本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





成瀬数富

没年月日:1993/07/05

 一創会会員の挿絵画家成瀬数富は7月5日午前8時57分、肝臓がんのため東京都世田谷区の吉川病院で死去した。享年73。大正9(1910)年1月、広島市に生まれる。高等小学校を卒業後、17歳で上京。宮本三郎らに絵を学び、挿絵画家として活躍。朝日新聞に連載された川口松太郎の小説「新吾十番勝負」をはじめ、東京新聞の連載小説の花登筺「氷山のごとく」(昭和54~56年)、三好徹「戦士たちの休息」(同58年)、毎日新聞連載小説の古川薫「天辺の椅子」(平成3~4年)などの挿絵を描いた。昭和54年3月に創立された一創会に参加し、出品を続けた。

鈴木信吾

没年月日:1993/07/04

 日本版画協会会員の版画家鈴木信吾は、7月4日午後5時31分、脳しゅようのため東京都品川区の病院で死去した。享年49。昭和19(1944)年5月19日、中国の満州に生まれる。同41年立教大学を卒業後、2年間彫金を学ぶ。同43年、シロタ画廊で、油絵の個展を開催する。同45年、日本美術家連盟の版画工房に入り銅版画の技法を学び、同46年、シロタ画廊で版画の個展を開く。同47年第40回日本版画協会展で同協会賞受賞。同年第3回版画グランプリ展、第6回現代美術展に出品。翌48年より54年まで滞欧し、はじめは油絵を描いたが、後半はアトリエ内で版画を研究する。この間の同49年第1回フランス・ツール市国際展、フランス・リヨン現代日本画展に出品。同51年ベルギー・オスタンド市ヨーロッパ絵画賞展に出品して銅メダル賞を受賞。翌年フランス・ヴィトリ・スウ・セイヌ市絵画展にも出品。帰国後は、東京版画研究所に学んだ。同52、56年および平成元年にはアメリカで開催された国際ミニアチュール展、昭和57年には韓国で行なわれた第2回韓国国際ミニアチュール展、同60年アメリカでの国際メゾチント・コンペティション、同62年イタリア・ビエラ国際版画展、同64年イギリス・ブリストル国際ミニチュール版画展に出品するなど、国際的に活躍した。国内でも平成2年第3回ミヤコ版画賞展ミヤコ賞受賞。昭和50、56、61年および平成2年にガレリア・グラフィカで個展を行なったほか、版画日動展、静岡県立美術館で開催された「フュージョン展」等、多くの展覧会に出品した。銅版画を得意とし、「サンマルタン運河シリーズ」を描いたマニエル・ノワールのほか、銅版にビュランで点を置いていく点描法、ステイプル・エングレーヴィングで高い評価を得た。代表作に「五月の小箱」、「小さな秋」「deja vu」等がある。没後の平成6年名古屋のギャラリー審美で個展が開かれた。

坂本幹男

没年月日:1993/06/30

 日展会員で、創元会会員の洋画家坂本幹男は、6月30日午後7時30分、腎不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年81。明治45(1912)年1月1日、熊本県玉名郡に生まれる。昭和9(1934)年、東京美術学校師範科を卒業、以後愛知県、群馬県、神奈川県で教職につき、同47年に退職した。また、画家としては同11年の文展に初入選、戦後は同22年の第3回日展から出品をつづけ、同35年の第3回改組日展では、「少女と鳩」が、同37年の「合奏」がそれぞれ特選となった。さらに創元会にも、戦前の同17年の第2回展から出品し、戦後も会員として出品をつづけた。日常の生活から取材したアンティームな情感を感じさせる作品を描いた。

佐田勝

没年月日:1993/06/24

 日本ガラス絵協会代表の洋画家佐田勝は6月24日午後1時24分、食道ガンのため東京都新宿区の東京医大病院で死去した。享年78。大正3(1914)年10月13日、長崎市に生まれる。幼少時、台湾、熊本、和歌山、北海道、姫路、東京などに住み、東京の攻玉社中学を卒業後、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事する。昭和14(1939)年3月同校を卒業、同年5月福沢一郎を中心とした美術文化協会結成に参加。戦時中の一時中断をはさんで同21年まで同人として出品するが、同22年からは自由美術家協会に会員として移り、同35年に退会し、美術グループ「同時代」を結成、同50年に解散するまで発表をつづけた。以後は無所属として、社会に関心を向けた独自の作品を描きつづけた。また、同14年から25年まで、芝浦工業専門学校(現在の芝浦工業大学)建築科で講師として、後に助教授として教鞭をとった。同26年には日本ガラス絵協会を創立した。ほかに、『美術用語辞典』(造形社、昭和40年)、『異端の画家たち』(共著、造形社、昭和44年)などの著作がある。

猪田七郎

没年月日:1993/06/18

 イノダコーヒー社長、二科会会員、京都文教短期大学名誉教授の洋画家猪田七郎は6月18日午後6時57分、食道がんのため京都市上京区の京都府立医大病院で死去した。享年75。大正6(1917)年11月3日、京都市上京区に生まれる。京都の私立第二工業高校を中退。二科会の洋画家錦義一郎に師事し、昭和23(1948)年第33回二科展に初入選。同33年同会会友に推挙される。同37年3月から5月まで欧米を旅行。同年第47回二科展に京都祇園祭りの鉾を描いた「鉾」を出品して会員に推挙された。同38年3月、約1カ月間の中南米、北アメリカの旅に赴く。同42年第52回同展に「惑る物語」を出品して会員努力賞を受賞。京都市展、関西総合美術展にも出品した。仏像、伝統芸能など、日本の伝統的なものに取材する作品が多く、昭和40年代からは舞妓を主に描いた。画面の背景空間を簡略にして主要なモティーフを大きくとらえ、コントラストの強い明暗表現を特色とする作風を示した。同38年に京都家政短期大学服飾衣裳科講師となって油彩画を教え、同40年同大教授となったほか、京都文教短期大学でも教鞭をとった。

笹島喜平

没年月日:1993/05/31

 国画会会員、日本版画協会名誉会員の版画家笹島喜平は5月31日午前9時40分、呼吸不全のため栃木県芳賀郡益子町の西明寺普門院診療所で死去した。享年87。明治39(1906)年4月22日、栃木県芳賀郡に生まれる。昭和2(1927)年4月、東京府立青山師範学校(現東京学芸大学)を卒業して教員生活に入る。独学で洋画を学び同11年、郷里の陶芸家浜田庄司の紹介により棟方志功に師事。平塚運一にも指導を受けた。同15年第15回国画会展に「南豆の海」で初入選。同16年第4回新文展に「山道」が入選し、これによって版画家となることを決意する。同18年第18回国画会展で会友に推される。同20年教職を退いて版画家として独立。同23年第16回日本版画協会展に「新秋古刹」「戦災跡芋畑」を出品して同会会員となる。同24年第23回国画会展に「油地獄板画冊」を出品し、同会会員に推挙される。このころから三越劇場での歌舞伎版画に取り組み、その制作を通じて写楽を知った。同25年日本版画協会を退会し、同27年棟方志功らと日本板画院を創立。同29年より毎年、東京日本橋高島屋で個展を開催。この間、同32年第1回東京国際版画ビエンナーレに「漁村」「山湖B」で入選。以後第5回展まで招待出品。同34年第33回国画会展に拓版画「風ある林」「森」を出品し、拓本を参考に、バレンを用いず版木に紙をあてて上から押す「拓刷り」技法を示して注目された。同40年、畦地梅太郎らと新秋会を結成し同48年まで毎年出品。同年笹島喜平版画展を益子町公民館で開催。同41年スイス、ザイロン市での第4回国際版画展に出品する。同42年第9回サンパウロ・ビエンナーレ展に「吉祥天A」「吉祥天B」「風神・雷神」などを出品。同43年3月笹島喜平版画展を足利市民会館ギャラリーで開く。同47年イタリア・ミラノ現代国際版画展に出品。同49年9月、畦地梅太郎、北岡文雄らと朴林会を結成する。同51年古稀を記念して『笹島喜平画文集』(美術出版社)を刊行。同53年笹島喜平版画展を水戸市文化センターで開催する。同57年喜寿記念笹島喜平展を東京日本橋高島屋で開催した。同展出品作は栃木県立美術館に所蔵されている。作品集に『笹島喜平版画作品集』(美術出版社 昭和39年)、画文集『一座』(美術出版社 昭和42年)。『笹島喜平版画集』(講談社 昭和55年)。『半画人・笹島喜平画文集』(美術出版社 昭和57年)等がある。仏教関係の尊像、社寺を描くことが多く、白黒の明快な対比、版木の彫痕が紙に凹凸としてあらわれる力強い作風を特色とした。

