本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





小林秀雄

没年月日:1983/03/01

 日本芸術院会員、文化勲章受章者の小林秀雄は、3月1日じん不全による尿毒症と呼吸循環不全のため東京・信濃町の慶応病院で死去した。享年80。わが国における近代批評の確立者とされ、美術論でも多大の影響を与えた小林は、明治35(1902)年4月11日東京市神田区に生まれ、昭和3年東京帝国大学文学部仏蘭西文学科を卒業。翌4年、「改造」の懸賞評論に「様々なる意匠」を応募し二席に入選、すでに成熟した確固たる自己の文体と批評の方法を示した。同8年、川端康成らと「文学界」を創刊し文学批評とともに時事的発言も行ったが、やがて戦況が深まるにつれ日本の古典に沈潜し、また陶器と向いあう沈黙の世界に閉じ込もり、「無常といふ事」(同17年)、「西行」(同年)、「実朝」(同18年)、などの作品を生んだ。戦後の仕事は、「モオツァルト」(同21年)、『近代絵画』(同33年刊)など、音楽、美術論を著した時期、『考えるヒント』(同39年刊)に代表される歴史、思想的エッセーを執筆した時期、そして、同40年から「新潮」に連載し同52年に刊行された『本居宣長』の時代に三分して捉えられている。美術論に関しては、その本格的な出発となった『ゴッホの手紙』(同27年刊、第4回読売文学賞)で示されているように、「意匠」をつき抜けた「天才の内面」を掘りあてることに関心を集中させ、孤独で強靭な作家の姿を浮彫りにした。『近代絵画』(同33年刊、第11回野間文芸賞)においても、画家列伝形式でモネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノワール、ドガからピカソをとりあげ、これを近代芸術精神史というべき域へ昂めている。その他、戦前の陶磁器に関するエッセーをはじめ、美術を論じた執筆は数多い。また、晩年はルオーの作品を愛していたという。同34年日本芸術院会員となり、同44年文化勲章を受章。美術関係文献目録(『新訂 小林秀雄全集』新潮社刊-昭和53・54年-所収)第3巻故古賀春江氏の水彩画展「文学界」昭和8年11月第9巻骨董 初出紙未詳。昭和23年9月の執筆か。眞贋 「中央公論」 昭和26年1月号。埴輪 『日本の彫刻1上古時代』、美術出版社刊、昭和27年6月。古鐸 「朝日新聞」 昭和36年1月4日号。徳利と盃 「藝術新潮」 昭和37年2月号。〈藝術隨想〉と題する連載の第1回。壷 「藝術新潮」 昭和37年3月号。〈藝術隨想〉の第2回。鐸 「藝術新潮」 昭和37年4月号。〈藝術隨想〉の第3回。高麗劍 「藝術新潮」 昭和38年2月号。〈藝術隨想〉の第4回。染付皿 「藝術新潮」 昭和38年3月号。〈藝術隨想〉の第5回。信樂大壷 『信樂大壷』、東京中日新聞社刊、昭和40年3月。原題「壷」。〈まへがき〉として執筆された。第10巻ゴッホの手紙 「藝術新潮」 昭和26年1月~27年2月ゴッホの墓 「朝日新聞」 昭和30年3月26日号。ゴッホの病氣 「藝術新潮」 昭和33年11月号。ゴッホの繪 『オランダ・フランドル美術』(世界美術大系19)、講談社刊、昭和37年4月。ゴッホの手紙 『ファン・ゴッホ書簡全集』内容見本 みすず書房 昭和38年10月光悦と宗達 『國華百粹』第四輯。毎日新聞社刊、昭和22年10月。原題「和歌卷(團伊能氏蔵)」。梅原龍三郎 「文體」復刊号、昭和22年12月。文末「附記」はこのエッセイが『梅原龍三郎北京作品集』(石原求龍堂刊、昭和19年11月)の解説のために執筆されたものであることを伝えている。鐵齋1 「時事新報」 昭和23年4月30日-同5月2日号。原題「鐵齋」。鐵齋2 「文學界」 昭和24年3月号。原題「鐵齋の富士」。雪舟 「藝術新潮」 昭和25年3月号。高野山にて 「夕刊新大阪」 昭和25年9月26日号。偶像崇拜 「新潮」 昭和25年11月号。原題「繪」。鐵齋3 『現代日本美術全集』第一巻、座右宝刊行会編、角川書店刊、昭和30年1月。原題「富岡鐵齋」。鐵齋の扇面 「文藝」増刊号(美術讀本)、昭和30年11月。鐵齋4 『鐵齋』、筑摩書房刊、昭和32年2月。原題「鐵齋」。梅原龍三郎展をみて 「讀賣新聞」 昭和35年5月7日号夕刊。第11巻近代絵画 「新潮」 昭和29年3月-30年12月号 「藝術新潮」 昭和31年1月-33年2月号。単行本は昭和33年人文書院より刊行。同年普及版を新潮社より刊行。ピカソの陶器 「朝日新聞」 昭和26年3月13日号。マチス展を見る 「讀賣新聞」 昭和26年4月23日号。セザンヌの自畫像 「中央公論」 昭和27年1月号。ほんもの・にせもの展 「讀賣新聞」 昭和31年3月28日号。私の空想美術館 「文藝春秋」 昭和33年6月号-同八月号。マルロオの「美術館」 「藝術新潮」 昭和33年8月号。「近代藝術の先駆者」序 『近代藝術の先駆者』、講談社刊、昭和39年1月。同書は『20世紀を動かした人々』全16巻の第7巻。別巻1中川さんの絵と文 『中川一政文集』内容見本、筑摩書房、昭和50年5月。土牛素描 「奥村土牛素描展目録」 昭和52年5月ルオーの版画 『ルオー全版画』内容見本、岩波書店、昭和54年3月ルオーの事 「ルオー展目録」 昭和54年5月、「芸術新潮」 昭和54年6月号に再録

