本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





多賀谷伊徳

没年月日:1995/04/24

 洋画家多賀谷伊徳は4月24日午前10時55分、脳血栓のため北九州市八幡区西の萩原中央病院で死去した。享年77。大正7(1918)年4月1日、福岡県遠賀郡芦屋町21-12に生まれる。遠賀郡芦屋町立山鹿小学校を経て福岡県立東筑中学校に入学し、同校在学中に前田寛治の友人であった叔父の影響もあって独学で油彩画を始める。昭和11年、第1回九州美術協会展に出品。同13年第2回主線美術展に「海」で初入選。同年同郷の寺田政明を頼って上京し、いわゆる「池袋モンパルナス」の一員として靉光、麻生三郎、松本竣介、井上長三郎らと交遊し、また、瀧口修造をはじめ、福沢一郎、阿部展也、斎藤義重らシュールレアリスムの画家たちを知る。同14年第9回独立美術展に「気穴持つ生物」で初入選。同年福沢一郎等が創立した美術文化協会に参加。同年秋、大刀洗飛行隊に航空気象兵として入隊。同15年第1回美術文化展に「飛朔する前」「朱い実のある樹」を出品する。この頃、台湾に配属となる。同16年、同年創刊の「台湾文学」に詩、挿し絵を発表し、臺陽展に「岩に咲く花」を出品する。同17、18年も戦地から美術文化展に出品を続ける。同18年除隊。同19年第5回同展に「アラカンへ」「仏門(森の廃小乗寺)」を出品し、美術文化賞受賞。同21年美術文化協会会員となる。同22年前衛美術家が集まり日本アヴァンギャルド美術家クラブが結成されることとなると、これに加わり、同会が有楽町のアニー・パイル劇場内の図書館で行った常設展に出品して、米国コレクターに注目される。同24年第1回読売アンデパンダン展に出品。以後同28年第5回展まで出品を続ける。同27年第12回美術文化展に「踊(倭人)」「西風(倭人)」を出品し、同会を退会。同29年、末松正樹とともに渡欧し、パリで個展を開く。また、サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル展にも出品して、同年帰国。同30年銀座松屋で個展を開き、滞欧作を発表。同年岡本太郎の招きで二科会に参加し第40回同展に「濁」「人」「集(お能より)」を出品する。同33年有田市岩尾対山窯で磁器壁画の制作に成功し、以後陶板壁画、陶器の制作にも興味を抱く。同35年再度渡欧し、個展を聞き、翌年オランダ、ベルギ一、ドイツ、スペイン、イタリア、ギリシャ、エジプト等を巡って帰国する。同年岡本太郎とともに二科会を退会。以後、個展を中心に制作を発表する。同41年第3回目の渡欧。パリで個展を開いた後、アメリカ、メキシコを巡遊して帰国。その後も2、3年おきに渡欧し、パリを中心に個展を開催する。同49年2月2日自宅裏に「タガヤ美術館」(総面積600平米、高さ9m、3階建)を開設して、自作ならびにルネサンス期から現代までのヨーロッパ版画を展示する。同52年『多賀谷伊徳作品集』(三彩社刊)を刊行。同年自宅近くに開窯し、「姫窯」と命名する。画業を始める時期からシュールレアリズムの傾向を帯びた抽象表現を行い、「珊瑚礁」「仏門」等、実際の景観を抽象化してとらえる作品から、抽象表現を通じて「青い太陽の幻想」などの内的イメージや概念を象徴する作品、および「作品」等と題する純粋に造形的主題のみを追求した抽象画の制作へと展開した。北九州市庁舎の陶器壁画「船と太陽」、芦屋町庁舎の陶器壁画「海日輪」など公共建築のための大規模な制作も多く行っている。昭和54年に北九州市立美術館で「多賀谷伊徳展」が開催されており、年譜、関係文献については同展図録に詳しい。

錦戸新観

没年月日:1995/04/16

 仏像彫刻家の錦戸新観は4月16日午前11時45分、心不全のため東京都田無市の回無第一病院で死去した。享年87。明治41(1908)年1月28日、茨城県下妻市大宝に生まれる。本名新一郎。昭和5年より10年まで山本瑞雲に師事して木彫を学ぶ。同15年茨城県関城町立正寺のために日蓮上人坐像を制作。同20年東京都多摩郡稲城町の妙見寺の僧松野光観に入門し、得度して天台宗の僧籍に入る。これに伴い本名を光深に改める。同22年第3回日展に十一面観音像で初入選する。同像は現在、東京都新宿区下落合薬王院に安置されている。以後日展に同26年まで出品を続ける。同28年、同26年の日展出品作である不動明王三尊仏の台座、光背を制作し大本山音羽護国寺本堂に安置する。同32年日本橋高島屋で初めての個展を開崖。同年大本山浅草寺本堂のために梵天・帝釈天像を制作。同39年立正佼成会大聖堂に安置すべく久遠実成釈迦牟尼如来像を制作、また同年浅草寺宝蔵門のために仁王尊阿形像を制作する。同40年インド、セイロン、シンガポール、タイを訪れ各地の仏像を研究。この頃の造像にはインドの仏教彫刻に学んだ点が見いだせる。同年浅草寺よりセイロン国総督へ聖観世音菩薩像を贈り、翌年同寺より釈迦牟尼如来像をセイロン国アヌラダプラ・エスルムニヤ精舎の大長老に贈るなど、セイロンにも作品が渡った。同41年伝教大師幼形像を比叡山坂本生源寺本堂に安置。同42年第2回個展を日本橋高島屋で開催した。同45年伝教大師等身像を総本山延暦寺に寄進し、その功により天台座主即真周湛大僧正より法眼位を授与される。同46年浅草寺五重塔院内聖観世音菩薩像を制作。同47年米国ハワイを訪れる。同48年川崎大師平間寺信徒会館の大日如来像を制作、また同年ハワイ天台別院院庭に樹脂製の十一面千手観世音菩薩像を建立する。また同50年ハワイ高岩寺本堂地蔵菩薩像を制作。同51、53年にもハワイへ赴いた。同56年、54年に制作した馬頭観世音菩薩像を品川本覚寺本堂に安置したほか、川崎大師五重塔院内五智如来レリーフ、弘法大師像、興教大師像、恵果阿闇梨像、茨城県県社大宝八幡宮御神体、横浜市善光寺大日如来三尊像、品川区大崎観音寺如意輪観音像などを制作、安置し、平成4年仏教伝道文化賞を受賞した。日本橋高島屋での個展は同47、51、54、60年に開催されている。信仰によって仏を感得して造像する姿勢を貫き、多様な古典様式に現代的感性を融合させた。

