日新聞社主催)に出品した「蛾A」「蛾B」などの一連の「蛾」のシリーズで知られ、蟻や蛾などの昆虫の群れをモティーフに想像の世界を絵画化した。

福島秀子

没年月日:1997/07/02

 画家の福島秀子(本名愛子)は、7月2日午前4時、肺ガンのため東京都小金井市の病院で死去した。享年70。東京都の出身、文化学院卒業後の昭和26(1951)年、秋山邦晴、北代省三、山口勝弘、鈴木博義、武満徹、福島和夫とともに、美術と音楽の領域を越えて、新たな芸術表現をめざす前衛集団「実験工房」を結成、これに参加した。この年の11月に開かれた第1回発表会では、前衛バレエ「生きる悦び」を上演、この美術を山口、北代とともに担当した。毎回の発表会では、それぞれがワークショップ的に参加、文字どおり実験的な表現を試み、総合的な芸術がめざされた。29年には、実験工房「シェーンベルグ作品演奏会」が開かれ、「月に憑かれたピエロ」など、全曲日本での初演となった。福島は、その舞台衣裳を担当した。また、戦後から抽象表現を試みていた福島は、画家としても、絵筆をつかわず、円形の型を推して画面を構成する抽象絵画を制作して、注目されていた。

石川陸郎

没年月日:1997/06/28

 東京国立博物館保存修復管理官の石川陸郎は6月28日午後3時20分、転倒による頭蓋内損傷のため東京都新宿区の病院で死去した。享年61。昭和11(1936)年4月10日、東京池袋に生まれる。同18年東京市池袋第六国民学校に入学するが、戦火による校舎焼失のため同校が廃校になり、同21年より池袋第二小学校に通う。同24年同校を卒業して東京都豊島区立池袋中学校に入学。同27年同校を卒業。同30年東京都立北高校を卒業し、同31年東京理科大学Ⅱ部理学部化学科に入学する。翌32年東京国立文化財研究所技術補佐員に採用され、物理研究室でX線撮影の研究に従事し、同年同所保存科学部の登石健三と共著で「日本魔鏡の一例」(『古文化財之科学』第15号)を発表。同34年から鎌倉大仏修復にともなうガンマー線撮影等に従事し、その後も、各地の古社寺の建造物や所蔵品の光学的調査を行った。同37年4月同研究所保存科学部物理研究室に配置換えとなる。同39年東京理科大学Ⅱ部理学部化学科を卒業。同年7月同研究所保存科学部文部技官に任官される。同41年に博物館の展示照明および博物館環境の研究を開始し、同40年代後半から多くなった美術館博物館の新設に伴い、その環境調査を実施した。同50年赤外線テレビカメラを文化財調査に応用し、これが後の漆紙文書の発見につながった。同54年10月同所保存科学部主任研究官となり、平成5(1993)年4月東京国立博物館学芸部保存修復管理官に任ぜられた。同6年3月末まで東京国立文化財研究所保存科学部と併任した。同年東京国立博物館平成館が着工されると、保存科学の立場から展示室・収蔵庫の保存環境整備設計に関与した。温室度、照明、PHなど多様な観点から理想的な博物館・美術館の保存・展示環境を考察し、130余館へ助言、協力を行った。また、東京国立文化財研究所主催による博物館美術館等保存担当学芸員実習を担当し、保存科学の教育・普及につとめたほか、平成8年から日本大学文理学部非常勤講師として保存科学概論を講じた。平成3年には韓国国立文化財研究所の招へいにより博物館環境に関する研究交流を行うなど、国際的にも活動した。主な調査に、昭和45年国宝如庵の解体移築に伴う解体前の構造および腐朽状態調査、同62年中尊寺金色堂の環境調査などがある。没後、『石川陸郎遺稿集』(石川陸郎遺稿集刊行会 平成10年6月)が刊行されている。

月岡榮貴

没年月日:1997/06/21

 日本画家で日本美術院同人・評議員の月岡榮貴は6月21日午前9時35分、肺炎のため神奈川県横須賀市の病院で死去した。享年81。大正5(1916)年4月22日、東京の切金砂子師の家に生まれる。本名榮吉。初め太平洋美術学校で油絵を学んだのち、昭和12(1937)年東京美術学校日本画科に入学、とくに人物画いおいてそのデッサン力を発揮する。同17年同校を卒業し、前田青邨に師事。同23年第33回院展に「漁夫」が初入選し、以後院展に出品する。同26年院友となり、同31年第41回院展「幕間」、同32年第42回「和楽」、同43年第53回「竹取」、同47年第57回「鉢かつぎ姫」、同50年第60回「白夢」、同54年第64回「念(耳なし芳一より)」、同55年第65回「愛鳥図」がいずれも奨励賞を受賞。同56年第66回「やまたのおろち(古事記より)」は日本美術院賞を受け、同年同人に推挙。同57年第67回展出品作「風神雷神」にみられるような、古典的な題材ではりのある描線を駆使した力強い作風を展開した。この間、41年法隆寺金堂壁画再現模写事業、同48年高松塚古墳壁画模写事業に参加し、同45年からは愛知県立芸術大学で講師をつとめた。また同53年より東京裕天寺奥書院の襖絵を、平成元年には建長寺妙高院の天井画を制作している。

