本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





松川烝二

没年月日:1972/03/01

 女子美術大学教授松川烝二は3月1日十二指腸潰瘍のため都内世田谷区の自宅で死去した。享年60才。1911年(明治44)6月30日現在の都内中央区に生れ、1936年東京美術学校工芸部図案科を卒業。4月から森永製菓株式会社に、9月から森永食品工業株式会社に移り、38年8月に製品企画課長代理となったが、9月から44年11月まで兵役についた。兵役解除後は商工省工芸指導所嘱託となり、1947年3月同所第二設計室長となる。1948年4月から11月まで文部省初等中等教育局デザイン教育計画を担当。それと並行して48年4月より50年3月まで森永乳業の、49年4月より63年3月まで森永製菓株式会社の嘱託、47年8月より57年2月まで花王石鹸株式会社の製品企画を担当。54年4月から女子美術大学芸術学部ヴィジョン・コース担当。60年から65年まで日本パッケージ・デザイン協会理事。その間、森永TVタイム、デザイン、国際見本市タイヤ・パネル・デザイン、デラックスおよびワンカップ大関デザインを製作。62年2月には前年度パッケージ・デザインにより通産大臣賞受賞。

広野殷生

没年月日:1972/02/29

 洋画家春陽会会員広野殷生は3月6日に都内大田区の自宅で死去しているのが発見され、2月末に没したと推定された。享年55才。1919年(大正8)6月25日に静岡県に生れた。生家は古くから旅館を営んでいたが、1935年頃、軽い胸部疾患で郷里ですごしているときに描いた作品を地方美術展に出品して特選となったのがきっかけで、両親にそむいて東京にでて苦学しながらの画家生活に入った。1938年から1945年まで兵役についた。1949年に毎日連合展出品。1950年中部春陽会賞受賞。その後まもなく米国に渡り、コロンビア大学に留学し53年に帰国。この年春陽会会員となる。この間「カリフォルニヤ美術展」と「米国共進会美術展」に出品、「特選」と自ら記している。1954年フランスにゆき、パリの美術学校に留学したという。56年帰国。57年に春陽会で滞欧作を発表。同年東京銀座松坂屋で、また名古屋県立美術館で、58年には大阪フォルム画廊で滞欧作の個展。1959年から60年にかけてポルトガルと香港にゆく。61年度早稲田大学講師。1958年荒木季夫の編集する「造型」誌(第4巻6号)に特集号として取上げられた。

