本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





染川鉄之助

没年月日:1982/07/19

 日展評議員、鋳金家協会会長の染川鉄之助は、7月19日午前4時4分、急性出血性心不全のため、東京都新宿区西新宿の東京医大付属病院で死去した。享年70。1912(明治45)年5月25日鹿児島県に生まれ、39年東京美術学校金工科鋳金部を卒業する。在学中の37年同期生と経緯工芸会を組織し春秋に同人展を開催、卒業後実在工芸展に出品する。戦後48年鋳金家協会会員(56年委員)、52年創作工芸協会会員となり、一方、48年より東京町田市の私立日本聾話学校で図画工作を教え、聾唖者の美術教育に尽力した。また52年第8回日展に「噴水人魚」が初入選し、54年第10回日展で「飛天」が特選、翌55年第11回日展「水呑み場の構成-憩いの場におく」が北斗賞を受賞する。57年審査員をつとめ58年会員、69年の第1回改組日展で「朧銀・月の壷」が桂花賞受賞、翌年評議員となる。80年には、前年6月の個展で独自の詩情と人間性を表出したとして第30回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。65年より現代工芸美術協会評議員、82年2月より鋳金家協会会長をつとめる。日展出品歴1952 第8回日展 「噴水人魚」1954 第10回日展 「飛天」特選1955 第11回日展 「水呑み場の構成-憩いの場におく」無鑑査、北斗賞1956 第12回日展 「スクリーン幻想」1957 第13回日展 「白銅花器・楕円」審査員1958 第1回社団法人日展 「青き鳥」会員1959 第2回社団法人日展 「青銅鳥の花器」会員1960 第3回社団法人日展 「ホールのための花器・青い花」会員1961 第4回社団法人日展 「青銅睡蓮の鉢・ながれ」会員1962 第5回社団法人日展 「花器・波」会員1963 第6回社団法人日展 「噴水・鳥」会員1964 第7回社団法人日展 「青銅・舞い」会員1965 第8回社団法人日展 「月齢」会員1966 第9回社団法人日展 「残照」会員1967 第10回社団法人日展 「聖日」会員1968 第11回社団法人日展 「扁容」会員1969 第1回改組日展 「朧銀月の壷」会員・審査員・桂花賞1970 第2回改組日展 「エパタ」評議員1971 第3回改組日展 「白銅花器・波」評議員1972 第4回改組日展 「朧銀滄浪の壷」評議員1973 第5回改組日展 「落葉抄」評議員1974 第6回改組日展 「白銅のレダ」評議員1975 第7回改組日展 「緑の曲面」評議員1976 第8回改組日展 「白銅澪」評議員1977 第9回改組日展 「白銅レクイエム」評議員1978 第10回改組日展 「白銅月蝕幻映」評議員1979 第11回改組日展 「朧銀献唱壷」評議員1980 第12回改組日展 「白銅・道程」評議員1981 第13回改組日展 「白銅・郷愁」評議員1982 第14回改組日展 「朱銅置物・森の唄」遺作

三木弘

没年月日:1982/07/17

 元自由美術協会会員の洋画家三木弘は7月17日午前6時40分、老衰のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年82。1900(明治33)年5月8日和歌山県那賀郡に生まれ、京城龍山小学校を経て、和歌山県立農林学校を卒業する。20(大正9)年太平洋画研究所に入り、中村不折、岡精一に師事する。22年本郷洋画会研究所に移り、岡田三郎助に師事する。26年韓国よりフランスに渡り、アカデミー・ランソンでビッシェール・ロッシュの指導を受ける。28(昭和3)年第15回二科展に「巴里風景」を出品し初入選する。29年より京城に住す。38年第26回展まで二科展に出品。戦後は自由美術協会に参加し、同会には61年第25回展まで出品を続ける。同会在籍中、協会誌「自由美術」において活発な言論活動を行なっていたが、戦後、京都で「都教聞」の文化部・美術記者となり、後に月刊美術誌「汎美術」を発刊。54年資生堂で個展を開いた他、66年クリーブランド、67年東京において個展を開催。戦後、欧米から押しよせる物質文明の中で画家が浅薄なモダニズムへ向かうことに警鐘を鳴らし続けた。

酒井田柿右衛門〔13代目〕

没年月日:1982/07/03

 赤絵磁器を代表する「柿右衛門」の窯元13代酒井田柿右衛門は、7月3日午後6時50分、胃ガンのため、自宅より佐賀県藤津郡嬉野町の国立嬉野病院に向かう車中で死去した。享年75。1906(明治39)年9月20日、佐賀県西松浦郡に12代酒井田柿右衛門(正次)の長男として生まれ、本名渋雄。24年有田工業学校製陶科を卒業する。「柿右衛門」は古伊万里・色鍋島と共に有田焼を代表し、初代柿右衛門が創始した日本初の色絵技術の伝統を継ぎ、輸出によりデルフト窯、マイセン窯等ヨーロッパ窯業界にも大きな影響を与えた。失透釉の乳白色の素地は、米のとぎ汁に似るところから「濁手」と呼ばれ、江戸中期の4代目以降衰退していたが、53年父と共にその復元に成功、文化財保護委員会より無形文化財の記録選択を受ける。63年父の死去に伴い13代酒井田柿右衛門を襲名、同年以後日本伝統工芸展に出品し、一水会にも出品、審査員をつとめる。64年日本工芸会正会員となり、67年佐賀県重要無形文化財認定、同年佐賀県文化功労者として表彰される。70年には佐賀県陶芸協会会長、71年柿右衛門製陶技術保存会を設立し会長就任、また同年「柿右衛門」(濁手)は重要無形文化財に総合指定され、その保持者として認定されたが、76年文化財保護法の改正により、保持者は柿右衛門製陶技術保存会に認定換となった。主に伝統的な模様を用いた保守的傾向の強い12代に対し、写生に基づく模様の創作を試み、現代性を加味した新しい柿右衛門様式を確立した。72年紫綬褒章、75年西日本文化賞、78年勲四等旭日小綬章、79年佐賀新聞社文化賞を受賞、没後正五位に叙せられ、有田町名誉町民の称号を受けた。