加守田章二

没年月日:1983/02/26

 益子焼に近代的に造形をとり入れ注目された陶芸家加守田章二は、2月26日肺炎のため栃木県河内郡の自治医大付属病院で死去した。享年49。昭和8(1933)年4月16日大阪府岸和田市に生まれ、府立岸和田高校在学中から油絵に興味を抱き、卒業後上京して本格的に油絵を学ぶ志をもったがこれを断念し、同27年京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学、教授富本憲吉、助教授近藤悠三の指導を受ける。在学中の同30年の夏、茨城県日立市の大甕窯へ実習へ赴き、この時はじめて益子を訪れ作陶者が個々に窯を持っていることに強く心を惹かれた。同年、新匠会に「鳥文灰釉皿」が入選し佳作賞を受ける。翌31年京都市美大を卒業、学長長崎太郎と富本の勧めで日立市の日立製作所大甕陶苑の技術員となったが、同33年にはこれを辞し、日立製作所の派遣研究生となって益子に移り、塚本製陶所で作陶の研究を始める。翌年、日立製作所を退社し自立、当初は石灰釉、飴釉、灰釉を手がけ、益子の民芸調とは異質の文様、意匠、器形が不評を買ったりしたが、浜田庄司には注目された。同36年日本伝統工芸展に初入選、以後同展には連続入選し、同39年日本工芸会正会員に推挙される。同40年日本伝統工芸展出品の灰釉平鉢が注目され、翌年日本陶磁協会賞を受賞。同42年、東京日本橋高島屋で個展を開催、この時から同38年以来の須恵器風灰釉が本焼土器風のものに変り作風は第二期と呼ぶべき本格的な創作の段階に入った。また、同年第10回高村光太郎賞を受賞し、暮れには東北地方を旅行して岩手県遠野の地形、風土に魅せられ、翌43年の個展(ギャラリー・手、日本橋高島屋)からは遠野の土による面取りの形体の作品を発表する。同43年日本工芸会正会員を辞退して無所属となり、翌44年6月からは遠野市青笹町糠前字踊鹿に窯場と住居を設け弟子と二人での制作に没頭する。その後、制作発表は主に年2・3回開催した個展でなされ、激しい制作意欲にかられながらその作風はほとんど半年毎に変貌を見せた。即ち、同45年の日本橋高島屋での個展における波状曲線文様の器形から、翌年の彩陶波文、さらに同47年の現代陶芸選抜展(日本橋三越)で示した灰緑色の地に施された白の不定形文様を経て、翌48年の個展(日本橋高島屋)では中国・殷の銅器を思わせる重厚な器形に白い色面による不定形な波頭状文様を示すといった展開である。この間、同49年に昭和48年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。同54年には東京・久留米に画家の家を購入し陶房とし、同年遠野からは引き揚げた。同55年からは白血病により体力の消耗甚しく、翌年からは専ら入院生活による療養を余儀なくされたが、体調のよい時にはなお、釉付け、窯焼きも行っていた。没後、『加守田章二作品集』(昭和59年)が弥生画廊から刊行された。

狭間二郎

没年月日:1983/02/21

 独立美術協会会員の洋画家狭間二郎は2月21日午後9時30分、急性肺炎のため神奈川県相模原市の相愛病院で死去した。享年81。明治36(1903)年1月29日宮城県栗原郡に生まれる。本名菅原芳助。大正8年宮城県築館中学校を卒業し早稲田大学第二高等学院に入学。同校在学中、川端画学校へ通う。昭和5年早稲田大学文学部英文科を卒業。翌年河北新聞社記者となる。同9年東北展に油絵「鯔」、木版画「鷽」を出品し初入選。同12年「風景」で独立展に初入選し、以後同展に出品を続ける。同13年より林武に、15年より野口弥太郎に師事。同17年第12回独立展に「東北の野」「林間」を出品し前者で独立賞を受賞。翌年兵役につき樺太、中支に赴く。同21年復員し郷里一迫で制作を再開し、同23年独立美術協会会員となる。同25年仙台独立グループを結成し、同28年河北美術展委員、同30年同展顧問となり、同39年には東北独立展を開くなど仙台を中心とする洋画の発展に寄与する。同41年病を得、右半身不随、言語障害となったが左手に絵筆を持って制作を続ける。同46年上京。翌年以降独立展に出品していないが、制作は続けた。代表作に第11回独立展出品作「東北(A)」、同第21回展出品作「砂丘」などがある。

