本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





金光松美

没年月日:1992/05/11

 米国ロサンゼルス市居住の洋画家金光松美は、5月11日肺ガンのため同地で死去した。享年69。金光は広島市出身の移民を父に、米国ユタ州オグデン市に生まれ、3歳で帰国し日本で教育を受け、旧制中学校卒業後の昭和15(1940)年再び渡米した。ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで国吉康雄らに学び、第二次大戦中は欧州戦線に従事し、レジエなどに師事した。戦後、墨絵と抽象画を融合した独自の画風に向い、1950年代以降抽象表現主義の旗手の一人としてニューヨークで活躍、また、1950-60年代初めにかけてジャックソン・ポロックやデ・クーニングらと交友した。1962年、ニューヨーク近代美術館の「十四人のアメリカ人」展の一人として出品する。1960年代に入り、フランス、イタリア、ハワイ、サンフランシスコと巡り、1965年にロサンゼルスに移り、リトル・トーキョーの自宅を拠点に創作活動を展開した。作風は次第に東洋的、叙情的な抽象画へ向い、また、リトグラフ制作にも力を注いだ。1967年の国際青年美術家展で日本文化フォーラム賞を受賞。代表作に「白と黒」(ニューヨーク近代美術館蔵)などがある。1983年までカリフォルニア州立大学バークレー校で教えた。

菅谷邦敏

没年月日:1992/05/05

 日展評議員、光風会会員の洋画家菅谷邦敏は、5月5日正午、呼吸不全のため川崎市中原区の病院で死去した。享年79。大正3(1914)年2月2日、栃木県栃木市に生まれる。昭和11(1936)年中央大学法学部を中退。川崎市富士電機株式会社に務めるが、同20年から小絲源太郎に絵を学び、同21年第1回日展に「人形ノアル静物」で初入選。以後日展に出品を続け、同22年第3回展に「飾棚」を出品して特選、同25年第6回日展に「雨」を出品して再び特選を受賞した。また、同22年第33回光風会展に「ギヤマンのある静物」で初入選するとともに光風賞を受け、同年同会会員となった。同36年渡欧し翌年帰国。同年の第5回社団法人日展に「飛行機雲」を出品して菊華賞を受賞。同40年日展会員、同57年同評議員となった。初期には静物画を中心に制作したが、後、風景画を多く制作するようになり、雪景、水のある風景などを描くことを好んだ。

尾田龍

没年月日:1992/05/01

 国画会会員の洋画家尾田龍は5月1日午前9時12分、急性心不全のため、東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年85。明治39(1906)年8月21日、兵庫県姫路市に生まれる。大正14(1925)年姫路中学を卒業して上京。川端画学校に学び、翌15年に東京美術学校西洋画科に入学するが、当初は文学や演劇に熱中した。昭和3(1928)年より川島理一郎の金曜会に出席する。同4年、進学とともに絵画に専念し、同年の第16回二科展に「朝の聖堂」で初入選。同年1930年協会展にも「虚墟」「工事場」で入選し、第1回国際美術協会展に「雨後」「麦畑」を出品して国際美術協会賞を受けた。翌5年にもこれらの会に出品。同6年東京美術学校を卒業する。同7年東京市一橋高等小学校美術教師となり、以後59歳で姫路西高校を退くまで長く教職にあって画業を続けた。同12年まで二科会に出品したが、翌15年より国画会に参加、同19年同会会友となった。同20年戦火を避けて帰郷。同21年第20回国画会に「塑像」「菩薩像」を出品する一方、姫路市展開設委員となり、その第1回展に「菩薩頭」「明月」「門」を出品して姫路市長賞を受けた。以後、同展と国画会展を中心に活動。同27年国画会会員となる。同28年富士製鉄株式会社(同45年新日本製鉄となる)の季刊誌に表紙絵を依頼されたことから製鉄に取材した作品を描くようになり、同33年第32回国画会展に「製鉄所の人々(熔鉱炉)」「製鉄所の人々(平炉)」を出品して以降「鉄をつくる」を主題に連作を続け、同42年に至った。同42年中近東、ヨーロッパ、同43年ケニア、タンザニアを訪れ、同51年にはソ連を経由して英、西、ベルギー等を旅した。この間、同44年姫路文化賞、同50年兵庫県文化賞を受賞。同48年より同57年まで姫路学院女子短大教授をつとめた。同54年大阪日動画廊で「尾田龍画業50年記念展」、同61年に姫路市立美術館で「画業60年 尾田龍展」、同年姫路のヤマトヤシキ百貨店で「傘寿記念 尾田龍の世界」展が開かれており、画集に『アフリカスケッチ 尾田龍』(昭和45年)、『尾田龍画集1982』(車木工房出版 同57年)、自叙伝に『春風秋雨』(同61年)がある。