麻田浩

没年月日:1997/06/20

 洋画家の麻田浩は6月20日午前10時30分頃、自宅アトリエで死んでいるのを家人によって発見された。家族によると遺書があり、自殺とみられる。享年65。昭和6(1931)年10月27日、京都市に生まれる。日本画家の父(麻田辨二)と兄(麻田鷹司)をもつ。同26年、同志社大学に入学し、学内の美術クラブで絵を描き始めるが、まもなく本格的に絵画を学ぶため、新制作派協会に出品していた桑田道夫に師事する。同29年、新制作展に初入選。同30年、同志社大学経済学部卒業後、株式会社大丸に37年まで勤務。同39年、大阪・あの画廊において初個展。同40年より藤川デザイン学院(現京都芸短大)講師となる。同43年、新制作協会の会員に推される。同44年より成安女子短期大学講師、京都市立芸術大学教授を務める。同46年、国際形象展に出品(以後毎回出品)。京都よりパリに居を移し、油彩画制作と各種展覧会に出品のかたわら、フリードランデルについて銅版画を学ぶ。同49年、フランス・カーニュ・シュール・メール国際絵画フェスティバルに招待出品、プリ・ナショナル賞受賞。50年、安井賞展佳作賞受賞。同51年、ベルギー・オステンド・ヨーロッパ絵画展第2位賞受賞。パリ・ギャルリー・ロプシディエンヌにて個展。以後、パリをはじめヨーロッパの幾つかの都市で個展を持つ。同52年、カンヌ国際版画芸術ビエンナーレ銅版画部門第一位賞受賞。サロン・ドートンヌ会員に推挙される。同54年、明日への具賞展に出品(以後、毎回出品)。ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール会員に推挙される。同55年、クラコー国際版画ビエンナーレ展第三位賞受賞。フランス・アールザン・イヴリーヌ展に招待出品、グラン・プリ第二席受賞。同57年、京都に戻り住む。同58年、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール展プリ・アンリ・ファルマン受賞。同60年、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール展プリ・アルフレッド・シスレー受賞。平成元年、その超現実主義的な作風が評価され第2回京都美術文化賞受賞、翌年に受賞記念展を京都文化博物館で行う。同3年、ニューヨーク・ギャラリー・ためながにて個展。同5年、IMA絵画の今日展に同人として出品。同7年、宮本三郎記念賞を受賞、日本橋三越と京都大丸で受賞記念展が開催された。

赤根和生

没年月日:1997/05/26

 美術評論家で、元大阪芸術大学教授の赤根和生は、下咽頭ガンのため5月26日午前6時20分、神戸市灘区の六甲病院で死去した。享年72。大正13(1924)年6月8日、秋田県秋田市に生まれ、昭和23(1948)年東京外国語大学イタリア語学科を卒業後、オランダ国立美術史研究所に留学した。帰国後、同45年の大阪万国博覧会では、現代美術部門の企画を担当し、同47年にはドイツ、カッセル市におかるドクメンタ・5で、日本代表コミッショナーをつとめた。また、国立国際美術館運営委員、兵庫県立近代美術館審美委員、神戸須磨離宮公園野外彫刻展選考委員などを歴任した。美術研究の面では、モンドリアン研究に専念し、日本で初めての本格的な評伝「ピート・モンドリアンーその人と芸術」(美術出版社、1971年)をはじめ、訳編「自然から抽象へ モンドリアン論集」(モンドリアン著、美術出版社、1975年)、訳「抽象への意志 モンドリアンとデ・ステイル」(ハンス・ルードヴィッヒ・ヤッフェ著、朝日出版社、1984年)を残し、その研究は国際的にも評価された。