西岡常一

没年月日:1995/04/11

 文化功労者で、文化財選定保存技術保持者の宮大工棟梁西岡常ーは、4月11日午前5時55分、前立腺がんのため奈良県生駒郡三郷町の奈良県立三室病院で死去した。享年86。明治41(1908)年9月4目、法隆寺棟梁西岡常吉の孫として、父楢光、母つぎとの聞に生まれた。大正14(1924)年、生駒農学校を卒業、祖父を師に大工見習となる。兵役の後、昭和6(1931)年に橿原神宮拝殿新築工事で父の代理棟梁をつとめた。同年、法隆寺西室修理工事で大工をつとめ、また法隆寺五重塔十分の一の学術模型を制作(東京国立博物館蔵)。同8年、法隆寺昭和大修理のための修理設計実測にあたり、翌年東院礼堂解体修理で初めて棟梁となった。同18年、五重塔の解体調査にあたり、ひきつづき解体部材の復元につとめた。同24年法隆寺金堂全焼にあたり、下層を新材で、上層を解体により難を免れた古材で復元するにあたり、その棟梁をつとめた。同42から50年まで、落雷により焼失していた法輪寺三重塔の再建にあたった。また同45年からは、薬師寺にまねかれ、同寺の伽藍を創建当時の姿に復興する事業に参加、東塔を参考にしながら西塔を復元、またあらたに三蔵院建立にたずさわった。同49年には、父子で吉川英治文化賞を受賞。同52年には、文化財選定保存技術保持者に指定され、平成4(1992)年には、文化功労者に選ばれた。法隆寺に伝わる飛鳥時代の木匠の技を継承する「最後の宮大工」といわれた。

仲田好江

没年月日:1995/04/11

 一水会会員、女流画家協会創立委員の洋画家仲田好江は、4月11日午後7時5分、心筋こうそくのため三鷹市の長谷川病院で死去した。享年93。明治35(1902)年1月15日大阪市西区土佐堀に生まれる。本名菊代。幼時、芦屋に移り、大正9(1920)年大阪府立大手前高等女学校を卒業、一時小出楢重に絵の手ほどぎを受ける。昭和2(1927)年上京、安井曽太郎に師事。また同年、彫刻家の仲田定之助と結婚。同3年の第15回二科展に初入選、以後同11年の第23回展まで毎回出品。同12年に一水会が創立されると、その第一回展から出品、同17年の第6回展では、岡田賞を受賞。同21年には、一水会会員となり、また同年開催の第1回現代日本美術展にも出品した。同39年に新樹会会員となった。同59年には、伊東市の池田二十世紀美術館で回顧展「仲田好江の世界」展が開催された。水彩画をおもわせる薄塗りのマチエールで、身辺の静物をモチーフにナイーヴな叙情性をただよわせる作品を多くのこした。平成6(1994)年の第56回一水会展に「山桃のある静物」が最後の出品となった。

渡辺祐一郎

没年月日:1995/04/11

 日展評議員の洋画家渡辺祐一郎は、4月11日午前9時19分、呼吸不全のため東京都墨田区の白鬚橋病院で死去した。享年74。大正10(1921)年3月9日に北海道小樽市に生まれ、昭和17(1942)年東京美術学校油画科を卒業、藤島武二に師事した。戦後の同23年の第10回一水会展に「埋立地」を出品、一水会賞を受ける。同27年の第8回日展に「雪の運河」を出品、特選・朝倉賞を受賞した。翌年には、一水会会員となり、日展にも無鑑査出品した。同32年にフランスに留学、翌年帰国して、同34年に東京大丸で滞欧作品展を開催。同50年に日展会員となり、同63年には、日展評議員、また一水会常任委員となった。近年は、彫塑的な量感のある二人の裸婦像を自然のなかにおいた構成による作品を毎回日展に出品していたが、平成7(1995)年の第27回日展には、そのシリーズとして「雲と裸婦」が遺作として出品された。

村岡平蔵

没年月日:1995/04/08

 日展参与で、光風会評議員の洋画家村岡平蔵は、4月8日午前8時34分、胃がんのため豊島区のとしま昭和病院で死去した。享年83。明治45(1912)年1月26日、佐賀県小城郡小城町に生まれ、昭和12(1937)年に東京美術学校油画科を卒業、在学中の同11年の文展にコスチュームの女性を堅実に写実的に描いた「若い女」が初入選。戦後は、同22年の第3回日展に出品の「人物」が特選となった。また、翌年には光風会会員となり、同24年の第35回展では「筆者の妻」、「画室」によって光風特賞をうけた。以後、日展、光風会展に出品をつづけ、平成7(1995)年11月の第27回日展に膝まづいた裸婦を描いた「ラフ」が、また同8年4月の第82回光風展に黄色の背景の裸婦立像「ラフ」がそれぞれ遺作として出品された。一貫して明るい色彩と平明な表現による裸婦像を描きつづけた。