高橋進

没年月日:1983/02/21

 行動美術協会会員の洋画家高橋進は、2月21日午前4時35分、急性心不全のため、東京都町田市の伊藤病院で死去した。享年72。明治43(1910)年7月29日、韓国の大邸市に生まれる。本名金昌徳。昭和5年大阪中之島洋画研究所に入り小出卓二らに師事。同10年「ふたり」で第22回二科展に初入選し、同展および全関西美術展に出品を続ける。同22年第2回行動展に「立てる子供」「井戸端」「樹下」を初出品して友山荘賞を受け、翌年同会会員となり、以後同展に出品を続ける。「アジアの悲しみのようなテーマを描きたい」と語り、働く人々、戦争などの社会問題に苦しむ人々を主題として、線を生かした柔かい色調の画面をつくり上げる。同42年第22回行動展出品作「切れたテープ」は創立賞を受賞、太陽展などにも出品していたが、同48年病に倒れ、第28回行動展に「432」「ふたり」を出品したのを最後に長期療養生活を送っていた。

森田慶一

没年月日:1983/02/13

 京都大学名誉教授、東海大学工学部教授の森田慶一は2月13日早朝死去した。享年97。明治28(1895)年4月18日三重県に生まれる。県立三重第一中学校、第三高等学校を経て、大正9年東京帝国大学工学部を卒業、同年、芸術革新運動を唱う分離派建築会に参加する。同10年内務大臣官房都市計画課に入り、翌年京都帝国大学助教授となり建築材料学、設計製図の指導にあたる。昭和3年「月刊建築学研究」に「ヴィトルヴィウスの10のカテゴリーに対するヨルレスの説」を発表し、ウィトル=ウィウスを紹介するとともに建築論の礎を築く。同9年工学博士となり京都帝国大学教授に昇格、同33年退官し名誉教授となるまで長く同大で後進の育成に尽くし、同38年から54年までは東海大学工学部教授として教鞭をとる。同49年日本建築学会大賞を受賞。『ウィトル=ウィウス建築書』の日本語訳、『西洋建築史概説』『建築論』他の著書があり、京都大学の農学部正門と楽友会館の設計を手がけている。

富取風堂

没年月日:1983/02/12

 日本美術院監事の日本画家富取風堂は、2月12日急性気管支炎のため千葉市の国立千葉東病院で死去した。享年90。本名次郎。晩年は穏やかな花鳥画で知られた富取は、明治25(1892)年10月1日東京日本橋に生まれ、同38年歴史画を得意とした松本楓湖の安雅堂画塾へ入門する。同画塾は放任主義教育であったとされ、今村紫紅、速水御舟ら新傾向の作家を輩出したことで知られる。大正3年、楓湖門の先輩紫紅が結成した赤曜会に加わり、自らも目黒に居住する。同会は翌年3回の展覧会を開催し、急進的な日本画の研究会として注目されたが、大正5年紫紅の死をもって解散した。大正4年、再興院展第2回に「河口の朝」が初入選し、その後官展へも出品したが、同9年の院展第7回に入選した「鶏」で草土社風の厳しい細密描写による作風を示し、以後同展へ連続入選を果し、同13年日本美術院同人に推挙された。その後、昭和12年第24回院展出品作「葛西風景」あたりから、その作風は素朴な趣を見せ始める。戦後は、同33年財団法人となった日本美術院の評議員となり、同41年第51回院展に「母子の馬」で文部大臣賞を受賞、同44年には日本美術院監事となる。この間、同42年に千葉県文化功労者として表彰された。また、同51年からは横山大観記念館常務理事をつとめた。没後葬儀は日本美術院葬として執行され、同美術院理事長奥村土牛が葬儀委員長をつとめた。再興院展出品目録大正4年 河口の朝大正9年 鶏大正10年 北国の冬大正11年 芍薬大正12年 漁村早春/山邑首夏大正13年 踊の師匠/唄の師匠(同人推挙)大正14年 枯梢小禽図大正15年 細流青蘆/石橋釣客/雛妓納涼図昭和2年 野菜図昭和3年 遊鯉(其一)(其二)昭和4年 さくら/柳昭和5年 芍薬昭和6年 朝光(葛飾二景の内浦安)/薄光(葛飾二景の内中川)昭和7年 軍鶏昭和8年 雪後争鳥昭和9年 もみぢづくし昭和10年 花蔭昭和11年 斜陽(夏すがた其一)/夜(夏すがた其二)昭和12年 葛西風景昭和13年 厩舎昭和14年 丘の畑昭和16年 午日/潮騒昭和17年 漁村の初夏昭和18年 秋の草昭和21年 朝顔/夕昭和22年 村荘晩春/暮雨/夕映昭和23年 沼畔残照昭和24年 仔馬昭和25年 漁港の朝昭和26年 夕顔昭和27年 洋蘭昭和28年 花昭和29年 花篭昭和30年 初秋昭和31年 群魚昭和32年 花昭和33年 秋彩/蟹昭和34年 残照昭和35年 夕昭和36年 駅路昭和37年 暮色昭和38年 雨の花昭和39年 親子猿昭和40年 河畔昭和41年 母子の馬(文部大臣賞)昭和42年 群魚/厩二題昭和43年 ばら園昭和44年 朝昭和45年 樹映昭和46年 麦秋昭和47年 初夏昭和48年 池畔昭和49年 秋の畑昭和50年 うすれ陽昭和51年 初夏昭和52年 残雪昭和53年 猿と葡萄昭和54年 緑雨

