本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





永竹威

没年月日:1987/05/29

 国際美術評論家連盟正会員の陶芸評論家永竹威は、5月29日心不全のため佐賀市の上村病院で死去した。享年71。大正5(1916)年2月23日佐賀県小城郡に生まれる。生家は南禅寺派常福寺。昭和12年東京高等工芸学校卒業。同16年から佐賀県庁に入り、同48年退職するまで、佐賀県文化館長、文化課長などをつとめた。この間、県窯業試験場兼務の時期に肥前陶磁史に関心を寄せ、同26年には肥前陶磁研究会を組織し常任理事として会の運営にあたった。また、陶芸評論の執筆活動も行った。同48年佐賀女子短期大学教授となる。同51年佐賀新聞文化賞、翌年西日本文化賞を受賞。財団法人田中丸九州陶磁コレクション理事でもあった。著書に『図説 日本の赤絵』(昭和35年)、『図説 九州古陶磁』(同38年)をはじめ多数ある他、共編執筆に『鍋島藩窯の研究』(同29年)などがある。

辻本喜次

没年月日:1987/05/23

 建築文化財の修理を手がけた辻本喜次は、5月23日午前3時7分、肺炎のため和歌山県伊都郡の高野山病院で死去した。享年73。大正4年和歌山県に生まれる。真言宗総本山のある高野山を中心に活躍した宮大工として知られ、新築、あるいは再建した建物として、英霊殿、御供所、阿字観道場、記念灯篭堂、孔雀堂、東塔などがある。記念灯篭堂、孔雀堂、東塔などは、59年春に営まれた弘法大師入定1150年御遠忌法会の記念事業として建立されたもので、宮大工の棟梁としてこれにあたった。再建された東塔は、その代表建築として知られている。

石沢正男

没年月日:1987/05/21

 東洋工芸史の研究者で奈良・大和文華館前館長の石沢正男は5月21日午前11時45分、脳こう塞のため東京都杉並区の樺島病院で死去した。享年84。明治36(1903)年3月31日、東京都千代田区に生れた。大正14(1925)年3月第一高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学文学部美術美術史学科に進み、昭和3(1928)年3月に同学科を卒業。同5年10月~同8年7月の間はニューヨーク市メトロポリタン美術館東洋部の助手、同8年7月から同25年3月まで東京美術学校講師として東洋工芸史を講じた。この間に同16年10月からは美術研究所嘱託に、また翌17年から同22年2月までは美術研究所内の東洋美術国際研究会主事をつとめたが、同22年2月からは文部技官として文部省社会教育局文化課に入り、同25年文化財保護委員会が発足して後には同委員会文化財調査官、更に同年から国立博物館保存修理課長、同26年に同館資料課長、同30年から美術課長を歴任し、同39年6月に退官。同年7月から大和文華館次長となり、同45年から同56年まで館長をつとめ、同57年は同館顧問であった。また、同40年には文化財保護審議会専門委員に任命された。美術館運営、文化財行政にたずさわる一方、専門とする東洋工芸史研究においても研究論文を発表した。主なものには「三つの新収蒔絵作品について」(大和文華54、昭和46年9月)、「琉球黒漆桃樹文様沈金高台付盆」(大和文華63、同53年8月)、「三嶋大社蔵梅蒔絵櫛笥について」(大和文華64、同54年3月)などがある。