前田正範

没年月日:1992/04/29

 日本新工芸家連盟評議員、光風会会員の陶芸家前田正範は、4月29日午後2時35分、多臓器不全のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年63。昭和3(1928)年7月3日京都市に生まれる。本名正範。京都第二商業学校を卒業して、同28年京都陶芸家クラブに参加。6代清水六兵衛に師事する。同30年第11回日展に五雲の号で「青緑釉華器」を出品して初入選。翌年第12回展にも五雲の号で「緑釉花器」を出品。同年関西綜合美術展で受賞。同32年より正範の号を用いる。同年現代日本陶芸展朝日新聞社賞、京都工芸美術展知事賞を受け、京展でも受賞した。この頃は表面に多くの装飾をほどこした縄文土器風の作風を示したが、昭和30年代後半に入ると、左右非対称の形態等にプリミティブな要素は残しながら、より幾何学的で単純な製形を行なうようになった。同46年京展無鑑査となり、以後出品を依嘱される。同53年「明日をひらく日本の現代工芸展」に「條映」を出品して受賞。同年日本新工芸家連盟の設立に参加する。同54年同展に「蒼」を出品して同会会員に推されるとともに、同年第11回社団法人日展「砂丘にて」を出品して特選受賞。同60年第71回光風会展に「映」を出品して光風工芸賞を受け会員に推挙される。また、同年第18回日本新工芸展に「映」を出品して全日空賞受賞。同61年第18回社団法人日展に「朝陽」を出品して特選となり、同年日本新工芸家連盟評議員となった。同62年第9回日本新工芸展に「創」を出品して会員佳作賞、翌年同展に「揺」を出品して会員賞、平成4(1992)年第13回同展に「白映」を出品して会員賞を受けた。晩年は円筒、円錐型を変形させ左右非対称の単純な形態の表面を微妙に波打たせ、斬新な作風を示した。

日和崎尊夫

没年月日:1992/04/29

 木口木版の第一人者で日本版画協会会員の日和崎尊夫は4月29日午後7時40分、食道ガンのため高知市の図南病院で死去した。享年50。昭和16(1941)年7月31日高知市に生まれる。同38年武蔵野美術大学を卒業。同年畦地梅太郎に板目木版を学び、翌年から木口木版を独学。同41年「星と魚」「星と植物」シリーズで日本版画協会新人賞、翌42年同協会賞を受賞。同44年第2回フィレンツェ国際版画ビエンナーレで金賞を受賞した。同49年文部省芸術家在外研修員として渡欧。同53年スペイン・バルセロナで開かれた「現代日本の10人の版画家」展に出品。同55年バングラディシュで開かれた「現代の東洋美術展」に出品するなど、日本の伝統的木版画技術を現代に生かす作家として注目され、国際的に活躍した。同57年、郷里高知にアトリエ「白椿荘」を建てて制作の拠点とし、平成2年には第1回高知国際版画トリエンナーレ展を提案してその実現に尽力。同3年7月、「KARPA’89 REQIEM」で第5回山口源大賞を受けた。木口木版画家による「鑿の会」に参加。同会の先輩であった城所祥没後、木口木版の第一人者と目され、嘱望されていた。代表作に「KARPA」シリーズ、「海淵の薔薇」「五億の風の詩」等があり、画集には「博物譜」「星と舟の唄」「ピエロの見た夢」「薔薇刑」「フレシマ」「緑の導火線」等がある。

三宅正太郎

没年月日:1992/04/29

 帝京大学教授の美術史家三宅正太郎は4月29日午前3時46分、肺炎のため東京都板橋区の帝京大学病院で死去した。享年84。美術評論にも筆をふるった三宅は、明治40(1907)年10月2日、父の任地であった鹿児島市に生まれた。東京新宿区の余丁町小学校、府立第四中学校、浦和高等学校を経て、昭和2(1927)年東京大学文学部に入学。美学美術史学科に学んで、同5年卒業する。同7年読売新聞社学芸部に入り、同16年上海総局主任、同19年広東総局長を経て、サイゴン支局長を歴任。同21年読売新聞社を退いて新聞三社連合事務局主事となった。同40年2月、同局を退き、同年3月より跡見学園短期大学教授となる。同50年帝京大学教授となった。近現代美術を主に論じ、著書に『横顔の作家たち』(新自由社 昭和22年)、『作家の裏窓』(北辰堂 同30年)、『パリ留学時代』(同35年)、『画壇』(同39年)、『現代美術の東と西』(同48年)、『回想の画家達』(同61年)等がある。日本ペンクラブ、美術評論家連盟にも属した。