武井武雄

没年月日:1983/02/07

 大正期に童画のジャンルを確立した童画家で児童文学者の武井武雄は、2月7日心筋こうそくのため東京都板橋区の自宅で死去した。享年88。明治27(1894)年6月25日長野県岡谷市に生まれ、長野県立諏訪中学校を経て大正8年東京美術学校西洋画科を卒業。1年間同校研究科に在籍し、この頃から児童文学雑誌「赤い鳥」に挿絵を描き始めて童画に専念、大正13年に「武井武雄童画展」を開催するに及んで「童画」の名称を定着させた。その後、昭和9年の絵日記「赤ノッポ青ノッポ」の新聞連載や「戦中気侭画帳」、「戦後気侭画帳」などの独特な絵と文で人気を集めた。また、昭和10年頃から紙質、装丁、印刷技術を全て自分で工夫したハガキ大の「刊本」製作に情熱を注ぎ、没年までに百三十種を刊行するに到った。代表作に童画集「廃園の草」「妖精伝奇」などがあるほか、郷土玩具の収集、研究家としても知られ著書に『日本郷土玩具』がある。戦前は日本童画家協会、戦後は日本童画会の創立にあたり、昭和34年紫綬褒章を受章した。

山下寿郎

没年月日:1983/02/02

 工学博士、日本建築士事務所協会連合会名誉会長の建築家山下寿郎は、2月2日午後2時45分、肺炎のため、東京都文京区の自宅で死去した。享年94。明治21(1888)年4月2日、山形県米沢市に生まれる。同45年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。同年三菱合資会社技師となり、芝浦製作所、三井合名会社の建築事務嘱託を経て昭和3年山下寿郎建築事務所を創立。同23年株式会社山下寿郎設計事務所に組織変更し同社長となり、同34年取締役会長となる。同49年同事務所を株式会社山下設計に再び組織変更し同最高顧問となり、同56年同名誉顧問となった。この間、大正6年アメリカ、カナダに渡り、同39、42年欧米を、同46年オーストラリアを、翌年アメリカを訪れる。また、東大工学部(1920~48年)、秋田鉱山専門学校(1925~27年)で講師として教鞭をとる。同26年一級建築士、同39年工学博士となる。通産省日本工業標準調査会委員、建設省中央建築士審議会委員、日本建築設計監理協会々長、日本建築士会連合会理事をつとめ、日本建築学会名誉会員となる。同47年勲三等旭日中綬章受章。代表作には宮城県民会館、両羽銀行千葉寮(以上1964年、日本科学防火協会優秀防火建築賞)、東北学院大学七北田学生寮(1967年、同賞)、仙台市庁舎(1967年、建築業協会賞)、日本初の超高層霞ケ関ビル(1969年、同賞及び日本建築学会賞)、岡山市庁舎(1970年、建築業協会賞)、高槻市庁舎(1972年、同賞)、NHK放送センター(1972年)などがある。また、『報酬加算式建築施工契約制度』(1966年、彰国社)を著している

緑川廣太郎

没年月日:1983/01/30

 独立美術協会会員の洋画家緑川廣太郎は1月30日午後5時、急性肺炎のため東京都世田谷区の玉川病院で死去した。享年78。明治37(1904)年3月18日、母親の療養先であった横浜市に生まれる。父、緑川南甫は東京柳橋で紺屋を営む染色家。柳橋で育ち、私立明治中学校を中退。大正9年より本郷洋画研究所に学ぶ。のち小島善太郎の門をたたき師事する。昭和8年第3回独立展に「風景」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同15年第10回展に「黄土」を出品して独立賞を受け、同17年同会々友、同24年同会員となる。戦前は官展にも参加し、同18年第6回文展に「朝」を、翌年戦時特別展に「漁夫」を出品して二年連続特選となる。同38年日本国際美術展に招待出品。同41年第34回独立展に「祈る」「祈る人」を出品して児島賞を受ける。同44年から翌年にかけシルクロードを訪れ以降たびたび同地に取材してその風景を描き続けた。同52年紺綬褒賞を受けている。代表作には前期の受賞作のほか昭和30年代の「サーカス」「水門」、東京芸術大学資料館蔵「西城の月」、法政大学蔵「高砂族の人々」などシルクロード関係の作品がある。