大沢昌助

没年月日:1997/05/15

 明快な色調の抽象画で知られた画家大沢昌助は5月15日午前9時、急性心筋梗塞のため東京都大田区田園調布の自宅で死去した。享年93。明治36(1903)年9月24日、東京三綱町に生まれる。父は東京美術学校図案科の教授となった大沢三之助。御田小学校、御田高等小学校、芝中学校を経に学び、この間、絵に興味を抱いていた父から水彩画を学び、また、父の蔵書によって西欧美術に触れる機会を持った。父の交遊する富本憲吉、バーナード・リーチ、高村光太郎らを幼少から知るなど、美術に親しむ環境のなかで育つ。大正11(1922)年、東京美術学校西洋画科に入学し、長原孝太郎、小林万吾にデッサンを学んだ後、藤島武二教室に入る。昭和3(1928)年同校西洋画科を首席で卒業。同4年第16回二科展に「丘上の少年」「青衣の像」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同9年、昭和3年の東京美術学校西洋画科卒業生による「三春会」が設立され同年その第1回展に「松」「梅林」「婦人像」を出品し、以後、同展にも出品を続ける。同11年第8回新美術家協会展に「作品A」「作品B」「作品C」「作品D」「作品E」「作品F」を初出品し、同年同会会員となる。同13年第25回二科展に「河岸」「夏の日」を出品して特待となる。同15年紀元2600年奉祝展に「入江のほとり」を出品。同年第27回二科展に「岩と人」「岩と花」を出品して会友に推挙される。同17年第29回二科展に「波」「運河」を出品して二科賞受賞。翌年同会会員となる。戦後は二科展の再建に会員として参加し、同展に出品を続ける。また、同22年から同26年まで美術団体連合展にも出品する。同27年第1回日本国際美術展に「夕暮」「不安の群像」を出品して以後、同展に出品を続け、また、同29年第1回現代日本美術展に「荒地の人」「化石の森」を出品して以後、同展にも出品を続ける。同年多摩美術大学教授となる。戦前から人物を主要なモティーフとし、堅実な写実を基本とする作品を描いていたが、同30年代に対象の形態、色彩を簡略化してとらえ、画面上で再構成する抽象的な作風に移行。同40年代には簡潔な線、明快な色面、大胆な構図による斬新な作品を描いた。同42年第52回二科展に「曲線風景」「白黒の像」を出品して青児賞を受賞。同45年同大学を退職。同56年池田二十世紀美術館で「大沢昌助の世界展」を開催する。同57年二科会を退会。以後、個展を中心に作品を発表した。平成3(1991)年9月、練馬区立美術館で「大沢昌助展」が開催されており、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。

亀倉雄策

没年月日:1997/05/11

 グラフィックデザイナーで、文化功労者の亀倉雄策は、5月11日、心不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年82。大正4(1915)年4月6日、新潟県西蒲原郡吉田町に生まれた。旧制日大第二中学校卒業後の昭和10(1935)年に、川喜田煉七郎が主宰する新建築工芸学院で、バウハウス流の基礎的な構成理論と方法論を学んだ。同13年、日本工房に入社、写真家名取洋之助のもと、デザイナー河野鷹思、そして友人であった写真家土門拳とともに、海外向けのグラフ雑誌の編集にたずさわった。戦後の同26年には、公告美術を、単なる商品宣伝から、社会的、文化的な意味をも担わせる目的から、全国のデザイナーを糾合する団体日本宣伝美術会(日宣美)の創立に、呼びかけの人のひとりとして参画した。同会は、公募展を主催するなど、戦後日本のグラフィックデザインの水準を上げ、裾野をひろげたことで大きな功績があった。また、デザイナーとしての亀倉の才能が発揮されるのも、50年代から60年代にかけてであり、代表的な作品には、直線と曲線を駆使し斬新な構成をしめした日本光学(NIKON)のカメラの一連のポスター、そして写真を使用して力動感と競技の一瞬の緊迫感をストレートに表現した東京オリンピックのポスターがあり、ことに後者は、同41年の第一回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレにおいて芸術特別賞を受賞し、国際的にも高い評価を得た。以後、同45年の万国博覧会、同47年の札幌オリンピック冬季大会の公式ポスターを手がけ、内外にその名がひろく知られるようになった。同53年に日本グラフィックデザイナー協会の創立に参加し、会長に就任するなど、70年代から80年代にかけては、デザイナーとして活躍する一方で、デザイン会のリーダーとして中心的な役割をはたした。同59年には、毎日芸術賞の美術部門賞を受賞し、平成3(1991)年には、文化功労者に選出された。同8年には、東京国立近代美術館フィルムセンターで、戦後からの代表作93点からなる「亀倉雄策のポスター」展が開催され、それぞれの時代にあって人々の感覚と嗜好を先取りし、社会的にも文化的にも、メルクマールとなるようなポスターの数々が回顧された。