中谷泰

没年月日:1993/05/31

 春陽会会員で、元東京芸術大学美術学部教授の中谷泰は、5月31日午後8時40分急性腎不全のため東京都渋谷区の代々木病院で死去した。享年84。本名は泰一(たいいち)。明治42(1909)年5月20日、三重県松阪市に生まれる。昭和4(1929)年、上京して川端画学校、ついで春陽会洋画研究所に学んだ。同5年の第8回春陽会展に「街かど」が初入選。同7年より同会に出品をつづけ、同13年には「楽園追放」他で春陽会賞を受け、同18年に同会会員となった。同17年頃には、春陽会の創立会員である木村荘八に師事するようになり、それは木村が没するまでつづいた。また、同14年の第3回新文展に「秋日」、同17年の第5回新文展に「水浴」をそれぞれ出品、特選となった。戦後は、春陽会にひきつづき出品をするほか、同26年の第4回日本アンデパンダン展にも出品し、日本美術会に入会した。同時期の作品は、家族や静物をモチーフにしたアンティームな画風であったが、同28年制作の「乳房」(第30回春陽会展)、翌年の「流田」(第2回平和美術展)をさかいに、農民、漁夫などの労働者とその生活を主題に、社会的な意識の強い表現主義的な作品を描くようになった。しかし、同30年に初めて炭坑町を、翌年には愛知県瀬戸市を訪れ、その風土に強くひかれるようになると、その画面からは社会性が退き、人間のたゆまぬ労働で作り上げられた炭坑のボタ山や陶土の採掘跡をモチーフに油彩画の堅牢なマチエールと造形性が追求されるようになった。とくに、同33年の第35回春陽会展出品の「陶土」(東京国立近代美術館蔵)、翌年の第5回日本国際美術展に出品し、同展優秀賞を受賞した「陶土」などの代表作が描かれた。同46年には、東京芸術大学美術学部教授に任命され、同52年まで勤めた。また、同63年には、三重県立美術館において初期から近作にいたる油彩画99点、水彩・素描58点、版画9点による初めての本格的な回顧展が開催された。平成5年の第70回春陽会展に出品した「村の往還」が最後の発表となった。

山崎昭二郎

没年月日:1993/05/28

 文化庁選定保存技術「建造物彩色」保持者の山崎昭二郎は5月28日午後8時40分、消化管不全のため兵庫県赤穂市の赤穂中央病院で死去した。享年66。昭和2(1927)年3月5日、兵庫県赤穂市に生まれる。同25年東京美術学校工芸科図案部を卒業、同29年より同31年まで、小場恒吉を主任とする宇治平等院鳳凰堂の彩色文様の復元に従事。同31年以後は主任として社寺建築の文様復元を行ない、34年には京都市醍醐寺五重塔彩色文様の復元を行なったほか、同35年広島県明王院五重塔、同36年京都府海住山寺五重塔、同38年奈良県興福寺北円堂、同39年岩手県中尊寺経蔵、大分県富貴寺大堂、奈良県薬師寺東塔、福島県白水阿弥陀堂、同41年和歌山県金剛三昧院多宝塔、同42年滋賀県西明寺三重塔、同43年宮城県大崎八幡神社本殿拝殿、同44年京都府浄瑠璃寺三重塔、同45年奈良県唐招提寺金堂、同48、49年京都府東福寺三門、同52年広島県厳島神社五重塔、同55年滋賀県日吉神社末社東照宮社殿、同56年京都府教王護国寺五重塔、同57年京都府知恩寺経蔵、同59年滋賀県石山寺多宝塔、同60年同県宝厳寺観音堂、同61年奈良県霊山寺三重塔、同62年山梨県清白寺仏殿、同63年滋賀県園城寺毘沙門堂、同64年京都府蓮華王院本堂、平成2年和歌山県浄明寺三重塔、同3年京都府岩船寺三重塔、同4年奈良県興福寺三重塔の彩色文様復元図を作製した。これらは建築彩色文様の一部を復元したものであるが、この他に同50年正倉院御物「粉地彩絵八角几」模造に復元彩色を施す等の仕事もした。同54年国指定建造物彩色選定保存技術認定保持者に認定された。彩色文様復元図の多くは文化庁や東京国立博物館の所蔵になり、これらを展示した「日本建築の装飾彩色」展が平成2年3月、国立歴史民俗博物館で行なわれた。

渡辺正

没年月日:1993/05/27

 独立美術協会会員の洋画家渡辺正は、5月27日午前9時35分、胆管がんのため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年65。昭和3(1928)年5月14日、山形県西村山郡に生まれる。同23年、山形師範学校卒業、同30年武蔵野美術学校卒業、この年の第23回独立展に初入選する。また、同33年に初個展(東京銀座、ルナミ画廊)開催。同46年、及び翌年の第39、40回独立展において奨励賞を、さらに41回展では「二つの影」により独立賞と海老原賞を連続受賞する。その後も同展において受賞をかさね、同58年には同会会員となる。また、同51年の第12回現代日本美術展、同63年の第17回日本国際美術展にも出品した。代表作には、独立展に出品をつづけた「靜炎」のシリーズがあり、鮮やかな色彩のグラデーションによる明快な構成ながら、土着的な情念を感じさせる抽象絵画を残した。没後の平成6年6月には、郷里の山形美術館において「抽象の世界:渡辺正遺作展」が開催された。

