本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





田中以知庵

没年月日:1958/03/15

 元日展審査員、日本画家田中以知庵(本名兼次郎)は狭心症のため、3月15日、川崎市の自宅で逝去した。享年64歳。旧号咄哉、別号一庵。明治26年7月14日東京市本所区に生れた。同42年春、松本楓湖塾に入門、翌年巽画会展に「清水寺」を初出品、また紅児会展に「扇面売」、美術研精会展に「陶淵明」を出品した。速水御舟と親交あり、紅児会、美術研精会で画才を認められたが、この頃から釈宗活師につき禅の研究も進め、大正元年同師から咄哉の号を、7年には別号一庵の居士号を受けている。春陽会の創立に客員として迎えられ、昭和の初めまで出品していたが、同4年に小室翠雲に推されて南画院同人となり、同展に移つた。尚美展には連年出品、また昭和13年文展に招待をうけ「仙苑」を出して以来文展、日展は尚美展とともに作品発表の主な場所となつた。他に個展、あるいは風堂、三良子らとの三人展などがある。略年譜明治26年 7月14日、東京市本所区で石鹸製造販売業田中彦太郎の次男として生れた。明治42年 松本楓湖塾入門明治43年 第10回巽画会展「清水寺」。紅児会展「扇面売」明治44年 第9回美術研精会展「陶淵明」大正元年 咄哉の号を釈宗活師より受ける大正2年 第10回研精会展「箱根山」「聞香」大正3年 研精会審査員となる大正7年 朝鮮に1年遊学、宗活師より一庵の号を受ける大正8年 研究団体、木鐸会を結成、第1回展に「塩原温泉」「宇津谷峠」。第11回研精会展「伊豆半島巡り」大正12年 第1回春陽会展に客員として招かれ、「伊豆風景」「林道」を出品大正13年 第2会春陽会展「緑陰浴客」。尚美会展「山茶花」この年から尚美展には毎年出品大正15年 第4回春陽会展「伊豆風景」「秋」昭和元年 帝劇「法場換子」の装置をする昭和4年 第7回春陽会展「十和田湖」「奥入瀬」。南画院同人に推され、第8回南画院展に「南浦遅日」出品昭和5年 小室翠雲と再び渡鮮第9回南画院展「★麗春夢」「煙雨」昭和6年 第10回南画院展「富士山麗五趣」この年から咄哉州と改める昭和7年 第11回南画院展「山」「海」昭和8年 第12回南画院展「水精」昭和9年 読売新聞連載小説、長谷川伸「鼠小僧唱祭」の挿絵執筆昭和10年 第14回南画院展「日之出」「入り陽」東京、大阪の高島屋で第1回個展開く昭和13年 第2回文展「仙苑」昭和14年 第3回文展「東海天」昭和15年 第4回文展「浄光」。奉祝美術展「豊潤」昭和21年 以知庵と改める昭和23年 第4回日展「冬の陽」。美術協会展「清澄」昭和24年 第5回日展審査員となり「山彦」出品。美術協会展「長閑」昭和25年 第6回日展(審査員)「白夜」。美術協会展「緑蔭浴客」昭和26年 第7回日展「甲州路」。美術協会展「多摩春耕」昭和27年 第8回日展「春の海」昭和28年 第9回日展「霜晨」昭和29年 第10回日展「月影」。美術協会展「水郷十二橋」風堂、以知庵二人展昭和30年 第11回日展「沼田の夕」以知庵近作発表会(三越)昭和31年 第12回日展「春の伊豆」。美術協会展「夏日水辺」。風堂、三良子、以知庵三人展昭和32年 第13回日展審査員として「潮」出品。風堂、三良子、以知庵三人展。新奥の細道展。美術協会展「多摩の夕陽」昭和33年 三人展、3月高島屋50周年記念展に「大和月ヶ瀬」出品、絶筆となる3月15日心筋硬塞のため逝去