吉原治良

没年月日:1972/02/10

 具体美術協会の主宰者であり、国際的にも活躍していた、もと二科会会員の吉原治良は、2月10日午後7時15分、クモ膜下出血のため兵庫県芦屋市立市民病院で死去した。享年67才であった。吉原治良は明治38年(1905)1月1日、大阪市に三代つづいた油問屋の老舗の家に生まれ、愛珠幼稚園から愛日小学校、北野中学校へと進み、9才のとき兄をなくし、11才のとき母を喪なった。中学時代から絵画に対する関心はたかまり、油彩画を独習し、大原コレクションのルノアールの作品や松方コレクションのセザンヌの「廃屋」、ゴッホの「ひまわり」につよい影響をうけた。中学卒業後、関西学院高等商業部へ入学、胸部疾患のため転地、その後芦屋へ転居した。関西学院時代には辻愛造、伊藤慶之助、赤松進らの艸園会に入り、また弦月会にも入り神戸学生美術展などに出品した。昭和3年(1928)、関西学院高等商業部を卒業し、そのまま専攻科に進学在籍したが、この卒業の年、3月に大阪朝日会館の大ホールで魚を題材とした静物58点による最初の個展を開催した。同年には学院を退学し、父の経営する製油会社に入って勤務のかたわら絵画に熱中した。この頃、フランスから帰国していた洋画家上山二郎を知り、その影響をつよく受けた。上山二郎の紹介で東郷青児、藤田嗣治を知るようになった。やがて藤田のすすめで二科展に出品するようになり、長谷川三郎、海老原喜之助、島崎鶏二、山口長男、岡田謙三らと交友し、昭和13年(1938)に設立された二科会内の前衛的な集団九室会にも参加した。第二次大戦後の二科会再建には会員として参加したが、昭和34年(1959)以降には二科展への出品はみられず、同45年(1970)には退会した。一方、昭和27年(1952)から国際展、海外展で活躍をはじめ、また、彼の周辺に参集した関西の若い画家たちと具体美術協会(The Gutai Art Association)を創設して、現代美術の運動を活溌に展開してきた。作風は、初期にデ・キリコ、ついでモンドリアンの影響をうけ、戦前から幾何学的な抽象絵画を制作していたが、戦後の早い時期には、鳥と少女像(吉原人形と呼ばれた)の連作から、しだいに再び抽象的な作風に移行し、晩年には円型を主題とした連作で注目を集めた。略年譜昭和3年(1928) 関西学院高等商業部を卒業、専攻科に進むが退学。芦屋在住の画家上山二郎に兄事する。東郷青児をしる。昭和4年(1929) 10月、大阪朝日会館で第1回個展、藤田嗣治をしる。結婚する。昭和9年(1634) 再帰国した藤田と会い、すすめられて(21回)二科展に出品、「帆柱」「麦稈帽と仕事着」「錨と具の花」「風景」「朝顔の女」の5点入選。東京銀座紀伊国屋画廊にて個展昭和12年(1637) 二科展に「夜・卵・雨」「図説」「隔世」「気象」「窓」を出品、特待となる。昭和13年(1938)「作品イ」「作品ロ」二科展に出品、会友に推薦される。藤田嗣治を顧問とし、斎藤義重、山口長男、山本敬輔らと九室会を結成する。昭和14年(1939) 二科展:「作品1」「作品2」「作品3」昭和15年(1940) 二科展:「雪イ」「雪ロ」昭和16年(1641) 二科展:「夕立に翔ぶ飛行艇」「くちなしの花と貝殻」昭和17年(1942) 二科展:「菊イ」「菊ロ」昭和18年(1943) 二科展:「空」「火山」昭和20年(1945) 兵庫県三田、大沢村へ疎開昭和21年(1946) デザイン、商品デザイン、ディスプレイ、舞台装置などを手がける。二科会再建に会員として参加し、「邂逅の像」「群像」「像」を出品。昭和22年(1947) 二科展(32回):「顔A」「顔B」「立話」「子供の顔」「女達」「子供達」昭和23年(1948) 二科展:「顔」「小さな噴水」。芦屋市美術協会を結成、代表となる。昭和24年(1949) 二科展:「鳥と人間」「涙を流す顔」「嬉しい日の少女」。日米21人展に出品。昭和25年(1950) 二科展:「少女と七羽の鳥」。大阪朝日会館の緞帳を作成。昭和26年(1951) 6月、東郷青児・吉原治良二科2人展を神戸元町画廊にて開催。大阪府芸術賞を受賞。二科展:「夜の鳥」「夜」「鳥と人々」。昭和27年(1952) カーネギー国際美術展(サンフランシスコ)に「暗い日曜日」を出品。サロン・ド・メエ(パリ)に「牧場」「作品」「原始」。第1回日本国際美術展に「絵A」ほか2点を出品。須田剋太、津高和一、植木茂らと現代美術懇談会を創る。昭和28年(1953) 第2回日本国際美術展:「作品A」「作品B」「作品C」。岡山葦川会館の緞帳を作成。二科展:「作品」。昭和29年(1954) 第1回日本現代美術展「作品A」「作品B」。二科展:「作品」。12月、具体美術協会を結成し、現代美術運動を展開。