猪熊弦一郎

没年月日:1993/05/17

 新制作派協会創立会員の洋画家猪熊弦一郎は、5月17日東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年90。国際的な抽象画家として知られた猪熊は、明治35(1902)年12月14日香川県高松市に生まれた。本名玄一郎。大正10年香川県立丸亀中学校を卒業後上京、本郷洋画研究所へ通い、翌年東京美術学校西洋画科に入学した。美校の同期生には、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平、山口長男らがいた。一時、病を得て休学したが、同14年から藤島武二教室に学ぶ。翌15年片岡文子と結婚、洗足にアトリエを構え、同年の第7回帝展に「婦人像」で初入選したが、この年再び健康を害したため東京美術学校は中退した。昭和2年、美校の同期生岡田、荻須らと上杜会を結成、また、帝展、光風会展に制作発表を行い、同4年第16回光風会展で光風賞を、第10回帝展に「座像」で特選をそれぞれ受けた。同6年光風会会員、同8年第14回帝展に「画家」で再び特選を受ける。同10年新文展発足に反対する有志と第二部会を組織し第1回展に「海と女」を発表したが、翌11年第二部会の新文展参加に反対し同会を脱退、光風会も退会し、小磯、佐藤敬、中西利雄ら同志と新制作派協会を結成し、第1回展に「二人」「馬と裸婦」を出品した。同13年渡仏し、同15年までの滞在の間、サロン・デザンデパンダン展に出品、また、この間ニースにアンリ・マチスを訪ねその指導を受け、藤田嗣治とアトリエを共にしたりした。同15年藤田、荻須らと同船し帰国、第5回新制作派協会展に「黄色い葉」「S氏の像」などの滞欧作を発表、以後、半具象によるモダニズム絵画の旗手として画壇をリードするに至る。一方、同15年には中国文化親善のため佐藤敬と南京方面に派遣され、同17年に陸軍省派遣画家となり、寺内萬次郎とフィリピン戦線に赴いた。戦後は同21年の第10回展から新制作派協会展に出品した他、美術団体連合展に毎回出品、日本国際美術展、現代日本美術展(第6回展に「ENTRANCE A」で国立近代美術館賞)にも第1回から出品した。同26年慶応義塾大学学生ホール及び名古屋丸栄ホテルホールの壁画制作で、第2回毎日美術賞を受賞する。また、同26年の第1回サンパウロ・ビエンナーレ展、翌27年米国ピッツバーグ市のカーネギー美術館における国際美術展に出品したのをはじめ、以後しばしば海外の国際展に参加した。同30年パリに向う途次立ち寄ったニューヨークに魅せられ、同地にアトリエを構え、翌年からニューヨーク・ウィラード画廊の所属画家となる。以後20年間ニューヨークを足場に制作活動を展開、この間に半具象のモダニズム絵画から幾何学的構成による抽象へと転じ、明るい色彩と単純な点や線による明快な構成に独自の作風をうち立て、戦後を代表する抽象作家の一人となった。同48年脳血せんを患ったため、同50年にニューヨークのアトリエを閉じ、翌年からは冬期をハワイで静養につとめた。夫人を亡くしてからの晩年は「顔」のシリーズに意欲を燃やし、人間の表情を曼陀羅風の構成で描いていた。戦後の作品に「猫と住む人」(第1回日本国際美術展)、「WALL STREET」(同41年、新しい絵画彫刻展、ニューヨーク他)、などがある他、JR上野駅コンコース壁画「自由」、東京会館ロビー壁画(モザイク)及び電灯装飾をはじめ数多くの公共空間の仕事にも従事し、また「小説新潮」の表紙絵でも親しまれた。なお、没後平成5年6月11日東京・青山葬儀所において、脇田和を葬儀委員長に新制作協会葬が執り行われた。 略年譜1902 12月14日 猪熊八太郎、マサエの長男として高松市に生まれる。本名玄一郎。1921 3月:香川県立丸亀中学校(現丸亀高等学校)を卒業、上京し、本郷洋画研究所に通う。1922 4月:東京美術学校西洋画科に入学。(同期生に牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平、等)まもなく病気のため休学し帰郷。1924 上京し、美校の1年下のクラスに再入学(2年生)。代々木の駒場に住む。1925 4月:藤島教室において藤島武二に師事。1926 5月:片岡文子と結婚、洗足にアトリエを構える。10月:第7回帝展に「婦人像」初入選。この年再び健康を害し東京美術学校西洋画科を中退。1927 大分市のきむら画廊で最初の個展を開く。3月:岡田謙三、荻須高徳等と「上杜会」を結成。10月:第8回帝展「眠れる女」入選。1928 10月:第9回帝展に「赤き服の少女」入選。1929 2月:光風会第16回展で光風賞を受賞。10月:第10回帝展に「座像」特選。1930 2月:光風会会友となる。この頃より「弦一郎」と号す。10月:第11回帝展に無鑑査として「コンポジション」を出品。1931 2月:光風会会員となる。7月:田園調布にアトリエを移す。10月:第12回帝展に「二人」入選。1932 10月:第13回帝展に「画室」入選。1933 10月:第14回帝展に「画室」特選。以降帝展無鑑査となる。1934 10月:第15回帝展に無鑑査として「ピアノの前」を出品。1935 7月:新帝展に反対し不出品の盟を結んだ旧帝展第2部無鑑査の有志と第二部会を組織する。10月:第二部会第1回展に「海と女」を出品。1936 7月:第二部会の新文展参加に反対して同会を脱退、また光風会からも退会する。同月25日、志を同じくする、小磯良平、佐藤敬らと新制作派協会を結成する。その後脇田和、鈴木誠も加盟する。11月:第1回新制作派協会展を開く。「二人」「馬と裸婦」を出品。1937 12月:第2回新制作派協会展に「昼」「黄昏」「夜」を出品。1938 5月:靖国丸で渡欧、主としてフランスに滞在し、イタリア、スイスなどに旅行する。滞欧中にサロン・デザンデパンダンに2回出品。また、ニースにアンリ・マティスを訪ね指導・助言を受ける。1939 藤田嗣治と共にアトリエを構えるなど渡仏中の日本人画家と交友。「パークの子供達」「葉をくわえた女」「ホテルクロマニヨン」などの作品を描く。戦争避難のため藤田嗣治夫妻とドルドーニュ州レゼジーに疎開する。1940 パリ空襲のさなか「マドモアゼルM」を描く。この作品はフランス滞在最後の作品となる。6月:欧州大戦の難を避けて白山丸で藤田嗣治、荻須高徳らと共にマルセイユを出発。アフリカを経て8月横浜着。9月:第5回新制作派協会展に滞欧作品「黄色い葉」「S氏の像」「白い鳩」「絹の首巻=葉を持つ女」(宮城県美術館蔵)を出品。中国文化視察のため佐藤敬と南京方面に派遣される。10月:紀元2600年奉祝美術展覧会に「女と木の葉」を出品。1941 9月:第6回新制作派協会展に「長江埠の子供達」「ジプシーの子供達」「ルロットのある風景」「二人」を出品。1942 3月:陸軍省派遣画家の一人に選ばれる。ニューグランドで朝日新聞社主催の南方派遣画家壮行会に出席。フィリッピン戦線に寺内萬治郎と共に取材のため派遣される。9月:第7回新制作派協会展に「B17の残骸」「飛行機の残骸」「戦争の後(コレヒドール)」「マニラ港」を出品。1943 6月:新戦場従軍画家26名の中に選ばれ、小磯良平とビルマに派遣される。8月:第8回新制作派協会展に「篭を頭にのせる女」「椅子によれる女1」「椅子によれる女2」「南の子供」を出品。1944 3月:東京都美術館で開かれた陸軍美術展に「○○方面鉄道隊」(泰面鉄道建設)「肉迫」を出品。腎臓を煩い千葉医科大学病院に入院、手術を受ける。その後、神奈川県津久井郡吉野町に疎開する。