太田聴雨

没年月日:1958/03/02

 日本美術院同人、東京芸大助教授太田聴雨(本名栄吉)は、脳出血のため3月2日上野桜木町浜野病院で逝去した。享年61才。自宅鎌倉市山ノ内878。明治29年10月18日仙台市に生れた。同42年上京、43年から大正元年頃まで内藤晴州について日本画を学んだ。その後、友人とともに研究団体青樹社を結成したが11年には他の団体と合同し、第一作家同盟の運動に参加した。大正12年大震災ののち運動を離れ、昭和2年に改めて前田青邨に師事し、日本美術院に作品を送るようになつた。昭和5年第17回院展で美術院賞をうけた「浄土変」は院展への初出品であつた。その後は毎年入選し昭和11年に日本美術院同人に推されている。秀麗な作風で知られ、代表作の一つに「箏」のような、静雅な古典的作品があげられる。しかし一方では、「家郷」「青年」など、新しい時代意識を盛りこもうとした制作も試み、この両者の振幅の中に制作の道を求めようとしていたと考えられる。昭和32年銀座松坂屋における個展は、「双美」「光悦」など、新しい制作を展示し、仕事の方向にも、作風にも一転機を思わせたが翌33年急逝した。なお昭和26年以来、東京芸大助教授として没年まで後進の指導に当つていた。 主な作品に「浄土変」「お産」「種痘」「星をみる女性」「箏」「二河白道を描く」「苔寺須弥山石」などがある。作品略年譜昭和5年 第17回院展「浄土変」昭和6年 第18回院展「かつらぎのおびと」昭和7年 第19回院展「お産」昭和8年 第20回院展「杉橋検校」昭和9年 第21回院展「種痘」(京都市買上)昭和11年 第23回院展「船路」改組第1回帝展「星を見る女性」昭和14年 第26回院展「悲田院」昭和15年 第27回院展「大雅」昭和16年 第28回院展「壁画」昭和22年 第32回院展「箏」昭和23年 第33回院展「二河白道を描く」昭和24年 第34回院展「家郷」昭和25年 第35回院展「苔寺須弥山石」昭和28年 第38回院展「青年」昭和29年 第39回院展「浴泉」昭和30年 第40回院展「華山と椿山」昭和31年 第41回院展「牡丹芳」昭和32年 東京銀座松坂屋で個展開催昭和33年 3月2日没