乗松巌

没年月日:1997/05/11

 二科会名誉理事で女子美術大学名誉教授の彫刻家乗松巌は、5月11日午後8時22分、老衰のため松山市の病院で死去した。享年86。明治43(1910)年5月23日、愛媛県松山市に生まれる。昭和4(1929)年松山中学校を卒業し、同10年東京美術学校図案科を卒業する。その後、水野欣三郎に師事して彫刻に志す。同13年第25回二科展に「首」で初入選。同16年第28回同展に「女」「若い女」を出品して二科賞を受賞。同18年第6回新文展に「立像」を出品し、戦後第2回日展に「婦人頭像」を出品して戦中、戦後の一時期、官展に参加している。しかし、同25年に二科会に復帰し同会会員となる。同28年第38回同展に「恐怖の均衡」の連作である「シジフオス」「ひと」「おんな」を出品して会員努力賞を受賞。同35年に渡欧し約6ケ月間滞在し、この間、イタリア、ギリシャの古典彫刻に注目して研究した。同50年第60回二科展に「道」連作中の「使者」2点を出品して東郷青児賞を受賞。同55年第65回同展に「魅惑の果て」「シーシュポス」などを出品して二科会文部大臣賞を受賞する。同56年郷里の愛媛県立美術館で弟乗松俊行と兄弟展「彫刻と備前焼展」を開催し、また同年東京のストライプハウス美術館で個展を開いた。ヨーロッパをはじめ、中近東、アフリカ、アメリカなど世界の原始から近世におよぶ美術の源流に興味を抱き、たびたび海外へ遊学、特にヒルデブラントの「造形における形式の問題」に関心を抱いていた。同21年から女子美術大学で教鞭を取り、同28年より同教授をつとめ、ながく後進の指導にもあたった。平成6(1993)年10月松山市小坂に乗松巌記念館「エスパス21」が開館されている。

増田洋

没年月日:1997/05/11

 美術評論家の増田洋は、5月11日午後9時33分、食道ガンのため死去した。享年64。昭和7(1932)年6月17日、兵庫県神戸市に生まれ、同31年に神戸大学文学部哲学科芸術学専攻を卒業後、同年に石橋美術館の学芸員となり、同35年からは大阪市立美術館学芸員に転任した。同44年兵庫県立近代美術館学芸課長に赴任した。同61年、同美術館次長となり、平成6年には参与となった。編著書に「小出楢重」(日本の名画17巻 中央公論社)、「平福百穂・富田溪仙」(共著 現代日本美術全集2巻 集英社)、「小磯良平油彩作品全集」(求龍堂)、「小磯良平」(現代日本素描全集9巻 ぎょうせい)、「向井潤吉・小磯良平」(共著 20世紀日本の美術17巻 集英社)などがある。こうした美術研究のかたわら、美術館学芸員として、37年間一貫して現場から発言をつづけ、それらは「学芸員のひとりごと」(増補新装版 芸艸堂)としてまとめられた。

末松正樹

没年月日:1997/04/28

 画家で、多摩美術大学名誉教授の末松正樹は、4月28日午後5時53分、脳出血のため東京都品川区の病院で死去した。享年88。明治41(1908)年8月28日、新潟県新発田市に生まれた。軍人であり、後に教職についた父四郎に従い、秋田市、朝鮮江原道春川、新潟市、宮崎市で幼少時代をすごした。中学時代から、美術や文学に親しむようになり、昭和2(1927)年に山口高等学校に進学した後も、芸術を愛好する仲間たちと絵画や詩をつくっていた。高等学校卒業後の同8年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわら日本に紹介されはじめたノイエ・タンツなどの前衛舞踏に関心をもち、舞踏家とも交友するようになり、また同11年には、滝口修造が中心となって組織された「アヴァンガルド芸術家クラブ」に参加した。同14年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。翌年、第二次世界大戦がはげしくなり、日本人画家が帰国するなかパリに留まっていたが、ドイツ軍の進駐を逃れて、マルセイユに移り、同地の日本領事館で働いた。同19年、マルセイユも危険となり、スペインに逃れようとするが、捕虜として警察に拘留された。同21年、復員船で帰国。この年の11月、パリ在住時代親しくしていた井上長三郎に再会し、ついで松本竣介、麻生三郎とも親しくなり、その縁から22年自由美術家協会に参加し、会員となった。また、帰国直後には、大戦中のヨーロッパ美術の動向を知る唯一の画家として、新聞、雑誌にヨーロッパ美術に関する記事を寄稿した。同29年再渡欧、フランスのプロヴァンス地方を訪れたことが契機となり、それまでの半抽象的な群像表現から、光を意識した色彩による流動的な抽象表現へと画風が変化した。同39年、自由美術家協会を退会し、主体美術協会結成に参加し、会員となる。同44年、福沢一郎の後任として、多摩美術大学学長代行に就任したが、翌年退任。平成4年、板橋区立美術館で「末松正樹-その抽象と舞踏の時代」展が開催され、初期から近作まで126点によって回顧された。

