本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





匠秀夫

没年月日:1994/09/14

 日本近代美術史研究者で、現代美術の評論においても幅広く活動した茨城県近代美術館館長の匠秀夫は、9月14日食道がんのため東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年69。日本近代洋画史の研究で著名であった匠は、大正13(1924)年11月28日北海道夕張郡夕張町字住初社宅19号-2 (現夕張市)に生まれ、幼少時から札幌で養育され、北海道庁立札幌第一中学校を経て、昭和19年京都帝国大学文学部選科へ進んだが、翌年陸軍二等兵として入営した。戦後の同23年京都大学を中退し北海道大学文学部史学科に入学、堀米庸三教授の下で西洋中世史を研究し、同32年同大学大学院を修了した。この頃から日本近代洋画史への関心を深め、精査な資料収集と調査を開始し、また、河北倫明著『青木繁-生涯と芸術』(同23年)に啓発されたり、土方定一を識り作家研究の方向性を示唆されたこともあり、本格的に日本近代美術史を専攻するに至った。同39年、最初の著書『日本近代洋画の展開』を昭森社から刊行、同書は美術と文学との関わりに注目する等、事実の羅列に止まらない独自の史観を盛った斬新な日本近代洋画史論として高く評価された。一方、北海道出身の作家研究も独自に展開、同43年に「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』、翌年『中原悌二郎』の二書をその成果として世に出した。この間、同39年から、札幌大谷短期大学で教鞭を執ったが、同43年神奈川県立近代美術館主任学芸員に迎えられ、以後、同館での数多くの企画展に関わり、日本現代美術、西洋近・現代美術へも研究の領域を広げるとともに、美術評論の活動も精力的に展開した。同51年、神奈川県立近代美術館副館長、同56年同館長に就任、同60年同館を定年退職した。また、中原悌二郎賞審査委員、安井賞選考委員、現代日本美術展審査委員、高村光太郎大賞審査委員、日本国際美術展選考委員など数々の委員に携わったほか、杉野女子大学、法政大学文学部、札幌学院大学、愛知県立芸術大学などの非常勤講師をつとめた。同60年、茨城県参与(新美術館担当)を委嘱され、同63年茨城県立近代美術館開設と同時に館長に就任し、同館の運営に尽力した。執筆活動は晩年に至るまで極めて旺盛で、その全容は、残後一周忌にあたり上梓された『匠秀夫 年譜・著作目録』 (陰里鉄郎編)に詳しい。同誌から、著書(含共著、編著等)のみを以下に掲げる。著書『近代白木洋画の展開』(昭森社、昭和39年12月)『中原悌三郎・その生涯と芸術<旭川叢書二> 』(旭川市、昭和43年3月)「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(北海道立美術館、昭和43年11月)「中原悌二郎』(木耳社、昭和44年12月)『近代の美術 第26号 三岸好太郎」(至文堂、昭和50年1月)『小出楢重』(日動出版部、昭和50年2月)『近代日本洋画の展開』(昭森社、昭和52年2月)『近代日本の美術と文学-明治大正昭和決の挿絵-』(木耳社、昭和54年11月)『近代の美術 第58号 日本の水彩画』(至文堂、昭和55年4月)『岩波ジュニア新書 22 絵を描くこころ』(岩波書店、昭和55年10月)『大正の個性派』(有斐閣、昭和58年4月)『棟方志功 讃』(平凡社、昭和59年11月)『小出楢重』(日動出版部、昭和60年2月)『日本の近代美術と文学-挿画史とその周辺』(沖積社、昭和62年11月)『物語 昭和洋画壇史Ⅰパリ豚児の群れ』(形文社、昭和63年10月)『戦中病兵日記』(昭森社、平成元年8月)『物語 昭和洋画壇史II“生きている画家たち” -閉塞の時代』(形文社、平成元年11月)『日本の近代美術と西洋』(沖積社、平成3年9月)『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(求龍堂、平成4年8月)『日本の近代美術と幕末』(沖積社、平成6年9月)共著、編著、訳書、監修本『彫刻の生命』中原悌二郎著、匠秀夫編(中央公論美術出版、昭和44年2月)『小熊秀雄・詩と絵と画論』小田切秀雄、匠秀夫共編(三彩社、昭和49年1月)『世界の巨匠シリーズ ムンク』トーマス・メッサー著、匠秀夫翻訳(美術出版舎、昭和49年11月)『大切な雰囲気』小出楢重著、匠秀夫編(昭森社、昭和50年9月)『衣服の文化史-美術史との交響』井上泰男、匠秀夫共著(研究社、昭和53年5月)『有島生馬芸術論集-一つの予言』紅野敏郎、匠秀夫、有島睦子編(形象社、昭和54年9月)『中原悌二郎の想出』中原信著、匠秀夫監修・編集(日動出版部、昭和56年1月)『小出楢重全文集』匠秀夫編(五月書房、昭和56年9月)『日本水彩画名作全集 二 石井柏亭』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年6月)『日本水彩画名作全集 五 中西利雄』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年7月)『現代日本の水彩画<全5巻>』匠秀夫監修(第一法規出版、昭和59年)『ハムレット-神奈川県立近代美術館収蔵のドラクロワの版画-<美術館収蔵名作シリーズ>』ドラクロワ、F.V.E著、匠秀夫監修(形象社、昭和59年)『日本の水彩画<全20巻>』匠秀夫監修(第一法規出版、平成元年)『ゴッホ巡礼<とんぼの本>』向田直幹、匠秀夫著(新潮社、平成2年11月)『土方定一 美術批評 1946-1980』土方定一著、匠秀夫、陰里鉄郎、酒井忠康編(形文社、平成5年10月)『児島善三郎の手紙』匠秀夫編(形文社、平成5年10月)『原勝郎画集』匠秀夫編(原勝郎画集刊行委員会[原のぶ子方]、平成6年2月)『小出楢重の手紙』匠秀夫編(形文社、平成6年5月)