暮田延美

没年月日:1995/04/02

 東京芸術大学名誉教授の染織家暮田延美は4月2日午後2時47分、肝不全のため神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会病院で死去した。享年85。明治43(1910)年1月9日群馬県桐生市新宿一丁目411番に生まれる。大正14(1925)年群馬県立桐生中学校に入学し、昭和4(1929)年に同校を卒業して東京美術学校工芸科図案部に入学する。同9年3月に同校を卒業して同年6月より東京高島屋百貨店宣伝部に入るが同10年9月に退職して大阪府商工技手となり、府立工業奨励館に勤務する。同13年1月同館を退職して制作に入る。同15年東京高島屋の依頼によりサンフランシスコ万国博覧会日本館の室内装飾デザインを担当。同16年東京高島屋図案部の嘱託により創作梁繍図案の制作を行う。また同年文展に入選する。戦後は図案家として自営し染織、印刷、室内装飾を行い、同27年みやこ染桂屋株式会社に染織技術部長として在籍する。この間主婦の友社発刊の『染織手芸』、婦人画報社刊行の『染めもの全書』に執筆した。同35年『家庭百科事典』 (暁教育図書社出版)のうち染織全般を執筆。同42年8月東京芸術大学美術学部教授となり、同52年定年退職するまで同校で後進の指導にあたった。この間、同50年7月から8月までフランス、ドイツ、オーストリア、東欧諸国を訪れ、諸国の染織、デザインを調査している。

月山貞一

没年月日:1995/04/01

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀工月山貞一は4月1日午前7時50分、心不全のため奈良県桜井市の済生会中和病院で死去した。享年87。明治40(1907)年11月8目、大阪市東区鎗屋町に刀鍛冶月山貞勝の第三子として生まれる。本名昇(のぼる)。月山家は鎌倉時代に発祥した出羽月山鍛冶を祖とし、享和元年に生まれ家業を継いで月山鍛冶となった月山貞吉(本名奥山弥八郎)が天保4年ころに大阪に移住したことに始まる大阪月山家の正系に当たる。大正7(1918)年、初代貞一の死去のころから父貞勝より刀工を学び、同12年16歳で大阪美術協会展に貞光の銘で初入選。昭和2年から3年にわたり、内務省神宮司庁の依頼により父とともに皇大神宮式年御料神宝太刀58振、鉾43柄の制作にあたる。同4年父とともに昭和天皇の佩刀、大元帥刀を制作。同10年大阪から奈良吉野山に鍛刀場を移し、同18年奈良樫原の月山日本刀鍛錬場に移る。同年12月父の死去に伴い、大阪陸軍造兵廠軍刀鍛錬所の責任者となる。同20年8月敗戦後、マッカーサー指令により刀剣製造が禁止され、伝統技術衰退の危機をむかえるが、その中にあって同23年財団法人日本美術刀剣保存協会が設立され、同29年武器製造法令により文化財保護委員会から作刀許可を受けて日本刀制作の伝統保存が計られるようになるまで、刀鍛冶の火を守り続けた。同31年刀銘貞光を貞照とし、同41年祖父の銘を受けて二代貞一を襲名。この間の同40年奈良県桜井市茅原に月山日本刀鍛錬道場を開設する。同42年第3回新作名刀展に名槍「日本号」を写した作品を出品して文化庁長官賞ならびに正宗賞を受賞。同44年第5回同展に「相州伝切物埋忠明寿」により3年連続最高賞、正宗賞・文化庁長官賞を受賞し、同45年より同展に無鑑査出品、審査委員にも推された。同45年奈良県無形文化財保持者として認定され、翌46年国指定重要無形文化財「日本刀」保持者の認定を受けた。同年この認定を記念して神戸三越で「人間国宝月山貞一展」を開催。同48年自伝『日本刀に生きる』を刀剣春秋社より刊行。同年東京上野松坂屋で「人間国宝月山貞一展」、同54年北海道旭川市マルカツで「人間国宝月山貞一展」、同56年山形市松坂屋で「人間国宝月山貞一展」が開催された。大和系の柾目鍛え、相州系の大板目鍛え、山城系の小木目鍛えなど大和、相州、山城、備前、美濃の五地方に伝わる独自の鉄の鍛え方である五ケ伝の鍛法、近世に登場した大阪新刀鍛冶の作風をすべて身につけた上、月山家家伝の独自の地肌模様「綾杉伝」と刀工彫刻を伝承し、現代刀工界の最高峰として活躍し、後進の育成にも努めた。全日本刀匠会理事長、美術刀剣匠会長などを歴任。同63年米国ボストン美術館で「月山歴代と伝統」展を開催するなど、伝統技術の海外紹介にも積極的に当たった。古刀の模造のほか、「伊勢神宮式年御料太刀」など社寺の奉納刀に多くの名作を生んだ。

松田尚之

没年月日:1995/03/29

 日本芸術院会員で、日展参与の彫刻家松田尚之は、3月29日午後2時14分、急性腹症のため京都市左京区修学院大林町の白宅で死去した。享年96。石川県金沢市に生まれ、大正11(1922)年、朝倉文夫に師事して東京美術判交彫刻科を卒業、また在学中の同10年、第3回帝展に「ポーズせる女」が初入選。以後毎回帝展に出品をつづけ、同15年の第7回展に出品の「姿」は特選となった。翌年の第8回展でも、「若きひのかげ」が無鑑査、特選となった。帝展、新文展、そして戦後の日展にいたるまでたびたび審査委員をつとめ、日展では、審査員と同時に運営会参事をつとめた。また、昭和5(1930)年に京都大学建築科講師となり、戦後も金沢美術工芸大学、京都学芸大学教授として、後進の指導にあたった。同32年の第13回日展に出品の「女性」によって日本芸術院賞受賞、同43年には日本芸術院会員となった。ディテールの再現にこだわらない、おおらかな表現による量感のある裸婦像を得意とした。