横山大観

没年月日:1958/01/26

 横山大観は、昭和32年暮以来気管支炎のため自宅で療養中であつたが、その後の衰弱はなはだしく、33年1月26日逝去した。享年89歳。本名秀麿。明治元年9月18日水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸市に生れた。明治11年に一家をあげて上京、大観は湯島小学校から東京府中学校、東京英語学校に入学し、傍ら渡辺文三郎に鉛筆画を習つていた。21年母方の親戚横山家を継いで改姓、またこの年東京英語学校を卒業し、結城正明について日本画を学び、翌年、新設の東京美術学校に入学した。26年、「村童観猿翁」を卒業制作として同校を卒業、暫く母校の予備校教師となつていた。ついで、28年京都市美術工芸学校教諭となり京都に赴任、この頃、古美術の模写に従事し技法の研究につとめていたが、翌29年には東京美術学校に迎えられて帰京した。同年日本絵画協会の第一回共進会に「寂静」第2回展に「無我」などを出品、いずれも受賞している。31年、校長岡倉天心の退職とともに同校を退き、日本美術院の創立に参加し、評議員ならびに正員となつた。以来、日本美術院と日本絵画協会の聯合共進会に作品を発表し、天心の日本画革新運動の主要メンバーとなつて新時代の日本画創造に全力を傾けていつた。線描をすてて、いわゆる朦朧体の画法をあみだし、「屈原」「釈迦父に逢ふ」を制作した明治30年代は、新しい日本画をもとめての苦闘の時代であつた。その後、36年に印度、翌年は更に春草等と米国、欧州を巡遊し、帰国後は日本美術院の常陸五浦移転とともに観山、春草等と同時に移住し、研究をつづけていた。明治40年以来新設の文展にはたびたび審査員となり、「流燈」「山路」「瀟湘八景」などを送り新日本画の樹立に答えていつた。然し、大正3年には同志とともに文展を離れ、天心の理想をつぐ日本美術院の再興をはかつてその中心となつて活動した。この頃から、やがて<片ぼかし>とよばれる手法を用い、水墨による独自の様式をすすめ、「生々流転」のようなすぐれた山水長巻をつくりだしている。大正時代の日本美術院展では「遊刃有余地」「千ノ与四郎」「雲去来」「柿紅葉」などがあり、昭和期に「瀟湘八景」「夜桜」「海・山十題」「野に咲く花」、或は多くの御物、宮家の御用画などがある。昭和12年帝国芸術院会員となりまた、文化勲章の最初の受賞者となつた。この年から昭和期の文展にも出品するようになつた。しかし、昭和25年に芸術院会員は辞退した。晩年は院展のほか、白寿会、雪月花、無名会等画廊展にも出品し、小品が多かつたが、岡倉天心の壮大な東洋美術の理想をうけついだ唯一の作家として、また、明治、大正、昭和3代に亘る近代日本画史に輝かしい足跡を残している。略年譜明治元年 9月18日水戸市で水戸藩士酒井捨彦の長男として生れる。本名秀麿。明治11年 一家をあげて上京し、神田五軒町妻恋坂に居住明治14年 湯島小学校卒業、東京府中学校に入学明治18年 同中学校卒業、私立東京映語学校に入学、渡辺文三郎に鉛筆画を習う明治21年 母方の親戚、横山家を継ぐ。東京英語学校卒業、結城正明に日本画の手ほどきをうける。明治22年 2月東京美術学校に入学明治22年 7月東京美術学校日本画科卒業。卒業制作「村童観猿翁」(号秀麿)。卒業後しばらく東京美術学校予備校教師をつとめる。明治27年 神苑会に関係し、古画模写に従事、中宮寺の天寿国曼荼羅を模写する。明治28年 4月京都市美術工芸学校教諭となり、京都に移る。また、博物館から古画模写の辞令をうけ、古社寺を遍歴し模写に従事する。