鬼頭鍋三郎

没年月日:1982/06/14

 日本芸術院会員、日展顧問、光風会名誉会員の洋画家鬼頭鍋三郎は、6月14日胃ガンのため名古屋市の名大付属病院で死去した。享年82。具象一筋に、戦後の「バレリーナ」シリーズや、昭和40年代以降の舞子シリーズで知られる鬼頭は、明治32(1899)年6月18日愛知県愛知郡の地主の家に生まれた。名古屋商業学校在学中から油絵に親しみ、大正5年同校卒業後明治銀行へ入行するが同10年に退職。同12年上京し第10回光風会展に初入選、この頃友人富沢有為男の親戚にあたる岡田三郎助に師事するに至る。翌13年第5回帝展に「騎兵調練図」が初入選、この頃から辻永に師事する。昭和2年第14回光風会展で光風会賞を受賞、同6年光風会会員となり、同9年第15回帝展に「手をかざす女」で特選、同18年の第6回新文展の審査員をつとめた。同19年陸軍美術展に「小休止」で陸軍大臣賞を受賞、同年陸軍版画部派遣画家として南支に従軍する。戦後は同20年から名古屋市に居住し、光風会展、日展を中心に制作発表を行い、とくに、同26年から始まる「バレリーナ」シリーズで飛躍の転機をつかみ、同31年、前年の第11回日展出品作「アトリエにて」で日本芸術院賞を受賞、同38年日本芸術院会員となる。同43年愛知県立芸術大学教授となり、同48年定年退職後は客員教授をつとめる。この間、同41年の第9回日展に「舞妓」を出品、以後、鬼頭芸術の集大成ともいうべき舞子シリーズを展開する。また、同45年勲三等瑞宝章を受け、同年光風会理事長(-同55年まで)に就任、同50年日展顧問となる。同55年、「画業六十年記念鬼頭鍋三郎回顧展」(朝日新聞社主催)が、東京銀座松坂屋他で開催される。主要出品歴1924年 第5回帝展 「騎兵調練図」(初入選)1926年 第7回帝展 「夏花」1928年 第9回帝展 「窓際の静物」1929年 第10回帝展 「裸体」1930年 第11回帝展 「背向きの裸婦」1931年 第12回帝展 「赤子」1933年 第14回帝展 「画室の女」1934年 第15回帝展 「手をかざす女」(特選)1935年 第二部会展 「午後」1936年 文展招待展 「室内」1937年 1回新文展 「海辺」(無鑑査)1938年 2回新文展 「午後」1939年 3回新文展 「裁縫」1940年 紀元二千六百年奉祝美術展「黒帽子の女」1941年 4回新文展 「マンドリンを持つ女」1943年 6回新文展 「縫物」1944年 陸軍美術展 「小休止」(陸軍大臣賞)1947年 3回日展 「椅子による」(招待)1948年 4回日展 「裸婦」(依嘱)1949年 5回日展 「仲秋」1950年 6回日展 「踊子」1951年 7回日展 「バレリーナ」1952年 8回日展 「二人のバレリーナ」(参事)1953年 9回日展 「鏡の前」1955年 11回日展 「アトリエにて」1956年 12回日展 「マドモアーゼルL」1957年 13回日展 「室内」1958年 1回新日展 「前庭にて」(評議員)1959年 2回新日展 「室内少女」1960年 3回新日展 「立秋」1961年 4回新日展 「夏休み」1962年 5回新日展 「棚の前」1963年 6回新日展 「紫葳花」(理事)1964年 7回新日展 「夏草の庭」1965年 8回新日展 「春装譜」1966年 9回新日展 「舞妓」1967年 10回新日展 「舞妓」1968年 11回新日展 「舞妓」1969年 1回改組日展 「芦刈」(常任理事)1970年 2回改組日展 「舞」1971年 3回改組日展 「舞」1972年 4回改組日展 「舞」1973年 5回改組日展 「皷」1974年 6回改組日展 「宵山に」1975年 7回改組日展 「皷」(顧問)1976年 8回改組日展 「屏風の前」1977年 9回改組日展 「宵山車」1978年 10回改組日展 「正月」1979年 11回改組日展 「舞姿」1981年 13回改組日展 「屏風祭」