真鍋一男

没年月日:1995/03/28

 横浜国立大学名誉教授、愛知産業大学教授の真鍋一男は3月28日午前4時15分、大腸がんのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年71。大正12(1923)年9月15日、愛知県温泉郡道後湯之町甲1416番地に生まれる。東京美術学校師範科に学ぶ。同24年4月神奈川県公立中学校教諭となり、同37年桑沢デザイン研究所教授となる。この間一時新制作協会展に絵画を出品。同39年日本デザイン学会理事。同40年社団法人日本美術教育連合理事、同45年造形教育センター委員長を歴任し、同46年横浜国立大学教育学部教授となって、平成元年に退官、同名誉教授となるまで長く美術教育に当たった。同4年4月より愛知産業大学造形学部産業デザイン学科教授をつとめた。この間、昭和60年日本教育大学協会全国美術部門委員長、同61年文部省教育課程審議会委員、同62年色彩教育研究会副理事長などを歴任。著書に『造形の基本と実習』 (美術出版社)、『ベーシックデザイン 平面構成』(美術出版社)、『マークフォトイラストレーション』(美術出版社)、『色彩教育指導書』(日本色研)、『造形教育体系 全22巻』(開隆堂)などがある。

服部正一郎

没年月日:1995/03/20

 日本芸術院会員で、二科会常務理事の洋画家服部正一郎は、3月20日午後10時12分、胃がんのため、茨城県取手市の取手協同病院で死去した。享年87。明治40(1907)年11月17日、茨城県稲敷郡龍ヶ崎町に生まれ、龍ヶ崎中学校を卒業後、日本美術学校を修了。昭和4(1929)年第16回二科展に「庭」が初入選、以後同展に出品をつづけ、同10年の第22回展に「八丈島風景」等4点を出品、特待を受ける。同16年の第28回展に「初夏風景」、「初秋砂原岳」を出品、会員に推挙された。戦後は、同会の評議員、常務理事を歴任したほか、同42年の第52回展に出品の「水郷」によって芸術院賞を受け、同62年には日本芸術院会員となった。緑豊かな山野の光景を大きな色面でとらえた風景画を毎回出品していたが、平成6年の第79回二科展の「山湖」が最後の出品となった。