天田起雄

没年月日:1994/09/08

 奈良国立文化財研究所建造物研究室長天田起雄は9月8日午後10時半心不全のため東京都杉並区高井戸東3-30-14上高井戸住宅106で死去した。享年48。昭和20(1945)年10月19日新潟県佐渡郡に生まれる。同39年東京都立杉並高校を卒業して東京都立大学工学部建築工学科に入学。同43年同科を卒業して同大学院工学研究科修士課程に進み、同45年に同科を修了して奈良国立文化財研究所平城宮発掘調査部研究補佐員となった。同年5月同研究所平城宮跡発掘調査部遺構調査室室員となり、同47年より同部藤原宮跡調査室、同48年より同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部第一調査室につとめた。同49年文化庁文化財保護部建造物課に勤務となり、同53年文化庁文化財保護部建造物課文化財調査官(伝統的建造物群部門)、平成元年4月より同課文化財調査官(修理指導部門)、同2年には同課主任文化財調査官(修理指導部門)となった。同4年同課修理企画部門の主任文化財調査官となり、同6年4月奈良国立文化財研究所にもどって、建造物研究室長となった。建築史学会、修復学会に所属し、日本建築史、建築を中心とする修復学、文化財建造物および歴史的景観の保存を専門とした。「文建協通信」1994年11・12月合併号に追悼文が掲載されている。