田中阿喜良

没年月日:1982/06/10

 行動美術協会会員、サロン・ドートンヌ会員の洋画家田中阿喜良は、心筋こうそくのため、6月10日パリの病院で死去した。享年63。本名中島阿喜良。1918(大正7)年8月20日大阪府枚岡市に生まれ、37年大阪府立高津中学校を卒業。38年姫路高等学校に入学するが、40年同校を中退し京都高等工芸学校図案科に入学、43年同校を卒業する。画家を志しながら応召し、3年間のブランクを経た後、47年第2回行動美術展に「庭」を初出品する。55年同展に「棺」「枷」「母子」を出品し、同会会員となる。垂直線、水平線を強調した構図、簡略化した形体把握、輪郭線の使用、色の限定など、この時期の作品には、渡仏後完成され、「土のついたジャガイモのようだ」と評された田中の作風に通ずる点が既に見られる。56年神奈川県立近代美術館で開かれた「今日の新人展」に招待出品、翌57年同館主催のシェル美術賞展に「杭」「父子」を出品し一等賞を得る。また、同年の行動展出品作「層」は行動美術賞を受け、いわゆる戦中派世代の旗手と目される。58年春、戦後再開された外国美術紹介が活発となったこと等に触発され、渡仏。59年、サロン・ドートンヌに出品するとともに、グラン・エ・ジューヌ・オージュルディ展に招待出品する。また、同年フランス・ビルヌーブ1等賞を受賞。60年モナコ国際展絵画部グランプリ、仏国ポンタヴァン賞を受賞、61年サロン・ドートンヌ会員となる。荒目カンバスとビニール系の水性塗料を用いた素朴なマチエルを持つ白い下地に、パリの庶民を描き出す独特の作風は63年頃に定着をみる。62年、パリ・ジャン・カステル画廊と契約、翌年エルベ画廊と契約する。日本においては、朝日国際具象展、同秀作美術展、毎日現代美術展、同国際美術展に招待出品する他、67、69、71年には東京、名古屋で個展を開いている。75年には神奈川県立近代美術館で「田中阿喜良展」が開催される。行動展出品目録1947 第2回 「庭の朝」1948 第3回 「戸口にて」1949 第4回 「静物」1950 第5回 「裸婦」1953 第8回 「浜」1955 第10回 「棺」「枷」「母子」1956 第11回 「トロイの馬」「ふだ」1957 第12回 「層」1958 第13回 「寓話」「すきま」1963 第18回 「カルタ」「露天商人」「馬鈴薯を売る人」1967 第22回 「市場」「語り」1968 第23回 「闘牛を見る人」1970 第25回 「アプレミディ」1972 第27回 「マッソン」1977 第32回 「魚」1978 第33回 「ろば」1979 第34回 「メトロのプラットホーム」1980 第35回 「壷」「手」1981 第36回 「トルッフを売る」

西脇順三郎

没年月日:1982/06/05

 現代詩人の最長老、慶應義塾大学名誉教授の西脇順三郎は、6月5日急性心不全のため新潟県小千谷市の小千谷総合病院で死去した。享年88。昭和初年以来現代美術の動向にも大きな影響を与えた西脇は、明治27(1894)年1月20日新潟県北魚沼郡に生まれた。少年時代から英語と絵を好み、同44年中学卒業後画家を志して上京、藤島武二の内弟子となり、また、黒田清輝に許されて白馬会に入りデッサンを学び、洋画研究を目的にフランス留学を望むが、父の死などによりやがて画家志望を断念する。大正6年慶應義塾大学理財科を卒業。同9年荻原朔太郎の『月に吠える』に接し衝撃を受け、自らも口語自由詩をつくることを決意する。同11年から14年まで英国に留学、オックスフォード大学で古代中世英語・英文学を学び、この間、芸術家との交友でモダニズムの洗礼を受け、印象派絵画に接し、また、イギリス人画家マジョリ・ビットルと結婚(のち離婚)する。同15年慶大文学部教授に就任、当時の文科の学生、佐藤朔、滝口修造らと親交をはじめ、日本におけるキュビスム、ダダ、シュール・レアリスム、イマジスムなど、新芸術運動の中心となり、「三田文学」を執筆の拠点とする。昭和2年、日本最初のシュール・レアリスム・アンソロジー「馥郁タル火夫ヨ」を刊行、その後、詩論を次々に発表して芸術革命の実践に入った。同4年『超現実主義詩論』を刊行、同8年には第二詩集『Ambarvalia,あむばるわりあ』を刊行し評価を決定づけ、新詩運動の中心的存在となる。戦後は、膨大な作品を発表し詩人の真面目を発揮、同31年の『第三の神話』で翌年度第8回読売文学賞を受賞、同36年日本芸術院会員(第二部文学)となり、同46年には文化功労者に選ばれる。この間、はやくから美術論も執筆したが、晩年は飯田善国との合作詩画展(「クロマトポイエ」南天子画廊、同47年)の開催、池田満寿夫との合作詩画集、(『Gennaio A Kyoto』『traveller’s joy』同47年)の刊行などのほか、同43年には文芸春秋画廊で「西脇順三郎展」(南天子画廊主催)を、同56年には草月美術館で回顧展「西脇順三郎の絵画」展を開催し、「詩人の余技」の域をこえた本格的な絵画作品として話題となった。詩画集に『籜』(同47年)、画集に『西脇順三郎の絵画』(同57年)がある。