昭和30年(1955) 機関誌『具体』1号を刊行(14号まで)。第3回日本国際美術展「作品」。二科展:「作品」。芦屋市美術協会主催で芦屋川畔で野外モダン・アート実験展を開催。第1回具体美術展(東京小原会館)を開く。昭和31年(1956) 神港新聞アンデパンダン展に具体グループ特別室をつくる。7月、野外具体美術展(芦屋川畔)。第2回具体美術展(東京小原会館)昭和32年(1957) 第4回日本国際美術展:「作品」。第3回具体美術展(京都市美術館)を開催、出品。産経ホール(東京、大阪)で第1回舞台を使用する具体美術展を企画構成し演出する。二科展:「作品A」「作品B」。ミシェル・タピエを知りタピエが組織した世界現代美術展に出品する。第3回具体美術展(東京小原会館)。昭和33年(1958) 第2回舞台を使用する具体美術展(大阪朝日会館)。タピエと共同主催による“新しい絵画世界”展(大阪、長崎、広島、東京、京都)。第5回具体展(東京小原会館)。具体ニューヨーク展(マーサ・ジャクソン画廊)を開催のため渡米ヨーロッパを巡遊。二科展:「作品」。カーネギー国際美術展に出品。昭和34年(1959) 第5回日本国際美術展「作品」。アルテ・ノバ展(トリノ)、第11回プレミオリソーネ展、具体トリノ展(フィギェラティブ画廊)に出品。8~9月、第8回具体美術展(京都市立美術館、東京小原会館)。メタモルフィズム国際展(パリ、スタドラー画廊)。昭和35年(1960) 第4回現代日本美術展「作品1」「作品2」。アドバルーンを利用して外国作家18名、具体グループ12名によるインターナショナル・スカイ・フェスティバルを開催。日本人作家4人展(マーサ・ジャクソン画廊)に出品。昭和36年(1961) 第6回日本国際美術展「作品」。コンティニュテ・エ・アバンギャルド・オ・ジャポン展(トリノ)に出品。第10回具体美術展(大阪・東京高島屋)。第12回プレミオリソーネ展。この年二科会理事となる。昭和37年(1962) 第11回具体美術展(大阪高島屋)、ストラクチュアとスタイル展(トリノ近代美術館)に出品。9月、大阪中之島にグタイピナコテカ(具体美術館)を創設する。具体グループと森田モダンダンスとの共同公演による前衛的美術と舞踊「だいじょうぶ月は落ちない」(大阪高島屋)の企画、構成、演出。昭和38年(1963) 第12回具体美術展(東京高島屋)、第13具体美術展(大阪高島屋)。第7回日本国際美術展「作品」。グランパレ国際展(パリ)に出品。現代美術の動向展(国立近代美術館京都分館)に出品。昭和39年(1964) グッゲンハイム国際美術展に出品、セントルイス大学美術館に買い上げられる。第5回現代日本美術館「作品」。第14回具体美術展(大阪高島屋)。戦後の現代日本美術展(神奈川県立近代美術館)、現代日本美術展(ワシントン、コーコラン画廊)に出品。兵庫県文化賞を受賞。昭和40年(1965) 第8回日本国際美術展「作品」。ヌル国際展(アムステルダム市立美術館)にグタイ特別室を設けるため渡欧。第15回具体美術展(大阪グタイピナコテカ)。新しい日本の絵画と彫刻展(ニューヨーク近代美術館)、具体パリ展(スタドラー画廊)に出品。第16回具体美術展(東京京王百貨店)。昭和41年(1966) 具体オランダ展(ハーグ、オレッツ画廊)、第2回ローザンヌ国際展、第1回国際芸術見本市に出品。昭和42年(1967) 具体オランダ小品展(ロッテルダム、デザインハウス)に出品。吉原治良展(東京画廊)。第9回日本国際美術展「白い円」、最優秀賞を受賞。具体オーストリア展(クラーゲンフュール)。第2回国際芸術見本市に出品。具体美術協会に対し神戸新聞社平和賞をうける。第19回具体美術展(東京セントラン美術館、大阪グタイピナコテカ)。昭和43年(1968) 第8回現代日本美術展「白い円」「白と黒の円」。昭和44年(1969) 第4回国際芸術見本市に出品。日本万国博美術展展示委員となる。昭和45年(1970) 日本万国博美術展現代の躍動の部に出品。同展屋外展示にグタイグループと共同制作。万博お祭り広場における「音楽・デザイン」、具体美術まつりなどをプロデュースする。万博みどり館の美術展示を構成。第20回具体美術展(大阪グタイピナコテカ)。芦屋市民会館ルナ・ホールの壁画制作。二科会を退会する。昭和49年(1971) 第2回インド・トリエンナーレ展に出品しゴールドメタルを受賞。第10回現代日本美術展構造としての自然部門に「作品」3点を出品。近代日本美術における1930年展(東京国立近代美術館)、戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)に出品。昭和47年(1972) 2月10日没。従五位勲四等旭日小綬章を追贈される。

