本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





小川千甕

没年月日:1971/02/08

 日本画家小川千甕は、2月8日老衰により東京都世田谷区の自宅で死去した。享年87歳。本名多三郎。明治15年10月3日京都市六角通の元禄年間創業の書肆、12代小川多左衛門の次男として生れた。16歳で仏画師の家へ徒弟として入り、また浅井忠に洋画を学んだ。浅井没後京都市立陶磁器試験場技手となり、明治末年に東京に移住し、雑誌の挿絵等もかき、巌谷小波(博文館)のお伽噺などがある。明治45年、3年に渉り欧州諸国を遍歴し、大正3年帰国後二科会創立に参加した。其後作品は南画風表現に傾き、院展にも出品し、昭和17年大東南宗院委員として尽力した。戦後は高島屋、松坂屋等で個展をひらき作品を発表していた。滋味豊かな墨画と書を得意とし、また随筆をよくする。主要作に「游踪集」「炬火乱舞」「群像」等がある。

井上良斎

没年月日:1971/02/06

 陶芸家、日本芸術院会員、日展顧問の井上良斎は、2月6日午後2時45分、脳軟化症のため横浜市立大学病院で死去した。享年82歳。明治21年9月4日東京浅草に生れ、本名井上良太郎。明治初年東京隅田川べりに窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、錦城中学校卒業の頃、明治38年より作陶に従事、その三代目となる。板谷波山に師事して研鑽多年。青・白磁・緑釉の壺、皿など独自の発色を示し、温厚な人柄そのままに気品の高い風格ある作調で愛好家に親しまれた。大正3年横浜高島町に移窯。昭和3年帝展初入選。翌4年三越本店にて個人展開催、以来約20回を数える。昭和18年文展無鑑査。戦後は日展に所属して同26年には日展依嘱、同28年から審査員を5回歴任、同33年評議員となる。同34年出品の「丸紋平皿」で芸術院賞を受賞。同41年日展理事、同年日本芸術院会員となる。同42年春勲三等瑞宝章を授与される。同年より社団法人現代工芸美術協会の副会長をつとめた。

野島青茲

没年月日:1971/01/27

 日展会員の日本画家野島青茲は、心臓マヒのため東京都中野区の自宅で死去した。享年55歳。本名清一。大正4年4月8日静岡県引佐郡に生れ、昭和13年東京美術学校日本画科を卒業した。松岡映丘に師事し、のち中村岳陵門下となった。昭和24年第5回日展「博物館」、及び第7回「仮縫」で特選となり、昭和40年には「母子像」で文部大臣賞を受けた。また昭和19年より同24年にかけて法隆寺壁画模写に従事し、同42年にも同様法隆寺壁画模写事業に従っている。手堅い技法による着実な表現が、将来を期待されていた。

樋口一郎

没年月日:1971/01/12

 創元会委員、日展委嘱の洋画家樋口一郎は、1月12日、脳いっ血のため東京世田谷区駒沢病院で死去した。享年63歳。樋口一郎は、明治41年(1908)5月17日岡山県倉敷市に生まれ、昭和2年(1927)太平洋画会研究所を出て、昭和8年14回帝展に「初秋」が初入選した。文展、日展に出品を続け、昭和16年(1941)創元会の創立に参加した。昭和24年(1949)日展出品依嘱となり、昭和30年から約1年半フランスに滞在した。 作品略年譜文・日展出品作品:「戦塵を洗ふ」(昭和14)、「水砧」(昭和16)、「彩廊」(昭和17)、「秋色富嶽」(昭和19)、「秋草の道」(昭和22)、「竹垣のある道」(昭和23)、「初秋」(昭和24)、「武蔵野の秋」(昭和25)、「秋の窓」(昭和26)、「妙高山秋色」(昭和27)創元会展出品作:「緑蔭」「丘」(昭和16)、「除虫菊の丘」「かしあげ」(昭和17)、「緑蔭」(昭和18)、「玉島風景」(昭和22)、「冬枯れし庭」(昭和24)、「早春の庭」(昭和25)、「富士二題」(昭和33)、「古城の見える風景」(昭和35)、「内海春潮」(昭和38)、「長崎の丘」(昭和40)、「秋」(昭和42)