黒田辰秋

没年月日:1982/06/04

 木質の美を追求し続けた木漆工芸の人間国宝黒田辰秋は、6月4日午後3時30分、急性肺炎のため京都市伏見区の自宅で死去した。享年77。1904(明治37)年9月21日、京都市に塗師屋を営む黒田亀吉の六男として生まれる。病弱の幼時期を送り、19年父兄の勧めで一時蒔絵師に就くが、健康を害してこれを止め、以後独学する。この頃、漆芸界での分業制に疑問を持ち、制作から塗りまでの木工芸の一貫作業を目指して木工も独学した。23年第一回京都市美術工芸品展に「螺鈿竜文卓」が入選、デビュー作となる。21年楠部弥弌、24年には河井寛次郎、柳宗悦、青田五良(染織)らを知り、彼らの民芸運動に共感、26年柳らが発行した『日本民芸館設立趣意書』の表紙の表題を彫る。27年には柳宗悦、青田五良、鈴木実(染織助手)と共に上賀茂民芸協団を創立し、共同生活をしながら制作に没頭した。この頃朝鮮の木工品に学ぶところが大きく、また技術的にも、透明漆を塗り木目を生かして重厚な仕上がりを見せる拭漆や、朱漆、黒漆、白蝶貝等による螺鈿などの技法を既に用い、大量の木工家具や装飾品等を制作した。28年御大礼記念博覧会に特設された民芸館に「拭漆欅テーブルセット」を出品、29年には民芸協団作品展が開催され、また民芸論を通じ、小林秀雄、志賀直哉、芹澤銈介らを知る。上賀茂民芸協団は29年秋解散となるが、ここでの活動が以後の制作態度を決定した。また本の表題や扉絵、挿絵などもこの頃手がけている。30年柳の推薦により国画会に無鑑査出品、以後同展に出品する。35年頃よりメキシコ産アワビ貝(耀貝)を使った螺鈿も本格的に手がけ、終戦前後までは主に個展を中心に活動、また40年には武者小路實篤を知る機会を得た。戦後に至りその社会的活動も活発となり、先ず45年漆芸研究団体を結成、48年京都工芸作家審議委員会(常任委員)、54年日本工芸会近畿支部創設、56年日本工芸会正会員、58年には日本伝統工芸展鑑査委員・木工部長となる。作品では59年東宮御所「耀貝螺鈿盒子」、67年皇居新宮殿扉飾り、及び梅の間用の大飾棚、そのほか螺鈿の台座などを制作している。木質の持つ美を極力生かし、伝統に学び民芸運動にも参加する一方、卓越した技量により現代的な造型性をも盛り込んだその作品は、志賀直哉をして「名工中の名品」と言わしめた。70年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受け、71年紫綬褒章、76年京都市文化功労者、78年勲四等旭日小綬章を受章、また64年国画会会員となっている。

池田洛中

没年月日:1982/05/27

 日本画家池田洛中は、5月27日午後4時25分、老衰のため京都市伏見区の自宅で死去した。享年78。1903(明治36)年8月31日京都市中京区に生まれ、本名彦太郎。22年京都市立絵画専門学校に入学、卒業後同校研究科に進み、34年修了する。この間、26年の第1回聖徳太子奉讃美術展に「公園」が入選、33年第14回帝展「公園夏日」、36年文展鑑査展「白鷺城」が入選する。また、33年、堂本印象の画塾東丘社に入塾するが、方針の相違から41年6月に退塾、同年8月川端龍子の青龍社に入る。青龍社展にはほぼ毎年出品し、二曲屏風「獅子」(41年)や「洛北印象」(44年)等、また戦後は入賞作「千体仏」(59年)「列天」(同年)「蘭」(61年)のほか「東福寺山門」などを発表する。風景・花鳥画を得意とし、36年青龍社社人に推挙、66年川端龍子の死による青龍社解散後は個展を中心に活動、東京、京都、大阪等で個展を開催している。

江国正義

没年月日:1982/05/22

 元横浜国立大学学長、同大名誉教授の建築家江国正義は、5月22日午前9時51分、肝臓ガンのため東京都武蔵野市の武蔵野日赤病院で死去した。享年88。1894(明治27)年3月24日、岡山市に生まれる。1919年東京帝国大学建築学科を卒業し、20年同科助教授となる。27年田中正義建築事務所を開設して独立し、東京・服部時計店本店、九段会館等の設計を担当する。戦後は事務所を閉鎖し、49年横浜国立大学の発足に際し同大建築科教授となり、工学部長を経て53年同大学長に就任する。59年学長を退任し、同大名誉教授となる。退官後、国建築事務所を自営。構造設計を専門とし、『建築構造基準』『鉄筋コンクリート経済設計法』などの著書がある。法政大学、帝国ホテル新館、神奈川県立博物館、神奈川県立婦人総合センター等の設計を手がけた。

菊池隆志

没年月日:1982/05/16

 創画会会員の日本画家菊池隆志は、5月16日午後1時16分、肺ガンのため東京都清瀬市の結核研究所付属病院で死去した。享年71。1911(明治44)年2月26日、日本画家菊池契月の次男として京都に生まれ、彫刻家菊池一雄は兄にあたる。28年第9回帝展に「初夏遊園」が初入選し、以後連続入選、34年第15回帝展「室内」が特選を受賞する。新文展にも39年第3回展より入選し、翌41年第4回文展に「母子像」を無鑑査出品、この間、36年猪原大華らと共に京都市立美術工芸学校教員となっている。戦後に至り、初め日展に出品していたが、48年山本丘人、上村松篁、福田豊四郎らと共に創造美術を結成、創立会員となる。その後51年新制作派協会と合流し新制作協会日本画部となるが、日本画部は74年新制作を離脱し創画会を結成した。人物、風景画を得意とし、新制作での作品に「雲」(51年)「裸婦」(52年)「姉弟」(53年)「氷雪の壁」(61年)ほか、創画会では「死海の遺跡QUMRAN」(74年)や壮大なロマンチシズムを感じさせる代表作「交響詩画、嵐の海」(第1章・76年、第2章・78年)等を発表している。