中村傳三郎

没年月日:1994/08/23

 東京国立文化財研究所名誉研究員の美術史家、美術評論家の中村傳三郎は、8月23日大腸がんのため千葉県市川市の東京歯科大学市川総合病院で死去した。享年77。日本近代美術史、とくに日本近代彫塑史の実証的研究に先鞭をつけた中村は、大正5(1916)年10月30日兵庫県芦屋市西蔵町2番地11号に生まれ、昭和15年甲南高等学校高等科を卒業し東京帝国大学文学部美学美術史学科へ進み、同17年9月卒業した。同年4月陸軍二等兵として入営し、戦後の同21年5月ラパウルから名古屋に帰還、除隊する。翌22年5月から兵庫県武庫川学院中学校教諭となったが同年9月に退職、10月、国立博物館附属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)に奉職した。以後、同24年文部技官となり、同42年美術部主任研究官、同47年美術部第三研究室長に昇任、同53年4月定年退官した。美術研究所入所当初から日本近代美術、特に従来殆んど未開拓であった明治以降の彫塑史研究に着手し、すでに同26年には「明治末期におけるロダン」を研究所の機関誌「美術研究」第163号に発表した。同論文は、日本近代彫刻における西洋彫刻の受容と展開に着目したものであり、この分野における実証的研究に先鞭をつけた論考として注目された。続いて、ロダンの影響を最初に受け、真に彫刻界に近代をもたらしたとされる荻原守衛の生涯と芸術に関する詳細な研究を続行し、その成果を同33年以来「美術研究」誌上に6回にわたって発表した。一方、平櫛田中ら木彫家の作家研究、明治以来の彫塑団体の系統的調査研究を併行し、日本近代彫刻史の史的展開を総合的に把握するに至った。上記研究の主要な論文は、著書『明治の彫塑』(平成2年)にまとめられ、同書で平成3年、第45回毎日出版文化賞を受賞した。また、彫塑・立体造型を主とする現代美術の動向の調査研究にも従事し、その成果は在職中の『日本美術年鑑』の編集、執筆に生かされている。さらに、日本美術評論家連盟会員として、批評活動も展開し、数多くの美術批評を新聞や雑誌に発表し、作家の創作活動に大きく寄与した。主要著書・論文著書明治の彫塑(共著)(昭和31年11月、洋々社)彫塑界とロダン(共著)(昭和36年9月、角川書店)竹内栖鳳(共著) (昭和38年1月、講談社)彫刻界の動き(共著)(昭和39年7月、角川書店)工芸・彫刻(共著)(昭和50年3月、東京国立文化財研究所)岡田三郎助(共著)(昭和50年5月、集英社)北村西望-その人と芸術(共著)(昭和51年6月、講談社)工芸・彫刻(共著)(昭和52年1月、有斐閣)荻原守衛とその周辺(昭和52年3月、至文堂)近代日本彫刻の流れ(共著)(昭和52年6月、東京芸術大学)明治の彫塑(平成3年3月、文彩社)論文明治末期におけるロダン(昭和26年11月、美術研究163)明治時代の彫塑団体青年彫刻会について(昭和31年1月、美術研究184)四条派資料「村松家略系」と呉春・景文伝(昭和36年5月、美術研究216)松村景文筆雪中白梅豆鳥図(昭和38年12月、国華861)荻原守衛-生涯と芸術-(昭和39年7月、美術研究235(以下、264、266、274、279、290号に継続))平櫛田中-人と芸術-(昭和48年4月、形象12)(なお、「碌山美術館報」第16号に詳細な著作目録-中村傳三郎「近・現代日本の彫塑」主要著作目録-が編集収載されている。)

満岡忠成

没年月日:1994/08/22

 日本陶磁協会理事の陶磁器研究家満岡忠成は8月22日午後1時15分、肺がんのため京都市の病院で死去した。享年87。明治40(1907)年1月3日三重県に生まれる。昭和5(1930)年東京帝国大学美学美術史科を卒業し、大和文華館に勤務したのち同43年から京都市立芸術大学教授として教鞭を取る。同47年同大学を退き滴翠美術館館長となる。また、同49年より同61年まで大手前女子大学教授をつとめた。東洋陶磁史を中心に研究し、同45年ニューギニア・セピック美術を調査、同49年韓国の慶尚南道窯を訪れる。著書に『茶の古窯』(同47年)、『信楽・伊賀』(平成元年)等がある。昭和62年小山富士夫記念賞功績褒賞を受賞した。

馬場梼男

没年月日:1994/08/13

 元東京造形大学教授で春陽会会員、日本版画協会理事の版画家馬場梼男は、8月13日午後2時、横浜市保土ヶ谷区の横浜市立横浜市民病院で死去した。享年66。昭和2(1927)年東京に生まれる。春陽会研究所で油絵を学び、同38年第40回春陽会展に「記号化した人一C」「歩む」「記号化した人一B」を出品して同会研究賞受賞、同40年第33回日本版画協会展に「記念写真」を出品して日本版画協会賞受賞。同41年国際ミニアチュール版画コンクール展でDr.s,M rs. Paul A Brodlow賞を受賞する。同41年現代日本美術展に出品、同42年日本版画会員となる。同43年東京国際版画ビエンナーレ展にも出品する。同44年、春陽会版画部会員となる。同46年、第4回国際ミニアチュール版画展に「赤い馬」を出品して受賞する。同47年版画集『標的』を刊行、翌年版画集「Crazy Kids」を刊行する。同53年東京造形大学助教授、同57年同教授となる。遠近法を用いず、画布に人物像をちりばめたユーモラスな作風で知られた。

西村千太郎

没年月日:1994/07/21

 二科会会員の洋画家西村千太郎は、7月21日脳こうそくのため名古屋市内の病院で死去した。享年87。明治40(1907)年3月12日名古屋市中区元場町三ノ切35(現中区大須3-18)に生まれた。横井礼二の指導する緑ケ丘研究所で洋画を学び、はじめ春陽会展へ出品したが第16回展から二科展へ出品、昭和28年第38回二科展に「過ぎたるは及ばず」で二科賞を受賞し、同36年二科会会員に推挙された。また、同42年-51年の間、名古屋造形芸術短期大学教授をつとめた他、自宅に研究所を設けるなど後進の指導にも尽力した。