木島安史

没年月日:1992/04/27

 千葉大学工学部教授の建築家木島安史は4月27日午後0時24分、心不全のため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年54。昭和12(1937)年5月9日、現在の朝鮮民主主義人民共和国黄海南道海州市に生まれる。同31年東京教育大学付属高校を卒業。同37年早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業し、同年インド・チャン・ディガール市大学設計事務所を経てスペイン・マドリッド市アントニオ・ラメラ建築事務所につとめる。この間同年9月よりスペイン・マドリッド高等工業エドアルド・トロハ研究所に留学。同41年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了して、丹下健三都市・建築設計研究所に入る。翌42年エチオピア・アジスアベバ市ハイレセラシェ1世大学講師となる。同45年芝浦工業大学非常勤講師となり、翌46年YAS都市研究所を設立するが、同年より熊本大学工学部助教授となり、同研究所を退く。同57年熊本大学工学部教授、平成3年千葉大学工学部教授となった。この間、昭和46年ザ・デザインハウス・蓼科、同49年ザ・デザインハウス・松下、同50年上無田神社公民館、同55年熊本市白川公園久世寿等の建築設計を行ない、同59年球磨村森林組合球泉洞森林館の建築では同年の日本建築学会賞を受賞。同63年瀬戸大橋記念博覧会空海ドーム、同64年アジア太平洋博覧会九州電力館等パヴィリオン建築をも手がけ、平成元年熊本県立東稜高校の建築により村野藤吾賞を受けた。また没後の同5年、小国町西里小学校によりくまもと景観賞、第7回いらか賞を受けている。

岡田淡雅

没年月日:1992/04/18

 日本南画院常務理事の日本画家岡田淡雅は、4月18日午後11時15分肝臓ガンのため岡山県倉敷市の病院で死去した。享年78。本名は武一郎。大正2(1913)年12月8日岡山県倉敷市に生まれる。大阪で南画家矢野橋村に内弟子として学び、大阪美術学校日本画科本科を卒業した。昭和40年に師橋村が没したのちは、東京の横尾深林人に師事した。この間、昭和15年大阪毎日新聞・東京日々新聞主催紀元2600年奉祝展に「夕ぐれ」を出品、小室翠雲の主宰になる大東南宗院にも出品した。また昭和35年に再興された日本南画院で師橋村は同年副会長、39年会長となったが、淡雅も同展に出品。文部大臣賞、文化賞、院賞、会長賞、奨励賞などを受賞し、常務理事をつとめた。このほか大阪市展、大潮展にも出品。昭和58年には岡山県美術展の審査員を委嘱された。代表作に「梁川帰舟」「西瓜番」「阿哲残秋」「淡月」などがある。

ジョセフ・ラヴ (Joseph Love)

没年月日:1992/04/15

 元上智大学文学部教授で、西洋美術、現代美術評論を執筆する一方、墨絵や木版画の制作にもあたったジョセフ・ラヴは、4月15日午後8時58分、急性肺炎のため、東京都多摩市の病院で死去した。享年62。1929年8月1日、アメリカ、マサチューセッツ州ウースターに生まれる。同56年ボストン大学神学部修士課程を修了し、同年イエズス会士として来日。64年に上智大学神学部修士課程を修了。67年にはアメリカ、コロンビア大学美術史科修士課程を修了した。後、再来日し、89年まで上智大学で美術史を教えた。現代美術評論もよくし雑誌「美術手帖」等に執筆。木版画や墨絵を制作する作家でもあり、61年の米国ワシントンD・Cにあるコーコラン美術館での個展をはじめ、66年ニューヨークのアロンゾ・ギャラリー、71年サンタ・クララのディセセット美術館、73年オーストラリア・シドニーのボニソン・ギャラリー等各国で個展を開いた。日本では1972年東京の南画廊での個展を皮切りに、75、76年東京のオオサカ・フォルム画廊で、78年から81年まで毎年ギャラリー手で、83、84年ギャラリーQで個展を開き、85年IBM川崎市民ギャラリー、90年にはINAXギャラリー、92年にはパルテノン多摩でも個展を開催した。80年代後半から体の自由を失なって車椅子生活に入り、詩人大岡信、谷川俊太郎ら友人の支援を得て活動していた。カトリック司祭でもあり、著書に『教えるヒント学ぶヒント』(新潮社 1982年)、『夜を泳ぐ』(リブロポート 1991年)がある。