吉田謙吉

没年月日:1982/05/01

 築地小劇場創立メンバーの舞台美術家吉田謙吉は、5月1日午前4時55分、大動脈りゅう破裂のため、東京都港区の都済生会中央病院で死去した。享年85。1897(明治30)年2月10日、東京都中央区に生まれる。京橋小学校の同級生に坂東三津之丞がおり、後に松竹社長となる城戸四郎は先輩にあたる。1909年府立一中に入学するが3年生進級の際、父の倒産により中退する。11年府立工芸学校金属科鋳金科に入学。15年同科を卒業し、海軍造兵廠鋳金工場に勤務する傍ら、葵橋洋画研究所に学び、また、土岐善磨に師事し生活歌を学ぶ。17年、東京美術学校図案科第一部に入学、22年同科を卒業する。同年第9回二科展にLA LOKOMOTIVO PLOVIZEJO SUBIGINTA SUB URBO(街に沈んだ機関車庫)で初入選する。23年「アクション」「三科」などのグループをつくり新しい絵画運動を起こす。24年築地小劇場の創立に美術部宣伝部員として参加し、第1回公演「海戦」の舞台美術を担当。以後、同劇場で上演されたロマン・ロラン作「狼」、イプセン作「幽霊」等の舞台美術を手がけ、土方与志との共同制作による丸太組み舞台のスタイルをつくり上げる。29年築地小劇場分裂後は、新築地劇団の同人となる。日華事変には海軍従軍舞台装置家として大陸に渡る。46年帰国後、日本大学、多摩美術大学、玉川大学の演劇科で教鞭をとる。60年現代マイムを日本へ移入すべく日本マイム協会をつくり、同会会長となる。作画、著作のほか、旅館・喫茶店等の設計・内装も手がけ、著書に「たのしい舞台装置」「築地小劇場の時代-その苦闘と抵抗」となどがある。

菅創吉

没年月日:1982/04/29

 生涯団体に属さず、自由な制作態度で独自の足跡を残した洋画家、菅創吉は、4月29日午後2時57分胃ガンのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年77。1905(明治38)年5月6日、兵庫県姫路市に旧高知藩士彼末亀太郎の四男として生まれる。本名、彼末己之助。12年飾磨尋常小学校に入学。20(大正9)年姫路市男子高等小学校を卒業する。父の影響により幼い時から画家を志し、秋吉蘇月に師事する。25年上京し、講談社等の図版カット、政治漫画などを描く。38(昭和13)年、満州鉄道牡丹江鉄道局に勤務し、付近を旅行し制作する。45年広島県豊田郡瀬戸田に引上げ、翌46年より神戸進駐軍に勤務。50年神戸市の家屋が失火により全焼し、東京に居を移す。この時、多くの作品を失っている。上京後2年半程毎日新聞等に挿絵を描いていたが、59年なびす画廊(東京)で個展を開き、その際出品された「夢」がその後の方向を決定する転期となり、以後ほとんど毎年、油絵を中心とする個展を画廊で開催する。63年ワールド・ビジョン総裁ピアスの招きにより渡米。ロスアンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨークのギャラリーで個展を開き、71年にはブルックリン美術館に出品する。この間、66年アメリカ永住権を獲得する。滞米中、カナダ、メキシコを訪れ、72年ヨーロッパをまわって帰国。帰国後第一回目の個展を中井三成堂画廊(姫路)で開いた後、個展等を通じて積極的に作品を発表。76年兵庫県立近代美術館で開催された「兵庫の美術家・県内洋画壇回顧展」に「乾坤」「回生」が招待出品され、82年には静岡県伊東市池田20世紀美術館で「菅創吉の世界」展が開かれた。画家の死はこの会期中のことであった。滞米中から手がけたコラージュ、アッサンブラージュは晩年にオブジェ、彫刻を製作するまでに展開し、画材、形式ともに枠にとらわれない制作態度を貫いた。簡略化されたユーモラスな形と渋い色彩による画面の中に、物や行為についての認識の再検討を促す鋭い洞察がこめられている。

宮内義雄

没年月日:1982/04/27

 立軌会同人の洋画家宮内義雄は、4月27日心不全のため千葉県銚子市の自宅で死去した。享年55。大正15(1926)年7月1日千葉県銚子市に生まれ、昭和25年東京教育大学芸術科を卒業した。同41年東京・風月堂で最初の個展を開催、翌年立軌会に参加し、以後毎年同展に出品する。同43年安井賞候補展に出品した他、三月会展(同46-56年)、新鋭選抜展(同46年)、太陽展(同52-53年)、国際形象展(同54-56年)などに招待出品する。一連の漁港シリーズで知られ、たびたび個展での制作発表を行い、同56年には東京・銀座、資生堂ギャラリーで個展を開催した。この間、死去の年まで、千葉県立銚子高等学校で教えた。

中村勝馬

没年月日:1982/04/21

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、友禅染の第一人者として知られる染色家中村勝馬は、4月21日肺炎のため東京都渋谷区の日赤病院で死去した。享年87。明治27(1894)年9月18日北海道函館市に生まれ、岩手県立一関中学校を卒業後上京、川端画学校で日本画を学ぶ。大正2年、三越専属作家増山隆方に師事し図案と友禅技術を学び、同年三越裾模様図案公募に応じ「ポプラと渡り鳥」で3等賞を受け、以後5年連続して入選し2度受賞する。関東大震災の翌年名古屋へ転じ、松坂屋本店の専属として5年間友禅衣裳の制作に従事する。昭和4年東京へ戻り、三越考案部の専属となり同20年までつとめる。この間、伝統工芸友禅を現代に調和させることに努め、同18年には国指定、工芸技術保存資格者の認定を受けた。戦後は、同22年二科展工芸部審査員として出品、同27年東京都工芸協会創立に際し理事として参加する。同30年国指定重要無形文化財保持者の認定を受け、また、同年発起人として日本工芸会の設立に加わり、同会理事、同37年同会染織部長、翌年常任理事を歴任し、同47年日本工芸会参与となる。同41年紫綬褒章、同45年勲四等瑞宝章を受章。主要作品に、「葵文訪問着」(昭和12)のほか、東京国立近代美術館所蔵「波文黒留袖」(同30)「雲文黒留袖」(同33)、「かがり文訪問着」(同37)などがある。