山本常一

没年月日:1994/07/07

 新制作協会会員の彫刻家山本常ーは、7月7日心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年84。ニワトリやフクロウなど鳥の彫刻で知らされた山本は、明治45(1912)年4月9日神戸市に生まれ、大分県中津市で育った。日本大学中退、一時、東宝特殊撮影製作に従事した。はじめ国画会彫刻部に出品(第10-14回)したが、昭和11年創立の新制作派協会第1回展出品以来同会に所属し、戦後の同24年同会員に推挙され、以後、新制作協会を中心に制作発表を行った。また、選抜秀作美術展、日本国際美術展などにも出品する。同52年には前年制作の「夜の詩」で長野市野外彫刻賞を受賞、その後も鳥をモチーフに写実的で温かみのある作風を展開した。作品集に『鳥BIRD』(昭和38年、美術出版社)、著書に「鳥粘土でつくるたのしい造形」(同43年)がある。葬儀・告別式は新制作協会葬(葬儀委員長佐藤忠良)として、7月12日東京都杉並区梅里の堀ノ内斎場で執り行われた。

小野光敬

没年月日:1994/06/29

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀剣研磨師小野光敬は6月29日午前1時18分、肝不全のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。享年80。大正2(1913)年7月30日、岩手県盛岡市に生まれる。本名清之助(せいのすけ)。刀剣研磨の道に志し、昭和4(1929)年、研師加藤勇之助に入門。同13年には上京して本阿弥光遜(こうそん)に師事し、万剣制作に関する基礎的知識を得ると共に、相州伝を中心に各伝の鍛法をいかす正統な技法を学んだ上、本阿弥流の「家研ぎ」の技法を修得、同18年独立し、以後、専ら優品の研磨に従事した。戦後、同22年4月より、同42年まで東京国立博物館学芸部工芸課刀剣室に勤務。この問、同27年に正倉院蔵万三振の研磨、同年四天王寺蔵国宝「丙子椒林剣」「七星剣」の研磨、同32年より42年まで第一次正倉院蔵刀剣類研磨にたずさわる。同42年には国宝「沃懸地獅子文毛抜形太刀」の研磨を行い、翌43年より52年まで第二次正倉院蔵刀剣類研磨にたずさわった。この間同45年日本万研磨技術保存会副幹事長となり、同50年に重要無形文化財「刀剣研磨」の保持者に認定された。同57年日本刀研磨技術保存会幹事長に就任。上古刀をはじめ社寺仏閣所蔵の刀剣研磨を中心に活躍し、地鉄の研究をもとに自然の地肌や刀剣を研ぎ起す「差し込み研ぎ」技法を復活させることに貢献した。また、各種講習会により伝統的な技術を後進に伝綬することにもつとめ、万剣研磨技術の伝承、発展に尽力した。

池上忠治

没年月日:1994/06/28

 神戸大学教授で美術史家の池上忠治は6月28日午後10時45分、胃ガンのため神戸市中央区の神戸大学病院で死去した。享年57。昭和11(1936)年7月30日新潟県に生まれる。同35年東京大学文学部美術史学科を卒業し、同37年東京大学大学院美学美術史修士課程を修了。同年より東京大学文学部助手をつとめる。同38年フランス政府給費留学生としてフランスに渡り、パリ大学美術考古学研究所、エコール・ドゥ・ルーヴルに学ぶ。同41年帰国。同43年神戸大学文学部講師、同46年同助教授、同56年同教授となった。西洋美術史、特にフランスの18、19世紀美術史を専攻し、当時の日仏美術交流の一面を示すジャポニスムについて早くから調査・研究を進めた。おもな著書に『フランス美術断章』(美術公論社)、「随想フランス美術」(大阪書籍)、『世界美術大全集』第22巻「印象派の時代」第23巻「後期印象派の時代」(小学館)、訳書にリウォルド編『セザンヌの手紙」(筑摩書房、美術公論社)、ルネ・ユイグ著『イメージの力』(美術出版社)、矢代幸雄著『サンドロ・ボッティチェルリ』 (共訳、岩波書店)などがある。神戸大学文学部教授として教鞭を取り、また美術史学会西支部委員として学界に貢献したほか、ジャポネズリー研究学会常任理事をつとめた。神戸大学文学部発行の「芸術学芸術史論集」第7号に追悼文、年譜、文献目録が載せられている。