村上炳人

没年月日:1997/03/28

 二科会理事の彫刻家村上炳人は3月28日午前2時18分、脳こうそくのため京都市西京区のシミズ病院で死去した。享年81。大正5(1916)年2月25日、富山県高岡市佐野の浄土真宗の寺に生まれる。本名丙(あきら)。昭和8(1933)年富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を卒業して上京し、平櫛田中の内弟子となる。同9年日本美術院春季展に初入選。同12年第24回院展に「鹿」で初入選し、以後同展に入選を続け、同17年9月院友となる。同12年より15年まで、および同18年より21年まで戦地に赴く。帰国後、京都に住んで古社寺をめぐり彫刻研究を進め、一方、連年院展に出品を続けた。同24年第34回院展に「青年像」を出品して奨励賞、同25年第35回同展に夫人をモデルにした「婦女像」を出品して同じく奨励賞を受賞。同28年の同展小品展でも奨励賞を受賞している。この間、同28年より29年まで石井鶴三の主導による法隆寺金堂の復元事業に参加。院展には第43回展まで連続入選するが、抽象彫刻への興味が高まり、同32年「献水」を院展に出品したのを最後に同34年、日本美術院を退会して二紀会に参加し、以後、同展に出品を続けた。同36年第15回二紀展に「道化」「人間模様」を出品して同人優賞受賞。同30年代から40年代にかけて抽象彫刻の研究を進める一方で、同36年より38年まで大阪四天王寺金堂本尊救世観音菩薩像を、引き続き同39年より翌年まで同寺八角大灯篭を制作するなど、古典的仏教彫刻や具象的な作品も制作している。同48年第27回二紀展に「つめこまれたちえぶくろ」「文化人間」を出品して菊花賞受賞。同50年代には再度具象的な表現にもどり、抽象彫刻で培った幾何学的な形態の構成力をもとに、対象のかたちを再構築する作品を制作。同52年二紀会評議員となり、同55年二紀会理事となった。この間、同54年東京都銀座の和光ホールで第1回目の個展を開催。同57年京都朝日新聞社の朝日画廊で個展を開催する。同59年第38回二紀展に化粧する舞妓をモティーフとした「esquisse」を出品して文部大臣賞を受賞。同61年東京銀座和光で第2回個展、平成5年には同所で第3回個展を開催した。抽象彫刻を制作しはじめてから、公共空間のための作品やモニュメントをも手がけ、富山市制80周年記念のための壁面彫刻「め」(昭和55-56年)、大分市平和祈念像「ムッちゃん」(同57-58年)、尼崎市近松公園の「近松門左衛門像」(同60-61年)、大分市総合彫刻「宇宙曼荼羅」などの作例がある。平成8年7月、郷里の高岡市美術館で「村上炳人展 日本の心を刻む造形への執念」展が開催されている。逝去は同展準備中のことであった。