「浄瑠璃寺吉祥天扉絵像」「毛利家山水図」「禅林寺、山越阿弥陀三尊像」その他模写明治29年 3月京都市美術工芸学校を辞し、上京。5月東京美術学校助教授となる日本絵画協会第1回共進会に「寂静」(署名秀麿)明治30年 滝沢文子と結婚日本絵画協会第2回共進会「無我」(この作品から大観の号を用う。)同第3回共進会「聴法」明治31年 岡倉天心、東京美術学校長を辞任し、4月大観また同志とともに同校助教授の職を辞す。7月、日本美術院創立に際してその正員となる。下谷区に転居、11月日本美術院仙台展で東北に旅行する。日本絵画協会第5回共進会「屈原」「秋思」明治32年 日本絵画協会第7回共進会「夏日四題」(銅牌)「素尊」「厳子陵」「小春」他明治33年 日本絵画協会第8回共進会「長城」(銀牌)。音曲課題作品(上方唱)「菜の花」「寒天」他日本絵画協会第9回共進会「木蘭」(銀牌)、「牧童」他。5月から日本美術院岐阜展のため正員一同とともに岐阜、飛騨方面に旅行明治34年 夏、信州を廻り天滝川に遊ぶ日本絵画協会第10回共進会「老君出関」(銀賞)「煙柳」他。同第11回共進会「山間旅行」また研究会、互評会の課題作品に「戯猫」「秋の夕」「茂林青鷺」その他の作品がある明治35年 1月妻文子没す。3月、春草と頒布会を計画し真美会を結成、秋北陸に旅行第12回共進会「茶々淵」(銀牌)他。第13回共進会「迷子」(銀牌)「荷塘暁色」他。また研究会、互評会の課題応作「雪中晩帰」「隠棲」など明治36年 1月春草とともに印度に旅行、5月カルカッタで新作展をひらき7月帰国、秋に春草と近畿、中国地方を旅行第15回共進会「釈迦父に逢ふ」(銀賞1席)「夏の日」明治37年 2月岡倉天心、六角紫水とともに渡米、ニューヨークで絵画、漆絵展をひらく明治38年 4月、春草と英国に渡る。長女初音東京で死去、8月帰国明治39年 4月春草とともにロンドン・パリ展出品作を日本橋倶楽部で展観。「金華山」「宮の森雨中」など、7月遠藤直子と結婚、12月日本美衆院の常陸五浦移転とともに同地に移住する明治40年 4月父死去。11月京阪神に旅行、「第1回文展審査委員を命ぜられ、同展に「二百十日」「曙色」を出品明治41年 4月巽画会の審査員に選ばれる9月 五浦の住居火災で全焼、上京して上野池之端茅町観月橋畔に仮寓国画玉成会第1回展「煙月・凍月」明治42年 巽画会及び文展の審査委員となる第3回文展「流燈」。国画玉成会第2回展「春の月」明治43年 6月寺崎広業、山岡米華と中華民国に外遊し7月帰国、さらに米華と山陰地方に旅行、文展審査委員となる。第4回文展「楚水の巻」。橋本雅邦追善展「冬の柳」他に「日蓮上人」(現東博蔵)、「あをき」など明治44年 東京勧業博覧会審査委員となり同展に「水国の夜」第5回文展「山路」。他に絵画彫刻展に「晩鴉」(2曲1双)、「山路」(襖絵)など明治45年 菱田春草追悼展覧会「五柳先生」(6曲1双)第6回文展「瀟湘八景」。他に三越展「新竹図」「達磨」「朧夜」など大正2年 1月妻直子没す。文展審査委員となる第7回文展「松並木」。東台画会展「花★」他に「柳陰」(6曲1双)大正3年 大正博覧会鑑査委員となる。9月下谷区谷中に日本美術院を再興大正博覧会「若菜」。日本美術院再興(以下院展と略す)第1回展「游刃有余地」其他「長江之巻」など大正4年 3月観山、未醒、紫紅とともに汽車を使わぬ東海道旅行を行い、水彩写生と絵巻をつくる。10月未醒とともに荒川を秩父に遡り絵巻をつくる日本美術院第1回試作展「焚火」。第2回院展「竹雨」「漁樵問答」其他「東海道絵巻」など大正5年 日本美術院第2回試作展「長瀞」。第3回院展「作右衛門の家」。新作日本画展「山路」。