水野富美夫

没年月日:1994/06/19

 アフリカ在住の洋画家水野富美夫は現地時間の6月19日午前4時心不全のためケニアの首都ナイロビのナイロビ病院で死去した。享年76。大正6(1917)年6月20日東京芝に生まれる。昭和6(1931)年宮本三郎洋画研究所に学び、同21年白日会会友となり翌22年第23回同展で会友奨励賞受賞。翌23年同会会員となる。同25年第6回日展に「梅林」で初入選。同40年東南アジア、欧州等をめぐった後、エチオピアに滞在し、以後エチオピアの風景、女性を描き続ける。同42年一時帰国し野沢デパートで帰朝展を開催。同43年本格的にエチオピアに移住しアディスアベパに住んで制作し、白日会展に出品を続けた。同45年の大阪万国博覧会ではエチオピア館に特別出品。同61年からケニアの首都ナイロビに移り住み、同62年からは日本各地で「エチオピアの光と影」などと題して個展を開き作品を発表していた。

岩崎吉一

没年月日:1994/06/13

 東京国立近代美術館次長で、美術評論家の岩崎吉ーは、6月13日午後7時25分、肺がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年59。岩崎は、昭和10年5月13日、福岡県北九州市八幡西区香月町に生まれ、都立日比谷高校卒業後、学習院大学文学部にすすみ、富永惣ーの指導をうける。同38年学習院大学大学院修士課程を修了、同36年から東京国立近代美術館に勤務。その問、同44年から翌年にかけて、大阪万国博覧会開催にともなう、万国博美術館に勤務、展覧会企画および運営を担当。同54年に、同美術館美術課長、同57年からは、企画資料課長を歴任し、平成4年からは次長となった。在職中、「徳岡神泉遺作展」(昭和49年)、「フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術展」(同52年)、「東山魁夷展」(同56年)、「村上華岳展」(同59年)、「モディリアーニ展」(同60年)、「写実の系譜II 大正期の細密描写」展(同61)、「杉山寧」展(同62年)、「高山辰雄展」(平成元年)、「手塚治虫展」(同2年)等、数多くの企画展を担当した。さらに、こうした美術館活動のかたわら、「名古屋市美術館開館記念館 20世紀絵画の展開」(昭和63年)をはじめ、各地の美術館、新聞社等の企画展にも積極的に協力した。また、画集『村上華岳』(日本経済新聞社、昭和59年)、『平山郁夫画集』 (朝日新聞社、平成元年)、『小茂回青樹画集』(日本経済新聞社、同2年)、『定本徳岡神泉画集』(朝日新聞社、同5 年)等の画集の監修執筆など、代表的な近、現代の日本画家の作家論を中心に執筆活動も旺盛におこなった。その評論は、美術館で今泉篤男、河北倫明の薫陶をうけ、作家の全体像をつねに念頭におぎながら、その芸術の本質を把握しようとつとめる姿勢がつらぬかれていた。なお、歿後、亡くなるまでの十年間の日本画に関する代表的な論考をまとめた、論集『近代日本画の光芒』(京都新聞社、平成7 年)が公刊され、同書巻末に「岩崎吉一主要著作」として初期から晩年にいたるまでの著作目録が付されているので、参照されたい。

中川力

没年月日:1994/06/01

 洋画家中川力は、6月1日急性呼吸不全のため東京都千代田区の杏雲堂病院で死去した。享年75。大正7(1918)年10月4日台湾高雄市に生まれる。本名力。大阪の盛器商業学校を中退後、大阪中之島洋画研究所に通い洋画家を志した。同17年応召し同21年に復員、翌年から一水会展に制作発表を行った。同24年、第14回一水会展に「裸婦」で一水会賞を、同年の第3回日展に「踊子」で特選をそれぞれ受けた。同29年渡仏しパリでアカデミー・ジュリアンへ通い、翌年サロン・ドラールリーブルに出品、同31年帰国した。同年一水会会員、日展依嘱となったが、同34年一水会、日展を離れ、以後無所属で制作発表を行った。同64年、求龍堂より『中川力画集』を刊行する。