今井兼次

没年月日:1987/05/20

 日本芸術院会員、早稲田大学名誉教授、日本建築学会名誉会員の建築家今井兼次は、5月20日午後7時43分、急性心不全のため東京都清瀬市の慈生会ベトレヘムの園病院で死去した。享年92。明治28(1895)年1月11日東京市赤坂区に生まれ、同41年青山尋常小学校高等科1年修了。大正2(1913)年日本中学校を卒業し、同8年早稲田大学理工学科建築科を卒業して同科の助手となり翌年助教授に昇任。10年国民美術協会建築部会員となる。13年建築団体「メテウォール」を結成。14年早稲田大学図書館の設計に当たる。翌15年早稲田大学留学生としてソビエトを経て欧米へ渡り近代建築を視察するとともに、13年に依嘱された東京地下鉄道の設置に関する調査を行ない昭和2(1927)年帰国。同年東京地下鉄道浅草-上野駅舎を制作する。同3年帝国美術学校の設立に尽力し、また、ル・コルビジェ、アントニオ・ガウディ、サアリネンなど海外における建築の趨勢について日本建築学会に発表し、我国で初めてこれらの作家を紹介。そののちも同4年近代建築写真展を紀伊国屋で開催し、8年には朝日新聞社で欧州新建築展を開くなど西欧建築の新潮流へと目を開かせた。根津美術館、碌山美術館などを手がけ、34年には千葉県大多喜町役場の設計により日本建築学会賞、37年には長崎の日本26聖人殉教記念館により再度同賞受賞。41年皇后陛下還暦記念ホール桃革楽堂により日本芸術院賞を受け、52年近代建築のヒューマニゼイションによる建築界への貢献に対し日本建築学会大賞が贈られた。53年日本芸術院会員となる。この間、常に母校にあって教鞭をとり、昭和12年教授、40年名誉教授となる。41年より57年まで関東学院大学教授をつとめた。著書も多く『建築とヒューマニティ』(28年)、『芸術家の倫理』(33年)、『現代日本建築家全集5』(46年)、『近代建築の目撃者』(52年)などがあり、芸術としての建築に関する言論活動を展開した。

皆川月華

没年月日:1987/05/11

 日本現代染織造形協会会長、日展参事の染色家皆川月華は、5月11日午前1時、脳血栓のため京都市左京区の自宅で死去した。享年94。明治25(1892)年6月4日京都市に生まれ、本名秀一。明治44年安田翠仙に友禅の染色図案を学ぶ。また大正6年都路華香に日本画を学び、関西美術院で洋画を学んだ。昭和2年美術工芸部が新設された第8回帝展に「富貴霊獣文」が初入選、7年第13回帝展で「山海図」が特選を受賞する。以後、天然染料や古代染色の研究に取り組む一方、友禅に絵画的手法をとり入れた「染彩」の技法を確立、染色工芸界のパイオニアとして活躍する。新文展、戦後日展に出品し、35年第3回新日展に出品した「涛」により、翌36年日本芸術院賞を受賞した。また37年より現代工芸美術展、光風会展などにも出品する。この間、京都府嘱託の海外美術工芸調査のため、31年アメリカ各地を巡遊している。46年以後、日展参与、参事などを歴任し、59年には日本現代染織造形協会会長に就任。このほか日本現代工芸美術家協会、光風会の顧問、日本きもの染織工芸会理事長などもつとめた。47年京都市文化功労者、48年京都府美術工芸功労者、58年京都府文化特別功労者となる。また祇園祭の山鉾の銅掛や前掛、後掛などを長年制作し、菊水鉾、月鉾などのほか数多くの山鉾を飾る品々を制作した。54年米寿記念「皆川月華・新彩染彩展」、57年卒寿記念染彩「皆川月華展」、60年「染彩七十年・皆川月華展」を開催。また作品集に『染彩皆川月華作品集』(光琳社)、『皆川月華染彩天井画集』『染芸皆川月華』(京都書院)などがある。

八木敏

没年月日:1987/05/05

 京都市立芸術大学教授で、高木敏子の名で染織作家として知られた八木敏は、5月5日肺がんのため京都市上京区の吉岡病院で死去した。享年63。わが国前衛陶芸の推進者として著名な故八木一夫の夫人であり、染織作家として活躍した八木敏は、大正13年1月21日京都市に生まれた。はやくから父に織技法を学ぶとともに、洋画家太田喜二郎、刺繍作家岸本景春にもついた。昭和15年紀元二千六百年奉祝美術展に「秋綴織壁掛」が初入選、その後文展に出品した。戦後の同27年、八木一夫と結婚、また同年から京都市立美術学校(のち京都市立芸術大学)で教えた。同33年改組第1回日展に意欲的な立体作品「綴織室内装飾」を出品し注目された。同50年には日展を離れ、国際展や個展で制作発表を行った。作品は他に「貌」(同51年)などがある。