加藤幸兵衛

没年月日:1982/04/11

 青磁と金襴手で知られる陶芸家加藤幸兵衛は、4月11日午後2時12分、脳コウソクのため岐阜県多治見市の県立多治見病院で死去した。享年88。1893(明治26)年12月27日、岐阜県多治見市に4代目幸兵衛の長男として生まれ、号は福寿園。1921(大正10)年5代目を襲名し、30年第11回帝展に「瓜形陶製壷」が初入選する。32年第13回帝展に「磁器草花文手付壷」を出品、また同年加藤唐九郎らと陶芸研究団体「掬香会」を設立し、中国陶磁の研究も進める。50年には安藤知山らと陶芸研究のため「美陶会」を結成、月1回の研究会を行なった。この間、40年岐阜県より技術保存の指定を受け、50年経営の行き詰まった岐阜県陶磁器試験場場長となり、73年までその経営と技術指導に当たった。一方、48年パリ万国博覧会での日本陶磁展に出品し、52年全国陶芸展審査員、56年日本工芸会正会員となる。また55年以降日本伝統工芸展に出品し受賞を重ねている。中国古陶磁をはじめ桃山期の志野・織部・黄瀬戸も研究、深い色調をたたえる青磁を得意とした。67年勲四等瑞宝章受賞、73年岐阜県重要無形文化財の指定、及び多治見市名誉市民の称号を受け、74年日本工芸会理事となる。82年没後正七位となり、また幸兵衛賞が設けられた。

網谷義郎

没年月日:1982/04/06

 新制作協会会員の洋画家網谷義郎は、4月6日午前3時30分、神戸市の神戸大学付属病院で死去した。享年59。1923(大正12)年10月21日兵庫県武庫郡に生まれる。48(昭和23)年京都大学法学部を卒業。在学中の47年、法学を学ぶことに疑問を抱き、新制作協会会員桑田道夫を訪れ絵を学び始める。48年第1回関西新制作派展に出品、受賞、また第12回新制作展に「七階の窓から」で初入選する。以後新制作展に出品を続け55年第19回展では「座る」「立つ」で新作家賞を、59年同第24回展では新制作協会賞を受け、60年同会会員となる。また、57年第1回安井賞候補展に出品、以後7回出品を続ける。68年イタリアを、71年、76年フランスを訪れる。61年以降毎年関西において個展を開催し、79年には水彩画集(フランス、ロマネスクの聖堂)を刊行する。初期には風景を描いたが53年頃より人物を主なモチーフとし、キリスト教を思想的背景として人の存在を見つめた作品を描き続けた。最晩年には画題そのものをキリスト教に求めた作品を残している。

田辺泰

没年月日:1982/04/01

 早稲田大学名誉教授の建築史家田辺泰は4月1日午前5時42分、急性肺炎のため、東京都新宿区の東京厚生年金病院で死去した。享年83。1899(明治32)年1月14日、広島に生まれる。24年早稲田大学理工学部建築学科を卒業と同時に同校助手となり、翌25年同助教授となる。41年より同教授となり後継の指導につとめる。69年退官するとともに同名誉教授となる。この間、日本建築学会において各種委員をつとめ、50-51年同会理事、52-53年度同会副会長となる。これらの功により72年、同会名誉会員に推挙される。伊東忠太に師事し、関西の社寺建築を主たる対象としていた昭和初期にあって、いち早く関東の社寺建築に取り組み「徳川家霊廟」「日光廟建築」などを著し関東系の建築史を大成する。また、沖縄諸島の建築、庭園を調査し、その成果をまとめた大著『琉球建築』は、第2次世界大戦により被害を受ける以前の琉球文化を伝えるものとして貴重である。文化財保護審議会専門委員として、浅草寺五重塔、鶴見・総持寺大祖堂、鎌倉・円覚寺本堂などの鉄筋コンクリートによる再建を担当している。

難波専太郎

没年月日:1982/03/16

 美術評論家連盟会員、元美術雑誌「美術探求」主宰者の美術評論家難波専太郎は、3月16日心不全のため東京都大田区の都立荏原病院で死去した。享年87。明治27(1894)年4月18日岡山県吉備郡に生まれ、大正10年東洋大学文学部支那哲学科卒業後、朝鮮総督府京城中学校教諭となり、同13年鉄道従業員養成所に転じ、側ら朝鮮鉄道読本編纂刊行常任幹事となる。昭和6年帰京し、評論家千葉亀雄に師事、また平凡社に3年間勤務したのち旧制東京中学校等で教鞭をとり、この間、雑誌「文学探求」を主宰する。戦後の同22年7月雑誌「美術探求」を創刊、同49年5月まで27年間発行し美術評論活動に専念する。近代日本画家に関する著書も多く、『横山大観』(昭和29年)『川合玉堂』(同30年)『松林桂月』(同33年)『前田青邨』(同35年)『堅山南風』(同41年)『下村観山/川合玉堂』(共著、同51年)などがある。