富岡惣一郎

没年月日:1994/05/31

 独自の白色を基調とする作品で、国際的に知られた新制作協会会員の洋画家富岡惣一郎は5月31日午後7時15分、急性腎不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年72。大正11(1922)年1月8日、新潟県高田市南本町2-12に生まれる。昭和14(1939)年新潟県立高田商業高校を卒業。同29年第18回新制作協会展に初入選。同35年より40年まで三菱化成工業株式会社のアートディレクターをつとめる。同36年第25回新制作協会展に「淡いもの」「黒いもの」を出品して新作品賞受賞。同37年同展に「黒い点B」「赤い点A」を出品して新制作協会賞受賞。また同年第5回現代日本美術展に「黒い線」を出品してコンクール賞を受賞する。同年第7回サンパウロ・ビエンナーレに「永久の流れ」を出品してサンパウロ近代美術館賞受賞。同年アメリカに旅行し個展を聞く。同40年より米国ニューヨークに住んで制作。同40年メキシコへ、同41年カナダ・アラスカへ、同42年カナダへ旅行。ニューヨーク滞在中は中間色を用いた平面性の強い抽象画を描いたが、異国にあって自らを育んだ、国土に根ざす制作が、国際的にも意味を持つことを認識する。同47年日本に帰国して三重県熊野に居住。翌48年1月より京都に住んで古くから描かれてきた日本の風景に取材して制作を始める。やがて画題を自らの郷里越後を含む雪国の風景にもとめるようになり、とりわけ雪の白さの表現に執着。トミオカ・ホワイトと賞称される、特殊な白絵具を大型のベインティングナイフで入念に塗り込んだ重厚なマティエール、その上に施された黒い線描で、墨絵風の閑寂な画風を築いた。同48年国立京都国際会館で、京都・熊野シリーズを展観する個展を聞いた後、同49年銀座和光及び札幌松坂屋で北海道シリーズを、同50年銀座和光で北海道東北シリーズを展観して、以降毎年和光で個展を開催。同59年「White No.1」で東郷青児美術館大賞受賞。平成3年新潟県八海山麓にトミオカ・ホワイト美術館が開設され、作品400余点が収蔵された。京王プラザホテルのステンレスエッチング壁画「雑木林」(昭和47年)、上越市庁館アルミエッチング壁画「雪国」(同51年)、長岡市図書館アルミエッチング壁画「雪国」(同61年)等公共施設への大規模壁画も制作。作品集に『富岡惣一郎白の世界」(同63年)等がある。

瀬戸浩

没年月日:1994/05/11

 益子焼の陶芸家瀬戸浩は5月11日午前9時10分肺がんによる呼吸不全のため栃木県河内郡南河内町の病院で死去した。享年53。昭和16(1941)年2月26日徳島市に生まれ、幼少期を鳥取市で過ごす。昭和39年京都市立美術学校工芸科陶磁器専攻科を卒業。富本憲吉、近藤悠三、藤本能道、清水九兵衛に師事し、在学中の同38年日本伝統工芸展に「白い壷」で初入選。新匠展にも入選する。同40年栃木県益子に築窯。同46年日本陶芸展に「灰釉刷毛目鉢」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同47年アメリカインディアナ大学、南コロラド州立大学講師として招聴され、渡米。翌48年ニューヨーク、コロラド、インディアナ州立美術館で個展を開催する。同49年、東京の南青山グリーンギャラリーで個展「原色による試み」を開催。同51年には同ギャラリーで個展「建築空間の為に」を開催し、従来の陶芸にとどまらず、新局面への模索を続けた。同53年国際交流基金によりフィリピン、タイ、インドネシアへ派遣され、また同年オーストラリア「アートヴィクトリア’78」に招聘されるなど、国際的にも活躍。同58年北関東美術展に「ストライブの板皿」を出品して優秀賞受賞。同年第7回日本陶芸展に「黒紬銀条文板皿」を出品して外務大臣賞を受賞する。同60年朝日陶芸展に招待出品。同58、60、61年には三越本屈にて「ストライプ」と題して個展を開催している。同55年東北新幹線宇都宮駅陶壁画「栃の木讃歌」等、公共の場の壁画も制作した。

田中青坪

没年月日:1994/05/07

 東京芸術大学名誉教授、横山大観記念館理事長、日本美術院評議員の日本画家田中青坪は、5月7日午前11時5分、心不全のため、東京都杉並区の病院で死去した。享年90。明治36(1903)年7月13日、群馬県前橋市に生まれる。本名文雄。東京神田の錦城中学校を3年で中退した後、太平洋画会洋画研究所に学んだが、大正10年に小茂田青樹に師事するようになる。同13年の第11回院展に「子女図」が初入選。簡潔な描写ながら、存在感のある少女と小児を描いた作品であった。その後は、昭和7年の第19回院展まで、毎回入選し、この年に、奥村土牛、小倉遊亀とともに同人に推挙された。同19年には、山本丘人とともに東京美術学校助教授となる。同34年には、東京芸術大学教授となる。また戦後もひきつづき院展に出品をつづけ、同42年の第52回展に出品の「春到」で、文部大臣賞を受けた。本作品は、自然の一角を濃密な描写と色彩でとらえた、情感豊かな扉風(四曲半双)の大作であった。さらに、同49年の第59回展出品の「浅間」からは、浅間山を主題に、スケールの大きい景観と近景の森や自然の対比を巧みに生かした風景画のシリーズを発表しつづけた。同60年の第70回展に出品した「武蔵野」が、院展への最後の出品となった。