中川紀元

没年月日:1972/02/09

 二紀会名誉会員の洋画家中川紀元は、心筋こうそくのため、2月9日午前10時、東京田無市の田無病院で死去した。享年79才であった。中川紀元は、明治25年(1892)2月11日、長野県上伊那郡に漢学塾を開いていた有賀家の次男に生まれ(結婚して中川の姓となる)、本名を紀元次。諏訪中学校を卒業して東京美術学校彫刻科に入学したが、病のため2ヶ月で中退し、帰郷して小学校教師となった。再度上京して大正2~3年(1913~4)ころには代々木山谷に住む。本郷洋画研究所、太平洋画研究所などに学び、また島村抱月の芸術座の舞台装置に小林徳三郎の手伝いなどをしている。特に石井柏亭、正宗得三郎に師事し、大正4年(1915)第2回二科展に出品して初入選となり、大正8年(1919)渡欧しアンリ・マティスの指導を受け、同10年(1921)帰国したが、その間にも二科展に出品し、大正9年第7回展で「ロダンの家」他4点を出品、樗牛賞をうけ、大正10年8回展では「立てる女」他7点を出品、二科賞を受賞した。この滞欧の成果は日本における第二次フォーヴィスムの移植として歴史的な意味をもったが、大正11年(1922)には神原泰、矢部友衛、古賀春江らと二科会内での前衛的なメンバーによってグループ・アクションを結成し、新しい美術運動を推進した。大正12年(1923)には二科会会員に推挙された。昭和8年(1933)二科会員を辞して無所属となったが昭和10年、再度二科会に復帰した。昭和13年には従軍画家として中国の戦線におもむいており、また大正11年からは文化学院美術科で実技指導にもあたった。戦後、昭和22年(1947)旧二科会の有志とともに二紀会を結成し、作風はしだいに油彩による野趣にとんだ南画的なものとなっていった。昭和39年(1964)、長い期間にわたる美術界への貢献によって日本芸術院恩賜賞を受賞した。作品年譜(旧二科会展、二紀展出品作)二科会展:大正5年(1916)3回展「青五氏の肖像」、同6年4回展「煙草を吸う女」、同7年5回展「自画像」「女」、同9年7回展「ロダンの家」「読書の女」「人形を抱く女」「女の顔」「坐像」、同10年8回展「水彩エチュード1」「水彩エチュード2」「デッサン1」「デッサン2」「散歩」「立てる女」「アラベスク」「猫と女」、同11年9回展「腰かけた女」「裸婦」「化粧」、同12年10回展「野菜(水彩)」「入浴」「裸体(水彩)」、同14年12回展「花」「裸女佇立」「J氏像」、同15年13回展「母子」「ラヂオを聴く」、昭和2年14年回展「ヨネ野口氏肖像」「O氏像」「採蓮」、同3年15回展「夏庭」「花」「映画撮影」「S氏像」、同4年16回展「空中の感情と物理」「K夫人の顔」、同5年17回展 「毛扇」「緑衣」「川田芳子像」、同6年18回展「熱叢」、同7年19回展「野と子供」、同8年20回展「清水先生の像」、同10年22回展「無題」、同11年23回展「青い団扇」「驟雨来」「静物」「少女」、同12年24回展「白衣少年」「徒然」「猫静物」「月夜の山」、同13年25回展「子供と猫」、同14年26回展「人物」「風景」、同15年27回展「こども」「御嶽晴天」「青嵐」、同16年28回展「菩薩像(一)」「菩薩像(二)」二紀展:昭和22年(1947)第1回展「村の風景」「夏の朝の伊那の谷」「夏の駒ヶ岳」、同23年2回展「夏の山」「静物」「初秋の谷」、同24年3回展「静物」「コンポジション」、同25年4回展「村の秋」「伊那の谷」、同26年5回展「青い風景」「黄色い風景」、同27年6回展「友の像」、同28年7回展「花の子供ら」「山村風景」「夕陽の山」、同29年8回展「朝の山」「人物」、同33年12回展「郊外風景1」「郊外風景2」、同34年13回展「月と富士のある風景」「人物」、同35年14回展「子供」「赤い富士」、同37年16回展「樹間小景」「白い街」、同38年17回展「人物」「風景」、同39年18回展「風景」「人物」、同41年20回展「子らの窓」、同42年21回展「郊外風景」「隅田川」、同43年22回展「ボサツ傾」「窓辺の消閑」、同44年23回「高原雲煙(霧ヶ峰)」「煙霞レジャーの娘たち」、同45年24回展「山の遊び」、同46年25回展「ホトケ坐像」、同47年26回展遺作「坐せる女」「裸婦」「読書の秋」「栗色の帽子」「キャフェ」「白い衿の婦人」「立てる女」「街」「化粧する女」「隅田川」「中国美人」「ホトケの坐」「窓辺消閑」