森野嘉光

没年月日:1987/05/02

 陶芸家で日展参事の森野嘉光は、5月2日老衰のため京都市上京区の京都府立医科大学付属病院で死去した。享年88。明治32(1899)年4月15日、京都市東山区入に生まれる。本名嘉一郎。大正10年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業、同年の第3回帝展に卒業制作「比叡の山麓」が初入選する。同15年第7回帝展にも日本画で入選したが、この間、李朝陶磁にひかれ、清水焼の陶工であった父峰楽につき青磁、辰砂の研究を始め作陶に転じた。昭和2年第8回帝展に工芸部が新設され、「青流草花文花瓶」を出品し、入選する。同4年東京、日本橋・三越で個展を開催、この頃から塩釉の美しさに注目し独自の研究を始め、また、板谷波山を知った。同16年第4回新文展に「塩釉枇杷図花瓶」で特選を受賞した。戦後は、同24年清水六兵衛、河合栄之助らと京都陶芸家クラブを結成、日展へ出品し、同27年の第8回展以来しばしば審査員をつとめた。同33年社団法人日展発足にともない評議員となる。翌34年頃から緑釉窯変の研究に意欲的にとりくみ、同37年には現代工芸美術家協会設立に参加し、第1回現代工芸美術展に「緑釉窯変耳付花瓶」を発表した。翌38年、前年度日展出品作「塩釉三足花瓶」で日本芸術院賞を受賞する。同46年日展理事となり、現代工芸美術家協会参与となったが、美術家協会は同54年退会した。この間、同42年に京都市文化功労者、翌年京都府美術工芸功労者にあげられた。同55年、日本新工芸家連盟代表委員、日展参事となる。作品集に『森野嘉光作陶集』(同60年、求龍堂)他がある。

宮永岳彦

没年月日:1987/04/19

 鹿鳴館シリーズなどの華麗な女性像で知られる洋画家宮永岳彦は、4月19日午前8時50分、消化管出血のため東京都港区の東京専売病院で死去した。享年68。大正8(1919)年2月20日、静岡県磐田郡に生まれる。昭和11(1936)年名古屋市立工芸学校を卒業し、松坂屋に勤務しながら制作を続け、16年より正宗得三郎に師事。17年第29回二科展に「いもん」で初入選。18年第6回新文展に「いもん」で初入選する。戦後は二紀会に参加し22年第1回展に「鏡」を出品して褒賞受賞。同年二紀会同人となる。25年日本宣伝美術協会の創立に参加。29年第8回二紀展に「裸婦A」「裸婦B」を出品して同人努力賞受賞、32年同会委員、47年理事に就任する。豪華、華麗な西欧の王朝風の美人画で知られ、49年日伯文化協会の要請により「皇太子殿下、同妃殿下肖像」を描き、同年ブラジル国公認サンフランシスコ最高勲章グラン・クハース章受章。また同年第28回二紀展に「ROKUMEIKAN 煌」を出品して菊華賞受賞。52年第31回同展出品作「碧」で53年東郷青児美術館大賞を受賞し、53年第32回同展出品作「鵬」で53年度日本芸術院賞を受ける。61年には二紀会理事長に就任した。30年代にはポスターや新聞・雑誌の挿絵でも活躍。広く大衆的人気を博した。『宮永岳彦・現代の美人画』(52年講談社)、『宮永岳彦画集』(54年実業之日本社)が刊行されている。

大森啓助

没年月日:1987/03/31

 国画会会員の洋画家大森啓助は3月31日午前零時48分、心不全のため、東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年89。明治31年(1898)年3月15日、神戸市に生まれる。本名多満四郎。大正9(1920)年関西学院高等部を卒業して上京し、金山平三に師事しつつ川端画学校に通う。同15年、フランスへ留学し同年のサロン・ドートンヌに初入選する。サロン・ザンデパンダンなどにも出品し、昭和7(1932)年、欧州巡遊を経て帰国する。同8年第11回春陽会展に「團樂」ほか10点を初出品。同9年同展に「裸婦」ほかを出品して春陽会賞を受賞し同会会友となる。同11年春陽会を退会して国画会に入会。同12年再び渡欧し1年間滞在する。同18年国画会会員となる。装飾的な人物像を得意とし、師金山と同じく歌舞伎絵を描くことでも知られる。文筆もよくし、訳書にモロオ・ヴォチェー著『絵画』(昭和17年)、J・G・グーリナ著『画家のテクニック』(同26年)、著書に『ヴァン・ゴッホ』(同24年)、『印象派の話』(同27)年などがあるほか、随筆にも筆をふるった。