高橋道八

没年月日:1983/01/26

 京焼の名門道八焼の陶工第7世高橋道八は、1月26日午後8時33分、老衰のため京都市東山区の自宅で死去した。享年72。明治44(1911)年、6世高橋道八の息子として京都に生まれ、昭和11年第7世を継いだ。宝暦末に伊勢亀山藩主高橋八郎太夫の次男道八により始められた道八焼の伝統を守り、茶器を中心に制作し黒釉を得意とした。

伊藤廉

没年月日:1983/01/24

 東京芸術大学名誉教授、愛知県立芸術大学客員教授の洋画家伊藤廉は、1月24日午後0時3分、肺炎のため名古屋市の国立名古屋病院で死去した。享年84。明治31(1898)年10月7日、愛知県名古屋市に生まれる。本名廉。大正6年愛知県立第一中学校を卒業し明治大学文学部に入学するがすぐに中退。同9年東京美術学校西洋画科に入学する。同科在学中の同12年第10回二科展に「室内」で初入選。同14年同校を卒業する。昭和2年から5年まで滞欧し、帰国の年第17回二科展に滞欧作15点を特別出品して二科賞を受けるが、同年同会を退き、翌6年林武らと独立美術協会を結成。同会には創立会員として力作を発表し続けるが同12年第7回展の出品を最後に脱会。同18年第18回国画会展から同会に会員として参加する。また、同33年からは国際具象派展にも出品。初期には人物画を多く画いたが、1930年代初頭から静物画に転じ、物の存在について追求を始め、戦後の同26年に胸を患ってのち一層その思索的傾向を強めた。無花果や密柑などを落ち着いた色調で描き、独自の静謐な画風を示す。同21年東京芸術大学講師に就任して以来美術教育にも尽くし、同29年に同大教授、同36年には同美術学部長となり、同41年停年退官して同大名誉教授となる。同年からは愛知県立芸術大学美術学部長をつとめ、同47年停年退職し同客員教授となる。また、同33年より第2、3、6-8、11回安井賞選考委員をつとめた。『セザンヌ覚書』『絵の話』ほか多数の著書があり、同56年には『伊藤廉画集』が刊行されている。没後「伊藤廉記念賞」が設定された。団体展出品歴1923 第10回二科展 「室内」1924 第11回二科展 「楽器のある静物」「卓上静物」1925 第12回二科展 出品せず1926 第13回二科展 「少年」「腕組める裸婦」「花などの静物」「裸婦習作」1927 第14回二科展 「裸婦」「画室のモデル」「静物」「蔓性薔薇など」1928、29 出品せず(滞欧)1930 第17回二科展 特別出品「フオトイユにねむる女」「M・B・Cの肖像」「緑色のジレ」「フオトイユに休む女」「窓による女」「肖像」(3点)「静物食卓」「窓に近く」「レ・フラテリエ」「ある労働者の肖像」「パンフレをよむ女」「ヨッパラヒ」1931 第1回独立展 「新聞をよむ女」「肖像」「風景海」「裸体習作」「労働者区料理店」「頭」「窓による」「ナポリの浮浪者」「水浴構図」「半身」1932 第2回独立展 「手紙をかくブルトンヌ」「海(エトルタ)」「夏」「ギター奏手」1933 第3回独立展 「岩山」(5点)「登山用具静物」1934 第4回独立展 「虎」1935 第5回独立展 「雨霽(熊野川)」「静物」1936 第6回独立展 「群猿」1937 第7回独立展 「生蕃」1943 第18回国展 「雉子」1944 第19回国展 「柘榴静物図」1946 第20回国展 「佛頭不動明王鬼面百点の内」1947 第21回国展 「赤い卓」「雨上り」1947 第22回国展 「八角瓶と柘榴」「雨上る」1948 第23回国展 「硝子器」「桃と水差し」「鳩と水差し」1949 第24回国展 「牛と静物」「牛のゐる風景」「窓辺静物」1950-55 出品せず1956 第30回国展 「無花果一顆」1957 第31回国展 「無花果五ツ」1958 第32回国展 「蜜柑」1959 第33回国展 「蜜柑五箇」1960 第34回国展 「葉上無花果」1961 第35回国展 出品せず1962 第36回国展 「西洋梨」「柚子」1963 第37回国展 「レモン」「円卓レモン」1964 第38回国展 「洋梨」1965 第39回国展 「静物」1966 第40回国展 「レモンとイチジク」1967から出品せず73年11月退会。