江本義理

没年月日:1992/04/11

 前東京国立文化財研究所保存科学部長で、文化財の非破壊検査など保存科学の権威であった江本義理は、4月11日午後3時、膿胸による食道大動脈破裂のため横浜市金沢区の横浜市立大病院で死去した。享年66。大正14(1925)年7月3日、東京市下谷区に、生物学者江本義数の長男として生まれる。学習院初等科、中等科、高等科を経て昭和20(1945)年4月東京帝国大学理学部化学科に入学。同23年3月同科を卒業して、同年4月から法隆寺国宝保存工事事務所の委嘱により、法隆寺壁画の調査に参加した。同年12月、国立博物館保存修理課保存技術研究室勤務となる。以後官制の変更にともない同25年9月、文化財保護委員会保存部建造物課保存科学研究室勤務、同27年4月東京文化財研究所保存科学部化学研究室勤務、同29年4月東京国立文化財研究所保存科学部化学研究室勤務となった。同42年3月、同部主任研究官、同46年5月同部化学研究室長となり、同50年4月から同62年3月停年退職するまで保存科学部長をつとめた。この間、同42年4月から平成4年4月まで東京芸術大学美術学部講師、同58年4月から同63年9月まで図書館情報大学講師、同63年4月から平成4年4月まで早稲田大学第一文学部講師、同63年6月からは永青文庫常務理事をつとめた。東京国立文化財研究所を退職後は、同所名誉研究員となったほか、平成2年4月に、同62年4月から講師をつとめていた昭和女子大学生活美学科教授となった。戦後、わが国の文化財の科学的調査方法が未確立な状況の中で、他分野の検査方法を文化財調査に取り入れる試みを続け、昭和30年、サイクロトロンによる放射化分析を行ない、その後は蛍光X線分析法を導入した文化財の析質調査・研究に力を注いだ。同34年に国の重要文化財に指定され、その後真贋が問題となった「永仁の壷」の調査に当たって用いたのもこの方法で、その調査結果が決定的な証拠となって同作品は36年3月31日に重要文化財指定を解除されている。こうした材料分析の他、文化財保存にも尽力し、同47年に発見された高松塚古墳壁画の保存のほか、敦煌、エジプト・ルクソールの王家の谷等、海外の文化財保存にもたずさわった。学界においても、文部省学術審議会専門委員、日本学術会議考古学研究連絡委員会委員、日本文化財科学会理事、同評議員、古文化財科学研究会副会長などをつとめた。主要論文に「古文化財の材質調査における蛍光X線分析法の利用」(「美術研究」220)、「蛍光X線分析による土器・瓦中の鉄・ルビジウム・ストロンチウム・イットリウム・ジルコニウムの定量」(「保存科学」16号)、“Coloring Materials Used on Japanese Paintings of the Protohistric Period & Related Topics”(第7回国際研究集会プロシーディングス)等があり、没後に『文化財をまもる』(アグネ技術センター刊)が刊行されている。年譜は同書に詳しい。

藤本韶三

没年月日:1992/04/04

 「アトリエ」「三彩」「古美術」等の美術雑誌を刊行した美術ジャーナリスト藤本韶三は、4月4日午前0時8分、呼吸不全のため東京都目黒区の病院で死去した。享年95。明治29(1896)年10月3日、長野県下伊那郡に生まれる。同44年長野県立飯田中学校を中退して上京。写真製版印刷会社に勤める一方、白馬会葵橋洋画研究所に学び黒田清輝に師事する。のち、川端龍子、山本鼎の指導を受け、山本の農民美術研究所の仕事に参加する。同12年、山本らの勧誘により美術月刊誌「アトリエ」の編集に創刊時から従事。昭和14(1939)年まで編集長をつとめた。また同14年10月には雑誌「造形芸術」を創刊する。同16年、美術雑誌統制により「造形美術」を「画論」と改題、同18年再統制により大下正男らと日本美術出版株式会社を設立してその専務取締役となり、雑誌「美術」を発行した。同21年美術出版社から「みづゑ」を復刊するとともに月刊誌「三彩」を創刊。同32年造形芸術研究所出版部(のち三彩社と改称)を創立し、美術出版社から「三彩」を譲り受け、同誌の発行を続けた。同38年雑誌「古美術」を創刊。多くの画家、評論家と交遊し、また自ら多田信一、松原宿の名で評論にも筆をふるった。著者に『画室訪問1・2』(三彩社、昭和44年、同47年)『青龍社とともに』(美術出版社)などがある。