北村西望

没年月日:1987/03/04

 長崎の平和祈念像などで知られる文化勲章受章者の彫刻家北村西望は、3月4日午前8時58分、心不全のため東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年102。明治17(1884)年12月16日長崎県南高来郡に生まれる。長崎師範学校に進むが、病気のため中退し、36年京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。40年同校を首席で卒業し、同年東京美術学校彫刻科に入学、同期に朝倉文夫、建畠大夢がいた。45年にこちらも首席で卒業する。この間、在学中の41年第2回文展に「憤闘」が初入選し、42年第3回文展「雄風」、44年同第5回「壮者」はともに褒状となった。さらに、大正4年第9回文展で「怒涛」が二等賞、翌5年同第10回「晩鐘」は特選を受賞、6年第11回文展に「光にうたれた悪魔」を無鑑査出品する。帝展では大正8年第1回展より審査員をつとめ、14年には弱冠40歳で帝国美術院会員となった。また大正10年東京美術学校教授となり、昭和19年まで後進の指導にあたった。このほか、大正8年曠原社を組織し、同11年西ケ原彫刻研究所を開設、昭和8年には東邦彫塑院の顧問となるなど、彫刻研究に没頭する。戦前は「寺内元帥騎馬像(寺内正毅)」(大正11年)、「児玉源太郎大将騎馬像」(昭和13年)、「橘中佐」「山県有朋元帥騎馬像」(昭和5年)など、勇壮な男性像で戦意高揚を意図した作品を手がけるが、戦後は平和や自由、宗教などを題材に制作。29年第10回日展「快傑日蓮上人」や、4年がかりで制作した長崎の「平和祈念像」を30年に完成する。このほかにも、広島市民のための「飛躍」など多くの平和祈念像を制作した。また戦後は日展に出品、44年より49年まで日展会長をつとめ、49年日展名誉会長となったほか、日本彫塑会にも出品し、37年名誉会長となっている。22年日本芸術院会員となり、33年文化勲章を受章、文化功労者となる。また28年武蔵野市の都立井の頭公園内にアトリエを建築、東京都にその後の寄贈分も合わせ計約500点の作品を寄贈し、作品は井の頭自然文化園の彫刻館に陳列される。37年武蔵野市名誉市民、47年長崎県島原市名誉市民、55年名誉都民となった。61年12月に風邪をひいてから静養していたが、62年1月に完成した板橋区役所新庁舎前の「平和を祈る」が絶作となった。

小山敬三

没年月日:1987/02/07

 一水会創立会員、日本芸術院会員、文化勲章受章者の洋画家小山敬三は2月7日午後10時34分、心不全のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年89。明治30(1897)年8月11日長野県小諸市の旧家に生まれる。大正4年旧制上田中学校を卒業。慶応大学予科に入学するが画家を志して中退。川端画学校に通い藤島武二に学ぶ。同7年第5回二科展に「卓上草花図」などで初入選する。父の友人であった島崎藤村の勧めで同9年渡仏しシャルル・ゲランに師事。同11年サロン・ドートンヌに初入選する。同12年春陽会客員、翌13年同会会員、同15年サロン・ドートンヌ会員となる。昭和3年に帰国し、翌4年第7回春陽会展に滞欧作を特別陳列する。同8年春陽会を退会して二科会員となるが、11年には同会をも退き安井曽太郎らと一水会を創立。同12年再渡仏。1年ほど滞在した後、第二次大戦の激化のため帰国する。戦後は一水会、日展に出品し、34年に白鷺城をモチーフとする一連の作品によって日本芸術院賞受賞、35年日本芸術員会員および日展理事となる。45年文化功労者として顕彰され、50年度文化勲章を受章する。浅間山を好んで描き「紅浅間」など重厚で高雅な風景画を多く残す。著書に『ゴッホ静物篇』『来し方の記』、訳書にヴォラール著『画商の想出』がある。47年に郷里小諸に美術館を建て小諸市に寄贈する。また、油彩画の技法、修復技術の研究の必要を認識し、最晩年に私財を投じて小山敬三美術振興財団を設立し、小山敬三記念賞による油彩画家の表彰、油彩修復技術者の海外派遣を行なうこととするなど洋画の発展に寄与するところが大きかった。