藤田嗣治、荻須高徳、佐藤敬、中西利雄、脇田和らも同地に疎開する。1946 6月:日動画廊で開かれた新制作派協会会員展に出品。9月:第10回新制作派協会展に「二人」「N氏の像」「初秋」「山と樹」「裸婦」「楽器と女」「緑陰」を出品。1947 6月:第1回美術団体連合展(毎日新聞社主催)に出品。田園調布美術研究所を開設する。(昭和30年3月閉鎖)9月:第11回新制作派協会展に「二人」「立てるダンスーズ」「窓」「丸い顔の娘」「扇を持つ女」を出品。1948 9月:第12回新制作派協会展に「正面裸婦」「窓と裸婦」「緑衣」「横たはる裸婦」「臥裸婦」を出品。1949 9月:第13回新制作派協会展に「コレクショナーK氏の像」「赤い服と猫」「黒い鳥と海」「箱の中の小猫」「青い服」「皿の上の猫」を出品。また建築部に出品した「敷物」が入選。1950 1月:現代美術自選代表作15人展(読売新聞社主催)に「赤い上着」(香川県文化会館蔵)「葉をくわえた女」(同)「娘と葉」「箱の中の小猫」「婦人と猫」を出品。9月:第14回新制作派協会展に「バレリーナ夢想」「六つの顔」「絵を描くN氏」を出品。イサム・ノグチが来日、親交を結ぶ。昭和24年から昭和25年にかけて名古屋丸栄ホテルにおいて大ホールの壁画「愛の誕生」を制作。1951 1月:慶応義塾大学学生ホール壁画、名古屋丸栄ホテルホール壁画に対して第2回(昭和25年度)毎日美術賞を贈られる。9月:第15回新制作協会展に「立てる群像」「座せる群像」を出品。10月:第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。1951年秀作美術展(朝日新聞社主催)に「座せる群像」を出品。12月:津田山商工省技術研究所において上野駅中央ホールの壁画「自由」を制作、完成す。12月27日除幕式。1952 5月:サロン・ド・メに「猫と二人の子供」「子供と猫」「坐れる二人」を出品。5月:第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「猫と住む人」を出品。9月:第16回新制作協会展に「猫によせる歌」を出品。また、建築部に家具デザイン「寝椅子」を出品。アメリカ、ピッツバーク市のカーネギー美術館における国際美術展に「猫と花」を出品。1953 5月:第2回日本国際美術展に「からす」を出品。東京八重洲口に壁彫を制作。9月:第17回新制作協会展に「人と猫No.1」「人と猫No.2」「猫と鳥」「魚と猫」「鳥と猫」「猫達」「子供・猫・魚」を出品。また建築部に「サイドテーブル」「テーブル」「椅子」「アケサイドテーブル」を出品。1954 5月:第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「鳥と遊ぶ子供達」を出品。(5/4~6/12)6月:ブリヂストン美術館において近作展を開く。「猫達C」「鳥・猫・子供・魚」「二匹の猫B」等を出品。9月:第18回新制作協会展に「鳥・人・魚」「四匹の猫」を出品。1955 5月:ニューヨークのブルックリン美術館における第18回国際水彩画ビエンナーレに出品。5月:第3回日本国際美術展に「馬と道化」を出品。10月:勉強のためパリに向う途中に立ち寄ったニューヨークの街に惹かれ、以来20年間同市にアトリエを構え創作活動を続ける。ピッツバーグ美術展に出品。1956 4月:ニューヨークのウィラード画廊において新作の個展(第1回)(4/3~28)を開き「埴輪」等を出品。以来ウィラード画廊の所属作家となる。5月:ボストンのコルドヴァ美術館において個展(5/13~6/19)を開く。アメリカ水彩画展に出品。ニューヨーク・リンカンセンターのジャパントレードセンターで開かれたジャパン・インフルエンス・イン・モダン・ハウス・デザイン展に出品。夏:メキシコを旅行する。1957 7月:現代の美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に「コレクショナーK氏」(1949年作)を出品。8月:ヴェネズエラのカラカスで、11月プエルトリコのデゴ・ディボギャラリーで個展を開く。ニューヨークにおいて、日米協会運営委員を帰国するまで続ける。また、ニューヨークの日本総領事館の顧問(文化交流)、日本貿易振興会(JETRO)の顧問(文化交流係)を委嘱される。1958 ボストン近代美術館におけるニッポニズム展(現代日本作家展)、シンシナティ美術館におけるアメリカの2世紀展、ピッツバーグ国際美術展にそれぞれ出品。香川県庁舎(丹下健三設計)に四面の陶画、ニューヨーク高島屋に壁画、日本航空ニューヨーク支店に室内装飾(金属による噴水)を制作する。1959 1月:東京国立近代美術館における戦後の秀作展に「コレクショナーK氏」を出品。1月:インディアナポリスのジョン・ヘレン美術館の現代アメリカ水彩画展、ブルックリン美術館における国際ビエンナーレに出品。9月:第5回サンパウロ・ビエンナーレに「極地設立」「極」等、7点を出品。フィラデルフィア美術館においてB.D.Bernstein夫妻のコレクションによる猪熊弦一郎展を開く。1960 日米親交100年祭のカタログをデザインする。12月:エール大学のアートギャラリー展に出品。1961 5月:第6回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「太陽の環境」を出品。第42回ピッツバーグ国際美術展に出品。ニューヨークギャラリー展に出品。9月:第25回新制作協会展に「作品(赤)」「作品(茶)」を出品。1962 10月:メアリー・ワシントン大学展に出品し賞を受ける。1963 5月:第7回日本国際美術展に「無重力」を出品。10月:メアリー・ワシントン大学展で前年の受賞を記念し、イノクマルームが設けられ、「御神楽」等15点を特別出品。1964 ニューヨークにおいて朝日生命ビルにモザイク壁画「愉快な散歩」を制作。5月:第6回現代日本美術展に「ENTRANCE-A」(国立近代美術館賞受賞、東京国立近代美術館蔵)「ENTRANCE-B」(神奈川県近代美術館蔵)を出品。グッゲンハイム美術館に作品「UN TITLED」(1963~64年作)が収蔵される。10月:第43回ピッツバーグ国際美術展に「BIRTH OF GRAY」(1962年作)を出品。1965 4月:サンフランシスコとニューヨーク近代美術館主催の新しい絵画彫刻展(1966年にかけて巡回展を開く)に「WALL STREET」200号(現在サンフランシスコ美術館蔵)を出品。5月:10年ぶりに帰国する。5月:第8回日本国際美術館に「都市計画」を出品。10月:東京の国立近代美術館における在外日本作家展に「Confusion and Order」(東京国立近代美術館蔵)「夜祭」を出品。1966 3月:ニューヨークに帰る。5月:第7回現代日本美術展に「都市概念」「都市配分」を出品。この年に開場した新帝国劇場(谷口吉郎設計)のロビーにステンド・グラス「律動」を制作。ほかに彫刻的オブジェ「熨」及びライティングのデザインを行う。また、大阪のアメリカンビル(吉村順三設計)にも二つのオブジェ(噴水彫刻・壁画彫刻)を制作。第1回ジャパン・アートフェスティバルに出品。ニューヨーク近代美術館に作品「SUB WAY」(1966年作)が収蔵される。9月:第30回新制作協会展に「PARAD(A)」等を出品。1967 5月:第9回日本国際美術展に「桃色の地図」を出品。9月:第31回新制作協会展に「BLUE CITY」を出品。10月:第44回ピッツバーグ国際美術展に「HIGHWAY GREEN」を出品。