藤田尚志

没年月日:1982/03/14

 日本画家藤田尚志は、3月14日午前3時45分、老衰のため京都市右京区の自宅で死去した。享年84。1897(明治30)年12月10日岡山県倉敷市に生まれ、本名隆。文展・帝展で華々しい活躍をしていた田中頼章に1921年師事するが、23年関東大震災を機に東京を離れ、京都で西村五雲に入門する。また京都市立絵画専門学校に学び、29年卒業、研究科に進み35年同科を修了する。この間31年師五雲の画塾が晨鳥社となるに及び、初めよりこれに参加している。36年第1回新文展に「蕭池清韻」が初入選し、翌37年第2回文展にも「晨潭霧深」が入選、戦後も日展を中心に出品し、50年第6回日展「白椿」、53年第9回日展「向日葵」、55年「池」などを発表、花鳥画を得意とした。京展などにも出品したが、晩年、70年頃より病気がちのため大作は残していない。

中村貞以

没年月日:1982/03/12

 院展の美人画家中村貞以は、3月12日午後11時40分腎不全と敗血症のため、大阪市阿倍野区の大阪市立大学付属病院で死去した。享年81。1900(明治33)年7月23日大阪・船場で鼻緒問屋を営む中村清助の第四子として生まれ、本名清貞。幼時期両手に大やけどを負い、指の自由を失ったため、以後絵筆を両手ではさんで描くことになる。1909年浮世絵師長谷川貞信に絵の手ほどきを受け、19年日本美術院同人の美人画家北野恒富に入門する。翌20年第6回大阪美術展で「微笑」が初入選、デビュー作となり、22年の同展で「お玉」が第一席となる。院展では23年第9回試作展に「仙女」が初入選、第一席を受賞し、この折、手の不自由なことへの大観の励ましに感じ、以後大観に深い尊敬の念を抱き続ける。翌24年院友推挙、32年第19回院展で「朝」が日本美術院賞第一賞を受賞、引続き「待つ宵」(33年第20回院展)「朧」(34年第21回院展)等現代風俗を扱った清新な作品を発表し、36年同人となる。恒富が主宰する白燿社にも出品し、34年には自ら画塾春泥会を結成、主宰者となった。戦前の作品には、上記のほか「夏趣二題」(39年第26回院展)「帯」(40年第27回院展)「秋の色種」(同年紀元2600年奉祝展)などがあり、また40年、42年朝鮮に旅行し風物を写生している。戦後に至り画境は充実の度を加え、院展出品作の「螢」(46年)「夏姿」(47年)「爽凉」(56年)「露」(62年)、「香を聞く」(68年)や「浄春」(47年現代美術展)「猫」(48年第4回日展)「雪」「黒髪」(共に57年)など、典麗清雅な趣をたたえる美人画を次々に発表した。58年より日本美術院評議員をつとめ、60年第45回院展「双婉」が文部大臣賞受賞、また65年第50回院展「シャム猫と青衣の女」は翌年第22回日本芸術院賞を受賞、美人画の第一人者としての地位を確かなものとする。この間51年檀一雄の連載小説『真説石川五右衛門』(新大阪新聞)の挿絵を担当、55年インドを旅行し古代仏教美術やインド風俗を見聞、70年には真宗大谷派難波別院本堂余間の襖絵「春・得度の図、秋・往生の図」を描いている。51年大阪府芸術賞、60年大阪市民文化賞、72年勲四等旭日小綬章受章、77年横山大観記念館理事、国立国際美術館評議員、78年より日本美術院理事をつとめていた。年譜1900 7月23日、大阪、船場に生れる。本名清貞。父清助。母貞の第4子で家業は先代から始められた鼻緒問屋を営んでいた。母貞は大垣藩々士の娘1909 浮世絵師として知られた長谷川貞信(旧名小信)に手ほどきを受ける。1911 大阪市南区大宝寺小学校卒業。1916 3月、私立大阪経理学校語学部(英語科)中退。1919 2月、日本美術院同人北野恒富に師事。1920 第6回大阪美術展《微笑》初入選。1922 第8回大阪美術展《お玉》第1席受賞。1923 第10回日本美術展《春》、第9回日本美術院試作展《仙女》初入選、第1席受賞。第9回大阪美術展《少女嬉戯》(双幅)、第2回白燿社展《少女座像》1924 第11回院展《大原女》院友に推挙。第3回白燿社展《朝》高島屋賞受賞。第10回大阪美術展《焚火》《凉相撲》、第1回大阪市美術協会展《梅妃》1925 母貞逝去。第11回院試作展《夢》、聖徳太子奉賛展《拳を打つ》(双幅)、第2回大阪市美術協会展《春》、第4回白燿社展《娘》1926 第12回院試作展《加賀の千代》、第5回白燿社展《月》1928 島成園門下の高橋千代子と結婚、第13回院試作展《婦女の図》、第6回白燿社展《文鳥》1929 第16回院展《立女》、第7回白燿社展《少女舞戯》1930 長女青子誕生。第17回院展《昼》1932 第19回院展《朝》(二曲一双)日本美術院賞第1賞受賞。第16回院試作展《追い羽根》1933 第20回院展《待つ宵》、第17回院試作展《蛇皮線》1934 画塾春泥会を結成。京都、私立長岡美術専門学校講師となる(昭和18年まで)。第21回院展《朧》(二曲一双)、第18回院試作展《口紅》1936 改組第1回帝国美術院展《五月雨》4月、日本美術院同人推挙される。