琅★洞展「荒川絵巻」(大観、未醒作4巻)他に大観会の展観に小品多数を出品大正6年 第4回院展「秋色」「雲来去」「達磨」。琅★洞展「帰去来」。日本美術院同人作品展「出山釈迦」「漁楽」(6曲1双)など大正7年 第5回院展「千与四郎」(6曲1双)大正8年 第6回院展「山窓無月」「喜撰山」「羅浮仙」「八仙花」。日本美術院第5回試作展「雨後」。日本美術院同人作品展「春蘭」「羽衣」。大阪高島屋展「辰己橋夜雨」「糺の森秋雨」(洛中洛外雨10題の内)大正9年 第7回院展「柿紅葉」「月明」。美術院同人高野紀行作品展「高野旧道」(この年小杉未醒等日本美術院洋画部同人脱退し、洋画部なくなる)大正10年 第8回院展「老子」「洞庭の夜」「愛宕路」「紅蓮」。クリーヴランド博物館主催米国各都市巡回展出品作品展示会「しやが」「御社」「朝」「雨後」大正11年 第9回院展「夜」。第8回日本美術院試作展「朝霧」。三越主催観山・大観展「鶺鴒」「暮色」他。東京会展「華厳滝」大正12年 第10回院展「生々流転」(長巻)。日本美術院第9回試作展「茶梅」「雨」大正13年 第11回院展「早春」。日本美術院第10回試作展「春寒」。淡交会第1回展「杏子」「東山」「寒山拾得」他に皇太子殿下に献上の「御苑の春雨」など大正14年 第12回院展「山四趣」(雨・霞・風・雪)。日本美術院第11回試作展「夜梅」第2回淡交会展「夕顔」「春の夜」「鶉」大正15年 第13回院展「龍瞻」「暁靄」。第3回淡交会展「百合花」「曙色」「茄子」。聖徳太子奉讃展「湖上の雨」2月観山等とともに久迩宮家の御下命をうけ襖絵を制作。また皇后陛下に「鸚鵡」を献上昭和2年 第14回院展「瀟湘八景」。第4回淡交会展「雲揺ぐ」「八哥鳥」「胡瓜」。日本美術院第12回試作展「栗鼠」他、観山とともに早大図書館の壁画「明暗」を描く。他に御物「朝陽霊峯」昭和3年 第15回院展「蜀葵」。日本美術院第13回試作展「寒牡丹」他に御物「飛泉」。秩父宮へ献上「秩父霊峰春暁」、又御大典奉祝のため献上画の依頼あり「扶桑第一峰」「筑波山」「鹿島神宮」その他昭和4年 第16回院展「有明の月」。第5回淡交会展「双竜奪珠」(著色)「梅花」。日本美術院第14回試作展「隼」「双竜争珠」(水墨)。ローマの日本美術展への出品画「夜桜」(6曲1双)昭和5年 1月イタリア政府主催日本美術展参列のため夫人同伴で速水御舟、大智勝観と渡欧、6月帰国、7月帰朝講演をする。第17回院展「柚子」。第6回淡交会展「達磨」第2回聖徳太子奉讃展「菊花」。7月大観・観山渡伊スケッチ展をひらく、15点出品昭和6年 6月帝室技芸員となる第18回院展「紅葉」(6曲1双)。日本美術院第15回試作展「春暁」昭和7年 第19回院展「朝嶺」「暮岳」「林亭秋色」。日本美術院第16回試作展「雨」昭和8年 第20回院展「虫の音」(6曲1双、朝日文化賞をうける)。日本美術院第17回試作展「桐の冬」。第7回淡交会展「富士山」「桃」「夕月」昭和9年 第21回院展「朝霧」。日本美術院第18回試作展「三宝鳥」。第8回淡交会展「春風秋雨」「湖上皓月」「飛瀑」昭和10年 5月帝国美術院会員となる。第22回院展「飛泉」。日本美術院第19回試作展「五浦の月」第9回淡交会展「杜鵑」「八仙花」「浦風」「山桜」大楠公肖像画展(於美術院)「楠木正成像」昭和11年 帝国美術院第1回展「龍蛟躍四溟」(6曲1双)第23回院展「野の花」昭和12年 4月文化勲章令制定される初の受章者となる。6月帝国芸術院会員となる第24回院展「東海の浜」「夜探し」。第1回文展「雲翔る」。清光会展「林間遅日」昭和13年 第25回院展「梅花薫る」。第2回文展「皇太神宮」。