ニューヨーク、チェスマンハッタン銀行に作品「歌舞伎No.2」(1958年作)「CITY PLANNING-E」(1964年作)、「CITY COMPOSITION」(1966年作)が収蔵される。1968 5月:第8回現代日本国際美術展に「HIGHWAY GREEN」を出品。1969 3月:帰国する。5月:猪熊弦一郎展(毎日新聞社主催、毎日美術賞の受賞者を対象とした個展)を東京高島屋で開く。(5/27~6/1)9月:第33回新制作協会展に「驚くべき風景B」を出品。1970 2月:文化庁優秀作品買上として「驚くべき風景B」が買上げられる。(東京国立近代美術館蔵)12月:大阪万国博美術館に招待出品する。1971 2月:フィラデルフィア・ミューゼアム・オヴ・シビックセンターで開かれたジャパン・アート・フェスティバルで「猪熊弦一郎の芸術」を紹介される。5月:帰国(第3回目)する。8月:シルクスクリーン展をムカイ・ギャラリーで開く。東京会館のロビー壁画(モザイク)及び、電灯装飾を制作する。1972 7月:小田急ハルク画廊で開かれた新制作協会スペースデザイン部グループ展に「AIR OF NEW YORK」を出品。10月:グッゲンハイム美術館に作品「LANDSCAPE AZ」が収蔵される。1973 東京国立近代美術館(1/5~2/17)及び、京都国立近代美術館(9/24~11/14)に開かれたアメリカの日本作家展に「風景CX」(京都国立近代美術館蔵)等を出品。グッゲンハイム美術館の「20年間のアメリカ作家展」に出品。10月:日本に帰る。11月:ニューヨークに帰るにあたり新制作協会の会員と送別会を開いた席上、脳血栓により倒れる。1974 9月:第38回新制作協会展に「二つの岸A(黄)」等を出品。1975 5月:健康を害し、ニューヨークでの活動が困難となったので、アトリエを閉じるためニューヨークへ赴く。9月:ニューヨークを離れ、ハワイで静養する。9月:第39回新制作協会展に「LANDSCAPE-D」「Landscape E」を出品。1976 9月:第40回新制作協会展に「RAINBOW Z1」「RAINBOW Z2」を出品。昭和51年の冬から避寒のためハワイで静養をする。1977 9月:第41回新制作協会展に「角と丸BX」「角と丸CW」を出品。1978 9月:第42回新制作協会展に「丸角都市」「地図でない地図」を出品。1979 3月:東京国立近代美術館の評議員となる。4月:第1回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「地図でない地図」を出品。6月:箱根の彫刻の美術館にモザイクによる大壁画(音の世界=10m×5m)を制作。6月21日、胃潰瘍のため東京女子医大で手術を受ける。9月:第43回新制作協会展に「地図の中の日曜日」「花嫁のスケジュール」を出品。1980 3月:第2回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「地図の中の日曜日」を出品。9月:第44回新制作協会展に「絵の中に住む絵」(香川県文化会館蔵)「透明なる都市」を出品。11月:勲三等瑞宝章を受章。1981 3月:第3回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「絵の中の絵」を出品。9月:第45回新制作協会展に「宇宙は機械の運動場No.1」「宇宙は機械の運動場No.2」を出品。9月:朝日生命ギャラリーで開かれた、現代日本絵画の流れ展に出品。(ポーランドに巡回)1982 2月:ホノルルのアカデミー・オブ・アートにおいて個展を開く。(2/5~3/7)3月:第4回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「観客のいないサーカスB」を出品。9月:香川県文化会館において回顧展を開く。第45回新制作協会展に出品。1983 4月:第5回日本秀作美術展に「エネルギッシュな対話」を出品。9月:第47回新制作展に「星からの手紙ラブNo.1」「星からの手紙ラブNo.2」を出品。1984 6月:第6回日本秀作美術展に「宵の遊詠都市」を出品。9月:第48回新制作展に「遊泳する窓」「宇宙胚胎」を出品。1985 6月:第7回日本秀作美術展に「宇宙胚胎」を出品。9月:第49回新制作展に「窓と星座」「形の対話」を出品。1986 5月:第8回日本秀作美術展に「形の対話」を出品。9月:第50回新制作展に「通信衛星」「銀河旅行」を出品。1987 5月:第9回日本秀作美術展に「銀河旅行」を出品。7月:和光ホールで小説新潮の表紙絵原画展を開く。(18日~25日)9月:第51回新制作展に「太陽は待って居る」「原始鳥と機械」を出品。パリ・サントル・ジョルジュ・ポンピドゥーで行われた前衛の日本展に出品。10月:丸亀市が市制90周年事業として猪熊弦一郎美術館の建設を発表。ギャラリーミキモトで個展を開く。(30日~11月10日)香川県立丸亀高等学校図書館壁画「風車と太陽」を制作。1988 1月:妻文子死去。6月:第10回日本秀作美術展に「太陽は待って居る」を出品。9月:香川県県民ホールの壁画「21世紀に贈るメッセージ」緞帳「太陽と月の住むところ」を制作。香川の置県百年を記念して香川県へ作品100点を寄贈。第52回新制作展に「太陽と原始鳥」「ポートレイトの会話」を出品。10月:地下鉄半蔵門線三越前駅のホーム壁画に、壁画「創造の街」36面を制作。版画集「惑星通信88」を制作。11月:3日香川県文化功労者として香川県より表彰される。1989 3月:パリ・グラン・パレ美術館で開催されたSAGA89展に「惑星通信88」を出品。6月:第11回日本秀作美術展(読売新聞社主催)に「顔(FACES)10」を出品。9月:第53回新制作展に「三つの言葉」「三つのヴィーナス」を出品。1990 6月:第12回日本秀作美術展に「二つのヴィーナス」を出品。9月:第54回新制作展に「鳥達とヴィーナス」「鳥達の日記帳」を出品。1991 3月:25日丸亀市猪熊弦一郎現代美術館ゲートプラザ壁画「創造の広場」除幕式、美術館定礎式。丸亀市名誉市民証を授与される。5月:香川県多度津町町民会館ホール緞帳「明日に生きる」の原画制作。6月:第13回日本秀作美術展に「鳥達の日記帳」を出品。第55回新制作展に「顔・犬・鳥」を出品。11月:22日丸亀市猪熊弦一郎現代美術館が落成する。開館記念猪熊弦一郎展を開催、60点出品。12月:20日第1回よんでん芸術文化賞を受賞する。日本アイ・ビー・エム本社ビルに壁画「極点」を制作。1992 3月:横浜パシフィコの第1回NICAF(国際コンテンポラリーアートフェア)に出品。5月:所有するすべての作品などを丸亀市に寄贈する旨の文章を認める。以降、順次丸亀市猪熊弦一郎美術館に搬入。6月:第14回日本秀作美術展に「顔・犬・鳥」を出品。9月:ギャルリーMMGにて猪熊弦一郎モノタイプ展開催。第56回新制作展に「顔達の祭日」を出品。11月:猪熊弦一郎画集「FACES」刊行。卆寿記念猪熊弦一郎リトグラフィ集「顔ファミリー」発行。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて猪熊弦一郎卆寿記念心友イサムノグチとともに展を開催、25点出品。1993 1月:祝90祭猪熊弦一郎展に対して第34回毎日芸術賞を授けられる。5月:17日逝去、90歳。6月:第15回日本秀作美術展に「ロボット・顔・犬」を出品。9月:川崎市第三庁舎市民ホール壁画「ロボット誕生」落成。第57回新制作展に遺作9点が出品される。(本年譜は「猪熊弦一郎遺作展」-丸亀市猪熊弦一郎現代美術館-図録所収年譜によった。)