倉田文作

没年月日:1983/01/23

 奈良国立博物館長、文化財保護審議会専門委員倉田文作は、1月23日肝腫瘍のため、奈良市の博物館長宿舎で死去、享年64。大正7(1918)年4月17日、画家、倉田重吉(白洋・春陽会創設者)の次男として千葉県安房郡に生まれた。長野県立上田中学校を経て昭和15年青山学院文学部英文科卒業、ついで同17年早稲田大学文学部文学科を卒業の後、同19年東洋美術国際研究会嘱託となる。同20年文部省社会教育局嘱託、22年国立博物館に入り、調査課嘱託を経て、23年文部技官、25年文化財保護委員会事務局美術工芸課彫刻部勤務となる。以後、同34年彫刻部主査、39年文化財調査官、41年事務局美術工芸課長を歴任、44年東京国立博物館学芸部長に転じる。同47年文化庁文化財保護部文化財鑑査官、50年奈良国立博物館長に就任、51年からは文化財保護審議会専門委員に任じた。この間、全国にわたる文化財調査をもとに、専門とする日本彫刻史の研究に多大な成果をあげ、国宝・重要文化財の指定を数多く手掛けた。また、修理保存、展示公開などに豊富な経験を有し、文化財行政の指導助言に当たり、生涯を通じ常にその第一線にあった。国立国際美術館評議員会評議員、国立歴史民俗博物館展示企画委員、国際交流基金運営審議会委員、奈良県及び和歌山県文化財保護審議会委員、日本放送協会近畿地方放送番組審議会委員、日本展示学会評議員会評議員、日本伝統工芸展鑑査委員など、多くの役職をもつ。国内のみならず海外においても、東洋美術品の調査研究はもとより、日米文化教育交流会議専門委員、ユネスコ・ローマ文化財保存修復研究国際センター理事兼財務委員を勤め、その他多くの国際会議に出席し、日本美術の啓蒙、普及、文化財の保護に貢献し、文化財の国際交流での功績も知られるところである。同56年博物館法施行30周年を記念して博物館振興の功績により文部大臣より表彰を受け、同58年従四位に叙せられ勲二等瑞宝章を受章した。主要著作目録著書・編著長野県文化財図録(美術工芸篇) 長野県教育委員会 昭和30年2月観世音寺重要文化財仏像修理報告書 福岡県教育委員会 昭和35年3月仏像の像内と納入品併せて木彫像の構造論 救世熱海美術館 昭和40年1月仏像のみかた(技法と表現) 第一法規 昭和40年7月原色日本の美術第5巻密教寺院と貞観彫刻 小学館 昭和42年6月奈良六大寺大観第2巻法隆寺2(彫刻) 岩波書店 昭和43年4月奈良六大寺大観第8巻興福寺2(彫刻) 岩波書店 昭和44年7月日本の美術44 貞観彫刻 至文堂 昭和45年1月奈良六大寺大観第4巻法隆寺4(彫刻・書蹟) 岩波書店 昭和46年5月ブック・オブ・ブックス 貞観彫刻 小学館 昭和46年8月物別展「平安時代の彫刻」(東博特別展記念図録) 東京国立博物館 昭和47年3月日本の美術86 像内納入品 至文堂 昭和48年7月奈良の寺第16巻 法華堂と戒壇院の塑像 岩波書店 昭和48年11月文化財講座「日本の美術」6 彫刻(平安) 第一法規 昭和51年10月大和古寺大観第7巻海住山寺・浄瑠璃寺・岩船寺 岩波書店 昭和53年8月日本の美術151 二王像 至文堂 昭和53年12月在外日本の至宝8 彫刻 毎日新聞社 昭和55年7月法華経の美術 共編 佼成出版社 昭和56年9月奈良六大寺大観全14巻編集委員 岩波書店 昭和41~46年論文信州の新資料 信濃 昭和24年6月銅造釈迦如来像(御物48体仏の内) ミュージアム 昭和26年6月信濃の清水寺 ミュージアム 昭和32年5月東寺の諸像 図録『東寺』朝日新聞社 昭和33年5月東寺の八幡三神について 大和文華 昭和33年6月中尊寺の諸像 図録『中尊寺』朝日新聞社 昭和34年11月集古館木造普賢菩薩像について 三彩 昭和35年6月風神・雷神像(妙法院) 国華 昭和36年1月奈良来迎寺の善導大師像 ミュージアム 昭和36年1月観世音寺の彫刻 国華 昭和36年8月慈尊院弥勒仏坐像 仏教芸術 昭和37年12月当麻寺本堂発見の板光背、台座残片について 当麻曼荼羅図譜文化財保護委員会 昭和38年3月宝生家能面 ミュージアム 昭和38年7月園城寺新羅明神像 古美術 昭和38年10月熊野本宮家津御子大神像 古美術 昭和38年10月甲州善光寺の弥陀三尊 信濃 昭和39年3月善光寺如来考 国華 昭和39年5月高野山の不動明王像 仏教芸術 昭和40年3月東寺の仏像 図録『大師のみてら』東寺文化財保存会 昭和40年10月法隆寺阿弥陀如来坐像(金堂)観音菩薩立像1、2 奈良六大寺大観法隆寺2 岩波書店 昭和43年仏像彫刻の構造と技法(その1) 奈良六大寺大観法隆寺2 岩波書店 昭和43年4月東大寺盧舎那仏坐像  奈良六大寺大観東大寺1 岩波書店 昭和43年8月平安時代の金銅仏 ミュージアム 昭和44年2月興福寺北円堂四天王立像 奈良六大寺大観興福寺1 岩波書店 昭和44年7月興福寺板彫十二神将像 奈良六大寺大観興福寺1 岩波書店 昭和44年7月美濃の白山、高賀山の虚空蔵信仰 ミュージアム 昭和45年4月興福寺北円堂弥勒仏坐像 奈良六大寺大観興福寺2 岩波書店 昭和45年12月興福寺世親・無著立像 奈良六大寺大観興福寺2 岩波書店 昭和45年12月鎌倉初頭の興福寺再興と鎌倉彫刻 奈良六大寺大観興福寺2 岩波書店 昭和45年12月仏像彫刻の構造と技法(その3) 奈良六大寺大観興福寺2附録8 岩波書店 昭和45年12月文化財の模写、構造 月刊文化財 昭和46年4月法隆寺観音菩薩立像(百済観音) 奈良六大寺大観法隆寺2 岩波書店 昭和46年5月法隆寺聖徳太子及侍者像(聖霊院) 奈良六大寺大観法隆寺2 岩波書店 昭和46年5月平等院鳳凰堂本尊像の光背 ミュージアム 昭和46年6月播磨浄土寺の弥陀三尊像 仏教芸術 昭和46年6月会津勝常寺の薬師三尊像 ミュージアム 昭和46年9月叡尊をめぐる仏師たち 奈良六大寺大観西大寺 岩波書店 昭和48年5月文化財の国際交流(ユネスコ専門家会議報告) 文化庁月報 昭和51年6月鶴林寺太子堂の来迎壁について 文化庁月報 昭和51年7月像内納入品について 重要文化財別巻1附録 毎日新聞社 昭和53年1月カルコン・交流美術における美術品のケアに関する会議 文化庁月報 昭和53年1月鎌倉・室町時代の美術 光村印刷 昭和53年2月博物館、美術館のコレクション 文化庁月報 昭和53年3月河内の国宝仏像 仏教芸術 昭和53年8月稲沢の美術 『稲沢市史』研究編2 昭和54年1月第10回カルコン報告 文化庁月報 昭和55年9月最近のイクロムの活動 古文化財の科学25号 昭和55年12月若狭の文化 若狭の古寺美術 昭和56年6月ジャパンハウス・ギャラリーの法隆寺展 文化庁月報 昭和56年10月イクロムの現状と近い将来 文化庁月報 昭和57年7月