山本兼文

没年月日:1992/04/03

 二紀会会員の彫刻家山本兼文は4月3日午前7時29分、筋委縮性側索硬化症のため鳥取市の鳥取赤十字病院で死去した。享年73。大正7(1918)年12月19日、鳥取県に生まれる。鳥取大学を卒業。昭和24(1949)年第34回院展彫刻部に「山添氏像」で初入選。以後同展には同26年から34年まで出品を続けた。同34年第13回二紀展に「和」で初入選。同35年第14回同展に「戒(1)」「戒(2)」を出品して褒賞受賞。同46年第25回同展に「戒」を出品して同人賞を受け、同48年同会会員に推された。同52年第31回同展に「石会」を出品して文部大臣賞受賞。院展には写実を基本とする人体像を主に出品していたが、二紀会に移ってからは抽象的作品を制作するようになった。石の量塊感を生かし、変形を加えた直方体を組みあわせた簡素な造形を特色とした。兼文の号も用いている。

胡桃沢源人

没年月日:1992/03/23

 日展参与で東光会関西支部長をつとめた洋画家胡桃沢源人は、3月23日午前1時15分、老衰のため長野県松本市の親類宅で死去した。享年89。明治35(1902)年8月6日、長野県松本市に生まれる。本名源市。大阪美術学校西洋画科に学び、同校在学中の昭和3(1928)年第9回帝展に「小犬」で初入選。翌4年同校を卒業ののち斎藤与里に師事した。官展に出品を続ける一方、斎藤与里らが創設した東光会展に同7年の第1回展から参加し、同年同会友、同10年同会員となった。同16年第4回新文展に「秋苑」を出品して特選、翌年第5回同展に「鳥禽舎」を出品して再度特選を受賞。同33年日展会員となる。大阪市立美術研究所講師として後進を指導するとともに、同39年4月に開校した浪速芸術大学の美術科教授をつとめ、美術教育にも尽力。花や小動物をモティーフに、平面性を強調した明るい画風を示した。