中村一郎

没年月日:1993/05/11

 日展評議員の洋画家中村一郎は、5月11日午後5時43分、急性呼吸不全のため岡山県玉野市の市民病院で死去した。享年74。大正7(1918)年10月1日、岡山県玉野市に生まれる。昭和26(1951)年、第7回日展に初入選、同32年の第13回展では、「熱処理工場」が特選となった。同32年から翌年にかけて渡欧、その折に取材した作品をもとに同34年に最初の個展(東京、日本橋画廊)開催。同52年には、日展審査員となり、翌年から会員となった。また、長年にわたる功績に対して、同48年に岡山県文化奨励賞、同63年には岡山県文化賞を受賞した。風土に根ざした重厚なマチエールの風景画を多く残した。

板橋一歩

没年月日:1993/04/05

 二紀会委員の彫刻家板橋一歩は4月5日午後6時46分、肺がんのため富山県東礪波郡井波町の病院で死去した。享年82。明治44(1911)年3月12日、鹿児島県姶良郡に生まれる。本名政義。昭和6(1931)年鹿児島県立薩南工業学校建築科を卒業。同8年東京高等工芸学校図案選科を修了。同9年富山県井波町立井波尋常高等小学校の教員となり、同16年富山県立高岡工芸学校、同17年同県立高岡商業学校教員となった。同36年富山県立高岡工芸学校へ移り同45年停年退職するまで同校で教鞭をとる一方で制作を続けた。同26年第7回日展に「靴磨きの少年」で初入選。以後同展に出品を続ける。同28年JCA世界彫刻コンクールロンドン展に「無名政治犯像」を出品して入賞。日展には同39年まで出品を続けたが、同40年第19回二紀展に「歩け歩け」を出品し、以後同展に出品を続ける。同43年第22回二紀展に「ベトナム母子像」を出品して同人優賞受賞。同年9、11月にはこの作品をサイゴンに設置するためベトナムを訪れた。同51年欧州にスケッチ旅行に赴き、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、オランダを巡った。同55年第34回二紀展に「難民キャンプの子供」を出品して文部大臣賞受賞。同61年インドへスケッチ旅行。同63年二紀会評議員となった。平成3年第46回二紀展に「朝のジョギング(ゆっくり走る)」を出品して田村賞を受けた。社会問題を作品に反映させた制作が多い。富山県の芸術文化にも寄与し、同48年より富山県彫刻家連盟委員長、同50年同県芸術文化協会参議となったほか、同55年富山県井波彫刻伝統産業会館館長となった。同49年には富山県文化功労者として表彰されている。作品集に同50年刊行の『板橋一歩彫刻作品集』がある。

深沢紅子

没年月日:1993/03/25

 一水会常任委員、女流画家協会創立会員の洋画家深沢紅子は3月25日午前6時、心筋こうそくのため山梨県南都留郡山中湖村の別荘で死去した。享年90。明治36(1903)年3月23日、岩手県盛岡市に生まれる。父四戸慈文、母キヌ。大正8(1919)年盛岡高等女学校を卒業。12歳頃から日本画を学んでいたことから、同年女子美術大学日本画科に入学する。同10年日本画科から洋画科に転じ岡田三郎助に師事。同12年同校を卒業。同年同郷の洋画家深沢省三と結婚する。同14年第12回二科会に「花」「台の上の花」で初入選し、以後昭和5年まで同展に参加した。昭和2(1927)年、師岡田三郎助の紹介で和田三造による日本標準色協会の創立に参加し、以後2年間、標準色の選定に加わった。同12年有島生馬、安井曽太郎らによる一水会の創立に参加して以後同展に出品を続ける。同16年第5回同展に「スカーフの女」を出品して一水会賞受賞。同20年郷里岩手に帰り、盛岡短期大学美術部、岩手美術研究所等で美術指導にあたる。戦後もしばらく盛岡にとどまり、同21年に一水会が再結成されるとこれに参加して同年会員となる。同24年第11回同展に「姉妹」を出品して会員優賞受賞。同27年同会委員となった。この間の25年から女流画家協会にも出品する。同30年東京に移り、同年より同43年まで自由学園で講師として美術指導に当たった。同36年日米交歓美術展に「農婦」を招待出品。同年ソビエト日本美術展に「木の実のかんむり」を招待出品する。女性や花をモティーフに、明るく柔かい画風を示した。同54年6月、類焼によりアトリエが全焼し、アトリエ所在作品全てを焼失した。代表作に「立てる少女」(昭和34年作東京国立近代美術館蔵)、「さんさ踊」(岩手県都南村役場蔵)、「まり」(日本医科大学蔵)、「雫石あねこ」(岩手県庁蔵)などがある。

黒光茂樹

没年月日:1993/03/21

 日展会員の日本画家黒光茂樹は、3月21日午前6時21分、心不全のため京都市中京区の病院で死去した。享年83。明治42(1909)年7月25日、愛媛県周桑郡に生まれる。大正14(1925)年、京都に出て、金島桂華に入門、昭和5(1930)年には京都市立絵画専門学校予科に入学。在学中の同9年、第15回帝展に「瓜田」が初入選。同13年、同校研究科を卒業、この年の第2回新文展に「花圃立夏」入選、以後新文展、戦後の同22年からは日展に出品をつづけ、同28年の第9回日展に出品した「青銅」が特選(白寿賞・朝倉賞)となる。同26年、関西総合美術展開催にあたり、同展は塾単位の出品を原則としていたため、桂華が主宰する「衣笠会」に会員として参加し出品した。同会は桂華が没した翌年の同50年まで独自に展覧会を年に一度開催していたが、この年の第17回展をもって解散した。また、同28年、東西作家合同による龍土会が結成され参加した。同34年には、第一回個展開催(大阪高島屋画廊)、同38年まで毎年開催した。同48年、改組第4回日展では審査員をつとめ、翌年から同展会員となる。同51年4月、愛媛県立美術館で黒光茂樹展開催。同60年から3年間をかけて、妙心寺霊雲院(御光の間)の障壁画を制作。同62年、第5回京都府文化賞受賞。自然の一角を、非常に計算された講成でまとめあげた作品を多く残した。

市川禎男

没年月日:1993/02/25

 童画、版画を制作した市川禎男は2月25日午前8時48分、脳こうそくのため東京都杉並区の前田病院で死去した。享年72。大正10(1921)年1月28日、東京都下谷に生まれる。昭和15年川端画学校洋画科修了。在学中の同14年から16年まで劇団東童の美術部員として舞台美術、装置などを制作。同16年から22年まで新児童劇団美術部長をつとめる。同23年自由美術展に出品。同24年日本童画会に入会し同会会員となる。同26年第5回日本童画会展で日本童画会賞受賞、同27年日本版画協会展で根市賞を受賞し同会員となる。同33年共著『子どもの舞台美術』(さ・え・ら書房)でサンケイ児童出版文化賞受賞。初山滋に師事し、児童図書の挿絵、装丁、版画を制作した。また、日本美術家連盟に所属し同41年著作権法改正にあたり、美術家著作権運動に積極的に参加した。代表作品に『大地の冬の仲間たち』『サムライの子』『雪ぼっこ物語』『いさご虫のよっ子ちゃん』『チョウのいる丘』『赤い貨車』『ぼくのおうち』『空いろのレンズ』『紙すきの村』『天の園』『光と風と雲と樹と』等がある。