山本豊市

没年月日:1987/02/02

 文化功労者、東京芸術大学名誉教授の彫刻家山本豊市は、2月2日午後7時25分、肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年87。明治32(1899)年10月19日東京新宿に生まれる。本名豊。錦成中学校在学中に戸張孤雁を知り、大正6年卒業後、孤雁に師事する。一方、同7年より3年間太平洋画会研究所でデッサンを学んだ。10年第8回再興院展に「胴」が初入選し、12年日本美術院院友、昭和7年同人となる。この間、大正13年フランスに渡り、マイヨールに師事。昭和3年帰国し、マイヨール彫刻を日本に紹介する。5年より日本大学で講師として教えた。7年頃、京都や奈良に旅行し仏像に接したのを契機に、ブロンズや石膏などの材料不足もあり10年頃より本格的に乾漆技法を研究。11年の第1回改組帝展に乾漆像「岩戸神楽」を出品する。以後、乾漆の技法を現代彫刻に導入した独特の作風を展開した。戦後院展に出品する一方、25年より新樹会に参加、第4回新樹会展「立女」「群像」などを出品する。また26年第1回サンパウロ・ビエンナーレ、31年第28回ヴェネツィア・ビエンナーレなどにも出品し、29年前年作の「頭像」「エチュード」により第5回毎日美術賞を受賞。33年には、前年ブリヂストン美術館で開催した個展出品作により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。35年大船観音を制作。36年日本美術院彫刻部が解散し、新たに結成された彫刻家集団SASに参加、同会が38年国画会と合同するに及んで、国画会会員となり、50年退会まで同会に出品した。この間、22年東京美術学校講師、28年東京芸術大学教授となり後進の指導にあたる。42年停年退官後、同大学名誉教授となるとともに、愛知県立芸術大学で教授として教えた。乾漆の質感と流麗な形態や動感を持つ作品を制作、58年には文化功労者となっている。

村山徑

没年月日:1987/01/23

 日展理事の日本画家村山徑は、1月23日午後11時38分、肺気腫のため神奈川県足柄下郡の厚生年金病院で死去した。享年70。大正6年1月21日新潟県柏崎市に生まれ、本名勲。昭和10年児玉希望に師事し、18年第6回新文展に「子等」が初入選する。戦後25年、希望門下の国風会と伊東深水門下の青衿会により組織された日月社に出品、3度にわたって受賞し、委員もつとめた。また27年より日展に出品し、30年第11回日展「たそがれ」、31年同第12回「風景」など、知的で堅固な画面構成の風景画を出品。33年第1回新日展「残雪の高原」、翌34年同第2回「白浜」が、ともに特選・白寿賞を受賞する。続いて、36年第4回新日展「溜」が菊華賞、53年第10回改組日展「朝の火山」が総理大臣賞となり、59年同第16回展出品作「冠」により翌60年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。この間、40年日展会員、47年評議員、60年より同理事をつとめた。

向井久万

没年月日:1987/01/20

 創画会会員の日本画家向井久万は、1月20日午前2時47分、肺気腫のため東京都文京区の日本医大付属病院で死去した。享年78。明治41(1908)年12月14日大阪府泉佐野市に生まれる。大正15年大阪府立岸和田中学校卒業後、京都高等工芸学校図案科に学び、昭和4年卒業する。同年丸紅に勤務し、9年の退勤まで図案を担当した。11年西山翠嶂に入門、画塾青甲社に学ぶ。14年第3回新文展に舞妓を描いた「妓筵」が初入選し、翌15年の毎日新聞社主催紀元2600年奉祝日本画展で「新春」が佳作となる。続いて、16年長男の誕生を描いた「男児生る」が第4回新文展で特選を受賞、18年同第6回「紙漉き」も再び特選となった。戦後23年、新しい日本画の創造を目指して結成された創造美術に参加、創立会員となり、24年「娘達」などを出品する。26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後は同会に出品する。この頃、26年「立像」、30年「堕ちる」など裸婦にとり組む。49年新制作協会日本画部が同協会を離脱し創画会を結成して以後、会員として同会に出品した。近年は、48年「如意輪観音」、54年第6回創画展「星宿」などのほか、「普賢と文殊」「十二天」「准胝仏母」など、古典に学んだ明快な描線による格調高い仏画に、多くの秀作を生んだ。