平田松堂

没年月日:1971/01/09

 日本画家平田松堂は、1月9日老衰のため保養先の山形県上山市で死去した。享年90歳。本名栄二。明治15年2月2日東京市牛込に明治時代の内大臣平田東助の二男として生れた。明治34年東京美術学校日本画科に入学、同39年同選科を卒業した。明治40年第1回文展「ゆく秋」が初入選し、以後つづけて官展に出品、屡々受賞した。主なものに「秋の色」(第4回文展褒賞)、「木々の秋」(第6回文展褒賞)、「小鳥の声」(羅漢柏)(六曲一双)(第8回文展三等賞)、「松間の春・松間の秋」(六曲一双)(第9回文展三等賞)、「羣芳競研」(四幅対)(第10回文展特選)などがあり、大正14年帝展委員となった。また大正5年より母校に教鞭をとり、同年図画師範科嘱託となり、同10年教授、昭和3年には師範科主任教授となり、同7年退官した。また同3年新設された大日本図画手工協会会長、師範科同窓会の錦巷会会長等をつとめた。

榊本義春

没年月日:1971/01/09

 前美術院国宝修理所長榊本義春は1月9日尿毒症で没した。享年79歳である。明治25年4月1日奈良県吉野郡に生れ、奈良県吉野工業高等学校卒業後明治42年4月岡倉天心が奈良につくった日本美術院(院長新納忠之介)に就職し、大正6年に技手となって全国の国宝修理事業に従事する。大正9年国宝修理技師となり、各地の寺院に出張して修理を行った。戦後昭和21年1月に三十三間堂内に「美術院国宝修理所」として発足する際に所長に就任し、奈良から移った同修理所を現在の京都国立博物館内に定着させた。昭和34年退任し、それ以後も顧問として後進の養成に努めた。紫綬褒章(31年)、勲四等瑞宝章(41年)受賞。主な修理物件は唐招提寺金堂諸仏、鎌倉地方の諸仏。蓮華王院(三十三間堂)十一面千手観音千体仏のほとんど全てを修理、鳳凰堂阿弥陀如来坐像など。