八木正

没年月日:1983/01/18

 板をつなぎあわせた独自の立体作品を発表していた八木正は、1月18日急性白血病のため死去した。享年26。昭和31(1956)年7月10日、陶芸家八木一夫と織物作家高木敏子の二男として京都市東山区に生まれる。同50年京都市立日吉ケ丘高校普通科を卒業。同54年京都市立芸術大学美術学部彫刻科を卒業し、同大美術専攻科に進学。同56年同科を修了する。大学在学中の同53年京都府彫刻展に出品。翌年より毎年個展を開く。はじめは木彫作品を制作したが、のちに生地の板をつなぎあわせた立体へと移行し、やがて着色した板と生地の板を並列させたり、板の表面に凹凸をもたせたりするようになった。「人がものと等価であるようなあり方」を作品化することを追求していた。京都芸術短期大学、インターナショナル・デザイン学校などで講師をつとめる。同58年、東京伊奈ギャラリー、京都芸術短期大学ギャラリー楽で遺作展が開かれた。

小川善三郎

没年月日:1983/01/14

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、献上博多織の第一人者として知られる小川善三郎は、1月14日午後11時23分、心筋こうそくのため、福岡市城南区の福岡大学医学部附属病院で死去した。享年82。明治33(1900)年7月15日、福岡市に、博多織職二代目小川熊吉の長男として生まれた。本来の博多織とか仙台平には、女性の体力では不可能な限界があり、職人は男子と決まっていたから、長男善三郎の出生は、小川家の博多織職三代目がその時点で決定していた。従って幼少時より父親の側で年令相応の手伝いをして博多織に馴染んで成長した。 大正2(1913)年、小学校を卒業と同時に、福岡市内の原竹織工場に住み込み弟子として入門、6ケ年間の修業を勤めあげ、年季あけとなる。同時(大正8年)に、市内の阿部織工場に、職人として入社する。この工場主の阿部萬次郎は、当時の博多織業界随一の技術と評価され、その作品は高貴筋への献上品となっていた。この工場主に見込まれて、特訓が行われ、その指導のもとに小川善三郎の本格的な献上博多織の研究と技法の習練が行われ、卓越した手腕の基礎が築かれた。大正14(1925)年阿部萬次郎工場を退職。昭和2(1927)年、松居博多織工場に入社、昭和26(1951)年退社し、昭和27(1952)年より独立して自営業となる。昭和35(1960)年 東京高島屋での百選会で優選賞。昭和37(1962)年 福岡市主催の求評会で、この年から三年連続特別賞。昭和43(1968)年 10月、福岡県無形文化財博多織保存者に認定。昭和45(1970)年 福岡県教育功労者として表彰。昭和46(1971)年4月23日 重要無形文化財博多織保持者に認定。昭和48(1973)11月 勲四等旭日小綬章を受章。