松久宗琳

没年月日:1992/03/15

 延暦寺東塔五智如来像、大阪四天王寺丈六仏等を制作したほか、京都仏像彫刻研究所を設立するなど仏像制作の普及、教育にも尽力した仏師松久宗琳は、3月15日午後11時、心筋こうそくのため、京都市の自宅で死去した。享年66。大正15(1926)年2月14日、仏師松久朋琳の長男として京都市下京区に生まれる。本名武雄。昭和13(1938)年、朱雀第三尋常小学校を卒業して仏像彩色師八木秀蔵の内弟子となる。一方、日本画も学んだ。同15年12月、脊椎カリエスを患い実家に戻る。この病気により右脚の自由を失う。同16年仏師を志し、奈良、京都を巡って飛鳥、白鳳、天平時代の仏像を研究。同19年10月、陸軍の要請により成吉思汗像に金箔を施すため渡満し翌月帰国。同年12月京都高島屋の家具製造部員として再び渡満して翌年3月帰国する。戦後の同23年、木彫家佐藤玄々に入門。同25年陶芸家河井寛次郎のもとに通い、以後も交遊を続け、「用の美」等、芸術概念をはじめ多大な影響を受けた。同年父朋琳と共に愛媛県出石寺の「仁王像」を制作し、鎌倉時代以降希少となった「賽割法」を復活させた。同36年より宗琳を名のる。同37年、京都市山科区九条山に「京都仏像彫刻研究所」を設立し、工房による仏像彫刻の制作を目指す。同38年、戦災で失われた大阪四天王寺の「仁王像」を制作。同38年滋賀県延暦寺の「智証大師像」「聖徳太子像」(父と共作)を制作。同48年、京都山科区大宅に工房を設立する。同50年、京都大覚寺「五大明王像」を父と共に制作し、翌51年、京都金閣寺の「岩屋観音像」「四天王像」を制作する。同53年大阪四天王寺大講堂の「阿弥陀如来像」、同54年同寺太子奥殿の「聖徳太子像」「四天王像」を父朋琳と共に制作し、同寺より「大仏師」の称号を受けた。同55年延暦寺総持院の「五智如来像」を父と共に制作。同58年千葉成田山新勝寺の「五大明王像」「五智如来像」の制作にかかり、4年を費して完成。同寺より「大仏師」号を受けた。同寺には、平成3(1991)年にも「千手観音像」「弥勒菩薩像」「普賢・文殊菩薩像」を制作している。同59年1月、インドへ、同62年5月中国桂林へ、平成元(1989)年5月中国雲崗石窟へ赴く。晩年は国内の古寺をも多く訪れた。天平期の仏像を好み、天平仏の研究を基礎とする鎌倉期の仏師快慶を崇拝し、義軌や古典的様式を守って、流麗な像様を特色とした。個人様式を重視する近代の芸術観に対し、長い仏教彫刻史の蓄積が生んだ古典様式を貴重な遺産と見て踏襲する姿勢と共に、工房による制作を大規模に展開した点でも注目される。一方で、仏像制作を広く一般に普及させるべく、昭和39年に第1回宗教美術展を開催。同40年代前半には彫刻刀の電動研磨機を開発。同48年「宗教芸術院」を創設して講習会を開くなど一般への教育につとめた。著書も多く、『仏像彫刻のすすめ』(昭和48年 日貿出版社)、『仏像彫刻の技法』(同51年 同社)、『仏画と截金』(同52年 中川湧美堂)、『新しい仏像彫刻』(同59年 日貿出版社)などがあり、作品集に『松久宗琳の仏像彫刻』(同63年 秀作社)、『大仏師 松久宗琳』(平成4年 光村推古書院)、伝記に『日本人の魂を彫る』(長尾三郎著 平成2年 講談社)がある。作品の多くは、昭和60年に設立された松久仏像彫刻会館(京都市中京区御幸町三条下ル)に安置されている。

熊谷紅陽

没年月日:1992/03/14

 遠州七窯のひとつ赤池町・上野焼窯元第15代で、茶陶作家として知られた熊谷紅陽は、3月14日午前9時20分、急性肺炎のため北九州市小倉南区の病院で死去した。享年80。明治45(1912)年2月13日、福岡県田川郡赤池町上野に、上野焼第14代窯元熊谷龍峰を父として生まれる。本名保正。昭和4(1929)年佐賀県立有田工業学校を主席で卒業し、以後父のもとで家業に従事。同18年軍の命により北満で製陶を始める。同20年10月、朝鮮半島より帰国して再び家業につく。同28年全国陶磁コンクールで受賞。同39年日本伝統工芸展に入選し、以後平成3年まで毎年同展に出品した。また日本陶芸展にも出品し、昭和60、62年、平成1、3年には同展無鑑査となった。茶陶、特に茶入れの作家として知られ、唐ものの第一人者とされた。古典的成形、簡素な釉の文様により、緊張感と古雅な趣をあわせもつ作風を示した。

木村東介

没年月日:1992/03/11

 美術品蒐集家で古美術店「羽黒洞」の創立者であった木村東介は3月11日午前0時50分、心不全のため東京都文京区の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年4月8日、山形県米沢市に生まれる。米沢商業学校を中退して上京し、一時憲政公論社に入社して侠客となったが、のち美術商を志し、昭和7(1932)年、美術商「羽黒洞」を創立する。同11年東京・湯島に店舗を開く。柳宗悦、吉川英治ら広く文化人と交流し、肉筆浮世絵、大津絵、泥絵のほか、幕末、明治初期の洋画を蒐集。また、長谷川利行、斎藤真一ら異色の画家たちを無名時代から支援した。著書に『奥州げてとランカイ屋』『女坂界隈』『浮世絵渡世』等がある。