日本美術院同人作品展「白砂青松」官幣大社氷川神社へ奉納「秋色武蔵野」。その他文部省から独総統への寄贈画など昭和14年 第26回院展「烟雨」「麗日」「潤声」、ニューヨーク万国博出品画展示会「夕月」。紀元2600年奉賛展「肇国創業絵巻」(11作家の合作の内大観は日輪を分担する)法隆寺上宮王院本尊大厨子建立奉賛美術展「不二霊峰」。読売新聞社講堂壁画「富士」昭和15年 第27回院展「首夏」。大観紀元2600年奉祝個人展「海に因む10題」「山に因む10題」。紀元2600年奉祝美術展(後期)「日出処日本・水墨」(陛下へ献上)皇后陛下へ献上「日出処日本・彩色」。秩父宮へ献上「勅題・漁村曙の図」昭和16年 第28回院展「耀く大八洲」画巻(陛下へ献上)。仏印巡回展内示会「竹林の月」昭和17年 1月財団法人岡倉天心偉績顕彰会成立し評議員理事長となる。10月同会で天心記念講演会を開き、大観の演題は「天心岡倉覚三先生」第29回院展「正気放光」「野に咲く花二題・蒲公英、蘇」。満州国建国10周年慶祝絵画展「松籟」昭和18年 5月社団法人日本美術報国会々長に推される第30回院展「中秋無月」。第6回文展「雨収」昭和19年 戦艦献納作品展「南溟の夜」等9点、戦時特別文展「神路山を拝し奉りて」その他海洋美術展など献納画の制作が多い。昭和20年 静岡県熱海市伊豆山に移住。日本美術報国会解散(会長大観)日本美術院小品展「秋色」「湖畔」昭和21年 第31回院展「竹外一枝」「春光る(樹海)」。第2回日本美術展「午下り」昭和22年 第32回院展「四時山水」(画巻)。日本美術院第2回小品展「あけぼの」「夜桜」昭和23年 第33回院展「蕭々夜雨」。日本美術院第3回小品展「朝暉」第1回白寿会展「蓬莱山」昭和24年 8月老齢を理由として日本芸術院会員辞任申し出る第34回院展「被褐懐玉」。日本美術院第4回小品展「春耀」。白寿会展「暗香浮動」。11月に上野松坂屋で大観画業60年展開催昭和25年 9月芸術院会員辞任をみとめられる。第35回院展「流れゆく水」。日本美術院第5回小品展「春光」昭和26年 第36回院展「漁火」。伊勢神宮式年遷宮奉讃綜合美術展「国破山河在」。白寿会「明珠」昭和27年 第37回院展「或る日の太平洋」。日本美術院第7回小品展「湖畔の雨」。第1回雪月花展「夜桜」。北斗会「白砂青松」昭和28年 第38回院展「月出皎兮」。白寿会「汀沙」。第2回雪月花展「上弦の月」「夏の夜」。北斗会「飛泉」。無名会「冬嶺」(勅題出船)。大観・玉堂双壁展「月四題」昭和29年 2月板谷波山とともに茨城県名誉県民に推される。8月上野池之端旧邸跡に新築の新居に引越す第39回院展「水温む」。白寿会「皎月万里天」北斗会展「朝暾」。雪月花展「吹雪」「花吹雪」大観・玉堂双壁展「砂丘に聳ゆ」「仲秋名月」他に大観展(三越KK創立50年記念)、無名会、丁亥会展など多くの展観に出品昭和30年 第40回院展「風蕭々兮易水寒」。第1回松竹梅展「白砂青松」「双竜争珠」。薫風会「漁火」丁亥会「洞庭秋月」その他無名会、北斗会などにも出品昭和31年 2月発病、一時重態となる無名会「正気放光」。第2回松竹梅展「竹外一枝」「六根清浄」院展をはじめ、例年の北斗会、白寿会、丁亥会など殆ど不出品昭和32年 東京都台東区名誉区民に推される。小康を得て制作、無名会展に「山川悠遠」。松寿会展「烟雨」。松竹梅展「紅梅」「暗香浮動」。日本美術院小品展「竹雨」その他柏光会、北斗会或は新作展などに小品を出品するも、11月の武蔵野に因む日本画展への「不二」が最後の出品となつた。昭和33年 2月26日逝去。正3位勲1等旭日大綬章を贈られる。28日築地本願寺で日本美術院葬