佐和隆研

没年月日:1983/01/05

 嵯峨美術短期大学学長、密教図像学会会長で密教美術研究の第一人者である佐和隆研は、1月5日午前11時3分、急性心不全のため京都市右京区泉谷病院で死去。享年71。明治44(1911)年3月9日、広島県佐伯郡に生まれた。昭和10年3月、京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業後、同年4月から同大学大学院に進むと同時に醍醐寺霊宝館主事に就任した。同12年4月、大学院を中退し高野山大学仏教芸術科に専任の講師として赴任し、同15年4月から助教授、17年4月に教授となり、24年3月まで仏教芸術学科主任教授であった。同年6月からは京都市立美術専門学校教授に就任し、翌25年4月から同校が京都市立美術大学として発足するにともない同大学教授となり、同38年12月から40年12月までは京都市立美術大学附属図書館長を併任した。さらに同大学が名称変更して京都市立芸術大学となった44年4月から美術学部長を、つづいて同46年10月からは49年5月に退職するまでの2年5ケ月間、同大学の学長をつとめた。その後、同年10月からは嵯峨美術短期大学に学長として迎えられた。 専門とする研究分野は日本の密教美術であったが、インド・東南アジア美術にも及んだ。研究活動は、京都帝大大学院に進むと同時に就任した醍醐寺霊宝館主事としての宝物調査から始まり、密教美術の宝庫である醍醐寺に所蔵される宝物に関する研究の成果は『図像』(昭和15年)、仏教図像集の中の『醍醐寺蔵十二天形像』(同17年)さらに『密教美術』(古文化叢刊、同22年)として発表され、日本における密教美術史研究の基礎を固めた。敗戦後に意欲的に発表された研究論文の中から一部を選んで『密教美術論』(同30年)、『日本の密教美術』(同36年)が刊行され、密教美術研究史上画期的な成果をあげた。『日本の密教美術』に対し同37年3月、京都大学より文学博士の学位が授与された。この頃から密教美術の源流を究明するためにインド・東南アジア美術の研究に着手し、同35年、39年、42年に海外学術調査を実施し、その報告が『仏教の流伝-インド・東南アジア-』(同46年)、『密教美術の源流』(57年)として刊行された。また近年にはこれまでの研究成果をまとめ或いは増訂した『日本の仏教美術』(同56年)、『白描図像の研究』(57年)が相ついで著わされた。 密教美術研究を進める一方、研究者に基礎的資料を提供するための多くの企画の発案者推進者であった。すなわち『仏像図典』(37年)、『密教辞典』(50年)など辞典類の刊行、『御室版両部曼荼羅集』(47年)、『弘法大師行状絵巻』(48年)など複製類の刊行、『弘法大師真蹟集成』(48~49年)、『密教美術大観』の編集刊行は研究者を大いに稗益するものであった。また醍醐寺や石山寺に所蔵される宝物・古文書・聖教類の調査と整理を毎年実施し『醍醐寺総合調査目録・第一巻(仏画・肖像画・白描画像之部)』(46年)が公表された。 さらに研究の発展を願って研究誌『仏教芸術』の創刊に努力し、亡くなるまで編集と執筆の両方に活躍した。また、密教学、仏教史学、美術史学の研究者を結集した密教図像学会の設立を提唱し、同56年9月、推されてその初代会長に就任した。なお、研究活動を開始した醍醐寺霊宝館にあっては戦後に主事から館長となる一方、同52年醍醐寺文化財研究所の所長に就任、翌年からは「研究紀要」が創刊されている。 また、密教美術を一般の人々に紹介する概説書の刊行にも力を注ぎ、著書『密教の美術(日本の美術8)』(同39年)、編著『仏像図典』(37年)、『仏像-心とかたち-』(40年)は多くの人々に迎えられ、とくに後者は同40年の第19回毎日出版文化賞を受賞した。主な著書は次の通り。醍醐寺蔵十二天形像(仏教図像集) 便利堂 昭和15年2月図像 アトリヱ社 同15年10月高野山 便利堂 同22年8月密教美術(古文化叢刊32) 大八州出版 同22年9月密教美術論 便利堂 同30年11月日本の密教美術 便利堂 同36年5月仏像案内 吉川弘文館 同38年9月日本の仏像(日本歴史新書) 至文堂 同38年10月密教の美術(日本の美術8) 平凡社 同39年8月仏教美術入門(教養文庫) 社会思想社 同41年9月日本密教-その展開と美術-(NHKブックス48) 日本放送協会 同41年10月醍醐寺(秘宝8) 講談社 同42年10月仏像の流伝-インド・東南アジア- 法蔵館 同46年11月空海の軌跡 毎日新聞社 同48年6月密教の寺-その歴史と美術- 法蔵館 同49年11月醍醐寺(寺社シリーズ1) 東洋文化社 同51年3月隨論密教美術 美術出版社 同52年7月日本の仏教美術 三麗社 同56年12月密教美術の源流 法蔵館 同57年3月白描図像の研究 法蔵館 同57年11月空海とその美術 朝日新聞社 同59年3月

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