毛利登

没年月日:1987/01/20

 元東京芸術大学教授の美術史家毛利登は1月20日午後4時10分、急性心筋梗塞のため神奈川県茅ケ崎市の茅ケ崎徳洲会病院で死去した。享年84。明治35(1902)年12月14日東京下谷区に生まれる。昭和2年東京美術学校図案科を卒業し、同年宮内省嘱託となり即位大礼用神宝類図案設計を担当する。同3年内務省造神宮使庁嘱託となり、同14年同技手、17年同技師となる。終戦後の同21年文部省国宝調査室に勤務し、同22年東京国立博物館嘱託、同23年同調査員を経て、24年文部技官として同博物館に勤務する。同25年文化財保護委員会美術工芸品課に移り、26年同記念物課、27年同無形文化財課を兼務する。同37年東京国立文化財研究所保存科学部修理技術研究室長となるが、翌38年東京芸術大学教授となり文化財保存修復概論を講ずる。同41年東京芸術大学付属芸術資料館長となる。同45年3月同大学を退く。文様美術、日本文様史を研究し、訳書にフランツ・マイヤー著『装飾のハンドブック』(昭和43年、東京美術刊)、著書に『日本の文様美術』(同44年、同上)がある。

菱田春夫

没年月日:1987/01/14

 菱田春草の長男で日本美術院理事・前事務局長の菱田春夫は、1月14日午後3時39分、心不全のため東京都目黒区の東京国立第2病院で死去した。享年84。明治35(1902)年1月17日東京府下谷区に、日本画家菱田春草の長男として生まれる。春草が明治44年36歳で死去したのち、大正8年横山大観に師事して日本画を学び、のち日本美術院研究会員となる。大正14年日本美術院の事務を委嘱され、昭和17年財団法人岡倉天心偉績顕彰会の設立に伴い、その事務も兼任した(27年まで)。以後、日本美術院の運営の任にあたり、33年日本美術院が財団法人となるに際し主事(54年3月まで)となった。また、36年日本美術院評議員、54年同理事となるなど、斎藤隆三を継いで日本美術院運営の大任にあたった。春草の画集『菱田春草』(大日本絵画巧芸美術、昭和51年)の編集などのほか、「父春草の思い出」(『ゆうびん』3-10、昭和26年10月)や、数々の春草の図書、展覧会図録の序文などを書いている。春草の作品の鑑定家としても知られた。

田村耕一

没年月日:1987/01/03

 東京芸術大学名誉教授、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の陶芸家田村耕一は、1月3日胆のうがんのため栃木県の栃木県南総合病院で死去した。享年68。陶器に鉄絵で文様を描く分野からは初の人間国宝に認定された田村は、大正7年6月21日栃木県佐野市で生まれた。昭和16年東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府下で楽焼を学ぶが翌年応召する。戦後の同20年京都市の松風工業株式会社松風研究所に入所して陶磁器の本格的研究を開始し、富本憲吉に師事した。同23年栃木県佐野市へ帰り、赤見窯の築窯に加わる。翌年新匠工芸会展に出品、同25年には浜田庄司の勧めで栃木県窯業指導所技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わった。同31年と33年に現代日本陶芸展で朝日賞を受賞、同32年には日本陶磁協会賞を、さらに同35年と翌年には日本伝統工芸展で奨励賞を連続受賞し、同37年日本工芸会正会員となった。この間、陶器に酸化鉄を付けて文様表現する鉄絵の技法を開発し、銅彩で色彩を加えた創造性に富む作風を展開した。また、同42年トルコ・イスタンブール国際展で金賞を受賞するなど国際的な評価も得、同59年にはミュンヘンで個展を開催した。同42年東京芸術大学助教授、同51年教授に就任し母校での後進の指導にもあたり、同60年停年退官し同校名誉教授となった。同61年国指定重要無形文化財(鉄絵)保持者に認定される。日本工芸会副理事長、佐野市名誉市民でもあった。

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