石垣栄太郎

没年月日:1958/01/23

 長い間アメリカに滞在して活躍した洋画家石垣栄太郎は、1月23日脳出血のため三鷹市の自宅で没した。享年65才。明治26年12月1日和歌山県東牟婁郡に船大工の長男として生れたが、16才の時アメリカに在つた父に呼ばれて渡米した。はじめ太平洋岸でレストランのボーイ、皿洗い、ホテルの掃除人、美術骨董品の修理をしながらサンフランシスコの美術学校で絵画の勉強をはじめた。米詩人のウオーキン・ミラーの山荘を訪れ、芸術家仲間との接触で新しい世界が開けた。大正4年ニューヨークに赴き、芸術家街のグリーニッチ・ヴィレーヂに住んでアメリカの自由思想家や芸術家たちと親しく交り、またアート・スチューデント・リーグ美術学校に学んでジヨン・スローンに師事した。大正14年ニューヨークで開催された独立美術協会展に「鞭打つ」を出品してアメリカ画壇に認められ、以後毎年この展覧会に出品し、ニューヨーク・タイムズ紙、ヘラルド・トリビューン紙等にとりあげられて好評を得た。昭和4年ジョン・ノード・クラブの結成と同時にそのメンバーとなつた。また昭和14年美術家団体アーチスト・コングレスの結成に奔走して毎回その展覧会に出品した。ジョン・リード・クラブ結成後、メキシコの画家たちディエゴ・リベラ、オロスコ、タマヨなどと交り、とりわけオロスコの画風に惹かれた。またドーミエやゴヤなどの影響を受けた。昭和26年久し振りに日本に帰つた。彼は、はじめ立体派風の画風に出発したが、次第に写実的になり、風俗を主題にした庶民の生活を描き、また民衆の怒り、悲しみ、反逆を主題として制作した。作品略年譜大正14年 「拳闘」大正14年 「鞭打つ」大正14年 「街」大正15年 「二階つきバス」昭和4年 「新聞を見る」昭和6年 「リンチ」昭和12年 「アメリカの独立」(ニューヨーク・ハーレム裁判所壁画)昭和14年 「強風」昭和15年 「恐怖」昭和20年 「ニグロの酒場」

真野紀太郎

没年月日:1958/01/20

 日本水彩画会名誉会員真野紀太郎は、1月20日東京都大田区で老衰のため没した。享年87才。号柱淵。明治4年5月8日名古屋市に生れた。明治12年上京、東京英語学校に普通学を修めたのち中丸精十郎並びに原田直次郎に就て油絵と水彩画を学んだ。のち専ら水彩画をえがき、明治40年大下藤次郎、丸山晩霞等と日本水彩画会研究所を設立、大正2年石井柏亭、南薫造等と日本水彩画会を結成し、以来その展覧会に毎回出品した。その間、大正10年から11年にわたり英、仏、独、伊等を巡遊、同12年には海軍練習艦隊に便乗して南洋諸島、濠州等を旅行、昭和7年には印度、ビルマ等を巡歴して制作した。その他台湾、上海、朝鮮、満州等には屡々赴いた。帰国の都度その作品を個展で発表した。昭和20年戦時中一時十和田湖に疎開したが同年帰京し、同23年画業60年記念展を、同26年80才記念展を開き、なお老を養いながら制作していた。はやくから私立日本中学校(現日本学園)の図画教師となり、のち理事をつとめた。その水彩画は所謂透明水彩画で、バラ花を最も得意とした。

坂上明司

没年月日:1958/01/17

 白日会々員、水彩連盟会員坂上明司は、1月17日逝去した。享年34才。大正13年1月11日埼玉県秩父郡に生れた。昭和13年に上京、内閣印刷局彫刻課に勤務、翌年印刷局彫刻技能者養成所に入り、かたわら太平洋美術学校に学んだ。昭和16年、第一美術協会展に水彩画が入選、初めての作品発表であつた。17年から白日会展、日本水彩展に出品し18年には白日賞を受賞、東京みづゑ会展でみづゑ賞をうけた。20年に入営、大陸にわたるも翌年復員し、日展に「早春」、二科展に「緑陰」、白日会展に「5月の花」「春来る庭」を出品して白日賞をうけ会友に推された。22年水彩連盟同人となり、白日会では「春待つ村」「春陽」その他で奨励賞を受賞している。23年印刷局を退き、以後郷土研究のため生活の半ばを秩父に送り、没年まで水彩画の制作に専念した。25年白日会々員、27年水彩連盟会員になり、この頃から各地で個展を開いて活動し水彩画会では期待されていた新人であつたが1月17日東京都美術館借館団体の新年会に出席の帰途、事故死した。

to page top