菅沼貞三

没年月日:1993/02/20

 常葉美術館名誉館長、美術史家菅沼貞三は、心不全のため静岡県藤枝市立志太総合病院で死去した。享年92。明治33年12月11日静岡県小笠郡に生まれる。大正15年3月慶応義塾大学文学部美学美術史科を卒業し、同年11月より昭和3年4月まで京都帝国大学附属図書館嘱託勤務。昭和5年1月には開設をひかえた、東京国立文化財研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所の職員に採用され、同年6月より助手を勤めた。その後、嘱託を経て同18年4月美術研究所所員に任官した。同23年12月に研究所を退官するまで機関誌『美術研究』に健筆を揮い、同7年1月の創刊号より数多くの研究成果を公表した。退官後、静岡大学教育学部(同26年)、愛知大学文学部(同28年)非常勤講師などを経て、同36年4月慶応義塾大学文学部助教授、翌37年4月同大学文学部教授となり、同44年3月定年退職した。この間、同30年6月より同43年まで大和文華館研究員嘱託となり、同館の刊行する『大和文華』誌上に多くの論考を発表した。同45年4月愛知学院大学教授。同48年4月には常葉学園短期大学客員教授となって、同53年3月愛知学院大学を定年退職すると翌4月より常葉美術館名誉館長の職に就いた。また、昭和35年慶応義塾大学より文学博士の学位を得、静岡県文化財保護審議会委員(同27年3月より58年12月)、東京都文化財専門委員(同43年8月より46年7月)を勤めた。 美術研究所時代より文人画を中心に日本の近世絵画の研究を進めた。とくに郷里と縁の深い渡辺崋山の研究の基礎を確立して大きな功績をあげた。没後150年を記念して『定本・渡辺崋山』(全3巻、郷土出版社、平成3年)が常葉美術館の編集によって刊行されたが、崋山研究の基礎資料を集大成した本書に監修者・執筆者として参画したのが菅沼の最後の大きな仕事になった。主要論文「大雅の二作解説」(「三田文学」16-10、昭和4)「崋山の花鳥画」(「三田文学」17-11、昭和5)「狩野修理筆絵馬図-京都・妙法院蔵」(「美術研究」1、昭和7)「海北友松筆松竹梅図-京都・禅居庵蔵」(「美術研究」5、昭和7)「阿弥陀如来像-東京・八橋徳次郎氏蔵」(「美術研究」6、昭和7)「狩野探幽筆草木花写生図-東京帝室博物館蔵」(「美術研究」8、昭和7)「須菩提像・阿修羅像-奈良・興福寺蔵」(「美術研究」11、昭和7)「尾形光琳筆梅図-東京・津軽義隆氏蔵」(「美術研究」14、昭和8)「扇面古写経-滋賀・西教寺蔵」(「美術研究」16、昭和8)「崋山の肖像画」(「美術研究」18、昭和8)「なよ竹物語絵巻に就て」(「美術研究」24、昭和8)「長春の作品に就て」(「美術研究」28、昭和9)「金銅仏四躯-大阪・観心寺蔵」(「美術研究」32、昭和9)「応挙筆写生図巻-京都・西村総左衛門氏蔵」(「美術研究」34、昭和9)「正宗寺の蘆雪筆襖絵」(「美術研究」36、昭和9)「観蘭亭の障壁画」(「美術研究」39、昭和10)「金地院茶室の襖絵」(「美術研究」44、昭和10)「文晁筆公余探勝図に就て」(「美術研究」47、昭和10)「上杉重房像-神奈川・明月院蔵」(「美術研究」48、昭和10)「蕭白筆柳下鬼女図-東京美術学校蔵」(「美術研究」53、昭和11)「等伯筆猿猴図-京都・龍泉庵蔵」(「美術研究」56、昭和11)「法然上人像-茨城・常福寺蔵」(「美術研究」57、昭和11)「椿山筆中戸祐喜像-神奈川・鈴木八重氏蔵」(「美術研究」62、昭和12)「舞踏図-東京・梅原龍三郎氏蔵」(「美術研究」63、昭和12)「崋山筆于公高門図-新潟・中野忠太郎氏蔵」(「美術研究」64、昭和12)「椿山筆高久靄厓像-静岡・大谷喜太郎氏蔵)(「美術研究」65、昭和12)「弥勒菩薩像-大阪・野中寺蔵」(「美術研究」65、昭和12)「桜間清厓」(「美術研究」67、昭和12)「崋山の肖像画法に就て」(「南画鑑賞」6-7、昭和12)「大雅の三丘紀行」(「美術研究」73、昭和13)「光琳筆藤原信盈像に就て」(「美術研究」76、昭和13)「崋山筆滝沢琴嶺像」(「美術研究」83、昭和13)「光琳筆肖像画余談」(「星岡」97、昭和13)「崋山筆虫魚帖」(「美術研究」86、昭和14)「後藤祐乗画像を中心として」(「美術研究」95、昭和14)「椿山の肖像画」(「美術研究」100、昭和15)「崋山晩期の作品」(「美術研究」107、昭和15)「崋山の守困日歴(公刊)」(「美術研究」107、昭和15)「崋山覚書」(「塔影」17-1、昭和16)「崋山の特質」(「東美」7、昭和16)「崋山の守困日歴1~4」(「三田評論」520~523、昭和16)「続崋山の肖像画」(「美術研究」114、昭和16)「崋山の四州真景」(「美術研究」120、昭和16)「田原藩御日記抄について」(「南画鑑賞」11-7、昭和17)「崋山初期の作品」(「美術研究」129、昭和18)「崋山中期の作品」(「美術研究」132、昭和18)「崋山とその弟子椿山」(「清閑」16、昭和18)「光琳肖像考」(「芸文研究」1、昭和26)「光琳筆中村内蔵助像」(「大和文華」5、昭和27)「崋山の四州真景図」(「MUSEUM」28、昭和28)「崋山の人物素描画」(「大和文華」12、昭和28)「椿山の山海奇賞」(「国華」758、昭和30)「崋山筆証如上人画像」(「大和文華」17、昭和30)「北小路大膳大夫像」(「大和文華」18、昭和31)「婦人像解説」(「大和文華」24、昭和32)「黄檗の大雅」(「南画研究」2-3、昭和33)「禅宗画の本質」(「史学」30-4、昭和33)「松平定吉画像」(「大和文華」26、昭和33)「植松家の応挙と大雅」(「大和文華」30、昭和34)「絵馬風俗図解説」(「大和文華」32、昭和35)「崋山の于公高門図稿」(「三彩」124、昭和35)「駿牛図解説田中親美氏蔵」(「大和文華」35、昭和36)「十二月風俗図考」(「大和文華」37、昭和37)「大雅画禅の説」(「哲学」三田哲学会、46、昭和40)「自性寺の大雅堂」(「墨美」154、昭和40)「大雅研究序説」(「美学」65、昭和41)「山陽著賛の木米作画」(「大和文華」47、昭和42)「文人画の研究」(「美学」75、昭和43)「竹田の亦復一楽帖」(「哲学」三田哲学会、53、昭和43)「竹田の船窓小戯帖」(「芸文研究」29、昭和45)「崋山筆毛武遊記図巻-桐生付近素描図巻-」(「大和文華」73、昭和60)「大雅の「三丘紀行」-三老遊境想像にするにたえたり」(「墨」60、昭和61)主要著書『崋山の研究』座右宝刊行会、昭和22(木耳社より複刊、昭和44)『崋山』中日新聞社、昭和37『池大雅-人と芸術』二玄社、昭和52『渡邊崋山』(日本の美術162)至文堂、昭和54『渡邊崋山-人と芸術』二玄社、昭和57

今泉元佑

没年月日:1993/02/18

 社団法人・日本陶磁協会監事の古陶磁研究家今泉元佑は2月18日午後1時9分、急性心不全のため東京都大田区の東急病院で死去。享年86。明治39(1906)年5月26日、佐賀県西松浦郡有田町に第11代今泉今右衛門の三男として生まれる。本名吉郎。早稲田大学第二高等学院を中退。備前の古陶磁のほか、特に古伊万里、鍋島、古九谷等の資料収集、研究を行った。家業の今泉商会に勤務する一方、昭和53年に古伊万里鍋島研究所を設立。著書に『眼の勝負』(昭和38年 徳間書店)、『色鍋島と松ケ谷』(同44年 雄山閣)、『日本の名陶 古伊万里と柿右衛門』(同45年 雄山閣)、『陶磁大系 鍋島』(同47年 平凡社)、『初期有田と古九谷』(同49年 雄山閣)、『日本のやきもの 鍋島』(同50年 講談社)、『初期鍋島と色鍋島』(同61年 河出書房新社)、『古伊万里と古九谷』『古伊万里の染付』(双方とも同62年河出書房新社)、『日本陶磁大系 鍋島』(平成2年 平凡社)等がある。