谷口鉄雄

没年月日:1995/03/17

 美学者、東洋美術史家で、九州大学名誉教授、元北九州市立美術館長、元石橋財団石橋美術館館長の谷口鉄雄は、3月17日午前10時30分、肺がんのため福岡市南区の九州中央病院で死去した。享年85。 谷口は、明治42年11月23日、福岡県八幡市折尾町陣原834番地(現在の北九州市八幡西区陣原)に生まれた。昭和5年3月、旧制福岡高等学校文科を卒業、昭和8年3月、九州帝国大学法文学部哲学科を卒業して、昭和8年5月、九州帝国大学法文学部の副手となった。この後、昭和10年5月に助手、昭和11年5月に副手、昭和13年4月に助手を経て、昭和14年4月、九州帝国大学法文学部講義嘱託となり、美学を講じている。この時期、九州帝国大学法文学部において哲学、美学を講じていたのは、矢崎美盛教授であった。学生、副手、助手の時代を通じて、谷口は矢崎教授の薫陶を強く受けており、昭和23年に矢崎が東京大学教授に転じて5年後、昭和28年4月7日に逝去した時には、「矢崎先生を憶う」と題した追悼の文を4月15日付の毎日新聞に発表した。また昭和60年4月7日、矢崎美盛の三十三回忌を迎えるに当たり、九州大学、東京大学、東北大学の矢崎門下生たちから師を回想する文章を募り、それらを『回想 矢崎美盛先生』という小冊子にまとめて、師の霊前に捧げた。師弟の強い紳を感じさせるとともに、谷口が、哲学、美学、美術史、特にドイツ、オーストリア系の美術史学への強い傾倒と学問に対する厳しい態度を師より受け継いだことが知られる。昭和15年5月、目制の広島高等学校教授に就任し、敗戦後の昭和21年5月、再び九州帝国大学法文学部講義嘱託となり、美学及び美術史を講じた。昭和22年7月講師嘱託、昭和23年4月、九州大学法文学部講師、昭和26年3月、九州大学文学部助教授、昭和30年7月、九州大学文学部教授となり、美学、美術史論、仏教美術、中国の画論・画史、書論・書史を講じて、学生の指導、育成に当たった。昭和37年11月には、九州大学に奉職して20年を経たため、永年勤続者表彰を受けている。昭和40年4月、九州大学評議員となり、昭和40年12月には九州大学文学部付属九州文化史研究施設の併任になった。昭和41年7月から43年6月まで九州大学文学部長に就任した。昭和43年11月に九州大学文学部長事務取扱及び九州大学評議員、昭和44年6月にも九州大学文学部長事務取扱及び九州大学評議員を務め、昭和44年7月から同年12月まで再び九州大学文学部長及び九州大学評議員となった。また昭和44年8月から同年11月までは九州大学学長事務取扱にも就任して、大学に紛争が絶え間なく続いた時期に、その重責を果たした。昭和46年4月、九州大学文学部付属九州文化史研究施設長に就任、昭和46年12月には日本学術会議の第9期会員に選ばれた。昭和48年4月1日付を以て九州大学を定年退職し、昭和48年5月に九州大学名誉教授となった。 九州大学退官後は、昭和48年4月から昭和59年3月まで九州産業大学芸術学部教授に就任し、昭和53年4月には九州産業大学芸術学部長になっている。また、昭和48年4月から昭和53年3月まで北九州市立美術館長を兼ね、昭和49年11月の開館展「漢唐壁画展」や昭和52年秋の開館三周年記念展「中華人民共和国出土文物展」等の企画や準備に自ら当たり、同美術館の礎を築いた。昭和53年4月から昭和57年3月まで、北九州市立美術館の顧問を務めた。その後、昭和57年9月から昭和63年3月まで石橋財団石橋美術館館長に就任した。これ以前にも、昭和31年4月から石橋美術館運営委員、昭和47年12月から石橋財団評議員、昭和52年4月から石橋財団美術館運営委員を務めており、前から同美術館との関わりは深かった。昭和59年6月に石橋財団理事となり、昭和63年4月には館長を辞して、石橋財団石橋美術館顧問となった。 美学会、美術史学会、九州芸術学会、佛教芸術学会などの会員であり、それぞれの学会の委員や常任委員を務め、学会の充実と運営に尽力した。また、九州大学在職中より、福岡県文化財調査委員、福岡県文化財保護審議会専門委員、福岡県文化財保護審議会委員、九州歴史資料館協議会委員、福岡県立美術館協議会委員などを歴任し、九州の文化財の調査、指定、保護、保存、美術館等の運営方針の策定などに指導的な役割を果たした。海外での調査、研究も少なくない。その成果が研究論文や随想にまとめられたものを取り上げると、次の通りである。昭和37年1月10日から4月10日まで、東南アジア諸国、すなわちインド、セイロン(現スリランカ)、パキスタン、アフガニスタン、ビルマ、マラヤ、カンボジア、ベトナム、タイ、台湾、シンガポール、香港へ出張し、伝統的な美術・工芸の視察調査をおこなった。昭和41年8月27日から10月5日までアメリカ合衆国に出張し、サンフランシスコ市のアジア・ファウンデーションにおける国際シンポジウムに出席するとともに、アメリカ各地の美術館が所蔵する東洋美術品を研究した。昭和45年6月17日から6月25日まで台湾へ出張し、故宮博物院の開館を記念して6月18日から24日まで開催された中国絵画の国際シンポジウムにおいてチェアマンを務めた。(Proceedings of the International Symposium on Chinese Painting,N ational Palace Museum,Republic of China,1972)九州大学退官後の昭和48年秋の中国訪問、昭和49年夏の中国訪問は、北九州市立美術館開館展「漢唐壁画展」の準備のためであった。昭和51年3月から4月にかけて、ロンドン、パリ、アムステルダム、ミュンヘンを視察し、この折に、その前年に傷つけられたレンプラントの「夜警」の修理作業を見学している。(「レンプラント『夜警』の修理をみて」『美術の森』7号、北九州市立美術館、昭和51年5月)また、昭和52年夏の中国訪問は、北九州美術館開館三周年記念展「中華人民共和国出土文物展」の議定書調印のためであったが、この時に国立北京図書館に秘蔵される四庫全書の中の歴代名画記の調査を果たした。(「四庫全書本のマイクロフィルム-北京図書館での感激」『ひろば北九州』、昭和54年5月)昭和61年12月初旬、広東省韶関市曹渓の南華寺、広州市の光孝寺の六祖慧能石刻像碑を調査するため、中国を訪れた。(「広東の六祖慧能石刻像について-曹渓の南華寺と広州の光孝寺」『仏教芸術』178号、昭和63年5月) 谷口は、中国の画論・画史、書論・書史の研究に大きな功績を残した。しかし、研究の領域はそれらにとどまらず、絵巻、宗達、雪舟、仏教美術、石仏、美学・美術史の基礎理論など、多岐にわたった。助手時代の昭和14年に書いたものであるという「伴大納言絵詞小考」(『清閑』15冊、昭和18年3月)「信貴山縁起絵巻に於ける同一構図の反復について」)(『清閑』19冊、昭和19年1月)は、発表こそ遅れたが、最も古いものである。美学・美術史の基礎理論の確立は、美術史学の実証的な研究と哲学的理論とを媒介するとともに、両者を兼ね備えた研究のために大きな土俵を用意することをめざしていた。奉職の地が九州であったため、九州の仏教美術を論じたものも少なくないが、それらは理論に基づく美術史の実践であった。画論、更に画論の背景にある書論へと研究を進め、それらに現われた中国の思想や概念を究めようとした。