酒井精一

没年月日:1972/01/22

 洋画家酒井精一は、1月22日死去した。号碧亭。明治24年11月18日東京に生れ、郁文館中学卒業後、本郷絵画研究所、日本水彩画会研究所に学び、また渡仏して、アカデミーコラロシーに学んだ。帰国後二科会に出品し、「早春の海辺」(6回二科展)「田舎の家」「南仏風景」「ルノアール家の近傍」「ロアン河畔の秋」(13回二科展)等がある。専ら風景画を描き、昭和になってからは、台湾、房総風景などがみられる。一水会創立後はこれに属し、「河畔」(第1回展)「初秋の高原」「湖畔」(7回展)がある。戦後昭和29年第16回展で会員となり、「吊橋のある風景」「安良里風景」を出品している。「吾妻山の見える家」「高遠にて」(34回一水会展)が最後の作品となった。

土佐林豊夫

没年月日:1972/01/12

 日展評議員土佐林豊夫は1月12日、胆臓癌で飯田橋の東京厚生年金病院で死去。享年64才。1907年(明治40)9月19日に山形県鶴岡市に生れた。1929年(昭和4)東京高等工芸学校彫刻科卒業、翌年同研究科を修了した。同年辻永に師事。1931年第12回帝展に油彩画が初入選し、以後、文展、日展、光風会に出品した。1949年には光風会の親しい友人たちと共に青季会を結成し、毎年1回展覧会を開いた。1943年光風会では岡田賞、47年および48年の日展でそれぞれ特選になり、1958年度と、64年度には日展審査員となり、66年に同評議員に就任した。主要作品は43年光風会展「老母像」、47年日展「子供」、48年日展「母子」、54年光風会展「糸車」、58年光風会展「果実」、69年日展「繋」など。

今井五郎

没年月日:1972/01/11

 重要無形文化財、結城紬技術保持者の今井五郎は、1月11日午前9時30分ごろ、税金の青色申告説明会がある小山市役所に行くため自宅近くの停留所でバス待ち中、心臓マヒを起し、近くの病院に運ばれる途中で急逝した。享年61歳。葬儀は13日午後1時から栃木県小山市の自宅で行なわれた。今井は小山市の出身で、小学校を卒業して間もない14歳のときから、男物の亀甲がすりを染める際、糸をくくって模様をつける家業の結城つむぎの「かすりくびり」の技術を習った。昭和31年4月、「結城紬技術保存協会」が国の重要無形文化財の指定を受けたときの代表者となった。45年まで栃木県本場結城紬織物協議会理事とし後継者の育成に尽くした。

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