水谷頴介

没年月日:1993/02/04

 神戸市の「六甲アイランドCITY」の都市計画等にたずさわった建築家水谷頴介は2月4日午後0時15分、胃ガンのため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去した。享年57。昭和10(1953)年2月14日、東京都に生まれる。兵庫県立芦屋高校を卒業して神戸大学工学部建築学科に学び、大阪市立大学大学院で工学研究科都市計画を専攻して修士課程を修了した。在学中の昭和31年日本建築学会競技設計で集合住宅が入選。同年尼崎記念館競技設計で第一次入選を果たし頭角をあらわす。同34年久米建築事務所に入る。翌年より同45年まで大阪市立大学工学部助手をつとめ、この間の同40年、鈴蘭台地区開発基本計画によって日本都市計画学会石川賞を受賞した。同45年より同56年まで都市・計画・設計研究所で活躍し、また同47年より61年まで社会システム研究所理事・所長をつとめた。同61年からは株式会社コー・プランの監査役であった。後進の指導にもつくし、同44年より55年まで大阪芸術大学講師、同44年より58年まで九州芸術工科大学講師、同54年より神戸大学講師、平成3年より神戸芸術工科大学講師として教鞭をとった。主要作品としては、都市計画に大阪湾総合開発(同40年)、神戸のアーバンデザイン(同41年)、福岡シーサイドももち市街地計画(同52年~)、都市設計に大阪既製服縫製近代化協同組合枚方工場団地基本計画・設計監理(同36年)、神戸市白川土地区画整理事業基本設計(同41年)、神戸港ポートアイランド基本設計(同45年)、板宿地区未来像計画(同49年)、建築設計に西川造園設計事務所(同40年)、グインホーム(同41年)、太陽工業枚方工場、住宅設計に垂水の家「高田邸」(同49年)、塚口の家「木川田邸」(同51年)等がある。論文、著作も多く、著者には『地域・環境・計画』(SD選書、同47年)、『家家』(共著、学芸出版社 同59年)がある。ルイス・カーン、村野藤吾を高く評価し、都市と自然、文化伝統などに配慮した都市計画・設計を特色とした。

井手宣通

没年月日:1993/02/01

 日本芸術院会員で文化功労者の洋画家井手宣通は2月1日午前6時15分、呼吸不全のため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年81。明治45(1912)年2月1日、熊本県上益城郡御船町に生まれる。大正7(1918)年御船小学校、同13年熊本県立御船中学校に入学。中学3年の頃画家を志し、昭和5(1930)年東京美術学校に入学。石膏デッサンを長原孝太郎に、人体デッサンは小林万吾に学んだ後、藤島武二教室に進学。同8年小絲源太郎を知り、師事することとなる。同年第20回光風会展に「コスチューム」で、第5回第一美術協会展に「女」で初入選。また、同年の第14回帝展に「漁夫と子供」で初入選し、以後官展への出品を続ける。同9年第21回光風会展に「兵士と馬」を出品してK夫人賞受賞。在学中から早熟な画才を示した。同9年から「坊也」と号する。同10年東京美術学校西洋画科を卒業し、同校彫刻科に再入学。北村西望、朝倉文夫の指導を受ける。同年第22回光風会展に「子供と馬」を出品してF氏賞受賞。翌11年光風会会友、同14年同会員に推される。同15年東京美術学校彫刻科を卒業するのを機に「坊也」の号を廃する。同年第27回光風会展に「子供二人」を出品して佐分賞受賞。同17年海軍報道班員としてジャワ、ボルネオ、セレベス、シンガポール等へ赴く。同19年大使館嘱託として南京、蘇州、上海に滞在。同20年中国から帰り、翌21年伊豆にアトリエを構え、第2回日展に「斜陽」を出品して官展に復帰する。同22年朝井閑右衛門らと新樹会を創立した。同30年より31年まで渡欧、同37年日展に「野馬追」を出品するが、この制作にあたり福島県原町市の相馬野馬追祭を見たことから、日本の伝統的祭りに興味を抱き、以後祭りを好んで描くようになった。同39年第7回社団法人日展に「賀茂祭」を出品して文部大臣賞受賞、同40年第8回日展に出品した「千人行列」に対し、同41年日本芸術院賞が贈られた。同41年光風会を退会する。同44年日本芸術院会員に就任するとともに日展理事となる。同52年日洋会を創立して運営委員長に就任する。同54年1月、胃潰瘍で入院後、熱海で静養し、のち熱海にアトリエを建てたため、この地に取材した作品が多くなる。同58年日本経済新聞社主催による「画業五十年井出宣通展」を東京の日本橋三越で開き同年『井出宣通画集』を発行。平成2(1990)年に文化功労者に選ばれ、同3年日展理事長となった。晩年は大規模な建築装飾も手がけ、昭和56年横浜駅東口に陶板画「横浜の詩」を制作したほか同59年大阪駅のアクティ大阪誕生記念「大阪の過去 現在 未来」(ドイツ製アンティック・グラスによる制作)と、アルミキャストによる「世界にひらく大阪」をルイ・フランセン、角卓と共同制作した。鮮やかな色彩、活達な筆触を特色とする活気ある画風を示した。帝展・新文展・日展出品歴第14回帝展(昭和8年)「漁夫と子供」、15回「子供」、第二部会第1回展(同10年)「子供と馬」、文展鑑査展(同11年)「湖畔」、第1回新文展(同12年)「砂丘」、2回「蒼空の話」、3回「兵の子供達」、4回「協力」、5回不出品、6回「ジャワ踊り」、戦時特別美術展(同19年)「農民」、1回日展(同21年春)不出品、2回「斜陽」、3回不出品、4回「真鶴風景」、5回「夏の伊豆多賀」、6回「和歌の浦」、7回「みかん畑」、8回「四谷風景」、9回「横浜」、10回(同29年)「強東風」、11回不出品、12回「古城の朝」、13回「日照雨」、第1回社団法人日展(同33年)「初港」、2回「高西風」、3回「涼夜」、4回「蔵王堂」(吉野山)、5回「野馬追」、6回不出品、7回「賀茂祭」文部大臣賞、8回「千人行列」、9回「祇園祭」、10回(同42年)「火祭」、11回「御車車」、第1回改組日展(同44年)「春日おん祭」、2回「斎王」(葵祭)、3回「古都の祭」、4回「管弦祭の物語」、5回「天草殉教祭」、6回「風流傘」(葵祭)、7回「薪能」、8回「旗祭」(相馬野馬追)、9回「古都名月」、10回(同53年)「達陀」(お水取り)、11回「馬で来た花嫁」、12回「梅雨晴れ」、13回「熱海夕景」、14回「瞬花開宴」、15回「虹立つ」(同58年)、16回「飛雲」、17回「東海旭日」、18回「かたらい」、19回「彩雲駿河湾」、20回(同63年)「颱風一過の朝」、21回「楠若葉の二重橋」、22回「横浜のハイカラさん」、23回「日本のまつり京都葵祭」、24回「関越道を行く」、25回(平成5年)「月渡る」

蛯子善悦

没年月日:1993/01/31

 国画会会員、サロン・ドオトンヌ会員でフランス在住の洋画家蛯子善悦は1月31日午後3時30分、急性骨髄機能不全のため、パリのオテル・デュー病院にて死去した。享年61。昭和7年(1932)年1月17日、北海道椎内市に生まれる。終戦とともに函館市に移住。北海道在住の画家田辺三重松、橋本三郎に学んで絵を描き始める。同32年武蔵野美術学校を卒業し、同36年第35回国画会展に「風(白)」で初入選。同37年第36回国画会展に「将軍」「貴婦人」を出品して国画賞を受け、同39年同会会友、同40年同会会員となった。同年現代日本美術展にも出品する。同44年安井賞展に出品。同47年渡仏して帰国するが、同49年再渡仏し、以後パリに住んで制作した。同51年よりサロン・ドオトンヌに出品を続け、同52~55年および57年にはサロン・デ・ザンデパンダンにも出品。同60年サロン・ドオトンヌ会員となった。日本では同56、58、62年に日動サロンで、60年、平成2年に日動画廊で個展を開き、パリでは同59、61年および平成元年にギャラリー・ジョエル・サランで個展を開催したほか、札幌、大阪等で個展を開いた。柔らかい光のふりそそぐ海の風景や室内の静物を好んで描き、淡灰色を帯びた白を基調とし、用いる色彩の数を限って、彩調の交響する明るく洒脱な画風を示した。

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