この時期、九州大学では、目加田誠教授を中心に六朝芸術論の総合研究がおこなわれており、荒木見悟教授、岡村繁教授など互いに啓発し合う同僚にも恵まれていた。谷口の研究はきわめて精密であることを特徴とし、その最も顕著な例が、『校本歴代名画記』 (中央公論美術出版、昭和56年4月)である。詳しい脚註を付した校本で、今日望み得る最も詳しい索引を備えており、今後長く、歴代名画記の標準的なテキストとして利用されるであろう。谷口の学聞に対する姿勢は厳しく、還暦の折に『羊欣古来能書人名(六朝の書論1)』を自費出版し(昭和46年4月)、九州大学の退官時には『東洋美術論考』(中央公論美術出版、昭和48年1月)を刊行して、それぞれの節目を自ら祝ったのも、彼の学問に対する姿勢であった。 谷口は多くの後進たちを孕み、産みだしている。また、九州における現代美術の動向に対して積極的に発言し、その真撃な批評態度によって、多くの美術家たちに慕われていた。谷口が九州の美術界や学界に残した功績は大きい。著書日本の石仏(朝日新聞社、昭和32年4月)臼杵石仏(臼杵石仏保存会、昭和38年初版)観世音寺(中央公論美術出版、昭和39年9月)臼杵石仏(中央公論美術出版、昭和41年9月)石仏紀行(朝日新聞社、昭和41年9月)羊欣古来能書人名(六朝の書論1)(自費出版、昭和46年4月)東洋美術論考(中央公論美術出版、昭和48年1月)中国古典文学大系54・文学芸術論集(共著)(平凡社、昭和49年6月)校本歴代名画記(中央公論美術出版、昭和56年4月)西日本画壇史-近代美術への道-(西日本文化協会、昭和56年4月)美術史論の断章(中央公論美術出版、昭和58年7月)回想 矢崎美盛先生(編著) (非売品、昭和60年4月)蘭亭序論争訳注(共編)(中央公論美術出版、平成5年2月)東洋美術研究(中央公論美術出版、平成6年11月)論文 『図像紗』の編纂過程について『哲学年報』1輯(昭和15年3月)我が国に於ける仏教図像集の編纂-特に『図像紗』について-日本諸学振興委員会第六編「芸術学」(昭和15年3月)伴大納言絵詞小考『清閑』15冊(昭和18年3月)リーグル「自然の作品と芸術の作品(翻訳)『皆実』29号(広島高等学校、昭和16年2月)(再録)『美術史学』79号(昭和18年7月)信貴山縁起絵巻に於ける同一構図の反復について『清閑』19冊(昭和19年1月)宗達雑考『美術史学』85・87号(昭和19年1・4月)玉虫厨子の所謂「多宝塔図」について『哲学年報』9輯(昭和25年7月)上代彫刻の光背に関する二・三の問題『哲学年報』10輯(昭和25年12月)筑紫観世音寺の梵鐘(共同執筆)『哲学年報』12輯(昭和28年2月)筑紫観世音寺の大黒天(共同執筆)『哲学年報』14輯(昭和28年2月)リーグル研究 1の1・1の2『哲学年報』14・15輯(昭和28年2月・29年3月)ヴァフィオの盃-リーグルの古代美術史論に対する疑問-『美学』14号(昭和28年9月)隋代彫刻銘文集録 上・下(共同執筆)『哲学年報』17・18輯(昭和30年3・11月)豊後高田市の熊野石仏(共同執筆)『仏教芸術』30号(昭和32年1月)臼杵石仏案内『仏教芸術』30号(昭和32年1月)九州石仏一覧表『仏教芸術』30号(昭和32年1月)延久二年銘の梵字石碑『大和文化研究』4巻3号(昭和32年1月)ヴェルフリンのペシミズム『美学』35号(昭和33年12月)歴代名画記索引『哲学年報』22輯(昭和35年3月)中国の自画像 -越岐の場合-「美学」46号(昭和36年9月)張彦遠の品等論にみえる「自然」について『哲学年報』23輯(昭和36年9月)「合作」の意味について『仏教芸術』50号(昭和37年12月)天開図画楼記について『仏教芸術』54号(昭和39年5月)顧愷之の佚文『美術史』56号(昭和40年3月)顧愷之と瓦官寺『九州大学文学部四十周年記念論文集』(昭和41年1月)書の品等論の成立について-虞龢の「論書表」を中心に-『美学』64号(昭和41年3月)On the historical position of the “Yamato.e” in the far eastern history of art. (Lecture at the Asia Foundation,S an Francisco,U .S.A.,1966.8.30)羊欣の伝記とその書論-「天然」の概念の発生について『仏教芸術』69号(昭和43年12月)羊欣『古来能書人名』附羊欣伝『哲学年報』28輯(昭和44年8月)デューラーの芸術論『美学』80号(昭和45年3月)一隻眼の大鑑禅師像『仏教芸術』76号(昭和45年7月)対馬・壱岐の美術調査について『仏教芸術』95号(昭和49年3月)対馬の仏教美術『対馬風土記』12号、対馬郷土研究会(昭和54年3月)禅宗六祖印像について-豊後・円福寺本を中心に『仏教芸術』155号(昭和59年7月)特健薬『デアルテ』2号(昭和61年3月)王義之の生卒年の一資料『デアルテ』3号(昭和62年3月)顧愷之の生卒年『デアルテ』4号(昭和63年3月)張延賞と元の雑劇『デアルテ』4号(昭和63年3月)広東の六祖慧能石刻像について-曹渓の南華寺と広州の光孝寺『仏教芸術』178号(昭和63年5月)西田直養『金石年表』について『デアルテ』5号(平成元年3月)王羲之「蘭亭序」の説話『デアルテ』6・7号(平成2年3月・3年3月)劉世儒筆「墨梅図」と「雪湖梅譜」『仏教芸術』201号(平成4年4月)随想、美術批評など 『芸術史の課題』-植田寿蔵著に寄せて- 九州帝国大学新聞、140号、昭和10年12月22日シュマルゾー逝く 九州帝国大学新聞、148号、昭和11年5月22日デューラーとロダン -造形芸術における運動の表現について- 九州帝国大学新聞、166号、昭和12年6月20日絵画の近代性について 九州帝国大学新聞、179号、昭和13年5月1日北斎と印象派 夕刊フクニチ、昭和23年4月15日ブルトゥス違い 「若人」1巻2号、不二出版社、昭和24年2月ピカソとハト 朝日新聞、昭和27年1月22日矢崎美盛先生を憶う 毎日新聞、昭和28年4月15日学問の流れ -美学- 朝日新聞、昭和31年6月18日ピカソ版画展をみて 朝日新聞、昭和32年7月22日現代美術と歴史 朝日新聞、昭和32年9月20日「ルオ-展」に想う 朝日新聞、昭和33年4月23日西日本画壇史(連載) 朝日新聞、昭和34年1月20日~35年8月31日王義之の自画像 「石橋美術館ニュース」3、昭和35年8月私の見たエジプト美術 朝日新聞、昭和38年6月5日今日からみたフォーブ 朝日新聞、昭和40年10月22日「黄金のマスク」の芸術 朝日新聞、昭和40年12月9日日本美の二つの祖型 朝日新聞、昭和41年5月28日ピカソ芸術の語るもの 毎日新聞、昭和45年1月12日デッサン -画家の詩心の軌跡- 朝日新聞、昭和46年7月7日レンブラント「夜警」の修理をみて 「美術の森」7号、北九州市立美術館、昭和51年5月世説新語と王義之・顧愷之 『新釈漢文大系』季報44、明治書院、昭和51年6月発生期の書論 -画論との対照から 『中図書論大系』月報1、二玄社、昭和52年7月ドガの色彩と線 読売新聞、昭和52年1月12日四庫全書本のマイクロフィルム -北京図書館での感激『ひろば北九州』昭和54年5月『校本歴代名画記』の索引 『書誌索引展望』6の2、昭和57年5月法隆寺薬師如来像の台座絵 日本最古の沙羅双樹の絵か 西日本新聞、昭和63年1