神原泰

没年月日:1997/03/28

 画家・詩人として大正期の前衛芸術運動の指導者として活躍した神原泰は3月28日午後9時2分、心不全のため横浜市南区の佐藤病院で死去した。享年99。明治31(1898)年東京に生まれる。白樺派の正親町公和、園池公致と従兄弟であり、父親同士が親しかったことから有島生馬と幼少期から親交があり、雑誌「白樺」に紹介された西洋美術の新しい動向に早くから興味を抱いた。大正4(1915)年4月号の「美術新報」に掲載されたウンベルト・ボッチオーニ著・有島生馬訳の「印象派対未来派」に啓発されてマリネッティと直接文通するなど、積極的に未来派の研究を進めた。同6年に雑誌『新潮』や『ワルト』などに強烈な色彩と運動感をうたった未来派的な詩を発表。同年第4回二科展に「麗はしき市街、おゝ複雑ないらだちよ」で初入選。同年石油会社に入社し社員として勤務するかたわら、二科展に出品を続ける。同9年10月に東京丸の内の鉄道協会で「生命の流動、音楽的創造」と題して個展を開催し、同時に「第1回神原泰宣言」を発表。当時の画界を激しく批判して注目をあつめた。同11年中川紀元、矢部友衛らとともに、二科会で未来派的作品を発表していた古賀春江、横山潤之助や未来派美術協会に参加していた浅野孟府らに呼びかけて美術団体「アクション」を結成。同12年4月東京三越呉服店7階で「『アクション』第1回造形美術展覧会」を開催し、その作品目録に「『アクション』同人宣言書」を発表した。同宣言は「アクション」が同じ主義を持つ作家の集団ではなく、「前衛たらんとする熱情と喜び」を共にする団体であることをうたっているが、同13年10月に解散する。同月、神原を含む同会の同人の一部を中心に美術団体「三科」が結成される。また、同年11月に「造型」が結成されるとこれにも参加した。同14年アルス社から『ピカソ』を刊行。同年イデア書院から『未来派研究』を刊行する。昭和2(1927)年、「造型」が「造型美術家協会」に再編成されると同会には参加せず、以後、美術界の最前線からは距離をおいた。その後の作品の発表としては、同8年東京神田三省堂で「鎌倉の最後のハイカラな海辺風景」と題する個展があるが、出品作に海水浴風景などが含まれていたため、時節に不適切であるとして即日閉会となり、作品はすべて警視庁に没収された。同11年東京銀座伊東屋で検挙・拷問ののち難渋する岡本唐貴を援助する趣旨で開かれた「画友展覧会」に油彩画2点、素描1点を出品。戦後の同47年5月に東京銀座の日動サロンで「シンガポール・乳房-神原泰絵画展」が開かれ、同61年東京の南天子画廊で「神原泰 戦後作品自選展」が開催されて、大正期の抽象表現を基盤として継続されてきた画業が紹介された。神原は「人類の美術史上初めて絵画である絵画をつくった」画家として、パブロ・ピカソを高く評価し、生涯その研究・紹介に努め、そうした活動のなかで収集した蔵書のすべてを、昭和50年前後に岡山県倉敷市の大原美術館に寄贈した。平成2(1990)年、大原美術館から「神原泰文庫目録」が刊行されている。前述以外の著書に『ピカソ礼賛』(岩波書店 昭和52年)などがある。一方、石油業界でも活躍し、昭和53年に石油統計の業績により第1回大内賞を受賞したほか、世界石油会議日本国内事務局長などを歴任した。

池田満寿夫

没年月日:1997/03/08

 版画家で、小説執筆、映画監督など多分野にわたり多彩な活動をつづけた池田満寿夫は、急性心不全のため死去した。享年63。昭和9(1934)年旧満州国奉天市に生まれ、昭和20年に郷里の長野県長野市に帰り、この地で成長。昭和27年、18歳で上京、東京芸術大学を受験するが、不合格となった。昭和30年、既成の美術団体を否定したグループ「実在者」の結成に参加、この年、同グループの靉嘔の紹介により瑛九を知った。翌年、瑛九主宰のデモクラート美術家協会会員となり、また瑛九の助言により色彩銅版画をはじめた。昭和32年、美術評論家で、コレクターであった久保貞次郎を知り、彼から援助をうけるようになり、この年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展公募部門に「太陽と女」が初入選した。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に「女の肖像」、「女 動物たち」、「女」3点を出品、ドライポイントとアクアチントを併用した銅版技法で、繊細だが、奔放な線描による作品がドイツの美術評論家ヴィル・グローマンの推薦をえて、文部大臣賞を受賞、一躍注目されるようになった。同37年の第3回展では東京都知事賞を受賞、ニューヨーク近代美術館版画部長で、同展の国際審査員ヴィリアム・S・リーバーマンにみとめられた。同39年の第4回展では、「夏」、「私は何も食べたくない」、「化粧する女」の3点によって国立近代美術館賞を受賞。この連続の受賞によって、国内外で広くみとめられるようになり、翌年にはニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展「Prints of MASUO IKEDA」を開催した。同41年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門において、28点の出品作品により大賞を受賞した。翌年、第17回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また、制作の場も、ヨーロッパ各地やニューヨークなどにうつし、精力的に制作をつづけた。この70年代の作品では、雑誌写真などグラッフィックなイメージを画面にとりこみながら、エロチィックなイメージが追求されていた。そして「スフィンクス」、「ヴィーナス」など、銅版画の技法をこらした緻密な表現によるシリーズが生まれた。しかし、帰国後の同51年にはリトグラフ「マンゴ」などにみられるように、一転して奔放でスピード感のある線描があらわれ、さらに琳派への関心から日本回帰を感じさせる平面作品を制作するようになった。また、同52年には小説「エーゲ海に捧ぐ」によって、第77回芥川賞を受賞、翌年には、原作、脚本、監督を担当して、映画「エーゲ海に捧ぐ」を制作した。同58年頃から、作陶をはじめ、翌年からはブロンズ制作もこころみるようになった。同61年には、国立国会図書館新館1階にタペストリー・コラージュ「天の岩戸」を設置。このように創作活動は多岐にわたるようになり、版画制作でも、平成元(1898)年には、コンピューター・グラッフィックによる版画を発表、つねに旺盛な創作活動をつづけた。戦後からの現代版画において、国内外にひろく知られた代表的な作家のひとりであり、その晩年は、マルチ・タレントとしてテレビなどマスコミにも登場し、また作風もピカソを意識していたといわれるように変化しつづけた。没後の同9年4月には、長野県松代町に池田満寿夫美術館が開館、「追悼 池田満寿夫展 初期から絶作まで」が開催された。