伊藤五百亀

没年月日:1992/03/04

 彫刻家で日展参事、日本彫刻会理事の伊藤五百亀は、3月4日呼吸不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年73。写実を基礎とした人物像で知られる伊藤は、大正7(1918)年5月11日愛媛県新居郡に生まれた。多摩帝国美術学校彫刻科へ進み、吉田三郎の指導を受け、同校に4年間在籍する。吉田らが結成した白日会に出品(のち白日会会員)した他、昭和17年の第5回新文展に「女立像」で初入選し、翌年の第6回展では「鍬の戦士」で特選を受けた。戦後は日展作家として活躍し、同29年の第10回日展に「潮先」、翌年の第11回に「崖」で連続特選を受け、同31年の第12回日展に審査員に挙げられた。同33年、日展会員、同37年日展評議員となり、同49年の改組第6回日展に「うたかたの譜」で文部大臣賞を受賞、同57年には前年度の第13回日展出品作「渚」で日本芸術院賞を受賞した。この間、日展の彫刻部作家により組織された日本彫塑会(のち日本彫刻会)に同36年会員として参加し、のち同会の監事、理事を歴任した。同58年日展理事に就任、同62年からは参事となった。

栢森義

没年月日:1992/03/04

 新世紀美術協会創立会員の洋画家栢森義は3月4日午前6時10分、肺しゅようのため東京都小金井市の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年11月9日、新潟県南蒲原郡に生まれる。本名政義。大正10(1921)年新潟県立三条中学を卒業して上京し、本郷洋画研究所に入る。岡田三郎助に師事。同15年第1回1930年協会展に入選。昭和2(1927)年第8回帝展に「浴後」で初入選。同3年第9回帝展に「赤い布を持つ婦人像」,同4年第10回帝展に「ピアニストN嬢」で入選する。同8年第20回光風会展に「食後」「食事」「若き婦人」「肖像」を出品して光風賞受賞。同9年第15回帝展に「K氏座像」で入選。同11年文展鑑査展に「微風」で入選する。新文展には同12年第1回展から出品し、同15年紀元2500年奉祝展に「緑蔭」を出品。この間の同13年光風会会員となる。翌16年の第5回新文展には「緑苑肖像」を無鑑査出品。同17年戦時特別展に「国土豊穣」を出品する。戦後は同22年第3回日展に「窓際」を出品し同24年第5回展まで日展に出品したほか、光風会展にも出品したが、同25年双方から退いた。同31年和田三造、大久保作次郎らが中心となって創立することとなった新世紀美術協会展に第1回展から参加。同34年第4回同展に「眠りオルガン」を出品して黒田賞、同51年第21回展では「いたち」で大久保賞、同53年第23回展では「愁夜曲」で和田賞を受賞した。初期には人物を配して季節の移りゆき等を表わし、写実を重視した作風を示したが、戦後は写実から離れ色や形の面白さを追求した詩的な画風へと展開した。昭和35年頃からガラス絵も描いており、明快な色調、平面的な画面構成の試みがなされている。平成3年、次男で画家の栢森琢也の編集になる『栢森義画集』が刊行された。

石黒孝次郎

没年月日:1992/03/02

 古美術品蒐集家で古美術商でもあった石黒孝次郎は3月2日午前6時14分、心筋こうそくのため東京都港区の東京都済生会中央病院で死去した。享年75。大正5(1916)年3月28日東京に生まれる。昭和16(1941)年京都帝国大学法学部を卒業して三井物産に入社。応召を経て戦後の同21年西洋古美術商「三日月」を創立した。同33年高級フランス料理店「クレッセント」を東京芝に開き、同店5階の陳列室で自らの蒐集品を公開した。中近東、オリエントの古美術品を中心に蒐集し、『古く美しきもの2-石黒夫妻コレクション』(昭和62年)等の著書がある。

深谷徹

没年月日:1992/02/27

 洋画家で日展評議員、創元会常任委員の深谷徹は、2月27日東京都千代田区の病院で死去した。享年78。大正2(1913)年11月22日群馬県前橋市に生まれる。本名徹。昭和8年群馬師範学校を卒業し教職に就いたが、その後上京し日本大学へ進み、同15年中退し再度郷里で教職についた。戦後再上京し、同28年渡仏、翌年までパリでグラン・ショミエールへ通い、同29年からはスペインへ転じマドリッド美術学校でフレスコ画を修め、翌30年帰国した。創元会展、日展に出品し、同27年の日展に「とりかごのある静物」で特選となった他、日仏具象派協会を結成し同31年第1回展を開催、また同年国際具象派協会展に参加した。同40年の日展出品作「集落」で日展菊華賞を受賞。風景画、静物画をよくし、晩年は郷里の風景をモチーフに多く描いた。

to page top