徳田信保

没年月日:1995/03/06

 春陽会会員の洋画家徳田信保は、3月6日午後10時5分、老衰のため名古屋市内の病院で死去した。享年86。明治41(1908)年10月25日に愛知県名古屋市に生まれ、昭和2(1927)年、愛知県第一師範学校を卒業、横井礼以に師事、同14年の第3回新文展に「城郭」が初入選した。戦後になると、春陽会会員の水谷清に師事、同23年の第25回春陽会展に初入選、以後同展に出品をつづけ、同35年に会員となった。ほかに、同46年から同52年まで、中部国際形象展に招待出品し、同56年まで稲沢女子短期大学教授として指導にあたっていた。奔放で流動的な線と暖かい色彩が共鳴するような、ナイーヴで叙情的な画風の作品を毎回出品していたが、平成7年の第72回展には、遺作として「川と牛」が出品された。

分部順治

没年月日:1995/03/01

 日展参与の彫刻家分部順治は3月1日午前10時35分胆のうがんのため東京都練馬区豊玉北の自宅で死去した。享年84。明治44(1911)年1月6日群馬県高崎市八島町17に生まれる。昭和3(1928)年高崎中学校を卒業して建畠大夢に師事して彫刻を学び始める。同4年東京美術学校彫刻科に入学して木彫を学ぶ。北村西望に師事。同7年第13回帝展に「母と子」で初入選。以後同展に出品を続ける。同9年東京美術学校彫刻科を卒業して研究科に進み、同11年に修了。翌12年第1回新文展に「若い男」を出品して特選となる。同13年第2回新文展では「男立像」で二年連続特選受賞。戦後も日展に出品し、同24年日展出品委嘱、同33年日展会員、同37年同評議員となる。この問、同30年より日本彫刻会にも参加し、日彫展にも出品。同43年第11回日展に「新秋」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同47年日本彫刻会理事となる。同50年第6回日展出品作「瞭」により第31回日本芸術院賞受賞。同52年日展理事、同56年同参事となる。人体表現によって季節や「静」「芽」「爽」などの抽象概念を象徴する作品を多く制作し、写実にもとづきながら主題にそってデフォルメを加える作風を示した。ブロンズによる肖像彫刻、モニュメントなども制作している。帝展、文展、日展出品作昭和7年第13回帝展「母と子」、同8年第14回帝展「みのる秋」、同9年第15回帝展「いこい」、同11年文展鑑査展「習作」、同12年第1回新文展「若い男」、同13年第2回新文展「男立像」、同14年第3回新文展「男」、同15年紀元2600年奉祝展「黙する男」、同15年第4回新文展「男の像」、同19年戦時特別展「皇士ヲ護ル人々」(サイパン)、同22年第3回日展「新生の歩み」、同23年第4回日展「うららか」、同24年第5回日展「少女の像」、同25年第6回日展「清純」、同26年第7回日展「若人の夢」、同27年第8回「青年像」、同28年第9回日展「狩」、同29年第10回日展「青年」、同30年第11回日展「若い男」、同31年第12回日展「流れ」、同32年第13回日展「男」、同33年第1回社団法人日展「雪嶺」、同34年第2回日展「霧氷」、同35年第3回日展「道標」、同36年第4回日展「青年像」、同37年第5回日展「黙」、同38年第6回日展「一本杉」、同39年第7回日展「老いた工人」、同40年第8回日展「青年之像」、同41年第9回日展「青年像」、同42年第10回日展「想」、同43年第11回日展「新秋」、同44年第1回改組日展「碑」、同45年第2回日展「謐」、同46年第3回日展「旦」、同47年第4回日展「爽」、同48年第5回日展「暁」、同49年第6回日展「瞭」(日本芸術院賞)、同50年第7回日展「考」、同51年第8回日展「満」、同52年第9回日展「暢」、同53年第10回日展「艶」、同54年第11回日展「寛」、同55年第12回日展「佳」、同56年第13回日展「赫」、同57年第14回日展「遥」、同58年第15回日展「希」、同59年第16回日展「潤」、同60年第17回日展「黎」、同61年第18回日展「惟」、同62年第四回日展「妖」、同63年第20回日展「髪」

中根金作

没年月日:1995/03/01

 大阪芸術大学長、浪速短大学長を務めた造園学者の中根金作は3月1日午後6時5分、心室粗動のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年77。大正6(1917)年8月28日、静岡県磐田市下岡田170番地に生まれる。昭和10(1935)年静岡県立浜松工業学校図案科を卒業。同13年旧制東京高等造園学校(現・東京農業大学)造園学科に入学し、同17年11月戦時特令により同校を卒業する。同18年8月より京都府園芸技手として勤務するが同19年6月より21年2月まで戦地に赴く。同21年11月より技師として京都府に勤務。同27年10月京都府文化財保護課記念物係長となる。同37年同府教育委員会文化財保護課課長補佐となるが、同40年4月に依願退職し、京都大学工学部建築協会内日本建築庭園研究室主幹となる。翌41年9月中根庭園研究所を開設して日本庭園研究に従事するとともに、同44年4月より大阪芸術大学建築科教授として教鞭を取った。同46年4月より同大学環境計画学科長、同62年12月より同大学学長となり、翌63年5月からは浪速短期大学学長を兼務した。主要作品に京都の城南宮楽水苑庭園他神苑、足立美術館庭園、シンガポールのジュロン日本庭園、アメリカのジミー・カーター大統領センター内日本庭園、アメリカのボストン美術館日本庭園天心園などがあり、昭和49年に開催されたウィーン万博やドイツ連邦庭園博覧会などに日本庭園を出品した。日本造園学会評議員、日本造園修景協会理事、京都府文化財保護基金調査委員等をもっとめ、伝統的日本庭園の研究、保存に尽力した。