安宅英一

没年月日:1994/05/07

 元安宅産業会長で、世界有数の東洋陶磁コレクション「安宅コレクション」を収集した安宅英ーは、5月7日午後1時、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年93。明治34(1901)年1月1日、安宅産業の前身である安宅商会の創立者弥吉の長男として香港に生まれる。大正13(1924)年、神戸高等商業学校を卒業して翌年安宅商会に入社し、向年より昭和9(1934)年まで同商会取締役をつとめる。戦後、同20年より22年まで安宅産業株式会社取締役会長をつとめた後、同30年より40年まで再び同役にあり、同40年相談役社賓に退く。この問、同26年に安宅産業株式会社が美術品収集を開始した際、その収集責任者となり、以後、同社が経営危機に陥り美術品収集を停止する同50年までの聞に東洋陶磁を中心とする総数約1000点、うち国宝、重要文化財十数点を含む「安宅コレクション」を築ぎ上げた。同コレクションの東洋陶磁は同52年、安宅産業株式会社が伊藤忠商事株式会社に合併されるのに伴い、エーシー産業株式会社に移管されたが、同57年に住友グループ21社によって大阪市に寄贈され、これを受けて大阪市立東洋陶磁美術館が設立された。美術の他、音楽活動の支援も行い、同12年以降、東京芸術大学音楽学部に奨学金「安宅賞」を拠出して現在に至っている。

細川宗英

没年月日:1994/04/30

 元東京芸術大学教授で新制作協会会員の彫刻家細川宗英は4月30日午後10時26分肝不全のため東京都文京区の東大病院で死去した。享年63。昭和5(1930)年7月25日長野県松本市に生まれる。東京芸術大学彫刻科で菊池一雄に師事し、同29年同科を卒業。同年同専攻科に進学し、在学中の同30年第19回新制作派協会展に「トルソO」「鳥になる女」で初入選。以後同展に出品を続ける。同31年東京芸術大学専攻科を終了して同校彫刻科副手となり、また、同年の第20回新制作展に「兜をかぶる男」「うつむく女」「三人の立像」を出品して新作家賞を受賞する。同33年秀作美術展に招待出品し、また新制作協会会員となる。同34年世界平和交友美術展に出品し、佳作賞受賞。同展出品に伴いモスクワ経由でウィーンを訪れる。同39年新制作展に「装飾古墳のイメージ」を出品し、翌40年高村光太郎賞受賞。同43年文化庁芸術家在外研修員として渡米し、メキシコ、ヨーロッパをも訪れる。同47年前年の作品「道元」で中原悌次郎賞を受賞し、同55年第1回高村光太郎大賞展で優秀賞を受賞。同52年母校東京芸術大学彫刻科助教授、同56年同科教授となった。同58年東京現代野外彫刻展に招待出品し優秀賞を受賞。上記の他の代表作として「王妃像」「王様と王妃」などがある。対象の形を忠実に再現する人体像から、人体を部分に解体して、静物などのそティーフとともに再構成する象徴的作風を示し、具象彫刻界に指針を示した。時に、号として「無水」を用いた。

立石春美

没年月日:1994/04/27

 日展参与の日本画家立石春美は、4月27日脳こうそくのため静岡県熱海市の病院で死去した。享年85。明治41(1908)年5月16日佐賀県に生まれる。本名春美。昭和2年上京し、翌年から朗峯画塾に入り伊東深水に師事する。同6年第12回帝展に「淑女」で初入選し、以後、帝展、新文展に出品した。戦後は日展を中心に制作発表を行い、同21年の第1回日展に「年寄」で特選を受け、同26年の第7回日展では「山荘の朝」で特選、朝倉賞を受賞した。同39年日展会員に推挙され、のち評議員、参与をつとめた。師深水に連なる美人画、人物画を得意としたが、簡略化した構図に独自の領域を築いた。また、昭和31年には、がんの権威中山恒明医博の依頼により、華岡青洲を題材に「麻睡実験する図」を制作した