守田公夫

没年月日:1997/03/07

 奈良国立文化財研究所工芸室長をつとめた染織史家守田公夫は3月7日午後3時36分、肺炎のため神奈川県厚木市の病院で死去した。享年89。明治41(1908)年2月15日、熊本県に生まれる。昭和2(1927)福岡県立小倉中学校を卒業し、翌3年4月弘前高等学校文科甲類に入学。同6年同校を卒業して東京帝国大学文学部に入学する。同大学在学中の同8年8月、帝室博物館(現・東京国立博物館)研究員となり同館美術課に配属となった。同9年同大学文学部美学美術史学科を卒業。同15年同館研究員を免ぜられるとともに、同館勤務を命じられる。同20年5月、博物館を依願免官となり、戦後は、同23年から同26年まで繊維貿易公団に勤務する。同27年9月、奈良国立文化財研究所美術工芸室勤務となり、同36年同所美術工芸研究室長となった。この間、同30年から奈良女子大学非常勤講師をつとめる。このほか、日本伝統工芸展審査員、滋賀県文化財専門委員、京都府文化財専門委員、龍村美術織物顧問、永青文庫評議員をつとめ、聖母女子大学でも教鞭をとった。同45年奈良国立文化財研究所を停年退官した。著書に『日本の染織』(アルス社)、『日本の文様』(アルス社)、『名物裂』(淡交社)、『日本絵巻物全集 北野天神絵巻」(角川書店)、『日本被服文化史』(柴田書店)などがある。

岡田隆彦

没年月日:1997/02/26

 美術評論家、詩人で慶應大学環境情報学部教授の岡田隆彦は、2月26日午後2時5分、下咽頭ガンのため、埼玉県富士見市の三浦病院で死去した。享年57。慶應大学文学部仏文科在学中に、吉増剛造、井上輝夫らと詩誌「ドラムカン」を創刊、詩集「史乃命」などで60年代を代表する詩人のひとりと目された。昭和60(1985)年には、詩集「時に岸なし」(思潮社)によって第16回高見順賞を受賞した。一方、東京造形大学教授、「三田文学」編集長、美術評論家連盟事務局長などをつとめ、近現代美術を中心とする美術評論も積極的に執筆した。主要な美術に関する著作、翻訳は下記のとおりである。「日本の世紀末」(小沢書店、1976年)、「ウィリアム・モリスとその仲間たち」(岩崎美術社、1978年)、「美術散歩50章」(大和書房、1979年)、「かたちの発見」(小沢書店、1981年)、「ラファエル前派」(美術公論社、1984年)、「現代美術の流れ」(エドワード・ルーシー・スミス著、水沢勉共訳、パルコ出版局、1986年)、「アーシル・ゴーキー」(メルヴィン・P・レーダー著、篠田達美共訳、美術出版社、1989年)、「ラファエル前派の夢」(ティモシー・ヒルトン著、篠田達美共訳、白水社、1992年)、「芸術の生活化」(小沢書店、1993年)。