榊原紫峰

没年月日:1971/01/07

 日本画家榊原紫峰は、1月7日老衰により京都市北区の自宅で死去した。享年83歳。本名安造。明治20年8月8日日本画家榊原蘆江の次男として京都市中京に生れ、京都市立美術工芸学校卒業後、京都市立絵画専門学校に学び、明治44年第1回生として卒業した。大正7年村上華岳、入江波光、土田麦僊、小野竹喬らと国画創作協会を創立し、新しい日本画創造を目ざして活躍した。国画創作のほかは官展に出品し、昭和12年京都市立絵画専門学校教授、同24年同市立美術大学教授となった。同34年退職し、名誉教授となった。この間宇治平等院、醍醐寺三宝院、山科法界寺で壁画模写の指導にあたり、同37年には日本芸術院恩賜賞を授与された。作品は沈静荘重な画風を特色とし、代表作に「赤松」「獅子」「冬朝」「奈良の森」などがある。著書「紫峰花鳥画集」「花鳥画の本質」「紫峰芸術観」略年譜明治20年 日本画家・榊原蘆江の次男として、京都市中京区に生れる。本名、安造。明治40年 京都市立美術工芸学校日本画科卒業。「軍鶏」(卒業制作)引続き同校研究科に進む。この年父より紫峰正勝の画号をもらう。明治42年 京都市立絵画専門学校創設され、村上華岳、入江波光らと共に同校2年に編入。第3回文展に《動物園の猿》初出品、以後大正6年まで文展を中心に出品する。明治43年 「永き日」(褒状)第4回文展明治44年 絵画専門学校本科卒業、続いて研究科に入学。卒業制作《花曇り》を第5回文展に出品して3等賞を受賞。明治45年 「南園の一隅に於ける曲と眠り」第6回文展大正2年 「夕榮」(褒状)第7回文展大正3年 第8回文展出品《秋草》落選 第2回院展に出品する。大正4年 「白梅」第9回文展「秋草」第2回院展大正6年 「梅雨晴れ」第11回文展大正7年 小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花と共に国画創作協会設立の宣言をする。文展を離れて第1回国画創作協会展を開く。「青梅」出品。以後この国展に出品してゆく。大正8年 「赤松」第2回国展大正9年 「奈良の森」第3回国展大正10年 より12年まで、国展は、主力会員のヨーロッパ行きと関東大震災などのため休会する。大正13年 「雪柳白鷺の図」第4回国展大正14年 「蓮池」第5回国展昭和2年 「獅子」第6回国展昭和3年 「冬朝」第7回国展。国展第1部(日本画)解散を声明。昭和4年 第10回帝展の推薦となる。また翌昭和5年からは新官制による無鑑査となる。パリ日本美術展に《朝露》を出品。昭和5年 ローマ日本美術展に《風雪白鷺図》を出品。昭和12年 新文展開かれ、参与となる。絵画専門学校教授に就任。昭和14年 第3回新文展の審査員となる。昭和16年 小野竹喬、入江波光と三人展を開催する。昭和23年 京都市立美術専門学校の客員教授となり、翌年、同美術大学の教授に就任。昭和31年 この年から、宇治平等院、醍醐三宝院、日野法界寺で壁画模写の指導に当る。昭和36年 市立美術大学教授を定年退職、名誉教授となる。この頃から病床につく。昭和37年 日本芸術院恩賜賞を受ける。昭和44年 画業60年記念〈榊原紫峰〉展を大阪・阪神で開催。昭和46年 1月7日、死去。画集に《紫峰画集》(大正13年、高島屋美術部)、《同》(大正15年、同)、《紫峰花鳥画集》(昭和9年、芸艸堂)、《紫峰スケッチ集》(昭和23年、全国書房)等、著書に《花鳥画を描く人へ》(昭和4年、中央美術社)、《花鳥画の本質》(昭和10年、芸艸堂)、《紫峰芸観》(昭和15年、河出書房)等がある。この他氏に関する論評及び参考図書等多い。(年譜京都市美術館年報昭和45年に拠る。)

勝平得之

没年月日:1971/01/04

 木版画家で、もと日本版画協会会員であった勝平得之(本名・徳治)は、1月4日、胃ガンのため秋田市立総合病院で死去した。享年66才。勝平得之は、明治37年(1904)4月6日、秋田市で代々紙漉と左官を職とする家に生まれた。少年時代は家業を手伝い、後年、その紙に版画を摺ることとなったが、大正10年(1921)に浮世絵版画をみて、版画にひかれ、独習して同年末に墨摺りの木版画をつくり、秋田魁新聞に投稿、発表した。しだいに独学で多色摺り木版技術を習得し、秋田十二景の連作に着手、昭和3年(1928)、第8回日本創作版画協会展に「外濠夜景」「八橋街道」二点が入選した。 このころ木村五郎について木彫技術を学び、秋田風俗人形、秋田犬などを製作して生計をたてながら木版画をつくり、以後、卓上社版画展(昭和4~5)、日本版画協会展(昭和6年以後)、国画会展(昭和6~18)、光風会展(昭和9~31)、帝展・文展(昭和6年以後)にそれぞれ出品した。終始、郷土秋田の風物・風俗を題材として地方色豊かな作品をつくり、昭和26年秋田市第1回文化賞、昭和29年秋田魁新聞社文化賞、昭和37年河北文化賞をうけた。代表作に、つぎのようなものがある。「秋田十二景」(12枚、昭和3~13)、「千秋公園八景」(8枚、昭和8~12)、「秋田風俗十態」(10枚、昭和10~13)、「秋田風俗十題」(10枚、昭和14~18)、「花四題・春夏秋冬」(昭和13~14」、「農民風俗十二ケ月」(12枚、昭和24~26)、「米作四題」(昭和24~27)、「舞楽図八部作」(8枚、昭和18~24)、「祭四題」(昭和30~31)、「花売風俗十二題」(12枚、昭和35~34)、出版物に、「秋田風俗版画集」「秋田郷土玩具版画集」「雪橇」、「花の歳時記」「秋田歳時記」などがある。

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