山本陶秀

没年月日:1994/04/22

 備前焼き作家で轆轤の達人と称された国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の山本陶秀は、4月22日午後零時35分肺炎のため岡山市の岡山赤十字病院で死去した。享年87。明治39(1906)年4月24日、岡山県和気郡伊部町伊部(現・備前市伊部)に農業を営む父源次郎、母君の次男として生まれる。本名政雄。大正8(1919)年伊部尋常高等小学校を卒業し、同10年当時伊部の窯元として最大手だった黄薇堂の見習いとなって陶芸の道に入る。同12年伊部の窯元桃渓堂へ移り花器、花入れ細工物等を制作する本格的な作陶を始める。昭和8(1933)年、伊部に開窯して独立、同13年楠部禰弌に入門する。同14年第6回中国四国九県連合工芸展に花入れを出品して優良賞受賞。同16年にも同展で受賞する。同18年当時軍需省の管轄にあった国立京都窯業試験場の図案部長水町和三郎の発案により備前焼緋襷を応用した南方むけ食器を生産することとなり、その制作者に選ばれ、軍需省嘱託として備前焼きの皿などの食器制作にあたった。同23年国の技術保存認定を受ける。同26年北大路魯山人、イサム・ノグチらが伊部を訪れた際、交遊し作陶の面でも多くを学ぶ。同29年岡山県重要無形文化財作家に指定される。同30年第2回日本伝統工芸展に「備前旅枕花入」で初入選。以後同展に出品を続ける。同34年ブリュッセル万国博覧会に「緋襷大鉢」を出品してグランプリ金賞を受賞。また、同年日本伝統工芸会の正会員となる。同39年はじめて欧州旅行に発ち、オランダ、フランス、ドイツ、イギリスを訪れて美術品、史迹、古窯跡とともに現代の欧州陶芸を視察し、備前焼の価値を再確認する。同42年韓国へ赴きソウルを中心に歴史ある窯元を視察。翌43年には台湾、香港、マレーシア、シンガポール等東南アジアの視察旅行に赴く。同44年地元作家、窯元、陶商の団体である備前焼陶友会副会長に就任。同45年日本工芸会理事となる。同47年岡山県文化賞受賞。同51年「陶歴55年記念備前山本陶秀茶入展」を東京日本橋三越で開催し、同展を訪れた谷川徹三に評価されて翌52年毎日芸術賞受賞。同58年「山本陶秀喜寿記念展」を東京日本橋三越、大阪心斎橋大丸、小倉井筒屋で開催。同61年「山本陶秀傘寿記念展」を岡山天満屋、岐阜近鉄百貨居、大阪京阪百貨店、東京東急百貨店、小倉井筒屋で開催。同62年国指定重要無形文化財保持者「備前焼」に認定される。その後も平成元(1989)年東京日本橋三越で「人間国宝山本陶秀展」、同2年広島福屋で「作陶70年人間国宝山本陶秀展」、同3年名古屋松坂屋および東京日本橋三越で「人間国宝 備前山本陶秀展」を開催するなど多くの個展により作品を発表した。桃山期の「間合い」を重んじた備前焼に学び、華麗な作風を示した金重陶陽、大胆豪放な趣で知られた藤原啓という備前焼の人間国宝の作風に対し、陶秀は熟練を極めた轆轤技術によって均整のとれた端正、清楚な作品を制作した。画集に『備前山本陶秀作品集』(毎日新聞社 昭和49年)、『人間国宝 備前山本陶秀』(山陽新聞社 平成4年)等がある。

国松登

没年月日:1994/04/18

 国画会会員の洋画家国松登は4月18日午前4時4分、心筋梗塞のため東京都千代田区の駿河台日本大学病院で死去した。享年86。明治40(1903)年5月6日北海道函館に生まれる。昭和2年上京して帝国美術学校西洋画科で学ぶが、同校在学中の昭和6年に同郷の洋画の洋画家三岸好太郎に出会い、のち師事する。同7年道展に出品、同8年第3回独立美術協会展に「池」で初入選。同展には同12年まで出品をつづける。同13年より国画会に出品し始める。同14年帝国美術学校を卒業、また同年第14回国画会展に「薔薇と少女」を出品して国画褒状を受賞。また同年第3回文展に「雨霽るる」で初入選。同15年第15回国画会展に「ぶろんど」を出品して岡田賞を受け、同年会員となる。同20年全道展を設立し、創立会員となる。同34年北海道文化賞(芸術部門)を受賞。同36年欧米を訪れる。同52年札幌市民芸術賞を受賞。同57年北海道新聞社主催により、札幌で「画学55年回顧展」を開催する。その後間もなく「自のない魚」シリーズを描いたが、同30年代後半より「氷人」シリーズを描ぎ始め、白、緑、青など寒色系を基調とする清涼感のある色調で、情緒豊かな作風を増した。北海道立近代美術館で「風魔の心象-国松登展」を開催。同61年北海道新聞文化賞(社会文化賞)を受賞した。画集に『国松登画集』(同52年)がある。

to page top