市之瀬廣太

没年月日:1995/02/23

 日展会員で名古屋芸術大学名誉教授の彫刻家市之瀬廣太は2月23日午後10時44分、急性肺炎のため名古屋市の病院で死去した。享年85。明治42(1909)年8月20日岐阜県瑞浪市土岐町6645に生まれる。昭和2(1927)年岐阜県多治見工業制支彫刻科を卒業。同年5月大倉陶園に入社するが、同4年11月に退社して、構造社彫塑研究所に入所し斎藤素巌に師事する。同6年構造社展に初入選。同7年同展研究賞を受賞し、両社会友となる。同8年同展構造賞を受賞し、翌9年同社会員となる。戦後、第1回日展に「女ノ坐像」で初入選し以後同展に出品。同29年第10回日展に「流想(ながれにおもう)」を出品して特選となる。同30年日展に無鑑査出品。同36年日展委嘱。同37年日展に「破る」を出品して菊華賞受賞。同39年日展会員となった。写実にもとづく端正な女性像を得意とした。

有光次郎

没年月日:1995/02/22

 元文部次官、前日本芸術院長の有光次郎は2月22日午後O時10分、脳こうそくのため東京都東久留米市の老人ホームで死去した。享年91。明治36(1903)年12月15日高知県高知市に生まれる。東京大学法学部を卒業して昭和27年に文部省に入り、戦後の混乱期に教科書局長、47年に文部事務次官に就任。6・3制を定めた教育基本法、学校教育法の起草をめぐりアメリカ側との折衝にあたるなど日本の教育・文化の振興に尽力した。同48年に退官したのち、社会教育協会理事長、映倫委員長、国語審議会会長、日本棋院理事長などを歴任したほか、東京家政大学長、武蔵野美術大学長などもつとめ、同54年から平成2年まで10年余にわたり日本芸術院院長として日本の芸術・文化の振興に尽くした。著書に『宗教行政』『戦後教育と私』『有光次郎日記」などがある。

松本富太郎

没年月日:1995/02/13

 近代美術協会代表の洋画家松本富太郎は2月13日午後6時48分、急性心筋こうそくのため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年89。明治38(1905)年2月24日大阪此花区西九条上通1丁目120番地に生まれる。大阪市立堂島商業高等学校を卒業。青木大乗に絵画を学び、昭和3(1928)年に上京して田辺至に師事。同4年第10回帝展に「湖畔の道」で初入選。翌年も「農村の或る日」で入選する。同10年同11年文展鑑査展に「台湾の村里」で入選する。昭和10年代に台湾、満州にそれぞれ半年づつ滞在。戦後も日展に参加。同28年第9回日展に「アトリエのポーズ」を出品して岡田賞、翌年第10回日展に「みみずくを配す」を無鑑査出品する。同31年第12回日展に「山」を出品して特選を受賞する。同30年に川島理一郎、和国三造らとともに新世紀美術協会の創立に関わって活動。同31年同回第1回展に「裸婦」を出品して黒田清輝賞、同36年第6回同展で川島理一郎賞を受賞。同36年日展を退会し、翌37年新世紀美術協会をも退く。同40年3月「純粋な制作活動を」提唱して近代美術協会を創立し、同年10月大阪市立美術館で同会の第1回展を開催する。このころ、作風は具象表現から抽象へと移行。同40年現代日本美術展に出品。同47年初めて渡欧し5年間滞在する。滞欧中の同48年ル・サロン展に出品して受賞、フランス国際展金賞、フランス共和党展金賞、同49年フランス国際展会員に推挙される。また同49年ベルギー・オスタンド国際展、同51年モナコ・モンテカルロ国際展など欧州各国の美術展に出品。同51年フランス・オーヴェルニュー国際展に出品してグランプリを受賞する。同年帰国。同63年画業60 年を記念して画集『松本富太郎』(松本富太郎画集出版刊行会)を刊行する。また、同年の近代美術協会の創立25周年記念展に代表作約30点を特別陳列する。初期には、写実にもとづいた具象画を描いたが、日展退会以後は抽象表現を好み、渡欧後は西洋との対比による東洋の認識から「陀達」「斎宮女御」「存在と無」などの作品を描いた。没後の平成7年第32回近代美術協会展で追悼展が行われた。

廣田熙

没年月日:1995/02/06

 古美術販売業壷中居店主の廣田熙は2月6日午前7時40分心不全のため東京都目黒区碑文谷の自宅で死去した。享年85。明治43年6月11日富山県富山市に生まれる。富山県立富山商業学校を卒業し、昭和13(1938)年叔父広田不孤斎が合資会社壷中居を設立するとその代表社員となった。同24年株式会社壷中居を設立して代表取締役社長に就任。古陶磁を主な対象とし、同25年日本陶磁協会理事となるなど、陶磁器研究にも寄与するところがあった。同52年壷中居取締役店主となる。同24年東京美術倶楽部取締役、東京美術商組合理事となり、同組合顧問をもつとめた。

秋元松子

没年月日:1995/01/30

 光風会名誉会員の洋画家秋元松子は、1月30日午前0時5分、急性腎不全のため千葉県流山市の流山病院で死去した。享年95。明治32(1899)年6月4日、当時の千葉県東葛飾郡流山町に生まれ、跡見女学校を卒業、大正10(1921)年頃より富田温一郎に師事し、ついで岡田三郎助に師事した。昭和6(1931)年の第12回帝展に「盛夏読書」が初入選、同9年の第15回帝展に「閑庭」、同17年の第5回新文展に「早春池畔」がそれぞれ入選した。戦後は、同21年の第2回日展から出品をつづけ、同32年の第13回日展に出品した「静物」が特選となった。この作品は、形態の解釈や筆致など主観性のつよい表現ながら、色彩は中間色を基調に、美しくひびきあったものであった。また、白日会、朱葉会などにも会員として出品していたほか、同21年に光風会会員となり、同展にも出品をつづけ、平成7年の第81回展には、奔放な表現による「枯葉と土器と」が、遺作として出品された。

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