川田清

没年月日:1997/01/27

 国画会彫刻部会員の川田清は1月27日午後10時50分、がん性悪液質のため東京都新宿区の病院で死去した。享年65。昭和7(1932)年1月13日埼玉県深谷市成塚231に生まれる。同26年埼玉県立熊谷高校を卒業して、東京芸術大学彫刻科に入学し、同30年同校を卒業する。同30年タケミヤ画廊で行われた「六土会展」に出品したほか、平和美術展、日本アンデパンダン展にも出品する。同39年国画会彫刻部に「武藤氏像」で初入選。同40年同会彫刻部に「民の声 A」「民の声 B」を出品し、野島賞受賞。翌年同会彫刻部会友となる。同年東京銀座のスルガ台画廊で個展を開催。同42年第41回国画会展に「蝕(67B)」「罠(67A)」を出品して会友優作賞を受賞し、同会会員に推挙される。同44年毎日現代日本美術展に出品。同45年および48年に東京のときわ画廊で個展を開く。同60年日本金属造形作家展に出品。同63年那須友愛の森彫刻シンポジウムに参加した。前述の個展のほか、同39年東京の愛宕山画廊で個展を開催し、以後平成2(1990)年に至るまで同画廊で十数回の個展を開いた。小学校教員をつとめる一方で、彫刻の制作を行いデフォルメした人体像と小動物や静物を組み合わせ、抽象的な概念を表現した。

佐々木静一

没年月日:1997/01/17

 神奈川県立近代美術館学芸員、多摩美術大学美術学部教授をつとめた日本近代美術史研究者、美術評論家の佐々木静一は1月17日、肺炎のため死亡した。享年73。大正12(1923)年7月3日、大使館勤務であった父の赴任先のポーランド、ワルシャワに生まれる。昭和26(1951)年3月早稲田大学文学部芸術学美術史専攻課程を卒業。在学中は安藤更正に師事した。同年4月、開館を11月にひかえた神奈川県立近代美術館の学芸員となり、東京国立近代美術館に先だつ初めての日本の近代美術館であった同館の初代学芸員として活躍。初代館長村田良策および2代目館長土方定一のもと、多くの展覧会を担当した。同43年同館を退き、多摩美術大学美術学部教授となって以後、画材、美術技法の東西交流を主要なテーマとする「材料学」の研究に取り組んだ。なかでも、青色顔料であるプルシャン・ブルーの流通、洋風油彩技法やガラス絵、泥絵技法の伝搬に興味を持ち、海外調査を行った。また、画法・技法という視点から日本の近代画法を見ることにより、日本的な絵画表現の例としての文人画、特に多くの油彩画家に関心を抱かれた近代文人画に注目し、論考を加えた。平成3(1991)年同大学を定年退官して同名誉教授となった。昭和61年脳梗塞で倒れ、一時、不随となったが再度著作できるまでに回復し、『日本近代美術Ⅰ』に続く著作集を準備中であった。主要な著書に『ギリシャの島々』(日本経済新聞社 1965年)、『近代日本美術史 1幕末・明治』・『近代日本美術史 2大正・昭和』(有斐閣 1977年)、『現代日本の美術 11鳥海青児・岡鹿之助』(集英社 1975年)、『日本近代美術論』(瑠璃書房 1988年)、『海外学術調査Ⅱ アジアの自然と文化』(共同執筆 日本学術振興会 1993年)などがあり、論文には「ヨーロッパ油彩画の日本土着過程の研究 泥絵、硝子絵」(『多摩美術大学材料学研究室紀要』1976年)、「北斎 小布施町祭舞台天井画竜図」(『多摩美術大学研究紀要』1 1982年)、『近世(18世紀以降の)アジアに於けるブルシャン・ブルーの追跡』 (『多摩美術大学研究紀要』2 1985年)、「インドネシア硝子絵調査Ⅰ、Ⅱ」(『多摩美術大学研究紀要』3 1987年)、「鳥海青児・初期を中心に」(『鳥海青児展』図録、練馬区立美術館 1986年)、「昭和初期の美術」(『多摩美術大学50年史』1986年)などがある。

宮田雅之

没年月日:1997/01/05

 切り絵画家の宮田雅之は1月5日午後5時5分、急性脳こうそくのため千葉県成田市の病院で死去した。享年70。大正15(1926)年東京赤坂に生まれる。昭和29(1954)年、チャールズ・E・タトル出版社にブックデザイナーとして入社。同35年、全米ブックジャケットコンテストに入賞。同38年、谷崎潤一郎に見出だされ谷崎文学の挿絵に取り組み、独創的な切り絵の世界を確立。同47年、講談社出版文化賞(挿絵部門)受賞。同56年、バチカン美術館宗教美術コレクションに「日本のピエタ」が収蔵される。同59年、「源氏物語」五十四帖を完成。同63年、鑑真和上生誕1300年を記念して奈良唐招提寺に「鑑真和上像」を献納し、平成2(1990)年には米・ホワイトハウスに「桜花図」を納める。同6年、NHK大河ドラマ「花の乱」のタイトル画を担当し、NHK出版より画集『花の乱』を刊行。同7年、国連創設50周年を記念して、日本人初の国連公認画家に選任され、「赤富士」が国連アートコレクションとして特別限定版画となり世界的に紹介された。

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