第23回院展《海女》、第2回春泥会《伊勢物語》《緑雨》1937 第24回院展《ゆうべ》1938 第25回院展《浴後》(焼失)、第22回院試作展《二少女》(二曲一隻)、第5回院同人作品展《少女》1939 父清助逝去。大阪市帝塚山に転居。第26回院展《夏趣二題》、第6回院同人作品展《花菖蒲》、第5回春泥会《夜なが》(二曲一双)1940 第1回朝鮮旅行。第27回院展《帯》、紀元2600年奉祝展《秋の色種》奉祝展買上げ。春泥会小品展《少女(お手玉)》、第5回青松会《霽間》、第6回春泥会《黒髪》1941 第28回院展《吉野》、第7回春泥会《妓生三姿》、第1回朝陽美術展《さみだれ》、仏印巡回展《夜長》1942 第2回朝鮮旅行。第29回院展《酸漿》、日本画家報国会軍用機献納展《花》、日本美術院同人軍用機献納展《月》1943 文部省戦時特別展《大空へ》、関西邦画展《芸能譜》、日本歴史画展《袈裟》、昭華会新作展《春信》1945 院小品展《黒髪》1946 第31回院展《螢》1947 第32回院展《夏姿》、第2回院小品展《清坦》、現代美術展《浄春》文部省買上げ。5月、師北野恒富急逝。1948 第4回日展審査員となる。《猫》出品。第33回院展《立秋》、日本現代美術展《三味線》1949 第34回院展《双頬》、第4回院小品展《芳春》1950 第35回院展《髪》、第5回院小品展《春あらた》、第9回春泥会《髪》1951 第36回院展《立秋》、第6回院小品展《一紫》、第10回春泥会《初夏》。この年、新大阪新聞に連載小説檀一雄作『真説石川五右衛門』の挿絵を担当。秋に大阪府芸術賞を受賞。1952 第37回院展《華清之浴》、第7回院小品展《浴後》、第11回春泥会《露》(素描)1953 第38回院展《蒼炎》、第8回院小品展《春》、在エジプト日本大使館《鏡獅子》、第12回春泥会《やよい》1954 1月 約2か月間インドに旅行しネール首相に《黒髪》献呈。第39回院展《浄韻》。第13回春泥会《花》《インド婦人》(スケッチ)1955 第40回院展《遥拝》、第10回院小品展《印度婦人》、第14回春泥会《夕べ》、在ペルー日本公使館《娘道成寺》1956 第41回院展《爽凉》、第11回院小品展《草色の帯》1957 第42回院展《粉粧》、第1回個展(大阪高麗橋・東京日本橋、三越)《雪》《月》《花》《春(舞妓図)》《夏(浴後)》《秋(黄秋)》《黒髪》、第16回春泥会《黒髪》(草稿)1958 第43回院展《春抄》。この年より日本美術院評議員となる。第17回春泥会《惜春》1959 第44回院展《踊り》、院同人展《夕顔》1960 第45回院展《双婉》文部大臣賞受賞。11月、大阪市民文化賞受賞。1961 第46回院展《首夏》、第16回院春季展《春宵》1962 第47回院展《露》、第17回院春季展《春日》、院同人展《婦人》1963 第48回院展《黒いレースの女》、第18回院春季展《鉄漿》1964 第49回院展《清韻は響く》、第19回院春季展《舞妓可代》、丁亥会《薊》《松韻》1965 第50回院展《シャム猫と青衣の女》日本芸術院買上げ。1966 4月、前年院展出品作《シャム猫と青衣の女》および多年の業績に対して日本芸術院賞受賞。7月、画集『粉粧』出版。第51回院展《螢》、五都展《首夏》1967 第52回院展《白と赤の朝》、第18回春泥会《初夏》(草稿)1968 第53回院展《香を聞く》文化庁買上げとなる。第23回院春季展《少女と犬》、第19回春泥会《浄心》1969 第54回院展《白い口紅》、第20回春泥会《舞妓加寿子》1970 5月、真宗大谷派難波別院本堂余間の襖絵《春-得度の図・秋-往生の図》を完成、南御堂に納められた。7月、天皇、皇后両陛下住吉大社御参拝に際し、《御田植神事田舞の図》献上。第55回院展《牛》、第25回春の院展《舞妓》、第21回春泥会《縞衣の女》1971 第56回院展《簪》、第26回春の院展《初姿》1972 沖縄に旅行。3月、勲四等旭日小綬章受賞、第57回院展《砂丘に倚れる》、第27回春の院展《おんな》、第23回春泥会《南国の女》1973 第58回院展《占う》、第2回個展東京・大阪三越《海碧し》《舞妓》《白磁》《点心》《地唄舞(菊の露)》《春一枝》《春》、第28回春の院展《舞》、第24回春泥会《首夏》1974 第59回院展《白鳥の詩》、第29回春の院展《雪》、小倉遊亀・寺島紫明・中村貞以自選三人展「おんな」(神戸そごう・朝日新聞社主催)開催、第25回春泥会《近松の女》1975 第60回院展《湯浴みして》、第30回春の院展《春近し》、第26回春泥会《K婦人》1976 第61回院展《鵜飼をみる》、第31回春の院展《水温む》、第27回春泥会《初夏》1977 横山大観記念館理事、大阪・国立国際美術館評議員となる。第62回院展《ある婦人》、第16回錦装会日本画展《秋立つ頃》、第28回春泥会《祇園の女》1978 3月、台湾に旅行。日本美術院理事となる。第33回春の院展《台北小姐》(関千代『中村貞以』現代日本人画全集6 集英社より)

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